神はよるべなき声のはて

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梗 概

神はよるべなき声のはて

庵西ミレイは音を譜面にして視覚化するサウンドコレクターで、世界中の全ての音を集めてアーカイブ化し、未来に託す仕事をしている。そんな中、音の振動を記す世界共通規約をつくった匠ヒビキが行方不明になった。

ヒビキは音の可能性を最大限に引き出す研究に就き、ミレイに仕事の意義を示した恩人だった。ミレイがヒビキの足取りを探す中、ヒビキの兄弟、匠カオルが現れる。カオルは超聴覚過敏患者の一人で、全ての音に強烈な違和感があり病院から出られなかったが、ヒビキが開発した、振動で音を理解する脳神経デバイス・知音ちいんを装着し、耳の機能を使わないことで活動可能になったという。
 ミレイは、一般人には覚知できない音を理解するカオルと共にヒビキを探すが、ヒビキの研究が純粋な探求心ではなく、カオルに捧げられたものだと思って複雑な気持ちになる。

ヒビキは中国の胡弓美術館と日本の皇氏博古館へ行った後に足取りを消していた。ミレイは、胡弓美術館の琴と皇氏博古館の琵琶は音を出さないので音を収集していなかった。学芸員に聞くと、琴と琵琶が同時公開された際にヒビキが来た気がするが、その日は学芸員に死者が出て経緯が曖昧だという。カオルは、ヒビキが音で催眠をかけて楽器に触れたのかもしれないと告げる。

ミレイとカオルは生前のヒビキの手記を発見する。最後の頁に、二館の音を出さない楽器は、一年に一度、場所や湿気や温度などのタイミングが揃った時に同時に鳴らせば共鳴し、人体しか覚知できず、機械だけでは録音できない音を出すという記載があった。ミレイとカオルは、該当の日にそれぞれ琴と琵琶を演奏することに決める。カオルは、人体連携デバイスの知音を装着する自分であれば、音の振動を記録できると告げる。

二人は、楽器を借りる等の諸々の障害や演奏条件の問題をクリアし、皇氏博古館の石室で演奏する。ミレイは、最後に会った時にヒビキが研究していた神話を思い出す。その神話では、音は音が分かる者にのみ響くとされていた。ミレイは、音が鳴らない楽器は神に捧げられたもので、神の音は神に近づく、つまり臨死状態にならないと聞こえず、ヒビキは神の音を獲得するために死んだのだと気づく。
 ミレイは演奏を止めようとするが、カオルは神の音を聞くために事前に臨死状態をつくるための薬を飲んだという。ミレイはカオルの悲願を拒否できない。カオルは石室で音が反響する中、恍惚の中で意識を失う。

ミレイは、カオルの知音に残された神の音を使い、ヒビキの後を引き継いで音の研究を飛躍的に進め、医療や知能発達に貢献する。
 カオルは仮死状態が続いたが、見舞うミレイの眼の前で目を覚ます。死後の世界で神の音と共にヒビキと暮らすのではなく、この世に戻ってミレイに再会することを選択したカオルは、ミレイと神の音のおかげで発達した医療措置を受けて超聴覚過敏を克服し、生まれて初めてミレイの声を聞く。

文字数:1197

内容に関するアピール

選択した課題テーマは「神話をモチーフにした作品」」(2020年/第4回)です。

アジア圏に、神託を得るために琴を演奏する話や、神に捧げた楽器で音が出ないようにされたものがあると知り、今回の話を考えました。

梗概に登場する楽器の音を聞くには、神に召されたのに近い状態でなければならないという設定です。通常の人は、仮に神の音を聞いて生還しても音を忘れていますが、カオルは耳で聞くのではなく、振動で音を理解する脳神経デバイス・知音を入れているため、神の音を知音で記録します。

音が人にもたらす効果は今後開拓されうると思ったので、一般の人が聞くことができない音を、テクノロジーによって音を広く深く理解できるようになった人が知り、その新しい音が人類に発展をもたらすという話にしようと思います。

作中で「神」と言っているのは具体的な人格神ではなく人知を超えたもので、システムに近いものを想定しています。

文字数:391

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求む、致死の旋律を

水は冷たくて滑らかだった。
 一面に広がる薄青の色味に、銀色の小さな泡がきらきらと輝いている。
 水中で目を凝らすと、底には網がはりめぐらされ、隙間から黒の色味が見えかくれする。それは水中に一滴垂らした墨の揺らめきにも似ていた。奥には白いものが見えている。
 エリの黒い髪と、彼女が来ていた白い水着だ。
 網に囚われているエリを解放しようと、必死になって潜水した。
 次第に朦朧としてくる意識の中、誰かが頬に触れてきた、気がする。
 エリが目の前に現れた。
 こちらに手を伸ばしてきた気がして、掌を合わせようと試みた。
 小さな泡のたてる小さな音、頭の奥底で響くきいんという音、光の輝きが目の奥ではぜる音などが、脳内で複雑に反響する。視覚ばかりではなく、触覚などのもろもろ、五感全てが異常に鋭くなり、一体化するような気がする。
 曖昧な意識の中で、わずかに音が聞こえてきた。聴く者すべてを焦がれさせる音楽、その印象だけが記憶として残った。
 
 神々しい世界から、苦しい現実に引き戻されるのは一瞬だった。恍惚に浸っていた感覚が、猛烈な痛みと吐き気に支配される。船底の網が視界に入った。水の中では織物のようだった網は、白日の下ではくたびれた紐の寄せ集めにしか見えない。目の前で魚が飛び跳ねる音が、ひどく小さく、そして遠かった。

Ⅰ.
 レオは目を閉じて、聞き慣れた曲に身を委ねていた。
 譜面通りの正しい音に、軽やかに流れる旋律。
 淀みなく続いていた演奏は、唐突に止まった。
「先生、どうだったでしょうか?」
 目を開くと、臙脂色のカーテンの前で、同じ色の椅子に座った生徒が、静かにこちらを見つめている。
 レオは生徒に対し、誉め言葉と注意点を織りまぜながら語った。生徒は淡々とメモを取って頷く。彼女のリスのようにつぶらな瞳は真剣そのものだった。
 挨拶を済ませ、生徒の背中を見守りながら、レオはほっと溜息をついた。あの子は優秀だ、このまま順調にいけば、志望している学校に合格するだろう。
 レオは教えることは嫌いではないし、むしろ好きな方だったが、時折求める音の水準が高くなりすぎて、生徒を困惑させてしまうこともある。それでもいいという生徒がついてきてくれているが、レオはなるべく自分を抑えることにしていた。
 次に生徒が来る日を電子カレンダーに投入していると、啓示音が鳴った。見れば定期健診の時間が迫っている。レオは慌てて支度をした。

クリニックは住宅地に紛れていた。白いマッチ箱のような建物の門扉にあるカメラへ目を向けると、生体認証が受け付けて扉が開く。磨きぬかれたガラス張りの通路を通り、白で統一された部屋へ進み、滑らかな布地が貼られた清潔な椅子に腰かけると、皺ひとつない白衣を纏った男が入ってきた。癖のある焦茶の髪に、同じ色味の瞳が人の良さそうな雰囲気を漂わせているのは、このクリニックの医師、カイルである。
 カイルは軽く会釈すると、レオの背後に周りこみ、後頭部に触れてきた。レオの耳の後ろに彼の指が滑りこみ、貼付されていた透明な丸いパッチを剥がす。半径1センチ程度のパッチの中央をよく見ると、数ミリ程度の黒いデバイスが付着している。
 カイルは部屋の隅に据え置かれた巨大なマシンに歩み寄ると、モニター付近の電子機器にパッチを貼りつけた。モニターに現れた波形を確認しつつ、この一週間のレオの行動と時間帯を聞き、該当する日時を投入していく。
「ピアノに対する脳の反応が、耳で聞く時の脳の反応と完全に一致している。もう、私よりも正確に聞こえているくらいですよ」
 カイルの言葉に、レオが頷いた。
「この『ソーヌス』にはすっかり慣れました。もう装着していることを忘れるくらいです。最初は音が直接頭に飛び込んでくる気がして、戸惑いましたが」
 自分の耳を指さして、レオが告げる。
「それは良かった。あなたの場合、音を電気信号を変える内耳の蝸牛がうまく作動していないから、蝸牛にソーヌスを入れ、拾った音を信号に変換させています。やはり若い方は順応性が高い」
「最初は小さい音や変わった音だとわずかに遅延が発生したのですが、今はそれもなくなりましたね」
 レオが告げると、カイルは頷きながら言った。
「ソーヌスに振動を音に変換させるためには、膨大な情報が必要なのです。今は人の可聴域の音は全て脳に届けることができるようになりましたが、それは過去のソーヌスの装着者たちが、振動と音の情報を提供してくれたためです」
 カイルの言葉に、レオは静かに頷いた。
「あの事故でパートナーを失い、内耳炎の悪化で音を失ったと知った時は、生きる希望を失いました。でもソーヌスを装着してからは、前のように音が分かるようになった」
 過去の絶望を思い出しながら、レオは呟く。
 再びモニターを見ながら、カイルが告げた。
「いえ、私の方こそ、『シーレ』をつけてもらって感謝しています。脳へのモニタリングセンサーということで、気持ち悪いとおっしゃる方も多いんですよね。実際の解析はうちの据え置きマシンで行うので、シーレ自体のメカニズムは脳波計とさほど変わらないのですが」
 カイルは指に薬剤を塗ると、再びレオの後頭部に回り込んでパッチを装着する。
「パッチの真ん中にあるシーレを解析すると、脳がどんな音を捉えているか分かるんですよね。小さいから邪魔にはならないと思うんですが、自分の聞いた音を知られたくない人がいるのは、分かる気がします」
「そうですね。そして、特に音楽家であるあなたのデータはとても貴重だ」
「今は生活において不自由はありません。でも僕にはまだ、どうしても掴めない音があります。それが分かるようになりたい」
「意外ですね。何かの楽器でしょうか?」
 顔を覗き込んで尋ねるカイルに、レオは小さく首を横に振りながら告げた。
「私にもまだ、状況が整理できていないのです。分かるようになったら相談させてください」
 カイルは訝し気な表情を浮かべたものの、深く頷いた。
「是非。私はあなたのピアノと創作のファンだった。プレッシャーになってはと思って言わずにいたのですが、演奏家や作曲家として復帰なさるのを、心から願っています」
 そう言うとカイルは、レオを門扉のところまで送ってくれた。

既に夜は更けていた。レオは繁華街の奥にあるバーに入った。カウンターの奥の煉瓦の壁に、ずらりと酒瓶が並んでいる。レオはカウンターに座ってカクテルを飲んだ。物が二重に見えはじめた頃、レオは強い尿意を覚えて立ち上がった。
 トイレを示す矢印通りに進むと、奥の方にうっすらとした赤い光が見える。ガラスの扉を開けると、人間の身長ほどもある棘だらけの人形が目についた。尖った針はガラスでできているようで、レオの顔を引き延ばして映し出す。
 棘に目を凝らしていたレオは、後ろから強い力で蹴り飛ばされた。
 床に転がったレオの上に、誰かが覆いかぶさってきた。相手は長い紐のようなもので首をぐいぐいと絞めてくる。レオは手を伸ばして紐を掴もうとしたが、相手の力が強くて動かせない。
 苦しい息の中、前を見ようと目を凝らす。視界が薄青に染まった。周囲に小さな銀色の泡が浮かんでくる。水の中で金属が鳴り響くような音がわずかに聞こえる。
 大きな足音が近づくと共に、覆いかぶさっていた人物が手を緩めた。
 レオは目を開いた。
 相手は女性だった。黒革のボディスーツに身を包み、黒いアーモンド形の瞳に黒いアイメイクを施している。ほとんど白に近いショートカットの金髪が鮮やかだ。
 彼女は目を見開き、奥の方に別の人影を認めると、素早く立ち上がって姿をくらました。
 通りすがりの客が、訝し気にこちらを見ながら通り過ぎた。
 レオは身を起こして周辺を見つめ、自分が迷い込んだ空間を観察した。全体に照明は暗いが、ブラインドの奥にあるピンクのネオンサインは明るい。戸棚には黒い鞭や瓶詰めの標本、ガスマスクを着けた裸の人形、溶けかかった無数の蝋燭などが納められ、ピンクの照明に艶めいて照らし出されている。
 レオはバーに戻ってカウンターに座ったが、さきほど得た感覚に囚われてぼんやりしていた。バーテンに注文を聞かれ、ようやく我に返った。

レオは翌日、店の位置を調べた。書き込みなどを見ると、そこでは刺青やピアスなどの施術を行うほか、夜間にドミナトリクス女主人がいるSМクラブのようだった。
 店のHPには住所と電話番号、店名だけが記載されており、それ以上の情報は出ていない。問い合わせのフォームすらなかった。躊躇しながらも電話すると、数十コールの後に応答があった。
 レオが言葉を濁しながら昨日の女性の外観を伝えると、声が切り替わった。ハスキーな声で話すその相手は、むち打ちや排尿、電気ショックや切り傷などの希望を聞いてきた。要望を伝えると、店では指示があるまで何かをしてはならないことや、気絶しそうになったら伝えること、心臓に不安があれば来ないように釘を刺した上で、日時を指定し、彼女の電話に直接かかる番号を伝えてきた。
 当日、レオは緊張しながらその店を訪れた。ショーウィンドウのカラフルなネオンサインに気後れを感じながらレオが店に入ると、ピンクの照明を背景に、黒革のぴっちりしたボディスーツを着た女性がいた。白に近いプラチナブロンドで、先日は気づかなかったが、右の目元と左の口元に小さなほくろがある。ヒールの高い編み上げ靴を履き、彼女の足がやっと届くくらいに高い椅子に腰かけている。大きく股を開き、まるで椅子と一体化しているようだった。
 レオは近づきながら小さく呟いた。
「あの……」
 すると、相手は鋭い口調でぴしゃりと告げた。
「おだまり」
 レオがびくっとして歩みを止めると、相手はゆっくりと呟く。
「それでいい。ご褒美が欲しければ、従いなさい」
 低音でやさしく歌いあげるように告げると、彼女は立ち上がって近づいてきた。背側の白い首元には、繊細な模様の刺青がちらりと見える。相手はレオの下半身を鞭で叩き、きつい声で言い放つ。
「犬に服はいらない。脱ぎなさい」
 レオが恐る恐るズボンを脱ぐと、彼女は更に叩きながら言った。
「ダメ。全部脱ぐの」
 素っ裸になったレオに、彼女は手で促しながら伏せをさせ、首輪をつけた。
「あんたは悪い犬。ブーツを舐めなさい」
 レオの頬を掴み、首輪の鎖を引っ張ってくる。レオが躊躇しつつブーツを舐めると、彼女は満足げな薄い笑みを浮かべ、レオを椅子に座らせた。そのままレオの手首と足首に鎖を巻き付け、右の拳にはテニスボールほどもあるガラス玉を握らせる。床には銀の円盤のように光るボウルを置いた。そして彼女はレオの顔に黒いビニールを被せてきた。
 滑らかな膜が、鼻に、口にはりついてくる。顔を水に押しつけられているのにも似て、息ができない。レオがぎゅっと手を握ると、彼女はビニールを外す。レオは首を横に振って懇願した。
「もっとだ」
 ビニールが再び被せられた。苦しくて意識が遠のく。薄らいでいく意識の中、水中の情景が浮かんだ。ガラス玉のように輝く泡のかずかず。視界の奥の方で、長い黒髪の女性が手招きしている。
 その体に触れようと、ゆっくりと手を伸ばした。全身の知覚がぎゅっと研ぎ澄まされ、一つの塊のように集約していく。鈍く淀んでいた感覚が、急速に敏感になった気がした。
 カラン、という甲高い音が響いた。レオが取り落としたガラス玉が、下の金属のボウルに落ちたのだ。
 ビニールを外されたレオの目の前には、彼女の顔があった。手首の鎖はなくなっている。レオはガラス玉を拾い上げて、自分の目の高さに差し出した。そこに映っていたのは、寂しい夢から目覚めたばかりの子どものような、ひどく無防備で孤独な自分の顔だった。
 ガラス玉を受け取った女性は、それをぎゅっと握り締めた。レオが見つめると、白い前髪の奥にある黒い瞳が揺れる。レオの足首の鎖を外すと、彼女は足音高く去った。
 レオは裸で椅子に座ったまま、顔を伏せてむせび泣いた。

Ⅱ.
 その日、生徒の演奏が、ひどく耳障りに思えた。
 理由を探ろうとして、目の前の生徒を見つめる。
 昔から知っている彼女は折り目正しく、リスのような瞳を輝かせて質問する真面目な子である。練習していないはずはなかった。しかしレオの耳には、いつもよりも彼女の演奏が劣っているような気がしてならなかった。
 その日の生徒の楽譜は、レオの注意書きでいっぱいになった。彼女は小さく項垂れながら、呟くように言った。
「ちゃんとやってきたつもりだったんですが……次はもっと練習を増やします」
 静かにレッスン室を去る生徒を見て、レオは胸が痛んだ。
 理由は分かっていた。あのドミナトリクスの店で体感した、音のせいだ。
 酸欠の朦朧とした意識の中で、レオは水難事故で死んでしまった恋人に再会した。そしてあの時聞いた音と、全身の五感が一つに集約されるような快い感覚が忘れられなくて、それを再現していない音を許すことができないのだ。
 ないものねだりでしかないことは、十分に理解しているはずだった。
 レオは頭を横に振り、ピアノの前に腰掛けた。蓋を開けると懐かしい香り、木とニスに似た匂いがした。
 演奏を試みるのは、あの事故以来だった。
 指を動かすとひどく硬かったが、少しずつ慣らしていると、元の動作が思い出されてきた。一方で、かつて感じていた、音に対峙する時の震えるような喜びは蘇らない。鍵盤を押しながら、水中で耳にした音楽を再現しようと試みる。しかし自分の演奏が、水中の音楽と似ていないどころか、記憶の中の音を汚すような気さえしてきたので、レオは手を止めた。
 その日、レオはカイルのクリニックを訪れた。カイルはレオのパッチを外して検証すると、頷きながら告げた。
「音への反応が、前にも増して良くなっていますよ」
 カイルの言葉に、レオは頭を横に振りながら告げた。
「でも私は、音楽に対して懐疑的になっています」
「多分繊細になっているんでしょうね。感度が上がっているということですよ」
 カイルの言葉に、レイは黙り込んだ。思い当たることはあったものの、今ここで詳細を話す気にはならなかった。それにカイルは、聴覚の分野における権威であり、ソーヌスとシーレの開発者だが、カウンセラーではなかった。
 
 ドミナトリクスの店に通うにつれ、レオは死んだ恋人のエリに近づいているような気がしていた。彼女に接近するにつれ、音の輪郭は少しずつ明確になり、鈍くなっていた五感は鋭くなる気がした。しかしエリの手を取ろうとする直前に窒息しそうになり、音の輪郭を掴む前に顔のビニールを外されるのだった。
 ある時、ビニールが顔にぴったりと付着して外れないことがあった。苦しみのあまりレオは、ガラス玉を取り落とし、鎖が巻きつく腕を強く引っ張った。ドミナトリクスは業を煮やし、爪を立ててビニールを引きちぎった。レオは大きく息を吸い込んだ。爪が食い込んだ頬に熱い痛みを感じ、引いた拍子に外れた鎖を引きずりながら頬に手をやった。
 ドミナトリクスは自分の指を見やった。黒く塗りつぶされた爪に、レオの赤い血がついている。暗く落とした照明の中、血は赤黒く濁って見える。レオは思わずその指を掴み、口に含んでいた。自分の身から出た不浄のものが、相手を汚しているような気がしたのだ。その濁った液体を洗い流してしまいたかった。
 ドミナトリクスは指を吸うレオの顔を見やり、一瞬表情を和らげた。
 レオの歯が彼女の爪にあたり、かち、という音を立てる。
 するとドミナトリクスは、我に返ったように指をレオの口から引き抜いた。彼女はその手を固く握りしめた後、レオの頬を思い切り殴りつけ、部屋から立ち去った。
 彼女は尖った指輪をしていたのか、殴打の衝撃は歯にまで響いた。痛みに疼く頬をさすりながら、レオは鎖を外して椅子から立ち上がり、服を身に着けた。ひんやりとした布地の感触が、熱くなっていた身体の感覚を鎮める。部屋の傍らに転がっていたガラス玉が、ピンクの照明を反射していた。拾い上げて金属のボウルに戻そうとすると、自分の顔が映りこむ。頬に切り傷と打撲の跡がある、無様な自分の顔がこちらをじっと見ていた。
 店から外に出ようとすると、奥に小さな戸があった。楽屋のようなその扉はわずかに開いており、ドミナトリクスのシルエットがちらりと見える。レオはそこに向かって話しかけた。
「すまない。こちらからは何もしないという、最初の約束を破った」
 相手は息をひそめ、様子をじっと伺っている。
「できたら明日また来たいんだけど、いいかな?」
 懇願するようなレオの口調に、相手は低い声で答えた。
「分かった」
 少し安堵したレオは、恐る恐る言葉を加えた。
「それで、少しだけ、やってほしいことがあるんだ。料金は上乗せする」
 レオが趣旨を話すと、間を置いた後、彼女は静かに答えた。
「いいわよ。やってあげる」
 高揚に包まれて、レオは店を後にした。傷だらけのレオの顔を見て、道行く人々は一瞬ぎょっとしていたが、無関心を装って通り過ぎていった。

翌日、レオが家を出ようとしたタイミングでデバイスが震えた。
 番号を見ると教え子だった。レオはその日がレッスンだったことを思い出した。すぐにかけなおし、急用ができた、日程は振り替える、と手短に告げ、そそくさと電話を切った。連絡なしにレッスンをすっぽかし、謝罪もせずに日程を振り替えるなど、普段の行動からすればありえないことだった。
 レオは入店すると、ドミナトリクスに袋を渡した。彼女は引き換えに拘束着を押し付けてきた。それは黒革製で、体幹二か所に銀色のリングがあり、そこからベルト状のレザーが伸びて体を締め付ける。装着するのに苦労しながら、レオはそれを身に纏った。最初は恥ずかしさでいっぱいになったが、貧弱な自分の筋肉が強調されて締め付けられている感覚に、わずかながら快感を覚えた。
 ドミナトリクスは黒革のボディスーツの上に、真っ白なキャミソールドレスを纏って現れた。ドレスは生前のエリが好んで着用していたものだ。エリは白い衣装が好きで、彼女が最期に着ていたのも白い水着だった。
 服の白さとは対照的に、髪はいつものプラチナブロンドではなく黒髪である。ウィッグの長い髪を後ろに払いながらこちらに向かって歩いてくる彼女を見て、レオの胸は期待と不安でいっぱいになり、今にもぱちんとはじけそうになった。
 拘束着を纏って立ち尽くしているレオを見て、ドミナトリクスは皮肉な微笑みを浮かべ、いつものように椅子に誘い、手足を椅子に拘束した。これから起こることへの期待で、その重さすら心地良かった。目を閉じて椅子に身を委ねるレオに、彼女はガラス玉を渡し、革ベルトでレオの首を少し締めた後、顔に黒ビニールを被せてきた。
 あの日の水の冷たさが、掌のガラス玉の感触にリンクする。ドミナトリクスの黒髪と白い服は、生前のエリの姿ともリンクする。朦朧とする意識の中、彼女と向き合い、手を取りあった。その手は少し温かいような気がした。
 かすかな音が聞こえる。エリを失った時に聞いた音だ。音の粒が連なって音楽になり、リズムやハーモニーが少しずつ明瞭になっていく。掴んだ手を、掴みかけた旋律を放したくなくて、レオは苦しみに耐えた。やがて息苦しさが消え、全てが白い恍惚の中へと消えたかに思えた。

その後のことは覚えていない。気づけば病室の灰色がかった天井と、点滴の管が視界に入った。今いる場所が現実なのか、夢なのかもわからなかった。目を閉じると、かなり接近したエリの顔と、彼女の儚い表情を思い出す。その情景が突然切り替わり、あのドミナトリクスの野性味のある顔が思い浮かぶ。彼女は息を切らしながら、口移しで息を与え、心臓に刺激を与えてきた。のしかかってくる彼女の必死の形相を覚えている。何かを小さくつぶやきながら、瞳が潤んで光っていた。
 レオはもろもろの検査の後、すぐに退院できることになった。医師や看護師たちが淡々としているのが、レオにとっては救いだった。退院手続きで受付にいると、患者と思しき女性が話しかけてきた。
「どこか悪いんですか。お若いのに、気の毒ね」
 相手の見ると、善良そのものといった顔つきである。レオは当惑しながら言葉を選んだ。
「いいえ。どうしようもないんです」
 受付では白いビニール袋を渡された。袋の隙間から黒いものがちらりと見えたので、レオはさきほど話しかけてくれた女性から見えない角度に持ち換えた。自動運転のタクシーを捕まえ、中で袋を開いてみると、その拘束着は蛇がとぐろを巻いているようにも見えた。黒光りする革を眺めていると、頭の中であの日の情景が何度も甦る。間近に迫るエリの顔は、次第にドミナトリクスの顔に変わるのだった。
 レオは自分の妄想に当惑した。本当にどうしようもなかった。
 翌日、予約を取ろうとドミナトリクスに直接電話したが、どうしても繋がらない。恐らく拒否されているのだろう。あきらめきれないレオは店に電話したが、相手はレオの声色を覚えているようで、途中で切られてしまうのだった。
 業を煮やしたレオは待ち伏せすることにした。店の前で車を止め、ドミナトリクスが出てくるのをじっと待つ。ニット帽を深く被り、薄茶色の長い髪を揺らしながら、街に紛れる服装で店から出てきた彼女は、レオが駆け寄ろうとする前にタクシーへ駆けこんだ。レオは自車で追いかけていたが、信号待ちで彼女から電話がかかってきていることに気づいた。
「つきまとわないで。後悔するよ」
 レオが何かをいう時間を与えず、彼女はそれだけ言うと電話を切った。タクシーは街の郊外へと向かう。港近くの倉庫のような建物の前につくと、彼女は降車して扉に駆け寄った。
 開いた扉の中へ入っていく彼女に追いすがろうとすると、扉はレオの鼻の先でばたんと閉まった。慌てて周囲を探すと、ブザーが目に入る。矢継ぎ早に押すと、扉の中央の小窓が開いた。無表情な男がこちらを冷たく見つめる。
「中に入った女性と待ち合わせをしているんだ」
 レオが告げると、相手はレオの頭の先からつま先までを舐めるように見てから告げた。
「お引き取りください」
「なんでだ。入場料が必要なら払うから」
 レオは言い募るが、男は凍りついたような顔を崩さずに言う。
「お入れできません」
 その時、レオの背後から人がやってきた。小窓の男はその人物をじっと見ると、何も聞かずに扉を開けた。レオが続けて入ろうとすると、猛烈な力で蹴り飛ばされた。あとは泣きついても脅しても、取りつくしまがなかった。
 レオは車に戻り、ドミナトリクスが出てくるのを待った。夜も更け、日付もとっくに切り替わった頃、彼女が外に出てきた。至近距離まで近づくと、彼女は何かのスプレーを吹きかけ、鋲のついたブーツで足払いをしてきた。レオはその場にくずおれ、その拍子に胸をアスファルトに強打し、暫く動けなかった。スプレーをかけられた目が猛烈に痛く、開けていられない。
 数分の後、レオはやっとの思いで自分の車に戻ると、痛みがひくまでじっとしていた。再び動けるようになった頃には、気持ちとは裏腹に、オレンジ色の明るい朝日が車窓から降り注いできた。

Ⅲ.
 レッスン当日、レオはその日も休みにしようかと思ったが、振り替えの日程や、生徒への連絡などを考えているうちに面倒臭くなり、結局そのまま生徒が来るに任せた。
 生徒はなにごともなかったかのようにふるまい、淡々と演奏を行ったが、レオはいつまでもうわの空のままだった。
 このままではいけないと、レオは分かっていた。ドミナトリクスには拒絶された。彼女のことを考えないようにしなければ。意識から振り払おうとすると、余計に気にかかってしまう。ドミナトリクスの顔を追い払おうと、レオは頭を振った。ぶんぶんと加速させ、ついにはがつんと窓にぶつかった。幸い分厚いカーテンに遮られてガラスは無事だったが、レオには頭の痛みが、生徒には困惑が残った。
 レオがもごもごと言い訳になっていない言い訳を告げると、生徒は気遣うような、曖昧な笑顔を浮かべて言った。
「先生、お疲れでしょうか。もしも来週休みにした方が良かったら、教えてください」
 レオは、心配かけてすまない、来週は問題ないと伝えて生徒を送り出した。余計な心配をかけてしまったという一応の罪悪感は抱いていた。
 その後、カイルの診療所へ行ったレオは、居心地の良い椅子に身を委ね、その日の出来事を振り返らないようにした。いつものようにレオのパッチを外し、デバイスで読み取っている間、カイルはレオの顔をじっと見つめて言った。
「顔色が悪いようですが、何かあったのでしょうか」
 レオは言葉を探しながら言う。
「最近、眠れなくてね」
「それは良くないですね。病院で薬を処方してもらってください」
 シーレの波形を眺めていたカイル。
「反応は、前にも増して上がっていますね。原因を探ってみましょうか」
 カイルはモニターを見ながら告げた。
「どうやるのですか?」
 レオの問いに、カイルは首を縦に振りながら告げる。
「簡単に言うと、シーレは脳波の中で、聴覚機能に関する要素を詳細に記録しています。だから、脳が特に反応した音、深く感銘を受けた音もデータとして持っているのです」
「それでは、実際には聞いていない音でも解析できるのでしょうか?」
 レオが尋ねると、カイルは少し考えながら言った。
「幻聴や、夢の中で聞いた音ということでしょうか? 考えたことはなかったけれど、脳が音として認識したものを記録しているので、恐らく可能だと思います」
 レオは先日の、窒息の中で聞いた音楽を思い出した。あと少しというところまで来たが、まだあの音は掴めていない。
「ちょっと待っていただいてもいいでしょうか。思いついたことがあるので」
 急に勢いづいたレオに、カイルは一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに淡々とした調子を取り戻して告げた。
「分かりました。では解析してもいいタイミングになったら、教えてください」
 カイルは指に薬剤をつけると、小さなパッチを再びレオの後頭部に貼り、その日の診療を終えた。

カイルのアドバイス通り、病院へ行ったレオは睡眠外来で薬をもらい、ついでにドミナトリクスに蹴られて腫れている足と、打撲した胸部を検査してもらうことにした。
 転んで道路にぶつかったというレオの言葉を鵜呑みにした医者は、一応胸部レントゲンを撮ることを提案した。同意したレオが放射線室に入ると、医療用の青い制服を着た技師がいた。レオはパーソナルデータの入ったデバイスを渡しながら相手の顔を見た。
 薄茶の髪を後ろでまとめ、右眼と左の口元にほくろがある。どこかで見た顔だと考えると、先日店から出てきたドミナトリクスの髪の色と、彼女のほくろの特徴が結びついた。
 そんなことがあるんだろうかと、レオは信じられない思いで考えた。
 レオは思い出す。病院に運び込まれた時、救急車を呼んだのは女性の声だったと言われた。しかし先日、ドミナトリクスの店に半ば無理やり訪問し、受付嬢に礼を言おうとしたところ、知らないと言われたのだ。恐らくドミナトリクスは、レオの蘇生措置を行った後、昼職の職場で夜の顔が発覚するのを恐れ、救急車を呼んでその場を去ったのだろう。
 それにこの技師には彼女の面影がある。超然とした態度と冷めた表情に。
 技師は、デバイスをリーダーで読み取りながら、レオに背中を向けて機械を調整している。その時、白い首元に、刺青らしき青黒い模様がちらりと見えた。レオが確信を得て少し声を上げて笑うと、相手はいぶかしげな顔をしてこちらの顔を覗き込み、次の瞬間、ひどく険しい表情を浮かべた。
 そのまま出ていこうと扉に手をかける技師の腕をつかみ、レオは必死の思いで告げた。
「待ってくれ。君に会いたかった」
「人違いよ」
 心持ちかすれた低い声。間違いない、あのドミナトリクスの声だ。
「普通に働いているなんて思わなかった」
「私は普通なんて嫌い」
 レオの手をひっかいて振りほどいた彼女は、緊急呼び出し用のブザーを押そうとした。
「いや、そうじゃないんだ」
 考えを言葉にできなくて、レオは自分自身に戸惑った。
「そうじゃなくて、君には」
 焦ったレオは、何とかして相手をひきとめたかった。
「また窒息させてくれないか」
 意表を突かれたのだろう、相手は唖然とした表情を浮かべた。
「いくらでも痛めつけていいし、もう一回だけ、これが最後のお願いだ」
 レオは今までの人生で、一番真摯な声で告げた。
「いくらでも?」
「ああ。何をしてもいい」
 レオがそう告げると、ドミナトリクスはほんの少し唇を曲げた。
「そう」
 彼女はそういうと、レオをパネルの前に押し出し、息を思い切り吸った状態で止めるように命じた。やがてレオが我慢できなくなり、思わず息を吐くと、相手は冷たい笑みを浮かべて言った。
「だめね」
 レオは再度チャレンジしたが、またもや呼吸してしまった。何度となく繰り返し、意識が朦朧としてきた頃に、レントゲン室にノック音が響いた。彼女は舌打ちしながら扉を開け、外の相手になにごとかを告げると、扉を締めてレオに向き直って言った。
「しつこい犬。あと一回だけチャンスをあげる」
 レオは相手が話をしている間、ずっと深い呼吸を続け、体内が酸素で満たされるようにイメージしていた。そしてドミナトリクスから息を止めるように指示されている間、ずっと呼吸を停止していたし、許しが出るまでは例え死んでも呼吸しないつもりだった。
 だから再び扉をノックする音がした時も、レオは息を止めていたし、彼女が淡々と撮影を行い、機械から離れるように指示しても、ずっと呼吸せずにいた。やがて目の前が白くなり、倒れそうになった時、彼女はレオの手に何かを握らせると、思い切り尻を蹴ってきた。
 レオは勢いよく廊下に倒れ込み、ごろごろと横転して隅で止まった。呼吸を止めていたせいで、体を制御できなかったのだ。周囲にいた患者と職員は、転がり出てきたレオを見て、どう反応していいか分からないという困惑の表情を浮かべた。
 レオが立ち上がりながら中途半端な照れ笑いを浮かべると、彼らは目をそらして去っていった。歩きはじめると、蹴られたのが医療用の柔らかな自己放電サンダルだったにも関わらず、尻がずきずきと痛んだ。

レオは病院からレントゲン画像を転送してもらい、翌日、医師の診断を受けた。それによれば、レオは骨折などはしておらず、痛みは時間と共に治るということだった。帰り道、レントゲンの画像上の打撲した胸部の白さと、昨日ドミナトリクスが握らせてきた、住所が書かれた名刺の白さを見比べながら、彼女の家のブザーを押した。
 扉から顔を覗かせた彼女は、無表情のまま命じた。
「わかってない。伏せ」
 レオが床に這いつくばると、彼女は扉を大きく開き、ついてくるように手で示した。レオが這いながら家に入ると、彼女はレオを奥の椅子に座らせ、右の手首が上向きに固定されるようにして縛った。その状態で彼女は小さな機械と黒テープ、透明なラップを手にしてやってきた。
「じっとしてないと、ご褒美はないからね」
 彼女は黒テープでレオを目隠しし、右手首をひやりとするもので拭いた。細い小さな筆のような感触が続く。むずがゆさを感じていると、鋭い痛みに襲われた。思わずレオがうめくと、彼女はレオの顔に滑らかなラップを被せてきた。
 手首の痛みは体の芯を貫き、全身でびくんと震えそうになるが、先ほどの彼女のセリフを思い出して必死にこらえる。息の苦しさと皮膚の痛みで、全身の感覚が鋭くなる。
 陶然とした意識の中、気づけばレオは、薄青の世界にいた。
 どうやら水底のようだ。差し込んでくる光を見上げた。誰かが顔を覗き込んでくる。
 相手の白い掌に、自分の手を重ねる。
 水流がゆっくりと螺旋状に吹き上げてきて、周囲の風景がくるくると廻る。光が揺れて踊る。
 いつまでもそうしていたいと、レオは思った。
 行き着く先はどこだって構わない。別の世界でも良かった。いや、別の世界が良かった。
 今までは、感覚を鈍らせてやり過ごしてきた。
 過去の硬直した世界から、知らない世界を覗くことには強い喜びがあるのだ。
 その事実を唐突に、強烈に、自覚した。
 レオは、自分の顔にからみついてくる髪が、金色の光に似た色であることに気づいた。
 右手を伸ばそうとするが、痛みが走って動かせない。
 揺れる光が伝えるきんとした感触、極度に鋭くなっている全身の感覚、息ができないことによる朦朧とした意識。
 このままでいたいという気持ちと、もっと別の世界を知りたいという相反する気持ち。
 せめぎ合いの中、レオは音を聞いた。最初はわずかな音だったが、次第に音が近づいてきた。意識を失いそうになりながら、ようやくリズムとハーモニーと旋律を捕まえた。
 つかんだと思った次の瞬間、舞台が暗転するように闇が訪れた。次に感覚が戻った時、曖昧な意識の中で、レオは手首の拘束と目隠しを外され、顔のラップもなくなっていることに気づいた。急いで措置を行ったのだろう、引き裂かれたラップやちぎれた黒テープなどの残骸がそこら中に散らばっている。
「私に殺されたいの? 冗談じゃない」
 ドミナトリクスの声がひどく震えている。レオは彼女の顔を見て、頬に涙の痕があることに気づいた。涙の筋をそっと指でなぞると、ドミナトリクスは一気に顔を歪め、嗚咽を上げて泣き出した。彼女がひどく頼りなく思えて、レオは相手の体を抱きしめた。髪をなでると、相手はレオの肩に顔をうずめてきた。その仕草が愛しくて、レオは自分の鼻を相手の鼻にすりつけ、口を吸った。花の甘さと血の鉄分の味がした。
 二人はしばらくそのままの姿勢でいたが、ドミナトリクスはふと真顔に戻り、レオから身を引きはがすと、立ち上がって廊下の先に消えた。
 レオは散らかっていた周囲を軽く片付けてから立ち上がり、扉を開けて彼女の家を後にした。頭の中にはようやく掴んだ音楽、脳裏にはドミナトリクスの歪んだ顔が焼き付いている。全身に痛みが残っているが、とりわけ右手首はずっと鋭い針が刺さっているようだ。時間とともに赤黒く腫れあがっていく右手首の皮膚を見ると、小さな模様が彫りこまれていた。

Ⅳ.
 国内有数の音楽ホールの楽屋にて、当日の曲目を確認しながら、レオは演奏前のイメージトレーニングを行っていた。
 その日の曲は、レオが演奏を得意とする曲と、聴覚を失う前にレオがつくった曲、そして聴覚を失ってから初めてつくった新曲だった。
 ドミナトリクスの家から戻ったレオは、カイルのクリニックの予約を早めてもらい、シーレの解析を依頼した。シーレには、窒息の間に恍惚の中で聞いた音楽が刻まれていた。その音を拾い上げたレオは、譜面に起こして曲とした。
 レオが感謝の気持ちからその新曲をクリニックで披露すると、カイルは深く感銘を受け、できればクリニックで使ってみたいと言った。カイルに恩返しがしたいと思っており、また世間一般の反応も知りたかったレオは許諾した。そして客の帰り際に待合室で新曲を流すようにすると、大きな反響があった。聴き手曰く、懐かしさと狂おしさを喚起し、日常から解放される気がするということだった。
 カイルの顧客には各界の大物などがいて、新曲をCMに使いたいというプロデューサーがいた。レオが許諾したところ、曲は評判になり、広く知られるところとなった。新曲がきっかけで最近レオのファンになったという人も多く、レオのキャリアの中で代表的な作品になることは間違いなかった。
 開始時間を迎え、舞台でお辞儀をし、満場の拍手で迎えられたレオは、ピアノの鍵盤をしばし眺めた。暗い色味の黒鍵と、水を思わせる青白くひんやりとした印象の白鍵。レオは気持ちが鎮まるのを感じながら、演奏を開始した。
 やがて最新の曲を演奏しはじめたレオは、その曲をつくった経緯について考えていた。
 当初は、夢の中でもいいから亡くなったエリと会い、彼女を失った時に聞いた音を掴みたかった。あの音楽を再現できれば、いつでもエリに会えるような気がしたのだ。ドミナトリクスの手で窒息させられている間は、幻想の中でエリを見ることができたし、あの音楽に近づけるような気がしていた。
 レオは思い返した。
 待ち望んでいた瞬間、ようやく音楽を獲得した時に見たもの。それはエリではなくて、ドミナトリクスの顔だった。
 以前と同じように演奏できることに感謝しながら、レオは、以前とは違う要素、指を転がす繊細な音だけではなく、奥に情熱が内燃する音を表現できていることを自覚した。
 ドミナトリクスが与えてくれた世界は、凍えていたレオの感覚と固定観念を溶かし、まだ熱くなれることがあるのだと気づかせてくれた。
 今のレオは、自分の演奏する音に新鮮さすら感じていた。
 最後の小節を弾き、レオが椅子から降りてお辞儀をすると、会場は満場の拍手で沸いた。前方を見渡すと、何度かレッスンをすっぽかしてしまった生徒と、カイルの顔が見えた。楽屋に戻ってひと心地ついていると、楽屋をノックする音がする。扉を開けると、生徒が花束を抱えて入ってきた。
「すごく良かったです。先生はあの、ちょっと変ですけど、天才だから仕方ないなって思いました。とにかく本当に感動しました」
 目を輝かせながら語る生徒の言葉に、レオは恥ずかしいような、むずがゆいような、しかし喜ばしい感覚を覚え、少し下を向いた。
 ひとしきり感動を語った後、生徒は熱っぽく語ったことが急に恥ずかしくなったのか、足早に去っていった。入れ替わりのようにやってきたのはカイルだった。光沢のあるグレーの三つ揃えは、体格の良い彼によく似合っていた。
「素晴らしい演奏でした。復帰おめでとう。あなたが作曲できるようになる日を待ち焦がれていた。嬉しくて仕方ないです」
 惜しみなく語られる賛辞に、レオははにかんで下を向きながら言った。
「演奏も作曲もできるようになったのは、先生のおかげです。私が天から授かった音楽を再現できたのは、先生とソーヌス、シーレの力によるのですから」
 その言葉に、カイルは微笑みながら首を横に振った。
「あなたにとっては天からの啓示でも、結局、全てあなたの頭の中にあったものですよ。何であれ、復帰なさって本当に良かった」
 カイルはそういうと、会釈をして立ち去った。
 ホールから出て、夜の街を歩き始めると、カイルは言いようのない空虚さに襲われた。
 惜しみない賞賛を浴びつつも、なにかが物足りないような気がしてならなかった。
 演奏は自分でもうまくいったと思うし、観客の反応も上々だった。批評家も好意的な評価をしてくれるだろう。
 だがこの、どうにも埋められない空しさは何なのか。
 レオは足を止めて生徒がくれた花束を眺め、その甘い香りを思いきり嗅いだ。せめて一時の成功、賞賛に酔いたかった。
 花弁を見て、レオはそれが何かに似ていることに気づいた。記憶を巡らしていると、ふと視線が右手首に留まった。もうだいぶ腫れもひき、輪郭が明確になったその刺青を見て、レオは一つの決意をした。

その日の夜、レオは港近くの倉庫のような建物に赴いた。かつてドミナトリクスを追った際に門前払いを受けた店である。
 ブザーを押すと、以前レオに冷たく当たった門番の男性が顔をのぞかせた。レオは彼の目の前でコートを開いた。素肌に装着した革の拘束着が、月明かりで黒光りする。門番は仏頂面の頬を少し歪ませながら扉を開けた。すると大音量の音楽が一気に流れこんできた。
 裸の上半身に鎖のネックレスとブレスレット、それに鼻と耳を繋ぐ鎖のピアスをした店員が、レオのコートを預かってくれた。店内は複数のフロアに分かれており、それぞれの場所で青や赤、蛍光色の黄や緑といった鮮烈な照明が輝いている。絡み合う花々や、植物に似た女性が描かれたアールヌーボー調の壁紙が雰囲気を盛り上げている。
 歩みを進めると、革マスク姿の男を虐げるナースや、首輪を着けた男を鞭で従える女などが気ぜわしく通り過ぎる。ときおり黒いガムテープが貼られた空間が見え、ここが現実なのだという妙な実感を味わった。
 レオはカウンターに座った。檻の中で豹の耳と尻尾をつけて身をくねらせる男女や、下着姿でポールダンスをするダンサーたちの肢体を堪能する。
 バーテンダーが宝石のようなカクテルを渡してきた。グラスの中は真っ赤に輝いている。周囲を見渡すと、隣席の覆面姿の男性がこちらを見つめ、祝福するようにグラスを上げた。レオは少し会釈し、その煌めくルビーのような飲み物を一気に煽った。すると勢いがつき、同じものを四杯、五杯と飲み干していった。
 気持ちが高揚して全身が熱くなり、レオはフロアに出て体を動かした。周囲の男性はほぼ上半身裸、女性も極めて露出の高い服に覆面やサングラスといういでたちで、水中を漂うように体を揺らしている。その濃密で突き詰められた世界を、レオは心から尊いと思った。
 不意に音楽が途絶え、周囲の動きが止まった。なんとなくざわめいているのを見ると、想定外の事象のようだ。スピーカーの不調だろうか。
 レオはフロアにあった古びたアップライトピアノの蓋を開け、鍵盤を押した。うっすらと埃のつもったそのピアノは、長いこと調律していなかったのか、音はかなり狂っている。無音のままよりはいいだろうと、レオは店の空気に合いそうな曲を演奏した。テンションは上がっており、雰囲気も良かった。最初は好奇の眼差しでレオを遠巻きに見ていた観客たちも、音楽が流れだすと自分たちのリズムを取り戻して踊りはじめた。
 アルコールに背中を押され、レオは何曲も演奏した。そのうちに流れを掴み、どんな曲が流れても許されそうな雰囲気になったので、最新の曲、水の中で聞いた音楽を弾き始めた。
 指を動かしながら、レオは目を閉じた。
 鍵盤の位置は、見なくても分かっている。
 自分の指が生み出す旋律とリズムとハーモニーに浸りながら、病院の放射線室で彼女を見つけた瞬間を思い出していた。
 ああ、あの時、これが最後だなどと言ってしまったけれど、そんなこと言わなければよかった。 
 彼女に会って、お礼を言いたい。
 君のおかけでピアノを、演奏を取り戻したのだと告げたい。
 そして新しい音を、新しい世界を獲得したのだと伝えたい。
 そこまで考えて、レオは思い直した。
 いや、一番伝えたいことは、もっと別にある。
 演奏を終え、拍手の中で目を開けると、白に近いプラチナブロンドの髪が目に入った。黒革のボディスーツの上に、白いドレスを纏っている。
 一瞬、幻覚かと思ったが、間違いなく彼女だった。
 ところどころに穴があいたデザインのドレスは、穴から革の黒色が見えるのが煽情的で、彼女にぴったりと似合っている。純白と漆黒のコントラストの強さに、レオは目がくらんだ。
 スピーカーから再び音楽が流れはじめた。止まっていた時が動きはじめる。色とりどりの照明が瞬く。
 レオはピアノから離れ、音と照明に合わせて踊りはじめた。
 音に乗って足を動かす。リズムに合わせて両腕をシェイクさせる。場の空気に合わせて全身を揺らすと、黒革の拘束着が汗で光る。
 生きているという確かな実感がある。仮に明日死ぬのだとしても、今日ここに来て良かったと思うはずだ。頭に流れる旋律と、体が刻むリズムに合わせて、息の根が止まるまで踊っていたい。最期に聞いた音はシーレが拾い、カイルが解析し、ソーヌス装着者に還元される。きっと極限の音楽を求める人々に広く共有されるだろう。
 そして今この瞬間、自分の律動を共有したい人がいる。
 レオはステップを踏みながら、ドミナトリクスに向き直り、右手を上げた。手首には黒々とした花の刺青が彫られている。その模様は、彼女の首の刺青と同じものである。
 ドミナトリクスは何度も頷いた。黒いアイメイクの奥の瞳が輝いている。
 彼女が浮かべていたのは、レオが今までに見たことのない、そして今までずっと見たかった、心からの笑顔だった。   <了>

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