赤味噌を食べてはいけない
味噌カツ専門店・サクトンが大学最寄りに二号店を構えたのは、春も終わり、学生たちが少しずつこの街に慣れ親しんできた頃であった。
目を彩るほのかな桜の花々はもうすっかり過去のものだ。葉桜の下に学生たちは集い、どうでもいい話を繰り返す。昼時の学食はひどい混み具合で、野外へトレーを持ち出す学生もいる。
一帯は学生街と言うにふさわしい賑わいを見せ、各種の飲食店が売上を競う。同期の柳は外へ出ることを好んだ。下宿したての私は、最も頼れる友人に連れられるまま、様々な店を渡り歩いた。そういうわけで、今日のところはサクトンが私たちの昼を彩った。
「良ちゃん食べやあ」
柳に差し出された味噌カツの味噌は想像を超える水っぽさで、茶色と黒を足して二で割らなかった成れの果てみたいな、複雑で濃い色をしていた。私は箸でカツを液体に浸し、そのまま一気に口へ運ぶ。土みたいな塩分がガツンと味蕾を刺激する。味噌が口の中で動いた気がして、思わず舌を震わせた。
「おいしい?」
柳の朗らかな声に報いるため、無理して首を縦に振った。母親の声が脳裏に響く。
「水は不味いし、下宿は狭いし、人間冷たいわよ。何より、あいつらにはユーモアってもんがないんだから」
彼女は顔をしかめて、確かそう言った気がする。眉間を寄せ、唇を半ば開き、顔面に対するパーツの割合を縮小させながら。
「あそこは排他的な異国だ。気をつけて。油断していると、名古屋の土地に飲み込まれてしまう」
名古屋を謗る母を見ていると、何だか気分が悪くなった。
昼には毎日サクトンへ行った。連れは柳のことが多かったけれど、二外でできた友人や先輩が加わることもあった。授業終わりは大学近くの博物館へ行ったり、名駅や栄へ羽根を伸ばしたりした。いつだって昼はサクトンで済ませた。学食は混んでいるし高いから、というのが柳の言い分だったものの、私は次第に疑問を覚えた。サクトンだって混んでいる。
サクトンは順調に店舗を拡大しているようだった。ピンク色の子豚のロゴマークを見る機会は見る間に増え、しまいには主要な観光地全てに根を下ろした。犬山城の麓、テレビ塔の真下、どこであろうと子豚の笑顔が並んでいた。他府県に比べて見すぼらしいそれらの観光スポットを見る度、私は気分が悪くなった。この街は何だか空っぽだ。
他にも気づいたことがあった。どこもかしこも味噌で満ちている。居酒屋のアテもスクールランチの献立も、赤くて濃い独特の風味をまとう。パックに詰められた味噌は市内のスーパーで飛ぶように売れる。赤味噌はこの街の生活に溶け込んでいる。そして私たちは味噌カツや味噌煮込みうどんを通して、毎日それを摂取する。はっきり言って、私はあの味が好きではない。煮詰まる感情と共に味噌の残骸を吐き出すことも少なくなかった。口をゆすいでいる際も街の匂いは薄まらない。
最後にサクトンを食べた日、私はファースト・コンタクトの第一目撃者となった。どうも柳の様子がおかしく、味噌を食べずに挙動を観察していた時のことだった。
「味噌を食っても味噌にはならない」と彼は唐突に呟いた。「でも、味噌に近づくことはできる。君はまだこの街に染まってないよね。これだけ毎日名古屋めしを食べさせてるのに。昨日なんか、味噌煮込みうどんを奢ってあげたのに」
柳が私の目を睨む。彼の瞳は奇妙な赤茶だ。
「我々は君たちホモ・サピエンスを認知しているが、君が我々を認知することは敵わない。認知の非対称性が我々を味噌たらしめている」
「何か別人みたいだね」
「しょうがない。肉体を間借りしているから」
柳の口からは今にも味噌が溢れ出そうだった。
「君たちは分裂を繰り返すが、我々は合体していく。それだけのことなんだ」
「味噌中毒なんじゃないの」
「この都市には我々が溶け込んでいる。開発の最初期から現在に到るまで。我々は不定形生物であり、この惑星に落ちてきた。ところが今は弱体化し、思考の維持さえままならなくなった。同胞の死骸や肉体の一部は、調味料という仮面を被り、この街の土壌、人間、あらゆるものに溶け込んで、我々の生存と再起に適した街を形作る。名古屋という街が濃縮すればするほど、我々は……」
そこで声は途切れた。元の通りの柳がこちらをきょとんと見つめていた。味噌が生物? 馬鹿馬鹿しい。人類史上初のファースト・コンタクトが、サクトンで交わされてなるものか。それでも私は柳の赤茶の瞳を直視できなかった。
次の春が来る前にコロナウイルスが流行った。学生街は本物の抜け殻となり、サクトンはいつの間にか潰れてしまい、跡地にはテナント募集の寂しい張り紙だけが残った。柳とキャンパスで会うこともなくなった。私はあの日以来、味噌を口にできずにいる。茶色い塊を見る度に怯える。もし味噌の言った「濃縮」が完了してしまったら、一体この街はどうなってしまうのだろう? そもそも、濃縮とは何なのか? 消化と吸収の際限ないサイクルが、彼らの浄化のプロセスなのだろうか。
新参に一つだけ伝えることがあるとするならば、赤味噌を食べてはいけない。
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内容に関するアピール
名古屋めしに囲まれて育ちました。名古屋めしは概ね茶色く、味が濃いことで知られています。その癖の強さのせいで、評価は大きく割れているのです。私は名古屋出身ではないため、未だに味噌の味を受け付けません。ちなみに、「さくとん」は実在するお店です。私の通っている大学は、決して大規模でもきれいでもありませんが、周囲に美味しいごはん屋さんが多いことだけが取り柄です。そこら一帯には、名古屋が普段見せない雰囲気が満ちています。ともあれ、読んでくださった皆様が、名古屋めしを口にしてみようと思ってくだされば、一名古屋市民としてこれ以上嬉しいことはありません。
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