へびむこいり

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へびむこいり

ミカナは眠っている。葉子は寝息を立てているミカナを見ながら、赤ん坊だったころのミカナを思い出す。小さな小さな桜色の爪。黒目がちの目。生まれたときから黒々としていた髪の毛とまつ毛。まるいおなか。生まれたては、うんちすら臭くなかった。
 まさに授かりもの。この世のものとは思われなかった。
 葉子はベッドサイドに座る。少しベッドが軋む。それでもミカナは目を覚まさない。白い枕を覆い隠すほど黒髪は豊かで長い。ミカナの寝室には、甘い花のような匂いが漂っている。葉子とミカナは同じシャンプーを使っている。それでも葉子の部屋は夫も一緒に寝るせいかこんな匂いにはならない。
 葉子はミカナを優しく揺り動かす。眠っていても、ミカナの頬も唇も薔薇色だ。私に全く似ていない、夫にも似ていない、この小さな南の島一番美しい、私の血を分けたたった一人の私の娘。
 ミカナ、と声を出して呼ぶ。葉子の声は少しかすれている。寝起きだからというばかりではない。年々、葉子の声は低くなり、声帯は強張って張りがなくなっていく。自分の声ではないみたいだ。
「ミカナ」
 言って布団を優しくめくる。春近いこの季節、まだミカナは長袖のフランネルのパジャマを着ている。まぶしそうに眼をこするミカナから、葉子は思わず目を逸らす。その醜く張り出した腹部から。妊婦のようなその突き出した身体から。
 葉子は自分の出産のことを思い出す。いきんだとき全身がちぎれるのではないかと思ったこと、いっそ殺してほしいと思ったほどの痛み、それでもミカナはお腹の中から出てきてくれなくて、36時間後、帝王切開になったこと。「苦しみ損だったね」と笑った夫に腹を立てすぎて泣いたこと、母乳が出なくて乳腺炎になり熱が出たこと。
 それでも、ミカナの美しさを一目見たとき、打ち震えるような感動が葉子の体を貫いたのだった。この子は私の片割れ。この小さな生き物の手も足も何もかも、私が腹の中で養って作り出した。葉子の中で、夫への愛おしさが消えたのもこのときだった。何を錯覚していたのだろう。この人とは、血も肉も分かったただの他人なのに。それでも、何かが分かち合えると誤認していた。勘違いしていた。
 ミカナはあくびをする。甘い息がその口から洩れる。そして息をするたび、腹のふくらみがしぼんでいく。どうして朝、こんなにも膨らむのかわからない。ミカナは夢だと思っているのだろうか。あまり深刻に自分の体について考えていないふうだ。そして、コルセットを締めて学校に行くように言う母親を、娘の体型を気にしすぎていて過保護だと思っている。
「もう暑いから」
 そう言ってミカナは葉子の方へコルセットを軽く押しやるが、
「今日は体育がない日でしょ。ならいいでしょう」
 そう言ってもう細くなった胴に巻き付ける。少し寸胴気味だが、つまむところのない腹。これがさっきまでぞっとするほど膨れていた。体育がある日は、ストレッチの効いたタンクトップを重ね着させた。
 コルセットの紐を背中で軽く引き締めた。またミカナが甘い匂いの息を漏らした。もっときつく締める。締めれば締めるだけ、胴は細くくびれた。
 私のウエストもこれぐらいだった、と、葉子は思う。葉子の腹はふっくらとしていた。ミカナを生んだ後、骨盤ベルトをあえてしなかったからだった。そのふくらみがまだ妊娠の名残のようで、葉子自身は気に入っていた。
 先に階下に降りて葉子が食台についている夫に味噌汁をついでいると、ミカナが涙目で降りてきた。手にはコルセットを持っている。腹が元通りに膨らんでしまっていた。
「歯磨き粉で気持ち悪くなっちゃって吐いちゃった」
 まるで産婦のつわりのようではないか、と、夫と葉子は顔を見合わせた。コルセットは縫い目のところでちぎれていた。ミカナは腰に手を当てげっぷをした。恥ずかし気もなく。やはり甘い匂いがした。以前はげっぷなんてしなかったのに。
「今日はZOOM登校でもいい? 最近、女子はリアル登校少ないし」
 と首をかしげて父親に尋ねた。父親が娘に甘いことをわかっているのである。
「リアル登校もしないといけないんじゃないの」
 と葉子は言うものの、こんな突き出した腹を見せて歩くわけにもいかないということはわかっていた。
「冬が終わってもインフルもコロナもぼちぼちいるみたいだから。変だよね」
 と、ミカナは言った。
 夫婦は顔を見合わせた。娘と、娘の身の上に起こっていることにくらべたら、変なことなどなにもないように思えた。
 夫は小さな声で、「病院、診せてきて」と言った。臆病な夫が言うのだから、よほどのことかと思った。とはいえ、大事な一人娘のこと、先月も病院には連れて行っていた。腹が膨れているのを重ね着をさせて目立たないようにして連れて行ったのに、総合病院での診断は「風邪」であった。くしゃみひとつしていないのに、と葉子は思ったが、尿検査をしてレントゲンも撮っての異常なしであったから、夫婦が一番恐れている結果はまぬかれたのであった。それでも妊娠検査薬での検査は済ませてから病院へは行きたかった。
「またするの?」
 母親がまた紙コップに尿をためろというので、ミカナは眉根をくもらせた。それても素直に言うことをきく。葉子が祈るようにして検査薬の結果を待つと、やはり陰性であった。
 娘に厚着をさせ、帽子をかぶせて病院へ行くと、そこは知り合いばかりだった。
「ミカナちゃん、うちのゆず子も昨日病院来たのよ」
 と話しかける声がして、葉子は悲鳴をあげそうになった。振り返ると中年女性がミカナに話しかけている。
「おばちゃん、こんにちは」
 にこにことミカナは応対しており、リュックサックを腹側に抱いているおかげか、あまり腹部のふくらみは目立たなかった。
「今日はね、ゆず子のお薬取りに来たの。やあねえ、もうあったかい春なのに、風邪なんて」
「お大事にね」
 葉子はゆず子の母とミカナの間に割り込んだ。待合にすわる。ミカナは足にぴったりとしたストレッチジーンズをはいていた。それはミカナ自身が選んだものだったから、ウエストのボタンも窮屈なく閉められたのだろうと思った。だとすれば、膨らむのはへそから胸の下までで、そんな奇妙な膨らみ方をする病気があるのだろうかと怪しく思うのだった。
 医科は内科と外科、それに整形外科と透析用の部屋があった。ミカナが生まれたころには産科も小児科もあった。待合には人があふれたものだったが、今では静かなものだ。ミカナを見ると、スマホをいじっていた。軽く結わえた黒髪から、白い小さな耳が覗いていた。赤ん坊のころから形のかわっていない、すこし上部のとがったような形をしていた。葉子が結婚したころも、人口減、少子化、と言われていたが、今より3倍も人口が多かった。それが今は島全体で4万人を切りそうだ。葉子も役場で保育士をしていたが、人員整理で辞めざるを得なくなってしまった。それでも、夫だけでも役場に残れただけましだった。夫婦ともに働く場所がなくなったものは、外へ引っ越していかねばならなくなったから。行き交う人は高齢者ばかりで、かろうじて高校までは島で出せても、その先は島外へ進学させねばならなかった。
(島外へ進学させてやれるだろうか)
 葉子はミカナの耳たぶの産毛を愛おしく見た。進学させれば、ほぼ確実に葉子のもとへは帰ってこない。そのまま内地で就職するだろう。こんなに可愛い我が子と離れて暮らすなんてできるだろうか。
「お母さん」
 ミカナが呼んだ。ハッとして顔を上げると、ミカナが診察室に入っていくところだった。
「私、一人でも大丈夫だけど……」
 返事を待たずに、葉子は診察室に一緒に入った。ミカナの体は、葉子の体と言ってもよかった。だから分かれて話を聞くなんて考えられなかった。いつもの顔見知りの医師ではなく、内地から順番に派遣されてくる若い医師だった。それでも、先月の医師とは違うので、見落としはないだろうと葉子は少しほっとした。
「腹部に違和感があって」
 と葉子が言うと、すぐに医師は「妊娠の可能性はありますか」と言った。
 妊娠の可能性はありますか。こんなに恐れる言葉があろうか、と、葉子が震えているうちに、屈託なくミカナはいいえ、と返事をした。その言葉に安堵する。
 医師が心音を聞き、診察台に仰向けになるように促すとミカナは自分から服をめくった。
「やっぱり」
 と葉子は落胆する。そこには以前と変わらない、ぺたんこの腹があるだけだったからである。家で見るような、パツパツに膨れた腹ではなくなっているのだった。医師は触診をし、時折強く押し、「痛くないですか」「ここは」「響きませんか」と言いながら、ミカナの腹部を叩いたりした。ミカナはけろりとした様子で、「大丈夫です」と答えていく。
「あの、先生、なにか異常のようなものとかは」
 時と場合によるけども、家ではおなかが極度に膨れるんです、他人の目があると引っ込んでしまうことが多いんです、とは、何故か葉子は言えない。医師は聴診器を首にかけながら
「ガスが少したまっているようなので、繊維質のものは控えて消化のいいものをたべるようにするといいかもしれませんね」
 と二人の方も見ずに、電子カルテに打ち込みをしながら言った。
「ガスがたまってる?」
「聴診器でね、聞こえるんですよ」
「どんなふうにでしょうか?」
 葉子が食い下がるので、医師は葉子を見て首を傾げた。「重い症状の方がいいんですか?」とでも言いたげだった。医師は補聴器の耳に当てる部分をガーゼで拭った。そして葉子に渡す。
「もう一度横になって」
 葉子は医師を怒らせたかと少し首をすくめたが、聴診器をとった。
「そう。お母さん、ほら、このあたりに当ててください。ここは何も聞こえませんね。でも少し下がってくると、グルグルコポコポ言うでしょう。何だか私でも少し聞きなれないですがね。触っても瘤になっているところもないし、思春期ですからね、お通じが不調になることもあるでしょう。ね、そういうことですよ」
 医師が指し示すところに聴診器の先をぐっと差し込むと、グウ、と鳴くような声が聞こえた。腸の中の空気が動いてこういうふうに鳴くのだろう。
「お薬出しておきますね」
 処方されたのは葉子も飲んだことのあるマグネシウム錠だった。
(強力な虫下しでもあればよかったのに)
ついそう思って、葉子は、「虫下し」という言葉に引っ掛かりを覚えた。自分の腹部があんな虫の音のような音を出したことがあっただろうか、思春期だからといって? 
 その夜は、親子三人で玉子かゆを食べた。夫は不服を言ったが、葉子は無視した。娘が苦しんでいるときに、何を贅沢しようというのか。そしてやはり、家に帰るとミカナの腹部はもとのとおりに膨らみ、ミカナが部屋着のワンピースを着ると、まぎれもない妊婦のようだった。
 ミカナが二階に上がると、葉子は夫に医師の診断を報告した。
「もっと大きな病院に診せたほうがいいのかなあ」
 それはもっと前からわかっていた。しかし夫婦は躊躇した。自分たちの保身のためでもあった。そしてミカナのためでも。もし奇妙な病にかかっているとなれば、島内で好奇の目にさらされるであろうし、もし取り越し苦労でただの便秘だったとしても、一度立ってしまったうわさは形を変え姿を変え、いつまでも家族に付きまとうだろう。
 夫婦はそろってため息をついた。
***
 ミカナは、日々目覚めの際に、夢と現実のあわいに留まるようになった。それは日々長くなっていくようだった。葉子は、最初の方はそれをただ見守っていただけだったが、話しかけるとミカナが目をつぶったまま返事をすることに気づいた。意を決して、「誰かと会ってるの」ときくと、ミカナは目をつぶったまま口角を上げふっと微笑むようにしながら、
「花の匂いの人が通ってくるの」
 と言った。確かに、室内には、花の匂いのような、香水のムスクのような、麝香(じゃこう)の匂いがするのだった。ただし、それは朦朧としているときのミカナが言うだけだった。はっきりと目覚めてしまうと、「だれと会っていたの」と訊いても「知らない」と言うのだった。「夢を見ていただけだから」と。ミカナの部屋は二階の六畳間だった。窓はどれも嵌め殺しで、換気扇だけが付いている。夫が、家を建てる時に女の子の部屋だからと窓を開けられないようにしてしまったのだった。
 ミカナは外出禁止になった。ミカナは不服そうにもせずにこにことしていた。葉子と夫以外にこの家に入ったものはいないばかりか、ミカナは家からどこにも出かけていないはずであった。それなのに「花の匂いの人」と会っていたとはどういうことだろうか。
 葉子は小麦粉を近くの量販店で買い込んできた。そしてその日の夜、ミカナが寝付くと、ミカナの部屋に小麦粉を撒いた。そこから室内の廊下、夫婦の寝室の外に小麦粉を撒いた。夫は何か言いたげに葉子の行動を見ていた。もちろん庭にも撒いた。通行人に、訝し気に問うひとがあったので、害虫駆除剤だと弁解した。確かにそれは害虫駆除剤のようなものであった。娘のところにひそかに通ってくる「悪い虫」がどこからやってくるか、駆除するきっかけを得るための。
 しかし、朝になっても小麦粉にはどこにも乱れはなかった。ベッドの間際でさえ。夜の空気でしっとりと湿って、地面に軽く付着し、誰にも踏まれたことがない無垢の雪原のようだった。南の島で生まれ育った葉子には見たこともない風景だったが。
 夫婦は頭を突き合わせて話し合った。こんなにたくさん話をするのは、新婚時代以来と言ってよかった。
「スマホとか、インターネットで知り合ってるんじゃないのかな」
 と、夫は言った。だが葉子は違う気がした。「通ってくる」とミカナは言った。学校は春休みに入っていた。しかし休みが永遠に続くわけではなかった。
 ある日神父を夫が連れてきた。葉子は言葉を失った。神父様は町内に住んでいて、酔っぱらうと誰にでもなんでもぺらぺらと話してしまうことで有名なのだった。顔は面長で、長い鼻の先がいつも赤かった。気さくで、子ども好きな人ではあった。
「お困りごとがおありと訊いてね」
 普段冗談ばかり言っている神父がいかにも思慮ありげな顔つきで言うので、葉子は吹き出しそうになった。急いで紅茶を注ぎ、とっておきの虎屋の羊羹をあるだけ切って出すと、居間から台所まで顎で夫を呼んだ。
「ちょっと何考えてんのあんた」
「神に関わる問題なのかと思ってさ……、ほら、エクソシスト的な、っていうか、オーメン的な、っていうか、ローズマリーの赤ちゃん的なっていうかさ、」
と、言いよどむので、葉子は夫の足を踏みつけた。そういえば夫の趣味は映画鑑賞なのだた。
「映画は映画でしょ。あの神父様、知ってるでしょ。あることないこと言いふらされたらどうするの、ねえ」
「なにか僕たちには分からない何かを感じてるかもしれないだろ、神父様なんだし」
「あれで?」
 と、葉子は指を差した。神父は一竿の羊羹をぺろりとたいらげ、腹をさすりながら、紅茶をすすっていた。ああしまった、神父だから何となく良い紅茶をだしてしまったが、番茶を出せばよかった、と葉子は後悔し、いや、お茶をケチったともし言いふらされたら癪だからこれでいいのだ、と思い直した。戻るわよ、と、葉子は目で夫に指図した。
「神父様、すみません、お呼びだてしてしまって」
 葉子はできるだけ猫なで声で言った。
「僕がちょっと勘違いしてしまっていたみたいでご足労させちゃって」
 夫が帰るように促そうとすると、神父は素直に立ち上がろうとし、思いついたように再び腰を据えた。
「ミカナちゃんの顔まで見ていこうかな。何年生になったんでしたっけ」
 去年のクリスマスのミサに連れて行ったのを覚えておられませんか、と、葉子は言いかけそうになってしまった。
「お母さん、お客様?」
 ああ、なんて間が悪い私の娘。
 部屋を出たミカナが階段を下りながら居間にいる声をかけてくる。手すりが高いおかげで、三人が座っている位置からは、ミカナの腹部は見えない。
「まあこんにちは神父様」
 ペタペタと歩くスリッパの音が背筋を凍らせた。助けを求めようと夫を横目で見やると、眼鏡の奥の目をぎゅっと閉じていた。おい。
「神父さま!」
 と、葉子は叫んで立ち上がると、神父の視野を塞ぐべく正面に回り込んだ。神父がミカナの顔を見ようと右に傾くと左、左に傾くと右に身をよじった。
「なんだね」
 神父は怪しげに葉子を見た。
「葉子さん、あなたぐらいの年頃は悩み多きことだろう。更年期というものもあるしね。いやいや、恥ずべきものではない。ゆず子ちゃんのお母さんも以前はずいぶんと苦しんでおったようだ。さて、君の美しい娘に挨拶をさせてくれないか。神の愛はあまねく平等なのだ」
 神父はそっと葉子の肩に手を置くと、そのわきをすり抜けた。
(南無阿弥陀仏!)
 親の代からカトリックのはずの葉子の脳裏によぎったのはどうしてだか念仏であった。
「葉子、あれ見てみろ」
 夫の声がして、振り向くと、神父がミカナの頭に手を置いているところだった。神の祝福を与えている。そして、そのミカナの腹は平らなのだった。
「神様!」
 と、葉子は今度は神に祈った。夫は葉子の肩を抱いた。
「ずいぶんと大きくなって。体の隅々まで神のご加護のおかげで健康そのもののようだ」
「はい、神様」
 と、ミカナは答えた。
 しかし、神父が家を一歩出たとたん、葉子の体はすっかり元の形に戻ってしまった。急いで神父を呼び戻すわけにもいかず、葉子は立ち尽くした。
「あなた、神父にもやぶってあるのかしら」
 夫は黙っていた。
***
「ねえ、あそこに行きましょう」
 夫は難色を示した。夫は神父を連れてきたくせに非科学的なことが好きではないのだった。「あそこ」とはユタだった。南国の島々に未だ住む、民間の巫女(シャーマン)。巫女と呼ぶには世俗的過ぎ、普段はそこらにいる唯の高齢者だったが、「神がかる」と違うという。
 夫は首をかしげて決めかねている。葉子はユタにかかったことがあった。まさに結婚するとき、この人でいいのかユタに確認しにいったのであった。ユタはうなずいた。
「多少苦労することもあろうが、いい結婚だ」
 と誰にでも当てはまりそうなことをもったいぶって言った。「多少」とは、今回のことを言っているのだろうか、と葉子は思った。結婚を占ったことは夫には言っていない。
 ともあれ、ミカナは両親に連れられてユタのもとへ行った。例のごとく、外に出たとたん腹はぺたんこにへこんだ。両親は落胆した。写真を撮っておこうかとも思ったが、葉子が止めようといった。今のご時世、どこからデータが流出するかわからない。
 ユタは八十を超す老女だったが、ふくよかで肌もつややかだった。両親が気圧されたのは、その雑多な宗教を寄せ集めたかのような畳一畳分もあるほどの巨大な祭壇と、ユタがまとっている卑弥呼のような白い着物だった。頭にも鉢巻を締め、にこやかに夫から謝金を受け取ると、ミカナには席を外すように言った。
「うちの子のことでやってきたんですが」
 葉子が小さい声でユタに言うと、ユタはミカナを別室へ退(ひ)けさせた。
 夫婦は横に並んで正座し、ユタは足が悪いからと椅子に腰かけた。見下ろされていると、なにか居心地の悪さを感じた。ユタは何も話さない。じれったくなって、葉子が口をはさもうとすると、
「マッタブが憑いているね」
 とユタは言った。マッタブとは、方言で蛇のアカマタのことだった。無毒だが攻撃的な性格で、猛毒のハブをも捕食するという獰猛な一面を持っていた。狐憑きならぬ蛇憑きか、と、葉子が内心馬鹿にしていると、
「甘い匂いがするだろう」
 と、ユタが言った。葉子はハッとして顔を上げた。
「なんでわかったのかという顔だねえ。昔から、マッタブは娘に悪さするんだよ。夜な夜な通ってきて、そうだねえ、たくさん種が付いている頃だろうね」
 夫の顔が真っ青になったのが横目でもわかった。
「私たちがなにかしたんでしょうか」
「なあんにも。たまたまだろうね」
 因果応報、という言葉が頭をよぎったのに、すぐにくじかれた。
「ただ歩いてても車にひかれることもあろうさ。何も悪くなくってもね。そう思ってあきらめることさね」
 そんな、と葉子は悲鳴を上げた。夫は震える声を絞り出した。
「なんとか退治する方法はないんでしょうか」
「そうだねえ、あの娘さんにね、絹糸を巻いた錘(つむ)を持たせてごらん。端に針の付いたやつをね。それで、マッタブの頭に突き刺しておやりって。糸は切らずにね。それで糸をたぐれば住処にたどり着く。何か手がかりがあるだろう」
「……」
「きれいな若者に化けてきてるのさ。少なくともあの子にはそう見えてるだろうよ」
 ユタの部屋から出ると、もう西日が差し込んでいた。延長料金を二回払って、根掘り葉掘り聞いたので、結構な時間が過ぎていたのだった。ミカナは、縁側ですっかり眠り込んでいる。他人の家にいるという緊張もない様子で。その様子は、とても美しく、無防備だったので、葉子は珍しくミカナに腹を立てて、柔らかい頬をつねった。
「なにするの」
 起きたミカナが、頬をさすりながら、ぼんやりと言った。体の下に敷いていた二の腕に板間の跡がついている。その赤さがかわいく思えてどうしようもない。
「いい匂いの人」の夢を見ていたのだろうか?
「お母さん、なんで泣いてるの? ねえ、お父さん、何か言ってよ」
 夫も、泣く寸前のようだった。私たち夫婦で、このいたいけな子を守ってやらねばならない、この世界のありとあらゆる邪悪なものから守ってあげたい、という、胸を切り裂かれそうな思いでいっぱいなのだった。
 夜になると、葉子と夫は、一抱えほどもある錘と十五センチほどもある針を前に、ミカナを説得しなければならなかった。
 天井は明り取りが切ってあった。ほとんど新月で、暗い夜だった。もうすぐ旧暦の三月三日(サンガツサンチ)で、海に行く日だ、というのを葉子は暗い空を見上げながら思い出していた。
 ミカナは優しい子だから、蛇とはいえ体を刺すことはできないだろう。
「花の人は、どこから入ってくるの」
 葉子が訊いた。最初ミカナははぐらかしていたが、最後には換気扇からだ、と認めた。換気扇をコンクリートで塗りこめてやる、と思ったが、いまさらでは、ミカナの膨れた腹はへこまない。
「じゃあ、洋服も破れてしまうんじゃないの」
 と、今度は夫が言った。どう受け答えしようか、二人で練習に練習を重ねた結果である。
「着物を着ているのだけど、そうね、破れているかも」
 と、ミカナは少し考えこんだ。すかさず、葉子は錘を取り出す。
「これはとても丈夫な絹糸だから、これで破けたところを繕ってあげるといい」
 葉子が気を引いている間に、夫は部屋中のカミソリや鋏をポケットに突っ込んだ。ミカナが縫い上げたあと糸を切ってしまわないように、だ。糸切り歯で噛み切れないことは、夫と葉子で検証した。
 夜っぴいて夫は外から葉子は部屋のドアの前で見張っていた。葉子は連日の疲れが出て、うとうとしかけたとき、夫からLINEが入った。
(なにかしろいものが部屋に入っていった)
 葉子は耳をそばだてた。何も聞こえない。
(中に踏み込んだ方がいい)
 夫からまた連絡が来るが、
(ユタの言うとおりにしないと)
 と葉子は返した。夫の気持ちは痛いほどわかるのだが、今、部屋に入っても逃げられるだろう。手がかりは得られない。今頃、ばけものの裾を縫ってやってるのだろうか。玉結びのやり方をミカナは知っていたっけ。
 部屋からはコソリとも音がしない。永遠にも長い時間が経ったような気さえしたが、
(何か出てくる)
 と夫から連絡が入った。写真も送られてきた。男性の腕ぐらいもある、太くて白い蒸気のようなものが換気扇から垂れ下がっていた。葉子がその写真に見入っていると、
(糸も出てきた)
 と、夫が打ってきた。
 葉子はミカナの部屋にそっと入る。最初から部屋にカギはかかっていない。部屋は麝香のにおいでムッとするようだった。ミカナはベッドに仰向けになって眠っていた。腹は今までの中で一番大きく膨らんでいて、はち切れそうだった。すこしばかりミカナの呼吸も苦しそうだ。葉子はクッションと枕を使って、ミカナを横向きにしてやった。これなら、内臓を圧迫することなく眠ることができるはずだ。ミカナはされるがままになって、それでも目を開けなかった。深い眠りに落ちているらしい。
 錘が近くに落ちていた。その錘が少しずつ回転し、糸を繰り出していた。ミカナはやり遂げたのだった。
 外に出ると、春の夜気は冷たかった。錘はミカナのベッドサイドに固定してきた。あの様子なら、順調に糸を送り出してくれるはすだ。
「なんだよあれ」
 と夫は繰り返す。
「なんだよあれ」
 ユタがくれた糸は道に垂れ、月夜でもないのに薄く光って見えた。
「なにかわからないから後をつけているのでしょ」
「そうだけどさ」
 夫は温度ではない寒気を感じるとでもいうように、薄手のジャンパーを着た両腕で自分自身を掻き抱いた。
「意味わかんないよ」
「私もよ」
 夫婦は言いながら、糸を伝って夜道を歩いた。誰一人としてすれ違わず、猫の子一匹いない静かな夜だった。闇夜は深い。足裏に影がぴたりとくっつく。互いの息遣いがひどく大きく聞こえた。人家もまばらになり、山道に差し掛かると、二人でスマホのライトを点けた。濃い影が地面に刻まれた。気づかれないようにしようと逡巡したが、山には猛毒を持つハブもおり、仕方のないことだった。葉子が先に立ち、そのあとを夫が続いた。虫の音が暗がりから湧き上がってきた。猫のような鳴き声が頭上から聞こえた。リュウキュウコノハズクだった。
「ミャッ、ミャッ」
「ミャッ、ミャッ」
 猫のように鳴くフクロウなのだった。見上げても姿が見えず、気味の悪さが目立った。
「ひどい湿気だな」
「蛇が棲んでいる山なんだもの――っていうか、いつもの山と違うみたい」
「このままいくと、暗川(くらごう)に着くのじゃないか」
 そうかもしれない、と、葉子は思う。暗川とは、暗渠でもなく、半地下のような地下に川のある洞窟のことを言った。昔はそこで洗濯もしたと、祖母から聞いたような気もする。
(娘っ子は蛇に気を付けないといけないよ)
 顔も思い出せない祖母の声が、茂みの奥から聞こえたようで、葉子は振り返った。もちろん何もない。
「暗川ってこの山にあったっけ?」
「あったのじゃないか、僕がそう思うんだもの」
 スマホの光が点滅する。その瞬きの間に見えた夫の顔が、異形のもののように歪んで見えた。目頭を押さえる。もう一度見やると、いつもの間の抜けた夫の顔であった。あの錘の大きさで、こんなに長く歩けるぐらいの糸が繰り出せるのだろうかとも思う。そもそも何十分歩いたのかがあやふやだ。すべての輪郭がぼやけていた。
「ねえあなた」
「なんだよ」
「ねえあなた」
「だからどうしたんだよ」
「あたしをぶってくれない」
 ライトで照らされた夫の顔は、相変わらず輪郭がぼやけていたものの、恐怖で引きつっていることはよくわかった。
「何言っているんだよ」
 早くいくぞ、と話題を逸らすように葉子の腕を引っ張った。葉子はそれを振りほどき、
「ぶってってば」
 あまりよく見えなかったが、夫はきっと絶望した顔をしているだろう。
「お前までおかしくなるのは困るよ」
「頭がぼんやりするの」
 葉子は頭を強く振った。
「しっかり目を覚ましておきたいのよ。お願い」
 葉子は足を踏ん張った。夫はため息をついた。目をつぶってしばらくすると、バシッと左頬に熱い痛みが走った。
「これでいいだろ、」
 葉子は夫の頬を張り返した。夫は悲鳴を上げた。
「ちょっとは手加減しなさいよ、痛すぎる」
「ひどくないか、」
 夫は左頬を大げさに押さえてしゃがみ込んでいる。葉子の視野は今、明瞭にさえわたった。夜目もきいていたような気までし、リュウキュウコノハズクの鳴き声にも恐れを感じなかった。
「さ、きっと近くよ、行きましょ」
 葉子は元気を取り戻したように歩みを進めた。
 暗川が近づくにつれ、山が覆いかぶさってくるようで、星の光さえも届かなくなっていった。暗川の入り口は人が出入りした気配がなく、けども、目印の糸はその奥に続いていた。
「気味が悪いな」
 夫が言うと、半鍾乳洞状になった暗川の中で、その言葉が何倍にも大きくなってひどく響いた気がした。
「しっ」
 人差し指を口の前に立て、スマホの明かりも消した。目が慣れるまで待つつもりだった。夫も分かったのか、文句も言わず、ライトを消した。
 天井から石灰を含んだ水分がしたたり落ちていた。壁はなめらかに白く、そこもまた濡れていた。昼間の光を抱き込んでいるのか、壁や天井がほのかに光っているように思えた。糸を手繰って川の方へ少しずつ手探りでおりていくと、なにか話し声がした。葉子と夫は目を合わせ、二人は耳をそばだてた。
(やっかいなことになったな)
(なに、すぐ治るさ)
 と、少し間があってから、もう一人が答えた。
(いっぱい種をつけてきたから、かまわないさ)
 葉子はカッとした。頭に血が上り、手足が冷たくなって震えた。声の近くまで走り出しそうになったが、夫に両肩を押さえられた。
 深く息を吐く。震えを収めるように。もう近くなっているのだ。地面の糸を手繰って気づかれないように、でも見失わないようにしながら、数歩地下に下がり、鬼火のように輝いている方へ角を曲がった。
 果たして、そこには若い男と白い蛇がいた。男の白い着流しの裾には、針が刺さっていた。斜め座りになった男の足は見えず、着物の裾は赤く染まってぐっしょりと重く湿っていた。男は低い天井の下で長身を折るように猫背になって座っていた。着物の懐に両手を入れていた。白い髪は長く、彼の膝まで届くほどだった。眉もまつ毛も白いのに、唇だけがなまめかしく赤かった。彼と白い蛇の間には、赤っぽい光が灯っている。ともしびが外気からのかすかな空気の動きで揺らめく。そのたびに鱗がぬるぬると光った。
(針の金気の毒がが痛むだろう)
 白い蛇は、とぐろを巻いたりほどいたり、うねうねと動きながら言った。しわがれた声や話し方から、白い蛇は男よりは年かさのような印象であった。
(まあね)
 男は言いよどんだ。まつ毛が落とす影のせいで、目の光まではわからない。顔色も青白かった。
(ユタの入れ知恵なのだろうさ。面倒だが、遅かったな)
 と、男は言った。低くて甘い、ささやくような声だった。
(子どもはいつ頃生まれるんだ)
(三月三日頃かな)
 と、蛇は言ったが実際はもう四月になっている。であれば、旧暦の三月三日のことを言っているのだろう、と、葉子は察しをつけた。
(あとは待つだけさな)
 と、白い蛇は言った。
(そうだな)
 と、ちらりと若い男はこちらを気にするようなそぶりをした。白い蛇も動きを止め、何か考えているようだった。葉子と夫は、壁の影に身を縮めた。息をひそめる。
(蓬餅を食べたり、三月三日の日に浜遊びなんかしないでくれればな)
(そうか)
 と、白い蛇も言った。
(あれは我々には毒だからな)
(ああ)
 男は懐手から真白な腕を片方だけ出して、血だらけの足を着物の上からさすった。着物の裾から蛇の鱗のような光が反射したように葉子には見えた。
***
「また朝から蓬の天ぷら?」
 ミカナは悲鳴を上げた。
「食後には蓬餅もあるからちゃんと食べてね」
 と、葉子は言った。
「蓬のお風呂に、よもぎ蒸しでしょ、蓬、蓬、蓬。今日はあと何?」
「今日はこれだけよ。海に行く日だから」
 夫も蓬の天ぷらを食べようとして、葉子に手の甲を軽くたたかれた。
「僕も好物なんだから食べさせてよ」
「だめよ、ミカナのために採ってきてるんだもの」
 葉子は山に通って蓬摘みをしていた。育ちすぎて固くなったものも摘んでお風呂に入れた。そのかいがあってか、ミカナの腹はいつも平らで、部屋の甘い匂いも薄れてきている。蓬餅も蓬のペーストをふんだんに使って、味の濃いものを作っている。ほかにはニラ、にんにくなど匂いの濃いものを普段から取らせるようにしていた。
 ミカナは素直に蓬餅を食べていた。
「今日はサンガツサンチ(三月三日)だっけ」
 と、ミカナは蓬餅を包んでいた月桃の葉を置いていった。島では蓬餅を月桃の葉で包む。笹の葉にも似ているが、清潔な芳香がし  て、殺菌効果もあった。
 旧暦の三月三日に海遊びをすることを、サンガツサンチという。旧暦の三月三日は日中に大潮になる日で、潮が引くとサンゴ礁の岩場が現れた。そこで貝やタコ、魚を生け捕りにしたり、浜辺に一品持ち寄って皆で団らんするのが古くからの習わしになっていた。
「日焼けするの嫌だなあ。行かないとだめ?」
 葉子もミカナも、日差しに弱く、積極的に海に出たりしない。海まで歩いて十分もかからないのだったが。
「だめだめ、さあ準備していくよ」
 葉子は内心浮足立っていた。
 これで、安心だと思った。
 三人、サンダルを履いて並んで海まで歩いた。夫は休みを取っていた。休みを取らなくても、今日は休暇にするものが多くて、役場は開店休業状態になるのだったが。学校も商店も休みになるところが多かった。
 ミカナは白いノースリーブのワンピースを着ていた。髪は結ばず、風になぶられるのに任せている。以前醜く膨らんでいた腹部も、今は目立たない。
 浜には人出があった。といっても、二十から三十人程度なのだったが。自分たちの集落の最寄りの海へ行くから、これでも多いほうと言ってよかった。それぞれ、敷物を敷いて飲み食いをしたり、少し寒いけども海遊びをしたり、それぞれ思い思い過ごしていた。
「神父様もいるな」
 夫が言うので見やると、神父はすでに酒を嗜んだのか赤ら顔になってしまっていた。
「カトリックの行事じゃなくても参加するものなのね」
 葉子はあきれて言った。
「それにしても人が多いわ」
「別の場所にする?」
 そうね、と葉子が迷っているうちにミカナは海に入ってしまった。サンダルを履いたまま足を水につけ、
「まだ冷たい!」
 と、叫びながらも嬉しそうだ。葉子と夫は首を振り、それから顔を見合わせてうなずいた。
 葉子はレジャーシートのところへ夫を残し、浜辺をミカナと歩いた。ミカナは健やかだった。潮が引いてきたので、顔を出してきたサンゴ礁の上を渡って沖へも歩いてみた。もはや蛇のことなど忘れかけていた。腹はもう膨らむこともないのだし、蓬の効用で下ってしまったのだろうかと思う。
「春ね」
 ここに来た本来の目的が葉子の中で薄れ、波音を聞いていると、ふと、ミカナを見失った。
「ミカナ?」
 周囲を見回しても、サンゴの礁地には見当たらない。急いで砂浜まで戻ろうと走ると、水だまりに足を取られて転んでしまった。口の中が切れたのか、鉄のにおいがした。生理の時のにおい。子どもを産んだ時のにおい。
 葉子は立ち上がる。膝の擦り傷にも海水がしみて痛む。怒りがふつふつとわいてきた。ここまで手塩にかけて育ててきて、どこかの蛇に奪われるなんてことがあっていいだろうかと思う。失ってたまるかと。
 しばらく探すと、ミカナは人ごみから離れた浜辺で、腰のあたりの深さまで海の中に入り震えていた。
「どうしたの」
 おそるおそる話しかけると、ミカナは黒目が楕円形に歪んでいる顔をこちらに向けた。黄色く光り、蛇の目のようになっている。葉子の声が聞こえていないようだった。波が押し寄せるたびに、ミカナの体が濡れ、そのたびに胸から下が膨らんでいった。
 そこからはあっという間だった。ミカナは両手を腹部の上に重ねて置くと、背中を丸めて嗚咽するように喉を鳴らした。体の線の細いミカナの、鎖骨の間やのどをまるい異物が通っていくのがわかる。握りこぶしよりも少し小さな半透明の膜につつまれた卵を次々に吐き出した。あごが外れるぐらい大きく開いている。それが痛そうだ。卵と卵は膜の中でつながっており、半透明の膜は海水に浸かるとパチンとはじけ、卵がミカナの周りに浮いた。10個ほど吐いたあたりで、ミカナは一度口を閉じ、唾液を飲み込むようにしながら息継ぎをした。
 ミカナの名前を呼びながら、波をかき分けて駆け寄ると、ミカナはこっちを見ながら大きくげっぷをした。潮の匂いに混じって、麝香の甘い匂いがした。ねばつくようなよだれと、ぽろぽろと零れ落ちる涙のせいで顔が濡れていた。葉子が背中をさすろうとすると、ミカナはその手を振りほどき、また吐き始めた。今度はひとつずつ、ゆっくりと。まるで吐くコツがわかってきたというような感じだった。
 葉子を呼ぶ声がして、振り向くと夫が波打ち際に立っていた。そして戸惑うようにして一人の赤ん坊を抱いていた。赤ん坊は泣きもせず、上機嫌に親指をしゃぶっていた。
 砂浜に打ち上げられた卵は、日差しを浴びて少し乾くとひとりでに割れ、その隙間から亀の子のように小さな赤ん坊たちが這い出すのだった。そして、数分もしないうちに、海の水と陽の力だけで育つがごとく、はいはいができそうなほどの大きさの赤ん坊になるのだった。
 赤ん坊はいずれもむっちりとして、健康そのものに見えた。とても卵から生まれたとは思われないような。
 ミカナはひときわ大きな卵を一個吐くと、これまでで一番大きなげっぷをした。それで、葉子はこれで最後の一個だ、と思い、ミカナの顔を海水で洗ってやった。海水が目に染みたようで、少し顔をしかめたが、抵抗するそぶりは見せなかった。目も、いつもの黒目がちな目に戻っていた。肩を抱いて歩き始めた。
 海辺は赤ん坊だらけになっていた。始終動き回るので、数えることが出来なかったが、学級ひとクラス分ぐらいはいそうで、男女は半々といったところだった。
 いずれも海に溺れるということもなく、自分でうまく海から遠くへ這い上がり、砂に埋もれたり砂を飲み込んだりといったこともなさそうだった。
「これ、僕たちの孫なのかな?」
 夫は抱いている子をまじまじと見た。髪はふさふさとして、歯はまだ生えていないようだった。鼻の低いところが夫に似ているようでもあり、大きな口が葉子に似ているようでもあった。
「ばあぶばあぶ」
 タイミングが良かったのか返事するように赤ん坊が言ったので、夫は気味が悪そうな顔をした。夫はそっと赤ん坊の群れの中にその子を降ろし、押しやるように蒙古斑のある尻を軽く叩いた。その子は、喜ぶようにまた笑い声をあげると、赤ん坊たちの中に紛れてしまった。抱いているときには、特徴のある子のように思えたのに、群れの中にまぎれると、二人にはいったいどの子がどの子なのか、全くわからないのだった。
「どうしよう」
 葉子はひとりごちた。警察。病院。児童相談所。役場。どこに相談すればいいというのか。
 ミカナは静かにしている。疲れて眠そうだが、満足そうに微笑んでいた。
「蓬と海遊びは毒なんじゃなかったのか」
「私たち、だまされたのよ」
 二人はひそひそと言い合う。
(よくやったね)
 振り返ると、ミカナの横に若い着物姿の男がいて、ミカナの肩を掻き抱いていた。男は洞窟で見た美しいあの男で、白く長い髪に白いまつ毛、青い目をしていた。陽の光の下で見ても、その男がこの世のものではない、異質さをまとっているのがわかった。
(おかげでいい子どもたちが生まれた)
 と、男は葉子たちにも言った。
(どうもありがとう)
 と、今度はミカナに向かって言った。ミカナはぼうっと上気したような顔で、うなずいている。
「こっちもすごい赤ん坊の数じゃなあ」
 日傘を差した神父が、赤ら顔で歩いてきた。
「こっちも?」
 と葉子が訊き返すと、
「向こう側でもポンポンポンポン赤ん坊が生まれてなあ。町長も――いや、神もこの島に子があふれることをお喜びじゃ」
「向こう側でも?」
 と、ミカナが大きな声を出した。やっと意識がはっきりしたのか、立ち上がっている。男は、多少うろたえた様子で、
(まだ休むといい)
 と言った。
「おや? ああ、なにか視界が白くぼやけるな……、ついに白内障の手術を受ける時かな」
 神父は男に目を背けると、十字を切って教会の方へ歩いて行った。
「やぶ神父、もう少し戦いなさいよ」
「おい聞こえるぞ」
 夫はたしなめるように葉子に言った。ミカナは、ふらつく足で神父が示した方へ向かい始めた。それを、夫と葉子と男が追うようにしてついていく。
 数分も歩かないうちに、ミカナから出てきた子たちとは明らかに異なる赤ん坊の群れがあった。それもいくつも。群れは、母体ごとに固まって行動しているようだった。通常とことなり、目を離しても大丈夫なようで、100人は超える赤ん坊がいるのに、どの子も波にさらわれず、むずかることもなくすごしている。
「あなた」
 葉子は夫の洋服の裾をひっぱった。葉子の指し示す先には、葉子たちの後をついてきた赤ん坊たちがいた。
「顔を覚えられたのかしら」
「抱っこしたのがよくなかったかなあ」
 ゆず子と、ゆず子の母親も浜辺にいるのが見えた。ゆず子が海に入っていくと、ミカナのように卵を吐き始めた。ミカナの卵より小さかったが、それでも同じように孵化するのだろうと思った。またさらに赤ん坊が増えるのだ、と思うと、葉子はめまいがした。この調子でいくと、今日だけで人口が1%は増えてしまうのじゃないだろうか?
 キッ、と、ミカナが勢いよく振り向いたので、夫と葉子と男は、その場に立ちすくんだ。
「これはなんなのかな?」
 ミカナは男に向かって言った。控え目ではあったが、怒っている口調だった。軽く口がとがっていた。子どものころから、怒ると口をとがらせるくせがあった。
(予備(スペア)だよ)
 男は肩をすくめた。ミカナと目が合わせられないらしく、あらぬ方を向いていた。
(人間の子はすぐ死ぬから)
「死なないよ」
(前のときはわりとバタバタ死んだから……、予備を多めにしておこうかなって)
「何年前の話?」
 畳み込むようにミカナは言った。
(150年ぐらい前かなあ)
「150年前だって人間はすぐ死んだりしないよね、」
 と、ミカナは父親に向かって言った。
「昔は結核とかコレラとかスペイン風邪とかあったし、死は日常と言えたかも――」
 葉子がわき腹を突っつくが、もう遅かった。
「お父さん、どっちの味方なの?」
 と、ミカナは言った。
 葉子は驚いていた。おとなしくて、頼りない子だと思っていたけど、私に似ているところもあったなんて。
「で、どうするのこれ」
(どうするって何を……)
「この赤ちゃんたち、全員あなたが連れて帰るわけ」
(種付けだけが私の仕事だし……)
「そんな時代はね! もう終わったの! 今の発言マジ炎上案件だからね」
 そのころには、ミカナのところへゆず子を始めほかの女の子たちが集まって来ていた。
「ほかの浜でも赤ちゃん生まれてるっぽいよ」
「うそでしょ、やば」
「誰が予備なのか、種付けだけ、ってどういう意味なのか訊いてみようよ」
 葉子は女の子たちと、その女の子たちを追いかける赤ん坊たちの集団をかき分けて離れ、
 夫と遠くから眺めていた。赤ん坊は、さらに大きくなったようで、つかまり立ちして母親たちのやり取りをのぞき込む子も数人いた。
「どうするのこれ」
 と、葉子は言った。
「役場的には……、出産祝いの補正予算組まないといけないかなあ」
 予算足りないなあ、と、夫はのんびりとした様子で、
「復職できるかもなあ、よかったなあ」
 と、夫は葉子に向かって言った。葉子が保育士として再び働けるかもしれないということを言っているのだった。
「男って蛇も人間も変わらないのね」
「え? 今、僕、何か間違ったこと言った?」
 葉子はあっけに取られているゆず子の母親や、所在なげにしている男の子たちや父親たち、集落住民に呼びかけた。
「今年のことは仕方ない――しょうがなくないんだけど――来年の繁殖期を防ぐために頑張りましょう、一致団結するのよ!」
 おお! と、団結の声が潮が満ちてきた海辺で、大きく響いたのだった。
 叫びながら、家に帰ったらミカナの部屋の換気扇を塞いでしまおう、と葉子は疲れた頭で考えていた。
***
 神父後日談。
 〇〇新聞? ずいぶん遅かったのう。もう△△新聞も××テレビも取材に来たところじゃ。うちの島の奇跡について知りたいのだろう。そう、人口が一日で400人も増えた話よ。それも赤ん坊ばかりがな。主のお恵みと言わずしてなんであろう。母親? いやな、それは言えんのじゃ。――そうさな、ここだけの話とするならば、処女懐胎じゃよ、あの子どもたちはいずれもそうやって授かった子たちだ。おや今、わしを怪しんだな? 信じなさい。神父が嘘つくなどありゃせんじゃろうが。

 町役場総務部係長談(〇〇島唯一の行政機関)。
 わざわざ東京から。たいへんですねえ。僕が最後に行ったのはいつだったかな、コロナ前に東京ディズニーランドに家内と娘と一緒に行きましてね。妻子は楽しそうでしたけどねえ。疲れましたねえ。コロナが終わったから、また東京は人がいっぱいなんでしょうねえ。この島にたかが400人増えたぐらいでとやかく言ってたらいけないですよね。
 町長が言ったことがすべてですから。ええ。僕たちからはなにも。オフレコ? いや、宮仕えの身ではそんな不義理できないですよ。どうせすぐまわりにわかっちゃいますしね。
 公式には、旧暦の三月三日に集団乳児置き去り事件が起きたということになっています。ええ、納得されないでしょうがね。島外の養護施設に移送することも考えたんですがね、400人もどこが受け入れるのかと。ええ、県にね、どやされましてね。僕らが悪いんでもないのに。向こうも事情がおありなんでしょうがねえ。
 人口減はどこもね、どこの自治体も頭を悩ませているところですから、うちの役場で頑張ろうということになりましてね。うちの家内も元保育士なんですが、復職してもらったりしまして。で、各世帯に1人でも2人でも、育ててもらえるようお願いしてね。もちろん役場から手当ても出して。うちでも2人育ててますよ。娘の年が離れたきょうだいができたようなもんで。あの子たち、不思議なんですけどね、風邪一つひかないし、あまり話さないけど賢いし、ご飯さえ食べさせてたらいいですしね。人の子育てるより簡単ですよ。
 また増えるかも? いやあ、来年はどうですかね。取材も来そうですしね。カメラがある前ではとてもじゃないけどね……、ああ、いいえ、何でもありませんよ。お帰りはどうぞお気を付けて。女性の方は特に。この島には――、蛇がいますのでね。

文字数:18877

内容に関するアピール

「マッタブ アカマタが化けて婦人と情を通じる。5,60年に1,2度ほどこの蛇の子をはらみ、子を産むものがあるという。この地方がまだ開けていないためだろうか。現在でも婦人が奇形の子を生むことがあるという。」名越佐源太『南島雑話』(1850年頃)この資料が面白いと思って、できたお話です。
 作中に出てくる島は、架空の島なので、沖永良部島の自然風景もミックスしています。
 島外の人も読みやすい島っぽいテイストのお話、が、すこしでも作れていたら嬉しいです。
 ゲンロンに来たのが、「全然書き終えられない、物語を完結させられない病」を治すことが目的でした。毎月書くうちに、「書き終える」という事ができるようになり、目的は、皆様のおかげで克服できたと思います。ありがとうございました。
 この話が、すべてのスタートになりますように。

文字数:358

課題提出者一覧