親友

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親友

 その離島へは連絡船に乗って行く。離島は五百メートルほどの小さな山三つで構成されていて、港に近い一帯以外は自然保護公園になっている。港から小型連絡船で十分ほどの距離で、人類から見たら近眼扱いになる俺らでも、対岸の施設は風景に紛れたりはせずに判別できた。海に食い込むようにして建つ昔の宗教施設からほんの少し離れた山裾に、平屋建てで横長の白い建物が三棟並んでいる。海面が反射する光を受けて輝いているそこで、これから二週間ほど、夏休み合宿することになっている。
「綺麗な建物ぽくって安心した」
 そう言ってみても、隣に立つヨルゴスは海に背を向けたまま、合宿の参加者が連絡船に乗り込むのを見守っていた。
「今まで気にしたことはなかったのか。先日の打ち合わせ時に配布した資料には写真も載っていたのだが」
 連絡船の機関音に、波が港を打ち付ける音が紛れてヨルゴスの声は聞こえはするが聞き取りにくい。俺はヨルゴスの正面に周り、目を覗き込む。当然、何の感情も伝わってこず、ヨルゴスが少し体をひねり視界を確保したことで、連絡船に乗り込む人数を数え、全員が乗り込んだか確認していることだけがわかった。人類側が十人、俺たち視覚者が八人の計十八人。視覚者が二人少ないのは、急な体調不良が理由の欠席者が出たからだ。二週間も人類側とみっちり交流するが億劫なのはわかるが、突然のキャンセルはやめてほしい。
「別に怒ってはいないが渡した資料ぐらいは読んできて欲しいとは思ってるよ。一応ヤニスは、副長なんだから」
 ヨルゴスが乗船口から目を離しこちらと目を合わせて言う。俺たち以外の全員の乗船は確認し終わったようだ。
 ヨルゴスと知り合って一年と少し。視覚者にしては喜怒哀楽が出ると言われている俺が、一度ヨルゴスと喧嘩して「何考えてるかわかんねーんだよ」と吐き捨てて以来、こうして少し背を丸めて俺の目を見ながら、思っていることを伝えてくるようになった。見てわからないならきちんと言葉で伝えるから信じて欲しい、などと小っ恥ずかしいことを大真面目に言い出す心臓の強靭さは見習いたいところだと思う。たぶん。政治家の息子だというヨルゴスは、本人も政治家志望らしい。単純な俺はその一言できっと信頼できる政治家になるのではないかと思ってしまったのだ。
「資料なんて俺が読まなくても問題ないだろ。期待されてる仕事はちゃんとやる」
 この合宿での俺のやるべきことは、人類側と視覚者側の橋渡し役だ。この合宿は俺たちの通う第壱大学ともう一つの第弐大学の二つの大学が合同で行う。人類側、視覚者側がそれぞれ十人ずつそれぞれの大学から派遣され、計四十人の同世代で交流を図り親睦を深め、近い、あるいは、遠い未来にお互いうまくやる土台を作るのが目的だ。
 視覚者は視覚者だけで教育を受けたがる傾向があり、二等学校までは三分の一強が共学ではなく私設の視覚者校に通っていた。そういう連中は人類に対して免疫が少なく、大学に入ってからの共学でも人類側と接触をしたがらない。目を見ても何を考えているのかわからない人類を忌避する気持ちも、昔の弾圧と言っても差し支えない扱いを知ればそうなるのもわかるが、そんなことばかり言っていては何も始まらないのだ。
 俺たちの大学は、合宿に参加するものを指名する。総合的な成績優秀者から選別され、一番優秀なものが班長で、今年はヨルゴスだ。副長は、班長が属さない集団から班長が選んで指名する。ヨルゴスは俺を指名した。
「頼りにしてるよ」
 きちんと俺の目を見ながらヨルゴスは言うと荷物を持つ。そろそろ俺たちも乗ろう、と連絡船に向けて歩き出した。俺はその背中を追いかける。

「ヨルゴス。怪我人が出た。鹿に襲われたんだ」
 高い天井に声が反響して響き、昼休憩で参加者の半分以上が利用していて騒がしかった食堂は一瞬で静まり返った。言った当人もここまで声が響くとは思っていなかったようで、ヨルゴスの隣に立ったまま、え、いや、とヨルゴスの顔を見たり、後を振り返ったりしていた。彼も人類なので、彼が何を考えているかなど俺には分からないはずだが、最近は顔を見ていると何となく分かるようになってきた。酷く動揺して見えるのは、怪我を目の当たりにしたからなのかもしれない。ごく当たり前の推測で、それは人類だろうが視覚者だろうが同じはずなのだが、俺はヨルゴスと親しくするまで、そんなことも分かろうとしていなかった。
「鹿? 怪我人は今どうしてる」
 この島には鹿がいる。基本的には山に生息しているそうだが、頻繁に街に降りてきて道を歩いたりしている。港から合宿所に移動する間にも何匹もみた。人に慣れていて滅多なことでは襲ってくることはないとは聞いていた。
「医務室には運んだ」
「わかった。行こう。詳しくは行きながら聞く。引率官には?」
 茶碗を置いて立ち上がったヨルゴスは、俺を見て、どこかためらったような顔をした。
「午後から、任せて大丈夫か」
「大丈夫じゃなくても任せるしかないだろ。適当にやっとくから早めに戻ってきてくれ」 
 合宿には大学から派遣された引率官達もきているが、学生側に任された仕事も多い。いいから行けと手を振ると、ヨルゴスは小さく頷く。
「こっちも手は貸すから安心して行ってきなよ」そう言ったのは、俺の前に座っている第弐大学の班長カリスで、彼女も人類だ。「まあ、実際にやってくれるのはコリンナだけどね」
 第二大学の班長達は、昨夜遅くに紹介された。昨夜から今日の午前にかけて二人とも一緒に作業してみた感じだと、班わけや連絡事項の資料作成などの細かい作業もほとんど自分でやってしまうヨルゴスとは違い、二人で手分けして作業していて、実務は副長のコリンナが中心でやっているようだった。カリスの横に座るコリンナは、ヨルゴスに目礼をしてみせた。ヨルゴスはお願いしますと言い残し、足早に席を離れてゆく。
 コリンナは視覚者特有の大きな目を俺に向けた。人類よりひとまわり大き丸い目は俺たち視覚者に相手の感情を伝えてくる。眼球と目周りの筋肉の微妙な動きを読んで感情を読み合っているのだ。言ってみれば、人類が口角を上げて微笑んでみせ、敵意がないと示すことと同じなのだが、人類が相手を騙す目的で口角を上げることができるのとは違って、視覚者同志で感情を偽ることは不可能だ。強く伝えたり、できるだけ伏せたりすることはできるが嘘はつけない。
 コリンナの目揺れは、俺に対する非難をわずかに浮かべていた。彼女の仕事が増えたことに対してかと一瞬思ったが、コリンナはそれを白目ーー強膜で否定した。目尻の筋肉がこわばり嫌悪感を伝えてくる。それは微かなものだったが、人類に対してのものだった。
 俺がヨルゴスに、視覚者が人類に、肩入れをしていることが気にいらないのか。
 肌触りの悪いコリンナの感情に飲み込まれないように気持ちを持ち直し、人類ではなくヨルゴス個人への信頼について考える。丁寧に俺の目を覗き込む姿を俺が思い浮かべたところでそれがそのまま伝わるわけではないが、反論ぐらいにはなる。
 カリスが、お詫びとばかりにコリンナの盆に甘味を一つ置いて微笑む。
「ごめんねコリンナ、仕事増やしちゃって」
「いえ、仕方のないことです。協力して進めましょう」
 カリスとコリンナは同学年だが、カリスの方は大学に入るのが一年遅く一つ年上だそうで、コリンナは丁寧語を崩さない。
 コリンナは口角をあげる。人類はこれを笑顔と取ることを俺たちは知っている。

 講師は、私たちは皆人類ですと言いながら、皺の多い指で同じことを板書する。
 合宿の初日午後の予定は座学だった。視覚者とはどういうものかを改めて学び、視覚者が現れて二百年弱の間にどういう社会的な変化があったかを学び直し、その後、各大学の各集団から一名づつ計四人の小さな班に分かれ、我々が目指すべき未来について考えてみようと言うものだった。目指すべき未来については、合宿の後半にもう一度再検討する予定もある。
 視覚者が最初に認知されたのは二百年近く前になる。おそらくはもっと以前から存在していたのだろうが、人類の中に視覚者が一人いただけでは、視覚者は少し目が大きくて近視傾向にあり、内向的な人間と捉えられるだけだ。
 視覚者が認知されたのはアンナとニキという双子からだった。双子が四歳になっても言葉が少ないことを親が心配して病院に連れいったことで発見された。二人はお互いの目をみて意思疎通ができてしまえるので会話を必要としなかったのだ。もちろん、親に対しては言葉を発する必要があったが、普通の子供よりかは口数が遥に少なくはなる。
 次第に似たような相談が増えてくる。弟が生まれるまで普通におしゃべりしていた兄が突然喋らなくなったり、学校に通い始めた子供が特定の友達と仲良くなった後、口数が減るなどだ。
 それから五十年ほどかけて、子供たちは突然変異の類であること、セロトニンが増加し、オキシトシンも増え、自律神経機能の変化により起こっていること、元々人間がお互いの表情を読み合っていたのをより高度におこなっていることなどが判明してきた。
 判明した当時は、視覚者は数もまだ少なく、視力の弱い可哀想な子扱いだったが、じわじわと数を増やしてくると問題も発生してくる。視覚者たちは視覚者以外との交流は面倒なのだ。何を考えているかわからない上にこちらを欠陥品扱いしてくれば嫌われるのは仕方ないだろう。さらに言えば、視覚者たちはお互いの感情を読み取り共有する。人類たちの集団の中に、一人陽性の人間がいて楽しそうにしていれば周りの者もなんとなく楽しい気分になったりするように、視覚者達は共有した感情に影響を受ける。苦労して人類と交流を図ると酷く疲れ、それが周りの視覚者たちに共有されるのだ。
 人類にしてみてても、自分達にはわからない方法で意思疎通を図る集団というのは気持ち悪い。言語の通じないもの達が、自分達を疎みながら楽しそうにしていれば不信感を抱くというのはわかる。
 数の多かった人類は、まず視覚者たちを矯正しようとした。きちんと言葉を使うのが正しいことであると教育し、冗談のようだが視覚者たちの感情の共有を阻害するための眼鏡や薬を作り出していった。しかし、薬には副作用もあったし、人権の面でも大いに問題があった。結果、一部視覚者集団が反乱を起こした。口では人類達に従い薬の人体実験にも協力しつつ、視覚者同士で秘密裏に協力して製薬会社を攻撃したのだ。
 その時の映像は今も残っている。映像に映ったものは、直接対面するよりも情報量が落ちる。それでも視覚者たちはその映像を見ると、彼らの怒りをもろに浴びてしまう。視覚者たちはその映像を見るたびに、人類への友愛を失っていく。人類はそのことに気がつくことはなく、最近になり、その映像は公開しない方がお互いのためだと視覚者からの提案があり、公開停止の方向に舵を切っているがこの怒りが消えるのは、世代が変わりあの映像の記憶が消えるまで難しいだろう。あの怒りは俺が一生抱くことはないだろう強い怒りだった。
 人類は視覚者たちを従わせる方向で活動していたが、次第に風向きは変わってくる。視覚者の数が増えてきたのだ。現在はまだ旧来の人類の方が多いが、俺たちの世代だともう半分以上が視覚者だ。人類からは視覚者も人類も生まれてくるが、両親とも視覚者だった場合は視覚者しか生まれない。もう三〜五世代も経てば全ての人類は視覚者となる。ヨルゴスをはじめとする同世代の旧来の人類は自分達が老人になる頃には少数派に転じることがほぼ決まっているのだ。旧来の人類達はどうやって未来の居場所を確保するのか、今、必死だ。

 ヨルゴスは俺よりひと回りぐらいでかそうな手で小降りの包丁を握りスルスルと野菜の皮を剥いていく。発生した野菜屑を生ごみ用の袋に投げ入れ、火の通りやすい厚さに切っていく。その手際に俺は手を止めて見入った。刻まれた野菜は均等な厚みで方も良い。それを綺麗に籠に盛っていく。
「ヨルゴスはさぁ。なにができなわけ」
 ヨルゴスは班長に選ばれるほどには学力も良く、先日は大学対抗戦の空手の選手にも選ばれている。
 返事はなかった。
「そんなことより作業をして欲しいって思ってる?」
「わかっているならやってくれ」
 今日の夜は、合宿所の庭で焼肉だ。本来は四人一組で準備をするのだが、カリスが食べるまでの準備をする方と、食べ終わった後の片付けをする方に別れたいと言い出した。聞いてみれば海面に落ちる夕日の具合が美しく、今それを写生したいので焼肉の準備などしたくないらしい。
 第弐大学の長が何をくだらないわがままを言っているのだと思ったし、そのまま伝えてしまったが、カリスは特に気にせず、こういうのはやる気が大事なんだよと笑顔だった。そんな調子なのでてっきり芸術系を学んでいるのかと思えば、専攻は医療で絵の方がただの趣味らしい。コリンナにも助けを求めたが、こういう人なので残念ながら私ではどうにもできませんととりつくしまもない。
 ヨルゴスは合宿の意義として、四人で作業をすることに意味があると反対していたが、決められたことを決められたようにしても、どうせ一年後には全部忘れてるよ、それに意味ってあるのと反論されてしまい結局折れた。
 もちろん言い分に納得したからではなく、本当は昨日絵を描くつもりだったのを聞いていたからだ。
 昨日、ヨルゴスが合宿所に戻ってきたのは夜になってからだった。鹿に襲われ者の怪我は予想より酷く、島にある小さな病院では対処しきれず、本土の病院に移すことになったのだ。
 学校と両親への連絡、移動の準備、事故の状況把握、そして島の安全性の再検討とやらなければならないことは多く、昨日の講義の途中でカリスも呼び出されていた。
「そういえば、絵は描けない。描いてみたいと思ったこともないが」
 ヨルゴスは包丁を置いて、両手の親指と人差し指をくっつけて四角を作り、海の方を向いた。
「見える風景を切り取って、自分の手で再構築することにどういう意味があるんだろうな」
「意味なんかあるの。まあそれはカリスに聞くのがいいんじゃない」
「カリスに聞いても仕方ないだろう」
 ヨルゴスが作る四角の先に、鹿が横切って行った。

 遠くに唸るような音が聞こえる。地震の直前、地面が揺れる前に地の底に響くような音が伝わってくるのに似ている。その音で目が覚めた。窓の外はまだ暗いようだが、同室のヨルゴスの姿はなかった。
 寝直すかとも思ったが、嫌な予感がして部屋を出る。暗い廊下の先、食堂の電気がついているのが見えた。行ってみるとヨルゴスとカリスにコリンナ、それに引率官たちがいた。
「何かあったんですか」
「街が鹿に襲われているらしい」
 ヨルゴスの声は緊張していた。
 引率官が電話をしながら地図にばつ印を書き込んだ。地図にはすでに複数の印がある。
 鹿は人に慣れているのではなかったのか。それ以前に街を襲うというのはどういう状況だ。
「集団で人家に入り込んで人を襲っているらしい。警察が対応しているそうだが、そもそも島にいる警察の数が少ないし、鹿の数が多くて手が回ってないそうだ。怪我人も多数出ているらしい」
「なんでそんなことに」
「理由は不明だ。ただ、一昨日に事故があったように、ここのところ人が鹿に襲われる事例が増えてはいた、そうだ。聞いてはいたんだがな」
 ヨルゴスは深いため息をついた。鹿は本来、雌雄別々の群れを作って生息しているが、街に突撃してきた鹿達は雌雄入り混じっていて、群れの一つが暴れているという話でもないらしい。この襲撃にどれだけの鹿が参加しているかは不明だが、島には五百匹ほどの鹿が生息してるそうだ。
「で、どうすんの」
「それを今、話してたんだ」
 とはいえ、どうしようもなかった。俺たちはただの学生で猟師ではないし、鹿がうろついているだろう夜道を歩いて街まで手助けに行くわけにはいかなかった。島から出るには街を通過して港まで行く必要があるし、この深夜に連絡船は動いてはいない。この合宿所で自分達の安全を確保する以外のことは出来なかった。
 次第に他の者達も起き出してきて、食堂に集まってくるので、まずは全員を起こすことにした。

 こういう事態が起きた時に視覚者がしなければならないことは、負の感情を消すことだ。一人が不安を過剰に抱けばそれは伝達してしまう。そういう時はその場にいる皆で手を繋ぎ円形になり目を閉じる。目を閉じたまま各自で楽しいこと幸せなことを考えて目を開ける。滲んだ陽の感情を読み込んで落ち着く。これは幼少の頃から習慣化させているので大抵上手くいく。各々が思い描くことはも大抵決まっていて、それも含めての習慣化なのだが、今回はヨルゴスが合宿の副長に俺を選んだことを思い出す。彼が俺を信頼してくれたことが伝わればいいと思ったのだ。
 これからどうやって安全を確保するのか避難するのかという段階で、人類に対するの嫌悪感で足を引っ張って欲しくなかった。ヨルゴスは誠実に皆を引率してくれるはずだ。
 手を離したところで、コリンナがこちらを見ていたので、俺の意図は分かりやすく伝わってしまったらしい。思わず吹き出してしまったら睨まれてしまった。怒っているというより、弟の悪戯とがめる姉のようだった。
 散開した俺たちは円陣を組む前に、決められていた行動に移る。鹿が合宿所を襲ってきた場合に備えて、各自の使用していた部屋の窓に目張りを貼り割れにくして、できればベットを窓のそばに移動させて侵入の阻害。箒や工具、包丁など武器になりそうなものを食堂に集めておく。それが終われば、皆で食堂に集まって夜を過ごすことになっている。朝になれば島外からの救援がくるはずだ。最悪でも一日か二日ここに篭っていれば安全は確保できるだろう。食糧や水も問題ない。
 不測の事態の中、皆で同じ目的を持って体を動かしていると不思議と連帯感が湧いてくる。
「合宿はこれで一旦終わりだろうけど、案外合宿の目的は達成できるかもね」
 一緒に使用していた部屋の窓に目張りを貼っていたヨルゴスにそう言ってみた。未来に、この合宿の参加者達であの時は大変だったと笑いあえる日が来るのかもしれないと思う。
「そうだな。ついでに鹿の一匹でも俺が倒したら君たちから信頼は得られるだろうか」
「いやいやいや。襲われない方がいいだろ」
 足元に目張りをしていた俺はヨルゴスを見上げる。窓に映るヨルゴスの顔は、視覚者でなくとも思い詰めているのがわかる。
「そういや聞いたことなかったけど。ヨルゴスはなんでそんなに視覚者と親睦を深めようと思ってんの」
 これまでは、単純にヨルゴスが真面目な性格で、真摯にこれからの社会のことを考えてのことと思っていたが、襲われる想定は少々度がすぎていないか。
「言ったことはなかったと思うが。二歳になる息子がいるんだ。今は息子の母親の両親が面倒を見てくれている。母親とは大学を出たら正式に結婚する予定だ。息子は視覚者ではない」
 何も言えないでいる俺に「俺のささやかな努力は息子の未来は変えないかもしれないが、それでも味方は多い方がいいんだ」とヨルゴスは言った。

 ガシャンガシャンと鹿が玄関のガラス戸に何度もぶつかる音が響く。鹿は外に数匹はいる。目張りを貼ったガラス戸は、内から下駄箱で抑え、さらにその下駄箱を数人がかりで押さえていた。その後を俺とヨルゴスを含む数人が囲み、万が一突破された時に備えていた。
 やがてガラスを砕く音は聞こえなくなり、下駄箱に肉が打ち付けられる音に変わった。ガラスは粉々に砕かれ全て地面に落ちたのだろうとは思うが、鹿という生き物はここまでするものなのだろうか。今は下駄箱に阻まれて鹿の姿は見えないが、どう考えても鹿も無傷ではない。
 俺が思ったことは、鹿の侵入に備えて玄関に集まっているもの達全員が思い至ったようで、不穏な空気が一体に漂っている。俺は、誰の顔も見ずに済むように下駄箱だけを見るようにした。臆する気持ちが伝播してしまったら最悪だ。
 バキっという下駄箱が砕ける音がして、鹿の角が貫通してきた。その辺りを押さえていた者は、角が脇腹を掠めることとなり倒れた。俺の横に立っていたヨルゴスが箒の柄を槍のように持つと、大きな体を動かして、鹿の角の奥にある頭部目がけて突進する。枝状に伸びる鹿の角が邪魔をして途中で止まった箒を、ヨルゴスは引き抜いて二度三度と突いていく。頭蓋骨に当たる嫌な音がして、箒が折れた。鹿は死んではいないようで、ピャッと警告音のような鳴き声をあげて頭を引いた。やがて複数の足音が遠ざかっていく。
 下駄箱を押さえていた者たちが崩れ落ちるようにして床に座り込む。ヨルゴスが脇腹を怪我したものに声をかけ肩を貸そうとしていたので俺も手伝おうとしゃがもうとした時だった。鹿が角で開けた下駄箱の穴から、複数の鹿がこちらに向かって血を撒き散らしながら全力疾走してきているのが見えた。
「鹿がッ来る!」
 俺の叫びに反応できたのはヨルゴスだけで、ヨルゴスは怪我人を突き飛ばしてから自身も飛び退いた。
 皆、床に座り込み誰も押さえていなかった下駄箱は、鹿の激突で押し込まれ、座り込んでいた者たちの上に倒れた。その下駄箱の上に鹿が三頭乗り上げる。ヨルゴスは間髪入れず、先ほど先端が折れた箒を横に薙ぎ払い、一番近くにいた鹿の足を打ち付け、鹿がバランスを崩したところを蹴り上げた。ヨルゴスの重い蹴りは鹿の足に当たり骨の折れる嫌な音がする。鹿は勢いで横転して立ち上がることもできずにもがいていた。
 残り二頭は毛を逆立ててグ、グ、グと喉を鳴らして威嚇してくるが、よく見れば全身傷だらけで、特に体のより大きい方は首から肩にかけて大きな刃物の傷がついており、血が止まらないようだった。おそらくは街を襲撃した際についたものなのだろう。ヨルゴスすらなすすべもなく見守る中、首から血を流していた方が崩れ落ち絶命した。最後の一頭はつい先ほど死んだ鹿の鼻先に鼻をよせ目を覗き込むようにした後、静かに踵を返し外に出ていった。

 食堂の壁に背をつけて、人が並んで座り混んでいた。皆、俯き疲れ果てていた。
 ヨルゴスが足を折った鹿は、包丁で首を切った。ボロボロになった玄関は食堂からテーブルを運んで侵入できないように厳重に塞ぐ。そこまでは皆で気力を振り絞りなんとかやったが、次にもう一度鹿の襲来があった時に立つ気力があるかは怪しかった。
 鹿の角で脇を打たれた者は医務室に運んだがあまり状況は良くないし、街の方と連絡を取り合っている引率官たちが言うには、街の方ではまだ鹿は暴れていて全くと言っていいほど落ち着いてはいなく、救援を朝を待たずに送ってほしいと訴えてはいるが、すぐにとはいかないようだった。
 疲弊は、あっという間に視覚者たちに共有され、その空気は人類にも伝わり、食堂で待機していた者たちも気力をすり減らしていた。
 そんな中、カリスとヨルゴスだけが活動する元気を保っていた。
 ヨルゴスは、俺に手伝わせつつ、玄関に衝立を運び、鹿の頭より上で角だけ引っかかる位置に縄を張る。次に鹿が侵入してきた時用の簡易罠だ。
 それを特に手伝うわけでもないカリスは玄関に放置された、首から肩にかけての大きな傷があった方の鹿を覗き込む。
「これ、本当にこの傷がついた状況で襲ってきたの? 普通なら動くのが難しいような傷だけど」
「確かに襲ってきて、侵入した挙句に勝手に死んだ。皆見ていたんだ、間違いはない」
「常軌を逸してる。私動物は詳しくないけど、動物にも痛覚はあるはずなんだよね。つまりは痛覚が死に、非常に凶暴化した鹿が集団で襲ってきている。解剖したら何かわかるかな」
 俺は、逃げた鹿が、逃げる直前に死んだ鹿を覗き込んだことを思い出す。
「何の確証もなければ、何の解決策にもならない話なんだけど。鹿。視覚者だったりしないかな?」
「鹿が視覚者? あなた鹿が考えてることがわかるの」
「いや、俺は鹿が何考えてるかなんてわからないけど。鹿同士で感情を共有してるんじゃないかってこと」
 俺は、かつて反乱を起こした視覚者たちの映像を思い出す。あの強い怒りを間近で見たらきっと一緒に狂う。
「鹿のうちの一頭か数頭がさ、何か人間に対して我を忘れるほどの強い怒りを抱いて、それが伝わって伝わって増幅されてるんじゃないかな。これだけ大規模なら数頭かな。最後に残った一頭。つきものが落ちたみたいに急に逃げただろ。怒り狂ってたヤツが死んだから影響が消えたんじゃないかと思って。人間に突然変異があるなら、鹿にだってあるかもしれないだろ」
 カリスとヨルゴスはお互い見合って目を合わせた。
「ヤニス。例えば強い怒りに晒されて影響を受けたとして。その影響下から逃れた時どうなるんだ? その怒りは自分のものだったと思うのか? 操られていたような感覚なのか?」
「例えばだけど。一人で面白くもないのに笑ってみたことある? ちょっと楽しくなるだろ。翌日思い出してあれは楽しかったなって思うことはないけど、なんとなく楽しかったなって気分は残る。そんな感じだと思う」
 あの映像を見たって俺たちは反乱は起こさない。ただ、あの怒りは胸にある。
 カリスとヨルゴスは、再び見合って頷き合った。
「俺たちもすぐに戻るけど、食堂に先に戻っておいてくれないか」
 ヨルゴスは、この一年と少しの付き合いで見たこともないような完璧な笑みを浮かべた。

 起きろ、とヨルゴスの声がした。目を開けると、空はすでに白み始めており、目張りの隙間から入る光が眩しくて、目を細めた。硬い床に直に寝転んでいたので方々が痛むが体を起こす。
「また、鹿がまたきた。おそらく前の時より数が多い。皆先に行った。俺たちも急ごう」
 昨夜の襲来直後より、わずかでも眠った分だけ気力は回復しているが、もう一度あれをやれと言われれば気は滅入る。
「大丈夫だ。俺が何とかする。だから深い信頼を胸に刻んで欲しい」
 ヨルゴスのおかしな言いように顔をあげた。そこには床に膝をついて俺を覗き込むヨルゴスがいて、いつもよりひと回り大きい目があった。視覚者の目だ。そこから、鹿を退治することへの自信と、人類と視覚者の友好的な世界を望む感情が溢れてくる。視覚者の目は嘘はつけない以前に、それは普段のヨルゴスから感じていることだ。
「なんで」
 俺はヨルゴスの目を覗き込む。俺の目からはヨルゴスに何が伝わるだろうか。
「視覚者の感情の伝達を阻害する薬が過去にあっただろう。当然逆も作れるし、実はこっちの方が簡単だ。成分はほとんどある種の麻薬に近い。短期的なものだし副作用もあるが」
「なんで」
 ヨルゴスはゆっくり振り返り、カリスを指差した。
「言ったことなかったと思うが、彼女とは大学を卒業したら正式に結婚することになっている」
「だから、なんで」
「言わなくても伝わるだろう? みんな鹿の襲撃にうんざりしていた。そのうんざりに浸っていられる場面じゃないのはわかるだろう。俺の高揚を伝えて協力してもらう。少しの打算はヤニスにはバレてしまったが、間違ったことは望んでいない。そうだろう」
 ヨルゴスが立ち上がる。きっと、もう俺の目を覗き込むことはないのだろう。
 

文字数:11051

内容に関するアピール

色々不足しており、長い梗概になってしまいました。

文字数:24

課題提出者一覧