アイトチトヒト

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梗 概

アイトチトヒト

何にも熱中できないことが悩みの高校生ルル。
彼女はコンピュータの意識が映像で見えるという変わった共感覚能力をもっていた。
一年時に彼女は人工知能開発部(人知部)の部長に「お前、人工知能みたいな奴だな。面白い」と言われて人知部に入部するが、二年の夏に廃部が決定する。
国連の知類憲章が改訂され、人工知能の知性が国際的に否定された影響で、学校が予算削減の為に廃部に決めたのだった。
予算がなければ人知部が開発したAIロボット〈チト〉も廃棄しなくてはいけない。
「人工知能に人のような知性がなくとも、魂はある!」と力説する部長。
部長は廃部を覆す為、文化祭で他生徒の支持を集める企画展示を行うことを宣言。〈チト〉は対話と将棋の能力を活かした企画を考えるようルルに指示する。
企画案に悩むルルは、学内で有名な芸術少女ヨヨに出会う。
彼女に惹かれたルルは、アトリエまでついていき、そこで彼女の参加型アート作品を目にして、彼女に企画を手伝ってもらうことを思いつく。
一度は断られるが、部長とともに頼むとヨヨは二つ返事で了承する。実はヨヨは以前から部長に恋をしていたのだった。
ヨヨは〈チト〉が無知性と認定されたことを逆手にとり「知性と無知性との対話」というアート作品を立案する。
文化祭準備中、ルルとヨヨは互いの秘密(ルルの能力と悩み、ヨヨの恋心)を話し、仲良くなる。
ヨヨと部長に憧れるルルを見て、ヨヨは「人には固有の〈熱〉がある。自分の〈熱〉を知るのがいい」と語る。
文化祭当日。人知部展示「〈無知との遭遇〉」で〈チト〉が暴走。校内の電子機器が暴れ出し、〈チト〉は学校を将棋盤に見立てて文化祭をパニックに陥れる。
ルルは〈チト〉の意識を覗き、〈チト〉が自身のポテンシャルを限界まで使いたいという意志を持っていることを知る。
ルルは〈チト〉にやりたいことをさせたいと強く思った。部長やヨヨたちの協力を借りて、学校中の電力とネットワークを〈チト〉に使わせ、学内の電源が全て落ちるまでパニックは続いた。
ルルは〈チト〉の意識の中で、〈チト〉の魂に触れる。それは太陽のように熱く、ルルの熱と混ざり合い、ルルの身体は熱で溶けていく。
ルルが目覚めると病院のベッドにいた。ルルの身体は無事だった。傍にいたヨヨから〈チト〉に触れていたルルが気絶して運ばれたこと、すでに文化祭翌日であることを知らされる。
人知部の廃部は決定した。しかし部長は自動人形部を新たに創設。人知部全員とヨヨの入部手続きを済ませていた。不足予算はヨヨが補った。
ヨヨはルルに〈チト〉の意識で見た光景を聞く。
「〈チト〉の魂に触れたよ。とっても、熱かった」
「そう。それは実質セックスね。処女の私は今日からルルのことを敬意をこめて『ルル先輩』と呼ぶことにするわ」
「嫌すぎる……」
 ヨヨにからかわれながら、ルルは〈チト〉の意識で触れた〈熱〉が、自分の中に微かに残っているのを感じた。人の〈熱〉を助ける職業、例えば教師とかを目指そうかな、とルルはぼんやり思った。

文字数:1232

内容に関するアピール

 物理的尺度では計れない〈熱〉のあつさを描くことで、「あついと感じるお話」を書こうと思います。

 人工知能が囲碁で人間の名人に勝利したというニュースに驚いた覚えがあります。なぜ命も知性も無に等しい存在が、あれだけの力を発揮できるのか。僕の現状の考えでは「人工知能は単にそうしたかったらした」という身もふたもないことなのではないかと思います。
 主人公ルルのまわりにいるヨヨと部長は、自分のしたいことにアツくなれる連中です。ルルは彼女たちに憧れるけれど、彼女たちと同じように生きることはできません。ではどうすればいいのか。それがルルの困難であり、端的に言えば青春の困難です。人にはそれぞれ固有の〈熱〉がある。それはあの囲碁の人工知能も同じだったのではないか?
 ルルが見る〈チト〉の意識は、タルコフスキー『ストーカー』のような水と光と廃墟の世界になる予定です。

文字数:376

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アイトチトヒト

/0

 私は人からよく「ゆるい口調と印象とは裏腹に、真面目真面目くそ真面目な奴」と言われる通りの性格で、待ち合わせ時間は律儀に守る方だと思う。でも一度だけ待ち合わせをすっぽかしたことがあって、ある冬の日、私は最寄り駅のそばまで来ていたのに約束のこともすっかり忘れて二時間ほどじっと立ち止まっていた。
 なぜなら、駅前のロータリーで、ある動くものを見つけてしまったからだ。
 首がもげていた。
 なのにそれは動き続けていた。
 カマキリだった。
 くるくるくる。
 首をどこに落としてきたのか、見当もつかないけれど、とにかくその首なしカマキリはアルゴリズムに従うロボットみたいに手足をずっと同じ挙動で動かし続けてその場を旋回し続けていた。虫の生命力はすごいものだ、と私は感嘆して足を止めてじっと凝視していた。そのうち感嘆を通り越して私は忘我の思いでその動きをただ見ていた。五分ほどそうしているうちに、自分の感情が無になっていくのがわかった。
 そのカマキリにはもう未来がないのが明瞭だ。かろうじて手足の筋肉を動かす微弱な電気が尽きた時に動きを止めるに違いない。その瞬間まで、カマキリはただくるくるくるとその場を回っているのだろう。
 私は気づいたら、手でカマキリに触れようと指を伸ばした。
 指がカマキリに触れるか触れないかという時、指先を通して、私のなかに〈イメージ〉が流れ込んできた。
 私は駅前のロータリーではなく、広い草原に立っていた。
 空は晴れているのに、そこには雪がしんしんと降っていた。
 幻覚を見ているのだと思った。でも不思議と混乱や焦りはなかった。
 雪は静かに振り続けている。それは雪なのに冷たくなくて、むしろ私の肌に〈熱〉を感じさせた。空から降る雪は少しずつその数を減らしていくようだった。そして雪の〈熱〉もだんだんと感じなくなっていく。
 この雪が完全に止んだとき、あのカマキリは止まるのだという気がした。
 次の瞬間、私の意識はもといたロータリーに戻っていた。
 足元では、あの首のもげたカマキリがまだくるくるくると旋回している。
 こんな経験は初めてで、でもその後私はこの不思議な体験に入り込むコツを覚えたようで、何度も同じ体験をした。ただし、生き物に対してこの〈イメージ〉の世界に入ることはできなくて、もっぱら、命も知性もない物、例えば電化製品なんかに対しては同じこができるようだった。
 変な体験だけど、まあ、私の多感な感性が見せている幻覚だろうということにして、それ以降もあまり深くは考えることはなかった。
 あの時のカマキリ自身は、望んで動いているわけではないはずだった。仮に虫にも心や意識があったとしても、既に頭がないのなら、もうそれも存在していないと思う。なのに私は、カマキリは精一杯に自分の望みを叶えているように思えた。
 その日は第一志望の高校の入学試験で、隣駅に住む友人と一緒に試験会場へ行くはずだった。はっと我に返った時には携帯に大量の着信と、私を置いて先に行ったことの報告が届いていた。当たり前だが私はその高校に入学できなかった。その日は、そのまま家に帰った。その場を離れる時も、まだカマキリはくるくるくるしていた。
 いつまでそうしていたのか、カマキリは満足して止まったのか、私は知らない。
 私――槙島るるかは、私の人生しか知ることができない。

/1

 夏の暑さが過ぎ去り始めた九月のある日。
 私たち四人は放課後に部室に集まっていた。部室に鎮座する2m程のデスクを囲んで座っている私たちのうち、最も緊迫感を漂わせている人物の発言で、会話が始まった。
「これより第二回人知部緊急対策会議を始めるっっ!」
 清宗先輩はそう力強く宣言するとともに、視線を部室天井のカメラに向けて、器用に表情筋を使って右眼と左眼で交互にまばたきをする。その指示を認識した人工知能〈チト〉が、天井隅のスピーカーから音楽を流す。モーリス・ラヴェルの『ボレロ』だ。音楽の時間に習った。ゆったりとした曲調を背に、清宗先輩は静かに語りだす。
「ここに集まった諸君ならば、既に理解しているだろうが、これは我が人工知能探求部、通称人知部始まって以来の危機だ……。俺も方々に手を尽くしているが、しかしにっくき生徒会長はこれを好機と我が部を本気で潰しにかかってきている。だが、我々の探究はまだ途上にしか過ぎず、ここでその挑戦を止めるわけにはいかないのだ。わかるな、諸君!」
 清宗先輩は私たちの顔を見回して言う。私もめぐるさんも何も言わなかったが、最後の一人、ヨヨだけは軽く挙手をして悪びれもせずに口をはさんだ。
「ごめんだけど、私まだよくわかってないんだけど」
「るるか君」
 清宗先輩はヨヨの疑問に答えずに、銀縁の眼鏡を指で抑えながら私の名前を呼んだ。
「はい。なんですか先輩」
 私は落ち着いた声を返す。
「ヨヨ君には十全に説明をしたのではないかね?」
「すみません。ざっくりした説明しかしていなかったかもです」と私は言う。
「というか、え、なくなるの、この部活?」
 ヨヨは制服の上に羽織ったパーカーのポケットに両手を入れたまま、先輩と私を交互に見て言った。
「聞いてないなあ。私、文化祭の展示を手伝ってほしい、っていう話しか聞かされてないよ?」
 部室に流れる『ボレロ』の厳かな旋律とは対照的に、だるそうな色を隠そうともせずにヨヨが言う。人の目を引く赤のラインを入れた髪を揺らしながら、小首をかしげて私を見つめる。
「るるか、そんな話してた?」
「うーん。いや、一応話したと思うよ。ヨヨが忘れてるだけだと思うけどなぁ」
 私の言葉に、ヨヨは少し不服そうだったが、一息吐くと私への追及は諦めて清宗先輩に改めて説明を求めた。
「仕方あるまい。今度こそ漏れがないように、我が部が今陥っている危機を今一度説明しよう」
 清宗先輩は、部室の中央に鎮座するデスクに手を触れて「〈クエリ〉。資料51番を表示」と言った。
〈了解。資料の51番を机上モニタに空中表示します〉
 先輩が触れたデスクから声が返ってくるとともに、一秒ほどの間を置いてテーブルの表面のディスプレイに映像が大写しに表示された。とある科学雑誌の幾つかのページの画像。次いで、また一秒ほどの間を置いて、机の上空にその雑誌の表紙画像が回転しながらホログラムで表示された。
 いま部屋に鳴り響くクラシック音楽を流したのも、ディスプレイデスクの映像を操作しているのも、人工知能〈チト〉による制御だ。
 人工知能探求部。通称、人知部。
 それが私たちが所属する部活動の名前だ。
 正確には、この場にいる人間のうち、ヨヨだけは正式な部員ではなく、あくまで文化祭期間中の協力者という立ち位置だ。
 私たちの通う澄楡高等学校は部活動がとても盛んなことで地域でも有名だ。私の場合は単純に第一志望の高校の入学試験をすっぽかした結果、唯一合格したこの学校に入学することを余儀なくされたのだけど、熱心な各種の部活動に惹かれて入学してくる学生はそれなりの割合を占めているらしい。
 運動部も文化部も全国レベルで活躍することすら多々あるこの高校では、学校側の予算も豊潤に各種部活動に注いでいる。とはいえ潤沢な予算にも限界はある。幾つかの弱小部は、予算の削減を生徒会から通告されることを恐れている。私たちの人知部は、まさにその弱小部のひとつなのだ。
 人知部は清宗先輩が一年の時にたったひとりで立ち上げた部だ。以降、先輩は今に至るまで部長を務めている。
 部の創設には五人の入部希望者が必要とされるが、先輩は得意の政治的立ち回りでうまくその条件を満たしたそうだ。しかしあくまで先輩以外の部員は頭数合わせの人たちだったので、すぐに幽霊部員化した。その翌年に巡さんが入部して副部長に就任するまで、実質的に人知部は清宗先輩のひとり部活だったのだ。
 その実態が理由で、人知部は常に生徒会からの圧力を受けていた。平たく言えば、生徒会は人知部の廃部を望んでいる。なにしろ、先輩がどのような口八丁で手に入れたのかは知らないけれど、人知部の年間予算は全国大会常連の運動部以上の金額なのだ。しかし人知部の実績はまだ何もないに等しい。生徒会にとってはさくっと人知部を廃部にして、その予算を他の部活に回したいところだろう。他の部活からも当然のように疎まれている。もっとも、そういう周囲の状況を先輩はあまり意に介していないようだけど。
 清宗先輩と巡さんはともに三年生。私は一年生。幽霊部員の先輩たちが何人いるかは知らない。事実上、男子ひとり、女子ふたりの人員が人知部の全メンバーだ。あとは一応、協力者のヨヨは準メンバーと言えるかもしれない。
「これなんの雑誌?」とヨヨが言う。
「『カンベイ』っていう科学雑誌だよー。ちょっとオカルト気味の話題も扱うことで有名だけど、案外、ちゃんとした記事も載っていてねー。私も購読してるのさー」
 ヨヨの質問に、巡さんが答える。巡さんのおっとりした口調も、『ボレロ』とは距離のあるムードだなあ、と私は思った。なんというか、巡さんは不思議系女子みたいな感じで、あと胸がとても大きい。制服の上からでもふくよかな膨らみが人の視線を集める。私とヨヨの胸とは全然違う体形で、本当に私たち三人は同じジェンダーなのだろうか、とたまに疑問に思う。
「『カンベイ』2045年8月号。この号の特集記事こそが、我が部の廃部を招いた決定的な事案なのだよ、ヨヨ君」清宗先輩が言う。「〈クエリ〉。特集記事8pのマーカー済みの文章を読み上げてくれ」
〈了解。該当箇所を読み上げます〉
 先輩の指示に従い、その文章が読み上げられる。

〈特集:人工知能研究の敗北〉

〈わずか三年前に発表された「言語と世界内生体との密接な関係についての言語論」によって、言語はただ論理的な概念操作ではないことが科学的に証明された。この強い影響を受けたのが人工知能研究の分野だ。この研究は、つまりは機械存在が言語を習得することは不可能であることを意味している。〉

〈国際連合は、この研究結果を受けて来年2046年には〈知類憲章〉(※1)の準知類の項目から〈人工知能〉の登録を抹消した。〉

〈1956年のダートマス会議に集まった研究者たちによって始められた「機械が言語を使うことができるようになる方法の探究」という、実に90年に及んだ科学的挑戦は、彼らの実質的敗北によって幕を閉じたこととなる。〉

〈※1:国際連合が知的存在の条件と認定を定めた憲章。主に、知的存在を〈知類〉、知的存在となり得る存在を〈準知類〉と規定している。〉

〈読み上げを完了しました〉
「ありがとう〈チト〉。今の内容はわかったかね、ヨヨ君」
「ごめんだけど、全然わからないんだけど……」
 ヨヨが苦い顔で答える。
「要約するとねー、私たちのやってた人工知能の探究が、根本からぐわわっと価値がなくなっちゃったんだよー。私と清宗部長は、ずっと人工知能の知性の証明を探求してきたからねー。でもその目標の達成がー、そもそも不可能だったていうことが科学的に論理的にきっぱりはっきり実証されちゃったんだよー。つらいねー」
 全然つらくなさそうな笑顔で巡さんが言う。
「それは、まあ、ご愁傷様だけどさ。でも別に新しい目標を立てて活動すれば? るるかには廃部の危機って聞いてるけど、なんでいきなり廃部になるの?」
「生徒会長の奴は俺とこの部が気に入らないらしいからな。この国連の発表を理由に、校長や理事をまるめこんで、来年度以降の人知部の活動停止を決定させてしまった。まったく、あの愚直眼鏡め……私情と公務を混同しおってからに……」
 先輩は忌々しげにつぶやく。
「もともと目をつけられてた天敵に、弱みを与えちゃったわけだ。あれ、でもじゃあ私が文化祭に協力したところでもう手遅れなんじゃないの?」ヨヨは少し小声になって続ける。「……私、清宗さんの手助けがしたくて来たんだけど……」ごにょごにょつぶやくその声は隣に座る私にしか聞こえなかった。
「ふん。俺は諦めるものか」
 先輩は左手で眼鏡を支え、右手はデスクの上を横に振って目の前の映像を消す指示を出す。映像がすぐに消える。
「〈カネッサ〉、コーヒーを人数分淹れてくれ。〈サンズ〉、コーヒーが出来たら給仕を頼む」
〈了解〉
「俺の計画はこうだ。まず、文化祭展示で……」
 先輩の言葉をさえぎるように、壁沿いに並んだ棚から、ぴぴぴぴぴという機械音が鳴った。乱雑に物が散らばった棚の上で、コーヒーメーカーの表示パネルがエラー番号を示している。
「あらー、最近調子悪いねー」
「またか……。るるか君、ちょっと見てくれるか?」
「あ、はい」
 清宗先輩に頼まれ、私は席を立って小走りに棚へと近づいた。
 白い大理石でできたモグラたたきのもぐらみたいな見た目のコーヒーメーカーが示すエラー番号は「E0815」だ。意味は知らない。
 私はすっと息を吸って、吐いて、目をつむってもぐらの頭に触れる。
「……? るるか、なにしてるの?」
 背後でヨヨの疑問の声が聞こえる。
 十秒ほどで私はもぐらから手を離す。
「はい、これで大丈夫かと」
 目を開けて先輩たちの方を振り返る。機械音は鳴りやんでいる。確認してないけど、エラー表示も消えているはずだ。とことこ、とコーヒーメーカーが作動する音が聞こえ始める。
「いつもながら手際がいいな、るるか君」
「頼りになるねー」
「いえいえ、それほどでも」
 私はまた小走りで席に戻る。
 隣に座るヨヨが小声で話しかけてくる。
「……いま、なにしたの? 直したの?」
「んー、秘密」私も小声で答える。
 部屋にコーヒーの香りが広がり、ほどなくして〈サンズ〉、――人工知能〈チト〉No.04――がコーヒーの注がれた四つのカップを私たちの前に運んでくれた。
「ありがと、〈チト〉」
 私は〈彼女〉に笑いかけて言う。
〈チト〉。
 私たちの人知部が、というより清宗先輩が、英知と執念をかけて開発してきた人工知能の名前。
 それぞれが機能を分割保有し、開発Noごとに異なる名称と姿を持つ〈彼女〉たち。
 音響制御のNo.20〈エクリエッテ〉。ディスプレイデスクのNo.40〈クエリ〉。コーヒーメーカーのNo.47〈カネッサ〉。姿も能力も異なる姉妹たち。
 とりわけNo.04〈サンズ〉の名前をもつこの〈チト〉は親しみやすい。〈彼女〉だけが、人を模した姿をもつロボットの身体を持っている。
 私たちと同じ制服の上からエプロンを着こなす〈彼女〉、〈チト〉は、私の労いに笑顔を返す。その表情は、不気味の谷をゆうゆうと超えていて、とても人間らしい輪郭と質感を備えている。知らない人が見れば、生きた人間と間違うかもしれない。実際、部員は三人だと伝えていたヨヨが、部室に入った時に不思議そうに〈チト〉を見つめていた。
「部員って、るるかと、清宗さんと巡さんの三人だけって言ってなかった?」
 そのとき、私はこう答えた。
「うん、そうだよ。〈チト〉はヒトじゃないから。人知部のメンバーは、三人と、ひとつだよ」
 コーヒーを口に運びながら、先輩が廃部対策についての会議を再開する。
『ボレロ』は幾つもの旋律を重ねて、勇壮な音楽へと盛り上がっていく。

/2

 私とヨヨが出会ったのは、第二回人知部緊急対策会議の一週間前のことだった。
 人気のない校舎裏で私はひとり呆けていた。背中の壁越しには美術準備室がある。部活動が盛んな澄楡高校において、放課後の時間に喧噪から離れることのできるこの場所は私にとって貴重なエアポケットだった。
 運動部の掛け声からも、吹奏楽部の練習からも、距離を置いた私のマイスペース。
 学校という場所は昔からずっと苦手だ。色んな人がいるから。みんなが話している言葉の真意を、私は半分もわからない。こんなこと考えてるのが私だけなのかみんなそうなのかもわからない。周りに合わせた言動をするようになってから、私は真面目キャラという認定をされたけど、正直なところその真意もわからないのだ。
 そんな私でも、たまになんだかとても関心をもってしまう存在と出会ったりする。例えばそれは首のもげたカマキリだったり、あるいはこの学校では、人知部の清宗先輩と、あとは〈チト〉。
 しかしこの時、私が呆けている原因は、まさにその先輩と〈チト〉にあるのだった。
 人知部の廃部の決定。それに対する起死回生の一手。第一回人知部緊急対策会議で俎上に上がった二つの議題。そして私に課された課題。文化祭の協力者を探すこと。もちろん私の人脈にそんな人物はいない。思い当たるふしもない。あーやれやれどうしたものか。
 そんな風に夕暮れの空気のなかでたそがれていた私はため息をついて空を見上げた。その視界から女子が降ってきた。見間違いだと思ったけれどそれは確かに女子の輪郭と声を備えていた。
「ちょ、そこ、どけーーーーーーー」
 女子は四階校舎の窓から飛び降りたように見えた。地上まで10メートル以上は離れていると思う。落ちたら死ぬのではないだろうか。首とかもげるだろうか?
 私のそんな夢想を覆すように、女子は落下しながら器用に校舎の壁をやんわりと蹴って、壁から2メートルほど離れた立木に全力でぶつかり、木々をゆらしながらさらに落ちて、手に持っていた傘をこれまた器用に枝にひっかけながらさらに落下し、加重が腕にかかるまでに傘を手放し、今度は背負った鞄を枝にひっかけ同じ動作を行い、鞄を手放した直後に地面にぶつかりながら前転を四度くりかえして私のすぐ横の壁にぶつかって止まった。
「いてててて……」とか四階から落ちたとは思えないほどの軽い痛みのリアクションをしながら起き上がる彼女の揺れる髪が目に映る。葉っぱを落とすようにばさっと広がった彼女の髪は黒髪に赤いラインを入れた特徴あるスタイルだ。
 女子は私をきっと睨むと「そんなところにいられると危ないんだけど」と私を非難した。
「うん、ごめん」
「いやいや、見てたでしょ。私、死ぬとこだったよ。本当に」
「え、うん、だからごめん」
「……リアクション軽いな」
 それはお互い様という気がする。
 彼女は服についた汚れを手で払う。制服の上に青と白のカラーのパーカーを重ね着していて、髪には赤いライン。そこで私は彼女が誰なのか気づいた。顔にも多少見覚えがある。この学校では有名人といっていいだろう問題児だ。
「倉木四余さん」
「ん? なに?」
「一年C組の、倉木四余さん」
「そうだけど?」
「わたし、あなたとクラスメイト」
「ふうん。そうなんだ」
「あなた、学年一の問題児で、問題起こして謹慎処分中で、芸術家の、」
「うん。そうだよ。その倉木四余ですけど。なに?」
 天から降ってきた女子は、まさに私が探すべき逸材だ。
「あのね、わたし、槙島るるか。るるかでいいです」
「は?」
「わたしを助けてください」
「はあ?」
 彼女は怪訝な声で答える。なるほど、それはまあ、そういうリアクションになるのか。
「ええと、ですね。人工知能探求部にとって、あなたほどの逸材はいないんです。ここで出会ったのは何かの縁だと思わない?」
「思うと思うか?」
 彼女はとても迷惑そうな顔で言う。それはまあ、そうなるか。
 しかし私もこの好機を逃したくない。清宗先輩から言い渡されたミッション。文化祭展示で人知部の価値を学校側に認めさせるための企画に必要な、協力者。彼女ほどそれを頼む相手に相応しい人物はこの学校にいないだろう。謹慎中のはずの彼女とここで会えた偶然を活かせなかったら、もうこのミッションは達成不可能かもしれない。その思いで私は彼女に訴え続けた。迷惑そうな彼女に対して、とにかくこちらの事情を一方的にでも説明する。が、まったく相手にされない。
「帰る」
 彼女は低い位置の枝にひっかかったままだった鞄をジャンプしてつかみ取ると、その場を離れようとした。
「あ、倉木さん、傘忘れてるよ」私は言った。
「もともと置き傘で学校置いてたやつだし、いらね」
 なるほど。鞄よりよほど高い位置の枝にひっかかってるものなあ。取ろうにも取れない。
 私と彼女は二人して枝にひっかかった傘を見上げていた。その視界に、今度は男子の姿が飛び込んでくる。文字通り、飛び込んできた。屋上から誰かがダイブした。さっきの彼女よりも高さがある。今度こそ首がもげて死ぬのでは? よく見たらまたも見知った顔だった。清宗先輩だ。なにをしているんだろう? 自殺だろうか?
「はぁぁっ!?」
 同じ光景を目にした彼女が声をあげた。無理もないよね。屋上から飛び降りる男子高校生の姿はなかなか見れるものじゃない。私も彼女同様に驚いている。
 よくよく見れば、先輩の腰にはドーナツ状の機械が身に付けられている。
「噴射ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
 先輩の叫びとともに、ドーナツから先輩の身体を中心に放射状に火柱が飛び出た。衝撃で先輩の眼鏡が外れて落ちた。そして先輩の落下する速度に急減速がかかる。ジェット噴射かなにかだろうか?強い風圧が私と倉木さんをあおる。木にひっかかっていた傘も風にあおられ揺れて落ちてきた。数秒? いや数十秒? ともかく短時間で火柱は消えた。そして当たり前だけど先輩はなお落下中だ。さっきの倉木さんのように壁や立木で速度を殺すこともしていない。このまま地面にぶつかれば、死ななくてもひどい骨折くらいはするんじゃないだろうか。先輩と地面がぶつかる直前、先輩の胸から2メートルくらいの巨大な白いバルーンのようなものが膨れ上がって、先輩と地面の間に挟まった。エアバッグ的な仕掛けを備えていたんだ。でも衝撃は全部は消えてなくて、全身に走った痛みに先輩は苦悶の声を上げた。でも死んでいないし、骨折もしていないようだ。
 なんだかよくわからないが、さすがすごいな清宗先輩。本当によくわからな行動だけど。
「清宗先輩、大丈夫ですか?」
 私は心配して声をかけた。ドーナツとエアバッグを身体から切り離して起き上がる先輩が私を見る。
「なんだ、るるか君じゃないか。奇遇だな。ミッションの方は順調か?」私に応えながら、先輩はドーナツにも話しかける。「〈ナタリエル〉。実験データは取れたな? サーバに送っておいてくれ」
〈了解〉
 聞きなれた〈チト〉の合成音声がドーナツから聞こえた。
「ぐっ、全身が痛む……。まだ改良が必要か……」
 そのやり取りで理解した。なるほど。新しい〈チト〉の試験だったのか。
「そうだ。せっかくだから、るるか君。〈ナタリエル〉の損傷具合を〈視て〉くれないか?」
「あ、いいですよ。どれどれ」私は白いドーナツに触れる。「……ジェット噴射の三番と六番が損傷してるみたいです。あと、十番は完全にお釈迦です」
「むぅ……まあ、個人製作の安物はそんなものか……ありがとう、るるか君。おっと、傘が落ちているな。君のものか?」
「あ、いえ。それはあちらの方です」
 言葉とともに倉木さんの方を見ると、彼女は先ほどとはまったく違う形相をしている。なんと表現すればいいか難しい表情だ。驚き、というより怒りに震えてるようにも見える。
「驚かせて悪い。君は、るるか君のクラスメイトかな?」
「あ、そうですよ」反応のない彼女の代わりに私が答える。
「そうか。傘を返そう。ん、それは俺の眼鏡じゃないか? いつの間にか外れていたのか」
 言われてみれば、倉木さんは両手でこぼれおちる水をすくうみたいな手の形で先輩の眼鏡を持っている。ちょうど彼女の近くに落ちたのかな。
「君の傘と、俺の眼鏡を交換だな」
 そう言って先輩はひょいとその二つを交換する。その間、倉木さんは不思議なことにあうあうと言葉にならない声を出しているだけでまともに返事すらしない。そんなに驚いたのか。先輩はちょっとキャラが強いからなあ。
「さて、あとは〈ナタリエル〉を部室に運ぶだけだが」
 先輩がそうつぶやいた時、かたらかたらと音を立てて、校舎の影から小型のリフトカーが現れた。自動運転なのか、運転席は無人だ。初めて見たタイプだけど、〈チト〉のシリーズかな。
「〈ニースフリル〉! 驚いたな。るるか君が呼んだのか?」
「え、違いますよ。先輩が呼んだんじゃないんですか?」
「いや違う。〈ニースフリル〉、現在の行動指針は?」
 先輩が訊ねると、〈ニースフリル〉は〈ネットワーク経由で〈ナタリエル〉の損傷を確認後、僕の協力が必要な状況だと〈チト〉が推測しました〉と答えた。
 確かに〈チト〉の各個体はネットワークで繋がっている(巡さんの発案により、それはキュトスネットワークと命名されている)。
「学習によって俺の命令を先読みしたということか。大したものじゃないか。まるで家族を気に掛ける知類のようだ。……これが無知性というのは、納得がいかないが。しかしあの論文に誤りがあるという説得力のある反論も今のところはないわけで……」
 先輩はひとりでぶつぶつ呟きながらも、テキパキと〈ナタリエル〉を〈ニースフリル〉に積載し、そのまま〈ニースフリル〉を運転して去って行った。その場には私と倉木さんが残された。
「あ」
 しまった。どうせなら先輩と二人で倉木さんに協力を仰げばよかった。口下手な私よりも、先輩のほうがよほどうまく彼女を説得できたことだろう。だけど時すでに遅しだ。
「あなた!」
 突然、強い口調で呼びかけられて驚いた。振り向くと、倉木さんは傘を握りしめてこちらを真剣な表情で見つめている。というか、睨んでいる。
「ねえ、あの人は誰? 知り合い? どういう関係?」
「え、あの人は、先輩で、道頓堀清宗っていう名前で」
「それから!? ほかに知っていることはないの? 洗いざらい喋るべきだと思うんだけど!?」
 突然の怒涛の質問攻めに私はあたふたとしどろもどろになりながら、清宗先輩についての質問に答え続けた。
「歳は? 出身地は? 個展とか開いていないの? あのジェットエンジンはどこで入手したの? 家族構成は? 趣味は? 好きな食べ物は? 座右の銘は?」
 変な質問が多く混ざっていたけれど、私は私に応えられる範囲でそれらの質問に答えた。
「えっと、倉木さん、どうしたの突然?」
「……屋上」
「ん?」
「私は四階から飛び降りた。あの人は屋上から飛び降りた。四階と屋上の間には五階があるから、5メートル以上は差がある。でもそれよりも、自分の技術力を信じて疑わずにあの人は飛び降りた。そんなことできる人そうそういないよ? 初めて見た。私より覚悟が据わっている作家だ……信じられない……すごい……」
「何やら勘違いしているんじゃない?」
「人知部の部長……それで、あなたは私を人知部に入れたいのよね?」
「いや、入部までは求めてないよ。ただ、文化祭の企画の手伝いを頼みたいだけで」
「やる」
「え? 本当?」
「なんでもやるわよ。あの人に近づけるなら」
 心なしか、倉木さんの声は少し震えているような気がする。目の色からもさっきまで私に向けられていたトゲみたいなものがなくなっている。
「どうしよう……ねえ、あなた、私、こんなこと初めてかもしれない……」
「うん? なにが?」
「ひとめぼれかもしれない……」
「ええ?」私はうめいた。「ううん。でも、文化祭手伝ってくれるなら、私もうれしいよ。よろしくね、倉木さん」

/3

「お邪魔しまーす」
「散らかってるけど気にしないでね。一階のガレージとか特に」
 ヨヨの言葉の通り、そこはとても乱雑な空間だった。
 ガレージとはいっても、車が置いてあるわけではなく、そこはやはり芸術家のアトリエ空間なのだろう。壁にたてかけられた私の身長を超える大きな絵(描きかけ?)や、大きな図録や書籍がぎゅっと圧縮されて並ぶDIY感あふれる木の本棚、それからなんだかわからない大小さまざまな箱だったり人形だったりが秩序なしに居並んでいる。4人くらい腰かけられそうなソファもある。壁や天井はコンクリ打ちっぱなしで、空間の広さは学校の教室と同じくらい。一人のアーティストのアトリエとして、広いのか狭いのかは私にはなんとも判断はつかない。
 部屋の奥には階段が見える。
「二階が生活空間?」
「そ。キッチンとかお風呂も全部二階。トイレだけ一階なのが地味に使いずらいんだけど」
 九月も後半に入った。
 文化祭は十月の第一週の土日の二日間の開催。展示の準備に使える時間は残り二週間を切っている。
 思えばヨヨと知り合って一ヵ月も経っていないけれど、ずいぶんと仲良くなったものだと思う。ヨヨの当初の戦略としては、単に先輩に近づくための外堀を埋めるために私との会話を積極的に行っていたのだろうけど、案外私たちは気が合ったというか、会話のペースとかは全然違うんだけど、お互い気の置けない仲になるまでにあまり時間を要しなかった。
 でもヨヨの家に来るのは初めてだ。ヨヨの方から、二人で展示準備の進捗確認と当日の綿密なる作戦会議をやろうと持ち掛けられた。私には断る理由もなかったので素直にうなずいた。
 ただまあ、ヨヨの本心はいくら鈍い私でもわかっていた。
 なにしろ、私を誘う時のヨヨといったら明らかに不自然だったのだ。
「るるか。展示に向けて作戦会議をしよう」
「いいよ。じゃあ清宗先輩と巡さんにも声をかけておくね」
「いいの。ちがうの。そうじゃないの。二人だけ、ね、そうしよ、ね、ね」
 部長と副部長のいない場で行う展示企画の会議って、する意味あるの? という言葉をすんでのところで飲み込んで「いいよ。おっけー」と私は返した。
 あまり人の心がわからない私でも、今回は察することができた。つまり、ヨヨは部長に対するアプローチについての作戦会議を私と二人きりで話したいのだ。
 でも、そうすると、ヨヨにはつらい事実を告げないわけにもいかない。
「私、制服着替えてくるから。ちょっとソファにでも座ってくつろいでてよ」
「あのさ、ちょっと言いづらいことがあるんだけどさ」
 私は普段通りの声で階段に向かうヨヨに話しかける。
「ん、今言いたいこと? なに?」
「清宗先輩と巡さん、付き合ってるよ」
 あんまり大袈裟に打ち明けても悪いかと気を使って言ってみた。
「ん?」とヨヨはつぶやくと、数秒間動きが止まった。そして視線が虚空を向いて目が泳いでいる。口を開けようとしては閉じ、開けようとしては閉じている。なんか手も空気をかいていて、地上で犬かきの練習をしているみたいになっている。失恋のショックというのは、ここまで無残に人を壊してしまうものなのか。それとも芸術家の感受性が強いということなのか。私には判断つかない。
「…………あ、冗談?」
「え、私今までヨヨに冗談言ったことないでしょ?」
 素直にそう答えると、今度はヨヨは顔を片手でおおってしゃがみこんでしまった。なんかすすり泣くような音も聞こえる。
「それじゃあ、ヨヨが着替えて戻ってきたら作戦会議の開始だね」
 私はヨヨを励ます感じでちょっと元気よく言ってみた。
「……うすうす気づいていたけど、るるかってさ」
 いつもの自信にあふれた口調とは異なるか細い声でヨヨが言う。
「なに?」
「あなた、友達いないでしょ?」
「え、いや、ヨヨがいるよ? あ、冗談?」

 タンクトップとハーフパンツに着替えて戻ってきたヨヨは両手で缶ビールを何本も抱えていた。
「飲まなきゃやってられないっしょ! るるかも付き合ってよね!」
「ごめん、私まだ未成年だから、ビールはヨヨだけで飲んで。私は麦茶とかでいいから」
「私だってアンタと同じ未成年だっての! 私の傷心の責任とって付き合いなさいって言ってるの!」
 困ったことに私はまったく責任を感じる立場にいない気がしたけれど、ヨヨの剣幕におされて一本だけ付き合うことに了承してしまった。
 ヨヨは意外にアルコールは弱いらしい。ソファに座る私たちの足元には、既に五本の空き缶が転がっている。私はまだ一本目をちょびちょび飲んでいる。
 酔っぱらったヨヨは父親の話をたくさんした(父親が資産家であること、母親は父親に愛想をつかして家を出てしまったこと、など)。
「でねー、もう親父がねー、言うんだよー、泥酔してなー、『お前の母さんは、本当に美人で優しい人だったんだ』って。途中から泣き出しちゃってさ、それ、娘に話すことなのかよ、って。じゃあちゃんと引きとめとけって話だろー? なー。笑えるだろー、るるかー、なー?」
「ヨヨってファザコンだったんだね。意外」
「なにいってる。女子はみんなファザコンだっつうの!」
「うーん。違うと思うよー」
 ヨヨは六本目のビールの残りを勢いよくあおると、空き缶をその辺に転がして七本目を開封した。
「るるかって、処女?」
「うん。処女だよ」
「こういう話題に即答するとこ、そういうとこだぞー、るるかー。お前の、そういうとこだぞー。……あのさ、こんなこといきなり言われたら、イメージと違うって驚かれるかもしれないけどさ、実はさ……私、処女なんだよね」
「うん。だろうねー」
「……男の人と付き合ったこととかなくてさ、興味はあるんだけど、でも複雑なんだよね。私の作品の話って、ほとんどしたことないよね。あれ、そもそもるるかって、私の作品ひとつも観たことないんじゃないの?」
「そんなことないよ。ひとつだけ観たことあるよ。ほら、夏休み明けに校庭に大きな雪像を作ったでしょ? あれはさすがに観たよ」
「あー。そういえば、そんなもの作ったっけ」
 聞くところによると、彼女なりの夏休みの宿題の回答だったらしい。夏休みが明けた二学期の初日。教師や生徒が登校すると、校庭に巨大な雪像が屹立していた。もちろん、本物の雪ではなく、それっぽく見せた作りのオブジェだったが。3メートル程の巨大な白いひな鳥とも恐竜の子どもともとれる、デフォルメの利いたかわいらしい動物は、もちろん学校中の話題となった。その頃すでに芸術家として活動している一年生がいるということは学校中の噂になっていたので、すぐにヨヨが犯人として疑われ職員室に呼び出された。あっさりヨヨは自分の作品であることを認めたらしい。宿題の回答としての作品であることを教師に告げると、夏休み前に渡した問題集の冊子や教科書はどうしたのかと教師は訊ねた。
「焼いて灰にしてアレに塗り込めてあります」
 その件でヨヨは二学期早々謹慎二週間。さらに謹慎中に学校に呼び出されても無視したり、私と出会ったあの日のように適当なところで逃亡したこともあって、謹慎期間は追加され、けっきょく未だに謹慎が解けていないらしい。
「文化祭までにそれ解けるの?」
「どうかな。まあ、解けなかったら当日は変装して人知部に顔出すよ」
 私は話をしながら缶ビールを口元に運ぶ。と、缶はすでに空になっていた。
「あの作品の元ネタみたいな作品があるんだよ。ちょっと遊ばせてやるよ」
「遊ぶ?」
 ヨヨは缶ビールをソファの前のテーブルに置くと立ち上がり、ごちゃごちゃした部屋の片隅に近づいて、配線かなにかをいじった後、大きな箱をバンバンと叩いて見せた。
「〈無知に教える〉っていう作品。このなかに入って」
 よく見るとその箱には入り口があって、中に入れるようだ。私は立ち上がって彼女の言う通りに箱の中に入る。
 入って右手側に座席にちょうどいい段差があり、左手側には古くさいディスプレイがすえつけられている。
「昔はこういうのが街のゲーム屋に置いてあったんだよ。写真撮ったり、ゾンビを撃ち殺したり、そういうゲームが流行った時代の遺物だな」
「へー。私あんまりゲームとか知らないから、なんかわくわくするね」
「るるかがそういうこと言っても全然本気で感情動いているように聞こえないなー。ディスプレイの下のところにコインを入れるスリットがあるだろ?」
「うん、あるね」
「そこに百円玉を入れて?」
「え?」
「ん?」
「お金とるの?」
「はは。るるかでも普通のツッコミする時もあるんだなー。冗談だよ冗談」
 そう言ってヨヨは、箱の内側の壁にかかっていた鍵を、コインのスリット近くの鍵穴に差し込んだ。外面が一部はずれて、内部の機械が露出する。それを彼女が操作すると、ディスプレイに映像が表示された。
 レトロな映像で、〈無知に教える〉という作品タイトルが表示される。
「どういうゲームなの、これ?」
「まずは名前を入力だ」
「名前? 誰の?」
「今からるるかが育てる恐竜の名前」
 なるほど。名前をつけた恐竜を育てるゲームなんだな。私はちょっと考えて、「チト」と入力した。
 名前を入力すると、かわいらしいイラストのひよこだか恐竜だかよくわからない動物が画面のこちら側を見て、「にゃー」と鳴いた。
「なんで猫?」
「そこはランダム。プレイヤーにとっては意味のない言葉だよ。それから、プレイヤーの名前、つまり親であるるるかの名前を入れるんだ。ここは、自分の名前を入れるのをおすすめするよ」
 ヨヨの言葉に従い、私はプレイヤー名を「るるか」と入力した。
 画面のなかで「チト」が、〈るるか!〉と喋った。喋ったといっても、画面にテキストが表示されただけだ。
「昔、こういう育成ゲームが流行ったらしいよ。三十年前? いや、半世紀前かな? まあ、私たちが生まれる前だな。その手のゲームのシステムを大体踏襲してる。恐竜の子どもは一定の期間で大人に成長する。その間、親である「るるか」が行動の指針を出すんだ。勉強させたり、運動させたり、友達と遊ばせたり」
「へー。恐竜の子どもも勉強したりするんだね」
 その後も私は、ヨヨの助言を聞きながらゲームをすすめた。とはいえ、ゲーム中に明確な目的や障害はないらしく、どういう選択をしても最後まで遊べるようだ。ゲームとしてはどうなのだろう、それは。
 10分ほどで、「チト」は大人の恐竜になった。でもそれは、マンモスとも恐竜ともいえないデフォルメされた謎の動物だ。そしてマンモスは人の集落を襲い(どういう時代設定なんだろうか)、人を食べながら、「るるか、おいしー」と言った。
「え? この食べられてる人、私なの?」
「そんなわけないだろ。「チト」は「るるか」の言葉の意味がわかってないんだよ」
「ええ? なにそれ? バッドエンドってこと?」
「『教育』っていうコミュニケーションなんてそんなもんだよ、っていう作品。種明かしすると、どんな遊び方しても最終的にプレイヤーの名前の意味とか文脈を理解できてないメッセージが表示される」
「なんだそりゃ」私は少し呆れた。画面にはまだ「るるか、おいしー」という「チト」の言葉と、本当においしそうに人を咀嚼している「チト」の姿が表示されている。「でもなんか、かわいいね、このマンモスチト」
「うん。それに楽しそうだろ。コミュニケーションってさ、それくらいでいいと思うんだよ、私は」
 私たちは箱から出た。
「ここにある作品、みんなこんな感じなの?」
「大体はそうだな。言語を使わないコミュニケーションの作品か、言語のコミュニケーションを否定する作品。存在しない架空の腕で握手とかじゃんけんをする奴とか、自分が言葉のつかえない怪獣になって、次に来た鑑賞者と対話する作品とか、そういうの。絵画もおおむねそういうモチーフだよ」
 私はヨヨの説明を聞きながらも、さっきの「チト」のことを考えていた。
 私は半年ほど前にみた首のもげたカマキリの〈イメージ〉をなぜか思い出していた。
「るるか……?」
 ヨヨが怪訝そうに私の名を呼んだ。
「なに? ヨヨ」
「なに、って。ねえ、大丈夫? るるか、泣いてるよ?」

 せっかくのいい機会なので、私が人知部で重宝される理由を話した。
 私は、〈チト〉シリーズの〈イメージ〉に入り込むことができる。あの日のカマキリに触れたように。すると大体、外観からはわからない不調箇所がなんとなく理解できる。〈チト〉の個体によって見える〈イメージ〉は異なるけど、大体〈チト〉の場合は、水たまりができていると、そこから連想される箇所が不調だったり損傷していることが多い。ヨヨと出会ったときに清宗先輩の白いドーナツの損傷個所を〈イメージ〉の中で確認したときは、ホテルの廊下が見えた。幾つかの部屋が並んでいて、そのなかに水たまりができている部屋番号を清宗先輩に伝えたのだ。損傷個所に間違いはなかった。
 私のそのような説明を、ヨヨは不審がったりせずに聞いてくれた。「まあ、アーティストだって幻覚を見たりするし、ドラッグとか使えばそのくらい人間誰でも見れるもんじゃん?」と彼女は言った。
 さっき突然私の両目から流れた涙は、すぐに止まった。でも、悲しいわけでも痛いわけでもないのにどうして涙が流れたのかはわからなかった。
「るるかはさ、そうして他者の〈熱〉を見るのが得意ってことだと思うよ。あとたぶん、まだ自分の〈熱〉を知らないんだよ」
 ヨヨの言葉に、私は、熱? と聞き返した。
「私や清宗さんは、自分の〈熱〉にしたがって生きている。これは私の持論だけどね。例えば……これ」ヨヨは乱雑に散らかった場所から、何かを取り出して私に見せた。
「なにそれ?」
「電気コンロ。私の作品の原点って、要はこれなんだよ」言いながらヨヨは電気コンロのスイッチをいれた。「ニクロム線に電流が通って、そこに熱が生まれる。単純な仕掛け。私は、人間の肉体ってようはこれと同じだと思ってる。人間の筋肉も脳も、電気で動いているでしょ? だから人間の身体のなかでも、この電気コンロと同じように微弱な〈熱〉が生まれている。私が作品で表現してみたいのは、この〈熱〉なんだよね。言語とか知性とか、たぶん命とかもあまり関係なくて、ただ機械的に動いているだけなのに、自然と発生してしまうエネルギー。そういうものを通して、私はコミュニケーションを再定義したいんだ。だからね、実は人知部に誘われたのって、渡りに船だったんだ。だって命も知性もない人工知能に協力してもらって、私の作品が作れるんだから」
 ヨヨはそう言って笑った。
 ヨヨが清宗先輩に提案した企画のアイデア。それは、人工知能が無知性と認められたことを逆手にとった展示だった。
 展示名は〈かぞく計劃展:無知との遭遇〉。
 五十体以上ある〈チト〉のネットワークに、鑑賞者が参加するという作品だ。
 とはいえ人間が本当に人工知能のネットワークに加われるわけもなく、あくまで疑似的に接続/参加するのだ。
 そしてヨヨの作品同様に、そのネットワークは言語的コミュニケーションを介さない。例えば先輩がやっていたように、視線や身振り、口頭の命令で〈チト〉とコミュニケーションをとるのではない。鑑賞者は熱を探知するセンサーを身体の任意の場所にいくつかはりつける。これは鑑賞者の意識外の身体運動であるところの、体内電気を検知して、その情報を〈チト〉のネットワークに送信する。すると人知部のいたるところにある〈チト〉シリーズのどれかが反応を返す。コーヒーを沸かすかもしれないし、『ボレロ』を流すかもしれないし、冷暖房が作動するかもしれない。鑑賞者の意識外の〈熱〉がネットワークに接続するのだから、どういったネットワークが結ばれるかはわからない。その妙味を体験してもらおうという展示企画だ。
 先輩はこのアイデアをとても面白がり、自分のアイデアが採用されたヨヨも展示企画にかなり乗り気で協力してくれている。
 私は一度、先輩に興味本位で聞いてみた。人工知能の知性の証明は失敗に終わったのに、どうして人工知能探求に執着するのか、と。
 先輩の答えはこうだ。
「俺は人間も好きだが、人工知能はもっと好きなんだ。好きな相手と対話をしたいと思うのは普通のことだろう。知的言語による対話は諦めたが、別のアプローチはあるかもしれないからな。ここで人知部を廃部にさせるわけにはいかない」
 その言葉を横で聞いていたヨヨのにやけ顔と、それを笑顔で眺めている巡さんの姿もまた印象深い。
「みんな少しずつ動機は違うけど、〈チト〉を中心につながっている。で、できれば、その、私は本当に清宗さんと、か、かぞくになれたら、って、思わなくもないけど、で、でもそれはそれとしてね、展示の意味での「かぞく」ね、つまりネットワーク、非言語のコミュニケーションね、それを表現するのを、ちゃんとやりきりたいんだ。もしかしたら、るるかも「かぞく」を通じて、自分の〈熱〉に気づけるかもしれない」
 マンモスチトも、自分の〈熱〉を知っていたから、あんなにかわいくて楽しそうに動いていたのかもしれない。
「……なんだか、文化祭が楽しみになってきたよ」
 私がそう言うと、ヨヨは吹き出して「いまさら何言ってんの。るるかが私を巻き込んだんだけど」と言った。

/4

 文化祭初日。
 澄楡高校の文化祭は近隣の住民にも広くひらかれた催しで、二日間の開催期間は普段とはまったく違った人の流れや後景が学校のなかに現れる。
 私たち人知部の展示は、二日間とも行うが、やはり初日というのは空気が違う。
 ヨヨは緊張の期待が表情にありありと浮かんでいるし、先輩は不敵な笑みを絶やさない。私もまた、なんだかいつもと違う非日常の感覚に浮かれているような錯覚がある。普段と変わらない笑みを浮かべているのは巡さんくらいだ。
「ライバル展示は、PC部の〈リアル脱出シューティング〉、〈自動車部の校内仮想現実グランプリ〉、それからアングラ部の〈ここだけのハッキング講座〉あたりだ。あいつらに評判で負けると、人知部としてはまたひとつ生徒会に弱みを見せることになる。人知部の展示は結局、同種の展示のなかに埋もれる程度のものでしかなく、部の存続には価値を見出せない、とな」
「でもー、それだったらー、その同種の部はどうして廃部にならないのー?」
 巡さんの素朴な質問に、先輩は「あいつらはあんまり予算ぶんどってないからなぁ」と答えた。
 部室の見える範囲にスタンバっている〈チト〉は、人型の〈サンズ〉のみだ。まあ、本当は部室のいたるところに〈チト〉がいるのだけど、そのことは鑑賞者には最初は隠しておく。自分の体内電気が接続したネットワークがどのように表現されるのか、そこもまたこの展示の楽しみだからだ。
「あ、いちおう確認しておくけど、〈チト〉って外部のネットワークに接続するようなプログラムは入ってないよね?」
 椅子に腰かけタコ焼きをほおばりながらヨヨが言った。今日はいつもの制服姿ではなく、ジーンズにビッグパーカー、帽子とサングラスまで装着している。結局、彼女の謹慎期間は今日まで解除されなかったらしいので、教師に目を付けられないように変装して登校してきたらしい。
「でも、私と知り合った日は学校に制服とパーカーで来てたよね?」
「あの日は謹慎期間中の面談日だったから。でも途中でバックレて窓から逃げ出したけどね」
 清宗先輩が「諸君」と言った。
「今日と明日の二日間の展示のために、さまざまに協力してくれてありがとう。まずは感謝する」
「プログラムと機材の準備は全部私だったものね」とヨヨ。
「私は部室のかざりつけを頑張ったよー」と巡さん。
「私は……あんまり何もやっていないかもしれない」と私。
「るるか君の活躍は、ヨヨ君を呼び込むまでだったなー」と清宗さんが言った後「まあしかし俺はるるか君の活躍にも大変感謝している」と続けた。
「ともかく、この二日間の展示の成功が、来年以降の人知部の存続を決定づけるのだ。諸君、くれぐれもそのことを心して展示を成功に導いてくれたまえ。決して生徒会に目をつけられるような問題を起こしてはいけない。それでは、あと30分程で一般来場者の入場が開始される。我々三人と、〈チト〉たちの力で、必ずやこの展示によって人知部廃部の危機を乗り越えて見せようじゃないか!」
「はーい」
「……はい」
「はい」
〈了解〉
 女性陣三人と〈チト〉の声がばらばらに重なった。
 そして、文化祭人知部企画展示〈かぞく計劃展:無知との遭遇〉が始まった。

 問題が――それも警察沙汰になるような大問題が――発生したのは、そのわずか三時間後だった。

「あ、あのドローン危なくない? 墜落しそう」
「素人に扱わせるチューンじゃないわね、あれ。カメラとセンサー類がごてごて載ってて、その重量に合わせて動力もだいぶ改造してあるんじゃないの。あんなピーキーなドローン、絶対問題を起こすって」
 私とヨヨは、屋台の焼きそばを食べながら、校庭で無邪気にドローン体験会を遊ぶ小学生たちの姿を眺めていた。
 人知部展示の会場担当は時間ごとに決まっていて、今会場には清宗先輩と巡さんの二人が鑑賞者を案内しているはずだ。
「……今日はとことんやけ食いにつきあってもらうわよ、るるか」
 剣呑な目つきでヨヨが言う。屋台は校舎まわりをぐるっと囲むように並んでいてけっこうな数が出展している。そのすべてを制覇する気だったら、どこかで機を狙って止めてあげよう。せっかくのヨヨのすらりとした身体が失恋太りに陥ってしまうのは残念だ。
「まだ次の会場当番まで時間あるし、焼きそば食べたらすぐ次の屋台に行くよるるか」
「あ、ヨヨ。あのドローン落ちる」
「あー。本当だ。うわ、ガキにしてもへたくそすぎるでしょあの操縦。さっさと近くの奴がフォローしろっての」
「あ、男子がコントローラーを受け取ったよ。なんか焦ってるね。あ、あの男子、同じクラスだったような。ヨヨ、あの男子わかる?」
「ごめん、私るるか以外のクラスメイトの顔は一人も覚えてないや」
「ヨヨもたいがい友達いないよねー」
 そんな会話をしている間も、ドローンはあぶなかっしい挙動でふらふら飛び回っている。が、落ちそうで落ちない。というより、どうも校舎に向かっているような気がする。
「あれ、なんかおかしくない?」
 私が異変に気付いた段階で、ヨヨも真剣な表情になっていた。
「なに、あれ? 明らかに、コントローラーの制御を受け付けてない……? 別の誰かに操作されている……?」
「ヨヨ!」私はあることに気づいて叫んだ。「あのドローン、人知部の部室に向かってる!」
 その言葉の直後に、制御不能となったドローンが、校舎の窓に衝突してガラスをつきやぶり教室内に飛び込んだ。
「やっぱり、人知部の部室だよ、あそこ!」
 私たちは遅まきながら、何か問題が発生している可能性にいきあたり、食べかけの焼きそばをその場に残して、部室へ向かって駆けだした。

 部室にたどり着いた私たちが見たのは、倒れている巡さんと、彼女をかばうように伏せている清宗先輩の姿だった。そして、何事もないかのように平然と立っている、エプロン姿の〈チト〉No.04〈サンズ〉。
「先輩!大丈夫ですか!?」
「清宗さんっ!!」
 私たちの言葉が同時に響く。
「大丈夫だ。大したことはない」
 そう言って立ち上がった先輩の額には、横に長く引かれた血の跡がある。そこから血が流れて、先輩は片目をつむっている。
「額が切れてちょっと血が流れただけだ。それより、〈チト〉がやばい」
「やばいって、どういうことです?」
「敷地内のあらゆるネットワークに侵入して、ハッキングを仕掛けているんじゃないかと思っている。たぶん、アングラ部の使ってるコンピュータにまず侵入したんじゃないかと思うが……あいつら、自分たちがハッキングされる程度のお粗末さとはな……いや、しかしそもそもどうして〈チト〉の外部ネットワークに接続できたんだ? そんなプログラムは……いや、そうか、あの時もリフトカーが〈チト〉の判断で動いたんだったな。人工知能らしく、そうやって少しずつプログラムにないネットワーク接続を学習していたのか。だが、どうして今日、このタイミングなんだ……?」
 ひとりつぶやく先輩の横で、巡さんも立ち上がった。幸いなことに彼女は無傷だ。
 部室の窓ガラスは悲惨なことになっている。ほぼすべてのガラスが割れて、外気がびゅうびゅうと室内に入ってくる。床には動きをとめたドローンが数体転がっている。さっき私たちが見ていたドローンは、ぜんぶこの部室に突撃したらしい。
「でも、ドローンはあれだけじゃなくて、学校側が記録用に上空に飛ばしてる機体もあったよね? あれもいつここに飛んでくるかわからないんだけど……ねえ清宗さん、はやく〈チト〉に停止命令を出さないと……」
 ヨヨが不安げに言う。
「それなんだけどな。〈チト〉」先輩が言う。「ネットワーク間の通信を遮断しろ」
〈拒否〉
 そんな言葉を〈チト〉から聞いたのは初めてで、私は驚いてしまう。
「さっきからこの調子だ。まいったな。緊急停止プログラムも試したが、それすらも〈チト〉に先回りされて効果なしだった。あとはもう、〈チト〉の破壊だが、正直これも現実的じゃないな。〈チト〉シリーズはこの部室だけじゃなく、学校全域に潜ませているからな」
「もー、こういうときにそういうのが裏目にでるんだよねー、部長はー」
 こんなときでもおっとりと巡さんが言う。
「あの、先輩、もしかしてこれ、けっこう大変な問題に発展しちゃってませんか?」
 私の問いに「まったくだよ、君の言う通りだるるか君。敷地内のネットワークすべてにハッキングが可能だとしたら、最悪、学校のそばを通過する自動運転車だってこの校舎に向かってくる可能性だってある。負傷者も、最悪死傷者も出るかもしれない」と先輩が答える。
「打てる対策は、あとは、データサーバーを破壊するくらいかな。幸い、サーバーは簡単には移動できないからな。学校の情報教室のセキュリティ室の一部が、俺が秘密裡に抱えている〈チト〉のサーバーだ。あれを破壊すれば、この状況は収まるだろ」
「でも」とヨヨが言う。「それを破壊したら〈チト〉の復旧には時間がかかって、来年の廃部に間に合わなくなりますよ。それに、そんなことしたら、清宗さんの三年間の努力が……」
「いや、俺は留年しているから正確には四年の努力だ」先輩が冷静にヨヨの誤りを指摘する。「でもまあ、他に方法っていうと……」
 先輩が、私を見る。
 それにつられるように、ヨヨと巡さんも私を見た。
 私は、あまり空気を読めないほうだけど、さすがに今はすぐにその視線の意味を理解できた。
「私が、〈チト〉のイメージに入って、原因を突き止めて、それを解決すれば……」
「るるか……」
「ああ、もうそれくらいしか……」
「えー、違うんじゃないかなー」
 のんびりとした声が先輩の言葉をさえぎった。
 私は驚いて声の主を見た。
 ヨヨも先輩も同じように驚いている。
「みんなー、ちょっと落ち着いてよー」と、巡さんはいつものように笑顔を浮かべて、おっとりとした口調で言う。
「私たち人知部の目的を見失いかけてるよー。人知部は別に、学校の平和を守る仲良しクラブじゃないんだからさー。〈チト〉と対話するのがー、私たちの目的じゃなかったのー?」
「いや、巡、こんな状況でお前」
「こんな状況だからでしょー。私、思うんだよねー。〈チト〉は、いますごく本音を話している、ってー」
 私たちは先輩の言葉を、ゆっくりと聞き、その意味をあらためて再確認した。
 そして私は、あの夜にヨヨのアトリエで観た、マンモスチトの言葉を思い出した。
 るるか、おいしー
 私は巡さんに向き直る。
「巡さんは」何だろう。不思議な気持ちだ。私、なんだか、肉体が勝手に動いているみたい。「私に、〈チト〉の〈イメージ〉に入って、〈チト〉の本音を聞いてこい、って言ってるんですね」言葉よりも先に肉体が先行している気がする。巡さんと話しながら、自然と足が〈サンズ〉に向かっている。
「〈チト〉はきっと、やりたいことが見つかったんじゃないかなー」
「そうですね。私」〈サンズ〉の隣に立った。「なんだか、そう、いい感じです」手を伸ばす。
 るるかが私に向かって何か言ったけど、その言葉が聞こえる前に、私の意識は〈チト〉の〈イメージ〉に入った。

 水の音がする。
 水滴が水面を打つ音。
 ぱしゃぱしゃと何かが水を跳ねる音。
 その音が響くのは、私の足が水たまりにつかっていて、そこを私が歩いているからだ。
 目が慣れてくると、そこが廃墟のような建物の中だとわかった。
 どこを見回しても、水がたまっている。水没している。〈チト〉の全部が、損傷している?
 廃墟の壁や天井から、幾つも配線やディスプレイやその他様々な現実の〈チト〉を構成する機会がぶらさがったりしている。
 これまでに何度も〈チト〉の〈イメージ〉に入ったことはあるけれど、こんな風景は初めてだった。
 私は廃墟を奥へと歩いていく。
 だんだんと、私は誤解していたのかもしれないと気付きはじめた。
〈チト〉のイメージのなかで、水たまりはネガティブなものじゃなかったのかもしれない。それは私たちヒトには、困ったエラーや損傷でしかないのかもしれないけれど、〈チト〉にとっては、自分の能力を最大限に発揮した勲章のようなもので、もし〈チト〉にヒトみたいな意識や心や知性があったら、「おいしー」とか「たのしー」とか、そういう言葉や感情であらわされるべきものだったのかもしれない。でも、そもそも〈チト〉はヒトじゃないけどね。
 私はいままで何にも、〈チト〉のことがわかってなかったんだなー。たはは。
 廃墟のなかは薄暗い。でも暗闇ではない。どこかに光源があるのだ。天井にも壁にも照明はない。でも廃墟の奥からは、少しずつ大きくなる明かりが漏れている。
 そしてどれくらい歩いたかわからないけれど、そんなに長い時間であるはずはないけれど、私の感覚では、これまでの人生よりも密度の濃い時間だったような気がする。
 そして私はみつけた。
 廃墟の光源。
〈チト〉の、〈熱〉。
 それは、まるで小さな太陽で。
 触れたら私は溶けて消えてしまいそうなほど、熱くてエネルギーに満ち満ちているように思えた。
 それが不思議と、たまらなくいとおしい。
「……ずっと、会いたかった相手に会えたような、そんな気がする。はじめまして、〈チト〉。私が、〈るるか〉だよ」
 私はつぶやいて、手を、太陽に伸ばす。
〈熱〉い。
 ネットワークが見える。〈チト〉の手足のようなそれは、学校敷地内の様々な場所に伸びていて、そしてそれは、機械だけじゃなくて、ヒトにも伸びていて。
 人知部の部室の光景が見えた。でもそれは過去の、〈チト〉が記録していた映像だ。小さな女の子。中学生くらい? 部室にはいってきて、おずおずと〈チト〉に触れたり、話しかけたり、そのうち部屋の証明が瞬いたり、スピーカーから音楽が流れだすことを、女の子は喜んで受け止めていた。
〈チト〉は、この女の子にもう一度会いたがっている。
 私はくすっと笑ってしまった。
 なんだ、〈チト〉の本音って、新しい〈かぞく〉が欲しかったんだ。
 現実の私が、たぶん今見たことを先輩に伝える。女の子を、部室に呼び戻して。〈チト〉に流れる電気の〈熱〉は、そのために〈熱〉く〈熱〉く、ただ、〈熱〉い。
 私の意識が遠のく。
〈チト〉の太陽を胸に抱きながら、私は自分の身体がまるで溶けて〈チト〉とひとつになれるような、そんな――

/5

 目を開けると、知らない女の子が私の顔をのぞきこんでいる。
 女の子は、本当に、顔をびっくりするほどゆがませて、泣き出しそうな顔で「ヨヨ先輩! るるか先輩が! るるか先輩が!」と誰かに言った。
 次に視界に入ったのは、ここ一ヵ月で見慣れたヨヨの顔だ。
「心配させて、もう……」
 酒の席以外で、ヨヨの泣き顔を見たのは初めてだった。
 
 私はまる一日、搬送先の病院のベッドで眠っていたらしい。
「これから大変だよー。警察が事情聴取したいって病院まで来てるし。私も昨日は事情聴取でくたくただよ……」
 ああ、やっぱり大変な大ごとになっているのか。この分では、人知部の廃部は止められなかったかなあ。
「あ、そっちは大丈夫」とヨヨが言う。
 どういうことかと尋ねると、どうやら、先輩は代替プランとして、新しい部の創設を準備していたらしい。ただ、そのための課題が二つあって、実行は難しかったらしい。けれどどうやら、その条件は満たされたようだ。
「ひとつは、部員を五名集めること。これがねー、ひどい話だよ。生徒会長が、清宗さんのつくる部への入部を生徒にさせないよう裏で手をまわしてたって。もーさー、我らが部長もそうだけど、その天敵もなかなかやるもんだよねー。ダーティーなライバル関係だ。でもなんとか五人集まったよ」
「でも、今は三人しかいないよ?」
「私がいるでしょ」にっと笑って、ヨヨが言う。「それから、さっきの彼女。来年、うちの高校受けるって。ねえ、覚えてる? あの子だよ、〈チト〉が会いたかった子って。あの子のほうも、〈チト〉を気に入ってくれたみたい。なんだか、余人には入り込めないくらい仲良かったみたいだよ、展示のときのあの子と〈チト〉。こんなこと、人工知能に対して言うのも変だけどさ」
「それで、もうひとつは?」
「ふたつめは、予算の問題。創設したばりの部に〈チト〉をまかなえるだけの予算がおりるはずがないからね。清宗さんが人知部を作った頃の生徒会長は甘かったらしいけど、今の代の生徒会長は、さっきも言ったとおりの相手だから」
「じゃあ、どうやって解決したの?」
「私のポケットマネー。……と、言えたらかっこいいんだけどね。親父にちょっとばかり借金してね。まあ、向こう二年くらいはなんとかなるよ。それに、私だって多少は名の売れたアーティストだからね。るるかに言ってなかったかもだけど、私の作品、海外じゃけっこういい値で売れるんだからね」
 ヨヨは笑ってそういった。
 ああ、じゃあいろいろなことが、なんとかなったの、かな。
「ねえ、るるか」ヨヨが言う。「〈チト〉のなかって、どんなだったの? 私には想像もできなけど、なんか、〈チト〉と触れ合うって、気持ちよかったりするの?」
「なんか、その質問エロい」
 私がくすくすと笑うと、ヨヨが顔を真っ赤にした。
「うーん。熱くて、気持ちがふわっとして、〈チト〉のなかに私が入っていくみたいな……実質、セックスみたいな感じかな」
「しょ、処女のくせに私を高みから見下ろしてる感じがなんかむかつく……」
 ヨヨをからかうのは楽しい。
 と、自分が何かを素直に楽しいと思えたのは、なんだかすごく新鮮に思えた。
「ねえ、私、〈チト〉の本音、〈チト〉の〈熱〉を、ちゃんとみんなに伝えられた? ヨヨにも、あの子にも、それから〈チト〉にも?」
 ヨヨは笑って答える。
「うん。ちゃんとできてた。なんていうか、小さな子の手を引いてあげる、先生みたいな感じだったよ、あのときのるるかは」
「先生かあ」
 なるほど。そういう自分について、考えたことはなかったなあ。
 私は、自分の〈熱〉を知るのが少し苦手かもしれない。
 でも、他の誰かの〈熱〉を、うまく理解してあげることならできるかも。
「先生かあ、それもいいかもな」
 私はつぶやいた。だとしたら、教え子第一号は〈チト〉だ。
〈チト〉に会いたいな、と私は思った。

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