梗 概
風を痛む
中央アジア北部に位置するQ地区の運命は、地下に眠る希少ガス資源の発見をきっかけとして大きく変わる。採掘機械が昼夜を問わず土地を割り、地中のガスを抽出する。赤味を帯びた灰色の砂塵が大気中に巻き上がる。立ち退き要請に従わなかった意固地な現地住民たちは、体を特殊繊維で防護しながら、採掘機械に恨みを叫ぶ。
地区を吹き荒ぶ突風は、ただの風ではもちろんない。砂塵に触れると、痛みが走る。地層に封じられていた赤砂の微粒子は、人体の侵害受容器を針のように刺し、体内の神経に電流を流す。
18歳のカミラは、人生のほとんどをQ地区で過ごしてきた。カミラは他の若者と異なり、外国語など学ばないし、都市への移住も拒絶した。志を同じくする住民は、Q地区一大きなマンションで共同生活を始める。時折特殊繊維を身にまとい、採掘の様子を覗き見るが、その度に風は痛みをもたらす。住民の多くはマンションに引きこもり、合成麻酔で暇を潰す。カミラは一人で土地を踏み固める。それが彼女にできる唯一の抵抗だから。
風が吹き始めて一月が経ったころ、アリョーナがQ地区に帰省してくる。彼女は国立の医学院を卒業した後、疼痛の研究に従事していた。周りの反対を押し切ってQ地区でのフィールドワークに踏み切ったのだ。アリョーナはカミラと親交を深め、共に地面を踏み固める。痛みに耐えかねた住民は続々とQ地区を去る。カミラもまた、顔を歪めることが増える。
カミラの看病に腐心するアリョーナは、外出時に誤って風を吸い込んでしまう。喉に激しい痛みが走り、アリョーナはその時初めて、風の成分に疑問を覚える。痛みの原因は、粒子ではなく、より性質の悪い有害物質なのではないか。そう思った彼女は、海の向こうのウイルス学研究施設に大気を送る。電子顕微鏡と遺伝子シーケンサーは、風の正体が、ウイルスにも満たない有機体、飛翔を覚えた遺伝子の欠片であると結論付ける。
Q地区の開発は止まり、新たな機械が土地を特殊樹脂で埋め立てる。それでも風が止むことはなく、遺伝子の欠片は増殖を続け、風も密度を増していく。国境を超えた疼痛の連鎖が、痛みを嘆く人々の声が、ただそこら中に響いている。人々は一日の半分以上を寝て過ごすようになる。痛みは文明の担い手を殺す。人々は動くことを放棄し、家の中に引きこもる。運動機能は小児を中心に激しく衰え、麻酔に溺れてゆくばかり。アリョーナは理解する、疼痛は世界を支配したのだと。
カミラとアリョーナは、マンションで暮らし続けることを選ぶ。麻酔に耐性がついてしまった二人は、毎晩泣きながら眠りにつく。人類の行く末に絶望したアリョーナは、侵害受容器の機能停止を試みる。それは果てしなく優雅で、緩徐なる死への階段である。
カミラの頭を撫でながら、アリョーナは子守唄を歌う。その吐息はカミラの皮膚に突き刺さり、二人はまた、同じ痛みを共有する。
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内容に関するアピール
「『何か』が増えていく、あるいは減っていく物語を書いてください。」という課題を選びました。
私はドラえもんのひみつ道具「バイバイン」が大好きです。美味しそうな栗まんじゅうが、史上最悪の災厄と化す物語を読み、恐怖におののいたのを覚えています。自由に課題を選べるのであれば、バイバインに通ずる話を書こうと思いました。
何かが増殖し続けるということは、エントロピーが増加の一途を辿るということであり、すなわちホメオスタシスの摂理の放棄に他なりません。理系畑の私にとって、それは受け入れ難く、魅力的です。疫病を巡る戦いが今なお続いている中、何が増えたら物語が始まるのか、頭をひねって考えて、たどり着いたのが「痛み」でした。
全ての生理現象は、結局のところ痛みに帰着します。痛みは生命の一部です。きっと増えていくのです、痛みの種類も、その善悪の解釈も。
参考文献:『疼痛医学』(医学書院)
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