炎情

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梗 概

炎情

 若頭争いから完全に外れている慎二は、組長の堂前に2ヶ月で身体を鍛えて体重を増やさなければ次回の抗争で鉄砲玉にすると宣告されトレーニングジムに通い始める。しかしそのジムには竹原組の若頭中畑も通っており、サウナで鉢合わせた二人は我慢比べを始める。

 中畑の背中から滴る大粒の汗は龍をつたい床に落ちる。シュッと音を立て湧き上がる水蒸気を見た慎二はまるで中畑のオーラそのもののように感じ、生まれて初めての恐怖を感じた。

 全く相手にならず悔しい慎二は、舎弟の健にこれからは毎日家の中で魚を焼くように命じ煙と暑さに慣れる特訓をするが、一週間後に慎二と健は苦情によりアパートを追い出されてしまう。しかしこれも好機と捉えた慎二は、ホームレスとして炎天下で過ごすことで徐々に高温に慣れていく。

 日々の特訓の成果が実った慎二は、ついに中畑との我慢比べに勝利し、健と共に喜びの涙を流す。人生で初めての敗北を喫した中畑は慎二のもとに歩み寄り、これが友情だと固い握手を交わす。

 

 2ヶ月が経ち慎二の大幅な体重減少に激怒した堂前は、慎二を鉄砲玉に任命する。やむなしと受け入れる慎二だったが、ターゲットが中畑であることを知り堂前に断りを入れるも、健を人質にされ従うしかない。

 夜討ちを狙った慎二が竹原組の本部に向かうと、組には人っ子一人おらず、奥にはタオル一枚の中畑があぐらをかいて座っていた。

 本当の友は目で語る

 察した慎二が全てを脱いで中畑と向かい合うと、両襖が開き大きなうちわを持った大勢の組員が現れる。そして同時に床下から積み重ねられた薪が現れ、そこに火が灯される。

 護摩行だ。

 サウナでの戦いに勝つため火に詳しくなっていた慎二は悟った。ただでさえ熱い護摩行にも関わらず、振り下ろされるうちわによって火の粉が身体中に積もり、慎二は時折悲鳴をあげる。どれが火の粉でどこが皮膚、目で見て分からないほどに慎二の身体は赤くなっていた。

「腹減ってきたのぅ、慎二」

 同じく皮膚が真っ赤に燃えた中畑はニヤリと笑い、部下に運ばせた秋刀魚を炎で焼いて食べ始める。

 絶対に負けられないと慎二も食べ始めるが、もはやいつ皮膚が全て剥がれてもおかしくないこの状況で、秋刀魚の骨は舌にとってドスに並ぶ凶器と化していた。もし鯛だったら舌はちぎれていたかもしれない。慎二は竹原組の経営事情に救われたと感じていた。

 突如大きな衝撃が建物に響く。心配した健がダンプカーで本部に突っ込んだのだ。その揺れにより中畑は積み上げた薪の下敷きになり、瀕死の状態になっていた。

 中畑は駆け寄った慎二に自分のタマを取るように頼み、慎二は中畑の腹に弾丸をぶち込む。中畑はあの時負けたサウナが一番熱かったと笑い、死んでいく。

 

 喜ぶ堂前に慎二は足を洗うことを告げる。これからどうするか聞かれた慎二は、もっと熱い男になりますと漠然とした目標を語り、夕日に向かって歩いてゆく。

文字数:1196

内容に関するアピール

状況が、発言が、感情が、人間が、
耳で聞いても目で見ても、思い浮かべても熱くなる。
そんな話を書きました。

青春やスポ根にしなかったのは彼らが綺麗すぎるからです。
燃え後が必ず黒く残るように、少し汚れた熱さを伝えたいと考えて極道にしました。

とはいえ私のモットーは、くだらない嗜好品であることなので、
バカバカしさは熱さをベースにした今回だからこそより力を入れています。

苛立たせてたらすいません。
箸休みになれたなら、幸せです。

文字数:207

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炎情

 001

 慎二がドラマ『ルーキーズ』を観てそのカッコ良さに衝撃を受けたのは14歳の春のことだった。これこそ俺の求めていた男の姿だと確信した慎二は、母親の分のご飯を作るやいなや家を飛び出し、誰もいない近所のグラウンドを突っ切って、小さなおじさんがやっているスポーツショップを右折したところにある煙草屋へ向かった。夕飯の弁当を食べながら「番号は?」と店主のおばぁちゃんが聞いてきたことに戸惑い咄嗟に出席番号を言うと、おばぁちゃんは慎二にごっつい細い煙草を渡した。

 その日以降慎二は先輩達からキャバ嬢というあだ名で呼ばれることになるが、自身はこのキラキラしたごっつい細い煙草を気に入っていたし、なにより煙草を吸っていると、自分が誰にも恐れない根っからのワルになれたような気がした。
「あなたにとって煙草とは? うーん一言じゃ言えないな。まぁ強いていうなら、守護神ですかね。守護神という大魔神かもしれませんね。こいつは絶対に俺を裏切らないし、いつだって守ってくれるんです」
 慎二はいつの日か自分が某プロフェッショナルな番組に出た時を想定してこのような動画も一人で撮影した。この程度で世の中に番組に出るようなら日本はもう終わっているだろうが、そのくらい慎二は煙草に憧れ、煙草を愛していた。

 しかし今、慎二の中でその気持ちは変わりつつある。タバコは守護神でも大魔神でも藤川球児でもない。煙草とは、己の右腕の皮を炙るハーデスだったのだ。
「あっつぅぅぅぅぅぅあ!!」
 慎二の悲鳴は雑居ビルの9階から1階まで響き渡り、そして歓楽街の賑わいにかき消されていく。
「慎二ぃ、ワレえぇ加減にせぇよコラァ!」
 堂前組若頭の村田は転げ回る慎二の腹に一発蹴りを入れ、怒号を浴びせた。
「カシラ、なんでそんな怒るんでっか、別に俺何にも悪いことしてませんがな」
 不満気な慎二の発言は火にハイオク。村田は慎二にもう一発蹴りを入れ、限界まで口を開けて三度怒鳴った。勃起しているのかと錯覚するほど、慎二には村田の喉ちんこがハッキリ見えた。
「悪いことしてへんやと? 若頭の俺に黙って龍彫るようなガキ、背中剥ぎ取って海に沈めたとしても合法じゃ!」
 世の中的には違法でも、極道の世界において村田の言い分はもっともである。背中の墨は極道の証といえ、その刺青には伴う格と忖度が求められる。長年若衆の慎二が、若頭の村田ですら躊躇した龍を入れたとなれば、怒りを買うのは至極当然のことだった。
「せ、せやけど兄ぃ・・・」
 慎二は痛みをこらえながらジャケットの裏ポケットに手を入れると、一枚の紙切れを出して村田に渡した。
「なんじゃいこれ」
「割引券です。この龍、今なら50%オフでお得やったんですわ」
「よっしゃ、ほな残りの50%ワシがオンしたるわ。鉄拳でな!!」
 顔面に一撃を食らった慎二はそのまま気を失った。
「どこの極道が刺青をセールで入れんねんボケ!!」
 村田は周りの下っ端が震えながら手渡したハンカチで拳についた血を拭うと、慎二を別室に運ぶよう指示して部屋を後にした。
「クソバカタレが。お前がそんなやから、俺はお前を庇いきれへんのじゃ」

 002

 慎二が目を覚ましたのはその1時間後のことだった。
「兄貴、お目覚めでっか」
 弟分の健が慎二をうちわで仰ぎながら、愛想なく声をかける。腕のプルプル具合を見る限り慎二が伸びている間ずっと扇いでいたようだ。
「おはようさん、エライ目に合うたわ」
「そらそうでっせ、村田のカシラは堂前組長しかり他の若頭にやいやい言われんのが嫌で組長の観音受け継いでますけど、ジッポー見ても分かるように根っからの龍好きですわ。ほんまは龍彫りたかったに決まってますから、そら怒りますて。ほんま頼みますわ」
 相変わらず呆れたように自分に対して物を言う健から水をもらい、口をゆすいでシンクに吐き出した。赤い血液は銀色のシンクをつたい排水溝に流れていき、口の中で固まりかけた黒い血は蓋と排水溝の隙間に挟まっていた。
「すまんな坊ちゃん」
 坊ちゃんというのは、慎二が少し苛立った時にだけ呼ぶ健の呼び名だ。弟分の健は元々裕福な家庭に生まれた国立大学出身のエリートだったが、裏で自ら立ち上げた詐欺グループのリーダーとして活動しており、卒業間近にサツにしょっぴかれた結果極道の道に進んだいるらしい。頭の良さや要領の良さから考えると、最初に堂前組のような三次団体というのは勿体無いほどだった。
「兄貴は若衆の中で組に属してから一番長い。役職も人も少ない堂前組を考えたら、空きポスト的に出世してもおかしくないんです。もし仮に昇進した時のことも考えて、周囲のアホ共の反応も少し気にせんとあきません。狙われまっせ」
「ほんまお前は、いちいち棘のある言い方するやっちゃのぅ」
 こういう上から目線を出してしまうところが、キレ者にも関わらず健が若頭の村田やその他役職付きから好かれない理由である。もちろんどちらが正しいかと言われればほとんどの議論は健が正しいのだが、この世界はロジックで物事が決定する世界とは無縁だ。村田に殴られながら育った慎二にとっては、健に対してもう少し忠誠心的なものを見せてもいいのではないかと思う日々だった。
「もう少し忠誠心的なものを見せもいいのではないかと思う日々なんやわ」
 ちなみに慎二は思ったことを我慢できない。
「そうですね。確かに兄貴は、もう少し村田のカシラには忠誠心を見せておいてもいいかもしれませんね」
 慎二はタバコを吸った。二本吸った。

003

 慎二が属してからもう7年になる竹原組三次団体の堂前組は、決して華のある組ではなかった。組長の堂前は元々竹原組の事務局長として経理業務を仕切っており、三代目会長の竹原恭平からも未来の若頭候補として期待された有望株だったが、毎月集まってくる上納金の一部をコツコツと自身の懐に積み立てていたことがバレてケジメを取らされた。竹原は堂前の破門も考えたが、堂前は竹原組に属して長く、破門直後に敵対組織に拉致されて組の情報を吐かれても困ると思った竹原は、堂前にたった1人しか組員のいない小さな組を与えた。
 竹原は、堂前を飼い殺しにすることを決めたのだ。そこで作られたのが竹原組三次団体堂前組であり、当時の組員は一人が堂前、そしてもう一人が取り立てで勢い余ってカタギを殺してしまい出所したばかりの厄介者、村田だった。そんな状況でもやり手の堂前は武闘派の村田と2人で少しづつ稼ぎの軸を作っていったのだから驚きである。
 堂前組が設立して半年後、堂前組に三人目が誕生することになる。
「組長、そろそろ人増やしませんか。イライラした時に殴るサンドバックが欲しいんです」
「奇遇やのぅ村田、わしもちょうど奴隷が欲しい思うとった」
 そんな会話をしていたタイミングで現れたのが、慎二だった。
 奈良から大阪に引っ越してきたばかりで初日に行ったパチンコ屋の景品交換所が分からずに周囲をウロついていた慎二は、そのパチンコ屋のビルの2階の戸を叩いた。そこが堂前組の事務所だと知ったのは、金景品と100万を交換されて「大阪のレートすごい!!」と上機嫌になった後の話だ。堂前にとっては慎二の溢れ出る偏差値の低さが非常に魅力的だったのだ。一応確認しておこうと思い
「お前、偏差値なんぼや?」
 と聞いた堂前の問いに対して、
「偏差値ってなんですか?」
 と返したのが決め手になった。それからの慎二の毎日は本当に悲惨だった。

004

「村田のカシラに殴られまくりの蹴られまくり、1回海にほんまに沈められたって言うてましたっけ。その時に秋刀魚の群と一緒に泳いだとか」
 助手席でスマホを見ながら、健は退屈そうに話を遮った。
「リアル海物語やったわ」
「秋刀魚てそんな浅いとこ泳いでますっけ?」
 お前なぁ、と慎二は呆れながら左手で健を小突いた。
「いきなり海に沈められたら普通目瞑るやろ? 深さなんて分からへんやんけ」
「……目瞑ってたら魚も見えへんがな」
 ここ右ですという健の声に沿って慎二は住宅街の二本目の筋を右折した。
「それより健、最近買うたこの新車乗り心地最高やろ。高かったんやで」
「そうですね、とても流行を捉えていると思います」
 カカカッと嬉しそうに笑いながら慎二はミライースのアクセルを思い切り踏み込むと、閑静な住宅街にふさわしい低燃費な音が鳴り響く。本来であれば上の人間が運転するようなことは絶対にありえないのだが、健は中学生の時交通事故で両親を亡くして以来車が怖くハンドルが握れないらしい。村田には運転を強制させろと言われたが、慎二は健に無理強いする気にはなれなかった。その後命令に背いたとして慎二は村田に2発殴られるのだが、それ以降も健に運転を命じたことは一度も無い。
「流石にでかい家ですね。庭もすごい」
 到着した目的地を見て、珍しく健のテンションが高くなったことは気づいていたが、それと反比例するように慎二の胃はキリキリと痛み出していた。
 若衆が堂前組長に呼び出されることは滅多にない。というよりも呼び出されるときは笑顔になるほど良い話か、二度と笑えなくなるような話の二択なのだ。ちなみに海に沈められたときもまず堂前組長の家に呼ばれ、その後目隠しをされて連れて行かれている。慎二は必死に最近の良い功績を振り返ったが、事務所の汚いトイレブラシを使い捨てに変えたこと以外思い出せなかった。
「おぅ、入れや」
 インターホンからは村田の声が聞こえ、門の自動ロックが開いた。
「凄いですねこの家、うちの組ってこんなに稼いでたんですね」
「組長が竹原組におるときに建てた家やから、大方横領の金や言われてるけどな。しかしお前なんでそんなでかい家やと嬉しそうなんや」
「昔を思い出すんですよ」
 余計なことを聞いてしまったような、なんとも言えない気持ちになった慎二は聞こえないくらいの声で「そうか」と言い玄関のドアを自分の手で開けた。動物の剥製が両側に並んだ廊下を進むと武器庫の入口がある。その武器庫の中の螺旋階段を上がると堂前の部屋だ。
「変わった作りですね、自分の部屋と武器庫を繋げるなんて」
「竹原会長の教えや。敵に押入られても絶対に親の元までたどりつかれないよう、組員があらゆる武器を使って止めれるようにしろってな。竹原組の息のかかった各組長はみんなこうしとるし、部屋のどこかに必ず組員も知らん非常口を作ってるらしいわ」
 早くなっている鼓動に気づかれないため、慎二は健の顔を見ることなく質問に応え、足早に階段を登った。
「兄貴、なんか静かですね。もしかして早くなっている鼓動を僕に気づかれないようにしてますか?」
 文字通りの嫌なやつだ。自分が恥ずかしくなった慎二はふしゅっと鼻を二度鳴らし、健の質問には答えることなく堂前の部屋の扉の前に立った。
「オヤジ、失礼します」
「おぅ、入れや」
 村田のドスの効いた声が扉の向こう側から聞こえてきたのでドアを開けると、部屋の中は夏にも関わらず暖房が効いており、湿度も相当な高さに調節されていた。何より部屋のもう一つ奥の扉から時折聞こえる「ムアァァァァ」という叫び声が部屋全体をランボー2に仕立て上げんばかりの暑苦しさを醸し出している。その奥の扉の前で村田は壁にもたれかかりながら慎二と健を睨んでいた。
「オヤジは今、奥のトレーニングルームでウエイトトレーニングや」
 村田はいつも通りオレンジのセットアップで着飾っているが、脇や太もものあたりはにじみ出た汗で大きな黒いシミになっていた。部屋に入ってムァァァァを聞かされ続けることしばらく、とうとう村田のセットアップの黒く滲んだ脇の部分から汗が滲み出した頃に、堂前が奥の部屋から姿を現した。
「おう、来てたんかい。顔見るんは久しぶりやの、慎二」
 元経理業務のけの字もなく毛もないスキンヘッドに、今年還暦を迎えるそれとは思えないほどに鍛え上げられた身体。その筋の人間でなければ格ゲーのキャラクター以外ありえない風貌である、
「ご無沙汰しております、オヤジ」
「ご無沙汰しておりますやなんて、随分敬語も使えるようになったもんやな」
 堂前はカカカッと笑いながら、グラスを二つ取り出すとそこに氷を入れ、スコッチをなみなみ注いだ。
「まぁ付き合えや。俺は筋トレ後の一杯が好きでな」
 しばらくは堂前の自慢話が続き、全員少しづつ酒が回りだした頃、堂前は慎二の空いたグラスにスコッチを注ぎながら質問を切り出した。
「慎二、背中の龍は元気なんか」
 不意を突かれた慎二の酔いは途端にスーっと冷め、暑さからではない汗がドッと湧き出して来るのを感じた。
「背中の龍は元気なんか」
 堂前は怒っている時に返答がない場合、必ずトーンを変えずに質問を繰り返す。長年の付き合いがある慎二は重々承知していた。動揺した慎二が必死にこの場を乗り切る方法を考えていると、健は堂前に見えないよう慎二の右膝をこっそりトンっと叩き、慎二に対して目くばせをした。
 ーー大丈夫、僕に任せてください。
 そう語りかけてくれているように感じた慎二は、健に向かってコクと頷いた。いい弟を持って幸せだ、今までどれだけ長距離でも自分が運転してあげていてよかったと、慎二はそう感じていた。慎二の頷きを見た健は、すっと息を吐くと堂前に向かって膝をつき、頭を下げてこう叫んだ。
「申し訳ございませんでした! 今回の一件、兄貴は組長に対して死んで詫びる覚悟です!」
「そうか、さすが慎二やのぅ。わかった。」
 求めていた回答とは異なっていた。その場をしのいでくれると思って任せたら、たった2秒で死ぬことになるなど誰が予想できようか。いや、できないだろう。慎二は中学生で習った反語を初めて活用できたことに少し喜びを感じたが、すぐに現実に戻り動揺しながら健と同様地面に膝をつき言葉を発した。こうなるともうヤケである。「割引クーポンを手渡した健も責任を感じています。我々は兄弟同然、2人して組長のために死ぬ覚悟であります!」
「いや、健は関係ない」
 健は関係なかった。
「なぁ慎二よ、俺はな、お前が勝手に龍を彫ったことにはなんも怒ってへんねや。そんなもん勝手にしたらええ。せやけどな、俺には見やんでも分かる。お前の龍は泣いとんねん。俺の居場所はここじゃないって、泣いてんねや。わかるな?」
 優しく語りかけているように聞こえるが、堂前の目は全く笑っていない。
「ええか、龍は偉大なうちに殺すか、偉大なまま生かし続けるしかない。せやからお前はこれから、すぐに死ぬか生き続けるしかないんや、せやろ?」
「そう、、なんでしょうか」
 せやろ? と言われてもそうですと言いづらい理論である。
「ええか、龍は偉大なうちに殺すか、偉大なまま生かし続けるしかない。せやからお前はこれから、すぐに死ぬか生き続けるしかないんや、せやろ?」
「はい!そうです!」
 しかし二回言われると、慎二も返事をするしかない。同じ返答をしようもんなら殺される。先ほども言ったが堂前が同じ質問を二回繰り返した時の返答はYes or Dieだ。
「俺かてせっかく魂が吹き込まれた龍を殺すようなことをしたないねん。せやからチャンスをやるわ。慎二、2ヶ月で体重を増やせ」
「、、え? 体重?」
 急な謎提案に思わず、慎二は自分が聞き間違えをしたのかと勘違いをした。
「俺かてせっかく魂が吹き込まれた龍を殺すようなことをしたないねん。せやからチャンスをやるわ。慎二、2ヶ月で体重を増やせ」
 堂前が同じ質問を繰り返したが、さすがに今回はすぐにはいと返事はできない。「いや、オヤジ、体重増やせって言われましても、意味がよく分かりません」
 村田がスッと自分のグラスを持ち上げ、席を立ちがると、それを見た健も少し慎二から距離をとった。
「※※ab&α♩□※!!!!」
 バリンという音と共に慎二の頭に衝撃が走り痛みで膝から崩れ落ちた。堂前がスコッチのボトルを思い切り慎二の頭に振り抜いたのだ。堂前は二回質問を繰り返して返事がない場合、頭に血が上ってこんな感じになる
「※※ab→←↑▲α&□※!!!!」
 堂前が割れたボトルでもう一発慎二を殴ろうとしたところで、流石にその尖ったボトルで殴るのは危険だと判断した村田が堂前を押さえようとした。しかし堂前の鍛え上げられた筋肉は相当に強く、ガタイのいい村田すら押しのけそうな勢いである。村田は堂前の右手を両腕で掴んで必死に押さえながら健に言った。
「健! このアホはオヤジの言うてる意味がわかってない! 意図を話せ!」
「はい! 組長は最近筋トレにハマっていて、極道に最も必要なのは筋肉だと感じておられます! 兄貴が龍に見合った男になるためには昇進が必要であり、そのためにはまず筋肉をつけて体重を増やし、極道らしい強い身体を作るべきだと、オヤジはそう考えておられます!」
「その通りや」
 健に意図を汲み取ってもらった堂前は落ち着きを取り戻し、ソファーに深々と座り直した。慎二は心の底から、それを理解するのは無理だと感じていたが、流石に口には出せなかった。
「せやから慎二、体重を増やせ。筋肉でな。分かったな? できんかったら鉄砲玉や。せやから慎二、体重を増やせ。筋肉でな。分かったな? できんかったら鉄砲玉や。せやから慎二、体重を増やせ。筋肉でな。分かったな? できんかったら鉄砲玉や」
「は、はい」
 抵抗の余地のない質問方法だった。

005

 慎二と健はアルコールを抜くために、外を散歩していた。
 飲酒運転ダメ絶対
 これは竹原組が定めた鉄の掟なのである。
「しかしお前、よくオヤジの意図理解できるな。あんなん無理やろ」
 慎二は長年愛用しているキラキラしたほっそい煙草に火をつけた。深く息を吸い込む度、頭の傷が痛む。
「いや咄嗟でしたよ。僕もびっくりしてましたから。まぁでも兄貴があの場で殺されずに済んで僕は嬉しいです」
「いやお前、俺に死をもって償わせようとしたやんけ」
「あの場で言い訳するよりいいかなと思ったんですよ」
 確かにあそこで慎二がまず口を開いたとして今以上に良い展開になることも想像できなかったので、ある意味結果オーライの展開ではあった。
「兄貴、これからどうするつもりなんです?」
「そら筋肉つけろ言われたら、とりあえずジムに通うしかないわな」
「それやったら、僕の父が生前経営してたジム紹介しますよ。父が亡くなってからも現社長とは付き合いありますし、何より入会審査に引っかかることはありません」
 健の言う通り、最近は暴力団排除の流れが一層強まっており、少しでもその疑いがある場合はあらゆる場所で拒絶されてしまう。そのため最近の極道は建設業界や飲食業界の顔も持つのだが、堂前の意向で古典的なスタイルを貫き続ける堂前組はそれがない。
「そうか、ほな頼むわ。ついでにロッカー借りれるようにしてくれや。あとウェアも靴も全部レンタルにしてくれ。毎回持って行くのめんどいから」
「わかりました、月3000円くらいプラスになると思うんで、まず村田のカシラに許可取りますね。経費で落とすことになると思うんで」
「……俺荷物多いの大好きやったわ。思い出した」
「わかりました」
 ただでさえ頭が痛む状態で、村田にどやされるのはごめんだ。あの男は武闘派ではあるがとてもケチで有名でもあり、その辺りが経理出身の堂前の信用を買っている部分でもある。ジムに通うだけでも文句を言われそうなのに、月々3000円プラスになると言ったら、3000円分殴る(1時間1000円として3時間)と言い出しかねない。
 2人のアルコールが抜けた帰り道、順調に進んでいた車は交差点の手前で事故渋滞に捕まった。
「健、見ろや。車がビルに突っ込んでるわ。抗争ちゃうか」
「ダンプならまだしも、軽自動車ですよ。あんなんで突っ込むアホおりませんて。運転ミスでしょ。」
「わからんぞ、大事な人の身守るためには、軽自動車で突っ込むこともあるかもしれん」
「命にストックがあるって分かってないと、僕ならやりませんね。あの車の運転手、絶対死んでますよ」
「ま、お前はそうやろな」
 慎二はカカカッと笑いながら、健の右肩をポンと叩いたが、健は笑うことなくじっと包帯を巻いた慎二の頭を見つめていた。
「そんな目にあっても、オヤジや村田のカシラのこと嫌いにならんのですか?」
 不意な質問に一瞬困った顔をした慎二だったが、またカカカッと笑うと
「殺されかけたことはあっても、裏切られたことはないからな。今回のことも、俺の昇進のこと考えてくれてるんやろ」
 と言って照れ臭そうに前を向いたが、健は変わらず慎二を見つめたまま、絞り出すように声を出した。
「……ほんまにそう思ってるんですか?」
 見ると、健は少し怒ったように震えている。
「前にも言いましたが、兄貴は組にとっては難しい立ち位置です。創設当初からのメンバーですが、年齢と経験は途中で吸収した他の組の人間より若く、実績もそこまで残せていない。でも竹原組の教えとして外様より生え抜きを大事にしろという教えがある以上、簡単に外様にポストを与えるわけにはいかない。だから今回オヤジは、何がオヤジや! 堂前は、兄貴の刺青問題を利用して、鉄砲玉として殺すええ機会にしようとしてるんです! そこに親としての愛情なんかあらへん! 考えたら分かることやないですか!」
「……降りろ」
 慎二はいつもの数倍ドスの効いた声で、慎二に睨みを効かせながら言い放った。「兄貴」
「ええから降りろ、渋滞で車が動きださんうちに」
 慎二のいつもとは違う表情に驚いたのか、健はそれ以上何も言い返さず、助手席を降り、止まっている車の間を抜けて歩道へ向かった。健が歩道にたどり着いたのを確認すると、慎二はギアをPからDへと動かした。そして、
「うぉぉぉぉぉらぁぁぁぁ!!」
 クラクションを鳴らしながら動かない二車線の間を強引に突き抜け、横断歩道の手前で左折すると、事故現場になっている建物に向けてアクセルをベタ踏みし、衝突している車と同じように自分の車を思い切り建物に向けて特攻した。
「ぐあっっっ!!」
 とてつもない衝撃が慎二の全身を襲う。足首が痛い、太ももが痛い、上半身はエアバックでポフポフ、頭はおそらく堂前に殴られた傷がまた開いて出血しているのかぬるい液体が頬をつたって気持ち悪い。慎二は意識があるうちにと車のキーをひねってエンジンを切ろうとしたが、衝突の衝撃で破損したのかエンジンは勝手に切れていた。
「あーあ、まだ買って1ヶ月しか経ってへんのになぁ」
 慎二は今自分が言葉を発したのか、頭の中で言葉を浮かべただけなのか、それすらも分からなくなっていた。とにかく脱出を試みようとは思っているのだが、エアバックに包まれていて身動きも出来ない。
 声が、走ってきた。
「兄貴! 兄貴! あんた何してるんですか! 兄貴!」
「見てみぃ健、無傷や。最新のエアバックや、やっぱり高級車は……違うわ」
「こんな時に何言うてますねん、全身血だらけですがな」
「健、これで分かったやろ。俺はな、死なへんねん。せやからオヤジを疑う暇があったら、まずは俺を……信じてくれや」
 健はクッと唇を噛み締め、身体をプルプルと震わせると、
「……はい!」
 と大きな声で返事をした。健にしては珍しい、威勢のいい返事だった。
「なんやお前、泣いてんのか。こんなことで泣いてたら男がすたるぞ。ええな、男というのはな、嬉しい時にだけ泣いたらええねん。もし悲しいことがあっても……」「兄貴、」
「なんや。」
「多分血で目がぼやけてはるんやと思うんですけど、僕、泣いてはないです」
「……いや、ここは泣くとこやろ」
 慎二は気を失った。

006

「兄貴がこれから通うジム、ロウリュウサウナがあるらしいですよ。今流行りの」
 助手席の健がスマホで調べた画像を見せるが、元画像が小さくてよく見えない。「なんじゃいロウリュウって」
「熱々のサウナ石に水をかけて、蒸発した湯気を係りの者がうちわで扇ぐんです」
 言われてみればリアクション芸人が騒いでいるのをテレビで見たことがあるような気がした。しかしサウナが元々好きではない慎二は、なるほどねと素っ気のない返事をして運転に集中した。
「音楽かけてくれや、俺の好きなプレイリストのやつ」
「この車ブルートゥース対応してませんよ」
 せっかくの話題提供を素っ気なく流された健が、今度は冷めた口調で慎二に返答した。
「なんじゃい! これやから代車は嫌いなんや。二日ぐらいで直せや!」
「そら無理ですよ、あんだけの衝撃受けて、修理できるだけラッキーですよ」
「そういうもんかね」
 慎二のあの事故、というか特攻、というか奇行は、あのビルの所有会社の親元が健の父親が創設した会社だったおかげで事件沙汰にならずに済んでいた。その際慎二は健に対して、会社に礼を言わせてくれと頼んだのだが、健は
「大丈夫です、本当に大丈夫です、本当に。べ、別に兄貴みたいな人と普段一緒にいることが恥ずかしいわけじゃないんだからね!」
 と動揺して間違ったツンデレを発揮しながら慎二の礼のお願いを断り、
「それよりも、ジムの入会準備がとっくに整っているので、身体が大丈夫なら向かいましょう。今日から本当の勝負が始まりますよ」
 と言って強引に代車へと誘導した。出会った頃から健は自分の話をしたがらないことは知っているし、聞こうとすると変なキャラ振れを起こしてしまいめんどくさいので、慎二はそれ以上踏み込みはしなかった。
 健に案内されたトレーニングジムは、想像以上に内観が整っていた。ロッカーもレンタルウェアも健の交渉のおかげで今回は特別に無料になっており、マッサージチェアも大量に設置されたこのジムは、日頃ボロアパートに健と二人で住んでいる慎二にとって快適の極みだった。肝心のトレーニングはというと、ダンベルを持ち上げようとすると腕の傷が痛み、スクワットをすると足の傷が痛み、当番の女性インストラクターの名字が元カノと同じで胸が痛んでしまったので、結論何の進展もなかった。「健よ、さっきネット広告で見たけど筋肉を写真に合成できるアプリがあるらしいぞ。これじゃアカンかな」
 更衣室のマッサージチェアでモミモミしていると健が帰って来たので嬉しそうに画面を見せると、健はため息交じりに
「せめてアプリよりサプリ調べてください」
 と言ってプロテインを飲んだ。健はこの数時間で充実したトレーニングをこなしており、もともと鍛え上げられていた筋肉がパンプアップによって今にも踊り出しそうなほど盛り上がっている。
「兄貴、筋トレは明日から僕が強制的にやらせるとして、とりあえずサウナ行きませんか? 今日はロウリュウの日らしいんですよ」
 熱いもの全般が苦手な慎二は露骨に嫌な顔を見せたが、健があまりにもしつこく誘うので、
「まぁ根性を鍛えるにはええかもな。付きおうたるわ」
 と渋々了承し、大浴場を真っ直ぐ通り抜けてサウナに向かった。扉を開けるとロウリュウはまだ始まっておらず、それどころかサウナにはほとんど客はいなかった。「なんやガラガラやんけ、人気ないんちゃうか、その黄竜とか言うの」
「勝手に中国の伝説の生き物みたいにせんといてください。ロウリュウですよ、ロウリュウ。あ、あそこにお一人いらっしゃいましたね。ちょっと今日ロウリュウがあるか聞いてみま……」
「待て!」
 慎二は奥にいる客の元に向かおうとする健を静止し、その場でじっとその男の方を見つめた。
「ど、どないしたんです兄貴」
 どうやらこの辺りの能力に関しては、まだ自分の方が健より優れているらしい、と慎二は思った。慎二はあの男から溢れ出るただならぬ極道のオーラを一瞬で感じ取っていたのだから。
「ワレ、どこのもんじゃい!」
 慎二が男に対して声を張り上げると、男は頭からタオルを被って下を向いたまま、慎二に返答をした。
「背中におるんは、龍か? いやぁ龍には見えん。それはトカゲか。いつでも逃げれるトカゲや、そうやの?」
 この距離で、しかも正面から自分の背中が見えるわけがない。適当に刺青をバカにされたと思いカッとなった慎二は一層声を張り上げた。
「ガタガタ抜かすな! 先に質問しとるんはこっちや! 俺は堂前組若衆、清原慎二や!」
「堂前組、確かそんなチンケな組が竹原のとこからできたとか、できへんとか、昔聞いたのぅ」
 ニヤニヤとした返しにいよいよ血が上った慎二は
「ナメた事ばっかり言いやがって、しばいちゃらぁ!」
 とその男に向けて走り出すと
「待てや!」
 とその男の声に足を止めた。いつもならそんな声は物ともしない慎二だったが、今日に限っては自然と足が止まってしまった。
「郷に入れば郷に従え。サウナで俺が買う喧嘩はサウナだけや。俺が見込みがあると思ったら名乗ったるわ慎二君。まぁ座れ、怖いんやったらもうちょい離れててもかまへんで」
 今すぐにでも殴り飛ばしてやりたかったが、慎二にはそれができなかった。それどころか男のオーラと気迫に押されてしまい、その男が指差した場所より少し離れたところに座ってしまった。少しして扉が開き数人のスタッフが入ってくると、まずはあの男に向かって深々と頭を下げた。どうやら常連らしい。スタッフがストーブの上に熱したサウナストーンを置き、その上からアロマ水をかけると、まるで肉汁が滲み出た鉄板のようなジュワァァという音が響きると共に部屋の温度は一気に上昇した。気温が熱いのも辛いのだが、湿度が上がっていることにより、息を吸うととんでもない熱気が気管にまで入ってくるのが一層苦しみを増加させる。
「兄貴、あの男なんですか」
「熱っ。知らん、せやけど只者やないのは確かや。熱っ。」
「サウナで勝負って、兄貴熱いの苦手ですやん」
「熱っ。我慢なら負けへんわぃ。しかしこのロウリュウってえぐいな。こんなに熱いんか。熱っ。」
「いやここからです。これからスタッフが熱した蒸気を団扇で僕らに向かって扇ぎます。体感温度は100度を超えるそうです」
 え、という慎二の顔に向かってスタッフが団扇を扇ぐと、まるで火の塊のような熱気が慎二の皮膚にまとわりついた。
「あっっっっつ!!」
 思わず顔を手で払うが、もちろん熱気は固体ではないので何も変わらない。そんな慎二を見た男はゴハハと大笑いしていた。
「なんや慎二君、ロウリュウは初めてかいな。辛いんやったら逃げ出したらええ。トカゲの君にはお似合いや」
 熱さも暑さも苦手な慎二は正直今すぐにでも水風呂に入って気持ちよくなりたかったが、それは男として絶対に許されなかった。その気持ちの表れとして慎二はスタッフからアロマ水の入ったバケツを奪い取り、サウナストーンに一気に全部をぶちまけた。
 ジュオォォォォ!!
 ジュオォォォォ!!
 魔物の鳴き声のような音をたて、猛烈な量の蒸気に包まれた室内の温度と湿度は、通常のロウリュウをはるかに上回っていた。
「何しとんねん!はよ俺に向かって扇げや!」
 慎二がスタッフに怒鳴ると、彼らは心配そうに大きな団扇を慎二に扇いだ。部屋の中の蒸気は異常な量になっているため、先ほどは顔だけだったが今回は全身を熱気が襲う。
「あっつぁぁぁぁ!! うわぁぁぁぁ!!」
 もはや自分はグリルで焼かれているのでは、そう錯覚するような熱が身体を包む。「ほう、やるやんけ慎二君。おい、アレ二台持って来いや。」
 男がスタッフに声をかけると、スタッフはすぐに部屋を飛び出し、そして大きな扇風機を二台持ってきた。
「スタッフと、その隣の兄ちゃんは出とけ。死ぬぞ」
 男の発言を聞いて心配そうに慎二を見つめる健だったが、慎二が手でグッドラックのサインを作ったのをみて、クソダサいことをやれる余裕はあるなら大丈夫だと信じて外に出た。
「慎二君よ、ここから先は、死んでも知らんぞ」
「お前こそ、干からびて死ねや」
「威勢がええ奴は嫌いやない。ただ背伸びはええが、身の丈は超えるなよ? 地に足が着かないようになったら、それは無謀やぞ。ほれ!」
 男がスイッチを押すと大型の扇風機は大きな音を立てて回転を始めた。
「あ、あがっっ、がっ!!」
 その途端に、慎二の全身、いや扇風機になったことにより渦状に細かくなった風が、口の中、鼻の中、目の中と、表面だけでなく身体の内部まで焼き尽くす。
「あぐっ!がっ!あが!」
 声帯まで焼き尽くされたような感覚で、慎二は全く言葉が発せない。男も先ほどより少しキツくなったのか大量の汗はかいているが、それでもまだこちらを見て笑っている。それどころか、ストーブの上に置かれたサウナストーンを掴んで肩に乗せ、そこに直接アロマ水をぶっかけた。
「おぉ、これは流石にきついのぅ」
 ーーバケモンや……
 慎二はこの男とたった2人きりの空間にいることに、途端に恐怖を実感し始め、もはやこの熱い中で寒さすら感じていた。そして段々と脱水と痛みによって、意識が遠のいていく。
「慎二君よ、なんでワシが君の背中を見ずに龍がいることをわかったと思う?」「……」
 もはや慎二は返事をすることすらできない。
「なんじゃい、情けない奴やのぅ」
 男は慎二の目の前まで迫ると慎二の髪を掴み、自分の後ろへ放り投げた。
「うぐっっっ!!」
 激しい音と共に、慎二の身体が床に打ち付けられる。朦朧とする意識の中、目を見開いて前を見た慎二は息を飲んだ。
 激しく勇ましく、いつ飛び出してもおかしくない本物の龍が、そこにいたのだ。「龍と言うのは、互いに共鳴するんや。お前もワシを最初見たとき、何かを感じたはずや。だからワシもお前に気づいた。しかしお前に感じる共鳴は、あまりにも弱かったから、何かの間違いかと思ったけどな」
 そう言ってゴハハと笑うと、男はまた石を直接肩に乗せ、アロマ水をかけた。音を立てて湧き出す蒸気が、慎二には龍の口からこぼれる火粉のように赤く見えた。でも、それでも、慎二はこのまま意識を失うわけにはいかなかった。こんなところで死ぬわけにはいかなかった。
 自分で仕掛けた喧嘩は、死ぬまで負けてはいけない。
 それが極道の自分と果たした約束だから。
「おらぁぁぁぁぁ!!」
 立ち上がった慎二はサウナストーンを両肩に乗せ、同時にアロマ水をかけた。
「ほう、まだやれるか」
「あぁぁぁぁのぁぁのぁ!!」
 もはや熱さではない、ドリルでえぐられたような痛みが、両肩から全身へと伝わり、そして慎二は床に倒れた。かろうじてまだ意識はあったが、慎二はもう指先一つまともに動かせる自信がなかった。
 パチパチパチと、音が鳴る。
「ようやった。最後の最後にそこまで根性出せる奴はなかなかおらん。いつもなら組員に言うて帰り際に襲撃させるんやが、お前は意外と見込みがある」
 そう言うと男はサウナの段差の一番上に登り、慎二に向かって大声をあげた
「扇山連合若頭!中畑龍義!」
 止まった心臓ですら動かせるのでないかと、そう思うほどの大声は意識を失いかけた慎二の耳にもはっきりと届いた。
「ワシの名前や、よう覚えとけ」
 名前を言い終わった中畑は、去り際にあと一回だけなら喧嘩は受けたると言いながら扉を開け、サウナを後にした。

007

 慎二が目を覚ましたのは、その1時間後のことだった。
「兄貴、お目覚めでっか」
 弟分の健が、団扇で扇ぎながら愛想なく声をかける。
「熱っ! 熱っ!」
 団扇を見て思わず慎二は反射的に声を上げて飛び起きたが、本来団扇で扇いでもらっていて、熱いわけがなかった。
「兄貴、変なトラウマ植え付けられてますやん」
 全くその通りだった。身体の下には保冷剤が敷かれており、熱は既に冷めているはずなのだが、それでもまだ身体が炎で包まれているような気がした。
「おはようさん、エライ目に合うたわ」
「そうですね。あのまま放っておいたら、命も危なかったみたいですよ」
 健の話では、中畑が出た数分後におそらく扇山連合の若衆と思われる人間が数名慎二の元に駆け寄り、応急処置を施したらしい。そしてわざわざ運転までして家まで送ってくれたらしい。
 慎二は、中畑と二人きりになってからの経緯を健に話した。
「それにしてもあの男が、まさか扇山の若頭やったとは驚きですね。扇山連合言うたら、今やうちの本家竹原組と関西二大巨頭と言われる大組織です。兄貴もエライ奴に絡んだもんですね、よく殺されずに済みましたよ。ほんま……」
 ほんま、の後にはもうちょっと考えて喧嘩売ってくださいよという言葉が修飾されているのだろう。しかしながら慎二も自分なりに必死の奮闘を見せたのだから、弟分ならもっとこう、まず労うような言葉があってもいいものじゃないかと寂しく感じた。改めて、健に対してもう少し忠誠心的なものを見せてもいいのではないかと思う日々だった。
「もう少し忠誠心的なものを見せもいいのではないかと思う日々なんやわ」
 やはり慎二は思ったことを我慢できない。
「兄貴の身が、大事ですから」
 健は保冷剤を巻いていたタオルを洗濯物入れに放り込むと、そそくさとコインランドリーへ向かった。
 慎二はほんの少し、身体の痛みが和らいでいくのを感じていた。

008

「兄貴……俺もうダメかもしれません」
「健、諦めたらそこで試合終了やぞ……ケンシロウも言うとった」
「漫画間違えてます。ケンシロウは……死亡宣告しかしてませんよ……」
 健が床に突っ伏して動かなくなる。
「健……畜生、こんなはずやなかった。こんなはずやなかったんや。畜生、畜生!!」
 健の意識もいよいよ限界を迎えたその時、強引に扉が開いた。
「警察だ!!」

 〜数時間前〜

「七輪で秋刀魚を焼けぃ!!」
 慎二はボーッと昼ドラを見ながら煙草を吸っている健に向かって、大きな声で叫んだ。
「認知症ですか? 昼飯はさっき食べたじゃないですか」
「アホ抜かせ、ツッコミはしてもまだボケてたまるかい。奥に組のバーベキューで使った七輪が何個かあったやろ。それで魚を焼け言うとんのや」
「なんのために」
「物分かりの悪いやっちゃのう、決まってるやろ! 中畑との勝負に勝つためや! サウナで負けたのは熱さにやられたこともあるが、何より大量の蒸気を吸い込んだことにより内臓がびっくりしてうまく動かなくなったことがでかい。」
 そこで水蒸気よりも苦しくなる、魚を焼いた煙をたくさん吸うことで、水蒸気なんてちっとも辛くないと感じる身体を作るというのが、慎二の発想である。良い子はマネしないでほしい。
 慎二に命令された健は渋々市場に秋刀魚を買いに走り、ダンボール一箱分の秋刀魚を担いで帰ってきた。
「多いな。こんないらんやろ、秋刀魚」
「なんか最近気候の変化で夏やのに秋刀魚がぎょうさん捕れるそうで。おっちゃんがオマケしてくれました」
 確かにどれも目の色が鮮やかで骨太な、秋の秋刀魚のようだった。二人は早速七輪に炭を敷き、着火剤を使って火をつけ、網の上に秋刀魚を置いた。バチバチと燃え出した炎は、太った秋刀魚の豊富な脂によってすぐに大きくなった。
「おい、せっかくや、食おうや」
 慎二は健に箸を渡し、二人で秋刀魚をつついた。
「お腹いっぱいでも、美味いっすねこの秋刀魚」
「せやな、脂が乗ってて、痛っ!」
 骨太秋刀魚にはこれがある。身も大きいが骨の一本一本もしっかりしているため、無理に飲み込もうとすると舌に刺さってしまうのだ。慎二が口に指を入れて痛がりながら必死に骨を探していると、健が珍しくフフッと笑った。
「なんか最近兄貴、痛がってばっかりですね」
「ここんとこ、こんなんばっかりや、極道らしぃてええやろ」
「僕は痛いの嫌いですから、見てる分には」
 カカカッと慎二が笑うと、煙の向こうでカッという笑い声が聞こえた。ちなみに部屋はもうかなり煙が充満しており二人ともお互いの姿はよく見えていない。
「なんや、俺の真似か。立派やないの」
「兄貴こそ、堂前組長の真似やないですか」
「でかい男になりたいからな。当時の俺にでかく写ってたのは堂前組長くらいやったから、少しでも近づこうとしたんや」
「こんだけ一緒におらされたら、そらちょっとは癖も移りますわ」
 確かにな、と言いかけたところで煙の向こうからバタンと人が倒れた音がした
「おい、健、大丈夫か。」
 健の息遣いは荒く、時折ヒューヒューと喉ではなく気管から音が鳴っている。慎二は急いで健を助けに行こうと立ち上がったのだが、その時自分の身体にも異変が起きていることに気づいた。身体が震え、視界がボーっと白くなる。シノギが違うのでやったことはないが、薬物もこんな感じなのだろうか。高校生の時からシンナーよりもおっぱい、がスローガンだった慎二にはハイになる感覚なんて分からなかった。そういえば、あの時シンナー狂いだった親友の本木くんは元気なのだろうか。野球部でエースピッチャーとしてシンカーを投げ、休み時間はシンナーを吸っていた本木くんは……
 慎二はハッと我に返った。妙に昔を思い出すのは死の兆候だ。
「健! 生きてるか!」
 慎二は懸命に声を張り、呼びかけた。
「兄貴……俺もうダメかもしれません」
 弱々しい健の声が、かすかに聞こえる。なんとか助けてやりたいのだが、慎二も身体が動かない。
「健、諦めたらそこで試合終了やぞ……ケンシロウも言うとったやないか」
「ケンシロウは……死亡宣告しかしてませんよ……」
 健の声が聞こえなくなる。
「健……健!! 畜生、こんなはずやなかった。こんなはずやなかったんや。畜生、俺らの身に何が起きてるんや!」
 健の意識もいよいよ限界を迎えたその時、強引に扉が開いた。
「警察だ!!」

 

 結論として、慎二と健は大家さんに合計15発殴られた。健は平手で2発、慎二は拳で13発殴られた。13発というのは村田からの11発を超える新記録である。「出て行け外道! 住人全員殺す気か!」
 怒り狂った大家は二人に塩をまき、慎二と健は今日を持って家を追い出された
「得たものは無く、失ったものは大きいですね」
 健はまだ気管支がおかしくなっており、救急隊員から渡された吸引機をコシュコシュしている。
「得たものといえば健よ、これは勝利の女神が与えた恵みやと思わんか?」
 慎二は空に向かって両手を広げ、嬉しそうに健をみた。
「どういうことです?」
「この炎天下こそ、地球というトレーニングジムが用意したサウナやないか! なんぼ鍛えていると言うても中畑は若頭や。日中はクーラーの効いた部屋でヘロヘロ涼んどる、1ヶ月も野宿して勝負に挑めば、暑さにも熱さにも俺の方が慣れとるに決まってる!」
 慎二の発言を聞いた健は、指名した22歳女子大生風俗嬢の口コミを見ていると、実は50代巨漢であることを知った時。のような気持ちになっていた。
 絶望である。
「そのホームレスに……僕も付き合えと?」
「当たり前や兄弟」
 慎二はカカカッと笑った。

009

「意外と早かったのぅ。別に5年後でもよかったんやでぇ?」
 マッサージチェアにドッシリと座り、若衆に涼しい団扇を扇がせながら、中畑は慎二達の方を向いて笑いかけた。
「当たり前じゃ! あれからどんだけ辛い思いしてきたと思っとんねん! 一泡どころか、口から泡風呂沸かしたるわ!」
「泡風呂か、ええな。ソープランドやと思って、お前らにはもてなしてもらおうかのぅ」
「何がソープやねん、オークみたいな顔しやがって! こっちはな、どんだけ辛い思いしてきたと思ってるんじゃ!」
 中畑は改めて慎二に真っ直ぐ身体を向けると、少し困った顔で話しかけた。
「なんや、今日はツレがよう喋るやないか」
「いろんな意味で色々溜まっとるみたいやわ、堪忍な」
 慎二も少し困った顔で中畑に向かって両手を合わせた。健は中畑だけでなく四方八方に「どんだけ辛い思いしてきたと思ってるんじゃ!」と叫びながら歩いてロッカーに向かった。

 この1ヶ月、温室育ちの健にとっては地獄だった。そもそも堂前組に入って慎二と住まされたことすら最初は気絶ものだった。潔癖症の健にとっては自分のテリトリーを犯す慎二そのものが埃みたいなものなのだ。そしてやっと慣れてきたところに、1ヶ月のホームレス生活である。下記が、この1ヶ月で健が辛かったことランキングトップ5だ。

5位 起きたら蚊に122箇所刺されていた
4位 飲んでいた缶ビールに知らない間にゴキブリが侵入していた
3位 自慢の白い肌が全て日焼けで剥がれて炭色になった
2位 起きたらほっぺにうんこ
1位 最近小学生の間で流行っているドブネズミというあだ名が自分のことだった

 実を言うと健は何度か寝ている慎二の頭を大きめの岩でかち割ろうか考えたのだが、健はなんとかそれを堪えてきた。この日のために。この日の勝負に慎二が勝つために。
 中畑、慎二、両方がサウナに入る。中畑は前回と同じ三段目の奥に座り、慎二は中畑の真横に座った。
「少しは自信つけてきたようやな、慎二君」
 中畑はゴハハと大きな声で笑い、そして目つき鋭く叫んだ。
「今回の勝負に制限はない。慎二ぃ、お前の龍が本物か、俺に見せて見ろや!」
「望むところじゃ中畑! あの世で俺の名を過去の扇山連合全員に広めろや!」
 ドア越しにみている健には、慎二の龍が、ほんの少しだけ大きくなっているように見えた。

010

「おい、もう何時間や」
「時間どころやない、もう丸一日や」
「そろそろ止めないと、二人ともほんまに死んでまうで」
 扇山連合の若衆が心配そうに扉の向こうを見つめている。若衆の言う通り、既に勝負が始まってから25時間が経っていた。その間健も一切食事を取らず、排泄もせずに、慎二をただひたすら見つめている。ただ一日飲まず食わずうんこせずの状態でもこんなにキツイのだから、中にいる中畑と慎二の疲労は想像もつかない。
「慎二ぃ、お前今意識失っとったやろ。ええんやで、ギブアップせぇや」
「やかましわオッサン、退屈すぎて寝とったんじゃ」
「そうか、退屈か。それなら……これでどうじゃい!」
 中畑は慎二の両肩にストーブで焼かれたサウナ石を直接乗せ、思い切りアロマ水をぶっかけた。
「ぬぅぅぅぅいぃぃぃごぉぉぉ!!」
 皮膚は直接的に激しく痛み、体内からは今にも皮膚を突き破りそうな激しい熱気が、疲れ切った慎二を襲う。
「オッサンこそ、死ねやぁぁぁ!!」
 慎二も負けじと、大型扇風機を高速に設定し、中畑の目の前まで引っ張った。
「ぐふうぅぅぅ! 身体が溶けてなくなりそうじゃい」
 口ではそう言っているが、慎二の目には中畑が自分よりも余裕があることは分かっていた。蒸気が中畑の身体中を覆えば覆うほど、まるで中畑が醸し出すオーラのように見え、慎二の心が折れそうになる。
 ――このままやと、やられてまう。
 自分の限界がもうすぐだと感じていた慎二は、最後の一手に出ることにした。それは健には絶対やらないようにと言われていた、命がけの策だった。
「すまんな健、やるしかないわ」
 慎二はそう呟くと、ストーブを囲っている木の柵を壊し始めた。
「なんじゃい、気でも狂ったか」
 中畑の言葉は気にもかけずに慎二は柵を壊すと、慎二は自分にアロマ水を大量にかけ、ストーブに思い切り背中をくっつけた。
「ぎぎぎぎぎぎぎがぁぁぁぁ!!」
 いつも聞いていたジュワーという石が焼ける音、それが全く同じ音を出しながら、自分の背中を焼いている。気を失うことができればどれほど楽か、そんな激痛が慎二を襲う。
「な、なにする気やお前」
 流石の中畑もこれには動揺したのか、今までにはない混乱した表情を見せている。慎二は円柱状になったストーブを背中に押し当てたまま、腰を曲げておんぶするように担いだ。
「ぎ、、ぎ、、!!」
 もはや背中の痛みは、声を出すことも苦しくなるほどになっていた。普通ならここで意識を失っていたかもしれない。だが慎二には、1ヶ月炎天下でひたすらアスファルトの上を寝転がり続けた経験がある。慎二は担いだ状態で一歩一歩中畑の元へ歩いていく。
「知ってたか中畑、昼間のアスファルトはな、65度以上になるんや。知ってたか中畑、秋刀魚を焼いたら一酸化炭素中毒になるんや、知ってたか中畑……」
 近づいて来る慎二を見て、全てを察したのか中畑はアロマ水を自分の全身にかけ、背中を向けた。
「えぇ度胸や、全部受け止めたるわ!! かかってこいやぁぁ!!」
「龍を背負えるのは、この世で俺だけなんじゃぁぁぁ!!」
 慎二は円柱のストーブを自分に押し当てたまま、もう反面を中畑の背中に思い切り押し付けた。
「うぉぁぁぁぁぁがぁぁらぁぁ!!」
 慎二と中畑、二人の気迫の大声は、サウナを飛び越して館内中、いや向かいのミスタードーナツまで響き渡っている。二匹の龍がストーブに焼かれ、大量の蒸気がサウナ中を包んだ。
 異様な叫び声に、健と扇山の若衆もドアの前に駆け寄る。
「おい、どっちかが中で倒れてるぞ! 入って助けな!」
「こんな熱気の中入れるかい! 普通の人間やったら死んでまう!」
 若衆がモタモタとしたやり取りをしている中、一人の若衆が蒸気を指差した。
「なんやあれ、龍か?」
 幻影か、妄想か。それでもここにいる全員にははっきりと、蒸気が2匹の龍の形になり、一匹が消え、そして一匹がこちらを見て、大きな声で吠えたのが見えていた。「兄貴の……龍や……!!」
 次第に蒸気が消えて、前が見えるようになったそこには、床にうつ伏せになった中畑と、仁王立ちの慎二がいた。
「兄貴!! 兄貴!!」
 健は急いで駆け寄ったが、返答はなかった。慎二は、立ったまま気を失っていた。

011

「お目覚めでっか」

 気を失っていた慎二は、声をかけられて目を覚ました。しかし目の前にいるのはいつものように健ではなく、中畑だった。
「なっ!!」
 慎二が飛び起きて身構えると、中畑はゴハハと大笑いした。
「安心せぇや。勝負の後に手を出すような負け惜しみ、ワシがするかい」
 負け惜しみ、という言葉を聞いて初めて、慎二は自分が勝ったことを知った。ストーブを背中に押し当てたことまでは覚えているが、正直それ以降は記憶にない。
「ストーブ……健! 俺の背中どうなってる!」
  健は慎二に微笑むと、
「大丈夫です、ちゃんといてますよ、立派な龍が」
 と頷いた。鏡で確認すると全身は火傷で真っ赤に爛れているがいるが、驚くことに龍だけはくっきりと残っており、むしろ勝負の前より色が濃くなっているように感じた。
「当たり前や、ワシの龍の生気を吸うたんやからな」
 中畑が慎二に背中を向けると、これもまた驚くことに龍の首から上が、完全に火傷で消え、むしろその周りの皮膚は綺麗に残っていた。
「中畑……すまん」
 慎二は咄嗟に、中畑に詫びを入れる。
「アホかお前は! 謝られるほど惨めなことがあるかい! お前はこのワシに勝ったんじゃ! お前になら殺されても文句は言わん!」
 中畑はゴハハと笑い、慎二に手を差し出した。
「組織は違えど、ワシらは兄弟同然や! 困ったことがあったら何でもいうてこい!」
 もし自分がこんな年下の人間に負けて、同じことを言えるだろうか。負けを隠さず負けだと認められるだろうか。そう思うと中畑の偉大さにはやはり圧倒されるものがある。それでもこうして認められたのだ、今だけは中畑のこの寛大さに甘え、己の勝利に酔いしれたい気持ちだった。
「おおきに! 兄弟!」
 慎二はカカカッと笑った。

012

「※※ab&α♩□※!!!!」
「※※ab&α♩□※!!!!」
「※※ab&α♩□※!!!!」
 今、慎二は記録を更新している。しかも遥かに更新している。23、24、25……前回の記録は大家さんの13発だった。組長の堂前は今もなお慎二を殴り続け、記録を更新している。
 サウナでの戦いに命をかけた慎二の体重は、この2ヶ月で減少した。びっくりするほど減少した。組長の堂前がわざわざ服を脱がすことも体重計に乗せることもせずブチギレているのだから、もう目で見て一瞬でわかるほどに激痩せしていた。毎日毎日炎天下サウナで汗を流し、勝負の日においては丸一日以上サウナにいたのだから、当たり前のことだった。慎二は堂前に命を賭けられていることを完全に忘れて、命を懸けていた。
 村田も今回ばかりはどうしようもできないと言った状況で、慎二を見ていたし、健も今回ばかりは忘れていたなぁという顔をしていた。慎二がこういうことをやってしまうことは珍しいことではないのだが、問題は今回堂前は本気だったというところである。
「はぁ……はぁ……慎二ぃ、お前そこまで俺のことナメくさってるとは思わんかったぞ。増やせないならまだしも、まさかガリガリで俺の前に姿を表すとはな!」
 堂前はもう一発慎二を殴ると、机の引き出しからチャカを取り出し、慎二に差し出した。
「約束通り、お前は鉄砲玉じゃい! 死んで男あげてこいや!」
 もはや止む無し。慎二はそう感じていた。それだけの価値ある勝負を繰り広げたつもりだったし、あの勝負を無視するくらいなら死んだ方がマシだった。極道生活7年、ついに出世か死かの瀬戸際である。ある意味遅いくらいだ。そう大きく構えていた慎二だったが、その態度は一変することになる。
「こいつを殺ってこい」
 突き出された写真に写っていたのは戦友、中畑龍義だった。
 堂前組は元々島流しに会った堂前が追いやられた可哀想な組という立ち位置だったが、敵対組織の吸収などを重ね日に日に戦力を拡大していることは間違いなかった。堂前はたった二人にされたその日から、いつ竹原を見返すか、いかにして竹原の元に返り咲くか、それだけを考え続けてきたのだ。その手土産として、二大巨頭と言われる中畑龍義の首は、返り咲きに必要な最後のピースなのだ。
「オヤジ、勘弁してもらえませんやろか。この人だけは、俺できへんのです! 他の人間なら誰でもやりますさかい、お願いします!」
 慎二は土下座をして、堂前に頼み込んだ。自分が死ぬことは構わないが、兄弟と呼んでくれた中畑をこの手で不意打ちすることなど絶対にできない。これだけは、堂前に分かってほしかった。
 ドンッ!!
 重い音が、部屋中に響いた。直接は数回した聞いたことのない、鉛を弾き出す音。しかし慎二は痛みを感じていない。
 そして横にいた健が、血を吹いて倒れた。
「健!!」
 驚きのあまり声も出なくなっている健を、慎二は抱きかかえた。
「大丈夫や、急所は外しとる。俺は銃は得意なんや」
 堂前が口笛を吹きながら、銃口を手ぬぐいで拭いた。
「オヤジ! 健は関係ないやないやろが!」
 慎二が堂前に怒鳴るのは、これが初めてのことだった。
「慎二よ、若衆にとって一番大事なのは女でも兄弟でもない。オヤジや。つまり俺、わかるな? そんなお前が俺に従わへんねやったら、俺はお前を殺すし、もちろんお前に関わる全ての人間を殺す。その一発目がそいつや」
 堂前はカカカッと笑った。この状況で、笑いやがった。真似をしていた自分を撃ち殺したくなるような、笑い声で、笑い方で、表情で。
「その中畑は今、どこにおるんです」
 慎二はチャカを胸ポケットにしまうと、怒りを押し殺すために爪を自分の手のひらに突き刺しながら、堂前に聞いた。
「あいつは賢いやつで、自分の身をごまかすために副業で寺の住職をしとる。豪龍寺っちゅう寺を事務所代わりにしとるわ」
 豪龍寺、いかにも中畑がつけそうな名前だ。
「分かりました」
「兄貴!」
 無理に声を出そうとする健を静止させ、
「行ってくるわ、兄弟」
 と言ってニコッと笑いかけた。

013

 鉄砲玉は誰かの運転、あるいはタクシーで現場に向かうのが竹原の掟だ。車が置いてあると足がつくのが早くなり、瞬時の仕返しをくらいかねない。タクシーに乗りながら、慎二は自分の背中が疼くのを感じていた。この熱さが自分の背中を押してくれているものなのか、はたまた龍が怒っているのか、慎二には分からなかった。
「お客さんも、豪龍寺によく通ってはるんですか?」
 タクシーの運転手が慎二に尋ねた
「いや、初めてですわ」
「そうですか、ここ評判いいみたいで、よく話を聞きに行く人を乗せることが多いんですよ。きっと住職さんが素晴らしい方なんですかね」
「でしょうね、きっと立派なんですわ。誰しもが憧れるくらいの」
 慎二は豪龍寺から少し離れた場所で手土産を買うからと、タクシーを降りた。
 寺の大門は、夜にも関わらず開いており、特に警備の人間もいなかった。それでも一応警戒しながら門をくぐり、おそらく中畑がいるであろう本堂への入り口にたどり着くと、あろうことか本堂の入り口も少しだけ開いていた。もちろん慎二の頭の中にも罠かもしれないという疑惑は浮かんだが、健の命がかかっている今、時間をかけている余裕はなかった。開いた隙間をくぐり抜け、本堂に入ると、奥の方でボワっと明かりがついているのが見えた。それが電気ではなく火だと気づいたのは、近づけば近くほどバチバチという音が聞こえてきたからだ。そしてその火の真ん前に、
「待っとったで、慎二」
 扇山連合若頭、中畑龍義は座っていた。
「何も言わんでええ。ワシの首なしが疼いた時点で、お前が来るのは分かってた。あとはその理由が良きか悪しか、っちゅうとこやったが、その入り方を見る限り、お客さんというわけではなさそうや」
 中畑は全てお見通しだった。
「慎二、ワシとお前に言葉はいらん。その胸にしまったチンケなチャカは捨てて、二人だけのやり方で決着をつけようや」
「中畑、そんなんやってる暇ないんや、悪いが……」
 バァンッという音と共に弾丸が慎二の顎の下を通り抜けた。
「あつっ!」
 慎二の首の皮から煙が出ている。待機している組員がいつでも殺せる位置にいることを、ご教授してくれていた。
「慎二、立場を理解せなアカン。ここはサウナやないんやで。そら二人っきりなわけないやろ。お前はこの天下の扇山連合に一人で乗り込んだ三次団体の単なる若衆や。俺にとっては兄弟同然でも、他の扇山の組員からしたらお前は小バエと同じや」
 中畑の声が大きく気づかなかったが、改めて耳をすますと大勢の気配が慎二の真横から漂っていた。
「二人だけのやり方で、やったるわい」
 慎二は条件を、飲むしかなかった。
「よっしゃええ度胸や。出せやぁぁぁ!!」
 先ほどまで焚き火くらいの大きさだった火の回りの床が開き、大きな組み木が下から現れた。組員の一人がその組み木の中に更に木片を放り込むと、火は組み木の中で燃え盛る炎となった。
 ――護摩行や
 広島カープの特集でしか見たことなかった護摩行が、今まさに慎二の目の前で行われていることに少しばかり興奮をした慎二だったが、すぐにその炎は恐ろしさを示しはじめる。
「いつっ!」
 火の粉が身体中に飛び散るのだ。これはサウナでは無かったダメージである。
「おいおい洋服なんて着てちゃ始まらんやろ慎二、脱げや!」
 いつの間にか中畑は全裸になっており、無数の火の粉が中畑にも降りかかっているのだが、全くものともしていない。慎二も言われるがまま全裸になるが、火の粉の痛みに慣れず中畑のようにじっとすることは難しい。開始5分で、慎二の腕の皮は既にめくれ始めていた。
「まだまだこれからやで! おう! 扇げや! 扇山の誇りを込めろ!」
 中畑が叫ぶと、両側の襖が全て開き、何十人もの大団扇を持った若衆が姿を現した。そして全員が掛け声と共に一斉に扇ぐと、中畑と慎二の周りを火の粉が渦となり、取り囲んだ。
「ぐぬぁぁぁぁぎぃぃぃぃ!!」
 一つの火の粉が皮膚を焼き、その上から積もる火の粉が肉を焼く。慎二の身体の皮はもはや元の色が分からないほど、肉が見えていた。例えるなら、星のカービィの色が一番近い。
 どのくらい時間が経っただろうか。もはや息をしている肺まで燃えてきたのではないかと思ったその時、中畑が衝撃の一言を放った。
「最近の秋刀魚は、夏やのに秋みたいに脂が乗ってんねや」
 この状態において全く興味のない恐怖の情報だった。メルマガだったら解約している。しかし中畑は続ける。
「目が綺麗でなぁ、骨太でなぁ、気になるやろ?」
 もちろん知っている。それで死にかけたし、家も追い出されたのだ。だがここで会話を無視してしまえば、それは自分が中畑よりも辛いということの証明になってしまう。慎二は迷った。迷って、迷って、迷っていることにめんどくさくなって、
「へぇ、気になるな。うまいんやろうなぁ、直火で焼いたら」
 乗ってしまった。絶対にいらないと分かっていたのに。考えることをめんどくさいと思う気持ちが、勝ってしまった。
「そう言うてくれると思ったで。おら! 持ってこいや!」
 若衆が秋刀魚が入った段ボール1箱を辛そうに担ぎ、中畑の前に置いた。
「多いな、こんなにたくさん、食いきられへんやろ。」
「いえ、地元の魚屋のおっちゃんがサービスしてくれまして……」
 こんなところで見つけるご近所さんほど、どうでもいいものはない。中畑は秋刀魚に串をさすと、火で炙り始めた。
「ほれ慎二、食えや」
 渡された秋刀魚は、あの時と同じように骨太で、脂が滴っている。そしてその秋刀魚を見ていると、自然と健のことを思い出した。
「健、絶対お前のところに帰るからな。おらぁ! いただきますぁ!」
 慎二は猛烈なスピードで串差しの秋刀魚を頬張った。旨味と共に強烈な痛みが舌を襲う。
「ちゃっっっぁぁ!!」
 身体や肺の痛みで気づかなかったが、火の粉は舌の皮膚まで既に相当剥がしていた。そんな状態での骨太秋刀魚の骨は、研いだばかりのドスを突き刺されているのと変わらない。もしもこれが鯛だったら、おそらく慎二の舌は簡単に二等分に断舌していただろう。
「痛っ、舌の皮まで飲み込んでしもうた」
 中畑もそれなりにダメージを負っていることは間違いないが、それでもまだ倒れる気配はなかった。
「そろそろ、締めにかかろうかぃ」
 中畑が声をあげると、見覚えのある大型扇風機が数台セットされた。しかしサウナの時と異なるのは、全て扇風機は慎二の方を向いている。
「おい、なんやこれ! 汚いやんけ!」
「すまんのぅ慎二、ワシもそんなに時間がない。そもそもこれは、勝負やなくて殺し合いや。わしが負けたらお前はワシを殺す。それなら、ワシが生きているうちは、お前を殺すことが目的になるやないか。おら! 回せ!」
 数台の扇風機が火の粉を火柱へと変貌させ、慎二に向かって襲いかかる。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 火炎放射器を食らうゾンビは、こんな気持ちなのだろう。どこを見ても自分の身体から火が上がっている。痛いなんてものではない、これは、死ぬ。
「水をかけぃ!」
 数人の若衆が、慎二に向かってバケツで水をかけると、シュウゥという音と共に慎二の身体の炎が消えた。
「……??」
 一瞬にして身体が楽になった。そしてそれは、束の間だった。
「回せ!!」
 再度扇風機が回され、火柱が慎二を襲った。
「にぎゃぁぁぁぁぁぁ!!」
 再び死を覚悟させる炎が慎二を襲う。
「水をかけい!」
 そしてまた水をかけられ、慎二は一瞬楽になる。
「な、何をしてんねん」
「慎二、扇山はな、人を殺さんことで有名なんや。せやからブタ箱に追いやられる人間も他の組に比べて圧倒的に少ないもんで、優秀な人間の数を担保できる。優秀な奴が10年も刑務所に入るやなんて、本来効率の悪いアホみたいな話や」
「それが、なんやねん」
 戸惑う慎二の目の前に向けて、中畑は新品のドスを投げた
「なんで扇山はそんなことができるか。それはな、扇山は相手を殺さずに、自らの手で己を殺させるんや! 回せ!」
 三度扇風機が回され、慎二の身体が炎で燃える。そして水をかけられる。そして、燃やされる。そして、水をかけられる。身体の痛みで逃げることができない慎二の心は、逃げたいという気持ちから、この拷問を終わらせたいという思いに変わっていた。
「ほれ慎二、そのドスでやってまえや! 楽になれや!」
 恐ろしいことに、今の慎二にとって中畑の言葉は優しさにすら感じた。もう嫌だ、逃げたい、死にたい、終わらせたい、そんな気持ちしか残っていない慎二は、中畑に言われるがままドスを右手に持った。
「そうじゃええぞ! 楽になれ! 慎二!」
 慎二は、右手で持ったドスを首筋に当て、最後の遺言のつもりで言葉を発した。「すまん、健、帰れんかったわ」
 右腕を首に沿って引き下ろそうとしたその時、
「なんや?!」
 裏口から大きな衝突音が聞こえ、何度か爆発音がした。それと共に建物が激しく揺れる。

014

「お前ら、とっとと逃げんかい! ワシは後で行く!」
 衝撃でうつ伏せに倒れこんだままの中畑が、周囲の組員に向かって叫ぶ。先ほどの衝撃によって護摩行の組み木は崩れ落ち、そして床に広がった炎は倒れたまま稼働する扇風機によって急速に拡散され、豪龍寺は一瞬にして焼き討ち状態になっていた。扇山連合の組員は中畑の指示に従って次々と本堂から離れていく。
「慎二、お前も逃げんかい! こんな木造、一瞬で崩れるど!」
「アホか、それやったらお前も一緒や。俺はあのままやったら首切って死んどったんや。お互い一勝一敗や、まだ決着はついてへんのじゃ」
 中畑は呆れたような、しかし嬉しそうなため息をつくと、大きな声でゴハハと笑った。
「どこまでも、めでたいやっちゃのう。せやけど、俺はもうここに根を張った地蔵になるしかないらしいわ」
「何言うてんねん、とっとと立ち上がって……!!」
 中畑の膝から下は、倒れた組み木の下敷きになり完全に潰れていた。それでもこの男は、大きな声で笑う。
「情けないやろ? あんなに火と熱には耐えてきたこの身体が、たかが木材程度にこのザマや」
「アホ! 足なんかのぅても生きていけるわ! とっととここから出るんや!」
 慎二は組み木の山から引き抜くために中畑の身体を掴むが、
「アホはお前じゃ! ワシに醜態さらさせんな!」
 中畑はそれを静止させた。
「ええか慎二、ワシはな、五体満足やからこそ中畑龍義なんや。誰の力も借りず、ここまでやってこれたからこそ、この地位がある。力がある。せやから両足を失うた時点で、ワシはもう終わりなんや。すぐに若頭候補がワシを引き摺り下ろそうとするのは目に見えたある。せやからワシは、死に目に合わさんよう下の連中を全員追いやったんじゃい」
 中畑の目は、全く死んでいなかった。それどころか強さを増していく。中畑は側にいる慎二の足を掴んで強引に引っ張ると、慎二はその凄まじい力に耐えられず思い切り地面に倒れた。
「おい、何すんねん!」
 中畑は、倒れた際の衝撃で慎二が手離した新品のドスを持ち、慎二の足に突き刺した。
「ぐあぁぁぁ!!」
 猛烈な痛みが慎二を襲い、慎二の右足は全く動かなくなった。
「扇山は殺さず己で命を絶たせる。それは自らの場合も同じなんや。己の魂、決して他人に晒すことなかれ。俺はオヤジにそう教わった」
 中畑はそう言うと、自分の心臓に向けてドスを構える
「中畑! やめや!」
 慎二は中畑を止めようとするが、刺された右足がうまく動かず立ち上がることができない。
「慎二、よぅ見とれ。そしてお前がいつか竹原で上り詰めるための肥やしにせぇ。敵対組織扇山連合若頭の、中畑龍義の死に様、その目に刻みこんどけやあぁぁぁぁ!!」
 中畑は叫びながら、自分の心臓をドスで一突きし、輪を作りるように自らの傷口をえぐり続け、最後にゴハハハハハハと笑い、動かなくなった。
「兄弟……」
 ようやく立ち上がった慎二がうつ伏せの中畑の元へ歩み寄ると、心臓から突き抜けたドスは、首なし龍の心臓をも突き抜いていた。
 背中の龍が、弔うように猛烈に疼いた。

015

 建物の崩壊は止まらない。それどころか中畑の死を嘆くように更に激しく燃え、多くの柱が崩れ落ちていく。しかし慎二は、フラつく足取りで入り口から真反対の方へ足を引きずりながら進めていた。衝撃が聞こえた方だ。人為的なものなのか災害なのかも分からないが、あのまま行けば死んでいた自分を救った何かをこの目で見ておきたかったのだ。しかし裏口に行けば行くほど、火の根源は自分がいた本堂の真ん中のはずなのに、それ以上に炎は激しさを増していく。そして近づくほどに、妙な音楽が聞こえてきた。これは、慎二のプレイリストの中でも一番お気に入りの曲だった。
 慎二が必死に足を引きずりながら裏口に向かうと、見覚えのある低燃費が裏口の壁を突き破り止まっていた。そしてその運転席で、健が全身血塗れになって倒れていた。
「健! おい健!」
 慎二が声を掛け続けると、健は目をつぶったまま微かな声を発した。
「兄貴、やっぱり高級車はええですね……運転中も静かで快適でしたわ。何より、エアバックの質がポフポフや……」
「健、もう喋るな!」
 あまりにも長い間ガソリンと炎の混じった煙を吸いすぎているため、危険な状態であることは間違いない。これ以上余計なところにエネルギーを使いすぎると、病院まで持たない。しかし健は更に続けた。
「喋るなやなんて、冷たいやないですか。弟分の最後でっせ。俺ね、運転もできました。最初は怖かったけど、震えが止まらんかったけど、兄貴のこと思ったら段々鼓動が落ち着いてきたんです。あ、でも運転席に一回ゲロ吐いてます。すんません」
「健、やめろ! 声を出すな!今病院へ連れて行く」
 しかし健は、慎二の掴もうとする手を握り、話をやめなかった。
「大切な人やとは思ってなかったんやけどなぁ……。ねぇ兄貴」
「……なんじゃい」
 慎二はもう、健の話を遮ろうとはしなかった。
「僕の命に……ストックありますかね?」
 慎二の目頭がドッと熱くなり、大量の涙が溢れようとしていた。そしてそれを抑えるために、慎二は目の上に爪を突き立てて血を吹き出させた。悲しんだら、これがお別れになってしまうから。
「健、今日の晩飯、何にしよか?」
 慎二は健の頬を触り、声を裏返しながら聞いた。こんなに熱いのに、健だけは冷たくなっている。
「勘弁してくださいよ……こんな状態で飯なんか作れませんて」
「アホ、今日はワシが作ったるんや。秋刀魚でどうや」
「それは……もうコリゴリですわ」
「そやの、俺もや」
 慎二はカカカッと笑った。
 そして健もカカカッと笑った。
「お? 俺の真似うまなったな」
 慎二に言われて、健は初めて目を開いた
「そうですね……憧れてますからね」
 健はそれからもう、声を発することはなかった。

016

「ご苦労さん! いやぁご苦労さん! まさかほんまにやり遂げるとは! 今日は好きなだけ飲めや!」
 堂前はご馳走を慎二の前にたらふく用意し、ありとあらゆる酒を並べた。
「ありがとう、ございます」
「なんや、せっかくの祝いの席やのに辛気臭いやつやのぅ」
 堂前は自分のグラスに大量にスコッチを入れ、慎二にも入れようとしたが慎二はそれを断った。
「健のことは、残念やった」
 少し気を遣ったつもりなのか隣にいた村田が慎二の肩をポンと叩く。
 あれから健は、意識の戻らない状態が続いている。命を失わなかったのは奇跡だと医者から言われたが、それでも生か死かと言われると限りなく死に近い状態だった。「兄貴を身体張って守ったんや。弟分としては本望やないか」
 堂前の言葉は慎二のすべての神経を逆なでしたが、慎二は冷静に堂前を見つめた。「なんじゃい、深刻な面して」
 キョトンとする堂前に、慎二は封筒を1枚突き出した。それをみた堂前の目の色が変わる。
「じ表、ね」
 慎二は小4までの漢字しか覚えていない。唯一知っている難しい漢字は膣だ。
「お前、やめてどうするつもりや」
「健を治せる医者を、探します」
 そうか、と堂前は二度頷くと村田に「おい」と指示をした。村田はアタッシュケースを1つ奥から持ち出し、慎二の前に置いた。
「オヤジ、これは……?」
「一億や」
 堂前は葉巻に火をつけながら、カカカッと笑った。
「組はやめんでええ。その金で海外でもどこでも探し回って、健を治せる医者を探してこい。あの男にはそれだけの価値がある。せやろ?」
「オヤジ……」
 慎二は緊張の糸が切れたように身体が軽くなり、健がいなくなってから初めて涙を流した。自分の気持ちをオヤジが本当は察してくれていたということも、死ぬほど嬉しかった。
「ありがとうございます! 俺、絶対に見つけてみせます! このご恩は一生忘れません!」
 慎二は地面に頭を何度もぶつけながら、土下座をした。
「熱い男やのぅ、お前はほんま。今度は身体も鍛えてからいけよ? 外国人は日本人の数倍の筋肉があるさかいな」
「はい!」
 堂前はカカカッと笑って慎二の頭をポンと叩くと、慎二も嬉しそうにカカカッと笑った。

017

 慎二が去った静かな部屋で、堂前と村田は二人でスコッチを飲んでいた。
「オヤジ、あれでよかったんで?」
 村田は少し怪訝そうな顔を浮かべながら堂前を見つめる。
「かまへんがな、慎二は健のためならどんな手を使ってでも医者を見つけようとするやろ。それこそたった一人なら、死にかけの組員一人に肩入れしてることを上に怪しまれることもない」
「そう、ですね」
 村田は複雑な表情ではありながら納得し、堂前の空いたグラスに氷を入れ、スコッチを注いだ。
「組の利益を上げて、中畑を沈めて、それだけでも十分褒められる功績にはなるが、俺はそんなもんでは満足せん。俺が次に竹原の前に立つときは、全てをひっくり返すときや。その最後のピースが健なんや。竹原の隠し子の健がな。お前も分かってるやろ」
「えぇ、承知してます」
 堂前はカカカッと笑うと、立ち上がって窓を見る。
「今日の空は赤いのぅ、龍でもおるんちゃうか」
 夕方と夜の混じった空は炎のように赤く、雲は天に向かうように渦巻いていた。

 

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