聖武天皇素数秘史

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聖武天皇素数秘史

聖武天皇は夜御殿の連子窓から夜空を覗き、その身を小さく震わせた。
十月も終わりに近づいて、白絹の夜着が少々肌寒い。星は賑やかで、その清廉さに目が磨かれるようだ。北極星も一段と輝いて見える。聖武は北斗七星から自身の属星ぞくしょうを探した。北極星とは天皇を象徴する星で、唐の思想を模倣したものだ。属星とは、この国で発展した陰陽道が定める天皇ひとりひとりの命運星である。その誕生年によって北斗七星の中からひとつを選び出すのがしきたりだ。
 聖武は自身の属星がいつになく赤く輝いているように見えた。
 夜だというのに窓枠に白鶺鴒ハクセキレイがとまった。
「わたしは男子を産めませんでした」
 思わぬ光明子こうみょうしの言葉に、聖武は御床を振り返った。
「まだそんなことを気にしていたのか。基王もといおうを産んだではないか」
「一年で死んでしまいました」
「昔の話だ。わたしたちには高野姫たかのひめがいる。二年前、あの子はわが国初の女性皇太子となった。あの子が天皇になればいいではないか」
 同い年のふたりは十八歳のときに高野姫を産み、二十六歳で基王を産んだ。高野姫はすくすく育ったが、基王はわずか一歳で夭折した。光明子の頭にもたげるのは拭いがたい憂いであった。
「政治がそれを許すでしょうか」
「これまでも女性天皇が立ったことはある。先代も先々代もそうだった。だが、いずれも男子天皇の中継ぎ。あの子には中継ぎなどではない、男子天皇に比肩する正真正銘の女性天皇になってもらいたいと思っている」
「みかどには安積皇子もおりましょう」
「あの子の母は県犬養広刀自あがたいぬかいのひろとじ。厳しいであろう」
 聖武には妻がふたりいた。ひとりは皇后の光明子、もうひとりが広刀自である。光明子は政権の頂点にのぼりつめた藤原氏出身であり、広刀自は中堅氏族の犬養の身である。高野姫が女子で安積皇子が男子という優劣はあれど、氏族の格からいって安積皇子を天皇に擁立することは容易くない。だが男子の安積皇子を推す声が根強いのも事実。
「わたしはまだ、男子を産むことを夢見ています」
 光明子が細い指で夜着の襟を直した。
「運に恵まれればそれでいい。男子を産めないことを、産まなければいけないことを、重荷にする必要などない」
 皇位継承のもっとも簡単な解決法は、光明子が男子を産むことだった。だが聖武も光明子も齢四十。子を新たにつくるには少々歳を取り過ぎていた。
 ふたりは幼馴染みとして育ち、恋をして、結ばれた仲だった。不妊ごときでどうにかなるような絆ではない。聖武はそう思っていた。光明子もそう思っているにちがいないと聖武は感じているからこそ、なお胸が痛い。
 光明子が男子の世継ぎを産まないことを陰でそしるものもいれば、次の天皇擁立をそれぞれの氏族が浮揚の機会ととらえ、ほくそ笑むものもいる。聖武はそんな雑音に悩まされる光明子を天皇という立場から守り続けてきた。
 聖武の生い立ちは複雑であった。母である宮子みやこは、四十年前に我が国初の法典となる大宝律令の編纂を主導した藤原不比等ふじわらのふひとの娘。不比等はそれまで不文律であった氏族合議制を打ち崩し、藤原氏一強体制を築き上げた人物である。不比等は氏族の身分であるにもかかわらず、聖武の父、文武天皇の皇后に宮子を立てることに成功し、政権を我がものにした。皇后になれるのは天皇夫人の中でも皇族の女性だけというのが通例だったこの国において、宮子の立后は不比等にとって快挙といえる出来事だった。
 だがそこで不都合が起きる。宮子が聖武を産んだその日から重い鬱を患い、床に伏せてしまったのである。不比等はそれを恥ずかしく思ったのか、しくじりととらえたのか、療養のためと宮子を軟禁し、誰にも合わせないようにした。聖武ですら対面を許されず、初めて母の顔を見たのは四年前だった。さらに不運なことに、聖武七歳のときに父の文武天皇が崩御する。父を失い、母は生きていても会うことを許されない、そんな暗い幼少期に隣にいてくれたのが光明子だった。かくいう光明子も不比等の娘であり、宮子とは歳は大きく離れているが腹違いの姉妹である。聖武は母の伏せっている不比等邸で、光明子と共に育ったのだ。
「つまらないことを言ってしまいました」
「気にすることはない」
 傷が疼く、というのは決して身体にかぎったことではない。胸の痛みも一年に一度や二年に一度ほど、思い出したように疼くものである。
「内裏にまでかばねが匂う」
 格子の隙間から流れ込んできた死臭に聖武は顔をしかめた。
 連子窓の白鶺鴒が気まぐれに飛んでいった。
 刻は天平十二年(七四〇)。平城京はここ数年で大きく様変わりしていた。六年前に畿内を大地震が襲い、都でも大勢の人が死んだ。同じ年の大飢饉で餓死者も大量に発生した。その翌年、突如として天然痘が猛威を振るった。身分に分け隔てなく牙を剥くその疫病は、不比等の築き上げた藤原氏一強体制すらあっけなく破壊した。政権の中核を担っていた不比等の子、房前ふささき、麻呂、宇合うまかい武智麻呂むちまろのいわゆる藤原四兄弟が三年前に相次いで天然痘に罹患し、急逝したのだ。都の辻々には飢えに苦しむものたちが虚ろな目で佇み、天然痘にかかったものたちの屍が転がった。
「この国を建て直すのは容易なことではない」
 聖武の言葉にかぶさるように東の若草山のほうでからすが野太い鳴き声をあげた。

翌朝、聖武は御簾を開け放った内裏の正殿でいつものように聴政を行った。聴政とは、位の高い官人の上奏に対して天皇が勅裁することをいう。正殿の中央に正方の畳が据えられ、その真ん中にしとねと呼ばれる座布団が敷かれている。そこが聖武の座する場所である。そして聖武と向かい合うようにして板張りの床に三人の男が平伏している。右大臣の橘諸兄たちばなのもろえ、従五位上の吉備真備きびのまきび、僧正玄昉げんぼうである。この三人は藤原四兄弟のあとを受け継ぐ形で政権中枢に躍り出たものたちだった。
「藤原広嗣ひろつぐの兵一万に、朝廷の兵六千が筑前にてぶつかり合っています。今朝戻ってきた伝令によると、広嗣の軍に投降者が続出している模様」
「朝廷軍が有利ということか?」
「戦は数よりも兵の士気が肝心。そういうことになりましょう」
 聖武は視線を諸兄から外し、胸の切なさを気取られぬよう表情を固めた。
 広嗣は宇合の息子で、従五位下にまで上りつめた実力者だ。だが今は大宰少弐として太宰府の守護を担っている。真備らとの政争に敗れ、左遷させられたのである。だが先頃、そんな広嗣が朝廷にある文をよこした。そこに書かれていたのは、真備や玄昉が朝廷を乗っ取ろうとしているという驚くべきものであった。また天然痘の流行も真備や玄昉の失政によるものであると叱責した。諸兄、真備、玄昉はこれを謀反と捉え、広嗣征伐を聖武に詰め寄る。聖武は抑え込む手段が見つからず、征伐の指示を出さざるを得なかった。
「みかどにはどちらに転んでもおつらい状況」
「言うな」
 朝廷軍が負けるのも困るが、広嗣が殺されるのもつらい。聖武はたまらず話題を変えた。
「真備よ、陰陽寮の人材は育ってきたか」
「暦博士、天文博士、漏刻博士、陰陽博士など、それぞれ専門家は育っていますが、陰陽師はそれら全てをひとりでまかなう仕事。有能な人材が育つには時間がかかります」
「お前ならできるだろう。陰陽道だけではない、この国のあらゆる学問を唐と並び立つまでに育て上げられるのはお前しかいない」
 聖武はこの男に期待していた。十七年間にも及ぶ遣唐使生活の末に唐朝から帰国を禁じられたほど才が飛び抜けているのである。
「して玄昉よ。屍は片付いているか」
 聖武は玄昉に目を移す。
「屍に触れるのを怖がるものも多く、難航しています」
「都にはどれくらい屍が転がっている」
「辻のあちこちで倒れているものが百から二百。また羅生門に積み上げられているのがおよそ三百から四百ほど。健康なものは天然痘を禁忌と捉えておりますゆえ、罹患したものたちは家から閉め出され、路頭をさまようております。そしてそのものたちが路傍の屍に明日の自分を重ね、羅生門へと運んでいるようです」
「生きているものたちの辛苦を救済するのもお前の役目だが、疫鬼に倒れたものたちを御仏のもとに還すのもお前の役目。難しい仕事だがよろしく頼む」
 玄昉は広げた両手を床につき、頭をさげた。
 政治の諸兄、学問の真備、仏門の玄昉。悪くない三人だと聖武は思っていた。藤原氏一強時代から氏族合議制を取り戻しつつある今、少なからず政権は安定している。だが、だからといって権力争いがなくなったわけではない。また飢饉から回復しつつあるとはいえ、庶人たちは食べるものもままならない。天然痘も大流行の波がいつぶり返すかわからない。それに広嗣……、考えるだけでも頭が痛い。
 聖武は三人を下げさせ、内裏の表に立った。見下ろす朝堂院の大広間を囲むようにいくつもの朝堂が立っている。聖武はその檜皮葺きの屋根が赤く染まるのをしばらく眺めていた。

金色の鎧をまとい、朱の肌に真紅の髪。緑青ろくしょうの帯を身のまわりに踊らせて、振り上げる右手には煩悩を滅ぼす金剛杵こんごうしょが握られている。こぼれ落ちそうなほど見開いた眼と大喝するかのような口。忿怒にも似たその表情は弱きものを庇うために悪鬼に立ち向かうかのようだ。
 仏法の守護神、執金剛神像の前で聖武は目を瞑り、大日経の経文を唱え上げていた。五年前、真備とともに遣唐使から帰ってきた玄昉が携えてきたものに真言密教の大日経と金剛頂経があった。そのふたつの経文の特徴は、本来姿も形もない森羅万象の力の働きである大日如来が顕現し、弟子である執金剛たちに真理を説いていることだ。聖武は経文を唱えながら、大日如来に教えを乞う執金剛に自身の胸の裡を重ねていた。
 筑前で挙兵した広嗣は討ち取られる可能性が高い。不比等の孫である広嗣を小さい頃から兄のように慕ってきた聖武だが、政治に個人的なつながりを持ち込むと軋轢が生まれる。藤原四兄弟が亡くなり、ようやく氏族合議制の均衡が取れてきたのである。ここで広嗣に温情を示すようなら再び政治は乱れる。
 聖武は雑念を振りほどくように経文に集中した。だが集中しようとすればするほど瞼の裏に幼い頃の景色が広がる。聖武は自身の唱える経文を耳のそばで泳がせながら、その遠景を掻き消すことができなかった。
 
——庭の梅の木に陽の光が揺れている。木枝にとまった小さな四十雀シジュウカラが梅の花に顔を寄せ、キョロキョロしてから地面に降り立つ。地面にはひとまわり大きな四十雀が飛び跳ねている。二羽は仲睦まじく嘴で身をつつき合い、ふいに垣の向こうに飛び去っていく。のちに聖武天皇と名乗る首皇子おびとのおうじは不比等邸の小間で文机に肘をつき、四十雀の親子がいなくなった空をぼんやり眺めていた。父、文武がこの世を去ってはや三年が経とうとしていた。
「できましたか?」
 声をかけてきたのは算術教師、志斐三田次しひのみたすきである。
「とっくにね」
 首は自慢するでもなく答案を見せた。そこには大人の字で書かれた掛け算問題と、子どもの字で書かれた回答が十ほどある。
「どれも正解です。四則演算の基礎はできるようになりましたね。ではこれから長さや重さ、体積の単位を覚えて、それぞれの単位に合わせた計算ができるようになりましょう」
 三田次の口ぶりを聞いて、縁に腰かけた男が身を翻した。陰陽寮の長、余真人よのまひとである。
「おいおい、度量衡を覚えさせるなんて大蔵省の下級官人にでもさせるつもりか? おびとは将来天皇になる身だぞ?」
 三田次は真人の酒臭い息がまるで届くかのように顔をゆがめた。
「皇子は十歳にして驚くほど算術の才がある」
「ほう。珍しいこともあるもんだ」
 そう言って笑う真人は仕事を抜け出して、ここで日向ぼっこをしている。なんでこんな男が陰陽頭おんようのかみに、と三田次は常々思うのだが、真人はかつて百済から亡命してきた王族の末裔であり、一族の持つ暦道や天文道、卜占の知識を受け継いでいることから、積極的に大陸の知識を吸収しこの国を発展させようとする朝廷に重用されていた。だがそれをいいことに、生来の呑気さで日々をやり過ごすことが多く、のべつくまなく酒を飲んでいる。
「お前の口のきき方、なんとかならんのか。皇子に不遜であるぞ」
 語調を強める三田次を意に介さず、真人は椀に口をつけた。
 そんなふたりに挟まれて、首は隣に座る光明子が唇を尖らせているのに気づいた。
「教えてあげようか?」
「いらない、自分で解けるもん」
 それを聞いた真人が嬉しそうに目をつり上げる。
「光明子は勝ち気だね。元気があっていいよ。おびとにはぴったりだ」
「いいもん。わたし、写経が得意だもん」
 光明子が真人から顔を背けた。そこにひとりの少年がやってきた。頬に初々しい面皰にきびを作った藤原広嗣である。
「遅くなってすみません。歌の勉強が長引いてしまいました」
 広嗣は三田次に挨拶すると首の前にやってきて、
「皇子、これをあげる」と小さな木彫りの仏像を差し出した。
 おびとは目を丸くして、
「これは?」と尋ねた。
「毘盧遮那仏だ。ぼくが彫ったんだ」
 聖武は木彫りの仏像を手のひらに乗せて顔を近づけた。
 右と左で目の大きさも違えば、鼻も斜めに走っている。眉間の白毫びゃくごうもごつごつしていて、仏の威光など感じられない。だけど可愛くて、ずっと見ていられる。
「なんでくれるの?」
「光明遍照。毘盧遮那仏は万物をくまなく照らす光だ。とどまることなく変化し続け、無限に生起し続けるくうを、日輪のように照らし続けている。なんていうか……宮子さま、早くよくなるといいね」
首は仏像の顔を親指の腹で撫でた。これまで唐や百済からやってきた仏師が彫った仏像をたくさん見てきた。だけどこの不細工な仏像の目が一番優しい——

聖武は経文を唱えながら、あの頃はまだ感情表現が下手で、うまく感謝を伝えられなかった、自分だけが不幸だと思い、自分の殻に閉じこもっていたと観想していた。あのとき手のひらに乗せた毘盧遮那仏——光明遍照——この言葉は算術のようになにかを足したり引いたりできない。ましてや別の言葉と掛け算などしたらもはや真理などではなくなる。では割り算はどうだろう。やはりできない。光明遍照、それはひとつの塊だ。真言とはそれ以上割り切れない言葉なのだと聖武は思った。
 そうか。経文はたくさんの言葉が連なってできているが、その連なりを割っていけば、いつか割り切れない一言一句が現れる。それらひとつひとつが大日如来の真言なのだ。
 聖武は目を開いた。
 経文だけではない。算術にも同じようなものがある。一と自身でしか割り切れない数。真言と同じように、もうそれ以上破壊されることのない塊。それ自身が素である数……つまりは素数だ。
「仏における真言と、算術における素数は同義」
 聖武は立ち上がり、目線を並べた執金剛神像にくっと頷いた。

羅生門に積み重ねられた屍肉を啄んだ鴉どもが腹を満たして眠りに落ちる頃、内裏の正殿の板張りにふたりの老人が座っていた。ひとりは緊張した面持ちでブルっとその身を震わせ、もうひとりは太々しく顎の白い無精髭を撫でている。志斐三田次と余真人である。
 聖武天皇がやってきて中央に座した。
「お久しゅうございます」
 目尻に深いしわを刻んだ三田次が感慨深げに言った。
「何年ぶりになるだろう」
 聖武も頬を緩めた。
「もう二十年は経ちます」
 返事する三田次の隣で相変わらず酒にほろ酔う真人が、
「みかど。その座り姿、なかなかに悪くない」聖武の居住まいを誉めた。
「またお前は不遜な態度を」
 三田次がたしなめると、
「いいのだ、真人はこの調子でないとむしろ気持ちが悪い」
 聖武は低く笑った。
「ところで今宵はどのようなご用で」
「そうだな、夜も深い。さっそくだが本題に入ろう」
 聖武はそう言って身を乗り出した。「わたしは仏に真言があるように、数にも真言があることを発見した」
「数に真言?」
 三田次は眉をゆがめ、その謎めいた言葉を鸚鵡返しした。
 聖武は数には一と自分自身でしか割れない数があり、それを素数と名づけたこと、そして仏の真言とは言葉の素数であることも説明した。
 真人が鼻のわきを掻きながら笑い出した。
「みかどは政治に忙殺されてるのかと思えば、そんなことを考えてたのか」
 だが三田次はそんな真人の声が聞こえないかのように惚れ惚れとした声をあげる。
「なんと素晴らしいご発見。算術に熟達したわたしでも、そんなことは考えつきませんでした」
「それはそうだ。算術とは租税、田の面積などを計る実用の術。素数とは純粋なる概念なのだ。官人だったお前からは生まれないだろう」
 三田次は長い間算師の仕事を続け、正式な役職ではないが算博士さんのはくじという称号を得て、算師の育成や管理に勤しみ、二十年前に引退し、今は老後を送っていた。
「これは陰陽師にもかかわる話だな。いやまいった」
 陰陽師は暦や天文を読むために算術を必要とする職業である。柄にもなく感服した真人は真人で、すでに隠遁生活を送っていた。五年前、唐から帰国した真備が大学助だいがくのすけに就任すると陰陽寮でも一斉改革が行われ、酒ばかり飲んで仕事をしない真人はあっさり馘にされたのだ。それ以降真人は太陽と月と星々の運行を肴に酒を飲む日々を過ごしていた。
「二、三、五、七。これらは一と自身でしか割れない」
「一一、一三、一七、一九もそう。もっと探せば、もっと出てきます」
「無限にあるかもしれん」
 聖武と三田次が熱をこめて語っていると、突然御簾の向こう側から女官の声がした。
「みかど」
「どうした」
「宮子さまのご様子が」
 聖武は表情を一変させた。
「行こう」とすぐに返答し、立ち上がった。
「宮子さまは今でも悪いのか」
 真人が怪訝な顔をする。
「いや、最近は問題なかったはずだが」
「みかど、俺たちもお供させてくれ。胸騒ぎがする」
 聖武は真人の真面目な声色になにかを感じ、
「いいだろう」と言った。
「わたしもよろしいので?」
 畏れおおさに目を泳がせる三田次にも聖武は頷いた。

内裏の北側にある太皇太后殿に三人が駆けつけると、宮子が乱れた白髪を汗ばんだ額に張りつけ、御床の上で右へ左へ身体をよじっていた。聖武は宮子に近寄って膝を折り、何度か声をかけてみたものの一向に応える気配はない。これは三年前に快癒した鬱がぶり返したわけではなさそうだ。宮子の手を握る聖武の後ろで三田次も真人も真剣な眼差しを向けている。
 宮子は呻き声の合間になにかを口走るが、声が小さくてうまく聞き取れない。聖武は宮子の口に耳を寄せる。何度も浮かび上がってくる言葉の端切れを繋ぎ合わせていくと、どうやら和歌であることがわかった。
『わかくさの にひたまくらを まきそめて よをやへだてむ にくくあらなくに』
 聖武はその和歌を聞いたことがあった。だがいつだったか思い出せない。
「これは新婚初夜の男の気持ちを詠んだ歌。なにゆえ宮子さまが」
 三田次の言葉を聞いて、聖武は弾けるようなまばたきをした。
 これはかつて歌の苦手だった広嗣が妻を娶ったとき、当時詠み人知らずで流行していたこの歌に自分の気持ちを重ねて妻に贈ったのだと、こっそり聞かされたことがあった。
『若草のように初々しい新妻を腕枕して寝たあの日から、一夜でも逢わずにいられようか、愛しくてたまらないというに』
 まるであのときの広嗣の喜びが蘇ってくるようだが、実はこの歌には仕掛けがある。聖武は部屋の端に控える女官に文の道具を持ってこさせ、
「文字に起こせばこうなる」と言って、『若草乃 新手枕乎 巻始而 夜哉将間 二八十一不在國』と紙に墨書した。そして「ここに秘密がある」と二八十一に丸をつけた。
にくく、、、のくくが八十一、、、と書き換えられている。歌に九九を忍び込ませる遊びをするものが時折いるのだが、これもそのひとつ。つまり……」
 聖武は母の耳に口を近づけた。
 同じ算術の教えを受けていた広嗣。結婚したときにこの和歌を詠んだことを自分にだけ教えてくれた広嗣。母のこの妄言はまるで広嗣からの謎かけのようだ。
「九かける九」
 聖武が試しに囁きかけると、急に宮子の身体が大きく波打ち始めた。そして子を産むかのように口を大きく開き、白いぶよぶよした塊を吐き出した。
 その白い塊が聖武の膝下に落ちる。宮子は大きく息を吸っては吐いてを繰り返し、まだ意識はないが次第に呼吸は穏やかになり、静かに寝息を立て始めた。胸を撫でおろした聖武はすぐさま女官に滋養強壮の薬と汗を拭く布を用意させた。
 白い塊はしばらく床の上で胎動し、徐々に膨らんでいく。蛇のような目が生まれ、牛のような口が生まれ、猫のような耳が生まれ、子猿のような胴をかたどり、長い舌を伸ばす白鬼へと変貌した。
「透式」
 真人がすかさず三列三段の算木を組み替えるような印を切った。
 白鬼の胸に黒い数字『二九九』が浮かび上がる。
「一三かける二三」
 三田次がとっさに口走った。
「みかど、算式を書け」
 ただならぬ気配を漂わせた真人に気押され、聖武は紙に『一三かける二三』と墨書する。真人はその紙に印を切り、白鬼に貼り付けた。すると今までぶよぶよしていた白鬼の身体が陶器のように固くなり、そこらじゅうにひびが入ったかと思うと、一気に砕け散った。
 白鬼の破片が蒸発するように消え去っていく。
「これは……」
 聖武が怪訝な顔を真人に向けた。
「式神で間違いない。おそらく広嗣がよこしたのだろう。宮子さまを呪い殺したかったのかもしれん」
「なにゆえだ。あいつは今、戦のさなかではないか」
「だからこそ、果たしたいものがあったと見るべきだろう」
 真人がいつになく眉間にしわを寄せる。「式とは陰陽師では使鬼。だが、式の根源はもっと深い。今俺たちが使っている式にはいろいろな意味がある。ひとつは律令制度における作法や規則。二つ目が式神の使鬼。三つ目が算術の式。それぞれ全く違う使われ方をしているのに、同じ文字をあてる理由がわかるか」そう言ってふたりの顔を見て、言葉を続ける。「式の根源的な意味は自動律。朝廷では規則や作法となる式を定めることで、それに則り官人たちが自動的に働くようになる。陰陽道では荒魂に式を与えることで陰陽師の命令に従って動く鬼となる。算術でもそうだ。法則性を持った自動律があるからこそ数が解体されたり掛け合わされたりする。そしてそこに式があるかぎり、陰陽師は式神に算式を読み取ることができる。まあ、滅多にすることはないのだが」
「なぜ広嗣が式神を使える?」
「あいつは藤原式家。藤原氏には四家あることはみかども知っているだろう。南家、北家、京家、式家。みかどは式家の由来を知っているか」
「広嗣の父、宇合が式部卿を務めたからだ。その栄誉を受けて式家と名乗った」
「間違っちゃいないが、それでは片手落ちだ。陰陽頭と式家だけの秘密だから知らなくて当たり前だが。実はその昔、ひとりの学生がくしょうが宇合にそそのかされて、教科書を書き写して売っちまったんだ。陰陽師の教科書は門外不出。持ち出したものは即刻破門になる。その学生は俺が呪い殺したが、教科書を得た宇合は式神を使う術を覚えた。なにゆえそんなことがしたかったのか。おそらく権力を政治の駆け引き以外でも手繰り寄せたかったのだろう。そして宇合は息子の広嗣にも術を教えた。式家とは陰陽師にとっては式神使いの厄介者なんだ。だからみかどには悪いが、宇合が天然痘で死に、広嗣がこうして討ち取られようとしている今の状況に、俺はほっとしていた」
 真人が一息で言い終えると、急に外で女の驚声がした。女官が青ざめた顔で居室に入ってきて、隅に控えていた別の女官に耳打ちする。その女官が慌てて聖武に駆け寄ってきた。
「鬼の大群が都を跋扈しているとの報せ」

すぐに内裏に戻った聖武は、都の状況を聴取するとともに対策を協議することにした。正殿の中央には聖武が、畳のわきに光明子と三田次、真人が座っている。その四人と対面するように諸兄、真備、玄昉がいる。
「数百の牛頭鬼ごずき馬頭鬼めずきが暴れまわっております。おそらく広嗣の怨霊の仕業かと」
 配下の陰陽師を街に走らせた真備が報告をあげる。
「怨霊? というと広嗣はすでに死んでいるということか」
「その伝令はまだ届いていませんが、牛頭鬼と馬頭鬼は地獄の鬼。それをこの世に呼び起こすことができるということは、すでに広嗣があちらの世にいると考えるのが妥当」
 その口ぶりからすると現在陰陽頭を務める真備も式家の秘密は知っているようだ。
「牛頭鬼、馬頭鬼どもは庶人たちに金棒をふるい、痛めつけています。広嗣はこの平城京を奈落の底に変えようとしているのかもしれません」
 真備は唇を噛み、言いにくそうに言葉を紡ぐ。「牛頭鬼、馬頭鬼は陰陽師が一頭ずつ退治するしかありません。ですが怨霊が鎮まぬかぎりいくらでも湧いてきましょう。長期戦は必死。この宮にもいつ攻めてくるかわかりません。ですので、ここはみかどの身に危険が及ばぬよう、いったん周辺国にある宮に避難なさってはいかがかと」
 その提案に聖武は唸った。言いたいことはわかる。だが天皇が簡単に都を逃げ出すわけにはいかない。そんな聖武の胸のうちを見透かすように真備はひとつの提案をする。
「みかどが都から逃げたとなれば、ご威光は地に落ちましょう。ここは行幸へ出かけるという体裁をとり、出立なさるのがよろしいかと」
「名案だ、真備よ。だがその前に、伊勢大神宮に奉幣に行こう。わたしが大御神に祈りを捧げることで広嗣の霊が鎮まるかもしれん」
 その言葉に真備のこめかみが動いた。だがその場にいるものでそれに気づくものはいなかった、たったひとり真人を除いて。
 真人は頭巾を外し、頭をぼりぼり掻きながら、きな臭いと思った。だが言葉にはしない。言葉にできるだけの根拠がないのだ。真人は頭巾を被り直し、
「みかど、俺も三田次もお供していいんだろうな」と鋭い目を聖武に走らせた。
「もちろんだ。諸兄よ、一夜で準備はできるか」
「やってみせましょう。まずは大神輿。そして兵を揃えます。それに一日二日分の予算、食料、薬、その他もろもろ準備いたします。その後は、出立なされたみかどを追いかけ、持参する手筈を整えます」
「諸兄よ、お前はわたしに同行し、行幸を導け。明日以降の準備は配下のものに引き継ぐがよい。そして真備よ、お前は鬼どもを退治するとともに二官八省をまとめ上げ、都を守り抜け。玄昉、お前は鎮護国家の経を唱えよ。また鬼どもの被害を受けるものがあれば治療をし、命を落とすものがあれば御仏のもとへ還せ、よいな」
「はっ」
 三人の声が揃い、
「明朝、旅立とう」
 聖武が決然と言い放った。

十月二十九日。風のない、よく晴れた朝。四百の騎馬兵に囲まれ、朱雀大路をくだっていく二台の大神輿があった。一台は屋形の頂上に鳳凰の飾りをつけ、もう一台は宝珠をつけている。聖武と光明子の神輿である。まだ眠ったままの宮子や高野姫、それに半数ほどの皇族もふたりの後ろで輿に揺られている。さらにその後方で三田次や真人や諸兄、それに諸兄が選抜したおよそ六百の官人が馬の手綱を握っている。総勢一千人の行列である。
 昨夜、鬼どもの襲来を皇族、貴族のものたちに伝えたが、ついてくるもの、こないものが分かれた。腹の底で聖武をよく思っていないもの、また危機に鈍感なもの。そうしたものたちはあからさまに不平を並べ立て、都を出ることを拒んだ。
 朱雀大路には聖武を拝する庶人の姿があってもよいはずだが、ない。人が集まることで天然痘にかかることを恐れていることもあろうが、それ以上に街をうろつく牛頭鬼、馬頭鬼を恐れているからに違いない。
 聖武は、真備配下の陰陽師十数人が行列を等間隔に囲み、朱雀大路の陰で目を血走らせた牛頭鬼、馬頭鬼を牽制している姿を頼もしく思った。昨夜初めて白鬼の式神を見たが、今思えばあれはかわいいものであった。大神輿から見る牛頭鬼はその名の通り牛の頭を持ち、体躯は隆々と人の二倍もあり、紫煙墨の皮膚をしていた。馬頭鬼は馬の頭を持ち、同じ体躯に青煙墨の色をしている。恐ろしい姿をした鬼どもが辻のあちこちでよだれを垂らし、金棒を握り締めている。
 広嗣よ、なにゆえ鬼どもを都に送りつけた。聖武は遠くすれ違う馬頭鬼を睨みつけると、その獣か鬼かの貪婪な臭いが鼻を突くようであった。

朱雀大路から羅生門を出た行列は東の山を越えて伊勢国に入り、十一月二日、山裾をうねる雲出川沿いの小さな谷あいの土地に出た。見渡すかぎり山に囲まれた一角に河口頓宮とんぐうがある。ここは伊勢大神宮への行幸の際に宿として使う仮の宮で、聖武はその檜の清浄な匂いが気に入っていた。
 翌日の夜、馬に乗った伝令が青ざめた顔でやってきた。なんと肥前から駆けに駆け、二日でここまで来たという。
 伝令曰く、十一月一日、広嗣が肥前の五島列島のひとつで捉えられ、斬首が執行されたというのである。
「では、わたしたちがまだ都にいた頃には、広嗣は死んでいなかったのか」
 聖武が唖然とこぼすと、真人が舌打ちをした。
「真備に一杯食わされたな。あれが広嗣の仕業でないのだとすると、大神宮に鎮魂に行く意味もない。真備が周到に準備して、聖武、お前を都から追い出したんだ。全てがうまくいきすぎていると思っていた。だが俺も式家との因縁があった。内裏のあの場で、どこか怪しいと思いながらも真備のたくらみを読みきれなかった」
 噛み切ってしまいそうなほど唇に歯を立てる聖武が言う。
「真備に地獄の鬼を呼び起こすことができるのか」
「やつならやれる。あいつはかつて唐朝から帰国を禁じられたときに、陰陽の術を使って太陽と月を消し去り、七日七晩唐の国を暗闇に陥れた男。玄宗皇帝は恐れおののき、太陽と月を元通りにするかわりに帰国を許可したという。つまりは、桁外れの陰陽師」
「なんと」
「俺は朱雀大路をくだるときも、おかしいと思ったんだ。陰陽師が守っている以上、鬼どもは行列を襲うことはできない。だがそれ以前に街が壊されている様子や、庶人が痛めつけられている様子もなかった」
 真人が椀の酒をひと飲みすると、聖武は拳を床に激しく打ちつけた。
 そこで思わぬことが起きる。聖武が床を殴った振動が壁に伝わり、神棚に飾っていたしめ縄の紙垂しでがはらりと揺れた。紙垂がしめ縄から外れ、聖武の後ろで眠っていた宮子の顔を祓うように舞い落ち、宮子がふいに目を覚ました。
 小さく呻く宮子に、聖武が振り返った。
「目覚められましたか」
 開いたばかりの宮子の目は中空をさまよっている。
「ご加減はいかがですか。ここに鬼臼ききゅうの汁があります」
 聖武は眠っていた宮子の舌を湿らせていた薬を差し出した。
 宮子は椀に口をつけると、ようやく焦点のあった目で聖武を見て、
「伝えなければいけないことがあります」と細い唇を動かした。「あの夜、小さな白い魂が連子窓の格子をすり抜け、口の中に飛び込んできたのです。わたしはすぐに身体が痙攣し、意識を失いました。ですがその白い魂が語りかける言葉を、返事もできぬ意識の中で聞いていました」
「誰が、なにを、言っていました」
「あれは広嗣の声でした」
「やはり、広嗣め。母上を呪い殺すほどわたしを憎んでいるとは」
 聖武は唇を噛んだ。だがそんな聖武を宮子が諭す。
「誤解です、聖武。広嗣はあなたを恨んでなどいません」
「ならばなんと申しておりました」
「吉備真備が政権を奪おうとしていると。やつは黄文王きぶみおうを新たなみかどに立てるつもりだと言っていました。その狙いに気づいた自分を太宰府に飛ばしたのだと。それと五年前に突如始まった天然痘も、真備の遣唐使船が着港した太宰府から広まったことがわかったと。本当ならわたしの身体を通して、聖武、あなたに直接進言しようとしていたのです。ですがわたしの身体はまだ弱く、式神を身体に取り込んで耐えられるだけの力がありませんでした。和歌の仕掛けも、式神が広嗣の遣いであることがあなたにだけわかるように施したもの」
 母の言葉を聞いて、聖武は瞼を震わせた。自分が広嗣を疑ったこと。真備の謀略にまんまとはまり、都を明け渡してしまったこと。それに黄文王。やつは第三十八代天智天皇の血を継ぐもの。だが天智亡き後はその弟であり第四十代天皇である天武の直系が優勢に立った。聖武は天武の血をひく四十五代である。真備は天智系の黄文王を担いだのだ。
「天智系でも天武系でもどちらでもよい。そこに男も女も関係ない。そうした世がくればいいとわたし思っている」
 事実、政変続きの世で天智系、天武系にかかわらず女性天皇が大きな役割を果たしてきたのを聖武は子どもながらに見てきた。だからこそ聖武は高野姫を皇太子に据え、天皇として立つための土壌を作ったのだ。
「だが真備が黄文王をみかどに立てるにはわたしが退位しなければいけない。そんなことは断じてしない」
 聖武は不穏な胸の裡を握り潰すように誓った。

その夜、外を守る兵の叫ぶ声がして、聖武は跳ねるように立ち上がった。
 外へと駆け出て、南の夜空を見上げると数十頭の鬼が飛んでくるのが見えた。
「牛頭鬼、馬頭鬼か。だがあいつらが乗っているのはなんだ」
龍馬りゅうばだ。姿は馬だが、空を翔ける地獄の馬だよ」
 真人の返事を聞いた聖武は、「弓を持て」と兵に告げた。
 兵たちが夜空に向かって一斉に弓を構える。
 牛頭鬼、馬頭鬼が射程距離に入ると、
「射て!」
 聖武が号令をかけた。
 だが牛頭鬼、馬頭鬼の群れはいともたやすく腕で矢を弾き、川向こうの草地に降り立った。
「みかど、こいつらは武器では勝てない」
 真人が聖武の隣に立つ。
「どうすればよい」
「式を使うんだ。あの日の白鬼と同じだよ」
 真人は酒の入った壺をあおり、地面に置いた。そして「透式」と唱え、印を切り、牛頭鬼、馬頭鬼の一頭一頭に指を差すと、その胸に黒い数字が浮かび上がった。
「左から三〇八、三一〇、三一四、三一五、三二二、三二七、三三四……」
「わたしが割り算いたしましょう」
 後ろに控えていた三田次がそらで素因数分解する。
「三〇八は、二かける二かける七かける一一。三一〇は、二かける五かける三一。三一四は二かける、おお、一五七。なんと大きな素数だ。そして三一五は……」
「三田次よ、口で言っても始まりません。わたしが書き写しましょう」
 後ろから土を擦る音が聞こえて、三田次が振り返ると光明子がいた。
 幼い頃から写経の得意だった光明子は当代随一の能書家として名を馳せるようになっていた。
 真人が顎をさすり、ひとつの提案をした。
「三田次と皇后は室内で算術と書を。皇后が書き上げ次第、俺が印を切り、陰陽式を与える。そして兵たちは矢に書をくくりつけ、弓で射る。この流れでどうだ」
「冴えているではないか」
 聖武は諸兄に官人や皇族たちを宮の中に避難させ、自身は向こう岸で群れる鬼どもの爛々と光る目を眺めわたした。
 秋というには深く、冬というにはまだ浅い季節に、足の先が凍えるような冷たい風が吹く。鬼どもの黴びたような、それでも肉々しい匂いがうっすらと流れてくる。川でちゃぷんと魚が跳ねる音がしたとき、鬼どもが龍馬の手綱をひきあげ、跳躍した。
 鬼どもがこちら岸に降り立とうとする。
「射て!」
 聖武が命令すると、七十、八十ほどの兵が一斉に対象の牛頭鬼、馬頭鬼に矢を放った。すると先ほどとはうって変わって鬼どもの腕や胸に矢が突き刺さる。鬼どもはのけぞらせた身体を陶器みたいに硬化させ、途端に砕け散った。兵たちは続けて狙いを外した鬼どもにも、事前に用意していた二枚目、三枚目をくくりつけた矢を放つ。矢は確かに鬼どもの胸に突き刺さり、またもや砕け散る。粉々になった鬼の破片が蒸発するように消えていく。
 でかした、と聖武が思った矢先、背筋が凍った。龍馬に跨る無数の牛頭鬼、馬頭鬼が漆黒の山の上の星空を埋め尽くしている。
「こりゃあ、まずい」
 真人が酒壺に口をつけ、眉の端を指で掻いた。
「戦うしかないだろう、ばかもの」
 聖武は眉を吊り上げ、真人の酒壺を蹴り落とした。

明け方まで続いた戦いは次第に牛頭鬼、馬頭鬼どもの数に圧倒された。何百と矢を放ったが、鬼どもは空の向こうから無尽蔵に湧いて出た。兵に三十名ほどの負傷者を出した聖武陣営は、それでもなんとか押し返そうとしたが劣勢は変わらない。聖武は諸兄の進言を渋々受け入れて、退避することを決めた。
 皇族、貴族、官人の六百人は、弓矢で鬼どもを牽制する兵たちに守られて河口頓宮を出立し、北の森へと分け入った。命からがらと言っても過言ではなかった。朝の清浄な匂いがふくらむ森の中で聖武は、真備の狙いは自分を降伏させることにあるはずと頭を巡らせた。政変続きの朝廷とはいえ、天皇を殺すことは簡単に踏み切れるものではない。河口頓宮のようにこれからも自分の滞在する頓宮を攻撃し、追い込み、疲弊させることで、屈服させようとしている。多くの鬼が頓宮を占拠するにとどまり、追いかけてくる鬼が尾行にとどまっているのがその証拠。だがその思いもいつ変わるかしれない。明日にでも殺しにかかるかもしれない。聖武は歯噛みし、行幸という名の敗走を始めた。
 行列は流転する。伊勢湾にほど近い頓宮をふたつ経由してから北上し、美濃国、近江国へと入る。琵琶湖東岸の横川頓宮に着くと湖沿いに犬上頓宮、野洲頓宮と南へくだった。その全ての頓宮で聖武たちは鬼どもを迎え討ったが、最後は鬼どもに気圧された。
 十二月十五日。一行は一ヶ月半にもおよぶ旅を経て、山背やましろ国の恭仁宮へとたどり着いた。行幸と呼ぶには皇族、貴族の衣服は汚れきり、兵たちは山の木を切り倒し、足りなくなった矢を作る術すら覚えた。官人たちは村々から野菜や鹿や猪の肉を買いあさり、それでも食料が足らず、網を買い、湖に投じて魚を獲ったほどである。恭仁宮は規模こそたいしたことはないが、聖武自身、過去に何度も行幸に来たことのある平城京の副都である。これまでの頓宮とは格の異なる甕原みかのはら離宮があり、居室、食料、日常を取り巻くあらゆる調度品の質と量が担保されていた。だが事態は一刻を争う。聖武たちは旅の疲れを癒す間もなく、宮の御在所で激しい議論を交わした。
「恭仁宮は平城京から数里しか離れていません。平城京を奪還するにはうってつけ。またここは北、東、西を山に囲まれ、南に木津川が流れる狭隘の地。防御にも最適です。今も式文をくくりつけた弓矢で兵たちが狙い撃ちしています。ですが後続の鬼どもが次々やってきておりますゆえ、このままではこの恭仁宮も陥落しましょう」
 諸兄が戦況を苦しく概観する。
「割り算では埒があかん」
 聖武が頬に爪を立てた。
「みかど、わたしが計算速度を早めます」
 三田次が元官人らしく、生真面目に顔をこわばらせる。
「いくら速度を早めたとしても、鬼の数には敵わん」
「ですがそれしかありません。割ってみせます。わたしが割り算能力を高めることでみかどが救われるのなら……」
 痛々しいほど責任を背負った三田次が頬を震わせる。
 そんな三田次の言葉を聞いて、苦悩が渦巻く聖武の頭の中に一枚の木の葉が落ちる。
「割る、割る、割る……?」
 聖武が蜂に刺されたかのように鮮やかに目を開く。
「そうだ、素数があるではないか」
 聖武は女官を呼びつけ文の道具を持って来させ、四〇一から順番ずつに素因数分解し始めた。
「みかど、なにを」
「素数を見つけ出すのだ。三田次、お前もやれ。四〇一から順番ずつに素数を見つけるのだ。ふたりの解が一致すればそれが素数と証明できる」
「なんのために」
「つべこべ言うな」
 わけもわからぬまま目の前に文机を運ばれた三田次は筆を取り、四〇一から順番ずつに素因数分解していく。四〇一、四〇九、四一九、四二一、四三一、四三三……
「四百桁の最大素数は四九九」
 聖武が顔を上げると、遅れて三田次も「同じく」と頷いた。
「鬼どもの胸に現れる数は今のところ四百桁が最高。ならばこの四九九を式神にすればいい」
 そう言い切った聖武に、真人が酒に濡れた舌を動かす。
「式神とは荒魂に陰陽の術を施すことでできあがるもの。数そのものを使鬼化することなどできない」
「魂ならわたしにあろう。わたしが式神となればよいのだ」
「なにをばかな」
「こらっ! ばかとはなんだ。言っていいことと悪いことがあるぞ」
 三田次が尻を叩かれた猪のように怒った。
「だが三田次。みかどはとんでもないこと言ってるんだぞ? 誰もやったことのない陰陽の術をやろうとしているんだ」
「勝つにはそれしかなかろう」
 聖武が平然と言う。
「いいんだな? なにがどうなるかなんて誰にもわからないんだぞ?」
「よい。仏に帰依するわたしが数の真言である素数とひとつになる。それだけのことだ」
 聖武は言って、「光明子よ。写経するような心根で素数を書いてはもらえぬか」と目に慈しみの笑みを浮かべた。
 光明子は三田次をどかして文机の前に座り「四百九十九」と流麗に筆を走らせた。
「光明子、四百九十九ではなく、四九九と書いてくれるか。数の連なりが美しいのだ」
 そう言って聖武は上半身をはだけた。
 光明子があらためて書き直した紙を真人が聖武の胸に貼り付けた。そして筆を持ち、まるで農民が田に苗を植えるような自然な仕草で呪文書きこみ、唱えた——それは暦、天文、陰と陽、五行の理を骨とし、仏の真言を肉とし、九九を経絡とする——だがそれで命が胎動するわけではない。真人は最後の句「急急如律令きゅうきゅうにょにつりょう」を書き込み、唱え、臍の緒を切るように印を切る。それこそが自動律の付与。陰陽師が陰陽師たる所以である。
 真人が頭巾を外し、熱を冷ますように頭を手でぱたぱたと振ると、直立する聖武の身体が小刻みに震え出した。この先どんなことが起きるのか、真人にもわからない。聖武の身体が裂けてしまったらどうしよう、気がたがってしまったらどうしよう。心配になって、足もとに置いていた酒壺を掴みあげ、ひと飲みした。
 聖武が絞り出すような呻きをあげ、腹が桃を宿すようにぼこんと膨らんだ。なにかが聖武の胃の腑から上がっていく。胸までそれが上って来ると、聖武はひときわ大きな呻き声をあげ、鎖骨に両手の爪を立てる。桃のようななにかが胸から喉へと逆行してくる。聖武が顎が外れそうなほど口を開いた。涎が口の端から垂れる。どろどろの塊が床にぼとりと落ちた。
「これは……」
 光明子が言いかけて言葉を失う。
 赤ん坊のように身体を丸めたそれは朱色の肌を持ち、顔に岩のような瞼と鷲のような目、それに太く隆起した鼻がある。長い真紅の髪を頭頂で束ね、赤青黄の草花の紋様が施された金色の鎧をまとい、胸に金剛杵を抱き寄せている。
「……執金剛神」
 唾を呑んだ光明子がようやく口にした。
 聖武は床に両膝をつき、顎をあげて空気を貪り食っている。
 ぬるぬるの執金剛神はゆっくりと立ち上がり、目に焦点を宿す。だがなぜか急に力を失ったように床に両膝をついた。
「死ぬかと思った……」
 聖武がつぶやくと同時に執金剛神の口も動き、聖武の声で同じ言葉を吐いた。
「これは」
 三田次が唖然とつぶやくと、
「みかどと同期している」
 真人がきついまばたきをして言った。
 光明子が目をみはる。
「執金剛神が大きくなっていく」
 執金剛神がぐんぐん背丈を伸ばし、膝立ちする聖武と同じくらいの大きさにまでなった。
 聖武が息を整えながら立ち上がり、執金剛神の肩に手をかけた。
 同じく立ち上がった執金剛神が聖武とまったく同じ仕草で聖武の肩に手をかける。
 聖武と執金剛神が見つめ合っている。
 途方を見るような目をして立ち尽くす皆に、
「なにをしている。身体を拭くのだ」 聖武と執金剛神が同じとき、同じ顔で言った。
 執金剛神の身体も濡れているが、聖武も汗ばんでいた。

暗闇に松明を焚いた川岸で、四百の兵が百頭近い牛頭鬼、馬頭鬼とぶつかり合っている。剣では傷ひとつつけることはできないが、至近戦になっては矢を放つ準備をしているうちに金棒で殴り倒されてしまう。二、三人の兵が剣で立ち向かい、鬼の動きを制している間に別の兵が式文をくくりつけた矢を放つ。そうした攻撃の型を作り上げて兵たちは戦っているが、それでもすでに二十人近い兵が倒れていた。
 諸兄に宮の管理を任せ、御在所を出た聖武は執金剛神と並んで裏手の敷地へと向かった。後ろに三田次や真人、光明子が続いている。
 聖武は高揚していた。まるで自分の身体のように執金剛神が動く。右腕を振り回せば、執金剛神はその太い右腕を振り回す。首を曲げれば、執金剛神も首を曲げる。歯を剥けば、執金剛神も大きな歯を剥く。また頭で念ずるだけで多少は操作できることもわかった。
 聖武は数歩前に執金剛神を歩かせた。この肉体、この鎧があれば戦える。鎧は胴だけでなく腰回りまで覆い、膝下から足首を守るように金色の防具も纏っている。金剛杵はいつでも使えるようにその背に斜め掛けにくくりつけていた。

敷地の端に立った聖武が大声を張り上げた。
「皆のもの、待たせた」
 半分ほどの兵たちが聖武を振り返り、残りの半分ほどがその前に立つ執金剛神を見た。皆、あからさまに戸惑った目をしたが、目の前の敵から気を逸らすわけにはいかない。
 ひとつの松明の前で三人の兵が一頭の牛頭鬼と戦っている。ひとりが剣で金棒を受け、ひとりが後ろから斬りかかり、もうひとりが矢を放とうとしている。だが牛頭鬼はふたりを腕で薙ぎ払い、吹き飛ばす。聖武はこめかみにぐっと力を込めて、右腕をぐっと伸ばして執金剛神を走らせた。
 執金剛神は走る勢いそのままに、力を込めた太い腕を牛頭鬼の喉もとにぶつけた。牛頭鬼がその場で回転するように後頭部を地面に打ちつけた。すかさず執金剛神は牛頭鬼の胴にまたがって、そのつらを右の拳で一発殴った。
 たった一発。それだけで牛頭鬼はひびが入る間もなく粉々に砕けた。だが勝利の余韻に浸っているわけにはいかない。執金剛神と同期した聖武は敷地の端で両膝の土を払うと、倒れ込んだ兵に近寄る馬頭鬼の前に執金剛神を走らせ、その腹に掌底をくらわせた。続けて苦しそうに半身を折る馬頭鬼のたてがみを掴み、顔面に膝蹴りを入れた。
 馬頭鬼の頭が粉々に飛び散る。だがこんなもので満足するわけにはいかない。この一ヶ月半どれほど奥歯を噛んで暮らしてきたことか。聖武は膝蹴りした姿勢を直し、敵を探す。近くのやつから打ち砕いてやる。そう思った矢先、一頭の牛頭鬼が両腕を振り上げて執金剛神に襲いかかってきた。だがその胴はガラ空きだ。聖武は敷地の隅で身をかがめ、膝の反動を使って下から拳を振り上げる。執金剛神の拳が牛頭鬼の鳩尾みぞおちにめり込み、背中を突き抜けた。執金剛神は拳を抜いて、金色の防具を纏った脛で牛頭鬼の膝下を刈るように蹴る。こんなにも脆いのか。聖武は左足首が砕けた牛頭鬼の身体を押し倒し、足裏で踏みつけて顔面を粉砕した。
 だがこいつが蒸発するのを待っている暇などあろうはずがない。聖武は松明に顔を赤く染め上げられながら、その場で跳躍した。すると執金剛神は聖武よりも大きく跳び、四頭の鬼が十人ほどの兵に金棒を振るっている戦いに降り立った。いける。自分の手足をそのまま執金剛神の手足にすることもできれば、頭で念じることで自分の動き以上の走りや跳躍もできる。
 聖武は目の前の牛頭鬼の股間を蹴り壊し、左から襲ってきた馬頭鬼にしゃがみ込み、足首を掴むと両手で握りつぶした。そして立ち上がったところで後ろから振り下ろされた金棒を半身でかわし、その回転の勢いで牛頭鬼の脇腹に肘を入れた。弱い。なんと弱いのだ。聖武は奮い立った。周囲で戦う兵たちも執金剛神の破竹の快進撃に二度見、三度見しては、青ざめたその顔に生気を取り戻している。聖武は走って跳んで、右拳で殴り、左拳で殴り、膝で蹴り上げ、踵で踏みつけ、ときに頭をぶつけては鬼どもの額を割った。そのうち雄叫びをあげた鬼どもが束になって執金剛神に向かってくるようになった。だが聖武はニヤリと笑う。願ったり叶ったりだ。これで兵たちがもう傷を負うことはない。八十ほどの鬼どもが執金剛神を取り囲む。じりじりとその距離を詰めてくる。聖武は敷地の端で背中に手を伸ばし、そこにあるはずのもの掴む。執金剛神は握った金剛杵を一回転させ、大きく一度ブンっと空気を鳴らした。太い棒状の金剛杵はその両端に刺突用の刃が付いている。右手でその中央を握った執金剛神は目を怒張させ、腹から声を出した。
「かかってこい!」
 執金剛神を囲む円が縮まってくる。あと一歩、二歩で金棒が届きそうになったとき、鬼どもが一斉に飛びかかってきた。だが執金剛神はその瞬前に跳んでいた。まるで青鷺あおさぎのように一頭の牛頭鬼の頭の上に降り立つと間髪いれず金剛杵を、その頭が牛だか馬だかもうどうでもよいほど徹底的に突きまくった。頭に乗られた牛頭鬼が執金剛神の足を掴もうとしたら、別の鬼の頭の上に飛び移り、足もとに群がる鬼どもの頭を力のかぎりに突き刺した。砕け散る頭という頭、倒れ込む身体という身体。執金剛神が地面に降り立ったとき、取り囲むのは粉々に砕けた鬼どもが立てる白い蒸気だけだった。
 だが蒸気が消えるより早く、山から底冷えする風が吹きわたる。執金剛神の前に二頭の牛頭鬼、一頭の馬頭鬼があらわになった。聖武は鬼どもの眼前に執金剛神を向かわせた。そして金剛杵の切先を一頭に向ける。
「帰って真備に伝えろ。もはやわたしに手出しはできぬ。平城京も奪い返そう」
 三頭の鬼はそれぞれ牛と馬の顔に狂気と憎しみを宿しながらも後退りし、川岸にとめていた龍馬に跨ると南の空へと飛んでいった。

次第に小さくなる影の雄叫びがかすかに山にこだましている。
 聖武が後ろを振り返ると、光明子が負傷した兵の運搬を官人たちに指揮していた。三田次も真人もなんとか立って歩ける兵に肩を貸している。わたしも手を貸そう。聖武はそう思い、胸の呪符を剥がすと、執金剛神が蝋燭を吹き消すように掻き消えた。


 
「今夜も鬼は必ず来る。急げ。全ては演算能力にかかっている」
 聖武と三田次は新たな素数を発見するため、文机にかじりついている。
 昨夜鬼どもを蹴散らしたあとに開いた対策会議で出てきた答えは、一つでも大きな素数を発見しようということだった。四九九の素数が勝利の決定的要因になったことは真備にも伝わっているだろう。ならばやつは四九九よりも大きな数で、ともすれば素数の存在にも気づき、鬼をよこすだろうと踏んでいた。聖武は真備の能力を過小評価していない。自分たちにできることは真備なら難なくできる。そんな想定のもと対策を練ったのだ。つまりひとつでも大きな素数を見つけ出すことが勝利につながる。
 そこで聖武は三田次にある提案をした。一万なら一万と決めて、一万桁最初の素数を見つけてはどうかと。五〇一からしらみ潰しに素数を見つけるよりも、いったん基準を決めてその上の素数を見つけるほうが効率的なのではないかと。だがそれはひとつの賭けでもあった。その数が素数であるかどうかを証明するには、そのおよそ半分の数までひとつずつ割っていかなければいけない。膨大な時間がかかるのだ。今夜も鬼がやってくるとして、真備がどれほど大きな数の鬼を送りつけてくるかわからない。だが一万桁最初の素数であれば、なんとか夜までに叩き出せるのではないか。だがそれが一〇〇〇三や一〇〇〇七ならありがたいが、もし一〇三七七などはるか遠くだったらどうしよう。五〇一からコツコツと最大素数を積み上げていった方が堅実なのではないか。聖武はそんな逡巡を振り払うため、烈火のごとく演算にあたった。
 下一桁が〇、二、四、六、八の数は必ず二で割れるからあらかじめ除外する。聖武は一〇〇〇一に向かうがさっそく時間がかかり、ようやく割れたのは七三だった。一〇〇〇三は七で割れた。一〇〇〇五は三で割れた。一〇〇〇七は……割れない、どこまでいっても割れない。墨の匂いに包まれた静かな時間だけが過ぎていく。老齢の三田次が文机から顔を離し、何度も目をすぼめては筆を走らせる。
 五〇〇五まできても一〇〇〇七は割れないことが判明し、聖武は手を止めた。これは素数かもしれない。
「一〇〇〇七」
 聖武は三田次に話しかけると、
「みかど、お見事。一〇〇〇七は一万桁最初の素数で間違いありません」
 三田次もちょうど一〇〇〇七が割り切れないとわかったところだった。
「まだ時間があるな」
「はい」
「二万桁にいこう」
「は?」
 三田次は手首を振りながら目をしばたかせた。

日が暮れ、空で星が騒ぎ始める頃、平城京から若草山よりも大きな巨人が地響きを立てて歩いてくるのを、聖武と真人は息を呑んで見ていた。他のものたちは皆、宮に避難させている。
「閻魔だぜ」
 酒で顔を赤らめた真人が感嘆する。「牛頭鬼や馬頭鬼じゃ埒があかないと思ったんだろう」
 真人が閻魔と呼んだ巨人は、熊のように胸板が厚く、四肢もまた太い。見たことのない角張った冠を被り、真っ赤な顔に燃え立つような眉と殺気に満ちた目を張り付けている。着ているものはこの国の朝服とよく似ているが少しだけ違う。遣唐使と一緒にやってきた唐のものたちが着ていた道服だ。
「閻魔とはなにものだ」
「地獄の裁判官、最高権力者だよ。地獄にはまず八大地獄があり、さらにそれぞれに十六の小地獄があり、また血汚池、覧死城など合計百三十八の地獄があると言われていて、それぞれに閻魔がいる。だが地獄の全容はこの国にはまだ伝わっていない。真備は唐で学んだのだろう。底知れない男よ」
「唐の国は先進的だな。地獄にも官人がいるとは」
 聖武は痩せ我慢するように迫り来る閻魔を見上げた。
 閻魔が木津川の向こう岸の平野に立った。聖武は胸に、演算が間に合った二万桁最初の素数、二〇〇一一の呪符を貼り付け、真人に印を切ってもらい、執金剛神を吐き出した。前回同様、口から吐くのは苦しい作業だが、胸の道が拡張したのか一度目よりも多少は楽に吐けた。執金剛神はみるみるうちに大きくなり、聖武の三十倍ほどの大きさにまでなり、向こう岸へと大股で歩いて行った。
 向かい合う執金剛神と閻魔は同じほどの背丈をしている。
「透式」
 真人が印を切り閻魔を指差すと、その胸に一九四四一と黒く浮かび上がった。
「真備のことだ。あれもおそらくは素数なのだろう」
 だが聖武は勝てると思った。僅差でこちらのほうが大きい。

執金剛神と閻魔が睨み合いを続けている。その視線の糸を断ち切るように一羽の鴉が二体の前を通り過ぎ、があっと鳴いた。と同時に閻魔が右腕を小さく振り、執金剛神の顎に拳を入れた。油断していたわけではなかったが、閻魔の振りが存外早かった。執金剛神は二、三歩よろけて足を踏ん張り、胸の前で拳を構える。左を数発牽制を入れるように打ち、右を真っ直ぐ打ち抜いた。両腕を顔の前に立てる閻魔の防御は硬いが、その分腹があいている。思わせぶりに閻魔の腕に何発か連打し、上半身に意識を集中させたところで、聖武は右の拳を腹に見舞った。見事にその拳は閻魔の腹に食い込んだ。閻魔は歯を剥き出して苦悶した。
 いける。これは短期戦になる。素数が大きくなった分、相手に与える衝撃も強い。だが最初にもらった拳の余韻が今ごろ聖武の足もとを揺らす。閻魔が首の付け根を蹴ってきた。執金剛神は前のめりに倒れ、踵で頭を踏みつけられた。川岸に倒れ込んだ聖武は後頭部を抱え込み、慌てることなく仰向けに反転する。さっと顔をずらし、落ちてくる足首を掴み、下から閻魔の胸を蹴った。閻魔が後ろにのけぞる間に執金剛神は立ち上がり、息をつく間もなく突進し、腰を掴んで押し倒した。その勢いで馬乗りになり、閻魔の顔を右から左から拳で殴りにかかる。閻魔の顔が粘土のようにぐしゃぐしゃに変形していく。執金剛神は両手を握り合わせ、顔面に叩き落とした。閻魔の顔が砕け散るのを見送った聖武は立ち上がり、執金剛神の背中を眺めている。
 勝った。これで平城京を取り戻せる。そう思った矢先、平城京の方角から太い光の柱が立ち、その中から先ほどより一回り大きな閻魔が現れた。閻魔が怒り狂った顔をして走ってくる。まずい。聖武はとっさに声を張り上げた。
「真人。三田次から新たな素数をもらってこい。準備しているはずだ」
「俺がその役目かよ」
 真人が血相を変えて御在所へと走っていく。
 閻魔は駆けてきた勢いで跳躍し、執金剛神の胸に両足を揃えて飛び蹴りした。執金剛神は両腕で蹴りを防いだものの弾かれるように吹き飛び、木津川の川底に後頭部を打ちつけた。川岸に倒れ込んだ聖武は痛む二の腕を振りながら立ち上がる。こいつは二〇〇一一より大きな素数をしているかもしれない。いやきっとそうだろう。それにひとつやふたつではなさそうだ。かくなるうえは、真人が戻って来るまで時間稼ぎをするしかない。
 立ち上がった聖武は閻魔が斧のように振るう右拳を首を引いてかわした。閻魔は大振りしたせいで右肩の裏までこちらに見えている。聖武はその瞬間を逃さず肩を蹴り落とした。閻魔が二、三歩つんのめりながら滑るように倒れた。そこに新しい紙を掲げた真人がやってきた。
「早く、貼り直せ」
 聖武が急いで胸の二〇〇一一の呪符を剥がすと、草原から執金剛の姿が掻き消えた。真人が二〇一〇一の呪符を聖武の胸に貼り、最速で呪文を書き込み、唱え、「急急如律令」と締める。聖武が悶えるように執金剛神を吐きだすと、執金剛神はぐんぐん大きくなり、立ち上がった閻魔と即座に対峙した。
「透式」
 真人があらわにした閻魔の式数は二〇〇四七。
「いける」
 執金剛神は拳を構え、新たな閻魔を睨みつける。閻魔が右の拳をまっすぐ打ってくるのを腰をかがめてかわす執金剛は、左腕で顔を防御しつつも、右腕をだらりと垂らし、振り子のように右へ左へ揺らし始めた。そして右へ振れたとき拳を放ち、左へ振れたときにも拳を放ち、そしてその間でも拳を走らせる。閻魔の顔を腫らしていく腕はまるでしなる鞭のようだ。閻魔がたまらず雄叫びを上げて襲いかかってきたとき、執金剛神は閻魔の足もとに滑り込み、右足首を刈った。倒れた閻魔のわきで執金剛神は高く跳躍し、そのまま全体重を乗せた膝を閻魔の腹に落とした。閻魔が腹から砕け散り、蒸気を上げる。だがホッとしてなどいられない。
「真人、次の素数を持って来い」
 真人が舌打ちするまもなく走っていく。
 平城京の方角で再び光の柱が立ち、閻魔が生まれた。
 だろうな、と聖武は苦笑いした。
 閻魔が走ってくる。
 息を切らせた真人が新しい二〇一一三の紙を持ってきた。
「貼れ」
 二〇一〇一の呪符を剥がした聖武が命じると、真人は二〇一一三を聖武の胸に貼り、再び呪文を書き込み唱えた。聖武が吐いた執金剛が草原にやってきた閻魔と対峙する。
 真人が透式すると二〇一一七。
「おいおい、まずいな。こっちよりでかいじゃないか」
「三田次に二〇一一七より大きい素数を準備させよ」
「わかったよ、まったく」
 真人が走って宮へと消えていく。
 その間、聖武はその腕で閻魔の打撃を受け続けた。こちらより大きな素数の拳はじんじん骨に響く。だがそれだけで勝負は決まるものではない、自分が強ければいいのだ。聖武は自らに言い聞かせ、左拳を連打して閻魔の前進を止める。そして自身は円を描くように移動し続けた。そうだ、つま先で踊るように、四十雀や白鶺鴒のように軽やかに身を動かす。それがなによりの防御。聖武は閻魔を中心に弧を描き続けた。そこに閻魔が道服の裾を跳ね上げ、執金剛の頭に蹴りを放つ。その重い蹴りを受け止める執金剛の腕ががミシッと軋んだ。だが骨にひびが入ったとしても負けるわけにはいかない。執金剛神は蹴り上げられた足を掴み、閻魔を押し倒した。そして馬乗りになるため覆い被さろうとしたが、閻魔に腹を蹴り上げられ、宙を一回転し、背中から地面に叩き落とされた。聖武が痛みに首を振っていると、今度は閻魔が馬乗りになり、執金剛神の顔を殴りつけてきた。執金剛神は下から腹を跳ね上げるが、閻魔は重く、跳ね飛ばすことができない。執金剛神は腕で顔を守りながらも殴打の嵐を食らう。聖武の瞼が赤く腫れてきた。
「みかど!」
 真人が駆け寄ってくる。
「早く、頼む!」
 聖武が口から血を滴らせて攻撃に耐えている。
 真人が聖武の胸の二〇一一三を剥がすと執金剛神は途端に消えて、馬乗りになった閻魔の拳が空振りした。
 真人が新たな素数、二〇一二三の呪符を聖武の胸に貼り、術をかけると、聖武が横になったままどろどろの塊を産む。執金剛神が大きくなりながら戦場へと駆け、立ち上がりかけていた閻魔の顔を鞠のように蹴り飛ばした。草原に頭を打ちつけて転がった閻魔は猛り狂い、拳を振り上げて殴りかかってくる。しかし忘我の拳などわけもない。聖武はその場でスッと身をかがめ、閻魔が射程に入るのを待つ。もうすぐ抱きつかれる、その距離に入ったとき、膝を折った聖武は下から拳を突き上げ、思いきり跳躍した。
 閻魔の顎を弾き飛ばす執金剛神の拳。
 拳の形で砕ける閻魔の顎。
 右腕をまっすぐ伸ばす執金剛神の姿が、空に跳ねていた。
 草原に降り立った執金剛神の足もとで大の字になった閻魔は顔面からひびが入り、粉々になった。
 そのとき執金剛神の頬に一条の光が差し、聖武は目を細めた。
 東の山に顔を向けると、生まれたばかりの朝日が稜線を輝かせている。
 聖武は血の混じった唾を吐き、胸の呪符を引き剥がした。
「おいおい、いいのか。まだ襲ってくるかもしれないぞ」
「朝になったら真備は襲ってこない。平城京で実権を握っていようとやつは官人。日中は仕事がある。お前とは違うのだ。真人、酒をくれ。高揚してしばらくは眠れん」
「飲めるのか? 口の中だって切れてるだろう」
「うるさい」
 聖武は真人から酒壺を奪い取り、喉を鳴らして酒を胃の腑に流し込んだ。

酒を飲んで目を閉じてみても頭は冴えたままだった。聖武はまどろみの中であることを思いつき、三田次に算術に長けた官人五十人を御在所へ集めさせた。
「昨夜は二万桁の素数を三田次が演算した。だがまだ足りない。真備は今夜、二万桁を遥かにしのぐ素数を見つけてくるだろう。やつは全ての学問において傑出した能力を持つ男。それに向こうには有能な官人が大勢控えている。わたしと三田次だけの力では太刀打ちできない。お前たちの力が必要だ」
 聖武は皆の顔を見渡し、言葉を続ける。「五人一組となり、三万桁から十二万桁まで、担当する桁の最初の素数を見つけ出せ。そしてそれができた組は新たな桁へと挑戦するのだ。つまり三万桁担当は十三万桁へ、四万桁担当は十四万桁へと挑戦する。そうして次々と新しい桁の素数を見つけるのだ」
 五十人の官人から動揺とも感嘆ともつかぬどよめきが起きる。
「静かにせい。素数はみかどの戦の根幹をなすもの。雌雄を決するのはわれらぞ!」
 目の下に大きなくまをつくった三田次が怒鳴りつけた。そして近くにいたものたちから順に尻を叩いてまわり、文机につかせ、喉から声を絞り出した。
「算術、はじめ!」

その日も空に星がまたたき始めると平城京の方角から光の柱が立ち、閻魔が闊歩してきた。真人が透式すると、その素数は三〇〇一一。執金剛神も三〇〇一一だ。同じ素数の二体がぶつかり合うとどうなるのか。聖武はたじろいだが、殴っては殴られ、投げ飛ばしては投げ飛ばされ、一刻にもわたる戦いを繰り広げたあげく、執金剛神が殴ろうと踏み出した足が偶然閻魔の足を踏んでしまい、逃げられなくなったところに右拳を顔に打ち込み、かろうじて聖武が勝利した。だが即座に平城京で閻魔三〇〇一三が生成され、胴を掴まれ後ろに投げ倒されて負けた。次に聖武は執金剛神四〇〇〇九を生み出し、金剛杵で閻魔三〇〇一三の額を突いて勝利した。だが平城京から脱兎のごとく走ってきた新たな閻魔四四九七一の蹴りに腕を弾かれ、そこに大振りの右拳を頬に食らい、倒れた。聖武はすぐさま執金剛神五〇〇二一を口から吐き、剣のように伸ばした手で閻魔四四九七一の脳天を叩き割る。だが間髪入れずに現れた閻魔六〇〇一三に執金剛神は脇腹を肘で突かれて負けた。しかしここが踏ん張りどころと執金剛神七〇〇〇一で立ち向かい、閻魔六〇〇一三を後ろからきつく締めあげて胴を真っ二つに割った。そのとき朝日が木津川の水面をゆらめき、戦いは収束した。だが当然次の夜も戦いが始まる。執金剛神八〇〇二一は閻魔九〇〇〇一の掌底を喉もとに食らい、あっけなく倒れた。それでも急いで呪符を貼り替え、初の十万桁の素数、一〇〇〇〇三の執金剛神の拳で閻魔の右頬を殴打した。
 そこで不思議なことが起きた。閻魔から人の呻き声が聞こえたのだ。
 川岸で眉をひそめた聖武はおかしいと思いながらも、うずくまった閻魔の頭を両手で抱えて膝蹴りを食らわせようとしたら、閻魔が歯を奥まで見せ、怯えたような声を上げた。
「その声、もしかして真備か。お前も同期しているのか?」
「ええ、わたしも同期して戦っております」
「どこで閻魔を操っている」
「若草山のてっぺんから」
「なんと」
 聖武は若草山を仰ぎ見た。平城京の東にあるこんもりとした丘が三つくっついたような山である。
「素数体の閻魔は強靭なため、これまであまり痛みを感じませんでしたが、みかどの素数が十万桁を超えたところ、その打撃が響いてきたようで」
「まだ戦うなら締め殺す」
 執金剛神が閻魔の首をぐっと掴む。
「やってください。わたしは何度でも立ち向いましょう」
 閻魔は皮肉めいた笑みを浮かべた。だがふなのように剥き出した目にどこか憂いの陰が差しているように聖武には思えた。
「なにゆえわたしを襲うのだ」
 執金剛神が首を掴む手に力を入れると、
「……この国のためです」
 閻魔が言うが早いか、執金剛神はその首を握りつぶした。
「ふざけるな。この国を乱しているのはお前ではないか」
 執金剛神は拳を固く握り、蒸気を立て始めた閻魔の頭を見下ろして言った。

次にやってきた十一万桁の閻魔一一〇〇〇〇九は最初から様子がおかしかった。涙を流しながら殴ってくるのだ。念のため十二万桁を飛ばして十三万桁の素数、一三〇〇〇二一を用意していた聖武は閻魔の拳を右の手のひらでなんなく受け止めた。
 閻魔はすすり泣きながら、それでも左拳で殴りかかる。だがその力は弱い。執金剛神は閻魔の左拳を頬の前で掴んだ。
「真備、なにを泣いている」
「命を落とす前に降伏してください」
 閻魔はそう言うと突然胸を焼かれるかのような叫び声をあげた。涙に濡れていた顔が怒張し、野犬のように低く唸る。だがしかし、再びふっと力が抜け、顔つきを柔らかく変えた。
「わたしは唐の方士に術で操られております」
 閻魔がはらはらと震える声をあげた。
「これを告白できるのも、みかどの攻撃が呪いの力を弱めたから。ですが何度わたしを倒しても術を解くことはできません。わたしはみかどが降伏するまで戦いを挑み続ける定め。わたしが勝利した暁には唐から……」
 そこで閻魔が下唇をきつく噛んだ。
 その目が真っ赤に充血する。言いたいことが言えない、だけど言わなければならない、そんな懊悩に耐えているように聖武には見えた。
 閻魔が弱々しい瞳で執金剛神を見つめる。
「みかど……、わたしが勝利した暁には唐の軍船が押し寄せ、この国を強奪する手筈。天然痘をこの国にばら撒いたのも、わたしがみかどを平城京から追い出したのもそのため。この国を弱体化させたところで唐が征服する。そのような計画を立てております」
 聖武はあまりの驚きに言葉が返せない。
 閻魔が自内に巣食うなにかと戦いながら話し続ける。
「ですが玄宗皇帝も、みかどがこれほど強大な素数で立ち向かってくるとは思っていませんでした。しかしながらわたしが吉備真備であるかぎり、わたしが負けることはありません」
 閻魔がそう言ったとき、一条の陽光が執金剛神の瞼を刺すように照らした。
「仕事に戻れ、真備よ。明日、また戦おう」
 執金剛神の一撃が閻魔の腹に風穴を開けた。

真備は真備であって、真備でなかった。唐は周到に準備していた。真備を呪術で篭絡し、その帰国と同時に天然痘を広めた。そして飢饉で国力が落ち、藤原広嗣が反乱を起こしたところで、一気に畳み掛けてきた。その事実を知った聖武は次の夜も、その次の夜も戦った。負けることのできない戦いは、負けることの意味をこの国の魂を売り飛ばすことへと変えた。拳を交える閻魔はその目に涙を浮かべていることもあれば、燃えたぎる獰猛に支配されていることもあった。だがそのうち真備の純な人格は表に出て来なくなった。唐の方士が遠隔で呪いを強めているのだろうと思うと、聖武はなおさら負けるわけにはいかなくなった。
 非破壊性の高い素数ではあったが、すでに十万桁を超え、その攻撃が多少なりとも肉体に響くようになったため、聖武は朝になれば木にぶら下がって懸垂したり、大きな石を持ち上げて頭上高く放り投げたり、裏山を駆け上がったりして、全身の筋肉を鍛え、昼にしっかり睡眠をとるようにした。
 執金剛神と閻魔は戦った。桜の舞い散る夜も、汗がまとわりつく梅雨の夜も、真っ赤に染まった山々が白銀に浮かび上がる夜も、聖武は平城京を奪還する日を夢見て、素数の桁をひとつ、またひとつと上げていった。
 最初の戦いから半年後に最大素数は五十万桁を超え、一年後には八十万桁へ到達した。その三ヶ月後、素数が百万桁を突破した頃には、算師たちは極度の睡眠不足に陥り、演算能力が著しく低下したため、聖武は算師を五十人から百人へと増員し、演算の質と量を維持した。同時に執金剛神と閻魔の姿も緩やかではあるが対数関数的に巨大化したため、戦いの舞台を若草山に移した。真備が若草山の木々を全て伐採し、草原に変えたのだ。

拳と拳が火花を散らす戦いは五年後の天平十七年になっても終わりが見えなかった。その間、聖武は政治も怠らない。恭仁宮への遷都の詔を発布し、右京、左京を整えた。従五位以上の官人の恭仁京移住を命じ、平城京の官僚機構を骨抜きにした。これで有能な官人は全てこちらに来ることになる。真備が飛び抜けた才を持っていたとしても、素数発見は人海戦術。多少はその演算能力を削ぐことはできる。また聖武は恭仁京だけに頼らない三都構想を立ち上げ、北東の紫香楽宮、西の難波宮の大規模開発を行った。そうすることでたとえ恭仁京を追われようとも紫香楽、難波の都で安定的に政治権力を維持し、平城京と対峙できる。三都構想とはとどのつまり唐の襲来に対する安全網だった。そして紫香楽京の近辺によい断崖が見つかったため、唐の洛陽の龍門石窟にも負けない盧舎那仏殿を造立することにし、全国に国分寺と国分尼寺を建立することも決めた。だが唯一誤算だったのは一年前に恭仁京で安積皇子が脚気で急逝し、平城京で黄文王周辺がやにわに活気づいたことだった。皇位継承を高野姫しか考えていない聖武はあらためて不退転の決意を固めた。

三百六十八万桁の素数、三六八〇〇一一の執金剛神を聖武が生み出したのは九月が終わろうとした頃だった。聖武は執金剛神を若草山に向かわせながら、三百六十九万桁の素数、三六九〇〇一三の閻魔が両の拳で胸を激しく叩き、威嚇するのを見て、目をしばたかせた。三六九、三六九、三六九……これは……
「真人よ、三田次に百人全員で三百六十九万桁の素数を全て洗い出せと命じよ」
 聖武は自身の閃きに一縷の望みを託した。もし素数が数の真言であるなら……わたしの考えが正しければ……
 かくなるうえは閻魔の攻撃を逃げ続けるしかない。聖武は襲いくる閻魔の拳をかわし、蹴りをかわし、掴みかかろうとしてくるのを跳躍してかわす、薄氷を踏むような時間を過ごした。二刻ほどが過ぎた頃、ようやく真人が大量の紙を持って走ってきた。とっくに足が震え始めていた聖武は閻魔の拳を初めて片腕で受け止め、光明子が一枚一枚心を込めて書いた六百八十一個の素数の束を一枚一枚めくり始めた。
 三六九〇〇三一、三六九〇〇五三、三六九〇〇六七……
「違う、ここにはない」
 三六九三八五三、三六九三八六三、三六九三八八一……
「まだだ。ここにもない」
 そう言っている間にも防御の腕をかいくぐる閻魔の重い拳が顔面に襲いかかる。聖武は口から血を吐くと、奥歯が一本落ちた。
 三六九六九一一、三六九六九一九、三六九六九四一……
「なぜだ、なぜ出てこない!」
 瞼をあわびのように腫れ上がらせ、聖武は紙をめくりながら叫んだ。
「三六九八二一三、三六九八二三七、三六九八二四三……これだ! 三六九八二四三! ついに見つけたぞ!」
 聖武は塞がりかけた目を光らせて胸の呪符を剥がした。
 三六九八二四三を胸に貼り、真人に術をかけさせる。
 聖武の腹が大きくなり、桃のような膨らみが胸へ、口へと遡ってくる。
 聖武が口を開くと金色の光が広がり、それを産み落とした。
 聖武が満足げに口から滴る唾液を袖で拭った。
 真人が呆然とまばたきを繰り返す。
「みかど、これは……」
「紹介するまでもなかろう」
 物憂い表情のそれは立ち上がり、ぐんぐん大きくなっていく。
「釈尊の入滅後、五十六億七千万年後にこの世を救うために現れるという。だが少々早めにわたしが呼び寄せた」
「……弥勒菩薩。どうしてこんなことが」
「素数は数の真言。ならば三百六十九万桁の素数のどこかに仏性の宿る言霊が埋もれていてもよかろう。わたしは見つけた。三六九八二四三とはつまり、みろくはふじみ、、、、、、、
 聖武は誇らしげに言って、弥勒菩薩を閻魔の前に跳躍させた。
 あばらの浮いた半身をさらし、腰から下に長い布を巻いているだけの弥勒菩薩は決して強そうには見えない。頭上でふたつ、団子のように結い上げた頭髪、すっとなめらかに尖った鼻筋、溶けてしまいそうなほど垂れた耳、今にもため息をつきそうなほど憂いに満ちた顔は、人を殴ったことさえなさそうだ。
 だがそんなことは閻魔には関係ない。眉を逆立てた閻魔は涼しい顔をした弥勒菩薩の腹をしたたかに殴った。続けざまに腹に二発入れ、顎を一発殴り上げた。
だがどうしたことか、聖武は痛くも痒くもない。まさか閻魔の拳がこれほどまでに効かぬとは。弥勒菩薩は天上の兜率天とそつてんで修行をしているというが、どれほど厳しい修行を積めばこのようになれるのだ。聖武は感嘆の目を弥勒菩薩に投げかけた。
 十発、二十発と拳を振るい続け、閻魔が肩で息をしている。聖武はその隙を見逃さず、二本の指を伸ばして閻魔の額に突き刺した。そして指を回転させる。
 閻魔の頭がいともたやすく粉々に砕けた。
 だが聖武はわかっている。すぐに平城京で光の柱が立ち、閻魔四〇〇〇三七が若草山を駆け上がり、飛び蹴りをしてきた。だが聖武は回転してよける。今までの執金剛神よりも同期率が高いのか、弥勒菩薩の身体が軽いのか、風にそよぐ木の葉のようにその身が翻る。立ち上がった閻魔が右の拳を振りおろす。拳を擦過する空気がぼうぼうと音を立てるほど激しい一撃だ。
 だが聖武には確信があった。弥勒菩薩は微動だにしない。
 閻魔の拳が弥勒菩薩の顔面を強打した。
 弥勒菩薩は顔色ひとつ変えず、頬で受けている。
「そんなものか」
 弥勒菩薩はその骨ばった足で、まるで鎌を振るうように蹴りを走らせる。
 閻魔の身体が真っ二つに裂けた。
 性懲りもなく新たな閻魔が若草山を駆け上がってくる。その素数、五〇九八二五三。
「真備、聞こえるか。何度向かってきても無駄だ。わが弥勒は、もはや不死身を得た」
 聖武は跳躍し、空中でその後の動きを夢想した。
 閻魔の前で高く飛び上がった弥勒菩薩は宙を一回転し、脳天に踵を落とす。そのまま閻魔の身体を左右二つに割るまで、足を振り落としていった。
 弥勒が見下ろすと、左半身の閻魔の頬に大粒の涙が伝っている。
「真備か……」
 久しぶりに見るいたいけな瞳である。
「わたしを殺してください」
 だが右半身の閻魔が怒り狂う。
「生ぬるい戦いは終わりだ。次でケリをつけてやる」
 そう言い残し、左右の閻魔が白い蒸気をあげて消えていった。

若草山にいれば真備がどこで閻魔を生成しているのかよくわかった。平城京の南に広がる野原で見たこともないほど太い光の柱が立ち、聖武はこれが最後の戦いになることを悟った。聖武は真人に、光明子と三田次に戦いを見届けるようにと言伝ことづてした。
 聖武の百倍ほどの背丈をした弥勒菩薩のさらに三倍ほどの閻魔が四歩、五歩で若草山のてっぺんまでやってきた。
真人に透式させると閻魔の胸に九九九九九九一が輝いた。おそらく九百九十九万桁最大の素数だろう。聖武の背に冷たい汗が伝う。いくら弥勒が不死身なほどにまで非破壊性が高まったとはいえ、素数の差は圧倒的だ。それに閻魔の手に見たこともない鋸歯のこぎりはのついた赤黒い輪状の武器が握られている。
「真人、あの武器はなんだ。透式できるか」
「戦輪だな。唐の武器だ」
真人は印を切り、戦輪に指を向けると見たこともない算式が浮かび上がった。
 
「三・一四たす六四わる六二五〇〇」小なり「無限」小なり「三・一四たす一六九わる六二五〇〇」
 
「あ、あ、あれは……」
 走ってきた三田次が真っ青な顔をして顎を震わせた。
「おお、三田次、あれはなんだ」
「あれは幻の円周率……。わが国の円周率三は唐の九章算術を踏襲しています。唐も公式には円周率を三と定めていますが、それは計算の利便性を求めたもの。しかしかつて劉徽りゅうきという算学者が九章算術をもとに研究を進め、円周率が三・一四であることまで突き止めました。ですが劉徽はその死の間際まで円に内接する多角形の角を増やし、円周率を計算し続けたといいます。記録に残っているだけで百九十二角形。実はそれ以上の多角形の算術を記した秘伝の書があると、帰国した遣唐使が興奮まじりに語るのを聞いたことがあります。これはまさしく幻の円周率『徽率』。それ以外に考えれません」
「それがどうしたというのだ」
「無限が宿っているのです」
三田次は背骨を抜かれたかのようにその場にへたり込んだ。
 直後、閻魔が空に向かってぶんっと戦輪を投げ、一歩踏み込んで弥勒菩薩に右拳を振るった。腕で防御した弥勒菩薩は思わず顔をゆがませた。先ほどの戦いでは痛みをほとんど感じなかったが、九百九十九万桁の拳はさすがに骨にこたえる。聖武が腕の痛みに意識を奪われている間に、空を走る戦輪が弥勒菩薩の背後に襲いかかった。聖武は間一髪でかわしたが、背の金剛杵が真っ二つに割れた。
 朝服の背がはらりと裂けた聖武は、本来涼しいはずの弥勒菩薩の顔に静謐さを浮かべ、両の拳を顎の前で構えた。だが無限は一度勢いを与えると、永遠に動き続ける。戦輪は上空を旋回し、弥勒菩薩の首を狙って空を急降下する。弥勒菩薩は頭をかがめて戦輪をかわし、かわしたところで真っ直ぐ打ってくる閻魔の拳を腕で受け止め、たたらを踏んだ。閻魔が距離を詰めて大振りの右拳をこめかみに入れてくる。その拳を前屈みで   ところに閻魔の膝が急襲した。弥勒菩薩の鼻に膝が直撃し、聖武の鼻から血がぼとぼとこぼれ出す。その鼻目がけて閻魔が右拳を打ってくる。弥勒菩薩は両腕を十字に構えて防がざるを得ない。弥勒菩薩は慌てて顔を振り、閻魔を睨みつけようとしたとき、ふいに閻魔がしゃがんだ。弥勒菩薩の目の前に激しく回転する戦輪が迫っていた。よけきれない、と思った聖武は弥勒の不死身性に賭けた。口を開き、その歯で噛んだのである。急速回転する戦輪の刃が弥勒菩薩の口で火花を散らす。聖武の唇の端が裂傷し、鮮血が滴る。それでも聖武は噛むことをやめない。やめてしまえば顔を真っ二つに裂かれてしまう。しかもしゃがんだ閻魔が腹に拳を連打してくるから、両腕はその拳を防がなければならない。
「みかど、降伏しましょう! 今なら間に合います。いや、今が最後のとき。降伏して、命だけは助けてもらいましょう」
 三田次が聖武の足もとにひざまずき、涙声を上げた。
 聖武は歯を噛み締めながら、喉の奥で叫んだ。
「腑抜けたことをぬかすな! 負けてはならんのだ。わたしは必ず平城京に戻らねばならん。なぜかわかるか!」
 目を潤ませた三田次が首を振った。
 聖武は歯が砕けるのではないかというほど噛み締めた。だがまだ足りぬ。聖武は一層顎に力を込めた。戦輪が甲高い音をあげて回転を弱める。回転が止まった。弥勒菩薩の前歯のところでひびが入る。弥勒菩薩はもう一度顎に力を込める。戦輪が粉々に砕け散った。
 聖武が血まみれの口で三田次を見下ろし、一喝した。
「唐の長安は平城京の真西にある。これがどういうことかわかるか。日出ずる国と日没する国は直線上にあるのだ。飛鳥宮ではなし得なかった日出ずる国の地理的事実を完璧に体現したのが平城京。唐朝に赴いた遣唐使にわが国を日本やまとと名乗らせたのもそのため。平城京こそ、この国が倭国ではない、日の本のである証なのだ。唐に追いつけ追い越せでわが国は発展してきた。日出ずる国、その気概を唐に鼻で笑われてもかまわぬ。だがその覚悟こそがこの国を先に進める。そう信じてつけられた名が日本なのだ。ゆえにわたしは平城京を守り抜かねばならぬ」
 聖武の言葉はそのまま弥勒菩薩の言葉となり、閻魔の耳に届いた。
 白目を濁らせた閻魔が黒目を拡大収縮させながら舌なめずりする。
「不遜なやつよ。お前に無限の本領を発揮してやろう」
 真備ではない。初めて聞く声で閻魔が言うと、粉々に砕けた戦輪の欠片が小刻みに揺れ、磁石のようにくっつき始めた。しかしその形は円形ではなく、細長い一本の鞭へと形を変えていった。
「これがどういうことかわかるか」
 閻魔が鞭を小さく振るうと、鞭の先が蛇のように弥勒菩薩へと走ってきた。だが聖武は見切っている。半身になってかわした、そのつもりだったが、かわす直前に鞭の先がぐんと伸びて胸を打ちつけた。
 聖武は胸に汗と血が混じり合う匂いを嗅いだが、目を落とすことはしない。ここで怯んではいけないのだ。落ち着け、勝機を見出せ。聖武は自身に言い聞かせると、あることに気づいた。戦輪が鞭に変わり、方程式だったものが単純な数の羅列になっている。鞭の手もとから先に向かって、三・一四一五九二六五三五八九七九三二三八……と数が伸びている。
 閻魔は聖武の目線を見てその大きな鼻を鳴らした。
「気づいたか。これこそが無限の真髄。無限が無限であるかぎり、この鞭に長さなどあってないようなもの。お前を打ちつけるまでどこまでも伸びよう」
 閻魔は地を這うような声で言って、何度も鞭を振るってきた。
 弥勒菩薩は胸に、肩に、腕に、太いみみず腫れを浮かび上がらせ、血を流した。逃げても鞭はどこまでも追いかけてくる。よけても必ず打たれる。一撃一撃が不死身性を宿した身体に響いてくる。これほどまでに無限とは強いのか。聖武は愕然とした。だが、いや、だからこそ、立ち向かわなければならない。弥勒菩薩は閻魔がどれだけ鞭を振るってこようとも、一歩、また一歩と台風の中を歩くようにその藁のような足を踏み締め、閻魔に近づいていった。
 二体の距離が拳をまみえるほどまで近づいたとき、閻魔は鞭を空に放り投げ、まるで隕石が大地に衝突するかのような激しさで拳を見舞った。
 弥勒菩薩はその打撃を額で受けた。
 その額で、地上最大の梵鐘を打ったかのような重い金属音が鳴り響く。
 閻魔が歯軋りをしながら額の拳に力を込める。
 弥勒菩薩は地面に足をめり込ませながらも首の力で堪え、踏ん張った分の反動を込め、右の拳を閻魔の顎へと振り上げた。
 一瞬浮いたかに見えた閻魔だが、それでも足に力を込める。だが膝が笑っている。中空を仰ぎ見た閻魔はふらふらと背中から倒れ、若草山の斜面にずり落ちるとピクリともしなくなった。まだ砕けてはいないが意識を失ったようだ。
 だがそのとき、閻魔の手を離れたはずの鞭が自動律よろしく弥勒菩薩に絡みついた。鞭はぐるぐると伸長しながら弥勒菩薩の身体を巻いていく。弥勒菩薩は直立不動のまま無限の鞭を断ち切ろうとするが、もがけばもがくほどその身体に食い込んだ。
「三田次よ、円周率に弱点はないのか!」
 聖武が怒鳴りつけると、三田次は身をすくませた。
 光明子が恐る恐るつぶやいた。
「あの羅列の中に三六九ってないのかな……」
 三田次がはっと目を開く。
「あったとしたら……」
 真人が皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「弥勒菩薩に味方するかもな」
 聖武が恫喝するような声を出す。
「三田次よ、あの円周率の中から三六九を見つけてみせよ!」
「やってみせます!」
「では転がるぞ!」
 聖武はそう言って砂利だらけの川岸に横たわり、ゆっくりと身体を回転させた。
 身体を鞭で縛られた弥勒菩薩が不自然なほどゆっくりと若草山から転がり落ちてくる。三田次は弥勒菩薩に巻きついた鞭の把手から始まる数を、ひとつも見落とさぬ覚悟で数えていった。
 三・一四一五九二六五三五八九七九三二三八四六二六四三三八三……
「ない、ない! 出てきません!」
 ……〇一一九四九一二九八三三六七三三六二四四〇六五六六四三……
「まだ、まだです! 五百をくだっても三六九は現れません!」
 三田次は太ももを叩いて悔しがり、否応なくこぼれる涙を拭いた。
 ……二〇一〇六五四八五八六三二七八八六五九三六一五三三八一……
 千を下ってもなお三六九は現れない。もはや天から見放されたのか。三田次は神に裏切られたかのような気さえして、目では数を追いながらも、心の中で諦めが芽生え始めていた。
 ……九一一九八八一八三四七九七七五三五五六三六九八〇七四……
「わっ、ありました! 千五百五十二番目から三六九が! 確かにございます! 右膝の! 右側です!」
 聖武は転がる身体を止め、右膝の右側に確かにある三六九の部分の鞭を噛んだ。
 柔らかく歯が刺さった。
 噛みちぎると、途端に三六九が抜けた鞭の両端にひびが入り、粉々に砕けた。
 手足が自由になった聖武は三六九を吐き出そうとしたが、その前に口の中で溶けて、甘い感覚だけ舌に残った。もしやこれこそが甘露ではあるまいか。だがそんなことに気を取られているわけにはいかない。即座に立ち上がり、弥勒菩薩を閻魔のもとに走らせた。
 弥勒菩薩は閻魔に馬乗りになり、ここぞとばかりに左右で何発も殴打する。だがその拳のせいで閻魔は意識を取り戻し、腰を跳ね上げて弥勒菩薩を吹き飛ばした。弥勒菩薩は立ち上がり、閻魔のもとに猪突する。閻魔も立ち上がり、弥勒菩薩を迎え討つ。そうしてただひたすらに殴り合いが始まった。弥勒菩薩は閻魔の重い拳に意識が飛びそうになるのをこらえ、拳を振るう。閻魔は弥勒菩薩の拳に顔を少しずつひしゃげながら、殴り返す。
 聖武の腫れた瞼が裂け、視界に映る閻魔が真っ赤に染まった。
「この国を唐にやるわけにはいかない。それに黄文王などを天皇にさせてたまるか。次の天皇は高野姫だ。女が中継ぎなどではない正真正銘の天皇になる。わたしはその痕跡をこの国の歴史に残すのだ」
 蜂の巣に突っ込んだみたいに顔を腫らした弥勒菩薩が殴り続ける。閻魔ももはやどこに弥勒菩薩がいるのかわからないほど顔が潰れている。だが殴ってくる。聖武はもう閻魔の拳をよけない。弥勒は不死身。ならばその真言と心中しよう。目はとっくに血で見えなくなっていた。聖武は耳のそばで空を切る閻魔の拳の音を聞いて、閻魔も自分のことが見えていないのだとわかった。聖武は拳を打つのをやめ、目を閉じた。右手の薬指と親指で輪を作り、人差し指と中指を立てた。これこそが兜率天でどのように衆生を救おうかと思索する弥勒菩薩の手、思惟の頬杖である。弥勒菩薩はそこにあるはずの閻魔の胸に二本指を突き刺した。
 手応えがあった。指を抜き、もう一度突き刺す。一度や二度ではない。左手でも同じ形をとり、十度、二十度、三十度、四十度、五十度、百度とその胸に穴という穴を穿った。最後に手探りで見つけた喉もとに右手の二本指を引っかけて、下にぐっと力を込めた。閻魔の胸が砕け散る音が聞こえた。
 そのとき聖武の目に冷たいものが当たった。
「みかど、しっかりご覧なさい」
 光明子が自身の絹の袖を引きちぎり、川の水に浸し、顔を拭いてくれたのだ。
 聖武は若草山を仰ぎ見た。空洞の胸をした閻魔が足をふらつかせ、それでも歯を剥き出して殴りかかろうとしてくる。
 聖武は大きく深呼吸して、閻魔の拳をよけ、その頬に平手打ちした。
 閻魔が根本を伐られた巨木のように地面に突っ伏した。

閻魔が蒸気をあげ始めたとき、恭仁宮から湧き立つような歓声が上がった。
 聖武は背後を振り返った。
「これは……」
「民が歓喜しております!」
 三田次が声を裏返して叫んだ。
 そうか、恭仁京の民もこの戦いを見ていたのか。これまでの数々の戦いも見守ってくれていたのかもしれない。聖武は身体の内側で熱い潮が押し寄せる感覚にとらわれた。だがさっと表情を変える。
「皆のもの、平城京に行くぞ。真備の命が危ない」

五年ぶりにくぐる羅生門は朝日に照らされ始めたばかりで、その屋根瓦のひとつひとつが白く輝いていて、まるで自身の凱旋を祝福しているように見えた。聖武は朱雀大路を馬で駆け抜け、朱雀門を開けた。
 朝堂院の大広間で玄昉が土色の顔をして横たわる真備のわきに立ち、力ない目をこちらに投げかけた。
「みかど、お戻りで。真備は……」
「言わなくてもよい。わかっている」
 聖武は馬を降り、腹で息をする真備に近寄った。
「胸を見せろ」
 玄昉に真備の朝服をはだけさせると、胸に不可解な式が彫られていた。
 
「一」たす「一/二の二乗」たす「一/三の二乗」たす「一/四の二乗」たす「一/五の二乗」たす「一/六の二乗」…………は「円周率の二乗/六」

聖武は腫れ上がった目で何度もその式を読み込んだ。素数と円周率が等式で結ばれているように思えるが、なんのことやらさっぱりわからない。素数と円周率にはなにか関連性や法則性があるのかもしれない。これが真備にかけられた呪いだとするなら、唐はなんという極地まで算術を高めているのだ。聖武は後ろに立つ三田次を振り返ったが、三田次もうつろな目で首を振る。
「真人、この呪いは解けるか」
「申し訳ないが、俺には太刀打ちできない代物だ」
 真人の言葉に頷いた聖武だが、頷きながらひとつの案が閃いていた。この国の算術が唐に追いつかないとしても、戦い方は嫌というほど身体に染みついている。
「諸兄よ、恭仁宮の算師たちを呼び寄せ、八九四万桁の素数を洗い出すように伝えろ。三田次、お前もやれ」
 聖武の命に三田次は背筋を伸ばした。
「そこの朝堂をお借りします!」
 三田次は広間にいくつかあるうちの太政大臣専用の朝堂に駆けた。
 息が次第に弱くなっていく真備の胸に聖武は手を置いた。
 大丈夫だ、わたしが治してみせる。お前を討ったように、お前を助けてみせよう。聖武は胸で伝えてみるが、一刻経っても二刻経っても八九四万桁の素数発見は成果を見せなかった。十個二十個と見つかったものから三田次が提出してくるが、そこに聖武が求めるものはない。二百枚、三百枚と聖武は素数の書かれた紙をめくるが、またしても首を振った。
 空に星がまたたき始めた四百六十六枚目、八九四七五七九で聖武は手を止めた。目が腫れていて、もしかしたら幻を見ているのかもしれないと自身を疑った。
「光明子よ、この素数を読みあげてくれ」
「八九四七五七九です」
「幻覚ではなかったか。真人よ、これでもう一度わたしに術をかけろ」
 聖武は傷だらけの胸に八九四七五七九の紙を貼ると、真人が神妙な顔をして術を施した。すぐに聖武の腹が膨らみ、口からなにかを吐き出した。だがそれは執金剛神でもなければ弥勒菩薩でもない。ふっくらした金色の仏だ。
 一枚布を右肩だけはだけて羽織り、頭には玉のような右巻きの髪が無数に覆っている。額にもひとつ、それがついている。
偏袒右肩へんたんうけん螺髪らほつ、白毫。いずれも如来の相である。それに左手を見よ。薬壺やっこを持っている。つまり」
「薬師如来ですね」
 光明子が目を輝かせて合いの手を入れた。
 その場でぐんぐん拡大していく薬師如来に圧倒されて、大広間のものたちはみな壁際に寄った。
 大広間を見下ろすように薬師如来が立っている。
「薬師如来とは衆生の病気を治す仏だ。しかも菩薩とは違い、如来はすでに悟りを開いておられる」
 聖武がしゃがみ、右手でなにかをつまむ仕草をする。
 薬師如来が真備をつまみあげ、空っぽの薬壺にそっと入れた。
「わたしは真備の呪いを解く術を知らない。その薬も持たない。だが如来には慈悲がある。慈悲とは悲しむものの隣に立ち、共に泣いてやるということ。八九四七五七九とはつまり、やくしは長う泣く。薬師如来の慈悲こそが最大の薬であり、最大の真言であろう」
 聖武が言うと、薬師如来は薬壺の真備を見下ろし、静かにすすり泣きを始めた。そして徐々にその胸を震わせ嗚咽し、ついには号泣を始めた。
 大粒の涙がひとつ薬師如来のふくよかな頬を伝い、薬壺に落ちた。
 その泣き声は平城京中に轟き渡る。若草山の麓で鴉の群れが一斉に飛び立った。
 大広間のものたちは両手で耳を塞ぎ、うずくまった。
「皆のもの、朝堂に避難せよ。耳が壊れるぞ!」
 諸兄が促し、みな近場の朝堂へと駆け込んだ。

薬師如来の号泣は一晩続いた。
 その涙に朝日の欠片が映ったとき、聖武は泣くのをやめた。
 聖武は薬師如来を見上げ、その顎の先で膨らむ涙に、太陽が、紫色の空が、桃色の雲が、あけそめる若草山が、薬壺の中で息を吹き返す真備が、そしてきっと涙には映らない全てがあることを見て、自身の涙を拭き取った。


 
「真備よ、お前は七日七晩太陽と月を消し去り、唐の国を暗闇に陥れたほどの男。それがどうして方士の術などにかかった」
 三日後、呪いが抜けた真備に聖武が尋ねた。
「いえ、わたしが太陽と月を消したのではありません。食事に蠱毒を盛られ、身動き取れなくなったところに、そのような驚くべき術を、わたしがかけられたのです」
 真備の顔はあちこちに椎茸の房を貼りつけたかのように腫れ上がっている。内裏の正殿にはかつてのように、中央に聖武が、そのわきに光明子が座っている。
 御簾を開け放った南側には真備だけでなく、諸兄と玄昉、それに三田次と真人も並んでいる。
「それほどまでにすごいのか、唐の方士とは。この国の陰陽師を独自に発展させなければ対抗できぬな。真備、その陣頭指揮を取れるか」
「もちろんです」
 恭しく頭を下げる真備に、聖武はなおも続ける。「わたしはお前をいつかもう一度、遣唐使にやろうと思っている。お前も胸の算式の謎が解けないままでは悔しいだろう」
 真備の胸には素数と円周率らしきものが結ばれた算式が彫られたままだった。真備はいつかその謎を解く未来に打ち震えた。
「次に諸兄よ。真備の呪いが解けたとはいえ、唐がいつなんどき襲来するかしれない。太宰府の防衛力強化をお前に任せてよいか」
「さっそく取りかかりましょう」
「三田次よ、お前を正式に算博士に任ずる。算師の育成に励み、算道を発展させよ。だがよいか。算博士は今後さらなる最大素数の発見を使命とするのだ。いつなんどき、あのような事態に陥るかしれない」
「こんな老いぼれにこれ以上の任はありません」
 三田次は役割に打ちひしがれた恍惚の顔をした。
「真備よ」
 聖武はもう一度真備に顔を向ける。
「陰陽師は常に算博士に寄り添い、いつでも最大素数を式神化できるように教育しておけ」
「かしこまりました」
 真備が頭を下げると、聖武は一同を見渡した。
「皆に告げておきたいことがある。わたしは今、全国で造立を進めている国分寺と国分尼寺を素数呪符で防御しようと思う。この国に素数結界網を張るのだ。そして盧舎那仏をここ平城京に建てる。素数結界網の中央施設として盧舎那仏殿を建てるのだ。光明子よ、そのときは素数の書を書いてくれるな。そうすれば唐が呪術を使って策謀を巡らせようとも跳ね返せる」
「もちろんです」
 光明子はほのかに頬を緩めた。
「して真人」
 聖武に呼ばれて、真人は気まずそうに目を逸らした。
「国分寺と国分尼寺の数だけ、お前は術をなせ」
「はあ? 俺は引退した身だぜ?」
「わたしを式神化したお前以外に誰がいる。死ぬ前にやりぬけ」
「人使いが荒いよ、みかどは」
 真人は肩を落とし、頭巾を外して頭を掻いた。
「玄昉よ、お前には仏門に励んでもらいたいのはやまやまだが、あとで鼻を見てくれんか」
 閻魔の拳でひしゃげた聖武の鼻は、血は止まってはいるものの黒く腫れあがっている。
「もちろんです」
 玄昉は広げた両手を床につけ、頭を下げた。

皆を下がらせ、御簾をおろした正殿に聖武と光明子がふたりきりとなった。
「みかどはこれからどうされるおつもりですか」
「わたしはもういい。数年ののちに退位する。これからは高野姫に政治を引き継ぐための準備をする。高野姫天皇の即位が新しい時代の幕開けとなろう。だから」
 聖武の言葉を切るように、御簾の外から女官の声がした。
「みかど」
「どうした」
「宮子さまが」
 その一言に聖武は血相を変える。
「街路樹のえんじゅから摘んだ花が乾燥したとおっしゃています。槐の花は涼血止血に最適。粉にして塗れば鼻や胸の治療になるでしょう。あとで寄りなさいとのことです」
「そうか」
 聖武は安心して、あたたかいため息を漏らした。
「高野姫さまもいらっしゃるようで」
「わかった。今から行くと伝えよ」
 聖武はそう告げると、「その前に」と御簾の外には聞こえない小声で言って、光明子に近寄った。膝に頭を乗せ、仰向けになって下から微笑みかけた。
「先ほど言いかけた言葉はなんです? だから、のあと」
 幼い頃から何度見ても、どの角度から見ても見飽きない顔であった。
「もう、男子を産みたいなどと言うな」
 聖武は、御簾から漏れる浅い光を受ける光明子の顔をこのままずっと眺めていたいと思った。

文字数:39966

内容に関するアピール

この物語を書こうとした最初のきっかけは、聖武天皇に「彷都五年」という謎めいた時期があるのを知ったことでした。「彷都ってなんだ?」から資料を調べていくうちに、天平期の学問や政治、文化などいろんなものが絡まり合う、時代のダイナミズムにやられました。天平期は、文明開花や戦後日本に匹敵する変革期です。特にコロナ禍を経た今、当時の天然痘が、遣唐使船が着港した太宰府から広がったり、数年間で大流行の波が何度もやってきたりと、とてもリアルに感じられます。また聖武天皇は高野姫を皇太子に据えますが、女性が皇太子になった例は後にも先にもありません。極めて異例なその決断の裏に何があったのだろう。そういったことを考えることも、この物語の推進力となりました。当時の人たちの苦悩は、1300年後の僕たちの抱えるものとそう変わらないのではないでしょうか。
 
ここで学ばなければ、決して書き得なかった小説です。
一年間、大変お世話になりました。

(以上、412文字)

参考文献)
「聖武天皇と仏都平城京 天皇の歴史2」吉川真司 講談社学術文庫
「聖武天皇が造った都 難波宮・恭仁宮・紫香楽宮 歴史文化ライブラリー339」小笠原好彦 吉川弘文館
「陰陽道 術数と信仰の文化 王朝時代の実像5」山下克明 臨川書店
「陰陽道とは何か 日本史を呪縛する神秘の原理」戸矢学 PHP新書
「陰陽道マニュアル 民間呪法132選 陰陽道調法記 現代語版」秘密出版局
「吉備真備 〜天平の光と影〜」高見茂 山陽新聞社
「全品現代語訳 大日経・金剛頂経」大角修 訳・監修 角川ソフィア文庫
「サンスクリット版縮訳 法華経」植木雅俊 訳・監修 角川ソフィア文庫
「閻魔信仰に関する日中比較研究」 毛淑華『比較民俗研究」15.1997/6
「地獄十王思想と道教」高巣純 愛知教育大学
「平城宮発掘調査報告Ⅷ」奈良国立文化財研究所
「律令制成立期の武器と武術」笠井和広 神奈川大学国際経営論集
「正倉院に伝わる薬物60種リスト 種々薬帳」内藤記念くすり博物館HP
 https://www.eisai.co.jp/museum/herb/familiar/shujuyakucho.html
「正倉院薬物「鬼臼」の起源について」難波恒雄 鐘国躍 伏見裕利 小松かつ 子 富山医科薬科大学和漢薬研究所、中国重慶市中薬研究院
 https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F10948535&contentNo=1
「中国佛教の鬼神」道端良秀
 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/10/2/10_2_486/_pdf/-char/ja
「奈良時代のあの世事情」なぶんけんブログ 奈良文化財研究所
 https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2020/10/20201001.html
「オイラーの発見した円周率の公式」青空学園数学科HP
 https://aozoragakuen.sakura.ne.jp/taiwa/taiwaNch04/node45.html

文字数:1320

課題提出者一覧