川は海にむかって流れる
私は堤防を降りると葦原を抜けて川岸に立った。それから顔を上げてやや曇った空を見つめる。今日もまたこの岸の空に何かがやって来る。何かってそれはこの世界では決して起こりえないからこそ起こって生じること。文字通りこの世界ではありえないものこそが対岸の街からこの空にやってくる。この世界ではありえないものが私達を殺しに来る。
私達はこの大きな川を挟んで戦争をしている。戦争をしているのは街の南を流れる川の対岸の街。でもそれはもう私達が知っている私達と同じ世界の対岸の街じゃない。マンションのベランダから見える遊園地はもうあの遊園地じゃないし、山並みに添って建ち並ぶ住宅地の群れも、東西に走る駅もそこに隣接するショッピングモールも何もかも私達が知っているものじゃない。
とある学者は私に真面目な顔で説明した。
「時間逆行はついに始まったんだよ。
これから起こるのは時間が逆行することによって分岐していた世界の合流現象。
世界は始まった過去の一点から未来の無限に分岐している。一本の大きな川が下流に下っていくにつれて分流していくのをイメージしてみて。川上から川下に支流が増えていくのが過去から未来ってわけ。逆にその川を川下から川上に辿っていけば無数の支流が一本の大きい本流に合流していくよね。これが未来から過去に世界が流れるってこと。川の支流一本一本はそれぞれ可能性の世界。だから未来から過去が流れると可能性の存在同士がぶつかってしまうんだけど、この支流のぶつかりこそが分岐世界の合流現象。
これは世界そのものの存在トーナメントのようなもの、分岐した世界は最後には必ず始まりの過去の世界一つだけになる。じゃあ未来に散らばるありとあらゆる世界でどれがその残るべきたった一つの世界になる? なるべき? 鯨が空を飛ぶ世界と鯨が海を泳ぐ世界二つに分岐した可能性の世界があってその二つの世界が合流するとき残る鯨はどちらの鯨? 私達がこれからする可能性同士の世界戦争ってつまりそういうこと」
可能性同士の世界戦争。
確かにそれは起きた。隣の部屋の家族はある日の晩御飯にオムライスを食べようとしてハンバーグを選んだ自分達の可能性の家族と殺し合った。当選した町長は落選した町長と殺し合った。猫だったかもしれない犬は犬だったかもしれない猫と殺しあった。
あらゆる可能性がいまや一つしか許されない現実を賭けて殺し合っている。
私は岸辺にしゃがんで透明なその川の水に触れる。手を持ち上げて翳すと指の狭間から光を纏って水滴が落ちる。
うー、うー、うー、かんかんかんかん。
うー、うー、うー、かんかんかんかん。
目の前の川のその葦原に可能性の警戒警報が響いた。
今日もこの街のどこかで対岸からこの世界ではありえない可能性が起こる。
「こんにちは、ありえないこちら岸の妹さん」
私は背後を振り返らずにその挨拶を返す。
「こんにちは、ありえないあちら岸のお姉さん」
かちゃり。おもちゃのような金属の撃鉄が上がる音が耳の側で聴こえる。
「ねえお姉ちゃん、私はあなたにとってどういうありえない妹なの?」
「さあねえ、ベランダで育てているサボテンにちゃんと水をあげる妹とかかな」
「向こう岸の私は随分といい加減なんだね」
葦原を風が抜けた。私は問いを重ねた。
「じゃあ、あなたは私にとってどんなありえないお姉ちゃんなの?」
お姉ちゃんは笑うのを止める。それからえらい学者らしく出来の悪い生徒に教えるように言う。
「決まってるじゃない。それは素敵な妹を殺すお姉ちゃんだよ」
かちゃん。金属の撃鉄が降りた。身体に甘い痺れが走った。私はそのまま前のめりになって頽れていく。私は川に落ちる前になんとか振り返ってその戦争で死ななかったありえない姉の顔を視界に入れる。
ありえない私の姉の顔はありえる私の姉の顔と何も変わらなかった。
あたりまえか。
向こう岸にはきっとこの戦争で死なないこの姉に殺されない私がいるのだろうか。私は川へと仰向けに沈みながらそんなことを思った。
うー、うー、うー、かんかんかんかん。
うー、うー、うー、かんかんかんかん。
冷たい水の中でも可能性の存在を報せるその音は届いた。
私は川底に辿り着く前に目を閉じて光に歪む水面の向こうの空に現れるありえないものの姿を想像する。
対岸の街から虚ろな目をした碧い鯨がこの川を飛び越えて街の空を覆う。そして鯨は大きな腹を開き血を垂らしながら胎児の姿をした爆弾を雨のように降らせる。爆撃が終われば橋を渡って白い顔をした岸向こうの街の人間が銃剣を持って上陸してくる。
こんなことありえないことだ。ありえないからこそ起こることだ。
私の身体が川底に辿り着いた。最後にもう一度可能性の警報音。
うー、うー、うー、かんかんかんかん。
うー、うー、うー、かんかんかんかん。
今日もありえない可能性がこちら岸にやって来て私達を殺しに来る。
文字数:1999
内容に関するアピール
僕の故郷は大阪府三島郡島本町山崎という大阪の北端の場所です。町には淀川という河川が流れていてその向こう岸にひらパーで有名?な枚方市が見えます。僕は実家マンションのベランダからその淀川を挟んで向かいの枚方の街を眺めるのが好きでした。川向こうの街にある同じようなマンションを見ているととても不思議な感じがしました。それはもしかしたら向こうのマンションのベランダでも今自分がこうして対岸の街を眺めているように向こう岸から自分を眺めている誰かがいてそれは例えばもう一人の自分なんじゃないかという感覚です。そんなことを考えていると今こうして立っている自分が自分なのかわからないような気がしてきて、川向こうの街は僕がもしかしたら生きていたかもしれない並行世界なんじゃないか、そんなふうに子ども心に思いました。今回は僕が実家に住んでいたときのそんな感覚をできるだけ残しておきたいと思って書きました。
文字数:392