きみのタオ

選評

  1. 【藤井太洋:1点】
     シーン単位ではよく書けているが、監禁ものとして溜まっていくフラストレーションがまったく解消されないのはどうなのか。完成度はいちばん低いと感じた一方、すごく面白い小説に化ける要素は秘めていると思う。アナグマの登場も遅すぎた。梗概通り、序盤からに登場させたほうがよかったのでは。

    【新井久幸:2点】
     バランスがおかしくなっていて、この話で一番書きたかったのは何なのか、監禁なのかな? と思ってしまった。普段たくさん小説を読む人は喜びそうな変化球だが、そうでない人にとっては、「結局なんだったんだ?」ということになりがちで厳しいかも。狂った思考は、端からは無茶苦茶に見えても、実は狂った論理が強固に働いているはずなので、そこの異常な論理も味わいたかった。迫力はすごいのだが、内なるリビドーに振り回されず、冷静に外側から客観視して作品を作るのも、エンタメには大事。また、悲鳴や叫び声や擬音などは、「ぎゃああああ」とか「いぃぃぃぃ」とかそのまま書かず、具体的な音は読者の想像に訴える方がいい。文字にすることで、陳腐さが出てしまうこともある。「饐えた臭い」など、雰囲気はあるがちゃんと説明できないような表現も、諸刃の剣。可能な限り、自分で選び抜いた、「他に置き換えられない」表現を模索したい。

    【大森望:3点】
     あのプロットが、どうしてこんな監禁ものになってしまったのか。これまでに提出された実作で、梗概との落差にいちばん驚いた作品。エンタメSFというテーマからは逆方向に振れているが、監禁の描写に妙な生々しさがあり、そのリアリティで全体を読ませてしまうような、反則技の面白さがを感じた。筆が暴走してプロットを破壊するのも小説の醍醐味なので、その勢いを評価したい。逆に、不条理さ・異様さで売る手もあるが、だとすると冒頭は説明的すぎてミスマッチ。

    ※点数は講師ひとりあたり6点(計18点)を3つの作品に割り振りました。

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梗 概

きみのタオ

 来栖の高校には救世主〈ミコトコ〉がいて、誰がそうなのかはずっと秘密にされてきたんだけど、来栖はひょんなことからその正体を知る。川島なゆた。来栖はなゆたの容姿と心の美しさに、小さい頃に亡くなった母親を重ね合わせて心酔し、手前勝手な幻想を与えてひそかに崇めていたから、信仰心に突き動かされるまま、「学校帰りにあとをつける」という陰湿な手口によってなゆたの家を特定した。
 緑道のマンホールの下の暗渠(あんきょ)には公衆トイレみたいな家が一軒建っていて、なゆたは一人でそこに住んでいる。暗渠には汚物や生活排水とともに人の悪意が堆積していて、なゆたはそれらを食べて暮らしている。「ミコトコ」は「命庫」で、救世主はその特別な胃袋に膨大な数の命を飼っている。なゆたの胃液はどろりとした樹脂に似ていて、摂取した悪意の汚物がそこに浸かると、胃液が凝固し、〈タオ〉とよばれる宝石をつくる。悪意の汚物と、胃の中に寄生する様々な生き物の命をひとまとめに固めたタオ結晶は、虫の化石が入った琥珀によく似ている。そしてそれはミコトコの糞便なのだ。なゆたはタオを排泄する。イボイモリ、マダラサソリ、ハムスター、ウスバアゲハ……石の中にはなゆたのお腹の中に棲んでいた様々な生き物が混じっている。タオは外気に触れると静電気を発光するから、なゆたの家の前に広がる汚物のプールには、タオが放つ飴色の光がいつでも点々と瞬いている。
 なゆたがタオを排泄する姿を覗きみた来栖は、宗教的感慨に打ち震え、使命に目覚める。こんな生活をしているなゆたは不幸に決まってる、俺はなゆたを永遠に大切にしてあげたい——相手の気持ちを一切無視した独りよがりな妄想に駆られて、来栖はなゆたを暗渠から攫う。

 〈ウロノアナグマ〉は汚穢を食べる獣で、普段は暗渠からのびた細く暗い洞の奥に隠れすみ、時折暗渠に這いでてきてはミコトコが排泄したタオを食べて生きている。ミコトコの救世主たるゆえんは、アナグマたちを餌付けし、地下に留めておくことができること。なゆたが来栖に連れ出され、タオが排泄されなくなったことで、望町(のぞみちょう)地下のウロノアナグマは食べ物を失い激しい飢餓に見舞われる。耐えきれずついに地上に出たアナグマたちは、悪意のにおいに誘われて、醜い心を持った人間を捕食し始める。
 ウロノアナグマの大量発生に対し、国家は非常事態宣言を発令する。アナグマによる被害拡大を未然に防ぐため、観測地点である望町の周囲に円形の高い壁が設営される。こうして町は外部から隔離され孤立する。
 町の中では魔女狩りが始まる。「責任を放棄して逃げ出したミコトコを吊し上げろ」と、皆が血なまこになってなゆたを探し始める。来栖はなゆたを伴い逃亡を続ける。ウロノアナグマは旺盛な食欲のままに捕食を繰り返す。交わり繁殖し、被害はさらに拡大する。なゆたは責任を感じて泣き始めるけど、そのとき来栖は丁度、「なゆたがいかにして俺のトラウマをぬぐいさり救ってくれたか」を熱っぽく語っているところだったので、「なゆたが俺の話に感動している」と勘違いしておわる。それから具合のいい場所を見つけてなゆたを監禁し始める。

 長い年月が経って非常事態宣言が解除される。自衛隊が町に入ったときには、望町内のウロノアナグマは一匹残らず餓死している。理由は明快で、彼らは町中の〈人の悪意〉をひとつ残らず食べ尽くし、もう食べるものがなくなってしまったのだ。そういうわけだから望町の生存者は心の優しい人たちばかりだった。そして彼らは望町を優しい新世界に作りかえた二人の若者を神のごとく崇めている——来栖となゆたのことだ。苦しい魔女狩りの時期を乗り越えついに神の座を手にした二人は、周囲の祝福に応えるように夫婦になる。
 結婚初夜、ベッドの中で来栖はなゆたに昔の話をする。タオを排泄するなゆた、その神聖な光景を初めて見たときの感動……できることならもう一度見てみたいけど、とうぶん無理かな、この町にはもう悪意が残ってないから。そんなことはない、となゆたは言う。ねえ、目を瞑って。来栖は言う通りにする。そうして無防備に差し出された来栖の裸の胸に、なゆたは鈍色に光るウロノアナグマの牙を突き立てる。
 血だらけで苦しみもがく死に際の来栖になゆたは囁く。「きれいなタオを見たいんだよね? 望み、叶えたげる。とびきり大きなのをひり出してあげる。簡単だよ、私がきみを食べればいいんだもの。なぜってきみは病的に思い込みの激しいナルシスト、浅ましいハイエナ、この町にただ一人残った、最後の悪意の宿主なんだから」
 来栖が生前最後に聞いた言葉はなゆたのこんな一言だった。——死んでしまえ、この汚物め。

文字数:1926

内容に関するアピール

■「負荷」と「カタルシス」
「相手に対する自分の勝手な思い込みをその相手に押しつけるのって、内容はどうあれ暴力と同じじゃん?」というようなことを考える機会が最近あったので、その苛立ちを小説にしようと思いました。その上で今回の課題は「エンターテインメントを書きなさい」ということだったので、自分に酔ってちゃってる系の思い込みの激しい主人公によってヒロインが振り回され酷い目に遭う描写を積み重ねることで、読者に負荷をかけ、苛立ちを煽り、そして最後に浅ましい主人公に然るべき報いを受けさせることで大きなカタルシスを生み出す、という構造を意識して設計しました。
「こんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく」と宮沢賢治は『なめとこ山の熊』の中で書いていて、そうなったらいいなあとときどき(あくまでときどき)思ったりするのですが、現実はもうちょっと不条理です。真っ当な因果応報なんて今の時代フィクションの中にしか存在しないし、裏を返せばフィクションの特権といえなくもないので今回は愚直にそれを行使してみようと考えました。

■暗渠小説
 最近自分の中で「暗渠ブーム」が来ているので、暗渠を舞台の一つに設定しました。暗渠は悪臭を防ぐために蓋をして隠してある、地下に埋設された汚水の通り道です。何やらいかにもセンス・オブ・ワンダーなことが起こりそうな場所だ。

文字数:585

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きみのタオ

       

 おいしいご馳走を満足ゆくまでお腹いっぱい食べたり、柔らかで清潔なベッドでぐっすり眠ったり、愛する人に抱かれて安心して眠ったり。花を見てきれいだと感じたり、友達のなんでもない言葉に温かな友情を感じたり、ちょっと思い切って大胆な服を着てみたり、長い長い小説を読み終えたあとでゆっくりコーヒーを飲みながら空っぽの頭で達成感と一抹の寂しさの余韻に浸ってみたり。——これはそういう真っ当な幸せを、手放すことではないからね。あなたはちゃんと幸せになれるからね。
 ……ごめんね。本当に可哀想だね。でも今だけだからね。きっとちゃんと、すぐに治すから。
 十六歳で、私が裏返ることが決まる。
 〈救世主〉。私はそれにならなくてはならない。
 母さんの言葉は正直だけど薄っぺらで大きな欺瞞を抱えてる。
 私は知ってる。
 私たちは命の倉庫だ。私たちはこの町を癒やす。だけど同時に奴隷でもあるのだ。犬みたいにこの町に繋がれて、どこへ行くことも叶わない。
 私は母さんの欺瞞を指摘しない。代わりに言う。
「大丈夫だよ、母さん。ひとりでもちゃんとやれるよ。今まで何度も母さんのやりかたを見てきたから」
 安心して、母さん。これも薄っぺらな欺瞞を含んだ言葉。

 救世主は〈表〉と〈裏〉のバランサー。身体の中にたくさんの命を飼っている。表側で汚物を食べて、裏側で宝石を産み落とす。そういうわけだから、これからの川島那由多は普通じゃない。それでも他の子たちとおんなじにテスト前には試験範囲を総ざらいするし、ラクロスだってがんばってる。好きな男の子だってちゃんといるのだ。
 クラスメイトの皆居広矛くんがほかのクラスメイトと話しているところはあまり見たことがない。ミナイくんは休み時間には大抵本を読んで過ごす。女友達の意見はおおむね一致で「顔はそこそこいいけどなんか暗い」。
 でも私は彼に興味を持っている。
 何を読んでるんだろう。どんなふうにしゃべるんだろう。無理に周囲になじもうとしない孤高の印象も、みんなの感想とは違って、悪くないよねって私は思う……。
 勇気を出して話しかける。
「何読んでるの?」
「え、ああ、川島さん? 」
 思ったよりも気さくで驚く。ミナイくんはわざわざブックカバーをはずして本の表紙を見せてくれる。
「あっ、春樹じゃん」
 めくらやなぎと眠る女。図書館のシールが貼ってある。
 ミナイくんは少し照れくさそうに言う。「好きなんだ、村上春樹」
 共通の好みを見つけた私たちはすぐに仲良くなる。ミナイくんは映画にも詳しい。『アビエイター』、『ゴーン・ガール』、『ブロークバックマウンテン』、『ライフ・イズ・ビューティフル』、『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』。少し打ち解けるとミナイくんはいろいろな映画の話をしてくれるようになる。私はミナイくんの話す映画を見てみたくなって、下校の途中で三洋堂に寄って映画のDVDを借りて帰るのが日課になる。翌日にはミナイくんと見た映画の話で盛り上がる。ミナイくんは映画論みたいな本も読んでて(四方田犬彦?)、あそこのあの場面にはこれこれこういう意図があって……みたいなことをいろいろ教えてくれる。その仕方がとても上手で、私のレベルにきちっとあった言い回し、絶妙の情報量でそうしてくれる。
 錯覚だってわかってるけど、自分がどんどん映画に詳しくなっていってる感じがして気持ちいい。
 このままずっといい関係が続いていくんだろうと考えていたのだけれど、そうはならない。タイシがミナイくんのことを疎ましく思い始めてるってことがだんだんわかる。
「ミナイくんは一緒にしゃべってても異性を感じさせないところがよくて、だからタイシが考えてるみたいなことじゃないからさ」。……なんて私はタイシに言ってその場はタイシもそれで納得してくれる。
 でもそのあとですぐに、私は自分が〈ミコトコ〉であることをミナイくんに話してしまう。何でもない雑談の流れからいつの間にかそうなってしまう。……ううん、秘匿の義務があるわけじゃないし私自身も特に隠したりしてるわけじゃないから別に構わないことではあるのだ。でもそのときミナイくんは「生まれたときからそんなふうに苦しいことを特別強いられてるなんておかしい」って言ってなんだか自分のことみたいに怒ってくれる。
 私はそのことにぐっときてしまう。
 え? 嘘……。私は自分自身の気持ちの変化に引いてしまう。駄目じゃんこれってタイシに対する裏切りっぽい……。
 自分がとてもいやな人間になってしまったような気になる。それでしゃべったときは本心だったタイシへの言葉が嘘にすり変わってくみたいに感じ始める。このことはタイシと私の関係性に当然のように悪く作用する。
「タイシはいつも私が別の人に奪われるんじゃないかとかって、そんなことばっか考えてるよね」
 自分の中の気持ちのゆらぎとかそこから生まれてくる不安とか罪悪感、そういうものを棚上げにして私の口はしゃべる。
「そんなに安心できない? そんなに私のこと信用ならない?」
「信用とかの話じゃなくって、いやだって言ってるんだよ」
「男の子と話しちゃいけないの?」
「そんなこと全然言ってないよ。ただあいつとはさすがに仲良くすぎっていうか、べたべたしすぎなんじゃない?ってこと」
「タイシ、私とミナイくんがしゃべってるの見たことあるの?」
「廊下歩いててときどき目に入ることもあるし、それになゆたのクラスのやつが教えてくれるんだよ」
「何それ、おかしくない?」私は自分の声に険がこもってることを自覚し始める。だけど止まらない。「スパイでも雇ってんの?」
「まわりが心配して俺に話してくるんだよ」とタイシは言う。「『川島さん、皆居くんとすごく仲いいみたいだけど大丈夫なのか?』って。なんか同情っぽい言い方で聞かれたりしてるよ最近は」
「そうなの? 他人の意見とか世間体とか、タイシはそんなくだらないことどうして気にしてるんだろう?って思うけど」
 しきりに強い言葉を吐き出しながら私は内心で「ああまずいなあ」って考えてる。だけど言葉はどれも気持ちとは全然真逆の力を持って私の中から滑り出してくる。
 私は言う。「誰のこと言ってる? 『心配してくれる』とかって」
「誰って、別に特定の誰か一人とかじゃないからさ」
「例えばだよ。石原さん?」
「だから特定の一人じゃないって」
「そうなんだ。でも仲良いんじゃん? あの人とタイシって」
「今は関係ないから。そのことについてしゃべったこともない。……なゆたはあいつのこと好きなの?」
「あいつって? 誰のこと?」
「……」
 ミナイくんのことだよね。ごめん、もちろんわかってる。でもそのことについて話す前に、一呼吸必要なんだ。
 考える。タイシはミナイくんに対して強い嫉妬の感情を持っている。私のことを本当に好きでいてくれているのだ。その気持ちを私はうれしく感じるけど、同時に今はうとましくも感じてしまってる……。
 どうして?
 自分の中に生まれた疑問を結局はひとまず保留にして私はタイシの質問に答える。
「ミナイくんのことね」と私は言う。「いい人だと思うよ? いろいろ親身になってくれるし」
 タイシは露骨にいやそうな顔をする。「え、何それ……」
 その顔だよ、と私は思う。
 なんか、うんざりする。タイシにとって私って何……?
「あのさ、私、タイシの気持ちがわかんなくなってきたよ……」
「こっちの台詞だって」タイシは呆れたみたいな顔をつくっていう。「何なの? 親身とかって」
「タイシは私のことを物みたいに扱うね」
 そうなんだよなあ。私は自分から出てきた言葉にこころの中でうなずく。タイシとしゃべってるとときどき、タイシは私を装飾品か何かみたいに自分の手元に置いておきたいのかなって感じるときがある。そのことに気づく。
「なんかあいつに大事な相談でもしたの?」強い言い方でタイシは聞く。
 会話がすっかり食い違ってしまっている。そのことを私は当たり前につらいと感じる。でも、あ~、もう元には戻らないかも。そんな予感がする。私は自分の正直な気持ちがだんだんわかりはじめてる……。
「タイシは今だってそうだけどいつも自分のことばっかじゃん」
「違うよ。今聞いてるのはなゆたのことじゃん。あいつとなんの話したんだよ?」
「ちがくないって。全然そんなことないよ。それだって結局は自分のことだよ。私のこと信用できなくて、自分が私に裏切られて、自尊心とか周囲の評判とかに傷をつけられたりしないかって気にしてるんじゃんタイシは」
「そんなことないよ」
「そこに私、いなくない?」
「そんなことないって!」
「嘘じゃん! そこに私の気持ちについて考える回路はないじゃん!」
 いつの間にか声が震えている。涙だって出てくる。
 感情の塊でぶん殴るみたいに、私はしゃべる。
「私だってたまには辛くなったりするんだよ! 悩んだり不安になったりするんだよ?!」
「……」
 私はふだんおっきな声なんてほとんど出さないし、タイシの前でこんな風に怒りを露わにしたのは初めてのことで、だからタイシはほんとうにびっくりしていて、言葉もなくして黙り込んでしまう。どうしたらいいのかわからなくて戸惑っているのがわかる。目が泳いでる。
 それから、タイシは結局言葉もなく黙ったままで私の肩を抱きしめてくる。
 私はうつむいて顔を隠す。泣きすぎで顔がぐちゃぐちゃになってると思う。
「考えてるよ……」とタイシは優しい声で言う。
 私はうつむいたまま首を横に振る。「ぜんぜん考えてくれてないよ……」と私は言う。「私、自分がミコトコの仕事をしっかりやりこなせるかどうかってこと、すごく不安に感じてる。怖すぎて死んじゃいそうって思ってる。そのこと、タイシは知っててくれてる?」
「……」
「知らないよね」
「全然そんな素振り見せないから……」
「察してよ」
「……悪かったよ。けどはっきり面と向かって言ってくれたらなんでもできるじゃんか」
 そうだね、と私は言った。気の抜けた声だと自分で思った。
 それから、なにげなく投げ出した自分の言葉——
「ミナイくんは〈ミコトコ〉のことで怒ってくれたよ」
 ——これに自分ではっとなる。口に出したことで腑に落ちたことがある。そうなんだ。この人には、私が望む、好きな人に求める、大事なものが欠けてるのかもしれない——。
 その推測はどうやら合っている。タイシがそのことを裏づける。
「ちょっと待って」とタイシは言う。「あいつに話したのか……? そのこと、あいつに?!」
 タイシは裏切られた顔をしている。私はそんなタイシの表情をどこか滑稽に感じ始めている。
「話したけど。だったら何?」
「なんでだよ! どうして——」
「どうしてってだから別に隠してるわけじゃないんじゃん」
「でもよりによってあいつに——」
「だから仲いい友達なんだって。スパイの人が教えてくれたんじゃないの?」
「やっぱあいつのこと信頼してんだな」
「そうだけど。だったら何」
「さっきの! 『親身になって』ってそのことか!」
 ああもううざい!
 タイシが熱くなってくごとに、私の気持ちはかえって冷めていく。だんだん嗚咽も減って泣き止むことができる。呼吸を落ち着けることができる。
 うん、もう大丈夫。
 私は言う。「『生まれたときからそんなふうに苦しいことを強いられてるなんておかしい』って。ミナイくんはそう言って怒ってくれて、私はそれをうれしいと感じたし、『ああそっか、私、不自由なんだ』って。気づかされたのね」
「じゃあやっぱり、なゆたはもうあいつに——」
 あくまでその論点にしがみつくのね。もううんざりとか呆れたりとかもないよ。タイシはこういうふうにものを考える人なのだ。それを知った。……悲しいことだけど。
「〈ミコトコ〉の問題はこの町でも一番特別の問題だから、なるべくそっとしておいたほうがいいってみんな考えてる。タイシもそうだったね」
「全体的にそういう空気だから、そうするのが正しいと思ったんだよ」
「空気読む前に私に聞いてよ。一番近くにいたんだからさ。それか私がどんな気持ちでいるのか想像してよ。思いやってよ」
「何も考えてないみたいに言うなよ! ずっと考えてたって! お前はそのことについて触れてほしくないんじゃないかって、そう思ってたんだよ!」
「その想像は完全に間違ってるし、やっぱ私がどう思ってるのかタイシは聞いてほしかった」
 もう、なんなんだよ!……とかいって激昂して頭をかきむしったりしてるタイシの狼狽ぶりを観察しながら、「っていうか『お前』とか、上から目線だなおい」って私は考えてる。それを私はとてもいやだと感じるけど、だからといってわざわざ言葉にして彼に届ける必要性は残念ながらもう感じてない。
「別に聞かれてないけどいうね」と私は言う。「今度私、ミコトコの仕事を一人でやることになったの。春につづけて母さんの代わり。あのときは母さんもついててくれたけど、今度は完璧に一人だよ。
 私、今からもう怖くて、不安で、胸が張り裂けそうなんだよね。そのこと知ってた? ……知らないよね」
「……」
「そうだよね。聞いてくれなかったもんね」
「ごめん、なゆた……」
「謝ってくれなくても全然いいよ。……あのね、ミナイくんは聞いてくれたよ。どうにか避ける手はないのかなって、ほんとに親身になってくれたし」
「あのさ、なゆた、俺……」
 タイシは青ざめた顔をしてる。
「その日は学校も休むの。その日にタイシがずっとそばにいてくれたら心強いのになって今日まで思ってた」
 タイシは私の肩にそっと手を置く。私はその手を払いのける。
「でももういいよ。やっぱ一人でいい。今はすごく悲しいけど、一緒にいて楽しい時間はほんとにたくさんあったと思う」
 私はタイシと別れる。
 それから私の日常は変になる。翌日登校すると私の机の中に二つ折りのノートの切れ端が入っていて、開けると「あばずれ」って書いてある。その翌日には、化学実験室で授業を受けて教室に戻ると前の黒板に大きな文字で「かわしまなゆたはすずかたいしと付き合いながらみないひろむともヤッてる。というかぶっちゃけ誰とでも寝る淫乱女。援交の噂も本当かも? 一戦交えたい男は土下座して頼み込め!」って書いてある。数日後の雨の日、下駄箱の靴がなくなる。グラウンド脇の部室の裏手の溝の中で見つける。泥だらけでぐっしょり水気を含んでしまったそれを履いてみじめで泣きたい気持ちをこらえて帰る。職員室にも呼び出される。黒板に書かれた中傷がSNSで拡散してそのせいで校内でもすっかり話題になってしまっててさすがに先生たちにも届き、そのことを受けて私は呼び出しを受けたのだった。「援交の噂」について聞かれる。もちろん強く否定するし私の剣幕に驚いて先生も私を信じてくれたように見える。でも私の自尊心はめちゃくちゃ傷つく。
 タイシは私の気持ちを汲んではくれなかったけれど人を傷つけて平気な顔でいられる人じゃなかった。だから私に今こうしていやがらせをしてきているのはタイシじゃないと私は思ってる。でも、だったら誰? ……わからない。でも誰がこんなことをしているのか突き止めたいって気持ちも大して強くは湧いてこない。そんな余裕はなくて、今はただこの悪意の嵐から身を隠す避難場所がほしいと私は思う。
 ミナイくんがそれになってくれる。必要以上に私をいたわる言葉をかけず、ただ普段通りに笑ってそばにいてくれる。かけがえのないともだち。私はミナイくんがいてくれて本当によかったと感じる。タイシと別れた日から、あの日タイシに伝えた、夏の〈食事〉の日まで二週間。この二週間は本当に悪夢みたいで、私はたくさん傷ついて人を信じる気力もなくして、それでも悔しすぎて、誰に対して敵対心を燃やせばいいのかもわかんないけどその誰かに絶対負けたくないって思えて、それで休まず学校に通い続ける。ミナイくんが支えてくれなかったらきっと無理だったと思う。
 最悪の二週間を乗り切る。一人きりの〈食事の日〉がやってくる。
 いつもと同じように七時きっかりに起きる。胃の中をきれいにするために三日前から水しか飲んでいない。重い身体を引きずって部屋を出る。広々とした廊下を抜けて一番奥の扉の前にいく。母さんの寝室。呼びかける。「母さん」
 返事はない。きっとまだ寝てるんだ。
 二階建ての大きな家は二人で住むには広すぎる。母さんは気にしてないみたいだけど、私はささやかなアパートでも借りてコンパクトな生活がしたいと思う。広い家は寂しい。母さんが部屋から出てこなくなってからは尚更強くそう感じる。
 キッチンでお湯を沸かす。ソファに腰を下ろして、空腹でぼーっとした頭でテレビをつけ、何も考えずにザッピングしながらルイボスティーを少しずつ飲む。普段は学校へ行く時間になっても今日はそのままソファでだらりとしてる。今日のことはもちろん事前に伝えてある。大事なことだから昨日今日じゃなくてかなり前の話。
 シャワーをあびる。さっと出ようと思ったけど途中で思い直してバスタブにぬるめのお湯を張る。お風呂でのひとつひとつの事柄に、たっぷり長い時間かける。
 タイシは当たり前だけど来ない。もしかしたら自分は少しだけ期待してたのかもしれないって気づく。馬鹿なやつ、私。
 鳴らないスマホ。鳴らないチャイム。自分は一人だし孤独だなあと感じる。私はそれでも、私を孤独のまま放置するタイシやそのほかの人たちを守るためにこれから〈食事〉をするのだ。いつになく重い腰をあげる。いつもはおろしてる髪を頭の上でおだんごにする。大鉈はクローゼットの中のハードケースに隠してある。それを取り出す。
 表向きは一見美しいものも、その裏側には汚いものを隠蔽している。緑豊かな望町には〈裏〉がある。〈表〉と〈裏〉の狭間が〈ミコトコ〉のダイニング。町の底に埋設された暗渠がそうだった。
 母さんと私が住む家は町から貸与されたもの、庭には望町の底に隠蔽された暗渠に繋がる専用の通路がある。庭の景観をいちじるしく損なう公園の公衆トイレみたいなコンクリート造りの殺風景な建物が私は好きではなかったけど、好みなんて今はどうでもいい。扉にかかった無骨な錠前を開けて、私は中に入る。窓すらないから薄暗い。前にこの扉を開けた春のときから季節いっこぶんの時間ここに留まりつづけたすえた空気の充満する息苦しい空間、その中心に、真っ暗な地下への階段だけがある。足がすくむ。春のとき母さんがついててくれても怖かったのに、今日は一人で下りていかなくちゃいけない。
 いやだ、ほんとうにこわい。
 やめる?
 ——ううん、ありえない。
 ミコトコはこの町につながれた奴隷。元より選択肢なんてないんだ。
 手のひらで冷たい壁に触れながら、底へおりていく。だんだんと悪臭が鼻をつくようになる。汚物の匂い。くらくらする、死にそう……。ゆっくりのペースだけど、おそらく十分以上も下り続けたと思う。そうしてようやく暗渠に降り立つ。
 そこはだだっ広い汚物のプールだ。私の立つ階段前の足場から、プールの真ん中をつっきる細い通路が延びている。
 手すりに手を掛けて通路を進むと、〈彼ら〉の声がだんだんとはっきり聞こえるようになる。
 通路の終端に島がある。悪いこころは、島の真ん中で根を張っている。真っ黒な樹。墨みたいな黒色の太い幹から無数の枝が伸びる。
 実っている。枝になった実の数を数える。……八個。まじか多いな。
 悪意の果実。悪いこころの、中でも一番悪い部分が濃縮されたもの。これを食べるのがミコトコの役割だ。
 悪意の実は人の頭部そっくりの姿をしている。肌色の皮膚と黒い髪を持っている。それらはみな共通した要素を持ってる。悪いこころを抱いている。苦しみとか痛みにさらされてる顔、やらしい感じに引き攣ったえろい顔、憎らしい相手を恨む顔……どれもまともじゃない。
「ころっおまっきひぃ。ぜっ、しなすゆる」
「かばわなぐねぇの? ダショウ、ヌズミヴォアタライダドォゴデなんも変わるまい?」
「この女まじ殴りたい。髪の毛引っつかんで地べたで引きずり回したい。つーかまわしたい」
 みな思い思いに自分勝手に、口々に何かをしゃべってる。それらはみな不快感を催すトーンでしゃべられる。グロテスクな樹の容姿、醜悪な人面の果実の容姿、果実たちのしゃべりの不協和音。ああもう怖すぎる、気が狂いそうだ。
 それでも私は母さんの代わりをきちんと務めなくちゃいけない。
 ——きっとちゃんと、すぐに治すから。
 そう、今だけ。母さんの病気がよくなるまでの辛抱だから……。
 私は勇気を振り絞って樹に近づく。ぎとぎとの髪がはりついた果実の後頭部をつかみ、ぎゅうっと引っ張った。鉈を持った反対の手を振り上げて——
 ——太い枝の付け根部分に思い切り振り下ろした。
 イヴィイイイイイイイイ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 果実が悲鳴をあげる。この世のものとは思えないその悲鳴に、背筋がかちんこちんに凍っちゃいそうな気持ちがする。枝の切断面からガソリンみたいな液体がどぼどぼとこぼれでる。同時に他の実たちの間に絶望的な動揺が走り、束の間騒然となる。けれども彼らは大して知能が高くないから、すぐに悲劇を忘れて大人しくなる。
 最初にもいだその果実は、五十代くらいのくたびれた中年男の顔をしている。うすい髪があぶらぎっている。彼はすがるような目で私を凝視して、しきりに懇願した。「いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだやめてぇ!!!!!! やめてぇ!!!!!! やめてぇ!!!!!! やめてぇ!!!!!!」
 やめないってば。
 ここまできたらもう立ち止まらずやりとげるしかないのだってこころに決めた私は、覚悟を決めて目をつむり、大口を開けて後頭部に齧りつく。じゅわ、と果汁がしみだす。頭の一部がそげ落ちる、断面はざくろによく似てる。果汁はかすかに赤い半透明。味は……ノーコメント。強いて言うならみかんとか柑橘系のそれに似てる。ほんとうのそれよりかなり酸っぱいけど。
「アレレ。アレ。アレレレラ」
 その果実は口がなくなるまでしゃべりつづけた。
 ……さ、次の果実。
 今度は若い女性の顔。長い髪をもった美しい人だった。私は思い出す。そういえば前回、長い髪は喉に絡まって随分食べにくかったっけ……。
 のっけからハードル高めじゃない?
 げんなりするけど文句を言っても意味がない。彼女は私をじっと見つめてる。目が据わってる。ぼそぼそと呟かれるか細い声は何を言っているか聞き取れない。
「いただきます」
 引っつかみ、もぎとり、囓る。悪い夢でも見てるみたいな時間がひたすら続く。救世主の〈食事〉がこんなふうに野蛮そのものの体裁を持ってるなんて、誰も思わないだろうな、はあ。——長い時間をかけて、私は八つの頭部を完食する。

 風が気持ちいい夜だった。開けた窓のそばで、カーテンがひらひらゆらめいている。花瓶が射しこむ月光を浴びて、おぼろげな幽霊みたいに見える。〈ミコトコ〉は「命庫」の意味、私の身体は命の倉庫。時間の経過とともに、私の中に住んでいたたくさんの命が新入りである〈悪いこころ〉の存在に気づき始める。お腹に触れるとあったかいから、彼らが活動を始めたんだとわかるのだ。
 私は寝室の照明を消す。パジャマをたくしあげると、お腹の中の彼らはうっすらかすかに発光を始めている。これからきれいな宝石を産み落とすために、準備をしているのだ。きれいだ、と私は素直に思う。一人で暗渠に下りるのはほんとに怖すぎるしいやすぎる、できることならもう二度と勘弁って思ったけど、がんばった甲斐があったかも?って今はほんのちょっとだけ思えてる。ベッドの背もたれに上半身を預けて、あったかいお腹をさすってみる。……ちょっと笑ってしまった。ほんの少し、妊婦さんになったみたいな気持ちだ。
「川島さん」
 ——え?
 最初に目についたのは床の上に広がる水たまりの中に横たわる青い花。さっきまで窓際の花瓶に挿してあったもの——
 ——それから気づいた。
 ゆれるカーテンのすぐそばにミナイくんが立っていた。
 その手に逆さまの花瓶が握られている。
 ミナイくんはゆっくり私のベッドに近づいてくる。
 水滴が一粒、瓶の口からきらめいて落ちた。
 ミナイくんの足音はとても静かだ、と私は思った。
 ミナイくんはなぜか泣きそうな顔をしていた。
 そして彼は言った。「僕のものになってくれますか?」
 ミナイくんは手にした花瓶を振り上げた。
 頭の中で鈍い音がした。目の前が真っ赤になる。

       

 目が醒めるとそばにミナイくんはいなくて私の身体は檻の中にある。
 一瞬笑ってしまいそうになる。何この状況? マジで?
 記憶をたどる。悪いこころを食べた。一人でもちゃんとやりとげたはずだ。その充実感を覚えてる。あったかく光るお腹をさすってあの日の夜、寝室で……
 あ。
 ——目の前にばんと突きつけられたみたいに、私にむかって花瓶を振り上げたミナイくんの姿が浮かんだ。
「うわあああ! 助けて! 助けてください! 誰かいませんか! 閉じ込められてるんですわたしはここ! 殺される〜〜〜〜〜!!!!!!!」
 檻をがちゃがちゃ揺すりながら張り裂けそうな声で叫び続けたけど誰も来てくれないしそれで私はうろたえまくって檻をこじ開けようとがちゃがちゃやる。檻といっても留置場だとか刑務所だとかにあるそういうのじゃなくてたぶんこれは犬用のケージとかでそれも小型のやつじゃなくて中型とか大型犬用だ。鉄棒を左右に押し広げようとしてがんばってでも無理で思い切り蹴っ飛ばしてそれでもやっぱり無理で、あとは力いっぱい肩をぶつけてみたりがんがん手のひらで殴ってみたり冷静に考えたらあんまり効果のなさそうなこともやってしまう。自分の立たされた状況の危うさを認識してしまったことで恐怖心は一気に高まってしまったらしくて、私は我を忘れて力の加減も忘れて暴れに暴れてしまう。呼吸がぜえぜえ荒くなり、身体が熱を持って、それで夜に殴打された箇所がじんじん痛むことに気づいて「っうう〜痛い〜」と思わずうめき、頭を押さえて横になる。
 じっとして呼吸を落ち着けてるとだんだん冷静さが戻ってくる。頭のじんじんする痛みも少しずつおさまってくる。
 落ち着け私。よく考えるんだ。それによく見て。
 自分の周辺から。痛む頭部には包帯が巻かれてる、自分で処置した記憶なんてないから人の手によるもの、……たぶんミナイくん。パジャマを着てる、夜に自分の部屋にいたときのままだ、脱がされてないってことは気絶してる間にやらしいこととかされちゃってるかもしれないって可能性を少しでも減らしてくれる気がする。……うん、ポジティブにいこう。頭の痛みに気がいきすぎて気づくのが遅れたけど、さっき檻に打ちつけたせいで身体が痛い。と、身体に意識を向けたところで私はさらに気づく。身体のふしぶしが痛む。というのはケージにがんがんやったせいとは違ってて、身体中の筋肉がかちこちに凝り固まってぎちぎちになっているのだ。これはケージの中のつるつるした床の上で寝ていたからかもしれない。そしてそれはそんなに短い時間じゃないのかも。
 どれくらい?
 檻の外に目をやる。薄暗い部屋だ。広くて十畳以上はありそう。ここは壁の突き当たりで、壁を背にして正面、部屋の真ん中あたりに、木製の肘掛けのついたベージュ色の三人掛けソファが一つ、その奥に頑丈そうな扉。右手には壁一面を覆う大きな棚があってレコードがぎっしり詰まってる。その一部がジャケットをこっちに向ける形で陳列されてるからそれがレコードのコレクションだってことがわかる。左手の壁には銀色の四角い箱がたくさん置かれていて、液晶がこっちをむいて青く光ってる。京都駅前のビックカメラかどこかで見たことある、高級オーディオセットみたいなやつじゃないかなって見当をつける。
 最後に後ろを向いて、のっぺりした白いスクリーンが壁にかかっていることに気づいた。ということはここはシアタールーム兼オーディオルームだ。ならここには窓がないけどそのことも納得だ。
 で、だとしたらとてもまずい。完全に防音されたこの部屋じゃさっきみたく大声をあげて大暴れして助けを求めたりしても意味がないのだ。
 やばい妄想が浮かぶ。これはミナイくん、私に対して末永く悪を働きつづけるつもりなのでは?

 ミナイくんは私をここに押し込めて普通に学校へ行ってて夕方になって戻ってきたらしい。つまり窓も時計もないから今までわからなかったけれど今の時刻は夕方で、私は〈食事〉の日から合わせて二連続で学校を休んでしまったってことだ。
 ミナイくんは何も聞かなくても、今日学校やニュースで知ったことを、これまでとなんら変わらない平気な顔、普通に仲の良い友達に向けるような気さくさで教えてくれる。命の倉庫、〈命庫〉の代理人であるところの私の行方がわからなくなったことはもうすでにばれてるらしい。偉い大人の方々みんなマジでその事実を深刻に受け止めたっぽくて、早朝には早速捜索隊が組まれて捜索が開始されたという話。だからきっと暗渠にも入っただろうし、だとしたら少なくとも私が〈食事〉をちゃんと済ませたってことは確認がとれてるんだろう。そして彼らはきっと母にも話を聞きにいっただろう。ただし、これは特にどちらにとっても大した利益はないだろうな——私を捜す彼らにとっても、母さんにとっても。母さんは今まともに話のできる状態じゃないし、なんだったらこれまでも私が母さんの面倒を見るなかでときどき起こってきたみたいに、予測不能の唐突な興奮がはじまって激しく怒りだして、両手の爪で思いきり黒板をひっかくみたいな例のあの怖ろしい金切り声でひたすら叫んで暴れまくって家具を壊し壁紙をかきむしり、彼らを困惑&狼狽させたかもしれない。そして母さんの身体の中でそのとき病状がどれくらい深刻な方向に進行していたとしても彼らにはどうすることもできないのだ。命庫の身体の構造は他の人とは根本的にちがうからだ。
 頭部の包帯はミナイくんが手当てしてくれたんだと思うし、とりあえず私に危害を加えるためにこうして檻の中に閉じ込めたんだってわけではない気がする。ミナイくんはソファに腰掛け、スマホをいじりながらティーカップの中のお茶だかコーヒーだか何かしらを飲んでいる。
「うん? なに?」
 ミナイくんのことをじっと観察している私を見返して、ミナイくんは首をかしげてにへらと優しいスマイル。このシチュですごいな、と私は思う。私は彼の笑顔の裏側に隠されてるのかもしれない危ないものがいつ表側に出てくるのかって怯えてる。でも何もしないではいられないのだ。注意深く言葉を選んで、話を切り出す。
「あのさ」
「うん、なに?」
「ここってミナイくんのおうちなの?」
「そうだよ」ミナイくんは照れくさそうに答える。「あ、女の子が来てくれたのははじめてかも」
 来てくれた? 殴られて目が醒めたらここにいたんだけど。自由意志ないし、どう考えても誘拐とかそういうのだよね? 私はまたもりもりと大きくなっていく不信感をどうにか抑えこんで代わりに気軽な感じの笑顔をなんとか作る。うまくできてるかわからないけど……。そして言った。「お金持ちだったんだね、ミナイくんのおうちって」
「そうかな。どうだろう」
そうだろうが。ごく一般的な家庭にはこんな防音完備のシアタールームなんてないよ。
 それからミナイくんはいきなり言う。「ごめんどうかしてたよ」。それで私はミナイくん正気に戻ったの!?ってささやかな期待を持ちかけるけど、
「あ、ミナイくん!? ちょっ、待って!」
 ミナイくんは立ち上がって部屋から出て行く。
 しばらくして戻ってきたミナイくんの手には浅めのお椀があって、それを檻のすぐそばの床に置き、地面すれすれの鉄棒の隙間から檻の中にずずっと入れた。
 お椀の中には水が入ってる。
「気がつかなくてごめん」とミナイくんは言った。「自分一人で紅茶飲んだりして、悪かったよ」
 私は驚きすぎて一瞬言葉をなくす。それから、限界だ、と思って言う。「あのさ、いい加減ここから出してくれない?」
 ミナイくんは不思議そうな顔で私を見つめてる。
 一気に頭に血が上りそうになるのをなんとかおさえて私はゆっくり諭すようにしゃべりだす。「ねえミナイくん、どういう気持ちでこんなことしてんの? っていうか自分が何やってるのかわかってる? 私気絶してたから確証ないんだけど、君の話だと昨日の夜。君、私に何した? 花瓶で殴ったよね? この傷の手当てはミナイくんがしてくれたんだね? 一体どういうことなの? どうしたいの? ミナイくん、ちょっと今、頭ん中でやばいスイッチが入っちゃったりしてない? 冷静に考えてみてよ? これってフツーに犯罪だよ!? 私の部屋勝手に入ってきて、殴って、こんな檻ん中入れてさ! 出してよ! ふざけないでよ!」
 というふうに冷静に諭すつもりがしゃべるうちにだんだん熱くなって最後は感情の赴くままに大声を出してしまうけど仕方ないと思う……。ミナイくんは私の目をじっと見つめ続けていて、ときどきさも「わかるよ」ってふうにうんうん、ってうなずく。
 それから「うん、わかるよ、わかる」とまじに声に出して言う。
 かちんとくる。
「わかるわけねえだろ!」私は言う。「わかるっていうならさっさとここから出しなよ! 水なんか持ってきて『さあ飲め』っつって犬の真似とか、あんた何考えてんのよ変態!」
「水飲むときは手をつかっちゃだめだよ」
「え……?」
「君は犬だから」
「………………!?」
 はぁぁぁぁあああああああああっ!?
 私の右手ががしんと檻を叩いて揺らす。手の甲がひりひりするけど怒りのあまり痛みは感じない。
「出せよこっから!」私はがなる。
 ミナイくんは怒りまくる私を涼しそうな顔でじっと見つめたまま何も言わない。その様子が私の火にさらに油をそそぐ。
「ここから出せ変態サイコ野郎!」がしん! がしん! がしん! がしん! がしん!
 私のそばを離れようとする背中においここ開けろふざけんなと大声で罵倒を浴びせるけど、ミナイくんは聞こえてないみたいにマイペースな感じでレコード棚に近づいていく。棚の一番下に入った収納ボックスをがちゃがちゃ物色して、それから私のところに戻ってきた彼の手には手錠がある。
 なんなのこいつ……!?
 ミナイくんは檻を開けて中へ入ってくる。私は怒りのボルテージ最高潮の状態から一気に冷めて代わりに恐怖心でいっぱいになる。お尻をついたまま後じさって後ろの檻に背中ががつんとあたる。それからすぐに逃げてる場合じゃないこれは数少ないチャンスなんだと思い直して、火中の栗を拾う思いでミナイくんにつかみかかった。
 すぐに痛感する。男の子の力には全然かなわない。ミナイくんが私の頭を思いきり掴む。指が私の頭の傷を包帯ごしにぎゅんむと押して、私は痛すぎて悲鳴をあげてしまう。彼はそのまま私の頭を床にこすりつけ、這いつくばらせる。頬が固い床にめりこんで罵倒の声もうまく出せなくなる。彼は馬乗りになって私の両手を掴み、それらを腰の後ろで一つに束ねた。
 やめて!
 やめない。かちゃりと小気味いい音がして私の両手が拘束される。
 ケージは再び閉められてしまう。
「待って!」すがるようにして鉄の棒を掴んで私は言った。「お願いがあるの」
 今日一日、今までずっと我慢してきたのだ。もう限界だった。
「力でかなわないことはわかったし、絶対もう抵抗したりしない。だから、……お願い、トイレ行きたい……お願いします」
 ミナイくんは快諾するように軽く二度うなずいた。
「ほんと? ありがとう!」
「ちなみに」と彼は続けた。「この家って今はもう親もいないし、ここに住んでるのは僕だけなんだ。だからどれだけ大声を張り上げても意味ないし、やめてね無駄だから」
 その言葉が本当かはったりかはわからないけれど少なからず私は落胆してる。でも今はもっと差し迫った問題が控えてるのだ。「わかった。わかったよ!」
 ミナイくんはさらにもう一度うなずいてみせ、それから普通に部屋を出て行こうとする。
「え、待ってよ!」
 トイレは——と続けようとしたらミナイくんはこっちを振り向いて、「そこでしていいから」と笑顔で言った。

 翌日も私はいろいろなことを我慢する。おしっこも我慢するし前日の夜にもう一度やってきた彼がお水と同じ要領で差し出した牛乳でひたひたのフルーツグラノーラも食べない。トイレにいかせてもらえない以上食べたり飲んだりなんて絶対したくないし、このまま監禁がつづくならそうやって食べも飲みもせずにだんだん弱ってやつれてく私の姿を見て彼もついに罪悪感を抱いて私を解放するところまで持っていってやる、なんて思う。
 だけどそんな抵抗の意志も時間には全然勝てない。
 今では私はもう差し出されたものは全部残さず食べていて、それでも毎度の食事(といったらいいのか餌といえばいいのかわからない)の分量はとても少ないから結局だんだん弱ってやせ細っていってるのが自分でもわかる。糞便で汚れたケージの中をヒロムがときどき綺麗に清掃する。
 パジャマは最初に汚してしまったときにヒロムが剝ぎとった。今このケージの中で私を暖めてくれるのはヒロムにもらったブランケット一枚、でもこれも三つ目で、私が自分の排泄した糞尿で生地を汚すたびにヒロムはブランケットを新しいものと取り替え、それから私を折檻して、「これからは僕のことを下の名前で呼ぶように」とか「僕が学校から帰ってきたときにはお帰りなさいって意思表示としてお尻を振ってみせてね。犬がうれしくて尻尾を振るみたいに」とか、あるいは「お手」、「おすわり」、「おまわり」なんかの王道芸を仕込もうとする、っていうか仕込んでいく、私に。
 しばらく経つとケージから出ることが許される。ヒロムは檻をどこかに片付けてしまい、私の自由が少し増える。シアタールームの扉は外から鍵をかけられるように造られてるからここから出ることはできないし、それに室内でも完全に自由に動き回れるってわけじゃなくて、私はケージから出された代わりにスクリーン右手の壁に繋がれてる。だから鎖つきの首輪が届く範囲までしか移動できない、せいぜい部屋の四分の一ってところ。しかもヒロムの前で二足歩行をしちゃだめでちゃんと犬らしく四つん這いで歩くことが義務づけられていて、これを破るとお仕置きが待ってる。
「仮になゆたが今ここで僕を殴って気絶させるなり殺すなりしたところでどうしようもないしむしろなゆた自身の状況も悪くなってくだけだよ。僕は絶対になゆたのその首の輪っかをはずす鍵を持ってこの部屋に入ってきたりしないし、それにここは圏外でスマホも通じない、僕がいないとなゆたにご飯を運ぶ人もいなくなってなゆたはここで餓死するしかなくなると思う」
 ヒロムは私に笑いかけて言う。
「僕たちは運命共同体だ」
 私はヒロムの話にしきりにうなずき同意を示しながら、ぼんやりとした頭で、ああ圏外なんだ、じゃあここってやっぱ地下室なのかな、なんて考えてる。
 ヒロムは学校から帰ってきてからのほとんどの時間この部屋にいるけど、ときどき何か用があったりで早いうちに出ていこうとするときがあって、そういうとき私はなんとかしてヒロムのことを引き留めたいと思うようになってしまう。一人でいる時間がすごく寂しく思えて、立ち去ろうとするヒロムの足にすがりついたり、頬をこすりつけたりするようになる。大抵は優しくあしらわれて終わりだけど、ときどきは一緒に過ごす時間を延ばしてくれる。
 夜は、毎日が寂しい。ヒロムの生活は規則正しくていつも二十三時すぎにはここを出て行く。たとえそのときまで部屋にいなくても二十三時前後には必ず来て、私におやすみっていう。それはヒロムにとって神聖な儀式なんだと思う。就寝前、ヒロムはシアタールームの照明をオフにする。そうすると私のお腹の命たちが輝き始める。私はヒロムの座るソファの前で仰向けになる。ヒロムは上半身を曲げて私のお腹をさする。私の光る下腹部を見つめるヒロムの目はとてもきれいで純粋そのもので、裏表なんか何もないように見える。
 神聖な儀式を終えて「おやすみ」と言って部屋を出て行くヒロムの背中を見送るとき、私はいつもとてもつらく、空しくなる。私は一人でヒロムがやったのを再現するみたいにお腹をさする。
 お腹は前よりもずっと大きくなってる。力強い命が中で蠢いてる。

 命庫が生成する〈タオ〉は、悪いこころでお腹の命をくるんで作った光る宝石で、〈ウロノアナグマ〉に捧げるための供物だ。ミコトコは一つの季節ごとにタオを作り、アナグマたちにこれを食べさせてお腹をいっぱいにさせてやることで、彼らが表の世界に出てくるの防いでいる。これをやらないでいると、町の〈裏〉に棲むアナグマたちが腹を減らして〈裏〉から〈表〉に裏返る。人の悪意が大好きな彼らは、悪いこころを持つ人間を食べに地上に這い出てくるのだ。
 私はヒロムに何度もこのことを伝えて説得を試みてきた。けれども一度も聞き入れられないどころか、むしろそれ以前の問題で、ヒロムには、私の言葉も気持ちも届かない。都合の悪い話は絶対に届かないように、ヒロムの精神構造はできているみたいだった。
 そして今では、働きの悪くなった私の頭は少しずつ近づいている大きな危機を正しく危機と認識しなくなってきている。
 そんなとき、私の思考のおよばぬ場所で、潜在的な無意識が私を糾弾しはじめる。
 それは悪夢として立ち現れる。夢の中で母さんが私を責める。

 お前は本当に可哀想だね。こんなのってないよね。生まれてから今まで、まっとうな人たちが感じるまっとうな幸せなんて一度だって感じたことないものね。おいしいご馳走を満足ゆくまでお腹いっぱい食べたり、柔らかで清潔なベッドでぐっすり眠ったり、愛する人に抱かれて安心したり。花を見てきれいだと感じたり、友達のなんでもない言葉に温かな友情を感じたり、ちょっと思い切って大胆な服を着てみたり、長い長い小説を読み終えたあとでゆっくりコーヒーを飲みながら空っぽの頭で達成感と一抹の寂しさの余韻に浸ってみたり……。
 お前にそれらはいつまでも訪れないね。
 お前は倉庫だから。命の倉庫だから。救世主は倉庫だから。権利なんてなくてあるのはただ利用価値だけだから。どれだけ隠してもどうせいつか誰もがお前をそんなふうに見るようになる。

 断言するけど、お前はもうどこにも行けないから。

 私は自分の悲鳴に驚いて目を醒ます。頬が涙で濡れていて、寝てる間に泣きはじめたんだろうけど、目が醒めた今もそれは止まらない。嗚咽が口にせりあがってくる。えっく。えっく。
 犬同然の生活の中で鈍磨していた頭が少しクリアになる。
 私は今母さんとの約束を反故にしようとしている……。責任に押しつぶされそうだ。でもどうすればいいの?
 ……ううん、「どうすれば」とかいってる場合じゃないことはわかってる。このままじゃもうすぐ、人が大量に死ぬ。でもどうすれば。ううん、でも。

 命庫の私自身がこのままじゃまずいと思っているのだから命庫の仕事を知っている勤め人たちの焦りがそれ以上なのは当たり前のことだ。悪いこころを食べて失踪した私がこのまま裏返らずアナグマたちにタオを捧げることもしなかったとしたら、町は大変なことになる。そのことを彼らもはっきり理解している。
 ある日青ざめた顔で戻ってきたヒロムが話し出す。滋賀県初の非常事態宣言が発令されたんだという。最悪の場合起きかねない未曾有の被害を想定して災害対策本部が発足された。望町全域に敷かれた厳戒態勢の中で、警官たちは望町を中心とした八童(やわらべ)市住民の避難誘導を進めはじめる。町の中を見回る警官の頭数が増えていく。京都、岐阜、三重、福井……近隣の県からたくさんの警察官が入ってきてる。
 町の環境が一変する。命庫の失踪によってアナグマの裏返りが起きる危険性が急上昇してる、そのことがネットを中心に話題になる。媒体によっては「望町はすでに死の町!」みたいに書かれ、モンスターじみたイメージが蔓延していく。町の外、あるいは県外からの物資の流入が途絶えてしまう。買い占めも起きる。八童市内のスーパーやコンビニから食料品、衣料品の類がどちゃっとなくなる。その後はより物騒になっていって、小さな暴動が頻発するようになり、空き巣狙いの犯罪が増え、レイプだって起きてしまう。
 それらのことを受けて今日、宣言の警戒レベルが引き上げられる。
 十八時以降の外出の全面禁止。
「こんなことになるなんて……」
 ヒロムの顔はますます青ざめている。唇がふるふる震えてる。想像もしてなかったんだね。ヒロムはこういうことまで考えるには子どもすぎたんだね。
 私はヒロムの肩にそっと手を置いた。いつもなら犬はそんなふうにはしないよねっていってまた折檻なんて言い出して私のお尻を何度もベルトで叩いたりするところだけど、今日はそうされない。代わりにヒロムは捨てられた猫みたいな目つきで私を見る。私の胸に顔をうずめる。
 静かに泣き出す。
 私はヒロムを抱きしめる。少しだけ気の毒に思う。歪んでしまっているけれど、元はといえば私のために憤って、私の自由のためにしてくれたことでもあるんだ。そして私は最初ヒロムのそういうところに魅力を感じた。そのことを思い出す。
 ううん――私は浮かんだ考えを否定する。母さんの夢を思い出す。私は母さんとの約束を守って責任を果たさないといけない。
 例えば。……こうして優しくすることで、ヒロムの心を掌握できたら。

 眠っているのか起きているのかわからない時間が続いて、かすかに鳴る音楽につられて目を醒ますと隣で一緒に寝ていたヒロムがいなくなってる。ソファの上に一枚のレコードジャケットが置いてある。私の持ってる知識の範囲内で読める文字だけでもなんとか解読しようとする。たぶんだけど、チャイコフスキーの『交響曲6番』かな……? もの悲しくて感情の渦の力強さに充ち満ちた旋律が、小さな息づかいに寄り添うような、聞こえるか聞こえないかくらいのとてもささやかな音で鳴っている。
「救世主。それがいかに重要な立場にあるのか、よくわかったよ」
 ヒロムが言った。ああ、いたんだ。
 わかってくれたんだね。……私は声のした方に目を向ける。真っ白なスクリーンの前――以前は前には私のケージが置かれてた場所に彼は立ってる。私のお腹の光が照り、彼の影が大きくスクリーンに映り、化け物みたいに見えた。
「ヒロム……?」
 私は思わず目を疑いたくなった。もしくは私はまだ淡いまどろみの中にいて、これはまだ夢の延長なんじゃないだろうな?
 違う。これは本当だ。
「あいつらだって変わらない」怒りに満ちた目でヒロムは言う。「誰も彼もなゆたを道具扱いしてる。結局は鈴鹿泰志と一緒だ」
 ヒロムはセーラー服を着てる。
 スカートから伸びたヒロムの太腿やすねは毛深くて、肩は無理に押し込んだみたいにきつきつで、その全体的な調和の乱れは生理的な嫌悪を催させるのにじゅうぶんだ。
「それ、どうしたの……?」
「でも僕はちがう」私の問いかけにヒロムは答えない。「僕は戦う、なゆたの自由のために」
 私を見つめるヒロムの目は、今なぜか同情の色に満ちてる。
「こんな重い責任を、君はこれまで背負ってきたんだな、たった一人で……」
 は?
「人の命をこころ一つでどうこうできる立場に君はある。罪深いよな……」
 え?
「君は罪を背負うべきだよ」
 待って、何の話をしてるの……?
「君はアナグマを放っておくことで悪い人たちを自由に殺せるんだ」
 なにそのえぐい考え方……。
「なのに君はその力をこれまで使ってこなかった。予定調和に甘んじていた。わかるよ、手を下すのは辛いもの。僕がその荷物、半分背負うよ」
「あのさ、もしかして、だけどそれってこういうこと? 私はアナグマにタオを捧げるのをやめるべきで、そのことはとてもとても精神的な苦痛を伴うことだけれど私はそうすべき、その負担を軽くするために、ヒロムが支えてくれるの……?」
 私の言葉を聞いたヒロムは目をつむり、深い苦痛の滲んだ顔をしてみせた。さらには額に手を当てて自己の苦悩を主張するみたいに首を左右に振ってみせた。
「僕がなゆたを救うよ」
 愕然とした。この人は人が死ぬってことがどういうことかわかってないのだ。この人は人の気持ちが善悪の二元論でくっきり区別できるほどわかりやすくはない複合的なものだってことを全然知らないのだ。
「僕はもう、後戻りできないんだな。でも、絶対にやりとげてやる。どれだけ苦しんでも。俺は一人の少女を救うために、この世界を敵に回すんだ! なゆたのためなら、僕は悪魔にさえ魂を売ってやる」
 目に決意の色が宿っちゃっている。
「そうだ、あのときだって……!」
 あのときって?
「あのときだって僕は、なゆたを傷つけることすら厭わなかった! 引き裂かれそうな気持ちを抱きながら、君のことを悪く言う言葉をたくさん綴ったんだ!」
「待って、じゃあもしかして、あのとき——」
 あの残酷な手紙、援交してるとかって噂とか……
「——あれってヒロムが……?」
 ヒロムは深くうなずいた。それもなぜか照れくさそうに。私は頭がまっしろになる。私の制服を着たヒロムはいつもの柔らかい笑みをつくって私に近づく。たんまり膨らんでいる私のお腹に触れた。
 嬉しそうに言った。「あ、今蹴ったよ」
 気づいたときには、私はヒロムの顔につばを吐きかけていた。
「あ——」
 と思わず漏れたのはヒロムじゃなく私の声で、それ以降私はしゃべれなくなる。
 ヒロムの拳が私の頬骨を打ったのはわかった。目をつむるひまさえなかった。けれどもそれ以上はわからなかった。以降加えられた徹底的な暴力は、視覚的には「頭の中で散る火花」みたいな観念的な像としてしか見いだせない。
「なゆた、そのうちわかるよ」とヒロムは言った。言葉を発している最中も絶え間なく殴り続けた。「僕だけが君のことを幸せにできる。今は信じてくれなくてもいい、きっとわかるときがくる」
 犬だった私は全身痣だらけのぼろ雑巾になる。全部すんでから喉元に「うっ」とせり上がるものがあって、大量に吐血した。仰向けに寝ていたから吐き出した血の塊が喉に逆流してむせこみ、思わず咳き込み、それで血が飛び散り、私に覆い被さるヒロムの身体を赤く汚した。
 ——え。
 この人はもしかしたらそういう機能を持ってないのかもしれない、なんて思い始めていたんだけど。
 ヒロムの下半身が怒張していた。

 最近は安定していたヒロムが珍しく昂揚した顔つきで戻ってきて、開口一番、「鈴鹿泰志の父親は馬鹿だよね」と言う。
 タイシ自身じゃなくて、タイシのお父さん?
 聞けばこうだ。
 今となってはいつ始まってもおかしくないアナグマの〈裏返り〉を前に町の緊張は極限まで高まっている。その緊張の糸をぷちんと切ったのがタイシのお父さん、鈴鹿行正。滋賀県立大学で民俗学を教えてる彼は博識で周囲の人たちにも一目置かれてる。そんな彼が今になって話し出したのは〈福州市1916年の災厄〉のこと。2016年の望町と同じように当時中国福建省は福州市で〈命庫(ミンクゥ)〉が恋愛関係のもつれから世を呪い自らの役割を放棄、代わりに福建の霊媒師〈タンキー〉たちがまじないによってウロノアナグマの裏返りを止めようとしたけど無理だったらしくて、結局市の中心部の地の底からわらわらと這い出してきた飢えたアナグマたちが逃げ遅れた人々を次々捕食、最終的には広大な福州市全体に及ぶ甚大な被害が出た。
 鈴鹿行正の言に煽られて不安に駆られた望町住民および近隣の八童市住民たちは大混乱に陥る。鈴鹿行正は住民不安を助長する危険因子として拘束され、さらには非常事態宣言のレベルがさらに引き上げられて今度はいよいよ「二十四時間の全面的な外出禁止」が言い渡されるけどもう遅い。
 動乱がはじまる。みんながみんな我先にと八童市外へ、さらには県外へと宣言そっちのけで自主的な退避を始める。このことを受けて多く集まった警官たちはいっこうに見つからない命庫の捜索を一時中断して住民の避難誘導にまわらざるを得なくなる。
 宣言に沿って私たちの高校も休校になる。それでヒロムも怪しまれないように毎日学校に通い続ける必要がなくなる。
 それで翌日ヒロムは朝から私を犯してお昼前に私を犯してそれからランチのあとのデザート感覚で私を犯して三時のおやつ感覚でも私を犯して夕方も犯す。あそこにいろんなものをつっこまれて背中やお尻は鞭の痕でミミズ腫れだらけ、お昼すぎのときは首をしめられて私は一度落ちて、目が醒めると痣の数が増えていてどういうわけか左手があがらなくなってる。口の中で舌をんぬべ、とやってそれで、あ、奥歯が一本ないんじゃない?って思うけどそういえば奥歯が一本欠けているのは前からだったと思い出す。今日はずっとベートーヴェンの第九が爆音でリピート再生され続けていてさながら時計じかけのオレンジのウルトラヴァイオレンス。ヒロム、アレックス気取りか?って私は思う。
 けど大丈夫。まだ生きてる。
 ヒロムはキマってる。かっこいいってことじゃなくてハイになってる方の意味で。アルコールもドラッグもなくても人は第九でハイになれるのだ。目が据わっていて、足取りはふらふらと覚束ない。
 きっとそのことが油断につながったんだと思う。
 夕方一度部屋を出ていったヒロムがしばらく帰ってこなくて不思議に思っていると、三十分くらい経って扉がいつもとは違う感じでばんと勢いよく開く。ヒロム、何か怒ってるの?と徹底的に調教された私は思い、すぐに到来するであろう嵐に備えてとっさに犬のポーズになる。
 でも入ってきたのはヒロムじゃなくてタイシだ。
 タイシは四つん這いになって媚びるみたいな目で自分を見上げる元カノを見下ろしてかちんこちんに固まる。
 そのとき、開けっ放しの扉の向こうから階段を下りてくる慌てた音が聞こえてくる。ほんの数秒後にはもう見慣れてしまったセーラー服姿のヒロムが現れる。顔面が私みたく血と痣でぐちゃぐちゃになったヒロムが
「なゆたにさわったらころぶっ!!!!!!」
 って言う。
 たぶん「なゆたにさわったら殺す」って言おうとしたんだろうけど口を動かしている最中にタイシの躊躇ない一撃にやられて「す」が「ぶ」になったのだ。反撃かなわずにヒロムはその場に倒れ、きっと舌をかんだのだろう、口から血の塊を吐き出してる。
 タイシは「皆居なんか眼中にない」とばかりにすぐにヒロムから私に視線を移した。
「タイシ! 助けて!」と私は言った。ついにやってきた好機を逃す手はなかった。
「やったのか?」
 は……?
 私にはタイシの言葉の意味するところがわからない。
「やったんだな!? この変態と! やったな畜生〜!」
「裏切り」とか「浮気」みたいなニュアンスでタイシは怒ってるんだとわかる。確かに私の身体は汗と汚物と何度となくひっかけられたヒロムの精子でべたべたになっていて弁解の余地はないなぁ、と思う。でも正直何を弁解する必要もないのだ。私とタイシはとっくに別れてるんだから。
 タイシは一度鼻をひくっとさせて——悪臭が鼻についたのだろう——顔をしかめ、それから憎悪剥き出しで言った。「淫乱女が! 死ね!」
「お前が死ねぇぇぇええ!!!!」
 気づけば部屋の床を這いすすんでタイシの足下まで来てたヒロムが、どこかに隠し持っていたナイフでタイシのアキレス腱を刺している。
 タイシが獣みたいに絶叫してその場にうずくまる。
 ヒロムは生まれたての子ヤギみたく頼りない足取りで立ち上がると、タイシのお腹の上をまたいで私のそばまでやってきて、
「なゆたに触んな! 殺すぞ!」
 とさっきヒロムが言おうとしたこととまるきり同じ台詞を吐いているタイシを無視してスマホを取り出す。二つ折りのスマホケースを開けて中についた小さなポーチの中に指をつっこんでがさごそやると、そこから出てきたのは小さな鍵だ。ヒロムはそれを私の首輪の後ろ側にあてがう。
 がちゃがちゃとたどたどしい音がして、首輪がはずれる。
「逃げるよなゆた!」ヒロムが言った。身体を抱き起こすようにして立たせてくれて、それから急にまた腰が沈み、倒れ込む。
 タイシがヒロムをつかみ転ばせたのだ。
 やめろ、お前が、はなせ、くせえんだよ、死ね、お前が死ね。無意味な罵声を互いに浴びせあいながら、地面の上でもつれまくるけど結局力で勝るのは身体の大きいタイシで、タイシはヒロムの身体を押さえ込み背中を踏みつけて立ち上がる。事態の展開に頭が追いついていかずにその場で立ち尽くしてる私の両肩に手を置いて、
「どっちだ! お前、どっちを選ぶんだ!?」と言った。
 どっちとかじゃないことは自明だろ、と私は思うけど、そんな不毛な反論をする時間があるなら今すぐにこの危ない二人を置いてここから逃げるべきだ、と鈍りきった私の頭はなんとかこの場における最適解を導き出す。
 タイシをどう振り払おうか、と考えているときにいきなり陣痛がやってくる。お腹がぎゅーっと締めつけられるような感覚に私は思わず下腹部を押さえてうめいてしまう。
 こころの中に残った最後の良心がこのことに反応してタイシは動揺を見せる。私の肩を強く握りしめていた手を放して見るからにあわあわしているタイシ。その肩を私は突き飛ばした。尻餅をついたタイシの上にヒロムがすかさず覆い被さり、
「何しやがるやめろ! おいなゆたお前騙したな!」
「逃げてなゆた! あとで落ち合おう!」
 もう何がなんだか……と思いながら私は傷だらけ汚物だらけの身体を引きずってついに地上に出る。一瞬眩しさに目がやられそうになる。とても長い時間あの地下室にいたと思うけど夏はまだ終わっていない。真昼の太陽はぎらぎらと地上に降り注いで、今は私に力を与えてくれてるような気がする。
 ずっと監禁されていたヒロムの家は琵琶湖の湖畔の新興住宅地にあったんだと知る。家の前の道路に止めてある自転車はたまに後ろに乗せてもらったりしたタイシのもので、不用心なことに鍵はかかってない。遠慮なく拝借する。すぐ傍を湖岸道路が走っているから道に迷うことはない、なんて思ってるうちに案内標識も見つかる。いつもは車のびゅんびゅん行き交う湖岸道路に今は一台の車も見当たらない、と思っていたら暑さでゆらぐ道の先に、高機動車とかっていうんだっけ? カーキ色の車が何台も列を作って走ってくる。よく見ると後ろの荷台にヘルメットを被った、車と同じくカーキ色一色の人たちがたくさん乗っている。
 地下室でヒロムに聞いていたいろいろな話が現実の質感を伴って蘇ってくる。今ここはもう私の知っている世界とは違う世界なのだ。
 私は少し迷うけど結局自転車ごと茂みの中に入って高機動車をやりすごす。私の事情を聞いて協力してくれればいいけど、すでにたくさんの人が県外に避難してるらしいし犯罪なんかも起こって多大な実害が生まれてるのだ。もし車で目的地まで連れていってくれたら時間のショートカットになるしそれは今の状況ではとても都合のいいことなんだけど何かいろいろ追求されたり場合によっては一時的にでもまた拘束されたりもするかもしれない、不安要素が多すぎるからここはパス。下腹部の痛みはずっと続いていて苦しすぎるけど、私は自分ができる最大限の力で自転車でぶっとばす。

 必死に自転車をこいで夏の炎天下三十分以上時間をかけてようやく家に帰り着いた。重い身体を引きずって二階にあがり、広々とした廊下を抜けて一番奥の扉の前にいく。母さんの寝室の前で呼びかける。
「母さん」
 返事はない。まだ寝てる? ううん、ちがう。
 きっともうここにはいないのかもしれない。命庫は今回の町の大混乱の中心だから、きっと誰かが母さんを保護して、避難させてくれるだろうと思っていた。ほら、その証拠に、いつもは完全に閉ざされた母さんの部屋の部屋の扉が、うっすらと隙間をつくっている。
 ゆっくりと扉を押し開けた。
 ——ごめんね。本当に可哀想だね。でも今だけだからね。きっとちゃんと、すぐに治すから。
「嘘つき」と私は呟いた。
 人の気配は感じられなかった。だから別に開けなくてもよかったのだ。私がそのとき部屋に入ったのはほんとにきまぐれ以外になんの理由もなかった。お腹の痛みが少しましになったから、裏返る前に一度母さんの顔を見ておこうと思っただけなのだ。
 私自身長い間酷い生活をしていたから、嗅覚が馬鹿になっていたんだ。だから、死臭にも気づかなかった。
 母さんはお腹を横に切り裂いて死んでいた。右手のそばには刃部分に血痕がべっとり付着した果実摘みの大鉈が落ちていた。
 母さんのお腹の上にはこんもりとした死体の山がある。イボイモリ、マダラサソリ、ハムスター、ウスバアゲハ……母さんのお腹の中に棲んでいた様々な生き物が、悪意の飴にコーティングされることなく外に這い出して、母さんと同じように、夏の暑さの中で腐蝕していた。
 母さん?と私は言った。
 目の前の光景がどういった意味を持つのか、よくわからないと思った。
 唐突に痛烈な陣痛が戻ってくる。ほぼ同時に、嘔吐感がこみあげてきた。
 私はゆっくりと母さんに背を向け、廊下に出た。
 ——大丈夫だよ、母さん。ひとりでもちゃんとやれるよ。
 ——そうだ、いかなきゃ。
 庭に出る。公園の公衆トイレみたいな建物に入り、底にむかっておりていく。暗渠のだだっ広い汚物のプール、その真ん中を走る一本の道を進む。真っ黒で邪悪な樹の輪郭が浮かび上がってくる。悪い果実がたわわに実っているのがわかった。暗がりの中で姿はまだ見えないけれど、無数の嘲笑が私を出迎えた。
「お前は見捨てられた」果実の一つが言った。
 私は両手で耳を塞ぐ。
 時間がない早く急げと私は自分に言い聞かせるけど、お腹を裂いて自殺した母さんの姿が目の裏側にはっきり焼きついて、それは現実に今私がとらえている目の前の光景よりも強い存在感をもって私を支配している。
「約束されていたはずのモラトリアムはもうない」
 呪いみたいな悪意の声は、耳を塞いでも隙間からねっとり入りこんでくる。
 ——断言するけど、お前はもうどこにも行けないから。
 身体がとたんに重くなったように感じて私はその場に倒れ込んでしまう。母さんが背中から覆い被さっているような気がする。ヒロムにそれを命じられたわけでもないのに、私は四つん這いで這い進むことしかできない。ぜぇぜぇと、自分の呼吸が荒いことがわかる。張り裂けそうなくらいお腹が痛いし死にそうなくらい嘔吐感がむごい。もうすぐタオが生まれるんだ。
 アナグマたちの棲む〈ウロ〉の入り口は悪意の樹の根元にある。ウロの奥では重力が裏返る。そうやって裏側に行って今やすっかりお腹を空かせて待ちわびているアナグマたちにタオを捧げれば、命庫のこの夏の仕事は完了ってことになる。
「何度も言うけどあんたは裏切られたんだからね。ねえ、現実を見なよ」
「今だけだから。きっちり治してまた私が代わるから。お前はまだ今は青春を謳歌しなさい」
「欺瞞だ。偽善だ。とびきり薄っぺらな嘘の言葉だ」
「そんなことない!」
「そんなことある」
「そんなことあるな」
「そんなことあるよ」
「その証拠にあの命庫は逃げ出した」
「まだ若いお前に、これからずっと死ぬまで悪意を食べ続ける過酷な拷問、その責任を全部押しつけて一人で楽になった」
「それがお前の母さん」
「母さん」
「だいすきな母さん」
「お願いもうやめて……」
「なゆた!」
 ヒロムの声がした。
 ヒロム、助けて。
 ……結局私はまた誰かに頼っている。
 その心の弱さに悪意はつけこむ。

「本当のことをいうね。母さんはお前のこと、大して好きじゃなかった」

 走って近づいてきたヒロムが私の肩に触れた瞬間、私はその場で嘔吐した。
 タオ——命をくるんで固まった悪意の結晶が、胃液とともに無数に躍り出て、飴色の光で薄暗い暗渠と邪悪な樹を眩しく照らしながら汚物のプールへと飲み込まれていった。
「あはは」
「あははは」
「あははははははは!」
 さながら大団円を迎えたみたいに、悪いこころたちがいっせいに盛大に笑いまくる。
 ヒロムは私の背中をさすりながらつぶやいた。
「きれいだ……」
 ……私は。
「あはは」
 私も笑う。思わふきだしてしまう。
 なんかもう、何もかもどうでもいいよ。
 〈悪いこころ〉たちの言う通りだ。母さんは結局最後の最後になって私を捨てたのだ。自分がつけていた命庫の足かせをはずして、代わりに私の足首にそれをはめたのだ。そうしてもう二度と会えない場所にいった。
 ヒロムの優しい腕に抱かれながら、私はここ数日のうちで一番落ち着いた気持ちで考えてる。
 私はもう、ずっと一人だ。
 私は命の倉庫、この町の奴隷。
 これからずっと、死ぬまでそう。

       

 お腹を空かせたアナグマたちがウロから這い出してくる。彼らは総じて美食家だから、いくらタオを見つけても、それが鮮度の高い生まれたてのものでなければ目もくれない。しかも、それらがどれも汚物のプールの中にぷかぷかと浮かんでいる、なんて体たらくだったら尚更だ。それでまず、アナグマたちは暗渠に生えた真っ黒な樹を食べてしまう。果実だけじゃない、幹も根っこも構わず平らげる。それでもいっこうに空腹は満たされないから、彼らはついに地上にのぼる。
 甘美な悪意の匂いに誘われて、アナグマたちは人の住みかへとくりだす。ひとたびそれが始まればもう止めることは困難というより不可能だ。ウロノアナグマは悪いこころを持った人を食べる。その線引きはとても極端だ。ほんの少しでも悪いこころを持っていれば、その人は捕食の対象となる。そして、「ほんの少しも悪いこころを持っていない人」なんてなかなかいないのだ。だから結局、ほとんど食べる。逃げ遅れた人間たちをやたらめたらに食べ尽くす。なんだかんだで育ってきた町を愛しく感じてる人はけっこう多くいるものなのだ。だから町の住民の半分が逃げたけど、半分は逃げ遅れて彼らの食事になる。
 そうして町が終わる。短時間の間に悪いこころはすっかり食べ尽くされて、あとには優しい世界がやってくる。完全にきれいな心を持った人だけが生き残る。
 そういう人たちに私は出会う。
 私たちの目の前でアナグマに食べられてしまったタイシのお墓をヒロムと一緒になってつくっているときに、彼らは現れる。
「ああ、ようやくお目にかかることができました」
「はじめまして〈ミコトコ〉」
「はじめまして〈救世主〉」
 私たちはあなたを崇拝します。
 私たちはあなたを信仰します。
 私たちはあなたに、何も求めません。
 ああそうか、と私は思う。悪いこころによってほんのちょっとでも汚れてない清いこころって、こういうことになるんだね。

 私たちは元々が何かしらうさんくさい宗教とかの施設だったんだろうなあってことがいやでもわかる形の建物に連れて行かれてたくさんの人に手厚い歓迎を受ける。豪華なごちそうが用意された大きなテーブルを囲む。彼らは私にいろいろなことを質問する。生い立ち、家族両親のこと、学校生活、命庫としてどんなことをやってきたか。私の返答に対する彼らのリアクションは常にオーバーで、え?そこ?ってところで突然笑い出したりして、しかもそれが一人の人がそうなのではなくてみんなそうで、私はどう接したらいいのかよくわからないでただ訊ねられた質問に対して機械的に答えるだけ。ヒロムは平気な顔をしていて普段と変わらないように見えるけど、内心はどうなのかわからない。
 中世のお城のそれみたいにきれいで大きな浴室で湯あみを済ませると、ホテルのスイートみたいな部屋に連れていってくれる。大きなダブルベッドが一台。
「気を利かせてくれたみたいだ」とヒロムが言う。「余計なお世話だよね」そう言って照れくさそうに笑った。
 私も笑い返す。そんなことないって、かぶりを振りながら。それから私は彼の胸に指を這わせる。彼は幸せそうに目を閉じる。
 私は言う。「結局、タイシじゃなくて生き残ったのはヒロムだったね」
「選んでくれたから」ヒロムが答える。続けて言う。「ようやく君は解放されたね」
 生まれたときからそんなふうに苦しいことを強いられてるなんておかしいって、ヒロムはそう言って怒ってくれて、私はそれをうれしいと感じたし、「ああそっか、私、不自由なんだ」ってあのとき気づかされた。だけど今、この町は優しい町になった。アナグマが悪いこころを食べ尽くしたから、この町の底で邪悪な樹はもう育たない。
 つまり、私はもう自由なんだ。なりゆきでそうなった。たくさんの犠牲を伴ってそうなった。
「この町は浄化されたんだ」ヒロムは言う。「すべてが良い方向に向かった」
 ——人の命をこころ一つでどうこうできる立場に君はある。
 ——君は罪を背負うべきだよ。
 ——君は悪いものを殺せる。
 ——僕がその荷物、半分背負うよ。
 全部、ヒロムが言ったことだ。
「ありがとう、ヒロムが支えてくれたからここまでこれた」
 それから私たちはおんなじベッドに入る。長年つきあってきた恋人同士みたいに。
「でもさ」
「うん、なあに?」
 ヒロムがこっちを見る。全体の照明を落とした寝室で、ベッドサイドのやわらかい光だけがヒロムの横顔を照らしている。
「なゆたがタオを生んだときの、あの神聖な光景……あれは本当に素晴らしくて感動しちゃったな。できることならもう一度見てみたいくらい」
「そうなんだ」
「でも、とうぶん無理だよね。この町にはもう悪意が残ってないから……」
「そうかもしれないね……」と私は言う。

 私たちはとても疲れていたから、この日はそれ以上多くを語らずに柔らかいベッドで一緒に眠った。
 そして私は深夜に目覚める。クローゼットの下のところに置いた鞄のチャックをゆっくりと開いて、一番奥からそれを取り出す。そしてゆっくりとベッドに戻る。
 ヒロムは子どもみたいな無邪気な顔でぐっすり眠ってる。私はヒロムのTシャツをまくりあげる。ヒロムは安心して眠り続ける。私はヒロムのお腹に刃をそわせる。それでもヒロムは気づかない。
 ヒロムは本当に子どもで悪意がないから、人の悪意にも鈍感なのだ。
 私は体重をかけて刃をヒロムの脇腹に埋め込んだ。
 途端にヒロムは絶叫した。真っ赤な血がたちまち溢れてシーツを真っ赤に染めた。私は構わず大鉈を滑らせ、ヒロムのお腹を横一文字に切り裂いた。
 ヒロムの目が、哀願するように私を見つめてる。
 なあに?といって私はヒロムの口元に耳を近づける。
「……っ……あ……て……」
 何を言ってるのかまったく聞き取れない。きっとすぐ死ぬんだろう。
「『町が浄化された』って、そう言ったね? 『この町にはもう悪意が残ってない』って」
 今度はヒロムの耳元に唇を寄せた。
「まだ、ここにいるじゃん。ほら、私の目の前にさ」
「……た……すけ……」
 愛する人にそうするように、ヒロムの額に自分の額をくっつけた。死に際の男のか細い、生暖かい吐息を唇に感じながら、私はありったけの感情をこめて囁いた。「ヒロム、結局あなたが、この町で一番の悪者だね。いい加減に死んでね」
 ヒロムはこの町にただ一人残った、最後の悪意の宿主。その悪いこころはあまりに純粋すぎて、この人自身も自覚がないし、アナグマたちにさえ気づかれない。
 そんな透明人間でも、ちゃんと死ぬのだ。
 私は真っ二つに裂けたお腹にじっと目をこらす。暗い寝室の中で、ヒロムのお腹の中は真っ暗闇をつくってる。燃えるような命の光は、そこにはない。
 皆居広矛はしばらくの間、こひゅう、こひゅう、とか細い呼吸を繰り返していたけど、すぐにそれは途切れて静かになった。

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