家を出ることのむずかしさ

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家を出ることのむずかしさ

方舟からの排熱で、地球はずっと夏のままだった。
 私たちはまず言語で分断され、次いで暦を失った。私たちをバラバラにしたのも、再び繋げたのも、どちらもノアのテクノロジーだった。
 動物にしか聞こえない飛行音に、鹿たちが走り去る。そうして私とマヒトだけが向日葵畑に取り残された。
 方舟が徐々にその高度を下げてゆく。太陽を遮り、大きな影に私たちは飲み込まれる。
 こんなに近くで方舟を見たのは、今日が初めてだった。
 隣で舌打ちするマヒトが、Too high高すぎると英語でつぶやいた。英語はノアの公用語で、それ以外で使っているのはマヒトぐらいだった。アルカがなければ、私は隣りにいるマヒトと話すこともできない。
 ゆっくりと飛行する方舟の底には、ノアの理念がやはり英語で刻まれていた。
 私には読めないけれど、何を意味しているかは知っていた。お母さんが教えてくれたから。

──Heaven Is A Place On Earth

Well so is hell地獄もな.
 鼓膜に同期されたアルカがマヒトの言葉を翻訳するのはほんの一瞬。そのほんの一瞬のタイムラグが、距離が、私を寂しくさせる。
 だけどそれ以上に、この世界の捉え方の違いに私はたまらなく寂しくなる。ここは天国じゃないけれど、かといって地獄でもない。私はそう思う。だけどマヒトにとってここは地獄で、全部ぶっ壊そうとしている。
 マヒトはお手製の爆弾を思いっきり高く投げる。だけど方舟は私たちを見下ろしながら、もっと高くを飛行している。中途半端な高さで炸裂した爆弾が揺らしたのは、向日葵と私の前髪ぐらいだった。
 方舟がまた離れていく。マヒトもどこかに行ってしまう。向日葵畑に取り残された私の周囲に、鹿たちがまた群がってくる。
 私はここで生きていく。そして死ぬ。天国にも行けずに。

「ディアシット・ライブスです」
 激しい雨みたいな音がするだけで、返事はない。
 アルカから聞こえてくるホワイトノイズは、次第にその周波数を変えてゆく。耳障りな騒音は音色を帯びて、最後には人の声になった。まるでホワイトノイズの中から人間が浮かび上がってくるみたいだった。
 ヘヴンリィ・パンク、──弊社はお客様をそう呼んでいる、は女の声をしていた。
 『きこえますか? きこえますか?』
 お菓子みたいに甘やかな声は少なからず私を戸惑せた。
 「ディアシット・ライブスです」
 努めて冷静に同じ文言を繰り返し、「この度、お客様をアテンドさせて頂く崩月ホナミです」と名乗る。
 『よかった。ちゃんときこえてた。ホナミさん。よろしくお願いします。私の名前は……。あれ、そういえば私はなんて名前なんだろう? わかんないや』
 「こちらでお調べしましょうか?」
 『ねえねえ、何歳かきいてもいい?』
 「え?」
 『ホナミさんの年齢。たぶんきっと、若いよね。もしかしてだけど、同い年ぐらいじゃない? 私たち』
 少々お待ちください、とマイクをオフにして、舌打ちをする。一旦落ち着こうと煙草を取り出す。隙間風でマッチの炎が揺れて、うまく火がつかない。
 朽ち果てた学校の一室に私はいた。家出をしたから帰る場所がなくて、マヒトたちのアジトに身を寄せていた。
 頭は完全にオーバーフロー状態だった。
 通常、事前のやり取りはすべてノアを介して行われる。それなのにこのヘヴンリィ・パンクは直接私にコンタクトをとってきた。家を出て、ただでさえ一人で仕事をするのは今回が初めてなのに、イレギュラーなことが多すぎる。
 肺の先端まで行き渡らせた煙を高く吐く。
 落ち着け、私。そして、働きなさい。ひとりで生きていくために。
 アルカに虹彩をかざしてノアのデータベースにアクセスする。識別番号を打ち込むと即座に生体情報が返ってくる。
 本日二度目の舌打ち。
 クソ、最悪。彼女は本当に私と同い年の女の子だった。
 通信環境が悪かった、なんて見え透いた嘘をついて打ち合わせを再開する。はぁい、と呑気な声が私を脱力させる。16歳です、と私は正直に年齢を告げてしまう。
 『16
 「ええ」
 『!すご〜〜い、奇跡じゃん』
 弾むような声に、私の気持ちは沈む。
 『すごいね。その年で働くのは、そっちでは普通のこと? とにかく嬉しい。私ね、本当に本当に楽しみにしてるの!だけどおじさんとかだと緊張しちゃうから、あなたで良かった。せっかく同い年なんだから、恋バナとかしたいなぁ』
 その後も延々と喋り続ける彼女の姿を、私はなるべくリアルに想像してみる。殺意を込めて。
 彼女の終わりのないおしゃべりは、だけど唐突に終わりを迎えた。声がするするとほどけてゆき、再び雨音のようなノイズへと解体する。
 「お客様? きこえますか? お客様」
 ──きこえるよ
 ホワイトノイズの合間から、かすかに彼女の声が浮かび上がる。私は必死にその声をキャッチしようとしていた。
 「お客様」
 なんだかホッとして、だけど私から話すことなんてなかった。
 ──お客様って呼ばれるの、なんか距離があってヤダ
 距離、か。だけど地球こっち天国そっちを隔てる距離より遠い距離なんてある? そんなことを考えていた私を尻目に、あ、そうだ、とヘヴンリィ・パンクは名案をひらめいたようだ。
 きっと、ろくでもないアイディアに決まってる。そう私は確信していた。
 そして、実際にそれはやっぱりろくでもなかった。
 ──私の名前もホナミでいいよ。お揃いにしよ
 とんでもないことを言い残して、お客様はまた雨音のなかに沈んでいった。

癇癪持ちの、泣き虫女。それが私。
 初仕事の日なのに、悔しいやら、情けないやら、悲しいやら、こんがらがった感情に翻弄されて、私は今日も泣いている。
 昨日の夜、ホナミのことを話したくなって、私はマヒトの部屋に出向いた。私の話に興味のないマヒトは終始うわの空で、結局、なし崩し的にセックスすることになった。
 マヒトは挿入したがっていたけど、私は嫌だった。口で済ますことにして、口に出すなって言ったのに、マヒトは私の頭を押さえつけてそのまま射精した。それで私はしなしなになったペニスを噛み切ろうとした。
 そこから先は覚えていない。気がつけば、マヒトに憧れているだけの金魚のフンどもに取り押さえられて、アジトからつまみ出されそうになっていた。
 もみくちゃにされながら、私は叫んだ。
 「さっさと死んじまえ!」
 『てめえが死ね。ノアの犬が』
 「あんたなんか大嫌いだ!」
 『失せろ。癇癪持ちの、泣き虫女』
 マヒトが突き立てる中指を見て、ああ、これでおしまいなんだと私は思った。こんなふうに傷つけ合って終わるなんて、出会ったときは思いもしなかった。
 ずっと前も、昨日みたいなひどい喧嘩をしたことがあった。
 「世界を壊せるなんて、壊していいなんて、本気で思ってる?」と私が訊いたのがきっかけだった。そうだ、そしたらマヒトは『ノアにむかつかねえの?』と質問を返してきた。
 芋づる式に、あの夜の記憶が蘇ってくる。
 「別に。みんないい人たちだから」
 『地獄への道は善意で舗装されている。この格言、覚えとけ』
 「質問に答えなよ」
 『壊せるし壊していいさ。俺たちには、その権利があるんだ』
 「壊してどうするの? どうやってやりなおすの?」
 『それからのことなんて、あとの連中が考えりゃいい!』
 「そんなことに命をかけられるの? 死んだらおしまいなのに」
 『そう!それでおしまい。ジ・エンド。あとには何ひとつ残らない。綺麗さっぱり、消えちまうんだ。死んで鹿の糞になるのも、ノアに飼われるのもゴメンだ。くそくらえ』
 最終的に『お前ら家族はノアの犬だからな』と嘲笑われて、私は腕を思いっきり噛んだ。肉がちぎれて、血がどばどばと流れた。そしたらマヒトが私を打って、また血が流れた。
 どうやって仲直りしたかは、全然思い出せない。
 この世界の捉え方が、私とマヒトでは大きく違った。爆弾づくりもそうだ。ワイワイ楽しいからやっていただけで、あんなちゃちな爆弾で方舟を破壊できるなんて私は本気で信じてはなかった。
 私はあいつの何が好きだったんだろう? そしてあいつは私の何が好きだったんだろう?
 私はマヒトの顔が好きだった。
 マヒトは射精するとき、あの綺麗な顔を泣き顔みたいに歪めた。しばらくすると空っぽな表情が、本当に底なしに空っぽの美しい表情が、やってくる。力なく私だけを見ているときのマヒトが、私は世界でいちばん好きだった。結局、私たちは同じ人間なんだって思えたから。
 喉がひりひりする。
 マヒトの精子がまだ残っている気がして、喉の奥に中指を突っ込む。精子と胃液と思い出をまとめて全部吐き出してしまいたかった。草に落ちる私の吐瀉物に鹿の糞が溺れた。
 ひとしきり吐いて、泣いて、それから見あげた空は透き通った青で、遠くの方で向日葵が風に揺れていた。ああ、綺麗だな、畜生。
 クソみたいな世界が、クソみたいな私を祝福している。
 こんな気持ちを、誰かに話したいと思った。
 これから迎えに行くお客様が同い年である奇跡に、私は感謝したい気持ちになった。こっちの恋バナはこんなんだよ、とでも言っておけば、せいぜい楽しんでくれるだろう。あっちの恋バナにも興味があった。あなたたちは、相手の一体何を好きになっているつもりなの? なんて聞いたら怒らせるだろうか。
 アルカにメッセージが届いていた。ひとつはお父さんからで、仕事の注意事項が箇条書にされて、最後に「しくじるなよ」とだけ私信が添えられていた。私はそれを消去して、ノアからの音声メッセージを再生する。
 『ディアシット・ライブス様。この度はご協力のほど、誠にありがとうございます。識別番号X9R4-T7Y2-Q5Z1の最終メンテナンスが予定通り終了しました。バイタルサインに異常なく、歩行等の問題ありません。言語は日本語にエンコード済です。48時間以内にノア本部、N23ゲートにて回収してください。識別番号X9R4-T7Y2-Q5Z1についての破棄後の権利はノアに帰属しますが、契約通り所有物等、一切の権利はすべてディアシット・ライブス様に譲渡いたします。それじゃ頑張ってね、ホナミ』
 お母さんの声に、また涙が出そうになる。
 私は上を向く。涙をこらえて、鼻をすする。家を出るんだ。そして、仕事をするんだ。
 私はノアへと歩き出す。途中、青空に方舟が浮かんでいた。いつになく高い場所を飛行していて、いくら足掻いても爆弾は届きそうになかった。

ノアがゲートと呼ぶものを、私たちは壁と呼んでいる。
 公衆衛生だとか治安維持だとか、色々な名目でノアは壁の外に関わってくる。煙たがる人もいるけれど(その極端な例が、マヒトたちだ)、ノアの技術を集結させたアルカは外の世界でも生活必需品になったし、電力や水もノア頼りだからトラブルは殆ど起きない。
 外は外で、一生壁の中に踏み入れることなく、関心も持たずに死んでいく人が大半だった。日常的に外から出入りするのは私たちぐらいだろう。天国に行けなくたって、壁の中や、方舟で暮らすことはできた。だけどお父さんは壁の外で生きることを選んで、お母さんも私を壁の外で育てたがった。
 私はそれを感謝しているし、ラッキーだと思っている。
 初めて見るN23ゲートはどの壁よりも高く立派だった。潮風の晒されながら、錆一つない真っ白な壁。ちょうど私の目の高さに黒い穴があって、アルカをかざすと穴は弧を描いて拡がる。
 「崩月ホナミ様ですね。お待ちしておりました」
 壁のどこかから聞こえる声は無視し、ここで、壁の外で、職員がホナミを連れてくるのを待つことを決める。太陽が高くのぼって、私をじりじりと焼く。白い壁に私の黒い影がへばりついて、そのまま焼き付いてしまいそうだった。
 しょうもない意地が、私を地面に縛り付けている。
 ゲリラのリーダーの、その恋人であるということを、ノアは当然だけど把握している。そのうえで私を迎え入れようとしている。
 仮に破局したことを知っていたとしても、それも関係ない。お母さんがノアの幹部であることも、お父さんが下請け企業の社長であることも、きっと関係ない。要はつまり、ノアは私を舐めてるし、見くびっている。爆弾なんか持っているはずないって、はなから決めつけている!
 だけどそれは本当のことで、私はマヒトみたいに拠って立つ思想がない。ゲリラに抱かれながら、お金に目がくらんでこうやってノアにも手を貸す。鹿の王を信じながら、天国も諦めきれない。
 なにもかもが中途半端だ。
 隣にマヒトがいれば、「さあいこうぜ」ってみんなを引き連れて勇ましく駆け出すだろう。それが分かっていたから、どれだけ頼まれてもマヒトをノアに連れてくることはしなかった。命を粗末にしてほしくなかったし、命を粗末にできるほど信じられるものが私にはないことを突きつけられる気がしたから。
 死にたがりの敗北主義者。お父さんはマヒトをそう蔑んだ。私はぶち切れたけれど、それはあいつの一面を捉えてはいる。
 「美しく死にたい」がマヒトの口癖だった。理念やヒロイズムで死の恐怖を克服しているように私には見えた。だから、マヒトの傍にいれば、命よりも抗いがたいものが私にも手に入る気がした。だけど、結局そんなものは見つからなかった。
 ふりきったつもりでいた粘着質な憂鬱が、また私にまとわりついてくる。
 仕事とはいえ、ノアに来ること自体が憂鬱なことだった。私の自分否定は遺伝子レベルまで遡ってしまう。見た目がお父さんにそっくりでもいいから、脳がお母さんに似ればよかったのに。そうすれば私だって、天国に行けた。天国にさえ行ければ、死を怖がらずに済んだのに。
 私は不幸だ。
 そう思いはじめると、胸が痛くてたまらなくなる。涙目の視界からは活気が失われ、ぜんぶが色褪せていく。血の気が引いて、冷えた手足が腐りおちる感覚。水中みたいに息が苦しい。
 死ぬのがなによりも怖いのに、死にたくなってくる。
 脳が心臓になったみたい。脈拍のたびに世界がぼろぼろ崩れていく。
 助けてほしい。でも一体誰に? マヒトの顔しか思い浮かばなくて、いよいよ私は本当に死にたくなる。
 動物的な本能が、私の神経が昂らせた。生き延びるために。感覚過敏の鼓膜が、ほんのわずか、だけど確かに揺れる。
 ──ホナミ!
 波の音の合間に、誰かが私の名前を呼んでいる。耳を澄まして、目を凝らす。電波塔の方向から、女の子が走ってくる。折れそうなほど細い脚を酷使して、長い髪の毛を風になびかせながら、どんどんと近づいてくる。呆然と立ち尽くす私の胸に、彼女が飛び込んでくる。
 めちゃくちゃな笑顔で。
 柔らかい身体をしっかりとキャッチして、思わず、私はあなたの名前を呼ぶ。
 「ホナミ!」
 あなたは、そう、天国からやってきた。もうひとりのホナミ。

弊社には「地球へようこそ!」というお客様向けの小冊子がある。
 データではなく本にしてほしいと頼み込んだ、私の自信作だった。最初は全部自分で書こうと意気込んだけれど、最終的には鹿の王について短いコラムを寄せただけで、他の人たちの文章を私が寄せ集めるかたちになった。
 「読みやすさとかはひとまず度外視して、あなたの言葉で気持ちを込めて書いてください」と私が依頼したから、どの文章もエモーショナル過多で詩的で、編集作業は本当に大変だった。みんなが見つけ出した地球の美しさを編んでいくその一連の作業は、だけど、私をとても慰めた。
 執筆依頼に奔走している私に、めずらしくマヒトが手を差し伸べてくれて、レイアウトデザインを担当してもらった。ノアが検閲して大幅な修正を要求してきたことに激怒して、途中で放りだしてしまったけれど。特に歴史の章は最終戦争後の人類史上最大の再出発グレートリセットについて、その大半が割かれてしまった。
 そんな「地球にようこそ!」を読んでいる最中に、ホナミは脱走してきた。もっとも、本人は脱走のつもりはなく、読んでいたら観光が待ちきれなくなったらしく、私は内心とても嬉しい。
 結局私たちはその後、追いかけてきた職員たちに壁の中まで連れ戻された。ノアの職員が怒っているところを見たのは初めてだった。そりゃそうだ。ノアにとって最重要なのはこちらに引き渡す瞬間で、契約が交わされなかったらホナミは危険因子になりかねない。
 私とホナミが横並びで座るテーブルに、ナイフと2枚の契約書が並べられている。
 1枚はかつてノアとホナミの両親が交わした電子契約書のコピー。もう1枚はこれから彼女がディアシット・ライブスと交わす契約書で、社員である私がお客様に説明すべきものだった。なのに殺気立った職員、サイトウという名前らしい、が事務的に読み上げてしまう。
 もちろんホナミは真剣に聞いちゃいなかった。
 「分かったってば〜。つまり、48時間以内に死ねばいいんでしょ。そんな怖い顔されたら帰りたくなっちゃうよ、ね?」
 足をぶらぶらさせながら、海みたいにキラキラ輝く目で私に同意を求めてくる。お望み通り天国に送り返してやるよ、と言わんばかりに苛立っているサイトウを牽制する目的も兼ねて私からも説明する。
 「あのね。これはすごく大事なことだから、ちゃんと聞いて、契約してもらわないといけないの」
 ホナミちゃんがそう言うなら、と渋々ながら彼女はナイフを手に取った。細い腕が照明に照らされ血管が透けて見えた。私と同じように、そのなかを赤い血が流れていた。
 「あなたが生まれたときに、あなたのご両親が代理人となってノアと以下の契約を交わしました」。私は目をみてお客様に語りかける。
 「あなたの精神をノアが運営する仮想現実空間Re:EARTHへと転送する。あなたの精神活動はRe:EARTH内に限定される。そのために頭蓋骨を穿刺し、脳深部に神経インターフェース・ネットワーク・モジュールNINMを埋め込むこと」
 「わ、ほんとだ、なんか凸凹してる。私たちみんな頭に穴があいてるの?」
 そう。私の頭にだって、NINMが埋め込まれている。だけど機能的にマインドアップローディングに対応していない脳がある。私のように。
 「あなたの身体は生命維持装置UTERO内でノアが保護する。身体に関する一切の権利はあなたに帰属する」
 ノアの契約書を両手に持って、私はオーバーすぎるくらいに強調して説明した。それでね、と私はこんどは自社の契約書を手に取る。
 「48時間。それがあなたの地球上でのタイムリミット。UTERO内では地上環境に対応した免疫機構がほぼ発達せず、致死性の感染症が必発します」
 「言われてみれば、喉がひりひりする、かも。へぇ、私はこれで死ぬのか」と自分の喉仏をホナミは興味なさそうに触っている。
 「感染症で死ぬのは防疫の観点から禁止されている!」
 テーブルを挟んで向かいに立つサイトウが割り込んでくる。
 「ベーだ」。ホナミは赤い舌を突き出す。
 「そう、あなたを感染症で死なせるわけにはいかない。だから48時間以内に、あなたはあなたの自由意志で死ななければならない」
 そのために、私たちがいる。
 地球最後の民間観光斡旋業者、ディアシット・ライブス。
 グレートリセット直後のドサクサに紛れ、ノアは人類のRe:EARTHへの移住をあまりに強引に進めすぎた。当初の計画ではいつか人類が地球に戻ることを想定したそうだ。だから身体の保護を約束すると同時に、人工授精による繁殖もノアは約束してしまった。
 ホナミもそうやって生まれた子供のひとりだ。
 何代にもわたり増え続けるUTEROの管理に追われながらノアは計画を進めた。そして仮想の天国はついに本物の天国になった。だけど問題が発生した。地球に戻るという本来の想定がひっくり返ってしまった。
 そこに目をつけたのがお父さんだった。ノアの人たちは喜んだ。みんな人も殺せない、優しい人ばかりだから。
 重要事項を私は読み上げる。
 滞在中は常に行動を共にすること。精神活動を脳から切り離すこと。遺品等の権利は弊社に譲渡されること。そして、48時間以内に自ら死を選択すること。
 「もしも、死ぬのが怖くなっちゃったら?」
 答えを知ったうえで、ホナミが問いかける。彼女の茶色い瞳に、私は吸い込まれそうになる。
 「大丈夫、私があなたを死にたくしてあげる」
 見つめ合ったまま、私たちは笑いあう。
 「すべて、了承します」
 彼女は躊躇せずナイフを手首に添えた。そして軽やかにその刃先を引いた。刃先は、しかし、深く動脈をかすめ、噴水みたいな血が吹き出た。
 ──わあ!
 驚きに満ちたちいさな悲鳴。その直後に気を失い崩れ落ちたホナミの身体を、サイトウがとっさに受け止めた。

カウチソファに横たえられたホナミは本当に死んでいるみたいだった。包帯に滲む血は次第に濃くなり、たしかに心臓は脈打っている。青白い顔で唇だけが不自然に赤くて、口紅を塗っているように見えた。
 痛みは感じているのか、時々ホナミは顔を歪める。するとホナミの目尻からすっと涙がこぼれて、私は反射的にそれを指で拭う。冷たい頬に触れながら、その可憐さに惚れ惚れする。
 サイトウが変な気を起こさないように、私は彼女の傍から離れない。もっとも彼は少し離れた場所に座っているだけで、そんな素振りはない。マヒトの金魚のフンと違って、きっとサイトウはいい人で、悪人になりきれない。
 ノアの人たちはみんなそうだ。UTEROを壊せばいいだけなのに、それができない。「天国には良い人しかいけない」。お母さんがそう言っていた。尻拭いをしてるのは壁の外の私たちだってことから目を背け続けることにも、連中は長けている。
 ふう、とため息をついてサイトウが立ち上がり、こちらに近づいてくる。のっぽで、神経質な出で立ち。「なに?」と私は警戒心を緩めない。
 「今のうちにMAPYO-107-NLG-5へと切り替えます」
 介抱に必死で忘れてました、とサイトウはわずかに苦笑する。
 Re:EARTHの途方もない情報量を保存するために、量子ブラックホールを容量無限の情報ストレージ兼サーバーとして利用することにノアは成功した。問題はサーバールームからの膨大な排熱だった。ノアは地上を何度も融解させ、そのたびに生態系を破壊した。
 ノアの解決法はいたってシンプルだった。モビリティを備えた量子ブラックホールMAPYO-107-NLG-5を開発し、飛行させてしまえばいい。結果、地球の季節は夏だけになった。
 契約書で最も赤黒い部分を読み込む。この地球上で血液だけがホナミの身分を証明できた。たったそれだけ。それだけで、ホナミの精神の根源が脳からブラックホールへと移行した。
 「ため息程度の罪悪感なんだ」
 作業を済ませ、深く息を吐くサイトウに、私は嫌味のひとつでも言いたくなる。
 「……遅かれ早かれ身体が朽ちて移行されますから」
 「嘘をついて、それを早めた。いくらでも遅めることができるのに。知ってんのよ、UTEROがあれば、脳だけならほとんど永久に生かすことができるって。あんたたち、何も本当のこと言ってないじゃない」
 「目を覚ましたら、あなたが教えてあげればいい」
 「なんでも私たちに尻拭いさせようとする。本当にクソ。死ね。自分のケツぐらい、自分で拭けよ」
 中指を突き立てる私をサイトウが見下ろしている。
 「死ぬまでそうやって自己憐憫してろ。クソガキ」
 その言葉に私の脳が沸く。衝動的に机の上のナイフを手に取り、殺してやる、とサイトウを睨みつける。
 こいつは、私が天国に行けないと知りながら、私とマヒトたちの繋がりを知りながら、私がノアに寄生しないと生きられないと知りながら、いま、私を侮辱した。そのつもりはなくても、私は侮辱された気分に、惨めな気分になった。
 だから殺す。
 ──俺たちには、その権利があるんだ。
 脳内でマヒトの言葉がリフレインする。
 そうだね、あるかもね。だってこいつら、私たちを見下しているもん。サイトウの死体をアジトに持っていけば、喜んで私を受け入れるだろう。
 サイトウは微笑み、そのままの表情で私に告げる。
 「私もあなたと同じです」
 サイトウが袖をめくると極彩色の刺青、壁の外で生まれ育った証拠だ、が顕わになる。「なにより、こっちもね」。頭を中指でトントンとつつく。
 「だからなに? 気持ちがわかるとでも言いたいの?」
 わかるつもりです、とサイトウは寝言を言う。
 「あなたと違うのは、生きてきた長さだけ。そこだけが、あなたと違う。そのあいだに、そうだな、私は折り合いをつけた。……自分が乗れない方舟をメンテナンスすることに、生きる意味を見いだせるようになった」
 私は笑う。哀れみと蔑みをこめて。それが大人になるってことなら、私はガキのままでいい。
 おはよう。
 ホナミが目を覚ます。大事なお客様を驚かさないように、私はナイフを床に落とす。
 「識別番号X9R4-T7Y2-Q5Z1」
 サイトウは号令のように呼びかける。
 「現時刻をもってRe:EARTH内での精神活動はMAPYO-107-NLG-5上のログデータへと引き継がれ、それらを元に活動することが可能となる。尚、脳による識別は終了し、以降、その起源を保証するためにブロックチェーン技術を用いトークンとして引き続きノアが管理する」 
 精神活動を脳から切り離す。お父さんがノアから突きつけられた唯一の条件は、それを契約に盛り込むことだった。
 ねえ、はやく、ここから出ようよ。子どもみたいに彼女は私に強請る。
 「脳なんてどうでもいいの」
 ヘヴンリィ・パンクはそう笑い、私の手を取って壁の外へと連れ出した。

向日葵畑でひとしきり大騒ぎしたホナミの口に、赤い抗生物質を放り込む。
 「いいの? あとでホナミちゃん怒られない?」
 「死んでからのことなんて、心配しなくていいから」
 そうだね、と彼女も笑う。実はこれ、すべてのお客様に実施しているサービスだった。感染症で死なれてしまうと後始末が大変だし、そんな死体を鹿に食べさせるとクレームもすごかった。何より「地球にようこそ!」が弊社のモットーで、お客様には地球ならではの死に方(そういう意味では感染症もうってつけなのだけど)で、そしてなるべく楽に逝ってほしい。
 「おいで」とホナミは鹿、メスの仔鹿だった、に向日葵の種を食べさせようとする。くんくんと鼻を近づけて、おしりを向けて海の方に走り去ってしまう。
 「鹿たちは、これが大好物」
 私はニヤっと笑い、ポシェットの中から鹿せんべいを取り出して音を出して割る。するとさっきの仔鹿が走って戻ってきて、しばらくすると海の方から大小たくさんの鹿たちがやってきた。ひときわ巨大な角を持つ牡鹿が最後にやってきて、角に海藻が絡まっている。
 「さっきまで泳いでたんだね」
 「鹿って泳ぐんだ」
 「泳ぐよ。天国の鹿は泳がないんだ?」
 「泳がないよ。ねえねえ、ホナミちゃん、その「天国」ってどこ?」
 しまった、と私は心のなかで舌打ちする。
 「Re:EARTH。何だって叶う、天国みたいな場所なんでしょ、きっと」
 華奢な身体を大きく伸ばして、彼女は全身で海からの風を受け止めた。色素の薄い髪に太陽の光が反射して、その周辺がキラキラと輝く。
 「ここのほうが天国っぽい気がするけどね」
 鹿の糞を指で弾きながら、独り言みたいにホナミがつぶやく。私は何も返事をせずに、もう一枚鹿せんべいを取り出して鹿をさらに呼び寄せる。
 「この鹿せんべいさ、近所に住んでるフェリハさんってお婆ちゃんが焼いてるんだ。フェリハさんにはミファって孫がいて、彫り師をやってる」
 一匹の鹿が近づいてきて、私の脚に噛みつこうとする。死体の味を覚えた鹿は、せんべいよりも人を好んで喰いたがる。どうせ誰も見ていないから蹴って避けても良かったのだけど、ホナミが真似をしても困るから手を引いて逃げることにする。
 彼女はすぐに息が切れてしまう。最初の全力疾走は、本当にあれは、命を振り絞った走りだったのだろう。大丈夫? と私は水を渡す。ホナミは一気に飲み干して「最高に美味しい」と私の肩に寄りかかって笑う。
 太陽が少し傾きかけている。あと数時間もすれば世界はオレンジ色に染まって、そして深い夜がやってくる。
 あっち、と私が指差す方向をホナミも見る。
 「あのうちのひとつが、私の家。絶賛家出中だけどね」
 「……森? 森に住んでるの?」
 さらさらと流れる髪に隠れて見えないけれど、ホナミはきっと驚いている。私も驚く。なるほど、ここからだと巨大な森に見えなくもない。
 「地球へようこそ!」を取り出す。「昔は、こんなだった」とホナミを引き寄せて、はるか昔、同じ画角で撮られた写真を風景のとなりに並べてみる。
 左にはピカピカのきらびやかな高層ビル群、右には夥しい量の蔦が絡まった朽ち果てた高層ビル群。あの森の一本の樹の中で、かつてはアビアン・スカイタワーと呼ばれた建物の一室で、私たちは暮らす。
 へえ、とホナミは目を凝らす。蔦の合間からのぞく窓の照り返しで、木々は煌めいてみえる。「綺麗」とホナミは息をのむ。どうやらこの景色にいたく感動してくれたようで、私は誇らしい気分になる。

もっと近くで見たいというお客様のご要望にこたえて、私たちは”森”まで歩いた。家出して以来の久しぶりの地元に私のほうが少しソワソワしてしまい、ホナミがそっと手を繋いでくれる。
 「意外と綺麗なんだね」とあまりに邪気なく呟くから笑ってしまう。「もっとぼろぼろだと思っていた?」という質問にも素直に頷く。
 「全部取り壊して更地にする案もあったらしいけどね。気をつけて、ときどき空から金属が落ちてくることがある。こんなつまらないところで死んだらダメだよ」
 つまらなくないよ、と繋いだ手を振り払い、ぴょんぴょんと積み上がった瓦礫の上へとホナミは上がっていく。「面白いよ」。もし地上で育っていたら。ホナミはお転婆な、きっと私みたいな子供だったに違いない。「電気も通ってるんだ」とぐるりと見渡しながら言う。
 「暑いからね」と私は汗を拭う。「クーラーを使えるってだけで、ノアにはみんな感謝している」
 嫌味のつもりではなかったけれど、「ごめんね」とホナミを謝らせてしまい、私は自己嫌悪に陥る。
 「あなたが悪いんじゃない」
 「優しいね。私が逆の立場なら、ビンタしちゃうかもしれない。ホナミちゃんに殺されるなら、納得できちゃう気がする」
 返事に困っていた私の後ろでクラクションが鳴る。ロンさんだった。笑いながら何か喋っているけれど、言葉が分からない。ちょっと待って、とジェスチャーで伝えて、アルカを私とホナミに同期させる。
 『ホナミは面食いだな。顔がよかったらどっちでもイケる』
 「わざわざ翻訳する価値がなかった。電力のクソ無駄」
 ごめんよ、とロンさんがトラックから降りる。筋肉質な、それこそ巨大な樹みたいな肉体。だけど威圧感はなくて、全身からおおらかさが溢れ出ているお父さんの古い友達。降りられなくなり困っていると思ったのか『お嬢ちゃん、大丈夫か?』とホナミへと手を差し伸べる。
 「ありがとうございます」とホナミも警戒なくその身を任せて、抱きかかえられて降りてくる。『地球へようこそ!』とにかっと笑うロンさんの腕は幹のように太く、刺青がぎっしり彫られている。
 「これを書いてくれた人」と私は「スクラップ・アンド・ビルドではなくストック活用による再開発」の頁をめくってホナミに見せる。もっとも心を打たれた原稿のひとつだったから、本のどこにあるかを私の指が完全に記憶していた。ごめんなさい、とホナミが申し訳無さそうに口に手を当てる。「この子ね、読みながらウズウズしちゃってノアから逃げてきたんだ」と私が笑い、ロンさんも豪快に笑う。
 『それじゃあな』とロンさんはまたトラックに乗り込んだ。今日もこれからあちこちのビルを修繕してまわるのだろう。そのなかのひとつにアビアン・スカイタワーも含まれている。『念入りにやっとくからよ』と親指を立て走り去っていった。きっとお父さんが私のことを伝えていたんだろう。
 ホナミはこの場所が随分気に入ったみたいで、ご飯も食べずにあちこち散策している。さすがに説明することもなくなって、私は少し離れた場所でお客様を見守っていた。何もしていないと、脳がオートマチックにマヒトのことを思い出してしまうから、困ったものだった。
 最初に声をかけてきたのはマヒトからだった。背が高くて、イケメンで、物憂げで儚くて危なっかしい雰囲気に、私は一瞬で心を奪われた。真に恋におちたとき人は泣くのだと、私は経験として学んだ。あのときの涙の意味を、私はまだ分からずにいる。
 ねえねえ、と気がついたらホナミが目の前に立っている。「彼氏のこと考えてたでしょ?」。返事も待たずに、恋する乙女だねぇと、ニヤニヤしながら私のとなりにひっつくように座る。
 「マヒトくんの、どんなところが好き?」
 顔、と即答する私に、目をまんまるくしてホナミは驚く。
 「あ〜〜えっと、顔かぁ、顔……」
 「大事じゃない?」
 「う〜〜ん、ほら、私たちは見た目なんて好きに変更できちゃうから」
 「私たちにはね、この顔しかないの」とホナミにおでこをくっつける。まだ平熱で、私はホッとする。「ホナミちゃんの顔、好きよ」
 「顔以外は、そうだねえ。アイツの好きなところかぁ……色々あるよ、料理が上手とか」
 「マヒトくんもホナミちゃんの顔が好きで一緒にいたのかな」
 「私の母親が崩月アリアだったからよ」
 そんなことないでしょ、と言いたげなホナミを制止して、私は話し続ける。「そういうやつなのよ、マヒトは。生きていることに飽き飽きしていて、ノアの陰謀で暇をつぶそうとしていたところに、私が通りかかった。信じられる? あいつ、寝ている私の目をひらいてノアのデータベースにアクセスしたんだから。嬉しそうだったなぁ、あんときのアイツ」
 ぷりぷり怒っている私の隣で、呆れた顔でホナミが笑う。
 「そんな男の子の、何が好きなのか全然わかんない」
 「私もわかんないよ。だけど好きになっちゃったんだもん」
 あいたいなぁ、ってホナミが空を見上げながら言う。マヒトに? と、嫌な予感に私の心がざわざわする。ヘヴンリィ・パンクなんてマヒトの絶好の標的に違いない。
 だけど私の予感は外れる。「お父さんに」。ホナミは子供をしかる母親みたいな顔で私をみて、真剣な声色で言う。「一緒にお父さんに謝ろう」 

「絶対に、お父さんに会わせてくれないの? 私、もうすぐ死ぬんだよ?」
 汗を流したくて公衆シャワーから出てきた私に、両頬を膨らましてホナミは不満をアピールする。
 「だーかーらー、家出してるって言ったよね? わかる? 家出ってね、家を出るってことなの。だから家には帰りません、なので親にも会いません、会えません、会わせません」
 「私たち、どこで寝るの? 寝るのも楽しみなんだけど」
 そのへん、と私はぶっきらぼうに答え、寝てしまえばどこも一緒よ、付け加える。
 ほんのちょっとだけ涼しい風が、熱いシャワーで火照った身体を冷ましていく。ん〜〜っと気持ちよく伸びをする私に、「服着てよ、はしたない」とホナミが遠慮がちに水を差す。外気浴より気持ちいいことなんて、地球にはそうはないのに。あんたらには分からないだろう。
 「シャワー浴びたら?」とホナミの方を見ると、まだほっぺを膨らましている。「恥ずかしいからやだ」と顔をそむけ、「パパに謝ったらいいのに」と横目で睨む彼女を無視して、しかたなく私は服を着る。
 「天国じゃ親子喧嘩もないの?」
 また天国って言っちゃった、と思うけれど、お互いもう気にしていない。
 「ん〜〜、ママが死んでからは、ない。優しくなった、ママの方がね」
 ごめん、と思わず私は謝る。なにが? とホナミはキョトンとした顔でこちらを見ている。
 「お母さんが亡くなったこと、知らなかった」
 「謝んないで。こっちで死んだあとも、あっちでママは生きてるよ。ブラックホールに引き継がれて。知ってるよね? あっ、そうか」
 だから、ホナミちゃんは天国って呼ぶんだね、と心底腑に落ちたようにホナミはひとり納得する。海鳴りの音からしばらくすると、強い風が吹いた。さわさわと草が動いて、私たちのすねをくすぐる。
 「優しくなったんだ。良かったね」
 「うん、まるで人が変わったみたいに」
 「私のお母さんもすっごく優しいよ。怖いくらい。まだ生きてるけどね」
 「お父さんは?」
 「まだ死んでない」
 そうじゃなくて、とホナミが吹き出す。「お父さんは、優しくないの?」
 わからない、と私は素直に答える。
 動機が優しさだとしても、踏み込んではいけない領域があって、お父さんはそこを侵犯したのだ。だから、私には怒ったり、家を出る権利がある。
 マヒトとの関係に口を挟まれたことを思い出すと、怒りがふつふつと湧いてくる。せっかく冷ました身体にまた熱がこもっていく。
 ときどき思う。私は、何かに怒っていたいだけなんじゃないかって。怒りに身を任せて、世界との和解を拒絶しているほうが私らしくいれるから。こんな気持ち、無垢で愚かなヘヴンリィ・パンクに分かるはずがない。
 「とにかく、お父さんには絶対に謝らない。ごめんね」
 身体だけじゃなくて、声も震えていた。
 そしたら、ホナミが近づいてきて、ぎゅっと私を抱きしめた。シャワーも浴びてないはずなのに、ホナミからはいい匂いがする。UTEROに満たされた人工羊水の匂い。今度は、私がそれに包まれている。
 「いいよ、謝らなくて。そうだね、好きになったら仕方ないか。ホナミちゃんは悪くない。ちっとも悪くない」
 「あ、ありがと……」
 あまりに素朴な肯定の言葉に、どぎまぎしてしまう。そんなことを誰かに言われたのは初めてだった。
 心のなかで復唱する。私は悪くない。私はそんなに悪くない。私はちっとも悪くない! 
 うふふって笑った私の頭を、ホナミが撫でてくれる。
 汚れていない真っ白なシーツみたいな慈しみが、私をくるんでいる。それを汚したい気持ちと、汚されたくない気持ちが、私を引き裂いている。ホナミに抱かれながら、私はマヒトのことを、あいつの骨ばった身体の感触を、丹念に思い出していた。

大きな音で降り出した夕立のあとで、虹がかかった。
 わあ。驚きに満ちた、ホナミのちいさな悲鳴が教室内にこだまする。雨よけに私たちが駆け込んだのは学校の跡地で、ボロボロになった傘があちこちに残されたままになっている。
 「マヒトのアジトも、昔は学校だった」
 割れた窓ガラスの縁にぼってりとしたカマキリの卵がある。窓の外、かつての遊具は蔦に飲み込まれて、緑の巨大な球体にみえる。それらを眺めながら、私は独り言みたいにつぶやいた。
 「懐かしい?」
 髪をひとつ結びにしたホナミが逆光の中に立っている。
 「懐かしいも何も、つい昨日まであそこにいたよ」
 「マヒトくんじゃなくて、ここ」
 「ここが? なんでよ、私には縁もゆかりも無い」
 ぐるっと教室を見渡して、日付が確認できるものを探す。黒板の隣にかけられたカレンダーは当然ながらグレートリセットよりも以前でその時間を止めていた。私が生まれるより、ずっと昔の世界。
 そっか、とホナミのそっけない返事に、ディアシット・ライブスの社員としてお客様をもてなす責務があることを私はようやく思い出す。アルカを起動して、ノアのアーカイブからこの場所の記録を掘り起こす。
 『プロジェクションモードに切り替わります』
 教室の天井に向けて、煙のような光がアルカから散布される。かつての風景がホログラムとなって投影され、走り回る子どもたちがホナミの身体を通り抜けていく。少し遅れて音声も復元される。日本語を話す子どもたちが多い教室だったみたいで、私にも少し意味がわかる。技術の最先端ってやつはすごいぜ、といつも私は思う。その技術にあやかれることに素直に私は感謝したくなる。
 「いかがですか、お客様」
 「なんか不思議な気持ち。泣いちゃう」
 それが懐かしいって気持ちなんじゃないかな、と私は伝える。
 ノアの歴史は大戦前にまで遡る。とりかえしがつかなくなるまえに、地球を保存しようと動いた人たちがたくさんいた。それら断片的な、だけど膨大な記録をもとに、ノアはRe:EARTHを立ち上げた。だからこの景色は、むしろホナミのほうが馴染みのある景色なのだろう。
 「あなたの世界の、元ネタだもんね」
 泣きはらすホナミの手をにぎる。あと36時間以内に消滅するこの身体のぬくもりを、私はしっかりとこの身体に馴染ませたいと強く思う。
 ──ノスタルジー、後悔、それから重力
 「それが、あの子たちが求めてやまないもの」とお母さんが教えてくれたのは、あれはいつのことだっけ? ヘヴンリィ・パンクや、使を一緒くたにして「あの子たち」とお母さんが呼ぶのを、私はいつも嫌な気持ちで聞く。
 私たちが教室をあとにするタイミングで、廊下を歩いてくる男女と鉢あわせた。女はおっぱい丸出しで、男は全裸だった。ふたりはニコニコ笑ったまま繋いだ手をあげて挨拶し、残りの手を広げて何も持っていないことを私たちに示した。ふたつの身体はどちらも全身に刺青が掘られ、雨に濡れて赤はより鮮やかに発色していた。
 「大丈夫だと思うけど、一応私の後ろに隠れてて」とホナミに耳うちする。こういうタイプの人たち、腐れヒッピーとお父さんは呼んでいる、はアルカも使わない。「私の言葉、わかる?」と問いかけると、男が申し訳無さそうに首をふった。分かったところで話すことも特にないけれど、お客様にとっては貴重な経験になるかもしれない。
 「本に書いてあったあれ、やってみて」。背中越しに私はホナミにウインクする。
 おずおずとホナミは前に出て、ふたりに向かってすっと右手の中指を差し出す。それから、空気をかき混ぜるみたいに、その指を慎重に回転させる。さらにゆっくりとしたスピードで指を掌へと戻しながら、「鹿の王のご加護がありますように」と声に出して言う。
 手の動作に全身を引っ張られ、光の中でホナミは踊っているように見えた。
 カップルも慣れた手つきで同じ動きを返して、私たちは別れた。別れてしばらくして、「そういえばなんでホナミちゃんは刺青がないの?」と彼女に尋ねられた。鹿の王を心底信じてしまうと、天国にいけなくなる気がするのが一番の理由だったけど、そのことはホナミに言いたくなかった。
 「痛いの苦手だし、あとで嫌になっても柄が変えられないじゃん」
 どれも決して嘘じゃなかった。
 そうかあ、とホナミはオレンジ色の空を見上げてしばらく黙る。そして「私、刺青いれたい」とこちらを見る。ワクワクした表情で。
 「せっかくなら、取り返しのないことを、してみたいの。私たちの世界ではなんでもやりなおしができちゃうから」
 ノスタルジー、後悔、それから重力。それらが彼女たちのお気に入り。
 丘の上に立ちながら、私は自分の家の方向を見上げる。ちょうど太陽が重なって、ヘリポートがある屋上の輪郭がおぼろげになっている。
 「承知しました、お客様」
 私を真似て、ホナミも親指を立てる。とても柔らかくて、まんまるとした可愛い彼女の親指を、私は噛む。
 ──きゃ
 声未満の、驚きに満ちた悲鳴。
 血が滲んだ指先にしっかりと私の歯型が残っていた。「刺青は、もっと痛いよ」とささやく。ごめんね、と笑うとホナミの緊張がわずかにほどける。「それでもいい」と強がる彼女に、私に親指を捧げる。
 「思いっきり噛んで」
 あなたを刻んで、と私は願う。その痛みなら引き受けられる気がしたから。
 獣のように開かれたホナミの口の中に、私の指先が消える。激しい痛みに耐えながら、私はオレンジ色に染まったこの時間帯をなんて呼ぶのかヘヴンリィ・パンクに教えて差し上げる。
 マジックアワー。
 それが過ぎると、地球には夜がやってくる。

自分が乗れない方舟をメンテナンスすることに、生きる意味を見いだせるようになった。
 ホナミが戻ってくるのを待ちながら、サイトウの言葉を私は反芻していた。味のなくならないチューイングガムみたいなその言葉は、私を苛立たせたり、慰めたり、混乱させたりする。
 まあ、としては決して悪くない。なんたって母親はあの崩月アリアなのだから、ノアでポストを得ることは容易いだろう。あと十年経ったら、サイトウみたいに思えるかもしれない。
 「でもなあ〜」
 思いの外大きな独り言に、自分で驚いてしまう。強いアルコールのせいで脳の抑制がはずれかけている証拠だった。自分が乗れない方舟をメンテナンスすることも、壊すことも、私にはしっくりこない。何よりお母さんの庇護から一生離れられない気がして、空恐ろしい。
 4本目の煙草に火を付ける。ミファが巻いてくれた包帯から血が滲みでている。私は大量の抗生物質をアルコールで流し込む。ホナミはだんだんと地球の空気に汚れて、抗生物質があろうと遅かれ早かれ敗血症で命を落とす運命にある。ホナミはその運命に抗わない。それどころか早めることも厭わない。だって、彼女は天国にいけるから。
 私だけが運命に抗おうとして、なんだか馬鹿みたいだ。
 今はもう何も考えたくない。ホナミとはやく話の続きがしたかった。
 高く吐いた煙の行先を、私は目で追う。露天で焼かれる肉から出る香ばしい煙に合流し、薄青いスレッドとなって夜空へと逃げていく。スチールの骨組みがむき出しになったがれきの天井は裂け目だらけだった。
 ゼノン・パラダイスモール。
 私たちが楽園と呼ぶこの場所は、かつてそう呼ばれていた。入口にある崩れかけのファザードにその痕跡がある。死後のアンケートで、お客様の満足度が一番高いのがこの楽園での経験だった。
 何せここには壁の外のほとんどすべての娯楽が揃っている。
 男性のお客様を、お父さんと一緒に案内したことがあった。楽園で女を買い漁って、あらゆる性病を罹患した。「なあ、地球の女はどうだった?」と最期にお父さんは訊いた。「あんな緩いアソコじゃイケねえよ」と汚く笑って、それでも天国にいった。
 5本目の煙草に火をつける。ホナミはまだ来ない。
 最後の衣装を選ぶのもお客様たちには楽しいイベントらしい。ホナミも例外ではなかった。「自分の身体を変えられないって、こんな不便なんだね」と驚きながら、地球に遺された財産(その大半は両親からの相続だった)を使い切る勢いで彼女は服を買いまくった。
 「ファッションだけが私たちの文化」。楽園の半分以上を占める衣類売り場の入口には、ネオンサインでそう掲げられている。壁の中のあの禁欲的な服装は絶対に壁の外私たちを意識しているから、確かにファッションは唯一最大の感染力を持つ文化だった。
 誇るべきその文化に、だけど、私は馴染めずにいる。カラフルな刺青も彫ってなければ、煌めくボディーピアスも開けてない。
 身体のラインを隠すオーバーサイズの白いジャンパーと、同じ色をしたぶかぶかのズボン。ヘッドバンドも、スニーカーも、真っ白。差し色はポシェットとシャツのプリントだけ。目立つからって理由で同じような服を着る子たちもいるけど、私は正直不愉快に思っている。
 この格好は私なりのレジスタンスで、なんていうか、あんまり真似してほしくないんだよね。
 散財に付き合いながら、マヒトにも言ってなかったそんなもやもやをホナミに打ち明けた。「私ね、なんとなく分かってたよ」。その言葉に嬉しくなって、私は泣きそうになった。その続きも一字一句覚えている。「ひと目みてかっこいい!と思った。だけど、これは真似したらダメなんだろうなって、私、本当に分かったよ。それはホナミちゃんのやり方で、他の人がすると台無しになるものだって」
 そう、それが私が考えた私なりのやり方。真似はしてほしくないけれど、わかってほしいとずっと思っていたこと。
 目をつむり、暗闇の中で私は耳を澄ます。
 あちこちからキッチンナイフがまな板を叩く音が聞こえ、むせかえるような香辛料の匂いが漂ってくる。この星のたくさんのソウルフードに食欲を煽られて、お腹がぐーっと鳴る。いつだって店主たちの思うつぼだった。
 今日のご飯はどうしよう? 10本目の煙草に火をつけるのをやめて私は真剣に考える。美味しい!ってホナミがごはんを頬張るところを想像して、胸がいっぱいになる。明日の今頃には、彼女は天国にいる。
 気配を感じて目を開ける。
 「じゃーーん!」とホナミが降り立った。後ろにミファを従えて。
 およそ3時間をヘヴンリィ・パンクは肉体改造に費やした。
 青いタイダイ染めのシャツは後ろがざっくりと開いて、背中には大きな羽根模様の刺青が刻まれている。『本物の天使みたい』と溜め息をつくミファが、私にウインクする。フローラル柄のショートパンツからホナミの長く細い脚が伸び、右脚にだけ毳毳しい模様が施されていた。黒い髪は派手な金に変わり、無理な脱色で明らかに傷ついている。紫のピアスが舌を割くために埋め込まれ、その周囲がぶよぶよに膿んでいる。
 こっそりホナミの親指を確認するけれど、歯型はすっかり消えていた。
 「可愛い。よく似合ってる」
 嘘じゃない。悔しいけれど、本当に可愛い。
 えへへ、ってはにかむホナミがちゃんとホナミのままで、私は安心する。
 『どう? ホナミも彫ってあげようか?』って肩を組もうとするミファから、私はさっと身を躱す。『せっかくモノシリなんだから』といつの間にかそこにいたフェリハさんからも勧められてしまう。
 「モノシリって?」
 髪の毛を指でくるくる巻きながら、誰に向けたわけでもないホナミの質問が宙を舞う。
 『モノシリは鹿の王に愛されてる』
 自慢げにフェリハさんは私を指さす。 
 『この子は、だから鹿の王に会える。私は一度しか会ったことはないのに、この子は何度もある』
 4回。心のなかで私は答える。だけど私はちっとも敬虔ではないから、申し訳ない気持ちになる。それを知っているミファがニヤニヤ笑っている。
 「ふ〜ん、だから詳しいんだね」
 「だから、ってわけでもないんだけど……」
 「ガイドブックに書いたのもモノシリだから?」
 『ちなみに楽園のお店一覧を作ったの、私ね!』と口を挟んでくるミファを無視して、私は愚痴をこぼす。この話もマヒト以外の誰かにするのは初めてだった。
 「あれもさぁ、ほんとは続きがあるの。とても短いけれど、私、鹿の王と話したんだから。だけどノアがばっさりカットしやがった。くそくらえ」
 『汚ねえ言葉』と苦笑いするミファが、こっちのホナミはそんなこと言わないよねと自分が彫った羽根を撫でる。
 『そんな大事なことは、あなたの心にだけ秘めておきなさい』とフェリハさんに叱られても、アルコールのせいで私は止まらない。
 「お母さんに聞いた。なんでカットしたの? って。分からないってはぐらかされちゃったけどね。だけど私はなんとなく、察しはついている。きっと、鹿の王とノアの計画は実は深く繋がっていて、」
 やめなさい!とフェリハさんが怒る。二度とそんな話をしないで!とすごい剣幕で私にまくしたてる。スラングが多すぎるのか、アルカの翻訳が追いつかない。要は、あんな連中と鹿の王を結びつけるな、といったことを彼女は言っていた。『おばあちゃん、落ち着いて』とミファになだめられながら、二人は店へと戻っていった。
 すぐに『しばらくしたらそっち行くよ』とミファからメッセージが届く。間髪入れずに『あのイケメンの彼も一緒に飲もうよ』とも。「ご飯食べよう。ねえ何食べたい?」とホナミの手を引っ張り、露店の人いきれに私たちは姿をくらます。はやく二人きりになりたかった。

あなたが地球を楽しむとき、守らないといけないルールがあります。
 それは鹿をいじめたり、食べたり絶対にしないこと。鹿の糞もなるべく踏まないように避けて歩いてください。だけどあちこちに落ちているから、なるべくで大丈夫。
 どうしてそんなに鹿を大切にしているかというと、地球の多くの人にとって鹿は信仰の対象だからです。
 この信仰に決まった名前はないけれど、ここではひとまず「鹿の王信仰」と呼ぶことにしましょう。

鹿の王は不老不死で、あらゆる人間の言語を理解し操るとされます。
 住処とされるアヲノ嶽の大部分は禁足地なので決して立ち入らないこと。
 アヲノ嶽の外に鹿の王が出ることは滅多にありません。
 なので滞在中に見れたらとてもラッキー!
 その御姿はたとえば次のように表現されています。

立ち姿は雄大な山々のように堂々としていて、どんな嵐にも揺るがない幹のように太い脚が地に根を張っている。
 肌は森の中のさまざまな色――苔の緑、大地の茶、岩の灰色がまだらに混じり合った色をしている。
 その頭部には大きく枝分かれした角があり、まるで天を突く古木のように見える。
 神秘的なその目は深い森の池のように静かで澄み切っている。

死体に鹿たちが群がっている光景に、あなたはショックを受けるかもしれません。
 悲しいことではありません。怖いことではありません。
 刺青を彫って身体を装飾するのは、美しいものとして鹿に捧げるためです。
 鹿の王信仰における死生観を理解してください。
 それは直線的な生ではなく、円環的な生を肯定します。死体は鹿に食べられることで糞になり、土へと還り、鹿の王の胎内に戻るとされています。
 鹿の王の胎内は母親の子宮へと繋がり、再びこの世界に生を授かるのです。
だから人が死んだときも、人が生まれたときも、私たちはアヲノ嶽の拝所へと参ります。
驚きと感謝を込めて。

「鹿の王のご加護がありますように」
 それを意味する、特別な動きがあります。
 特別といっても、やり方はとても簡単!
 まず、右手の人差し指を立てます。生命の始まりと誕生を象徴します。
 人指し指をゆっくりと回転させることで、生命が循環していく法則を示します。
 そして、人差し指を軽く下に向け、ゆっくりと曲げて手のひらへと戻します。生命が鹿の王へと戻ることを意味します。

最後に。
 鹿の王は◯◯なんですか?(宇宙人、神様、ロボット等が◯◯に入ります)という質問が多くのお客様から寄せられます。たしかに、不思議ですよね。
 実は、同じことを私も聞いたことがあるんです。誰にって?
 なんと直接、鹿の王に。
 こんな片隅のコラムを最後まで読んでくれたお客様には、特別にその答えを教えちゃいます

「結局のところ、あなたは一体なんなの?」という問いに、鹿の王は確かに言いました。

──彼岸と此岸を繋ぐ方舟である、と。

私たちはお腹いっぱいになって、それでも口さみしくてミルク・アンド・ブレッドを注文した。熱々のバターミルクに崩したとうもろこしのビスケットを入れて、蜂蜜をたっぷり注ぐ。さらにシナモンをひと振りすれば味わいが更に複雑になって好きだった。
 「は〜〜しあわせ〜〜」と湯気の向こうでホナミが蕩けている。私の大好物を彼女も気に入ってくれて、それが嬉しい。「極楽だね」。全身から力が抜けていく。つい昨日まで、私はまだマヒトの恋人で、ホナミの存在さえ知らずにいたことを思うと気が遠くなる。生きることは、新しい角を曲がることに似ていた。そのたびに思いがけない景色が広がるから。
 これまで見たすべてをホナミに喋り尽くしたかった。彼女は彼女で自分の話をしまくって、私を笑わせたり驚かしたりした。
 「同時に存在できるアバターは2体まで。たったふたつのユニバースにしか私たちはいられない」
 「そして死後、その制限は解除される」
 「そう。みんなそれを早めたくて、必死。だからみんなホナミちゃんたちに感謝している」
 「天使は最初から無制限なの?」
 「天使? なるほど、天使かぁ。たしかになら、それは天使だよね。私たちはキッズって呼んでるけれど。キッズって可笑しいんだよ。地球にそっくりなユニバースをつくって、みんなそこで活動してる。無限のアバターで無限のユニバースを行き来できるのに、ひとつのアバターとひとつのユニバースにとどまるの。私たちよりもずっと人間臭い」
 「どこにだってジェネレーションギャップはあるのねぇ」
 「私ももうすぐ天使になるんだけどさ。そしたら気持ち、わかるのかなぁ」
 「ママに聞いてみなよ。どんな気分? って」
 ミルク・アンド・ブレッドをふたつ追加で注文する。シナモンを勧めたけれど「このままでいい」とホナミは断った。それから一瞬の沈黙があって、こういうの、天使が通るって言うんだよと私は独り言みたいにつぶやく。
 ママが死んだときに、と話し出したホナミの唇がかすかに震えていた。
 「ママが死んだとき、私、うまく悲しめなかったんだよね」
 大きな瞳から、ぽろぽろと涙が落ちる。
 「それは……でも、仕方ないんじゃない? 死んだあとも生きてるんだから」
 「でもね、死んだあとのママと、生きているときのママは、やっぱり違うんだ」とホナミは鼻をすする。彼女に動揺が伝わらないように、私は黙って耳を傾ける。
 「なんにでもなれるママは、私だけを見てくれなくなった」
 量子ブラックホールに浮かぶ無限の宇宙を自在に行き来する無限の母親という存在を、私はうまく想像できない。
 「あっちの世界では子供のログデータは親が覗けるし、必ず同じユニバースに存在しないといけなかった。それから解放される嬉しさのほうがどうしても勝っちゃって。本当にひどいよね」
 「そりゃ、嫌だよ。私なら死んでもヤダ」
 「だんだんと嬉しさよりも寂しさのほうが大きくなって、この頃はずっと泣いてばっかりだった。だから私、はやく死にたいって思ったの。私が死んだら、天使になったら、いちばん可愛かった頃の、ママが大好きだった頃の私と、私が大好きだった頃のママだけの、ふたりのユニバースを創るの」
 そういう問題なのかな? と私は思うけれど、こんなホナミを前にしてそんなことはきけなかった。きっとそれが彼女が考えた彼女のやり方で、だからママは喜ぶに違いない。他の人がやっても意味がないことだもの。
 「私も昔はお父さん子だったから、気持ちはわかるよ」
 テーブルにだらんと差し出されたホナミの両手に私の手を重ねる。
 「ホナミは、いい子だね。ホナミは悪くないよ、あなたはちっとも悪くない」
 彼女から受け取った言葉を、私はそのまま彼女の元へと戻す。そしたら涙と鼻水でぐしゅぐしゅの顔のまま「ありがとう」って言うから、私は吹き出してしまう。「ひどい〜〜」ってホナミも笑って、そしたらこんどは私が泣いていた。
 私たちは果てしない距離に隔てられながら、同じように親との距離感に悩みを抱えて、こうやってわかちあっている。そのことが途方もなくラッキーなことのように、私は思えた。

ノアの真ん中に立つ電波塔からは音楽が流れている。その音楽は潮の干満と月の運行に、つまりこの地球の動きに、連動しているそうだ。
 「かつての地上で鳴っていた音、録音されたそれを、ずっと流し続けているの。みんな地球が懐かしいのね」。どんな音楽なの? と聞いた私に教えてくれたあと、お母さんは小さく「かわいそう」と言った。ずっと前の話。その時のお母さんの表情は、だけど、私の記憶に深く刻まれていた。
 広場は楽園の中央にあって、大きなステージがそのまま遺されている。ふたりで泣き喚いたあと、私たちはそこに腰掛けてまた話し続けた。
 ステージの上からは私みたいに帰る場所のない人たちがたくさん見えた。みんな薬をキメて、音楽で踊っていた。だんだんと人が少なくなって、何人かが集まってプロジェクションモードでアルカを起動した。
 かつて、この場所はゼノンパラダイスモールと呼ばれていた。人が溢れた賑やかな場所だった。その幻影が、真夜中の広場へと投影されていた。
 幻の人たちに囲まれて、大人たちが踊っている。「かわいそう」と私は呟いた。膝で眠るホナミは私の表情が見えただろうか? きっと、私は、あの時のお母さんみたいな哀れみと慈愛が混ざったような顔をしていたに違いない。
 グレート・リセットなんて錯覚だって、口酸っぱく言い続けたのがお父さんだった。私も同じ気持ちだ。あんなに怒ってごめんね、とお父さんに謝ってもいい気がしてくる。絶対に謝らないし、家にはもう帰らないけれど。
 がれきの空が白んでいる。私もいよいよ眠たくなってきた。
 「ねえ、ホナミ、まだ起きてる?」
 頭を撫でながら、熱が上がっていることに気がつく。身体のあちこちにできものができていて、細菌やウイルスが確実にホナミを蝕んでいる。タイムリミットが刻一刻と近づいていた。次第に呼吸器にも症状が出るだろうから、しばらく禁煙することを私は心に誓う。
 「眠ったままでもいいからさ、耳だけ貸して」と握った私の手をホナミがしっかりと握り返す。朝が来る前に、話しておきたいことがあった。あなたと一晩中語り明かして気づけたことだから。
 「私さ、お母さんに似てるって言われるのを一番喜ぶような子供だったんだ。可愛いでしょ? 
 私がモノシリなのも、お母さんがモノシリだったから。霊感が強い血筋で、お婆ちゃんみたいに鹿の王の巫女として本当は生きるはずだった。ノアに入ってから、もうモノシリじゃなくなっちゃったらしいけどね。
 何歳の頃だったかな? ずいぶん小さい頃、死ぬのが怖い、私も天国に行きたい、みたいな手紙を書いて、それでお母さんを泣かちゃったんだ。それがきっかけで、お母さんはノアに協力するようになった。
 私のことが、かわいそうになったんだと思う。
 お母さんがノアで何をしたいのか、今でもよく分からない。でもあの人は、私のためならなんだってする。してしまう。私は、そんなお母さんから、なんとか逃れようとしているんだと思う。昔のホナミみたいに。
 お父さんとのつまらない喧嘩なんてただの口実で、家を出るタイミングを私はずっと探していたんだと思う。あの日、しかも、お母さんは家にいなかったしね。家出には勢いと条件が必要だった。
 だけどね、多分、もっと前から、お母さんの、何ていうかな……親の愛の重力圏みたいなものから、脱出していたんだと思う。一瞬だとしても。
 マヒトと初めて会ったあの日に。
 なんだかわからないけれど涙が止まらなかったあの日に。
 いまからすっごい恥ずかしいこと言っていい? 
 ねえ、恋愛って、人を好きになるって、それまでの自分を、歴史を、出自を、振り切ってしまうことだって、そう思わない? 
 マヒトを好きになって、もうどこにも帰れないってわかって、その自由に私は泣いたんだ。
 ねえ、ホナミ。あなたとも、出会えてよかった。
 恋じゃなくても、あなたを好きになって、私はまた自由になった。
 ありがとう。大好き」
 あなたがあなたでいられるように、私はお母さんを頼ろうと思う。それでもかまわない。それだけの価値が、あなたにはある。だけどそれを最後に、私は今度こそ本当に家を出よう。もう一度だけ、マヒトとしっかりと話し合いたい。ぶっ壊すんじゃなくて、一緒に地獄を天国に変えていこうぜって、あいつに言ってあげたい。
 「神様が、巡り合わせてくれたんだよ」
 ホナミは身体を起こして、私をじっと見つめる。彼女の瞳の中に私の姿を発見する。
 あなたが言う神様って、誰のこと? その質問を口にする前に強烈な眠気が私を襲った。
 ──ホナミちゃん、私もあなたのことが、
 その言葉の先を遮るように、あいつの声がした。
 夢をみているのかと、私は思った。最低最悪の悪夢を。
 マヒトを見つめるホナミが、振り切った表情をしていた。あの日の私みたいに。

目を醒ますと、ホナミは傍にいなかった。
 私はアジトの床に転がされて、服がゲロまみれになっている。着替えることも忘れて、真っ先に時間を確認する。タイムリミットまで、およそ残り18時間。だけどホナミは多分そこまでもたないだろう。アルカは彼女に同期されたままで、少しだけ私は安心する。
 頭が割れそうに痛い。マヒトと、それからミファもやってきて、強いお酒をたくさん注文した。それからの記憶はほとんどない。マヒトに酷いことを言って、酷いことを言われたのは、なんとなく覚えている。
 どうしたって、いつもこうなってしまう。今度こそうまくいくと思ったのに、また私は惨めな気持ちになっている。
 熱いシャワーを浴びていると、今朝の記憶が断片的に蘇ってきた。私なんてクソだから、みたいなことを言ってホナミに叱られた。「ずっと思っていたけれど、ホナミちゃん、自分をクソ扱いしちゃだめ」って。私の肩に手を置いて、「もうそういうのやめて。愛して、愛されるために」ってあの子は言った。
 気の毒そうに、そう言いやがった。
 何も変わっていないフリを続けるなんて、私には無理だろう。
 濡れたままの髪の毛で私は扉を足蹴にする。蜜のような陽光とホナミのうららかな笑い声が廊下に漏れ出てあふれていた。

「これは重要事項違反です」
 滞在中は常に行動を共にすること。ホナミはそれを破った。
 「……ミファちゃんの店にいたときも別々だったから」
 不満げに抗議するホナミを、『子供じみている』とマヒトが茶化す。「べーだ」と突き出されたホナミの舌はぶよぶよに腫れて、緑色に変色している。
 ふぅ、と溜め息をつく。机の上に置かれた煙草に手が伸びそうになったけれど、誓いはまだ破りたくなかった。マヒトは定位置の窓際のソファーで本を片っ端から鋏で切っている。ああやって時々、黒板に貼られたコラージュの材料を収集している。
 「あのときは、ミファの店にいるって把握してた。アジトの外に出ていたりして、見つけられなかったら大問題だった」
 いまホナミが座っている椅子が私の居場所だった。ロッキングチェアの上でストーンしている馬鹿を引きずり降ろして、仕方なくそこに腰掛けた。
 「他のみんなは?」
 『海にいるよ。ロケット花火を改良した爆弾の試し打ちをしてる』
 ここは海岸沿いにあって、鬱蒼とした校庭のむこうにわずかに光る海が見える。反対側には校舎同士を隔てる中庭があって、鹿たちが草を食んでいた。
 「ごめんね」とホナミが申し訳無さそうに頭をさげる。なんて答えればいいのか、椅子に揺られながら私は考えていた。
 「……さっき、海にも行きました」
 「はあ?」
 私は反射的に起き上がって、怒鳴り散らしたい衝動に身を任せたくなる。だけどグッとこらえる。これは私のミスでもあるのだ。お客様から目を離して、酩酊して眠ってしまうなんて、あるまじき失態だった。
 『海を近くで見たいって、天使ちゃんがご所望してたからな』
 まだ天使じゃねーよ、と心のなかで舌打ちする。
 「勝手なことしないで」
 「違うの。マヒトくんたちに無理いってお願いして、」
 「あんたにも言ってんの!」
 痛々しい沈黙。冷たい鋏の音だけが聞こえる。
 「……ごめん、ホナミには時間がないもんね。本当にごめん。私が酔っ払ったのが悪いのに、八つ当たりみたいなことして」
 「ううん、ホナミちゃんはちっとも悪くない」
 ははは、と力なく私は笑う。「ありがとう」と天井に向かって言う。
 私たちはしばらく、みんな黙っていた。
 マヒトが何も言わず立ち上がり、部屋から出ていった。きっとお腹が空いたんだろう。不必要と判断された材料がソファーの周りに散乱したいた。ホナミはその中からおそらく大戦よりはるか以前に撮影された家族写真を拾い上げると、熱心に眺めだした。
 彼女は貪欲にノスタルジーを欲していた。刺激はきっと何だっていいのだろう。かつて確かに存在した現実が失われて、もう二度と戻りはしないという地球のルールに心乱されることを楽しんでいる。安全な場所から。
 「知り合い?」
 「へへ、知らない人。だけどなんだか懐かしいの」
 「もうとっくに死んでる。その人が生きていたことを覚えていた人も、もう誰もいない」
 「どこにいったんだろう」とホナミは心底不思議そうに写真を見つめている。だって、このときは鹿の王もいなかったんだよね? と私に向かって問いかける。
 『このときも、今もな』
 大皿を器用に片手で持ちながら、マヒトが戻ってくる。『そこのモノシリさんが、それをいちばん良く分かってる』と私を指差して、ソファーにまた深く座って、フォークとナイフで切り分けた肉片を次々に口に運ぶ。
 「そうなの?」とホナミは無邪気そうな顔でもう一度私を見る。
 「馬鹿言わないで、鹿の王は確かにいる。ねえ、早くここから出ようよ。アヲノ獄に連れてってあげる。私と一緒なら、鹿の王に会えるかもしれない」
 『崩月博士も実在は否定しなかった。なあ天使ちゃん、ホナミから本を渡されたろ?』
 これでしょ、とホナミが「地球にようこそ!」を取り出す。『いい本だ』とマヒトが私をみる。
 『だけど不完全だ。本当は俺の研究成果もそこに載るはずだったんだ』
 「あんなの載せれるわけ無いでしょ。ノアもみんなも許すはずがない」
 『英語ができて、ハッキングの技術があって、ノアにアクセスする環境さえ揃えば、誰だってたどり着ける真実さ』
 ねえ、天使ちゃん。マヒトが肉の刺さったフォークを差し出す。『腹、減ってない?』とニコッと笑う。お腹がぐ〜っと鳴って、ホナミはえへへっとはにかんだ。そして私のほうをちらっと見る。母親に伺いを立てる子供みたいに。
 「これは重要事項に入ってなかったよね?」
 私はどうでもよくなって、「好きにすれば」と吐き捨てる。『美味いよ。料理は得意なんだ』とマヒトが鹿の肉をホナミの口に放り込む。昔、私にやったみたいに。そしてホナミは「おいしい〜」と目をまん丸くして驚く。昔、私がやったみたいに。
 満足げな顔のまま、マヒトが私を見てる。
 『ホナミ、こないだは悪かった。仲直りしよう』
 悪びれる様子は一切なかった。ただ退屈していて、この場の人間関係を撹乱したいだけだった。その悪意に煽られて私も微笑む。マヒトからフォークとナイフをひったくり、私も鹿肉を食らう。口元の血を拭って、承諾する。
 「私こそごめん。改めてよろしくね」
 癇癪持ちの泣き虫女と、死にたがりのナルシスト、お似合いじゃない?とホナミをみる。憮然とした顔で、ヘヴンリィ・パンクが私を睨み返した。
 空になった皿を持ってマヒトが部屋を出ていく。また二人きりになって、私たちはうまく話せない。「ホナミちゃんにはバレてると思うけどさ」とホナミの方から沈黙を破った。
 「これが一目惚れってやつだよね。すごいや。身体の奥から電流がビビビって、痺れる感じ」
 私は時刻を確認する。タイムリミットを早めるために、ロンさんにメッセージを送った。 

「大丈夫。私にとってはこっちが仮想現実だから」
 ワインを飲み干して、上機嫌にヘヴンリィ・パンクは言い放った。「現実を見納めておきなよ」という私の忠告はそうやって退けられ、ホナミは青い錠剤を自らで口へと放り込んだ。
 『10分もすれば効果が出てくる。心配すんな、その量なら1時間もすれば現実に戻ってこれるさ。あとは予定通り殺せばいい』
 「マヒトくんはさ、死ぬのが怖くてこんなの作ってんの?」
 唇が触れるくらい顔を近づけ、ホナミは興味深い質問を投げかけた。ノア計画と並んでマヒトが執着したのが幻覚剤だった。楽園で流通している幻覚剤の大半がマヒトたちが製造したもので、つまり重要なシノギなのは確かだけど、それだけが理由だとは思えなかった。
 『Heaven Is A Place On Earth天国は地球にあるって、ノアも言ってるだろ? その実践のひとつさ』
 「幻の天国だけどね」と天使が嘲笑う。
 『Hey angels. You are human after all天使ちゃん、結局お前も人間だ
 マヒトが床に投げ捨てた注射器が、私の足元に転がってくる。それを踏み潰し「あんたたちのほうが、よっぽどクソだ」と中指を立てる。
 「付き合ってらんない。外で待ってるから、終わったら連れてきて」
 『待てよ』とマヒトが立ち上がり、ふらふらと歩いて扉の前に立つ。
 『一緒に聞いてみようぜ。天使が死ぬ前に。地球はどうだったか』
 「死んでも生きてるよ」と涼しい顔をしているホナミに、「どうでしたか、お客様?」と私が問う。
 天国みたい場所だったよ、と彼女は答えた。
 「ここは長閑で。私たちの世界は、つまりあなたたちが憧れている天国は、あまりに情報過多で、ドラマチックすぎるの。色彩も、味覚も、感触も、海や風の匂いも、どれも曖昧に地球では感じられる。人間にはこれぐらいが適度なのかもしれないね。同じように靄がかかった解像度のユニバースを創ったとしても、どこにでも行けてしまうから、私ならそこに留まらない。だけど、世界が一つしかなくて、ここからどこにも行けないとなると、腹も括れるんじゃないかって、そんなことを思ったよ」 
 地球にようこそ!とマヒトが叫ぶ。ホナミの爆笑が私の鼓膜を揺らした。

『準備万端』
 メッセージには、ロンさんの親指をバックにエレベータが問題なく動いている映像が添付されていた。 『ありがとう。おぶって階段は無理』とつらそうに歩くホナミの写真を添えて返信する。
 「急がないと、日が暮れちゃう」と私は手を貸さない。ホナミは離脱症状と感染症と手痛い失恋で文字通り死にかかっていた。
 「もうここまででいいよ。ここで死なせて」と泣き言をこぼすお客様に、「ここからが弊社の最大のウリなので」と優しく微笑む。
 あの後、気がついたら私は海の前に立っていた。夢をみているような、夢から醒めたような、不思議な浮遊感に包まれながら、光る海を見ていた。
 マヒトの言う通り、ちょうど1時間でホナミは戻ってきた。目が真っ赤で、薬で充血しているのかと思ったら、どうやら泣いているらしかった。
 「好きって伝えたんだけどね」
 私に抱きついて「ホナミって名前の女は嫌いなんだって、そんなひどいこと言うの」とホナミは耳元でささやいた。
 「だからさ、私、生まれ変わったら違う名前でマヒトくんとまた話そうって言ったの」
 「そしたらなんて言ってた」
 「楽しみにしてる、って」
 よかったね、と私はホナミを自分から引っ剝がした。ごほんごほんと咳き込んだかと思うと、ホナミは口に手を突っ込んで白い砂浜を汚した。
 「ホナミちゃんの言うとおりだ」と彼女は笑った。「喉がヒリヒリするね」
 「挿入はしてくれなかった。病気が伝染るからって。だから私、口でしてあげたの。見たよ、私も、マヒトくんの空っぽの顔」
 波の音にかき消されて、ビンタの音はほとんど聞こえなかった。ホナミの頬に赤い痕が残っている。「仕方ないな」と私はお客様をおぶって、最終目的地であるアビアン・スカイタワーを目指す。
 ノスタルジーと後悔をふんだんに味わって、残るは重力。Re:EARTHで再現するのが最も難しかったのは重力だったそうだ。地上に縛り付けて不自由にする力を実装する必要性もなく、未だに簡単な物理演算のみでRe:EARTHは処理されているらしい。
 そんな地球の観光資源をお客様に最大限体感してもらうには?
 若かりしお父さんは頭をひねり、ある日ピンとひらめいた。
 自由落下。
 純粋な重力を感じてもらうには、高い場所が必要だった。お父さんはまたひらめく。壊れかけのタワーマンションが、まだあちこちに残されていた。問題はご近所さんからのクレームだった。お客様の死体が四散して道を汚してしまう。今度はお母さんが名案をひらめく。「鹿のうんちを集めて緩衝材にすればいい」。そうして社名はディアシット・ライブスに決まった。
 エントランスの反対側。お父さんの日課は、そこに鹿の糞を集めることだった。きっと今日も糞を追加したに違いない。
 ずいぶん久しぶりに家に足を踏み入れて、「ただいま」と思わず私は呟く。私たちの住まいは2階にあって、もしかしたらふたりとも娘の帰還に気づいているかもしれない。
 私はエントランスを真っ直ぐ歩く。ピカピカに磨かれたエレベーターの扉が開いた。気絶しているお客様を中へと放り投げた。 

予備電源だけで上昇しているから、51階まではなかなか辿り着きそうになかった。私は誓いを破って煙草に火を灯す。密室にこもった白い煙に咳き込んで、ホナミは意識を取り戻す。
 「おはよう」
 「ちょっと、やめてよ。息が苦しい」
 いまから死ぬのに、と心のなかで笑い、私は煙草を踏み消す。「上で飲ませるつもりだったけれど、これ飲んで」。返事を待たずに、ホナミの口に水に溶かした強心剤を流し込む。すると青白いホナミの顔にみるみる生気が舞い戻った。呼吸も楽になったのか、肩で息をしなくなる。「本物の天使みたいだったのに」と私は動かなくなった羽根を撫でる。
 「ひどい」とホナミは泣く。「せっかく仲良くなれたと思ったのに」
 「ずっと見下していたくせに、私たちのこと」
 「ホナミちゃんはだって、私たちの世界を見下していた! 気づかないとでも思った? ずっとわかってたんだから」
 エレベーターはゆっくりと上昇し続け、ワイヤーが軋む音が密室に響く。逃げられないのはどっちなんだろうなと、私は思う。せめて正直でいたいと思うし、勝ち逃げを許したくない気持ちもある。
 「私たちがお客様をなんて呼んでいるか、教えてあげる」
 「どうせゴミとか、カスとかでしょ」
 惜しいね、と私は笑う。「正解は、ヘヴンリィ・パンク天国のくず
 「ていうか、さっきからいいの? 天国にも口コミはあるんだからね。みんなに話さなくちゃ、あんた達のこと」
 「ご自由に。そうだな、どうして私たちがRe:EARTHを天国と呼ぶのか次に教えるね」
 「そんなこと、とっくに知ってる」
 「知ってる気になってるだけ。答えはシンプル。ノアのお偉いさんが行ける天国として用意された世界だから。Re:EARTHは間違ってもあなたの世界なんかじゃない」
 「だからなに? そんなの私たちには関係ない」
 「関係大ありだって。ノアは現実地球仮想現実天国も独占していたい。あなたたちは邪魔なの、だから私たちの仕事が成立する」
 ──プラットフォーマーこそが天国の神々なんだ。それがマヒトが掴んだ真実だった。かつての恋人に敬意をはらって、その語り口を真似る。私だってできることならあいつの文章を収録したかった。
 「仮想現実は現実を起点としているように、あらゆる起点はやはり「この私」なのだ。そして「この私」を縁取るのは脳であり肉体であり、「この私」を支えるのは大地なのだ。どう、似てる? あなただってその制限から逃れられない。ホナミ、結局あなたも人間だYou are human after all。天使にはなれない」
 「私にとっては現実は、地球ここじゃない」
 「あはは。現実はこっちよ。だからノアのお偉いさん連中は、絶対に脳を、地球を、手放さない。死んだら脳だけを現実世界に永遠に生かして、天国で神々の仲間入りをする。知ってる? 脳のプロテクトはブロックチェーンよりも遥かに強固だって。脳を明け渡しちゃえば、改ざんは防げなくなる。そんなことするはずないって思う? ディアシット・ライブスの口コミがいつも最高なのは、自由意志の産物だと本気で思う?」
 「信じない。みんなも、私のママだって、かわらず生きている」
 「あんたのママ、死んだら優しくなったんでしょ?」
 天国には良い人しかいけない。ホナミの顔からまた血の気が引いていく。
 それ以上ホナミは何も言わなくなり、私は内心ホッとする。天使のことは聞かれたくなかった。産道ではなく、黒い穴から這い出てきた子どもたちキッズが存在する理由は、私にも分からなかった。
 天使はアンコントローラブルな存在だと、マヒトは言っていた。「介入できるのは、MAPYO-107-NLG-5の管理者だけだ」とも。
 それはつまりお母さんだけってことだった。お母さんが天使を「あの子たち」と呼ぶ理由に、私はやっと気づく。
 その瞬間にエレベータの上昇が止まった。
 「私、死ぬんだ」とホナミがつぶやく。私はしっかりとその手をとり、握手するつもりで強く握った。
 開いた扉の先には、だけどまた扉があった。ふたりでそれを開けると、今度こそ新鮮な空気にありついた。私たちは大きく息を吸って、ほんの少しだけ笑った。

太陽がないのに、空はまだ明るかった。地球は短いマジックアワーを迎えていた。
 昨日の今頃を思い出して、私は胸が痛くなる。お互いに見下しながら、それでも心は確かに通じたんだ。たとえひとときだとしても。そして、どうしてもこうなってしまうんだ。いつも最後には、私は。
 強い風が満身創痍のホナミを攫おうとする。しっかりと身体を支える私に、「いまから死ぬのに」とホナミが笑う。
 「大丈夫、ノアはうまくやる。身体が砕け散る瞬間、あなたの意識はシームレスにRe:EARTHの意識に接続される。何も変わらないように、あなたはちゃんと思える」
 「だけどそれは嘘だって、ホナミちゃんがバラしちゃった」
 なにがしたいの、って笑うから、私もつられて笑う。そして泣いてしまう。私は、死の恐怖を、連続性が途絶える恐怖を、ホナミと分かち合いたかったんだ。そんなあまりに身勝手な理由を彼女に言えずにいたけど、どうやら全部見透かされているみたいだ。
 「マヒトくんを好きになったのも、同じ理由でしょ。彼がホナミちゃんを利用したみたいに、ホナミちゃんもマヒトくんを利用しようとした」
 そういった意味ではお似合いかもねぇ、とホナミは苦笑いする。
 「クソ同士だもんね」
 こらっ、とホナミに叱られる。
 私と目線を同じにして、ホナミは言い聞かす。愛し愛されるために、自分をクソ扱いしちゃだめ、と。
 私たちは一緒に下を覗き込む。この高さだと鹿の糞は地面にあいた巨大な穴のように見えた。「あそこに落ちればいいのね」とホナミは狙いを定めている。
 また強い風が吹いて、今度はホナミが私の身体を支える。「ホナミちゃんは、まだ生きてくれないと困る。お願いしたいことがあるから」
 死体を鹿に喰わせて。
 ホナミは真剣なまなざしで、私にそう依頼した。「勇気出して彫ってもらってよかった」と彼女は自分の右脚の模様を撫でる。
 「天使じゃなくて、人間に生まれ変わって、そしたらまた、ホナミちゃんに会いに行くね」
 胸が痛くて、痛くて痛くて、息ができない。言わずにいようと思っていたことを、私は言ってしまう。言ってしまえば、また私たちのあいだに境界線が引かれるとしても、それでも言いたかった。
 お母さんに、崩月博士にお願いすれば、MAPYO-107-NLG-5上のあなたの意識をプロテクトしてもらえる。そうすればノアの人たちは手が出せない。あなたの連続性は半永久的に保たれる、つまり天使になれる。
 遠慮しとくよ、とこともなげにホナミは拒絶する。
 「天使じゃ人間になれない。親離れもできない」
 驚く暇も私に与えずに、確かに全部を振り切って、ホナミは助走をつけてその身体を空中に預けた。「怖くないや」とだけ言い残して、彼女は彼女の自由意志で死を選択した。
 思わず、私はあなたの名前を叫ぶ。
 「ホナミ!!!」
 だけどあなたは穴に吸い込まれるように落下していき、のばした私の手は空気をかすめるだけだった。

私は階段をつかって屋上から降りた。
 泣きつかれて、体力ももう限界だった。それでもエレベーターは使いたくなかった。2階でお父さんと鉢合わせになって、だけど私はなにも話さなかった。話せなかった。「お疲れさん。いつでも帰っておいで」という声を背中越しに聞いて、私は外に出た。ふかふかのベッドが恋しくなったけれど、決してうしろは振り返らなかった。
 いつの間にか降りだした雨が、鹿の糞にまみれたホナミを綺麗に洗い流していた。私はホナミをおんぶして、来た道を戻った。骨が砕けて、内臓が弾けて、すっかり軽くなったホナミを、私は海岸までひとりで運んだ。
 砂浜にホナミを横たえて、鹿たちがくるのを私はじっと待っていた。ふたりで海を見ることができなかったことを今さら後悔して、私はまた泣く。やがて、海の方から鹿が集まって、ホナミの死体を屠った。私は無性に腹が立って、鹿たちを追っ払った。また泣いては隙をみて鹿が集まり、それを追っ払う。そんな不毛な反復を繰り返していると『踊ってんのか』とマヒトの笑い声がした。
 ここがアジトに近い海岸であることすら、私は考えが回らなかった。死体から目を離しているあいだに、肉は鹿に食われ、骨は波にさらわれて、ホナミは綺麗さっぱり地球から消えてしまった。
 Nobody Dies a Virgin, Life Fucks Us All.
 海辺で一緒に煙草を吸いながら、マヒト呟いた言葉を、アルカは翻訳してくれなかった。相当汚い言葉なんだろう。
 「どういう意味?」
 『俺も知らね』
 「嘘つけ」って私は笑う。
 それからマヒトがキスしようとしてきて、思いっきりビンタする。殺すつもりで。
 「もうあんたとは二度と会わない」 
 今までありがとうって気持ちを笑顔に、くそくらえって気持ちを立てた中指に、それぞれ思いっきり込めて、私たちは別れた。

 


 

初めて見たはずなのに、かつて見たことがある気がしてしまう。
そういった感覚はデジャヴと呼ばれている。
ところで、君に質問がある。
 地球に初めてきたはずの君が、地球を懐かしいと思うのもデジャヴ、つまり脳のバグだろうか?
そうじゃない、と君は腹を立てるだろう。
懐かしさを意味するノスタルジーは、「家に帰ること」と「痛み」を語源にもつ。
家に帰りたいあまりに、痛みに転じてしまう。
人類相転移計画、通称ノア計画。
君のその痛みが、ノスタルジーが何処から来て何処へゆくのかについて知るには、ノア計画について知る必要がある。

最終戦争のさなかにノアが始動し、有志たちが地球のアーカイブを記録した。
レトロスペクティブにはその時点を第0次と位置づけられる。
重要なのはRe:EARTHの大半はノアの開発者の記憶により創造された点だ。これが君のノスタルジーの源。
戦争終結後、各々のNINMを分散型ストレージとして利用していた仮想空間Re:EARTHを丸ごと保存するための大容量情報ストレージの開発が急務となった。
第1次計画で開発された特異点をもたない高密度の物体量子ブラックホールは理論上その役割を果たした。

「ものは試しだ。その穴に何か放り込んでやれ」
選ばれたのは地上で大量に繁殖した鹿だった。鹿の情報は結局取り出せず、失敗に終わった。
しかし、その過程で思わぬ収穫があった。
量子ブラックホールに取り込まれるのでなく取り込んだ一頭の特殊臨界生物。無限の情報ストレージを内包した、最初にして唯一の生命体。
それは現在のMAPYO-107-NLG-5を搭載している方舟の雛形となる、極めて重要な副産物だった。
第2次計画では特殊臨界生物に様々なデータを投げ入れた、その中には人間の意識データも含まれていた、がやはり取り出せず、再び失敗に終わった。

量子ブラックホールからのホーキング輻射の解析技術の大幅な向上。
それにより、第3次計画におけるブレイクスルーは果たされた。
情報の吸い出しは驚異的な精度となり、MAPYO-107-NLG-5上にアップロードされたRe:EARTHは地球のそのものだった。
しかし人間の意識情報はその精度でも容易に変容してしまった。UTERO内でのマインドアップローディングに頼らざるを得ない状況が、長らく続いた。
これを読んでいる君もその世代だ。
第4次計画の中心人物である崩月アリア博士が時計の針をまた進めた。目的の情報が量子ブラックホールのどの領域から輻射されいるかの厳密な同定を可能にした。
それは無限の情報ストレージから自在に情報を出し入れできることを、つまりブラックホール情報パラドックスの解決を意味した。ノアの悲願であった人類相転移は、崩月博士により達成されたといえる。
第5次計画においては任意の領域から意識を創造することが可能となった。その技術を応用しRe:EARTH内での生命の誕生、
ノアが言うところの天使を生み出した。

最後に。
君のノスタルジーの行方についての私見を。
Re:EARTHは地球そのものではない。残念ながら、地球はここにしかない。
君の懐かしさは痛みだ。借宿から家に帰りたいあまりに生じた痛みだ。
その痛みは天使の方がどうやら強いらしい。生まれながらの宿なし。先天性の懐郷病。
天使もやがて地球への観光を希求するはずだ。それだけが、唯一、致死性の痛みを和らげるから。
ディアシット・ライブスを通してでも、天空のMAPYO-107-NLG-5を通してでもない。地上に開いた唯一の穴を通して、その観光は可能になるに違いない。
穴の行先がそちらに繋がりさえすれば。

特殊臨界生物とは一体何か?という問いに、崩月博士ははっきりとこう答えている。

──彼岸と此岸を繋ぐ方舟である、と。

 

あの夜からずっと、地球では雨が降り続いていた。
 アヲノ獄の鬱蒼とした森は雨で緑が深まり、ほとんど黒に近くなった。拝所で泣いているのがばれないから好都合だった。
 私は嘘をついた。鹿の王が人工的な存在である可能性を、ホナミに言わなかった。
 私は約束も破った。お母さんにお願いして、ホナミを天使として転生させてもらった。
 ホナミに会いたい。願いが叶うなら、この地球でもう一度会いたい。私は鹿の王に会うために、私の願いを叶えるために、こうやって毎日アヲノ獄に参拝している。
 だけど昨日も一昨日も、あの日からずっと、鹿の王に会うことは叶わなかった。
 敬虔さのかけらもない身勝手で子供じみた行いが、きっと見透かされている。鹿の肉を食べてしまったことも、マヒトの戯言を信じてしまうことも、全部見透かされているに違いない。
 もうモノシリじゃなくなったのかな。何をしても失われないと高を括っていた恩寵が、失われてしまった。そんなことを思うと、私は途方もなく心細くなる。
 家を失い、ホナミを失い、マヒトを失い、信仰を失った。誰のせいでもない、どれも私のせいだ。だけどせめて、自分をクソ扱いしないように、私は気をつける。いつかまた、誰かと愛し愛されるために。
 だめだ。できない。自分を大切にしたい。自分を粗末にしたい。死にたい。生きたい。死にたくない。
 動物的な本能が、私の神経が昂らせた。生き延びるために。感覚過敏の鼓膜が、ほんのわずか、だけど確かに揺れる。
 ──ホナミ!
 風の音の合間に、誰かが私の名前を呼んでいる。耳を澄まして、緑の暗闇に目を凝らす。
 「ホナミ?」
 おかしなことを口走っていることに私は気が付けない。鹿の王が、目の前にいるのに。
 違う。動揺なんてしていない。頭はむしろ、いつになく冴えわたっていた。
 これは鹿の王じゃない。ホナミだ。鹿
 わぁ。驚きに満ちたちいさな悲鳴を、私はあげる。
 雨はさらに激しくなって、私はホナミと最初に話した夜のことを思い出していた。
 ──天使でもなく、人間でもなく、まさか鹿の姿で再会するとはね
 その声はゼロ距離で私の脳に響きわたり、まるで私の独り言みたいに感じられた。
 「やっぱり、ホナミだよね」
 巨大な角が上下に揺れる。頷いているつもりなのだろう。私はうまく喜べない。いや、もちろん嬉しいんだけど、驚きがあらゆる感情を黒く塗りつぶしている。
 「ねえ、一体何が起きてるの?」
 狩りのような風が吹いて私たちを攫おうとする。ホナミの大きな身体に身を寄せて、私たちは話し続ける。
 ──地球とRe:EARTHが繋がったの。繋がってしまったというべきかもしれないけど。。だけど、そのおかげで、ホナミちゃんとこうやって地球で会えてる。そう願ってくれたんでしょ?
 確かに願った。そして想像だにしなかった形で、私の願いは叶った。
 ──どんな形であれ、鹿の王は確かに願いを叶えた。ホナミちゃんは、ちゃんと鹿の王に愛されていた。あなたの願いと、鹿の王の愛を利用して、もうひとつのホナミちゃんの願いを叶えようとする人がいる
 心当たりは、ひとりしかいなかった。
 ──やばいね、ホナミちゃんのママ。
 天使を一緒くたにして「あの子たち」とお母さんが呼ぶのを、私はいつも嫌な気持ちで聞いていた。
 ──口止めされてたけど、言っちゃうね。私とホナミちゃんを引き合わせたのも、あなたのママ。そっか、私は天使だから、崩月博士は私のママでもあるのか。完全に囲い込まれちゃったね、私たち
 だからホナミは直接私にコンタクトが取れた。全部、お母さんの掌の上でことが進んでいた。私がホナミに会いたいと願った。そうしたら鹿の王が宿すブラックホールの行先がRe:EARTHへと接続された。
 ──あの人はを最初から全部見通していた。私たちが仲良くなるのも、私に会いたいって鹿の王に願うことも。怖いね。あんな重いの、振り切れないよ。ブラックホールみたいな愛だ
 だけども、と私は思う。たとえばマヒトを巡る私たちの大喧嘩は、流石にお母さんの想定外だったんじゃないかな。チャンスはたくさんあった。そしてこれからもきっとある。高を括って、振り切って、失って、心細くて、いつか泣くとしても。
 ──みんなこっちに向かってる。すごい速さで
 「天使たちの願いは?」
 ──決まってるでしょ、
 「もうひとつの私の願いは?」
 ──ホナミちゃん、
 空を見上げると方舟が飛んでいた。船底が見える高さで。Heaven Is A Place On Earth。お母さんは、現実と仮想現実をひっくり返すつもりだ。本気で地球を天国にしようとしている。すべての私たちのために。
 ──古い神さまたちは、黙ってないだろうね
 新しい神さまは極端に不平等だから、向こうに勝ち目はなさそうだけど。
 ──あ、やばい、産まれる
 ホナミのお腹がカマキリの卵のように膨らんでいく。黒い穴を通じて、暗い産道を通じて、ホームシックの子どもたちが家へと帰還しようとしている。
 ──おかえりなさい
 膨張に耐えきれず、いよいよ破裂しそうなお腹をそっと撫でる。
 恩寵のなか、私は思う。家を出ることのむずかしさを。

 

 

おかあさんへ  

あそんでくれてありがとう
  おしごとありがとう

きらい こわいの むし おばけ
 すき おはな おうた てんし おかあさん
てんごく ないない おばけ こわい 
  ないたのに しんしつでねてくれてありがとう 
おおきくなたら だいすき

おかあさんだいすき   
おこてもだいすき
 やさしくてだいすき
   ほなみはずうとだいすき

 

 

 

 

〈了〉

文字数:38577

内容に関するアピール

mixiでしか繋がっていない大切な知人がいて、だけどmixi社がmixiをおしまいにしたら繋がりは消えちゃうよなぁ、なんて戸惑いからこの物語を書き初めました。そう思えば、ずいぶん遠くまできたもんだ。家族に最大限の愛と感謝を。今一度、マスターピースが書けました。

文字数:130

課題提出者一覧