PFR祐天寺稼手那の入場

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PFR祐天寺稼手那の入場

第一章

 

 

「これより長福寺大成(ちょうふくじたいせい)人生計画の新規入場者教育を行います。これは当現場に入場する全ての人が受けなければなりません。

はじめに当現場の概要から説明します。現場名は長福寺大成人生計画、施主は長福寺大成、設計・建築は長福寺大成および長福寺家JVです。

工期は二〇一六年から人生終了までとなっています。

当現場の掲げる目標は、

一、自分のできることをわきまえる

二、人生に多くを求めない 

三、自分が制御できない事態を極力さけて生きる

以上の三点です。

当現場のルールで特に気をつけるべきことは――」

「いつも思うんだが、これを受けずに済む方法はないのかな」

「私に言われても。単なる同行者なんですから。先生の力でなんとか出来ないんですか」

「なんとか省けないものかといろいろ工夫してるんだが。融通がきかないのは現実と一緒だ」

「――お手洗いの利用があるときはいったん退場して最寄りの便所を利用してください。煙草を吸うときも同様です。くれぐれも現場内で用を済まそうとは思わないようにしてください。

以上で新規入場者教育を終了します。ご安全に!」

終了を告げるかけ声とともに祐天寺が立ち上がり、腰に手をやって身体を伸ばしつつ、凜に言った。

「行こうか。現状で五十二階まである建物(せかい)だ。はやいところ患者の問題点を探るとしよう」

そういって歩き始める祐天寺に置いて行かれないよう、凜もすぐに後ろについて歩き始める。

「まずは地下一階。長福寺氏〇歳のときのフロアからだ。何も出てこないだろうが」

それでも怠ることなく探索しなければならない。

それが彼ら、臨床精神療法士の仕事だからだ。

 

五十二歳の男性患者・長福寺大成が内に秘めた精神世界は大都会の摩天楼のように高くそびえる高層オフィスビルのようだった。中に入ればワンフロアの面積は広くはないが、構造が複雑だった。

「そうとう警戒心が強い性格なんだろう。たいして広くもないくせに通路が多い上にこんなに入り組んでいるのはなかなかお目にかかれない」

そう言うのは欄音凜(らのんりん)が師事する臨床精神療法士、祐天寺稼手那(ゆうてんじかでな)だ。

「なぜ私が診るとどの患者の深層記憶世界(なか)も工事中の建物になるんだろう。業界のレジェンドのなかには海に見えた人だっていたというのに。海と工事現場じゃ雲泥の差だ」

臨床精神療法士は患者の精神内部に形成された深層世界に入り込み、問題の発見やその解消のための措置を行う。

彼らが患者の精神世界に入るとき、それがどのように見えるかは人それぞれだという。祐天寺の場合は建設中の建物のかたちをしている。ちょうどこの世界がそうであるように。

今は内装もほとんど仕上がったフロアにいる。共用部の廊下と専有部の各室で構成される建物で、二二階から今いる四六階までフロアの造りはずっと同じだ。

これは特別なことではなく、基本的なオフィスビルの造りだ。

この患者の場合、二二歳で就職してから現在に至るまで、変化のない毎日を送り続けてきたのだろう、と祐天寺は説明した。

この患者、長福寺大成は数年前から謎の不眠に悩まされ、仕事にも支障を来すと言って訪ねてきたのだった。

入場したものの、四六階までは目立っておかしい点も見つからなかったが、四七階に足を踏み入れた瞬間、悟った。

それまでのフロアとはまるで違う。

四六階までは色味のない内装に殺風景な部屋が並び、共用廊下も無機質で画一的な印象だった。だが四七階に到達した凜の目に最初に飛び込んできたのはものは明らかに異質だった。

ラブホテルの一室にあるようなキングサイズのベッド。透明ガラスに覆われた、天井吹き抜けの浴室。

「こんなにわかりやすい変化もあるんだな」

感心半分呆れ半分といった様子で祐天寺は浴室の扉を開けた。

「ここの浴槽、泡が出そうだ」

「その手のホテルって、なんで必ずと言っていいほどジェットバスなんでしょうね」

「私はそんなホテルには縁のない人生を送ってきたから知らないなあ。君はずいぶんとお詳しいようだが」

「サイテーですよ今の発言」

「あそこに扉がある。いってみよう」

 冷たい声を出した凜の言うことが聞こえないふりをして祐天寺は言った。

扉の先の部屋には小さなテーブルを囲んだソファ席がいくつかあり、どの席にも男性とミニドレス姿の派手なメイクをした若い女性が座っていた。男性の顔はどれも長福寺の顔に見えた。

「一セットいくらだろう」

「私はこういうところ来たことありませんけれど、高いんですかやっぱり」

「飲食店で会計のときにびっくりしたことはあるか。思っていた額より桁がひとつ違った、みたいな」

「ぼったくりじゃないですか」

「そういう経験ができるタイプの店が多いだろう」

わかるようでわからないような説明を聞きながらソファのほうに目を向ける。

そこに座る男性は、誰にでもはっきりとわかるくらいにでれついていた。楽しそうだし、幸せそうに見えた。心温まる光景ではないが、この患者の深層記憶世界に来て、初めて人の血が感じられる場面だった。

祐天寺と凜は同じフロアにある他の部屋もまわった。

どの部屋も明らかに造りがおかしかった。室内なのに海辺がひろがっていたり、部屋が夜の展望台になっていて窓の外の夜景が見えたり、別れを惜しむ男女がたくさんいる終電前の駅の改札口前だったりした。

「恋人ができて、同じ年に別れたんでしょうか」

「最初の部屋はどう説明する。あれは健全な出会いの場とは、とても言えないよ」

「従業員の女性とつき合った可能性は」

「カモかね君は」

嫌みったらしい言い方で祐天寺は否定した。

「ないよ、ないない。この患者はきっとそういうお店に行って、従業員を好きになったんだろう。この手の判断は難しいところだが」

 試しにフロアの最初の部屋に戻ってみると、長福寺氏はまだでれついた表情をしていた。

 

結局、長福寺大成の精神不調の原因は単なる失恋にすぎなかった。すぎなかった、というと本人に失礼だが、それ以外に言いようがないというのが祐天寺の弁だった。

もっとも凜からすれば失恋と呼ぶのもおこがましいと思ったが。

長福寺大成は生まれてからずっと恋愛経験が皆無だった。四九歳のときに通っていたキャバクラの従業員に一方的に恋心を抱き、こっぴどくはねつけられたらしい。

長福寺の深層記憶世界の四九階を端から端まで歩けば誰でもその顛末を理解できるほど、展示会場のようにその当時の思い出が飾られていた。念のため五十階から五二階も探索したが、特になにもなかった。

診断結果を伝えると五二歳のいい大人が突如、目に涙をうかべた。

「自分でもわかっていたんです。でも認めなくなかった」

長福寺の話を音声データとして取り込みながら、コントみたいなやりとりだと凜は思った。

「そうは見えないかもしれませんが、私の人生はこれまで色恋沙汰とは無縁でした」

祐天寺はさもありなんとばかりに頷く。その様子を見て、凜は笑いをこらえるのにかなりの努力を要した。

「いろいろ貢いだし、高い酒もいれて、売り上げに貢献したつもりです。でも私の気持ちには応えてはもらえなかった。

フラれてからはお店に行ってません。でも毎日がそれまで以上につまらなくなりました。最近じゃ、いつ死んでもいい、という気持ちになることも多くて」

「抑うつ状態が続く場合、気持ちを楽にする薬はあります。

ご希望であれば心療内科を紹介しますが」

長福寺は首を振った。

「この歳で生き方を見つめ直すことになるとは思いませんでした。これからは今までより周りに目を向けて生きていくつもりです」

会計を終えて長福寺がクリニックを出ると祐天寺は、あとで心療内科の案内と紹介状を添付して彼にメッセージを送るように言った。凜が見返すと彼はデスクトップ端末のモニターに集中し始めた。ソリティアだった。

 

ある日、祐天寺の確認が必要なデータがありすぎて、その選別をするのも煩わしくなった凜は片っ端から彼にデータを転送していた。

「精神神経リミテッドジャパンの杉田さんから連絡が来てます。折り返し連絡が欲しいと。先週も同じ伝言を頼んだのに音沙汰なしで困惑しているとのことでした」

作業と同時に凜は必要な報告をする。

祐天寺が患者を診るのは週に二回、土日だけだ。今日は月曜日だから患者は来ないが、民間企業やシンクタンクからの依頼、官庁から降りてくる仕事もしており、診療のない日はそれらの業務に追われる。精神神経リミテッドジャパンは民間のシンクタンクだった。

「知らないなあ」

「確かにお伝えしました」

「なんか小腹すいちゃったな」

「まだ十時です。朝食はとられなかったんですか」

「トースト二枚にとろけるチーズをたっぷり五枚は挟んだよ」

よくもまあ朝からそんなに重たいものが喉を通るものだ。

「ところでさあ欄音くん」

「なんですか」

話しかけられながらもモニターから目をそらさずキーボードを叩き続ける。

「精神医学協議委員会から送られてきたメッセージ読んだかな」

「記憶にないですね。直接先生に送られたものでしょうか」

やはりモニターから目を離さずに凜は返答した。精神医学協議委員会は国の委託を受けて精神医学関連の医師、研究者等を統括する組織だ。権限の強い組織でもある。

「そうみたいだ。私のクリニック、今期中に指定の案件をクリアしないと資格及び業務の停止だってさ、ひどいね」

キーボードを叩く手が止まる。

「今期中って、あと三ヶ月きってますよ。そんな大切な用件を今になって送ってくるなんて非常識です。それいつのメッセージですか」

「つい最近じゃなかったかな。確認するから待ちなさい」

しばしの間。

「半年くらい前だった。どうやら見落としていたようだ」

「ずっと前のメールじゃないですか。そもそも条件に合う案件がすぐに見つかる保証もないんですよ」

「焦るな、だが急げ。それがいま我々に求められている精神ではないかね」

「怪しい精神論でごまかさないでください」

「なんとかなるよきっと」

「どうしてそんなに楽観的でいられるんですか。なれるものなら先生みたいになりたいですよ」

「前向きに明るく楽しく考えるのが人生を謳歌する最もシンプルで重要なポイントだってどこかの誰かが言ってたよ」

とりあえず添付されたリストに目を通す。掲載リストからの自由選択制になっていた。

公的機関からの依頼案件。

社会的影響力が認められる案件。

国際会議及びそれに準ずる学会やイベントへの実績提出及び出席案件。

各案件にはクリア要件として細かい条件が付与されており、詳細な説明文が並んでいるが今は読む気にもなれない。

「リストの条件に合致するような案件、欄音くんは知らないかな」

「知ってたら苦労しませんよ。ちょっと依頼案件でそういうのないか探してみます」

そうは言ったものの、来ている依頼の実施時期は来期がほとんどで今期中に取り組めそうな案件はぱっと見ではなさそうだった。

祐天寺は臨床精神療法士としての実績は少なくないし、一部ではある程度の知名度はある反面、できるだけ多くの依頼をこなすとなるとスケジュールに余裕を持たせる必要があり、結果的に依頼時期も早まる。今回はそれがあだとなった形だ。

「だいたい非常識なんだよ今になってあと三ヶ月でやって提出しろなんて」

「先生がメッセージを見落としてなければよかっただけの話なんですけどね」

「最近どうも目がちかちかするんだ。私も四十三だしな」

嫌みも通じない。

「ああ、やっぱりないかな」

依頼案件をざっと見てめぼしいものが見つからなかったことに落胆していると来客を知らせるベルが鳴った。

やってきたのは須永という、祐天寺の学生時代からの友人で弁護士をしているという中年男性だった。ダークネイビーのスリーピースが似合う、すらりとした背格好の紳士だった。切れ長で涼しげな目元が特徴的な整った顔立ちだったが、いまは目のしたにつくったくまがそれを台無しにしていた。

「久しいな。少し痩せたんじゃないか」

「すこし前に一緒に飲んだばかりだし、痩せてもいない。適当なことばかり言うなよ」

「相談に来たんだろう。とりあえず話してくれ。出せない情報は伏せてもらって構わない」

「刑事裁判の被告人の弁護について、おまえの力を借りたい」

学習塾の教室長を殺害した人物の弁護だという。凜はその事件の報道にリアルタイムで触れていた。事件の構図はシンプルだったと記憶している。

五十代の教室長と肉体関係をもった中学生の女子生徒がいた。父親がその事実を知って逆上し教室長を刺殺した、というものだ。

中学生というワードにセンセーションを感じさせたが、衆目を集めることもなく報道は下火になっていった。

「犯行の動機も明らかだし、依頼人は反省の弁も口にしている。情状酌量を争う裁判になるだろう」

「私が入り込む余地はないよ」

須永は首を横に振った。

「そうでもないんだ。俺の依頼人は、殺した教室長に娘が洗脳されたんだと主張している。そそのかしたとか、うまく言いくるめて関係を持ったとか、そういうことではなく、本人の意思に反した洗脳をされていたんだ、と」

洗脳。古くから他人を強いる手法として様々なアプローチから研究されては実用に転化されてきた。

暗示によるものや認識と誤解の偽装工作によるもの、薬剤投与とショック療法の継続反復によるものなど、さまざまな方法がとられてきた。

「情状酌量を訴えるにしても、犯行の背景にそうせざるを得ないロジックが求められる。

そういう観点から考えると洗脳というワードは……危うい。わかるだろう」

「わかるよ」

「頼みたいのは依頼人の娘のことだ。本当に洗脳されていたのか、おまえなら究明できる」

祐天寺は腕を組んで宙を見つめていた。凜には彼が何を考えているのかわからなかったが、どこかもの悲しい雰囲気をまとっているようにみえた。

「娘さん、中学生だって?」

「中学二年生だ。まだ一四歳だよ。事件後から学校もずっと休んでいるようだ」

自分が同じ立場だったら学校なんか行けるわけないと凜は思った。

「君はその子に会ったのか」

「混乱しているようだった。父親のことは好きだったらしい。双子の弟がいるんだが、その弟がいろいろ支えてくれている」

「その子の母親は?」

「どうしていいかいまだにわからないって感じだよ。夫婦関係もよかったようだし、夫のしたことに戸惑ってはいるが、なんとか支えようという気力だけでやっているんだろう」

祐天寺は黙り込んで考えを巡らせているようだった。その視線の先にはデスクに置かれた写真スタンド。須永も凜も黙って見守っていた。

やがて彼は言った。

「事件の詳細を教えてくれ」

祐天寺が凜をちらりと見てくる。その意味するところは凜にも伝わってきた。凜の脳裏に精神医学協議委員会から送られてきたリストが浮かぶ。

須永が持ち込んできたものは、まぎれもなく社会的影響力を持った案件だ。

 

 

第二章

 

 

須永の依頼人、春山和彦は温厚そうな見た目の、落ち着いた雰囲気をもつ中年男だった。白髪混じりの頭髪は短く切りそろえられ、顎にのびた無精ひげにも白いものが混ざっている。

春山は須永がやってくるのを見ると立ち上がって頭を下げた。

「お世話になってます。ご面倒おかけしてすみません」

事前に須永から聞いていたが、丁寧で折り目のよい男性という説明通り、とても礼儀正しい人だと凜は思った。

須永は祐天寺を紹介した。

「臨床精神療法士の祐天寺稼手那氏です」

「祐天寺と申します。事前の許可もなくお邪魔して申し訳ありません。須永から相談を受けまして、お力になりたいと思って参りました」

普段はふざけたりおかしなことばかり口にするくせに、初対面の相手には祐天寺は礼儀正しくてそつのない、完璧な立ち居振る舞いを見せる。ちょうど今のように。

「勉強不足で恥ずかしいのですが、臨床精神療法士という方はどんなことをする人なんですか。うつ病とかそういった精神的な病気を治したりするんでしょうか」

「似ていますが、少し違います。うつ病を初めとするメンタルヘルスは長い期間、それこそ年単位の時間をかけて患者さんが病を克服していく、というものです。精神科医がやっているのはその手助けになります。

対して我々は患者が精神に抱える問題の原因究明と対処を行います」

祐天寺の教科書的な説明にも春山は「なるほどなるほど」と頷いて聞いている。

「我々、臨床精神療法士は患者の深層意識とも深層記憶とも呼べる内面精神世界に入り、患者の精神的な問題の原因を探り当て、可能であればその除去や解消を行います」

「頭の悪い私では専門的なことはわかりませんが、だいたいのことはわかったような気がします」

春山は大きく頷いて言った。須永の依頼人は理知的で落ち着いた性格をしていて、この男性が殺人を犯したとは信じられなかった。これほど理解力も高く,聡明な頭脳があるならば、被害者を殺さずとも別の解決策、もしくはそれに準ずる策を講じられたのでは、と思わずにはいられなかった。

須永が横から言った。

「ここからが本題になります。春山さん」

「娘のことですね」

それまで落ち着いた様子でやりとりをしていた春山が突如、左手で両目を覆って肩を震わせた。

須永も祐天寺も凜も、誰も何も言わなかった。

しばらく春山の嗚咽だけが聞こえた。やがて落ち着きを取り戻し始めた春山が顔を上げた。

「娘は塾に通い始めるまで、奴に会ったことも話したこともなかったんです。本人もなんで気になるのかわからないって困惑して母親に相談してきたそうなんです」

春山は顔を落として何かを押さえつけるように膝に手を当てながら話しをつづける。

「ことがあってから、母親のところにきて大声で泣いたそうです。自分でもなんでしたのかわからないと言って。

妻が言ってました。あんなに大声で泣きじゃくるあの子は久しぶりだって」

話しながら再び感情がこみ上げたのか手で目を覆う春山の姿に、凜は自分の父親を重ねて見ていた。もし自分が同じような目にあったら、凜の父親もきっと同じことをしただろう。

「問題の学習塾の教室長、たしか」

「宮崎十五郎。五十二歳」

須永がフォローする。

「その宮崎とは、娘さんはそれまで会ったことも話したこともなかった。しかも彼は五十を超えた、お世辞にも容姿に恵まれたとは言い難い男だった。

常識的に考えて一目惚れするとも考えられない。

だいたい一目惚れしたならそれが恋愛感情だと娘さんも理解できるはずでしょう。もうそういうのが分かる年頃でしょうから」

「私も同じことを考えました。娘は奴に一目惚れなんかしてなかった。洗脳されたんです」

声こそ荒げなかったものの、春山の話しぶりは被害者が死んだ今も怒りが消えていないことを感じさせた。

「須永もそう思ったからこそ私を連れてきたんでしょう」

「お前の力があれが原因がわかるかもしれないと思ったし、今でもそう思ってる」

祐天寺はじっと目を見ながら「春山さん」と言った。

「私が診れば一連の娘さんの言動の原因が分かるかもしれません。宮崎の作為の跡が見つかるかもしれないし、逆に本当に娘さんが宮崎に一目惚れしたということが判明するかもしれない。

どんな結果になろうともそれを受け止める、受け入れる覚悟はおありですか」

場が静かになった。

祐天寺の言うことはもっともだった。

春山の答えは明確だった。

「もし万が一、娘が一目惚れしていただけなら、私が娘の心の声も聞けない馬鹿な父親だったというだけの話です」

 それを聞いて祐天寺は頷いて言った。

「わかりました。出来ることはさせてもらいます。

私の診断報告書は公判においては証拠能力や証明力は他の精神鑑定書と同程度です。

こればかりはどうすることもできません。そのことは頭の片隅に覚えておいてください」

「私が犯した罪は間違いのない事実です。ただ、理由もなくやったことではない。奴が娘にひどいことをしたことが少しでも明らかになればそれでけっこうです」

この人は自分が一人の人間を殺めたという事実に正面から向き合っていると凜は感じた。おそらく須永もそう感じたのだろう。だからこそ祐天寺に助力を仰いだにちがいない。

「奥様やお子さんたちにもお話を伺います。よろしいですね」

須永に聞かれて頷く春山。

「話を聞くときは慎重にしよう。特に息子さんは事件当日に春山さんを塾に迎えに行って事件を知ったという経緯がある」

 須永の言葉に春山は硬い表情で頷いた。

「馬鹿をしたもんです。息子は本当にショックだったでしょう。自分をぶん殴りたいですよ」

「確か娘さんの双子の弟さんでしたよね。具体的にはどのように伝えたんですか」

「塾長を殺してしまったとか、殺めてしまったとか、そういうふうに言いました」

「確かですか」

 祐天寺に言われて頷く春山。苦々しい表情だった。改めて自分の言動の不用意さを呪っているようでもあった。

 実の父親から、人を殺したと打ち明けられれば狼狽しない子はいないだろう。娘の双子の弟ということは息子も中学生であり、その傷は想像に難くない。

「息子さんはどういう反応でしたか」

 春山は首を横に振って力なく言った。

「聞いたことが信じられない、という様子でした。親として、息子に会わせる顔がありません」

 

「どう思う」

帰りの車中、運転する祐天寺に須永が訊ねた。運転が好きな祐天寺は須永の車を事務所に置いて自分の車で行くと言い張ったのだ。自分の車をとりに戻らないといけない須永は最後まで渋っていたが。

「どう、とは」

「娘さんの話だ。春山の言うように、宮崎が何かしたと思うか」

「危ないなあ。前の車、ウィンカーも出さずに左折したよ。ああいうのを見ると苛々するよ」

「先生だってよく速度オーバーで走るじゃないですか」

「それはいいんだよ欄音くん、国道の直線でちょっとくらい飛ばしたって誰もなんとも思わないさ。でもウィンカーを出さずに曲がるのはなしだ」

「そんな話はどうだっていい。祐天寺、宮崎が春山の娘さんに何かしたとしたら、どんなことが考えられるんだ」

バックミラーにちらりと目をやると「私は安全運転派だ」と言い放った。

「さっき国道で速度オーバーで走るって言ってたろうが」

「欄音くん、説明してくれ。私は安全運転で忙しい」

仕方なく凜は助手席を横向きに座って正面に運転席の祐天寺が、右前方に後席の須永が見える姿勢をとった。先生がこんな感じですみませんという意味も込めて須永に頭をさげ、説明を始める。

「あくまでも一般的な考えとして聞いてください。もし洗脳、という体系で考えると暴力的改造、催眠、マインドコントロールといったものが挙げられます。詳しい説明は他に譲りますが須永さんも聞いたことがあるのではないでしょうか」

須永が頷く。

「いずれも方法としては確立されていますが、宮崎が春山氏の娘さんにそれらの洗脳方法をとれたかというと疑問が生じます。

そんなことをされていれば本人も春山氏やお母様に話すでしょうから。

したがって先ほど述べた洗脳方法はいずれも断定するには蓋然性が低いと思われます。

ここまではよろしいですか」

「よろしいです」

なぜか祐天寺が頷く。

「他の方法はあるのか、と考えたときに挙げられるのが記憶の改ざん、植え付けです。暗示療法を逆手にとったもので実際に犯罪事例もあります。

こちらのほうが可能性としては高そうです。

ただ、これも宮崎が春山氏の娘さんに暗示をかける機会が必要です。

つまり娘さんが塾に通う前にそういう機会があったかどうかです。ご本人が会ったこともないと言っていることを考えるとこれも疑問ですが」

「それじゃあやっぱり」

「あとひとつ」

運転しながら凜の説明を聞いていた祐天寺が言った。

「私のような臨床精神療法士が持つ施術法か、それに近い手法を使えば可能だろう」

「私のようなって、まさかお前が裏で糸をひいてたりしないだろうな」

ちらりと凜を見てからまた顔を正面に向けて祐天寺が言った。

「この男は弁護士になるくらい勉強ができるかわりに冗談のセンスは壊滅的なんだ。嘆かわしい」

悪かったな冗談が下手で、と須永がへそを曲げたところで事務所が見えてきた。

 

春山和彦と面会後のある日、凜は祐天寺に同行して春山家を訪れた。先に来ていた須永が出迎えにくる。二人が通された居間には凜よりも背の高いキャビネットが置いてあり、中にはいくつもの写真が飾られている。道着を着た、可愛い顔の小学生がトロフィーを受け取っている写真が何枚も飾ってある。

キャビネットの脇に中年の女性が立っていた。

「春山さんの奥様、巴さんです」

 須永は巴と祐天寺を互いに紹介させる。

「こちらは今回の件で協力してもらう臨床精神療法士の祐天寺というものです」

「祐天寺稼手那と申します。この度は奥様のご心労、お察し致します。彼女はアシスタントの欄音と申します」

祐天寺が如才ない調子で挨拶する。

「欄音と申します。よろしくお願い致します」

「お話は伺ってます。娘のことでもお力になってくださると」

すがりつくような声で巴はいった。はりつめた表情もあいまって、彼女の精神状態が限界に近いことが察せられた。

人を殺めてしまった夫。

人を殺めてしまった父親を持つ子どもたち。

女性としての尊厳を傷つけられた娘。

すべてを自らが一人で支えなければならない重圧と責任感は、凜には計り知れない。

「ご主人とも先日お話をする機会を頂きました。私に出来うる限りのことをする所存です。ついては、奥様と二人のお子様に少しお話を伺いたいと思って参りました。

心中お辛いとは存じますが、ご協力頂けないでしょうか」

巴に向かって深く頭をさげ、協力を乞う祐天寺。

凜から見て、祐天寺は今回の依頼人(正確には依頼人の依頼人だが)に通常以上にシンパシーを感じているように思われた。いつもはもっとシニカルな態度が見え隠れする。それが祐天寺のスタイルであり、元来の性格のはずだった。

それが今回においては春山相手にも、そして目の前にいる巴にも、いつも以上に丁寧に、親身になっている。

「私たちにできることでしたら。ただ、子どもたちとお話されるときはできれば私も同席させてもらえないでしょうか。

息子もそうですが、特に娘は今回のことで深く傷ついてますし」

「もちろん同席して頂きます」

「担当弁護士として私もすべての場に同席させて頂きます」

須永が後押しするように発言し、巴もそれに力を得たようだった。祐天寺は頷き、ヒアリングを開始した。

凜は断りを入れて持参した機器を作動させた。場の会話を録音してデータ化するためだ。

「私から質問を重ねてもいいのですが、警察やこの須永に話した内容と重複することもあって煩わしいでしょう。

そこで、今回の事件にあたって奥様のお考えをご自由に話して頂くというのはいかがでしょう。必要に応じて私から質問させて頂きますので」

巴が頷く。

「導入は私からお伺いします。

ご主人が事件の被害者である学習塾の教室長、宮崎氏を殺害したことについて奥様はどのようにお考えですか。率直なお気持ちで結構です」

「信じられませんでした。最初、夫から電話がありました。

人を殺してしまったって。

最初は夫が言っていることを理解できませんでした。

夫は建設業界の人間で、仕事相手との会話でも荒々しい言葉のやりとりをしています。建設業界はそういう人が多いので。私も若いときに建設会社の事務をしたことがあるからよく知っています。

客先や協力会社の人間との間で、殺すぞとかふざけるなというような会話が当たり前のように飛び交う業界なんです。夫も業界の人だから、そういう会話をしているのは何度も聞いたことがあります。

でも実際に人を殺すか、というのは別の話です。夫は人を殺すような人じゃありません」

「私の父も建設業界の人間です。物心ついたときから父が仕事相手と交わす会話を耳にして育ちましたので、奥様のおっしゃることはよくわかります」

祐天寺の父親は、それほど規模は大きくないながらも総合建設業を営む会社の経営者だった。

「夫の言うことを聞いて最初は混乱したんですが、そのうち気持ちが落ち着いて状況が理解できました。それからあとはもう、目の前のやらないといけないことをとにかくこなす、ということの連続です。

夫は自首しました。子どもたちとも話し合い、学校はしばらく休ませることにしました」

彼女は娘に父親がやったことを話した。先に父親から直接その話を聞いていた息子は顔を青くして一緒に聞いていた。娘は突然のことに取り乱し、息子と二人して泣いた。

巴の話を凜は痛々しく思いながら聞いていた。実の父親が殺人を犯せば誰だって混乱するし狼狽する。大人でもそうなのだから、中学二年生ならなおさらだろう。

「あとでわかることなので私からお話しておくことがあります」

巴はよどみなく話を進めていく。

「小学校五年生のときに娘の蕗佳が行方不明になったことがありました。

息子の玲央を空手道場に一人で迎えに行って、そのまま行方がわからなくなったんです。警察にも連絡して探し回ったのですがその日は見つかりませんでした。

事件にでも巻き込まれたのではと心配しましたが次の日の朝に玄関先で見つかりました。幸い、怪我も暴行をうけた跡もなく身体は無傷な状態でした。

本人に聞いても何があったのかよく覚えていなくて。誰かに連れ去られたことはぼんやりと覚えているようでしたが具体的なことは今も思い出せないままです」

話を聞く祐天寺の視線が鋭くなった。小学五年生といえば、何も分からない年齢ではないが悪意を持った人間からすれば騙しやすい年齢でもある。

春山の娘の蕗佳が行方不明になっている間、彼女の身に起こったことを追及する必要はあるだろう。

自分の話を終えた巴が一人の少女を連れてきた。春山蕗佳だ。

ショートボブにしたヘアースタイルが良く似合う、美少女といっても差し支えない可愛らしい少女だ。

くりっとした目は二重の厚みがあってパンケーキのように大きく、それが魅力のひとつと言えた。だが今はその目もおびえた小動物のように見えた。

ご挨拶を、と促された蕗佳は「春山蕗佳です」とはっきりとした口調で挨拶したが、その声は硬かった。警戒しているのだろう。

多感な年頃だし、ショッキングなことが続いて精神的にも参っているはずだ。警戒しないほうがおかしい。

祐天寺が「こんにちは。祐天寺です。東横線の祐天寺とは無関係だからね」と優しい口調で話しかけたが蕗佳が祐天寺駅を知っているかどうかは怪しかった。おそらく知らないに違いあるまいと凜は思った。

須永の冗談のセンスもそうだが、祐天寺のそれも、須永に負けないくらい壊滅的に感じられた。

「蕗佳さんはいま十四歳ですよね」

彼女をリラックスさせようと祐天寺が柔らかい声を出して話しかける。

「おじさんが君みたいに若かったら、もっといろいろなことが出来たのかなって思うことがよくあるんだ。君にはまだこんなしわしわのおじさんの言うことは実感できないかもしれないが」

蕗佳は何も答えずに祐天寺のことを見ている。

「君の一生を一日に置き換えてみようか。今は長生きの時代だからね、君が九六歳まで生きるとしようか。

そうすると、生まれたときが午前〇時で九六歳で死ぬときが二四時だ。

ここまではいいかな」

教えるのが上手な数学の教師のように、蕗佳の理解を確認しながら話し続けた。

「九六を二四で割ると四になる。

つまり君は一時間で四つ歳をとることになる。そうだよね」

彼女は祐天寺の顔を凝視しながら話を聞いている。さきほどまでより興味深そうだ。

「蕗佳さん、君の人生を一日に置き換えると一四歳、今の君は午前三時三〇分だ。

夜も明けていない、真夜中だよ」

そこで祐天寺は蕗佳の顔を見ると優しい口調で言った。

「人生、という大きな視野で考えると、君の活動は始まってもいないようなものだ。楽しい時間や思い出が、眠りから君が目覚めるのを待っているだろう。それだけは約束する。いいね」

蕗佳の大きな目に涙がたまっていき、やがて頬をつたって筋をつくった。「はい」と答えると次の瞬間、両手で顔を覆って泣き始めた。横にいた巴が肩を抱いて背中をなでてやっている。

その様子を見て、凜は自分が初めて祐天寺という人間に触れたときのことをふと思った。

 

その頃は多くのことに押しつぶされそうになっていて、自分でも感情のコントロールを失っている時期だった。

今になって振り返れば、自分を押しつぶそうとするものなど存在しなかったことがわかる。ただ自分で自分の首を絞めていただけだ。

良くある話であり、何の面白みもないが、当時の自分は今のようには考えられなかった。

今まで生まれては死んでいった人たちのほとんどが似たような経験をきっと持っているに違いない。彼らと同じような思いを経験したのが、ちょうどその頃だったというだけの話だ。

凜が祐天寺のクリニックを訊ねたのは知人の勧めがきっかけだった。

祐天寺は問診票に書かれた凜の名前をみて「デイモン・ラニョンの生まれ変わりか」と呟いた。「なんですか」と訊ねても「いいんだいいんだ。気にしないで」と手を振って言うだけだった。

「君はいま二〇歳か」

「そうです」

「お腹はすかないかね」

「え」

何を言われたのかよくわからなかった。

「お腹だよ、お腹。ハングリー。はらぺこ。エリック・カール」

「エリック・カール?」

「今の子は幼少期に絵本も読まないのか。嘆かわしい」

祐天寺が何の話をしているのか凜にはさっぱりわからなかった。これは来るところを間違えたかと思った矢先、祐天寺が言った。

「人生が仮に八〇年だとしよう。君が老齢に達するころには九〇年くらいにまで伸びているかもしれない。もし仮に人の一生を一日に置き換えてみたとしたらどうだ。わかりやすいように君が九六歳で死ぬ、としよう」

頭の中で考えてみた。一日が二四時間だから、二四時が九六歳ということ?

「生まれたときが午前〇時で九六歳が二四時だとすると君は一時間で四つ歳をとることになる。いま君は二〇歳だ。ということは、いまは何時になるかな」

一時間で四歳。いま二〇歳だから二〇を四で割ると……。

「そう、午前五時だ。午前五時だよ午前五時。ちなみに君は今日の午前五時に何してた?」

「ベッドの中で寝てました」

「そうだろう。私だってそうさ。つまり、そういうことだ」

唐突に話が終わって祐天寺は席を立つと「本当にお腹がすいてきた」と言ってどこかへ行こうとする。

「ちょっと待ってください。そういうことって、どういうことですか」

凜のほうに振り返った祐天寺はさも当たり前かのようにつまらなそうな顔で言った。

「だからさ、まずは起きて朝飯を食べろって話だよ。いま君が悩んでいることはこのさきにつづく君の長い人生のなかで、おそらくほとんど何の意味も持たないことだろう。

君は今日の午前五時に寝ていたときに何を考えていたのか覚えてるのか」

「覚えているわけないです。寝てましたから」

「だから、そういうことさ」

煙にまかれたような気持ちだったが、重かった自分の肩がすぅーっと軽くなった気がした。

――いや、きっと最初から重くなんかなかったのだ。この人はそのことを私に教えてくれたにすぎない。

「祐天寺先生」

「なんだい。午前五時くん」

「私は欄音凜です」

「知ってるよ、問診票に書いてある」

それからしばらくして、大学を卒業した凜は祐天寺のクリニックで働くことになった。

 

巴に肩を抱かれて背中をさすられていた蕗佳だが、次第に落ち着きを取り戻したようだった。

「私、何を話せばいいんですか」

「居間に飾られていた写真を見たんですが、蕗佳さんも空手をやっていたのかい」

事件に関係なさそうな質問に肩すかしをくらったのか、緊張の解けた表情で「やってましたけど、だいぶ前に辞めました」と言った。

「弟さんとは仲がいいのかな」

「いいと思います。双子だし、あまり弟って感じしないけど。

昔は玲央のほうが身体が小さかったから姉の私が守ってやらなきゃ、みたいに思ってたし今でもそういうふうに思ってます。玲央は空手を今でもつづけてて私よりずっと強いけど。

友達とかはお兄ちゃんとか弟のことをけっこうひどく言う子も多いけど、わたしは玲央のこと普通に仲良い姉弟だと思ってるし、みんなにもそう言ってます」

十四歳という年齢のわりにしっかりとした受け答えをすることに凜は感心した。

「弟さんと仲がいいってことはよくわかったよ。それじゃあ……お父さんのことはどう思ってるかな」

「お父さん、ですか」

「周りの声はどうでもいい。

君自身がどう思っているのか。

お父さんに対する正直な自分の気持ちを話してほしい」

しばしの間が生まれた。祐天寺は彼女から目をそらさず、しかし優しいまなざしでいつまでも待ってるよ、とでも言うように微笑みを浮かべている。

須永は遠慮のない祐天寺の質問にハラハラしているように見えた。

巴はじっと押し黙って娘を見守っているようだった。

「けっこう前のことなんですけど」

蕗佳がおずおずと話しはじめる。

「いいよ」

「ちょっと大きい地震があって、生徒は迎えに来た保護者と一緒に帰る、みたいなことがありました」

「銚子沖のときかな」

「そうですそれです。中一になって少し経ったときのことでした」

一年ほど前にあった、銚子沖地震はマグニチュード五クラスの地震だった。大地震とまではいかなかったが関東地方を中心にそれなりに大きな揺れを観測した。

凜はすでに祐天寺のクリニックに就職していて、地震の発生時はオフィスにいたが、横にぐわんぐわん揺れるのが恐ろしかった。

「仕事がお休みだったお父さんが迎えに来ました。そのとき友達のみんなから冷やかされたんです。

普通はお母さんが来るって。お父さんが来る春山はファザコンだって。

みんなに冷やかされてそのときはどうしてお父さんが来るんだって迎えにきてくれたお父さんに文句言っちゃったんです。

玲央は特に冷やかされもしなかったみたいで何も言ってなかったですけど」

「それで、お父さんはなんて」

「悪かったって、謝られました。悲しそうな表情でそう言った父を見て、はっとしたんです。

お父さんのこと傷つけちゃったなって。

わたしと玲央のためにお休みの日にわざわざ迎えに来てくれたお父さんに、なんてひどいこと言っちゃったんだろうって」

「人を傷つけるっていうのは、自分がしてもされても、嫌なもんさ」

首をふって言う祐天寺に蕗佳は目を見開く。大きい目がさらに大きくなる。

「おじさんもそうなんですか」

「そうだよ。おじさんは心の汚い大人だからわざと相手を傷つけようと思って本当にそうすることもあるし、自分では意図してなくとも結果的に相手を傷つけたと後になってわかることもある。

どっちのときも、やっぱり嫌な気分になるんだ」

「わざと傷つけようとしたときも後で嫌な気分になるの?」

そう問われ、頷く祐天寺。それを見て蕗佳の目に再び涙がたまっていく。

「わたし今でも後悔してます。あのときお父さんにひどいことを言ったこと」

「お父さんはわかってくれていると思うよ、きっとね。そうですよねお母様」

「先生のおっしゃる通りだと思います」

祐天寺の声に巴はそう言って娘の背中をさすった。

「お父さんから頼まれたことがあるんだ。蕗佳さんのことでね。

でも、まずは何よりも蕗佳さん本人の意思が大事なんだ。

嫌ならそう言ってもらって構わない。その場合はお父さんには私からしっかりと説明する」

「お父さんがおじさんに頼んだことって、なんなんですか」

「君にとってはあまり考えたくないことかもしれない。お父さんが殺めた相手のことだ」

話の伝え方に繊細さが要求されるところであり、しかし説明を回避するわけにはいかないところでもあった。

蕗佳ははっとした表情を浮かべたがしかし意外にも大きく取り乱すこともなく小さく頷いた。

「お父さんは君を責めるようなことは一切言っていない。ただ、相手方が君に何らかの細工をしたんだと話している。そのせいで君が自分の意思とは関係ない行動をとらされたんだ、と」

「わかりません。塾に入会して初めて会った人だし、通ってから何かされた記憶もないし」

「私にもまだどんなことが君の身に起こったのかはわからない。

でもお父さんが君のことで真剣に悩んでいることは会って話したときにわかった。出来るだけのことはすると約束もした。たぶん私が施術すれば今までわからなかったものが見えてくるだろう。

でもこれは蕗佳さん自身の問題でもある。君の意思が最も尊重されなければならない。

私は人に無理を強いるのが好きじゃないんだ。あそこに立っている弁護士のおじさんは例外だけどね」

最後の言葉に蕗佳が少し笑う。

「わたしはどんなときでもあなたの味方だから。あなたがしたいように、思ってるようになさい。何があってもお母さんがついてる」

一四歳といえばもう子どもではないかもしれない。しかしまだ大人でもないだろう。

定義しづらくて、壊れやすく、繊細な年齢だ。

だが同時に、年老いた人間は持ち得ない、生命力や力強さを持っている。

春山蕗佳の眼差しはもはや、ただおびえているだけの、小動物のような目ではなくなっていた。

「わたし、お願いしたいです。自分の行動とか気持ちとか、そういうのが操られてたら悔しいから」

自分が一四のとき、こんなふうに自分の人生とか生き方とかに意思を持っていただろうか。凜にはその自信が持てなかった。もし自分が一四のときに目の前にいる少女が近くにいたら、きっと憧れの存在になっていただろうと思った。

 

巴が蕗佳と入れ替わりで連れてきた坊主頭の少年をみて凜は一瞬だが自分の目を疑った。厚みのある二重まぶたのくりっとした目と佇まいが姉の蕗佳にそっくりだったからだ。

姉よりも筋肉質な体つきで身長も姉より高い。後で聞いたことだが、小学生のときは蕗佳の背のほうが高かったが中学一年生の後半に玲央が追い抜いたらしい。

「はじめまして。春山玲央です」

声変わりはまだのようで少し高めの、だが落ち着いた口調で名乗る少年を凜は微笑ましく思った。凜にも四つ違いの弟がいる。玲央をみて自分の弟を思い出した。

「こちらは――」

「話し声は聞こえてました。親父が頼んだって。蕗佳を助けてくれるんですよね」

巴の話をさえぎって玲央が言う。大人びた言い方だった。

「格好つけてますが、いつもは親父なんて呼びませんから。お父さんお父さんって呼んでます」

「いいよそんなこと」

心なしか顔を赤らめる。

祐天寺はそんな玲央少年に「私にも自分の父親のことをお父さんお父さんと呼ぶ時期があった。恥ずかしいことじゃないさ」とよくわからないフォローをいれる。しかしそのフォローが気に入ったのか玲央は緊張がゆるんだようだった。

祐天寺は巧みに玲央と話を続けた。

小学校低学年から空手道場に通っていること。

全国規模の大会でも優勝やそれに準ずる結果を収めたことがあること。

釣り、特に海釣りが好きで父親と一緒に海へ行き、釣った魚をその場でさばいて食べる刺身が一番の好物であること。

表情を出さないようにしているものの、玲央はそういったことを素直に話した。

「君はお父さんのこと好きなんだね」

「好きだし尊敬もしてます」

「事件のあった日、お父さんを塾まで迎えに行ったと聞いたけど、間違いないかな」

 玲央は事件と言う言葉を聞いてはっとした表情をしたがすぐにそれを消して答えた。

「間違いありません。そのとき父に言われました。あいつを刺したって。びっくりしたしショックでした」

凜には彼が、誰とも目を合わさないようにしているように見えた。うつむき加減に話しているときはもちろん、顔を上げて話しているときですらその目は誰にも焦点があっていないように見えたのだった。

「さっき蕗佳さんにも同じ質問をしたんだけどね。玲央くんはお姉さんとは仲いいのかな」

そのときだけ、玲央の視線が祐天寺のそれとぶつかったように感じられた。

「仲はいいと思います。僕は男だし蕗佳は女の子だから、何かあったときは僕が守らなきゃって、そういうふうにも思ってます」

そのときの玲央は決心した男の表情をしていた。

姉弟の仲が良いことを格好悪いとか恥ずかしいとか思う年頃にもかかわらず、蕗佳も、玲央も衒いもなく仲の良さを公言している。この姉弟が大人や世間のバッシングや偏見の目にさらされることを思うと胸が痛かったし、そうなることが腹立たしかった。

 

春山家を辞した後、春山和彦の事件を担当する検察官の話を聞きにいった。松田という、真面目な印象の四十半ばの男で、祐天寺にも誠実な対応をみせた。

「被害者の過去? 須永さん、何を企んでいるんです」

「とんでもない。被害者と最後に関係をもった少女のために知りたいことがあるんですよ」

須永が言うには今回の事件は警察や検察内部でも被告人である春山和彦に同情的らしい。

警察関係者は性犯罪者を特に毛嫌いする者が多く、犯罪事実は明らかでないにせよ、殺された宮崎に不審の目をむける人間は少なくないというのが実情のようだった。

「被害者保護の観点からもあまり詳しい話は出来かねますが、経歴についてはどうせあとで明らかになるでしょうからね」

「公になった情報ならこちらにもありますが」

宮崎は大学から院にあがり、卒業後も大学に残って研究を続け、後に民間の研究所に移籍。だがそこでトラブルを起こし、解雇。その後、個人塾を立ち上げ現在に至るも今回の事件の被害に遭い死亡した。

それが公にされている宮崎の経歴だ。

「被害者が塾の立ち上げ前にしていた研究とはなんだったんですか」

その点は須永が持っていた資料にも情報がなかった。大学時代から続いた研究なら本人もそれなりの実績を残しているだろうになぜトラブルを起こしてその道を断ったのか気になるところだった。

「犯罪心理学に関するものだったとか。とはいっても、犯罪心理学のどの分野を専門にしていたのかは調べていませんが。今回の事件にも関係あるとは思えませんし」

松田の熱意の薄さから判断するところによれば、春山の裁判は始まる前から終わっているような扱いをしているようだった。

春山は罪を認めており、公判で争う姿勢もないとあってはそれも致し方ないことかもしれない。ほかにも案件を抱えているようでそちらの用で忙しいとこぼしていた。

須永以下祐天寺と凜は礼を言ってその場を辞した。大した収穫はなかったと疲れた口調で言う須永を「君の人生も似たようなものじゃないか」と祐天寺が冗談交じりに慰めていたのが凜にはおかしかった。

 

いつの間にか囲まれていることに気がついたのは松田と会った後、軽く食事をとってから祐天寺のオフィスに戻るべく車をとめたパーキングに向かっているときのことだった。

「なんだろう。私は囲まれて暴力を振るわれるようなトラブルとは無縁の人生を送ってきたはずだが」

「先生は平和主義者で敵と呼べる存在なんかいませんもんね」

「できたら突っ込みが欲しかったな」

「二人ともふざけていないで建設的な意見の一つも出したらどうだ。凜さん、相手は何人くらいいるかわかりますか」

須永が声を硬くして言った。

「彼女にそんなことわかるわけないだろう。武術の達人でもあるまいし」

「でも彼女、空手と、あと合気道だったかな、そのふたつが合わさった特殊な体術みたいなものを習得してるって」

凜は頷いた。

真田流空気術という、空手と合気道が融合した武術の一種で、有料のオンラインプログラムで習ったものだ。真田流は空気術の主流派として界隈では有名だという触れ込みだった。一三回のレッスンを受け(もちろんオンラインで)、最後の修了課題をクリアして初段の位を授けられたのだった。

「また得体のしれないプログラムに手を出したんだね。ついこの前だって怪しげな料理レッスンを受けて痛い目に遭ったばかりじゃないか」

「痛い目になんかあってません。私は実際に作ったものを食べて美味しいと思いましたし、なんともありませんでした。

先生が食されて嘔吐されたのは体調が悪かっただけじゃないでしょうか」

話を聞いていた須永の顔色が変わる。

「大丈夫です、もしものときは私に任せてください。

何人いるか知りませんが、軽く蹴散らしてやりますから」

「武術の達人なのに何人いるのかわからないんだね」

駐車場に近づくにつれ人気は少なくなってくる。気配はつかず離れずついて来ていた。

祐天寺はさほど深刻な様子は見せていないが須永のほうは明らかに動揺している。

そろそろ祐天寺の車を停めた場所が見えてくる、という場所で凜は大きな声で言った。

「いるのは分かっています。いい加減に顔を見せたらいかがですか。

大の男たちが隠れてこそこそ後をつけるなんて情けないと思わないんですか」

しばしの沈黙の後、駐車場にとめられた車の影から一人また一人と顔を出す。

その数は六人。こちらの倍。

どの顔もティーンエイジャーと言われてもおかしくない、あどけなさが抜けきっていない顔立ちをしている。

「とても残念だ」

「なにがだ」

大袈裟に首を横に振りながら言った祐天寺の言葉に、六人のうちの一人が訊き返す。肩まで伸ばした長毛が格好いいどころか田舎くささを感じさせる若者だった。顔にはニキビのあとが目立つ。ひょっとしたら本当にティーンエイジャーなのかもしれない。

「前途ある若者たちがほんの出来心で犯した罪を背負って未来永劫苦しむことになることが、さ」

「なに言ってんだ。俺たちはあんたらから進んで提供された金をもらい受けるだけだ」

「説得は無理のようだな」

端から説得する気がなかったようにも見えたが、祐天寺のその言葉が合図となった。

凜は祐天寺と須永の前に一歩でる。

若者たちのうち、祐天寺と言葉を交わした長毛の若者もまた前に出る。彼がリーダー格のようだ。

隙をみせないように留意しつつ、凜は相手と間合いをとりながら近づいていく。

長毛の若者は唇をゆがめて言った。

「大の男が二人いるのに、こんなちんまりした女がやんのか。あんたら腰抜けかよ」

嘲るように言う。他の若者たちも同調して笑ってみせる。

「一応、断っておこう。この女性は確かに背丈がないし、色気にも乏しく、恋人もいない。だが君ら一人ひとりを一瞬で組み伏せるだけの技術の持ち主だ。

もし君たちが自分の身を大事だと思うなら遅くはない。今すぐ回れ右をして家に帰っておとなしく学校の宿題でもやって早く寝なさい。我々を囲んで恫喝をしたという事実はなかったことにしてもいい」

「凜さんにセクハラで訴えられても俺は弁護しないからな」

須永の言葉を無視して祐天寺が続ける。

「反対に君たちが病院のベッドに恋い焦がれているというなら仕方ない。今日の出来事を一生後悔するだけでなく、毎晩悪夢にうなされることになるだろう。

自分たちが寸胴短足ぺしゃんこ女と罵り嘲った人間に再起不能にされる悪夢を」

そう言われても若者たちはにやにやしているだけで誰も逃げようとはしない。

「仕方ない、欄音くん。思い知らせてやりなさい。

君という美人の仮面をかぶった凶悪な殺戮者を狙ってしまった、自分たちの愚かしさをね」

「言いたい放題の内容については精査して後ほどしっかりと抗議させてもらいますから」

凜はさらに一歩前に出る。リーダー格の長毛の少年はなおもにやにやしながら「お、やんのか」と余裕の表情で言った。

「そのにやけた表情がいつまで持つのか楽しみですね」

言った直後、相手との距離を一気に詰める。

そしてその後すぐに凜は意識を失った。

 

オフィスに戻って一息つくと、我慢できないといった様子で須永が話しはじめた。

「ロン毛の若者の懐に真正面から入りこんだときは興奮したよ。本当に達人なのかって」

須永の言葉をうけて祐天寺がにやりと笑って言った。

「私もさ。その後のロン毛くんが繰り出した右の正拳突きをやはり真正面からくらって気を失うまでのことだったけどね。

空手と合気道の融合武術、みたいな言い方をしていたから相手の攻撃を受け流してその反動を物理的衝撃に転化してカウンター、みたいな展開を期待したんだがなあ」

二人にいいようにからかわれるが反論できる材料がなにひとつなかった。

実際、相手の右の正拳突きを食らった記憶も曖昧だった。空気術のオンラインプログラムの修了課題は最優秀の評価だってもらったというのに。

「最終的には事なきを得たわけだから凜さんもあまり落ち込むことないよ」

須永が言うように、凜が気を失った後、事態は早々と収束に向かったという。

祐天寺がふざけた調子で長広舌をふるっているあいだに須永が警護会社の知り合いに緊急の連絡をしていたらしいのだ。

警護会社はクライアントの要請があった場合、五分以内にスタッフを派遣することができるように体制を整備している。

今回は祐天寺が長々と意味のない話をして時間を稼いだおかげで凜が意識を失ってから間もなく警護スタッフの面々が到着したらしい。

いくら荒事に手を染めているとはいえ不良少年たちではプロにかなうわけもない。駆けつけた警護スタッフは造作もなく少年たちを拘束し、場所をかえると祐天寺と須永も交えて尋問を行った。

「リーダー格の彼が言ってたよ。我々が車から降りてくるところを見たらしい。

祐天寺の車を見ていい金を持ってると思ったそうだ」

祐天寺の乗っている車は現代の最新車両と比較するまでもなく古い、骨董品レベルの旧車だ。空調の効きも悪く、あまりにうるさく、時代に逆らうかのように化石燃料を使用しひどく匂う、そういう車だった。

凜からすれば良いところを見つける方が難しい類いの車だが一部の酔狂なマニアからは高く評価されており、中古車市場では目を疑う価格で取引されている。もしかしたら長毛の少年は車好きでそのことを知っていたのかもしれない。

「なかなか慧眼だよ、私の車に目をつけるとは。先が楽しみな少年だ」

「ただの強盗未遂を働いた不良少年だけどな」

「まあいいじゃないか。彼らのおかげで欄音くんが習得したという空気術なる格闘術が単なる役立たずにすぎないことが明らかになったわけだし。

これで欄音くんも我々の見ていないところで空気術を盾に恐喝とか脅迫といった悪行に手を染めることもないだろうし、今後は怪しげなプログラムに手を出すのも控えるだろう。万々歳さ」

「もうからかわないでください」

確かに空気術が空振りにおわったことは否定できない事実だ。それを認めることは凜だって吝かではない。だが、これからずっと祐天寺のとっておきの笑いのネタにされるのかと思うと頭が痛かった。

「欄音くんをからかって遊ぶのにも飽きてきたことだし、春山蕗佳さんの施術の準備に取りかからなければ。必要なデータはそろってるかな」

「そろってます。本人および両親の承諾書もありますので、あとはご本人に来てもらえればいつでも可能です」

「彼女はまだ十四だ。祐天寺。あの子を、頼む」

春山家で話をしたときの蕗佳の涙を凜は覚えている。その涙の意味の重さを思うと胸が張り裂けそうになる。

祐天寺はゆっくりと目を開けるといつものふざけた話し方とはちがう、決然とした口調で言った。

「当然だろう。ああいう子のために我々がいる」

 

「はじめようか」

春山蕗佳はモニタリングルームのベッドに、専用のヘッドリングを装着し、安全ベルトで身体を軽く固定された状態で横たわっていた。

臨床精神療法士の施術中、患者は催眠状態になる必要はない。単に睡眠状態になっていればそれで充分だ。療法士が精神内部に入り込んでいるとき、患者が自然に目を覚ますことはない。療法士は患者の理解と承諾、専用の機器、自らの知識とスキルのすべてがそろってはじめて患者の内部に入り込める。かつて業界のレジェンドに、専用の機器なしに本人の能力のみで他者の精神世界にダイブした人間がいたが、それは例外的存在だ。

 

蕗佳は緊張の面持ちで巴に連れられて祐天寺のオフィスにやってきた。

最終確認の意味もこめて施術実施の可否を訊ねると彼女は不安を押し込むようにきっぱりと「お願いします」と言った。

「寝てるうちに終わるよ。終わったらお母さんと美味しいものでも食べてから帰りなさい。

大丈夫。代金はあとでぜんぶ須永のおじさんが払ってくれるからね」

「先生、あまりにでたらめな話ばかりしていると信用問題に関わりますのでほどほどに」

「欄音くんもどうかね。すべて須永のおごりだ」

「ご一緒します」

そんな話をしながら巴と蕗佳をモニタリングルームに案内した。

 

「お母さんはここにいるからね」

巴にはそばで立ち会ってもらい、祐天寺は頭部に専用のゴーグルをかぶる。それは蕗佳の頭部に取り付けられたリングとも呼応している。

凜も祐天寺にならって同じようにゴーグルをかぶる。同行者用のサブゴーグルだ。

「欄音さんも祐天寺先生と一緒に蕗佳のこころに入られるんですね」

「私はあくまでも同行者です。先生のそばにいることを条件に一緒に深層記憶世界のなかに入ることができるんです。ゲームのアシスタントプレーヤーみたいなものですね」

「話の続きは終わってからにしよう」

巴の質問に答える凜に、祐天寺が言った。すでに入場の準備を終えたようだ。凜は目で巴に挨拶をして意識を蕗佳のほうに向けた。

彼女はベッドに横たわってヘッドリングをつけた状態で睡眠状態に入っている。ヘッドリングが微細な振動を送って入眠時と同じ状態を再現することによって患者に睡眠を促す。

「まずは新規入場者教育からだ。いこう」

次の瞬間、凜の視界が闇で覆われた。しばし何も見えない時間が続く。そして急に視界が晴れたかと思うと目の前に扉があり、扉の前には祐天寺が立ってこちらを見ていた。

凜が現れたことを確認した祐天寺は何も言わずに扉を開け、扉の向こうにのびる廊下を歩いて進んでいく。凜もその後をついて歩いた。まわりはすでに内装が仕上がっており、一見すると建設中の建物には見えない。しかしここは春山蕗佳の深層記憶世界であり、いまも建設工事中の建物であるはずだった。

しばらく廊下を進むと大きな部屋に突き当たる。そこがこの世界の新規入場教育の実施会場のようだ。長机とパイプ椅子がいくつも並んでいる。会場の前方には春山蕗佳の顔をした人間がひとり、デスクの前に座っている。凜は事前にデータを入力していた旨を伝える。

「確認しました。一点不足のデータがあります。

本日入場予定の祐天寺稼手那さんと欄音凜さんの資格情報が入力されていません。

これでは本日の入場を認めるわけにはいきません」

指摘をうけて凜は焦った。入力したつもりになっていたが、見落としていたのかもしれない。新規入場者教育の担当者にノーと言われれば、入場はできない。焦る凜の横から祐天寺が言った。

「大変申し訳ありません。不足のデータならたったいま追加入力しました。ご確認願えますか」

「お待ちください。確認します」

祐天寺に言われて新規担当者はしばしの間のあと、合点がいったように頷いた。

「確認できました。必要なデータがそろったようなので本日の入場を認めます。今から受け入れ教育用の映像を流しますのでそちらの椅子に座ってご覧ください。私語厳禁です。

なお、これは当現場の受け入れ教育を受けた人がつけなければならないゴムバンドです。どちらの腕でもけっこうですが当現場に入場中は外さないようお願いします」

祐天寺と凜はゴムバンドを受け取ってそれぞれ左腕につけ、部屋にあったパイプ椅子に座る。お決まりの内容が目の前のスクリーンに映写される。それによればこの建物、つまり春山蕗佳の深層記憶世界は一四階の途中まで建設が進んだ高層ビルの形状をしていることがわかる。

もし蕗佳が洗脳されていたとすれば、一四階までのどこかにそのあとが残っている、ということだ。

「もし宮崎が蕗佳さんに何らかの洗脳措置を施したとします。その場合、洗脳者が死んでも被洗脳者の洗脳は解けないのが一般的なんですか」

気になっていたことだった。催眠術の多くが術者の意思を媒介にして相手に影響力を行使するかわり、術者の意思がなくなれば催眠術も解除されるのが一般的だ。仮に宮崎が春山蕗佳を洗脳したとしても、本人が死んでいれば洗脳が解けた可能性もあるのではないかと思ったのだ。

「洗脳方法によってその答えは変わってくるとしか言えないな。もちろん簡単な暗示程度なら解けることもあるだろう。だが、なかには術者の意思の有無を問わないものもあるんだ。

洗脳も手の込んだものになると発動や解除が時限式にされるものもあると言われている。今までお目にかかったことはないけれどね」

新規担当者の「これで本日の新規入場者教育を終わります。皆さん、どうぞご安全に」という言葉を合図に祐天寺が立ち上がる。

「さあ、いこうか」

 

地下一階から順番にフロア内を調査して八階まで来た。祐天寺が言うにはここまでで怪しいものはなかったという。凜はここまで来て、フロアの構造の違いで気がついたことがあった。

「先生、地下一階から五階までは毎フロアぜんぜん造りが違ったのに、六階からこの八階まではほとんど同じような構造ですね」

「特殊階が続いたね五階までは。子どもの成長を考えても〇歳から五歳までは身体的にも精神的にも毎年大きく成長する。小学校に入学すると生活リズムが毎年同じように刻まれるから六階から上が基準階のようになっているんだろうね」

 以前に祐天寺がしてくれた説明を思い出す。特殊階はフロアごとに構造が異なり、階高つまり天井も高いことが多い。大部屋やホールのような特別な使途のために用意された部屋があるのも特殊階の特徴のひとつだという。一方の基準階はフロアの構造が毎フロアほとんど同じで特殊階に比べると階高も低いことが多い。商業ビルやオフィスビルの中層から高層で多く見られる造りである。

九階にあがると祐天寺の歩く速度がそれまでより遅くなった。

「どうしたんですか」

「春山蕗佳が過去に洗脳を施されたとしたら、当然その際に宮崎と接触があったはず。年齢が低いときは外出時に親の目がそばにある。一人で出歩くようになる小学校三、四年生あたりから危険が高まると考えるのが自然だろう。

ここから先は今までより注意深く観察するように」

フロアにある大小の部屋、手洗いや給湯室、パイプシャフト、機械室、電気室など漏らさずチェックしていく。九階、十階に異常は見つからず、十一階にあがった。大小の部屋、手洗い、パイプシャフト。下の階と同じ光景が続く。しかしフロアの端の部屋の扉の手をかけると祐天寺の動きが止まった。

「開かない」

「へんですね。いままで鍵のかかった部屋なんてなかったのに」

これまでのどのフロアのどの部屋にも鍵はかかっていなかった。

「こじ開けましょうか」

「君は乱暴だからすぐ破壊しましょうとか粉々にしてやりましょうとか言うけれどここは一応、春山蕗佳のなかだからね。可能なら本人に開けてもらおう」

すこし待っていなさいと言ってからいくらもしないうちにフロアマスターを連れてきた。フロアマスターと呼ばれるものの、実態は頼まれごとに対応する何でも屋だ。

「この部屋の扉には鍵がかかっている。開けてもらえないだろうか。さもないと私の助手が扉を粉砕すると言って聞かないんだ」

フロアマスターはこわごわと凜を見てくる。凜は祐天寺に非難の視線を送る。

「開けられませんね」

フロアマスターが申し訳なさそうに言った。

「いままでこんなことありましたか」

「なかったと思います。」

それはそうだろう。この世界においてフロアマスターは春山蕗佳の分身であり、春山蕗佳本人でもある。そしてここは春山蕗佳の内部世界なのだ。本人が入れない場所など通常はありえない。

「申し訳ないがこちらの扉、むりやり開けてもいいだろうか。

このお姉さんが自慢の回し蹴りを君に見てもらいたいみたいでね。

もし壊れてもこのお姉さんがちゃんと弁償してくれる」

ふたたびこわごわと凜を見てからフロアマスターは祐天寺に向かって頷いた。凜は再度、祐天寺に非難の視線を送った。

扉は内開きの開き戸だった。祐天寺と凜が力一杯ドアノブ付近を蹴りつけると勢いよく扉が開いた。すぐに中に入って内部を改める。

「ないですね、何も」

そこはとても小さな部屋だった。

窓もなく、あるのは床と天井と壁だけであるうえに、とにかくせまかった。五人も入れば窮屈を感じそうなスペースしかない。照明もなく、暗かった。

「いったいなんのために使うんでしょうねこんな狭い部屋」

「倉庫室のようなものかもしれないな」

興味を失ったのか、祐天寺は扉に手をかけて閉めた。それではこれで、と言ってフロアマスターはその場からいなくなる。

「次のフロアへいこう欄音くん」

 

祐天寺は無言のまま、次の一二階を隈無く調査していく。何一つとして見逃すものか、という気迫が伝わってくる。

結局、端から端まで調査したが一二階でも異常は見つからなかった。

「次は一三階です」

一二階の最後の部屋を探索し終えても腕を組んだまま動こうとしない祐天寺に凜が声をかける。

祐天寺はフロア端部の部屋の扉を開けてそこから部屋の中を見る。小部屋というにはやや広く、窓の外に室外機置き場が見える。壁に張られたセンスのいいクロスが印象的だ。

祐天寺は何を思ったのか先ほど調査したばかりのその部屋にまた入っていき、迷うことなく窓をあけると室外機置き場に身を乗り出した。その後すぐに凜のいるところに戻ってきて言った。

「十一階にもどろう」

凜の返事も待たずに階段を降りていく。先を行く祐天寺においていかれないよう、ついて行きつつ、戸惑う凜に祐天寺は口早に言った。

「室外機置き場の床がグレーチングだったんだ」

「よく道路脇の排水用の溝とかの蓋になってるやつですか」

「そうだ。下の階も透けて見えた。 すぐ下の階にも同じように室外機置き場があるんだ。やられたよ、危うく気づかないところだった」

「それじゃあさっきの狭いスペースは」

「急ごう」

祐天寺と凜は階段を駆け下りて十一階端の扉の前まで戻った。祐天寺が扉を開け、狭い部屋の奥の壁に手を這わせる。

「あたりだ」

扉の輪郭となる継ぎ目が見つかる。だがノブもレバーもない。

「フロアマスターを呼びますか」

「鍵穴もない扉だ。蹴破ろう」

「人のことは乱暴だの凶悪だの言っておいて」

「この壁の向こうに何があるのかはまだわからない」

凜はやや緊張しながら祐天寺が壁を押し破るのを見守った。

祐天寺の腕に力が入ったと思った瞬間、壁に偽装された扉が開き、目の前に広い空間が広がった。

扉の外からは想像もできなかった広さだった。

天井は見えないほど高く、周囲の壁は異様に遠い。手近なところに照明は見当たらないが、部屋の奥まで視認できるだけの明るさはあった。上のフロアから見えたはずの室外機置き場に通じる窓はない。と思うと窓のある壁になった。見えないほど高かった天井が現れ、昔はやっていたというシーリングファンが回っているのが見える。かと思うと今度は周囲がすべて鏡の壁になり、祐天寺と凜の姿がそこかしこに見える。時間の経過なのか、凜の感情の変化なのかはわからないが、この空間は姿が一定ではないようだった。

「複式亜空間か。やっかいだな」

 祐天寺がぼそりとつぶやいた。

「なんですかそれ」

「人間の精神のもろさをついた擬似深層記憶空間だ。元来、人間は日常的に些細なことでメンタルヘルスが揺らぐ性質を持っている。傷つきやすい人間であろうと図太い人間であろうとそれはみんな同じだ。我々の精神には、日々の生活で生じる精神のゆらぎやひずみを許容するだけのマージンがある。精神的なショックやダメージが加えられてもすぐにその人間が再起不能にならないのは、そのマージンのおかげだ。複式亜空間はそのマージンを利用して擬似記憶を埋め込むんだ」

「ここが蕗佳さんに植え付けられた偽物の記憶の根っこってことですか」

「そういことだ」

 凜には絶えず部屋のかたちが変わっているように見える。

「惑わされるな。ここは一二階で最後に入った部屋と基本的な造りは同じだ。見た目が変わるように見えても本質は同じだ」

 不思議なことに祐天寺にそう言われると、それまで不安定だった部屋のなかがはっきりと定まって見えた。室外機置き場に通じる窓があり、天井も見える。壁にはセンスの良いクロス。

そして、彼女が――春山蕗佳がいた。部屋の中央に置かれた椅子に座って、壁面に映しだされた、どこから映写されているのかもわからない映像を身じろぎもせずに見ている。

具体的な内容はわからないが、映像をみてわかることがひとつだけあった。

宮崎十五郎が映っていることだ。

それも異質さを感じさせるものではあるが、それ以上に注目せざるを得ないものがあった。

映像を見ている彼女の傍らにいるもの。

大きな布ですっぽりと覆われた身体、その隙間からはぼろぼろの羊皮紙らしきものと羽根ペンを握る、異様に長い両手。そのどちらの腕にも入場の証のゴムバンドがはめられている様子はない。

特筆すべきは、顔があるはずの場所には、真っ白な無貌の仮面がついていることだった。

だがそれ以上に異質なのはそのサイズだ。

天井の高さが三メートル程度しかないはずの部屋にいるそれは、感覚的には二階建ての家よりも大きく見えた。それを見上げながら凜は祐天寺に訊いた。

「あの白仮面、何者ですか」

「怨(イーリー)だ。あんなものがいるとは私も予想してなかった」

 祐天寺が説明するところによれば、怨とは術者が持つ負の感情がカタチとなったときに現れる悪意の総称だという。精神世界において、怨は大抵の場合、黒ずくめの格好をして白い仮面をつけているのが一般的とのことだった。

「あんなに大きいものなんですか」

 部屋の大きさから明らかに逸脱しているが、天井は壊れていないし、何事もなく動いていることが不思議だった。

「視覚的な情報に惑わされるな。ここは精神世界だよ。見た目がどれだけ大きかろうが、物理的な影響なんて関係ない」

 怨は手に持っている羊皮紙らしきものに羽根ペンでしきりに何かを書いては壁面の映像を凝視する蕗佳に見せている。

「想像にすぎないが、たぶんあれで春山蕗佳の精神を制御しようとしているんだろう」

「あんなに大きいんじゃ手が出せません」

「言っただろう、精神世界で物理的な大きさなんてナンセンスだと。もっと気持ちを強く持つんだ。それだけであれは君より小さくすることだってできる」

「先生から見たら私ってそんなに小さいですか」

凜の抗議の声には答えず、祐天寺が怨に近づいてく、どういうわけか祐天寺が近づくにつれて怨の身体がどんどんしぼんでいくように小さくなっていく。すぐそばまで近づいたときには祐天寺や凜とほぼ同じくらいのサイズ感にまでしぼんでいた。見知らぬ人間がそばに来てようやくその存在に気がついたようだったが、その動きはあまりに緩慢に過ぎた。一瞬の間隙をついて祐天寺が怨の手から羽根ペンと羊皮紙をとりあげる。そしてそれの胸倉のあたりをつかんで言った。

「なにをしている」

怨はその異様に長い腕で祐天寺の手を振り払う。

「受け入れ教育を受けてないな。もぐりだろう」

 動揺が伝わってくる。椅子に座った春山蕗佳は、そのやりとりにも気づかず壁面の映像を見続けている。視線の定まらないその目には、意思の光が宿っていないように見えた。

「ここでその子に何をしているんだと聞いている。答えろ」

 怨が無言で祐天寺の顔をめがけて腕をぶぅんと振る。次の瞬間、祐天寺の右の頬から一筋の血が流れていることに凜は気づいた。羽根ペンと羊皮紙を取り上げられ、空手だったはずの怨の手には、いつの間にか長めの牛刀が握られていた。

「離れていなさい」

 祐天寺が鋭い声で言う。表情のない白仮面をつけた怨は己の優位を感じたのか、調子に乗ったように牛刀を振り回して祐天寺に近づく。その動きは素人目にも洗練されていなかったが、それが逆に不気味さを感じさせた。

「先生」

「私を誰だと思っている。春山蕗佳を除けば、私はこの世界で最強の存在だ」

 心配して凜が声をかけると祐天寺は右手を大きく横に振って言う。すると、怨の手から牛刀が消えた。

「ここは春山蕗佳の世界だ。赤の他人が凶器を振りかざしていい場所じゃないし、お前がいていい場所でもない。宮崎十五郎がお前を寄越したんだろうが、お前には彼女をどうにかしていい権利も資格も道理もない。そもそも宮崎十五郎はもうこの世にいない」

だが、その言葉にもうろたえる様子はない。凜が祐天寺を見ると「独立タイプだ」と言った。

独立タイプとは洗脳者の施した術式パターンのひとつで、洗脳者の意思とは無関係にその効果が持続する特徴を持っている。今回の場合、宮崎の洗脳によって目の前の怨が春山蕗佳の深層記憶(なか)に住み着いたのだろう。

自分が目の当たりにしている怨の気持ち悪さと、そんなものに傷つけられ、尊厳を踏みにじられた蕗佳のことを思う気持ちから、凜は自分の内に憎しみが増幅していくのを感じた。

「あなたのせいでひとりの女の子が深い傷を負って、涙を流してる。その女の子の家族も苦しい思いをしている」

「jfjxっっっd」

 怨が金属を削るときに出るような、耳をろうするうなり声をあげると、凜の身体の芯を直接ふるわせるような不快感が残った。

「思念分離体憑依術か」

祐天寺の言葉をうけて白仮面に緊張が走ったようだった。

「なんですか、その思念なんとかって」

「詳しい話はあとだ。簡単に言えば術者の思念の一部を被洗脳者に埋め込む洗脳術のことだ。独立型ならなおさら、術者が死んでも洗脳の自然解除は困難になる」

怨が右手を大きく振ると次の瞬間、その手には再び牛刀が握られている。

「dじゃおkfじちおうれwgdふぁsんkl;」

言葉にならない耳障りな叫びは、黒板に爪をたててこすったときの音をさらに不快にしたような声だった。

「欄音くん、フロアマスターを呼んできてくれ。

もぐりがいる、と伝えればわかるはずだ」

「お一人で大丈夫ですか。また刃物だしましたけど」

「あんなものこけおどしだ。いいから呼んできなさい」

頷いて部屋を出て行こうとすると牛刀片手に怨が近づいてくるが祐天寺がそれを遮る。凜と怨のちょうど間に挟まる格好だ。構うことなくそれは牛刀を突き出してくる。凜はとっさに祐天寺をかばおうと前に出た。すると怨は凜の予想外の行動に出た。祐天寺に向かったと思わせて凜の方に向かってきたのだ。予期せぬ方向転換に祐天寺は動けなかったようだった。

「欄音くん、逃げろ」

 その声は聞こえていたものの、凜は何も考えることができなかった。しかし怨の握る牛刀がその後に辿るであろう軌跡が見えたと思った。

次の瞬間、凜は深く意識せずに突き出された牛刀を躱してそのままそれを握る腕を脇に抱え込んでいた。そのまま突っ込んできた相手の勢いを利用して身をひねると、背中から怨を床に叩きつけた。

うめき声をあげるものの、痛みが激しいのか、それは床に倒れたまま起き上がれないようだった。

「どうしたんですかいったい」

騒ぎを聞きつけたフロアマスターがやってきた。怨の姿を見て驚愕の表情を浮かべる。

彼女に落ち着くよう身振りで伝えてから祐天寺は凜に言った。からかい半分、感嘆半分といった調子で。

「オンラインプログラム代が無駄にならなくてよかったじゃないか。この前も今みたいな手際の良さを見たかったものだ」

「とっさに身体が動いたんです。力も大していれてなかったのに」

「現実じゃまるで役に立たなかったとは思えない鮮やかさだったよ」

言いながら祐天寺は牛刀を拾い上げて一振りすると次の瞬間、それは消失していた。

祐天寺はフロアマスターに言った。

「こいつはもぐりだ。君さえよければ私が強制的に退場させるが」

フロアマスターが了解したのを確認して祐天寺はいまだうめき声をあげて立ち上がれずにいる怨の頭部を片手でつかみ、むりやり引き上げた。

「今からお前をこの世界から消滅させる」

「ちxslrちms」

怨は金属的なうなり声をあげるが、その声から力強さが失われていた。

祐天寺は容赦のない口調で話し続ける。

「オーナーから委任された私が通告する。ただいまをもってお前は出入り禁止となり、この世界から退場する。当然だが再入場も不可だ」

「bpぃjslsmpぅぺpぢぃぴyp」

 声を上げる怨を遮って祐天寺は言った。

「さっさと消えろ。お前の声を聞いていると耳が腐る」

祐天寺に掴まれていた頭部から白仮面が粒子のように粉々になって消えていく。その姿が完全に消えると、あとには何も残らなかった。

その様子を見届けると祐天寺はほっと息を吐き、すぐに春山蕗佳のもとへ向かった。

蕗佳はこの騒ぎのなかにあっても身じろぎひとつしなかった。だが声をかけつづけるとようやくその目に意思が宿る。祐天寺と凜、フロアマスターの顔を順にみてから言った。

「わたし、どうしてたんだろう」

周囲を見回して怪訝な表情を浮かべるがすぐに「玲央はどこ。あの子は大丈夫?」と勢いよく訊ねてくる。

「安心して。あなたに悪さする奴はこのおじさんとお姉さんがやっつけたから」

「玲央は? わたし玲央を守らなきゃいけないんです」

そのとき凜は初めて気がついた。現在より髪が長く、幼い顔立ちの春山玲央が写った写真が蕗佳の手に握られている。

「大丈夫だとも。玲央くんは元気だ。君のことを心配している。君のご両親も同じだ。そろそろ帰ろう」

 

その日の施術後は蕗佳もかなり疲労していると思われたので、診察の結果は日を改めて説明することにした。

後日、作成した診察カルテを持参して春山家を訪ねた。春山巴と蕗佳、玲央の三人と祐天寺と凜、そして弁護士の須永の六人がリビングルームに集まっていた。

祐天寺はカルテを開いて目を通しながら施術の結果を説明した。蕗佳が小学校五年性のときに宮崎によって洗脳措置を施されたこと。その後も蕗佳の精神世界を蝕んでいた洗脳の痕跡は、今回の施術で消滅させたことも。

「洗脳が解除されたことでお嬢さんは過去の事実と改めて向き合わないとならない。その精神的な苦痛は耐え難いものにちがいありません。

いくらしっかりしていても、お嬢さんは一四歳。まだまだお母様の支えが必要です。寄り添い、労ってやってください」

巴が目尻をハンカチで拭いながら頷く。蕗佳は大丈夫ですと言ったがその泣きはらした目をみれば彼女の慟哭は明らかだった。

「僕が守らなきゃだめだったんだ。僕がもっとしっかりしてれば」

玲央が悔しそうに、目に涙をためて言った。蕗佳はそんな玲央の手を握って言った。

「その気持ちだけで十分だよ」

話しているうちに蕗佳が涙ぐむ。玲央はすでに泣いていた。巴もまた子どもたちを見て流れる涙を必死に拭っている。

ひとつの家族の大切な場面を盗み見ているようで、凜は視線を外してキャビネットに飾られた写真や置物になんとなく目をやった。肩まで伸びた髪の毛をなびかせた道着姿の小学生が表彰されている写真や小さなトロフィーが飾られている。小学生のときの蕗佳だろう。道着が似合っていて可愛らしい。

キャビネットの隣には釣り竿が飾られたアクリルケースがある。次に春山親子がそろって釣りにいけるのはいつになるのだろうと思うと悲しい気持ちになった。

部屋のものを眺めていると祐天寺と視線がぶつかった。彼もまた凜と同じように親子の様子に遠慮したのかもしれない。

「わたし横になってもいいですか。昨日からあまり眠れてなくて」

蕗佳の言葉にその場にいる全員が気遣いの言葉とともに蕗佳を見送った。祐天寺が部屋まで送ろうと言い出して他の人間が口を開く前に蕗佳の背中を押して歩いていくと、階段の下まで行ったところで振り向いた。

「欄音くん、悪いが一緒に来てくれないか。女性もいたほうが蕗佳さんも安心だろう」

凜も二人の後についていく。なんだって祐天寺はわざわざ蕗佳を部屋まで送るなどと言い出したのだろうと訝りながら。

階段をあがってすぐに蕗佳が「奥の部屋がわたしの部屋です」と言った。もう大丈夫、ということを言いたいのだろうと凜は思った。

「君は本当に勇敢な女の子だ。君は身を挺して玲央くんを守った。君の勇気に私は感動している。

自分のことを責めないでほしい。悪いのは宮崎だ。責任を負うべきは宮崎だ。

君はちっとも悪くない。

君は弟を守った、勇気あるお姉さんだ」

瞬間だった。蕗佳がぼろぼろと涙をこぼしてむせび泣いた。祐天寺は凜をちらりと見て顎をしゃくる。察した凜は蕗佳を胸にそっと抱き、彼女が落ち着くまでずっと背中をさすってやった。そうしてやりながら、なんて小さな背中なんだろうと思い、彼女を襲った悲劇を心から呪った。

 

「あの日、玲央が通っていた道場まで迎えに行ったんです。特別なことじゃなくて、たまにそういうことがありました。当時の玲央は髪型もあいまって女の子みたいだったから、私が迎えに行くと道場の先生とか他の子を迎えに来た大人たちが私と玲央のことを可愛いって言ってくれるのもうれしかった」

気分が落ち着いた蕗佳は部屋に入るとぽつりぽつりと話をしてくれた。宮崎の洗脳措置が解除されたことで、記憶にかかった霧が晴れたのか、小学五年生の行方不明騒動当時の記憶が蘇ったという。

リビングに残された巴や玲央、須永には凜が声をかけてそっとしておくように頼み、蕗佳の話を聞くことにした。

「私が来たことに気がついた玲央が、着替えてくるって言って更衣室に行きました。その後、道場のすぐ外で待っていたときにあいつが、来たんです」

「宮崎だね」

「そうです。春山玲央さんかなって、訊かれました」

そのときの宮崎の印象を訊くと蕗佳は「不気味」と答え、身を震わせた。

「話し方がねちっとしてて、気持ち悪いなって感じました。何の根拠もなかったけど悪い人なんだって思いました。玲央のことを狙ってるんだ、そうに違いない、姉の私が守らなきゃって強く思ったんです」

蕗佳は弟になりすました結果、連れ去られた。

「玲央くんはそのことを知ってるのかな」

「わかりません。でも責任は感じてるみたいでした。私が行方不明になったのは自分を道場に迎えに来たからだ、自分が着替えなんかせずに道着のまますぐに私と一緒に帰ってればあんなことにならなかったって、ずっと言ってましたから。そんなの、ちがうのに」

 

少し休みますという蕗佳を部屋に残して祐天寺と凜はリビングに戻った。リビングでは巴と玲央、須永が雑談を交わしていた。

「娘さん、だいぶ疲れたようですね」

「ご面倒おかけしました。先生方もお座りになってください。お茶いれてきますから」

巴がキッチンへ向かう。祐天寺が須永に視線をおくると微かにうなずいて立ち上がった。

「巴さん、手伝います」

「いえいえ。私一人で大丈夫ですから」

「お恥ずかしながら少し小腹が空いてしまいまして。差し支えなければ何か作らせて頂けないでしょうか。ご面倒おかけして恐縮なのですが、今朝から何も食べていなくて」

そして「それはかわいそうに。でしたら何か作りましょうか」「いやいやそこまでしてもらうわけには。自分でつくりますから」というやりとりをしながら巴と須永はキッチンへ姿を消した。それを見届けると祐天寺は玲央の隣に座った。

「疲れたかい」

「僕は平気です。蕗佳は大丈夫でしたか。ずいぶん泣いていたみたいだけど」

「蕗佳さんのこと心配かい」

祐天寺の声は優しかった。玲央は照れたように顔をそむけて言った。

「蕗佳は僕よりずっとしっかりしてますけど、やっぱり女の子だから。あいつのせいでひどいめにもあったし。そのことを考えるといまだにむかつくんです。

あのくそやろうにも、何もしてやれなかった自分にも」

「少しばかり聞くのがつらいかもしれないけれど、玲央くんにもう一度、訊いておきたいことがあるんだ」

玲央が真剣な表情で頷くのをみて祐天寺はつづけた。

「お父さんが宮崎を殺害したと聞いて、君はどう思った」

直後、玲央がはっとした表情をしてみせた。一瞬、硬直し言葉が出てこないようだったがすぐに立て直して言った。

「びっくりしました……けど」

「けど?」

「父親がやらなかったとしても僕が同じことをしたと思います。あのくそやろうが蕗佳を傷つけたこと、絶対に許せません」

「その日、君は話し合いをしに塾に行ったお父さんを迎えに行った。そうだよね」

少し思い出すようなそぶりをしてから玲央が言った。

「そうですね。けっこう遅い時間だったんで」

「塾に着いて、建物に入ったのかな」

「入りました」

「そこで出くわしたお父さんに宮崎を殺したと言われた」

「そうです。あいつを刺したって」

「間違いないかな」

台所で食器でも落としたのか少し大きな音がして直後に須永と巴が互いに気遣うようなやりとりが聞こえてきた。玲央は一瞬だけキッチンのほうを振り返ったがすぐに姿勢を戻した。

「間違いありません」

「そうか。話してくれてありがとう。

最後に私から玲央くんに伝えたいことがあるんだけど聞いてくれるかな」

「はい」

祐天寺は玲央の目を見つめて言った。

「君のお父さんは本当に家族思いの、子ども思いの人だ。とても大きな決断を下し、自分を犠牲にして家族の尊厳を守った。

世間の声など気にするな。

お父さんと、お父さんのしたことを誇りに生きていくべきだ」

玲央の目にみるみる涙があふれてくる。祐天寺は静かに玲央の頭をなでた。

 

 

第三章

 

 

その後、凜は各方面に提出する書類や報告書の作成に忙殺されていた。

まず春山蕗佳の診断報告書を作成して須永に送らなければならなかった。その過程で宮崎十五郎のかつて勤務先である研究施設に行って裏取り調査を行う必要も有り、思った以上の時間を浪費した。

報告書を催促されることにうんざりした祐天寺が、須永を無視する強硬手段に出た結果、須永からの連絡がすべて凜にまわってきて、作業の中断を何度も余儀なくされた。

並行して精神医学協議委員会に提出する報告書も作成する必要があった。凜が提示した概略にそって祐天寺に詳細を書いてもらわねばならないが、それがまったく進まない。細かい確認を要する作業であり、何かにつけて口実を見つけては祐天寺が作業から逃げようとするため、作成は遅々として進まなかった。

この日、凜は祐天寺に、そろそろ本腰をいれて作業しなければ間に合わないかもしれないと進言するつもりでいた。だが祐天寺は端末のモニターに浮かんだメールを読むと携帯端末をとりあげて誰かに電話をいれた。

「読んだよ。基本的にはそれで問題ない。ひとつだけ確認したいことがあるんだが、今日時間とれるか」

相手の話にいくつか頷いたあと「かまわない。すぐ出るよ」といって端末を置いた。

「欄音くん出掛けよう」

「正気ですか。いい加減、やらないと間に合いませんよ、これ」

「そんな書類は放っておきなさい。それよりも優先しないといけないことなんだ」

「間に合わないからって残業はしませんからね。するなら先生おひとりでどうぞ」

聞こえないふりをする祐天寺をにらみつつ凜は外出の準備をする。

「なにか必要なものはありますか」

「いや、なにもないほうがいいだろう。準備ができたならすぐ行くよ」

「行くって、どこへですか」

祐天寺はそっけなく言った。

「拘置所だ。春山和彦に会いに行く」

 

面会室に入ると春山は立ち上がって頭を下げた。

「裁判の前にどうしても確認したいことがあるそうなので連れてきました。よろしくお願いします」

須永の説明に春山は首を縦に振って「ええ、ええ、承知しました」と答えた。そして娘の蕗佳のことで祐天寺に礼の言葉を述べた。

「娘のこと、本当にありがとうございました。気になっていたことが解消されて、こういうのもなんですが安心してお務めにいけそうです」

「娘さんの診断報告書はここにいる須永に渡してあります。事前に奥様にも目を通して頂き承諾も得ました」

「承諾だなんてとんでもない。もうすべてお任せしてますから」

「今日こうして伺ったのは、春山さんにどうしても確認したいことがあるからです。

あるいはこれは私の単なる思い違い、誤った推論かもしれません。

もしそうだったら大変申し訳ないのですが、先に無礼を謝ります。ご容赦ください」

祐天寺の言葉にわずかに春山の表情に緊張が走った。

「なんだか恐ろしいですね。とりあえずお話ください」

「ありがとうございます」

そう言ったものの祐天寺はなかなか話を切り出そうとはしなかった。凜がちらりと祐天寺の顔をうかがうと、彼は悩ましげに目を閉じ、考え込んでいるようにもみえた。須永に視線を送ると彼も困ったように眉根を寄せて首をひねった。

春山はじっと祐天寺を見つめて彼が話始めるのを待っていた。

沈黙がどのくらい続いただろう。

一分か二分か、それとも十秒、二十秒くらいだったのか、計っていないので凜にはわからなかった。

その奇妙な無の時間のあと、ようやく祐天寺が口を開いた。

「宮崎十五郎を殺したのは、春山さん、本当にあなたで間違いないですか。

基本的な事実確認ですが、同時にとても大切な確認でもあります。よく考えてお答えください」

再び沈黙が訪れた。春山は一瞬、息をのんだようだったがすぐに表情を正して祐天寺のほうをまっすぐに見つめた。祐天寺もその眼差しを正面から受け止めていた。

先ほどよりも沈黙の時間が長かったかもしれない。それもやはり計っていないから凜にはわからなかった。

やがて春山はふぅっと息を吐くと微かに笑みを浮かべて言った。

「宮崎十五郎を殺害したのは本当に私です。間違いありません」

「そうですか」

祐天寺は春山の答えを予期していたようだった。

「宮崎十五郎はあなたが殺害した。もちろんひとりで。

誰かと共謀したり、あるいは本当は別に実行した人間がいる可能性、例えば、あくまで例えばの話ですが……息子さんが事件に関わっているということも絶対にない。

そういうことでよろしいんですよね」

祐天寺の言葉に、春山の顔に初めて驚愕の表情が浮かんだ。祐天寺が真剣な表情で頷くと春山のその目にうっすらと涙がにじんでくる。彼はその場で立ち上がり、深く腰を曲げて頭を下げた。

 

「勘違いから始まってるんだよ。今回の事件は」

祐天寺は物憂げな様子でデスクチェアーに深く腰掛けため息をついて言った。春山との面会を終え、須永も一緒にオフィスに戻ってきていた。

「勘違いですか」

「そう、勘違い。春山蕗佳が宮崎に偽の記憶を植え付けられたことがそもそものことの発端だと思うが、まずそこに至るまでにすでに勘違いが発生している」

「どういうことですか」

「今回の事件においては春山蕗佳に言及するにあたって、彼女の双子の弟である玲央の存在なしには語れないんだ。

最初、宮崎が自らの悪事のターゲットにしていたのは蕗佳ではなく、弟の玲央だったんだ」

「蕗佳さんが言ってましたよね。

それで気になっていたんですが、宮崎は、その、若い男の子もそういう対象として見ていたんでしょうか」

疑問に思っていたことだった。

蕗佳は小学五年時の件で宮崎は弟を狙っていたと話した。だが宮崎は蕗佳を手込めにしたことからも少女に性的欲望を覚えたことは間違いないだろう。

「言っただろう、勘違いから始まっていると。

欄音くんは春山蕗佳の精神世界でも現実の春山家でも見てるはずだよ、春山玲央の過去の姿を」

言われて思い出そうとする。春山蕗佳の精神世界で十一階のベッドに横たわっていた蕗佳は写真を握りしめていた。それには確かに春山玲央が写っていた。だが春山家のリビングで見た写真は蕗佳だった記憶しかない。

「春山蕗佳の精神世界で本人が手に持っていた写真は玲央でしたが、春山家のリビングにあるキャビネットに飾られていた写真は蕗佳のものだったと記憶してますが」

「わかるよ。今もそうだが、小学五年生までの春山玲央は髪が長くて美少女にしか見えないからね。

でも僕も見たし君も見たであろうキャビネットの写真はすべて春山玲央のものだ」

言われて凜は、祐天寺の言葉を自然に受け入れる自分がいることを少しも疑問に思わなかった。

春山玲央には今も美少年的な美しさ、かわいらしさがある。少々体つきが筋肉質で男らしさを隠せない体格になってきてはいるものの、髪を伸ばせば今でも少女で通るかもしれない。

「宮崎はおそらく、空手の大会で優勝した幼い春山玲央の記事でも見たんだろう。

女の子と勘違いしても仕方ない。名前も読みようによっては女の子のようにも読めるし、顔つきは充分に美少女の趣だ。宮崎が勘違いするのも仕方ない」

「しかし祐天寺。春山蕗佳は弟のかわりに宮崎の誘いにのることで弟を守った、と言うロジックはわかるよ。

でも、それなら弟の玲央が姉を守れなかったといって責任を感じているのはなぜだ。

宮崎という男によって姉が何かされたことを、彼はどうやって知ったんだ」

須永の疑問の声を聞いて、祐天寺は憂鬱そうにため息をついた。デスクの下の普段から隠しているスコッチの瓶を取り出すと手近にあったコップに注いで一息に飲み干した。

「ここからは私の推測に過ぎない。証拠もない。ただ、なんとなく真実なんだろうと私が勝手に思っていることだ。

もし君が話をきいてこの後なんらかのアクションを起こすつもりなら話さない。

約束できるか」

祐天寺が持っていたスコッチの瓶をぱっと奪い、凜がお茶をいれたカップにそれを注いでぐいっと飲み干すと、須永は祐天寺を見つめた。祐天寺は頷いた。

「おそらく、春山蕗佳に相談をうけた玲央は姉を思う気持ちから宮崎十五郎に会いに行ったんだろう。姉にしたことを宮崎に問い詰めるために。

宮崎は玲央の名前を知って驚いただろう。数年前の洗脳事件のことを玲央に話したとしても不思議ではない。

だが玲央は姉思いの少年だ。姉の涙を目の当たりにしている。真相を知って宮崎に復讐を試みたとしても、わからなくもない。

すべて私の推測にすぎない話ではあるが」

「ばかいうなよ」

須永が大きな声をあげた。その手が震えている。

「玲央くんはまだ一四歳だ。おまえ本気でそんなふうに思ってるのか。春山さんは罪を認めてるんだ」

「いま話したことはすべて推測に過ぎない。証拠もない、戯れ言レベルの妄想だ。

君が興奮するのもわかるよ。

このさき春山和彦にどれだけ迫っても、彼は自分が殺したと言い続けるだろう」

凜はさきほどの面会でみせた春山の態度が忘れられなかった。それは須永も同じだろう。

彼は肩を落としてふたたびスコッチをカップに注いで口に運んだ。

「春山さんは息子をかばってるっていうのか」

「最初に春山和彦氏と面会して話を聞いたとき、彼は事件当日、息子には宮崎を殺害したことを打ち明けた。だが殺害方法には言及していない。

 しかし春山玲央はこう言った。父親から、宮崎を刺してしまったと言われた、と」

 言われて須永がはっとした表情になる。

「私は遅れてきた関係者ということになるのだろうが、春山さんの意思を尊重したいと思っている。そして君にも私と同じようにして欲しいと思っている。

わかるだろう、須永弁護士。もちろん強制はできまいが」

須永はカップに残っていた琥珀色の液体を飲み干し、カップの底を見つめた。そうしながら淡々とした口調で言った。

「俺は弁護士だ。依頼人の利益を最大限に考えるのが弁護士の仕事だ」

それを聴いて祐天寺はにやりと笑うとデスクの下から別の瓶をとりだした。ヘネシーのナポレオンだった。

 

後日、春山和彦関連の書類に加え、精神医学協議委員会へ提出する書類もようやく完成の目途がたった。心に重くのしかかっていた重圧から解放され、その日、凜は自分の機嫌がいいことを感じていた。

「機嫌がよさそうだね欄音くん」

「先生のおかげで作成が滞っていた書類が片付きそうなので安心してるんです」

「私のおかげで滞っていたのかな。

それとも私のおかげで片付きそうなのかな。

いまの君の言い方ではどちらか判別できない」

「どっちだと思いますか」

そんな会話をしているとオフィスの電話の着信音が鳴り響く。凜が出ると祐天寺に変わって欲しいと言われる。

「精神リミテッドジャパンの杉田さんです」

おそらく相手のことを覚えていないのだろう、祐天寺はいぶかしげな表情を浮かべて電話に出る。「申し訳ないです」だの「はあ」だの「そうでしたか」だのと要領を得ない様子が続いたがやがて「ああ、その件ですか。かまいませんよ。なんでしたっけ」「いいんじゃないですか。私はなんでも結構ですから」「わかりました。よろしくお願いします。それでは失礼します」というやりとりの末に祐天寺は通話を切る。

凜が目で訊ねると祐天寺が何でもないといった調子で答えた。

「業界向けの広報誌で私のことについて書いた記事が掲載されるらしいんだが、その紹介文のことだったよ」

「何かの確認ですか。先方、何度も先生に連絡を取りたがってましたよ」

「大したことじゃないんだ。私のことを紹介するに当たって代名詞みたいなものが欲しいって言うんだよ。肩書きとは別に。そのほうが見栄えがいいそうだ。

私が患者の精神内部に入場するとき、その世界は建設現場のように見えるという話をしたからだと思うが、こういうのはどうですかって言われたよ」

肩をすくめて祐天寺は言った。

「サイコフィールドリプレゼンタティブ(PFR)祐天寺稼手那、だとさ」

精神現場代理人。

「語呂が悪いですね」

凜がそう言うと彼は「まったくだ」と言って笑った。

文字数:39133

内容に関するアピール

今回の実作を執筆するに当たり、夢枕獏氏のサイコダイバーシリーズの存在を知りました(読んではおりませんが。読書不足ですみません)。

精神世界へのダイブを、自分ならどう表現するか。それが腕の見せ所であり、また作家の個性なのだと思います。

自分ならどのように描くのか。それをとにかく考えて書いたのが今回の実作です。加えて、当然のことながら物語としての面白さを感じられることも強く意識しました。

『物語として読めるものを自分が楽しんで書く』

これは当初、自ら設定した課題テーマですが、自分としてはそれがクリアできたと思っています。

ありがとうございました。

 

 

文字数:269

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