雪恋

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梗 概

雪恋

熱い雪の時を求めて、乾燥した大地に何年も眠り続けている。

ここ惑星では、雨は滅多に降らない。

時たま降る、粉のような雪が地表を彩るとき、彼らの唯一の目覚めだ。彼らはほとんどを夢の中で過ごしている。皆ねむっているからといって、意思表示ができないわけではない。同じ時を過ごせるように、彼らは共に寄り添いあい、夢の中の現実を過ごす。

彼には愛する女性がいた。

彼女は現実の彼の世界とそう離れていないところにいる。彼らは、雪の降るその時まで語り合う。夢の中で会う彼女の輪郭が語り合うごとにはっきりしてくるのだ。夢の波長、睡眠時の波長が合致するごとに、彼女との交信が容易になっていくのがわかる。彼と彼女の言葉は同調し合い、混ざり合う。夢の中で語り合うことが歓喜となってさらにねむりへと誘う。目覚めるときを忘れて、彼らは子をなし、親となる。

 

数十年の時が流れた。

雪が降るのは惑星の気まぐれのようなもので、まったく降らないのは珍しくない。故に彼らは眠ることを選んだのだ。

互いを捕食しあった過去もあった。しかし眠りを共有することで、空腹は抑えられ、長く生き続けることができる。

 

ついに彼らの願いが伝わった。わずかな飛沫が地表に降り立ったとき、乾燥した地表はその水分をすぐ染み込ませた。彼らの身体は躍動する。繁殖期を迎えたのだ。突然の夢の終わりにより、現実に戻る瞬間、彼は自らの本来の使命を思い出し、彼女の姿を目に焼き付けた。彼は夢の中で出会った彼女を探して行く。夢の中での出来事と言えど、それはいつと知れぬ雪の熱いときに準備するための大事な道しるべなのだった。

しかしながら、周りには群れる雄の群れ。雪の水分を奪い合いながらも、前へ前へと躍動する。弱いものは食べられ、強いものは新たに力を得、夢の中であった彼女を探す。

ついにたどり着いたとき、それは特別な存在ではなく、多くの雄を束ねる雌であった。理想的な彼女と繋がる瞬間、彼は自身が取り込まれることを知った。しかし、それは唯一得られる最もリアルな感情が湧き起こる瞬間でもあった。

愛、もしくは生への歓喜。

それは彼の固有の死と隣り合わせに得られた。

彼は自分が最愛の彼女の中に取り込まれ、彼女と一部となるのを感じた。

 

また彼はいままで見てきた続きの夢を見る。彼女は彼に優しく微笑みかけ、2人の子どもを抱えている。彼は彼女の手から子どもの手を取り、家へと帰る。彼は1人で、2人の子どもを育て慈しむ。地表へと解き放つその時まで、子どもが彼を必要としなくなるその時まで、彼は子どもを守り続ける。

眠りにつくすべを教え、雪の降る時を教えるのだ。

文字数:1076

内容に関するアピール

暑いもの、熱さということで、はじめは惑星での雨乞いや人工降雨について書こうと思いました。調べてみると惑星では雨が降らないどころか、ガラスやマグマが降ってくるということで、これは雨乞いができないと思い断念しました。

十数年間に一度しか降らない雨をまってアカタマ砂漠で繁殖する細菌がいると知りました。火星では時に雪が降るということで、その雪を待って地表で活動する細菌の暑い、ほとばしる繁殖への熱さを描いてみたいと思います。

 

文字数:208

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雪恋

吹きすさぶ砂埃があらゆるものに傷を負わせた。

山々のむき出しの肌にはその傷が克明に、まるで刺青のように刻まれ、砂山は風の方向によってその姿をかえた。

前方にそびえる山に連なるかのように続いていた砂山が、暗闇のいっときの眠りから覚めると跡形もなく消え去っていた。

暗闇の手が掬いとってどこかに運んでいってしまったかのような、巨大な穴が生まれることもある。

しかし、その穴も吹き荒れる砂のなかでは、常に在り続けることはなかった。

常に風は吹き荒れて、地表の形を変化させ、とどまることなく砂は流れていく。

 

朝、目覚めの時。

太陽の光を広く受ける大きな葉の中央に、丸い露が揺れ動く。葉の筋を伝って、下に横たわるホボスの肌を潤した。

ホボスは冷たい露に濡れた体を震わして、大きく口をひらいて空気を吸った。眠気が吹き飛んだホボスは、大きな葉の茎へ走っていく。

「おはよう、父さん」

「おはよう、ホボス」

父が、草の露を花にためて蜜と混ぜて飲んでいる。

ホボスは父の用意してくれた蜜水を飲み込み、また勢いよく、飛び上がって地面へと降りた。

「今日は気持ちがいいから、池の方までいってくる!」

父は、蜜水を飲みながら手を振って応えた。

「あまり遠くにいってはいけないよ。あとは水を取ることを忘れないこと。いってらっしゃい」

ホボスは、父に手を振り返した。

大きな葉をもつ草を何本も束ねた巣穴の影から出て、太陽の光を存分に浴びた。

池の方へと向かう道で、何度か通った道とは違う方に進んでみることにした。

別の道に進んでいくと、彼にとって面白いものを発見できる出会いがあるのだった。

例えば、見たことのない同族たちの巣穴。

草花を編み込んで、籠のように囲いをめぐらしているものもれば、一方では狭苦しい洞穴に申し訳程度の仕切りを作っているだけのものもあるのだ。

ホボスは、物珍しそうに巣穴を眺めるが、それも道中の自然な動きの中で行うのが好みであった。

じろじろと見つめられては何を考えているのかと声をかけられてしまうと、どんな巣穴なのかとわくわくしていた気分が壊れて嫌なのだった。

今日のように目覚めの良い朝には、彼は新しい巣穴や木々の連なりを見つけて、目を楽しませるのだ。

池の周辺には様々な道が存在し、そこには同族たちが所狭しと住んでいる。

もちろん知り合いに会って長話をすることもある。

そういう偶然の出会いも、気持ちの良い朝ではうってつけであった。

しかし今日は、知り合いもいない、普段は通りもしない違う道を進んで、新たな発見を得たい気持ちでホボスはいっぱいであった。

小高い山に向かって、鬱蒼とした森へと進んでいく。

急斜面を登り進むと、木々の枝に垂れ下がった蔓が編み込まれて、網目のようにかけられているのが目に入った。

編み目の数ヶ所に、球体のように蔓で囲いを作り、そこに住んでいるようであった。

ホボスは坂を登るスピードを落とし、その巣穴の特徴に見入っていた。

細い蔓を何本を編み上げて、それらをさらに交差させて網目状に合わせる技術は、まるで蜘蛛の巣のようであって、どうやらそこに着想を得ているのに違いないとホボスは思った。

巣穴の住人たちはまだ寝ている様子で、歩きながら見ているホボスに注意を払う様子もない。

ホボスは、巣穴の構造を一通り理解したのち、また前へと進んだ。

坂を登りきると、硬い岩が立ち並び、行く手の方向の視界を遮った。

木漏れ日の光も岩の下には十分には届かず、じめじめとした土の匂いが辺りに充満している。

ホボスは、岩の隙間をすり抜けながらどこかに巣穴がありはしないかと岩間や岩の頂上を見渡しながら歩きまわった。

岩下にはわずかな光が届くばかりで、足元もおぼつかなかったが、ホボスはわくわくしながら進んでいった。

すると、頭上から砕けた音がしたと思うと、いくつかの小石が転げ落ちてきた。

ホボスは音に気がついて、驚いた声をあげながらも、後ろに後退したから無事であった。

もし小石にぶつかっていたら、体が裂けていたかもしれない。

ホボスは、緊張に汗を流して頭上を見上げた。

よそ者に対して好感を持たない一族なのかもしれない。

怖々としているホボスには、逆光となって姿が見えない小さなものが頭上の岩肌から現れた。

「ごめんなさい。歩いていたら小石を落としてしまって。でもね、あなたも悪いのよ。だってこんな朝方に、岩の下道を通る方なんていないんですもの。」

ホボスは、太陽の日に目を細めながら、高らかな声の主の姿を見ようとした。

しかし、やはりその姿は見えない。

「いや、いいんだ。よかったら、正しい道を教えてくれるかい。これから頭の上から降ってくる石に注意しないとなると怖くて進めないから」

小さな影は笑うかのように小刻みにゆれた。

「たしかにそうね。これから皆も起き出すでしょうから。これからそっちに向かうわ。ちょっと待っててね。」

小さな影は、ホボスに向かって手を振ると岩肌から消え去った。

ホボスは、高らかな明るい声の主の姿を想像した。

ホボスは体が熱くなっているのに気づいて、落ち着かせるために、冷えた岩肌にひっついて体温を落とした…。

 

ほのかに漂う土の匂いが、あたりたちこめていた。

肌に打ち付ける砂埃に、柔らかい感触を感じると、少しも逃すまいと肌が吸収する。

肌の躍動から彼の瞳も重いまぶたを開いた。

彼は、先ほどまで見ていた夢の続きを思い出す。

小高い山向こうにある池、快活な少女。

魅力的な巣穴の住民たち。

小高い山向こうとは、砂埃の向こうのおぼろげに見えるあの山かもしれない。

彼は、今にも閉じようとする重いまぶたをこじ開けながら、山を凝視した。

黒い姿を空に向かってそびえ立っているあの山。

砂と砂がこすれあう音の中、山向こうから彼を呼ぶ声がする。

彼を呼ぶ声は、彼にしか聞こえない。

彼はその声に耳をすまして、目を閉じる。

彼女の声を聞くために…。

 

岩下の影から少女が現れた。

「待たせて、ごめんなさい。こちらへどうぞ。案内するわ」

勢いよく飛び降りてきた少女は、リズミカルに体を揺らした。

「いや、こちらこそ悪いね。僕はホボスよろしく頼むよ」

「私はディモ。よろしくね」

岩の側面を削って作られた階段があり、ディモはそこから降りてきたという。

ディモの後に続いて、岩の階段を登る。狭い幅の階段を器用に登るディモの後ろ姿を眺めながら、ホボスも負けじと階段を登った。

「どこまで行けばいいんだい?」

岩の側面を半周したところで、ホボスは声をかけた。

「みんなが起きちゃうわ。この岩を通り抜けたいなら黙ってついてきて」

ディモがカーブした階段の向こうから顔をのぞかせて言った。

「バレちゃまずいのかい?」

ホボスがひそひそ声で話しかけると、近くにディモが寄ってきて応えた。

「知らない男の子と喋ってはいけないって言われてるの。私は別にそんなこと気にしてないんだけどね、見つかると面倒だから」

岩肌に沿って作られた階段を何周かすると、岩の頂上にたどり着いた。

岩の頂上は平らに削り取られ、粗い表面を空に向けていた。

周りに立つ岩に遮られることなく、木漏れ日が眩しく目に刺さるようであった。

「ここからそれぞれの岩に渡っているはしごを通っていけば、向こう側の池に着くわ」

ディモは、その方向に手を向けて、ここからは臨むことができない池の場所を指し示した。

「ここまで、ありがとう。あとはゆっくり道中を楽しむとするよ。また会えるといいね」

ディモはホボスの顔を見返して、

「ええ、また会えるような気がするわ。あなたがもうすこしゆっくり進むなら、水を汲むついでにお会いできると思うの」

そういうとディモは、小さく笑みを浮かべて、素っ気なく手を振って階段を駆け下りていった。

ホボスはまた体が火照ってきた気がしたが、木漏れ日のせいにしてゆっくりと渡しはしごの方へと向かった。

頂上から下を見渡すと、誰が何をしているのかよく見渡せた。

例えば、ホボスが先程通ろうとしていた岩の下道を行くものの姿がよく見えた。

また、住民たちが、岩肌の扉を開けて、階段へと降りていくのが見えた。

岩山の住民たちは岩肌をくりぬいて洞窟をつくり、その中に住んでいるようであった。

連なる岩山の頂上を渡り終わり、岩肌の側面の階段をそろそろと降りると、慣れ親しんだ土の香りがホボスを迎えた。

ホボスは、連なる岩山を見上げると、自分が先程まであの岩山の上を歩いていたとは思えない高さであった。

土の柔らかさを改めて感じながら、林の方へと進んでいった。

林の向こうから涼しい風がホボスの顔を撫でた。

さらに山の頂上が、林から見え隠れする。

池は山の中腹にあった。

もうすぐに違いない。

そう思うとホボスは途端に喉の渇きを感じて急いで池の方へと進んだ。

木漏れ日とはいえ、岩山の頂上を進み続けた故にかなり体力を消耗していたのであった。

視界がひらけて、水面に反射する光の粒が目に入ると、ホボスは勢いよく池の中へと飛び込んだ。

冷たい水が、肌を優しく包み込み、ホボスは池の底へと落ちていく。

水が肌を通り、体に満たしていくのが心地よく、さらに濁った体液が体の外へと排出されていく。

水面に降り注ぐ光のはしごが、水面へとあがっていく泡の粒を照らしている。

ホボスは、ゆっくりと池の底へと着地し、光の届くところで寝転んだ。

体がほんのり暖かくなっていくのを感じる。

ホボスは水草の陰に泳ぐと、水草が籠のようなかたちで編み込まれているのが目にはいった。

根元から丹念に細かく何段にも編み込まれた水草の囲いの向こうに、同族が住んでいるようで、編み目の隙間から子どもが顔を出してホボスに向かって手を振った。

水草の先端は編み残されて、籠の最後の編み目から水草が生えているかのようである。

小ぶりな水草の籠の巣穴は、水の流れを取り込みつつ、水面からの光も取り込めるつくりになっていた。

ホボスは巣穴の周りをぐるりと回ると、先ほど手を振ってくれた子どもに声を掛けた。

「やあ、良い巣穴だね、残りの水草も織り込むかい?」

ホボスよりも一回り小さい子どもは編み目の隙間から抜け出して、ホボスの前へと漂うてきた。

「うん。水草がこれから伸び出してくるから、それをまた編み込んでいくんだ。お父さんがいうにはまだ長さが十分じゃないんだって」

水分を十分に含んで丸くなった子どもが、編みかけの水草の部分を見せてくれた。

「この水草は編み込んでも丈夫で枯れないようだね。お父さんはそのことに気づいたんだね。すこいなぁ」

子どもは、水草の葉を体に巻き付けて、ホボスの前を行ったり来たりした。

「お兄ちゃんは、もうすぐ巣穴を創るの?」

編み込まれていない水草の先端をホボスの体に向けて突っつきながら、子どもは話しかけた。

「いや、ただ巣穴を見ていると作り主の性格と考えが見えて面白いんだよ」

ホボスは、今日新たに発見した蜘蛛の巣穴、岩の巣穴を子どもに話して聞かした。

子どもはもてあそんでいた水草の先端を放って、ホボスのじっと見つめていた。

「僕も、他の巣穴を見てみたいな」

「お父さんは、まだ外に出してくれないの?」

「あともう少し大きくなればいいっていうんだ。ずっと水の中で暮らしてきたから、でもうまく水分も調節できるし、あともうすぐだと思う!」

子どもは、水草の先端でまたホボスの体をつつくと、水分を含みきって張り詰めていた。

「さっきから思ってたんだけど、お兄ちゃんは、水分を含みがちだね、はやくあがった方がいいよ」

子どもは、ホボスの肌を撫で回して、ホボスの肥大した体を押した。

「水の循環がうまくいってないんだね。急ぐとしようか」

子どもの様子に、ホボスがあわてて陸へと上がろうとすると、水面まで子どもはついてきた。

「お兄ちゃん、またね!」

ホボスの立てた波に揺られて、子どもは大きく手をふった。

「ありがとう!僕はホボス、外に出られるようになったら、ぜひ僕の巣穴においで!」

ホボスは、子どもに向かって大きく手を振り返した。

「マルスだよー!ホボスお兄ちゃん、さようなら」

マルスは、ホボスが陸に上がりきるまで、波にゆれながら、ホボスを見守っていた。

ホボスは陸へと上がり、マルスに手を振り返すと、水面に浮かんだ小さな球体は、水しぶきを上げて、水の中へ潜っていった。

ホボスは草陰に横になってまどろんだ。

水を取り込み過ぎて、肥大した体になれるため、ぼんやりと水面を見つめた。

ホボスが立てた波は太陽の日を浴びて、反射して、しだい波は落ち着きを取り戻していった。

水分を取り込みすぎないように注意しないといけない。

ホボスは水分が吸収されるように、体を揺らして、目を閉じた…。

 

土の匂いは、あたりにたちこみ風が吹き込むたびに強くなっていった。

吹きつける風が肌をなで、こびりついた砂を取り払っていく。

再び彼を呼ぶ声がする。

彼を慕う幼い声。

彼女の声とは違う、陽気な声に懐かしさを覚える。

彼もまたそのときを過ごし、ここまで生きてきたのだから。

自分よりも一回り小さな彼の存在を近くに感じる。

幼い彼にも、とうとう旅立ちの時がやってきたのだ。

目覚めの時はまだいつかはわからない。

しかし、そう遠くないことを土の香り、肌の躍動から彼は感じていた。

砂混じりの風とともに運ばれてくる土の匂いが彼らを包み、肌を痛めつけた風が撫でつけるように吹くとき、彼らの体を躍動させる。

彼女の声は先程よりも強く響く。

闇の深さを濃くした向こうの山に、彼女はひとりで彼を待っている。

彼女の声が乱れ小さくなるのを感じると、風が再び砂を伴ってくる。

湿り気を帯びた肌に砂がこびりつき、彼の肌を覆う。

地面の砂と地続きとなって、彼はまた砂に包まれる。

わずかな隙間から、彼は山向こうを見据える。

砂の擦れ合う音にまじる彼女の声は、まだ彼に届いていた…。

 

草陰の土に、わずかな水たまりが出来ていた。

土の匂いに目が覚めたホボスは、水たまりから出て、陽の光を浴びて肌を震わせた。

余分な水分をうまく排出できたようだった。

視点の定まらない目を太陽に向けて、その眩しさに目をぎゅっとつぶった。

光の暖かさにぼんやりと視線を池に移すと、水面はさらに輝きを増して、風に揺らされて緩やかにたゆたっていた。

池を囲む森林のざわめきが、火照り出したホボスの体を冷やした。

ホボスのまぶたがゆったりと降りてまどろんでしまうかという時、激しい水飛沫の音に目を開いた。

誰かが、勢いよく池に飛び込み、肌を大きく震わせながら水を取り込んでいた。

つややかで、光を浴びて輝く肌は、水を含んでその透明度を増していた。

それはディモの姿であった。

水面に時たま浮かび上がるディモの姿は、水と同じように澄み切って、太陽の光を受けて透き通っていた。

なめらかは肌に吸い付く水滴が、光を反射している。

水飛沫をあげて笑みを浮かべて泳ぎまわるディモは、水中へと潜っていった。

ホボスはディモを追って池の中に飛び込もうかと思ったが、体は水分を含み切って重かった。

ディモが大きく水面を揺らしたので、波が上がって池辺に水を跳ね返して、ホボスの肌も水に濡れた。

水面にいくつかの泡沫が浮かび上がってくると、ディモは水面から跳ね上がってきた。

水面に浮かべて漂っているディモの姿は、大きく肥大して肌を張り詰めていた。

ホボスは重たい体を引きずりながら、ディモに向かって大きく体を揺らした。

「ディモ!」

ディモは、ホボスの声に気づいて、こちら側へと向かって泳いでくる。

「ずっとここで待っててくれたの?」

ディモが陸から上がり、ホボスとともに草陰の中へと身を横たえた。

「水の中に潜ったり、草陰で眠ったりしてね…。水の中の巣穴には気づいた?すごかったんだよ…。」

ディモはホボスの話に耳を傾けながら、体の重みを地面に乗せてくつろいだ。

朝方に出会った少女の体は、水を多く蓄えて肌はつんと張りつめて、弾力を得ていた。

草陰にいても分かるその透明度を増した肌に、気持ちよさげに日陰の風にあたり目を閉じて涼んでいる。

「ディモ」

ホボスは自分の肌をすり寄り、ディモの肌と密着させた。

ひんやりとした体温が伝わって、なんとも言えない心地よさがホボスの全身をしびれさせた。

「ホボス、だめよ。そんなに近寄ってたら。水が漏れちゃうじゃない」

ディモはそういいながらもつかず離れずの距離にとどまり、ときどき触れ合う肌の感触に思わず体を揺らしていた。

ホボスはいてもたってもいられず、さらにディモの肌にすり寄った。

「ディモ、水を交換しよう…?」

ホボスはディモの目を見つめて言った。

肌をさらに密着させることで、肌の透明度が増し、お互いの含んだ水分を循環させることができた。水分の足りないとき、多く水分を蓄えたものと行うことで命が保たれるのであった。

ディモの肌に触れ合いたい欲求に駆られたホボスは、水分循環を口実にもっとディモに近づきたかった。

ディモは顔を隠して、ホボスから見えない草陰の方を向いてしまったが、

「良いわよ」

と小さい声で答えた。

ホボスはおそるおそるディモの顔をのぞき込んだ。

「ほんとに良い? いやじゃない?」

そういって触れ合ったディモの肌が熱く潤んでいるのがわかった。

「ディモ…」

ホボスは、自らの体も熱くなっているのを確認して、ディモの体の上に肌を重ねた。

ディモの湿った肌とホボスの肌がなじみあい、呼吸とともに、ホボスの水分がしだいに下に流れだし、ディモの体がさらに大きくなっていくのを感じた。

ディモの体が水分を含みきれなくなると、圧によって水分が上昇し、ホボスの体へと吸収されていく。

ディモの体のにおいを含んだ水分を味わい、十分に水分を交換しあうと、ホボスは体を名残惜しむように離れ、ディモのそばに寄り添った。

「ホボスのせいで体が裂けちゃうかと思ったわ」

ディモは、か細い声でホボスの肌を受け入れて、また体温を下げるために草陰の風に目を細めた。

「ディモの匂いのする水分はとても心地よいよ」

そう言ってホボスは、冷えていく肌の感触に心を落ち着かせて目を閉じた…。

 

静まりかえったあたりを見渡すと、はっきりとあの山が見えた。

砂埃の風はやみ、あたりには小高い砂山ができていた。

彼は、その一つの小高い砂山の端に埋もれていた。

砂をかき分けて、地表にあがり、久しぶりの静寂をかみしめた。

闇に浮かぶのは、高くそびえるあの山。

頭上高くから輝く星々の光が、彼の行く先を照らしている。

彼女の声がはっきりと響く。

「ホボス」

その声は彼をあの山へ導いていく。

彼は知っていた。

どのようにあの山へとすすめばいいのか。

坂を登り、岩山をくぐりぬければ、そこに彼女がいる。

湿り気を帯びた彼女の肌に重ね合わせられた彼の肌。

彼の体は大きく震え、火照りだした。

砂によって干からびた薄い体にはまだ力が残されている。

彼は体を横たえて、動き出すときを待っている。

体の記憶は知っている。

星々の光が衰え、山の姿をとらえられなくなったそのとき。

彼は、そのときを待っている…。

 

ホボスは、土を掘り出し、地表に大きな穴を作った。

ホボスが十分に収まる大きな穴で、他にも中小の穴が、大きな穴を中心に隣あって並んでいる。

蔓を編み込んで、それぞれの穴の大きさにぴったり合わさるように籠を作り、ひっくり返してその穴を包み込んだ。

籠の周りには、父の巣穴から分けてもらった大きな葉の草を植えて日のあたり具合を調節した。

朝に含む露が恋しくて、大きく育った草をなんとか分けてもらえないかと父を説得してみようとしたら、なんとこのときのためにたくさんの草を別に育ててくれていたのだった。

風で草が倒れてはいけないと、さらにホボスは円上に草を植えていく。

ディモは始めは岩山の巣穴を離れることを躊躇していた。

巣穴を作る場所を岩山から、そう遠くないところを選んでディモを安心させた。

ディモとは、毎朝あの池の草陰で会い続けたのだった。

ディモの体から水をホボスは吸収し、ホボスの水を吸収したディモは村へと運びつづけた。

ディモのにおいとは異なるにおいに、水を含んだ住民たちが怪しんだ。

二人の関係がディモの一族に知られ、瞬く間にホボスの父も知ることとなる。

皆に知られてしまえば隠す必要もなくなって、ホボスは意気揚々と巣穴を作るようになった。

理想の巣穴とは程遠いが、ディモと住むには適した大きさの巣穴である。

完成を間近に控え、そろそろディモをこの巣穴に迎え入れて良い頃合いとなってきた。

ディモを迎え入れる前に、自分の巣穴を見せたい相手がいるのだった。

ホボスは、巣穴の入り口の所にたって、今から来る相手をまっていた。

池へと延びる道筋の草陰から、マルスが現れた。

水中であったときとは、肌の張りはなくなっていたが、体は一回り大きくなった様子で、丈夫そうな肌を光に照らしていた。

マルスは、ホボスの姿を認めると、周辺の草を気にもしないで、走り込んできた。

「お兄ちゃん、ついに完成したんだって?」

「そうだね。ディモを迎える前に、マルスに見てもらいたくて。約束だろう」

マルスは、何重にも巣穴を囲んだ草をかき分けていくと、伏籠の中へと入っていった。

「この籠のアイディアは、父さんの巣穴からとったんじゃない? それとも、この前話してくれた蜘蛛の巣穴から考えだしたの?」

蔓の編み目をじっと眺めながらマルスは言った。

「この蔓は実際に蜘蛛の巣穴の住民からもらったんだ。ディモが近くに住んでいて交流があったからいくつか分けてもらえたんだよ。マルスの言う通り、お父さんの籠の感じもよかったから参考にさせてもらたよ。でも伏籠にしたのは、ディモがこれだと安心するんだっていってたから」

ディモのことを語り始めたホボスをマルスが制して、マルスはにやりと笑った。

「こっちの小さい部屋は、何? お兄ちゃんだけの部屋にしては狭いし…」

マルスが、入り口近くのその部屋に入ろうとしたとき、ホボスは巣穴の周りが騒がしいことに気がついた。

「もしかして、はやく来てしまったかな?」

ホボスは、入り口の穴から外を眺めると、小さい二つのこぶを乗せた、ディモが進んでやってきていた。

「ディモ!」

ディモは、草をかき分けて、ホボスの元へとすり寄った。

「約束の時間よりも早く来れて、ホボスに見てもらいたくて…」

ディモは顔を上げると、部屋から出てきたマルスと目があった。

「この子は…?」

「先にこの子に巣穴を紹介していたんだよ。この子はマルス。池の中に住んでいるんだ」

マルスはディモを見ると笑って挨拶をして、その背中にある二つのこぶをみて驚いた顔をした。

「そっそれって…!?」

マルスは顔を真っ赤にして、そそくさとディモとホボスに別れを行って帰っていた。

ホボスもディモの背中に乗っている二つのこぶをよく見ると、それは小さな小さな透明な球体だった。

半透明の球体は、ディモと肌を密着させて、わずかな水分を循環させていた。

「こんなに大きくなって…。けど、調子はどうだい、この巣穴で生活できそうかい?」

「えぇ、もう大丈夫。私もこの巣穴に慣れてきたし」

ホボスは、球体に触れると、柔らかみのある肌の弾力を確かめた。

ぼんやりとした瞳をこちらに向けると、見慣れた顔にどことなく落ち着いた眼差しで見つめてきた。

ホボスは何度も球体を撫でますと、小さな瞳はゆっくりと閉じていった。

水を吸収する力が強いのか、撫でる肌のしたから、水の流れがよくわかった。

「マルスには悪いことをしたね、気まずくなってしまったんだろうな」

「そうね。でもまた会えるわきっと」

ディモはそういうと、ホボスの肌にすり寄った。

ホボスの肌は、分離した二つの球体のために透明度を失い、頑丈になっていた。

「こうやってずっとそばに寄り添っていたいわ」

「これからずっと一緒にくらすんだから、いつだってできるよ。たくさんの子供のために、小さな部屋をいくつか用意したよ。みんな一緒だよ」

ディモは、背中に球体をのせたまま、ホボスの背中へと乗り上がる。

「ディモ、僕の水が循環して、子どもたちにまで回ってしまうよ。まだ慣れてなきんだから…」

ディモは笑って答えた。

「大丈夫、大丈夫よ、ホボス。あなたの水なら反発しないわ。だってあなたの一部、あなたの子どもなんだから…」

ホボスとディモの肌が触れ合うと、馴染んだ肌を通してすぐに水が循環し始めた。

ホボスの水が上昇して、ディモの肌を通っていく。

同時にディモからの水がホボスの元へと降りてくるまで、ホボスの体にはわずかな水分しか残っていなかった。

見慣れた水を含んだ肌がしだいに乾いていくのを見ると、ホボスはその乾いた肌に見覚えがあった。

乾燥した砂が、肌に擦れ合う感覚。

体がしぼんだように感じられきたとき、ディモから水が流れてホボスの体に染み込んでいった。

乾いた体は、ディモの水を吸収し、落ち着きを取り戻していく。

乾いた肌に潤いが戻ると、ホボスは目を閉じた。

砂の音が彼を呼んでいる…。

 

彼が彼女の声を聞いてから何年もたった。

とうとう星々の光が遮られ、打ち付ける砂嵐は、冷たさを含んで流れ出した。

肌を削る砂の粒に皮って、白い粉が彼の肌を白く飾っていく。

一時の目覚めからついに彼は、意識を取り戻した。

乾いた肌は、吹き当たる風に含まれた水分を取り込んでいく。

乾燥しきって薄く伸びた体に水分が含まれて、体の隅々が脈打っていくのを感じる。

潜み続けてきた砂の山から這い出ていくと、風が体を冷やした。

彼は肌にいまだはりついてる砂を、体を揺らして落としきった。

 

空の向こうから白い粉が振り落ちる。

彼の肌に降り注いできた白い粉は、彼の肌の温かさに溶けて染み込んでいく。

彼はしだいに彼女の夢を思い出す。

始めはその朗らかな声だけが彼を呼んでいたのだ。

おぼろけな姿がしだいにはっきりと彼の目に浮かんでくる。

暖かな光、輝く水しぶき、水面に浮かぶ透明な肌。

なめらかな曲線を描いて、伸縮する体。

彼女の名はディモ。

乾いた眠りにつつまれたこの世界では、彼女とはまだあったことがなかった。

しかし彼女の声を彼は知っている。

彼女はあの山の向こうで、彼を待っている。

彼は、雪が薄く積もりだした砂の道を進んでいく。

はっきりとした目的を彼の体が教えてくれる。

砂の道を進むたびに彼は記憶を取り戻していく。

 

思い出すのは祖先の記憶だ。

祖先は、潤沢な緑あふれる場所に住み、水を多く得ることができた。

昔は良かったと祖先から聞かされるのなら、まさしくそうに違いない。

しかし、しだいに水は不足し始め植物は枯れて、岩石を安住の地と決めて住み着いていた祖先は、突然の離別を強いられることになったのだ。

父がそのまた父の、また父の父から聞いたところの話を思い出すと、そのときの生活は止まった時間であったということだ。

恵まれた日々の移ろいはなくなり、空腹が彼らを襲った。

弱くて若いものから自ら強いものに取り込まれ、老いたものは沈黙を守った。

夜な夜な行われる捕食のとき。

種の存続のために尊ばれるのは、一族の一部が生き延びることだった。

今、自分が生きているのも、彼の祖先が自らの命を捧げてくれたおかげだ。

しかしながら、住み慣れた岩山を防御の拠点に据え、祖先は籠城を決め込んだ。

すべては時間の浪費であり、運命は定まっていたのだ。

祖先は、ただ命を少しでも伸ばすことだけを考えた。

そのとき、ひとりの長老がまだ生きながらえていたという。

排水に障害を持った長老の体を捕食したいと願うものは誰もおらなかったし、長老も生き延びた命を若いものに捧げるほど純朴ではなかった。

希望を捨ててただ死を待って佇んでいるだけかと思われた長老は籠城事件に異を唱え、あらたな安住の地をもとめて旅にでる必要性を述べたのだ。

体の黄ばんだ長老は、吹き荒れる砂埃を見つめつつげ、その砂埃の吹く法則を発見した。

砂埃が細く舞い散るかのように吹くときもあれば、固まりとなって粗く吹くときもある。吹くときの風の向きを見ると、どうやらその吹き方には緩急があるようだった。

砂埃のうすぐもった光が陰り出し、あたりが暗闇に包まれた時、黄色の長老は立ち上がった。

「この母なる岩から離れる時がきた。多くの水を探すためにもここから出ねばならない。無為な選別をこれ以上行うべきではない。今、私はこの砂の風の道を読むに至った。私に着いてくるものは迷うはずはない。命を落としたくないものは私に続け」

と勇んで彼は砂埃の中へと消えていったという。

しかし、その長老についていったものは誰もおらず、また一つの若い命が別の命と夜を共にした。

また砂埃の向こうから光が岩肌に届いたとき、みすぼらしくなりながらも、その体は健在である黄色の長老が再び皆の前に現れたのだった。

「私の後に続いてこなかった諸君の知見について批判を述べるために来たのではなく、再び目前にいる私の健康を見せしめることで、諸君を鼓舞しようというのである。まさに、私はこの砂埃を読むに至り、ここから先の連山を見つけ生きながらえたのである。」

強者に属する若者が長老に声をかけた。

「そこには水は存在するのか?」

その問いかけに黄色の長老は、正直に答えていった。

「驚くなかれ、少量ながら確認することができた。さあ、日の陰りに合わせて出発のときだ。しばし故郷の岩に別れを告げるとしよう。」

黄色の長老は岩肌の一部を削りだし、それを懐の中にしまいこんだ。

岩肌に印をつけるもの、触り心地を確かめるもの、思い出を語り合うものなど、各々が最後の故郷の形見となった岩との別れを惜しんだ。

黄色の長老は、岩肌の穴から外を眺め、荒れ狂う砂埃を見つめ続けていた。

砂埃が色を失い、あたりが光を失ったとき、一族は岩肌に別れつげた。

うす暗がりの中、一族は吹き込む砂の風に行く手を遮られながらも進み続けた。

数歩進んで後ろを振り向けば、母なる岩が静かに砂に飲み込まれつつあった。

全容はもはや確認することはできず、まるで帽子をかぶせるかのように、砂によって覆われ始めてたのだ。

いまだ外に活路を見出さず、うちにこもり選別をつづけていたら、あの砂に包まれた岩の中、最後のものが孤独に命を終えていたかもしれない。

黄色の長老は、現実を知った一族を山へと導いた。

体に打ち当たる砂埃は、わずかではあったが、それでも彼らの体力を消耗させていく。

前方に進む列に遅れれてしまうと、一瞬でその姿を見失いそうになる。

力の弱いものたちは風によって飛ばされ、助けようと手を伸ばしたものさらわれていく。

この嵐の前では、強く己だけを見つめるものが前へと進めていけたのだ。

砂の風に抵抗できた強く若々しいものたちは、なんとか長老の後をついていく。

砂の上に残った足跡も新たな風が吹くとそのかたちの行く手を変え、まるで彼らを迷わせようとするかのよう。

前方に進むものの背中を見失ってはならない。

ただ一歩その足を進めるだけが求められていた。

わずかながらに見ることができた先頭を進む長老の姿も、暗闇が深まると判別が着かなくなってきた。

先方が見えなくなる一方で吹きすさぶ砂の勢いが、しだいに和らぎ、砂のこすれあう音も静寂に呑まれていく。

静寂が彼らを震撼させた。

砂のカーテンが閉められ、現れた真実の姿は、闇夜に広がる星々のまぶしい光であった。

吸い込まれるような星々の輝きに、しばし言葉を失った。

そう、彼らは全く空の星を回したことなどなかったのだ。

体の乾きや生存への悩みさえも一瞬だけ忘れることができた。

「さぁ、急ぐのだ、この間もいつか続くと知れない。山まであともう少しだ。」

長老の声が闇の中から響き渡り、皆その声を頼りに前に進んだ。

夜の寒さに冷え込んだ風がわずかな砂を運ぼうとし、行く先を急ぐ彼らの肌をなでた。

砂の風が再び彼らの行く手を遮るかと思えたそのとき、にわかに星の光が陰りだし、一行はまた暗闇に閉じ込められた。

一粒の白い砂。

何度も肌を打ちすさぶ砂の印象だけが、彼らの頭にあった。吹き込み、彼らの体をいたぶるのは砂だけだという思い込みだ。

その一つの白い砂が頭の上から降ってくることにやっと彼らは気づいた。

空を覆い隠す白い砂が彼らの体にそっと舞い落ちる。

乾いた肌に痛々しいほど冷たい雪が触って溶けた。

溶けた水は、彼らの肌に染み込んで、潤し続けた。

待ち望んでやまなかった水が天から舞い降りてくる。

そのことに耐えきれなくなったものたちは列を乱して、ただ天を仰ぎ続けた。

ただ寡黙にはじめの目的を忘れなかったもの、ただ思考を止めてついていくだけのものたちは、硬い表情の長老にひたすらについていった。

しかし進む彼らにも平等に雪は降り続ける。

何年も耐え忍んできた彼らの体には、存分に水分を吸収できるようにその体を変化させた。

祖先の細長い体は、丸みを帯びた体へと変化し、その肌は振り落ちる雪の水分を取り込めるように肌を肥大させたのだ。

彼らを撫で、その痛々しい肌を優しく労った冷たい風は、途端にその速度を荒々しくさせ、彼らの体に打ち込んだ。

天を仰いでいたものたちは、空へと吸い込まれ、列をなして進んでいたものたちのうち、その冷たい風に歩みを少しでも緩めたものは吹き飛ばされていった。

長老は、残り少なくなった同胞たちを見据えて、不安な表情の彼らを鼓舞し続けた。

前方に控えるあの山まで進めば、水と安住の地が手に入る。

その目的地に着いたものたちは、出発した当初の半分にも満たなかったが、ついに彼らは水を手に入れた。

同胞たちの犠牲は無駄ではなく、種の存続がまた可能となったのだ。

山の頂上のくぼみに溜まる少量の水に彼らは命を救われた。

地表に降り続いた、細かな雪は永遠には続かない。

日が昇り、雲が晴れると、雪は跡形もなく消え去った。

雪に変わって吹きすさぶ砂の粉。

山の頂上に潜んだものたちも、砂の荒らしに耐えながら、水を得るのは不可能だった。

山肌に潜み、また岩肌での同じ苦行に耐えながら隠れているうちに、消え去っていった同胞たちの声が鳴り響いた。

それは山に反響しているのではない。

彼らの体に鳴り響くのだ。

彼らの肌が乾ききり、意識が朦朧としていく最中、ある情景が頭に浮かんだ。

そうそれは、昔懐かしい失われた過去の思い出。

朝には葉に露が降りて、葉は水を弾いて地表を潤す。

地表に染み込んだ土の香りが彼らの体を目覚めさした。

乾いた眠りの中、見つめ続けることができるのは、生きている同胞たちの姿だ。

祖先は、雪の水を含むことによって体の形を変化させ、さらには新たな生存方法を生み出した。

砂の止む時までの長い眠り。

雪の降りだすまでの乾いた眠り。

いつとなく続く眠りの中で、目覚める時を待っているのだ。

今、目覚めた自分もまたそのときの末裔だ。

彼は思いだす。

雪の水で目覚めたとき、始めることはただ一つ。

彼女の声を頼りに、彼女の元へ走り、種の存続を果たすのだ。

 

乾いた眠りのあいだ、砂嵐によって運ばれて続けて、あの山は以前の記憶よりもずっと近くにそびえていた。

雪の風はまだなめらかに彼の肌を撫で回し、彼の歩みを緩めようとする。

しかし、彼は歩みを止めない。

彼には彼女の声が聞こえるからだ。

「ホボス」

あぁディモ!

彼の体は雪の水によって潤い出す一方で、その体の中心は火照ってやまない。

彼女の肌に触れた感覚が蘇る。

例えそれが夢の中であったとしても、彼にとっては現実であった。

必ず手に入れてみせる。

そう思って進んでいく先に、闇夜に浮かぶ白い影が見え始めた。

彼の行く手を遮る丸い球体。

その姿は彼よりも一回り大きく、その肥大した肌に薄く雪が色づいている。

まだ水分を十分に取り込めていないのか、乾いた肌が雪の下に覗かせていた。

彼の頭に鳴り響くのはひとつの声。

「同胞のためにその体を差し出せば、その体も私とともに生きながらえるだろう」

「さあ、差し出すのだ」

彼の頭に響く声の主は、そのまだ目覚めたらぬ体を彼に向けて近寄ってくる。

弱いものは自らの体を差し出し、強いものの一部となって種を存続させるのだ。

その歴史を思い出せば、思い出すほど、彼の体は動かない。

しかし、彼はまだ眠りから覚め切らないその体の主に問いかけた。

「たしかに、自分はあなたよりも一回り小さい体だが、それが弱いとは限らない。不用意に大きく肥大したあなたの体はまだ十分には動かない。このことからしてあなたの方が不利な状況だ。そうは思いませんか? それとも自分があなたの口にその体を差し出すなど考えておいでなのでしょうか?」

彼は、歩みを早めて愚鈍なその体の主を遠く離れて過ぎ去った。

高台に昇り、遠くの方からその主の所在を確かめるために振り返ったとき、彼は驚愕した。

後方に広がる白い球体の群れ。

せめぎ合うその球体の中には、互いを押し合い潰し合う様子が眼下に広がっていた。

先程の愚鈍の主は、いくつもの同胞に囲まれて、その体を千切られていた。

乾いた肌は引き裂かれ、そこから水分が地表へと流れ出していた。

高台に匂う個体特有の水分の匂いに、彼は顔を背けた。

捕食をしなければ、生き残っていられない。

しかし、彼は愛するディモ以外の個体の水を体に入れる事など考えられなかった。

後方に迫る同胞たちの勢いに焦りを隠せず、彼はただ一心に山の坂を駆け上った。

山の坂に伸びる、乾ききった蔓がまるで蜘蛛の巣のように絡み合っている。

逡巡が命を危うくすることを彼は記憶から学んでいた。

咄嗟に蔓の一部を引きちぎると、坂道に蔓が落ちて、後方の同胞たちの行方を塞いだ。

この道を上りきれば、岩山の巣穴にたどり着くことを彼は覚えていた。

ディモはもうすぐ、彼を待っている。

彼を呼ぶ声ははっきりと彼の耳にも届いてた。

「ホボス、私はあの場所にいる…」

いま、まうすぐあの場所にたどり着くよ。ディモ!

彼は坂道を登りきると、ディモの匂いが岩山の向こうからしていた。

また、別の匂いもそばに近寄ってくるのを彼は感じた。

岩肌の側面に登ろうと、岩下の影へと進むと、そこには水分が足らずに薄っぺらい塊がはべっていた。

岩下の湿り気を帯びた土からほんの少しの水分を吸収し、中途半端に覚醒してしまった同胞は、じりじりと土を掻き分けて、彼の前へと進んでくる。

同胞の破けてしまった乾燥した肌から、水分が少しずつ漏れ出してさらに土を濡らしていく。

この匂いの正体の主を彼は知っていた。

嗅ぎなれた懐かしい匂い。水の中で育ち水になれたあの子どもの姿。

「きみは、マルスなのかい…?」

彼はその塊に近寄ると、その塊の声が鳴り響く。

「ホボス兄ちゃん、ずっと待っていたよ。あの夢を見てしまってからずっと待っていたんだ。」

「あの夢?」

彼は、今にも事切れそうな塊を手につかんで、支えてあげた。

少しでも力を加えると裂けた肌から緩んだ水分が溢れ出しそうになる。

塊の重なりあう皺の奥にわずかな意識が見え隠れする。

「そう、あの二つの球体を見たことはまさに天啓だ…」

塊は皺の奥に潜む瞳を覗かせて、彼に近寄ろうと、無我夢中で足掻いている。

「僕は目覚めが十分ではなかった。これ以上、水分も手に入れられるはずもない。あの夢はあなたの夢で、僕の夢に漏れ出した。僕はあなたの夢に同調しすぎてしまった。見てしまったものは、受け入れなければならない…」

塊は、彼の口の近くに寄ると、自らその体を彼の口へと潜り込ませた。

「僕の体を差し上げます! さぁ、含んでください、そんな体では彼女にはたどり着かない」

彼は身を震わして、その口に含んだ塊を吐き出そうとする。

乾燥して脆くなった塊の一部が砕けて地表に水分を垂れ流しながら転げ落ちた。

彼の口が緩みかけた瞬間を塊は見逃さずに、体をくねらせて、さらに奥へと入り込もうとする。

彼は塊に向かって何度も語りかけた。

「やめろ、私は彼女のしか含みたくない。やめて、やめてくれ…」

「そんな体では彼女に近づくこともできない…。けれど、彼女はあなたを選んだそれはあの夢から明らかだ…」

塊はとうとう、その体を滑り込ませた。

彼の口に広がる、乾いた肌とそこから漏れ出す温かい水分を感じた瞬間に、彼は勢いよくその塊を飲み込んだ。

口に広がる甘い匂い。乾燥した肌に凝縮された味となめらかな水分が混じりまい、彼の体を満たしていった。

含んだ塊は、絶えず彼の体の中で波打ち、跳ねた。

彼の一部となってもなお、その塊の声は彼に届いた。

「これで僕も命を次に繋げられる…」

生き延びられないものの、つないだ命の喜び。

痺れるような感覚に彼は身を硬くした。

水分を含み、彼の体は厚みを増して、肌は少しずつ伸びていった。

体に漲る生命の力。

体に広がる、嗅ぎなれた匂いを感じた。

肌に伝う一筋の水滴を彼は感じながらも、その甘い味に耐えきれず、地表に落ちた塊の一部を貪った。

乾いた肌は、軽快な音を立てて破れて、滑った水分が混じり合って彼の口を潤した。

塊の全てを体におさめたとき、立ち上る甘い匂いが後方から迫ってくるのを嗅ぎ分けた。

彼は岩山の麓に立って、蔓の隙間から潜り抜けてきた、小ぶりな球体の群れを見下ろした。

振り落ちる雪の粉に体を染めた球体たちは、ついに坂を登りきり後は岩山へと進むのみという中で彼と出会った。

目の前を遮る肥大した球体が何を望んでいるのか、その漂う甘い匂いに濡れた口を見れば明らかだった。

いくつかの球体は、体表を覆う雪を散らしながら、彼の口へと飛び込んだ。

弱いものが強いものに体を差し出すことは、彼らの体の記憶がその正しさを知っている。

小ぶりな球体が口にあふれ、ゆっくりとその球体に圧力をかけて押しつぶしていく。

雪に冷えた肌が潰れて、ぷつりと溢れ出る温かな液体を彼は飲み込み続けた。

彼が油断しているすきに、岩下へと駆け込んで彼を飛び越えていく同胞たちもいた。

彼は、岩山の間へ滑り込み、肥大した体で岩山を乗り越えていった。

逃げる同胞の体をつまんで、自らの体に取り込むことに抵抗は無くなっていた。

彼の肌は弾力と厚みを形成し、頑丈な岩山さえも砕いていく。

崩れていく岩に押しつぶされていく同胞の水分をすすり舐め回して、彼はさらにその体を大きくしていく。

「ホボス!」

この岩山を乗り越えれば、今すぐディモに会えるよ。

彼は立ち塞がる岩山をなぎ倒して、雪の積もった地表に飛び出した。

あぁ、ついにあなたに会えるときがきた!

空から降り積もる雪が彼の火照り出した肌におりて、絶え間なく潤していく。

ほとばしる水飛沫、つややかな肌に身を重ね、その湿り気に身を委ねて、甘く、温かな水をこの汚れた体に取り込んで清くありたい。

長老が見つけた水の残る場所。

ただひとりでディモは待っていてくれているのだ。

降り積もった雪から、池を眺めると、そこには、半透明の薄い膜が何枚も折り重なって溢れていた。

たゆたうはずの水はそこには存在しなかった。

急いで、その膜の上へと進むと、それは水分だけを抜かれた同胞たちの亡骸であった。

押しつぶされて漏れ残った水分が、地表を濡らしている。

まだ生温かく、甘い匂いがあたりに立ち込んでいる。

彼よりも先に訪れた同胞たちは、尽くその体から水分のみを取り込まれている。

「ディモ! 君はどこにいるんだい?」

彼は、同胞たちの亡骸の上にたって叫び声をあげた。

「ディモ!」

彼が再び声を上げて叫び声をあげたとき、前方の彼方にそびえていた山から音が聞こえた。

「ホボス、ホボス、ホボス…」

地響きによって積もった砂とそれを覆っていた雪が揺れ動いて下の地表へと流れていく。

彼はその砂雪にのみ込まれそうになったが、彼の立つ亡骸の肌が脈打ち、一つの触覚となって彼を絡め取って空へと持ち上げた。

彼はその触覚よって縛り上げられ、山の方へと運ばれていった。

砂と雪を落としたその黄ばんだ肌は、山のなだらかな稜線と同じ線を描いていた。

砂によって刻まれた皺の肌が、鈍く開きかけると、その肌のしたから黒々とした瞳が彼の姿を見つめた。

同胞を食し肥大したはずの彼の体は、彼を見つめる黄色の生物に及ばない。

 

彼の体は思い出し始めていた。

山を目指した長老とその一行にたどり着いた先に水は、雪解けのわずかな量しか地表には残されていなかった。

長老は疲れきって身動きの取れないものたちに水を分け、彼らの回復を待ち望んだ。

黄ばんだ長老の体は、自ら先んじて飲み干した池の水によって命をつなぎ止めていた。

咀嚼のうまくできない長老は、水分を含んでふやけた同胞の肌にかじりついた。

ひとつ、またひとつ、彼らよりも弱きものの策略によって若々しい命が散ってゆく。

 

蘇った記憶に為すすべも力もなく、彼はその身を触覚に委ねた。

触覚が、同胞たちの水分で粘り、異臭を放つその口腔へと導いていく。

放り込められたその穴で、彼は身体中にかかる圧力に押しつぶされそうになった。

彼の瞳から流れる水滴が、彼の喉を潤し慰めた。

体は、伸縮し、捻られ、引きちぎられていくのを感じる。

まとわりつく粘膜の液に、肌が溶け出し、表面へと水が溢れ出していく。

溶け出していく自らの匂いに咽びながら、いいも知れない感覚が彼の中に湧き上がる。

湿り気を帯びた肌に重ねあって、流れ出る水滴の数々が、地表を濡らして草陰で喘いだあの記憶。

「あぁ…!ディモ、君は僕の中にある、そう僕を取り込んで、僕たちはひとつになるんだ…」

甘い匂いが立ち込めるなか、暗闇の中に乾いた粘膜から穴が開きだし、輪郭を描いて、ディモの顔が浮かび出す。

「ホボス、そう、来て…」

抑え込まれた体を引きちぎり、顔面のみになってディモの顔へと口付けた。

「ディモ、ディモ、ずっと僕らは一緒だよ…」

ディモの口へと顔を近づけるたび、彼の顔の凹凸は、なめらかになりその表面の区別を失っていく。

へばりつく臭気に身をよじりながらも、彼は何度も口付けをする。

「ディモ…」

「ホボス…」

しかし声は鳴り止まない。

彼を呼ぶ声はどこまでも響いて、彼の体を揺らし続けた…。

 

ホボスは大きな穴の中で伏籠から差し込む光に目を覚ました。

巣穴の入り口の外は、光を浴びて眩しい。

その巣穴へと続く一筋の道に、3つの影が伸びている。

楕円状の影が2つ、光の中から跳ね飛んで、ホボスの懐へとやってきた。

白濁した肌に浮かぶ黒々とした丸い瞳は、一心にホボスの抱擁を求めた。

ホボスは、2つの球体を優しく包み込む。

柔らかな肌を潰さぬように、けれど温かみは感じられる強さをもって抱きしめる。

「お父さん、今日はどんなお話をしてくれる?」

左に抱かれた球体が、ホボスの肌を叩き回して急き立てる。

「そうそう、何代前のお父さんのお話? お父さんのお父さんのお話はもう何度も聴いてるからだめだよ、話しちゃ!」

右の球体は上下に振動して、ホボスの顔を叩いた。

「そう!その通り!」

ホボスは、顔に当たる柔らか手の感触に頬をほころばせる。

「わかった、わかった、じゃあ今日は、ずっとずっと昔のお父さんのお父さんのずっと前のお話をしよう。さぁ、お父さんの体から降りておくれ、君たちの反応がお父さんのおしゃべりの原動力だからな」

2つの球体が笑い声を上げながら、ホボスの体を転がって、硬くならされた地面へと着地する。

「昔昔、地表から植物や水が消え去っしまったときのお話だ…」

ホボスは球体の顔をじっくりと見回しながらそう話す。

ホボスが話しに夢中になっている間、伏籠から伸びた道に伸びる細い影が遠ざかっていく。

影はさらに伸びていき、その濃さを光の中へと散らして消えていった。

 

永遠と語り継がれるその話しは2つの球体の体の記憶となって蘇る。

また最愛の元へと旅立つために…。

 

文字数:19032

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