光に向かって泳ぐ銀の背
雨に濡れた銀色の車両が闇の中をきらきらと揺らめく。夜の闇は、冷たい海の底のように重たく静かだ。今夜の立川は雨のせいで水かさが増し、わずかに水面がせり上がっている。その上を私は、銀の鱗を持つ細く長い深海魚のように悠々とすべり抜けてゆく。
乗客のいないがらんとした車内では、蛍光灯の光がやけに明るく感じられ、私は逃げるように目の前に広がる闇を見つめた。雨粒が無秩序に散らばり、流れてゆくフロントガラスの上をワイパーが規則正しいリズムで横切る。運転席にも人の姿はない。ただ、小刻みに針を震わせる計器たちの端で、自動運転モードの赤いランプが無機質な光を放っている。軌道桁のすぐ下で水面が揺れ、一瞬、マンションの屋上が見えた。立川北駅が近づくにつれ、街に光が増えて、水面が明るく照らし出される。客室から暖色の明かりが漏れるホテル、点滅するTSUTAYAの電飾、錆びたマックの看板やカラフルなネオンを灯す雑居ビルの間をすり抜けて、私はゆっくりと停止した。
ホームにも乗降する人の姿はなく、あたりはひっそりと静まり返っている。かつて、私を待ちわびる人々――眠たげな眼をした早朝のサラリーマンや、食材のたくさん詰まった買い物袋を携えたおばあさん、単語帳を片手におしゃべりに夢中になる学生たち――で溢れていた頃の面影はもうない。私は発車ベルを鳴らし、再び闇の中にすべり込む。ビーズを散らしたような街の明かりが水面に反射して揺れている。たっぷりと水分を含んだ生ぬるい空気と全身に降り注ぐ冷たい雨が心地良くて、思わず体を軋ませる。鋭い金属音が響いて、すぐに闇の中に消えた。時折、風で揺れる水面から鉄塔や電柱の先端が見える。私は少しだけスピードを上げた。
私たちは「水繭」と呼ばれる直径5kmほどの半透明のドームの中にいる。水繭はとつぜん地表に現れて、街をすっぽり覆ってしまう。初めはてっぺんに500mほどの穴が開いた状態で出現し、約5年かけて穴がゆっくり閉じるのと同時に、徐々に繭の中が水で満たされていく。人々はそれを「成長」と呼んでいるが、水繭が生き物なのか否かまだわかっていない。また、どこからやってくるのか、便宜上「水」と呼んでいる液体の成分も、「繭」を形成する繊維状のものについても、なにもかもわからないことだらけだ。私たちが水繭に関して知っているたしかなことは、「地球上どこにでも出現すること」「繭の中が完全に水で満たされると消滅すること」「水繭が消滅すると、中にあった人工物だけが跡形もなく消え去ってしまうこと」だけだ。30年前に突如として現れた水繭は世界中を恐怖と混乱に陥れ、人類はいまだなす術もなく住処を削り取られている。
立体駐車場の脇を通ると、ただ朽ちるのを待つだけの車たちがぽつりぽつりと停められているのが見えた。CINEMAと書かれた電飾が水面にあたたかな光を落としている。時速50kmで走る私の体がぬるい夜風を切り裂いてゆく。雨脚がだいぶ弱まってきた。細い絹糸のようなやわらかい雨が私の全身をやさしく撫でる。しばらくすると、ひと際あかるい光が見えてきた。水没する前、大型の家具店だったそこは、2階の売り場とカフェレストランだけが水上に残り、しばらくの間、水繭の中の人々の憩いの場になっていた。横目でちらりと中を盗み見る。ここにも人の姿はない。煌々と水面に照り付ける明かりだけが、かつてのままだった。
体育館の時計が見えると、繭の中の終点、泉体育館駅。水繭の端にたどり着く。繭を近くで見ると、透き通った繊維のようなものが薄く重なりあっているのがわかる。繭の外に新しくできた駅舎の明かりがぼんやりと見えた。遠くで最新型のモノレールが風を切って走る音が聞こえたような気がした。繭の中で街の姿が変わってゆくように、繭の外でも街はどんどん作り替えられてゆく。この土地を捨てて、繭のてっぺんの穴から出てゆく人々を見送った日のことを思い出す。寂しくないといったら嘘になるのかもしれないけれど、私は自分の歴史に満足している。この土地も、この場所に生きた人間たちのことも愛している。しかし、どうせ私たちのように人間に作られたモノは世界に水繭がなくてもいつかは朽ちて捨てられるのだ。愛した者たちの手で廃棄されるより、最後まで使命を果たして水繭の中で消えてゆくほうがよっぽどいい。私はまた立川北駅に向かって引き返すために加速した。
とぷり、と水が静かに私を飲み込む。空から私や街を見下ろしていた繭の穴が完全に塞がった。どんどん水位が上がり、水面がはるか上空に遠ざかってゆく。それでも私は加速するのをやめない。水の中は、電飾やネオン、ビルやショッピングモールの光がきらきらと乱反射して色とりどりに輝いていた。私の体も、光を受け止めて銀の鱗のようにきらめく。私は、氾濫する光の中をリュウグウノツカイのように悠々となめらかに泳いだ。
文字数:1998
内容に関するアピール
謎の生命体(?)×多摩都市モノレールSFです。水繭の中に柴崎体育館駅~泉体育館駅がすっぽり収まっているイメージで書きました。舞台は立川市です。江ノ電やモノレールなど民家とか建物のすぐそばを走る電車に乗っていると、家の明かりとかオフィスとか、カーテンの色とか玄関先の自転車、ベランダのプランターなど見知らぬ人の生活の生々しさみたいなのが突然飛び込んでくるときがあって、それが切なくてすごく好きです。あと、モノレールは窓からの景色が宙に浮いてるみたいに見えるところがすごく良いなあと思います。私は断然、夜のモノレールが好きなのですが、モノレールに乗っていて、ふと、すぐ下に水面があったら光が反射してもっときれいなんじゃないかと思ったので立川(の一部)を水没させてしまいました。水繭は生命体っぽく描きましたが、竜巻とか台風とかと同じ天災的なものとして、物語の中の人々には認識されているんじゃないかなと思います。実生活でモノレールに乗ったときに、揺れる水面を想像してもらえたらうれしいです!
文字数:441