梗 概
江戸幕府 VS 米人間
江戸時代中期。八戸藩(現在の青森・八戸)は幾度も飢饉に見舞われていた。
医師・思想家の安藤昌益(※1)は、自身が唱える「活真」(※2)「直耕」(※3)の理論を応用し、米の豊作をもたらす研究を進める。宇宙の原動力である”気”を稲穂に巡らせれば、あるいは……。ところが、実験の結果生まれたのは何と”米人間”だった。
米人間は、人と変わらぬ知性と体格を持ち、話すこともできる。その肌は米のように白く硬く、また怪力の持ち主だった。
昌益は困ったが追い出すわけにもいかず、家におくことにした。米人間は純粋で、指示されれば何でもこなした。
(なお、米人間の身を削り取って食べさせたネズミは爆発した。過剰な”気”のせいであろう。つまり、食べられない)
昌益は米人間の存在を弟子たちにだけ明かす。これ以上作る気は無いことも。米人間が便利な労働力として扱われるのを危ぶんだのだ。平和と平等が昌益の理想だった。
弟子のひとり、嶋守伊兵衛は、師のやり方に不満だった。著作では、幕府が強制する身分制や法を「天下国家の私物化」と激烈に批判しているが、何の行動も起こさないからだ。
戦国の世などはるか昔だ。平和ボケした幕府など、米人間を量産して攻め入れば転覆できるのではないか――。
嶋守は昌益の秘法を盗み出し、一〇〇体の米人間を量産して江戸に向かう。
(秘法の成功率は低く、一〇〇体作るのに五年かかったのでそれ以上は諦めた)
米人間たちは、米がくっつく要領でバラバラの状態からでも再生する。細かく裁断し、風に乗じて江戸城内へばらまいた米人間たちを深夜に再生させ、火を放って混乱に陥れる作戦だ。狙いは将軍の首。
しかし、天海大僧正の霊験によって守護された、呪術都市・江戸の防衛線は強固だった。
江戸を流れる水路から金龍があらわれ、再生した米人間を次々と喰らっていく。
驚いた嶋守だが、米人間に流れる”気”は金龍をも爆散させる。江戸幕府やぶれたり。高笑いする嶋守。
そこへ追いかけてきた昌益が現れ、嶋守を上回る秘法で米人間たちを引き上げさせる。
師を罵る嶋守。しかし、平和主義の理想ゆえに現状を力で変える手段を取れない師の苦悩を知り、うなだれる。
昌益たちは八戸へ戻り、その思想を人々に講じ続けるが、次第に忘れられていく。
江戸から明治へ。令和へ。時代は変わっても搾取の構造は変わらない。
最初の米人間は現代まで生きており、日本の未来を憂えて、完。
※1…一七〇三~六二。宗教・権力を批判し、人間に欠かせない「食」と「性」を軸とした独自の宇宙論を展開した
※2…昌益の造語。宇宙を成り立たせている、物質の運動状態
※3…昌益の造語。宇宙の自己代謝活動を指す
画像は、今回のネタ元です
文字数:1131
内容に関するアピール
私は読者に、「驚き」をもたらす書き手として認知されるのが理想です。今回のプロットもその理想に沿った内容になっていると自負しております。「驚き」をもたらすのが得意と言ってよいかは、課題提示のテキストにもあるように、ご判断に委ねます。
「SF 安藤昌益」で検索してもヒットしなかったので、目新しい題材ではないかと考えております。また、ゲーム『天穂のサクナヒメ』がSNS等で話題になっておりますので、「米SF」として興味を持ってもらえるのでは? という狙いもあり、この内容にしました。
文字数:238
江戸幕府 VS 米人間
宵闇に、祝詞を唱える声が響いている。
――進火退金生進水、祈願大吉。進金退水生進木、祈願大吉……。
読み上げられた祝詞は、陰陽五行――木火土金水の気によって束ねられ、縒り合わされ、その先端を錐のように鋭く尖らせてゆく。
射手が矢を引き絞るように、力が注ぎ込まれてゆく。
祝詞の最後の一文が唱えられるのと同時に、それは、向こう側へとその切っ先を突き通した。
つらぬいた先は、天も地も無く、光も闇も無い無窮の空間である。
あるのは、気の奔流だけだ。
ごおごおと流れ、ぶつかり、うねり、渦巻いている。その様子は、荒々しい原初の海に似ていた。人の世のすべてを生起させている、神気の環流であった。
かの祝詞は、そこへ一点を穿った。
蟻の穴ほどしかない大きさでも、常に満ちようとする神気は新たな空間を埋めようとして、なだれをうってそこへ殺到した。
向こうからこちらへと、神気が流れ出る。
しかし、所詮はたかが人の口から出た祝詞の霊験であった。風穴はすでには閉じつつある。
閉じた穴の名残となったわずかな渦もすぐ別の大波に呑まれ、そこには再び、永遠の動的状態が訪れた。
いっぽう、こちら側――人の世へと流出した神気は、五行のはたらきかけによって、有限の肉体へと成型されはじめていた。
木気により腹と左足が生じた。火気により左手が。金気により右手とうなじが。水気により腰と右足が。そして、土気が胴となり――。
ばしゃり。
水音で、それは目を覚ました。
最初に感じたのは、半身が水に浸かっているという、表皮からくる感覚だった。どうやら、横ざまに倒れているらしい。
目を開けると、周囲は明るい。上空に照っている月のおかげだ。おかげで、自分が水田のぬかるみに浸かっていたのだとわかった。
足腰に力をこめ、立ち上がる。と、腕や顔にがさりと稲の穂先がふれた。その感覚が新鮮で、それはもっと稲穂を観察しようと顔を近づけた。
突然、男の声がした。
「お、お主は何者だ……?」
声のしたほうを振り向くと、それのいる水田に接したあぜ道に、白装束の男がしりもちをついていた。何だかおびえたような顔をしている。
男の近くには、壺や鈴が載った陰陽道風の祭壇がしつらえられていた。なるほど、とそれは思う。自分を勧請したのはこの男らしい。背後にかかった月のせいで、目の前の男には自分の影がかかっている。自分が実体を持った存在になったことを実感した。とはいえ、この身体は未だにあちらとも密接につながっている。地面から足裏を通じて上ってくる逆気によって、それを感じるのだ。この身に変わらず無窮が脈打っていることを、それはうれしく思った。
さて、男の問いには、何と答えたものだろうか。
見回せば、おそらく自分がそこから産まれ出たのだろう、すっかり精気を失った稲穂が一本、水面に浮かんでいた。ひとまず、相手が理解できそうな答えを返すことにした。
あ、あ、と発声を試みる。問題なさそうだ。それは、男に向かってこう答えた。
「わたしは、米でございます」
*
ひゅう、と吹いた涼風に、嶋守伊兵衛は思わず身をすくめた。
夏だというのに、南部領・八戸に吹く風は冷たい。北から吹く季節風のせいだ。強くなると小雨や霧を運んでくるので冷害となり、凶作をもたらす原因にもなる。百姓たちが「ヤマセ」と呼びおそれる風だった。
――今年の収穫は大丈夫だろうか……。
気をもみながら、八戸城下を二分する大手筋を急ぎ足で下る。二年前に元服をすませた伊兵衛はなかなかの男ぶりで、すれ違った年増連中が「おや」と振り返っているが本人は気にも留めない。色恋沙汰よりもっと面白いものがあると知っているのである。
目的地のある十三日町に入ると、急に人通りが増した。城下商業の中心地だ。通りの両側には、呉服屋、酒屋、質屋、薬種屋など商家が並んでいる。伊兵衛は、八戸湊から獲れた魚を運んできた棒手振りや、南部馬を番所へ検査に連れていく馬喰を避けながら、先を急いだ。
「よう、伊兵衛。そんなに急いでどうしたんだ?」
酒屋の前で、番頭と立ち話をしていた近江家の息子が声をかけてきた。同じ商家の長男同士、顔見知りである。
安藤先生のところに行くんだ、とだけ答えて、伊兵衛は足を止めなかった。
きょうは八戸城にも出入りしている町医者、安藤昌益が主催する勉強会の日なのだ。そして、すでに始まっている頃合である。本当なら間に合うように家を出るはずだったのだが、急に江戸から木綿が大量に届き、その始末に追われたのである。
医師がひらく勉強会だからといって、医学を講じるわけではない。昌益が話すのは、自分の思想、哲学である。
最初は、父のすすめで参加した会だった。
「いや、あの先生はたいへんな御仁だよ。行って話を聞いてきなさい」
父の仕事を手伝って、商家のイロハを学んでいる最中の伊兵衛だったが、寺子屋で一番出来が良かったこともあり、父も見聞を広めてやろうと思ったのかもしれない。
そんな風に言われ、軽い気持ちで参加した初日のことは生涯忘れるまい。そこで講じられている内容に、伊兵衛は度肝を抜かれた。
――孔子曰く、君子は人情を以て田と為し礼を以て之れを耕す、是れ君子の耕道なりと。いやはや、笑っていいやら悪いやらだ。本来自然には君子も民も無い。その別を勝手に作っておきながら、民に教えを垂れることが君子の務めだとは。こんなもの盗人の戯言にすぎぬ。さらに言うに事欠いて、君子の耕道とは! 自らが田を耕して米を作るつもりは無いという、恥知らずな宣言にほかならぬではないか。米を食わなければ生きられない。生きずにどうやって耕道とやらを行うのか、見せてほしいものだ。
孔子を斬ったと思えば、返す刀で仏陀を斬る。
――仏陀は王位を捨てた。そこまではよかったが、その後がよくない。ひとりで田を耕して自然の道を行くのではなく、耕さずして乞食となり、弁舌で衆人に尊ばれんと欲し、末は弟子共に喜捨を集めて回らせた。自分は高座に上がり、さらに口舌を弄して他人の作った米を貪った。これのどこが尊敬に値するのか。こんな人間を敬うのは、大いなる誤りと言わざるをえない!
伊兵衛が寺子屋で尊敬すべき人物と教わった偉人が、天下を乱した大悪人として非難されていたのである。
呆然としながら帰途についた伊兵衛だったが、やがて、何だか笑いがこみあげてくるような、不思議な心持がしてきた。
実に面白い考えじゃないか、と思ったのである。
考えてみれば、昌益の言う通り、孔子や仏陀より、孔子や仏陀を食わせている者のほうが偉いに決まっている。それは、頭に雷が落ちたような衝撃だった。
帰り道では、町や村の様子がまるでちがって見えたものだった。百姓たちは尊く、武士たちのいる八戸城は図体のでかい牛か何かに見えてきた。儒教の祖である孔子、仏教の祖である釈迦を否定するなら、当然それらに拠って立つ幕府の体制も批判することになる。実際、昌益の口からは身分制を布く幕府への批判も飛び出し、勝手に冷や冷やさせられたが、それも思い返してみれば小気味よいものだった。
それからは、父に言われたからでなく、自分の興味で昌益の許へ熱心に通うようになった。今では昌益の書いた『自然真営道』や『統道真伝』の一節をそらんじることもできる、いっぱしの弟子である。
ようやく昌益の居宅に着き、声をかけながら戸を引き開けた。土間には、すでにたくさんの草鞋が並んでいる。
「あら、伊兵衛さん。いらっしゃい。皆さんもうお越しですよ」
迎えてくれた昌益の妻に案内され、奥の間へと進む。
「御免……」
襖を開けると、すでに勉強会の顔触れは揃っていた。畳敷きの真ん中にある囲炉裏を囲む形で、いつもの顔ぶれが座っている。きょう初めて見る顔もひとりまじっていた。
藩の側医である関立竹と上田祐専、それから神山仙確。神社の宮司を務めている中居伊勢守、高橋大和守。上級武士の北田市右衛門、それに藩士数名。八戸の、いわば名士と言われるひとびとがそこに集まっていた。全員が、昌益という人物に惹かれ集まった者たちである。
その昌益も、弟子たちにまじって座っていた。
厳しい風に吹きさらされたような強面だが、表情は温和である。ぜい肉など微塵もない筋張った身体は、町医者のかたわら、百姓の手伝いもしているからだろう。仲間内にあっても背を伸ばし、姿勢よく端座している姿が、人柄を表していた。
「伊兵衛、遅いではないか。ちょうどいまこの御仁に、人間は穀物の精だという話をしておったところだ」
利発な伊兵衛を特に可愛いがっている神山仙確が教えてくれた。昌益の高弟で、一番の理解者である。普段は八戸藩主の側医を務めている彼が弟子にいることで、昌益の医術と人柄のたしかさもわかる。
この御仁、というのは伊兵衛がさっき気付いた新顔で、藩士ということだった。
「失礼しました。続けてください」
そう詫びを入れつつ伊兵衛は一座に加わった。
では続きを、と昌益が口を開いた。
「世のはじまりについて考えてみましょう。何もない世に人が生じても、穀物がなければ人は生きていけません。そこで自然の妙徳は、まず穀物を生じさせました。五穀(米・稷・粟、キビ、麦)は人の臓腑となり、五豆(大豆・小豆・扁豆・角豆・長豆)は四肢身体の血肉となる。そうして生まれたのが最初の人、穀精です」
昌益の創世神話には、イザナギもイザナミも出てこない。ただ神気があるだけである。人を生かす「農」に重きをおいた昌益ならではの宇宙観であった。
話を聞いていた伊兵衛は首を傾げた。話は既知のものなのだが、師の語り口に違和感をおぼえたのである。
自説を述べるときはもっと熱のこもった口ぶりになるのに、きょうは妙に勢いがない。そっと弟子たちの顔をうかがうと、同じようにけげんに思っているらしいことが見て取れた。
「もとは穀精として生まれた人間だからこそ、米を育て麻を織る方法を知っているわけです。そうでなれば、あんな手間のかかる稲の育て方など思いつくまい。そして、たとえば米を食べることによって、われわれは神気の巡りに参加している。米は穀物の長である。五穀の長である米粒には転定宇宙が詰まっている。米を毎日食べるというのは、毎日転定を食べているのと同じということです。われわれが食べた米はわれわれを生かし、死したわれわれは神気に還って五穀として世に生え出る。これが、人を穀精とする理由です」
昌益は「天地」を「転定」と書く。「天地」では上下の概念を生むからだ。
話を聞いた藩士は、何とも言えない顔をしていて伊兵衛はおかしかった。昌益の話を初めて聞いた人間はたいていそんな顔になるのである。
「いや、実に不思議なお話で、何と申し上げたらよいのか。とにかく驚いてしまいました」
「それはそうだ。先生の御説は人の世には千年早い。驚くのが普通ですよ」
仙確が愉快そうに言う。
おそるおそる、といった様子で藩士は昌益にたずねた。
「しかし……。穀精が人と成るならば、今も田んぼや米蔵で次々と人間が生まれてきそうですが、そうはならないのですか?」
「人に成るべき穀精は、もうすべて巡り巡って人と穀物になり、今はそれが運回していますからね。もしいま人がいなくなれば、また穀精が増えて、五穀から人が生まれてくるでしょう」
質問に答える昌益は何だか億劫そうで、伊兵衛を圧倒したあの覇気がない。
こらえきれなくなったか、仙確が聞いた。
「先生、どうかなさいましたか。何か気にかかることでも?」
うむ、と昌益は一言応じたまま難しい顔をしている。弟子たちは顔を見合わせた。
「お加減が悪いのでしたら、われわれは出直して参りますが」
仙確が重ねて問うと、昌益は首を横に振った。
「いや、すまぬ。お前たちに言うべきことがあるのだが、どう切り出したものかと思うてな」
決心するようにひとつ息をついて、昌益は真剣な顔で一同と目を合わせた。
「よいか。ひとつ約束してくれ。これから話すことは他言無用じゃぞ」
何事かはわからないが、尊敬する師の頼みである。伊兵衛も含めて弟子たちが頷くのを見てから、昌益は奥へと声をかけた。
「米次郎、入って来てくれ」
耳慣れない名前に弟子たちが戸惑っていると、やがて足音がして襖の向こうから姿を現した者がいた。
異貌とでもいうしかない姿をしている。服装は昌益の古着を借りたらしく普通の木綿だったが、髪はすべて白髪。目もそこひにかかったように、ぼんやりと白い。それを除けば、端正な顔立ちをしている。
肌も白いのだが、白粉の白さではなかった。土蔵の白壁より黄色がかっているが、光沢がある。何かに似ているのだが思い当らない、もどかしい感情を伊兵衛は覚えた。
「先生、この者は……?」
弟子の問いに、昌益は目顔で相手に返事を促した。白い人間は頷くと、両手を畳について頭を下げた。
「米次郎と申します。昌益殿に名付けてもらいました」
そうだ、まるで米だ、と伊兵衛は先ほどの既視感の正体に気付いた。米次郎の肌の質感は米のそれとよく似ていたのである。
「失礼ですが、出身はどちらです? もしや、異国の方では……」
弟子たちの問いに、米次郎と名乗った人間は困った顔をして昌益を見た。昌益はため息を吐いて言った。
「この者はな。穀精だ。米から生まれた人だ」
弟子の全員が、昌益の真意を測りかね、師と米次郎という者の顔を交互に見まわした。何しろ、昌益自身も何だか半信半疑な口調なのだ。弟子たちの視線を受けた昌益は説明の必要を感じたらしく、口を開いた。
「この頃、冷たい風がよく吹いてくるだろう。凶作になるほどではなさそうだが。それで、百姓たちに豊作祈願の祈祷を頼まれてな。わしが京で神道を少しかじったのをどこかで聞きこんだらしい。神気に干渉しようなどと、思い上がりもはなはだしいが、不作はどうにかせねばならん。世に巡っているはずの神気をどうにか稲に取り入れられないかと思うてな。気の迷いだ。夜中にそっと田へ出かけて、五行十気論に沿って一種の祝詞を作り、唱えてみた結果が……これじゃ」
昌益は米次郎のほうを複雑な顔で目をやりつつ、米次郎が深夜の水田で米から生まれた経緯を語った。もう三日前のことだと言う。
「いや、昼にしていたらたいへんな騒ぎになっていただろう。何しろわし自身が生み出したようなものだから、よそに放り出すわけにもいかなくてな。女房には言い含めて、裏で家事を手伝ってもらっているよ」
昌益は三日の間に米次郎に慣れたらしく物言いに親しみがあったが、伊兵衛を含め弟子たちは初対面である。そう簡単に受け入れられる話ではなかった。
「いや、しかし、穀精とは……」
半信半疑の態を見せる弟子たちに、昌益はついてくるよう言い、立ち上がった。
昌益が弟子たちを連れてきたのは、城下町を椀型に囲む山中のイノシシ罠だった。道中、米次郎には頭巾をかぶせ、目立たないようにしたが、そうしなければ、あの顔を見た城下は大騒ぎになったろう。
イノシシ罠となっている穴では、ちょうど一頭のイノシシがぐるぐると苛立たし気に穴の中を行ったり来たりしていた。
数年前。異常繁殖したイノシシによって作物が食い荒らされ、南部藩は深刻な飢饉に陥った。折からの冷害でもともと収穫が少ないところへの追い打ちであった。イノシシ飢渇(ケガジ)と呼ばれた悲劇のこれは名残である。
「米次郎、すまんが見せてやってくれ」
米次郎は頷き、おもむろに手近な岩へ腕を思いっきり打ち付けた。
あっ、と周囲が声を上げたのは、まるで岩どうしがぶつかったようなものすごい音がしたのと同時に、力士が何人がかりでようやっと動かせそうな大岩が、地面に深い痕を残して四、五間も動いたからである。
昌益を除く全員が米次郎から飛びのいて、あっという間に遠巻きになった。昌益は苦笑している。
「いや、怪力もそうなんだが、お前たちには別に見てもらいたいものがあってな」
おっかなびっくりふたたび近寄ってきた弟子たちをしり目に、米次郎は地面から何かを拾い上げた。それは、米次郎の腕から刃こぼれするようにして落ちた欠片であった。
米次郎はいくつかあるうちのひとつを昌益に渡すと、他の欠片を自分の欠けた穴にあてた。驚いたことに、欠片は米次郎の肌になじみ、穴をふさいでしまったので、伊兵衛は唖然とした。
いっぽう、昌益は受け取った欠片を、懐から取り出した大福に包み、穴の中のイノシシに放った。
ふんふんと鼻を鳴らしたイノシシはそれを食べ、爆発した。
イノシシ穴の中は、飛び散ったイノシシの肉片と血で血の池地獄のようだ。
場に沈黙が下りた。
「米次郎のからだには、神気の力が人間より強く巡っているようだ。それでこういうことになるらしい」
米次郎が人外のものだということを、疑う者はもはやいなかった。
沈黙は、一同が家に戻るまで続いた。
奥の間へと戻ってからも誰もが呆然としていたのだが、ようやく気を取り直した仙確が米次郎に話しかけた。
「あのう、あなたが穀精であるならば、生まれる前はどこにおられたのですか?」
「昌益殿の言う、転定におりました」
「ま、まことか!?」
昌益は自然は二物を造らないという主張をしてきた。陰陽も日月も男女も、ただひとつの自然の神気が運動して生成したものであると説く。「転定」もそうだが、陰陽五行の基本概念である五行の相生・相克も認めていない。ただひとつある自然の神気が進退することによって、五行が生み出されると言う。米次郎は、その理論が正しく、自分はそこから来たと言っているのだ。
「昌益殿の祝詞は見事に神気にふれる内容になっていましたから。あれなら誰が唱えても私のような存在を産み出せるでしょう」
米次郎の言葉で座は沸き立った。師の主張が正しいのだと証明する、いわば生き証人が目の前にいるのである。
「これは、す、すごいことですぞ先生! 先生のおっしゃった運気論が正しいと穀精が申しておる! 蘭方の連中もこれで黙らせてやれるではないですか」
この頃、従来の漢方医学に対し長崎・出島を経由して入ってきた西洋の蘭方医学がその知名度を広げてきていた。彼らは、昌益たちが従来の医者が依拠する陰陽五行思想に基づく運気論医学を、実験に基づかない古いやり方だと批判していたのである。
そんな折だったから、昌益の説を補強する証言を弟子たちががよろこんだのは当然だった。
「先生の論は千年早い、世に知らしめるのは苦労すると思っておりましたが、この米次郎殿がいれば万人が先生の論に納得するでしょう」
興奮している仙確に対し、昌益は難しい顔をして黙っている。やがて昌益の様子に気付いた一同がその言葉を待つように沈黙すると、
「いや。この祝詞は封印することにしよう」
昌益はそう言った。びっくりした仙確が反対する。
「なぜです! ご自身の説が正しいと世間にうったえる良い機会ではありませんか」
「仙庵さん、考えてみてもごらんよ。米次郎を外に出したら、どんな騒ぎが起こるかわかったものじゃない。それに、この米次郎はどうにも素直すぎる。それが気にかかってね」
「素直すぎるというと?」
「うん、私に頼まれたらどんなことでもすると、そういうんだよ」
昌益の言葉に、米次郎は頷いた。
「私は穀精。本来であれば昌益殿に食べていただき、昌益殿の身体を巡る生気となっていた者です。昌益殿がおっしゃることに従うのは道理でしょう」
「これは危ない、と私は思っているんです」
ため息を吐いた昌益に、伊兵衛は思わず聞いた。
「危ない、とは?」
「ひとの悪意に使われるおそれがある。一揆や農業に。米次郎を世に出せば、当然どうやって生まれたのかが取りざたされる。自分でも彼のような者を作って、都合よく使ってやろうという悪人がでてくるのは必定だ。それはまた、世に上下をひとつ増やすことにもなりかねない……」
昌益は部屋の隅にある引き出しに、祝詞を書いた紙をしまった。
「だからこれはしまっておこうと思う。米次郎の件、くれぐれも他言無用にな」
その引き出しを、伊兵衛はじっと見つめている――。
*
厳重に口止めをされた上での散会となったが、外に出た弟子たちは通りを歩きながらも、声をひそめて米次郎の扱いについて議論をたたかわせていた。
そんな彼らと別れ、伊兵衛は十三日町から南に下ったところにある嶋守家の菩提寺、天聖寺を訪れた。一族の墓があり、そこには母が眠っている。
墓石の前で手を合わせた。
やさしい母であった。素晴らしい妻でもあったのだろう。それは、父が後添えをもらうこともせず一人身のままで、ときどき寂しそうにしている後ろ姿からも察せられた。
母は、イノシシ飢渇で身まかったのである。もともと身体が弱かったところに、じゅうぶんな食糧がない中、厳しい冬を耐えきることができなかった。
あの飢渇は、藩の失策による、いわば人災の側面があったと聞いた。この地方の寒冷な気候では農作物が不作になりやすいことなど明白で、本来ならば備蓄をしておくべきであるにもかかわらず、年貢を取り立て、食料となる米を江戸に送ってしまったのである。そこに不漁も重なって、甚大な被害を八戸に与えた。それでも、武家を偉いものだとする寺子屋の思想は、伊兵衛の頭を去らなかった。昌益の教えを受けるまでは。
幕府が推奨している朱子学はこう言う。上下の別があるからこそ、世の中はまるく収まっているのだと。
しかし伊兵衛には、世の中が丸く収まっているとは思えなかった。
「伊兵衛か?」
急に遠くから師の声がして、見れば墓の間を昌益がこちらへやってくるところだった。
「先生。どうなさいました」
「なに、住職の則誉殿に京での話を聞きたいと言われてな。良い機会だからまた議論してみようと思って来たのだよ」
寺の住職である則誉守西は八戸でも有名な文化人であった。昌益の思想は宗教を批判するものだが、筋は通っており、宗教者でも関心を持つ人間は多かったのである。
昌益は、伊兵衛の前にある墓石に目をやった。
「母君の墓か。たしか、あの飢渇で、だったな」
「はい」
昌益は無言でそっと手を合わせた。
そんな昌益を、伊兵衛は横目でうかがう。
父が言うには、昌益もあの飢饉をきっかけに変わったのだという。初めて昌益のところに行った日の晩に、あれはどういうひとなのかと聞いたとき、教えてもらった話だった。
「あの方も、ここに来た頃は他の町医者と同じように儒学を奉じていらっしゃった。それが変わったのはあのイノシシ飢渇があってからだよ。あのときも町医者としてたいへんな目に遭ったらしい。御上の年貢の取り立てに、たいそう憤られておった。それからお前が聞いたように、世に身分の上下を作る因となった孔子や仏陀を非難するようになったんだ。ひいては、御上もな」
父は用心して声をひそめたものだった。
その話を聞いて、伊兵衛は自分がなぜあんなにも昌益の説に惹かれたか、わかったような気がしたのである。
たとえば、百姓たちはどうして麻しか着てはいけないのだろう。
農業には向かないこんな寒い土地など捨てて逃げられないのだろう。
なぜ母は死ななければならなかったのだろう。
それは、上にふんぞり返る連中がいるからだ。
最初はただ面白いと思われただけの思想だったが、いまの伊兵衛にはそうではなくなっていた。
伊兵衛は、先生、と声をかけた。
「先生は、もしご自分に力があったなら、世の中を変えるために立ち上がられますか?」
「お前の言う力が武のことであれば、そんなことはしない。乱によって天下を奪った者どもと同じことをどうしてできようか」
その返答は予想できるものだった。昌益は、力による世直しを否定している。
「しかし。今のままでは何も変わらないではありませんか。誰かがたたかわなくては……」
「だから、私は勉強会で傾ける耳を持っている人物に道を説いているのだ。なかなか難しいが、われわれにできること、すべきことは、耕すことだ。田も人もな」
そう言って、どこか悲壮な顔で昌益は去っていった。
伊兵衛はその後もしばらく、母の墓の前でたたずんでいた。
無口で慎重、そして正義感が強いのが南部人の特徴である。
伊兵衛は昌益の言葉に反論を重ねなかった。
力で奪われたものを力で取り返すだけだけならば、よいではないか。自分がそのあと、上にふんぞり返ることをしなければいい。そして誰にもそれを許さなければ、それで昌益の望む身分の無い平等な世になるではないか。
伊兵衛がこんな考えが頭から去らない理由は決まっていた。米次郎のせいである。
昌益がしまった紙には祝詞が書いてある。あれを読めば誰でも米次郎を産み出せるだろうと本人が言っていたではないか。昌益と同じことが自分にもできるのではないか。
彼らをたくさん作りだして軍勢にすることができるなら、このしくみを変えることはできるかもしれない。あの怪力があれば、武士など敵ではないだろう。
昌益のところに通ってきている藩士がぼやいていたのは、武士の堕落ぶりだった。近頃は切腹するのに、小刀でなく扇をもって斬るフリだけをし、実際は介錯人による斬首で死ぬことになっているという。
扇腹といった。実に滑稽な話ではあった。武士など恰好つけているだけで、嘘に嘘を塗り固めた人種なのだ。そんな人種が自分の口に入るものも作らず威張り散らしているこの現世というのはいったい何なのだろう。
伊兵衛は決意した。
倒すべきは誰か。
そう思い、八戸城のある方角を見やる。藩主を倒したところで、また新たな藩主が上に就くだけだ。このしくみは変わらない。それならばこのしくみの大元、幕府を倒すほかに道は無いと思った。
江戸幕府を倒そう。
そう思い、そこでようやく伊兵衛は自分がずっと怒っていたことに気が付いた。
昌益の運気論にしたがえば、死した人間は穀物の精となり、五穀となってこの世に生まれてくる。それは人の口に入り、人を生かす。それならば、自分の中には母も生きているはずだ。母の無念が自分を動かしているのかもしれない。そう思った。
*
その日のうちに安藤家へと取って返し、「忘れ物をした」と嘘を吐いて奥の間へ上がり込んだ伊兵衛は、昌益が帰ってこないうちに例の戸棚から取り出した祝詞の紙片を盗み見ることができた。携帯していた筆と墨で、大慌てで書き写す。心臓がやぶれそうなくらい緊張した。
祭壇の略図も描いてあったのは、伊兵衛にとって幸運だったといえる。昌益自身が試行錯誤しながら書いていたのだろう。あれだけ著書に挿絵をいれる昌益のこと、絵を描くのが好きだったのかもしれない。祭壇に備える進物についても、どうやらこれで、昌益が行った儀式の再現ができそうだった。
その準備を進めている間は、行ったことも無い江戸の情報を仕入れるため、家にやってきた行商人や昌益のところで知り合った藩士に頼んで、江戸の話を聞かせてもらった。
特に藩士は参勤交代で江戸に行った経験がある人間だったので、伊兵衛は江戸城内の様子が聞けないかと期待したのだが、藩邸に詰めていただけで江戸城内に入ったことはなかった。城内の様子も人づてに聞いただけだという。それは漠然としておりあてにならないものだった。
あわよくば江戸城内の図面でも見せてもらおうと思っていた伊兵衛には肩透かしであった。もっとも、たいていの地図に江戸城は輪郭を「御城」としてあるだけで、内情が判るものなど出回っていないのだが。
あまり順調なすべりだしとはいかなかったが、まあいい、と伊兵衛は思った。江戸からの行商人には事情通の者もいるだろう。それを待って話を聞いてもいい。何も今すぐに出立しようというわけではないのだから。
家業の手伝いもしながら準備をし、半月ほど経ったある月夜の晩に、伊兵衛はいよいよ儀式の実験をしてみることにした。
場所は、昌益が儀式を行ったという水田の近くを選んだ。昌益が見られなかったのなら自分も大丈夫だろうというわけである。
祭壇をしつらえ、その上に必要なものを並べていく。
榊、ロウソク、小刀、ひと握りの清浄な土、壺に入れた清水。さらにお神酒、粗塩、洗米、五色餅。季節の果物。それらを定められた方角にきちんと配置する。
伊兵衛は書いてある祝詞を読む前に祭壇と水田を一瞥した。
米次郎は誰が唱えてもうまくいくと言っていたが本当にそうなのだろうか。
もしも言うことを聞かないやつが出てきたらどうする? あんな怪力相手に。
いざやるとなるとそんな心配にとらわれた伊兵衛だったが、覚悟を決めた。
祝詞を詠唱する。
――進火退金生進水、祈願大吉。進金退水生進木、祈願大吉……。
昌益と同じく伊兵衛にも見えないが、唱えられた祝詞は正しく錐の形を取り、昌益のときと同じように向こう側から神気を勧請しはじめた。
ところで、神気は巡るものである。
昌益が祝詞を唱えたときは、しみ通るように流れてきた神気も、時が違えば激流のごとく大量に流出する。それは人知のおよぶところではない。昌益はその波を”進退”と表現していた。
そうとは知らない伊兵衛は、作法に乗っ取り榊を振った。実に正しい身振りであった。
田んぼの稲穂がいっせいに光輝き、まだ緑の色濃かった稲は一気呵成に黄金色の稲穂を実らせた。稲穂が色づき膨れ上がる。水田が煌々と輝き、まるで昼間のような眩しさに伊兵衛は思わず目を腕でおおった。
そして。伊兵衛がおそるおそる顔を上げると、目の前の水田にぎっしりと立ち並ぶ米人間たちと目が合った。
予期せぬ大豊作であった。
絶句し、伊兵衛はしばらく呆然としていた。
たしかに、手勢を作るなら多いほうがいいとは思っていたが、一度にこうもできてしまうなど想像していなかった。
大量の米人間がこちらを見てくる様は異様で、伊兵衛は逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
ようやく頭が落ち着いてきた伊兵衛は、非常に厄介な状況にほうりこまれたことを理解した。
朝になれば、田の主がやってきてこの状況を見つけるだろう。
その騒ぎは昌益の耳にも入るだろうし、すぐに誰かが自分の祝詞で米人間を造ったと察するにちがいない。
そうなれば昌益の部屋に入り込んだ伊兵衛が疑われるし、計画は露見しないにしろ、警戒されてしまうことは確実だ。さらに、これだけの米人間を隠し通すのは無理がある。昌益の懸念を思うと合わせる顔も無い。
退路は、自然に断たれていた。伊兵衛は覚悟を決めるほかないと思いつめ、米人間たちに声をかけた。
「あなたがたに、頼みがあります。幕府を倒すのに、お力をお貸しください」
そう米人間たちに告げると、彼らは頷いた。
「「われわれはお主に食べられるために生まれてきた穀精。この姿ではそれも叶わぬ。せめてお主の頼みごとを聞き、お前の直耕を助けよう」」
何重にも折り重なった異様な声であったが、そこに情を感じて伊兵衛は頼もしく思った。もはや自分の仲間は彼らしかいないのである。
「では、行きましょう。江戸へ」
*
勇ましく江戸行きを宣言した伊兵衛だったが、米人間たちの健脚がなければ三日で野垂れ死んでいただろう。
江戸街道を堂々と上っていくわけにもいかない伊兵衛と米人間たちは、関所を避け、山道や裏道を行くしかない。本来であれば、高い金を取る案内人でもいなければおそろしくて山越えなどできないところである。
ただ、米人間の怪力は腕力だけでなく脚力にもおよんでおり、彼らは野山を飛ぶように走破することができた。一行は、常人ならふた月かかる道のりをわずか二週間で踏破できた。
とはいえ、もちろん米人間とて無尽蔵の体力があるわけではなかった。
「それは、何をしておるのだ?」
山中で、実家からくすねてきた鍋釜で煮炊きをしようと休止していたときのことである。急に逆立ちをはじめた米人間たちを見て、伊兵衛は米之進に尋ねた。米之進は大勢の中でもよく喋るほうで、何となく伊兵衛の旅の話し相手のようになった存在だった。
「昌益先生に聞いているでしょうが、自然の神気には通横逆の三気があります。われわれは逆気によって地面から生えていた稲なので、こうして神気をもらっているんですよ」
もっともよく喋る米人間に米之進という名を与えた伊兵衛は、いつの間にかよく話すようになっていた。待っている大仕事にのしかかるような緊張を覚えていたから、ありがたい気晴らしであった。
「そうやっていれば、あなたたちはずっと死なないのですか? 寿命は?」
「私たちには、あなたがたの言う生と死の懸隔が薄いんですよ。あなたの先生がおっしゃったとおり、精気として転定を巡るわけですから。まあいまの姿では、身中の気をあえてくるわせて爆散するようなことでもしなければ、こうして動き続けますからご心配なく。大望を果たすまで、お供しますよ」
「ええ、よろしく頼みます」
米人間のひとりが伊兵衛を担ぎ、他の米人間は米人間を担ぎ、力が尽きたら交代するという馬を乗り継ぐ要領で道なき道を進む。
江戸の町についてほとんど無知なまま、一介の町民が江戸幕府を倒そうというのだから無謀としか言えない。死を覚悟してぞっとしない気持ちでいた伊兵衛だったが、彼らの異常な体力を見て一抹の希望を感じもした。これはひょっとするとひょっとする、と。
誤算が生じたのは、戦闘訓練をしておいたほうがいいかもしれないと思い立った伊兵衛が、これも家から拝借してきた、質に入っていた日本刀を米人間たちに向けたときだった。
米人間たちはわっと逃げ出し、ぶるぶる震えながら、木陰からこちらの様子をうかがっている。
「な、なんです!? どうしました!?」
伊兵衛の呼びかけに、おそるおそる、といった様子で米之進が進み出てきた。
「面目ない。われわれはどうも、刀がおそろしいようです」
「いやしかし、あれだけの力があるのに、なぜ?」
米之進は頭をかいた。
「刀というのは、モノを断つでしょう。われわれは、二分の別の無い転定から来たせいか、そういう”分ける”モノが苦手なんですよ」
性質を異にするものだから苦手だというのだ。
伊兵衛は何とか苦手を克服させようとしたが、あまりに怖がるので哀れになり、稽古をつけようとするのをやめてしまった。
しかしこれでは、いかに怪力の持ち主でも侍相手には勝算が無い。
米人間の力をあてにした計画は頓挫した。
どうしたものか、良い考えも浮かばないうちに、伊兵衛たちは江戸府内に足を踏み入れようとしていた。
*
伊兵衛たちが江戸府内に足を踏み入れたのと同時刻。
公にはならなかったものの、いくつかの場所で珍事が起きた。上野の寛永寺。浅草の浅草寺。芝の増上寺。徳川家ゆかりの寺院で、原因不明の鳴動が起こったのである。
僧たちがうろたえるばかりだったのも無理はない。それらの鳴動は、約一〇〇年前に仕掛けられた呪術的鳴子――現代風に言えばパッシブソナーがはたらいたせいなのだが、もはやそれと判ずることができる者は物故していたのである。
それは、かの南光坊天海が意図した、江戸の呪術的防衛であった。江戸は天海や陰陽道で名高い土御門家が知恵を傾けて建設した、一大呪術都市でもあるのだ。
江戸城から見て北東、いわゆる鬼門の方角には寛永寺がある。真逆の南西、裏鬼門には増上寺。
そして、北東から少し東に寄っているために鬼門の守りにはなっていないが、関ヶ原の勝利を徳川にもたらしたとしてゆかりの深い浅草寺。
一〇〇年の時を経て、人外が幕府の敵となる未来を見通した、天海の罠が動き出そうとしている……。
*
街道筋を外れたまま、堀切の近くまで来た伊兵衛は米人間を森林に置いて、まず偵察に出た。
江戸城の図面こそ見られなかったが、商家である実家には江戸の町割りがあり、それを持ってきていたので道は分かる。
向島堤に沿って大川を下っていくと、厩橋を過ぎたあたりで、川に浮かぶ舟からたくさんの米俵を荷揚げしている光景に出会った。蔵前(御米蔵の前)である。伊兵衛にも、日本各地の諸藩から運ばれてきた米がここで陸揚げされているのだなと。
(無為徒食の輩のための米、というわけか)
伊兵衛はその光景をきっとにらみ、先を急いだ。
すでに江戸の町の人出に驚いていた伊兵衛だったが、日本橋のにぎわいには肝をつぶした。地元八戸の櫛引八幡宮の例祭だって、これほどではない。その喧騒はもう耳を聾するといいってもいいほどだ。往来も橋の上も人でいっぱい。川の上も、大量の荷を乗せた舟でいっぱい。道の両隣には商人の土蔵が立ち並ぶ。特に魚河岸の騒ぎときたら、もう全員が喧嘩でもしているのかというような大声で喋っている。魚売りの声が飛び交うせいで、そうしないと聞こえないのだ。
そんな中、「御用」と叫んで手鉤をひっかけ、明らかな大物の魚を安値で持って行く者の姿を伊兵衛は見かけた。
「けっ、御上は良い魚に目をつけやがる」
という売り手のぼやきで、それが江戸城内から来た買い手だったと判った。要は御上の名のもとに魚を安く買いたたいているわけだ。魚河岸はそういう横暴を御上に許す代わりに冥加金を免除してもらっているのだが、伊兵衛はそんなことは知らない。商家の息子として、伊兵衛はますます怒りを募らせた。
腹立ちを覚えながら、武家屋敷が並ぶ大名小路を抜け、ようやく大手門にたどり着いた。
どこまで行っても白壁の塀と思われた大名小路がふいに途切れ、見上げるような大門が姿をあらわす。
大手門のたもとには番士が控え、その向こうは見通すことなどできそうにない。
「これが江戸城……」
伊兵衛は、その堅固さを肌で感じた。
*
「どう攻めるかが、思案のしどころですね……」
伊兵衛は米之進をはじめとする米人間たちと話し合っていた。ひどい食生活で頬はこけはじめていたが、目はらんらんとしている。
火事や盗みを防ぐ目的で、江戸の町の監視網は厳しいものがあった。
夜間は町々の木戸が閉まってしまい、往来を自由に進むことができない。
さらに、目明しと呼ばれる市中見回りの役人がうろついているのに出くわす可能性もある。
夜に人目に付かず、ここ堀切から江戸城まで行くのは至難の技に思える。
もしも米人間がいなかったならば、だ。
「屋根伝いに移動していくほかないでしょうね。物音をまったく立てないというわけにはいきませんが、まあ猫だと思ってもらいましょう」
「もし見られたら?」
「昏倒させてしまえば大丈夫。われわれには気の流れが人よりもはっきり見えるので、ちょうどいい経絡をつついてやれば済みます」
米之進は胸を叩いて言った。これで刀さえこわがらなければ、と伊兵衛は思わずにいられなかった。
もうひとつ重要な問題があった。江戸城内の様子を知る手立てである。
城内の建物の配置や人の動きがわからなければ策の立てようがない。米人間の怪力と健脚で忍び込むことはできるかもしれないが、一度見つかって警戒されれば、機会は二度と訪れないだろう。何しろ米人間は刃物が苦手なのだ。刀を持った見回りが増えでもすれば、作戦に差し支える。
「上から見る、という手がありますよ」
米之進が事もなげに言った。
「上? あなたたちはまさか空も飛べるのですか!?」
もうたいていのことには驚かないつもりだった伊兵衛だが、さすがにこれは目を丸くするしかなかった。
「いいえ、いくらわれわれでも鳥の真似なんかできません。ただ、われわれは神気を仲立ちにして、バラバラになってもくっつきなおすことができますから」
米次郎が、岩で砕いた自らの破片をくっつけたのと同じだ。
要は、自分を仲間にすりつぶしてもらい、風に乗って偵察してこようというのである。江戸にはときおり強い風が吹くから、それを利用しようというわけだ。
「しかし、そううまくいくでしょうか。風なんて、どこに吹いていくかわからないのに」
「なに、風の流れは神気の流れ。正しい風を選びますから大丈夫ですよ」
風のこともそうだが、伊兵衛は米之進が粉々になるまでの過程が気になった。
「……痛みは、ないのですよね?」
「この期におよんで小さなことを気になさるんですね。それなりに痛いですよ」
「えっ。それは、どれくらいです……?」
「あっ。……なに、たいしたものじゃありません。お気になさらず」
善は急げとばかりに、すぐ準備がはじまった。
作業は、周囲に音が響かないように、、また破片をとりこぼさないようにというので、地に深い穴を掘ってその中で行われた。
作業を途中までは見守っていた伊兵衛だが、いたたまれなくなって途中で立ち去った。敵意は無いとはいえ、はたからみれば米人間どうしの殴り合いである。見ていられなかった。
日本橋で、人ごみにまぎれて撒いた米之進が戻ってきたのは、三日後の昼であった。
「たいへん遅くなりました。江戸城、この目でしかと見てまいりましたよ」
かすかな声が伊兵衛の足元から聞こえてきて、見れば、小さくなった米之進がぴょんぴょん跳ねて注意を引こうとしていた。目を疑った伊兵衛が思わず地にはいつくばって目をこらすと、小さくなった米之進は苦笑しながら頭をかいた。
「いや、お恥ずかしい。自分の断片をだいぶ見失ってしまって、かき集めてこれだけ作ったんです。それより、合議といきましょう」
米之進は小枝を使って、土に江戸城の詳細な図面を描いてみせた。
「わかりやすいですが、いちばん大きな建物が将軍のいる本丸です。風は屋内にも吹き込んだので、将軍の寝所もわかりましたよ」
「ありがたい! 将軍の顔は見ましたか?」
「ええ、しかと。他の者にも伝えておきます」
「いよいよ、ですね」
米之進と伊兵衛は、覚悟した顔で頷きかわした。
*
深更。
大名屋敷の屋根から、米人間たちの粉末が江戸城へ、風にのって運ばれていく。
伊兵衛と、伊兵衛の肩にいる小さくなった米之進は、それを見守っている。周囲には護衛も兼ねて他の米人間も数人いた。
「首尾はどうです?」
暗闇の中、人間の目では状況が分からない。伊兵衛は神気を通して仲間の様子を感じ取れる米之進に尋ねるしかなかった。
「いい塩梅です。だいたいは城内に落ちて行っていますよ」
この侵入方法をすすめたのは米之進であった。江戸城内と近隣の武家地の間には濠割りを含め相当の距離があり、屋根伝いには行けない。見張りも厳重だろうし、万が一見つかればこちらが苦手とする刀を抜かれてしまう。それなら、こうして忍び込んでから城内でふたたび人型となり、行動したほうがよいという理屈だった。
伊兵衛は米人間の痛苦を思うと賛成できなかったが、他に妙案も無い。今はただ、彼らの痛苦が無駄にならぬよう、作戦の成功を祈るばかりだった。
作戦は単純で、城内に侵入した米人間たちで将軍をさらってこようというのである。寝所も顔も割れている。米人間たちがよほど目立つ行動をしなければ、上手くいきそうな作戦に思えた。
「よし、大方の者は動けるようになったようです。これで後は……」
と、口をつぐんだ米之進を含め、周囲の米人間たちが急に身じろぎした。
「どうかしましたか?」
「いや、何か妙な気配が急に……」
米之進がそう言いかけたとき、突然、江戸城の御濠から金色の光芒が空に向かって伸びたかと思うと、とてつもなく高い水柱が上がった。そのしぶきが、幕を落とすようにに晴れたところに現れたのは、金色に光り輝く龍であった。
伊兵衛は思わずあっと小さく叫んで、身を伏せた。
金龍の鼻孔から、どす黒い霧が吹きだされる。霧はたちまち無数の雲に変じ、金龍はそれを前肢でひっつかむと、ぐいとその身をよじって、江戸城内に乗り出していく。霧はたちまち江戸城を覆い尽くした。
天海の遺した防衛機構が幕府の危機を察知し、ついに作動したのである。
「霧で何も見えない! どうなっているかわかりますか?」
「あの霧は、生の神気のようですね。ふれた見張りの武士があてられて、次々昏倒していっている」
「それでは味方なのですか。それとも……」
「残念ながら、味方とは言えないようです」
伊兵衛には霧で見えなかったが、城内の米人間たちは、いちはやく金龍が敵だと理解していた。挨拶も無く、再生した米人間がひとり、龍に呑み込まれたからである。伊兵衛の命を遂行するのに、龍は明らかに邪魔な存在であった。
「おそらくは、幕府を守護しようとした何者かが遺した、置き土産でしょう。応戦していますが、分が悪いですね。松を投げつけたりしていますが、ひるむ様子がない。」
戦況を教えてくれる米之進の言葉を、伊兵衛はほとんど聞いていなかった。震えで歯の根がかみ合わない。
米人間という圧倒的な力がそばにいたからこそ、伊兵衛は平静でいることができた。それを超える力を幕府が備えていた事実を目の当たりにして、今さらながらに恐怖がおそってきたのである。目の前で起きている、夢物語のような光景が信じられない。身勝手にも、すべて夢であってくれればとさえ思いだした。
そんな伊兵衛の頬を、米之進は優しく叩いてやった。
「敵は強いですが、われわれも刀相手でなければまあまあ強いんですから。まあ見ていて御覧なさい」
城内の米人間たちは、いまやすすんで龍に食われに行っているように見えた。金龍としては断る理由も無い。攻め寄せる米人間を次々と喰らっていく。
と、龍の胴のあちこちから、龍の金とは異質なあたたかい光がもれだした。そして次の瞬間、そこが破裂し、龍は苦し気にのたうちながら霧の中へと姿を消した。
「あれは!?」
その爆発を見て伊兵衛はすぐにわかった。あのイノシシの姿が頭をよぎったのである。
「あなたたち、まさか気をくるわせて……」
伊兵衛は米之進を見つめた。米之進はにこりと笑う。
「われわれはあれで穀精の巡りに還ることができますから。あれでいいのですよ」
伊兵衛はうつむいた。米之進たちに守ってもらうばかりで、自分は何もしていない。これでは、孔子や釈迦、幕府と変わらないのではないのか。
しかし、もはや引き返せないところまできている。
ここまで来たら、何としてでも、将軍の首を取るしかないのだ。呟く。
「江戸幕府敗れたり……!」
この安藤昌益の弟子、嶋守伊兵衛がついにやったのだ。あとは、城内の米人間が将軍を連れてきてくれるだろう。天下を盗んだ大罪人を、昌益翁の名のもとに裁いてやる。
そのとき、両隣にいた米人間がゆるめいていた警戒をふたたび強める仕草をした。
伊兵衛が不審に思った途端、ふたたび金色の光が霧の中から発せられ、金龍が顔をのぞかせた。
「そんな……」
愕然とする伊兵衛ちちがい、米之進は落ち着いている。
「なるほど手ごわい。さすがは幕府といったところですか」
ひょい、と米之進が伊兵衛の肩から飛び降りた。
「何をするつもりです?」
「残った手勢でふたたび爆破戦術をとります」
「しかし! それでは、将軍を……」
「少しは手勢を残しておきますよ。それで策を練りなおすことです。まずはあれをどうにかしなくては。では、達者で」
伊兵衛が何とか引き留めようとした、そのときであった。
何か白く巨大なかたまりのようなものが南西の方角から飛んできたかと思うと龍に激突し、そのまま跳ね返るようにして元来たほうへ夜空を放物線を描いて戻っていく。
何事かとそちらを見た伊兵衛はあっと叫んだ。
半蔵門の方角に、天守閣がそびえていた。
いや、よく見れば天守閣ではない。信じられない大きさをしているが、その顔面は米次郎に間違いなかった。心なしか、いまはふっくらとした肌をしているように見えた。
勢いをつけた米次郎の両腕がふたたび餅のように伸び、金龍の長い胴をとらえた。
さきほどの爆発がやはり少しは効いていたのだろうか、身をよじっても米次郎の拳から逃れ出ることはかなわず、金龍はふたつに引きちぎられた。今度は復活する兆しもなく、金色の欠片ははらはらとかき消えていく。
さきほどまでの激闘が嘘のような、あっさりとした幕切れであった。
巨大な米次郎が腕を振るうと、餅が伸びるように細まりながらも腕が伸び、トリモチのごとく米人間を取りつき放り上げる。残り少ない城内の米人間たちは、まとめてすくいあげられてしまった。
米人間たちを抱えた米次郎は、踵を返し、江戸城から離れていく。
伊兵衛は、その後を追わざるをえなかった。
米次郎がいるということは、当然昌益も来ているだろう。
叱りに来たのか。助太刀に来たのか。伊兵衛は身のすくむ思いをしながら駆けた。
米次郎は戸塚の辺りでようやく元の大きさに戻った。そしてそのかたわらには昌益がいた。
「いや、素晴らしいですね。水の気を送り込んでかさを増したというわけですか」
のんびりと米次郎を観察している米之進は無視して、伊兵衛は昌益と相対した。
「殺すは枯らすに通じると教えたはずだがな。もう少し賢いやつかと思うていた」
「先生……」
「馬鹿なことをしたものだ。藩士の前田君に、江戸のことをせがんで話してもらったろう。あれでピンときたんだ。もう少し早く着いていれば、事を起こす前に止められたのに」
「馬鹿なことですって!」
伊兵衛は昌益にくってかかった。
「私がもしあの龍に勝って将軍の首を取っていれば、先生の理想とする万民が平等に畑を耕す世になったというのに。先生は口ばかりで何もしない! だからわたしが代わりに……」
「私の論など関係あるまい。おまえは、母上の仇を討とうと思ったのであろう」
師はお見通しだった。伊兵衛はうつむくしかない。
「誰かがやらなくてはならない。そう思ったのです」
昌益は叱るでもなく説き伏せようとするでもなく、黙って弟子の顔を見つめた。
「伊兵衛、おまえはあの祝詞を忘れることができるか?」
「え?」
「私は仙確殿らと語らって、転真敬会という結社を作った。一〇〇年後を見据えて、われわれの思想を広めていく会だ。金銀学問賞罰宗教廃止。万民が上も下もなく田を耕す、そういう世の中に少しでも近づけるためにな。伊兵衛、お前もこの会で、力でなく談論で世直しをするのだ。お前のやったことは父上や田の持ち主にとりなしてある。八戸に帰り、足元を耕すことから始めなさい」
「一〇〇年後……一〇〇年後ですか」
一時、昌益の説得に感じ入ったかに見えた伊兵衛だったが、やがてきっと顔を上げて叫んだ。
「遅い! そんな気の長い話には付き合っていられない! いま! いまでなくてはならないんだ! 幕府を非難しながら、何もしようとしないあなたは、孔子や釈迦と何も変わらない口舌の徒だ!」
昌益が目顔で米次郎に合図すると、米次郎は音もなく伊兵衛の背後に回り、首筋を手刀で叩いた。あっさりと伊兵衛は昏倒してしまった。それを米次郎があらためて抱きかかえる。
「いまはひとの話を聞く状態ではあるまい。話をするのは連れて帰ってからだ」
ふと、昌益は米之進を見やった。
「止めなかったな」
米之進は肩をすくめた。
「ずっと気を張られていましたから。このあたりで楽になってもようございましょう」
こうして昌益と伊兵衛、それに米人間たちは江戸を去り、幕府は危機を免れたのであった。
*
その後の昌益は、伊兵衛に語った通り、自分の教えを広めることに力を尽くした。
自らの思想を余すところなく伝えるために稿本『自然真営道』全一〇〇巻を書き上げたが、幕府批判を含む内容のためか、刊行されることなく終わっている。
ただ、こんな逸話もある。晩年の昌益が過ごした大館では、昌益の薫陶を受けた村人たちが神社へのお布施をとりやめ大いに困ったというのだ。『自然真営道』が出版され、昌益が全国に出向いて講演でもしていたら、ちがった未来があったかもしれない。
転真敬会については、この物語の舞台である宝暦年間に、昌益が中心となって一揆を指導したという伝説もあるが、定かではない。昌益の非戦思想を考えれば、少々無理があるようである。
その後、転真敬会の名は歴史上にあらわれてこない……。
「首相、祝電が届いています。ええと、転真敬会という団体からですね」
「ああ、ありがとう。そこへ置いておいてくれ」
神気は巡る。人があまりにも自然から離れそうになったとき、ふたたび昌益の思想は姿をあらわすのかもしれない。
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