場所は新宿の思い出横丁、時短営業というのに今夜はいつもよりごった返していて、一切コロナの影響を感じさせない。第三波が叫ばれているというのにも関わらずこの辺りには客のゲロとバナナの香りが混じったような甘い匂いが漂っている。短い髪を美しい金色に染め、派手なパーマをかけたモクは思い出横丁の一角にある居酒屋で働いていて、店の掃除を終え新代田の家に帰る支度をしている。
「おいモク、このあとコムロの家で一杯やらね？」
　向かいの店から声が飛んでくる。が、モクは片手を大きく振ってそれを拒否する。
「ちびっとも！　入んない、酒。今は。疲れたし。今日、客多すぎてやばば」
　ライダースを引っ掛け、モクは店の鍵を閉め、イヤホンを耳に突っ込む。爆音のブルーハーツが流れ出す……
　それは、セックス後のピロートークだった。
「あたし、マーシーの『喪主』になりたいんやけど」
　モクがマーシーの浅黒い喉仏を撫でながら言う。
「なんで『喪主』？」
「だって『喪主』ってさあ、一番そのひとの身近なひとって感じがせえへん？　『葬式でどうもこのひとのためにわざわざお足元の悪い中お越しいただいてありがとうございました』って言うんやで？」
「俺の葬式の日、雨なんだ、まあ子ども捨てた駄目な男だからな俺、いいよ、結婚して俺の『喪主』になってくれよ、モク」
「マーシーが今みたく酒とか飲まなくなって、今日セックスした記憶も失くさないようになって、ボケてさあ、死んだら、あたし、爆音でブルーハーツの音楽かけた葬式やってあげる、マーシーが昔一緒にやってたＶシネ俳優仲間たちも全員呼ぶから。全員。もちろんあたしが『喪主』」
「Ｖシネ俳優たちは呼ばなくていいって」
　モクはふ、と目を閉じる――いつもブルーハーツを聴くと思い返されるのが五年前に別れたマーシーとの会話だった。
　そのあとモクとマーシーは酒がきっかけで血塗れのズタボロの暴力沙汰の喧嘩をして以来、音信不通だった。でも、今帰りの電車に乗っているときも、マーシーの写真フォルダを開いてウワーッとなってしまうモクだった。つまり、モクは、全然マーシーを忘れられていなかったのだった。当時モクは二十二歳で、マーシーは三十八歳、全てが煌めいていた、モクはあらゆる瞬間のマーシーを写真におさめていた、靴を履くマーシー、ふたりの部屋の床で眠っているマーシー、ビールを飲みギターを弾いて歌うマーシーを。実際、モクがマーシーの褐色がかった腕を優しくぐらり、とずらすだけでも物語が生まれだす男だったのだ、モクにとっては。
　だから二十七歳になった今もモクはマーシーと住んでいた家に住んでいる。家に着いたモクは乱暴にポストの中身を剥ぎ取り、仕事の過剰な疲れからか奇声をあげ、踊りながら部屋の中に入った。部屋はまるで魔窟のようである。吊り下がった裸電球、廊下にはレコードが積み重なり、大麻の香が焚かれ、何年も掃除機のかけられていないペルシャ絨毯がべろりと床に引かれている。そしてモクとマーシーの写真は壁の至るところに貼られたままだ。
　モクは廊下のレコードにぶつかりつつ歩きながら郵便物を確認し、興味のないチラシを床に広げられた七十リットルのゴミ袋に放り込んでいく。その中に薄い桃色の封筒があるのを確認し、モクは煙草に火をつけながらソファに座った。そしてその封筒を破る。モクは香港経由で薬の個人輸入をしていた。中身は食欲抑制剤、オピオイド、それとあと見慣れない錠剤が一錠。それにはカードがついていた。

Hi! I am a HONGKONG neuroscientist.

HONGKONG is dying.

HONGKONG is going to be the world of no dream.

The only thing we can do is dreaming of dreams.

Please pray for her.
This is my gift for you.
May all of your dreams come true!

　英語音痴のモクは、香港は死んでいる、あなたにこの薬をあげます、ぐらいしかわからなかったし、「なんすかこれ」と言いつつ、薬とあればホイホイ口に入れてしまうヤク中なので、躊躇なく薬のパウチを破って口に入れた。なぜなら、唯一、クスリのみが値段分の価値をモクに与えたからだ。マーシーと別れたあと、ぼかっと空いた心の空洞を埋める役割をしたのは大量の薬だった。
　そして席を立ち、マーシーと頬をあわせた写真が貼られた冷蔵庫からビールを取り出し、呷った。そしてベッドに倒れこんで、眠った。

　それは駅の踏切だった。今年のクリスマスであることが商店街の飾りつけでわかる。マーシーが何気なくスマホを見る。十二月二十五日当日。マーシーは泥酔している。電車を告げるカンカンという音が鳴っているのにも関わらず、棒をくぐり抜けてふらふらと歩いてゆく。そして、轢かれる。
　それは雨の日だった。タクシーから降りて葬式場についたモクは泣き崩れて化粧が落ちている。マーシーの喪主はマーシーの母親だった。
「お足元の悪い中、雅彦のために来て頂いてありがとうございます」
　モクは受付をやっているマーシーの友達に香典を渡し、会場に入る。そして、たくさんの花束が散りばめられたど真ん中のマーシーの写真を見る。その会場はとても静かで、マーシーの大好きだったブルーハーツはかかっていない……。

　モクは飛び起きた。なんだいまのは？　高級なビデオカメラで撮られたかのような解像度で、触れそうな夢だった。スマホで時間を確認すると、眠ってからまだ三十分も経っていなかった。
　モクは頭をぶんぶん振った。大量の寝汗をかいていた。とてもではないが眠れる気がしなかった。気分を変えなければならなかった。だからとっととベッドから抜け出し、白いスパンコールが散りばめられた派手なワンピースに着替えて、近くのハプニングバーに繰り出すことにした。女はタダで酒が飲めるから。モクは床に散らばったパンツやブラジャーを蹴り飛ばして、アパートを転がるように出て行った。そして急いで新代田駅前まで走って、タクシーを拾った。

　そのハプニングバーは渋谷の入り組んだ路地の中にある。モクはヒールをカツカツ鳴らし、とあるビルの二階に上がっていった。そして黒い鉄製のドアの脇にあるインターフォンを押した。
「会員様でしょうか」
「はい」
　するとすぐにドアが開けられ、スキンヘッドの、鼻ピアスをしたオーナーが顔を出した。
「おお、モク、来たのか、こんな遅い時間、珍しいな。明日も仕事だろ？」
「早く入れてや。酒飲みたいし」
「酒かよ、たまには男とセックスしてやれよ」
「たまにしてるやん」
「マジで、『たまーに』だろ」
　部屋中の赤い壁の真ん中にミラーボールが釣り下がっている。モクはガラス張りの靴箱にヒールを突っ込み、大音量でＡＶが流されているバーカウンターに座った。ずっとあの夢のことを考えていた――後ろのソファ席で、バンバン男と女がヤってるのに、ちっとも頭に入ってこなかった。
「ほらモク、ハイボール」
「ありがと。ねえ、変な夢見る薬って知らん？」
「なんだそれ。どんな夢見たわけ？」
「元彼が今年のクリスマスに死ぬ夢。香港経由で薬輸入したら紛れ込んでたんやけど」
「お前、そんなんばっかしてたら頭イカれちまうぞ」
「あんたも輸入してるやろ。偉そうに。ねえ、知ってる？　知らん？」
「ああでも、この前、客がそんな話してたような気がする。なんか変な夢見るって。でもその内容が本当かどうかはわからないけど……みたいな」
　モクは戦慄した。
「どうしたどうした、顔、真っ青だぞモク」
「いや……」
「それこそ、ここにもしょっちゅう来てるお前のソウルメイトの方が詳しいんじゃないのか？　お前に個人輸入教えたのもそいつだろ」
「ああ、Ｑちゃん」
「そいつだ。そいつに聞けよ」
　モクは急いでスマホを取り出し、Ｑちゃんに電話をかけた。Ｑちゃんは同い年のフリーターで、色んな仕事を掛け持ちしているから出ないかな、と思ったらツーコールで出たのでモクは失われつつあった自我を取り戻した。
「おお、モク、どうした」
　街の雑踏の音が背後からざ、と聞こえた。Ｑちゃんは外にいるみたいだった。
「いますぐハプバー来て。いつもの。お願い。一生に一度のお願い」
「お前さあ！　俺に一生に一度のお願いしすぎだろ？　あの、たまたま仕事終わりでさ今、ちょうど近くにいるから二十分ぐらいで着くから！　じゃあ後で！」
　Ｑちゃんは大声で叫ぶように喋った。
「うん。お疲れのところ申し訳ないけど、爆速で来て。待ってる」
　モクはスマホを急いで鞄に仕舞い込み、カウンターのハイボールを呷った。秒でなくなった。だから何度も注文して、何杯も呷った。煙草もガンガン吸った。
「お前らなあ……ここをお前らの会合に使うなよ。一応ハプバーなんだけど」
「Ｑちゃんは来るとき会費払ってるでしょ！」
　貧乏ゆすりが止まらなかった。だからモクは焦りぎみに立ち上がり、ハプバーの中を歩いて回った。テーブル席ではじゃんけんで負けたら卑猥な言葉を言うというくだらないゲームがなされており、それに対してモクは無駄に強烈な怒りを感じた。こちらはそれどころではないのだ――マーシーの喪主はあたしがやる、とモクは今でも頑なに信じ続けていた。恋愛は十年スパンだ。今ダメでも、いつか。それはマーシーが五十歳を超えても変わらない。いつか、いつか結婚して、看取って、喪主になるんだ、モクは大量の薬で頭を失恋の痛みから紛らわせ、そう願っていないと、日常生活が困難になるほどだった。モクは蹴り飛ばしたい気持ちに駆られながらテーブル席を睨み、覗き穴の方へ向かった。純粋なセックスを見るほうが気持ちが楽になった。男と女は赤く長いクッションの上で絡み合っていた。ふたりは今なにを考えてセックスしているのだろうとモクは思った。モクもここで何度かセックスしたことがあるが、頭のなかは空っぽだった。
「モク、」
　Ｑちゃんはゼーハーいいながらモクの肩を叩いた。
「Ｑちゃん！」
　モクの顔が一瞬にして輝いた。ふたりは一昨日も理由もなく新宿で飲んだのに、モクはその場で飛び跳ねてＱちゃんに抱きついた。そんなモクをＱちゃんはハイハイとなだめ、バーカウンターに誘導し、焼酎を頼んだ。
「で？　なんなの？」
「あのね、マーシーが今年のクリスマスに死ぬ夢見たんやけど……」
「あのなあ。お前のわけわからん夢のために俺を呼ぶなよ。所詮夢だろ。夢の話って、もうどこまでいっても『夢だろ』で解決すっから。ってかまたマーシーの話かよ、もう五年も経ってんだぜ？　いい加減次行けよ次。お前、身た目も悪くないってか世間一般から見たら美人の域に入るんだからゴロゴロいるだろ。マジでもうマーシーの話聞き飽きたって。ってかマーシー前の居酒屋辞めたらしいし、今何してんのか知らんけど、もうガンマヤバイっしょ。どっかでのたれ死んでじゃねーの？」
「いや、いや、ごめん。話したいのはマーシーについてではなくだね、あの、個人輸入した薬の中に注文もしてない見慣れない薬が紛れこんでいてですね。それを飲んで寝たら例の、今年のクリスマスにマーシーが死ぬ夢を見たってことなのだよ。今クリスマス前やん。あの薬に何か特別な作用があったり……」
　Ｑちゃんは目を輝かせた。薬の話はＱちゃんの大好物だ。
「それ、知ってる！　売人から連絡来た。モク、それ買えるぞ」
「え、マジで」
「それ今回り出した予知夢見れるってやつだと思う、ヤベー研究者がミスで作って裏でしか出回ってなくて副作用で過去の嫌な記憶も呼び起こすらしいけど、愛してるものとか、ひとだったら、愛し合ってるひと同士の夢しか見ないっぽい。しかも絶対その通りになるって！　日付もピッタシ！　俺のヤク中仲間が競馬狂いでさ、まさに競馬の予知夢を見て、マジでそれを買ったら当たったって言ってて」
　モクは愛し合ってるひと同士、という言葉について考えた。まだマーシーの気持ちが自分にあるのは想像し難い。なぜならまだ気持ちがあるなら連絡ひとつぐらい寄越すだろうからだ。
「ってかその通りになる……！？」
　モクは固まった。
「じゃあ今年のクリスマスにマーシー死ぬやん」
「いや、でもお前がその薬関係なく『たまたま』そういう夢を見ただけかもしれないじゃん。俺は予知夢見れるやつが回り出してるからその話したけど、実際はお前んとこに入ってたのがその予知夢薬じゃないかもしれないんだし、別の薬の可能性もあるだろ？　でも、もうマーシー死んでる説は俺の中で濃厚なんだけど。だってマジで音信不通だし」
「いや、なかなかリアルな夢でさ、手触りがあるって言うのかな？　あ、あと謎のカードもついてた！」
「カードはわかんないけど、手触り……馬券当てたやつも手触り、って言ってたな……」
「まさに今回り出してるなら、多分それだと思う。死んでる説はわかんないなあ、マーシー酔っ払ってよく携帯失くすんだよ。ねえ、確かめに行かない？　ドライブもかねてさあ。それが本当の予知夢なのか、もう死んでるのか」
「どうやって」
「マーシーが自分の子ども、長野のおばあちゃんのところに預けたって言ってたのね。『カトウ電気』っていうらしいんだけど。売人から買えるなら、Ｑちゃん経由であたしがそれ買って、その薬飲みながらさ。本当に今年死ぬのか死なないのか確かめられるならいくらでも買いますよあたしはその薬を。過去の辛いこと思い出すんだっけ？　その副作用だってドンと来いですよ。しかもさすがにもう死んでたら家族には連絡行ってるでしょ」
「いつ行くの」
「今でしょ！」
「お前なあ、適当なこと言うなよ。薬を調達するので最短二日、長野まで行くためのレンタカー借りなきゃいけないし、朝出ても夜になるし、夜訪ねたら迷惑だし、次の日尋ねるとしてもさあ……俺、明日明後日シフト入ってるし。お前も仕事だろ」
　モクはスマホを取り出し、三菱ＵＦＪのアプリを開いてＱちゃんに見せた。
「これ、あたしが十八で上京してからコツコツ貯めたお金」
　二百万強あった。
「これ半分あげるから薬が手に入ったら協力して、お願い。あたしは適当なこと言って長野行ってるときは仕事休むから。そしたら最短で十二月十三日出発ってことになるよね？　一生に一度のお願い」
　モクは今泥酔してんなー、クラクラする、と思いながら頭上で「お願い！」のポーズをしながらバーカウンターに額を擦りつけた。なぜかあの夢がただの夢とは思えなくて、涙が目ん玉からバシャバシャ出た。カウンターに流れ出したそれに気づいたＱちゃんが、
「モク、モク、泣くな、わかったから、頼むよ、」と頭を撫でながら言った。
「ハイボールと焼酎もう一杯ずつ」
　Ｑちゃんが言った。
　オーナーは怪訝そうな顔でふたりを見ていた。

　十二月十三日の朝、ＱちゃんはよれたピンクのＴシャツとチノパンという格好でモクの家までレンタカーで迎えに来た。それに反してモクはバチバチに化粧をし、モクに入れあげている客に買ってもらったシャネルのコートとワンピースにミンクのファー、バッグ、そしてなけなしの金で買ったルブタン――羊革で覆われた青と豹柄の配色のモードなヒールにサングラスという出で立ちで、現れた。
「馬鹿か。お前どこ行く気だよ。どっかのパーティーか？」
「どう？　都会の女って感じっしょ」
　モクはわきゃあ、と八重歯を出して笑った。Ｑちゃんは痛々しくて見ていられない気がした。骨の髄まで愛し尽くしたマーシーが死ぬのか死なないのか、既に死んでいるのか確かめに行く旅なのに、と。モクのバッグにはＱちゃんが調達してくれた大量の予知夢薬と眠剤と煙草しか入っていなかった。
　モクが助手席に乗り込み、スマホを繋いで音楽をかけようとしたのを見てＱちゃんは止めた。
「お前の目的は、薬飲み続けて寝て、夢見るだけだろ、何してんだ」
「……」
　モクは静かに頷いた。Ｑちゃんは怖いんだろうこの旅が、と思いながら、ゆっくり車を発車させた。そしてモクは一粒薬を放り込んだ。

　それはまだ付き合っていたときの過去の夢だった、モクが思い出横丁で働く前、校閲のバイトをしていて、マーシーは居酒屋で朝まで働いていたから、モクが朝出勤するときにマーシーが帰ってくる、もちろんマーシーは奢られた酒でベロベロになっている、とろんとしているが、目がしっかりとすわっている。モクはこれはヤバいやつ、ってか無駄に怒られるやつだ、と思いながらも、おかえりと言う、付き合って二年ぐらいが経つと、マーシーはその日の愚痴をモクにぶつけることが多くなっていた。
「モク、お前今日うちの店来ただろ」
「うん、行った。大繁盛やったね、凄かった」
「お前、喋りすぎなんだよ！　その場の空気、読んでますか？　ちゃんと、読めてますか？　自分が喋りたいことだけ喋り散らかしてカジさんに結局奢らせて、お前、ほんとなにしに来たの？　京都に帰れよ」
　カジさんはマーシーの大親友で、社長さんだった。
　でもすぐに他の夢がやってきて、それはふたりで池袋のサンシャイン水族館に行ったときのことだった。マーシーは酒で毎日怠いと言って、休日はほとんど寝ている。だから本当にそのデートが実行されるまでに二ヶ月かかった。でも、ようやく明日行ってくれると言った。当日ふたりはペンギンやらアシカショーを見たけど、マーシーはビールばっかり飲んで、ショーをほとんど見ていなくて、モクは「ショー見ろよ！」と突っ込んでいて、ふたりは笑っていた。
　次の夢も過去の夢だった。もうその頃モクは思い出横丁で働き始めていて、固定ファンもつき始めていた。それを知ったマーシーが、朝帰ってきて、また、「お前の店、外から見てきたけど、他の男にあんだけ愛想振りまいて満足なのかよ！？」と激烈にキレて、近くにあったコップをモクに投げつけた。ガラスが粉々になった……

　モクは目を覚ました。夕方だった。
「……副作用って言ってもさあ、こんな過去の辛い夢もみなきゃダメなの？　Ｑちゃん、また夢にあの『手触り』があった、だからあたしが飲んだのもこの予知夢薬だと思う。どうしよう……？」
　モクの首は蝋のように白く輝き、その大きなアーモンド型の瞳はＱちゃんに真剣に質問を問うていた。
「そうか、じゃあ子どもにマーシーが死んでるか死んでないか聞けばそれが本当の予知夢かわかるんだな」
　Ｑちゃんは黙々と運転しながら言った。
「でも、どんだけ辛い夢見ても、愛し合ってる同士やものの夢しか見ないんだからモクにはマーシーしかいないし、実際そう思ってるんだろ？」　
　モクは泣いた。鼻水と共に涙をしゃくりあげた。
「泣くなモク、ただの夢だ。まだわからない。ただ、マーシーが既に死んでても、お前には救いがないけど……」

　十八時三十七分。まだ長野まで到着していないが、Ｑちゃんは休憩をとると言ってサービスエリアに入った。
　完全に夜になってしまう直前のサービスエリアはどうしようもなく手がかじかむほど冷え冷えとした。そのせいか、駐車場にずらりと並んだ貨物トラックや夜行バスのヘッドランプ、桃色の街灯は、ひときわキンと輝いてみえた。

　『カトウ電気』の前に着いた。完全に夜だった。店のシャッターは当たり前に降りていた。
「ここで良いんだよな？　モク」
「うん」
「近い駐車場探すわ。今日は車中泊になるけど。明日の朝かな、子ども、何歳なんだっけ？」
「確かマーシーが幼稚園のイベントの写真見せてくれたのが五歳のときのやつで、今五年経ってるから十歳で、小学四年か五年、名前はジンくん」
「じゃあ通学前を狙うか……」
「……Ｑちゃん、なにからなにまでありがとう、ほんとに」
　そう言ってモクはＱちゃんの手を握った。するとすぐさまＱちゃんは手を振りほどいて、車の外を見た。
「なに言ってんだ、お前と俺の仲だろ、ほんとに百万くれんのかよ」
「あげるって言ったやん！　あたしが買った薬分抜いて、それからの百万、ちゃんと渡すよ」
　Ｑちゃんは笑いながらモクの頬をつねった。
　そして、
「冗談だよ、いらないよ。お前の貯金なんか」
　と言った。

　お互い眠剤飲む前に酒でも飲むかー、ということになり、近くのコンビニで酒を調達し、ふたりは駐車場のブロックに座った。幸運なことに駐車場は『カトウ電気』が抜群に見える場所にあった。灰皿はＱちゃんが一気飲みしたチューハイの空き缶。
「ねえＱちゃん、あたし今日眠剤飲むべきじゃないかな？　またあの薬飲んだほうがいいかな？　あれ結構すぐ眠気くるし」
「……わかんねーけど相当辛いの見たんだろ。いいよ明日子どもに会ってから、帰り道また飲めばいいし。ってかお前、マーシーが本当に今年のクリスマスに死ぬってわかったらどうするんだよ。絶対回避できないんだぜ」
「あたしも死ぬ」
　Ｑちゃんは笑って、
「ほんとお前らって現代のシド＆ナンシーだな」
「だってあたしにはマーシー以外、なんもないもん」
「……そんなことないだろ。でもなんでそこまでマーシーにこだわるんだよ」
　モクは缶チューハイをぐびびと飲み干して言った。
「あたしんち、虐待家庭だったのね。もう肋とか折れて大変だったんだけど。で、逃げるように東京出てきたわけだけどさ。で、付き合ってるときにマーシーと一緒に飲み屋行ったのね。そんとき、犬連れてきてたお客さんがいて、あたしに飛びかかってきて、爪で鼻、抉ったわけ。飲み屋騒然となってさ、絆創膏ないか、血すげえ出てる、若い女の子の顔に傷つけて、ってなって大騒ぎだったんだけど。帰り道マーシーが、『その鼻の傷、いいよ。似合ってる。モクはいつもズタボロだよな、生き方もズタボロで、なんか真夜中にハイになる薬バカ飲みして踊り狂ったりしてさ、痛々しいって言う奴もいるかもしれないけど、全力で、その感じ、すげえいい。格好いい。お前のズタボロさで曲書いてやるよ』ってベロベロで言って笑ったの。あたしの一番好きなあの笑い方で。あたしってさ、ずーーーっと生まれてから虐待されてきたわけで、ずーーーっとズタボロだったわけで、でも、そのズタボロさが、初めて肯定された気がしたの。なんかそれでいいやって思えたの。マーシーだけがいいなそれ格好いいなって言ってくれたの。だから、それからもう、マーシーはあたしの生きがいなの。そんなの言ったこと、マーシーは酔ってるから忘れてると思うけどさ」
「……へえ」
　Ｑちゃんの煙草の煙がゆっくりと冬の寒さの中に消えていく。モクはそれを綺麗だと思った。
「じゃあもうマーシー以外考えられないんだ。子どもいんのに？　前の嫁とも最悪な別れ方したって聞いたけど。養育費も払わねえクズだぜ？」
「それでも。うん。養育費払わないのはマジでクズだけど」
　モクは即答した。
「マーシーがボケて、そこらじゅうにおしっことか巻き散らかしても、あたしはオムツ履かせて介護したいし、あたしのことわかんなくなってもいい。助けたい。死ぬときはちゃんと看取るんだ、って、それだけがあたしの人生の目標なの、思い出横丁で働くしょっぱい飲み屋のねーちゃんだけどさ、こんなでも、一応、目標があるのよ」
「ここまで思ってる女に音信不通なんて、マーシーも罪な男だなー」
「ほんそれ。あ、靴ずれ」
　モクがルブタンを脱ぐとかかとが血塗れだった。モクは笑って、
「あたしってほんとズタボロやな」
　と言った。
「そんなん履いてくるからだろ、コンビニで絆創膏買ってくる。待ってろモク」
　モクがいいよそんなのたかが靴擦れで、という前にＱちゃんはふらふらなのに立ち上がって、コンビニまで歩いていった。その後ろ姿を、モクはじんわり眺めた。三日月だった。

　Ｑちゃんに叩き起こされてモクは飛び起きた。
「起きろ！　起きろモク！！　『カトウ電気』のシャッター開いたぞ」
「ふええー、Ｑちゃんちゃんと寝た？　もしかしてスタンバッてた？」
「寝たよ。子どもが出てきたらお前、すぐ行け、すぐ。俺は車閉めてから行くから、子ども追いかけろ。靴が邪魔で走れないなら、お前裸足で走れ」
「わかった」
「あ、出てきたぞ、あの黒いランドセルの子だ」
　モクは靴を車の中でんぶん投げるように脱いで、ドアを開けて走った。
「ジンくん！　ジンくんちょっと待って！」
　ジンくんが振り向いた。モクはハッとした。目鼻立ちの整い方が、マーシーそのものだった。ジンくんは最初モクを無視して歩いて行こうとした。
「ジンくん！　お願いだからちょっと待って！」
　ジンくんは心底迷惑そうだった。
「……あの、お姉さん、誰ですか？　なんの用ですか？　っていうかなんで僕の名前知ってるんですか？　おばあちゃんから知らないひとと喋るなって言われているんですけど」
　その口調はきっぱりとしていて、モクは少し笑いそうになってしまった。この子はマーシーみたいにふらふらとした生き方をする子にはならないだろう。Ｑちゃんも遅れてやってきた。
「あの、お父さんのことで、質問なんです、あたしたち、あなたのお父さんの知人で。はっきり言うと、お父さんと音信不通で。今なにしてんのかもわかんなくて、正直困ってる状態なんです。最近、ジンくんのところに来たりとか、そういうのは、ない？」
「小学校の入学式のときには来てくれました。でもそれも四年前とかです。あんまり来れなくてごめんな、って謝ってましたけど、僕は一切父を父だと思っていないので、関係ありません。質問は以上ですか？　僕、学校行かないといけないので」
「あの、ごめんなさい、もうひとつだけ」
　モクの心臓が震えた。これであの夜見た夢が、予知夢かどうか、わかる。わかってしまう。
「警察のひとから、お父さんが死んだとか、そういう連絡は来てない？」
「父は死んでないですよ。僕は無視してますけど、ＬＩＮＥとか送りつけてくるんで。では」
　ジンくんがランドセルを背負い直してすたすたと歩いていく――とりあえずモクは頭がパキッと凍りついたようになって、鞄からまずは煙草、まずは煙草に火をつけ、でも指が震えて、吸えなくてすぐに地面に落として、
「モク、」
　モクは鞄の中に入っている予知夢薬を全部出して、水もなしで一気に放り込んだ。
「おい、なにしてんだ！！」
　すると、急に耐えられない眠気がやってきて、モクは地面に倒れ込んだ。

　それは最初に見た夢と同じ夢だった。いや、もう少し詳しかった。
　駅の踏切の前に泥酔したマーシーがたたずんでいる。年季の入った黒い革ジャン。そこら中の家や商店街がびかびかと２０２０年のクリスマスの飾りつけをしている。モミの木にサンタまで飾りつけている家もあった。泥酔したマーシーが何気なくスマホを見る。そして、電車の到着を告げるカンカンという音が聞こえてくる。マーシーは革ジャンのポケットからなにかを落とす。それは風に吹かれて線路に落ちる。マーシーは降りてくる棒をくぐり抜け、それを拾いにいく。それはジンくんと小学校の入学式で撮ったらしき写真だった――マーシーは自慢げに慣れないスーツを着て、入学式と書かれた看板の横に立っている。ジンくんも満面の笑顔だ。それを線路でしゃがみ込んでマーシーは見ている。そして電車がやってくる。急ブレーキの音がけたたましく鳴るが、マーシーの肉塊が飛び散る。
　雨の日だった。モクはカジさんから連絡を受けて部屋で号泣している。そして、喪服を着たモクはタクシーから降り、葬式場につく。モクは泣き崩れ、泣き崩れながらようやくした化粧も、すでに落ちている。
　会場に着くと、マーシーの母親から挨拶される。
「お足元の悪い中、雅彦のために来て頂いてありがとうございます」
　モクはなんで自分が喪主でないのか、悔しくて堪らず、そこで立ちすくんでしまったところをカジさんに呼ばれ、ようやく自我を取り戻す。
　モクは受付をやっているマーシーの友達に香典を渡し、会場に入る。香典には三万入れた。入れすぎだった。そして、たくさんの花束が散りばめられたど真ん中のマーシーの写真を見る。その写真は、モクが一番愛した、歯茎まで見せて大きく口を開けて笑うマーシーの写真だった。モクはマーシーの棺を触る。もうなにも言葉を発することができない。共通の飲み屋の友人たちは各々「ガンマがなあ」とか「朝から飲んでたからなあ、最期らへん」とか「モクと別れてからちょっと変になったよな」とかを小声で喋っている。その会場は参列者の会話を抜きにしてもとても静かで、マーシーの大好きだったブルーハーツはもちろん、かかっていない。

　目を覚ますと、モクのアパートの前だった。夜だった。Ｑちゃんが、
「あ、起きたか」と言った。
「……ごめん、起きるまで待っててくれたの」
「うん」
「ごめん……」
「気にすんなよ、とりあえず家ん中入れ。そんで、普通の眠剤飲んで、もう今日はすぐ寝ろ。なんにも考えるんじゃねえぞ。間違っても変な気を起こすなよ。本当は今晩一緒にいてやりたいけど、今日はレンタカー返しに行かないといけないから。でも明日の朝来て、お前が首吊ってないか確認するから」
「わかった。わかった。いや、わかってないかもしんない」
「わかれ」
「わかりたくない、Ｑちゃん、あたし、わかりたくない。うん、全然わかりたくない」
「わかれ！！　今晩だけでも耐えろ、モク。そのあとは、もういくらでもお前に付き合ってやる」
「Ｑちゃん……！」
　モクが抱きつこうとするとＱちゃんは止めた。
「お前が明日の朝生きてたら、いくらでも抱きつけ」
　Ｑちゃんは車から降りて、助手席のドアを開けた。

　モクは部屋に入ると、目を閉じて歩いた。そこらかしこにマーシーの写真が貼ってあるからだ。意外と心は静かだった。受け入れられない気持ちと、受け入れる気持ちがせめぎあって、無になっていた。そして、ソファに座って、ようやく目を開け、Ｑちゃんの言う通りにした。蛇口にそのまま口をつけて水を飲み、普段より多く眠剤を口に放り込んでいった。オーバードーズ並みに飲んだ。意識を早く失いたかった。近くにあったウイスキーの瓶を開け、そのまま一気に全部飲んだ。マーシーと付き合っていたとき、モクはオーバードーズで病院に運ばれたことがあった。あまりにもマーシーの働いていた飲食店が忙しくなりすぎて、それが全部モクにぶちまけられて、参ってしまって、最後にはなぜか客の愚痴がモクの愚痴になる。それと怒った顔が怖くて、なにも考えたくないときに手持ちの薬を全部飲んだ。でも、今回は眠剤だけだから、病院送りにはならないだろう。

　ガンガンとアパートの扉が叩かれる音でモクは目を覚ました。
「モク！　モク！　開けろ！」
　全身が気怠かった。まだ頭に眠剤が残っていた。モクはふらつきながらドアを開けた。
「Ｑちゃん……ほんとに来てくれたんや、ってかまだ朝の六時やで、早い」
　モクは笑った。
「いや、もう心配しすぎて寝れなかったよ、昨日はさすがに。だってお前なにするかマジで読めねえしさあ！」
「ありがと」
　モクはＱちゃんに抱きついた。しっかりと抱きついた。数分抱きついていたと思う。そして家の中へ連れて入った。

「マーシーのことがあったから言えなかったんだけど、キンちゃん入院したの知ってる？」
「え」
　キンちゃんは、マーシーやらＱちゃんやら共通の飲み友達だった。マーシーと同じくアル中だった。
「え、なんでってか酒か」
　キンちゃんは酒で死ぬのが本望だといつも言っていた。
「そうそう。ハルちゃんも参ってるらしくて。しかもキンちゃん、酒だけじゃなくてこんな狭い新代田で他に女作ってたりしてたじゃん。ハルちゃんも結婚してからキンちゃんの女癖の悪さにビビったって言ってたし」
「あたし、キンちゃんが他の女連れて歩いてんの、見たよ！　駅前で」
　モクはキンちゃんと腕を組んで歩く、小太りの、おそらく四十代の、似合わないピンクのスカートを履いた女を見たことがあった。
「ハルちゃんはキンちゃんが飲まないように一切金渡してなかったらしいんだけど、その浮気相手が金渡してキンちゃんに飲ませてたらしくて、一気にガンマ上がって……」
「一回禁酒に成功したのに、その女のせいやん」
「そうなんだよ。で、今キンちゃん、集中治療室だって」
「え！！　もうそこまで行ってんの！？　間近やん……」
「だから、モク、言いたくないけど、喪服レンタルしといたほうがいい」
「……」
　Ｑちゃんは頭を掻いた。
「そうだね。今から予約しとく」
「結構平然としてるな、モク」
「昨日大量の眠剤でだいぶ頭鈍らせてるから、それもあるかも。あ、デパスも適当に飲んどこ。今はなんも考えないようにさ」
「……それがいいよ、お前の頭がイカれちまわない程度だったら、それでも」
「Ｑちゃん、今日仕事は？」
「コンビニの朝番だったんだけど、夜勤に変えてもらった」
「それってあたしの様子見にくるために？」
「それ以外、なにがあるんだよ」
「なんでここまで優しい男に貰い手がいないかねえ……」
　モクは煙草に火をつけた。Ｑちゃんも吸った。ふたりとも、無言だった。

　キンちゃんは十二月の二十日に自宅で息を引き取った。次の日にお通夜が行われ、その次の日、つまり十二月二十二日に葬式が行われることになった。Ｑちゃんとモクはマーシーの葬式の予行練習を兼ねて葬式に行こうということにした。モクはとびっきり上等な喪服をレンタルした。
「あんまりこういうの言っちゃいけないけど、モク、喪服似合うな」
「喪服似合うって褒め言葉なん？」モクは笑って、
「レンタルショップに行ったらさあ、ジェルネイルも落とすのが基本ですって言われてさあ、でも今のデザイン気に入ってるし、仕事でオフ行く時間もないしで、手袋で誤魔化すことにした」
　モクは空中で手袋をつけた手をひらひらと遊ばせた。
「キンちゃんはそんなこと気にしねーよ。葬式に出てやることが一番の弔いなんだよ」
　そしてふたりでタクシーに乗り込んだ。

　ハルちゃんの顔は涙か酒かその両方かはわからないけど、かなりむくんでいた。それでも意外とドッシリと構えていて、
「Ｑちゃん、モク、こんな馬鹿のキンのために来てくれてほんとありがとね」と涙ひとつこぼさず言った。モクは本当だったらこれはあたしの役割なはずだったのにな、と複雑な気持ちになった。
「あとでキンの顔見れる時間があるのね、だから適当に拝んで、上のホールにお寿司とビール用意してあるから食べて待ってて」
　と言った。

　上のホールに行ったら、目が吸い寄せられた。酒でさらにガリガリになってはいたけれど、その整った顔、何度も触れた少し長めの髪、褐色の手、……。
「マーシー……」
「嘘だろ……」
　Ｑちゃんが呆けたように呟いた。
「俺らに五年間音信不通だったのに……？　モク、すぐ行けよ！」
「行かない。はぁ？　行かない。なに言ってんのＱちゃん。はぁ？　だよ。行かないって。行かないよ。席離れたとこで寿司とビール呷ろう。他人だよ。もうあたしたち別れたんだから。今日はキンちゃんの葬式なんだし、アル中の葬式では飲むのが一番だって」
　モクは頭を掻きむしりながら早口でまくしたてた。
「モク……」
　でもその瞬間、モクとマーシーの目がビタっと合ってしまった、合ってしまった、まだ愛し合っていることが目でわかった。モクは急いで目を逸らさないと、と思ったけど、逸らすことができなかった、だって、だって……。
　Ｑちゃんは察して、マーシーがビールを飲んでいる場所から少し離れた席にモクを連れて行った。でもそこからはマーシーがよく見えた。お互いが、ビールを呷り、寿司を食べながら、ずっと見つめ合っていた。その挙動のひとつひとつを、この空白の五年間を優しく埋めるみたいに、ずっと見つめあいながら、確かめ合うように。モクの目からつぅ、と涙が流れた。そして、一回出たら止まらなかった。濁流のように、決壊したダムのように、それはドヴォッと零れ出た。マーシーの目も赤く潤んでいた。モクは小さく手を振ってみた。マーシーは一回止まったあと、それに応えた。もうダメだった。モクは席を立った。そして走った。
「テメエ、今までどこでなにしてたんだよ！」
　モクはマーシーのスーツの襟を掴んだ。
「モク、今はキンちゃんの葬式……」
　モクは泣きじゃくりながら叫んだ。
「なんで連絡ひとつ寄越さず消えたんだよ！　死ね！　お前が死ね！」
　三日後にマーシーは死ぬのにモクは自分がなにを言っているのかわからなかった。
「落ち着け、モク……」
「落ち着いてられるか、ドボケが！　この五年、あたしがどんな思いで……」
　モクは顔を覆ったままそのまま床に崩れ落ちてしまった。Ｑちゃんが飛んできてそれを支えた。
「マーシー、なんで音信不通にしてたんだよ、モクはずっと待ってたんだぞ、お前のこと」
「いや、オレはモクに酷いことしたから……」
「そんなのモクには関係ないんだよ！」
　Ｑちゃんが珍しくキレた。
「テメエ今年のクリスマスに酒飲んだら殺すぞ、あんたの喪主は私だから！　あんたを看取るのはあたしなの！」
　モクは涙声で床から叫んだ。
「今年のクリスマス……」
　マーシーは困ったように言ったが、もうモクは自分の行動を制御できなかった。立ち上がり、思いっきり抱きついて、その首筋から匂う、少し甘ったるい香水と汗が混じったあの懐かしい匂いを嗅ぐと、脇目もふらずに、その場で、大声で、号泣してしまった。

「全部、昔のままだよ、この家。マーシー、あんたが出て行ってから、そのまま」
「ほんとだ、ほんとに昔のまま……」
　葬式が終わってからモクに無理やりに連れてこられたマーシーはまるでそこが他人の家かのように見回したが、
「これあんたの家だから。ちゃんと待ってたから。大丈夫だから」
　とモクは力強く言った。
「てかＱちゃんと葬式のあとなに話してたの」
「いや、別に、これまでなにしてたのか、とかだよ」
　マーシーはふらふらとホームレス生活をしたり、日雇い労働をしたり、工場で働いていたときはその寮で暮らしたりしていたみたいだった。
「事情があってね、三日間この家でマーシーを監禁しなきゃなんないの。あたしが仕事してるときにどっか行ったらマジで刺すからね」
　絶対に回避できないのに？　
　あたしはなにを考えてんだろ？
　モクは強引にマーシーをソファに座らせた。
「コンビニとかもダメなの？」
「コンビニ行くときはあたしも同行する。これ以上質問したら刺す、五年前の最後の喧嘩みたいに。マジで」
　モクは台所から包丁を取り出してきてマーシーのＴシャツにあてた。
「わかった、わかったから。あのときはかすり傷だけだったから助かったけどさあ……とにかくわかった」
　それでもひとりでふらりと出て行ってしまうのがマーシーだと、モクはよくわかっていた。
「ねえ、少しだけでも、この今から、たった今から、五年間を、取り戻させてよ」
　モクはマーシーの膝の上に乗って、その喉仏を撫でながら言った。愛おしかった。狂いそうなほど愛おしかった。三日後にマーシーが死ぬなんて考えちゃいけなかった。
「……取り戻せるのかな？」
　マーシーは心底困っているみたいに見えた。
「取り戻すよ。なにがなんでも。だってマーシーはあたしの男だもん」
「今でもそう言ってくれるのは嬉しいけどさ、でもモク、オレら、最悪の別れ方したし、あのときとは考えとかも、お互い変わってるし、第一オレはもうひととは付き合えないと思うし……」
「黙れ」
　モクはマーシーの少し紫がかった血色の悪い唇に舌を突き入れた、頭の中でドーパミンがしゅわ、と弾けた。この瞬間をずっと待っていたのだ、モクはマーシーの唾液がなくなるまで長く長くキスをした。モクはキスをしながら泣き崩れていた。どれだけこの時間を渇望していたのかを思い知ったからだった。始め、マーシーの腕はソファにぶらりと置かれていたけどその後にモクの背中に固く、きつく、巻きついた。ふたりの体温が上がっていくのがどんどんわかって、ますますモクは泣き崩れた。モクは唇を離し、マーシーの髪を撫でた。
「待ってた。マーシーの考え方は変わったかもしんないけど、あたしは、この新代田の狭いワンルームで、ずっと、待ってた。マーシーのことだけ五年間考えて暮らした。正直色んなひとに前へ進めって言われた。でも、ちっとも響かなかったよ。あたしは帰ってこなくても、帰ってきても、マーシーのことを考えて暮らす女なんだって心底わかってたから」
「モク……」
　マーシーはごめん、ごめん、本当にごめん、と言ってモクの頬を撫でた。
「いいよ。謝られても困る。一緒にいてくれるなら、内臓全部売ったっていい」
　そしてふたりはビールを何本も飲んでから最高のセックスをした、それから手を繋いで眠った。全てが五年前と同じだった。まるきり同じだった。モクは、手を繋いだ瞬間、心の底から生きていてよかったと思った。しばらくして、モクは起きて、マーシーの寝顔を、何枚も撮った。明日すぐ現像しにいって、壁に貼らなければいけない。いっそのこと仕事なんてこの三日間のためにバックれようと思ったけど、とりあえず薬を買ったせいで金がなかった。深夜帰ってきて、この寝顔を見られるだけでも、それだけでも……。

　十二月二十三日。
「おはよう」
「おはよう、モク」
　モクは少し伸びた髭をこんな間近で見られるなんて思わなかった。
「昨日の夜ね、マーシーの寝顔の写真いっぱい撮ったの」
「やめろよ」
　マーシーは笑いながらモクの腹を小突いた。
「お前、昔っからオレの写真撮りすぎなんだよ。過剰に。周りから引かれてたぞ」
「それでこれから現像しに行こうと思うんだけど、一緒に行ってくれるよね」
「そういや、明るいときにオレらがなんかしたことなかったよな」
「大抵マーシーが朝に帰ってきて、寝る生活だったからね。そうと決まったら早く起きて！」
　モクは布団を剥ぎ取ったけど、お互い全裸だったから寒すぎた。マーシーはベッドの上で過剰に暴れてモクを爆笑させた。そしてすぐふたりで外に行って近くのカメラ屋へ行った。マーシーは夜行性だから太陽を見て目をチカチカさせていた。
「なあ、モク」
「ん？」
「前お前、オレの喪主になりたいって言ってたけど、今もそうなの？」
「当たり前やん。他に誰がやんのよ、あんたみたいなクソッタレアル中の」
「そうか……」
　モクは信号の明滅をゆっくりと見ていた。あえて渡ろうとしなかった。このままふたりでゆっくり仕事前の夕方まで過ごせばよかった。カメラ屋で現像した帰り、昼ご飯を買いにコンビニに寄ったとき、マーシーは求人誌を手に取った。

　そして、
「ただいま……」
　モクが深夜店から帰ってそぉーっとアパートの扉を開けると、思いっきりクラッカーが飛んできた。
「おかえりぃ！！」
「え！？　そんなクラッカー、うちにあったっけ？」
「さっき行ったコンビニに売ってた」
「ってかコンビニひとりで行ったら殺すって言ったやん」
「ごめんごめん。腹減っちゃって。でも晩飯の準備しといたから。オレがホームレス生活してたときに身につけたアルミ缶で作る味噌ラーメン」
　コンロの上には、確かに小さな銀色のアルミ缶だけが乗っていて、その中に一人前分の味噌ラーメンが入っていて、それはとても美味しそうだった。モクはマーシーの腹に一発拳を入れて、それからふたりでビールを飲みながら、ラーメンを食べた。格別だった。

　十二月二十四日、ふたりで朝からテレビを観た。それは録画してあった先週日曜日の「アタック２５」と「新婚さんいらっしゃい」と「ザ・ノンフィクション」だった。
「お前、まだこの三連チャン観てんの？」
「マーシーと日曜過ごすとき、いっつもこの三連チャンを観ながらご飯食べてたじゃん。あたしは五年間、続けてたよ、この習慣」
「新婚さんいらっしゃい」を観ながらうだうだと登場カップルについて言い合うのが毎週のルーティーンだった。
　マーシーが録画を見ながら、
「あー新郎さあ、ザ・ＩＴ成金って感じだなー」とソファに寝転びながら言った。
　確かに、ベンチャー企業の社長をしています！　という新郎はぶっくぶくに太っていて、スーツがはち切れんばかりになっていた。顔も謎の油でギットギトだった。
「ってかこういうのと結婚する女ってこの男のどこがよかったんだろうね？　やっぱ金？　金なのかな？　いや、鼻の下から異様にいい匂いとかすんのかな。匂いってそのひとと相性が合うかわかるらしいし」
「えー？　さすがにそれだけでは結婚しないっしょー」
「やー、ここぞポイントはひとそれぞれだよー」
　モクは洗濯物を畳みながら呑気に言った。

　十二月二十五日、モクは初めて仕事を無断欠勤することにした。
「詳細は言えないけど今日はマーシーにとって大事な日だから、トイレ行くときも張りついてるから」
「仕事行けよ。ってかいつも通りだよ」
　実際、モクは気が気ではなくて、マーシーが部屋の中で立ち上がろうとすると一緒に立ち上がった。トイレに行くときは自分もトイレの前で待った。冷蔵庫の中から水を取ろうとするときも側にいた。今日はなにがなんでもこの家からマーシーを出してはいけない。
　それでもマーシーが入れてくれた暖かいほうじ茶を飲んでいるとき、強烈な眠気が襲ってきて、モクは死んだように眠りこけてしまった……
　夜、目を覚ますと、結構な量のビールの空き缶だけが残されていた。モクは切迫してわけがわからなくなった。そしてＱちゃんに焦って電話をかけた。
「Ｑちゃん、マーシーがいないの。多分眠剤入れられた！　見かけなかった？」
「モク、今からお前に話さなくちゃいけないことがあるから、家行く」
　Ｑちゃんは静かに言った。

「これ、キンちゃんの葬式のあとでマーシーに託されたんだ」
　それは婚姻届だった。マーシーの箇所だけ書かれていた。達筆だった。「どういうこと？　なによこれ」
「実はマーシーも予知夢薬を飲んでたんだよ。で、夢でお前が自分の葬式で泣き崩れているのを見たらしいんだ。自分が死ぬことがわかってるから、五年ぶりに、戻ってきたんだよ！　で、せめてお前を喪主にしてあげようと思ってこれを書いたんだけど、子どものこともあるし、踏ん切りがつかなくて、Ｑ、お前が預かっててくれって言われた……」
　モクは自分の欄だけ空欄になっている婚姻届を見て、目を伏せた。
「死ぬことがわかってるのに、なんでそれを受け入れて家飛び出して行ったわけ！？」
「ジンにクリスマスプレゼント買う、今年は送る、って言ってた……」
　そしてモクはコートを引っ掴んであの踏切まで走った……全力で走った……新代田と東松原を繋ぐ踏切まで。
　想像した通りだった。
　辺りには警官やらパトカーがうじゃうじゃいた、黄色いテープが貼られていて、野次馬の群れがその後ろの橋まで広がっていた。
「あたし、このひとの恋人なんです、」
　モクのか細い声では全く聞き入れられなかった、だから、
「どけっつーの！！」
　と喉が割れるまで叫んで言って割り込んでいった。えらい騒ぎになっていた。するともう、救急車どころではなかった。マーシーは、夢で見た通り、肉塊になっていた。
「モク！」
「ああ、ああ……もう、やっぱこうなったね、Ｑちゃん、あの薬は、正しかったねぇ、競馬の馬券も当たっちゃうんだもんねえ、せっかく、取り戻せたと思ったのになぁ……！！」
「モク、モク」
「うわあああああああああああああああああああ」
　モクは突如発狂し、野次馬たちがモクの周りからザッと引いた。やがてその、マーシーだったものには白い布がかけられた。何度も何度も夢に見た光景だから耐えうると思っていた。だけど、無理だった。脳味噌がショートした。もうあたしにはなんもない。人生の目標も。なんも。
「ああああああああああああああああああ」
　力づくでＱちゃんが抱きしめてくれようとしたけど、モクは全力でそれを拒否した。

　会場に着くと、マーシーの母親から挨拶された。
「お足元の悪い中、雅彦のために来て頂いてありがとうございます」
　会場はとても静かだった。マーシーの友達がたくさん来ていた。
「モクだ」「モクが来た」モクは泣かなかった。その代わり、真顔で、一直線に会場にずかずか乗り込んで行って、マーシーの写真の前で、ヒールを脱ぎ捨て、スマホを取り出し、爆音でブルーハーツを流し始めた。「どぶネズミのように優しくなりたい――」
　葬式場のスタッフが異常に気づいて急いで飛んできた。二人がかりでモクを止めようとしたけれど、それをモクは全て力でなぎ払った。
「お客様、困ります。それを止めてください」
「ババア、うるさいっつーんだよ！」
　モクは葬式場のスタッフを思いっきり蹴飛ばした。向こうの関節がくにゃりと曲がったのが感覚でわかったが、より一層モクはスマホの音量を上げていった。
「あの、他のお客様のご迷惑にもなりますので……」
「うるせえ！！」
　参列者の友人たちがわらわら写真の前に集まってきた。リンダリンダのところで、微かに皆が口ずさむのが聞こえた。リンダリンダ。リンダリンダリンダ。やがてそれは大合唱となり、モクは葬式場の床が砕けるように、あのマーシーが愛したヒロトとマーシーのように飛び跳ねながらリンダリンダとなにも考えずに叫んだ。

　火葬場から白い煙が上がっている。モクはその煙をＱちゃんとカジさんと、煙草を吸いながら見ていた。
「クリスマスに死ぬなんてある意味、幸せでいいじゃない、なんか、わかんないけど」
　カジさんが言った。
「……そうですね」モクが言った。
「そうですね」Ｑちゃんが言った。
「ちょっとちょっとふたりとも！　なにしおらしくなっちゃって！　マーシーアル中なんだからいつ死んでもおかしくなかったんだからさ！　飲もう飲もう！　ほら！」
　カジさんに缶ビールを渡されて、モクはひと口飲んだ。でも、ビールの味は、マーシーと飲んだときと、一切変わらなかった。
「ビールはビールなんですね」
　モクは笑った。そして泣いた。