凍えるほどに温かく

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凍えるほどに温かく

十二月、逗子の海は凍えるほど冷たい。防寒のアンダーウェアの上に、厚手のウェットスーツで全身を覆い、ウォームソックスを履いて、ウォームウェアを上から着込んでも、がっつり冷たい。
この時期の海に入るヤツなんて、寒中水泳している地元のおじいちゃんか、サーファーか、僕らのような学生の部活動くらいなもんだ。オンシーズンは人でごった返すから、練習できるのは冬場と春先に限られてしまう。
 
二人乗りのスナイプ級ディンギーヨットは全長が4.7メートル、重量が170キロもある。ドックに縦に並べられている一回り小さいオプティミスト級を片目に、ディンギーランチャーに積載されているスナイプ級を修ちんと運び出す。わが校自慢の海洋センターは、逗子の海岸に直結している。海岸までのトンネルを抜ければ、砂浜から海までの短距離走だ。冬場に大荷物を運んだ経験があるだろ、本当に指先の感覚がなくなってくるんだよ。指ぬきグローブからはみ出る第一関節の先の感覚がなくなるかどうかのところで、浜辺にたどり着いた。
 
この時期はなんもないっていうのに、思った以上に人が多い。みんなデバイスを起動しているところをみると、拡張現実上でイベントが行われているのかもしれない。海に落とすのが嫌だから、置いてきてしまったのが悔やまれる。最近は人気漫画のアニメ化で、季節関係なく観光客が訪れるようになった。景観を壊さない、環境に配慮した新たな観光ということらしい。駅前にはコラボカフェができて、彼女と行ったという修ちんは再現度がヤバいとはしゃいでいた。死ね。面倒なことにわが校が作品のモチーフになったせいで、知らないお姉さんが不法侵入して騒ぎになったこともあった。うちは男子校なんで、女子には常に飢えてるんだ。
 
海風が強く吹き付け、そのたびに舞い上がる海水が体と目に沁みる。一刻も早くこの地獄から脱出すべく、膝先までつかりながら艇体を海へと押し出す。修ちんが先に乗り込み、次に僕が最後のひと押しと水底を蹴りつけながら後方へ乗り込む。帆が海風に踊らされバタバタと声を上げるので、僕らはしっかりと帆をはり、風を捕まえていく。今日は風が強い、二枚の帆が風の赴くままに膨れ上がるのを、前方のジブセールを修ちん、後方のメインセールを僕が抑え込む。フットベルトに足を固定し、時には海面と平行になるくらい身体を反らして、駆け出していく。
 
「今日からイベントだぜ、デバイスをかけてみろよ。ここからだとめっちゃよく見える!」
ちょうど沖にあるブイを反転して、海岸が一望できるところだ。街の全景が見渡せる。
見慣れた校舎。ランニングついでに上った披露山。あの辺には金持ちの別荘がたくさんある。真新しい海沿いの観光施設。横浜でも見た店ばかり入っていた。あそこのシラス丼は不味いし、値段も高い。もう見慣れた景色だ。それでも、ここから見るだけで清々しい気持ちになる。
修ちんから受け取った眼鏡型デバイスをかけると、風景が変容する。校舎や観光施設といった、聖地になった場所はそのまま、あとは綺麗に塗り替えられていく。上空には逗子市×ARプロジェクト。と銘打たれた宣伝が浮かぶ。
この街は、いつだってコンテンツとともにあった。作家が暮らせば、そこが舞台となり、世界が構築された。いまも海岸に記念碑が建っている。太陽の季節ここに始まるだそうだ。意味は不明。アーティストが歌にすれば、皆その舞台を目指して、海岸線を車で駆け抜ける。僕にはただの道路にしか見えない。そして今は、この街そのものを飲み込んでしまった。生憎と、こいつは僕にもよく見える。
見惚れているうちに、僕のティラーを握る力が弱まり、突風に舵を取られ、艇体は横転し、なすすべなく海へと叩きつけられた。
頭のてっぺんまで沈み込むが、ライフジャケットのおかげですぐに浮かび上がる。叩きつけられた痛みなのか、寒さによるものなのか。とにかく体中が悲鳴を上げていた。
我に返って、修ちんを探す。横転した艇体を起こそうと、艇体の端によじ登っていた。僕も修ちんの隣によじ登り、全力で体重をかける。せーので力を込めると、艇体は起き上がった。
「おい、デバイスどうした?」
「あ、さっきので落としたかも!」
「嘘だろ?死ねぼけ」
修ちんは僕の頭を海水にぐっと沈める。もう一回頭まで海面に浸かると、温かい。寒さが馴染んでくると、途端に海の中が温かく感じてくる。
気付けば、風景は元通りだった。ただ、海の中が温かく、外がものすごく寒い。修ちんの唇も大分青くなっている。
もちろん、こんなのは体温が下がってきているからで、一刻も早く陸に戻った方が安全だ。今なら、水道水だって熱湯のように感じられる。このぬくもりが偽物だと知っていても、あの太陽を、音楽を、風景を、温かく感じてしまうなにかが、ここにはあるんだ。
「さみい」
「早く戻ろうぜ」
帆を広げ、僕と修ちんは風を捕まえる。いい風だ。

文字数:2000

内容に関するアピール

私が長年暮らしている街は、観光都市の一つです。
鎌倉、葉山、逗子。都心からほど近い避暑地として、愛されています。
けれど、私が学生の時にはそんなことは何一つ感じず、修学旅行生や観光客が何をありがたがっているのかと思っていました。
私の日常の中に、彼らの観光はありません。その文脈を理解したいまでも、あまり乗り切れない自分がいます。

今後、日本はますます観光事業に力を入れて、そういった文脈を強化していくことでしょう。
わたしたちの街に暮らす人のための都市ではなく。訪れる人々のための都市として、発展していきます。
そうすることで、その街に住む人々だって潤うのですから、WIN-WINですよね? きっと。

僕が暮らしているレイヤとみんなが楽しんでいるレイヤが、技術によって溶け合った時に、僕の弱っちいレイヤは簡単に飲み込まれて消えてしまうんじゃないか。
あと、冬の海はめっちゃ寒いです。

文字数:384

課題提出者一覧