紅化粧奇譚くれないけしょうきたん

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紅化粧奇譚くれないけしょうきたん

フロアに残っているのは私だけだった。電気を消そうとすると、ふと、気配を感じた。
 ここ池袋のサンシャインシティは、今は多くの客で賑わう華やかな場所だが、昔は監獄だったと聞く。夜半過ぎには囚人の幽霊が出るという噂は、幾度となく耳にしていた。
 覚悟を決める暇もないままに、人影が姿を現した。青年だった。話に聞くように血を流してはいないし、足が透き通ってもいない。服装が時代錯誤でみすぼらしいほかは、普通の人と変わらないように見えた。
「ここはどこだ? 君は誰だ?」
 吹きわたる風のように涼やかな声。私の怯えは消え、相手は霊の類ではないと直感した。
「ここはサンシャインシティの化粧品売場で、私は店員です」
 そう告げると、彼の眼差しに当惑が見て取れた。私はその日の日付を西暦で告げた。
「そんな時代か。サンシャインシティ……陽のあたる都市とは、皮肉な名だな」
 彼は呟いた。聞くところによれば、彼は戦犯として監獄にいるが、作業場で小さなダイヤル錠を見つけたという。そして午前零時に錠を動かすと、どういうわけか違う時代へ行けることに気づいたそうだ。
 なぜ逃げないのかと尋ねると、彼は苦笑した。
「一定の時間が過ぎると、元いたところに戻っているんだ。それに逃げたところで、行く場所はない」
 そう告げると、彼は店内を興味深そうに眺めた。
「未来の化粧品とは、きれいなものだな」
 澄んだ声を聞きながら、私は彼がきれいであることに気づき、ある案が浮かんだ。思い切って伝えると、彼は目を丸くしつつも頷いた。
 
 その日から私は残業し、彼が現れると化粧を施した。ビューラーで長い睫毛の向きを揃え、目の際にアイラインを引くと、深い瞳の印象が際立った。チークを入れると華やぎが生まれた。唇はいつも荒れていたから、潤いを補うだけにした。
 彼は最初こそ戸惑っていたが、すぐに楽しんでいる様子を見せた。きれいなものが好きなのだと言いながら、新色のシャドウに興味を示し、時には愛おしむように手に取った。
 彼の顔に触れながら、私は自分の話をした。他の人生を経験できる役者になりたいこと。今はチャンスを窺いながら、美容部員として働いていること。普段の私は聞き役に徹するが、その時は質問しない方がいい気がしたし、それに彼は良い聞き手だった。
 一通り話し終えると、私はそっと化粧を落とし、スプレーを吹き付けて保湿をした。すると彼は一礼して去るのだった。
 やがて一つの季節が過ぎ、彼は姿を見せなくなった。私はひどく寂しかったが、懸命に忘れようとした。そんなある日、彼は唐突に現れた。
「もう来られないと思う。今日はそれを伝えに来た」
 顔を見ると、ひどくやつれている。私は彼が囚われの身だったことを思い返した。
「きれいにしてほしい」
 その言葉に、私は全身全霊をかけて化粧をした。丹念にファンデーションを塗り、ポイントカラーには一番似合う色を使う。いつものように唇を整えようとすると、彼は小さく呟いた。
「口紅を塗ってほしい」
 彼の視線の先にあったのは、緋色の口紅だった。私は彼の乾いた唇にワセリンを薄く塗った。口紅を紅筆にとり、唇に色をのせていく。ささくれた部分に触れると、彼はわずかに顔を歪める。
 すべて塗り終えると、彼は私の手から口紅と筆を抜き取って言った。
「君の唇に塗りたい」
 彼の口を這った筆が、今度は私の口に触れる。柔らかい感触と固い緊張がないまぜになり、全身の感覚が唇に集まる。私は強く目を閉じて、体の芯が沸き立つのを懸命に鎮めた。
 やがて唇の触感がなくなった。目を開けると、私を見つめる彼の瞳があった。どうか逃げてと懇願すると、彼は一瞬遠い目をし、その後、静かに微笑んだ。
「ありがとう」
 そう告げると彼は敬礼し、振り返ることなく立ち去った。

以来、私は人に化粧することができなくなり、代わりに役者の仕事に没頭した。やがて私の演技は認められ、大きな芝居の主役に抜擢された。場所はサンシャイン劇場である。
 初日にやってきた美粧担当を見て、私は息が止まりそうになった。その顔は、囚人の彼にそっくりだったのだ。
 化粧されている間、あの日々の情景が押し寄せてきて、気持ちがあふれそうになった。心臓の鼓動を抑えながら、相手の名前を確認しようかとも考えたが、彼に名前を聞かなかったことを思い出した。
 紅筆が唇に触れる、その繊細な感触に、かつて目にした眼差しが甦る。
 私は想像する。あの最後の日、巣鴨プリズンの囚人たちは脱獄を試みる。看守や警察は、化粧した彼を判別できない。緋色の口紅は、彼を血から、死から守る。彼はそのまま逃げおおせ、陽のあたる場所へと赴いて子をもうける。
 でも私には分かっていた。あれは死化粧だったのだし、彼が居場所を見つけることなどなかった。そして私の心はずっと、あの日の紅い唇と紅筆の優しい感触と、体の奥深くに沈む熱に囚われたままなのだ。

文字数:1997

内容に関するアピール

今の私の住まいは、もともと「巣鴨プリズン」(巣鴨拘置所)の跡地だった「サンシャインシティ」の比較的近くにあります。「サンシャインシティ」とは、重たい過去とは裏腹な名前だなという印象と、そこにタイムリーパーや化粧などの異なる発想が入り混じり、今回の話になりました。

山手線は当初、大塚駅から目白駅につなげるはずだったそうですが、その想定だと、移転させることができない事情がある巣鴨プリズンに線路がぶつかってしまうため、池袋駅がつくられたそうです。従って巣鴨プリズンがなければ、池袋駅の今の繁栄はなかったのかもしれませんが、一方でサンシャインシティに人が来るのは、池袋駅が栄えているせいでもあるのだろうと思います。

話は変わりますが、現在だと、死刑執行は本人に当日告知するようですが、昔は前日までに告知することもあったそうです。

文字数:360

課題提出者一覧