梗 概
もう一度産むから、まって
暗がりの中、青く発光しているのは右乳房だった。皮をはがされ剥き出しになった脂肪に静脈が浮いて、薄い光を反射している。膨らみはまだつややかで魅惑的な弾力を感じさせた。右の乳房から鎖骨、両肩、首、顔まで、ゆで卵の殻をめくるようにきれいに皮ははがされていた。骨と筋肉があらわになり、上をむいた顎によって首の筋肉が音を奏でんばかりに張っている。左の乳房だけ無傷で残されていたが、生前と変わらぬ珊瑚色の乳首の方がつくりもののようだった。表情ーーなどがあるのであればーーは闇に滲んで見えない。下半身は厚くついた脂肪のおかげで臓器の噴出はまぬがれていた。大きく開いた下肢の間に間抜けなほど丸い穴がお産後の形のまま開いて、敷かれた白い布にそこだけ血が滲んでいた。
奥へ何体も同じような女の体が並んでいた。女かどうかは分からない。正確には産むものの形をしている生き物、としか言えなかった。
その部屋は四隅に蝋燭が灯って明るかったが、高い天井の暗がりが空間を圧して静かだった。中央に椅子があり女が座っていた。我々の気配にも動じず、首を横に向けたまま静かに微笑んでいる。後ろで束ねた長い赤毛が緩やかにうねり、白い首筋に垂れかかっていた。小さな耳には赤みがさして、まだ幼い少女のようにも見えた。
「これはあくまで奥様であったものです。勘違いされぬよう」
隣からそう言われて、私はうなずく。妻であったものの頬には、私が打った時の赤い腫れがまだあった。
隣のものが進み出て体をおおっていた白い布をはがすと、見なれた裸体が現れた。いつもと違うのは、腹が大きく裂かれ中の臓器がよく見えることと、赤子を抱いていることだった。腹は皮、脂肪、筋肉、臓器、と一枚一枚キャベツの皮のように丁寧に開かれて、赤子がいた子宮の丸い空間がよく見えた。その下にはみ出してきた腸と一緒に、見たことのない臓器が膣の方からコブのように盛り上がっていた。
「これですよ」
隣から声がする。専門的なことは分からない。私はあいまいに頷き、赤子へ視線を落とした。上半身前面の皮を剥がれた小さな体には整然と臓器が詰まっていて、まるで弁当箱のようだった。
「ほら見てください、ここにもあるでしょう」
隣から差し出された指の先には、確かに産んだものと同じ謎の臓器があった。
産んだものも赤子も動かなかったから死んでいるようだった。しかし、産んだものは丸くて張りのある乳房に手を添えて、今まさに赤子に乳をやらんとしているように見えた。さらによく見ると赤子の乗っている方の足を、赤子が落ちぬよう支えているようにも見える。つい先ほどまでそこにあった時間が、今も続いているかのような光景が信じられなかった。
「まあ、そんなものでしょう」
隣のものがいった。
「新しい種が淘汰されることなんてのはよくあることですから」
それもそうかと思ったけれど、せめて親子の最後のために手を合わせた。
文字数:1199
内容に関するアピール
課題:「20世紀までに作られた絵画・美術作品」のうちから一点を選び、文字で描写し、そのシーンをラストとして書いてください。(2019年第9回)
作品名:切開された赤ん坊を抱く女性の解剖図
制作年:1764−1765
作者名:ジャック=ファビアン・ゴーティエ・ダゴティ
単為生殖が可能な変異体が生まれた村で、その秘密は女同士の連体により隠され続けるていたが、単為生殖しかできない個体が生まれたことで秘密が明るみに出て、危機を感じた者たちに絶滅させられる話。になる予定です。
何を書こうか考えているときにLUNAの崩壊があり刺激されてしまったので、今回は崩壊や破滅をテーマにしようと考えました。生物多様化の過程で生き残ることができなかったものにスポットを当てますが、短い時間の中の悲劇として描くのではなく、長い時間の流れの中にある淡々とした残酷さをこめられればと思っています。
文字数:381
もう一度産むから、まって
漆黒の長い髪が、汗ばんだ額に張り付いていた。産婆が取り上げるとすぐ赤ん坊はか細い声を張り上げて泣き出したが、女の顔は青ざめたままだった。
「誰の子か分からないの?」
産婆が拭った赤ん坊を差し出すと、女は受け取るそぶりも見せず、いよいよ恐怖をあらわにしてかぶりをふった。産婆は女の隣に腰掛けて緩めに絞った布を額に押し当てる。褐色の瞳孔が澄んだ青色の瞳孔を捉えると、産婆は女の胸元に手をかけて服の中にある乳房を乱暴につかんだ。女が小さく声を漏らし、さらに指先がまだほの白い先端に触れると、声はうめきに変わった。
はだけた乳房に赤ん坊が押し当てられると小さな口と手が膨らみを掴もうともがき始め、女は促されるまでもなく、赤ん坊の体を支えるため手を伸ばす。
「元気な女の子よ」
産婆の言葉に、女は顔を上げなかった。
「家主サマ」
「家主の子なの?」
女は顔をあげて強く振った。
「チガイマス。デモ、奥サマモ他ヒトモ、キットアナタト同ジ思ウ」
「じゃあ誰の子なの?」
「コレハ」
女の褐色の瞳に、蝋燭の光が重なって揺れた。
「本物ノアカンボウデスカ?」
産婆の記録には、女が全部で十三人の子を産んだことが記されている。一人目の子供を産んだ後、予想通り、使用人として雇われていた家の妻に疎まれ追い出された。その後、女は産婆の助手となり、二人は七年の歳月を共に暮らし、その間に八人の女の子を産んだとある。父親の記載はない。
寄り沿って歩く年若い女二人は、友人や家族には見えず、すれ違う人々は皆、振り返ってそれがなんなのか確かめようとした。互いの体に触れる手は、深い体温を知る者同士特有の空気をまとっていた。しかし女同士では子供が産まれるはずもなく、多くの男たちが好奇と下心をあらわにして女に近づいた。女はどうやっても人々の目を引いた。十九世紀初頭のウィーンには珍しい東洋人であったこともあるが、そのエキゾチックな見目を超えて、どうしても人の目を惹きつける何かがあった。しかし女と一夜を共にしたという者はついぞとして現れなかった。
ある日突然、彼女の結婚のニュースが飛び交う。相手は街で力をつけ始めていたブルジョアジーの三男だった。ベートーベンの歌付きの交響曲を見てすっかりのぼせ上がり、“An die Freude”、プロポーズしたらしい。男が女に執心しているのは以前から人々の知るところだったが、財力はもちろん、権力や美貌においてもより高位の者たちの誘いも退けられていたから、男の何が女の心を掴んだのかで酒場の話題は持ちきりだった。一方、女たちの話の中心は、彼女の九人の子と産婆が一緒に男の家に移ったことにあった。様々な憶測が飛び交ったが、産婆が女を利用し、安泰な生活を手に入れたとみる向きが主流であった。なんにせよ、誰が父親かも分からない子供を九人と、さらに姑か妾か分からないような女までのうのうと受け入れた三男坊は、ボンボンの木偶の棒として街の笑い者になった。
人々の嘲笑をよそに、女はその後、男との間に三人の男の子と一人の女の子をもうけた。夫婦と十三人の子供たち、そして生涯独身を貫いた産婆も、末長く幸せに暮したという。
X Y X X
噛み締められた薄い唇をこじあける代わりに、椅子の上で羊みたいに膨らんだスカートを捲り上げる。
「ちょっと!」
窓の外にやっていた目をようやくこちらに向けて、クララは私の手を払い除けた。
「やめてよ、こんなところで」
褐色の瞳がコンパートメント外の通路に人がいないか確認するように動いて、それから私の元に戻ってくる。彼女の目には今、私の緑がかった瞳が映っているはずだ。おくれ毛の垂れかかる首元に手をかけて引き寄せようとしたが、強い力で反発する。
「ほんとにやめて」
目に涙が浮かんでいるのを認めて、私は手を離す。
「ごめん」
ちょうど向かいの席に老夫婦が乗り込んできて、私たちはなにごともなかったかのように挨拶を交わす。夫婦はハンブルクからヨーロッパ各地を旅行しているのだといった。
「ドイツ・レクイエムは素晴らしかったですよ」
クララは窓の外へ目をやったまま相槌さえ打とうとしない。仕方ない。もう二度とウィーンへは戻ってこれないかもしれないのだ。
「ああ、ブラームス! ハンブルクではよく聞きに行ったよ。今やすっかりウィーンの人になってしまったようだけど」
列車が動き始める。それに合わせてクララの体が動き、人でごった返すプラットホームから作業者たちが手を振る積荷場に移り変わる頃には、体を窓と並行にして、身を乗り出さんばかりにしていた。いたわりと苛立ち、相反する気持ちが渦巻くが、大きく開いた背の肌に触れることを思うと下半身から熱いものが湧き上がって全てがかき消される。そっと手を添えると予想以上に彼女の体は反応する。しかし振り返りはしなかった。ハンカチを顔の横まで差し出してやると黙ったまま受け取った。
「彼女を故郷から連れ去ってしまうものだから」
私がそういって夫婦に詫びると、美しい白髪を丁寧に巻き込んだ妻は深い慈しみの表情を浮かべて
「そっとしてあげなさい、その悲しみは女の領分ですから」
といった。
鉄道というのは不思議なものだ。こうやって知らない人と気軽に話す親密さを作り出すと同時に、誰も入れないような静けさを自分の中に作り出すような気もする。老夫婦の話に相槌を打ちながら、歓迎されなかった私たちの出会いを、いつの間にか思い返していた。
クララの家はウィーンの郊外にあった。菓子で資産を築いた祖父が、破産した貴族から譲り受けたものらしい。古めかしい煉瓦積みの三階建てには蔦がはい、玄関扉の取っ手は錆び付いて窓ガラスはどれも靄がかかったように曇っていた。その家のことを私はよく覚えている。父に手を引かれて向かう教会への道すがら、その家だけ時間が止まっているようにも、ずっと先まで時間が進んでしまったようにも見えた。当然、子供たちの絶好の噂の的であった。
夕方通ったとき窓に髪の長いお化けがうつっているのを見たよ。
夜になると魔女が集まってるって。
違う、フランケンシュタインの研究所なんだって。
人が出入りしているのを見た者はおらず家に関する様々な憶測が飛び交ったが、目撃情報は窓にうつる女の影で一致していた。ならば女が住んでいるんだろうが、当時の私たちが欲しかったのは事実ではなく、身近に潜む異界の存在だった。
それから御伽噺よりも目の前の世界に心を砕く日々がすぎ、ヨーロッパ各地で連鎖して起こった革命が終わると、私は北の町で牢獄の中にいた。初めこそ絶望したけれど、牢獄でありながら“城“と呼ばれるそこは慣れればそう悪いことばかりではなかった。実際、建物は昔その一帯を治めていた伯爵の城を使っていたし、自分と同じ政治犯ばかりが収容されていて、そう危ないものもいない。外では決して会うことも叶わぬような人々と食堂で気軽に話すことができて、むしろ刺激な日々だった。城の隣には修道院があって、そこの修道士たちもよく城へ訪ねてきた。彼らは皆それぞれ科学技術に専門の分野を持っており、聖職者としての勤めと同時に研究活動も熱心に行っていた。彼らは名目上、我々罪人のためにミサを行いにやってくるわけだが、本題はその後の茶話会であり、そこでは修道士たちが持ってくる外の情報をネタに最新の技術や研究、思想や社会情勢、さらにこれからの政治のありかたまで活発な議論が交わされる。黒づくめの聖職者と白づくめの罪人たちの声が、石造の食堂の高い天井に朝までこだましていることもしばしばだった。
その中で特に親しくなったのがグレゴールだった。彼は気象学者として地元の人々の尊敬を集め、また教会の名物であるハチミツづくりの名手としても親しまれていた。しかしその傍で彼が長年続けているという研究の方に私は興味をそそられた。
「万物は数なり。統計をとると、多くのことが分かる。コレラや天然痘の予防接種も統計結果から導き出されたんだよ」
「それで、遺伝の法則も分かると?」
「ああ、そう」
「豆で? あのエンドウ豆?」
「君はエンドウ豆をバカにしてる? 神の完璧な創造物、エンドウ豆を!」
城を出た後、私はグレゴールの導きに従い、その北部の町に住み着くことになる。ウィーンまで鉄道で四時間。城と修道院のある十キロ四方ほどの中心地を出ればすぐに、オオカミの唸りが聞こえる深い森が広がるようなところだったが、私にはそれくらいが十分だと思えた。城の生活の中で自分は大きな政治を志せるような器ではないことを散々思い知らされていた。または、修道士たちの姿を見てここでも何かができると思ったのかもしれない。昔堅気な両親が民主制や憲法など見たこともない世界について理解できるはずもなく、ウィーンの家に戻っても犯罪者である息子に居場所があるはずもなかった。
地元の役場に職を得て、新生活は順風満帆に過ぎていった。新しい皇帝の治世が良い意味で人々の想像を裏切り始めると、革命の機運は下がり、私たちのような者への偏見も和らいでいった。その頃からちょうど増え始めたウィーンへの出張にかこつけて私は昔の交友関係を徐々に取り戻し、その中である噂を聞きつけたのだった。
「あの幽霊屋敷の娘が見合い相手を探してるらしい」
テーブルに身を乗り出し、幼い時から変わらない興奮したときにする癖で鼻先をしきりにつまみながら友人が言った。
「これまで住人の影すらほとんどなかったのに、ここ三年くらい急に人の出入りを見たって話が出てきてて。どれも夕刻を過ぎた薄暗い時間に、それはそれは年代物の格好をした年嵩の女を見たというので一致してる。これは確実だなと思って待ち伏せしたんだよ。そしたら噂通りの女が出てきたんで尾行して・・・そうだよね、俺も自分で思ってた。ポーの小説みたい! で、そしたら新しい通り沿いにできた洋品店知ってる? そうそう、あそこに入っていって、しばらくしてから山ほど荷物を抱えて出てきた。家まで戻る女の後ろをしばらくまた尾行してたんだけど、あんまり大変そうなんで流石にほっとけなくなって。え? それは思ったよ、チャンスだって」
荷物持ちとしての彼の申し出を女はありがたく受け入れ、それらの品々が家にいる娘たちのためのものだということを特に隠し立てすることもなく話したらしい。
「彼女の母親がちょっと変わった人だったみたいだね。それで今までみんな屋敷に閉じ込められるような生活をしてたんだけど、その母親が最近亡くなったから自由に動けるようになったって話だったよ」
それからまた何度か偶然を装って女に会ううちに、ある日、その依頼を受け取ったというのだった。
「年頃の女がいる。でもずっと屋敷の中で暮らしていたから、いきなり社交界へ出すのは難しい。誰かいい男性はいないか。だって!」
友人は意地悪な笑みを浮かべて私の脇腹を突いた。
市街を囲んでいた城壁を取り壊し、環状道路を作る工事が始まった頃だった。貴族たちのタウンハウスや、地方都市から引っ越してくるブルジョアたちのための集合住宅の建設で街の範囲はどんどん広がっていて、あの家の周辺も新しい建物や商店、カフェが立ち並び、すっかり郊外の様相は消え失せていた。そんな中、当時と変わらぬ姿で佇む屋敷は異様さを通り越して、わざと古くこしらえた見せ物小屋のようでさえあった。面会の申し出は事前に手紙で済ませてあった。友人に報告すると「アポ取れたのお前が初めてだよ」と目を丸くして、必ず報告するようにと私の手を握った。
緑青のノッカーは指にざらついて、不快がよぎる。顔に出ないよう、頬に指を当てて口角を持ち上げるとその表情を固定して扉が開くのを待った。もう無理、というところでようやく扉が開いて私は改めて表情を作り直した。
「初めまして、フランツ=マイヤーです。友人の紹介でお手紙を」
「エリザベート=デメルです。ようこそおいでくだいました」
デメル夫人の笑顔に、幽霊屋敷の女主人を思わせる怪しさは見当たらなかった。自分の分も買い揃えたのかファッションはすっかり今時の婦人であったし、後ろにまとめた漆黒の髪はまだ十分な艶をたたえ、灰の薄い膜が重なり合った瞳は果てのない深淵へ連れ去られるような恐怖もなくはないが、それよりも目が離せないような魅惑的な何かがあった。友人のあの意地悪な笑い顔を思い出す。お化け屋敷の探検隊として駆り出されたと思っていたのに、意外と秘められたエデンの園の住人になれるかもしれなかった。
薄暗いホールを抜けて客間へ通されると、中庭に向かって開いた大きなテラス窓から光が差し込んで、そこは暖かく明るかった。すっかり擦り切れた絨毯の床を踏みしめ進む。年代物の家具や調度が時間が止めて、昼下がりの光が静かな影を落としていた。デメル夫人が席を外す。出迎えも茶の給仕も彼女が仕切っているところを見るに、使用人はいなのだろうか。
中庭のそう大きくはないリンゴの木の影が伸びかかった野草の上に落ち、葡萄棚の青々とした葉の上で光が時を止めていた。小さな噴水に落ちる水の音と、時折聞こえる鳥の声が、ここに流れ続けてきたのであろう穏やかな時間を物語る。立ち上がりテラスへ出てプロムナードを進む。中庭へ降り立つ階段は建物に沿って折れ、二階と三階の踊り場に一つづつ扉があった。ふと、三階の窓に人かげを感じて目をやる。白い姿が通り過ぎたかと思うと隣の窓へ移り、さらに隣の窓へ、さらに隣へ、その姿は足早に移動していく。ついに建物を一周し、扉の前で途切れたかと思うと、それはゆっくりと開いた。中から出てきたのはまだ二十歳ほどにしか見えない女であった。そして女は全くの裸であった。赤い巻毛は洋装のために結い上げられているのに、身には何もつけておらず、それが不自然でもあったし、何か神的な魅力を醸し出しもしていた。一糸纏わぬ姿で、女はまっすぐに私を見下ろしていた。目を逸らさぬまま、一段一段、ゆっくりと階段を降りてくる。赤い陰毛に春の柔らかな光が反射して、その艶やかさに私は目を細めた。
「クララ!!」
後ろから叫び声が聞こえたかと思うと女は飛び上がって階段を駆け降り、二階の扉から中へ入って後ろ手に大きな音を立てて扉を閉めた。
振り返ると血相を変えたデメル夫人が客間から中庭へ降りてくるところだった。
「ああ、本当に・・・お見苦しいものをお見せしてしまって」
私が笑うと夫人は幾分安心したようだったが、それでも厳しい表情を緩めなかった。
「娘さんで?」
「あ、ええ。でもあの子は違うんです。さあ、どうぞ。中は安全ですから」
夫人の後ろについて振り返ると、すっかり着替えた女が悪戯っぽい笑みを浮かべて三階の窓から手を振っていた。
デメルの家には多くの女たちがいた。夫人の娘だけでも八人、さらに夫人の姉妹である婦人が三人いて、それぞれの娘たちがまた三人か四人ずついるようだった。しかし男の影を見ることは一度もなかった。あまりにも長かった籠城生活に退屈しきったご婦人方のお茶の相手として、私は抜擢されたようだった。出張のたびに、何人かの友人たちを連れだってデメル家へ訪問した。茶話会のこともあれば食事会のこともあった。女たちは世間の話題に疎く、話し相手としては少々退屈なところもあったが、それを差し引いても皆、人を惹きつける独特の魅力を持っていて、来る前は怖がったり疎ましがったりしていた同伴者たちも帰り道には揃って私に感謝するのであった。夫人の許可が降りればその後、個別に訪問しているものもいるようだった。
ある程度の時間を中で過ごした後は、同伴者たちに女たちを任せ、私は中庭へ出て取り囲む窓を見上げた。いつも三階の同じ窓に彼女は佇んでいた。私の姿をみとめると静かに手を上げて、それに応えて私も同じようにして見せた。
なぜクララだけ降りてこないのか、夫人に尋ねたことがある。
「ご存知の通り、あの子には少し問題があって。それに、とうが立っておりますから」
そう言ったきり、彼女についての質問にはもう答えてくれなかった。
だから私はチャンスを逃してはならないと思ったのだ。
屋敷に通い始めてちょうど二年経つ夏。晩餐会だった。たくさんの料理にワイン、夫人に若い娘たちも結構飲んでいた。最近はデメル家の人々も少しずつではあるが外の世界に出始めていて、会話の内容は新しい小説や詩の話から、皇帝の新しい政策、ドイツの新宰相、大通りにできる劇場の公演にカフェで囁かれる噂話、友人たちの会話にも一通りついていくことができていた。特に若い娘たちは外の世界に興味津々で、夫人の許可が出るときには友人たちと連れ立ってオペラや演奏会に出かけることもあった。いくつかのグループに分かれて熱心な会話が繰り広げられ、中庭まで賑やかな話し声がもれ聞こえていた。
それでもそこは静かで、外灯のない暗闇に虫の声が響いていた。薄灯を頼りに葡萄棚の下までいくと、籐の椅子に腰を下ろしていつものように窓を見上げた。クララの姿はなかった。目を閉じる。酒で熱った顔に夜風が吹き抜けて心地よかった。女しかいない奇妙なエデンの園。ここは一体なんなんだろう。実際、カフェやサロンでもこの家についての話題はよく出ていて、今や行ってみたいという人のオファーは絶えなかった。しかし夫人は依然として窓口を私を含む幾人かに絞って、連れてくる者の情報を事前に精査させてくれるよう申し出ていた。夫人のテストを通過するのはかなりの難関で、さらに通過基準はどれだけ事例が集まってみてもよくわからなかった。それがまた人々の興味をそそり、話のネタになり、挑戦してみたいという人々を増やしていくようだった。夫人の姉妹たちは揃って出戻りで、彼女らの子供たちも女ばかりなので(それが原因で離縁されたのであろうというのが人々の見立てだった)、夫人たちの母がその事実を恥いってこの楽園を作り上げたのだろうと皆考えていた。確かに、女ばかり生まれる家、男ばかり生まれる家というのは昔から言われている。ここはそういう家なのかもしれない。とはいえ、何か腑に落ちないところもある。しかしそんな謎を考慮しても、この屋敷には暗さや歪みのようなものが感じられない。女たちはみんな陽気で明るく、清潔で嫌味のない正しさがあった。何かあるとすればーー。
そのとき茂みの中に生き物の気配がした。闇の中、地をはう蛇のような、草をかき分けて進む狸のような、それとも全く知らない別のものかもしれない。生き物であろうこと以上は何も分からなかった。音を立てぬよう立ち上がり、身構える。茂みの動きから見て、思ったよりも大きいもののようだった。強くなる鼓動に、手を胸に当ててみる。こんな都会の中庭に何かいるとは思われない、北の森のオオカミより恐ろしいものがあるだろうか。しかし、いよいよ茂みの揺れからそれが正体を表したとき、私はすっかり怯えて目を瞑っている始末であった。しばらく経っても何もないので、ゆっくり目を開くと、そこには私の待ち続けていた可愛らしい生き物が葉っぱまみれの四つん這い姿でこちらを見上げていた。手を差し伸べると、彼女は手を重ねてくれた。土と枯草のざらつきの向こうに、柔らかな小さな手が、今ここに私の手の内にあることが胸を満たしていった。そのまま口付けたということが淫らなことだとも早すぎる行いだとも、今思い返しても、私は思わない。何度あの出会いを繰り返したとしても、私たちはあそこでそれ以外の選択肢を選ぶことはないだろう。
そして私たちは手を繋いで屋敷を抜け出した。酔っ払った婦人たちを出し抜いて、夜の街を駆け抜け、そして幾日かのホテルでの濃密な避難生活を経て、今、この列車に乗っている。
「お若い方は感化されやすいから、あなたも気をつけることです」
向かいの老紳士の言葉に我に返る。何に気をつければいいのか分からないので曖昧に微笑む。
「北部の方の修道院でも少し前、動物を使った実験を行う修道士がいるというのでそれは大変な騒ぎになっていましたね」
グレゴールのことだ。
「ああ、とんだ不届き者ですよね」
同意して見せると、白い髭を満足そうに撫でて紳士は頷く。
「本当に。最近の信仰心の乱れが私は空恐ろしいんですよ。先日話題になった『種の起源』はお読みになりましたか?」
読んではいないが、グレゴールの熱心な授業をワインと共に夜通し聞かされていた。
「いえ、お恥ずかしいことに」
紳士は再び髭を撫でて、首を横に振った。
「ああ、正解です。読まなくて結構。本当に酷い話です。原始、生き物というのは種類が少なかった。しかし長い時間の中で、“変異”と“自然淘汰”を重ねることで、種類が増え、“進化”したのだ、というんですよ」
「変異、というのは、毛の少ない羊ばかりいる中に急に毛の多い羊ができたり、耳の立った犬しかいない系譜から、耳の垂れ下がった犬が突然生まれたりする、あれのことですか」
「そうです。その変異体の中から、環境に適応したものが生き残る、つまり“自然淘汰”によって新しい種が決定されるというんです」
「それのどこが酷いんでしょうか?」
紳士が眉を下げたので、私も真似して眉を下げてみる。
「いいですか。生き物というのは全て個別に神が作りたもうたものです。神は全知全能の創造主です。必要であると神が考えるから創造されるのです。“自然淘汰”などあり得ません」
「確かに、神は創造主です。しかし、創造主である神は個別のものを作られるのではなく、もっと大きな一般法則、例えば“自然淘汰”などの法則を作られるのだ、とは考えられませんか?」
私の言葉に反応して、老紳士は持っていた杖を強く床に叩きつけた。窓側で小さく話を始めていた女たちは驚いてこちらに顔を向けた。
「ありえません! 神は全知全能なんですよ。法則なんてそんな女々しいものを神が作りたもうはずがありません」
怯えた様子で老紳士を見つめるクララの背に手を回す。褐色の瞳が空を弄るように動いて、私の視線とぶつかる。見つめ合う数秒の間に瞳はうるみ始め、腰に回した手が反応する。窓の外はもう北部の風景が流れ始めていた。いくらクララが好奇心が強いとはいえ、数日前に生まれて初めて屋敷をでたばかりの彼女にはあまりに刺激が多すぎるはずだ。全てを遮るようにクララが私の肩に顔を埋めて大きく息を吐いた。子犬のような彼女の振る舞いに老夫婦は目を丸くして、私は思わず吹き出す。はやく二人きりになりたかった。
町に着いてすぐ、職場には一週間の休暇を申し出た。その間にクララを休ませ(ていたかどうかは分からない)、私は二人住まいのための準備に奔走した。ウィーンで多少は揃えたものの、本格的に生活していくために必要な装身具に、家具、女性に必要な細々したもの。休暇最終日には一緒に修道院へ行くことにしていた。グレゴールに結婚の儀を執ってもらうためだ。本来であれば教会で司祭にお願いするべきだったが、逃亡中の私たちの立場では難しかった。
結婚前夜、家で二人の夕食をすます頃には、小さな町の空には漆黒の闇が垂れこめていた。少し小高くなった場所に立つ、三階建て集合住宅の最上階。眼下には数少ないながら賑わう酒場や、ガス灯の明かりが点々と霞んでいる。さらに遠い高台に夜中続く城の明かりが燃えていた。愛する北部の小さな町。ここで愛する人と暮らしていく。胸に穏やかな喜びが満ちていく。
呼ぶ声が聞こえてテラスから中へ戻ると、生成りの絹のガウンを羽織ったクララがティーカップをテーブルに並べていた。細い腕に手をかけて引き寄せるとその拍子にカップが落ちて砕け散った。あ、と声を上げた彼女を無視して無理やり膝の上に座らせると赤い巻毛が垂れかかる胸の膨らみに顔を埋める。
「ここに来たこと、後悔してない?」
胸の先に指を這わすと、大きな吐息が漏れる。
「きっと、お母さんたちが心配してる」
さらに反対側の突起に歯をかけると、体をのけぞらせてクララは声をあげる。
「いいの、私」
潤んだ褐色の瞳が私を捉える。それだけで私の魂が彼女にひれ伏したくて震えるのがわかる。
「あの家から出たかったの」
彼女の小さくて形の良い唇がゆっくりと開き、私の口元に重なる。舌が絡み合うと思考はゆっくりと閉じていく。たとえ彼女が私のことを愛していなくても問題はない。神の前で等しく同じ神の子であれば、彼女を私だけのものにできるのだから。
次の日の朝、祝福の天使より先に我々の元にやってきたのはデメル夫人であった。
クララを別室へ退避させ、二人で居間のテーブルで向き合う。夫人は思ったよりも落ち着いていた。
「強引に連れ出したことは謝ります。けれど、私は真剣です」
夫人は胸元の広く開いた黒のドレスを着ていた。肌はほとんど漂白したような白さを放ち、瞳の灰はいつもより深く、あまり長く見つめられた私は異界へ、そうちょうど彼女たちの屋敷がそうであったような場所へ連れ去られる恐怖に取り憑かれた。目を逸らすと、ようやく夫人が口を開いた。
「あの子はとても特別なんです」
「それは存じあげて・・・」
「そういうことではありません」
夫人の口調は強かったが、そこに怒りは感じられなかった。
「変わっている、とか、これまで暮らしてきた環境とか、そういうことではないのです」
うつむいて首をふる夫人があまりにも小さく見えて、私はその手を取った。
「一生大切にします。これから神の前で誓います、一緒に立ち会ってください」
夫人はうつむいたまま顔を上げなかった。私は彼女が何か言い出すまで手を握って、ただ待っていた。夫人の筋張った手が、私の手の中で懇願するように強く握られたり、信頼を求めて縋り付いたり、拒絶するように開いたりを何度も繰り返す。そして、ようやく顔を上げた夫人の瞳には、哀しみとも軽蔑とも諦めともつかぬものが浮かんでいた。
「あなたは必ず、あの子を見放す日が来ます」
「なぜそんなことを。神に誓ってそんな日はきません」
夫人は再び首を振ってみせたが、もうそこに先ほどのような弱々しさはなかった。
「ではもし神が見放されても、あなたはあの子を守り続けてくださいますか」
「なにを! 神は私たちを見放したりしません」
思わず荒げた私の言葉にも、夫人は怯むどころか、哀れみの色をさらに濃くしてこちらを見つめるだけだった。
「神がお守りくださるのは神が創造したものだけです」
夫人の言葉の意味が分からず私が黙っていると、扉が開きクララが静かに歩み出た。母子は駆け寄るとただ無言で抱き合った。
「もういいんです」
そう言ってクララは母の肩に両の手を乗せて微笑んだ。それはまるで彼女もまた母であるかのようだった。
「大丈夫とは思っていません。でも私、ここで生きてみたいたいんです」
クララがそういった途端、夫人は、世界の無慈悲が全てその身に降りかかったような悲壮な声をあげて泣き始めた。美しい顔は見事に崩れ、それを隠すこともなく、むしろ醜さを全て吐き出すかのように、夫人はいつまでも泣き続けた。後にも先にもあんな風に人が泣くのを見たのはあの時だけである。私は驚きのあまり、ちょっと笑ってしまったくらいだった。クララは夫人が泣き止むまで、その一部始終から目をそらさずじっと見つめていた。夫人も自身の泣く姿を全て見せつけるかのようにクララから目を離さなかった。そしてどれくらい時間が経ったのか、ようやく泣き声が止んだ時には二人は笑って、一緒に修道院へ行く準備を始めていた。夫人は微笑んでいった。
「修道院へ行くのは初めてなので、とても楽しみです」
二人の女を連れてやってきた私を見てグレゴールはいった。
「どちらの女性と先に結婚なさるおつもりで?」
夫人が頬を赤らめたので、グレゴールはわざわざ冗談だと言わなければならなかった。
「事情があると伺っていたもので。お会いできて光栄です」
手を差し出したグレゴールの手を握り返し、夫人は力なく微笑んでいった。
「彼の夢に主の使いが現れますことを。神われらと共にいますことを」
そして私たちは神に見守られ、無事夫婦になったのだった。
八ヶ月後、クララが子供を産んだ。
ちょっと大きいくらいの健康な女の子だった。私を含め、周りのものも彼女の妊娠に全く気づかなかった。つわりのような体調不良もなければ、六ヶ月頃まで腹の膨らみもほとんどなかった。それがふた月の間にあれよあれよと腹が膨らんできて、修道院でグレゴールの育てるエンドウ豆の受粉の手伝いをしている最中に産気づき、そのまま赤ん坊を産んだ。
腹にいた期間を逆算すれば私の子でないことは明らかだったが、誰の子なのかクララに問いただしても「私の子です」というばかりで埒があかない。怒りと失望でおかしくなりそうだったが、まだ外出の多くない彼女の妊娠に気づいている者は、グレゴールと出産に立ち会った産婆だけだった。二人には固く口止めし、世間体が保てたおかげで私はなんとか自我を保つことができた。それにそもそも、私と暮らす前に彼女がどんな男となにをしていようと、それは問題ではない。たまたまタイミングが悪かっただけだ。そう言い聞かせながら私は、赤ん坊を抱いてデメル家の前で立ち尽くしていた。
闇の中、扉を開いたデメル夫人の手にはランタンが掲げられていた。灯りが私の顔を照らし、次に赤ん坊、そして再び夫人の元に戻ってくると、無言のまま中へ招かれる。
「オイルを切らしていまして」
いつもの半分ほどしか灯りのない屋敷の中で、視界が霞む。暗い場所を見極めようとしても、明るい照明ばかりが目に入ってうまくいかなかった。夫人に導かれながら客間の長椅子に腰掛けると、夫人がランタンをテーブルへ置いて、私の隣へ腰掛け赤ん坊を覗き込んだ。小さな頬を人差し指の背で撫でて微笑みかけている。辛抱ならなくなって、私は言った。
「誰の子なんです?」
顔を上げた夫人の目に、ランタンの火が揺れる。
「クララの子でしょう」
何度も聞き飽きた答えに私は首を振った。
「違います、父親のことです!」
私の声に驚いたのか赤ん坊が泣き始め、夫人が腕を差し出す。私はぐずる赤ん坊を夫人の腕の中に落とした。
「赤毛の子は、両の家に必ず誰か赤毛のものがいないと生まれないと聞いています」
まだ薄くしか生えていない、けれども確実にそうだとわかる赤ん坊の赤毛を撫でながら夫人が言った。
「私の父方の祖母が赤毛だったと聞いていますが、母は東洋の人だったのできっと一族皆、黒髪だったと思います」
確かに、ここにいる夫人の姉妹たちは皆黒髪だった。あれは東洋人の母親から受け継いだものだったのか。彼女たちの独特な魅力の謎も少し解けたような気がした。
「クララは赤毛ですが、私の夫の家系には赤毛の者はおりません」
『両の家に必ず誰か赤毛のものがいないと赤毛の子は生まれない』のであれば、母の家系には赤毛を持つが、父の家系には赤毛がいないクララの場合、赤毛にならないはずだ。しかし、彼女は赤毛で、その子もまた赤毛として目の前にいる。
「クララは・・・」
私が言い終わらないうちに夫人は顔を上げて私の言葉を遮った。
「不貞の子ではありません」
そういった夫人が、嘘をついているようには見えなかった。
「あの子は私の子です」
しかしまた同じ言葉だけが繰り返され、私はさらなる猜疑の念とともに一人、北部への帰途に着いた。
今年の豆の収穫も終え、長年にわたるグレゴールの研究はいよいよ終盤を迎えているようだった。家にまでもち帰った豆を、テーブルの上に乱雑に広げながらクララは言った。
「黄色の豆と緑の豆を掛け合わせても、黄色の豆しかできない。だからこの場合、黄色が優性で緑が劣性」
小気味よい指の動きに合わせて、さやから小さな豆が飛び出してきては皿の中にコロコロと転がっていく。
「そして次世代に優性の特徴しか出てこないことを、グレゴールさんは優性の法則って呼んでる」
豆が増えていくに従い、反対側に空のさやが積み上がっていく。全ての豆を取り出し終わると、大きなボールに入った豆を黄色と緑によりわけて皿に移し替えていく。
「でもこの黄色の豆を植えてできた豆の中には、緑のものが出てくるの」
二つの人差し指を器用に使ってどんどん分けていく様はピンボールを見ているみたいだった。
「それも必ずこの割合。黄色と緑が三対一。これが第二の法則、分離の法則ね」
大体仕分けの終わった豆は、クララのいうように黄色が三、緑が一くらいの量で積み上がっている。
「すごいじゃない。立派な助手としてやっていける」
私がいうと、クララは恥ずかしそうに笑った。仕分けを全て終えると、さやと黄色の豆と緑の豆を麻袋に詰め直して、テーブルの上に散らばった髭や枯れたガクなんかを腕でザッとこそげてエプロンの上に落とした。
「グレゴールさんはこの法則がエンドウ豆だけのものじゃなくて、植物全般に応用できることだって言ってる。あと、動物もそうだ、って考えてるみたい」
ゴミを捨ててエプロンをとってしまうと、クララは私の向かいに座り直した。エンドウ豆のさやの色みたいな緑の服で、合わせてるの、と聞いたら、よくわかったね、と言って笑った。
「あなたが初めて」
頬杖をついてこちらを見つめるクララに反応して込み上げるものに抗うのも、そろそろ限界だった。赤ん坊をデメルの家へ預けてからもう三ヶ月が経っていたが、その間一度も彼女に触れていなかった。クララはあれから赤ん坊について何も言わない。産婆が親身になってくれたおかげで産後の肥立はよく、ひと月ほどで元とすっかり変わらない生活に戻った。赤ん坊のことが気にならないわけもないだろうから、夫人と手紙のやりとりしているのかもしれなかった。
何もなかったかのような生活。全てを水に流したかのような穏やかな時間。しかし、私は怒っていた。なぜクララも夫人も、何も話してくれないのか。終わったことなら、やましいことがないなら話してくれたらいいのに。
「エンドウ豆と、君の服の色の関係に気づいた人のこと?」
クララは笑ってうつむいた。
「もちろん、それもだけどもっと」
うつむいたまま首を振る姿はまるでいつかのデメル夫人のようだった。
「全部。ここでのこと、私にとってほとんど全てのことが初めてばっかり」
ほとんど全てのこと。淡い色のドレスの胸元が濡れて、濃い緑をしている。忘れたふりを装っていても、体は赤ん坊を探しているのだ。本人は気づいていない。
名を呼ぶ声に応じて顔を上げると、クララがまっすぐ私を見つめていた。
「抱いて欲しいの」
彼女が言い終わらぬうちに細い腕を引き寄せていた。
「私、あなたの子供が産みたい」
そのときのわたしは褐色の瞳から溢れる涙を、彼女の後悔だと思っていたのだった。
大きな扉を音をたてぬよう押し開けると、ちょうどグレゴールが壇上に進み出るところだった。外套を脱いで帽子をとると、一番後ろの席に腰をおろす。最前列の端では、たくさんの紙束を抱えたクララが流暢に話し始めたグレゴールに熱い視線を送っているのが見えた。
「私の父は農夫でした。長年の経験と知恵を大切にして、丁寧な仕事をしていました。父はよく言いました。二種類のものを一緒に育てるのが良い、と。例えばりんご。種類の違う二種類のりんごを交ぜて育てると、病気に強い、美味しい実がなる。他には羊。二種類の羊を一緒に飼うと、毛の厚い子羊が産まれる。幼い頃の私は純粋に思いました。どうしてなんだろう、と」
町の名を関した自然科学学会。会場は学校の大講堂で、聴衆は長机を一人一つ使っても半分も埋まっていない。そして、そのほとんどを後ろ姿からでも誰なのか言い当てることができる。修道士の同僚に、学校の教師たち、ハチミツを買い付けに来る業者の社長に、グレゴールが毎日気象情報を送っている郵便局の局長、町の取るに足りない事件ばかりで紙面を埋めるのに必死な弱小新聞の若手記者、議会の文部担当の老議員に至っては始まって五分もたたいないのにもう船を漕いでいた。
「なぜ父親も母親も茶色い目なのに、青い目の子供が産まれることがあるのか。白い肌の両親から褐色の子供が産まれることがあるのか。それらの秘密は全て、このエンドウ豆の中にあったのです」
クレゴールが合図すると、クララが大きな紙の筒を持って壇上に上がる。グレゴールと二人がかりで広げて黒板に貼り付けると、そこにはクララがより分けていたのと同じエンドウ豆の絵がいくつも並び、その横にAA、aa、Aa、などアルファベットが並んでいた。
グレゴールの研究について長い間、私はずっと聞いて理解してきたつもりであったが、こうやってひとまとめになったものを聞くと、改めてその凄さに圧倒された。これは形質の遺伝を解くことができる重大な鍵である。皆がぼんやりとしか捉えていなかったものの中に、神の明確な意志を、法則を発見したのだ。この法則がもし本当に植物、ひいては動物にも応用されるとすれば、農業に畜産、また水産業にも革命が起こるに違いない。さらに医学にも影響を及ぼす可能性がある。世紀の大発見であるに違いなかった。
グレゴールがお辞儀をすると、私は興奮のあまり立ち上がって叫び手をあげて叩いた。その音に驚いて目を覚ました文部担当が、よくわからぬまま歓声をあげて大きく手を叩いたので、周りもつられて立ち上がり手を叩いた。クララも目を潤ませながら必死で手を叩いていた。壇上で微笑みを崩さず、発表の内容とあまりにも不釣り合いな聴衆に何度も礼をするグレゴールは、ほとんど神々しいといってよかった。こんな素晴らしい発見の発表の場に立ち会えたことに、私は、胸の詰まる思いがした。
ここにいて、彼のそばにいることができて、本当によかった。
そういった私の背中をなでるクララの手から、愛とは少し違う、もっと深い、慈しみのようなものが流れてきて、その晩、私は彼女の腕の中で深い眠りについたのだった。
役場から家までの道が、こんなに長く思われるのは初めてだった。町には初夏の爽やかな風が吹き抜け、高く青い空に白い入道雲が切り立ち、すれ違う人々は皆なぜか、幸せそうな笑みを浮かべている。修道院からの年若い使者が、ほとんど掛け出さんばかりの速さで進む私の後ろからついて、状況を説明した。
「産婆はすぐにお宅へ向かうと言っておりましたので」
「ああ、ありがとう」
「奥方にはグレゴール修道士が付き添ってくださってますので」
「ああ、ありがとう」
クララのお産は二度目のはずなのに、私の心持ちは全く初めて経験するものだった。膨らんでくるクララの腹に向かって、凡庸な親バカを散々演じてきたというのに、いざ目の前に本物が現れるとなるととにかく早くと気がせくばかりで、なんの準備もできていなかった自分に気づく。押し寄せる不安を振り切るように私はさらに歩を早め、使者は小走りでその後をついてきた。
寝室の扉を開けると、ベッドの脇の椅子に座っていたグレゴールが立ち上がった。それと同時に赤ん坊を抱いて横たわるクララと目が合う。しかしそれは、今、愛するものの子を産んだばかりの女のものではなかった。
その目を私は見たことがあると思った。子供の頃、開いた図鑑の中。あれはドードーだ。隔絶された島で天敵もおらず悠々と暮らしていたのに、人に見つかってしまったせいであっという間に絶滅したという不幸な種。クララはなぜか、その絶滅した生き物と同じ目をしていた
私が歩み出るとグレゴールが椅子をひく。ベッドの側まで行くと、クララは赤ん坊を差し出して言った。
「私たちの子供です」
怯え切った茶色の瞳から涙がこぼれ落ちる。
「元気な女の子だ。お母さんと同じ、美しい赤毛だね」
グレゴールの言葉に応じてクララが微笑む。グレゴールはクララの涙を喜びによるものだと思って微笑み返している。
「ありがとうございます、修道士のおかげです」
グレゴールは微笑んだまま私の方へ向き直って言った。
「さあ、抱いてあげなさい、ほら」
しかし私は赤ん坊を見つめたまま、手を伸ばすことができなかった。これは、前と同じものだった。
「赤毛の子は、両の家に必ず誰か赤毛のものがいないと生まれないと聞いたことがあります」
クララの目に再びあからさまな恐怖の色が戻り、グレゴールは何事かと首をかしげる。
「これは赤毛という形質が劣性であることを意味するのでしょうか」
グレゴールはハッとして、それから嬉しそうに微笑んで頷いた。
「そうだね、民間に伝承されている遺伝に関するそういった言説にも法則がきっと当てはまる。ぜひ確認していかなければ」
「私の家には」
グレゴールの言葉が終わるのを待ちきれず、私は叫ぶ。
「赤毛のものはおりません」
私は自分の短い髪を引っ張って見せる。
「私はご覧の通りブロンドです。父は私と同じブロンドですが、母は栗色ですし、各々の屋敷の肖像画の中にはブロンドと栗毛、黒の髪のものが混在します。けれど、赤毛のものは一人もおりません」
話しているうちに、どうしようもなく攻撃的で破壊し尽くしたい衝動が沸き起こってくるのを止められなかった。赤ん坊を守るように抱きしめて怯え切っているクララを見ると、もうその衝動を抑えることはできなかった。
「このアバズレが!!!!」
赤ん坊を取り上げて床へ叩きつけると、クララの白いネグリジェの胸ぐらを掴んで頬を思い切り殴りつけた。クララの悲鳴が響き渡り、突然のことに呆気に取られていたグレゴールが慌てて私をクララから引き離した。
「待ってください」
目の傍から血を流し、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をしかめ、クララが懇願する。
「もう一度産みます」
グレゴールに後ろからはがいじめされる私に向かって身を乗り出し、ほとんど叫ぶような声でいう。
「もう一度産んでみますから、お願いですから、見捨てないでください」
ほとんど絞り出すようにそう言ってベッドから立ち上がると、床に落ちて声も出さない人形のような赤ん坊を拾い上げて、クララはその場に崩れ落ちた。
赤ん坊は即死だった。硬い床に向かって、大人の男が在らん力を全てかけて叩きつけたのだから当然だろう。死産ということでグレゴールが取り計らってくれて、クララも修道院の空いた部屋に一時預かってくれることになったが、早いうちにどうするか決めなければならなかった。
様々な疑惑が持ち上がっては消えていき、そして振り上げた赤ん坊のあの異様な軽さが何度も手に蘇った。窓から町を見下ろす。土っぽい色の建物に囲まれた道に蜃気楼が立ち、その中を手団扇で仰いだり日を避けたりしながら歩く人々が揺らめいている。こんな狭い町で、彼女は誰と関係していたというのだ。強い日差しが視界を軋ませて、もう何も考えたくなかった。
考えることに疲れ切った二週間後、デメルの家に事の顛末をしたためた離縁の申し出を送ってから、修道院へ出向いた。応接間で二人きりになるとグレゴールは黙って私を抱きしめた。
「発表したものの反応はどう?」
体を離すと、涙を見られるのが恥ずかしくて私がいうと、グレゴールは小さく笑った。
「地元の新聞に書いてもらった」
差し出された小さな記事を見て私は声を上げた。
「これだけ? あの世紀の大発見が? 他には?」
グレゴールは首を振った。
「信じられない、ダメだよ。ちゃんとあの研究の価値がわかる人たちに見てもらわないと」
「ああ、だからあの後、発表の内容を刷ったんだ。ちょうど今日、いろいろなところに送ってみた。そう、ダーウィンにも」
「『種の起源』の? それはすごい! きっと彼なら分かってくれる。いや、そういう人にしか分からないのかもしれない」
「どうだろう、彼の視点はちょっと大きすぎるから、エンドウ豆なんかに興味を持ってくれるか」
「そんなことない、絶対大丈夫」
グレゴールは眉を下げて、ありがとう、と笑った。
クララはもうしばらくなら預かれるということで、できるだけ早くことを進めるよう約束して、私たちはかたく手を握り合った。
「神の御加護が在らんことを」
しかし、私たちの元に神からの使者は現れなかった。ひと月経ってもデメルの家からは連絡がなかった。そしてグレゴールにもダーウィンからの連絡はないようだった。私はグレゴールを励まし続けたが、日に日に彼が塞いでいくのが手にとるように分かった。三ヶ月が経つ頃、クララのことはもう面倒が見れないというので、いよいよウィーンに出向こうとしていたところへDの封蝋で閉じた封筒が届いたのだった。
『親愛なる息子へ
あなたからの手紙を受け取ってから随分と日が空いたことをまず、お詫び申し上げます。待つ身のあなたにはきっと大変長い時間だったと思います。けれど、私が生まれてからずっと、正確にはそれよりもっと前から、この家が抱えてきた時間にくらべたらとても短い時間であることをこの後の内容を見て、あなたが理解してくれることを願っています。
真実をあなたに明かすべきか、随分と悩みました。これは私たち一族の存続に関する重大な決断です。様々な過去の地点に戻ることを何度願ったかわかりません。けれどもう、どこに戻ることもできないのです。だから真実をお話することにしました。
デメル家には、一人で子供を産むことができる子が生まれることがあります。産婆なしに、ということではありません。男性との交渉がなくとも、ということです。
始まりは私の母でした。幼い頃に東洋から流れ着いた母は、当時雇われていた屋敷で突然懐妊します。それが私です。父なる人はいませんでしたが、そんなことを信じてもらえるはずもなく、母は不貞を疑われ家を追い出されます。幸いにも私を取り上げてくれた産婆がよくしてくれて、二人は一緒に暮らすことになります。その間にも母は八人の子を産みました。もちろんみんな一人で産んだのです。しかし、女二人の生活で九人の子供を育てるのは経済的にもまた世間的にも難しいものがありました。特に男たちからの介入は凄まじいものでした。母も産婆もそして幼い子供たちまでも、何度もレイプされかけ、その度に暴力を受けました。二人の生活に限界を感じた産婆は、母をどこか安全な家に嫁がせるべきだと考えました。母は美しく、そのために多くの暴力の標的にもなりましたが、本物の愛を授けようとしてくれる人も少ないながら存在しました。そして母はその中で最も大きな愛を持つ父と結婚することになりました。父は生涯真実を知らぬまま、私たち九人の子供と産婆も丸ごと受け入れ愛してくれました。父は本当に素晴らしい人でした。父は私の本当の父ではありませんが、私は父のことを今でも深く愛しています。母も父を愛しました。父と結婚してから母は、父との間に三人の男の子と、女の子を一人、産みました。父はとても特別な人でした。父のような人はいませんでした。そのことをよく知っていた産婆は、子供たちをよく検査し、母と同じ子供たちを屋敷の中から出しませんでした。一時期は何とか普通に暮らせるよう取り計らったようですが、三人目の妹が離縁を言い渡されて出戻ってきたときに諦めたようです。私や妹たちが生んだ子供たちの中には夫の子もいたと思うのですが、そんな違いが理解されるはずもなく、皆、猜疑心にのまれた夫たちの壮絶な暴力の餌食になっていました。
私には弟もいます。母と父の子です。その中の一人だけ、父とよく似た一番上の弟だけが、家の秘密を知っています。産婆は彼を医者にしました。彼のたくさんの可哀想な姉たちのために。そして彼が生まれたばかりのクララを診て言いました。「この子は少し違うみたい」と。彼にも、クララが他のひとりで産める姉妹とも体の作りが少し違う、以上のことは分からないようでしたし、私たちも真実は分かりません。けれど真実がなんであれ、この子が「少し違う」のであれば、なお一層隠さねばならないということだけは分かっていたのです。
そう、分かっていたのですが、母が亡くなったとき、私の中で何かがふっつりと切れたような気がしました。どうして私たちはこんな小さな屋敷の中で、隠れて暮らしているんだろう。それから少しずつ、外との接点を持つ方法を模索し始めました。そんな時にあなたの友人と出会い、そしてあなたが現れ、そしてついにクララを連れてゆきました。
ここからは私の憶測でしかありませんが、クララはもしかすると、一人でしか子を産めないのかもしれません。もしそうであれば今後あの子があなたといても、あなたの子を産むことはないでしょう。けれど、これだけは言えます。クララが産んだのは間違いなく、あの子の子であって、他の誰の子でもありません。
もし、これらのことを受け入れられないのであれば、クララを屋敷にお戻しください。そしてどうか私たちのささやかな暮らしだけはお守りいただけるよう、切にお願いいたします。 深い信頼を込めて エリザベート=デメル』
手紙に目を落としたまま、グレゴールが言った。
「赤毛は劣性か、と言われたことがありましたね」
なんのことか思い出せずにいると、グレゴールが続ける。
「もしあれが生殖行為なしに子を産んだのだとすれば、子供の赤毛について法則が成り立ちます。確か、初めの子も赤毛でしたね」
私が曖昧に頷くと、グレゴールは目を輝かせた。
「ああ、そうだ。あれは赤毛の劣性遺伝子しか持っていない。単為生殖しかできないとすれば、あれは赤毛の子しか産めないはずだ。あんなに私の元に通っていて、あんなにお前を愛していて、他の男と何かあるはずないと思っていたんだ。ああ、これで全ての辻褄が合う」
嬉々としたグレゴールが立ち上がってこちらに歩み寄り、ほとんど叫びのような声を上げた。
「もう一度産ませてみよう!」
私が返事できずにいると、我に返ったのかグレゴールは頭に手をやって、長椅子に腰掛けた。石造の冷たい客間で、私たちの間の長い沈黙が凍りついていく。
私は友人としてのグレゴールに縋ろうと、つい数十分前に夫人からの手紙を差し出した。しかし今、目の前にいるのは最上級の獲物を見つけたライオンであった。私はあまりのパニックのため、完全に忘れていたのだ。彼が友人である前に、とても優秀な研究者であったということを。
手紙に手を伸ばすと、それを遮るようにグレゴールの手が重なる。
「この話が本当なら、あれは人じゃないよ」
顔を上げると、グレゴールの厳しい目がこちらを見つめていた。
「単為生殖ができるなら、産む者しか必要なくなる。しかし、神は自らの似姿としてまずアダムを作りなさったんだ。だから、あれは神の創造物じゃない。冒涜だ」
「クララは私の妻だよ。神の前でそう誓った。君が一番の証人だろう?」
グレゴールが私の手を握る。離そうとするが、力が強くてふりほどけない。
「私も間違っていた、謝るよ。心が濁ってたんだ」
「私は、魔女か何か・・・人でないものと結婚したというのか」
「そうだ」
「そんな・・・」
そんなことがあるだろうか。愛しいクララ。ようやく彼女が愛しているのは私だけだと分かったというのに、もう『彼女』でもないだなんて。でもあれが人でないとすれば、もうこれ以上、何も考えることはない。そう思うと、ここ最近ずっと感じたことのなかった安らかな気持ちが広がって、私はいつの間にか涙を流していた。
グレゴールの手から力が抜け、そして再び私の手を柔らかく握る。私はグレゴールの手を額に引き寄せて泣いた。思い起こせばいつも私のそばにいてくれるのはグレゴールだった。
「神は自らが創造したものを見放したりしない。大丈夫、私たちは大丈夫だ」
私たち。その中にもうクララは入っていなかった。神の創造物。神は何を作りたもうたのだろうか。
「神が創造したのは法則ではなかったのか?」
クレゴールの目が少し揺れたような気がしたが、すぐにいつも穏やかなものに変わる。しかしそれは穏やかすぎるような気もした。
「突然変異は神の法則じゃない。その証拠に、ほとんど全ての変異体はすぐに死に絶える運命にある。そんな残酷なことを神がなさるはずがないだろう?」
それからしばらくして、グレゴールの通告に従い、修道院に皇帝直属の紋章をつけた軍がやってきてクララは連れ去られた。ウィーンのデメル家にも同じ調査が入り、夫人たちはどこかへ収容されたようだとカフェの噂で聞いた。
a a a a
暗がりの中、青く発光しているのは乳房だった。皮をはがされ剥き出しになった脂肪に静脈が浮いて、薄い光を反射している。膨らみはまだつややかで魅惑的な弾力を感じさせた。右の乳房から鎖骨、両肩、首、顔まで、ゆで卵の殻をめくるようにきれいに皮は剥がされていた。左の乳房だけ皮を剥がれることをまぬがれていたが、そのせいで逆に偽物に見えた。骨と筋肉があらわになり、上をむいた顎によって首の筋肉が音を奏でんばかりに張っている。表情ーーなどがあるのであればーーは闇に滲んで見えない。下半身は厚くついた脂肪のおかげで、臓器の噴出はまぬがれていた。大きく開いた下肢の間に間抜けなほど丸い穴がくり抜かれて、下に敷かれた白い布にはなぜかそこだけ血が滲んでいた。
奥へ何体も、同じような女の体が並んでいた。女かどうかは分からない。正確には産むものの形をしている生き物、としか言えなかった。
解体物の間には壺のようなものがいくつも逆さに吊り下げられている。見つめている私が哀れになったのか隣から「子宮ですよ」と声がした。丸く膨らんだ状態で乾燥させた子宮は丈夫であるから、何かの入れ物として使うのかも知れない。心臓や腎臓が落ちているので、踏まないよう気をつけながら進む。どれも嘘のように美しかった。
その部屋は四隅に蝋燭が灯って明るかったが、高い天井の暗がりが空間を圧して静かだった。中央に椅子があり、女が座っていた。我々の気配にも動じず、首を横に向けたまま静かに微笑んでいる。後ろで束ねた長い赤毛の髪が緩やかにうねり、白い首筋に垂れかかっていた。小さな耳には赤みがさして、まだ幼い少女のようにも見えた。
「あれはあくまで奥様であったものです。勘違いされぬよう」
隣からそう言われて、私はうなずく。妻であったものの頬には、私が打った時の赤い傷跡があった。
隣のものが進み出て体をおおっていた白い布をはがすと、裸体があった。それはあの中庭で初めて見たときとまるで変わっていなかった。違うのは、腹が大きく裂かれ中の臓器がよく見えることと、赤子を抱いていることだった。腹は皮、脂肪、筋肉、臓器、一枚一枚キャベツの皮のように丁寧に開かれて、赤子がいた子宮の丸い空間がよく見えた。その下にはみ出してきた腸と一緒に、見たことのない臓器が膣の方からコブのように盛り上がっていた。
「これですよ」
隣から声がする。専門的なことは分からない。私はあいまいに頷き、視線を落とした。上半身前面の皮を剥がれた赤子の小さな体には整然と臓器が詰まっていて、まるで弁当箱のようだった。
「ほら見てください、ここにもあるでしょう」
隣から差し出された指の先には、確かに産んだものと同じ謎の臓器があった。
産んだものも赤子も動かなかったから死んでいるようだった。しかし、産んだものは丸くて張りのある乳房に手を添えて、今まさに赤子に乳をやらんとしているように見えた。さらによく見ると赤子の乗っている足は、赤子が落ちないように力を入れているようにも見える。目も開いていて微笑んでまるで死んでいるとは思えないし、これで解体されたというのはもっと信じられなかった。
「まあ、そんなものでしょう」
隣のものがいった。
「新しい種が淘汰されることなんてのはよくあることですから」
それもそうかと思ったけれど、せめて親子の最後のために祈る。
グレゴールは修道士であるから、ここに来ることはできず、そのことをとても悔やんでいた。だから私は母子の様子を仔細までくまなく観察する。そしてこの報告がきっかけで、クレゴールとダーウィンの対話が実現し、ヒトの進化と遺伝に関する研究が飛躍的に進んだのは後世のよく知るところである。
ここにいて、彼のそばにいることができて、本当によかったと、私は神に感謝している。
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