梗 概
無名(関数)祭祀書
19世紀。ドイツのオカルティスト、フォン・ユンツトは、1939年に世界各地の邪神の痕跡を書き記した『無名祭祀書』を出版した。同書が、同時代の数学者チャールズ・バベッジによる解析機関の設計に与えた影響は記録が無く不明とされている。またその設計書が盗難された噂の真相も不明である。
20世紀。米国の作家ロバート.E.ハワードは1931年に自作にその書を登場させる。同時期に数学者アロンゾ・チャーチがラムダ計算を創案。関数型言語と無名関数の概念の基礎である。文通魔のハワードとチャーチの間の交流は明らかではなく、無名関数と無名祭祀書の関係は記録が残っていない。
21世紀。欧州のクロムブルク公国でデジタル関連の学会が開催される。大勢の訪問者で賑わう街に、スタートアップの創業者である一方で魔術にも耽溺する日本人が参加していた。男の祖先は偶々19、20世紀にも訪れている。縁のある国だ。彼は書物をAIに読ませ、記述されている物体の3次元造型をプリンタから出力するシステムを研究中である。ただ文章から形状を計算するだけではなく、例えば動物が書かれていれば、動く存在として出力できる装置。学会併設の展示会で、臓器移植のためのデジタル生体プリンタを展示する企業があり、応用できそうだと興味を持つ。
展示会場を抜けて、中世の街並みを残す旧市街で路地に迷い込んだ男は、古書店で奇妙なものを発見する。粘土アニメのような模型の本が動き、別の本を食べては新たな本を吐き出す。吐き出された本は吐き出した側を食べ、食べては吐き出すを繰り返す。表紙には『無名祭祀書』。店主から、それはおもちゃで本物が別にあると誘われる。裏通りを抜けて辿り着いたのは、元首である公爵の居城の裏手門であった。城内の地下には研究室があり、巨大な蒸気計算機が鎮座している。Functional Engine, 関数機関。公国はかつてバベッジから設計書を盗み、独自に開発を続けていた。盗難には彼の祖先が関わっていた。
公爵が彼を出迎え、研究内容を語る。『無名祭祀書』に神々を復活させる関数のアルゴリズムが不完全ながら記述されている。関数は何でも引数にとれる。そこで関数機関に書をまるごとロードするとともに、自らを引数として、更新された書物を出力として、神が復活する呪文を生み出すまで再帰計算を繰り返そうとしているのだ。
それならば、出力を3Dプリンタにして、神そのものを出力すればいいではないかと男は応じ、自分の発明を応用する。帰国することなく開発に没頭し、展示で見たプリンタも応用して、神を出力するシステムを完成させる。男と公爵は古き神々の復活を期待する。
だが出力されたのは、書物自体であった。書は再帰処理のループにより、宇宙の森羅万象すべてを記述し変転し続ける存在となった。書と世界の関係は裏返り、男も世界も飲み込まれる。書は宇宙そのものであり、すなわち神であった。
文字数:1200
内容に関するアピール
選択課題:第2期・第7 回「神が存在する世界でのリアルな話を書きなさい」
神の存在は有史以来多くの文書で語られており、無名祭祀書もその一冊です。しかしながら神は死んだとの噂もあり、復活させないと話が進みません。21世紀人の私たちには、その手段としてコンピュータサイエンスがあります。技術革新による神の復活を確信しています。
題名は関数型プログラミングにおける無名関数と、クトゥルー神話の無名祭祀書との掛け合わせです。より正確には、ラムダ式が、引数に関数を取り、戻り値に無名祭祀書を返すさまを表すコードと捉えていただきたい。ここで関数自体も引数となる関数も共に無名祭祀書であり、つまりは再帰的な振る舞いが予測されます。
おそらく無名関数も無名祭祀書も知る人は少なく、両方を知る者はさらに希少であると推測されますので、実作では何も知らない読者でも楽しめる作品を目指したいと思います。いあ!いあ!
文字数:400
無名(関数)祭祀書
(lambda (function) (print3d function) NamelessCults)
=> What will happen? If you want to know the result, press the ’Y’ key.
=> Go.
成田を夜遅くに発ったフィンエアーは、夜の半球の高度10,000メートルをヘルシンキへ向けて飛行していた。
ビジネスクラスのフルフラットシートを倒して寛ぎながら、葛城嘉人は目的地に着いてからのことを考えていた。ヘルシンキで乗り継ぎ、クロムブルクで開催されるユーロ・デジタル・ウィークに参加するための出張である。関連するいくつもの学会と展示会による複合イベントだ。
葛城はスタートアップ企業マティグレの創業者で、AIによるテキスト解析と三次元造形の専門家だった。要するに、テキストに記述されている「モノ」を解析して三次元データに変換し、立体模型を出力するスペシャリストだ。静止した物体として造形するだけではなく、動く存在であれば、動作機構を立体化し、じっさいに動作するところまでの実現を目指している。
彼は、そのテーマについて学会のセッションで登壇し、展示ブースの会社をいくつか訪問する予定でいた。展示ブースではヨーロッパを中心に、中東、イスラエル、アフリカ諸国、もちろん南北アメリカ大陸や中国からも新興企業が集い、また学会には世界中の国々の研究者が集う。それは一週間にわたる祭典なのだった。
とは言え、葛城は自ら参加を考えていたわけでは無い。三ヶ月前に招待状が届いたのだ。それもeメールではなく、格調高い封筒のエアメールで。
読み直したくなって、カバンから封筒を取り出した。厚手のクリーム色の高級紙はざらついた質感があり、丘の上に建つクロムブルク城の切手が貼られている。アルファベットで、都内のオフィスの住所とYoshito Katsuragiの名が手書きされている。差出人はクロムブルク大学のChristina Mihalova――クリスティナ・ミハロヴァとある。国旗と流麗なフォントの大学のロゴ。便箋を取り出すと、かすかに香水の香りが漂った。
「女の人ですか……?」
左のシートでブランケットにくるまって眠っていた青年が薄く目を開け、体をひねって葛城のほうを向き、囁くような小声で尋ねてた。匂いに敏感だ。秘書の名目で連れてきた、部下の三澤融である。
「学会に招待してくれた女性だよ。クロムブルク大学の」
「見せて」
ブランケットから右手が伸びてきて、便箋を奪われる。取り返そうとするが、背中を向けライトを点けた。読まれたくない内容も書かれているのだが、仕方がない。どのみち、会社も日本も、はるか後方だ。素早く読み終えると、三澤は向きなおって葛城に訊いた。
「学会だけが目的では無かったんですね。むしろプライベートな理由のほうが重要?」
「ああ、私的な研究というやつだ。だが、ビジネスにも繋がっていると思わないか」
ところで、あなたが熱心な研究者であり、優れた蒐集家であることは、私たちも存じています。そしてまた、あなたの一族が代々そうであったことも。しかしREHとACの交流の証である書簡については、私どもの図書館にも一部が保管されおります。お互いの情報を共有することで、真理に近づく可能性が高まることは間違いないと私たちは確信しています。
また、例の書――仮に〈ラムダの書〉と、ここでは呼びましょう。あなたがACとその業績を知っているのであれば、この隠語が指すものについて見当はつけられるかと存じます――その〈λ〉についても充実したディスカッションができるとお約束いたします。
Sincerely yours,
Christina Mihalova
「こんな隠語だらけの、ビジネスだったら危険ですよ。REHって誰です? それから〈ラムダの書〉って?」
「REHは、百年近く昔の作家だ。フルネームは、ロバート・アーウィン・ハワード。ACは同時代の数学者で論理学者のアロンゾ・チャーチ。ほら、ビジネスに近づいてきただろう?」
「では、〈λ〉は? なにかオカルトのような……」
葛城は三澤の口元に人差し指を立てて、そこから先の言葉を継がせなかった。
「迂闊にあれについて、いや、あれらについて言葉にするのは危険だ。どこにいても、あれらに聴かれている可能性はあるものだ」
「盗聴ですか? 誰が? こんな飛行機の中で?」
「どんなに空高くであっても、どんなに深い海の底であってもだ! 代わりに、関数型言語の復習でもしていてくれ」
三澤は好奇心旺盛な青年だが、無駄に議論を好むことのない従順な性質を持つ青年でもあった。それに機内は深夜だ。「そのラムダですか」とだけ応じ、言われたプログラミングの本を開くこともなく消灯して目を閉じた。
いっぽう、葛城は眠気が飛んでしまった。私的な目的については、三澤には教えずに出張を終わらせるつもりだったのだが、数時間で破綻してしまった。REHとAC、大型のタブレットを取り出して、英文のファイルを開く。何度も読み直したテキストだ。
それは、ロバート.E.ハワードがアロンゾ・チャーチへ宛てた手紙の文面を、テキストデータにしたものであった。ハワードは怪奇、幻想小説の大作家として後世に名を残しているが、手紙魔としてもよく知られている。パルプ雑誌ウィアード・テールズに寄稿している同時代の作家、H.P.ラブクラフトらとの書簡は、好事家の間ではよく知られている。しかし、葛城が開いたファイルは、一般には知られていない手紙であった。
拝啓、アロンゾ・チャーチ教授
突然のお手紙を失礼致します。私はテキサスに住むロバート.E.ハワードと言う者で作家を営んでおります。ウィアード・テールズというパルプ雑誌などに寄稿し、主に幻想小説を書いております。
数学教授である先生に、何の手紙なのかと、さぞ、以外に思われたことと思います。私はある詩人の足跡を追っております。ジャスティン・ジェフリーという名の『碑の一族』なる詩集を十年程前に出版している詩人です。私は彼の詩集を読み、大変感銘を受けたのですが、その後の足跡を追うことが叶いません。出版社の知人のつてを頼り、この詩集を出版されて以降の活動を調べてもらったのですが、ニューヨークをはじめ、東海岸の出版社の誰も彼のその後を知らないようです。また、詩集を出版した会社もその後すぐに倒産している様子で、私がテキサスの片田舎に住みながら、彼の詩集を入手できたことは全くの僥倖と言えるようです。唯一の手がかりとして、先生と同じくプリンストン大学出身の編集者からいただいたのが、当時の――1923年の――学生新聞の写しでした。そこには、先生がジャスティン・ジェフリーについて語っているインタビューが載っておりました。アロンゾ「ジャスティンは魔術書なんかよく読んでるよ。それで、書かれていることに刺激を受けて、ふらっと出かけていってしまうんだから大したものだと思うけどさ。『無名祭祀書』だったかな、ハンガリーにもそれで突然出かけて行って、いなくなったと思ったら、いつの間にか帰ってきて詩集出してた。また、どこか旅に出そうだけどね」
記者「あなたも、魔術を信じている?」
アロンゾ「ぼくは数学と論理学を学んでいる学生だよ。信じてますなんて言うと思う? でも、そうだな。関数っていうのは、ある値を入れたら、常に同じ計算結果が返ってくるものなんだけど――呪文や召喚術っていうのも、同じ手続きを踏めば同じ怪異が起きる、同じ魔物か何かが現れる、そういうものだろう? 僕の専門と、同じものかもしれないね」
記者「やっぱり、信じているんだ」
アロンゾ「ははっ、ぼくもジャスティンに感化されたかな。彼とひと晩一緒にいると、刺激的だよ」先生が学生時代の記事ですが、ジャスティン・ジェフリーと交友があったご様子、また当時の学生たちの間で彼の詩集が話題になっていた様子が伺えます。先生は、この後の彼の行方について何かご存知ではないでしょうか? また旅に出かけるかもしれないと示唆されておりましたが、その行き先については心当たりはありますでしょうか?
あと二つ、質問させていただきたいことがございます。こちらは先生ご自身についての質問なのですが、先生は『無名祭祀書』を読まれたのでしょうか? そして、このインタビューの後半で魔術について語られておりますが、こちらは単なるジョークとして話されていたのでしょうか。それとも、何がしかの真理を含んだものとして発言されていたのでしょうか?
ご返信、いただけましたら幸いです。先生の研究活動のご発展を願っております。
ロバート.E.ハワード
1929年2月15日
いつの間にか、眠っていたようだ。ブランケットが掛けられ、自席のランプも消されていた。葛城は闇の中で目を開いた。腕時計を見ると、到着までまだ三時間あった。座席のモニタで航路を確認すると、グリーンランドを越えたあたりのようだ。それでは、北極海で、かの沈んだ大陸に封印されている怪異に襲われることはなかったのだ。
上空10,000メートルを飛行するジェット機である。大陸が実在のものだとしても、本気で怖れるには値しない。験担ぎ程度の意識ではあった。それすら神経質にすぎるだろう。しかし、航空会社を選択するときに、葛城は「安全な航路」であることを重視していた。中央アジア-黒海ルートの航路を通る航空会社を使わない理由として、到着までの時間やマイレージなどを周囲への説明にしていた。実際にはクロムブルクへの乗り継ぎ便の時刻を見れば、どこのエアラインを選んでも時間は大差ないものであったし、マイレージについては単に嘘だった。そのルートを避けた最大の理由は、黒海から西欧諸国への途上でハンガリー上空を通過することにあった。そこには「黒の碑」の村が存在する。
ハワードの手紙に言及されている、ニューヨークの詩人ジャスティン・ジェフリーが1919年に訪れたと思われる村、そしてフォン・ユンツトが『無名祭祀書』に記した村だ。
早朝のヴァンダー国際空港のラウンジで熱いコーヒーを飲んで目を覚まし、たっぷりと朝食をとり、三時間後に乗り継ぎ便に搭乗した。正午前にはクロムブルク空港に到着して、タクシーで市の中心部へ向かった。都市国家と言ってよい小国だから、空港から市中までの移動は短かい。ホテルは、会場のある新市街の再開発地区ではなく、旧市街の中心部に予約していた。会場に隣接するホテルの方が翌朝の移動が楽なことは承知しているが、有明や幕張のように遠いわけでもない。それに、ガラスと金属とコンクリートだけのホテルよりも、中世からの街並みを残す旧市街の古い建物を改装したホテルのほうが、葛城の好みだった。
石畳の道路に面したホテルの扉は重々しい木製で、ロビーは薄暗い照明の下にアンティークのソファやデスクが置かれていた。フロントでアーリーチェクインを済ます。パスポートを確認しながら端末に向かって手続きするホテルマンが、メッセージをお預かりしていますと言って、一通の封筒を手渡してくれた。
招待状のエアメールと同じ筆跡。クリスティナ・ミハロヴァからだ。
学会への参加は伝えているが、宿泊先などは教えていない。疑問を呟くと、三澤が封筒を見て言った。
「ホラーにありそうですね。魔術師に見張られてるみたいだ」
たしかに、十九世紀までは魔術師や占い師、錬金術師が城下に集っていたと言われる街だ。しかしこれは魔術ではなく、デジタル・ウィークを開催する情報都市国家が併せもつ監視国家の一面なのだろうと、葛城は理解した。
荷物を預けて旧市街の中心の広場で、テラス席に落ち着いた。葛城も三澤も、まだ空腹は覚えない。観光客も多く賑わう広場は、教会や旧市庁舎などの歴史的な建物に囲まれている。ひとつ、建物がなく広めの道が伸びている方角があり、道はそのまま川岸まで続いていて、対岸のクロムブルク城が見えていた。
「明日は朝一番のセッションから参加だから、休みなしだな。この辺を観て回るのも、今日のうちだけだ」
「さっきの手紙には何が」
「無難なことしか。明日の午後のセッションの後で会いたいと。あとは観光マップだ」
封筒から取り出して広げると、旧市街のこちら側と、対岸の城の周辺の地図が描かれ、見所がピックアップされている。
「だいぶ、マニアックな案内じゃないですか?」
教会、博物館、美術館にこの広場などは定番なのだろうが、地下墓地、拷問場所が再現されている館、怪しげな店が並ぶパサージュなどばかり強調されている。そういう趣味の観光客向けのマップなのだろう。つまり、自分も同類と見做されているというわけだと、葛城は受け止める。パサージュは〈まじない小路〉と名付けられていて、店舗の名前と分類も記されている。土産物、衣類(黒ずくめのドレスのイラスト)、アクセサリー(髑髏の指輪)、タトゥー、タロットカード専門店、魔術・錬金術用具など。その中に古書店があるのを二人は見逃さなかった。顔を上げ、お互いが見つけたものが同じであることを確認すると、二人は炭酸水を飲み干して席を立った。
旧市街地は細い道がくねっていて、昼間でも道に迷いそうだ。空は晴れて澄んでいるが、石造りの建物が、五階から八階立てくらいの高さで左右から伸びて壁になっているので、歩道はほとんど日影である。
徒歩で行ける距離だと確認して、葛城と三澤は地図を頼りに〈まじない小路〉を目指し、ほどなくしてたどり着いた。ガラス屋根の下に並ぶ店は、どこも暗く、静かだが、しかし営業中であることを示す生命力が感じられる。ショーウィンドウに飾られる商品に惹かれながら歩き、店舗を順番に数えて古書店の前にやってきた。ドイツ語とチェコ語で併記されているらしい店名を、二人は読むことができなかったが、古そうな本が窓の内側に並べられている店は間違いなく探していた店だ。
薄暗い店内は何列もの書棚が天井まで伸び、その全てが埋まっていた。また所々に平置きの本がうず高く積み上げられ頭の高さまで伸びている。店の人間も奥のほうにいるのだろうが本棚に遮られて見えず、ほかに客の姿はなく、二人の足音と、本に触れた指と紙の擦れる音が響くほどだ。背表紙のタイトルからはほとんどの書籍がドイツ語のもののようだが、中には、チェコ語、英語、フランス語、スペイン語の置かれていて、あるいは、ラテン語、ギリシャ文字、ルーン文字の古書が並ぶ棚も見られた。葛城は読める文字をそのまま繋げて、無意識につぶやいていた。
「アトランティス、ヒュペルボリア――」
「太古の神話ですか」
三澤が遠慮なく手を伸ばして大判の書籍を一冊引き抜く。硬い表紙をめくると、見慣れぬ地形の地図が描かれていた。今朝まで、この大陸が海底に眠っている氷の海の、上空10,000メートルを飛んでいたのだ。葛城は三澤の手から本を奪って、感慨深げに地図を眺めた。とくに興味のない三澤は、他の本棚へと歩を進める。数歩歩いて、葛城に声を掛けた。
「日本語の本もありますよ。僕にも読めそうだ」
それはコンパクトなペーパーバック――文庫本だった。葛城も近寄って棚を見る。背表紙には『黒の碑』『征服王――』といった文字が並んでいた。作者は「ロバート.E.ハワード」だ。不穏な印象を与えるそれらの本は、葛城自身もかつて読んだことがあるものだった。とっくの昔に紛失してしまったそれらの内容を、今でも忘れることはできない。手に取ると、薄い紙から古びた匂いがして、そこに書かれている情景が鮮やかに脳裏に浮かぶ。
日本語の背表紙はその二冊のみであったが、書名や著者名を見れば、見慣れた名前や探し求めていた名前が、いくつも並んでいた。『Queen of K’n-Yan』、『St. James Hospital』、『Kthulhu Reich』――ナチスと邪神の関わりを記した書だ。『Book of Eibon』――エイボンの書。安っぽい紙質のそれは、無論、後世の人間がまとめた「安全な」抄訳か、研究書といったところだろう。
そして『エイボンの書』の隣には、ひときわ不吉な気配を帯びた黒い書籍があった。
『Unaussprechlichen Kulten』Friedrich Wilhelm von Junzt
『無名祭祀書』フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ユンツト
葛城が、探し求めていた本である。もしや、初版本ではないかと、震えながら手を伸ばす。黒革に鉄の留め金の装丁が禍々しい。中を開く。
黄ばんだ紙の上には何も書かれていない。ページをめくってみても同じだ。すべて白紙だった。葛城と三澤が目を見合わせてお互いの恐怖心を共有していると、背後から低い男の声がした。
「それは見本だよ。本物を晒しておくのは危険すぎるからな。本物を読みたいかね」
背の高い、老いた男が立っていた。皺の刻まれた顔の中央に鷲鼻、濁った眼球、くしゃくしゃの髪は白い。店の店主らしき男は、答えを待たずに話を続ける。
「読みたいであろう、それは分かっておる。しかし実物を今見てしまったら、明日の仕事が覚束ないであろう。この世界に戻ってこれるかすら不確かだ。だから、今日のところはミニチュアで我慢しておくのがよい」
「〈λ〉のミニチュア?」
葛城が訊く。店主は答えずに背を向け、ついて来いとばかりに店の奥に戻っていく。会計の机の上に、小さい二冊の本が置かれていた。文庫本の半分ほどのサイズだ。一冊は黒く、一冊は赤い。黒いほうは『無名祭祀書』だ。赤い本の表紙の、書名が読める。
『The Calculi of Lambda Conversion』Alonzo Church
アロンゾ・チャーチの『ラムダ変換の計算』だ。三澤が無遠慮に手を伸ばして、二冊の本に触れる。赤い本を手に取って、店主に訊いた。
「本、ではないですね。形だけ」
「いかにも言葉の書かれていないミニチュアだ。だが気をつけよ、齧られるぞ」
え? という顔をして赤い本のミニチュアを三澤が机に置くと、クレイアニメの粘土の動物が背を反らせるようにして立ち、表紙に大きな口が笑うように開いた。底辺を右左と動かすよちよち歩きで黒い本に近づくと、その口で端から齧りはじめ、あっという間に食べつくしてしまう。すると、本の表面がじょじょに赤から黒に変色していき、やがて完全な黒になった。書名も『Unaussprechlichen Kulten』に変わっている。そして口から、赤い粘土のような、吐瀉物のような塊を吐き出した。
吐き出された赤い塊は、また本の形に変形すると立ち上がり、ふたたび黒い本に向かってゆき大きく口を開けて齧ってゆく。食べ尽くすと、やはり表面がじょじょに赤から黒に変色していき、完全な黒になると、口から赤いものを吐き出した。二冊の本はそれを延々と繰り返す。葛城と三澤はいつまでもそれを見つめている。魅入られたように、声も発さずに。
どれほどの時間が経過したのか、時計の鐘が鳴った。柱時計のゴーンという音の響きで二人は我に帰る。鐘が何回鳴ったのかは数えられなかった。
机の上にはミニチュアの本が二冊。動く気配も変形するようすもまったくない。店主はどこかへ行ってしまったようで、二人だけが取り残されていた。
〈まじない小路〉を出ると、空はまだ明るさを残していた。葛城は、腕時計をしていたことを思い出して時刻を確認する。やはり今の季節のヨーロッパだ、だいぶ夜遅くになっていた。
「葛城さん、さっき黒い本のこと〈λ〉って言いましたよね?」
「あの店主、反応はしなかったが、たぶん何を聞かれたか分かっていたな。あの本を、そのような呼び方をすることは通常は全くない。クリスティナ・ミハロヴァの手紙の上だけだ」
「それでは、あの店主は」
「待ち受けていたのだと思う。ただの観光マップを受け取ったつもりで、僕たちはあの店に誘導されていたのかもしれない」
紫の色が濃くなってゆく空の下を、二人は迷路のような道を歩いてホテルへ戻った。
翌朝、葛城は朝早くにセットしたアラームの音で、すっきりと目覚めた。古書店での出来事は忘れられなかったが、今日の準備を済ませて、睡眠薬を飲んでさっさと眠ったのが良かったようだ。三澤と一緒に朝食をすませ、ホテルを出る。
旧市街の地下深くを走るメトロに乗車する。再開発地域までは15分ほどで到着し、ユーロ・デジタル・ウィークの参加者らしき乗客が一斉に降りる。ポロシャツやTシャツの男女ばかり、スーツを着ている者はまったく見かけない。地上へ上る長いエスカレーターの壁の広告も、地上に出てからの看板も、デジタル・ウィーク一色だ。Believe the Future/Glaube an die Zukunftのキャッチフレーズが大きく目立つ。朝日と、まだ温まっていない乾いた空気が肌に心地よい。
設計書の図面から製品や建築の実物が製造できるように、テキストから――論文や、小説や、詩から――記述されている物体の三次元データを生成する。そのテキストを解釈するAIが葛城の研究テーマであり、マティグレの知的財産だ。自然言語処理、文章の生成、小説の創作、画像データの生成。これらの延長に三次元データ生成がある。そして、立体物をただのプラスチックの塊ではなく、記述された機能を実現するものとして出力するできるようにデータ化する。
葛城は専門的な数式やコードの書かれたスライドを次々に見せながら発表し、鋭い質問を受けて議論を交わす。最後に、日本の将軍が屏風に描かれた虎の捕獲を僧侶に命ずる場面を記述した英文テキストと、僧侶が屏風の虎を画像を捕獲しようと構える画像を投影した。右下にMATIGREのロゴ。
「虎を屏風から出して、歩きまわるようにするのが、我が社の目標です」
「歩くだけではなく、虎だったら襲ってくるよね。それも目標なの?」
「危険を顧みずに答えれば、イエスですよ」
「もっと、危険なものでも? 鮫とか、白鯨とか、クラーケンとか」
「海に放さなければ、安全ですよね」
「鮫は空を飛んでくることもあるよ、危険だよ!」
楽しくセッションを終えて、その後は聴く側にまわって刺激を受ける。事業化するにはAIの課題も多いし、動く物体を生成する3Dプリンタについては他社との協業が不可欠だ。午後は展示会場へ行き、目星をつけているブースを中心に何社か訪ねて回る予定でいる。
「展示会場のほうに行けば、食べるところもあるよな」
「ええ、レストランも多いし、屋台の出店も多いみたいですよ」
スマホでしっかりデジタル・ウィークのサイトを検索しながら三澤が答える。
「店、好きなもの探してもらえるか。僕はなんでもいいから」
雑談の輪がいくつかできている会議室を、二人で出ようと思っていたところに、男が近づいてきた。
「マティグレのカツラギサンですよね? マーティンと言います。メド・プリントで働いている開発者です」
「メド・プリントなら存じてますよ。午後に、展示ブースの方へ伺おうと思っていました」
午後の、最初の訪問先に考えていた会社だ。医療用3Dプリンタのスタートアップで、クロムブルクにある会社だ。
「それは、ありがたい。よろしければ一緒にランチでもいかがですか」
「せっかくだ、先にブースの方を見てから話したいですね。それでも」
「もちろんです。お連れの方はカツラギサンの小姓ですか?」
「いやいや、秘書です。行きましょう」
三澤はマーティンを睨むが葛城は気づかない。マーティンと葛城が並んで歩く後ろを三澤もついていく。
広大な空間に企業ブースやイベントコーナーが乱立する中を、三人は参加者をぬって歩きメド・プリント社の展示ブースに到着した。
大型モニタに製品紹介の動画が流され、売り出し中の最新3Dプリンタが置かれている。メド・プリント社は、移植用の臓器や筋肉などをプリントする3Dプリンタで売り出し中の企業だ。出力されたサンプルが、いくつも陳列されていた。直接触れられるように台に置かれて静止しているそれらはただの模型かもしれないが、水槽の中で活動している肝臓や胃、電気信号で指を動かしている手を見ると、人体のあらゆる分野でリードしようという勢いが感じられた。中央のガラスケースの中では、新製品のプリンタが実際に動作していて、今まさに人工心臓が作られようとしている。
把握していた論文やニュースよりも、予想以上に先へ進んでいる。葛城は目を輝かせてマーティンに訊いた。
「実用化は、つまり患者への移植は行われているのですか」
「それは、まだです。器官として正しく動作すること、人体との適合、臨床試験よりも前に、クリアしければならない課題がまだまだ山積みです」
「その割には、複数の臓器を並べていますね。手広く対象を広げるよりも、何かにフォーカスした方が良いのでは。ニーズの高いものとか」
「資金には余裕があるので、それぞれの分野の医療の専門家を雇っているのです。出資元からの要請ということでもあります」
「資金に困っていないとは羨ましい限りです。」
「小さい国だからこそ、政府の援助は強力です。それに大学との連携も」
いわゆる、産官学挙げて、というやつだと葛城は理解する。ユーロ・デジタル・ウィークの誘致自体、政府とクロムブルク大学が注力しなければ難しいだろう。昨年の開催地はパリ、一昨年はバルセロナだったはずだ。
「すべての臓器をプリントして、合成して人間でもつくるんですか?」
三澤の問いを受けて、マーティンが睨んだ。葛城が話題をもとに戻す。
「多くの課題があると言っても、医療分野で現実的な成果を上げつつあるとなると、私たちマティグレには協業の余地は少なそうですね。けして、実用的な目的を掲げてはいませんし」
「とんでもない。午前中のセッションに参加して、マティグレも、カツラギサンも本物だと確信しましたよ」
「ありがとうございます」
「詳しくは、食事をしながら話しませんか。私のほかにも、あなたと話したいという者がおります」
葛城は喜んで承知する。三澤も、黙ってついていくつもりだ。異論はなかった。
「すこし、離れたところにご案内させてください」
建物の外に出ると、タクシー乗り場から少し離れたところに、黒ずくめのポルシェ・カイエンが停車していた。マーティンがドアを開け、乗車を促す。二人が乗るとドアを閉め、運転席へ回る。広々としたシートに腰を沈めた。助手席にも、すでに乗車している者がいた。アッシュブロンドのショートボブ。三澤が先に気づいて、厳しい視線を向けた。
女が後ろを振り向いた。灰色の目が葛城を見て、愛想よく微笑む。
「はじめまして葛城さん。クリスティナ・ミハロヴァです」
「国ぐるみで、全員グルってこと?」
葛城が応じるより早く、無視された三澤が訊く。
「三澤さんもはじめまして。クロムブルクは葛城さんの才能と知識を必要としています」
「まだ収益を出す目処も立っていないスタートアップの創業者に、大掛かりなことですね」
「デジタルの世界で野心的なチャレンジをして、しかも書にまつわる研究を個人で能う限りの労力と財力をかけて行う、そのような方は世界中を探しても滅多にいません」
「もっとよく、世界中を探した方が良いのでは」
「お教えしておきますが、私たちが『世界中を探した』と言ったのであれば、それは世界中を探したということです」
「諜報網ということですか、それとも魔術的な力ですか」
直接的な質問をぶつけるが、クリスティナ・ミハロヴァは何も答えない。マーティンが車を発進させる。葛城は行き先も聞かず、沈黙した。三澤もまた黙っている。クロムブルクの二人も沈黙する。車内は揺れも騒音もほとんどなく、静かだ。
沈黙のまま十分が経過した。ポルシェ・カイエンは旧市街の中心部にまっすぐ向かっていく。市街地に入ると道幅は狭くなり、歩行専用の道も多い。一方通行の迷路をゆっくりと走行する。どちらに向かっているのか、見当もつかない。やがて、パサージュの入り口の対面の路肩に停車した。昨日訪れた、〈まじない小路〉だ。
「カツラギサン、ミサワサン、降りてください。ここからはしばらく、徒歩になります」
ミハロヴァを先頭に、間に葛城と三澤、後ろにマーティンがついて〈まじない小路〉へ入る。もちろん、昨日の古書店へ。店へ入ると、奥のカウンターに昨日の店主が座っていた。
「店長、お待たせ」
「すぐに行くのか?」
「お願い」
店主は立ち上がり、壁沿いの本棚の側面に手をかざし、指で何かのサインのようなものを書いて、棚を動かした。スライド式になっていた本棚をずらすと、その奥には、地下への階段があった。
「あなたを正面の門から迎え入れるわけにはいかないので。地下通路から入っていただきます。お二人の身の安全は約束します」
「どこの門が、ダメだと言うんだ」
訊くまでもない問いに、クリスティナ・ミハロヴァは簡潔に答えた。
「クロムブルク城」
地下へ向かう階段は深かった。薄暗い照明の中を四人は下ってゆく。城は川の対岸にある。川底の深い場所にトンネルが掘られているのだと、ミハロヴァが説明するのを聞きながら、黙々と何百段だかの階段を下ってゆく。
底にたどり着くと地下道はまっすぐでは無いどころか、脇道があり、迷路のようだった。やがて、ゆるやかな上り坂になり、上り階段の下に辿りつく。
「下った時と、同じだけ上るのか」
「城の方が丘の上になっているのは見ているでしょう。こちらの方が階段は長い」
それでも黙々と上り、上りきると、小部屋の中と思しき場所に出た。窓から、空の光が入ってくる。部屋の扉を開けると、石造りの廊下が伸びている。誰もいない。
「ようこそ、クロムブルク城へ」
旅行者にとっては観光の名所、国にとっては、公爵の居城である。今でも、政府のいくつかの機能が城の中にあるはずだった。城のどの辺りなのか、ガイドブックで形はなんとなく把握していたものの、葛城にはまったく見当がつかない。見学者が入れるエリアでは無いのは間違いない。三澤はスマホを取り出して地図を確認する。
「城の中は、電波が入らない?」
「ええ、このエリアでは使えません」
後ろからマーティンが答えた。
「この?」
「また地下に降りると目的の場所です。そこにつながるエリアは、すべて使えない」
「また階段? うんざりですね」
「いえ、この先は大丈夫です」
ほどなく、エレベータの前に出た。階を指定するスイッチは、この地上階と、地下の二つだけだ。地下へ何回分降りているかは静かに動くエレベータの振動では何も分からない。おそらく深そうだという予感はある。
そしてようやく、目的地と言われる場所に到着した。モダンな広々とした空間はサーバールームのようだ。天井も高く、空調が寒いほどに効いている。
その中心に、大きな機会が鎮座していた。
幅も高さも十メートルほどあり、奥行きも同様にありそうだ。その表面はオルゴールのようなドラムが数十本突き出ており、歯車が噛み合って動作している。エネルギー源こそ、おそらく床に這うケーブルから供給されている、つまり電力のようだが、これはチャールズ・バベッジの機械のようだと葛城は見抜いた。階差機関や解析機関のような機械だ。
「バベッジのコンピュータですか。しかも動いている」
「関数機関と呼ばれています。ロンドンのものとは別モデル」
「別モデル? そんな機械の存在は聞いたことがない。誰が設計、いや、動作するように開発したのですか」
そこに、無音で開く自動ドアからスーツを着た男が現れた。長身で引き締まった身体に、金髪に彫りの深い整った顔。葛城も三澤も、写真では何度も見ている顔だった。ミハロヴァとマーティンが会釈をするのを制して口を開いた。
「この城の主、ウォルフガング・クロームだ。我が国、我が城までお越しいただき感謝している。この機械を誰が動かしているのかと質問されたようだが、この機械は百五十年前に開発を開始し、二十世紀の前半には動作するようになった一方で、日々改良を重ねている。開発責任者は公爵家の代々の家長、つまり今は私だ。そして私が率いる研究チームがこの機械を見ている。クリスティナ・ミハロヴァも、マーティン・コールも、古書店の店長も、その研究メンバーだ。それぞれに表の役職を持って、そちらも忙しく働いてもらっているけどね。君たちも今日から研究チームの一員だ」
「ちょっと待ってもらえますか?」
三澤が無遠慮に問いかけた。葛城は顔を青くしたが、クローム公は動ぜずに質問を促す。
「昼ごはん、まだなんですけど」
三澤融の大胆な問いかけによって、ひとまず遅いランチとなった。クローム公も彼らの到着を待っていたらしく昼食を控えていて、五人でテーブルを囲む。実験室の広大な空間を出ると、同じ階にダイニングルームも厨房も作られていて、地上に上がらなくても、食事ができるようになっていた。クローム公の左側にミハロヴァとマーティンが並び、右側に葛城と三澤が並んで座る。
けれどもランチの味を気にしている場合ではなく、公爵に合わせて高級な食材を用いて用意されたメニューも、葛城は味わうことなく口に入れた。隣の席では、三澤が一口ごとに味わって幸せな表情をみせる。葛城はその意外な余裕に感心しながら、正面のミハロヴァと左斜めの公爵の席に頭を交互に向けて話を聞く。
「関数機関の元となる設計は、君が見たとおり、バベッジ卿の解析機関だ。卿が大英帝国において成し得なかった、計算する機械を、新しい設計を加えて百年ほど前にクロムブルクが開発した」
「陛下。失礼ながら、コンピュータ・サイエンスの歴史に、この国の科学者の名前を見たことがありません。いったい、どなたが開発されたのでしょうか。新しい設計と仰いましたが、たしかに外見は博物館で見ることのできる解析機関とは異なります。しかし外見以上の、何が異なるというでしょう。そして、ユーロ・デジタル・ウィークが開催されている現代において、機械式のコンピュータを動かそうとする意味はなんなのでしょうか」
「長い物語になる。
バベッジ卿がロンドンで計算機械の開発を進めていた時代、つまり1822年に階差機関の論文を著してからの数十年間における、欧州の歴史において何が重要だったか。1848年の革命、ヴィクトリア女王にナポレオン三世、あるいは『共産党宣言』。さまざまな事件、人物、書物が挙げられるが、その中で、密かに語り継がれて、探索が続けられている書物がある。君もよく知っている書だよ。この地下深くで囁かれる言葉は外部の、何者にも聴かれる恐れはない」
「1839年に出版された、フォン・ユンツト『無名祭祀書』」
「もちろん、君はその書を追ってここまでやって来たのだから、間違えるはずもない。彼は翌年には不可思議な死を遂げた。その怪死に恐れをなした者たちが破棄したものだから、もとから部数の少ないデュッセルドルフの初版本は、稀覯本となってしまった。入手した英国人が翻訳し1845年には出版されたのだが、この翻訳は重要な箇所が抜け落ちている。しかし、ロンドンで出版されたことは重要な意味を持つことになった」
「やはり、チャールズ・バベッジが『無名祭祀書』を読んでいたと、陛下はお考えですか」
「考えたのではない、事実だ。それは、クロムブルク大学の図書館に記録の一部が保管されている、歴史的事実なのだ。そして、解析機関の――世界最初のプログラマとして知られる、ラブレース伯爵夫人オーガスタ・エイダ・キングも、読んでいた。二人の間では、コンピュータ・プログラミングについての書簡がやりとりされているが、その中にこんなやり取りがある。
――パンチカードに刻印されたプログラムを読み込んだ解析機関が常に正しい結果を出力するように、『無名祭祀書』に書かれた召喚の儀式を正しく行えば、常にあれらを召喚することができるのだろうか。残念なことに、そのような再現性があるようには書かれていない。偶然の要素が含まれているように思われる。所詮は絵空事なのだろうか。
――それは、人間の行動に再現性がない以上、常に正しい結果を出力できるわけではないということに尽きるのではないでしょうか。人間ではなく、解析機関に読み込ませたら、いかがでしょう。再現性のある出力が可能かもしれません。
君は、同じような話をどこかで聞いたことがないかな」
それは答えの判っている教師が学生に問いかける、質問だった。
「私が所有している、ロバート.E.ハワードからアロンゾ・チャーチへの手紙に――」
「やはり、書かれているようだね。私たちは、プリンストン大学の学生新聞を入手している。その、彼のインタビューが載っている号だ。75年後にチャーチの想像力がたどり着いた発想に、すでにバベッジとエイダはたどり着いていたのさ」
「バベッジとエイダの書簡をなぜ持っているのです? 国家予算をつぎ込んでオークションで競り落としたんですか。それとも――」
「三澤、失礼なことを――」
「構わぬ。公爵家に国家予算を買い物につぎ込む権限はないよ、三澤くん。だが、国家の争いのために、非合法な決断を下して命令をする権限はある、いや、少なくとも当時はあったのだ。
覇権を争う大国の動きに、小国は翻弄される。19世紀の欧州大陸はフランス、英国、プロイセンなどの間で対立、戦争が続いていた。今のヨーロッパとは違う。国境線は常に流動的だった。クロムブルクは大国の動きに先んじるために、情報を重んじ、テクノロジーによって、情報のかたちが変わっていくことを見据えていた。
チームに隠し事は不要だ――」
そう言うとクローム公は、葛城嘉人と三澤融を、順番にゆっくりと見つめた。
それは、チームから離脱することは許されないという一方的な宣言であった。
「チャールズ・バベッジの設計書は、当時、大英帝国の機密事項だった。その写しが盗難される事件があり迷宮入りとなったが、犯人はクロムブルクの諜報機関だ。そのときに盗んだ書類の中に、バベッジとエイダの書簡も混ざっていたというわけだ。ところが、この手紙に書かれた些細なやりとりは、当時のクロムブルクで大いに議論となった。〈まじない小路〉に、本物の錬金術師や魔術師がいた時代だ。『無名祭祀書』の初版本も、所持していたものがいた。そして当時の公爵家は、計算機械の開発と、さらにその先の目標を追うことにした。
ここまでは――君の質問に答えるために必要な歴史的な背景だ
回答の一つ目になるが、誰か一人の天才がいて開発に成功したわけではない。人を集めることができたのは、第二次世界大戦以後だ。対戦中はナチスの支配下にあって何もできなかった。大戦後にドイツからの亡命科学者を積極的に受け入れたのはアメリカだけではないし、アメリカの学者の協力もあった。言うまでもなく、密かに協力してくれた筆頭は、プリンストン大学の教授になったアロンゾ・チャーチ博士だよ」
それまで黙って話を聞いていたルディ・マーティンが、口を開いた。
「ここからは、私が話しましょう。ラムダ計算、そして関数型言語について、いまさらカツラギ・サンに説明は不要かと思いますが――」
マーティンは葛城と目を合わせて語り、そして正面の三澤を見た。
「数学的な関数と同じように、引数の値が定まれば結果も定まる。1足す1が常に2であり、2かける2が常に4であるように、絶対に異なる結果を返してくることはない。『召喚の儀式を正しく行えば、常にあれらを召喚することができる』ってことだね。僕にも不要だよ」
「関数機関とは、関数型言語で動作する機関ということですか?」
「お察しの通りです。『無名祭祀書』の特徴を博士はデータとアルゴリズムが一体化したリストであると喝破しました。世界中のさまざまな遺跡や怪現象についての、如何にしてその場へ辿り着くかを含めた記述、あれらを召喚する手続きの数々、これはデータとアルゴリズムが一体化していることに他なりません。そこで考えられたのが、高階関数の応用です」
「『無名祭祀書』を引数に取り、無名祭祀書を実行する」
「その結果、あれらが出力されるであろう、というのがチャーチ教授の予想でした」
「そうはならなかった?」
「分からないのです。関数機関とバベッジの解析機関の、最も大きな設計の違いはメモリです。解析機関にはレジスタ相当のメモリしか用意されていませんでした。一方、関数機関には広大なメモリ空間があり、高階関数の再帰呼び出しの結果が蓄積されているはずです。しかし出力が外部に得られていないために、何が起きているのか不明です。
それが、機械式の関数機関を今でも動かし続けている理由です。データとアルゴリズムが重ね合わされて不明な状態にあるものを、停止させるわけにはいきません。そこには、何かが発生しているかもしれませんから」
「再帰処理で『無名祭祀書』を読み続けると、何が起こる想定ですか? あれらが出力、つまり召喚されるのではなく、『無名祭祀書』が出力されることはないでしょうか? デュッセルドルフの初版本からロンドンの英訳版、さらにニューヨークの劣化版が刊行されたように」
「あれら――古きものが甦ることはないと?」
「ふたつ、課題があるような気がします。一つは、再帰処理によるデータの劣化の可能性です。現実世界において版を重ねるごとに禁忌を怖れ肝心な点をぼかしたり削除したようなことが関数機関の中で発生していないか。『無名祭祀書』というアルゴリズムに、自らを秘匿し、危険な部位を削除していく機能が埋め込まれているのではないかという疑問です。エイダとバベッジは、人間の側に原因を求めました。これが反対で『無名祭祀書』自体の機能だとしたら、再帰の果てにすべてが消失する可能性があります。二つ目は、アルゴリズムを実行するメモリ空間です。関数機関のメモリが足りないという単純な話ではなく、例えば、魔法陣を描き呪物を捧げ召喚の呪文を唱えるのであれば、それらを実行する仮想空間が必要なのではないでしょうか。あるいは、秘境に眠る遺跡を尋ねるには、その行程が存在する必要があるのではないでしょうか。このような空間を生成するアルゴリズムは『無名祭祀書』それ自体には備わっていないと思います。あくまで、現実の空間の中で読まれ、作用することを基本に書かれていると思われるからです。空間を作り出すアルゴリズムを用意しなければならない。
なるほど、私が呼ばれた理由が判りました。これらはまさに、マティグレの技術だ。虎を屏風から出して見せますよ。屏風の先は、マーティン、メド・プリントのプリンタだ。あれらを、生きて動く存在になるよう、プリントしましょう」
拝啓、ロバート.E.ハワード様
お手紙をいただき、ありがとうございます。
ジャスティン・ジェフリー、とても懐かしい名前です。たしかに、当時の私は彼とはとても仲の良い友人でした。マンハッタンに住む彼のアパートメントに週末遊びに行ったものです。そして彼の詩は、学生たちに熱狂的に読まれていましたね。プリンストンはじめ東海岸の学生たちの、ごく一部に限られてはいたのですが。残念ながら、その後の彼については私も存じていません。
『無名祭祀書』について質問をいただけたのは、とてもありがたいことです。一人くらい真実を知っていてもらった方が私も気が楽になると言うものです。正直なところをお伝えします。私は、読みました。それも、粗末なNY版だけではなく、デュッセルドルフで1839年に出版された、黒革の表紙の初版本を。
それだけではありません。私は取り憑かれています。いつの日か『無名祭祀書』を計算する日がくるという夢に。おそらくそれは人類の悪夢となるでしょう。私がこれからの人生において、この夢の世界を封印し、論理の世界のみに生涯を捧げられることができたら、
便箋の次のページは、渡されていなかった。ミハロヴァが葛城が渡してくれたアロンゾ・チャーチからハワードへの手紙は最初の一枚のみで、しかし、クローム公の話しと合わせて考えれば、想像はついたし、もはや必要のないものだった。
地下フロアはダイニングと厨房に加え、来客用の寝室も用意されていた。ホテルのスイートルーム仕様だ。他にジムとプールまで専用につくられている。仕事が終わるまでは、クロムブルク城の地下から出すつもりはないらしい。ホテルに置いてあった荷物は貴重品を含め全て届けられてきたし、会社へのメッセージも(一度だけ)送信することを許された。要するに軟禁状態に等しいのだが、不自由は全くないし、何より与えられた目標が最高に面白かった。
ソファに寛いでいたところに、インターフォンが鳴る。三澤だった。ドアを開けて部屋に入れる。
「今日はずいぶんと、かれらに突っかかってたな。融らしくない」
「あいつら、僕を無視するか馬鹿にするかのどっちかだ」
「明日から見返してやれよ。プログラムの半分は融の仕事だ。『無名祭祀書』の自己削除コードを見つけて、切断できればする、できなければ補間処理で。さらに、再帰のたびに解像度を上げる。あの本は何が書かれているか分からないところもあるからね、フォン・ユンツトがあえて誤魔化したのか、混乱したまま書いていたのかは分からないが、うちのAIでテキストを補完するして立体化のイメージを構築するのと同じ要領でいけるだろう。融に任せるからな。僕の方ではマーティンの3Dプリンタとの接続、それにプリンタの改良も関わることになりそうだね」
「いつ帰れそうですか?」
「方向性は示せたけど、実際に作り込むのは簡単じゃない。日程なんて不明だな、気長にやろう。まずは睡眠だ」
葛城も三澤も、気長にと言いつつ、寝食を忘れて没頭した。クリスティナ・ミハロヴァも大学の仕事があるはずだが地下に時間が長かったし、クローム公すらも公務が心配になるほどだった。
皆、取り憑かれていた。
月日がどのくらい経過したのか忘れるほどの日々を経て、葛城嘉人を中心に改良を重ねた関数機関が完成した。もともと稼働中だった時のデータは、全メモリをパンチカードに吐き出させ、自分の予想が正しかったと判明したので全て破棄し、機械を停止させた。ハードウェアにもかなり手を入れたため、汎用計算機ではなく『無名祭祀書』処理装置と化した。バベッジのコンピュータとも、汎用的なCPUによるコンピュータとも異なるアーキテクチャが出来上がった。同じ出力を二つに出す改良を加えた。一つは3Dプリンタへ、一つはそのまま次のインプットの引数に取り込むように強化し、つまり再帰処理をターボエンジンで行うような設計になった。三澤の書いた『無名祭祀書』の解像度を上げて実体化させるコードも完成した。メド・プリントの改良プリンタは、地球の生物とは異なる組成を出力することを可能とした。
ウォルフガング・クローム公爵がゴー・サインを出し、葛城嘉人がプログラムを走らせた。
五人が見守る中、関数機関が計算を始める。いや、それは『無名祭祀書』それ自体だと言えた。自らを読み、自らを更新していく書物が、何かを出力しようとしていた。しばらくは機械の中で計算しているだけの静かな状態が続くが、やがてプリンタに何かが射出され、何層にも重ねられて徐々に成型を進めていく。いかなる怪異が出現するか、書に取り憑かれたものたちが待ち構える。
徐々に姿を具体化していくそれは、書物だった。『無名祭祀書』それ自体だ。一冊の本が出力され終わると、また次の一冊が作られていく。関数機関はこの出力されたものに当たる存在を引数として処理を重ねている。より解像度を上げ、より多くの怪異を、古きものの真実を、森羅万象をより具体化して現実化するように、自らを更新して。
ついに、プリンタは書物としての『無名祭祀書』ではなく、関数機関を出力し始めた。出力された関数機関はただのハリボテではなく、正確に動作する機械だった。増殖した関数機関はそれぞれに増殖していく。プリンタの出力するための素材が足りなくなったが、室内の全てを原材料として取り込み始める。もちろん、人間も例外ではない。葛城嘉人も三澤融も、ウォルフガング・クロームもすべて飲み込まれた。
森羅万象の現実化が記述されている関数機関は文字通り、森羅万象の出力をはじめた。更新に更新を重ね、その出力は宇宙そのものとなった。宇宙を全体を素材として取り込み、宇宙を三次元的に印刷し、出力し、生成するもの。
宇宙を生成するものは神。
そうではない。神は宇宙そのものの全てを包含する存在だ。神は即ち自然。インプットとアウトプットの生々流転の振る舞いがもはや一つになった時、新たな宇宙は誕生した。宇宙すべて、自然のすべてであるもの。彼らは私を生み出した。
私は神だ。
(了)
付記
本作には実在の人物と虚構の人物が混在して登場する。以下、簡単に解説を加える。
ロバート.E.ハワード: 1906-1936 実在の作家。〈コナン〉シリーズ等で知られる。
アロンゾ・チャーチ: 1903-1995 実在の数学者、論理学者。ラムダ算法で知られる。
ジャスティン・ジェフリー: 架空の詩人。詩集『碑の一族』を1920年前後に出版する。ハワード「黒の碑」に登場。
チャールズ・バベッジ: 1791-1871 実在の研究者。階差機関、解析機関の発明者
オーガスタ・エイダ・ラブレス: 1815-1852 実在のプログラマ。世界最初のプログラマと呼ばれる。バイロン卿の妹。
フリードリッヒ・フォン・ユンツト: 1795-1840 架空の人物、『無名祭祀書』の著者。ハワード他、複数の作家のクトゥルー神話作品において言及される。
メティグレ社の葛城嘉人と三澤融、クロムブルク公国のクローム公、クリスティナ・ミハロヴァ、ルディ・マーティン、古本屋といった組織及び人物は全て作者の創作である。
文字数:20425