梗 概
砕けた瓦礫の願いより
世界の中央に絢爛豪華な城がそびえ立っている。寂れた家々が城を取り囲み、居住区域を出ると荒れた大地と岩石が広がる。一定の距離を進んだ先で世界は消滅して途切れている。
実は《閉削》の仕事に従事する少年である。毎日組合に指示された地域に向かって大地を削る。閉削した土地は消滅し、世界は狭まっていく。
作業場となる世界と消滅の境界への移動を除くと、一日に作業できる時間は四時間しかない。定時までに集合場所に戻るとその日獲得した《資源》が分配される。資源は生存に必要なエネルギーだ。確保するために不要なものを資源に還す。変換ロスを無くすため貸し出されるスコップには掘り出す土を、ツルハシには砕いた岩石を消滅させる処理が施されている。総収穫のうち組合の取り分と道具の使用料が取り除かれ、実が受け取った資源は一日生存するのでやっとの量だった。
実が組合寮に帰宅すると六畳の部屋には布団だけがあり、資源が足りず眠り続けている妹の乃亜がいる。毎日働けど乃亜を起こすだけの資源を稼ぐ目処は立たない。惨めな気分で実は眠った。
ある日、組合寮の前で立ち話をしている男たちがいた。盗み聞きをすると近々部屋の点検が行われると知る。立ち去ろうとした実だが、男に見つかり暴行を受けて資源のほとんどを強奪される。このままでは自分の資源は枯渇、部屋の点検では乃亜が見つかり廃棄されるだろう。実は犯罪になることを承知で中央に建つ塔を閉削しようと決意する。
城の庭に立ち入ると少女がいた。少女は和波と名乗り、資源から作り出したチョコレートを差し出す。実にとって食事とは、味覚を稼働させて資源を消費する自傷行為に他ならない。拒絶する実に和波は資源を渡して明日も来てほしいと告げる。
それから実は和波の元に通った。仕事は行かず適当な話をして資源をもらう日々。ある日豪華な暮らしができる理由を訊くと、親が組合に道具を貸し出して使用料が入ってくると言う。立場の違いを感じつつも実は和波に惹かれていく。
しかし穏やかな時間は続かない。和波と話している最中に実の身体が硬直する。実の心中に芽生えた恋心が情動を生み出して資源を食い潰したのだ。実は自分の運命を受けいれるが和波は資源を渡して今夜街外れに来てほしいと告げる。
実が一度帰宅すると部屋の点検が行われていた。乃亜に資源を分け与えるも呼吸を再開するだけで意識は取り戻さない。乃亜は廃棄すると宣告され、実は乃亜を連れて寮を抜け出し和波と合流した。
「君と出会った日から私は城を崩すと決めていた。資源を目減りさせると忌み嫌われる、そんな瓦礫が好きだから」
和波が実に告げると町から爆煙が立ち上がった。城が瓦礫に変わって崩れ去り、キラキラ光る粒子が空から降り注ぐ。それは資源だった。
「キレイ……」
乃亜が意識を取り戻して呟く。
和波がビスケットを差し出した。実はそれを受け取って嚙み砕く。
文字数:1200
内容に関するアピール
課題は2018年第9回「小さな世界を見せてください」を選びました。
今回は率直に自分が読む側だとして楽しめる話を目指し、オチは自分好みに人の活力を感じられるものとなりました。
人の手で解体されていく世界。少年と少女の小さな関係性。娯楽を知らない少年の世界についてのお話です。
舞台となる世界は、生存に食事が不要だったり物体が消失したりと仮想空間のようなイメージですが、単に世界がそういう性質であるだけで外の世界がある想定はしておりません。
文字数:216
砕けた瓦礫の願いより
車に乗っているのは仕事に向かうために荒野を横断する者だけ。運転を咎める者はここにはいない。たとえ落車したとしても問題になることはなく、同乗者が気にかけることすらないだろう。皆、一様に生気のない目をして虚空を眺めている。無意味なこの時間が過ぎ去るのを待っているのだ。
車が動き出して一時間が過ぎた頃、目的地に到着する。歪に削られた大きな岩石が目印だ。一人を残して一斉に下車し、荷物を降ろす。トランクを締めると車はすぐに走り去った。排気ガスの臭いが残り、数人の咳きこんだ。その音が止むと、おのおの違う方向へと歩き出す。
そのうちのひとりである実は、他の人と比べてひときわ身体が小さかった。まだ少年と言える年齢である。育ちきっていないため、体力も少ない。
ミニバンから降ろした道具、スコップやツルハシの類いは成人男性がとりまわしやすいサイズで作られている。ケースに入れてショルダーにかけるも、背中に感じる重量は人ひとりを背負っているのではないかと錯覚を覚えるほどだ。少しでも楽に歩けるようにと背を丸めて重心を前方に向けたが、この体勢で歩き続けると数時間後に腰が鈍痛に苛まれることは嫌というほど知っている。
歩き続けて一時間、作業場へ到着する。道のりで見てきた景色と代わり映えのない荒野が、ある地点を境に途切れている。かわりに広がっているものは文字通り何もない。大地どころか空間すら存在せず、手を伸ばしても透明な壁に遮られるように境界を越えることはできない。世界の果てがここにあった。
呟くと、手の甲に数字が浮かぶ。839、朝にチェックしたときよりも二十減っている。いつものこととはいえ、移動での負担の大きさにため息が漏れる。
気を取り直して《閉削》の作業に移ろう。
背負っていたケースを床に置き、スコップを取り出す。地面が途切れる少し手前の地点に狙いを定め、体重を乗せて剣先を差し込んだ。土は掬いあげられるとそのまま消滅する。掘った地面はさらなる土の姿を覗かせることなく消失し、先ほどまで存在していた空間は、今手を伸ばしても届くことはない。こうして世界はスコップ一つ分小さくなる。この単純作業をひたすら繰り返す。
そうして四時間経つ頃。日が傾きだすのを感じ、実は道具を再び背負って一時間かけて集合場所へと歩き出した。
この世界で生きるには《資源》が必要だ。世界に存在するあらゆる物体がもつエネルギーであるそれは物質を変換することで手に入れることができる。人は繁栄のためにあらゆる物質を《資源》に変えて食い潰してきた。物体はどんどん姿を消し、世界そのものを食い潰していかなければ生き存えることができないほど、乏しい世界になっている。実の仕事は《閉削》を行い、物質が持つエネルギーを《資源》へと変換することだった。
「もっと《資源》が欲しければ、成果をあげられるように努力することだな」
車での移動を終えて組合に戻り、成果を報告すると組合長に嫌みったらしく吐き捨てられた。組合に所属し、《閉削》の作業に従事して四年ほど。時間が経てば経つほど身体が成長して体力もつき、成果は上がっているにも関わらず、もらえる《資源》が増えた覚えはない。実は会釈をしてその場から離れた。
組合長の前に作られた列を横目に、今日得た《資源》を確認する。937、一日生活して消える量を踏まえるとかろうじて黒字になる数字。《閉削》の作業は働いて得た分をまるごともらえるわけではない。組合への上納分、道具や車の使用料としてそのほとんどを奪われる。手元には、一日過ごすのが精一杯の量しか入ってこない。
いつの間にか長く連なる列は捌け、組合長はどこかのお偉い方と大きな声で歓談をしている。話すだけでエネルギーを消費する世界。声を出すのは《資源》に余裕があるものばかりである。実はうんざりした気持ちでそれを眺めて帰宅する。
実の家は組合が建てた寮の一室にある。もちろん家賃としてそれなりの量の《資源》が抜かれている。別の場所に住もうにも、住めるようなところは《閉削》でなくなっており、組合から仕事をもらっている人のほとんどがこの建物に住んでいた。
部屋は埋まっているにも関わらず、組合寮はいつも嫌な静寂に包まれている。感情が高ぶることは《資源》を消費すること。口を開き言葉を発することはすなわちエネルギーの浪費である。組合寮で誰かしらの声を聞くことがあれば、それは有益な情報か生きることに飽いた人の恨み言の他にない。
建物全体に響くのではないかと不安になるほど足音が響く階段を、薄暗いなかで登っていく。自分の家の扉を開けると、広がるのは六畳のワンルーム。コンクリートの壁が剥きだしになり、部屋には一組の布団の他に物はない。ただし、布団の中には先客が眠っている。
「乃亜……」
実は枕元に座って少女の頬をそっとなでる。手に感じるのは命を感じさせない残酷な冷たさ。少女は身じろぎどころか呼吸ひとつせず眠り続ける。資源が枯渇して活動が停止していた。乃亜の外見は七、八歳ほどに見えるが、時が止まったように身体が成長することはない。
妹である乃亜こそ、実の生きる希望である。親がいなくなって庇護の元にいられない少年にこの世界は残酷すぎた。身体が育っていない実はひとり作業に向かう日々。活動を停止した乃亜に十分な《資源》を与えようと努力すれど、一人前の仕事をこなせず、二人分の《資源》を得るのは夢のまた夢。当初は血反吐を吐いても乃亜を再び活動させようとギラギラした気持ちがあった。今は心からそう思えているかは自分で自信が無い。時間が心を鈍化させ、頭で考えているだけではないだろうかという不安がある。一方で、心の動きが鈍ることで自身のエネルギーの消費が少なくなっているもわかっていた。
実は部屋の窓を開ける。窓からは街の中央の様子が見える。もうすぐ日が暮れて真っ暗になろうとしているのに、遠くには明かりが見える。《資源》に余裕がある人々が住んでいる住宅街の地点だ。
さらに奥、世界の中央といえる場所には城が建っている。純白の城だ。それは明かりを点すまでもなく、空の光を反射するように自らがキラキラと輝いている。あの城を《資源》に変えることができればどれほど楽なことだろう。瞳に映るゆらめく光を見ながら叶いもしない願望をしばし夢見ていた。しかし、無駄に起きていても《資源》を浪費するだけである。実は乃亜の眠っている布団に入り、すぐに眠りに落ちた。
その日はいつもより早く目が覚めた。窓を開けると建物の影に二人、人の姿があった。口元が動いていて、何かを話しているように見える。
組合寮に住む人が声を出すことはめったに無い。一人で喋りだすようになった人は数日経つと姿を消す。そして、複数人で話すときは何かしら有益な情報の共有が行われているものだ。実は急いで寮を出て、彼らに見つからないように近づいていく。話が聞こえる位置まで来ると、二人の男の密談が聞こえてきた。
「……対価は払ったんだ。日にちを教えてくれてもいいだろうに」
「俺もそこまでは掴んでないんだ。だが間違いなく近いうちに部屋の点検は行われる」
(――!!)
耳に届いたのは実にとっても有益な情報だった。組合寮に住むにあたって『《資源》に変えることのできる不要物の持ち込み禁止』というルールが存在している。
組合寮に入居する人たちのほとんどが《資源》不足にあえいでいるため、最低限の荷物しか持ち込まれることは無いのだが、ルールを守られているかを確認するためにときおり組合が巡視するのである。そして不要物に該当する物を実は部屋に残している。活動停止した人体を――。
(乃亜を、隠さないと……)
これまで何度も点検が行われる機会はあった。実施される時期が近くなると、目の前で行われているやりとりのように情報通が《資源》と引き換えにタレコミを行う。今こうして情報を知ることによって、ただ乃亜が見つかる危機を回避するだけではない。売り手にまわって《資源》を手に入れるチャンスを得ることができたのだ。未来に希望が灯ったように思えた。
実はその場から離れようと動き出したが、わずかに気が緩んだからだろうか。足が地面を滑らせて、ガサッと音が鳴った。
「誰だ!?」
男二人が話を中断して実を見た。致命的なミスをしたことに気づき、走り出す。
しかし、体格の差がスピードにも表れていて、歩幅の小さい実はすぐに男たちに捕まりうつ伏せに押し倒される。
「こいつを押さえとけよ」
情報を売った側の男が命令すると、もう一方の男は実の胴体に乗りかかる。
「お前さあ、今の話聞いてたよな」
下卑た笑みを浮かべて見下す男に、首を横に振って答える。瞬間、手のひらが踏みつけられた。
「盗み聞きしたよねって言ってんだよ」
「ぅぁ……。はい……」
「だったら相応の対価を払わないといけないよな」
人が見たら捕食者に捕まったように見えるだろう。いや、実際に人は見ているのだ。助けを求めようと自身がやってきた側に目を向けると、寮から続々と人が出てくるのが見える。「助けて!」実は声を上げるが、皆一瞥すると興味を失ったように視線を戻してとぼとぼと歩き出す。
「誰も助けに来るわけないだろうに。お前も経験あるだろ」
男の言うとおりだった。ときおり迫害を見かけても気にかけることは無い。迫害を行う誰かは目を爛々と輝かせていて生きる意思に満ち満ちている。それは真っ当な生活では持ち得ないものだ。暴力を振るう正当な理由を得ただけでまるで違う生き物のようになる。
「このガキをよく押さえとけよ。ちゃんと仕事をしてくれりゃ《資源》は山分けにしてやる」
実を押さえつけている男は頷く。身体にかかる重みが増し、軋む音が聞こえた。
それから始まったのは蹂躙と呼ぶべき行為だった。心を折るためではない。暴力のための暴力。抱いている不満や苛立ちを弱者に押しつける時間。早いうちに実は音を上げていたが男は聞かずに加害を続ける。実を押さえつけている男の顔色も悪くなり、やんわりと止めるように言うけれど無意味だった。
男がようやく満足したころには、実の姿は無惨な物になっていた。身体の方々に打撲と内出血の跡があり腫れている。
「《資源》、あるだけ寄こせ」
「……はい」
男に手を捕まれて自分の持つ《資源》を移行させる。身体から力が抜けていく感覚。男は自分の手に浮かんで増えていく数字をうっとりと眺める。
「まさか全部奪うつもりじゃないですよね? 嫌ですよ俺、そこまでしたらさすがに咎められますって」
男はチッ、と舌打ちすると手を離す。放出が止まり、実は安堵した。
「で、お前はあとどれくらい《資源》残ってんの」
手のひらを見せると、表示されていた数字は28だった。
「まさかそれまで欲しいなんて言い出しませんよね?」
「そりゃあもらえるならもらいたいが、お前の言うように消えられても面倒だしなあ。なに、このガキに同情したの?」
「目の前で人が死ぬところを見たくないだけですって」
「お前は偽善者だなあ。だったらこいつの《資源》は全部もらっていい?」
「約束どおり山分けしてください」
男は服装を整え、立ち去るまえに振り返る。
「じゃあなクソガキ。恨まずにとっとと消えてくれや」
一人きりになってしばらくは痛みで動きことができなかった。身体が我が物ではないかのように熱を持って苛んでいく。
状況は悲惨の一言に尽きた。すでに仕事の始業時間は過ぎている。いまから組合に出向いても、車はすでに出発していて《閉削》には向かえない。このまま帰って寝てしまおうにも、怪我の治癒に《資源》を使い切り、二度と目覚めることはないだろう。今すぐに行動を起こして《資源》を確保しなければここで終わる。
実は頭を抱えて考え込んだ。差し迫る危機に思考がまとまらず焦りで感情が高ぶっていく。そのこと自体がエネルギーの消費を活発化させるため余計に実を焦らせる。だから思い浮かんだのは、自暴自棄ともいえる案だった。
――城を《資源》に変えてしまおう。
貧困層である実が見つかれば見咎められるのは避けられない。みすぼらしい格好で怪我をしている少年は排斥される対象なのだ。家の外に出ている人たちから姿を隠して住宅街を抜けると、いつも部屋から眺めている城が城壁に隔てられた先にある。
実が城壁に沿って歩いていると、地面がえぐりとられたように陥没している場所があった。近づくと人一人が這って通り抜けられそうな穴がある。実は躊躇することなく通り抜けた。
そうして庭に入りこんだ実は、広がる光景に圧倒される。この世界で唯一無二の輝きを放つ外壁は《資源》に満ち満ちているからこそ際立っているに違いない。この壁をわずかに削り取れれば、《閉削》の比にならないほどの《資源》を手に入れられるに違いない。それほど素材でできた建造物が、天を見上げても全貌が見えないほど高くそびえ立っている。太陽は城に遮られて影になるだろうに、発する光だけで十分な明るさになっている。
一方で、庭は城の神秘さと比べるとありふれたような殺風景。実が通ってきた住宅街と比べて緑は生い茂っているものの、手入れはされておらずかえって乱雑な印象を受ける。
(さて、あとは城を削るだけだけど……)
組合の許可がない場所での《閉削》は禁止されており、道具は厳重に管理されている。そのため組合の道具を持ち出す案は始めから検討せずに何も持たないままできた。タイムリミットが迫っているという事情もある。個人で不要品を《資源》に変換してもらうことはあるため、変換の手段については心当たりはある。城の破片の一つでも入手できれば、多少手間賃を払うことになったとしても十分な《資源》を手に入れられるだろう。
実は城の外壁に触れて、感触を確かめるように撫でる。実の知らない素材から作られたそれはつるつるとしている。爪を立ててみたり、転がっていた石で傷をつけようとしてみても跡一つ残らない。手ぶらで削ろうとするのは無謀そうだ。住宅街を探せば道具の一つでも見つかるだろうか。あるいは生い茂っている雑草をありったけ回収して立ち去るべきだろうか。実が取るべき行動について考え込んでいると、背後から声が聞こえた。
「こんなところで何をしているの?」
「へ……? うわぁ!」
間抜けな反応。遅れて誰かに見つかった事実を認識する。驚きのあまり大きくはねた心臓の反動を受けたかのように体勢を崩して尻餅をつく。深呼吸をして視線を上げるとそこには大人びた雰囲気のある少女がいた。
「君、どこから入ってきたの。もしかして不審者?」
「入ってきたのはそこからで、不審者ではありません」
指さした場所は穴の開いた外壁。自ら不法侵入の自白をするが、まごうことなく不審者だ。少女も怪しい人を見る目から一転、「そうなんだ……」と困惑している。
「残念ながら父様はいないよ。それとも《資源》を狙いにきたのかな?」
「どうして《資源》目当てだとわかったの」
「いや、服装を見れば察しはつくから……。じゃなくて! たまにそういう人たちが侵入してくるの。見張りじゃなくて私に見つかるなんて君は幸運だね」
「幸運?」
見つかったのに幸運なんて言えないだろう。不満げなニュアンスを帯びて問うと少女は陰のある笑みを浮かべる。彼女の言う見張りに見つかった者の命運が察せられる笑みだった。
「しかし、君みたいな子どもが来るのは珍しいな。忍び込んでくるのはたいていやけっぱちになってる大人だからね。もっとも、切羽詰まっているのは君も違わないようだけど」
多分あんたも数年しか歳が違わないだろうに。心のなかで反発するが口には出さない。子ども扱いされるならいっそ利用してやろうと同情を引くために頭を下げる。
「勝手に入ったことは謝ります。ごめんなさい」
「それで、ルールを破るだけの理由があるのかな」
「俺、《資源》を奪われてなくなって。妹も寝たきりで助けなきゃいけないからどうしても《資源》が欲しかったんです」
「ふうん。そんな事情がねえ……。いいよ、見逃してあげる」
「本当ですか?」
「ただし条件としてこれから毎日ここに来ること。そして私の話相手になってくれること」
「えっ、なんでですか。そんな条件」
「私は外の世界を見たことないから、話を聞いてみたくてね。もちろんお礼ならするよ」
少女は実に近づいて手を握る。ギュッと握られた手のひらから伝わった暖かく柔らかい感触はこれまでの実の人生で一度も覚えたことのないもの。突然の行動に戸惑うが、しばらく時間が経つと少女の手が離れた。
「見てみて」
少女に促されて《資源》の量を確認すると、男たちに奪われる前よりも数字が増えている。
「これって?」
「私、父様からたくさんの《資源》をもらっているから、君が来てくれるなら相応の対価は約束するよ」
「やります」
実はすぐさま考えを翻した。これだけのエネルギーを一度にもらえるのなら、いつか乃亜を起こすことができるかもしれないと思ったのだ。
「契約成立ね。私の名前は石動和波、君の名前は?」
「実です」
生まれたときから実は名字を持たなかった。名字を名乗ること自体、社会的ステータスの表れである。そして彼女が名乗ったのはこの世界で最も《資源》を持つ家の名だった。
こうして実の日常は形を変えた。
朝は仕事に従事していたときよりも少しゆっくり眠ってから城へ向かう。警戒しつつ住宅街を通り抜けて、城壁を潜り抜けて庭に潜り込む。実の行動を読んでいるかのように、城に到着する頃には和波はすでに庭にいた。
和波と話すのは知らないことを知れてわくわくする。一方で、身分の違いを感じることも多かった。彼女が名字を名乗ったときに突きつけられた現実を認識させられるような苦しさもときよりあった。
例えば、契約を結んだ翌日のこと。
一日眠ったことで相応の《資源》を代償に、怪我はすっかり回復している。実が城に到着するなり、和波はブチブチと雑草を引き抜いて手のひらで包み込む。
「これ、快気祝い」
手を広げて実に差し出されたのは雑草、ではなく黒い物体だった。
「何ですか、これ」
「チョコレート。今、変換して作った食べ物だね」
「食べ物」
食べ物という存在は噂で聞いたことがあった。曰く、口に含むと味蕾なる普段使われない機能が働いて味なるものを感じることができるらしい。そして、普段生まない情報が発生することによって《資源》が大幅に消費される。体内に取り込まれた食べ物を消失させるために身体の至る所が稼働していき、活動停止に追い込まれるらしい。そして、そのような寿命を縮める摂取物のことは毒と呼ばれている。実はぼそりと呟く。
「……毒」
「毒じゃないよ!?」
どうやら毒じゃないらしい。どうしてそんな結論に至ったかを問われたので、以前小耳に挟んだ噂話をそのまま和波に伝えた。
「そう言われると毒かも知れない……」
やはり毒のようだった。実は胡乱な物を見る目をチョコレートに向けるが、それに気づいた和波は慌てて弁明する。
「確かに食べ物を食べると《資源》を消費するのは確かです。だけどいきなり減るわけじゃない。私もときどき食べているけれども、甘かったり苦かったり味を楽しめるんだよ」
実は言っていることの半分もわからなかった。理解できたか問われて「よくわからない」と答える。
結局、和波が生み出したチョコレートは彼女自身の口に消えた。笑顔を浮かべて食べる様を、どうしてうれしそうなのか分からぬまま見ていることしか実にはできなかった。
また、別の日にはこんなこともあった。
「和波の家はどんな方法で《資源》を手に入れてるの?」
最初のうちはぎこちないキャッチボールのようにかみ合わない会話が続いていたが、一週間もするうちに実の遠慮もなくなっていた。雑談の一環として気になっていたことを問いかける。和波の家が膨大な《資源》を手中に収めているのは疑うべくもないが、どのような手段で成り上がったのかが疑問だった。
「君は組合で働いてたんだよね。だったら《閉削》の仕事は分かるね?」
「うん。毎日働いてたからね」
「その道具はここで作られて貸し出されている物なんだ」
「道具って、スコップとかツルハシとかのこと?」
「そうだね。石動の道具は特別製で、本来は掘り出した土や岩を砕いたときの破片は残るものだけど、それらを生み出さずに消してくれるんだ」
「その違いに意味はあるの?」
「エネルギーを無駄なく《資源》に変換できる。昔は無駄になるエネルギーが多かったから効率よく変換できる道具は重宝されて今でも唯一使われているのさ」
「他の人も同じものを作ればいいのに……」
「それができたら苦労しないよ。石動家は代々、《資源》を別の物体に変換する手段を伝承しているから、その応用で特性を加えることもできたんだ」
「変換って、チョコレートを作ったときみたいなことだよね」
つまり、草からチョコレートを生み出したときのように、道具を作るには元となる相応の《資源》が必要となるのではないか。思いついた疑問を投げかけると和波はその通りだと肯定する。
「道具を作る前は火薬による大規模な《閉削》が主流だったみたい。石動家はかつて大量の火薬を蓄えて《資源》を手に入れていたんだよ」
「結局、最初から環境が整っていたってことなんだね」
例え変換する知識を持っていたところで材料となる《資源》がなく、《資源》があったところで知識がなければ実行できない。その上、どちらもが過去から脈々と受け継がれている物なのだ。その事実を理解しているからだろう、和波は事実を伝えた。
「そうだね。運がよかった、と言うのは簡単だけどきっとなるべくしてなったんだよ。とは言っても私は何もしてないんだけどね」
生まれの時点で運命が決まっているのならば、実と乃亜が陥っている現実は必然だったのか。この運命を覆すにはどうしたらいいのだろうか。
毎日和波と話し、対価として増えていく《資源》。《閉削》とは比べものにならないほど、総量は増えていく。
一方で、和波と話して自室に帰る度に見る乃亜に対し、まるで他人に向けるような無関心を抱いてしまっている自分がいた。かつての執着した気持ちは時とともに風化してしまったのか。かわりに心を占めるのは、一緒に居ると心が弾む、和波という少女
自分は一体何をしているのだろう。果たして何がしたいのだろう。実は毎日眠りにつく前に漠然と思い悩む。
毎日、城へ通って和波と話をする。知識はなく、代わり映えのない日々を送っている実が持っている話題などたかが知れている。対価をもらっているにも関わらず話の聞き役になることのほうが多いくらいだ。けれど実にとって人生で一番楽しい日々だった。
その日、目が覚めるといつもどおりに《資源》の量を確認する。寝ているあいだ、疲労の回復のために減った分量を把握しなければならない。和波のおかげで、この数日は人生で一番と言えるほどに《資源》が貯まっていた。しかし、表示された数字は和波と出会う以前ほどに減少していた。
「何か嫌なことでもあったかい?」
「そんなことはないけど」
いつものように話している最中のことだった。心境を和波に言い当てられる。不安が顔に出ていたのだろうか、思わず否定してしまう。
自分の身にいったい何が起こっているのか。相談しようと思ったのに話すタイミングを逃してしまった。実はすぐさま自分の発言を後悔する。
すくっと和波がその場を立ち上がる。いつの間にか決まっていたこの時間の終わりの合図だ。聡明な和波なら嘘をついたことに気づいているだろう、それで今日の会話が打ち切られるのだと思うと苦いものが胸の内に広がった。
しかし、和波は振り返って実と目を合わせ、宣言をする。
「元気のない君のために、今日はいい物を見せてあげよう」
「いいものって?」
「お城の中。今日は父様が出かけているから誰もいないんだ」
「えっ、入らなくていいよ。そんな……」
三週間の世間話で城にまつわる話はいくらか出たが、中がどうなっているかは一度も聞いたことがなかった。実にとって和波は、別世界の住民であるように思え、城の中に広がっているものは別世界なのだと納得させていたからだろう。だから自分が城の中に入る可能性などみじんも考えたことがなかったし、様子を知ろうとも思わなかった。だから突然の提案に遠慮してしまうのは当然のことだった。
しかし、和波は実の逡巡を無視し、「ほら行こう」と歩き出す。実は気後れしつつも後をついて行った。
城の正面には大きな門があるが、実際に中に入ったのは裏口からだった。いつも和波が出入りに使っているものらしい。扉の大きさも普通の家より少し大きい程度の常識的なサイズだった。
「正門は一人じゃ開けられないからね。今はお城に誰もいないことだし」
というのが和波の弁。彼女の言葉に脈動が早くなる錯覚を覚える。
廊下を通ってエントランスに出た。壁や天井は真っ白く、外壁同様、いやそれ以上の輝きで光っているように見えた。壁に掛けられたタペストリーや絵、床に敷かれた絨毯がなければ境界線の区別がつかずに壁に頭をぶつけていることだろう。とにかく影がないのである。
「生活しにくそうだなあ、なんて思ってるでしょ」
「まあ、チカチカして目に悪そうとは思ったけど……」
「そうだね。夜も変わらず光ってるからまぶしくて仕方ないよ。でも上の階は多少マシになるから」
そして扉を開けた先に広がったのは天井が見えなくなるほど長く続くらせん階段だった。登り始めると、段差はわずかな影でしか視認できないため、足を踏み外すのではないかと不安になる。
「いつもこんなところを上り下りしてるの?」
「そうだね。とはいうけど上の階なんてめったに行かないからせいぜい五階までだけど」
「それでも躓きそうで怖いと思うけどなあ……」
「昔はエレベーターもあったみたいだけどね」
「エレベーター?」
知らない単語を聞き返すも、和波からの答えはなかった。そうして慣れているからだろうスタスタと登っていく和波において行かれないように、けれど足は踏み外さないようにと、できるだけ早く階段を上った。
三階は確かに一階ほど明るくはなかった。組合寮の土埃で汚れた壁ほどではないが、生活するのに不便はないだろう影がある。
「私の部屋は四階にあるけど、ここで過ごすことが多いんだよね」
「それがいいものと関係があるの?」
「そういうこと」
廊下を通って角の一室の扉を開ける。
これまでの静謐な印象とはうってかわり、生活感にあふれた部屋がそこにはあった。あるいは物で散らかっていると言い換えるべきだろうか。不要物はすぐに《資源》へ変換してしまう自分の生活圏では滅多に見られない光景だった。
「あはは。ちょっと汚いけどね」
「このあちこちで散らかっているのは何?」
実の質問に対して、実際に床に落ちている物を一つ拾って見えるように広げた。
「これはね、本だよ。たくさんの情報が書かれてるんだ」
「書かれている?」
和波の言っていることを実は理解できない。それは文字を読めないからではなく、そもそも書く行為そのものを知らないからだ。そのことを理解した和波は説明を続ける。
「昔の人の知識をこの紙で伝えることができる。前に石動家では《資源》を別の物体に変換する手段が伝わってるって話をしたよね。そういったものを残す役目を持ってるんだ」
説明を聞いても腑に落ちない。ただなんとなく大事な物なのだろうという感覚は伝わった。話を聞かなければ、単に《資源》が豊富だから残しているのだろうと思っていただろう。
「これを見せられても読めないだろうし何にもおもしろくないよね。大丈夫、同じように昔の人が残した記録で君でも楽しめる物があるんだ。ちょっと取ってくるから、この部屋を自由に見てていいよ」
「自由に、って言われても……」
実の声は届かずに和波は部屋を出て行く。扉の閉まる音が聞こえて一人取り残された。実を取り囲むのは読めないたくさんの本なる物体。
戻ってくるまでどれくらいの時間があるだろうか。無為な時間を過ごすのは慣れている。待つのは待つので退屈しないがこのまま何もしなかったら和波は余計な引け目を感じてしまうかもしれない。そんなことを思っていたからだろう。部屋の奥にある扉が、妙に気にかかった。
和波が戻ってくるのをしばらく待つが、扉が開く気配はない。好奇心を殺すのにも限界があり、自由に見ていいと言われたから覗くくらいいいじゃないかと心の内に勝手に理屈をつけて恐る恐る扉を開けた。
中はこれまで見てきた部屋とは違って暗い。だが奥には光があって、扉を閉じても周囲を見通すことはできるようだ。光源に向かってみると、ディスプレイが六つ設置されていて何かを映している。その手前には椅子があり、誰かが座っている。
和波は誰もいないと言っていた。部屋に入るにはまずいことだったのではないだろうか、と不安を覚える。けれど、その人が振り返ることはなく、恐る恐る近づいていく。
椅子に腰掛けているのは男だった。顔に見覚えがある。以前、組合長と話していた男だ。それが椅子に身体の全てを預けるように脱力して座っている。こういう姿は何度も見たことがある。実は半ば確信を持って男の顔に触れた。生命を拒絶するような冷たさ。間違いない、活動が止まっている。
いったいここで何があったのだろうか。男が見た物を確かめるため、未だに光を放っているディスプレイに視線を向ける。これは何だろうという好奇心からにすぎなかったのだが、そこには見慣れた光景が映し出されている。組合、寮、住宅街、城の庭、エントランス、そして実の部屋。それらがリアルタイムで確認できる。
映像の意味はわからなかったが、自分が見てはいけない物を見てしまったという感覚があった。すぐに部屋を出ようとするが、焦りのあまり椅子に身体をぶつけて男の身体が投げ出されてしまう。けれど実は一度振り返っただけで元に戻そうともすることはなかった。
部屋を出て、しばらく心臓を落ち着ける時間が必要だった。興奮した頭が落ち着いたところで扉を開く音がする。和波が戻ってきたのだ。
「ごめんね、戻ってくるのに時間がかかって」
「あちこち見てるだけであっという間だったよ」
平然と嘘をつく。「それはよかった」と返事が返ってきたので気づかれていないようだと心のなかで胸をなで下ろす。
「でもごめん。探してた物が見つからなかったみたい」
「じゃあ、今日は帰ることにするよ」
罪悪感からか早く家に帰りたかった。和波に連れられて通ってきた道を戻る。城を出ると別れの瞬間が訪れる。
いつものように和波が《資源》を与えてくれる。手と手が触れて、自分の指が硬直するかのように動かない。
「どうしたの。いつものことなのに緊張してる?」
異変に気づいて和波は不安を和らげるように笑う。どうしようもなく胸が高まって、その瞬間に実は理解した。自分は今、恋をしているのだ。顔が暑くなるのを感じたが、一瞬のこと。恋は《資源》を食い潰す致死の病のようなものだと噂されている。それがこんなに甘美な感覚だなんてずるい、と思った。
「それじゃあ、また明日」
「うん」
手が離れると和波はいつもの言葉を言う。きっとその明日は来ないだろう、そう思いつつも実は答えた。
このまま《資源》を食い潰して活動が停止するのを待つくらいなら、先ほどもらった分を乃亜に譲ってしまおう。自分に未来はないにしても、和波の元に連れて行けば決して無下にはされないだろう。乃亜が生きていれば希望を持って終わることができる。
だが、部屋に戻ろうとしたところで異変に気づいた。部屋の前に男が二人立っているのだ。彼らも部屋の主が帰ってきたことに気づいたようで、実を呼びよせる。
「君、この部屋の人だよね。点検に来たんだけど開けてもらえるかな」
実はすぐさま己の失敗を悟った。部屋の中には乃亜が今も目覚めることなく眠っている。部屋を見せればどうなるかはわかる。乃亜は不要物として廃棄されることだろう。だからといってここで拒否することはできない。例え抵抗したとしても相手は大人二人、制圧されるのは目に見えているし、事前告知なしに来訪してくる以上、鍵を持ってきてもいるだろう。
「わ、わかりました……」
結局、できることは部屋に招き入れることしかない。実は緊張で早まる呼吸を整えつつ、扉を開けて部屋に入る。部屋のなかにあるのは布団だけ。大人たちにもすぐに乃亜が見えたことだろう。
「おい、これって……」
「違います! 今日は調子悪くていつもよりちょっと長く寝ているだけです。ほら、乃亜起きて」
実は二人に介入されるよりも先に、乃亜の手を取ってありったけの《資源》を渡した。
懸念があるとすれば活動停止した人体に《資源》を注いだとき、再度目覚めることができるのだろうかということだった。実が乃亜を蘇らせようと決意した始めのころ、情報がないかを聞いてみたことはあったが、答えは誰からも帰っては来なかった。
男たちは乃亜を見てひそひそと何かを話している。
「あれは、石動家から消えていたモノじゃないか?」
「確かに顔は似ているが……」
譲渡に集中している実にその声は届かない。乃亜、目を覚ましてくれ。乃亜! 一心に祈り続けていたからだ。
その祈りが通じたからか。やがて乃亜がゆっくりと目を覚ます。
「よかった……。乃亜、俺のことが分かるか?」
実は乃亜の小さな手を握りしめる。感極まって涙を浮かべていた。けれど返ってきた言葉は予想外の物だった。
「――誰ですか。あなた」
拒絶するように手を振り払い、訝しい物を見る目を実に向ける。
「忘れたのか? お前のお兄ちゃんの実だよ」
「わ、私に兄なんていません。それにそんな名前でもない!」
これが活動停止から戻ったときの代償なのだろうか。実に対して嫌悪の感情を隠そうともせずに言いのけて、乃亜は実の背後に立つ男二人の存在に気づいた。
「助けてっ、助けて下さい! この人おかしいですよ。なんなんですか、気味が悪い!」
「わ、わかった。じゃあ俺たちと一緒に行こうか。君を知ってる人のところに連れて行くよ」
「待てっ! 乃亜を連れていくな!」
状況に困惑しつつも男一人が乃亜を連れて部屋を出て行く。急いで追いかけようとするが、残ったもう一人が実を床に押し倒して拘束する。
「お前っ、大人しくしていろ!」
「嫌だ! 人の家族を連れて行かないでくれ!」
「家族? 何をふざけたことを言ってるんだ」
「どういう意味だ」
「いいから黙ってろ!」
後頭部に衝撃。意識が遠のくなかで男の声が聞こえてきた。
「まったく、手間取らせやがって」
意識が浮かび上がる。床に倒れていたことを不思議がるのは一瞬、すぐに自分の身に起きたことを思い出して実は立ち上がる。
「乃亜っ!」
気絶していたのはどれくらいの時間だろうか。不安になりながらも乃亜を追いかけるために急いで組合寮を出る。遠くに人影が見えたので、走って近づいていく。よかった、気を失っていたのはわずかな時間だったのだろう。
「乃亜ーー! 帰ってきてくれーっ!」
大声で叫ぶ。聞こえてないわけはないのに乃亜は振り返ることすらない。かえって一行の歩幅が早くなっている始末だ。なぜ、実の兄を避けているのだろう。実には理解できない。
このままどこかに連れて行かれてしまうわけにはいかない。大人二人に敵わなくとも一か八か強引に連れ去るしかない。
覚悟を決めて走り出そうとした瞬間、目の前に閃光が走った。
目が眩むほどの光に反射的に目をつぶって、これまでに聞いたことがないほど大きく鼓膜を揺さぶる破裂音が聞こえた。大きな熱風が身体を吹きさらし、ビリビリと皮膚が震える。いったい何が起きているのだ。先ほどから立て続けに起こる理解不能な出来事に実はただならぬ恐怖心が芽生えている。
異変はすぐに落ち着いたようだった。しかし、焼け付いた光が落ち着き、目が見えるようになるまでにはさらなる時間を要した。
そうして網膜から入ってきた光景に実は言葉を失った。目の前にはいたはずの三人の姿が消えており、立っていたはずの場所が黒く焼け焦げている。
周囲を見渡すと、背後にそびえ立つ組合寮が瓦礫に姿を変えており、廃墟と化した残骸が燃え上がっている。三人の姿はどこにもない。
「なんだよ……。なんなんだよ、これ……」
呆然としてふらふらと足がよろける。その一歩がグチョ、と何か質感のあるモノを踏みつけた。一度も感じたことのない嫌な感触、脳裏にこびりついて忘れることのできない感触。恐る恐る足をずらしてそこにあるモノを確かめようとする。焼け焦げた小さな肉片が潰れて地面を汚していた――。
それからの記憶はぼんやりとしか残っていない。小さな、小さなそれの正体を心のどこかで理解していたのかもしれない。叫んでその場から逃げ出して、正気を取り戻したときには住宅街を走っていた。
「なにが起きてるんだよ……」
だが様相の異常さは変わらない。先ほどまで立派に立ち並んでいた家々は軒並み倒壊している。損害はまちまちで屋根や壁が瓦礫となって中を露出させている家もあれば、飛び火したのだろう、燃え上がっているだけの家もある。そして、それは人にも言えた。
動かない人、怪我をしている人、外に対比している人々の集まりを横目に実は走り続ける。
「助けて……。助けてくれぇ!」
全身燃え上がっている人が焼けつく喉から助けを求めている。誰もが目を逸らし、実も同じく手を差し出すことはない。
空を見上げた先、日が落ちて暗くなっていく空を切り裂くように眩しく輝いていたあの城が崩れ落ちているのだ。
城についたとき、城壁は崩れ落ちてもはや役目をはたしていなかった。遠くから見えたときに半ば予想していた惨事が目の前に広がっている。あの堅牢な建物がいったいどのような衝撃を受けたのだろう。姿形もなくなるほどに残骸と化している。真っ白な光を照らしていたそれらは、瓦礫と化してもなお真っ赤に燃える街の色を白く染めるために輝いている。
そして残骸から一歩距離を置いた場所に、景色を眺める一人の人がいた。
「和波……?」
「おや、君も無事だったんだね」
和波は昼間別れたときと同じ笑みを浮かべて実を迎える。状況にそぐわない笑顔に不気味さを感じつつも、答えを期待して問いかけた。
「ねえ、いったいこれは何が起こったの……」
「…………」
「妹を、乃亜を起こしたんだけど、俺のことを知らないって言って、急にいなくなったんだ。街もあんな有様になっているし、……何が起こったの」
「乃亜ちゃんが君を兄だと認めない理由は、君が一番知っているんじゃないかい?」
「知ってるわけがない……。あいつは俺の妹なんだ」
「まだ思い出してないんだね。それとも必死で忘れたふりをしているのかな。君には乃亜なんて妹はいないんだよ」
「嘘だ! 俺の部屋には乃亜がいたんだよ。だったらあれは誰だっていうんだ……」
「あれはね。君がこの城から盗んだモノだよ」
「は……?」
「この城が道具を貸し出すことで得た利益で成り立っているのは覚えてるよね。変換には《資源》を持った物質が必要なんだ。その最たる物が人体。我が家はね、活動停止した人体を集めてこの城に保管してるんだよ」
人体の回収といわれて心当たりがあった。先ほど自分が遭遇した点検もその一つだろう。
「そして君は城へ忍び込んで人体の一つを連れ去っていった」
「そんなことできるわけがない……」
「できるさ。私が侵入経路を塞がないでいたら君は半年も経たずにまた入ってきたじゃないか」
何度も通った陥没した地面は、崩れ落ちた城壁に埋もれて見れない。
「だいたい、君はこれまで行われた点検をかいくぐった手段を覚えているのかい?」
「…………。だとしても、そんなことをする必要なんてないじゃないか」
「君じゃないからわからないけど、おおかた何もない人生に嫌気がさしていたんじゃないのかい? 私はあれを盗まれてから君を見てきたけど、生きるための言い訳ができて元気そうに見えたよ」
「だったら何でこんなことをしたの。罰だと言うのなら最初に会ったときに捕まえればよかったじゃないか!」
「元からいつかやろうとは夢見ていたんだ。終わりの見えている一生をどうして生きなくてはいけない……。父様は、この世界を少しでも長引かせようとしていた。そのためにゆくゆくは城だって小さくするつもりだったらしい。私はね、それがもったいないと思ったんだ」
「もったいない……?」
「家は昔、たくさんの爆薬があってね。私が子どものときには使われなくなっていたけれど記録映像がたくさん残っていた。飛び散る瓦礫が美しくて、それが光り輝く城だったらどれだけいいか……。けどね、それを一人で見たところを想像してもちっともおもしろくないんだよ」
そんな理由で俺を見ていたのか。これまで見てきた石動和波という人物が、理解のできない何か別の物体に見えて仕方がなかった。
「だから君が現れてからは楽しかったなあ。もう少し時間があってもよかったけど、君がいなくなったらまた誰かが来るのを待たなくちゃいけないからね。君はこの光景をどう思う?」
「俺は、こんなの見せられても嬉しくないよ……」
「そっかあ。これでも結構手間がかかってるんだよ。道具や人体を爆弾に変えて持ち出したり出荷したり……」
言葉を句切って和波は歩き出した。行く当てのない実も後を追う。しばらく周囲を見回したと思うと、小さな瓦礫を手に取って手のひらで覆った。
「でもね。正直なところ君の感想はどうでもいいんだ。私はただ、私一人のために世界を終わらせるのが嫌なだけなんだ。そういう意味では君は犠牲者で、あるいは罰なのかもしれないね」
和波が手を広げるとそこにあったのはビスケット。それを実の手に持たせると添えた手でそのまま握りこまされる。砕ける感触が皮膚から伝わってきた。
「だから、ここからは選択権をあげるよ。君はこのどうしようもなく終わってしまった世界でどうする。どうしたい?」
手を広げると、バラバラになったビスケットが姿を顕した。それは周囲に転がっている瓦礫のようで、実の願いを曝し出す。
口内に広がる感覚を言い表せない。
甘美な感覚を受け入れつつ、実は最期にそれを惜しく思った。
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