めたらやたらとユーレはあつい

印刷

梗 概

めたらやたらとユーレはあつい

幽霊がこんなに熱いものだとは知らなかった。そう、半日前に殺された巻上 まきがみマリは思う。肉体がないのに全身が熱く、まるでタチの悪い風邪を引いたようだ。これは魂の熱さなのか。それとも復讐の炎が燃えているのか。梅雨明けの朝、気づくとマリは公園の濁った池に沈んでいた。傍らには重石のついた自分の死体。生前最後の記憶は、マッチングアプリで知り合った男とバーで飲んでいるうちに意識が遠のき……というものだった。

マリはバーのある街へと向かう。いかにあの男の所在を突き止め、いかに復讐を遂げるか。考えても案は浮かばない。道行く人は誰もマリに気づかず、触れようとしてもすり抜けてしまう。すり抜けるたびに何故か自分の身体(幽体?)の熱さが増す気がした。

「むやみに他人様の熱を奪うのは良くない」そんな忠告とともに『先生』を自称する女の幽霊が現れる。先生曰く、幽霊は意図せずとも現世の熱を奪ってしまうものらしい(すり抜けられた人間は寒気を感じる)。成仏すれば現世に熱を放出できるが、熱を蓄えすぎると風船のごとく膨らみ、やがて自我も失われ、最終的に宇宙を漂うことになるという。

未練を晴らすため、マリと先生は協力関係を結ぶ。先生の未練は『誰もまだ知らない大発見をすること』で、幽霊の研究にマリは付き合うことになる。幽霊による熱の移動(体温の低い人間→高い幽霊)は熱力学の第二法則に反しており、これを利用すれば永久機関も夢ではないと先生は興奮気味に語る。そんな先生を胡散臭く思うマリだったが、吸熱をある程度制御するすべを教わったことや、炎天下の車内に放置された赤子を先生が『熱を奪って』助けたことで見直すようになる。

二人は犯人を池に誘き寄せる計画を立てる。濁った水から熱を奪って対流を起こし、水面に不気味な模様を浮かべて注目を集めるのだ。吸熱したぶんだけマリはぼこぼこ膨らむ。呂律も回らなくなっていく。

池を見に来た人々の中にあの男がいた。マリは男を尾行して住居を突き止める。あとは男が寝ている間に死ぬまで熱を奪えば良い。ところがマリは吸熱の制御を誤り、男の目の前で空気中の水分を凝縮させてしまう。いびつな人型の霧に男は慄いて白状する。確かに睡眠薬は盛ったし保身のために死体を隠したが、殺してはいない。どう考えても女は凍死していた、と。

マリを殺したのは先生だった。「仮死状態にしたかっただけさ。大発見を現世に伝える人が欲しくて」と弁解する先生に、マリは怒りに任せてありったけの熱を与える。現世には放熱できなくとも、幽霊同士なら熱をやりとりできた。

先生を風船化しても、男を殺しても、どこかわだかまりの残るマリは成仏できなかった。あてもなく街をさまようと、先生が助けた赤子がまた車内放置されているのを見つけた。落胆しつつもマリは赤子を助ける。この子が幸せに生きられるとは思わないが、物心がつけば恨む相手も見定められるだろうと。

文字数:1199

内容に関するアピール

幽霊のようにあまり『熱い』という印象のないものが、実はめちゃくちゃ熱かったとしたら……というのが最初のアイデアです。でも、霊魂や人魂などはなんとなくボウと燃えているイメージがあります。そこから連想して、復讐心を燃やす幽霊と探究心を燃やす幽霊の話を書こうと思いました。

一方で、もともと幽霊に対して抱いていた『冷たい』イメージもできるだけ残したいと思い、幽霊が自身と重なった現世のもの(人間など)の熱を奪うという設定にしました。これで心霊現象が起こせます。しかしこの設定だと、熱いものが熱くないものから熱を奪うことになるので、梗概にもありますが熱力学の第二法則がすこしだけ気になってきます。試しに検索してみたところ、どうやら幽霊と熱力学の第二法則にはけっこう因縁があるようです。よくあるイメージの逆を突いてみただけのつもりが、意外なところでつながったなと驚きました。いや驚いている場合じゃありません。

文字数:398

印刷

実のところ幽霊は熱い

なんだか手足が遠いな。
 そう、あたしは思う。目が覚めて、仰向けの姿勢から上体を起こそうとしたら、自分の手足がいつもより遠くに見えるのだ。深爪した指。先月買ったヒールサンダル。両手両足とも、あたしのものに違いない。まるで胴体が、あるいは首がずるずると伸びてしまったかのよう。
 起き抜けのぼんやりとした視界に映る、遠近の狂った光景。それは小学三年のころ、高熱を出してベッドで寝込んでいるときに見た幻覚によく似ていた。そういえば今もからだがすこし熱い。風邪かもしれない。
 よく見ると、ヒールサンダルの脱げかかった足に紐のようなものが絡みついている。両腕は無造作に投げ出されている。その下を、おちょぼ口をした小魚が素早く通り抜ける。そこであたしは、自分が水の中にいることに気づいた。泥の溜まった水底に沈んでいるのだ。道理で風邪を引くわけだ。
 ここはどこ? ていうかなんで?
 いや、それよりもここから出ないと。
 何が何やら分からないまま、とりあえずあたしは立ち上がろうとした。ゆっくりと視界が高くなっていく。ところが、あたしは完全に上体を起こしているつもりなのに、水底に沈むからだはまったく動いていない。この高さから寝ている自分のお腹が見えるのは明らかにおかしいんじゃないか。どうなってんだあたしの首。
 横たわるからだを上から覗き込んで、そこに自分の顔を見つけた。
 振井ふるいマリの死に顔を見つけた。
 薄いまぶたはゆるく閉じられていて、睫毛に小さな泡がついている。右目の下のほくろ。コンプレックスになっている丸い鼻。どう見てもこれはあたしだ。ぷっくりとした唇はわずかに開いている。ここがベッドの上だったなら今にも寝息が聞こえてきそうだ。だけどここは水中で、泥の上で、髪の毛が水草のごとく漂っている。その中でイヤリングが揺れている。
 あたしの頭は大きなウォーターボトルを枕にしていた。家庭用のウォーターサーバーに使われるリターナブルボトルだ。どうなっているのか知りたかったあたしの首には、ビニール紐が何重にもきつく巻かれていて、その紐が頭の下のボトルにつながっている。腰回りにも別のボトルが括り付けられていた。両足に絡みついていたのもビニール紐で、足もとのボトルにつながっている。三つの大きなボトルが重石となって、あたしのからだを水底に沈めているのだ。
 そのような惨状を、当の本人が俯瞰していた。
 ……あたしがもう一人?
 えっ、死んでる?
 自分の見ているものが信じられない。もしかしてこれは夢なんじゃないか。そうだよ。夢だよ。ずっと水中にいるのに全然息苦しくないし。ありえないし。
 そんな思いとは裏腹に、不都合な記憶がよみがえってくる。確かにあたしはこのイヤリングを付けて出かけていた。イヤリングだけじゃない、服装も出かけたときと同じだった。軽く慣らしたばかりのこのサンダルも履いていた。あんまり気取ってないし、梅雨も明けたし、マッチングアプリで知り合った人と会うのにちょうど良いと思ったのだ。それで初めてスポーツバーに行って、試合はよく分からなくて、相手の話に適当に合わせるのもしんどくて、しょうがないからその日はアルコールを楽しむことにして、それから――
 からだが熱い。
 全身がさっきよりも熱くなった気がする。
 それに、なんだかぞわぞわする。
 とにかく陸に上がろう。そう決意したあたしは水面を目指して浮き上がった。水底のあたしはしだいに遠のいていく。このままあれと一緒にいるとぞわぞわした気持ちがどんどどん膨らんでいくような気がして、一刻も早く離れたかった。
「ぷはっ」
 水面から顔を出して、それでようやく自分が公園の池の中にいたらしいと知った。底の方とは違って水面近くは藻類が繁茂しており、濁っていてまったく外が見えなかったのだ。一応ぷはっと声に出してみたものの、今まで息を止めていたつもりもないし、開放感は特になかった。ボート乗り場の足場から地上にのぼる。あたし筋肉ないし無理なんじゃ……ってぼーっと考えているうちに、いつのまにか陸地に立っていた。無意識のなせるわざというか、火事場の馬鹿力というか。
 けっこう綺麗だし広々としているけど、全然知らない公園だった。背後にそびえ立つ時計塔によると、そろそろ始発が走り出す時刻だ。ひと気が少ないのはそのせいか。ランニング中の男性がひとり、あたしのことなんか見向きもしないで走り去っていく。
 からだはまだ熱を帯びている。
 さっきまで水ん中にいたんだからしゃーなしと思ったところで、あたしは自分がまったく濡れていないことに気づく。頭のてっぺんからつまさきまで水滴ひとつ滴っていないし、思い切り被ったはずの藻もついていない。
 つまさき。
 つまさき?
 どこか引っかかりを覚えたあたしは自分の足もとを見る。ヒールサンダルを履いている。そのように見える。本当に? 分からない。今、何をどうして疑ったのかも分からない。目を凝らそうとすればするほど、よく分からなくなってくる。池の底に置いてきたもう一人のあたしを思い出す。縛りつけられたあたしのからだ。脱げかかったサンダル。
 ……そうだ、顔を洗おう。
 濡れてないなら濡らせばいいんだ。
 トイレはボート乗り場のすぐそばにあった。公衆トイレなのに無臭なのが意外だった。個室は全部洋式だし、流し台は自動水栓だ。ちゃんと管理されているんだなと思ったけれど、手洗い場の鏡は曇っていてよく見えなかった。まあ、あたしとしては顔が洗えればなんでもいい。さあ、顔を洗おう。顔を洗って目を覚まそう。
 あたしは流し台の蛇口に手をかざす。
 ところが、水が流れてこない。
 蛇口の下で手をぶんぶん振り回しても、一向に反応がないのだ。
「は? 故障かよ……」
「いやいやいやいや違うから!」
 そのとき、トイレの外から突き刺すような声が聞こえてきた。入り口の前に、アパートの貯水タンクほどもある巨大な風船を持った、背の高い女性が立っていた。
 見知らぬ女性は、あたしに向かって諫めるように言う。
「いい加減に気づきなさいって。きみは幽霊になったんだよ!」
「…………あっ、はい」
 こうして、ようやくあたしは自分が死んだことを認めた。
 振井マリが殺されたことを認めた。
 
          *
 
「未練を残したまま死んだ人は、幽霊となってこの世にとどまるの」
 長身の女性は、みさごさわ弓歌ゆみかと名乗った。『みさご』の漢字を何度も空中に書いて教えてくれたけれど、複雑すぎてあたしにはいまいちピンとこなかった。
 みさご沢さんもまた幽霊なのだという。
 あたしと同じく。
 はじめはちょっと年上くらいかなと思ったけど、生まれ年はあたしよりも十年は早いらしい。それだけ古株の幽霊だということだ。そのわりには、風船の紐をしっかりつかんでいるところとか、すこし子供っぽくみえる。風船が巨大なだけあって、紐のほうもそれなりに太く、彼女の小さな手にぐるぐると巻かれている。
 なんでも、その手に持った風船を詳しく調べる(って何を?)ために手頃な場所を探して公園をうろついていたところ、池から出てきたあたしを偶然発見し、あたしの幽霊初心者っぷりを見るに見かねて思わず声をかけたのだとか。
 なんて優しい。
 ……を通り越して、ちょっと鬱陶しい。
 だってみさご沢さん、こっちが頼んでもいないのに幽霊のこと教えてくるんだから。アパートの同じ階に住んでる世話焼きおばさんを連想する。あたしの食生活やら婚期やらを勝手に心配してくるおばさん。あれに近い人種だ。
「それで、未練を晴らした幽霊はこの世から消えるの。好きだった人の顔をもう一度見ることができたーとか、憧れの場所を訪れることができたーとか、楽しみだったドラマの最終回を確認できたーとか、特に何もしなかったけどしばらくこの世で過ごしていたら気が済んだーとか、そんな感じ。いわゆる成仏ってわけ」
 どれもしょぼい未練だなと思うけど、口には出さない。いろいろ教えてくれるのはありがたいが、今は構っている場合じゃない。
 あたしにはやりたいことがある。
 あたしは公園を離れて、すぐそばにあった線路を手がかりに近所の駅――というか街の中心地を目指す。歩いているとだんだん見覚えのある街並みになってくる。
 ここ、スポーツバーの近所じゃん。
「幽霊は見てのとおり人型。ちゃんと脚も生えている。これ、私たちが自分のことをまだ人間だと認識しているからなのね。半分思い込みに近いんだけど、まあ、言ってしまえば自我が人のかたちを作っているってこと。要は当人のイメージだから、着ている服やアクセサリーもなんとなく生前の姿を保っていることが多いの、私の観察したかぎりの話だけどね」
 黙ってスポーツバーへと進路変更したあたしの後ろをみさご沢さんがついてくる。もともと公園に用事があるんじゃなかったのか、この人は? あたしがどこに向かってるか聞こうともせず、背後で幽霊講釈を語り続けている。
「こうやって地面の上を歩いているっぽく見えるのも、私たちが無意識に自分のことを人間だと思っている証拠なんだよね。足もとをよおく見てごらん、きわきわで地面に触れてないから。私たち微妙に浮いてるから。ドラえもんだから。強く意識すればそのまま水面を歩いたりもできるし、空にも浮かべるし、逆に地面に潜れないこともないけど、そういう人間らしくないことすると自我が揺らぐからあんまりおすすめはできないかなー」
 地面に潜れないこともない?
 それって、からだが地面を通り抜けるってこと?
 疑問に思ったけど、あたしは何も言わずに商店街のゲートをくぐる。開店時間にはまだ早いようでどこもシャッターばかりだ。でも、通行人の姿もちらほら見えてきた。相手からはこっちが見えていないし、みさご沢さんのうるさい声も聞こえていないみたいだけど。 
「そうそう、幽霊ってやつはほとんどこの世に干渉できないんだよねえ。幽霊になって今更できることなんて全然ない。この世に生きている人たちからは姿が見えないし、こちらから話しかけても聞こえてない。人でもモノでも、触ろうとしたらすり抜けちゃうしね。唯一できることと言ったら――って何するのっ!」
 ためしにその辺の通行人にぶつかろうとしたら、みさご沢さんに肩を引っ張られて止められた。反対の手に持った風船が大きく揺れている。手に持っているということは、この風船はこの世のものではないのだろうか。
「なんですか急に」
 しまった。口をきいてしまった。
「それはこっちの台詞だよ。なんでわざわざぶつかるの」
「いや、すり抜けられるって言うから試してみようと」
 一度口を開いたからにはしょうがないと、あたしは素直に答える。
「いきなり無言で試すって……アグレッシブだねマリちゃんは。蛮勇だね」みさご沢さんは呆れたように目を見開く。ちゃん付けが馴れ馴れしい。「これから忠告しようと思ってたところだったのに……」
「すり抜けちゃ駄目なんですか」
「駄目っていうか……。マリちゃんさ、今、からだが熱いでしょ。熱溜まってるでしょ」
「え、まあ熱いですけど」
 さっきからずっと、からだじゅう熱いままだ。心なしか、公園にいたときよりもやや熱さが増しているような。
 これも幽霊の何かなのか?
「ねえマリちゃん、あそこにいるひとの肩を軽く叩いてみて」
 みさご沢さんが指さす先には、こちらに向かって歩いてくる男性。くたくたのシャツ。てかった髪。朝帰りの大学生だろうか。ワイヤレスのイヤホンから音漏れしている。もちろんあたしたちには気づいていない。
「叩くって、どうせすり抜けちゃうんでしょう?」
「いいからやってみて。なるべく」
「はあ……」
 あたしは言われるがまま、すれ違いざまに大学生の肩を叩こうとする。でも、あたしの手は相手に触れることができない。空振りしたみたいだけど違う。手のひらと肩がわずかに重なった。確かにすり抜けた。実際目の当たりにしてみるとかなり奇妙だ。
「えっ」
 驚いたのはそれだけじゃない。
 肩に重なる瞬間、手のひらがかっと熱くなった。まるで大学生からエネルギーを吸い取ったみたいに、じんわり熱が流れ込んでくる感覚があった。すり抜けたあとも手のひらに残る熱。すこしずつ腕に伝わってきて、腕から胸へ、胸からからだ全体へと薄く広がっていく。
 相手も何か違和感を抱いたようで、すれ違うときに歩みを止めこそしなかったものの、びくっと身震いしていた。あたしが叩こうとしたほうの肩をぐるぐる回しながら首を傾げている。
 そんな大学生に背を向けて、みさご沢さんは満足げな顔で説明する。
「幽霊がただひとつこの世に干渉できること、それは熱を奪うこと。幽霊のからだ……霊魂? がこの世の何かと重なると、それが持っている熱を奪ってしまうんだ。意識しなくてもね。ほら、幽霊に遭遇すると寒気がするって言うじゃない? あれの正体がこれ。熱を奪うくらいしかできることがない最弱のみそボン、それが私たち幽霊なの」
「みそボン……」
 まさかボンバーマンで喩えられるとは思わず、つい復唱してしまう。
「これって幽霊なりたてほやほやのうちに気づかないと大変なの。勘のいい人はわりかし早めに気づくからいいんだけど、運が悪いと、何が起こっているのかまったく分からないままどんどん周りから熱を奪っちゃう。助けを求めて人混みのなかに突っ込んじゃったり、棺桶の中でぼーっとしてたらご遺体と一緒に火葬されちゃったりしてね」
「こうしている今も、あたしたちはこの世から熱を奪っているんですか」
「そうだよ、空気もこの世のものだから。生き物みたいな熱のかたまりから奪うよりは、うんと少ないはずだけどね。マリちゃんが池の中にいたときも吸熱してたはずだよ、最初から熱っぽかったでしょ? 私も死ぬまで知らなかったけど、幽霊って意外と熱いんだよ」
「じゃあみさご沢さんなんて、もうとんでもない熱さなんじゃ……」
「あはは、心配ありがと」すこし照れたように笑って、みさご沢さんは風船の紐を指でくるくると巻き取る。「でも私、多少なりとも吸熱をコントロールするコツを身につけてるから。伊達に長年幽霊やってないよー」
「そんなコツがあるんですか」
 それは重要な情報だ。
 幽霊がこの世に対してできるアクションは熱を奪うことだけ。むしろ、意図しなくても勝手に吸熱してしまう。ただし、その吸熱を制御するコツがある。どの情報も、あたしがこれからやろうとしていることに大きく関わってくる。
 何かとおせっかいなのが気にくわないけど、この人に出会えたことはラッキーだった。殺人事件の被害者になるというこの上ない不幸を経験しておきながら、そう、あたしは思う。
「今日会ったのも何かの縁だし、後でマリちゃんにも教えてあげるよ」
「そうですか。いろいろと教えてくれて、ありがとうございます」
「いえいえー先輩なんでー」
「ところで、その風船って何なんですか?」
 いつのまにか、すぐそばにスポーツバーの看板が見えてきている。いったん話を切り上げるつもりで、あたしは何気なく目についた、みさご沢さんが持っている巨大な風船について質問した。こんなに間近に見たことはないけれど、アドバルーンってちょうどこれくらいの大きさなんじゃないか。
「これ? これは幽霊のなれの果てだよ」
 みさご沢さんは紐を上下に引いて風船を揺さぶる。
 今まで紐だと思っていたものが、三つ編みをした髪の毛だとあたしは気づく。その上には、いびつに膨らんだ逆さ向きの顔らしき皺が見えることにも。
「幽霊は未練を晴らせば成仏する。未練を晴らせなければ、ただただこの世の熱を奪うだけ。熱を奪いすぎた幽霊は、熱さで何も考えられなくなって、しだいに自我が薄れていって、溜め込んだ熱でからだが膨らんでいって、人のかたちを失いはじめて、それでも熱を奪いつづけて、地面にとどまることもできなくなって――」
 そう言ってみさご沢さんは、ぱっと三つ編みから手を離した。
 巨大な風船は――いや、熱を奪いすぎたという幽霊のなれの果ては、ゆっくりと上昇していく。スポーツバーのあるビルよりも高く、遠く小さくなっていく。
「こんなふうに空の向こうへ飛んでいって、それっきりなんだ」
 
          *
 
「あたしは、あたしを殺した男に復讐したいんですよ」
 早朝なので当然のことながらスポーツバーは閉まっていて、薄暗い空間の中には誰もいなかった。仕込みの時間にもまだ早いようだ。
 施錠された扉をすり抜けるのはなんとも気味の悪いものだった。コンクリートの壁や曇りガラスの窓ではなく木製の扉をすり抜けることにしたのは、その方がいくらか人間らしいかなと思ったからだ。通り抜けるときにぬるっと感じたような気がした。大学生を相手にしたときに比べたら誤差みたいなものだけど、扉が持っていた熱――この世の熱をすこしだけ奪ったようだ。
 あたしのこの世への未練。
 それはあたしを殺した男を殺すことだ。
 こうして現場を再訪すると、ふつふつと怒りがこみ上がる。
 からだじゅうに蔓延るこの熱さは、復讐の炎が燃えているのだ。
「ここ。ここに座っていたんですよあたしとそいつ」あたしは角の二人席を指さす。プロジェクタのスクリーンがよく見える席だった。「あたしがこっちであいつがこっち」
「その人、なんて名前だったっけ?」
 お酒の並ぶ棚を興味深げに眺めながら、みさご沢さんが訊く。
「さっき言ったばっかでしょう。『ひゅーたろ』ですよ。ふざけた名前しやがって」
 もちろん本名ではない。本名のもじりだとは思うけど。『ひゅーたろ』というのはマッチングアプリの登録名だ。
 昨日の夜(みさご沢さんが今日の日付を知っていたので昨日のことだと分かった)、あたしはこのスポーツバーで、マッチングアプリで知り合った男性『ひゅーたろ』と飲んでいた。スポーツバーに来たのは初めてだったけど、その男と会うのは二度目だった。もう一度会ってもいいかとは評価してはいたのだ。とはいえ、完全に気を許していたわけではない。お酒とおしゃべりを楽しみながらも相手の挙動に不審なところがないかはいつも注意していたし、お手洗いに立つタイミングには必ず自分のグラスを空けるよう心がけていた。それなのに、酔っ払うほど飲んでもいなかったのに急に眠くなってきて、だんだん意識が遠のいていって……、そして気づいたら公園の池に沈められていた。
 要するに、あたしは薬を盛られてヤられて殺されたのだ。
 いわゆるデートレイプドラッグ。
 は? 絶対許さない。
「一回会社から電話かかってきたんですよ、長々と話すような話題じゃなかったし、席は外さずにちょっと顔を背けてただけなんですけどね、あー、きっとあのときだ、あのときグラスに薬を入れられたんだ、間違いない。はー、まじかよくそが……」
「本当にひどい話だね……」お酒の棚に視線を向けたまま、みさご沢さんは沈痛そうな表情を浮かべている。「でも、わざわざマリちゃんが復讐しなくても、その人警察に捕まるんじゃないかな。さっき聞いた話だと、マリちゃんの死体……ごめんね、死体の隠しかたがけっこう杜撰っていうか、行き当たりばったりというか。割とすぐに浮かび上がってきそうだし、そうでなくとも公園の管理の人がいつか見つけるんじゃ……」
「警察が捕まえるんじゃ駄目なんですよ!」
 あたしは思わず大声を出してしまう。
「法の裁きなんかじゃ全然足りないですよ。それじゃああたしの気持ちが報われない。むしろあたしの死体が見つかってあのくそ野郎が警察に捕まる前にあいつを殺さないといけないんです。あたしが。この手で。吸熱の問題もあるし、タイムリミットは刻一刻と迫ってるんですよ!」
 どれだけ声をあげても幽霊のみさご沢さんにしか届かないのに、それでもあたしは大声で訴える。
 だって胸がぞわぞわするから。怒りの熱を帯びているから。
 みさご沢さんはずっと俯いている。
「そう……、分かった。それなら私には止められないかな……」そこでみさご沢さんはふと顔を上げた。「それで、マリちゃんはどうしてもう一度このスポーツバーに来たの? その男の人がまたここに戻ってくるとは思えないけど……」
「そ、それは、あいつの所在につながる手がかりが何かあるんじゃないかと……、ないですが……」
 とたんに勢いが弱くなるあたし。
 この幽霊の身で、いかにあの男の所在を突き止め、いかに復讐を遂げるか。殺されたのを自覚してからずっと考えてきたけれど、一向に良いアイデアは浮かんでこない。このままではあたしが宇宙に浮かんでしまう。特に勝算があってこのスポーツバーにやって来たわけでもなく、ほとんど当てずっぽうのようなものだった。みさご沢さんの言うとおり、あの男が戻ってくる見込みはないだろう。まだ開店前だし。
 万が一ここに何か手がかりがあるとしたら、それはウォーターサーバーだろう、となんとなく考えていた。あたしを池に沈める重石に使われていた三つのボトル。もしもそれらと同じ型のボトルがこのスポーツバーにあったら、店ぐるみの犯行という線が濃厚になる。そういう手口があるものだと、以前というか生前に聞いたことがあるのだ。だけど、ウォーターサーバーは店のどこにもなかった。バックヤードも覗いたけど見当たらなかった。
 あるいは、あたしのバッグ。あたしの死体は手ぶらだったし、池の底にも沈んでいなかったのだ。これもまた店内からは見つからなかった。きっとあの男が、誰の死体か特定されないようにバッグごと持ち帰ったか捨てたかしたのだろう。財布の中には身分証明書があったはず。財布だけじゃなくて、バッグにはスマホも社用のガラケーも入ってたのにな……。
 そんなことを考えているうちに心が落ち着いてきた。からだのボウっとした熱さは相変わらずだけど、いくぶんか慣れてきた。
「……すみません、大声出しちゃって。ちょっと気が立ってました」
「ううん、こっちこそごめんね」
 あたしが謝ると、慌てたようにみさご沢さんが近づいてきた。バーカウンターやテーブルを豪快に無視して、最短距離で駆け寄ってくる。
「私、マリちゃんが幽霊になったばかりだってこと忘れてたよ。自分が幽霊になって間もないころの気持ちも忘れてた。混乱するよね。こわいよね。焦っちゃうよね。いきなり幽霊の末路なんて見せちゃって、ほんと考えなしだったよ……」
「みさご沢さん……」
「決めた。私、マリちゃんの未練を晴らすのに協力する」
 私がマリちゃんの共犯者になってあげるよ。
 みさご沢さんはそう宣言した。
 
         *
 
「私の未練は、この世の誰にもまだ知られていない大発見をすることなんだ」
 共犯者になると志願されたものの、正直あたしにはちょっと重い。情報はありがたいけれど、そこまでのお節介は求めていないのだ。そうやってみさご沢さんの申し出を渋るあたしに、みさご沢さんは新たな提案をした。彼女が共犯者になる代わりに、あたしも彼女の未練を晴らすお手伝いをすればいいじゃないか、そうすれば釣り合いがとれるじゃないかと。
 彼女はかつて、国立大学に所属する研究者だったという。
「ぱっとしないまま死んじゃったんだよねえ。何の業績も残せなかったし、自己満足さえできなかった。それが悔しくてさ」
 お昼どき、人通りの多い道をあたしたちは歩いている。そうか、今日は土曜日だったか。ただでさえからだが熱いのに、日差しが強くなってきた。むやみに熱を奪わないよう日陰をキープしつつ、突っ込んでくる人たちを避けるのが大変だ。そうか、だから幽霊は夜中に現れるって言われてるのか。
 さきほどまでとは逆に、今度はあたしがみさご沢さんについていくかたちになっていた。付き合ってと頼まれたけれど、目的地は知らされていない。進路から考えて、公園に向かっているわけではないようだ。
「幽霊になれたのは最後のチャンスだと思った。死んだはずなのに意識がまだあるってのもそうだし、それに気づいちゃったから。『そうだ、私は幽霊の研究をすればいいんだ!』ってね」
 幽霊の研究。
 それが、現在のみさご沢弓歌のライフワークならぬアンライフワークらしい。幽霊の性質に詳しいのも頷ける。巨大な風船となった幽霊を引き連れていたのも、研究作業の一環だったのだ。
「そういえばあれ、飛ばしちゃって良かったんですか? もともとは公園で何か調べるつもりだったんですよね?」
「いいのいいの。そのへんにいっぱい落ちてるし」
 こともなげに言うみさご沢さん。
 いっぱい落ちてるというのは流石にリップサービスだろうが、実際、風船化した幽霊は道中でちらほら見られた。さなぎの着ぐるみみたいなのが電信柱に寄り添うように立っていたり、ちょっとしたツリーハウスくらいの巨体が高架の裏に浮かんでいたりと、大きさも高度も様々だ。髪の毛のなごりが残っていなかったら、どこが頭なのかも分からない。あんな状態になってもまだ熱を奪いつづけるというから、こういう幽霊のいる場所が心霊スポットになるのだろうか。
「あたしみたいな普通の幽霊は見ないですね」
「まあ、病院とか行けばそれなりに。私が観察したかぎりでは、この世への未練ってだいたいが漠然とした『まだ死にたくない』だからね。いったんは幽霊になっても、意外とすぐに死を受け入れて成仏していくパターンのほうが実は多数派なの。風船になっちゃうのは、うっかりさんか、どうしようもない未練を抱えた人か、いつまで経っても漠然と『まだ死にたくない』と思っている往生際の悪いやつ」
 十年近くも幽霊をやってるあなたが一番往生際が悪いのではと思うが、余計なつっこみは入れないでおく。
「はあ。なんだか虚しいですね。幽霊って、結局は熱を奪うくらいしか能のない不毛な存在なんですね……」
「いやいやいやいやいやいや」
 同調したつもりだったのに全力で否定された。
 歩きながら首を真横にぶんぶん降っている。どうやら何かのスイッチが入ってしまったようだ。
「違うから。私も似たようなこと言ったかもだけど違うから。幽霊って全然不毛じゃないし、知れば知るほど奥深いんで。可能性無限大なんで」
「え、さっきと話が違うんですけ」
「たとえばさ、マリちゃんって幽霊になってから何かの匂いがした覚えないでしょ」食い気味に語り出すみさご沢さん。「匂いの粒子もすり抜けちゃうから当たり前なんだけどね。じゃあ、どうして私たちはこの世の景色が見えているのかな。幽霊だったら光の粒もすり抜けちゃうんじゃないのかな」
「言われてみれば確かに……」
 あたしは公園のトイレが無臭だったことを思い出す。
「私たちはいったい何を見ているんだろう。自然と受け入れちゃってるけど、私たち幽霊の視覚は、生きている人間のそれとはまったく異なるものなのではないか。そう、私の仮説では、私たち幽霊は熱を見ている。物体の放つ赤外線が空気中の塵に当たって、わずかに熱が伝わる。熱放射ね。そのほんのすこしの熱を奪うことで、私たちはその物体を見ているの。ガラスは赤外線をけっこう吸収しちゃうから、鏡に映った景色なんかはうまく見えないんだけどね」
「あ、赤外線カメラみたいな」
「それそれ。細かいところはだいぶ違ってるんだけど、ひとまずそういう理解で大丈夫。私たちはからだ全体でこの世を見ているの。おそらく意識してないだろうけど、振り返ってもいないのに背後のものが見えた覚えはない?」
「ああ……」
 そういえば、幽霊になってからというもの、後ろを向いた記憶がない。
「聴覚も同じで、私たちはからだ全体で熱を聞いている。吸音材がどんな仕組みか知ってる? あれって空気中を伝わる音波の振動を摩擦熱に変換しているんだよ。音は振動で、振動はものにぶつかると熱になる。私たちはその熱を聞いているんだ。ね、面白いでしょ?」
「わあ、なるほどですね」
 特に面白くはないが、熱意は伝わる。熱意だけに。
 幽霊同士が見えたり聞こえたりさわれたりするのも、生きている人間の視覚や聴覚、触覚とは仕組みが違うから、ということなんだろうか。
「でねでね、一番面白いのはね、私たち幽霊がどんなに熱くなっても、ずっと熱を奪いつづけるってこと!」みさご沢さんは完全にハイテンションになっていた。「だっておかしいじゃない? 普通、熱って温度の高いものから温度の低いものへと移動するものだよ。物理の授業で習ったでしょ、熱力学の第二法則! それなのに幽霊ってば、めちゃくちゃ熱いくせして自分より体温の低い人間から勝手に熱を奪うんだから。けしからんよね。最高だよね。私たちはマクスウェルの悪魔であり悪魔の入った容器なんだ。最近どっかの企業が開発した発電機とは違って、最終的に成仏すれば記憶した情報がチャラになるからエントロピーの増大が不要で完璧なんだよ。分かる? つまり幽霊を利用すれば永久機関の実現も夢じゃないってこと! すごいでしょ!」 
「はあ……」
 なんか早口になってないか? この人。
 物理なんて履修してないし、もはや何が何やらだ。
「みさご沢さん、とっくに大発見しちゃってるんじゃないですか?」
「いやあ、まだまだだよ。実際の幽霊を使って検証もしないといけないし、最新の研究動向も追わないといけないしね。ほんと、病院と大学に忍び込む毎日で大変。だからマリちゃんには、私の研究のために、ぜひとも成仏する瞬間を見せてほしいんだよね……あ、ごめん。ここに用事があるんだ」
 不意にみさご沢さんは立ち止まる。ようやく目的地に着いたらしい。
 そこは大型スーパーの駐車場だった。本当に何の変哲もない、ただの駐車場だ。お昼のピークは過ぎた頃合いだろうけど、まだまだ自動車はたくさん駐まっている。日陰がないのがややつらい。ひょっとして風船化した幽霊でもいるのかと思ったが、ざっと見たところではそれらしきものはいなかった。
「この駐車場がどうかしたんですか?」
「いや、ちょっと人助けをね」
 みさご沢さんの口調は重い。直前までのはしゃぎっぷりが嘘みたいだ。人助け以上の説明はなく、みさご沢さんは慣れた足取りで駐車場の端から順に自動車を確認していく。何かを探しているようだ。頼まれたわけじゃないけど、あたしも後を追いかける。
「いた」
 言うが早いか、みさご沢さんは軽自動車のドアをすり抜け、後部座席に乗り込んだ。後部座席の中央にはチャイルドシートが設置されており、赤ん坊が眠っている。その子は大量の汗をかいている。自動車の外からでも一目瞭然だ。この炎天下に赤ん坊が車内放置されたらどうなるか。そんなこと、子育ての経験のないあたしだって知っている。
「幽霊って、こんなこともできるんだよ」
 みさご沢さんはチャイルドシートを包み込むようにからだを屈める。
 赤ん坊の熱を奪っているのだ。
 それは明らかに人助けで――人命救助で、熱を奪うことしか能のない幽霊にできる、最良の善行だろう。でも、そんなみさご沢さんの姿を見てあたしが抱いたのは、尊敬の念ではなくて違和感だった。
「マリちゃん、もうちょっと待っててね。あとすこししたらお母さんか警備の人が来ると思うから」
「……みさご沢さん、車の中に赤ん坊がいるって知ってたんですか」
「毎週のことだからね」苦しそうな声。みさご沢さんでも熱を奪うと苦しいのか。「毎週土日のお昼だけは、赤ちゃんを乗せて買い物に来るみたいなんだ。何回警備の人に注意されても後部座席に置いてっちゃうの」
「知り合いの子供なんですか」
「ううん、知らない子。最初は偶然見かけただけ。毎週土日だけってのも観察に基づくただの予測。どんな事情があるのかも知らないし……」
「それって意味なくないですか。一度きりならともかく、常習だったら何の解決にもなってないじゃないですか。むしろ、そうやってみさご沢さんが赤ん坊を助けるから、親の危機感がなくなってるんじゃないですか」
「そうかな……、そうかもね。私の感傷にすぎないのかも」
 言いつつも、みさご沢さんはチャイルドシートを包み込む姿勢のままだ。
 赤ん坊のほうを向いているから、こちらから表情はうかがえない。
「このまま熱を奪いつづけて殺すこともできるよ。それなら意味なくないかもね」
「ちょっと! 悪い冗談はやめてくださいよ」
「いや、これは割と真面目な話。マリちゃんの復讐の話」
 人間ひとりの持つ熱を奪い尽くして凍死させる程度だったら、熱量的に風船化するまでには至らず、自我を保ったまま耐えられるのではないか――そう、みさご沢さんはあたしに助言する。
 これで復讐の手段は決まった。あとはあの男の所在を突き止めるだけだ。
 幸いにして今のあたしには、そのアイデアが浮かんでいた。
 
          *
 
 そして二週間後。
 あたしの両親によって振井マリの捜索願が提出され、いつ死体が発見されて池から引き上げられるかとひやひやしていたころ――ついに『ひゅーたろ』が公園に姿を現した。池を見物しに来た野次馬に紛れていても、あたしにはすぐに分かった。ずいぶんと怯えきった様子だが、スポーツバーで会った男に間違いない。
 男もまた、他の野次馬と同様に池を見下ろしていた。魚に餌をやるでもなく、記念写真を撮るでもなく、ただ水面をぼーっと眺めている。いや、眼球だけを動かして、池の隅々まで舐めるように視線を走らせている。
 今にもあたしの死体が浮かび上がってこないかと気が気でないのだ。
 なにしろ、目の前の池は不気味に蠢いている。水面に広がる藻の陰影がおどろおどろしい模様を描き、のたうち回る芋虫の大群か地獄で悶え苦しむ罪人の顔のごとく次々と変化していく。まるで何かの呪いのように。あるいは誰かの怨念のように。
 男の所在を突き止めるためにあたしが考えたアイデア。
 それは、池の水面から熱を奪って対流を起こすというものだった。温かい水は上方に溜まりやすく、冷たい水は下方に溜まりやすい。熱を奪われた上方の水は底の方へと移動し、ぐるぐると水の流れが生まれるようになる。それは水底の重石付きの死体を浮かび上がらせるほど強い流れではないが、水面に不気味な模様が蠢かせるくらいなら容易い。こうして、平和な公園に突如として怪現象が起こり、それは近隣住民の注目を大きく集め、結果として多くの野次馬とともにあの男を公園へと誘き寄せることができたのだった。
「み・つ・け・た!」
 あたしは右手を大きく振って、池の対岸にいるみさご沢さんに合図する。
 合図に気づいたみさご沢さんも左手を振り返してくれる。
 お互い片手しか使えないのは、もう片方の手で風船化した幽霊を持っているからだ。それも、まだそこまで巨大になっておらず地上付近に留まっているものをいくつも探し集め、髪や両足を結んで数珠つなぎにしたやつだ。競泳用プールのコースロープみたいに、風船のチェーンを池の端から端へと渡らせて、両岸から動かしてなぞらせることで水面からまんべんなく熱を奪ったのだ。
 自分のからだに不要な熱を溜め込まなくて済むところも、この計画の利点のひとつだった。とはいえ、あたしのからだは二週間前よりはいくらか膨らみつつある。頭頂部にできた大きなこぶのおかげで、今やみさご沢さんと同じ身長になっていた。みさご沢さんから吸熱をコントロールするコツを教わったものの、とうとう今日まで身につけることができなかったのだ。普通に過ごしているだけでも、あたしは意図せずして空気中から熱を奪ってしまっていた。
 それでも、あの男から熱を奪い尽くすには充分余裕がある。
 あたしは風船のチェーンから手を離し、あの男のもとへと向かった。みさご沢さんもすでに対岸から移動していたようで、あたしたちは男の真後ろで合流した。池の対流が起こらなくなったため野次馬は減っていたが、男は水面をまだ睨んでいた。
「家まで我慢。寝ている間を狙うんだよ。できたらまず、脳みそから熱を奪いなさいね。もし相手が起きていたとしても、寒さを感じる前に意識がとぶはずだから」
 先に到着していたみさご沢さんが念押しする。確実に仕留めるには、相手の意識がないときを狙うのが良いとのことだった。
「分かってますよ」
 あたしは男の背中をひと撫でした。
 背筋を走る悪寒に飛び上がる『ひゅーたろ』。
「何してんの! 我慢は!」
「いや、こうすればとっとと帰るかなと……」
 そう冗談めかして言い訳したものの、実際あたしは、今すぐにでもこの男を殺してやりたくてたまらなかった。
 ようやく復讐が果たせる。
 未練が晴らせる。
 成仏できて、このどうしようもない熱さから解放される。
 それを我慢だなんて、あんまりだ――
「あっ、帰るみたい」
 ようやく帰路に着いた男をあたしたちは尾行する。ときどき思い出したかのようにきょろきょろと背後を確認するけれど、そんなものまるで無意味だ。幽霊にとって、生きている人間の尾行ほど簡単なものはない。いや、乗り物に乗られたらちょっと面倒か。
 はたして男の住まいは、公園から徒歩圏内のマンションだった。新築っぽいしオートロックだし、あたしの住んでいたアパートよりも家賃がだいぶ高そうだ。
 堅く閉じられた鉄の扉をすり抜けて、あたしたちは男の部屋に侵入する。キッチンのそばにウォーターサーバーを発見。ビンゴだ、やっぱりこいつで間違いない。こいつがあたしを殺したんだ。
「ねえ……、何かあの人変じゃない?」
「え?」
 みさご沢さんに促されて男のほうへと意識を戻すと、あいつは居間のクローゼットに顔をつっこんでぶつぶつ呟いていた。
 右手に何か持っている。
 あれは――衣服用の消臭スプレーだ。
 スプレーのノズルから霧状の薬剤が噴出される。一度だけでは済まず、何度も何度も噴出される。男が部屋じゅうに消臭スプレーをかけまくっているのだ。ぶつぶつ言いながらスプレーを乱射する男を呆然と見ていることしかできないあたしたちだった。
 やがて男の声が聞き取れるようになったあたしは、そこでようやく、男が何をやろうとしているのか気づいてしまった。
 ――ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
 ――なむあみだぶつなむあみだぶつなむあみだぶつなむあみだぶつ。
 ――あくりょうたいさんあくりょうたいさんあくりょうたいさんあくりょうたいさん。
「こいつ、除霊しているつもりなんだ……」
 理解してしまったとたんに、激しい怒りがこみあげてくる。
 は? 何それ。
 被害者のつもり?
 我慢なんかしてられるか。今すぐこの男を殺してやる。
「ちょっと!」
 制止しようとするみさご沢さんを振り切り、あたしは男の目の前へと歩み出る。大丈夫、言われたとおり脳を狙うから。わざわざ寝込みを襲わなくても、あたしはうまくやれるから。
 ――で、でたっ! おばけえっ!
 馬鹿みたいな男の叫び声。あたしを指さして震え上がる間抜けな姿が笑える。
 一瞬、どうしてこの男に幽霊のあたしが見えているんだと不審に思ったけど、すぐに理由が分かった。あたし、勢い余って吸熱しちゃってるんだ。空気中に含まれる水分――そこらじゅうに振りまかれた消臭スプレーの薬剤――の熱を奪って、凝縮させちゃって、きっといびつな人型の霧を作っちゃってるんだ。どうでもいい。いまさら姿が見えたって構うものか。
 男はいつのまにか土下座していて、またもぶつぶつと呟いていた。謝罪の言葉か、それとも許しを乞うているのか。何にせよあたしには興味がなかった。
 土下座姿の男に上から覆い被さるようにして、あたしはからだを完全に重ねる。からだじゅうが、もう限界ってくらいに熱くなる。それでも熱を奪いつづけて、あたしは風船のように膨らんでいく。人型の霧に恐れおののいたのか、男はうわごとを繰り返すばかりで完全に無抵抗だ。
 ああ。
 やっと報われるんだ。
 顔を伏せていても、心配そうな表情のみさご沢さんが見えた。
 そうだ、最後にお礼を言わなくちゃ。
「みさご沢さん。今まで、本当にありがとうござい――」
 
          *
 
 そのとき。
 あたしはつい、男のうわごとに耳を傾けてしまう。
 からだが重なっているせいか、男の言い分を明瞭に聞き取ってしまう。
 男は懺悔する。
 睡眠薬をグラスに入れました。ごめんなさい。
 こわくなって死体を隠しました。ごめんなさい。
 でも、おれは殺しちゃいないんです。
 薬が効く時間よりも早く、あなたは意識を失っていた。
 胸をさわったら、氷のように冷たかった。
 胸だけじゃない。腕も頭も、からだじゅうすべて。
 どう考えても、あのときあなたは凍死していた――
 
          *
 
 男を殺したはずなのに、あたしはまだ同じ部屋にいた。この世への未練を晴らしたはずが、あたしは成仏していなかった。風船のように膨らんだあたしと、みさご沢さんと、男の死体がそこにはあった。
「だから、寝ている間を狙えって言ったのに。そうすれば、何も知らずに成仏できたのに……」
 そう、みさご沢さんは残念そうに言う。
 あまりに惜しかったから思わず口走ってしまった、というような感じだった。あたかも自分は何かを知っているみたいだった。
 あたしは、失いかけている自我をなんとか振り絞って問いただす。
「みさご沢さん。それってどういうことですか」
「………………」
「あたしが復讐を果たすべき相手は、この男じゃなかったってことですか」
「………………」
「凍死って、もしかして、あなたがあたしの熱を――」
「違う違う凍死じゃない。私は殺してなんかいないの。ただ仮死状態にしたかっただけ!」オーバーな身振りで取り繕うようにして、みさご沢さんは弁解する。「ちょっと実験したかっただけなの。別に誰でも良かったし、実際他にも三人くらい試してたんだけど、いくら仮死とはいっても、やっぱりすぐに蘇生できたほうがいいじゃない?」
「仮死……? 蘇生……?」
「ほら、あのお店で見かけたときは、てっきりマリちゃんとこの人は仲良しだと思ってたんだ。だから、きっとすぐに救急車を呼んでくれると思って。なのにこの人ったらマリちゃんを池に沈めちゃうなんて、ひどい話だよね」
「え……、なに?」
 彼女が何を言っているのか、まるで分からない。
「ほら、あたしの未練を晴らすためには、いつかあたしの大発見をこの世に伝える人が必要じゃない? もし仮死状態でも幽霊になることができれば、幽霊のときにあたしから研究結果を聞き取って、生き返ってから世界じゅうに広めることができるでしょ。そのために実験したかったんだよ。まあ今回は失敗しちゃったんだけどね。罪滅ぼしに成仏させてあげようとしたらそっちも失敗しちゃうし、ほんとマリちゃんってついてないねえ……」
 そこまで聞いて、あたしは思わず飛び出していた。
 みさご沢さんの両肩を掴み。
 怒りに身を任せ。
 今まで蓄えてきたありったけの熱を、あたしは放出した。
 
          *
 
 幽霊は生きている人間の姿が見えるが、生きている人間には幽霊の姿は見えない。また、幽霊がものを見ているとき、実際には受け取った熱を見ている。
 幽霊は生きている人間の声が聞こえるが、生きている人間には幽霊の声は聞こえない。また、幽霊が音を聞いているとき、実際には受け取った熱を聞いている。
 幽霊は生きている人間から熱を奪えるが、生きている人間は幽霊から熱を奪えない。逆に言えば、生きている人間は幽霊に熱を与えられるが、幽霊は生きている人間に熱を与えられる。
 つまり、幽霊と生きている人間とは、熱を通した一方的なコミュニケーションしかとれないということだ。
 では、幽霊同士だったらどうなるだろう。
 幽霊同士は互いに姿が見える。幽霊同士は互いに声が聞こえる。つまり、幽霊同士は熱を通して双方向的なコミュニケーションがとれるということだ。
 ということは。
 幽霊同士は互いに熱を奪えるし、互いに熱を与えられることになるのではないか。
 この世に向けて熱を放出することはできなくとも、幽霊同士なら熱をやりとりできるのではないか。
 ……あの瞬間にこんなことまで考えていたわけではないけれど、あのときあたしがみさご沢さんを風船化することができたのは、きっとこういう理屈だったのだろう。そして、幽霊が吸熱をコントロールするコツなんて本当は存在しなくて、みさご沢さんはずっと自分の熱を他の幽霊に押しつけることで、風船化を免れていたのだろう。
 結局、あたしは成仏することができなかった。
 あの男を殺しても、みさご沢さんを風船化しても、あたしの未練は果たされなかった。そもそも、あたしは自分の未練がいったい何なのか、もう分からなくなっていた。
 だからあたしは、今、軽自動車の中にいる。
 チャイルドシートを包み込むようにからだを屈めて、熱中症になりかけの赤ん坊から熱を奪っている。
 別に、みさご沢さんの思いを引き継いでいるわけじゃない。そもそも、何を思って彼女がこの赤ん坊を助けていたのかも、今となってはまったく理解できない。それに、これが根本的な解決になっていないのも分かっている。たとえ今日を生き延びられたとしても、常習的に車内に赤子を放置するような親のもとで、この赤ん坊が幸せに生きられるとは思わない。
 それでも、物心がつくまでこの子が生き延びられたとしたら、いったい誰を恨めばいいのか、生きているうちに自分で見定めることができるだろう。
 それは今のあたしよりかはマシなはずだ。

文字数:18411

課題提出者一覧