梗 概
メゾンMの終末について
なんの変哲もないアパートが、今や外枠しか残っていない地球の中心に浮かんだまま長い、長い時を過ごしている。築23年鉄骨造2階建、1LDK31㎡を6部屋備えた『メゾンM』がどうしてこうなったのか。
102の住人、佐原氏は34歳男性。恋人と結婚の約束も交わしたばかりだったのに、風呂場で一風変わった自慰行為の最中に足を滑らせて亡くなったのは、大変不幸な事故だったといわざる得ない。
佐原氏の死後、102には故人の恋人がもう1ヶ月以上寝泊まりしている。
103の田原老人は娘と同じ年頃、憂いを帯びた佐原氏の恋人に、憐憫のような、恋心のような気持ちを抱く。
201では大学生の堺くんがモラトリアム最後の夏を寝てばかり過ごしている。
202の千夜老人は痴呆が始まり、夢とも現ともつかない時間の中で乙女のような生活をしている。
203に母と暮らす小学2年生の晃は、夏休みに失踪したクラスメイトたちの謎を探る。いなくなったのは夏休みにこの町から出た人たち。町の外で何かが起こっているらしい。遠くまで見渡せる給水塔に登ってみるが、世界は何も変わっていない。おかしくなってしまったのはこの町の方かもしれない。
101は大家が暗号資産のマイニング部屋にしている。ここ三ヶ月ほど原因不明の効率低下が続いており、様子を見に大家が隣町からやってくるが、メゾンMにたどり着くことが出来ない。
102では佐原氏の恋人、須磨子がネットサーフィンに没頭していた。49日が過ぎたら戻って来い、と親からは再三連絡があり、会社の有給も使い切っている。しかし愛する恋人への気持ちは49日で落ち着く気配などない。教えて!goo、yahoo!知恵袋、発言小町を巡回して喪を引き伸ばす方法がないか探し続けている。
そんなある日、『時間を長くするタキオンの箱』を発見する。これを使えば周りを気にせず喪に服すことができる。怪しさを判断する気力はもう、須磨子には残っていなかった。
そしてメゾンM102号室で、タキオンの箱が開封される。中に入っていたのはスーパーボールほどの大きさのブラックホール。瞬間的にメゾンMと町を呑み込みながら、ブラックホールは地球の中へと落ちていく。
ブラックホールへ吸い込まれる一瞬にも満たない時間は、メゾンMの人々にとって悠久の時間に引き伸ばされる。集合的走馬灯のような長い人生をメゾンMで共に生き、彼らの友好は深まっていった。
揃って、給水塔へ上る。
滅びが遠く世界の四方から迫ってくるのが見える。
それは本来、彼らより後に滅ぶはずの世界だった。
外殻だけになった地球の真ん中に、漆黒のブラックホールと落ちていくメゾンMだけが浮かんでいる。
どれくらいの時間が経ったのか、須磨子はある日、喪に服すだけの時間にはもうすっかり飽きてしまっている事に気づく。世界に戻るため、携帯電話を手に取る。
その日は佐原氏の49日であり、世界滅亡の日でもあった。
文字数:1193
内容に関するアピール
大切な存在を喪った人が「あの日から時間が止まっている」という表現を使うことがあります。時計の時間は止まっていませんが、本人の時間は本当に止まっている、またはとても遅くなっている。そういう喪に服す人の個人的な時間が、世界にさざ波のように影響を与える話を書きたいと思いました。
実作では、三人称の視点移動で、客観時間と主観時間、絶対時間と相対時間、立ち上がる複数のパラレルワールドの各点を行き来して、立体的な構成にするのが目標です。
ブラックホールの扱いがかなり不安なので、アドバイスをいただきたいです。
文字数:248
メゾンMの終末について
もはや外殻だけになった地球が、真空の宇宙に浮かんでいる。生物の気配ははるか昔に消え失せていた。外殻の厚さは場所によって違い、厚い部分にはまだ森や海の名残があったし、一瞬にして押しつぶされた都市の瓦礫が延々と積み上がっているところもある。逆に、地表自体がないところもある。地に大きな裂け目があって、その奥は深く暗い空洞だったり、場所によっては穴の奥に遠く星や月が見えるところもあった。反対側にも裂け目があって、宇宙空間が見えているのだった。
日に日に、といっても気の遠くなるような長い時間をかけて、地球の殻は少しずつ割れては中心に吸い込まれていく。そしてその地球の中心には、メゾンMがあった。メゾンMは途方もない長い時間、微動だにせずそこに浮かんでいた。
◎ ◎ ◎
102の佐竹氏が亡くなったのは不幸な事故だったと言わざるを得ない。
34歳の男性。恋人と結婚の約束を交わした日の夜だった。呑みすぎて記憶は曖昧な部分が多かったが、幸福に満たされえも言われぬ心地だった。デートの後はいつも恋人と一緒に帰ってくるのに、この日はひとり終電でメゾンM102室に戻ってきた。あまりにも満ち足りた夜だったので、自然とそれぞれの帰途につく流れになった。佐竹氏は102号室へ入るとすぐに服を脱ぎ、風呂場へ直行した。この多幸感には温かいシャワーが合うと本能が導いていた。実際、最高だった。あまりの気持ち良さに佐竹氏は声を漏らした。アルコールでふやけた思考に、身体の隅々まで行きわたった多幸感、梅雨の冷気に冷やされた体を温める41度のシャワー。浴室内の気温はどんどん上がり、水分量は飽和していく。目を瞑り、深く息を吸う。体内の空気が浴室内のそれに馴染んでいく。肩が落ち、足の力が抜ける。お湯をとめ、固形石鹸をとって体に直接擦り付ける。泡のついた肌に手を滑らせていく。気持ちいい。手だけでは我慢できず、体をよじらせ、あらゆる場所の皮膚と皮膚を擦り合わているうちに皮膚は溶け合い、一体化し、佐竹氏の体はほぼ球体になっていた。球体には突起がついていた。それはかつて股間であった場所についていたものだった。突起はすでに大きな突起になっていた。性的な刺激は何もなかったが、佐竹氏が今没入している幸福の決定打となるべく大きくなって待機しているのだった。球体はその肌色の肉を伸縮させながら形を変え、突起を包み込む。突起は触れられても球体に一体化することはなかった。それどころか球に包まれることで自己の存在をより強く誇示するようだった。球体の肉が幸福以外の感覚を失うに従って、突起は突起独自の快楽をさらに強く主張しようとした。
違う。
いつもは快楽の頂点として愛でているその快楽に、佐竹氏は違和感を感じる。今望んでいるのは、こんな自己顕示的で利己的な快楽ではない。もっと世界と馴染む、一体化するような快楽。慈愛に満ちて全てを受け入れるような。佐竹氏のイメージに連動して、突起の反対側の肉が収縮し球体の奥へめり込んでいく。佐竹氏はあまりの快楽に声を漏らす。気持ちいい。腕の力が抜け、足の力が抜ける。肉がぶるぶると震え、石鹸が落ちる。
幸せだ。
佐竹氏はつぶやく。
ああ、今日はなんて幸せな日なんだ!
それが、佐竹氏の最後の言葉だった。快楽に酔った佐竹氏が一歩後ろによろけ、踏み込んだ場所に先ほど落とした石鹸があった。その後はよくある不幸な事故の顛末、転倒した際の打ちどころが悪い。それだけのことだった。そうして佐竹氏の人生は終わりを告げた。
佐竹氏の人生が終わっても、世界は存続し、佐竹氏以外の人々の人生は続いている。佐竹氏の婚約者だった31歳の女性・海原須磨子は、恋人の突然の死を受け入れられず、葬式が終わってからずっとメゾンM102号室で寝泊まりしている。彼の所有物に囲まれて過ごしたい、ここにいるとまだ彼がいるような気がする、ひょっこり帰ってくるかもしれない、ただなんとなく安心感がある。それらはどれも須磨子の気持ちを表しているようであったが、どれも違うようにも思えた。自分がここにいる理由や気持ちについて、須磨子はよく分からない。ただ、ここから動けない。動けないからじっとしているうちに時間が進んでしまう。ただそれだけだった。ソファの上でお姉さん座りをして、隣--かつて佐竹氏がいた場所--に二人で使っていた大きな枕を立てかけて体を預けている。ここに来てから1週間、その姿勢のままほとんど動いていない。空腹は感じるが、立ち上がるのが億劫。喉は乾く。ローテーブルに置いたコップで口元を湿らせる。涙が流れたり、不意に思い出し笑いをする。いつの間にか眠っている。部屋の一番奥、南向きの大きな窓にはレースカーテンだけが引いてあり、明るい時間には外に植わった紫陽花の花の青色が透けて見える。今が何日なのか何曜日なのかはわからない。けれど窓からの光の量で、今が一日のどの辺りなのかは察することはできる。同じ日が繰り返されていない限り、時間はきっと進んでいる。そしてその速度は思っているより速いようだった。
時間が進んでいるということは、世界は周り、会社は稼働し、欠勤日数は増えて須磨子の来月の給与からは相応の金額が控除されることになる。
「それは困る」
何日かぶりに体を持ち上げてテーブルの上のスマートフォンを取り上げる。しかし電源切れのため、日付を確認することはできなかった。テーブルの向こうの壁から伸びている充電ケーブルにスマートフォンを挿すほどの元気はまだない。役に立たない精密機器の塊をソファの上に放り出すと、虚ろな意識の中に曖昧な数字を行き交せる。
佐竹氏の死亡を確認したのは、死亡から6日目の午後。
あの幸せな土曜日の夜の後、帰りの電車で須磨子は佐竹氏とメッセージを送り合っていたがある時点から返事がぱったり止み、既読すらつかなくなった。きっと電車の中にでもスマートフォンを忘れてたのだろうと思っていたが、3日経っても連絡はなかった。他の連絡手段にも何の音沙汰もないので5日目、木曜日の夜、終業後にメゾンMへ向かった。102の扉の前にはスーツ姿の知らない男が立っていた。佐竹氏の同僚というその男によると、佐竹氏はあの日以来、会社も無断欠勤を続けているらしい。102号室は二人の呼びかけに対して無反応だった。須磨子はその足で警察へ相談に行き、翌日金曜日の午後、会社を休んで102号室の開錠に立ち会い、そのままずっと会社には行っていない。
葬儀はその翌週の金曜日だった。佐竹氏は閉じた風呂場で絶命し、さらに発見までに少し時間があったので遺体は少し辛い状態だった。警察はすぐに事故死と判断してくれたので、死体が拘束されることはなかったが、火葬場が混み合っていて遺体を焼く順番はなかなか回ってこなかった。
葬儀の後、斎場から一度家に帰ったけれど眠れなくて夜、メゾンMへやってきた。特殊清掃は済んでいて、遺品の整理と片付けのため、しばらくこの部屋は借りたままにする手筈になっていた。ソファに雪崩れ込んでそのまま眠った。とても深い眠りだった。佐竹氏の死体を見てから1週間、ほとんど寝ていなかった。どれくらい寝たか分からない。眠りについたとき外は暗く、起きたときも暗かった。丸一日寝ていたのかもしれないし、実は2、3時間しか寝ていなかったのかもしれない。そして、その後どれくらいこうしているのかはさらに分からなかった。
0.5日(死を確認した日の午後休)+
5日(葬儀までの翌週5営業日 ※婚約者は忌引に当たらない)+
2日(今が火曜日くらいとして、今週休んだ分)+
3日(今週全部休むとして)
=10.5日
有給は累積で17日分くらい残っていたはずだから、まだ余裕がある。それに有給と別に7~9月中に自由に使える夏休みも3日付与されるはず。大丈夫。まだしばらくこうしていられる。
そうして日中の日差しに包まれ、須磨子は佐竹氏の枕を抱いて再び眠りに落ちていく。
実際はこの時点で、金曜日の朝7:24であった。佐竹氏が死んで3回目の金曜日である。死体が発見された金曜日、葬式のあった金曜日、それからまる1週間経った金曜日。葬式の日に、須磨子は会社にあと1週間休みが欲しいと連絡していたが、つまり休みは今日までということだった。このままだと、この週末を越えたら出社しなければならなかったが、須磨子はまだそのことに気づく気配がない。
翌日の朝、須磨子は揺すぶられて起きる。荷物の整理にやってきた佐竹氏の両親であった。彼らは明らかに衰弱した須磨子に食事を取らせ、風呂をすすめ、そして今日が土曜日であることを教えてくれた。
そうか、土曜日なのか。須磨子は思う。この部屋の時間は、外の時間とずれてしまっている。つまりそれは、佐竹氏がもうこの世界にいないということである。
佐竹氏の死が突然、実感となって須磨子に押し寄せ、大きな不安となって胸を圧迫する。呼吸が浅くなる。それとほぼ同時に口角が持ち上がり、目尻が下がっていく。強い負の感情に反応し、顔面の筋肉が反射的に硬直していた。納豆のパッケージにあるおてもやんみたいな顔になっている。須磨子についてそう詳しくない佐竹氏の両親はその顔がどういう表情なのかくみとることができなかったが、須磨子の身体は笑ったつもりだった。
「私は、大丈夫です」
言った刹那、カチ、と音がする。外の時間とこの部屋の時間が噛み合った音。
カチ。カ、カチ。カ、カチ。カチ。
歪ながら、時間が噛み合おうとしている。微妙な力加減で笑顔を調整する。それと連動して、2つの時間も噛み合っていく。須磨子の元に世界が戻ってくる。背筋が伸びてモヤが晴れ、佐竹氏の死は虚構さながら遠のいていく。
しかしその努力は、不意に断ち切られる。
「大丈夫じゃなくていいから」
見えない時間との苦闘から我に返ると、目の前に疲れ切った老夫婦が座っていた。彼らは2週間前、愛する一人息子を失ったばかりだった。愛する息子を失った老夫婦の目には何もうつっておらず、その空虚さに須磨子は安心を見出す。須磨子の時間が再びここから離れていこうするが、それを佐竹夫人の小さな手が引き留める。
「大丈夫じゃなくてもいいから、ご飯だけは食べなさい。コンビニのおにぎりでも何でもいいから、少なくとも一日一回は必ず何か食べて」
肩に添えられた手は小さく、異物の感触がした。夫人もまた必死で食べていることを知った須磨子は、スマホを充電し、来週も休ませてほしい旨を上司にメールする。
須磨子が毎朝8時、アラームをかけて徒歩3分のコンビニへ朝食を買いに出かけることが習慣になって4日目、扉を開けると、隣の103号室の住人もちょうど扉を開いたところであった。目が合った二人は、自然と会釈を交わす。
1年前から103号室に住む田原氏は、隣人は30代の独身男性だと認識していた。週末に恋人が遊びくることがあるのは知っていたが、今日は水曜日、朝8時である。部屋から出てきた女性はラフな普段着で、今から出勤という感じでもない。何度か見かけたことのある恋人のような気もするし、そうでないような気もする。若い女性は大体同じに見える。女性は慣れた手つきで102号室の扉に鍵をかけると出かけていく。田原氏も鍵をかけようとするが、凹凸、上下が逆で、なかなか上手くハマらずてこずる。67歳の田原氏はメゾンMに越してくるまで、家の鍵を自分でかけたことなどほとんどなかったのだった。
駅前のクリーニング店にシャツ、ズボン、靴下に下着まで全てを預けてから、踏切を越えて駅の反対側にでる。さらに歩くこと5分、『喫茶あらーむ』が田原氏の朝食処である。店先のみずみずしい緑の鉢植えを横目に、古い木製の扉を押すと軽い鈴の音が店内に響く。
「ああ田原さん、おはよう」
カウンターの中から幸さんが微笑む。まだ50にもならないだろうにそっけない服装にさっぱりした短髪、それと不釣り合いな赤いリップの口元。「おはようございます」と田原氏が返すと、周りの常連客もおはよう、おはようございます、と声をかける。今日は先客が多く、カウンターの端にしか空席がない。隣はおしゃべりな砧女史で、田原氏は躊躇するが仕方ない。ソファ席に空きが出来たら移動する、それまでの我慢と思い椅子をひく。しかし砧女史は田原氏が注文を済ませるのも待たずにあれこれと畳み掛ける。最近顔を見せない常連客の近況、新しく出来た内科の評判、自分の母親、姑、飼い犬の健康状態に、孫の模試の結果。あまりの煩さに怒鳴りつけそうになったところで、鼻先を芳醇な香りがかすめる。幸さんが微笑んでコーヒーカップを差し出している。田原氏の硬直していた顔の筋肉が緩んでいく。
「端っこにごめんね、今日みんな同じ時間になっちゃって」
「いやいや商売繁盛、素晴らしいじゃないですか」
田原氏と幸さんは、正しい節度の範囲内にありながら、極めて親しいやり方で微笑み合う。
「卵の日だよね?」
「はい、お願いします」
あらーむのモーニング和定食は、生卵と納豆を選ぶことができる。田原氏は月水金を納豆、火木を生卵と決めていた。
「そういえば田原さんのお住まいって、駅の向こう側の、紫陽花で囲まれてるレンガのアパートよね?」
せっかく和らいだ心に再び砧女史の忙しないおしゃべりが割り込んできて、田原氏は無視しようかと目を閉じるが、幸さんが
「メゾンMよね」
と合いの手を入れるので、仕方なくコーヒーを啜りながら「そうですよ」と応える。
「こんなことお聞きして失礼かもしれないけれど、どれくらいの広さがあるの?」
なんでそんなことを聞いてくるのだろう。男やもめの質素な生活をまた別の客とのおしゃべりのネタとして使おうという魂胆なんじゃないか。失礼だと思うなら聞かなければいいのに。砧女史を見ると悪びれた様子は微塵もなく、ただ田原氏をまっすぐ見つめて質問の答えを待っている。田原氏はうんざりして目を逸らした。
「31㎡です」
「あら、それってどれくらいかしら」
「10坪もありませんよ」
「あらやだ、そんな狭いところで不自由ないの?」
なんなんだ、この失礼な婆さんは。田原氏は怒りを抑える代わりに、もう砧女史には応えないと決める。田原氏が無視を決め込んだのを見て、幸さんが相手の代わりを務める。
「砧さんところはお家広いからそう思うのよ。今どき、駅の近くなんてみんなそれくらいの広さで暮らしてるんだから。田原さんとこのアパートだって、ご夫婦とか親子で住んでらっしゃる方もいるのよね」
田原氏が首を縦に振ると、砧女史は「まあ」と声を上げた。
「ごめんなさい、私世間知らずで。田原さんていつもきっちりしてらっしゃるから、お家なんかも広いところでいらっしゃるのかと思って」
「確かにメゾンM、見た目は雰囲気あるもんね」
「見た目は、とはなんですか」
幸さんが、ハハハ、と快活な笑い声をあげる。店の和やかな雰囲気がまた一層晴れやかになる気が田原氏にはする。
「そういえば、こないだ若い方が亡くなられたんでしょう?」
「なあに、そうなの?」
砧女史からの視線を幸さんが繋いで田原氏に向ける。田原氏には思い当たる節がない。
「近くに住んでる方から聞いたの。1ヶ月くらい前にお昼、そちらのアパートの前に救急車と警察が何台も来てて、なにか怖い事件だったら物騒だから聞いてみたら、お風呂場で事故死された方がいるんだって。男性って聞いて、私びっくりしたから覚えるてのよ」
メゾンMには101から203まで、合計6部屋しかない。田原氏が知る限り、その中で若い男性が住んでいるのは201の学生さんと、203の親子の父親と、隣の102の会社勤めの男だった。201の学生は先週見かけたし、203の父親は見ていないが、子供は変わらず朝出かけていく声が聞こえる。だからここ1ヶ月で死んだ人がいるのだとしたら隣の102号室しかない。出しなにすれ違った女性の顔を思い出す。やつれて白い顔をしている。恋人を失った女の顔。
隣人が死んだことにも気づいていなかった田原氏に、幸さんは呆れる。
「田原さんって、本当に周りに興味がないのね」
田原氏は1年前、妻にいわれたことを思い出す。
「あなたがもう少し私に興味を持ってくれれば、離婚しようとは思わなかった」
妻はそういって、長い期間計画的に準備しなければ貯まらないだろう金額を田原氏に差し出した。
「嫌いって訳じゃない。でも残りの限られた時間、一緒にいるのはちょっと」
あのとき、妻はどんな顔をしてただろうか。思い出せない。妻のいう通り、きっと興味がなかったからだ。
今、目の前にいる幸さんを見る。笑ってはいるが、そこにはなんの感情も存在していないことに気づく。田原氏は考えるのをやめる。
67年も生きてきたというのに、時間は巻き戻せない、ということを田原氏が知ったのは、ここ1年のことであった。
2本だての古い映画を見て、早くからやっている馴染みの店で一杯飲んで戻ってきたのは、夕方6時前だった。日はまだ明るく、窓の外には時期遅れの紫陽花の薄桃色が映っている。ちょうど昨日、梅雨明け宣言があって、窓を開けると蝉の声がした。2階からテレビの音が漏れ聞こえる。それは201号室の堺くんの部屋から聞こえている。
19歳の夏休み、一生に一度しかない貴重な時間だから計画的に過ごしなさいよ、という親からの電話を、ベッドの上でパソコンゲームに興じながら受け流したのは1週間前。堺くんはそれからずっと同じ場所で同じことをし続けている。お腹が空いたらコンビニにいってカップ麺か弁当を買ってきて、眠くなったらコントローラーを手にしたまま眠っている。スマホの通知を見ると、前期試験の時にノートを貸してもらっていい感じになった子から週末の花火大会がどうとか、だったので、とりあえずそのままにしておく。セックスならまだしも、花火大会には興味がない。またスマホがなる。クラスのグループライン。夏休み限定のバイトを募集。ビアガーデンの接客で時給は悪くない。ロック画面ではそこまでしか確認できないので、堺のSを液晶に辿ってロックを解除し、ラインのアプリを開く。バイトをしないことにはこの生活が夏休み中続く。金がないからこうやってゲームばっかしてるってのもあるんだよ、と誰にともなく堺くんは言い訳する。ビアガーデンはメゾンMの最寄駅にあるショッピングセンターの屋上だった。大学までは少し遠いので、この辺りに住んでいるクラスメイトはいないはず。シフトは昼夜選べて、賄いまでついて、さらに夏だけのなんのしがらみもない仕事。運命といっても過言ではない。返信しようとした瞬間、前のめりに手をあげる豆腐みたいなキャラクターのスタンプが流れてくる。続いて
{私やりたい!}
とご丁寧な解説まで流れてくる。送信主はmisakiとある。知らない。
堺くんのせっかく盛り上がっていた気持ちが一気に萎れる。何人欲しがってんだろ。元のメッセージを読み直すが人数については何も書いていない。
1人採用の予定なら「俺も!」とか後からいったら、めっちゃめんどくせえ感じになんじゃん。うざー。はー、めんどくさ。
口に出して、指で液晶の豆腐を弾く。
「めんどくさ」
もう一度いうと、堺くんの中で何かが吹っ切れる。スマホを持ち直して高速で文字を打っていく。
{俺も希望っす。自宅から徒歩10分なんでシフト、ゴリゴリ入れます😎}
豆腐女の反応はない。あとは天啓を待つのみ。スマホをコントローラーに持ち替える。
この蒸し暑さの中で、よくあんなぬるいビールなんか飲むな、と堺くんは思う。飲みたいなら、クーラーの効いた居酒屋でキンキンに冷えたビールを飲めばいいのに。
「でた、正論おばけ」
「そんなの正論でもない、だって、私は別に暑いとも思わないし」
「うそ、それはちょっとおかしいでしょ。だって今日34℃だよ」
「人の感覚なんてそれぞれなんだから」
クーラーの効いた居酒屋でキンキンに冷えたビールを飲みながら、ひと夏のバイト仲間の宴が繰り広げられている。総勢30名ほど。周辺の大学生をメインにフリーターや主婦なども混じっている。くんずほくれつ盛り上がる中、早生まれの堺くんは律儀にウーロン茶を啜って、その隣で豆腐女こと岬さんが、カルピスサワーのジョッキを掲げている。もともと連絡先も知らないくらいの単なるクラスメイトで、このバイトの間でもシフトが被ることもそうなかった。だから、二人はこの飲み会がほぼ初対面と言ってよかった。あたりさわりない話、どこ出身、とか、どの授業取ってるの、とか、サークルは、とか。基本情報を交換している段階だった。
「堺くんってさ、この辺に住んでるんだよね?」
「そうだけど」
「じゃあさ、今日泊めてもらえない?」
岬さんが今持っているジョッキが3杯目であることを堺くんは知っていた。だんだん呂律がおかしくなっていることにも気づいていた。それでもその依頼は唐突で、堺くんの思考は一瞬ストップする。じゃあさ? え、なんのじゃあさ? あ、うちがここから近いからってことか。
「いや確かにうち近いけど、俺たちそんな仲良くないよね? 岬さんが男だったらまだ一考の余地あるけど、女だしちょっと無理だよ」
「まじで?」
「まじだよ。結構普通のこといってない? 俺」
「まあ確かに」
岬さんはジョッキを飲み干して、眉間に皺を寄せた。
「堺くんがいってることは分かるんだけど、私さ、終電逃しちゃったんだよね」
店の中央に掲げられたセイコーの電波時計は22:05を指している。一般的に終電を逃すにはまだ早い時間である。堺くんは、自分がなにか勘違いしているのかも、と思う。
今、もしかして俺、口説かれてんのかな。
しかしその後、岬さんが口にした地名が新幹線に乗ってもいいんじゃない、というところだったので、事態は振り出しに戻ることになる。
「なんでそんな遠いところからわざわざここまで来てんの?」
「だって、ビアガーデンのバイトとかしてみたいじゃん」
「そう?」
「そうだよ! 2度とやって来ない時間だよ。大切な思い出づくりしたいじゃん」
「それでうちにも泊まりたいの?」
堺くんが岬さんを覗き込むが、岬さんは酩酊していて、もうここにはいないらしい。
「それに新幹線に乗ると、時間が遅くなるって。それって、夏休みが長くなるってことでしょ」
岬さんの気持ちよさそうな顔を見ていたら羨ましくなって、堺くんも岬さんのジョッキから一口拝借する。岬さんはそんな堺くんを満足げに見つめている。
「それって、最高じゃんね」
そして深夜1時、メゾンM201号室のベッドにはパジャマを着た堺くんと岬さんが同じベッドで眠っている。
二人は同じ夢を見ている。岬さんはもうずっと、メゾンMの201号室で暮らしている。新幹線に乗ってビアガーデンに通っていた夏のことを思い出す。遠い遠い昔みたい。まだビアガーデンでは働いている。両手にジョッキを持ってすれ違う時に、堺くんと岬さんは目で笑い合う。蒸し暑い夏の夜なのに、涼しい風が吹いている。白熱灯をガーランドみたいに吊り下げて、夜の暗さが幻想的に照らし出される。電車が通る音がして、人々のざわめきが心地いい。知らない人たちが向こうのテーブルから手招きしている。知らない人なのに、堺くんも美咲さんもよく知っている。呼ばれて嬉しい。だから知っているんだと思う。
「岬さん、もう一杯ビールを」
「田原さん、そんなに飲んで大丈夫なの?」
「須磨子さんももう一杯どうですか」
「私も、いただいちゃおうかな」
「お、さすが千夜さん。いきましょういきましょう、朝まで参りましょう」
「晃くん、オレンジジュースまだある?」
「うん、まだあるよ。あそうだ、ねえ、堺くん!」
堺くんは笑っている。テーブルを囲んでいる人たちも笑っている。でも一人だけ、悲しそうな人がいる。顔は笑っている。でも、悲しそうにしている。岬さんはその人の隣でしゃがみ込む。肩に手を置いて呼びかける。
「須磨子さん、大丈夫だよ。ほら周りを見て」
岬さんの呼びかけに応じて、須磨子は顔を上げて周りを見渡す。岬さんは微笑んでいった。
「ね、まだ夏休みでしょう?」
その言葉に、いつも千夜婦人の指を飾っている黒い真珠が反応する。
「これは主人が、結婚の約束をしたときにくれたものなの」
世界が・光が・時間が・すごいスピードでメゾンMに向かい始めた。
同じベッドで清廉潔白な朝を迎えたことに、二人はなんの違和感も感じなかった。あるとすれば違和感を感じないことへの違和感くらいだった。冷蔵庫を開けて(開けなくてもわかるのに)何もないことを確認すると堺くんは立ち上がる。
「コンビニ」
岬さんも立ち上がった。
朝8時、メゾンMでは住民たちが動き始める時間である。階段の下を、須磨子と田原氏が通り過ぎていく。堺くんはさっきまで彼らと一緒に飲んでような気がして、岬さんは二人に深い親しみがある気がする。
「あの人さ、彼氏が死んだ部屋に居座ってんの」
須磨子の姿が十分に見えなくなったことを確認して、堺くんがいう。
「一階にサラリーマンって感じの人が住んでて、週末にあの女の人がよく遊びに来てたから彼女なんだろうと思ってたんだけど、先月?もうちょっと前かな、救急車とか警察とかがめっちゃ来て、え、なになにと思ったら、そのサラリーマンがさ、お風呂で頭ぶつけて死んでたんだって。やばーとか思ってたんだけど、そしたらその後から、あの女の人よく見かけるようになって、最初は遺品整理してんのかな、くらいだったんだけど、めっちゃよく見かけるから、これ絶対住んでんな、と思ってカメラ付けてみたんだよね」
「え?」
「なに?」
「カメラ付けてみたんだよね、っていった?」
「いった。小型の監視カメラね。アリエクで買った安いやつだから精度は悪いけど」
「え、ちょっと待って、なにそれ」
「住人じゃない人が住み着いてるとか怖いじゃん。それも彼氏死んだばっかりの精神不安定な女だよ。なにするか分かんないから監視して自衛しないと」
「嘘でしょ、信じらんない」
「昨日初めて話した男の家に泊まりに来る女の方が信じらんないよ」
「だってクラスメイトじゃん」
昨日仲良くなったばかりだから理解し合えない部分があるのは仕方がなく、二人の会話は平行線を辿る。それでも二人の疑問が一致する部分もある。
「仕事どうしてるんだろうね」
それは須磨子自身にとって、一番の問題であった。
会社の有給はすでに使い果たし、欠勤期間に入って3週目になる。親からは、四十九日が過ぎたら戻って来いと再三連絡があり、今日がその四十九日、タイムリミットだった。
しかし須磨子はまだメゾンMから出ていく準備が出来ずにいる。最近は起きている時間の半分近くをネットサーフィンに当てている。最初は、自分と同じような境遇の他の人たちはどうしているのだろう、という興味でブログなどを巡回し、みんな辛そうで、優しい励ましの言葉がたくさんあって、それを読んで泣きつかれて眠る、というサイクルを繰り返していた。しかし3日もすると、そんな人たちもどうも日常生活はちゃんと送っているらしいことに気づく。
“電車の中で涙が止まらなくなってしまって”
“会社の引き出しに彼からのメモが残っていて”
“いつも彼女と一緒に行ったレストランにいくと、彼女の笑い声が聞こえるんです”
“他の女の子とキスしても悲しくなるばかりで”
え、そうなんだ。
そうなってからは、同じように恋人を失った人の手記を見ても疎外感を覚えるばかりで逆に辛くなってしまった。だからもっと実利的な、職場に説明する方法、親を説得する方法、収入をどうにかできないか、に絞って、教えて!goo、yahoo!知恵袋、発言小町を巡回する。しかし検索結果は芳しくない。結局、辛くてもやる気がなくてもなんでも、日常生活に戻るしかない、という結論、つまり振り出しに戻るのだった。
佐竹氏と一緒に「二人だと狭い」と言いながら横になっていたベッドで、今は一人ゆとりをもってくつろいでいるのが悲しい。見慣れた天井を見上げながら須磨子はつぶやく。
「喪を引き伸ばす方法があればいいのに」
横になって枕を抱きしめると涙がこぼれる。
「時間が無限に遅くなったらいい。私がこうして暮らしていることに、みんなが気づかなければいい」
その夜、須磨子も夢をみた。堺くんと岬さんがみていた夢だ。だからメゾンMを出たところで黒い真珠の指輪をはめて掃き掃除をしている美しい白髪のご婦人に会ったとき、それが202号室の千夜婦人だということが分かった。
「あら須磨子さん、ごきげんよう」
婦人はそういって微笑み、それから後ろからやってきた田原氏にも挨拶をしている。田原氏と昨晩の話に興じる千夜婦人の胸には大きな青い宝石が輝いてる。それは魔法みたいに美しい。
「これ、サファイアよ」
須磨子の視線に気づいた千夜婦人がいう。
「主人が初めて海外出張に行ったときに買って来てくれたの」
「素敵ですね」
「そうね、でも」
千夜婦人は首を傾げて笑って続ける。
「遠い遠い、昔のことよ」
そういえば千夜婦人の夫を見たことがないな、と須磨子は思った。
婦人と田原氏と別れてコンビニへ向かっていると、隣を小さな影が走り抜けていく。ああ、あれは。
「晃くん!」
須磨子が叫ぶと、ランドセルを背負った小さな後ろ姿は一瞬止まって振り返ったけれど、須磨子の姿を確認すると、なんの反応もせぬまま再び前を向いて走り始めた。須磨子は一抹の寂しさを感じながらも、小さな背中に向かって手を振る。
夏休み、終わっちゃったのか。
そう思ったのは須磨子だけで、晃は夏休みが早く終わってくれることを願い続けていた。
夏休みは永遠のように長い。とくに小学校2年生の晃のように、まだ夏休みの経験が浅いうちの、その長さは途方もない。知らない目的地への往路がいつまでも続くように思われるのと同じく、晃もまたこの夏休みから永遠にぬけ出せないかもしれないと思っていた。夜、明かりを消して二段ベッドに昇る前、壁に貼ったカレンダーの今日の数字に×をつける。今日が今日で終わるよう、明日また今日が来ないよう、できるだけ強く、太い線を引く。今日が終われば明日が来て、また次の日が来て、それを38回繰り返せば長いこの夏休みも必ず終わる。どれだけ長くても必ず終わりはやってくる。7歳で身につけるには少し哀れなくらいの忍耐強さをもって、晃は今、9月1日の朝にたどり着いていた。顔を洗い、弁当を作る父の後ろ姿を見ながら卵かけご飯を食べ、着替えて、父と一緒に忘れ物がないかを一つ一つ点検していく。オレンジ色のランドセルを背負って、それより少し蛍光色の入った同じオレンジの靴を履いて、扉を開ける。外は生憎の雨模様だったが、晃の心にはその雨音が清々しく満ちていく。
ーーようやく日常が戻ってきた。
「いってきます!」という言葉は誰に向かってかけられたものでもない。小さな体に収まりきらない生命力が、その弾けるような声にのって放出される。「いってきます!」には質量があり、そしてそれはエネルギーに変換される。若さ、生命力、莫大なエネルギー。あたり一帯に、メゾンMに、エネルギーが満ち溢れる。各部屋で、住民たちは晃の元気な声を聞き、朝の訪れを感じている。
2学期初日だというのに、教室はどこかシンとしている。晃が一番後ろの席から、空席の多い教室の様子を眺めていると、前の席のホッチャンが振り返っていった。
「みんな、学校が今日から始まるって知らないのかな」
「そんなわけないでしょ。学校の手紙にも書いてあったし、昨日ママにメールも来てた」
晃が応えるより早く、隣の席のサカガキさんが応答する。
「じゃあ、これみんなお休みなの?」
教室に並んだ38の机のうち、生徒が座っているものを3人で数えていく。17しかない。
「病気じゃない?」
「全員病気だったらヤバいでしょ。集団食中毒じゃない? サカイ寿司、昨日100円セールだったよ」
「それ私も行ったから違うよ」
「僕も行った」
「目覚まし時計がならない呪いが蔓延している」
「それは小学生より大人が困る」
「まず電池を入れ替えてみた方がいい」
「各家庭に猫が派遣されて、その家の人々は可愛すぎて家から出れなくなっている」
「えー来てほしいーうちには来てないよー」
「ペット禁止の家には派遣されない」
「じゃあ今ここにいるのはペット禁止の家に住んでる人ってこと?」
「なわけないでしょ」
「じゃあ、なんなの?」
ホッチャンとサカガキさんが晃を見つめる。
「世界が滅んだんじゃない」
そのとき教室の前の扉が開いて、知らない大人が入ってくる。担任の佐藤先生ではなく、出勤できている数少ない教師のうちの1人だった。代理の教師は、教室のことをよく知っている人がするやり方で教室を見回して、佐藤先生が休みであること、お休みの生徒も多いためしばらく休校になること、今日もこれでおしまいであることを伝える。
子供たちは指示に従って夏休みの宿題をまとめた封筒を後ろから前へ回していく。空席が多いため、封筒はスムーズに前へ進まない。立ち上がりついでに、肩をぶつけ合ったり、擦り寄ったり、脈絡なく手を絡ませあったり、異例の伝達事項の興奮を体でぶつけ合う。奇声を上げながら廊下を走り抜ける者もいる。右から左へ。左から右へ。ランドセルを背負っている者もいれば、手ぶらの者もいる。
「廊下を走るな」
代理の教師は外に向かって声を上げる。
「3組は準備ができたら下校、1組はこれから行くから教室に戻って」
廊下に響き渡る教師の大きな声も、すっかり学校を満たしている高揚に溶けていくばかりで意味をなさない。隣のサカガキさんが晃に身を寄せてそっと囁く。
「これ絶対、世界滅んでるよね。だって、すごいワクワクするもんね」
学校が早く終わったから、3人は集まる約束をする。ランドセルを置いたら、北通り公園に集合。世界の終わりを見にいくのだ。
メゾンM203号室では晃の父が眠っている。父はメゾンMから自転車で10分の場所で寿司屋を営んでおり、夜からの営業に備えて昼は眠っている。晃は持たされている合鍵で扉を開けて、中へ入る。ただいま、といったけれど、父は眠ったまま晃の帰宅に気づいていない。ランドセルを下ろして冷蔵庫を開ける。魚肉ソーセージのオレンジ色を1本つかみかけてから、ちょっと考えて2本増やしてポケットに入れた。
部屋を出ると、ちょうど千夜婦人も出るところだった。
「こんにちは、千夜婦人」
「あら晃くん、ごきげんよう。今日から学校?」
「そうだったんだけど、でもまた明日からお休みになりました」
「あら、どうして?」
「みんな、学校に来ないんです」
千夜婦人が首をかしげると、耳についた緑色の宝石が光を反射する。宝石というのは、長い時間をかけてできるものだと晃は動画で知った。石やマグマが、途方もない年月の間に流されたり揉まれたり押されたり潰されたり、時間の中で宝石になる。もちろん時間を経れば全てが宝石になるわけではないが、宝石は全て長い時間を経ている。その時間はあまりにも長く、その間に地球上の生き物は過去何度も滅んでいる。地殻変動、隕石の衝突、氷河期。宝石は、世界の滅亡に幾度も立ち会ってきた。そして今、千夜婦人の耳にあって、また新たな滅亡に立ち会おうとしている。
「小さいけれど、エメラルドよ」
晃の視線に千夜婦人が応える。
「主人が初めてくれたプレゼントなの」
そういって千夜婦人は少女のように笑った。晃は千夜婦人の「主人」という人を見たことがないな、と思った。
北通り公園で、ホッチャンとサカガキさんは既に待っていた。
「遅い!」
サカガキさんが持っていた木の棒を放り投げて晃に駆け寄る。
「そんなこといったって、うちが一番遠いんだから仕方ないでしょ」
「そんなことよりさ、どうやって見るの?」
ブランコから降りてやってきたホッチャンがいう。
「なにを?」
「世界の終わり」
少しの間の後、サカガキさんがいう。
「ママがね、この街だけとり残されてるんじゃないか、って」
ホッチャンと晃はサカガキさんの話の続きを待っている。
「うちのママの会社でもね、夏休みをとってから戻って来ない人がたくさんいるんだって。でも戻ってくる人もいて、何が違うんだろう、って見てたら、戻ってこない人はみんな旅行に行った人なんだって」
確かに、佐藤先生は夏休みにハワイに行くといってたし、サカガキさんと反対側の隣の阿部さんは北海道に行くといっていた。
「わたしは夏休み、ずっと街から出てない」
サカガキさんがいうと、ホッチャンが「僕も」と続ける。晃は永遠のように長かった夏休みに思いを馳せる。浮かぶのは家の天井と、ゲーム機、父親の店のカウンターに、週1回連れて行ってもらうプール、窓の外でぶら下がってる洗濯物、千夜婦人の肉じゃが。
「僕も。ずっと家にいた」
サカガキさんが神妙な顔で頷き、ホッチャンもつられて同じ顔になっている。
「じゃあ世界にはこの街だけが残っていて、その他の場所はもうすでに滅んでる、ってこと? 旅行に行った人たちは、滅んだ世界から戻って来れなかったってこと?」
「多分、その確率が高い」
小学2年生、3人の意見がまとまるのは早い。北通り公園の裏山を登れば、そのてっぺんに給水塔があり、晴れていれば県境の山並みまで見渡すことができる。世界が滅んでいるなら、給水塔でなにか見ることができるに違いない。3人は我先にと駆け出す。いつもは交互に手を引っ張っぱりあってのぼる坂を、休むことなく走り続ける。フェンスの隙間に体を通して、細い外周を慎重に辿っていく。
視界を阻む雑木林が途切れて広がった景色は、秋空のもとに澄んで静かだった。あんなビルなかった。池の色がおかしい。駅が小さくなっている。家の数が減っている気がする。車の数が少ない。
目を凝らしてなにか違うところを見つけ出そうとしたが、世界はいつもと変わらなかった。
「絶対、どこかに違いがあるはず」
サカガキさんと晃が諦めて座り込んでも、ホッチャンはしつこく間違い探しを続けている。なにこれ、とおそるおそる魚肉ソーセージをかじりなから、
「世界が滅んでないんなら、みんななんで戻ってこないんだろうね」
とサカガキさんがいう。
「戻ってこれないのかもしれない」
「なんで?」
「目に見えないバリアがあるとか」
「帰り道を行ってるはずなのに、いつも同じ場所に戻ってきてしまう」
「時間が止まってしまった」
晃の発言にホッチャンが待ったをかける。
「時間が止まる、ってさ、それすでに世界滅んでね?」
「なんで?」
「だって、時間が動いてないって、生きてないってことじゃん」
自分でそういって瞬間、ホッチャンは目を輝かせた。
「わかった、違い! 時間だよ、街の外は時間が止まってるんだよ。だから見た目で分からなかったんだ」
そういって一通り騒いだらホッチャンはようやく満足したようで、座って魚肉ソーセージの皮を剥き始めたけれど、遠い空の雲は秋の風に乗って流れていて、あの辺りではなんの時間が止まっているんだろう、と晃は首をかしげた。
高い声でじゃれ合う一団がドヤドヤとメゾンMへ雪崩れ込んでくる。階段の天板を叩く音が微睡を現実に引き戻す。
また今日から夏休みだー!
声が聞こえて、須磨子は安心する。よかった、まだ夏休みは終わってなかったんだ。
起き上がって窓の外を見る。青と薄桃の紫陽花がまだ咲いている。もう8月も終わりそうだっていうのに、まだ紫陽花が咲いている。須磨子は立ち上がって伸びをする。今日は晃くんのお父さんのお寿司屋さんに行くのだ。みんなでお呼ばれした。いつも息子がお世話になっているから、と。田原さんと千夜婦人は素直に喜んでいて、堺くんは恐縮していた。俺が変なゲーム教えてるとか、思われてない? そんなこと気にするような、変なゲーム教えてるわけ? 信じられない! いつものように岬さんが叫んで、みんなが笑う。楽しい。みんながいて楽しい。
でも。
須磨子は思う。ベッドに入るたびに思う。
ここにあなたがいればいいのに。あなたがいれば他に何もいらないのに。会いたい。あなたに会いたい。
美味しいお寿司とお酒の帰り道、晃が、この世界は滅んでいるのだといった。
「だって、もうみんないなくなってるでしょ」
「みんなって誰だよ。みんなここにいるだろ」
誕生日が来て、お酒を飲めるようになった堺くんが岬さんと晃の肩に手を回して笑う。晃はめんどくさそうに手を払い退けて続ける。
「今日はホッチャン来なかった」
「用事かなんかあったんだろ」
「サカガキさんはもうずっと前から来てない」
「お前がフラれたんだろ」
「ねえ、岬さんってさ」
晃に指名されて岬さんはかがみ込む。
「なあに?」
「家、遠いんでしょ? いつから家に帰ってないの?」
いつから家に帰ってないか? 岬さんは思い出せない。もうずっとずっと帰っていない。だって、もうずっとずっとメゾンMにいるから。
「晃くんはとても賢いですね」
田原氏が目を細める。
「そういうことじゃない!」
話の通じる大人がいなくて、心もとない晃は泣き出してしまう。千夜婦人が晃の頭をなでていう。
「ねえ、みんなで給水塔に行ってみましょうか」
「いつ?」
「これからよ」
酔っ払った大人の集団は暗い夜道を歩いていく。長い登り坂は、年齢的にも状況的にも辛い。でも励ましあって上っていく。時間はいくらでもある。大丈夫。フェンスの隙間をすり抜けたり、登ったりして、細い外周を支え合いながら進んで、視界をさえぎる雑木林の暗闇を抜ける。
並んだメゾンMの住人たちの眼下には世界が広がっている。それはいつもと変わらない、静かな夜のようだった。けれど、みんな気づく。遠い果てに月明かりを反射する灰色の壁がある。よく目を凝らすと、それは壁ではなく土埃であることがわかる。全ての建物が崩れて、土埃が舞っているのだ。それは一箇所だけじゃない。滅びは四方からそれはやってきていた。夜空に途切れることのない轟音が響いている。不意に満月が浮かんでいることに気づく。
滅んでいく世界に満月が美しいと、須磨子は思った。佐竹氏と見れたらよかったのに、と思って泣いた。隣にいた千夜婦人が須磨子の手をとる。須磨子が千夜婦人を見ると、千夜婦人は笑ったけれど、とても悲しそうだった。
「宝石なんかいらないから、主人ともっと一緒にいたいと思ってたの」
婦人の胸元のダイヤモンドが、月明かりを反射していつまでも煌めいている。
長い長い時間が過ぎていく。メゾンMにはもう須磨子しかいなかったけれど、時期遅れの紫陽花はまだ枯れていない。佐竹氏の母親の言いつけを守り、朝8時のアラームを鳴らし続けている。
今日もアラームがなる。もう何回目か分からない、どんなことがあっても須磨子はその音に従って起き続けてきた。でも今日はなんだか、もう少し眠っていたい気分。
アラームを消して、布団を被る。ひとりで広々使えるベッド。それもなかなか居心地がいい、と須磨子は思う。
奇しくも今日は、佐原氏の四十九日だった。
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