賢者の選択

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梗 概

賢者の選択

北川ユージは高級マンションの警備員。彼の相棒は行動予測機能のあるAIのプレディ。プレディは防犯カメラや警察のデータベースにアクセスし、危険人物を見つけて過去の行動パターンから相手の動きを予測することが出来た。
マンションを訪れた美女、優華に一目惚れしたユージは、プレディのアドバイスのお陰で不良少女アキが優華から盗んだバッグを取り返してやることが出来た。優華はマンションに住む藤堂雪乃の曾孫だった。雪乃は103歳という高齢の大富豪であり、優華は婚約者である秀人を紹介するために雪乃を訪ねて来たところだったのだ。
あっと言う間に失恋したユージは、偶然アキと再会。ユージは浮気した父親に母親を殺されたというアキの不幸な生い立ちを知って彼女に同情、「人の役に立つ人間になれ」と諭すが、生きる希望を失っていたアキはひねくれた態度を取る。
その翌日、秀人がユージに「アキにスマホを盗まれた」と言って来る。ユージは知らなかったが秀人は浮気をしており、それに気づいたアキが浮気男への反感から証拠のスマホを持って雪乃に知らせに行ったのだ。
その時、テロリストがマンションに爆破装置を仕掛けたとい連絡が入る。急いで住民を避難させたものの、アキと雪乃が爆破の炎に包まれたマンション内に取り残されてしまった。
ロボットヘリで救助に向かうユージ。しかしヘリは2人乗り。雪乃かアキのどちらかを選ばなければならない。
ユージがアキが持っているはずのスマホに電話をかけ「あんたの人生はこれからだ。生きるんだ」と言うと。しばらくして「助けて。死にたくない」というメールが返って来る。そして雪乃のスマホからは「私はもうこれ以上生きようとは思わない」というメールが届く。ユージはアキの方を救出に行く。
しかしユージがアキのつもりで助けた相手は雪乃だった。秀人の浮気を知った雪乃は自分のスマホをアキの傍に置き忘れたまま、秀人のスマホを手に優華に会いに行く途中で事故に遭ったのだった。
秀人との婚約を破棄した優華は曾祖母を救ってくれたユージに好意を示し、雪乃は自分の身代わりに犠牲になったアキの名を冠した財団を作る。そしてその財団の活動は多くの人々を救うことになるのだった。

文字数:909

内容に関するアピール

人間の行動を予測して、未来を予言するAI。
AIはあくまで持ち主に忠実で、持ち主の希望を実現することを第一に考えて助言を行います。
主人公のユージは、大富豪の曾孫である美女に一目惚れ。でも彼女には婚約者がいます。
さらにユージは不幸な少女に同情し、少女に世の中の役に立つ人間になって欲しいと言います。
未来が見えるAIの助言に従った結果、主人公の2つの希望は叶えられるのですが……
「知能の高い馬鹿」であるAIの生む悲劇の物語。

文字数:209

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賢者の選択

「伏せろ! ユージ」
イヤホンから聞こえた鋭い声に、反射的に地面に倒れこむ。頭上を何かがヒュッとかすめ、背後で物の砕ける音。振り返ると、マンションのエントランスで、割れた花瓶を前にコンシェルジェが棒立ちになっていた。自動ドアの開いたタイミングを狙って誰かが石を投げ込んだのだ。
「西門へ走れ!」
そうだ。犯人を追わねばならないのだ。
(だが、なぜ西門へ?)
などと考えている暇はない。プレディがそう言っているのだ。彼は警備アシストAI、信頼できる相棒だった。
「中庭を抜けろ!」
プレディの声に従って中庭の柵を飛び越える。何事かとこちらを見るマンション住民たちの姿が目の隅を流れていく。
植え込みを抜け、プロムナードを渡ると正面に西門が見える。
「開けろ!」
門の警備員がユージの姿を認める。
「何かあったんですか、北川さん?」
「いいから開けろ!」
ユージは繰り返す。
門が開かれる。通りへ飛び出すと目の前にミニバンが停まっていた。
「右だ、ユージ!」
言われた通りに右を見た。青いシャツの男が走って来る。距離約2m弱。
「取り押さえろ!」
プレディの声に、ためらわず飛びかかった。
男の驚愕の表情。その腕を掴む。そして一緒に道路へ転がった。同僚たちが駆け寄って来る足音。ほっとしかけたときに、またプレディの声が響いた。
「その車を止めるんだ!」
意味も分からないままミニバンに駆け寄る。同僚たちが走り出したミニバンに気づき、車体の前に回り込む。
「そいつも仲間だ!」
停車させられた車から運転手が引きずり降ろされた。
「この2人は藤堂グループが進めているプラチナタウン計画の反対派のメンバーだ。防犯カメラに記録にあるナンバープレートが映ったので警戒していたんだ」
プレディが説明する。
ニュースに疎いユージがおぼろげに認識しているところでは、プラチナタウン計画とは、富裕層向けのニュータウン建設計画のことだ。ゆくゆくはそこをを独立した行政区にする予定で、政界への働きかけも進んでいる。その計画に反対する者たちによるテロ行為が最近増えているのだった。
「先週、藤堂社長の自宅が投石の被害を受けたから、会長の住んでいるこのタワーマンションも狙われると予測していた」
「会長って、社長の母親だろ?」
「そうだ。お前の眼の前にいるあの女性だ」
(眼の前?)
慌てて顔を上げると20メートルほど先に車椅子の老婦人が見えた。
「藤堂グループの会長、藤堂雪乃。付き添いの女性は孫の藤堂優華だ」
プレディに教えてもらわなくても、ユージも藤堂会長の顔と名前は知っていた。少し前までよくテレビに出ていたのだが、最近、社長の椅子を息子に譲ってこのマンションで隠居生活を送っているらしい。まあ103歳という年齢を考えれば当然か。その藤堂雪乃の車椅子がゆっくりとこちらへ近づいて来る。
「ユージ、前方の黄色のパーカーに注意しろ」
ふいにプレディの声がした。くすんだ黄色のパーカーのフードを被った背の低い人物が車椅子の老婦人とすれ違う。
「走れ!」
プレディの指示と車椅子を押していた女性の悲鳴が同時だった。
黄色いパーカーが駆け出す。その手には白ののハンドバッグ。ひったくりだ。だがすでに追いついていたユージはすぐにバッグを奪い返す。瞬間、相手が振り返って顔が見えた。
(女の子?)
まだ幼さの残る顔立ち。中学生ぐらいか?
一瞬のためらいを相手は見逃さなかった。腕を掴んだユージの手をふりほどくと、少女はリスのようなすばしこさで通路を走り抜け、生垣を飛び越えて塀の向こうへと姿を消してしまった。
「さっきの騒動に紛れて敷地内に入り込んだようだ。追跡するか?」
と、プレディ。
「いや、いい」
ユージの仕事は、あくまでマンション敷地内の警備だ。
「お怪我はありませんか?」
付き添いの女性にハンドバッグを手渡しながら声をかけた。
「ええ、ありがとうございます、警備員さん」
女性が礼を言いながら微笑んだ。若い女性だ。かなりの美人。
「ど、どうも。警備主任の北川です」
思わずどもってしまった。顔が赤くなる。胸の鼓動が高鳴る。地面から体が浮き上がるような幸福感。
(俺が37歳まで独身を貫いていたのは、この女神に出会うためだったのか!)
「優華!」
と、後ろから男の声がした。藤堂グループの社長令嬢を呼び捨にした厚かましい男は片手を上げて走って来ると、さも当然と言わんばかりの態度で社長令嬢の白い手を握る。令嬢の方も親しげにその手を握り返すと、
「お婆様、こちらが婚約者の秀人さん」
漬物石が脳天を直撃したような衝撃。
「どうしたユージ。バイタルに精神的ショックを受けたような反応が出たぞ」
プレディがイヤホンから囁いた。
「なんでもない」
ユージは、もはや自分を見ていない3人に軽く敬礼すると、その場を離れた。

その日の21時過ぎ。ユージは安っぽいビニール張りの椅子に腰を下ろし、耳元のプレディの声を遠いつぶやきのように聞いていた。
「ファミリーレストランで食事をするという君の提案に同意したのは、1時間でワインを2本も開けるとは予測できなかったからだ。君のこれまでの行動パターンを逸脱した行動だ。そして君は明らかにアルコールを摂取し過ぎている」
目の前のグラスに目を落とす。からっぽ。だが心はまだ酒を欲していた。
チャイムを鳴らしてウエイトレスを呼ぶ。
「もう1本、お代わり」
「キャンティのボトルでございますね」
「それと、パルマ風スパゲッティも」
言いながら、するりと向かいの席に座った少女は誰だろう? 見覚えがあるような、ないような……。
「昼間のひったくりだ」
と、プレディが囁いた。
「ひったくり?」
思わず聞き返す。少女がビクリとして腰を浮かす。
「やべっ、タワーマンションの警備員じゃん」
警備員……タワーマンション……脳みそが頭蓋骨の中でぐるぐる回りながら笑い出す。いや、笑っているのは俺なのか? そうだ、俺はタワーマンションの警備員だ。でも勤務時間はもう終わっているので仕事はしたくない……。
「タワーマンションの警備員は、タワーマンションの敷地の外では仕事をしませーん」
そう答えたのが最後の記憶だった。翌朝プレディに確認したところでは、ユージはその後さらにキャンティのボトルを空け、少女を伴ってアパートに帰宅したのだそうだ。

「……それが、この娘が俺のベッドに寝ている理由か?」
「そうだ。そして彼女の名前は広瀬アキ。13歳。ファミレスで自分が飲食した伝票を他人の伝票に混ぜる手口での無銭飲食の前科あり」
「俺、カモられたの?」
「恐らく、アルコールで前後不覚の君が絶好のカモに見えたものと思われる」
「キャアッ!」
少女の悲鳴が聞こえた。振り返ると、アキがベッドの上に起き上がって叫んでいる。
「ロリコン! 未成年誘拐! 警察呼ぶわよ!」
「君は自分の意志でこの部屋に来たはずなんだけどね」
「証拠でもあるの?」
ユージはうんざりしながらプレディをPCに繋ぐ。ディスプレイにファミレスの防犯カメラの映像が映り、同時にプレディ自体の録音機能で記録されている音声が再生される。
「おじさんちに連れてってよー」というアキの声がはっきり聞き取れた。
「彼女は、同じ手口で前にもゆすりをやったことがある」
と、プレディが補足する。
「警察、呼ぶ気?」
敵意のある眼で睨みつけられ、ユージはため息をついた。
「警察は呼ばない。親に連絡する」
「親父は刑務所。ママを殺したの」
「うそだろ?」
「本当だ」
と、プレディ。
「広瀬タツオ35歳。妻を殺害した容疑で13年前に逮捕されている」
「ええと……」
ユージは困惑した。親を呼んでこの娘を渡して終わりにするつもりだったのだ。警察を呼ぶとしたら13歳の少女を一晩、部屋に置いた理由をどう説明しよう?
少女は威嚇するような口調で早口で喋り出す。
「あたしの親父はね、ママと別れて他の女と結婚したかったの。だけど私を妊娠していたママが離婚を拒んだんだって。だからあいつは、ママと一緒にあたしを殺そうとしたわけ。あたしだけは殺し損ねたけどね」
アキの唇が歪む。幼さの残る少女の顔にすれた女の表情が割り込んできた。
「刑務所に面会に行った時に言われたわ『お前さえいなけりゃ、俺は女房を殺さずに済んだし、こんな所に入らずに済んだんだ。だから一生かけて償え』って」
「ひどいな……」
ユージは自分が本気で憤りを感じていることに戸惑った。昨日会ったばかりの水知らずの子供のことで、なぜこんなにも腹が立つ?
「生まれて来なければ良かったのよ、あたし」
「そんなこと言うもんじゃない!」
反射的に大きな声が出た。
「なぜ?」
「なぜって、せっかく生んでくれたご両親に……じゃなくて……あの……せっかく……生まれて来たんだし……」
「あんた、バカ?」
鋭い目で睨まれて、ユージは口ごもる。
「ええと……君の人生は、まだまだこれからだし、いつか君が生まれてくれて良かったという人も……」
「帰るわ! バカが感染る」
アキは吐き捨てるようにそう言うと、本当に部屋を出て行ってしまった。
(……最悪だ)
落ち込んで座り込むユージに、プレディが話しかける。
「ユージ」
「今はほっといてくれよ。プレディ」
「出勤の時間だ」
ユージは、時計を見上げて飛び上がった。

「どうしました、北川さん? 元気ないですよ」
警備センターで監視モニターを眺めていると、同僚に心配されてしまった。二日酔いはシステインの錠剤で誤魔化せたが、精神に受けたダメージはどうしようもない。顔に出やすいタイプなのだ。
「いや、なんでもない。見回りに行って来るよ」
逃げるように部屋を出る。プロムナードをぐるりと巡回して建物の裏に回ったとき、見たくない顔を目にしてしまった。藤堂優華の婚約者の秀人とかいう男。秀人はスマホに向かって叫んでいた。怒鳴っていたと言うべきか。
「だから愛してるんだろ? 愛してるなら僕の幸せを考えてくれてもいいじゃないか!」
(社長令嬢は扱いにくいタイプなのか?)
ユージは相手に気づかれないように、そっとその場を離れた。
誰とも話をしたくない気分だったのに、通路を歩いていると、車椅子の女性がニコニコと声をかけて来た。
「昨日の警備員さん、北川さんね」
藤堂雪乃だった。
「悪いけれどカフェまで連れて行ってくれないかしら」
しわの中に笑顔。
「もちろんです。奥様」
ユージは車椅子のグリップに手をかけ、押し始めた。
「ゆっくりとね。年をとると早過ぎるのは目が回るの。ここは静かで良い場所だわ」
「はあ……良いマンションですね」
間抜けな返事をするユージに構わず、雪乃は独り言のように続けた。
「私もこのまま引退かしら。甘ったれの恥かきっ子だった息子もどうにか一人前になったようだし、昨日は孫がボーイフレンドを連れて来たの」
ユージの心にチクリと痛みが走る。ボーイフレンドじゃない。婚約者だ。
「良い人生だったわ。この歳になると、もう思い残すこともないわね……」
「そんな、奥様。長生きをなさって下さい」
「そういうセリフはね、歳が二桁までの人に言うものよ」
103歳の老女は、そう言うと声を立てて笑った。穏やかで屈託のない笑顔だった。

雪乃をカフェに送ってから巡回ルートヘ戻る。タワーマンションの敷地の中にはプールはもちろんのこと、レジャーセンターや映画館まである。そうした施設を含めてマンションの敷地内を警備するのがユージの仕事だった。
通路の途中で、またしても秀人と顔を合わせてしまった。
(今日は絶対に厄日だ)
おまけに、その秀人自身に呼び止められる。
「警備員、盗難事件だ!」
「何を盗まれたのですか?」
「僕のスマホだよ。中学生ぐらいの女のガキがひったくって行きやがった」
中学生ぐらいの女のひったくりに心当たりのあるユージは、内心少し動揺した。
「では、こちらのタブレットに追跡番号を入力して下さい」
画面に表示された青いマークは、盗まれたスマホがまだマンションの敷地内にあることを示していた。住民IDを持っていないアキがいるとしたら認証なしに入れるパブリックスペースのはずだ。
「1階の防犯カメラに、アキが映っていないか」
そっと囁く。
「リアルタイムの映像には映っていない」
「おい、まだ見つからないのか!」
秀人が苛立った声を上げた。
(自分の苛立ちを、他人に伝染させるタイプだな……)
返事をしようとしたとき、プレディの声が耳元で響いた。
「ユージ、非常事態だ! たった今このマンションの爆破予告が届いた」
イヤホンを通じてのプレディの声は、当然ながら秀人には聞こえない。
「ひとの話を聞いているのか? さっさと僕のスマホを……」
「緊急事態が発生しました」
ユージは、職業的な口調で秀人の言葉を遮った。
「危険ですので、直ちに敷地の外に避難して下さい」
秀人はユージを見つめた。その顔に浮かんだ侮るような表情は、直後に鳴った非常ベルの音に消し飛ばされた。秀人は後も見ずに門に向かって駆け出して行った。
ユージも非常用スロープへと走る。そこにはすでに他の警備員たちが到着していて、手分けして住民たちを誘導していた。マンションの上の階から次々に人が滑り降りて来る。顔認証システムがその顔を識別して避難者リストを作り上げる。
「全員、下に降りたか?」
「いや7001号室の藤堂雪乃がまだだ」
「彼女ならさっき、1階のカフェにいたはずだぞ」
「カフェの客はすでに避難が完了しているが、その中にはいなかった」
「電話してみよう」
住民の電話番号は警備用端末に登録してある。即座にかけるが、出ない。
「婆さん、昼寝でもしてるのか?」
ユージはタワーマンションを見上げる。雪乃の部屋は70階にあるのだ。
「エレベーターは……」
言いかけた時、爆発音が響いた。コンクリート片がバラバラと降り注ぐ。避難途中の住民たちから悲鳴があがった。
「落ち着いて下さい!」
叫んだユージ自身、少し声が上ずっている。
「爆発箇所は57階の配電盤だ」
こんな時にはプレディの冷静な声が頼もしい。少し落ち着きを取り戻す。再び電話をかけると、今度は繋がった。
「藤堂様ですか? 警備の北川です」
だが、返事がない。
「お部屋にいらっしゃるんですか? いまそこに行きます」
また爆発音がした。逃げ惑う人々の悲鳴に混じって、ユージは自分の名を呼ぶ声を聞いた。
「北川さん!」
振り返ると藤堂優華が立っていた。泣き顔だった。
「秀人さんが、婚約者の姿が見えないんです」
(あいつ、ひとりで逃げたな……)
そっとため息をついたとき、優華が小さく「あっ」と叫んだ。
「LINEに既読がつきました」
タブレットで居場所を確認する。スマホはまだマンションの敷地内にあった。
「ちょっとお借りできますか?」
ユージは優華からスマホを受け取ると入力した。
〈どこにいる?〉
返事が返って来る。
〈65階、ゲストルーム〉
「私たちが泊っている部屋だわ」
なぜアキがそんなところに行ったのか、ユージには分からなかった。そもそもどうやってマンション内部に入り込んだのだろう?
「ユージ、火災の熱でビルの鉄骨が溶け始めている」
プレディの声に我に返ると最初の爆発のあった57階を中心にビル全体から煙が吹き出していた。
「生存者の救出を急がないとビルが倒壊するぞ」
だが、階段を駆け上がっても20分はかかりそうだ。
「宅配用ドローンを使えば70階まで2分で上がれる。ドローンの最大荷重は50kg。藤堂雪乃の体重は40kg程度だろう」
(藤堂雪乃?)
ユージは、たった今まで自分がアキを助けに行くつもりだったことに気がついた。そうだ。自分の職務を考えればマンションの住民である雪乃の命を優先すべきなのだ。
近くにいた同僚に優華を任せると、ユージは宅配カウンターに向かった。カウンターの裏からドローンを取り出して起動。タブレットの操作画面を呼び出す。スマホが鳴った。優華のスマホ。画面にメッセージが表示されている。
〈助けて〉
13歳の女の子。最後に見たのは怒って部屋を出て行く姿だ。笑えばきっと可愛いはずだ。笑った顔を見たいと思った。
ポケットの中から咳き込む声が聞こえた。雪乃のスマホにかけたまま通話中だったことを思い出す。ユージは自分でも信じられない言葉を口にした。
「少し救出が遅れます。申し訳ありません。もう1人助けなければならない人がいるので」
そしてドローンを手に窓の下へと急いだ。
「プレディ、ドローンは先に65階へ向かわせる。サポートしてくれ」
いつもはすぐに答えを返すプレディが沈黙している。マンション住民を後回しにする行為に、プログラムが抵抗しているのか?
「プレディ?」
AIは、ようやく返事をした。
「分かった。君の考え通り65階を優先しよう。ドローンの操作は私に任せてくれ」
ユージの顔に笑顔が浮かぶ。そうだ、プレディはいつだって頼もしい相棒だ。
〈いまからドローンを窓まで飛ばす。下に吊るしてある宅配ボックスに入れ〉
返事はなかったが伝わったようだ。65階のバルコニーに小さな人影が姿を現わす。かなり危なっかしい様子ではあったが、なんとか手すりを乗り越え、ボックスを開けて乗り込むのに成功した。
〈いいわ。降ろして〉
タッチパネルを操作して下に降ろす。慎重に……。
だが、もう少しで地面というところで、突然ビルから吹き出した熱風に煽られて立木に激突。かろうじてボックスは無事だったものの、ドローン本体は墜落に近い形で地面に落下、そのまま動かなくなってしまった。
プロペラが大きく破損し、もう飛べそうもない。ユージは空を仰いだ。70階は煙に包まれて、もう見えなくなっていた。
「いま行きます!」
非常階段を駆け上がろうとしたが、熱に行く手を阻まれた。プレディの声が聞こえる。
「ユージ、早く建物から離れろ! 彼女は助けられない。行っても君が死ぬだけだ」
煙を吸い込んではげしく咳き込んでしまった。前が見えない。
「大丈夫ですか? なんとかそっちへ……」
スマホから囁くようなかすれ声が、かすかに聞こえて来た。
「もういいわ……あたしはこれ以上、長生きしたってしょうがないから」
そして、そのあとは呼んでも返事は返って来なかった。
ユージは、宅配ボックスに戻った。地面に転がった硬化プラスチックのボックスに耳を当ててみたが、中からは何の音もしない。不安が胸に湧き上がる。
「死んじゃダメだ! 君にはまだやることがあるはずだ! 絶対に死んじゃダメだ!」
叫びながらボックスの蓋を開く。うずくまっていた女性がピクリと動き、体を起こした。
(なぜ?)
目の前がグルグル回り出す。その中心で、藤堂雪乃が謎めいた微笑を浮かべて笑っていた。
「手を貸していただけるかしら?」
と、老婆は言った。

雪乃の身体を背負ってマンションの門を出ると、そこには優華が待っていた。驚いたことに秀人がちゃっかりその横にいる。その姿を認めた途端、雪乃はユージの背中から飛び降りた。
(あ、立てるんだ……)
「優華! そんな男から離れなさい。お前、これを見てご覧!」
取り出したのは、秀人のスマホだ。画面を見た優華の顔色が変わる。秀人が慌てて何やら言い訳を始めたが、老婦人は止まらない。
「あのアキという子が教えてくれたよ。他の女のお腹に子供までこさえたのに、出世目当てに優華に乗り換えようとしていたんだってね!」
「クソガキが、電話を盗み聞きしやがったのか!」
これはもう、白状したも同じことだった。社長令嬢が婚約者に掴みかかった。ものすごい剣幕だ。女神のイメージがガラガラと崩れる。ユージは3人に向かって敬礼すると、足早にその場を後にした。
呼吸を整え、まずは頭を整理したい。
「プレディ、いったい何がどうなっているんだ?」
「社長令嬢が婚約者に二股をかけられた」
「いや、そっちはなんとなく分かる。俺が知りたいのは、なぜアキが……」
そうだった。悲しみよりももっと重い感情が心を押しつぶそうとする。助けるつもりだった。助けようとしたのに……。
「……なぜなんだよ?」
「雪乃がゲストルームに行ったのは、秀人を問い詰めるため。アキがマンションに入れたのは、雪乃が連れて入ったからだ」
一瞬、意味が分からなかった。
「住民IDのないアキがマンションに入れた理由を考えると、招き入れた人間がいるはずだということになる。アキはスマホを盗んだのにすぐに逃げなかった。それはマンションの住民に用があったからだ。秀人のスマホを手にして会いに行ったということは、相手は秀人の関係者。タワーマンションに住む秀人の関係者は雪乃しかいない」
ユージはプレディの言葉を懸命に咀嚼しようとしていた。
「……だから?」
「雪乃に招き入れられたのなら、アキは雪乃の部屋にいると考えるのが自然だ。あのとき優華も秀人も外にいたのに、ゲストルームには人がいた。ゲストルームの入室パスを持っているのは、孫娘のために部屋の申請手続きを行った雪乃だけ」
「でも、でも……」
「君が雪乃のスマホに電話をかけたとき相手は出なかった。他人のスマホだったからだよ。おそらく秀人に腹を立てて部屋を飛び出したときに雪乃が置き忘れたのだろうね。その後、爆発が起きてさすがに慌てて電話に出たのに、相手が君だと分かると話すのをためらった。今朝、君に負の感情をぶつけてしまったばかりだからだ。これは13歳ぐらいの少女の一般的な行動パターンと一致する」
こちらを睨みつけながら悪態をつくアキの顔が目に浮かんだ。まだ怒っていたのだろうか? それとも俺が怒っていると思ったのだろうか?
「だから爆発が起きたとき、70階にいたのはアキ、65階にいたのは雪乃だったわけだ」
「じゃあ君は、何もかも知っていて、最初から雪乃の方を救出するつもりで……」
「そうだ」
手品の種明かしを聞いているようだった。少しも楽しくない手品。
「なぜ俺に教えてくれなかった?」
「ユージ、私は君の思考パターンを知っている。私はタワーマンション警備員のアシストAI。君がマンションの警備員として適切な行動がとれるようにサポートするのが仕事だ」
「もし俺がアキの方を助けていたなら……」
有能なアシストAIは、これを質問と判断して即座に答えを返す。
「彼女の言動記録から予測される思考パターンから推測して、アキはおそらく死ぬまで自分を責め続けただろうね」
無力感が心を冷たく覆う。
(つまり、俺はあの娘に何もしてやれなかったんだ……)

1ヶ月後、燃えるマンションから藤堂グループ会長を救出した北川ユージは、最優秀警備員として表彰を受けることとなった。
来賓として祝辞を述べた藤堂雪乃は、その場で経営への復帰を公表し、同時にプラチナタウン計画の見直しと藤堂グループの新たな事業として低所得層への福祉を目的とする財団の立ち上げを発表した。
「広瀬アキ記念財団」
雪乃が財団名を高らかに読み上げる。
「私の身代わりになって亡くなった少女の名を冠しました。永遠にその名が忘れられることがないように」
(身代わり? じゃあ……)
呆然とするユージに、プレディが囁く。
「雪乃は、君が自分とアキを取り違えていることに気づいていたよ。むしろ救出されるために君の勘違いを利用したと言っていい」
「俺は、何を信じていいのか分からなくなったよ」
ユージのつぶやきは、拍手と歓声にかき消された。プレディは続ける。
「前に君は、アキの方を助けたらどうなったのかを私に質問したね? その答えは既に教えたはずだ。現実に君に助けられたのは雪乃の方だ。雪乃なら自分の身代わりになって死んだ少女の人生を無駄にはしないだろうと予測ができた。そして私の予測では、広瀬アキ記念財団は、今後、多くの人間たちを幸福に導くはずだ」
プレディの予測は常に正しい。
(だから俺は選択を誤ってアキを助けてしまうような愚行を免れたのだ。雪乃を死なせ、アキに生涯の重荷を背負わせずに済んだのだ)
けれど、涙が溢れて来る……。
壇上に呼ばれ、賞賛の声を浴びながら、それを受けるべき者が自分ではないことをユージはぼんやりと感じていた。無駄な涙を流すことなく、冷静に正しい判断を下すAIこそが、真の賢者と呼ばれるにふさわしい者であるはずだから。

文字数:9683

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