太陽を呑んだ男

印刷

梗 概

太陽を呑んだ男

 サイトーイゾーは子供のころから食べることに並々ならぬ意欲を示し、それは年齢を駆けあがるごとに肥大化していった。なかでも、温度が異なる二つのものをいっぺんに口のなかに入れることに異常なまでの執着を見せ、それは寿司屋を営む両親さえも怖れさせるほどであった。イゾーは温度に差があればあるほど喜ぶ変態としてご近所さんに名を馳せ、それはやがて地球の規模ではおさまらなくなり、他の惑星のあいだでも口内寒暖差以上執着男として有名になり、一部で喝采を得た一方で、美食家たちからはただの蛮族であるという評価を受け、蛇蝎のごとく嫌われることとなった。しかし当人はまったく気にせず、熱した鉄球を口に含んで口内に水膨れを作るなどして自身の趣味を謳歌していた。だが、その水膨れが大層痛むので食事ができない期間ができ、それはイゾーにとってこの世の終わりにも思える退屈な時間となった。そこでイゾーは考えた。これからオレは熱した鉄球程度を味わえんでどうするんじゃ、ドライアイスを食う予定もある。こりゃあ、オレ自身を改造せにゃいかんぞ、と。世の中では惑星間を移動し、そのときどきで環境に適応するために身体改造への需要が急速に高まっている現状であった。イゾーは自分の首から上をチタン合金に挿げ替えた。そうして熱した鉄球とドライアイスの寒暖差を大いに楽しんだ。一度改造してしまえばそこから先は慣性のように自身の改造へと執着していった。オレに食えんものはないぞ。そうしてあらゆる星々にサイトーイゾーの名はますます広がっていった。さすがにファンは減った。しかしイゾーにとってそんなものはどうでもええ話だった。イゾーはだんだん口のサイズに不満を持つようになった。オレの口は小さすぎる。戦艦を飲みこめるくらいにならんといかんな! ファンはつきあいきれずにアンチならぬファンチになったが、イゾーは全長三十メートルの巨体へと自信を改造した。違法改造であったために惑星間治安保全機構に目をつけられることになったが、イゾーが気にするわけもない。身体を巨大化する方向へ驀進し、とうとう水星を丸呑みにした。太陽の方を向いている面はベリベリホット。逆の側はベリベリコールド。イゾー好みであった。宇宙を旅することにも嵌った。違法改造に次ぐ違法改造によりもはやイゾーに人格と呼べるものは残っていなかった。が、そんなことは気にしなかった。口のなかの温度差こそが重要だった。しかし、冷たいには限界があった。つまらんな。かつてイゾーだったなにかはそう思った。そしてならばと、より熱い星を求め宇宙を移動し、ついには地球周辺へと戻ってきた。帰省である。太陽が見え、なかなかの熱さだと思ったイゾーは口を大きく開けた。

文字数:1121

内容に関するアピール

 小さいころ、いい値段の寿司屋に連れてもらったとき、ほのかに冷たいネタと適度に温かいシャリによって構成された寿司を食べて感動したことを憶えています。食材の温度差というものは旨さにも関わってくるんだという素朴な感動を基に生まれたのがこの梗概です。
 イゾーはもはや旨いものを食べたい、というものから、とにかく温度差を口のなかで楽しみたいというほうに歪んでしまっていて、食事好きなわたしからしたら噴飯ものなのですが、肥大化した欲望の果てに待つ人格の消失のことを考えるとやや同情でき……なくも……ない、かな。いや、同情は無理だ。
 熱さのポイントは二つ。一つはやはりイゾーが食べるものです。もう一つは文体。改行を一切せずに、ひたすら暑苦しい文体で押そうと思います。そうするとおそらくリーダビリティが重要になるので、(佐川恭一さんなどを参考にしつつ)自分の文章のリーダビリティを鍛えることを裏テーマにして、実作を書こうと思います。

文字数:409

印刷

太陽を呑んだ男

 サイトーイゾーの生誕は大変目出度いものであり多くの人から万来の拍手をもって世に降り立った。彼の両親の稼業である寿司屋が近所の域を超えて世界から注目されていたことで、その夫婦の第一子――つまりは将来の跡継ぎという運命を期待されていたからである。当の夫婦は別にイゾーに後を継いでほしいという欲求は薄かったが世間はそれを求めたのだ。その頃、第何度めかのクールジャパン政策によって寿司がクールな代物として、熱狂的にヨーロッパあたりで注目されていた。アメリカではカリフォルニアロールに端を発し独自路線のご当地メニューを乱発し寿司のガラパゴス化が起こり日本の寿司文化を輸出するには苦しい状態であったがヨーロッパあたりはまだねらい目であった。クールなジャパンであるから日本の寿司屋を厳選しまとめた冊子を作り世界中にばら撒くことで寿司というものの普及に血道をあげたのだが、大した成果を上げることは叶わなかった。その冊子で大きく取り上げられたのがイゾーの家の寿司屋であった。さすがに大きく取り上げられるとそれなりの反応が返ってくるものであって味がよいこともそれに拍車をかけてたちまち人気店となり、人人がインスタグラムにあげまくるものだから世界で最も知名度の高い寿司屋と相成った。メニューは日本語のみで店の誰も他言語を話せなかったがそれがまた風情だ何だと持て囃されることとなりサイトー夫婦は大いに戸惑った。イゾー誕生に際しては知らない場所の知らない人から読めない言語の祝電が人気キャラクタ宛てのバレンタインチョコかと思うほど届いた。それらが果たして祝電だったのか読めないので確かなことはわからない。呪いの手紙や果たし状だったりしたのかもしれない。ただやはりどれだけ多くの人間から喜ばれようと受け取る側にはキャパシティというものがあり受け取れる量というものを超えるとどうしようもなく無感動なものになるのだと父母は了解した。

 

 

 サイトーイゾーの幼少期は大変にサイトー夫婦を特に母を困らせることになった。粉ミルクを一切受け付けなかったのだ。母乳のみを是としグルメ家をきどるような態度でそれを求めた。身体も弱く小学校へ上がっても月に一度は風邪で寝込みしかも一週間程度も熱が下がらないこともままあった。遠足には四年生になるまで一度も行ったことがなかった。決まって数日まえに発熱を起こすのだ。遠足に持っていくために買ったお菓子はベッドの上で食べることになった。その頃はグミが好きだった。なかでもドイツの硬いグミが一等好みで遠足の前には買いに行くのだ。買っているあいだは数日後には風邪を引くのだということを当然知らないのでウキウキである。健気なもので「大量に入ったグミならほかの人にも配れるのだ!」と息巻くが残念ながら当日は欠席である。四年生になると風邪をひく頻度も減り無事に遠足と宿泊行事に行くことが叶ったがバス移動がイゾーを苦しめた。乗物酔いが激しい子どもであった。特にバスの匂いには耐えがたいものがありそれ以来なるべく移動手段には電車を用いた。だがそれもプライベートのなかでの話であり当然ながら学校行事はバス移動である。タイヤの真上の席なら酔いづらいとか手首を押すと酔わないとか言われるが試したところで大した効果はない。酔うと何が嫌かと言えばもちろん気持ちわるいというのも大きいがそれ以上にその間は食事が摂れないことにあった。さらに酔って吐くと朝食べた美味しいあれやこれが見るも無残な形に変換され口を逆流してくることは子どもながらにショックを受けた。美味しかった朝食や昼食はどこにいったんじゃ!嘆くものである。昼食を摂ってからバスで学校に帰るというプランを立てる教師を恨んだ。もう少し酔いやすい人間のことも考えてほしい。本当にきついのだ。酔い止めくらいだと大した効果を感じられない。バスが恐くなる。こうしてイゾーはバス嫌いになった。

 

 

 サイトーイゾーは寿司が好きだ。これは父母にとっても都合が良かった。少なくと嫌いよりは数段良かったことは間違いない。それ以外の好物も無数である。食べることに対する執着は人一倍であった。だがそれをイゾー本人が自覚するのは大学へ進学してからである。世の中に食べ物は何でもよいと考える人間と出会い大層衝撃を受けた。イゾーにとって食事とは日常のなかで最も手軽に幸福を感じられる瞬間であって、それに執着することは自分以外の人間も当たり前に感じていることだと考えていたからである。この執着はまちがいなく母親の影響であった。イゾーの母は食べることに対して妥協をしない人間であった。作ることも同様に好きでありイゾーの持つ弁当にはチンしてすぐに食べられる類のものは入らなかった。高くてもそれで満足できるのであればよい。安くてまずいものを食べるなんて拷問のようなものではないかというのが母の謂いであり、「我が家のエンゲル係数は高いのだ」とよく言っていた。揚げ物だけは苦手だったが概ね料理の腕は素晴らしかった。新婚時はまずい味噌汁を作ったという話をイゾーはきいていたが信じられなかった。出汁を取らなかったことが原因であるらしい。寿司のネタでイゾーが好きなのは白身魚全般であった。鯛は必ず一度の寿司の席で二回は頼んだ。マグロや青魚には大して関心を向けなかった。友人と回転寿司を食べにいったときは軽く引かれ少し傷ついた。だがそれはともかく寿司を好んだ。金沢の寿司屋に行ったときのことである。ほのかに冷たいネタと適度に温かいシャリを同時に口へ放りこみ衝撃を受けた。口のなかで寒暖差が起こりそれは味以上の情報量を持っているように感じられた。口に両者が入った状態で軽く空気を吸いこむと香りが立った。めちゃくちゃ美味しかった。酒を入れてもいないのに酩酊状態で店を出て路上に立ったときに軽く千鳥足になった。これがイゾーが狂う原因となった。

 

 

 イゾーはこうして寒暖差摂取に見事にはまった。高校二年の頃である。氷のブロックを口に入れたまま煮えた紅茶を流しこんだりするところから始まった。口のなかに入ってきた瞬間の紅茶は耐えられないほどに熱いのにその直後には氷の冷気にあてられてぬるくなっているのを楽しんだ。そういえば元からイゾーはもんじゃ焼きの鉄板にドリンクの氷を滑らせ徐々に溶けていく光景を眺めるのが好きな男であった。シューといって個体が液体へ変わり水蒸気になってすっかり消えてしまうのはエンターテイメントであった。マナーのよい話ではないがとにかく好きなのだ。素質があった。寒暖差の。もんじゃといえば熱いものである。とろみがついているせいで大層熱い。それを金属製のもんじゃヘラでとって食べるのだから猫舌の人間の大敵である。だがその熱さこそイゾーの望むところであり彼はそれをアイスクリームと一緒にほおばった。バニラ・アイスをクレープのような生地でつつんで提供するもんじゃが世には存在するのである。バニラ・アイスをあんこに変えて提供する店もありむしろそちらの方が多数派であった。あんこ巻きとよばれるもので美味いのだ。イゾーはこれを外でやるものだからご近所で話題になった。元々有名寿司屋のせがれである。イゾーの名は町ではそれなりに通ったものであった。なのでイゾーのやつがおかしくなったぞと噂が回るのも早かった。「寒暖差がいいんじゃ。わかるか?わからんやろ。だがな、サウナを考えてみてほしい。あれもな、暑いところにじっと我慢しておるやろ。そんでもうダメやとなったときに冷水にザブンと入るのが爽快やろう。あれとおんなじや。まあ、体には悪いがな」イゾーは町内の小学校の壁新聞部からのインタビューでこのように答えた。呆れるものも多かったが面白がる者も多くいた。主にイゾーの同級生が中心である。動画を撮って始めたばかりのSNSに投稿し始めたのもこの時期である。

 

 

 とうとう熱した鉄球を口に入れるところまでいってしまった。イゾーの蛮行とも云える嗜好はもはや歯止めが利かなくなっていた。父母は最初の頃は様子を見ていたがこれはまずいと思ったときにはもうおそかった。すっかりイゾーは口内寒暖差のとりこである。味を大切に考えていたイゾーはもはや寒暖差モンスターでありその行動を制限することが父母にはできなかった。何せ高校生にもなるとそれなりの成熟を経ているわけでありどんどん行動が親元から離れていく時期だからである。のちにこの時期のイゾーの暴走の兆候を止められなかったことに対して父母にこころない言葉を投げつける団体が現れたがそんなことはどだい無理なのだ。親は無くとも子は育つというものであり親は子ではなく子は親ではない以上縛りつけて家に転がさないかぎりは子どもがどんなことを吸収して育っているのか傍目にはわからないのである。そんなわけでイゾーが熱した鉄球を口に運んだことに対して誰を責めてもしょうがない話なのだった。イゾーはそれを高校の教室で行った。阿呆ではあるがイゾーのその試みの目的は気になる人へのアピールの意味があったのだろうと周囲の友人は考える。気になる人に自分のいいところを見せようと考えるのはいわば当たり前である。サッカー部なら試合でいいプレイをしたりするところであったかもしれない。だがイゾーの最も得意なことはグラウンドで行わるものではなくやはり口のなかがフィールドであった。なぜ鉄球であったかは誰にもわからない。後のイゾー災害研究では食べ物ではない鉄球を口に入れたその瞬間にイゾーの真の歪な嗜好が前衛化したのだという見方が強い。ともかくイゾーは熱した鉄球を咥えた。口内の水分が一気に蒸発したのがわかった。一瞬肉の焼けるいい匂いをイゾーは感じたがすぐに痛みがそれを上回った。あまりに熱い。当たり前である。熱した鉄球を咥えてはならない。気になる人は引いていた。

 

 

 気になるあの人には引かれてしまったがもはやイゾーの興味は別のところにあった。最初は達成感に打ち震えていたイゾーだがすぐにそれどころではなくなった。口のなかの皮膚がめくれ水膨れができてこれが大変痛かった。しかしその物理的な痛みよりもイゾーを打ちのめしたのはあまりの痛みに食事が満足に摂れなかったことである。これは彼の生きがいに関わる問題であり早急な対応が求められイゾーは一つの決断をすることになった。一方でイゾーの父母は彼がこの事件を機に危ない行動を慎むことを期待した。だがこれは人間が常日頃から行ってしまう希望的観測というやつであり当然ながらイゾーは止まらない。この程度のことで止まっているのならそれよりも前に幾らでも止まる機会があったのである。だが彼は止まらなかった。現代の有識者の間ではこの決断をイゾー寒暖差中毒の第二期とする向きが強い。実際そのように捉えるのが妥当である。これを機にイゾーは自らの首から上をチタン合金製の義顔に挿げ替えたからである。当時はようやく身体の拡張が当たり前のことになったころであった。腕が四本ある人間が町を歩いていても周囲の人間から二度見されることはなくなったがしかし脳を含んだ頭を弄るにはまだ多少の抵抗があった時代である。折よくその頭をチタン合金に変える治験者を募集していたのでありイゾーはこれに食いついた。さすがに止められると思ったのであろう周囲の誰にも明かさず一人治験が行わる研究施設へ向かった。家に帰ったときには彼の頭は――口のなかは熱さ寒さに強い素材へと変わっていた。おそらく脳にも何らかの施術がなされていたであろうことから察するにもはやその個体をサイトーイゾーだと断定することができるかは現在でも意見が分かれるところではある。だが当の本人はこいつは便利な体じゃな。満足げにドライアイスと熱した鉄球を口に入れて自身の変化を喜んだ。これがイゾーの第二期である。

 

 

 だが第二期はすぐに過ぎ去り第三期へと突入することになった。身体の改造は麻薬的な魅力がある。一度手を出してしまうとそのままずぶずぶと沈む沼である。ご利用は計画的にという忠告が世に溢れかえっていたがそういうときに裏ルートが盛り上がるのが世の常である。非合法の改造屋は無数にいた。技術の進歩は技術力習得の簡略化を生み出しすなわち雇用のキャパシティを軽く超えて放逐された技術者はひっそりとしかし大胆に下北沢あたりに居を構えた。下北沢はもともと第二次大戦後に闇市が栄えた地域でありどこか怪しい雰囲気が漂っている。個人的には歌舞伎町を歩くよりもよっぽど緊張します。とは誰かの言葉である。イゾーが望んだのは体そのものを大きくすることだった。口だけになってもいいとすら思っていたようである。それはどこか怖ろしい光景を連想させる。神口生物のなかにはそんな生物がいたことが確認されているがそれは一ミリ程度の大きさのものであって人間大となるとパニックホラーの部類である。だがイゾーはそれを希望したのだ。だがそれがイゾーの意志だったと言えるのか。前述したとおり頭を挿げ替えたイゾーが本当に彼自身であったのかはわからないのであり肥大化する自身の欲望に彼も困惑していたのではないかとも思われる。彼は自分をコントロールできずに自滅していく過程を丁寧に踏んでいったのだ。だが誰も彼を止めることはできない。彼は巨人になった。超硬合金ガイア・チタニウム製の全長二十メートル超の巨人である。だがそれと同時に彼は意識を完全に失ったとされる。意思の疎通が不能になったのだという。サイトーイゾーは死亡したとされその診断書が国連に提出されたという噂が広がり一部の人間は悲しみにくれた。だが誰が悲しみにくれようと巨人化したイゾーは止まらない。彼の行動原理はとにかく口のなかで寒暖差を楽しむことのみである。その姿はパイロットを失ったロボットに見えた。

 

 

 サイトーイゾーの消失は今世紀における二番目に大きな出来事として記憶されることになる。巨人化したイゾーは原発を飲みこむなどの行動をとり世界中を恐怖に陥れたがあるとき突然その存在を確認できなくなった。最後の目撃情報は海のなかへと入っていくイゾーを漁師が見たというものであった。その漁師は怪物映画のワンシーンのようであったと証言しており以来漁に出ることはなくなった。さんざん主張の激しかった存在が急に沈黙すると不安になるのが人情である。海中を捜索することが最後の目撃地点周辺の住人から叫ばれ各国もそれに同調した。人間が潜水艦になれる時代である。まさに人海戦術。容易に見つかるものだと期待されていた。だが探せどイゾーは見つからなかった。このままでは慢性的な不安をずっと抱えて生きていくことになる。人類は不安であった。だがそれもやがて慣れるものである。人人は次第にイゾーは死んだのじゃないかと思うようになった。そうだ死んだに違いない。なにせ出てこないのだから。二年も出てこないのであれば明日も来週も来年も出てこないのだ。安心安全の日日の再来である。一方でそのような声に対して警告を発するものもいた。科学者などはまだ海中に眠っている可能性を示唆した。だがそれよりも論理的に飛躍した意見も上がった。SF作家の意見である。彼ら曰くサイトーイゾーは海中での活動が可能なように自己改造を行っている。そのレベルに達しているのだ。そしてイゾーの活動目的と合わせて考えると彼は宇宙へ進出したのではないか。何せ宇宙には恒星などの熱いものが揃っている。イゾーが高校生のころに熱した鉄球を呑んだことがそれを予感させているではないか。この意見は黙殺されたが後に正しいことがわかった。サイトーイゾーと思われる口だけが大きい巨体が太陽に接近中だという報道が流れたのである。彼はさらに巨大化して太陽系に帰ってきた。今世紀最大の事件であった。

文字数:6408

課題提出者一覧