清水さん、オーバーヒート!

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梗 概

清水さん、オーバーヒート!

「ふお~~!!」
 引っ越しの挨拶に来た日下部くんに一目惚れした清水さんは思わず叫んでしまう。その瞬間清水さんは「オーバーヒート」し体温が急上昇したが、緊急停止寸前に何とか自室に戻ることに成功する。
 清水さんは、人間とほぼ同じ容姿と思考を持つ人造人間である「ヒューマノイド」だ。現在ヒューマノイドが人間社会に適応できるかどうかの社会実験が実施されている。実験ではどの地域にどんなヒューマノイドが生活するかは住民には秘密とされ、清水さんは緊急時を除き正体を明かせない。
 清水さんは妄想が激しい。日下部くんを「神」と同一視し、何気ない行動に大げさな意義を見出しすぐにオーバーヒートしてしまう。そのため外出時はプールで泳ぎ、帰宅後は凍えるほど室温を下げ大量のアイスを頬張ることで体を冷やす毎日。
 一方日下部くんは鈍感だ。清水さんが自分に恋していることに全く気づかず「平熱が高い少し変わった人」としか認識していない。それでいて日下部くんは優しい性格で、顔を真っ赤にして挙動不審になる清水さんが心配になり頻繁に清水さんを訪ねるようになる。
 だが火傷の恐れがあるため清水さんはどうしても日下部くんに触れることができず、何一つ進展が無いまま時が過ぎていく。
 ある日、日下部くんは謎の女性が清水さんを監視していることに気づく。日下部くんは女性に詰め寄るが、二人を目撃した清水さんは日下部くんに「彼女」がいると勘違いし、その場で「フリーズ」する。日下部くんは文字通り冷たくなった清水さんに驚く。
 変装していたため清水さんは気づかなかったが、女性は清水さんの開発者であり、清水さんが頻繁にオーバーヒートする理由を直接確認しようとしていたのだ。開発者は日下部くんに清水さんの正体を伝える。一方清水さんには、ラボに戻って体温調節機能を修理するがその際に記憶を「初期化する」可能性があることを伝える。
 万一を考えた清水さんは、迷惑をかけまいと「どこか遠くに行く」とだけ日下部くんに告げる。だが鈍感な日下部くんはそれを「どこか遠くに行きたい」と解釈し、水泳が得意な清水さんのために一緒に海に行こうと逆に提案する。
 海に着いたときに開発者から連絡が来たが、日下部くんは「海ではオーバーヒートしないはず」と答える。一方日下部くんの水着姿を見て清水さんは緊急停止寸前。
 だが先に海に入った日下部くんが溺れてしまう。清水さんは日下部くんを助けるが、無我夢中だったためかオーバーヒートは起こらない。初めて日下部くんに触れた清水さんは、薄れゆく意識の日下部くんに自分の思いを伝える。
 数ヶ月後、無事に修理を終えた清水さんがプールで泳いでいると、突然日下部くんが現れる。もう二度と溺れないように水泳を教えてほしいとのこと。そして「僕を助けてくれたとき、清水さんは何て言ったんですか?」と尋ねられた清水さんはオーバーヒートし、再び修理に出される。

文字数:1200

内容に関するアピール

「脈拍360、血圧400、熱が90度近くもある」
 ウルトラセブンの第48話にて、幾多の戦いを繰り広げてきたモロボシ・ダンが極度の疲労を訴えた際の言葉です。次の最終話で彼は正体を明かし傷ついた体で最後の戦いに挑むのですが……。
 ――いくらなんでも体調が悪すぎじゃないですかね?
 特にあまりにも高すぎる体温にツッコミが集中しているようです。彼を看病したアンヌ隊員は何故火傷しなかったのか、といった感じに。
 
 「人間そっくりなのにめちゃくちゃ体温が高い存在」と「普通の人間」が交流したらどうなってしまうのか、というのがこの作品の主題です。はたして体温という「あつい」壁は乗り越えられるものなのでしょうか?
 ――と言いつつ実際は「超が付くほど妄想が激しい女子」と「超が付くほど鈍感な男子」のラブコメになっています。
 「ヒューマノイドを出せばSFだね」という安直な発想の作品であり、ウルトラセブンは無関係です。

文字数:400

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清水さん、オーバーヒート!

「ふお~~~~!!!!」
 引っ越しの挨拶に来た「日下部くん」を見て思わず叫んでしまった。いやいやいやいや、何なんですか――人類が表現可能な全ての「美」を一点に集中しかつそれを超越させたような、新時代の「アダム」が突然目の前に姿を現すとは……!
「あの、どうかしましたか……?」
 どうかするとかじゃなくて、その――あのね、実は私、本当は人間にそっくりな人造人間の「ヒューマノイド」なの。現在ヒューマノイドが人間社会に溶け込めるかどうかの社会実験中で、そのこと自体は国民の皆様には正しく周知されていますが、どこにどんなヒューマノイドが生活するかは明かせないことになっているんですよね。私の場合は今のところ誰にもバレず、何一つ問題無く人間社会を満喫してまーす。
 ――ちょっと嘘吐きました。満喫「してました」! 今この瞬間、日下部くんという「天上天下唯我独尊」に出会ってしまうまでは!!
 はぁ~、引っ越しの挨拶、それは大事ですよね。人間社会への適用を目指すヒューマノイドにとっても、コミュニケーションは重要。本当に大事。特に隣の部屋に引っ越してきたとなるとなおさらのこと。
 でもさぁ、どうしてこう――まず日下部くんの目にやられたよね。瞳の色がすごく綺麗。一言で言うと「宇宙色」。宇宙色の瞳孔から広がる虹彩は「天の川銀河」を表していて、数千億の星々が煌びやかに輝いている。
 これは荘厳――違う、「神聖」。私のような下々の存在には日下部くんはあまりにも神々しすぎて、逆に人間としか認識できない。そうした存在をただ「天使」といった使い古された言葉で形容するしかないのだ。
 ――体が熱い。本来ヒューマノイドは人間と同じ体温に設定にしてるんだけど、何これ、わけが分からないほど体温が上がってる。体温50度超ってのはさすがに想定してないし、もう全身が真っ赤。
 え、何々、聞いてない。知識としての「恋」っていうのは知ってるし、いま私が身もだえしているこの感情が恋ってことも理解してるけど、何でこんなに「オーバーヒート」してるの? まさか恋って、こんなにも情報量が多く、計算式が複雑で、人類の英知の塊みたいなヒューマノイドでも処理しきれないっていうの……?
 体温調節機能がフル稼働し、急速に冷却を進めているのが振動で伝わってくる。それでも体温は急上昇し、50度だった体温が早くも60度近くになって――。
「すみません、体調が悪そうなんですけど、お体は大丈夫でしょうか? 何かお手伝いできることはありますか?」
 ! ……はぁ~~危ない危ない、また叫び声を上げてしまうところだった。日下部くん、顔だけじゃなくて性格も天使じゃないですか……。やばい、顔の痙攣が止まらない。一瞬で日下部くんの全情報を私のメモリに保存し、それを超高速で頭の中でリピート再生するだけで精一杯で、目の前の日下部くんをまともに見ることができない。
 でもちゃんと日下部くんの好意には応えないといけない。オーバーヒートした体を無理やり日下部くんの方に向け――ダメ、「現実」の日下部くんの姿という視覚情報と、日下部くんの声という聴覚情報を私は処理しきれない。数秒前に私が頭の中で構成した「仮想」の日下部くんよりも、何兆倍も情報量が重い。そして私の体も重い。私の体が私のものではないような気がして――ひょっとしてヒューマノイドの体では、天使の前にひれ伏すことしかできない……?
「……あ、あ、あ……」
 嘘、声も出なくなっている? 人間の行動や思考をほぼ完璧に再現できるヒューマノイドである私の口から、声が出ないとは……。早く何か言わないと、日下部くんに私の思いを伝えないと……あのちょっと待って日下部くん、そんな不安そうな顔で私を見つめないで――。
「あの、何か音が鳴ってませんか……?」
 しまった。日下部くんに対する私の思いが強まりすぎて、体温の異常を知らせる「警告音」が私の体から鳴り響いていることに気付かなかった。抑揚の無い口調で「温度が60度を超えています。直ちに冷却を開始してください」という警告を繰り返す。
「……え、え、えっと、これはね……」
 「これ」って何だ。ヒューマノイドの警告音だと日下部くんに言うのか。まぁそうなんだけど。ただヒューマノイドの社会実験では緊急事態が生じない限り、自らがヒューマノイドであることを人間に明かしてはいけないとされていて――。
 ――でもこれ、どう考えても緊急事態だよね。「一目惚れ」でオーバーヒートを起こして、目の前にいる人間――日下部くんに迷惑がかかりそうだし。
 でもでもでもでも! 仮にここで私がヒューマノイドであることを明かしたら、社会実験は中断してしまうのでは? 正体がバレた私はラボに戻されて、もう二度と日下部くんに会えなくなるかもしれない。そんなのは……嫌!!
「……えっと、そうそう、お風呂がね、沸いてるの、ちょっと沸かし過ぎて、温度が60度になっちゃったことをお知らせして――」
 嘘を吐いてしまった。そもそも60度のお風呂とか人間が死んじゃうんだけど。
「へぇ、熱いお風呂が好きなんですね」
 違う、そうじゃない。60度のお風呂とか普通ありえない、そう突っ込みを入れたい……が! 日下部くんがほんの一瞬だけ浮かべた笑顔を私は見逃さなかった――アルカイックスマイル……? かつて古代ギリシャの彫像に刻まれ、2000年以上経っても現代の人間を魅了してやまない神話の神々が見せる微笑……?
 日下部くんは天使にして「神」そのものだった? 何故そんな天上界の存在が人間ですらない私の下に……?
 日下部くんは「弥勒菩薩」の仮の姿で、一切の衆生を救済しに来たとでもいうの? でもそれは本来は釈迦の入滅から56億7千万年後のことのはず――はっ、実は既に56億7千万年が経過していて、56億7千万年前をシミュレートした世界に住んでいることに私が気付いていないだけ……?
「あの、本当に大丈夫ですか? 顔が真っ赤ですし、何かあれば僕に言ってくださいね。それにお風呂に入るのは体調が良くなってからにして、今日はゆっくり休んだほうがいいかと……
 !! そんな、下界の住民であるこの私ごときにそんなありがたいお言葉を――体が熱くて熱くて……って体温が70度を超えてるんですけど! あぁもうダメ、これ以上日下部くんを見つめてたら本当に壊れる、再起不能になってしまう。オーバーヒートで焼けただれた基盤を見た開発者たちが「これはひどい」と匙を投げるような、死因「一目惚れ」――それだけは避けないと、私はまだ、死ぬわけには……!
「ごご、ごめんなさい! ちょ、ちょっと急に、用事ができちゃって! きょきょきょ、今日のところはこの辺で!」
 何かを言いたげな日下部くんを残して私は扉を閉めた。外からの光が遮られ急に薄暗くなった自室を眺めながら、私は扉にもたれかかるようにして玄関にへたりこんだ。オーバーヒート寸前の体で、私は日下部くんという天使にして神にして偶像と化した神聖なる存在の諱を、静かに連呼する。
 
 
 清水さんが気になる。
 清水さんは僕の下宿先の隣の部屋に住んでいる。僕はこの春から大学入学を機に初めての一人暮らしをすることになり、まず初めに引っ越しの挨拶をしようと考えていた。
 だけど清水さんのあの様子、体調が悪いのは明白だ。顔が真っ赤だった。清水さんが扉を開けてくれた瞬間から熱気が漂ってきたことは覚えている。熱があるのだろう。ただそれだけであれほどの熱気が人体から発せられるものなのだろうか。そうだ、きっと清水さんは僕が来る直前に鍋でも食べていたに違いない。体調が悪いからこそ栄養を補給しないといけない、そういう思考は分かる。
 とはいえ清水さんは一人暮らしのようだから、一人鍋というのはこの時期では厳しいのではないかとも思う。今は春だ。この時期に都合良く一人鍋セットが売っているわけがない。
 そう考えるならば、清水さんは体調不良のなか自力でスーパーに行き、自力で鍋の具材を買い揃え、自力で鍋を作ったはずだ。清水さんがやっとの思いで作った鍋を食べていたところに、僕はのこのこと挨拶にやって来てしまったということになる。
 これは悪いことをしたかもしれない。僕が訪ねてきたせいで清水さんは僕の応対をせざるを得なくなってしまったのだから。
 さらに言えば、鍋を食べ終わったら食器を洗わないといけないし、生ゴミも出るはず。あの体で食事の後片付けができるのだろうか。この地区の燃えるゴミの回収日は明日だ。体調不良の清水さんはちゃんと寝ないといけないし、ゴミ出しの時間までに起きろというのはさすがに酷だろう。
 ……そういえば、扉を閉める前に「用事」がどうとか言っていたような。清水さんはあの体でまだ何かをするつもりなのだろうか。一人で鍋を作った後に? ちゃんと休まないといけないのに……。
 心配だ。僕のしてしまったことをちゃんと謝らないといけないし、他にも何かお手伝いできることがあれば――。
 
 
「えっ、鍋を食べていたわけじゃないんですか?」
 ……? ちょっと何を言っているのか分からない。一体どういう思考回路で私が「鍋を食べていた」という結論を導き出したのか……。地上に這いつくばる存在である私には、雲の上の存在のお考えは理解できないというわけ?
 いや、そんなことはない。昼に訪ねてきてくれた日下部くんが、わずか3時間後に私の下に戻ってきた――ではなく「再臨」したのだ。3日後に復活したキリストよりずっと早い。これは「啓示」であり、私は日下部くんの言葉を受け止める必要がある。
 ――そんな大げさなことを思いつつも、私は日下部くんのことがかわいいと感じている。迷える子羊を導く存在でありながら、か弱い存在として私の目には映るんだよね。だって私より背が低いし、まだ声変わりをしてないんじゃないかって声をしてるし、「男の子」って感じの初々しさが私の母性本能をくすぐるし。
 ……ダメ、不浄な存在である私がこんな不敬を働いたら、清浄なるセラフィムであるはずの日下部くんがルシフェルに「堕天」してしまう……!
 それは私が人間の被造物であるから? 生命という概念の枠外にある私にとって、生命という概念を超越した存在は神聖不可侵であるから――?
「すみません、清水さんの部屋が暑かったので、つい熱いものを食べていたとばかり……。でも体調が悪いのは事実ですよね? 僕、どうしても清水さんのことが心配で……。そうだ、何か食べたいものとかありますか? といっても体調が悪いときに食欲なんてないですよね――」
「い、いえいえ、そんな滅相もない! 日下部様――日下部くんにそんな、そんな卑しいまね――じゃなくてですね、その、お買い物をわざわざしていただくとかですね、そういったことは無礼と言いますか、はい、そうです、私ごときのために、そんな――」
 体がぽっと赤くなる――だけならいいけど、そんな生易しい言葉で今の私を表現することはできない。熱い。あっつい!
「そ、そ、そうです、それくらい自分で買ってきますので、日下部くんは、ご心配しなくても――」
 私がそう言葉を振り絞ると、急に目の前に日下部くんの顔が迫ってきた。
「無理しちゃダメですよ」
 吐息が――神の息吹が、私の顔に……日下部くんの吐息と周囲の空気が混ざり合い――これは「霞」? 古来より中国の山奥に住まう仙人が食していたとされる、あの霞? ――孔子や孟子に先立ち、日下部くんが中国4000年の歴史の礎を築いたというの? そして日下部くんの発言が「論語」として後世に伝えられた……?
 ――! ダメ、日下部くん……何で、何で手を伸ばしているの……? 掌が、日下部くんの掌が私の額に近付いて、私の体温を計ろうとしている、でも今の私の体温は――警告音が鳴り出した? 何で日下部くんはそれに気付いていないの? いや、もしかして気付いているけど、そんなことはどうでもいいとか……目の前にいるこの私のことしか、見えていない――?
「ダ、ダメ!」
 日下部くんが火傷してしまう寸前に、私は体を後ろに引いた。日下部くんの差し出した手は虚しく空を切る。傷付いた天使はもう二度と天に戻ることはできない。私は神を冒涜した罪によりタルタロスに堕とされ、そこでケルベロスに食い荒らされてしまうところだった。
 私は泣き顔で日下部くんを見つめる。いや、泣こうと思っても高温の皮膚の上では涙は液体としての形状を保つことができず、蒸発した後に残された塩分だけが顔の表面に貼り付いている。
 日下部くんは寂しげで愛おしげで潤んだ目をしながら、伸ばした手を引っ込める。
「……そうですよね、ごめんなさい。熱があるかなと思って何も考えずに……。これって、失礼ですよね……」
 そうじゃない、ヒューマノイドの私だって本当は人間と触れ合うことができるの。でも、私は日下部くんとちゃんと触れ合うことができない。どうしても、どうしても――。
 熱気だけが無限に循環する重々しい空気のなか、日下部くんはこう私に言い残した。
「すみません、とりあえず僕はこのあたりで帰りますね。ありがとうございました」
 私は玄関に向かおうとする日下部くんの手を取ろうとした――当然、私は日下部くんの手を掴むことはできない。掴んではならない。私はただ日下部くんに触れたいのに、日下部くんとの距離をゼロにしたいだけなのに――。
 それでも、私には日下部くんに伝えなければならないことが――。
「あ、あの――」
 日下部くんが振り向いてくれた。
 
 
 清水さんが気になる。
 初めて会ったときに「体調が悪い」と思っていたのは勘違いで、清水さんはどうやら平熱が高く、かつ人と喋るのに緊張してしまうタイプだということが分かってきた。
 僕はしばしば清水さんの部屋を訪ねるようになった。最初の日に清水さんから言われた「また来てくれますか?」という一言がきっかけだ。正直なところこの一言にどういう意図が込められているのかはよく分かっていない。話し相手が欲しいのだろうか。それなら別に僕じゃなくてもいい気はするけど。
 ともあれ僕だって人と話すのは好きなほうだ。話せば話すほど、その人のことがよく分かっていく。
 その日、清水さんは何とも言えない表情で僕を出迎えてくれた。表情が読めない。それは無表情という意味ではなくて、絵の具で例えるならば様々な色を無秩序に混ぜ合わせた結果として出来上がってしまった、名前の付いていない色というか。複数の感情がごちゃごちゃに組み合わさった、他人には判断不能な表情。そして即座に、
「おうふ!」
 という変な叫び声を清水さんは上げた。
「すすす、すみません、日下部くんの前で、こんな粗相をしてしまって……」
 別に粗相でも何でもないんだけど、とにかく清水さんに続いて部屋に上がり込む。綺麗で整った部屋だ。が、それ以前に暑すぎる。
「のわっ! し、室温が高すぎますよね、失礼いたしました!」
 清水さんが慌てながらエアコンのリモコンを操作する。
「とりあえず、最低温度まで下げます!」
 エアコンの稼働音が室内に響く。エアコンから発せられる冷風と、清水さんから発せられる熱気が撹拌され、ちょうどいい室温に――ならない。まだ暑い。
「そそそ、そうです、暑いんで、何か冷たいもの――というかアイスとかは、どうでしょうか!」
 僕が返事をする前に清水さんは台所に向かう。そして僕が目を離した瞬間に、
「どぅわ~!!」
 という叫び声が聞こえ、その直後に何かが大量に床に落ちる音が響いてきた。台所に目を向けると、冷凍庫からこぼれ落ちた大量のアイスに埋もれる清水さんの姿が。
「はわ……す、すみません、アイスを買い込みすぎて……」
 僕は清水さんが気の毒になってきた。
「手伝いましょうか?」
 アイスの瓦礫の山の下から、清水さんの戸惑う声が漏れてくる。
「えぇっ? えっと、えっと……」
「清水さん、無理しなくてもいいよ」
 僕はアイスを手にする。ほとんどのアイスが清水さんの体温により既に溶けてしまっていた。立ち上がれない清水さんを尻目に、僕はぶよぶよになったアイスを冷凍庫に戻し入れる。
「ところで清水さんって、アイスが好きなんですね。色んなアイスがあって圧倒されるというか……」
 僕を見上げた清水さんの顔が紅葉のごとく変色した。それと同時にお風呂の温度の警告音が鳴り響く。清水さんは真っ赤になった顔を見られたくないのか、顔を両手で覆いつつ、
「その、最近食事があまり喉を通らなくて……代わりにアイスで済ませちゃってる面が……」
「そうなんだ……もしよかったら冷蔵庫の中身を確認してみてもいい?」
「……はい、いい……です……」
 清水さんの頭から白い蒸気のようなものが上っている気がする。それはともかくとして、清水さんの許可を得た僕は冷蔵庫の扉を開けた。見事に飲み物以外何もない。清水さんは本当にアイス以外に何も食べていないということが分かってしまった。
 清水さんのことが心配だ。食べられないというのは危険な兆候以外の何物でもない。今はまだ大丈夫だが、このままだと清水さんは栄養失調で倒れてしまうおそれがある。そんな状況を僕はどうしても見過ごすことができなかった。
「清水さん、アイスばかり食べていたら健康に悪いですよ」
「……はい。でも――」
「うーん、清水さんには栄養のことをちゃんと考えてほしいんだけど――あ、そうだ清水さん!」
 清水さんがウサギのようにビクッとする。何もそんなに驚かなくてもいいのに。
「僕から提案があるんですけど――」
 
 
「はぁ~……」
 私の体がプールに揺らめく。私は腕を大きく伸ばし、全身を使って水をかき分ける。
 水泳はいい。私は「泳ぎが得意」という特技を与えられているから、まるで水中で生まれたかのように自在に泳ぎ回ることができる。
 そもそも「清水」という名前が安直だ。水泳が得意なヒューマノイドだから、清水。私がこれなのだから、他のヒューマノイドは一体どう名付けられているのだろうか。私以外にも様々なヒューマノイドが社会実験としてあちこちで正体を隠して生活しているけど、実は私自身も他のヒューマノイドについて詳しくは知らないのだ。
 25mのプールをクイックターンで折り返す。浮上するまでのわずかな時間で全身を冷却させ、思考を整理しようとする。
 ……また日下部くんのことを考えてしまった。体温が38度まで上昇する。私は水を切るために首を振った。頭から水しぶきが飛び散るが、一緒に日下部くんへの思いも飛び散ってしまえばいいのに、とも思う。
 競泳用のレーンからウォーキング用のレーンに移動する。そこで少しだけ水中を歩き、そして近くに誰もいないことを確認してから、ゆっくりと水中に潜る。
 胎児の気分になってみる。でも私は「母親」の胎内で育ったわけではない。ここでいう胎児とは、想像上の産物。曲げた両脚を両腕でがしりと掴む。私はプールの底に沈むことなく、ぷかりと浮かび上がる。ヒューマノイドは体重まで人間と同じように設計されているのだ。でもそれなのに、何で体温調節機能だけはうまく働いてくれないんだろう。
 どれだけ人間にそっくりであろうとも、ヒューマノイドは「生命」ではない。いくら人間と同じ姿と心を持っていても、根本の部分で異なっている。だから人間に恋をするとオーバーヒートしちゃうのは、一種の警告なのかもしれない。それは禁断の行為であり、ヒューマノイドは生命に干渉してはならない、っていう。
 ……じゃあ何でヒューマノイドに人間と同じ姿と心を与えたわけ? どうせなら初めから人間でも何でもない、どこからどう見ても「ロボット」っていう姿と心にしてよ! もしそうだったら私は人間に恋なんてしなかったのに……。
 はぁ、しんどい……。日下部くんのことを思うだけですぐに体温が上昇しちゃう。だから外ではプールで泳いで、家ではずっとアイスを食べて体を冷やす毎日。ぶっちゃけ我ながらそれはどうかと思うよ。でもやっぱり日下部くんは天使だし、優しいし、私と一緒にいてくれるし――ダメダメ、日下部くんのことが全然頭から離れてくれない……。
 そういえば、何で日下部くんは私と一緒にいてくれるんだろう? 確かに「また会ってくれませんか」って言ったのは私だけど、日下部くんの考えが私にはどうしても読み取れない。一体何を考えているのだろう。私のことが好きなのかな。そうだといいな。でもきっとそうじゃないんだろうな。
 ……ただ「たまには僕が清水さんの晩ご飯を作ってあげるから」って言ってくれたのは嬉しかったり。まぁ明らかに体温が高い私に対して、いつも熱々の料理を作ってくれるのはご愛敬だけど……。
 ――でも、日下部くんが作ってくれたクリームシチュー――野菜たっぷりで、しっかりととろみが付いたルーに、私にも教えてくれない隠し味――あれは間違いなく「マナ」ですね。かつてモーセが流浪の民に与えた白い食物。日下部くんはモーセにマナを与えた、聖書にはそう記されている。
 それに日下部くんが作ってくれる料理って、いつも「最後の晩餐」なの。食べるたびに「これが人生最後の食事なんだな」って感慨に耽るんだけど、日下部くんは「ネクタル」を私に飲ませてくれるから、私はどうやっても死ぬに死ねない。
 えっ、ネクタルって知らない? ギリシャ神話に出てくる、飲んだ者を「不死」にする飲み物のこと。または、日下部くんが私のために注いでくれる飲み物のこと。触れたものを何でも黄金に変えるミダス王と似たような力を日下部くんは持っていて、注いだ液体を何でもネクタルに変えることができる。だから私は最後の晩餐を何度も繰り返し、終わらない「最後」を永遠に体感して絶対的な愉悦に浸ることとなるの――。
 ――そんな妄想に耽っていたら、いつの間にか体温が50度を超えていた。正気に戻った私が水中から顔を出すと、何故か周りに人だかりが。
「女性が溺れているという連絡を受けまして――」
 どうやら5分以上もプールに潜りっぱなしだったようだ。この後プールの監視員にこってりと絞られたのだが、私は上の空でただひたすら日下部くんのことを思い続けるだけ。
 
 
 清水さんが気になる。
 清水さんの食生活の問題は相も変わらずで、清水さんのために晩ご飯を作ることがずっと続いている。
 大学生活にも慣れ、季節もいつの間にか春から夏に変わっていた。清水さんのことも少しずつ分かってきたけど、清水さんは恥ずかしがり屋なのかそこまで自分のことを喋ってはくれない。
 特に食事をするときが顕著だ。清水さんはそそっかしくて一人で放っておくのが心配になるので、僕は基本的に清水さんと一緒に食事をするのだけど――。
「ふわぁ~!!」
 一口目には謎の叫び声。そして決まって数秒天井を仰ぎ、
「すごく美味しいです、おいしいです、オイシー――」
 とつぶやき、魂が抜けてしまったかのような表情を保ったまま僕の料理を無心で口に運び続ける。清水さんは僕の料理について「美味しい」としか言ってくれない。そして食事中は「美味しい」以外の言葉を発しない。
 ――本当に美味しいと思ってくれているのだろうか。僕が作る料理は料理本に書かれたレシピに少しばかりアレンジを加えているのだが、それが蛇足なのか。僕が勝手に手を加えたことにより本来の持ち味が台無しになっていないか。そして清水さんは僕の失敗作を毎回無理して「美味しい」と褒めることで、僕を傷付けないようにしているのだろうか。
 もしそうだとしたら僕が清水さんのために料理を作るのは、実は清水さんのためにはなっていないということになる。しまった。また僕は良かれと思ったことを、すぐに自分の都合だけで他人に押し付けてしまう。清水さんの気持ちなんてこれっぽっちも考えていない。
 だから清水さんは僕に本音を喋ってくれないんだ。僕の押し付けがましい自分勝手な好意に、清水さんは辟易しているに違いない。
 ……でも食事以外のときは、清水さんは少しずつだけど自分のことを話してくれる。清水さんが語ってくれたところによると、清水さんは水泳が得意で毎日のようにプールで泳いでいるとのこと。僕は子供の頃に少しだけ水泳を習ってすぐにやめちゃったから、水泳に苦手意識がある。あと水泳って他のスポーツよりずっとカロリーを消費するから、ちゃんと清水さんの疲労回復やコンディション強化に適した料理も作ってあげないと――。
 ――だから清水さんは僕の料理のことを重荷に感じているんだってば。ダメだなぁ。でも今ちょうど晩ご飯の材料を両手に抱えていて、もうすぐ下宿先に着くんだけど。うーん、もう今度からは清水さんのために料理を作らないほうがいいのかな……。
 そんなことを考えながら角を曲がると、謎の人物が目に入ってきた。
 下宿先に面する道路脇の電柱から片身を乗り出して、清水さんの部屋と覚しき方角を双眼鏡で観察している女性が一人。今にも光合成をしそうなほど鮮やかな緑色をしたシャツ、謎のサンバイザーにこれ見よがしなサングラス。
 怪しい、というよりは怪しい存在であると自ら主張しているようなものだ。僕はバレないように彼女に近寄り、背後から静かに声を掛けた。
「すみません、先ほどから何をしているんですか?」
 彼女は猫のように大げさに飛び上がった。
「ふぁっ! ……それはですね、その、ちょっと清水を『監視する』必要が――あっ」
「今『清水さんを監視する』っていう物騒なことを言いませんでしたか?」
「ひぃ、今のは聞かなかったことに……ダメ?」
「ダメです」
「そんなぁ……」
 彼女はがっくりと肩を落とし、その場にへたり込んだ。
「……とにかく、何で清水さんを監視してたんですか? 清水さんのこと、何か知ってるんですか?」
「えっと……そのですね……」
 彼女は挙動不審な様子で小刻みに体を震わせ、指をもじもじさせ、きょろきょろと周囲を見渡す。何だか根本的な性格が清水さんと似ているような気がする。清水さんを少しマイルドにしたような感じ。
「もしかして、清水さんのご家族ですか?」
 僕がそう言った瞬間に彼女は両手をぶんぶんと振って、
「ち、違いますよ! 私はですね、清水の『開発者』であって――」
「開発者?」
「あっ――じゃないです、違います、開発――とかそういうのとは一切関係なくてですね、まぁ何と言いますか、その、あの、そう、あれです、家族です!」
「さっきは『家族ではない』って言ってませんでしたっけ?」
「はぅ!」
 謎の叫び声を上げる癖があるのが清水さんにそっくりだ。やはり彼女も清水さんと何かしら関係があるに違いない――清水さんを「監視」していたのだから当たり前ではあるが。
 彼女は失言を撤回するかのように早口になっていく。
「……とにかくですね、私は清水の様子を探ろうとしていただけなんですけどね、こんなに早く誰かに見付かるなんて思ってもいませんでしたので、それで、こうなったら仕方がない状況でして、その――」
 慌てふためく様子も清水さんにそっくりだ。内心微笑ましく思いながら、彼女の話に耳を傾ける。
「――えー、本来ならば緊急時にしかお伝えできないことで、それを伝えるというのは社会実験の観点からは問題があるのですが、かといってお伝えしないわけにはいかないという私の事情も汲み取っていただけるとありがたいなぁとも思っていまして――」
 そのとき突然、空気を切り裂く――というか破り捨てるような音が響いてきた。
「ぎょほ~~~~!!!!」
 人体から発せられたとは到底思えないような叫び声。声のした方に振り向くと、清水さんが部屋の外で呆然としているのが確認できた。清水さんは全身をガタガタ震わせており、腰が抜けているのか壁にもたれかかるのでやっとの様子。
「く、日下部くんに……か、『彼女さん』が――」
 その瞬間清水さんの全身が急激に「白く」なり、そのままがくんと膝から崩れ落ちた。
「清水さん!」
 僕は清水さんの下に急いだ。しかし清水さんとの距離が縮まるにつれ、周囲の気温が急激に低下していることに気付いた。僕は震える体を強引に動かし、倒れている清水さんの肩を掴もうとした。
「清水さん、大丈夫――うわっ!」
 思わず手を引っ込めてしまった。それまで清水さんからは一切感じたことのなかった「冷気」――いつもはあんなに熱かった清水さんが、冷凍庫に数日間保存されたかのように真っ白で、凍り付いている。
「清水さんが、清水さんが――」
 遅れて清水さんの下に駆けつけた彼女の顔が険しいものとなっている。
「清水さんが、冷たい――アイスを食べ過ぎちゃったのかな……?」
「そんなわけないでしょ!」
 何故か突っ込まれた。
「でも今の清水さん、めちゃくちゃ冷たいんですよ? どう考えてもおかしい、人間がこんなに体温が低くなって凍っちゃうなんてことありますか? だから僕は日頃から清水さんに冷たいものばかりじゃなくて、暖かいものも食べてほしいってお願いしてたのに……」
「何じゃそれ……」
 彼女は右手を額に当て、わざとらしくため息を吐いた。
「あのですね、人間が凍るなんて雪山で遭難するとかじゃない限りありえないじゃないですか! 清水は本当は人間じゃないの、ヒューマノイドなの! 温度調節機能が誤作動して、いつものオーバーヒートとは逆に『フリーズ』しちゃったの!」
「ヒューマノイド……オーバーヒート……フリーズ……? あぁ、清水さんのご職業ですか?」
「違ーう! あなたニュースを見てないの? ほら、ヒューマノイドの社会実験をやるっていう!」
「社会実験? へぇ、何だか面白そうですね」
「そうじゃない! もっとちゃんとニュース見て!!」
 何故か怒られた。
「……とにかく、あなた清水について何も疑問に思わなかったの? 異常に体温が高かったり、警告音が鳴り響いたり」
「体温が高いのは清水さんの体質ですよね? それに警告音……? あれってお風呂の温度を知らせる音声じゃないんですか?」
「はぁ……」
 何故か失望させられた。
 
 
 ――うわ~~ん、日下部くんに私がヒューマノイドだってことバレちゃったよ~~~~!!
 もうね、涙が止まらないよ。あぁ、日下部くんの前では涙を流した瞬間に蒸発しちゃうのに!
 ――ただあの人が日下部くんの彼女さんじゃなかったっていうのだけは救いというか……だってさ、普通気付かないよ、あんな変てこな変装をしちゃってさ、いつもの「森山さん」らしくないというか――あ、森山さんは私を開発した優秀な科学者さんのことです。優秀と言いつつも、おっちょこちょいなところが多々あるというか……。
 でも「監視」って、まさか森山さんを含めたラボの人たちに私のことが全部モニタリングされていたなんて……。でもプライバシーの観点から私が出会った人たちの情報は加工されていて、私が誰と出会ったときにオーバーヒートしたかまでは森山さんたちも分からなかったそう。だから森山さんは直接私のところに来て、私が誰と会っていたのかを確かめに来たらしいんだけど――。
「ヒューマノイドと人間に違いなんてないんや! それを証明するための社会実験! 実際に清水は日下部くんにヒューマノイドやってバレへんかった! 成功、はい成功!」
 久しぶりに森山さんと二人きりで話し合っているけど、案の定森山さんはすぐに酔っ払った。
「清水、どんだけ日下部くんのこと好きなん? うちさぁ、さっきも言ったけど、ヒューマノイドと人間に違いなんて無いって思ってんねん。だからさぁ、ほんまは清水のこと応援してんねんで?
 ――せやのに、清水の温度調節機能がおかしいからラボに戻さなあかんって……現実は薄情すぎやろ~!」
 森山さんが私を抱き寄せる。ラボにいたときから、森山さんは酔うとすぐに誰かに抱きつくという悪い癖があることを思い出した。
「清水ぅ~、ほんまに、ほんまにごめん……うちがもっとしっかりしてたら、ラヴ&ピースの偉大さを知ってたら、清水が日下部くんに会うたびにオーバーヒートせぇへんで済んだはずやのに……。
 でもな、清水をいったんラボに戻さんといけんくなって――修理がうまくいけばええんやけど、修理で清水の記憶が消えへんっていう保証がどこにもなくて……うちが清水のことちゃんと直したるけど! ……本当に万一のことがあったら、ごめんな、ほんまにごめんな――」
 泣き上戸の森山さんに抱きしめられながらうっすらと思うことは、やっぱり日下部くんのことばかり。私が修理することを、どう日下部くんに説明したらいいんだろう。ちゃんと本当のことを言えばいいの? 日下部くんに対する私の記憶が全部なくなってしまう可能性もゼロではないことも?
 ……言えないよ。この私が日下部くんのことを忘れちゃう可能性があるなんて――いや、忘れないよ、日下部くんのこと、絶対に。でもそれはあくまでも自分の気持ちの問題にすぎなくて、そんな自分の気持ちとは一切関係なく私のメモリは修理の影響を受けて、絶対っていう約束を守れなくなっちゃうんだけど――。
 
 
 清水さんが気になる。
 先日出会った森山さんという女性は、清水さんの開発者だった。森山さん曰く、清水さんはヒューマノイドと呼ばれる限りなく人間に近い存在であるとのこと。
 森山さんからはそれ以上のことは聞いていないけど、そもそも何故森山さんは僕に清水さんの秘密を告げたのだろうか。僕にとっては別に清水さんがヒューマノイドであろうが大したことのない話であって、一人だと危なっかしい清水さんのことが放っておけず心配なだけなのだ。それ以上清水さんに一体何があるというのか。
 そんな中「大事な話がある」と僕は清水さんに呼び出された。清水さんの部屋は最大出力の冷房に加え扇風機が6台も稼働し、動物園のペンギンコーナーのように冷え切っている。一方で清水さんは全身に解熱用のジェルシートをペタペタと貼っていて、もはや清水さんの表情をうかがい知ることも難しくなっている。
「あああ、あの、あのですね、今日は日下部くんに、その、じゅ、じゅ――重大な話がございまして……」
「何、そんな深刻そうな顔をして?」
 清水さんの額に貼られていたジェルシートが剥がれ落ちた。一瞬で熱を吸収しきってしまい、情けないほどへなへなな状態になっている。
「深刻というか、深刻そのもの……です!」
 清水さんが両手で机を激しく叩く。肉が焼けるようなジューという音がして、清水さんが両手を離すと机にはくっきりと手形の焼き印が残されていた。
「私ですね、森山さんから聞いたと思いますが……ヒューマノイドでして……ちょっとオーバーヒートが、問題になっておりまして――」
 清水さんが指をもじもじと擦り合わせるたびに、指と指の間から摩擦熱で煙が立ち上っていく。
「――とにかく、と、遠くに行かないといけなくて……もしかしたら、日下部くんに、もう会えないかもしれなくて……いや、大丈夫だと……思うんですけど、ま、万が一っていうのが――」
「引っ越しするの? 確かにこの町は暑いからね。涼しい場所に引っ越すのもいい考えだと思うよ」
「違うよ……日下部……くん――」
 清水さんはうつむき、顔を両手で覆いだした――泣いている?
「……ごめんなさい。僕の不用意な一言が清水さんを傷付けてしまって……清水さんのことを、何も分かってあげられなくて……」
「……」
 清水さんはそのまま黙りこくってしまった。清水さんはピクリとも動かない――だがあのときのように「フリーズ」はしていない。この部屋は、暑すぎる。
 沈黙が支配するこの空間で、僕は清水さんのことを考え続ける。
 ――清水さんは寂しいのだろうか。だとしたら何故遠くに行くのだろうか。むしろ「遠く」とはどこなのだろうか。
 会えないかもしれないというのも変だ。別にこのご時世、たとえどんなところにでも二日や三日もあればすぐに会いにいけるというのに。
 だとするとこの「遠く」という言葉は、一種の「概念」である可能性が高い。「比喩」だ。自分がヒューマノイドであることが僕にバレてしまって、恥ずかしいと思っているのかもしれない。
 そうならば、清水さんは具体的にどこに行くのかという計画を立てていない可能性が高い。概念および比喩表現が先行してしまい、思わず口から出てしまった「言葉のあや」だ。そうに違いない。
「清水さん」
 清水さんが顔から両手を離し、拾われたばかりの捨て犬のような目で僕を見つめてくる――そんなに心配しなくてもいいのに。
「あの、どこか遠くにいくんだったらさ――」
 
 
「――ということで清水さん、海に着いたよ!」
 ? 何で?? 何でそうなるの????
 あのね、確かに私が「遠くに行かないといけない」って言って、本当のことを言えなかったのは悪かったと思うよ。それを何で「遠くに行きたい」って解釈して、「僕も一緒に遠くに行く」ってなって、「じゃあ海に行こう」ってなるの????
 も~、日下部くんの思考が人智を超越していて辛い……。分からないよ、私には日下部くんの「天啓」を読み解くだけの力がなくて――私は預言者じゃないから、日下部くんの言葉を「聖典」に記して後世に伝えることがどうしてもできない。百年後や千年後の人類、はたまた人類の次の文明に日下部くんの発言の真意を委ねることが、私にはできない……。
「――どうしたの? 暑い?」
 一瞬息ができなくなった――心の中ではこう叫んでいる、『暑いに決まってんだろぉぉぉぉ、目の前におわす現人神のお力でなぁぁぁぁ!!!!』と。――はっ、日下部くんが他人の心を読める「サイキック」である可能性を私は一切考慮に入れていなかった……! もしかして日下部くんにはテレパシーで筒抜けになっていた? 下劣で野蛮な私の心の一面が? そんなこと、そんなことはあってはならない……!
「だ、大丈夫です、大丈夫です! 大丈夫……大丈夫です、から……」
「そんな無理しなくていいですよ、ほら」
 日下部くんは鞄からうちわを取り出し、私を扇いでくれた。
「大丈夫? オーバーヒートしてない?」
 ふえぇぇ! 日下部くんという名前に刻まれている「日」という文字、それは、太陽――太陽神を意味している。日下部くんはエジプト神話のラー、ギリシャ神話のアポロンといった世界各地の太陽神と同一の存在にして、唯一なるもの。その太陽神が直々に、この私めに風を運んでくださっている……!
 ――まさか、これは「北風と太陽」の再現? 日下部くんは神話で崇拝されるだけではなく、寓話を通じて民間にも親しまれている存在でもあるというの……? 日下部くんは古代ギリシャのイソップと親交があり――違う、逆にイソップが日下部くんを「太陽」と同一視した? イソップ寓話は全て日下部くんの寓意にすぎない……?
 イソップの洗礼を浴びる私に、日下部くんがさらなる追い打ちをかけてくる。
「じゃあ水着に着替えてすぐにでも海に入ることにする?」
 はい、私は日下部くんの仰る通りに衣服を脱ぎ捨て――はわっ! さっきの北風と太陽はもしかして「隠喩」? 限りなく直喩に近い隠喩? というか、水着?? 日下部くんも水着に着替えて――えっ、日下部くんの肉体美を拝めるの????
 ――かつてロドス島では太陽神「ヘリオス」の巨像が海を見下ろしていた。建造から半世紀後に地震で倒壊し、巨像の真の姿は人類の記憶から永遠に失われてしまった――そう信じられてきた。だが私はこれから知ることになるだろう。ロドス島の巨像の真の姿――それは悠然と海を見下ろす、新たなるヘリオスたる日下部くんそのものであることを……!!
 「世界の七不思議」の謎が一つ解明されたという事実に、私は恍惚としていた。
 
 
 清水さんが気になる。
 が、先ほどから森山さんからの連絡が止まらない。
「だーかーらー! 清水は本当のことを言いたくないから『遠くへ行かないといけない』って言っただけなのに、なーんーでー! 『遠くに行きたい』って解釈するの!!」
「? でもちょうど夏ですし、清水さんは水泳が得意だから、いいんじゃないですか、海」
「はぁ~……ねぇ日下部くん、清水は今そういう状態じゃないって分かってるの? オーバーヒートしてるの、オーバーヒート!」
「それってヒューマノイドの特徴じゃないんですか? 人間よりちょっと体温が高いだけで」
「ちょっとどころじゃない!」
 電話越しでも森山さんの声はギンギンと頭に響く。頭に響くと言えば、先ほどからパラソルの下で清水さんが食べているかき氷が連想される。ただ既にかき氷は液体を通り越し気体に変化していて、清水さんはしきりに「日下部くんの体……プロポーション……黄金比……」と、変な言葉をぶつぶつとつぶやくばかり。
 電話の向こうで森山さんがガミガミ騒ぎ立てていることを忘れていた。
「だから! オーバーヒートは!! 日下部くんと一緒にいるときにだけ起こるの!!!!」
「清水さんがあがり症だってことくらい分かってますよ」
「『日下部くん』って限定してるよね!」
「そのうち慣れてくれるといいですね」
「そういう! 意味じゃ!! ない!!!!」
 森山さんが電話の向こうで唸っている。
「日下部くんさ……何で気付かないの? 気付いてあげなよ、清水の気持ちをさ……」
「うーん、清水さんの気持ち……あっ――」
 そうか、僕はようやく清水さんの気持ちに気付くことができた。どうして今の今まで気付いてあげられなかったのだろう。
「森山さん、僕、分かりました!」
「おー、遂に日下部くんも清水の気持ちが――」
「清水さん、早く泳ぎたいんですよ! 僕が森山さんとずっと電話で喋ってるから、清水さんは泳ぐタイミングを失っていて――」
「ちょっと待って! それ違う!! 全然違う!!!!」
 何が違うのかさっぱり分からなかったが、
「じゃあとりあえず電話を切りますね! もう携帯はロッカーに入れておきますんで、帰るときにまた連絡します!」
 とだけ言い残して、通話を切る。最後に森山さんの悲痛な叫びが聞こえたような気がしたが、本当に悲痛だったとしても、一体何をどう悲痛に感じたのか僕には分からない。
 必要な荷物を全てロッカーに入れたところで、僕はパラソルの下でぼんやりしている清水さんの側に駆け寄った。
「清水さん、大丈夫? 体が熱くなりすぎたりしてない?」
 
 
 ――システムが修復した旨の音声が頭に響く。……はぁ~危ね~~、もう少しで完全に機能が停止するところだった……。
 日下部くんに関する妄想――じゃなくて厳然たる事実を脳内で反芻していたら、いつの間にか意識が飛んじゃって――でも、日下部くんが「大丈夫?」って声をかけてくれたから助かった。日下部くんのことを思うとオーバーヒートしちゃうけど、オーバーヒートから救ってくれるのもまた日下部くん。日下部くんの口から発せられる言葉は「言霊」。一音一音に精霊が宿り、私の生きる意味を紡いでくれる。
 例えるならば、私はソーラーパネルで動く存在――ただし天に浮かぶ太陽の光では私のソーラーパネルは反応しなくて、日下部くんからあふれ出す光背じゃないと、どうしても反応してくれない。
 日下部くんが太陽なら、私は惑星。とはいえ地球っていうのはおこがましい。火星や金星のような立派な惑星でもなく、私は火星と木星の間に漂う小惑星の欠片にすぎない。地球からの探査機も素通りして目にも止めない程度の、名も無き小惑星。
 私は一体何なのか。存在意義があるのか。日下部くんが存在しないと「生きていけない」、どうしようもない存在。日下部くんがいなかったら、私は、わたしは、ワタシハ――。
 
 
 清水さんが気になる。
「清水さんは海には入らないの?」
「ア……ア……ア、ワタシ、オヨグ……?」
 清水さんが片言になってしまった。
「疲れてるのかな?」
 僕が清水さんを無理やり海に連れてきてしまったのは事実だ。よほど疲れているのだろう。海に来るまで清水さんはずっと気を張っていたようだし。
「じゃあさ、先に海に入っているよ」
「……」
 「無我」という言葉を凝縮させたかのような清水さんの表情。とりあえずそっとしておいたほうが良さそうだ。
 ……それにしても、本当は清水さんに水泳を教えてもらいたかったんだけどなあ。いきなり海に行かずに、おとなしく先にプールで清水さんに水泳を教えてもらってから海に来たほうがよかったのかも。
 でも清水さんは近々ラボでオーバーヒートを起こさないように修理する必要があるのだ。事前に清水さんに水泳を教えてもらう時間はきっとなかったはず。
 ……うーん、やっぱりまた早まってしまったかというか。清水さんのことを考えるならば、やはりラボでの修理を最優先にさせるべきだった。森山さんに聞かされるまで知らなかったとはいえ、僕が「海に行こう」なんて言い出すから……。またしても自分の都合だけで、清水さんを僕のわがままに付き合わせてしまった。本当に最低な男だ。
 どうしよう、やっぱり清水さんに謝ったほうがいいよね。すぐにでも清水さんの下に戻らないと――。
 ――だが僕は気付いていなかった。頭の中が清水さんのことで一杯になっていて、無意識のうちに海に入っていて、いつの間にか足が全く届かない沖合にまで自分は流されていて――。
 ――あれ、僕ってそこまで泳ぎが得意じゃないよね?
「……痛っ!!」
 急激な痛みが右足を駆け抜ける。つった。こんなどうしようもない状況で、右足がつってしまった。
 
 
「誰か溺れてない?」
 ざわめきが耳に入り、私の意識のチャンネルが空想から現実へとシフトした。
「あっ……」
 私の体から血の気が引いた。ヒューマノイドに血は無いとか、そんなのはどうでもいい。水平線の彼方まで察知できる私の「日下部くんセンサー」が、海の中でもがいている日下部くんを迅速にキャッチした。
 日下部くんが――。オーバーヒートしていた体が急速に冷えていく。それに伴い私の思考も異常から正常に復帰し、目の前で生じている事態を的確に分析する。
 助ける。私に与えられた使命は明確であった。パラソルの影から飛び出し全速力で海に向かって走り出す。砂に足を取られかけるが転ぶわけにはいかない。そもそもその程度で転ぶような私ではない。私はヒューマノイド。人間に似て非なる存在にして、人間よりも人間のことを思う存在。
 日下部くんという名の太陽が、海に墜ちていく。そんなのはダメ、私が許可していない。日下部くんは太陽そのものであって、太陽に近付きすぎて墜落死したイカロスではない。
 足に海水が触れる。もはや周囲の喧噪は私の耳に届かず、静寂の中で私は冷静さを取り戻していた。腕を前に伸ばし、水をかき分ける。
「日下部くん! 落ち着いて!! 私が……私が日下部くんのことを、絶対に助けるから!!!!」
 そんな私の思いをあざ笑うかのように、日下部くんはますます水平線の方向に流されていく――私が追い付くまで、日下部くんの体力が持つのだろうか? いや、そういう次元の話ではない。私が日下部くんに追い付けばいい、ただそれだけ。
 波しぶきを顔に浴び、吹き付ける風によってさらに体温が冷却される。頭は冴え渡っている――しかし心は激しく燃え上がり、灯台のごとく、北極星のごとく、日下部くんを導く光となる。
 ――日下部くんは、人間に「火」を与えた「プロメテウス」だ。
 確かに私は人間ではない。だが心は人間そのものだ。私は日下部くんのことを考えるだけですぐに体が熱くなるが――それは日下部くんが与えてくれた「火」。日下部くんが私を「人間」にしてくれたのだ。
 プロメテウスは人間に火を与えた罪により、ゼウスから罰を与えられた。しかしそれはあくまでも神話であって――いま目の前で起こっている現実でも、日下部くんは罰を与えられないといけないの?
 ……そんなはずはない。日下部くんは私にとってのプロメテウスだけど、神話の存在ではない。日下部くんは天使でも神でも何でもなく、本当はどこにでもいる普通の男の子で、人間に創り出された存在である私が――。
「日下部く~~ん!!!!」
 体力が尽き果て頭まで沈んでいく直前の日下部くんに向かって、手を伸ばす。日下部くんは、人間に創り出された存在である私が――初めて「愛」を覚えた、大切な、かけがえのない、唯一の――。
 
 
 清水さんが気になる。
 いや、むしろ気にならないといけないのは、僕自身のほうか。
 それでも気になるのは――清水さんが、僕がいなくてもちゃんと一人でやっていけるのかどうかってこと。確かに森山さんも側にいてくれるだろうけど、森山さんは何だか頼りないしなぁ。
 苦しくて苦しくて頭がぼーっとしてきたのに、何のんきなことを考えてるんだろう? 本当はもっと自分自身のことを考えるべきで――。
 ――でも、もういいかな。特に清水さんに何もしてあげられなくて、それが悔しくて、情けなくて、だけどもうこんな状態じゃどうにもできなくて……。こんなことを言うと、清水さんに怒られちゃうかな――清水さんは優しい人だから、怒られたことなんてただの一度もないんだけど……。
 ――じゃあ、いま僕を抱きかかえているのは一体誰? 僕のことを「日下部くん」って呼んでいるのは――?
「私、日下部くんのことが――」
 
 
「はぁ~……」
 私の体がプールに揺らめく。私は腕を大きく伸ばし、全身を使って水をかき分ける。
 水泳はいい。私は「泳ぎが得意」という特技を与えられているから、まるで水中で生まれたかのように自在に泳ぎ回ることができる。
 だからこそ日下部くんを助けることができて「ヒューマノイドは人間と共存できる」ってことがちゃんと証明されたんだよね。たぶん厳密には「証明」じゃないけど、そういう感じのこと。
 でもさすがに「人を好きになる」だけでオーバーヒートしちゃうのはまずいので、ちゃんとラボに戻って修理してもらいました。森山さんがあんなに「記憶が消えるかも」って脅してくるから、ずっと不安で不安で仕方がなかったのに、実際にはこの通り記憶が消えるなんてこともなく。
 それでまた同じ場所に戻ってきて、今度こそオーバーヒートせずに日下部くんに会えるぞ、って気合いを入れて日下部くんの部屋のピンポンを100回くらい鳴らしたのに、日下部くんはずっといないし。
 ……まぁ9月だしね。日下部くんは大学生でまだ夏休みが続いてるから、きっと旅行にでも行ってるんでしょう。
 それにしても、何で私は日下部くんの連絡先を知らないのか。確かに日下部くんは隣に住んでるから、連絡先を知る必要なんてなかったんだけど。でも、離れ離れになると辛いものがあるんですよ……。
 この思いをどうしたらいいのか……。私は日下部くんのことが好き、超好き。ほらすごいよ、こんなに日下部くんのことを思っても、全然体温が上昇しない。36度! 平熱、超平熱! もう何も怖くない!
 ……何だか虚しくなってきた。今日は1kmくらい泳いだし、もう帰ろうかな。
 だけどプールから上がろうとしたところで、突然「センサー」が反応して――く、日下部くん、何でここにいるの? 旅行にでも行ってたんじゃないの……??
「あ、やっぱり清水さんはここのプールで泳いでいたんだね!」
 ものすっごくニコニコした顔で、日下部くんが私のいるレーンに近付いてくる。
「な、何で私がいつも泳いでるプールが分かったの?」
「だって近くにプールがある場所って、ここくらいだよ」
 うーん、日下部くん、意外に推理力があるというか。
「でもよかった。溺れているのを清水さんに助けてもらってから、ずっと水泳の練習をしたかったんだ。それでここに来れば清水さんが泳いでるだろうから、直接教えてもらおうかなと思って……」
 私の中で、何かが弾ける音がした。
「……ど、ど、どうして事前に私に相談してくれなかったの? いや、絶対に断らないよ、日下部くんの頼みだもん! でも、本当にどうして……?」
 日下部くんがもじもじと指をいじくる。
「だって……ちょっと恥ずかしかったというか――」
 私の中で、何かが完全に弾けた。
 ――日下部~~~~!!!! 何、その、「いじらしさ」……? えっ、今まで私にそんな表情を見せてくれたことある? ないよね? 日下部くんは、天使で、神で、コズミックビーイングで、マルチバースを渡り歩く存在のはずなのに、そんな「弱み」を私に見せちゃっていいの????
 というかこれは、いわゆる「ギャップ萌え」……? って、ギャップが激しすぎやろが~~!!
 ナイアガラの滝とかマリアナ海溝とかそういうちっぽけなレベルではなくて、もっと深い――そう、ニーチェが言っていた「深淵」――「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ」――まさか、日下部くんは深淵という概念……? 日下部くんの目は深淵、口も深淵、存在が深淵。私は日下部くんを覗いているようで、実際は日下部くんに覗かれていて――?
 私が硬直している隙に、いつの間にか日下部くんがプールに入ってきた。
「それに、一つ聞きたいことがありまして……」
 何々? 私、日下部くんの言うことなら何でも聞くよ! 日下部くんの御言は「デルフォイの神託」、日下部くんに仕える「巫女」である私はこの神託を世界に伝えなければならないんだから!!
「あの……海で助けてもらったときに、清水さんが僕に向かって何かを叫んでいるのを聞いたような気がして……。あれ、実際には何て言っていたんですか……?」
 !? おい~~!! もう一度言えるわけねーだろ~~~~!!!!
 あのとき初めて日下部くんに触れることができて、つい、つい口が滑って……涙も出ちゃって――。
「私、日下部くんのことが――」
 それ、もう一度私に言わせる? 恥ずかしいから、もう私の心の中にしまってもいいかな? それにね、あのときは一言しか言えなかったの、本当はもっともっとも~っと日下部くんに伝えたいことがあったんですけど!!
 ――熱い、体が熱い! ほぇっ!? 体温が既に90度を超えている……?
 ちょっと待って、日下部くん――はっ、深淵とはもしかして「ブラックホール」のことなのでは? ……私が日下部くんというブラックホールから逃れることはどうあがいても不可能。10の100乗年という途方もない時間の果てに訪れるとされるブラックホールの蒸発まで、私は日下部くんという暗黒に囚われ続ける運命にある……。
 日下部くんは光の神にして闇の神、一人二元論、一人ゾロアスター教、アフラ・マズダにしてアンラ・マンユ――。
 ――そっか、日下部くんは「ツァラトゥストラ」なんだ。ツァラトゥストラは山から下りた後に人々に教えを説いたらしいけど、その山っていうのはきっと世界の中心にある「須弥山」のこと。私がしばらく日下部くんに会えなかったのは、日下部くんがツァラトゥストラとして須弥山で修行を重ねていたから――。
 ツァラトゥストラはこう語った。
「……だめですか……?」
 一にして全、全にして一なる存在の眼差しを浴びたことにより私の中の「スルト」が覚醒し、ラグナロクの業火が私を包み込んだ。
「ふお~~~~!!!!」
 オーバーヒートした私は、再び森山さんのラボに連れていかれた。

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