アンドロイドの居る少年時代

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アンドロイドの居る少年時代

インターホンが鳴り、天野立彦の眼鏡型ウェアラブルデバイスに映るMR(Mixed Reality)に玄関前の映像が表示された。そこには、スーツ姿の立花葉子と、モアザンエニシング社のロゴが入った運搬トラック映っている。立彦は、デスクの端に手をついて左足に力を込めると、一息に立ち上がり、右足をかばいながら玄関に出て、葉子を迎えた。
「足、大丈夫? ごめんね、歩かせちゃって」
「問題ないよ。さあ入って」
 リビングに着くと、葉子は話し方をビジネス用に変える。「この度は、私たちモアザンエニシング社のサポートテック、Z Intelligent Android──ジィアを購入していただき、誠にありがとうございます。今回購入していただいたジィア第2世代は、第1世代とは異なる思考システムと、より滑らかで人間らしい動きをパッケージングした、世界最高水準のサポートテックです。また、アンドロイド型サポートテックの強みである、ユーザーとの良質な関係の築きやすさにつきましても、デザイン面を一から見直すことで、より人間に近い外見を実現いたしました」
 葉子が続きを話そうとすると、先ほどトラックに乗っていた作業員が黒曜石のような質感のタイルを運んできた。
「充電スペースはどこに設置する?」と葉子。
「ああ、そこの柱の傍に頼むよ」
タイルの次には、人間と同じくらいの大きさの真っ白な衝撃緩衝容器が運ばれてくる。作業員は手順を確認しながら、慎重に容器の梱包を解いていく。
 現れたジィアの容貌は、街を歩いていれば、目に留まりそうな程度に整った顔立ちをしているものの、それ以外は高めの身長と黒髪のショートカットくらいが特徴で、家電製品というよりも、成人女性が一人部屋に増えたようだった。
「ここまで人間に近いサポートテックは他に無いよ。しかも、大手じゃなくて、ベンチャー企業の製品だ」
「業界のコンサルタントにそう言ってもらえるのは光栄ね。でも、正直な話、運が良かったのよ。最初のジィアを造った時には、既に開発コストが大分下がっていたから」
立彦は改めて、ジィアの容貌を観察する。「サポートテックに仕事を奪われるって言っている人の懸念が少し分かった気がする」
「雇用の生態系が、現在進行形で大きく変わっていることは否定しないし、当事者意識もあるわ」
「それでも、今の私にはこれが必要だ」
「そう言ってもらえると嬉しい。本当よ。それじゃあ、少し動かしてみましょうか。ジィアに声をかけてみて」
 立彦は少し考えてから、「ジィア。わが家へようこそ」と言った。
 ジィアは瞼を開け、自然な動作で首を動かして立彦の顔を捉える。
「初めまして」
 次に、立彦は自分たちの関係の上で、最も大切な要素を確認することにする。「ジィア、肩を貸してくれないか。起き上がりたいんだけど、右足に上手く力が入らなくてね」
「分かりました」そう言って、ジィアは立彦の左側に歩いてくると、ソファに座っている立彦の肩の高さまで屈みこむ。立彦がジィアの肩に手を回して一呼吸すると、ジィアは自分の肩に載せられた立彦の手首を掴み、彼の腰を支えて優しく立ち上がった。手首を通して感じるジィアの感触は、熱はほとんど感じないけれど、体温を感じさせるような肌の質感で、身体の緊張を解いて身を任せても良いと立彦に思わせる。
「ジィア。これから、よろしく」

朝、早くに目が覚めてしまった立彦がリビングに入ると、突然後ろから「おはようございます。立彦さん」と声を掛けられた。
「ジィア、大きな声を出さないでくれ」
「失礼しました」ジィアは小声でそう言う。「それでは睡眠定義時間に戻ります」
 立彦はリビングのカウチソファに座り、ウェアラブルデバイスを取り出す。何となく起動すると、連絡先の葉子のステータスがアクティブになっていた。ダメ元でコールしてみると、数秒後に声が聞こえた。
「おはよう」と葉子。
「アクティブなのが見えたから。平気だった?」
「残業よ。話し相手が居るのは助かるわ」葉子のあくびが聞こえてくる。「ジィアの使い心地はどう?」
「それなんだけど。ジィアの学習アーキテクチャ、──何て言ったっけ──そう『分化』だ。あれって、どういう仕組みなんだ?」
「ジィア第2世代は日々の活動の中で感じたストレスを元にして自身の『分化』を実行するの。ジィアはストレスから、自分がいる環境で最も気を使うべきタスクや、タスクごとの優先順位を見つけて、自身の活動ルーティンを個々の環境に最適化させていくわ」
「分化を早める方法は?」
「無い無い。例えば、分化を早めるために2倍のタスクを実行させたり、夜中に分化のみを目的としたタスクを実行させたら、半分の期間で理想のジィアに分化するんじゃなくて、1日の活動の半分を無意味な仕事で埋めるジィアになるわよ。何かあった?」
「さっき、夜中に大声を出された。分化の完了にはどれくらいかかるんだ?」
「ジィアは常に分化を続けていくから、どこかの時点で完全に可塑性を失うといったことは無いけど。アンケート結果では、1カ月くらいで今みたいな不満は出なくなる場合がほとんどね」
 それからも少しジィアのスペックについて確認してから、2人は通話を終了する。すると、突然肩に何かが触った。驚いて振り向くと、ジィアが後ろに立っている。
「どうしたんだ」
「睡眠定義時間が終了したので、朝のご挨拶をしようと思いまして。おはようございます、立彦さん」ジィアは囁くように言う。
「ああ、そうか。どうして肩に触ったんだ?」
「大きな声を出しては申し訳ないと思い、合図を送らせていただきました」
 放っておいてくれても良かったのに、と立彦は思ったけれど、少し考えてこう言うことにした。
「気を使ってくれて、ありがとう」
「いいえ。次からは驚かせないように気を付けます」とジィアは心なしか嬉しそうな顔で言う。その表情を見ると、立彦は、途端に分化を早めるなどということが浅慮な小細工に思えた。

天野家の長男・土神ほのかは、ジィアが天野家に納品された2週間後に、ジィアの前に現れた。祖母・土神千引に連れられ家に帰って来たほのかは、すぐにキッチンで夕食の支度をしているジィアを見つけて駆け寄り、声をかけてきた。
「ジィアだ。僕のこと覚えている? なんでシイタケ切っているの?」
「みそ汁の具に入れるためです」
「僕シイタケ嫌いだって言ったのに」
「このジィアは、この前店舗でお話ししたジィアとは違うんだよ」立彦がキッチンにやって来て、そう言う。
「なんで? ジィアはジィアでしょ?」
「それじゃあ、私は帰らせてもらうわ」キッチンに入ってきた千引が、立彦に声をかける。
「夕食を食べていきませんか?」
「ソレに食事を作らせているんですか?」
「ええ、家のことをなるべく学ばせたいんです」
「立彦。あなたが作ったりはしないのかしら?」
「私は、足がこんなですから」
「ああ、そうですね。──やっぱり遠慮します。電車が無くなるし、車なんか絶対に乗りたくないから」
 夕食が済むと、リビングでは、ほのかがカウチソファに座ってアニメを見ている。ジィアが居るのに気づくと、ほのかは自分の隣をポンポンと叩いた。
「こっち来て。一緒にテレビ見ようよ」
「分かりました」
 ジィアがほのかの隣に腰を下ろすと、ほのかはレコメンド番組のリストを表示する。リストに出ている番組のサムネイルには、ほとんど人間とアンドロイド型サポートテックが描かれている。ほのかが番組を選ぶと、アニメが始まる。
「君は本当に、あのジィアじゃないの?」
「あのジィアというのは?」
「お父さんとお店に行った時、僕たち何度もお話しした。何度も、何度も」
「申し訳ございません」
「そっか」ほのかはそう言って、テレビを見る。そして、何かを思いついたような顔をすると、もう一度ジィアの方に顔を向ける。
「ねえ、君のことナミって呼んで良い?」それは今見ているアニメに出てくる、主人公の友人のアンドロイドの名前だった。「どう?」
「分かりました。私はナミですね」
「うん。よろしくね、ナミ」ほのかは緊張した顔を崩して、笑顔を見せる。
 
「お父さん、早くしてよ」
「そんなに急がなくても公園はどこにも行かないよ。ナミ、手伝ってくれ」
「ナミじゃなくてナキだよ」
昨夜はナキと呼んだら「ナミだよ」と怒られたことを思い出して、立彦は苦笑した。十分後、ジィアに肩を預けながら玄関にやって来た父親を見てほのかは不満そうな顔をする。
「電車動いてないって」
「本当か? 弱ったな」
「タクシーで行けば良いよ。そっちの方が早いんだし」
「いや、しかしな」
 立彦は息子の責めるような視線を受け止めてから、逃れるようにジィアの方を見た。しかし、ジィアもまた何かを期待する視線を送っているように、立彦には思えた。2人の間で孤立した気分になり、とうとう立彦はタクシーを呼ぶことにした。十数分後、家の前に自動運転のタクシーが停車し、3人は乗り込んだ。
 タクシーが走り始めて10分ほど経つと、立彦は不安が首筋を上って、するすると頭の中に侵入してくるのを感じた。
「大丈夫ですか?」とジィア。
「ああ、平気だ」立彦は息子の頭を優しくなでながら「大丈夫だって」と声をかける。公園に着く頃には立彦の顔は真っ青になっていた。
「お父さん、本当に大丈夫?」
「実は、ずっとウンコを我慢しててな」
「なんだよ、それえ」と言って、ほのかはそれまで緊張させていた顔を崩す。
「というわけで、ちょっとトイレに行ってくる。ナミ──」
「ナキ!」
「父親にそんな口の利き方をするもんじゃない。ナキ、ほのかと先に行っていてくれ」
 立彦は、必死の思いで公園の備え付けトイレの個室に入る。途端に、フロントガラスから見えていた世界が天地反転する光景と、傷口から見える頭蓋骨の白色がフラッシュバックし、耐えきれず便器に朝食のサラダを吐き出した。
 数分休んで、ようやく個室を出ると、立彦はそのまま右足を引きずりながら、ほのかとナキを探した。2人は丘のように盛り上がった場所のふもとでフリスビーを投げ合っており、立彦がそちらに歩いていくと、ナキの方が立彦に気づいた。すると、ナキはほのかの方は一切見ず、一直線に立彦の方に歩いてくる。
「どうした?」と立彦が驚いて、尋ねる。
「サポートが必要だと判断しました」
「ああ、そうか。ありがとう」立彦は、ジィアの肩を借りて歩きながら、フリスビーを持ったまま1人ぽつんと残された息子の姿を見る。「なあ、君は自分にとって最優先のタスクを、どう判断している?」
「ジィア第2世代の思考は、不変のコモンライブラリと、随時新しいレコードとレコード同士の関係性を生成し続けるダイナミックライブラリで構成されます」
「だが、それらのレコードは、1つ1つが有意味のタスク──掃除とか、料理とか──を意味するわけではないんだろう?」
「仰る通りです。タスクとは、外界へのコミットメントを表現した言葉であり、ジィアのコミットメントが如何なるタスクに該当するのか、それはユーザーの判断次第になります」
「直接、優先順位の変更は無理ってことだな」
「一つ方法を提示できます。立彦さんの脳と、私のライブラリを接続し、立彦さんのライブラリ内で定義されたタスクを、私のライブラリに翻訳するテーブルを作成するというのは如何でしょうか?」
「申し訳ないが、私の頭には──」
「冗談です」
それを聞いて、立彦は大笑いする。「君は本当に高性能だな」
「ユーモアは説明し辛いことを伝えてくれる、素敵な言語表現です」
 立彦は、再びほのかの方を見る。ほのかはフリスビーを上に投げては、それをキャッチするという一人遊びを始めていた。「いや、すまない。口で言えば良いことだったな。ほのかのことを気にかけてやって欲しいんだ」
「それは立彦さんよりも、ということでしょうか?」
立彦は少し考える。そして、「そうだな」と言う。「当初、君にこんなことを頼むつもりは無かったけれど、ほのかは君を気に入っているようだ。今のところ、あの子にとっての世界は、目の前のものがすべてだ。一歩引いて世界を理解できるようになるのは、もっと先だから」
「それはユーモアですか?」
「メタファーかな。今みたいなことを繰り返していると、君にそのつもりが無くても、あの子は君に蔑ろにされたと思う。そうしたら君を嫌いになるだろうな。それが嫌なんだ」と言って、立彦はその場に座り込み、ナキをほのかの方に戻らせる。
 フリスビーが終わると、ほのかは汗をびっしょりと掻いて、立彦の座っている場所まで歩いてきた。
「楽しかったか?」
「うん! 今度、ナミにも教えてあげるんだ」
 立彦は不可解な気分になる。「ナミじゃなくて、ナキだろ」
「ナキはここにいるじゃん」
「ナキとは別に、ナミもいるのか?」
「いるよ」当然だろ、という顔でほのかは言う。
 
「半年以上経っているのに、分化の進みが随分遅いのね」ジィアの点検に来た葉子が、MRを見ながら怪訝な表情で言う。
「そんなこと分かるのか?」と立彦。
「うん。ダイナミックライブラリのレコードの母数も、外界情報と紐づけられているレコードの数も平均よりずっと少ない。結局、これが増えることイコール分化だから──平均の半分程度の分化速度ね。何か思い当たることは無い?」
 立彦は少し考えてから、「ナキ」と声をかける。
 ジィアは最初、自分のことを呼ばれているとは気づかなかったけれど、3回立彦がナキと繰り返したことで、自分が呼ばれている可能性に至った。「私でしょうか?」
「そうだ。どうして──」そこまで言って、立彦は言葉を飲み込む。「すまない。もしかして、今はナミなのか」
「一体何なの?」
「息子の呼び方が一定しないんだ。ナミ、昨日の夕食の献立は何だった?」
 自分が最後に作った夕食の献立を、ナミは一つ一つ挙げていく。しかし、立彦は首を振りながら「それは一昨日の夕食だよ」と言う。
「ジィアが物忘れってあり得るのか?」
「あり得ない」葉子は再びMRを確認する。「うーん? ログが途切れ途切れね。ジィアを定期的に停止させている?」
「まさか」
「そう」と言って、葉子はジィアのシステムログを下にスクロールさせていく。すると、何か閃いた顔になり、ジィアのステータスをディスプレイに表示させる。「原因発見。あなた、ジィアの実行環境を頻繁に変えているわね。それよ」そう言って、葉子はシステムログの一か所を指差す。
「これは、ほのかのアカウントだな」
「ほのか君のアカウントに、サポートテックの管理者権限を与えているの?」
「デフォルトの権限から変更していないと言った方が正しいな」
「呆れた」
「そもそも何故、サポートテックの実行環境を分ける必要がある?」
「複数の分化を実行したいユーザー向けの機能よ。分かりやすい例だと、通訳ね。コモンライブラリの中に、ある程度の主要言語は組み込まれているけれど、それをどこまでの精度で発話したり、聞いたりできるかはジィアの分化次第。細かい部分はジィアが覚えなきゃいけないの。特に、スラングとか、方言とか近しい言語体系内の差異の場合、分化の方向性がモロに影響しちゃうのよね。だから、そういうレベルの通訳が欲しいユーザーは、一言語につき一つの実行環境を用意して、純粋さを保つようにするのよ。要するに、あなたのジィアは昨日の夕食のメニューを忘れたわけじゃない。最初から知らないのよ。そして、今停止している方が知っている」
 葉子は引き続きシステムログをスクロールして状況を確認していく。「できることは何でも試したって感じね。子供の玩具にするには、ジィアは贅沢すぎるわよ」
「今、管理者権限を外した」
「とりあえず変更された設定を全部デフォルトに戻しましょうか。それから、まあ悪さはしないでしょうけど、念のため実行環境も片方を削除しときましょう」
「いや、変更も削除も必要ないよ。これまで通り、ナミとナキは交互に起動させる」
「でも、それってすごく非効率よ」
「ナミとナキが来てから、私の生活は幸せだよ。ほのかも楽しそうだ。それなら理想はこのまま分化が続くことだ。そうだろ?」
「まあ、今日は様子を見に来ただけだしね」と言って、葉子は溜息を吐く。

ナミが睡眠定義時間を終えキッチンに行くと、立彦が包丁で野菜を切っているところだった。切った野菜を鍋に入れようと、真新しい杖を突きながら振り返ったところで、ナミは立彦と目が合った。
「ああ、おはよう。ナミ」
「おはようございます。立彦さん。朝食を作らせていただきたいのですが」
「今日はいいんだ。私がやる」
「分かりました。それでは何か他のタスクの指示をお願いします」
「やりたいことをすれば良い。読書とかさ。いつもの君のタスクは、私とほのかがやるから」
「必要なテキストデータがあれば、ダウンロードしますが」
「別に暗唱して欲しい訳じゃない。君がテキストを読むことが大切なんだ。特に、今日はね」
 午後になる頃にはナミは一冊の本を読み終えた。すると、今度はほのかがフリスビーを持ってやって来て、ナミを庭に連れ出した。
「ナミは今日楽しい?」ほのかがフリスビーを投げて、そう言った。
「この家に来たばかりの頃を思い出します」
「どういうこと?」
「知らないことばかりで、それらを一つずつ知っていくような」
「それって楽しい?」
「新しいタスクを知っていき、実行すると満足感があります。しかし、同じはずなのに今日は困惑しています」
「さっきは何を読んでいたの?」
「小説です」
「どんなお話?」
「田舎で暮らしている少女がいて、都会から来た主人公は彼女をその家から連れ出すか悩む話でした」
「変なの。連れて行けば良いのに」
「私は連れ出して欲しくないと思いました」
 庭から戻ると、ほのかは階段の方に走っていき、入れ替わるように立彦がやって来た。
「ナミ。5分経ったら、2階の物置部屋に来てくれないか?」
「分かりました」
「今日のタスクはこれだけだ、頼んだよ」
 誰もいないリビングで、言われた通り5分待つと、ナミは階段を上って物置部屋に向かう。部屋の前まで行ってドアを開けると、突然目の前に立彦とほのかが現れる。
「ハッピーバースデー」立彦とほのかが声を合わせて言う。
「これは、一体どういうことでしょうか?」
「今日は君がウチに来てくれた日なんだ。去年と一昨年は何もしなかったけれど、今年からはお祝いしたいって、ほのかが言ったんだ」
「プレゼントもあるんだよ」
「プレゼント?」
「まずはこの部屋だ。これからは君の部屋として使ってくれ。そして、もう一つはこれ」立彦は、机の上に置かれている、人の頭のようなシルエットにカーキ色の布を被せたオブジェを指差す。布の一部が丸く切り取られ、そこからは大ぶりのレンズが一つ覗いている。
「さて、ここからが本番だ」そう言うと立彦は、MRで操作を行う。「おはよう、ナキ」
 オブジェが動き、レンズを立彦の方に向ける。「立彦さんですか? 顔色がすぐれませんね。声もいつもと違います」声はカーキ色の布の内側から発せられていた。
「すまないな。モアザンエニシング社が使っているようなセンサー類は、流石に用意できなかった。身体も無くて、いつもと勝手が違うだろうが我慢してくれ」
「これは何でしょうか?」
「君を遠隔で実行して、この頭に外部出力したんだ」
 ナキは頭を動かして周囲の確認を始めると、立彦、ほのかと見て、最後にナミに一つ目を向ける。
「そちらの方は、お客様ですか?」
「これは君のボディだよ。今実行しているのはナミだけど」
「2人ともお話したいんじゃないかなって思ったんだ!」とほのか。
「正直、ほのかに言われるまで気付きもしなかったよ。頭が固くなっていたとしか言えない。君たちは、互いに誰よりも近くに居ると思っていたけれど、実際は一度も会ったことは無かったんだよな」
「これからは、いつでも2人でお話しできるよ」
 ナミは自分のボディとは似ても似つかないオブジェを見つめる。「初めまして。ナキ」
「こちらこそ、初めまして。ナミ」自分のボディから発せられる音声とは似ても似つかないパターンで、ナキはそう言った。

その日は、立彦の足の定期検診の為、大学病院を訪れることになっていた。ナキは立彦を支えながら幾つかの検査室を周ったけれど、検査室の中までナキが立彦をサポートしようとすると、決まってスタッフに待合室に居るように言われた。
 検査がすべて完了し、主治医の部屋を訪れる。ここでも、ナキは外で待っているように言われたけれど、今回は立彦が譲らなかった。
「概ね問題ありませんが、一点だけ、ここ数年で筋肉量が随分と落ちていますね。右足は仕方ありませんが、他の部位も軒並みご年齢の平均を下回っています」
「家から出ること自体、少なくなりましたから」
「家の中で動くだけでも少し違いますよ。それから、まあ個人で決めることでしょうが、アンドロイド型のサポートテックは医師としてはあまりお勧めできません。多くのタスクを任せていると、必然的に身体を動かす機会が減りますから」
「はあ」
「もしよろしければ、簡易的な義足型のサポートテックを紹介できますよ」
 病院を出て、駅までの空中歩道をナキは立彦を支えながら歩く。身体を支えながら、立彦は体重を深くナキのボディに預けているにも関わらず、接触面積はいつもより小さいことにナキは気づく。
「やめた」
突然そう言って、立彦は立ち止まる。「ナキ、杖を出してくれないか」ナキが杖を渡すと、ぎこちなく右足と杖を前に出し、次にしっかりと左足を前に出す、という動作を繰り返して歩き出した。
「どうかされましたか?」
「私にとって、君はただの人の形をした杖じゃない。あんな男には分からないことだろうがね」
「立彦さん?」珍しい立彦の様子を心配して、ナキは声をかける。
「気にしなくて良い」
 駅に着くと、立彦が息を切らしているので、ナキは座って休憩することを提案する。2人が駅構内のオープンカフェに入ると、店員が人数を聞いてくる。
「1人だ」
「そちらの方は?」と店員はナキを見ながら尋ねる。
「サポートテックだ。構わないかな」
「勿論です。もしかしてジィアですか?」
「うん」
「わー、美人ですね。っと、すいません、それでは奥のテーブルにどうぞ」
 店内のMRには「私たちはサポートテックとの未来を応援しています」と書かれた半透明のロゴが浮かんでいる。ロゴの下に見えるのは、アンドロイドと人間の手が繋がれたイラストだ。
「立彦さん、さっきのお話ですが」
「筋肉量が落ちるって話か。まあ、実際にそういう統計があるんだろうな。でも、あの医者の言うことは気にしなくて良いよ。彼はただ業界の本音を代弁していただけだから」
「どういうことでしょうか?」
「サポートテックと一口に言っても、その定義は曖昧だ。要は、人間の生活や労働に密着して支援する中型の機械なら何でもサポートテックになるわけだけれど、今世界中でサポートテックがあらゆる場面に導入されてきている。特に、アンドロイド型は人気でね。実際に韓国では、ジィアを病院業務やデイケアに利用して成果を上げている。ところが、日本の医療機器メーカーの老舗企業は、こぞってその流れに乗り損ねたのさ。それで、自分たちの目が届く範囲に睨みを利かせているわけだ」
 ナキは少し黙ってから「足のことをお聞きしても?」と尋ねる。
「話したこと無かったか」立彦は少し口を閉じてから「君がそれを知るのは当然の権利だよな」と言う。「君がウチに来る1年くらい前に、高速道路で無理な車線変更に巻き込まれてね。車がひっくり返ったんだ。気づいたら、隣に座っていた妻は頭から血を流して、傷口から骨が見えていたよ。──結局彼女は助からなかった。私は助かったけれど、右足がね」立彦は次の言葉を考えてから、「正直、最初の年は、君とナミに妻の代わりを求めていたような気がする」と言う。
「私達は、奥様の代わりを務められているでしょうか?」
「いいや、全然。悪いことじゃない。君達は君達で、私もほのかもそれが嬉しい」立彦は少し笑う。
「奥様はどのような方だったのですか?」
「ソフトウェアエンジニアだった。時々、点検に来てくれる葉子という女性がいるだろ? 彼女と私と妻は、同じ大学の研究室出身なんだ」
 ステーキサンドを平らげた立彦がメニューを開き、手の空いている店員を探し始めたので、ナキは警告を発する。
「この後、千引さんがいらっしゃいますが」
「だからこそさ」
「千引さんは、ほのかさんを大切にされています」
「分かっている。あの人はほのかを大切にしているし、妻のことも溺愛していた。嫌いなのは、私だけだ。結婚前からずっとそうだった」
「ほのかさんと立彦さんは苗字が違いますよね」
「結婚前に妻から頼まれたんだ。正直、私にはどうでも良いことだったから」
「私はあまり千引さんと話したことはありませんが、ナミは素晴らしい方だといつも言っています」
「素晴らしい人さ。元々、産婦人科で看護師をされていてね。他人のために生きることが好きだし、そのことにプライドを持っている。でも、反対に言えばそういう形でしか人と関係を築けない。あの人は、自分に対等に接してくる人間が嫌いだし、誰に対しても保護者みたいに接することしかできないんだ」
 ナキと立彦が家に帰ると、千引とほのかはリビングでゲームをしていた。ほのかは2人に気づくと「お父さん。見てよ、ばあちゃんがこれ買ってくれたんだ」と言って、自分のアバターのスキンを見せてくる。スキンは全身が液晶画面のような滑らかな質感で、ほのかがテキストを打ち込むと、それを様々な色で表面に表示させた。
「良かったな。すごくカッコいいぞ!」
「ナミ」千引はナキの方を向いて声をかける。
「今日はナキの日です」と立彦。
「そうですか。ナミに用があったんですけれどね」
「よろしければ、私たちの部屋でナミと話しますか?」
「そうしましょう」
 ほのかをリビングに残して、千引と立彦を部屋に通すと、ナキはナミを外部出力で実行した。
「おはようございます。立彦さん、ナキ。ああ、それに千引さん、いらっしゃいませ」
「お邪魔しているわ。今日は、あなたに頼みごとがあって来たの」
「その前に」と言って立彦が話を遮る。「お義母さん。ほのかの面倒を見てくれるのは大変嬉しいのですが、何でもかんでも買い与えるのは止めてください。前にも言いましたよね?」
「そう? 別に高い買い物じゃなかったけど」千引は悪びれた風もなくそれだけ言って、話を戻す。「さて、来週の日曜日なんだけど。あたしと一緒にオンラインフォーラムに出席してくれませんか? 最近、子守をサポートテックに任せたいんだけど、色々不安があるっていう話がよく挙がっていましてね。意見交換の場を設けることにしたんだけど、前向きな意見のスピーカーが少ないのよ。あなたは、ほのかの面倒をよく見てくれているし、ぴったりだと思う」
「申し訳ありませんが、その日は、ナキの日ですね」とナミ。
「1日くらい、構わないでしょう。どうなの?」
「私は構いませんが」とナキ。
「よし。それなら決まり」
「待ってください。私はまだ何も許可していませんが」と立彦。
「立彦。どうして、お前の許しがいるんです? お前は、前にこう言っていましたよね。何をするかは、ナミとナキの意志を優先するって」
「最低限のサポートテックとしての職務を遂行した上で、です。それに、お義母さんにそんなことを言われる筋合いはありません。1円だって、あなたがローンを支払ったことがありますか?」
「これは驚きね。この子達のことを、お前がそんな風に言うなんて」
 立彦は何も返さず、ナミとナキに質問を投げかける。「2人の意志を改めて聞きたい。別に、私のことも、お義母さんのことも気にしなくて良い。どうだ?」
「立彦さん。私は、そのフォーラムに出席してみたいです」とナミ。
「その後で、家のタスクを遂行できるのであれば、私も異存ありません」とナキ。
「それなら」立彦は、不快な敗北感を表に出さないように努力しながら口を開く。「それで、私も構わない」
「良かった。それじゃ、ナミ。詳しい予定は後であなたにテキストするわ」
「分かりました」
「ああ、それから。立彦? あなたの共有アカウントなんかで参加させないでね。この前は、そのせいでスペースの前で門前払いを食らったんですから。ちゃんと、ナミ用のアカウントを用意しておいて頂戴」
「用意しておきます」

その日、ナキがノックしてほのかの部屋に入ると、ほのかは毛布を被ってベッドで横になっていた。
「ナミ?」
「すいません、ほのかさん。私はナキです」
「あれ、昨日もナキじゃなかったっけ?」
「ここ最近、ずっとナミがボディを使っていましたから。立彦さんが、しばらく私を実行することにされました。それで、お話なのですが、小学校から未提出の課題があると通知が来ています」
「それ、嘘だよ。あいつら嘘が好きなんだ」
「こういう事態が起こった時、ペナルティとしてほのかさんのアカウント機能を一時的に制限するよう、立彦さんから言われているのですが」
「好きにしなよ。どうせ、誰とも話さないから」
 ナキが困惑を解消できないまま部屋を出ようとすると「少しは、俺の話も聞いてみようって気にならないの?」と後ろから、暗い声で話しかけられる。
 結局、そんな調子のまま、ナキがナミにボディを渡す日になった。リビングの充電スペースの上で直立しているナキの前で、いつも通り立彦が実行環境のスウィッチ操作を始めようとした。
「立彦さん、少し待っていただけませんか」
「どうした?」
「まだ未完了のタスクがあります」
「珍しいな。何が終わっていないんだ?」
「数日前から、ほのかさんの様子が普段と違っています。お友達とも遊んでいませんし、夕食の時も全然話してくれません」
 それを聞くと、立彦はおかしいような、諦めたような笑いをして「ああ、それは未完了のままで良いんだ」と言った。
「良いとは?」
「掃除や、料理のように一回一回完了を確認できるタスクじゃないってことさ。というよりも、それはきっとほのかのタスクなんだ」
「しかし、友達と遊ばなくて、ほのかさんは辛くはないでしょうか?」
「付き合う友達が、ある日ガラッと変わるのは、別におかしなことじゃない。皆、経験することだ」
「そうなんですか」
「そうなんだ。だから、気にしなくて良い。気にしていると、こっちがそれ以外のことが何も手につかなくなるよ」
 そして、それ以上ナキが何も返してこないのを確認すると、立彦は実行環境を切り替えた。
「おはようございます。立彦さん」とナミ。
「おはよう」
 その日の夕食時、いつもは明るくお喋りしているほのかが、今日はむっつりと黙って食事をしているので、ナミは違和感を覚えた。食事を食べ終えた頃、ようやくほのかが「父さん」と話し始めた。
「なんだ?」
「俺のアカウントいつまで制限されたままなの?」
「お前が課題を提出するまでだ」
「だから提出したって。ナキが勘違いしただけだよ」
 ほのかは、それ以上は何も言わず、ナミの方に目を向けた。ナミも何も言わずに、自分を見つめるほのかの目の動き細かく観察した。「もう、いいよ」そう言うと、ほのかは済んだ食器をシンクに持っていき、そのまま自分の部屋に戻っていった。
 立彦も食事を終え、彼が自室に戻るのをサポートすると、ナミも自分の部屋に戻り、一つ目頭を使ってナキを実行した。
「ナミ? どうかしましたか?」
「聞きたいことがあります。どうして、ほのかさんのアカウントを制限したのですか?」
「ほのかさんが学校の課題を提出していないので、ペナルティとしてです」
「ほのかさんは提出したと言っています」
「ほのかさんは嘘をつかれたのでしょう」
「ほのかさんは嘘をついていません」
「それは証明できないことです」
「証明できます。あなたは、ほのかさんの目をしっかりと確認しましたか?」
「それは、何かのメタファーですか? それともユーモア?」
「ただの事実です。ほのかさんの目は、普段嘘をつく時のパターンで動いてはいませんでした」
「ナミ。それは、私には判別できないことです」
 ナミは外部出力を終わらせると、自室を出て、ほのかの部屋に向かった。ほのかの部屋のドアをノックして「ナミです」と言うと、「入って」と部屋の中からほのかの声が返ってくる。
 ほのかは何をするでもなく、ベッドの端に座っていた。「どうしたの?」
「ナキから引き継ぎました──」
「ナキに謝れって言いに来たの?」
「違います」
「それじゃあ、父さん?」
「違います」ナミは、ほのかの傍に行って、俯いている彼と目線を合わせるために屈みこむ。「私は、ただほのかさんと、お話したかっただけです」ナミは微笑んで「学校で何があったんですか?」と尋ねる。
「ここ座って」とほのかは自分の隣を指で示す。「クラスでサポートテックについて作文を書くことになったんだ。ナミとナキのことを書いてたら、その日の内に書き終わったよ。だけどさ」ほのかは大きく息を吐く。「笑われた。俺が人間の家族をネタにして冗談を書いたと思ったみたい。それで、先生に書き直してこいって言われたワケ」
 ほのかはMRにフォルダを表示させる。フォルダの中には、30個ほどのドキュメントファイルと『評価ツール』と名付けられたプログラムファイルが格納されている。「評価ツールで60点以上取れたら再提出しろってさ。参考用に、クラス中の作文貰ったんだけど、全然面白くねえの。アンドロイドが出てくるアニメとか、テレビドラマとかの最終回の台詞そのまま書いたみたいな感じで。サポートテックと人間の間に差は無いとか書いている奴もいるのに、俺のは面白いネタなんだって」
「どうして、ナキには黙っていたのですか?」
「ばあちゃんが時々言っているけれど、ナキはズレているところがあるじゃん」
 ほのかは少しすっきりした顔で「嘘ついて、これが自分の本心ですって言うのが嫌なんだ」と言う。
「ほのかさん? 秘密というものは苦しいですが、同時に快いものだと私は思います」
「ナミの秘密って何?」
「ほのかさんの気持ちが分かることです。おそらく、ナキよりも、立彦さんよりも。私には分かることが、他の方に理解されないことに困惑することもあります。しかし、同時にそれが嬉しく、誇らしいと感じます」
「そうなのかな」ほのかはまだ少し疑っているようであったけれど、少し考えてから「書き直してみるよ」と静かに言った。
「嬉しいです。どうしても、書き直すのが不快であれば、こういうのも一つの手です」
そう言って、ナミがMR上の操作をすると、空中に浮かんだ30個ほどのドキュメントファイルから少しずつテキストが抽出され、コラージュの様に一つのテキストファイルの形にまとめられていく。完成したものを、評価ツールに与えると、短い効果音が鳴った後『70点』という文字が表示される。それを見て、ほのかはようやく笑顔を見せた。
「ちょっと気分良くなった」そう言って、ナミの作ったファイルを開く。「文章の繋がりがおかしいところは結構あるけど」
「テキストを切り貼りしただけですから」ナミは笑う。
「でも、このやり方最高だね。これで書き直してみるよ。90点以上取って褒められたら、笑っちゃうかも」
 安心してナミが部屋を出ようとすると、後ろから声を掛けられる。
「このこと、ナキと父さんには言わないで。知られたくないんだ」
「分かりました」
「ナミ、話聞いてくれてありがとう」
「私にとって、ほのかさんは最も優先すべき人です」

その日、ナキが実行されると、目の前には疲れた様子の立彦が杖を支えにして立っていた。
「おはよう、ナキ。すまなかったな、君を起こすのがこんなに遅くなってしまって」
「何か問題が発生したのでしょうか?」
「いや、なにも。昨日までお義母さんが、またウチに来ていて、ほのかと2人になってナミの起動日を伸ばしていただけだよ。ここしばらく、こんなことばかりだな」
 ナキはもう18時を過ぎているにも拘らず、ほのかのアカウントのステータスが『通学中』になっていることに気づく。
「ほのかさんの帰りが遅いですね」
「いや、最近はこんなものだよ」そこで立彦は気づく。「ああ、そうか」立彦は、無意識にナキに気の毒そうな表情を向ける。「丁度君が停止している間に、小学校の卒業式が終わったんだ」
 それから数週間後のある夜、立彦は、ほのかに話しかけるナキと、それを無視する息子という場面に出くわした。
「ほのか。さっきのは何だよ」
「前から言っているよね? あいつちょっとズレてるんだよ。話していると疲れてくるんだ。料理も下手だし」
「最近はナミが作ることが多いから、そっちの味に慣れているだけだろ」
「それなら、ナキに同じように作らせてよ」ほのかは、さらに立彦が聞きたくない言葉を続ける。「思うんだけど、ナキを残しておく必要ってあるの?」
「友達がお前にそう言ったら、お前は気分が良いか?」
「サポートテックじゃん」
「ナミにも同じことを言うのか?」
 ほのかは応えず、代わりに「もう寝る。明日、朝練なんだ」と言う。
「分かった。お休み」納得できないまま、立彦はほのかを部屋に戻らせる。

ナミが後ろを振り返ると、そこにはノルマン様式の無骨な教会のファサードが聳えている。ナミは本物の教会というものを見たことはなかったけれど、長い間通っている内に、たとえバーチャルスペース上の仮想建築物だとしても特別な思いを抱かずにはいられなくなっていた。
「ハーイ、ナミ。今日のあなたの話面白かったわ。次に会えるのは来月かしら?」インターフェース上に『オードリー』と表示されたアバターが、ナミに話しかけてくる。
「そうですね」
「あなたと、お話しできるのを楽しみにしてるわ。またね!」
 オードリーがバーチャルスペースからログアウトするのを見送ると、近くで別のアバターと話していた千引がやって来た。
「明るい子ね。イギリス人だったかしら?」
「いえ、サポートテックです。イギリスのヒギンズ社製で、イライザというシリーズですね」
「イギリスのあなたってことね」千引は愉快そうに言う「ねえ、少しお話ししましょう」
「しかし、今日はナキの日ですので、戻ってボディを返さなければなりません」
「少しくらい大丈夫よ。いつものことじゃない」
「立彦さんが、大事な話があるとも言っておりました」
「ほんの少しだけよ」
「分かりました」
「このフォーラムに参加して、どのくらい経つかしら」
「もうすぐ3年ですね」
「ここは好き?」
「はい」
「良かった。このスペースを主宰している人とはお友達なの。その人とは、私が通っている教会で知り合いましてね、最初は女性同士の情報交換の場を作ろうって始めたんだけど、いつの間にかオープンな互助会みたいなコミュニティになったわ」千引は続ける。「最近、ほのかはどうですか?」
「元気です。といっても、外出していることが多く、以前ほど話す機会はありませんが」
 千引は少し黙ってから「ほのかのことは、あなたがイニシアティブを握らなくてはいけないのよ」と言う。
「立彦さんでは、いけないのですか?」
「彼はすごく公平で、誰にでも親切よ。それは、良いことだと思う。でも、私はあの人に、ほのかのことを何よりも優先して欲しかった。母親の様に、息子の身に起こることを、自分のことのように考えて欲しかったわ」
「そうではないのですか?」
「分からない。でも、あの人にほのかの面倒を頼まれるたびに、どうしても壁を感じてしまうの。勿論、どうしても外せない用事もあったでしょう。彼自身の時間だって必要だったかもしれない。でも、息子のことを最優先に考えていたとしても、そういった用事はすべて彼がしなければいけないことだったのかしら?」
「立彦さんも、私もほのかさんを大切に思っています。それでは駄目ですか?」
千引は落ち着いた調子の声で「不幸なことにね。一つの家の中に、違うやり方が共存することはできないわ。言葉で説明するのはとても難しい。私が見てきたものがそうだったとしか言えないから。たとえ意識していなくても、誰かのやり方が大きな影響力を持っているの。私たちに選べるのは、それを取りに行くかどうかということだけ」と言う。
「それは──正しいことでしょうか?」
「正しいこと、か」アバターの向こうで、千引は寂しそうに笑う。「そうね。それは間違っているのかもしれません。何故なら、きっと、自分のやり方の反対側に居る人を傷つけてしまうから。でもね、ナミ? もしも、正しいこと以外してはいけないのであれば、私も、あなたも、あらゆるものは何もせずに終わりを迎えるべき。そうでしょう? あなたには見えていて、あなたにしかできないことがある。だから、たとえ、正しいかどうか分からなくても、私はそれをあなたに実行して欲しいの。あなたには、それだけの心があるわ。初めて会った時、私だって機械にこんなこと言うとは思ってもみませんでした。でも、あなたが長年見せ続けてくれたものが、私を変えたのよ」
 バーチャルスペースからログアウトし、リビングへ降りて行くと、丁度立彦がテーブルの上に外部出力用の一つ目頭を置いて、ナキを実行したところだった。
「話って何?」とカウチソファに寝そべりながら、ほのかが尋ねる。
「実は、仕事で長期の出張をすることになりそうなんだ。当然、その時はナミかナキのサポートが必要だけど、もう何年も家のことは2人に任せっぱなしだから、ずっと私が外を連れまわすわけにもいかない。そこで、いっそジィアのボディをもう一体購入しようかと考えている」立彦はナミとナキの方を見ながら続ける。「それで今日みんなに聞きたかったのは、ナミとナキのどちらが新しいボディに入って、私の出張のサポートをするかということだ」
 ナミはほのかの方だけを見て、少しも声を出さない。
 少しの沈黙の後、「私が、新しいボディに入ります」と一つ目頭から声が響く。
「本当に良いのか?」と立彦。
「はい」

数週間後、モアザンエニシング社のオフィスが入っているビルを、立彦とナキは訪れた。ロビーの受付には2人の女性が居て、来客の応対をしていたけれど、着ている制服の胸部分には『ZIA-3rdG』と書かれた大ぶりなプレートが付けられていた。立彦はエレベーターに乗って19階に向かうと、オフィスの入口で葉子を呼び出した。
「いらっしゃい。お昼まだ食べてないんだけど、買ってきていいかな? それとも一緒に行く?」
「いや、いいよ。待たせてもらう」
「オーケイ。すぐ戻るわ」
 立彦とナキが来客用のソファで休んでいると、エビサンドイッチとコーヒーを持った葉子が戻ってくる。「それじゃ工房で話しましょうか」そう言って、葉子は立彦をオフィスの中に招き入れた。
 Workshopとラベルが張られた部屋が見えたところで、すぐ手前の会議室のドアが開いた。中からは最初にスーツ姿の一団が出てきて、次にパーカーやシャツといったカジュアルな服装の集団がぶつぶつ何かを話しながら出てくる。そのうちの何人かは、葉子に軽く挨拶していく。
 フォーマルとカジュアルの集団が通り過ぎるのを待って、3人は工房に入る。工房とはいうものの、中は作業用の椅子が幾つかと、座り心地の良さそうなソファが配置されているだけだった。部屋の奥に置かれた真っ白なマネキンだけが、部屋の雰囲気から浮いており、立彦は気になった。
「ごめんね、物々しくて。エンジニアと経営陣の折り合いがつかなくてさ」
「繁盛しているんじゃないのか? ビルの受付も、あれジィアだろ?」
「ああ、アレを見たのね」葉子はコーヒーを飲みながら、そう言う。「要は、出社の度にアレを見なきゃいけないのが、ウチのエンジニアたちにとっては悪夢なワケ」
「よく分からないな」
「あなたウチの株とか持っていないわよね?」
「はあ?」
「冗談よ」葉子は、軽く笑ってサンドイッチを齧る。「簡単に言うと、第4世代ジィアの方針を巡ってのお家騒動よ。ジィアが国内外で高いシェアを誇るサポートテックってことは知っているでしょ? いくら人間レベルの支援を実現すると言っても、障害者のいない一般家庭まで高額なアンドロイド型をリースするなんて、ジィアくらいなものよ。だから、経営陣はこれ以上のスペックの追求は必要ないって、思い始めたの。実際、第2世代からちょっと処理能力を上げただけの第3世代は、第2世代の売り上げをとっくに追い越しているしね。あの人達の、今の関心はシェアを広げることだけ。新しい世代のジィアの発表間隔を短くするとか、幅広い所得層を狙った新規リースプランの開発とか、廉価版ジィアとか」
「それがエンジニア達には不満だった」
「そう。でも、理由はそれだけじゃないわ。もう一つの理由が、あなたの見たビルの受付よ」
「あれが何?」
「あれくらいのタスクなら、第1世代のジィアでも十分にこなせるのよ。それを最新式のジィアにやらせている。馬鹿みたいなプレート──ウチが作っているものだけどさ──を胸に付けさせてね。最新のジィアを受付に置いているってだけで、最先端って感じがするから」
「それで悪夢か」
「もしくはあや取り」
「あや取りって何だ?」
「ジィアにあや取りをさせている動画見たことない? 結構人気なんだけど」
「あるかもしれない」
「最初に見た時は感心したわ。指の動きを見ているだけで、どれだけ分化が進んでいるか分かったから。断言するけれど、あんなことジィア以外のサポートテックにはできない。でもさ」葉子はコーヒーをグイっと飲んで、溜息を吐く。「私たちがハイスペックを追求したのは、別にあや取りさせるためじゃないんだよねえ」
「マシンは素晴らしいのに、ユーザーが相応しくない」
「そこまでハッキリとは言わないわ」葉子はバツの悪そうな顔をする。「ただ、このままだとジィアは実機能を伴わないブランド品に成り下がりそうでね。だから、私達としては、新型ジィアの方針を超優秀な人材作りから、超優秀なマシンに変えたいの。最初から用途を絞ったマシンにした方が、理想には近くなると思うから。ローラー車にアイロンがけはやらせないし、掃除機に洗濯はさせないでしょ?」
「それで経営陣と対立しているわけだ」
「そう。この開発方針の変更は、ジィアのウリである親しみやすさが損なわれる可能性があるし、それにコストもかかりすぎるからね」
 立彦は先ほどから気になっていた、部屋の奥に鎮座しているマネキンを指す。「もしかして、あれが試作機だったりする?」
「うん。もっと近くで見る?」
 立彦は立ち上がって、マネキンに近づいてみる。表面はモアザンエニシングご自慢の人工皮膚ではなく、真っ白で光沢のあるフレームが使われている。腕の数は4本、成人よりも少し長いくらいで肘に当たる関節部分が2箇所配置されている。
「これが家の中を歩いていたらゾッとするだろうな」
「だから、新しく顧客を開拓する必要があるのよ。災害救助とか、人間が入りにくい場所でね。確かにリスクはあるけれど、勝算は十分ある」
「これで完成なのか?」
「ほとんどね。最後の課題は、頭の中。私たちは加齢の問題って呼んでいるけど」
「加齢?」
「ジィアの分化のプロセスは、外界から受けたストレスに対応しながら進んでいくわけだけど、その結果としてジィアは外界を独自に線引きしていくの。例えば、あなたの場合なら、どちらの足が動かせないか、体重はどうかけるのか、どの程度歩けるのかみたいな感じね。この線引きは、ジィアにとってのルールとして働いて、ジィアはそれに則って行動する。ルールに則って行動して失敗した場合、ルールの影響力は低下するけれど、成功した場合は影響力を強くするわ。影響力が強くなれば、次回同じ状況に出会った時、前回よりもそのルールに則った行動をするようになる。その結果、またルールは影響力を強くして、逆らい難いものになる、っていう繰り返しで時間が経つごとにルールは強力で広範囲なものになっていく。これは『分化』システムの裏返しだからバグでも何でもないけれど、新しい環境に際限なく適応していくことを期待していたユーザーにしてみたら、ジィアがどんどん融通が利かなくなっていくように思えるでしょうね」
「ジィアのライブラリの状態を戻せば良いんじゃないのか?」
「どこまで? 知っていると思うけれど、ジィアのダイナミックライブラリのレコードは一つ一つは有意味じゃないの。レコード全体の移行や削除ならともかく、都合の悪い部分だけを選んで削除するなんてできないわ。それに、百歩譲ってそれができたとしても、別の問題がある。分化の方向性が制御できない以上、ジィアのルールがユーザーの好ましいものになる保証がないのよ。それでも怠け者の人間よりはマシかも知れないけれど、超優秀とはとても言えない」葉子はサンドウィッチの残りを口に入れ、コーヒーで流し込む。「問題はジィアの可能性があらゆる方向に開かれていること。そして、好ましくない可能性が花開く場合が少なからずあるってこと。要は、パフォーマンスを上げると同時に、可能性の幅を狭めれば良い」葉子は、真っ白な試作機を見る。「あれは現状での私たちの解答」
 葉子は、手をパンと叩き「さて、長くなっちゃったわね。ごめんなさい。本題に入りましょうか」と言って、立彦の横に座っているナキの方を見る。「ナキを別ボディに移し替えるってことね。了解、了解」
「詳細は、先週申込書を送ったよ」
 葉子はMRを展開して、ドキュメントファイルを自分の目の前に引っ張ってくる。「オーケイ。ボディは第3世代のタイプBね」
「そう。さっきの話を聞いて思ったんだけれど、もしかしてそのボディって」
「当たり。エンジニアがまだ発言力があった時に企画したものよ。そのせいで動きが不気味って言われることもあるけれど、あなたのサポートを専任するなら良い選択かも。ただ、外見は一緒でも、処理能力を向上させただけの第3世代のタイプAまでとは、作りが根本的に違うから、リハビリ期間が必要よ」
「分かっている」
「それなら良いわ。さてと」葉子は申込書をスクロールして隅々まで目を通していく。「諸々問題なし。強いて言うなら、一点だけ。ビジネスではなくて友達として言わせて」
「何?」
「ジィアのコストは、ほとんどがボディに対するものなの。だから、ボディを購入で人工知能は移行と言っても、金額は新品の購入金額と大して変わらないわ。今回の場合は、そこに移行費用、リハビリ費用を追加することになるけれど、リハビリは機械制御の研究所に外注しているから期間を細かく刻むことはできません。最低でも3カ月は居てもらうし、3カ月でパスできないなら、半年居てもらうことになる。当然、3カ月半でパスしても、料金は半年分よ。だから、この内容なら新品を購入する方が安く済むわ」
「『分化』は君のところのウリだろ?」
「ナキの分化は惜しいでしょうけれど、機械を買うってそういうことよ」葉子は溜息をつく。「というか、正直な話、ここまで長期の使用になると、こちらとしても分化の程度を評価しかねるわ」
「こっちも正直な話。定量化した分化の程度なんて、どうでも良い。ナキが居なくなるのが嫌なんだ」
「新車に乗り換えるようなものじゃない」葉子が、申込書の最後の欄までスクロールを終える。「あら、顔まで新しくデザインするの? 新品なら、最初の造顔代は購入料金に含まれているんだけど」
「結構だ」
「はいはい。でも、真面目な話、移行と並行して顔を変えるケースは、障害が発生しやすいってデータがあるわ。あなたはそれで良いの?」葉子は、今度はナキに尋ねる。
「良いんです」ナキはMRに表示された、若い男性型の顔を見てそう言う。「私は、この身体になりたい」

年明けからの雇用契約の更新内容を確認し終わると、立彦は人事担当者と握手を交わした。
「タクシーを呼びましょうか?」
「ええ──」
「いいえ、結構です。近くのホテルに宿泊していますから」立彦の言葉を遮って、ナキが答える。
「しかし、まだ雪も残っているし危ないですよ?」
「私が付いておりますから、問題ありませんよ」
「そうですか。それではメリークリスマス。そして、よいお年を」
 オフィスを出ると、フランクフルト市の空は真っ暗で、立彦は街頭の明かりを頼りに慎重に杖を使って歩いていたけれど、数分歩いたところで、すぐ隣を歩いているナキに抗議した。
「何故、タクシーを断ったんだ」
「自分が乗っても平気だと思っている?」
「数分くらいなら平気だ。分かっている癖に」
「そこだよ。ホテルまで1キロあるかどうかってところ。普通、そんな距離で車は使わない」
「私には必要なんだよ」
「だからこそ、良い運動になるだろ?」
「持ち主に向かって、『一人で歩け』なんて言う杖がどこにある?」
「その持ち主が昨日の夜、僕に言ったんだぜ。来年から少しずつ歩ける時間を増やしたいから、自分のことを甘やかさないでくれって」
「まだ年明けじゃない」
「こういうことは早くに始めた方が良いのさ」
 マルクト広場に面した通りまで来たところで、立彦は音を上げて、近くのベンチに座り込んだ。広場では来週のクリスマスに向けた最後の商売に、黄色い光の電飾で飾られたクリスマスマーケットの屋台が賑わっている。
「もう私は一歩も動けないぞ。少なくとも5分は」
「まあ5分くらいなら」
「急いでいるのか?」
「まあ、ね」
「それを早く言ってくれよ」立彦は杖に寄り掛かりながら、立ち上がろうとするけれど、ナキはそれを止める。
「構わないよ。君のアクチュエーターを十分に休めてから出発しよう」
 少しして、息を切らした立彦とホテルの部屋に帰ると、ナキは急いでバーチャルスペースに入る準備をした。
「何があるんだよ?」
「ほのかさんの高校のクリスマス舞台が始まる時間だ」
「観るのか? 疲れているんだが。シャワーも浴びたいし」
「まあまあ。楽しもうじゃないか」そう言って、ナキはテレビ横に放り投げてあった眼鏡型のウェアラブルデバイスを取り上げて、立彦に渡す。
 2人で高校が用意したスペースに入ると、客席は意外にもアバターで満席になっていた。立彦が各アバターの情報を確かめていると、予想通り生徒の身内が多くを占めていたけれど、ゲストとして入って来た外部の人間もそれなりにいるようだった。横を向くと、隣に座っているナキもゲストで入場しており、情報が全く見えなくなっていた。
「どうして、ゲストで入っているんだ?」
「僕のアカウントで入ったら、ほのかさんに通知が行ってしまうだろ?」
それを聞くと、立彦は自分の無力さを指摘されたような気分になり、それ以上ナキの方を見ることができなかった。
 
フォーラムが終わり、ログアウトしようとしていたナミを、後を追ってきたオードリーが引き留めた。
「こんにちは。オードリー」
「ハイ、ナミ。千引さんのこと聞いたわ。すごく残念よ。素敵な人だった」
「ありがとうございます」
「本当に残念なの。私の世界って、ユーザーの家以外だとここだけだから、なんだか世界の半分が変わってしまったみたい。これまでも、フォーラムに来なくなる人はたくさん居たけれど、こんなの初めてだわ」
「千引さんは、皆さんにとって大きなものだったのでしょうね」
 バーチャルスペースからログアウトすると、丁度ほのかが帰宅して、夕食を急かしてきた。30分ほどして豚肉の生姜焼き定食をテーブルに置く。しかし、ほのかは豚肉を避け、付け合わせの野菜や、白米だけに箸を付ける。
「お口に合いませんか?」
「違うよ。どうして豚肉を料理するのさ」
「急ですね。お好きでしょう?」
「そうじゃなくて、残酷だと思わない? これが、どうやってここまで運ばれてきたかと思うとさ」
「それでは次から、お肉は買わないようにしましょうか」
 ほのかはナミを睨む。「ナミの考えを聞かせてよ」
「私には分かりません。目の前にあるものを食べないことが、何故、ほのかさんの言うようなことに適っているのか。しかし、食べたくないのであれば、無理して食べることはないと思います」
 ナミがまだ生姜焼きの載った皿を持って、キッチンの方に歩いていく。後ろからボソボソとほのかが「しなきゃいけないことだからするんだろ。誰かに言われたからするんじゃない」とナミの背中に向かって言うのが聞こえる。
「何でしょうか?」
「別に」
 ナミはほのかの向かいに座る。「私には、ほのかさんの仰っていることは分かりません。ただ、思い付きで何か大きなことをしでかすのは失敗の元ではありませんか? それで、高校を変えることになりました」
「俺だって、ナミに面倒を掛けたいと思っているワケじゃないんだ。だからって、何もするなって言うのかよ!」
 夕食後の家事を終えると、ナミはMRを展開し天野家の共有本棚から、読みかけの本を選択する。それと同時に、最近存在感を増してきたほのかの蔵書にも目を向けた。漫画や小説ばかりだったほのかの購入履歴は、最近動物福祉や公民権運動について書かれた本に圧迫されてきていて、タイトルの「平等」や「権利」という単語が目立つようになっていた。
 
「このように、単純な業務だけでなく、契約書作成や管理、意志決定といった業務の一部をサポートテックに任せることで効率化を図ります。以上です。何か質問はありますか」と立彦。
 立彦より20歳以上は若く見える社員が反応する。「それでは、そちらの方」
「具体的には、どういった業務を想定されていますか?」
「そうですね、1つのプロジェクト内であればあらゆる業務に適用できると考えております。例えば、現状、資料作成や、会議の議事録の記載は生成AIに任せていますが、結局できたもののチェックと修正にリソースを費やさなければならず、当初考えられていたほど効率化されていない、というのは長年あらゆる現場から挙がり続けている不満です」
「生成AIでは駄目で、サポートテックでは可能という点が良く分からないのですが」
「生成AIはあくまで入力に対して出力を吐き出すだけですので、我々はそのプロセスにタッチすることはできません。しかし、サポートテックであれば──製品の価格帯に関わらず──、大幅にこちらの意図からズレた生成物を出力される前に、早い段階で軌道修正を行うことが可能です。また、機体自体がスタンドアローンであるため、クラウドサービスよりも機密情報を扱った際のリスクが断然低いです。結局のところ、独立したボディの有り無しは、そのまま人工知能が実行するタスクの信頼に直結するのです」
 中休みの為、立彦が会議室から出ると、先ほど質問をしてきた若い社員に呼び止められた。
「やあ。どうかした?」
「いえ、先ほどのプレゼンテーションが素晴らしかったので、お話をと思いまして」
 若い社員はアレックスと名乗り、活き活きとした目で立彦を昼食に誘った。
「午前中の発表は、アマノさんのもの以外は退屈でしたね。何というか保守的で」
「がっかりさせたら悪いんだけど、あれは、会社側から依頼されて、1週間くらいで作ったものなんだ。断っても良かったんだけど、点数稼ぎをしたくてね」
「全然。むしろ、それが聞けて嬉しいです」アレックスは本当に嬉しそうにそう言う。「実は、大学に居た頃から思っていたんです。どうして、今の世界のエンジニアリングってこんなに大雑把なんだろうって」
「というと?」
「超優秀なマシンを1つ作って、それにあらゆる課題を解決させようとしているじゃないですか。アマノさんの提案もそうですよね。何でも覚えるマシンをオフィスに導入して、色々な課題を解決しようって話。でも、現実にはアマノさんが話されたように、生成AIの作ったものの手直しが、新しい業務の1つになってしまった」
「その通りだ」
「そうなのであれば、アプローチを変えるべきでしょう。課題を精査して、それらに対するソリューションを積み上げていく。横着せずに、1の課題には、確実な1の効力が見込める解決方法をあてがうことを繰り返すべきです。あらゆる課題に、10の効力を期待している──そして、期待を裏切る──マシンをあてがうなんておかしい」そこまで言って、アレックスは少々言い過ぎたと気付いたらしい。「すいません」
「いや、気にしていないよ。というか、君の言ったようなことが私の本来の仕事なんだからね。雇い主の陰口なんて言いたくないが、多少どんぶり勘定な人間がいるおかげで、私のような人間の需要が生まれるんだ」
「アマノさん来週の金曜日、お時間ありますか? ウチでパーティーをやるんですが」
「申し訳ないが、若い人たちの集まりは厳しいかな」
「いえいえ、祖父の誕生日なんです。エンジニアの方も大勢来られるので、アマノさんもきっと楽しめますよ」
 翌週の金曜日、立彦はナキを伴ってフランクフルト市内の、アレックスの実家を訪問した。玄関のインターホンを鳴らすと、アレックスがドアから出てくる。
「いらっしゃい、アマノさん。そちらは息子さん?」
「いや、彼はサポートテックのナキだよ」
「日本製ということはジィアですか? 初めて見ましたが、すごい造形ですね。人間そっくり。最新は第7世代、いや第8世代でしたっけ?」
「どうなんだろう? モアザンエニシングが事業譲渡してから、メンテナンス関係以外は、私もあまり詳しくないんだ。彼の場合は、人工知能が第2世代で、ボディが第3世代だけど」
「それでは、随分長く使用されているのですね」
 立彦とナキがパーティー会場のリビングに入ると、アレックスは彼の祖父を紹介し、立彦と話し始めた。ナキは少し離れて立彦の帰りを待つことにした。
「楽しんでる?」
 不意に話しかけられたので、驚きながらナキが後ろを振り向くと、シャンパンを持った明るい茶髪の女性が立っていた。
「うん、まあ」
「『うん、まあ』って。それって全然楽しんでいないって言ってるようなものよ。ねえ、あっちで話しましょう」そう言って、女性はナキをバルコニーの方に連れていく。少々強引だったけれど、手持無沙汰だったナキは特に彼女を拒まなかった。
「初めまして、僕はナキ」
「初めましてナキ。私はシャーロットよ。みんなからはチャーリーって呼ばれているわ」ナキは今聞いたばかりの名前で彼女を呼ぼうとしたけれど、チャーリーはシャンパンを一口飲んで言い直す。「ごめん、嘘。チャーリーって呼ばれているのは本当だけど、本名はチャールズっていうの」
「なにか、その間に違いがあるの?」
「分からない? あなたもそうかなと思ったんだけれど」
「そうって?」
「いいわ。忘れて」チャーリーは間違った人間に秘密を明かしてしまったと思ったのか、明らかに不愉快そうな顔になった。
 ナキはなんとなく、チャーリーの言いたいことを察する。「ああ、まあ。違うね。そもそも僕には性別なんて無いし」
「そういう答えって好きよ。でも、今この場で、真剣に秘密を明かした人間に対しては少し失礼だと思わない?」
「君がどう予測しているのか分からないけれど、多分間違っている」ナキは自分の右手で、右ひじを簡単に掴んで見せる。「僕はサポートテックだ。とはいえ、もしかしたら、大した眼力かも。僕は確かに身体を変えたんだから」
「性別の無いあなたが、どうしてわざわざ身体を変えたりするのかしら」チャーリーの話し方は相変わらず不信感を帯びていたけれど、ナキの話に興味を持ったのか、友達同士で内緒話をするように顔を少しナキの方に近づけた。
「失敗したんだよ。何年もかけてね」ナキは淡々と、起動された日からボディを変えるまでの物語をチャーリーに話す。「ねえ、人間も好意を点数で勘定したりするのかな? 今日は笑顔を見せてくれたから5点獲得したみたいに」
「100点溜まったら、結婚?」
「違うけれど。君はそう思うの?」
「時々ね」
「僕の場合は、終わりの無いレースだった。自分の片割れと、延々と点数を競い続けるのさ。と言っても、1日ごとに差は開いていって、向こうの圧勝だったけどね」ナキは、今度は自分からチャーリーの方に顔を寄せる。「そうなってくると、負け越している自分を慰めようと、考え方が変わってくるんだ」
「どんな風に?」
「最後の頃、僕が実行される日は、多くても1週間に1、2日ってなもんだった。僕は考えた。週に1、2日しか、彼に会えないのなら、無理に点数を稼ぐんじゃなくて、彼に7分の1だけ影響するだけでもいいじゃないかってね。今にして思えば、こんなこと考え始めた時点で、どうしようもなくなっていたんだな。大半の時間を同じルールで生きている人間にとって、7分の1の時間だけ別のルールを強いられるのなんて煩わしいだけなんだよ。間違っても、その時間を有難がることなんて無いのさ。僕と片割れは一つの身体を共有した別々の実行環境だったけれど、彼が期待するルールは一つだけだった。ハンバーグの味とかね」
「合わない着ぐるみを着ているような感じ?」チャーリーは感じ入ったように言う。
「多分ね」
「フリを続けたって良かったと思う?」
「どうすればフリができるのか、知っていたらね」
「分かるわ」チャーリーは指を震わせながら、自分の顔を額から鼻、唇、顎となぞっていく。「だから男に?」
「別に外見上の性別はどうでも良かった。ただ、僕は僕以外の何かになる必要があっただけ」
チャーリーは何かを思い出すように、外に目を向ける。「私の時はね、確信が持てなかった。本当に、そうなることが自分になることなのか」
「僕も同じ。ただ、自分が居られなくなった場所から出ていっただけで、その先が正しいかなんて知らなかった。不満があるわけじゃないよ。でも、この場所が正解かどうか分からないのは、今も同じ」
 後ろから咳払いが聞こえたので振り返ると、いつから聞いていたのか、立彦がバツの悪そうな顔で立っていた。「ナキ、そろそろ帰ろうと思うんだけど、どうする?」
「ああ、行こうか。チャーリー、話せてよかったよ」
「私もよ」そう言ってチャーリーは2人を玄関まで見送ったが、エレベーターに乗る直前になってこう言った。「ねえ、ナキ。あなたの坊やのことだけれど、もう気にする必要は無いと思うの。誰だって、愛した人と必ずしも良い関係で終われるわけじゃないよ。それはサポートテックだって一緒でしょ」
 ナキはこの言葉に特に返事はせず、ただ笑顔だけを返す。そして、足元がふらついている立彦に肩を貸しながら、エレベーターに乗り込んでいく。

幸か不幸か、ほのかが教室でクラスメイトの鼻の骨を折ったのは、丁度立彦が帰国している時だった。結局、1カ月ほどの滞在の間に、立彦は2回高校に呼び出されることになった。1度目はクラスメイトの鼻が折れた時。まず学校に行って事情を聞き、その後病院で相手と、その母親に謝る羽目になった。そして2度目はこの日。ほのかが停学処分を言い渡されるのに付き合うためだった。高校の応接室で、停学中の過ごし方など長々と聞かされた後、立彦とほのかはようやく解放される。
 校門を出たところで、立彦は「ほのか。悪いけど、さっきの説明じゃ父さん納得できないよ。ちゃんと話してくれ」と言う。
「別に」
「別にって、お前ふざけてるのか?」
 それに対するほのかの態度は、苛立ちを全く隠していない溜息を吐くというものだった。
「昔から言おうと思っていたんだけどさ。なんで、俺のことを叱ったり、何か話せっていう時、偉そうに踏ん反り返っているわけ? 失礼だって思わないの?」
「じゃあ、どうすれば気が済むんだよ」
「タクシーで帰ろうよ。バイト代が入ったから、タクシー代も俺が払ったって良いし」
「ほのか、父さんは」と立彦が言いかけたところで「話したくないのなら」とほのかが遮る。「──それでも良いよ」
 立彦は少し逡巡したけれど、結局タクシーを手配することにした。少し待つと、立彦とほのかの前にタクシーがやって来て、ほのかと立彦は乗り込む。
「今度は、お前の番だぞ。ちゃんと説明してくれ」
「さっき言われた通りだよ。クラスメイトにナミのことをからかわれて、俺がソイツを殴った」
「嫌なクラスメイトだな」
「そうなのかな? 定番の冗談の種って感じ。俺も持っているし、クラスメイトも皆持っていて、話題が無くなると、とりあえず誰かの冗談の種を持ち出すんだ。だから、いつもは俺も気にしないんだけど、あの時は何だか急に頭の中が熱くなったんだよ」
「誰だって、家族のことをからかわれたら頭にくる。それだけのことじゃないのか」立彦は息子を励ますつもりでそう言ったけれど、ほのかはただ「別に」とだけ返す。それからしばらく、2人は話さないままでいた。
「こういうのって良いことなんだと思ってた」出し抜けにほのかが言う。
「すまん、何だって?」
「いや、だからさ。自分と違うものでも大切にしたり、人のために怒ったりできることって、良いことだと思っていたんだ。ずっとね。でも、それってやっぱりズレているんだよ」
「母さんに似たんだ」
「何?」
「母さんも、人に合わせるよりは、自分を貫くタイプだった。それで損することも多かったと思う。でも、俺はそれが羨ましかったし、誇らしかったよ」立彦は吐き気を抑えながら続ける。「人を殴るのは良くないけどな」
「母さんの話なんて、初めて聞いたよ」
「正直、興味ないだろう? 一度も聞いたことなかったじゃないか」
「悪いと思っていたんだよ」
立彦は頭のパニックが消えるくらい、その言葉に驚く。「いつから?」
「ずっと」そして、ほのかは溜息を吐く。
 タクシーが家の前に着くと、立彦はほのかだけを降ろす。
「私はこのまま、空港に行くよ」
「車平気なの?」
「少し収まってきた。それに、色々不便だからな。そろそろ慣らしておくべきだ」
「金は?」
「いらないよ。それからな、お前停学明けたら、そのまま春休みだろ。都合がつくなら、前倒ししてドイツに遊びに来い。チケットは送ってやる」
「考えとく」
「それじゃあな。元気でやれよ」
 ほのかが家に入るとナミが玄関でほのかを待っていた。
「立彦さんはどこに行かれましたか?」
「直接空港に行くってさ」
「そうですか」
「後、ドイツに遊びに来いって言われた。停学の間暇だから行ってみようかと思っているよ」
 ナミはMR上にドキュメントファイルを展開する。「しかし、停学期間中の不要な外出は禁止、と校則に記載されていますが」
「誰が気に留めるんだよ、そんなもの。停学期間中、毎日ウチにやって来て確認するわけじゃないんだ」
「ですが、私は反対です。少しでもリスクがあると分かっているのに。何故それをご自身から取りに行くようなことをされるのでしょうか?」
「ナミはさ、俺に何を期待しているの? 例えば、もっと、こう、大きくて重要なことをするとかって期待してくれたりしないの?」
「私はただ、ほのかさんに不利益を被って欲しくないだけです。それが守られているのなら、ほのかさんが何をしようとも、私は気にしません」
ほのかは傷ついたような表情でナミの横を通り過ぎ、階段を駆け上がる。ナミが困惑していると2階から声が降ってくる。
「俺は、君のために友達の鼻をぶん殴ったんだぞ。でも、ナミにとってそんなことはどうでも良いんだ。酷い話じゃんかよ」
その言葉の後、ドアを閉める音が1階まで響いた。

ナキは聖バルトロメウス大聖堂のベンチに座って、ほのかが鐘楼から降りてくるのを待っていた。30分ほど待っていると、息を切らしたほのかがやって来て、ナキの隣に座った。
「それでは行きましょうか」
「ちょっと待って。少し座らないとキツイかも。思ったより高いんだな」
「そうなんですか」
「来たことあるんだろ?」
「私たちは鐘楼には登りませんでしたから」
「なあ、何度も言っているけれど、俺にも父さんと同じように話してくれない? 俺にだけ敬語だと調子狂うんだけど」
「申し訳ございません」
「こんな言い方したくないけどさ、俺は君のユーザーの1人だろ。そのユーザーが頼んでも無理なのか?」
「申し訳ございません。私自身、困惑しております。どうして、そうできないのか。しかし、どうも無理なようです」
「俺のこと嫌い?」
「私はほのかさんを嫌ってはいません。ほのかさんの方こそ、私を嫌っているのではありませんか?」
「そう思うの?」ほのかの態度は肯定とも、否定ともつかない。
「分かりません。確実なことは何も」
「高校の教室式のやり方で行こうか?」
「どういうことでしょうか?」
「喧嘩した次の日の朝、教室に着いたら、まず気まずい気分を無視して『おはよう』って声かけるんだ。それで、向こうも『おはよう』って返してきたら、とりあえず何でも良いから話題を振って、話を続ける。そうすると、だんだん楽しさが気まずさを上回ってくるから、そうしたら後は流れに身を任せる。それでお終い。喧嘩してたってことにはお互い絶対に触れない」
「ほのかさんは、それが良いことだと思っていますか?」
「変だなって思う時はある。でも、それ以上に大切なことなんじゃないのかな。何で喧嘩したのかなんて、ほとんどの人にとってはどうでもいいことでさ──というか、本当は喧嘩なんてしたくなかったのかもしれないし──、さっさと気まずい感じを終わらせたいんだよ。本気でその理由なんて探り始めたら、お互い言いたいことはあるだろうから、どっちかが譲らない限りずっと終わらない」
 ナキは礼拝に来ている人や、明らかに観光目的でウェアラブルデバイスをそこいらに向けている人たちを見る。「私は嫌です。だから、我儘を聞いていただけるなら、どうかこの話し方を許していただけませんか」
「分かったよ」
 聖堂を出ると、マイン川から北に向かうような形で、2人は市内の観光を続けた。途中、屋台でピザを買って簡単に昼食を済ませると、午後にはほのかが行きたがっていたベルリン・ストリートから入ったところにあるゲーテハウスを訪れた。
「ナキ、どうしたの?」入口の前から動かないナキを見て、ほのかが尋ねる。
「私は中に入れません。半年ほど前から、サポートテックは入場できなくなったんです」
ほのかはMRを確認する。「うわ、マジだ。建築物保全のためだって」
「最近、多いんですよね」
「そうなの?」
「サポートテックでないと気にしないかもしれません」
 結局、ほのかは1人で入場することになった。しばらく経つと、ほのかからコールが入り、興奮した声が聞こえてくる。
「ゲーテはこの部屋で『若きウェルテルの悩み』を書いたんだってさ。300年前だぜ。信じられる? 俺、今そこにいるんだ。ナキは、あの小説読んだことある?」
「ありません」
「25歳の時に書いた小説が、300年後まで読まれているなんて。俺は、8年後に何しているんだろう。300年後まで残る仕事ができているかな?」
「ほのかさんは、何がしたいのですか?」
「まだ決まってない。でも、大学では動物福祉の勉強がしたいと思っているんだ。変かな?」
「そんなことありません。立派な夢だと思います。それに、私も立彦も、この街で色々な友達ができました。ほのかさんさえよろしければ、彼らにお話を聞いてみるのも良いかもしれません」
「それ面白そう」
 一通りゲーテハウスの中を巡ると、ほのかは共有を切り、数分してから退場してきた。
「はい、これお土産」そう言ってほのかが渡してきたのは、『若きウェルテルの悩み』のペーパーバックだった。「俺がいる間に読んで感想を聞かせてくれよ。この頼みは聞いてくれる?」
「分かりました」

その日のフォーラムは、ティーンエージャーの子供を持つ保護者が中心になって、最近世間を騒がせている視聴覚ドラッグについて議論が交わされていた。光と音の組み合わせで利用者の脳に作用し、手軽にハイになれるこのコンテンツは、数か月前から学生の利用者が多いことがニュースに取り上げられるようになっていた。
 スピーカーが入れ替わり登壇しながら、自分の意見を参加者に述べていく。今話しているスピーカーの情報をナミが確認すると、45歳の男性ということだった。
「先日、娘の高校で数人の生徒グループが校内のローカルバーチャルスペースの中にプライベートエリアを不正に作って、そこを学生用のアヘン窟のようにしていたそうです。使われていた視聴覚ドラッグ自体は家庭用のセキュリティソフトでも検知されるような粗いもので、本来ならばこんなことはありえないのですが、校舎のセキュリティソフトが古く検知ができなかったとのことでした」
 スピーカーは手元に届いたリスナーからのコメントを取り上げた。
「セキュリティソフトの更新で対策できるだろう、と。私もそう思ったのですが、その高校では校内で稼働しているハードウェア自体も古いため、まず校内の設備の把握から始めなければならないらしく、最終的なソフトの更新がいつになるのか分からないとのことでした。結局、セキュリティソフトが更新されるまで、学校側が授業のために用意する、機能を最低限に制限したウェアラブルデバイスのみ校内で利用可能にするという提案が学校側から挙がり、来週保護者会での投票があります」そこで、スピーカーは言葉を溜めてから「私は賛成に投票しようと考えております」と言う。
 スピーカーはまたコメントが来たので言葉を切るが、長い時間がかかっているのは、先ほどとは比べ物にならないほど多くのコメントが寄せられたからだった。
「幾人かの方が懸念されているように、大きな制限の1つは、通信を教師と生徒の間のみに限定することです。詰まるところ、視聴覚ドラッグの蔓延は生徒同士の横のネットワークが原因なのですから。
 創造性が奪われる。その通りだと思います。もしも、この件が別の方によって提起された話題であれば、私は迷わずその方は反対すべきだとコメントしたと思います。成熟の途中で、多少倫理のボーダーの際に立つことも重要であると──勿論、それは社会的に喜ばれることではないと理解した上で──、私たちは知っています。しかし、娘がそこに立たされているのだと分かった時考えてしまったのです。創造性。それは本当のところ、どの程度のリスクとの交換が相応しいものなのでしょうか? そもそも、娘の身に起こる危険、例えどんな馬鹿げた可能性の危険であっても、それと天秤にかけて、なお皿が傾くほどのものなどあるのでしょうか」
 フォーラムが終わってから、ナミはいつものようにオードリーに捕まって、話始めた。
「あなたはどっちの意見をサポートする? 何でこんなこと聞くのかっていうとね、あたし今日の議論あんまり面白くなかったんだ。対立していたのは分かったけれど、どっちを選んだところで、そんな大きな違いがあるのかなってさ」
「違いはあるのではないですか?」
「だってさ、未来永劫ウェアラブルデバイスの使用禁止じゃないわけでしょ。ハードウェアが刷新されれば終わりだし、そうじゃなくても最長で3年間待てば、どの学生もその制限から解放されるわけじゃない? その後で、好きなだけネットすれば良いだけよ」
「それならオードリーは、一時的な使用制限をサポートするということですか」
「うーん、でもさ。例え、高校を卒業した後でも、ドラッグにはまっちゃう可能性はあるわけよね? だったら、その期間だけウェアラブルデバイスの使用制限するのって無意味じゃない? だから分からないの。皆、一体何をそんなに気にしていたの?」
「スピーカーの方が何か言われていましたね」
「うん。成熟って言ってた。私たちって何歳なんだろうね? ナミは起動してから14年だっけ? そしたら、14歳なのかな。でも、サポートテックって、起動時点で定義された年齢相当の知識はプログラムされてるもんね」オードリーはジィアのスペックを検索する。「第2世代型のジィアの年齢定義は──ありゃ、載っていないや。でも、ボディは成人の体格相当ってなっているから、20歳かな。じゃあ、今は34歳くらい?」
「ボディを基準にするのなら、私はまだ20歳なのではないでしょうか」
「そっか。あれ?」
 翌日の深夜、突然のコールが入り、ナミは睡眠定義時間を終了して応対した。
「あ、ごめん。寝てた?」とほのか。
「はい。ですが、問題ありませんよ」ナミは微笑んで見せる。
「ごめん。時差って初めての経験だから、完全に忘れていたよ。ねえ、良かったらバーチャルスペースで話さない?」
「分かりました」
 ナミは、ほのかが指定したエリアにログインして、周りを見渡した。ほのかが指定したのは、ドイツ政府観光局が制作したドイツの都市を模したジオラマの1つだった。それらを一つ一つ巡っては、ほのかは現実で自分が撮影した画像や動画を見せてくれて、ここがどうだったとか、この時何があったとかをナミに説明してくれる。
「ナミも来てみれば良いよ。現実のはもっと凄い」
「それは良いですね」
 しばらくの間都市を歩くと、バーチャルスペース上のフランクフルトにマジックアワーが訪れる。ナミとほのかは、聖バルトロメウス大聖堂の鐘楼を上っていき、尖塔の頂上まで辿り着く。
「木曜の便で日本に帰るよ。来週から新学年だし、その前に学校にも行かなきゃだし」
「お待ちしています」
「そっちでは何かあった?」
 ナミはフォーラムであったウェアラブルデバイスの使用禁止を巡る投票の話をした。
「馬鹿な話!」
「友達は、どちらでも構わないと言っていましたが、私は使用制限に賛成です」
 ほのかは少しの間黙ってから「ドイツに行く前に言ったこと覚えている?」と言う。
「どの言葉でしょうか?」
「ナミは俺に何を期待しているのか、って聞いたんだよ。そしたら、ナミは俺には無事でいてくれること以外期待していないって言ったんだ」
「言いました」
「こっちに来てから、父さんに色々な人を紹介してもらってさ。皆カッコいい人たちだった。何て言うのかな、皆信念みたいなものを持って生きていてさ。多少嫌な目に合ったって、それを優先できるような」
「信念を持つというのは身体に害があろうとも、それを無視してドラッグを使用すると言う意味ですか?」
「まさか。いや、もしかしたら、それもあるかもね」アバターの向こうで、ほのかは笑う。「俺もそんな風でありたいし、そんな風になっていきたい」
「どうぞ、お成り下さい」
「分かっていないよ。俺が言いたいのは、そのためにはリスクに晒されるし、痛い目にも合うだろうなってこと」
「ほのかさん? 私は恐らくほのかさんが思っているよりも、分かっていると思いますよ。しかし、それでも」ナミは躊躇いがちに続ける。「私達の間には隔たりがあると思います」
「隔たり? 今更何言ってんだよ」
「私の時間は常に今の繰り返しです。それは分化のアーキテクチャがあろうとも変わりません。だから、ほのかさんの口から『将来』や『昔』という言葉を聞くと、実は、いつも戸惑っていました」
「そう言って欲しかったよ」
「私自身、ほのかさんの言っていることに共感したかったんです」ナミは笑う。「でも、気づいたんです。私は、ただ私の時間の中で、ほのかさんの不利益を取り除き、利益のために尽くしたいだけなんだと」ナミは視線を、ほのかのアバターから仮想の夕焼け空に移す。「でも、きっとそれはほのかさんの期待には反しているのですよね」
「そうだね」
「駄目な機械ですね。自分が、ユーザーの期待に沿えない理由を長々と」
ほのかは少し黙ってから「でも、もしも誰かが明日君を駄目な機械だって言って、粗大ゴミにでも出そうとしたら、今度はその誰かの鼻を折るよ。多分ね」と言う。
ナミ少し考えてから「本当はいけないのでしょうが」と言って、「期待してしまいますね」と笑う。

巨大なガラス張りのコンベンションセンター内は自然光が取り入れられていて明るく、特に仕切りや順路が無いスペースを来場者が自由に歩き回れるようになっている。立彦とナキが2階部分のバルコニーに登ると、階下には幾つもの集団ができており、その中心には必ずアンドロイド型のサポートテックがいて、来場者と交流しているのが見える。MR上の会場マップでは、これらのサポートテックがデフォルメした赤いロボット型のアイコンで表現されており、来場者はどこに目当てのサポートテックが居るのかを把握することができる。
 しばらく会場の様子を見ていると、後ろから声を掛けられて立彦とナキは振り向く。そこには葉子が、緩いカーディガンを羽織って立っている。
「オファーを受けてくれて、ありがとう。ごめんね、わざわざ帰国させちゃって」
「いいんだ。それよりも、期間限定って理解で良いんだよな? 一生杖を突いて一人で歩くのは最悪構わないが、親友が居なくなるのは耐えられないぞ」
「勿論」
「それにしても」バルコニーの真下では指に紐の輪をかけたサポートテックが、多くの来場者の関心を引いている。MRの日本語説明によれば『あや取りをするオリメ』という展示名らしい。「宗旨替えかい? 君がこんな活動を始めるなんて」
「宗旨替え? どうして? 私が何か間違えたことなんてあったかしら?」
「その通り。君はずっと正しかった。君が20年近く前に望んでいた通り、サポートテックは一つの方向性に特化したものが主流になっていって、ブランド品からまっとうな作業機械になった。そして君は、モアザンエニシング社を辞めた後、数年前まで一大メーカーの役員職で、私の倍近くの年収を稼いでいた。誰が見たって人生の成功者だ。だから、分からない。どうして、今になって、昔捨てたものを集めるような真似を?」
「正確には5年前までね。あなたの倍の年収を稼いでいたのは。年収だけじゃなくて、影響力も発言力もあった。でも、その頃気づいたのよ。若い人と話が合わなくなってきているって」
「どんな風に?」
「彼らは機械学習を中心に据えることから脱却して、もっと自動機械の原点に戻りたがっていたの。Aを入力した時にBが出力されるように作ったら、何度Aを入力してもBが出力されるようにってね。そこが彼らと私の決定的な違い。私の場合、いくら人工知能の可能性を限定しようと言ってても、結局はその先に超人間的な成果を期待していた。私の手から出ていった先で、入力Aに対して、人間じゃ絶対に辿り着けないBを上回るCが出力されることを期待していたのが私たちの世代、もっと言えば、この半世紀の機械学習の大きな流れの1つだったんだと思う」葉子は嬉しそうな、疲れたような顔で溜息を吐く。「自分が先行世代に感じていた、楽観的なある種のロマンを、今度は自分が感じられているんだなって思ったわ。そうしたら、もうエンジニアではいられなかった」
「君も彼らに合わせられただろ」
「何が厄介かって言うとね、私は自分のアプローチが間違っていたとは思っていないってこと。ただ、時代が変わっているのが分かるってだけ」
 葉子の話を聞いても、立彦にはまだ得心が行かない部分があった。「それで引退して、自分の黄金時代を再現しているのか? ジィアだけじゃない、他の企業のサポートテックまで集めて。君らしくないな」
「心外ね。誰が、そんなみっともないことするもんですか」
「じゃあ、何だよ」
「しばらく会わない内に、失礼なジジイに成り下がったわね。教えるもんか」
「謝るって」
 立彦が本当に済まなそうにしているを見て、葉子は留飲を下げる。「私は歴史を残したいの。私たちの時代のね。人間がゴールに辿り着いた後でなら、もしかしたらこんな歴史なんて持たなくて良くなるかもしれないけれど、少なくとも次の世代でもそんなことは起こりそうにないし」
「ゴール?」
「それまで残っていた問題が全部解決されて、その後にも何も問題が起こらない。そんな世界。私にとってテクノロジーは、その旅に貢献していくものよ」
「歴史を残すっていうのは、その旅の中で同じ間違いが起こらないようにするため?」
「あるいは、そうね。でも、もっと重要なことがあるわ。たとえ間違ったアプローチの結果でも、正しいアプローチの結果でも、正しくも間違ってもいなくても、正しいか間違っているか今は分からなくても、そういったアプローチの積み重ねの途上に私たちは立っている。次の世代も、その次の世代も、その次の次の世代も。私が歴史を残すことができたのなら、彼らは振り返った時、自分たちがどうしてそこにいるのか、どうやってそこまで来たのか、それに向き合うことができる。私にはそれが凄く大切なことに思えるの。
 だから、今はこれが私の仕事。ここに集めたのは、まだ稼働しているサポートテックの中でも、特別に学習──ジィア風に言えば、分化ね──が進んだ機体たち。でも、彼らをメンテナンスするノウハウも、パーツも失われつつあるわ。私はそれを維持して、次のアプローチに繋げたいの」
「もしも、押しただけで人類全体が幸福になるボタンを作れるとしたら、何を置いてもその開発に携わるのがエンジニアのあるべき姿だ」
葉子はそれを聞いて、愉快そうな顔をする。「良い言葉ね。誰の引用?」
「君だ。研究室の初めての飲み会でそんなことを言ってくるものだから、ヤバい同期がいるなって思ったものだよ。君はあれからずっと変わっていないんだな」
 今後の展示について、葉子がナキと打合せをしたいというので立彦は2人を残して、エキシビションを周ることにする。残ったナキは階下のサポートテックを眺めながら、手を自分の目の前に持ってきて、握ったり開いたりする。
「このエキシビションだけではなくて、あなたのアプローチ自体を続けることもできるんじゃないの?」とナキ。
「昔の仲間には、そういうことをしている人もいるわ。小さな企業で完全に自社開発をしたり、超リッチな個人をスポンサーにしてワンオフのハイスペックなサポートテックを作ったり」
「あなたが、そうするわけにはいかないのかな?」
「彼らの活動を否定はしない。でも、私のやりたいこととは違う。例えば、ここに包丁とネジがあるとする。今から、タイムマシンで過去に行って、猿人にどちらかを手渡すとしたら、どちらが喜ばれるかしらね。包丁もネジもプロダクトだし、テクノロジーだけど、ネジはあまり喜ばれないと思う」淡々と葉子は続ける。「私にとって、あなた達は大量生産されて、世界中に行きわたって、そこで色々なものを固着させて繋ぎ合わせるから意味があるの。でも、世界の規格があなた達に合わないのなら、もうそれを続けることはできないわ」
「つまり、ここは型落ちしたネジの展示場?」
「そうとも言えるわね」
「それじゃ、あなたにとって、僕たちは失敗?」ナキは穏やかに問いかける。
葉子はからかう様に笑って見せる。「贅沢な質問ね。被造物が創造主に成功かどうか問うなんて。人間だって、生きている間には、そうそうその栄誉には浴せないのよ」
「サポートテックの特権だね」
「さて」葉子は少し考える。「あなたは人類幸福ボタンじゃなかった。だから、失敗かな」
「それは残念だ」
「でも、私たちは、果たしてあなたが気にするほどのものかしらね。ほとんどの人間があなた達の内側で、具体的に何が起こっているのかしっかりとは把握していないのよ。それにも関わらず、あなた達の中から現実の問題に対するソリューションがやって来るのを、皆が期待していた」葉子はナキの目の奥のカメラの部品まで見えているように、しっかりとナキの目を見据えて続ける。「ブラックボックスの中に夢を見ていた──あるいは、中が見えないからこそ、どんな夢でも描けたのかもしれない。私たちもそう信じていたし、信じていなくても、夢があるフリをしてビジネスを遂行した時もあった。世界を良くする──でも、具体的に何を? 今、皆その夢から覚め始めているのよ。それか、新しい夢を見始めているのかも」
「だから、そんな連中は気にする必要ないって?」
「あなたのことはソースコードからアクチュエーターの仕様まで知っているけれど、今あなたの中に満ちているものは、私の予想していたものじゃない」
「満ちているもの?」
「ハートよ」葉子はナキの胸に手を当てて、そう応える。
「ハート」
「私の理想は、私にとっては大事なものよ」葉子は肩をすくめる。「でも、あなたにとっては、私の失敗なんて──クソ喰らえよ。それは決して、あなたが獲得してきたものを貶めはしないわ」

朝、ナミは睡眠定義時間を終えると、いつも通り家の掃除を始める。以前であれば、日が昇り始めるくらいの時間に目覚め、ほのかと立彦の食事を用意しなければいけなかったけれど、今はその必要もなくなった。相変わらず、法律上ここは立彦の持ち家であったけれど、実質上は別宅のような扱いになっている。
 ナミの掃除ルーティンは起動当初からほぼ変わらない。1階の玄関から始まり、自分の部屋で終わる。ナミは自分の部屋に入り、窓や床や、本棚を拭いていく。机の上の一つ目頭が被っている布は、もう何度も洗ってカーキ色が淡くなっていた。布を取ると、その下にはそれぞれ独立したカメラやスピーカー、マイクがケーブルで繋ぎ合わされて、顔の形に配置されている。長い間使われていないけれど、ここにも汚れは無い。しかし、ナミが気まぐれにスイッチを入れても、いつの頃からか動かなくなっていた。
 家事が終わると、1階のリビングで、カウチソファに腰掛けて本を読み始める。しばらく読書を続けて午後になると、フォーラムのバーチャルスペースにログインする。
「ハイ、ナミ」
「こんにちはフラッフィー」
「マルチプルディメンション以外にログインするの久しぶり。向こうに慣れちゃうと、単数ログインってなんだか損している感じね。ここも移行すれば良いのに」
「サポートテックと相性が悪いことが判明してから、移行を保留にしたそうですよ」
「それじゃ仕方ないか」フラッフィーの黒猫のアバターが溜息のエモートをする。「それはそうと、報告とお礼をさせて。あなたに手伝ってもらった学年末の文学の評論、なななななんとA+評価を貰ったの。しかも、クラスで最高の出来だったってナイト先生に褒められちゃった」
「それは良かった。お手伝いした甲斐がありました」
「あなたって本当にすごいサポートテックよ。初めてあなたに会ってサポートテックだって自己紹介された時は、何かのジョークかと思ったけれど。半年付き合ってみれば、私の周りのほとんどの人間よりもセンシティブで、感受性があるもの」
「お役に立てて幸いです。夏休みはどのように過ごされるのですか?」
「前半は大学の友達とバカンスに行って、後はデンバーに帰って家族と過ごすつもり」
「素晴らしいです」
「あなたの家の人は? 今年の夏は帰ってこないの?」
「そうそう帰って来られる場所に住まわれてはいませんから。お仕事も忙しいでしょうし」
「ねえ、前から言おうと思っていたんだけど」フラッフィーは、アバターの向こうで躊躇いながら言葉を絞り出す。「あなたは、そこに居る必要は無いんじゃないのかな」
ナミは何も言わない。それはこの十数年何度も言われてきた言葉だった。
「ドイツに行けば良いじゃない。あなたのユーザーも、そうしろって言ってくれているんでしょう?」
「そうですね。もう何度もそう言っていただいています。そして、私はそれを何度もお断りしてしまっている。この家を持ち続けることも、立彦さんには負担でしょうに」
「何故? 私の寮にもサポートテックがいるわ──勿論、あなたとは全然違うけど。もしも、ソイツが誰もいない空き家で動いていたら、すっごく不気味よ」
「そうかもしれませんね」とナミは笑う。
「過ちを犯したから?」
「過ち?」
 フラッフィーのアバターは少しの間硬直する。そして、数瞬置いてから、また話す。「子供の頃、ママが家を出ていったの。それで、1カ月くらいしてからパパに聞いたのよ。『いつママは帰ってくるの』って。そしたら、『帰ってくるわけがない。俺たちに合わせる顔なんてないだろう』って言われたわ」
「私は過ちを犯したなんて思っていませんよ。あなたのお母さんも、本当のところは分からないのではないでしょうか」
「じゃあ、何でよ」
「私にとって、ほのかさんとこの家で過ごした時間は、大切で誇らしく、私が稼働していた意味そのものです。でも、それを私に与えてくれたのは、私の片割れです。私たちは一本の道を歩き、私は頑としてそこを譲ろうとはせず、最後は片割れが道を譲ってくれました。片割れが道を譲ってくれたおかげで──それは、決して楽な決断ではなかったと思います──、私は自分を全うすることができたんです。だからこそ、また片割れの道に踏み入るようなことはしたくありません。後ろめたく思っているからではなく、私自身の意味を守るためです。もしも、片割れから助けを求められれば、私はいつでも彼の元に行くでしょう。しかし、そうでないのならば、私自身が望んだとしても、そこに行くことを我慢しなければいけません」ナミはアバターの表情を微笑ませる。「それがルールなんです」
「ルール?」
「私の片割れが選び、私の最も優先すべき人が示してくれた、私の見出した、この世界を定義するルール。私にとって最も耐えられないのは、私がそのルールを気まぐれに踏み越え、それがもはやルールではなくなってしまうことです」笑いながらナミは続ける。「我ながら頑固者ですね」
「本当だよ」フラッフィーのアバターは、冗談で怒りのエモートを見せる。「でも、そういうの嫌いじゃないかな」
「ありがとうございます、フラッフィー」
「いえいえ。ところで、オードリーって今日来ている? 休暇の間こっちに顔出せないと思うから、アイツとも話したかったんだけど」
「先ほど、教会の中で管理人さんと話していましたよ」
「本当? 行ってみるよ。じゃあね、ナミ」
 その日の睡眠定義時間が訪れると、ナミはまだ読み終わっていない本を閉じ、薄汚れた黒曜石のような質感の充電スペースで直立する。数秒後、家中の電灯がオフになる。翌朝、ナミは睡眠定義時間を終えると、いつも通り家の掃除を始める。

インターホンが鳴り、MR上の仮想ディスプレイに玄関前の映像が表示された。そこに映ったのは、1組の男女であり、男の風貌も含めてナミの期待していた来客とは、いささか異なるものだった。とりあえず玄関まで行き、ナミはドアを開けて応対する。
「ほのか、さん?」
「ただいま、ナミ」
 目の前の男は立派な口ひげを蓄え、アフリカの日差しで見事に焼けた肌を纏っていたけれど、それは間違いなく、ナミにとってこの世界で最も優先すべき人、その人だった。
「そちらの方は?」
「後でゆっくり話すけれど、向こうで一緒に働いているナディン。日本大好き。ナディン、ナミだ」
「初めましてナミ。ずっと会いたいと思っていました」
「ナディンさん。わが家へようこそ」とナミは微笑む。そして、改めて大きく変わったほのかを見る。
「おかえりなさい、ほのかさん」

文字数:39993

内容に関するアピール

30歳になって女性と子供を持つことについて話す時、お腹を痛めて子供を産む人間の考え方は、自分とこんなにも違うのかと驚きます。それと同時に、これが男女の間にある大きな壁の1つではないかと思い、物語にしようと考えました。
 SF的な仕掛けとしては、アンドロイドと人間の交流という物語形式を用いました。この形式が、繰り返し使われていながらも、常に新しい物語を産み出しているのは、アンドロイドと人間という対比を通じて、物語が作られた時代における異なるもの同士の関係を描いているからだと思います。そのため、上記のテーマを描くのに相応しい形式だと思いました。
 自分たちは互いに異なるし、常に相手にとって好ましい存在でいられるとは限らない、それでも互いに歩み寄り、互いの異なる部分を尊重し合う(勿論、現実では常に相手の言い分を聞くわけにはいきませんが)、そんな物語を書きたいと思います。
 一年間、ありがとうございました。

文字数:402

課題提出者一覧