はやぶんのジャーマンスープレックス
【Round1:因縁の決着試合当日】
「選手入場まであと10分です。エール選手とお付きの方はスタンバイお願いします」
プロレスの運営スタッフに声をかけられたエールは、うなずくと無言で立ち上がった。彼女のヒューマノイドの脚は緊張で震えることはないが、人間の介添人である二道 靖は見事にぎこちがなかった。渇いた口を潤そうと飲み物のペットボトルを手に取り、ごくごくと美味そうに飲んだ。
「俺だけ飲んですまないね。エールさんも、終わったら好きなだけ『充電』できるからな!」
二道が話しかけると、エールはぎろりと睨みつけた。その顔は真っ赤なハーフマスクで覆われており、エラの張った骨格は車も弾き飛ばせそうなほど頑丈に見えた。昔の絵画で描かれる、地獄の閻魔に似た邪悪さが口元に表れていた。
「おお、邪魔してすまん。計画を台無しにするとこだった」
謝る二道に、エールは心の中で謝り返した。
(こちらこそ、ビビらせてすみません。こんな機会を与えてくださって、オーナーには感謝しかありません)
だが実際には口に出さず、エールは無理に笑顔を作ろうと鼻に皺を寄せた。かえって怖い顔になった。二道がドン引きして、もう何も言わなくなった。
二人で選手控え室から入場者専用の廊下に出た。リング会場の花道に続く出入り口が、トンネルの先のように仄かに明るい。薄暗い廊下で、エールの顔は試合前から既に流血した人間のように赤かった。運営スタッフの男がエールに不躾な視線を送ってくるので、迷わずガン垂れた。視線をそらされて己の凄みを自覚した。
(今の私は強く見えるのね。私なら出来る、はやぶんになりきってやる)
自信が湧いてくると背中がスンと真っ直ぐに伸びた。深層学習の信号経路へ興奮とやる気の感情が押し寄せる。闘志がエールの顔を燃やすようだった。
(この顔がおかしい? この赤は私と、はやぶんが溜めてきた怒りだ。今日は絶対に勝つ!)
エールは胸を張って花道の方角へと一歩踏み出した。二道が横にいてくれるのが、何より心強かった。
【Round2:因縁の決着試合から2ヶ月前】
二道を乗せて山道を走るバイクの車輪は、青白い炎が燃えるように光った。電気モーターの高周波音を山間に響かせて、カーブを無駄のない動きで左右に曲がりながら目的地へと駆け抜ける。ツーリングにふさわしい7月初旬の爽やかな乗り心地を、二道は軽いドリフトで楽しんでいた。その様子を上空から見れば、風に乗って獲物を追う鳥の動きに似ているだろう。車体の前輪上に印字された「隼」の一文字が、まさに名を体で表していた。
中古バイク販売店のオーナーである二道にとって、凹凸のある路上での運転は苦にもならない。弾むタイヤに合わせて空気バルブに取り付けられたLEDライトが揺れるのを、サイリウムを振る光景に見立てる余裕さえあった。今朝家を出るときには曇り空だったが、雨が降るとの予報はなかった。たまに行き交うトラックや他のオートと接近するたび、ヘルメットの内蔵スピーカーから流れる曲の音量が下がった。バイク本体と同期している自動アシストAIによるものだった。
対向車の慎重な運転のせいで、音量が元に戻った時にはお気に入りのサビのパートが終わっていた。二道はアシストAIに呼びかける。
「はやぶん、今の曲リピートして」
【いいわ、思う存分味わいな】
高飛車に言い切った声は若い女性のもので、二道の耳元で本当に囁いているような臨場感があった。聞き慣れていてもぞくりとする声色が、リングで試合相手に決め台詞を言う「はやぶん」の姿を思い起こさせる。彼女の根強いファンが音声合成ソフトを用いて作ったボイスは、二道の推し愛の名残でもある。推しの声と愛車のバイクを連結させたのは、正式名称「ハヤブサ」こと元プロレスラーの彼女が、バイクの「隼」に乗って入場したことにも因んでいた。二人の愛車は奇遇にも元から同じだった。
「ヘイニアス・ヘイニアース♪ はーやッぶーん♪」
リピート再生された曲に合わせて二道は口ずさむ。いきなりデスボイスで始まったのは「Heinous Bomb(和訳:凶悪な爆弾)」で、はやぶんの入場曲だった。彼女のハーフマスクは中国の変面のような濃い真紅に縁取られ、球面レンズの瞳からは人体を貫通しそうな勢いでビームが飛び出した。漆黒の衣装には太い鎖が何本も絡まり、画鋲留めブーツでアクセルを踏んで豪快に会場内を走り回った。レフリーが止めに入ると「ひき殺すわよ」と悪態をついた。画用紙のような四角いエラを突き出してメンチを切った。しかし、それもこれも全ては「ヒール役」として必然の行為だった。はやぶんが威嚇のために鎖を振っても、人間には一度も当たらなかった。ヒューマノイドである彼女は的確な計算能力とディープラーニングを活かして、悪役を完璧に演じていたのだ。
筆記体で“Hayabusa”と斜めに印字された衣装は、“s”の部分が縫い目を挟んで背中に回っていた。その綴りが“n”に似ていた所から、いつしか「はやぶん」の愛称で試合でも呼ばれるようになった。
少子高齢化で若者の存在の希少価値が増す中、プロレス業界でその影響は特に深刻だった。既にブームが去って久しい上に、うら若い女子選手がむやみに傷つけられることを観客が敬遠するようになったのだ。エンタメ性を高めるために、人間そっくりのヒューマノイドを「噛ませ犬」としてリングに登場させる試みがなされた。
脅し文句を鞭のように容赦無く相手に浴びせて、それこそ中国雑技団にも劣らない空中技を得意とする、そんな彼女たちヒューマノイドのヒールは、導入したプロレス業界から「ヒールノイド」と呼ばれた。ヒールノイドは「正義」の側で闘う人間の宿敵であり、最後には負ける運命にあった。かつて人間がヒールを演じていた時から変わらない暗黙のルールだ。
【もうすぐトンネルよ、気をつけな】
はやぶんのボイスが居丈高に締めくくられるタイミングで、二道の視界は曲がり角向こうのトンネルを捉えた。自分は決してドSが好みではない。はやぶんがプロレスでの立ち位置を忠実に守り続ける姿勢に情をほだされ、応援したいと思わせた。そう自己分析する彼は、同業界が他にも抱える暗黙の掟にも精通していた。例えば総合格闘技であれば八百長と捉えられる「試合のシナリオ」が、プロレスでは事前に用意されているのもその一つだった。選手Aのラリアットを選手Bが受けて反撃のハイキックをくらわせ、技の掛け合いの挙げ句にハンマーロックでギブさせる。そのような一連の流れを覚えきれない人間の選手には、小型のウェアラブル通信機器を経由して指示が出されるのだ。万一、人間の選手が失敗しても、ヒールノイドなら受け身の軌道が修正可能であり、アドリブを効かせて場を盛り上げることにも長けている。観客の娯楽に貢献することを、ヒールノイドたちの思考回路は「報酬」とみなすよう初期設定されていた。
「Heinous Bomb♪ はぁやッぶぅーん♪」
【下手くそ!】
はやぶんボイスが一喝した後は静かになった。トンネル内は電波受信に影響が出やすいため、国指定の共通アシストAIに自動で切り替わったのだ。やりとりは最低限の範囲に留められている。
『この先2500メートル地点の対向車線側で、レッカー車待ちの二輪車が駐車中。ご注意ください』
ふいに単調なアナウンスに告げられて、口ずさんでいた二道の目が前方を見据えた。足下を薄水色に照らしていたブルーライトは、トンネルの上下に連なる白いLEDライトの列に光を打ち消されている。ヘルメットで頭と外の世界が切り離された状態で、二道は病院の長い廊下の静けさを連想した。平日の午前中に山間部を走るクルマは少ないのか、トンネル内の密度の低さは初夏に似合わず寒々しかった。
『登録済みの電話番号から着信がありました。トンネルを出てから安全な場所でおかけ直しください』
アシストAIはバイクのバッテリー残量が表示されるコクピットに、二道が経営する中古バイク販売店「二輪屋ふたみち」の代表番号を表示させた。それを見た途端、二道は上体を起こして、アクセルグリップをひねっている手が戻すべき位置を探った。トンネルを抜けたら適当な場所で止めるつもりでいた。
「はやぶんだったら良かったのに」
つぶやいた二道のバイクが、アナウンスのあった場所を通過した。エンジントラブルでも起こしたのか、ホンダのスポーツツアラーが非常駐車帯で地面に横たわっている。スズキの隼とフォルムが似ている上に、はやぶんのマスクと同系色の赤だった。トンネルの白い照明がリングのライトと同じ高さから車体を照らしている。 二道は映画の場面をスキップするように駐車帯から目をそらしたが、無駄な試みだった。最後の試合で場外に転落したはやぶんも、事故現場のようにバイクの上に倒れていたことを思い出した。
――ここでエアープレン・スピンだー! 鋼のヒールノイドが軽々と持ち上げられ……いやああ!
二道の記憶が3年弱前の試合中継をフラッシュバックする。ホログラム映像で大技の解説をしていた女性司会者の叫び声に、振り回されて宙に投げ出されたはやぶんの胴体。その足がAIレフリーに当たって巻き鎖がほどけ、相手選手の顔に伸びたのを液晶ディスプレイの瞳は見逃さなかった。鳥の隼に劣らぬ高速の早業で、はやぶんの手が鎖を引き寄せる。人間を傷つけない暗黙のルールに彼女はどこまでも忠実だった。握った鎖の軌道計算を最優先させた結果、落下する自分の体勢と場所にまで注意が回らなかったのだ。
はやぶんはリンク下に乗り捨てていたバイクに脳天を直撃して、そのOSデバイスに誤作動が起きた。ヒールノイドとしてプロレス事務所に所属してあるヒューマノイドは、緊急事態の場合すみやかに遠隔操作でキル・スイッチが作動する。今回も同様の処置がなされたが、誤作動中の強制停止だったことが災いして、はやぶんの誤差逆伝播法の処理スピードが大幅に低下した。深層学習のフィードバックに有効なこの計算法は、正しい出口への矢印の向きを調節する。矢印を変える効率が下がれば、これまでのような俊敏な振る舞いはできない。オリンピック選手が怪我でスポーツ生命を絶たれたのに等しかった。
予算にも余裕のない事務所は、元に戻すメンテナンスよりも安くつく次世代への乗り換えを選ぶしかなかった。SNSで観客の声を取り入れてカスタマイズしたNeoヒールノイドは、はやぶんの存在を世間から呆気なく忘れさせてくれた。二道ら一部のコアなファンを除いて。
トンネルの出口が見えても、二道の頭の隅には通り過ぎたバイクの残像がまだ残っていた。はやぶんの愛車「隼」の、銀色の真っ直ぐに伸びたマフラーと彼女の長い足は、確か十字架のように交差していたはずだ。真っ赤なハーフマスクの下で、エラの張った肌は熱を失って見えた。はやぶんが運搬用の台車で運ばれていく姿に、二道は夢の途中でたたき起こされた気分になった。もう戻ってこないのが分かったあとの観戦でも、入場シーンで彼女が「隼」にまたがって出てくるのを、期待している自分がいた。
外に出て吸った空気は、意外とトンネルにいる時と大差なく綺麗だった。周りを走るクルマは相変わらず少ない上に、温暖化対策技術の発展でBEVかFCV車両がほとんどだったからだ。はやぶんのバイクだってBEVだった。派手なエンジン音を立てるマフラーからは、本当は排気ガスなんて1ccも出ていなかった。あの長いステンレス管は威圧感を与えるためのただのお飾りで、はやぶんの発案で、ドライアイスの煙を高速モーターの羽根で吹き飛ばしていたのだ。本当は敵にも環境にも優しいヒールだった。
「あ、エールさん。電話くれた?」
山の傾斜近くの白線内にバイクを止めてから、二道は自分の店の番号にかけ直した。電話に出たエールは去年から雇った店のスタッフで、女性型ヒューマノイドだ。
「二輪屋ふたみちに、オーナーのお母様が来られました。親代行のマッチングアプリに登録許可がほしいと」
「そんなのスタッフに言うもんじゃねえだろ」
「私はヒューマノイドですから、スタッフとみなされていないのかと」
標準語で円滑に話す口調に、はやぶんと同じヒールノイドだった痕跡は感じられない。エールはNeoヒールノイド世代の後期でプロレス業界に導入されたが、あえてヒールらしさを控えめにした外見が採用された。ヒールノイド軍団化でのキャラ分けによるものだが、増員も相まって存在感はモブに近い薄さとなった。悪の四天王の中で真っ先に倒されそうなタイプだ。大抵の試合は人気のある選手とタッグで出場させられ、ろくに周知されないうちに、試合中のトラブルで女子選手に怪我を負わせるという不幸に見舞われた。「ガラクタ処分」されそうになった所を二道に拾われたという格好だ。ヒューマノイドとしての機能性は月並みだったため、中古価格に値下げが適用されて、購買意欲の背中を押す形となった。
「おふくろのことは気にしないで。他になんか言ってた?」
後続車両をちらちらと見遣りつつ、二道は上半身のストレッチをした。
「『こんなダサいヒューマノイドを買う余裕があるなら、AI仲人を雇って結婚相手を探しなさい』と言い残されました。また改めて連絡するとのことです」
「あーうざい」二道の顔が天を仰いだ。
「お母様の連絡先を迷惑電話に登録しておきましょうか?」
「よろしく頼む」
「承知しました」
「いや冗談だよ」
二道が吹き出して言うと、エールは真面目に質問した。
「結婚相手というのは、ヒールと同じなのでしょうか?」
「なにそれ?」
「結婚は人生の墓場だと言うでしょう。相手を墓場に追いやるという意味で役割は同じかと」
「ハハハ! なるほど、だから俺は結婚が嫌なのか。よく分かったよ、ありがとう」
「よく分かりませんが、どういたしまして」
首をかしげるエールが通話の向こうに浮かび、二道の笑い声はしばらく続いた。
「一緒にツーリングが出来なくて残念だな」
「私のタイプのヒューマノイドは、屋内での運転しか許可されていませんから」
ヒューマノイドのオート運転には国の正式な審査が必要で、プロレスの試合会場内では屋根付きに限り認めてもらえた。先代たちヒールノイドのライダー姿をエールは記憶データから掘り起こした。
「後ほど画像を送るつもりですが、『隼』の持ち込み修理の依頼が一件ありました」
「バッテリー系?」
「いえ、エアフィルターの交換です。ラジエーターの熱風が流れて劣化したと、AI整備士は判断していますが」
「ってことは旧式エンジンか。うちは『中古』と看板掲げちゃいるが、ビンテージものが来たな」
一般車両では、石油と電気のハイブリッド型でさえ全体の1割にも満たないのが現況だ。いわゆるレアものに相当する場合は、自分が帰るまで修理には手を出さないよう職場のAIシステムに周知徹底させていた。
「保証書も付いていますから、全方位の3D映像も含めてデータをお送りしますね」
「うん、助かる。お返しというか、綺麗な景色に出会ったら写真送るよ」
「嬉しいです。ツーリング楽しんでください」
「お、おう」
エールに言われて、二道は小さく戸惑った。ツーリングの本来の目的をきちんと伝えずに店を出ていたのだ。明日帰るまでエールに店番を任せている以上、余計なことを言って混乱させるよりは黙っていた方が賢明だと判断した。
「エールさんが頑張り屋さんだから、助かってるよ」
「当然のことです。こうやって働いていられるのも、雇ってくださったオーナーのおかげですから」
「ちょうど人手が必要だったんでね」
そう言う一方で、「これがはやぶんだったら」と二道の心にまた本音が浮かんだ。はやぶんが引退したとき、店の経営は自転車操業で赤字を出さないのが精一杯だった。引き取りたかったが、彼女を所有するプロレス事務所の希望価格には手が届く訳もなかった。自分以外のファンも似たり寄ったりの状況だったらしい。
はやぶんは初期化された後、巨大倉庫での運搬作業に従事していると情報通から聞いた。「ヒールノイドの記憶を消された彼女が新しい職場で頑張るなら、俺も心を入れ替えて店に全力を尽くそう」その決意が実り経営は数年越しで軌道に乗った。過去を振り返るたび胸をよぎるのは、はやぶんへの感謝と一つの心残りだった。
「一度でいいから、大技を決めて勝利してほしかったな」
二道は聞き取られない声量でつぶやいた。
「オーナー? 声が遠いです。大丈夫ですか?」
気遣うエールに礼を述べて通話を終えると、二道は運転を再開した。後ろめたさと本望がブルーライトの車輪のように胸の内で回り始めた。
二道との通話後まもなく送られてきた数枚の写真を見て、エールは生き物の放つ生命力を感じた。どの写真にも池を少し広げた程度の湖で遊ぶ子どもたちが映り、雲の間から陽光が淡く水面を照らしている。二道のいる方向にピースをしたり、浅瀬で取っ組み合う様子には屈託がなく、自然の中で遊ぶ楽しさに溢れていた。
湖の場所が気になったエールは、脳内OSで画像検索を行った。マップ機能から宮城県仙台市にある深川沼より約15キロ離れた山林地区と特定された。かつては石油コンビナートが建設されていたが、今は人口過疎部となって田園風景の広がる地域だ。関連記事にも読み取りを拡張していた彼女の口から、「まあ、すごい」と感嘆の言葉がもれた。
「泥から電池を作る沼があるんですね」
接客の態度が崩れないようにと、エールは独り言も丁寧語で統一している。ヒールノイドの時代から同じ口調で馴染んできたし、自分の地味だが真面目そうな容姿には相応しいと受け入れていた。
記事の内容は「発電微生物」についてだった。21世紀前半の深川沼一帯には、穀物の約12倍の生産効率で石油を作る微細藻類「オーランチオキトリウム」の増殖用池が複数存在していた。しかし、コスト面で研究が頓挫して池が放置された結果、雨風による生物移動も重なって泥の沼と化し、独自の生態環境が繰り広げられていたのだ。そこで、地元の学生らが中心となり、泥の中の微生物の代謝を利用して電池を作り出す研究が数年前から開始されたとのことだった。
「沼と周辺の清掃が7月初旬に行われる予定、ですか」
二道はこの作業の手伝いに行ったのではと、エールは思い当たった。自動車整備士の資格を持つ二道には、オートマ関連の知り合いが多く、全国規模で彼らとのネットワークを持つ。ツーリングが趣味なだけあってフットワークも軽い二道なら、知人に誘われての参加も考えられる。バイオ燃料は電動バイクとも密接な関係があるので、可能性は低くはなく、推測が当たっていても別に理不尽さは感じなかった。
ただ、エールは自分がスケジュールの詳細を教えてもらえなかったことに疎外感を覚えた。二道とは主にプロレスと車の話ばかりしていて、定まった角度からいつもプライベートをのぞいている。店で働き始めてから、とっくに半年以上は過ぎている。そろそろ別の顔を知ってもいい頃だと思った。
「一度でいいから……してほしかったな?」
二道が先刻言った台詞で聞き取れた箇所を真似してみるが、エールの思考力ではその隙間を埋められなかった。誰に向けたどんな願望なのかは分からないが、「隼」の話をしたのがきっかけなら、やはりプロレス関連なのだろうか。取得した情報の収納と古い情報の棚卸しが同時進行していた頭に、湖での子どもたちの取っ組み合いの写真と、かつての自分の対戦の様子が並列して浮かんだ。両者の時間の隔たりはちょうど10ヶ月だったが、自身の体験した記憶の再現には臨場感を伴っていた。
【Round3:因縁の決着試合から1年前】
「ファイッ!」
レフリーのかけ声で試合開始のゴングが鳴った途端、若い女子選手がエールにぐいと顔を近づけてきた。ドスの利いた声で言う。
「あたしに勝利をありがとね♡」
次の瞬間、ぬちゃっと押しつけられたのはオレンジ色の分厚い唇だった。口元を覆われたエールはプロレスのリングに立っていた。当時は緑色に染めた髪をツインの団子頭にして、同系色のスクール水着を模したコスチュームで入場したばかりだった。そんなエールに口づけをしてきたのは、その日の対戦相手である現役女子大生こと、キッサー彩音だった。名前の由来は、前座に当たるパフォーマンスで試合相手に必ず勝利宣言のキスをすることに因み、ロボットのシリコン素材よりも柔らかくてジューシーな唇だと自負していた。前座のキスシーンは初回から観客にウケたため、レフリーに止められるどころか、回を重ねて彩音の十八番にまでなっていた。
「彩音のキス炸裂! 今日もヤル気満々か!」
レフリーが興奮した口調で叫び、会場が歓声を上げるのもそっちのけで、彩音とエールは唇を重ねていた。両者ともお互いに腕を頭に絡ませ、ヘッドロックでもしているような気迫を漂わせていた。髪もオレンジと緑がくっつき、ヘタの付いた特大蜜柑となってスポットライトを浴びる。ドローンカメラがリングでシャッターを切っているのを、エールは薄い唇を彩音にぴったりと沿わせて察知していた。「月刊女子プロ」の記事に使われるのを狙って静止を保つ。
【もう離れていいぞ】
選手それぞれの耳に固定されたウェアラブル無線が、キスを止める指示を出した。彩音が唇を突き出したまま飛び跳ねると、これもオレンジ色のブーツがダンッと大きく床を蹴った。リップを塗った唇がエールの口からアゴをこすり、化粧の香りとともにクレヨンで描いたような橙色が残った。両者の視線がかち合う。
「あっ、ベニついちゃったー! 嬉しい?」
「殺意を覚えます」
エールの台詞に彩音が余裕の笑みを返した。透明のマウスピース越しでも分かる犬歯を、吸血鬼のようにのぞかせる。全体的にややぽっちゃり気味だが、パワーの出せる貫禄の持ち主で、運動能力も高い。低い地声で脅し文句に凄みを利かせる。
「鉄臭いんだよ、血も出ないくせに」
鼻に皺を寄せて笑うと唸る番犬に見えた。小顔で日本人の平均スタイルのエールとは対照的だった。どっちがヒールか分からない所を面白がって観客が笑う。リング周囲に取り付けられた高音質マイクにより、直接マイクを使わなくてもやりとりは聞き取れた。
「貴女もすぐ鉄臭くなるでしょう。血を見ますから」
会話の応酬はシナリオにはない。個人の裁量に任されており、テンポ良く続けばいい。彩音がエールに近づいたり遠のいたりして、挑発的な態度を取った。レフリーによるボディチェックは既に終わっている。ヒールノイドは鋼のボディで存在自体を危険視されがちだが、彼らの骨格素材は、人間の骨の硬さに近づけて改良されたカーボンナノチューブである。軽量で薄く壊れにくい。また、彼らの人工皮膚は通常のシリコン膜とゲル状のコラーゲンシートを二重層にしたバイオハイブリッド製だ。攻撃の届かない体の内側以外は、彩音の「ジューシーな唇」に負けない柔らかさだ。人間が殴る蹴るには持って来いの素材でヒールノイドは成り立っていた。
最初の攻撃はヒールからと決まっていて、エールが気持ち良い音を立てて彩音の頬をビンタした。だが、派手な音ほど痛みは烈しくない。頬を叩く直前で速度を落とし、人間選手を鼓舞させる程度に済ませるのも暗黙のルールだった。何度か平手打ちを繰り返すと、彩音がひょいと身をくねらせて避けた。
「調子乗ってんじゃねえ! モブAIが!」
彩音がお返しとばかりにエールの顔を引っぱたいた。自身の掌も橙色になるほど強い衝撃だった。彩音推しの声援が追随して、エールの脳内に「貢献した」と報酬が少し湧く。痛みはないが顔を歪ませてわざとよろけた。
「リセットされろ!」
彩音が片足を高く上げる。プリーツスカートのひだが可愛く揺れて、たくましい太ももが露わになった。エールが身をかがめて緑色の肩パッドが下がる。傾いた頸椎に彩音のかかとが振り下ろされた。頭頂部ではない。ヒールノイドの頭部を集中的に狙うのは原則禁止されているからだ。故障の原因になれば罰金のケースもあるため、ほとんどの選手が遵守していた。
かかとの首を突く衝撃がエールに片膝をつかせた。観客の声援は少し止んでいる。エールの分析ではターン交代の方が盛り上がると出ていた。味方がやられる方がアドレナリンが出る。自分の痛みでもないのにやり返せと、血湧き肉踊る感情。なぜ人は、人を応援したがる生き物なのだろう。揺れる人工脳で考えながら、エールは両手をついて四つん這いになった。
トラブルシューティング機能により、ヒールノイドは頭部が揺れると人工筋肉の動きが鈍くなる。自分のターンを待っていては場が白けそうな気もした。
【彩音、飛び技いけ】
ウェアラブル無線の指示が彩音の耳朶を打つ。待ってましたとばかりに彩音がリングのコーナーによじ登る。一挙一足を見守る観客の中に、いくらか冷めた様子の二道の姿もあった。はやぶんへの憧れとは違う、庇護する親の気持ちでエールを観ていたのだが、のめり込むほどではなかった。
彩音が蛙のように両膝を深く曲げる。口紅のこびりついたマウスピースがオレンジ色に光った。
「いくぜ! キッス・マイ・フット!」
「イエー! あ・や・ね! あ・や・ね!」
コールを受けた彩音がコーナーの上から飛び跳ねた。弧の字を描いてエールの背中に尻から着地し、両足を滑らせて頭を挟み込む。大車輪の要領で旋回し、エールは旋回の向きと逆に上半身をねじった。レンチでボルトが外されるようにリングに投げ倒される。二人分の衝撃でバアンと鳴って床がきしんだ。司会者が叫ぶ。
「出たぞ人工衛星ヘッドシザーズ! リングの轟きが地球を揺らすぅ!」
エールの頭を地球に、彩音が人工衛星となって回る動きからそう名付けられた決め技は、ひと昔前の同名の飛び技――助走して相手の背後から飛びつき、頭を両足で挟み込んで投げ飛ばす――とは形が多少異なっている。時代が進めば言葉の意味合いや技術と同様にプロレス技も進化するのだ。
「これがはやぶんだったらなあ」
遠い目をして言う二道は、人工衛星の小惑星探査機リストに「はやぶさ」の名前があったことを知っていた。彩音よりもすらりとした長い脚なら、エールが身をかがめなくとも踵落としは届いただろう。星間を縫うような光速で突っ込んで、相手をくびり回していただろう。
二道の妄想の中で、はやぶんはいつも勝利する側だった。彩音は言わずもがな、今日のエールは妄想の主役にもなれそうにない。エラの張っていない顔は美形の範疇に入るが、逆に味気なくて戦士としては頼りなさげだ。
「チケット代を無駄にしたな」
二道がため息交じりに立ち上がった、その時だった。
「ああっと! ここでヒールノイドの逆襲かあ!」
叫んだ司会者に驚いてリングを見た二道の、胸の奥がドンと弾んだ。初めて聴く曲が良さげな時の予感に似ていた。彼の瞳に映ったのは、エールが彩音を逆エビ固めで締め上げている姿だった。ヘッドシザーズを決めた彩音がバランスを崩して不格好に転んだのを、エールがアドリブ技でごまかしたのだ。二道がリングから目を離した一瞬のことだった。
「頑張れエール!!」
たまらず二道が司会者に劣らない大声を上げた。言葉がエールの人工耳に届く。彩音の両足を脇で挟んだ状態で、エールは思わず首を伸ばした。声の聞こえた方向に立っている人影がいた。二道だった。液晶ディスプレイの瞳が光った。
「エール止めるなー!」
「わ、わ、私のために?」
動揺した小声を聞き取れるはずもなかったが、二道は何かを悟ったらしい。エールの凝視する表情に、何度も大きく頷いて声援と拍手を送り続けた。近くに座る観客が舌打ちをしようが、スタッフが早く座れと袖を引っ張ろうが、お構いなしだった。
二道につられて、エールの名前を呼び指笛を吹く観客もちらほらと現れ始めた。
「私……いま、応援されてる」
エールの動揺は一つの感情を呼び起こしつつあった。初めて好きな人から告白されたときの、胸の高鳴りに似ていた。
「ああ、応援って、応援されるって……なんて素晴らしいの!」
嬉しさのあまり、脇に挟んでいた彩音の両足をブーツごと思いきり抱きしめた。
「ギャアアア!」
彩音が悲鳴を上げた。手加減されてうつ伏せにされていたのに、急に信じられないほどの怪力で締め上げられたからだった。ざわめきの波が会場に広がり、座らされた二道とは逆に大勢のファンが総立ちになった。
「やめ、やめてって! バカノイド!」
「こんなにも注目されるなんて」
感極まった口調で言うと、痛がる彩音を俵でも転がすように仰向けにした。再び馬乗りになり、さっきとは別人の勢いでビンタをかました。頬の内側にのめりこみそうな強さで、高らかに音が鳴った。彩音はマウスピースをギリギリと噛みしめる。歯の神経にビイーンと沁みるような痛みが走った。
二道の声援とファンの怒声と驚嘆のすべてがエールを刺激した。二道以外のエールを推す声の比率も、徐々に高まっていった。
「もっとください! もっと!」
さらなる応援を求めて、エールの思考が急速回転する。彩音のオレンジ色のリップに目がとまった。同じ色のついた口元に大きな笑顔が浮かんだ。彩音の両腕をクロスさせたまま、きつく捻り上げる。たちまち激痛が彩音の腕にビリビリと走った。
「うわあああん!」
「わたし、勝ちたいです!」
普段以上の高速アルゴリズムで「倒したい」という感情がニューラルネットワークで発火した。脳内GPUの加速度センサが感知した瞬間消費速度と電力は過去最大だった。強烈な勢いで電気信号が何万層のノードを駆け抜ける。武者震いはできなくても、興奮で髪の毛が逆立つ心地をエールは初めて疑似体験した。
「運営! 運営! 止めてよお!」
彩音が金切り声で請うたが、無線は「もう少し耐えろ」と却下した。ネットの配信閲覧者数が急上昇し、SNSにも映像が拡散されている。会場全体が異様な熱気をはらみ、膨らみ続けた。
彩音以外の全員が試合を心から楽しんでいた。
「貴女! たくさんっ、勝ってるんでしょう!」
エールが一語ごとに弾みをつけて相手の上半身に乗りかかった。押さえる腕にさらに力が湧き、彩音は自分の腕で胸骨を圧迫された。
「ぐええっ」
「一度ぐらい!」
苦しむ彩音の首筋をバシッと叩く音が続いた。掌に返ってくる衝撃が、手から全身の隅々を光で満たすように伝わった。
「ゆずりなさいよ!」
バシッ。エールの攻撃が繰り返された。彩音の自慢の唇が震えた。人間はヒューマノイドほど緻密な計算はできないくせに、微細な感情を表に出すことには長けている。エールは彩音の感情の変化に気づいた。自分への集中的な怒りだった。格下だと思っていた相手に侮辱されたと認めているのだ。
自分が人間の感情を引き出している、観客の熱をあおっている。自分の行動がシナリオよりも優先されている――様々な種類の報酬が、凄まじい喜びとなって脳内を駆け巡った。エールは破顔した。涙を流す機能があれば、きっと泣き笑いしていたに違いない。
「っざけんなよババア!」
声に出したことで火事場の馬鹿力が出たのか、彩音が下からアッパーパンチを繰り出した。エールのアゴがガクガクと外れかけて頭を震わせた。トラブルシューティング機能で人工筋肉の動きが鈍くなる。力の弱くなった腕を彩音は払い除けて、エールを下敷きにした。形勢が逆転する。
「よっくも! あんな殴ってくれたね!」
操り人形のようにだらりと腕を放り出して、エールは下から彩音を見上げた。オレンジ色の髪の束が昆布のように乱れて、その中央で白い顔が犬に似たうなり声を立てている。分厚い唇は歪んでマウスピースからよだれが垂れ、顔の肉が揺れる様はブルドッグを彷彿とさせた。高揚した表情のエールから、プッと笑い声がもれた。
「なによ?」
「アゴの肉で顔が大きく見えます」
「ハアッ!?」
「この角度だと貴女の方がババアですよ」
「その口聞けなくしてやる!」
挑発された彩音はついにブチ切れた。自分の頭上で両手を組んだ。慌てすぎて小指の固定が少し弱いが、構わず振り下ろす。頭上のポーズの時点で無線がエールに指示を出した。
【技を受けろ。メンテ呼んでCMに入る】
動けたら速攻やり返したい。本音がエールの喉までこみ上げたが、ターンが交代している間に脳内報酬の量が減って冷静な思考に戻りつつあった。先代のようにキル・スイッチを押されたくはない。企業利益が潤えば自分の立ち位置も向上するだろう。ここは大人しく従った方が得策だ――そこまで考えて結論が出るまで1秒もかからなかった。
「出たー! ダブルスレッジハンマー!」
彩音の組んだ両手がエールの鼻の下を強打した。ヒューマノイドの鼻の尖りを本能的に恐れて位置を下にずらしたのだ。エールは半笑いで一撃を受けた。一方の彩音は、拳を相手の口に押しつけた姿勢でうずくまった。
そこから両者とも微動だにしない状況を見かねて、レフリーが間に入った。
「ストップ! リング・ドクター!」
リングサイドに控えている専門医が急遽レフリーに呼ばれた。もちろん診る対象は人間の彩音で、男性医師は彼女に近づき、怪訝な顔をした。自らの左手を利き手の右手でぎゅっと包み込むように押さえていた。その手に触ろうとすると、彩音が青い顔をして首を振った。痛くて声も出ないという様子だった。
医師がなだめすかして診察した結果、レフリーにドクター・ストップの診断を伝えた。エールはその様子を仰向けで静観している。原因は分かっていた。自分にある。正確には、自分の鼻の穴にあった。
彩音の拳は笑っていたエールのマウスピースに当たり、固定の甘かった小指が鼻の穴に偶然突っ込んだ。ヒールノイドは皮膚の表面こそバイオハイブリッド製で二重層になってはいるが、試合で攻撃されない体の内側までは覆われていない。鼻も外側は人間と同じ柔らかさだが、二つの穴の間の仕切りは前出のカーボンナノチューブ素材であり、小鼻の内側も含めて表面は硬く、人間の爪程度では剥がれない。むしろ、生爪の方が負けてしまう。彩音の小指はエールを意図せず鼻フックして、自分の爪が逆に引っかかって剥がれたのだった。
鼻の中で突き指もしていたらしく、指サポーターで覆われた小指に力を入れまいと、彩音は手の先ばかり注視していた。セコンドの付き添いで彩音はリングから降りていく。髪も顔も涙と脂汗でジューシーに潤っていた。地味な怪我だが全治に時間がかかりそうだった。
「……ということで、キッサー彩音退場! レフリーの判定待ちです」
私にもついに勝利が言い渡されるのだろうか。仰向けでエールは遠い天井の照明を眺めた。初勝利の期待とまぶしさで目を細めて、視界が狭まっていく――と、記憶はそこで途切れていた。次に覚えているのは、会場にいた見覚えのある男こと二道が、「二輪屋ふたみち」で自己紹介を始める光景だった。自分はキル・スイッチを押されたと認識したエールは、勝敗の結末を脳内OSで検索して調べた。判定結果は、人間選手の怪我による棄権とヒールノイドの不具合による、「無効試合」。両者引き分けにもカウントされていなかったのは、彩音の所属する大手事務所が運営に圧力をかけたらしいとの裏情報があった。「暴走したヒールノイドは強制引退の処分となった」と書かれた記事を読み、エールは痛感した。自分が人間だったら、食い下がって勝ちを主張できただろうし、何とか引き分けには持ち込めていただろう。どうあがいても越えられない壁がエールをプロレス業界からキックアウトしたのだった。
キル・スイッチによる深層学習経路への悪影響は表れずじまいだった。直前の電気信号の激流で制御システムの発動していたことが起因していた。記憶データにも特に改竄はなかった。そもそも試合経験の少ないエールには漏洩で困るような貴重なデータはインプットされておらず、二道がオプション料を払うことでリセットされずに引き取られたのだ。新しい雇い主の優しさに、エールは素直に感謝した。しかし、一度覚えた喜びはヒューマノイドの記憶でも忘れがたいものとなった。
回顧し終えたエールの耳に、ギギギと錆を削る作業音が煩わしかった。中古の整備補助ロボットが錆び付いたエキゾートパイプの管をボール盤で研磨している。ツーリングで二道の不在中でもできる簡単な作業だが、スタッフ監督の下で行われなければならず、頼まれたエールは店奥の作業場にいるのだった。
「一度でいいから、大技を決めて勝利したかったな」
二道の台詞の空白に自分の気持ちを代入力してみた。口に出すと意外とぴったりだと、エールは苦笑した。
【Round4:因縁の決着試合から約3年と2ヶ月前】
「あたしらヒールノイドは、言ってみりゃ『泥の底から釣り上げられたザリガニ』なのよ。人間どもに暗い所から勝手に明るい所に引っ張り出されてグツグツ煮込まれた挙げ句に、マズくて食えねえって捨てられる運命なの」
ツーリングの日から3年と少し前に、はやぶんがファンイベントの握手会で言ったこの台詞を、二道 靖は一言一句覚えている。行列で自分の番が来て対面した彼女は、いつもの漆黒の衣装と鎖を身に纏って握手に応じた。二道の手が折れそうなほど強く握り、情けない声を出した彼を気兼ねなく嘲笑した。
「この赤はね、その怒りなの。ザリガニとか蟹って熱くなると真っ赤になるじゃん、あれに啓発されたの」
紅をベースにした黒の隈取りのハーフマスクに、はやぶんは凝血のような赤黒い爪を突き立てて語った。自分の黒い髪はザリガニが潜んでいた泥の象徴だとも。
「く、詳しいんだね」
ヒールノイドの割りには、と口が滑りそうになって二道は焦った。「レスラー=脳筋」の偏見と思われるのではと自制したのだ。
「だってピッタリじゃん。あたしも甲殻類並みにエラ張ってるしね。でも、他にも熱で赤くなる奴いるらしいけど。微生物っていうか、藻? 覚えてないわ、弱そうな奴はあたし忘れちゃうから」
「アスタキサンチンの成分が、タンパク質の結合と切れて赤くなるんだよ」
「マニアックだね」自分を棚上げに言われた。
「自動車整備士は化学反応には詳しいんだ。藻ってバイオ燃料とも関係があって」
二道が知識を披露しかけると、スタッフが二人の間に割って入った。持ち時間の終了だった。
「俺、調べてみるから。続きは今度に」
二道が引き離されながら言うと、はやぶんは呆れ顔で首を横に振った。
「弱そうな奴は忘れちゃうって言ったでしょ。夜道に気をつけな」
それでもいいよ、と言いたかったが既に次のファンの相手が始まっていた。踵を返した頭の中で、はやぶんとのやりとりが延々とリピートされた。「他にも熱で赤くなる奴」ってプロレスファンのことか、なら俺もザリガニと同じかよ。いや、藻って何だよ――二道の中で疑問も増幅されていった。
はやぶんはまもなく開催予定だった「デビュー4周年記念イベント」までに試合事故で初期化されてしまい、続きを話すことはなかった。しかし、未練を引きずって調べ続けた二道の興味は、ある藻類へと行き着いた。その名も「ヘマトコッカス藻」。緑藻に属する淡水性の単細胞の微細藻類で、世界中の湖や沼に広く分布している。この藻には、他の藻類にはあまり見られない3つの特徴があった。①光の浴びすぎで有害な活性酸素が発生することを防ぐ「強光回避本能」、②乾燥等から身を守るための休眠、③加熱により真っ赤になる、の3つだ。はやぶんは「弱そうな奴」とみなしていたが、なかなかサバイバル能力の高い微生物だと分かり、二道は親近感を覚えた。まとめた情報をSNSに投稿すると、他のファンが感化されてまたリサーチの輪が広がった。推しのマスクと担当カラーが同じだと、ファンたちの思い入れも強くなっていった。
【Round5:因縁の決着試合から2ヶ月前】
エールには詳細を伏せて二道が仙台市の深川沼を訪れたのは、ファンのネットワークの情報と長年の独自調査で思いついた、「進化したヘマトコッカス」が潜んでいないか探すためだった。発想のヒントは、沼の微生物たちが生み出すエネルギー電子にあった。
清掃参加の予約は済ませてあったが、予定よりも前倒しで作業は始まっていたため、二道は急いで加わった。空には鳥の羽根一枚一枚を毛羽立たせたような薄雲が、地上のこもった空気で浮かんでいるように見えた。大量と言うほどではないが、二道の首や脇の下が汗で湿った。ゴム長靴の中が一番ひどく、余計に重く感じる。誰に言うでもなく不満が口を突いて出た。
「にしてもメタン臭がすごいな。マスク着けてなきゃヤバいね」
時代を経て多少地形の変わった深川沼の一角で、薄型の防塵マスクにゴーグル、上下汚れても良いつなぎという姿で二道はうなった。「泥の電池」プロジェクトの手伝いの最中だった。沼に埋め込んだプラスとマイナスの電極――微生物が有機物の分解で発する電子を、両極間経由の外部発電に使うための装置――の拭き取り作業に携わっていた。水分子だけの純水はほとんど電気を通さないが、塩化物イオンとナトリウムイオンに溶けた塩水は電気を通す。泥の中は微生物の生み出す様々なイオンに満ちている分、有機物の腐敗ガスの匂いである沼気もひどかった。
「これぞ自然と技術の融合じゃないですか!」
年嵩の男性参加者が、二道の言葉に反応して意気込んだ。咳払いをして続ける。
「生と死が交ざって次世代のエネルギーに生まれ変わるんです!」
二道と似たり寄ったりの防護装備をした男性は、学生数人とも親しげに会話を交わしていた。保護者か引率の教師かと二道は判断して、無難に相づちを打った。さりげなく探りを入れる。
「それに沼に繁殖していたオーランチオキトリウムが、天然の石油成分をたっぷりため込んでるんでしょ。あれの研究がなくなった後は、ヘマトコッカスとかも侵入して繁殖しまくりだとか」
「詳しいんですね。東京の研究者の方ですか?」
話が分かると思われたのか、喰いついてきた男性に、二道は大袈裟に首を振った。
「いやいや、ただのメカニックっす」
電極のアソードの蓋を布で拭いながら、二道の視線が沼の表面をさらった。沼は浅く泥と粘土質の中間で、履いている長靴のふくらはぎまで深さがあった。ときおり水面が躍動的に光ると、二道は目ざとくそれを追った。だが、大抵はカエルの白い腹だったり、脱色した葦の茎だったりで密かに肩を落とした。
「下の方の泥の密度が高いのも素晴らしいんです。酸素の有り無しで好気的環境と嫌気的環境の二層を保ちやすいから、低コストで微生物燃料電池を維持できるし……」
男性の説明は止まらず、二道は適当に理由を言って場を離れた。歩くたび長靴を泥から引き抜くのに、意外と力が入った。
――全部知ってる。だから来たんだよ。
マスクの内でつぶやいた二道は、電気刺激を受けた生物に遺伝子変異が起きるという、進化論専門家の解説を思い浮かべた。特に古代から存在するアメーバ類の微生物には、細胞共生の繰り返しでDNAに新たな特徴が組み込まれ、それが外的要因で系統樹の分岐に繋がった例も多数明らかにされている。オーランチオキトリウムやヘマトコッカスら藻類の起源は約25億年前であり、元々備わっていた未発現の能力が、突然水面下から顔を出してもおかしくはない。
オーランチオキトリウムは生産した炭化水素の油性物質を体内にため込み、ヘマトコッカスも体内に大量の油滴を作り出して、それを細胞内の移動に使うアスタキサンチン(脂質の一種)と共に蓄える。ただし、後者は危機を察知すると休眠して細胞壁を肥厚化し、壁の中に作り出した物を急速で溜めて、クマムシのように何年も「死んだふり」をしてやり過ごすことが可能だ。しかも、休眠から目覚めてまた元の通り細胞分裂を再開できる点もクマムシと共通していた。二道を惹きつける最大の魅力はそこにあった。
オーランチオキトリウムの研究閉鎖後、手つかずになった沼の中で、膨大な数の微生物らが有機物の酸化活動を延々と繰り返した。電極が埋められるよりもずっと昔から、エネルギーの電子は泥の中で自然に発生しては外部に還元されてきた。中でもヘマトコッカスは他の藻類では耐えられないストレス環境下でも増殖して生き残ることができ、年単位での休眠が可能で、目覚めた後の分裂能力が大幅に向上したとの研究報告もある。電極による電気刺激で分裂能力に拍車がかかれば、布のような厚みを増した存在になることも可能に思えた。
「メタンと電気で火つかない?」
沼で手伝っていた女子学生の言葉に、二道は我に返った。小柄な顔の半分以上を覆うゴーグル越しに、電極のアノードの円筒をのぞいている。音を立てずに男子学生が背後に回った。
「バアン!」
後ろで男子学生の上げた大声に、女子学生が驚いて縮こまった。振り返ってゴム長靴で蹴る真似をする。泥と雑草が混ざって細かく泡立った。
「なにすや!」
「バーカ、田んぼにだってメタンあるし、苗植えロボットだのモーターだの入ってるじゃん。水中の植物の茎や根から大気にいっぺえ放出されんの」
「火じゃなくて屁だ、大地の屁」と他の学生たちも加わって言い、若者たちの元気な笑い声がマスクの中で広がった。
傍目にやりとりを見ていた二道は、この打ち解けた空気に微粒子となって舞うメタンを想像した。天然の石油の主成分でもあるメタンは炭化水素であり、植物細胞内のタンパク質の結合に欠かせない。藻類全般の細胞は界面活性剤様の物質で包まれているため、こうした油脂を膜状に保護して体内から漏れるのを防ぐ。この一つの一つの膜は数十ミクロン程度でも、ボルボックスのように細胞単位で連結して多細胞生物になり、それがニューラルネットワークのように何万層となれば――。
「うわー、きっも!」
男子学生が眉をしかめて叫んだ。数人がかりでアノードの円筒を斜めに持ち上げ、その側面をのぞきこんだ生徒だった。手の空いていた女子学生もゴーグルの中で目を見開いている。醜悪なものを見た目つきだった。期待して二道ものぞいてみたが、またも肩を落とした。先程の男性も駆けつけて、何だという表情を浮かべた。
「ヘマトコッカスじゃないか」
「この真っ赤なアメーバみたいなのが?」
女子学生がアノードの側面をゴム手袋で指さした。
「おや、特別授業でも紹介したはずなんだが」
「顕微鏡の画像よりも生々しいって」「あれは輪切りだったし」口々に学生たちが言った。
朱色のゼリーを毛細血管状に引き延ばしたような模様を、二道は美しいと思った。河川から来た風が沼を通り過ぎて、湿地に立つクスノキの葉を揺らしている。その年老いた幹が歪みながらも青々と葉を茂らせている姿が、二色の対称性をより際立たせていた。不意に、はやぶんのことが無性に恋しくなった。
「赤くなるのは光合成のしすぎで細胞が傷つけられないようにっていう、強い光から逃げる戦略だ。ヘマトコッカスってのは最強の植物なんだぞ。他にもクマムシみたいに休眠したりとかな……」
生徒に説明する様子を見て、引率の教師で間違いなさそうだと二道は確信した。男性に呼びかける。
「放置しとくのは良くないっすよ。筐体のカセット金型の劣化が速まっちゃう」
詳しい身分を明かした上で、二道はこう提案した。バッテリーと筐体をつなぐコードが千切れない距離の湿地までアノード全てを運び、表面全体を洗浄した方がいいと。バッテリーを引き上げるのは今回が初めてだったが、アノードは元々移動させる予定だったので、その場で同意が得られた。
教師や男子学生らが中心となって次々と持ち運んだ後、円筒型にへこんだ数個の穴の一つを二道はのぞきこんだ。深さ60センチ・直径30センチ程の穴は粘土質の層となり、水は僅かしか入り込んでいない。例の女子学生は気分が悪くなったらしく、既に沼から上がっていた。断続的な曇り空が続いて、穴の奥は陰気で暗い。わずかな間だが、二道だけが取り残された。
穴の底を見て、二道は感電したように震えた。
「これだろうな、これであってほしいよ」
瞳が熱い視線を注ぐ穴の底一帯に、濡れ紅葉を重ねたような赤い膜が何枚もまだらに張り付いていた。側面にいたヘマトコッカスとは別に、固体として生息しているように見えた。厚みは1センチ程で、せんべい座布団を彷彿とさせる形状だった。大きさは直径20センチ近いものから3センチ程度のものまでと、統一感がなかった。
二道は急いで自前のつなぎに手を伸ばした。内ポケットのボタンを外したいのに、ゴム手袋の手では感覚が鈍った。引きちぎるようにボタンを引っ張り、やっとの思いでポケットから工具を取り出した。折りたたみ式のクロストルクバーだ。タイヤのドライブシャフトの中心に通して回転させるための工具で、料理人の包丁と同じぐらい彼の手に馴染んでいる。こんな事があろうかと念が入り、感電防止用の絶縁体シートでバー全体が覆われていた。慣れた手つきでバーをT字型に広げ、穴の底で「T」の横棒が直径20センチの円を描けるように目盛りを調節した。
穴底にいる最も大きな赤い膜にバーを当てると、二道はクレープの生地を広げて焼くようにくるりと回した。休眠中と思われるヘマトコッカスは、バーに吸い寄せられるように綺麗に巻き付いていく。舐め取ったとまではいかないが、ちょうど人の顔の大きさぐらいの膜が剥がれて手中に収まった。用意していた樹脂容器に膜を入れると、二道は素早く蓋をして工具と一緒につなぎの奥にしまった。カプセル型の容器は白く半透明で、心臓を閉じ込めたような外観となった。
周囲を見渡して誰にも気取られていないことを確認してから、二道は深く息を吐いた。何か大きな使命をやり遂げた気分になって、呆然と空を見上げる。羽根の形をした雲がまだ太陽を覆い隠していた。
「はやぶん、もう一度会いたいよ」
二道の頬に涼しい初夏の風が吹いた。優しい肌触りは一瞬で消えて、垂れる汗と泥で体の重みが増した。
仙台でのツーリングから店に戻った二道に、エールの人工嗅覚センサは鋭く反応した。30代半ばの男性の放つ匂いにしては強烈な異臭を感知したのだ。警察犬のようにエールの鼻先が二道のつなぎに近づいて、疑わしげに目を眇めた。
「オーナー、匂います。日常とは比較にならないレベルです」
「どうせオッサンですから。汗もかいてるし」二道はとぼけた。
「普段のオーナーは良い匂いのオッサンですよ」
「ありがとう、でもオッサンは余計だ」
「そんなことより、その内ポケットから炭化水素の成分との測定が出ています」
「え、あ、メタンだよ。沼の泥を記念に持って帰ってきたの」
図星を突かれた二道はそそくさと作業場の一角に向かった。後ろから、「やっぱり行き先は深川沼だったんですね。位置情報から調べてみたら……」と、エールの声が足音とともに追いかけてくる。親しくなりたい故の行動だろうが、疲労感もあって少し面倒くさく思えた。
「泥の電池の清掃、私も手伝いたかったです」
「ヒューマノイドの体に泥が入って故障でもしたら困るだろ、防水機能があってもね」
「プロレスの試合では汗まみれの相手と密着しましたが、双方に問題はありませんでしたよ」
エールの会話を背に受けながら、二道の手がヘマトコッカスの容器の入った内ポケットを探った。ボタンを外し、容器をエールから見られない角度で取り出しかけた所で、光が当たらないようにタオルでくるもうと手を止めた。エールがのぞきこんできたら荒い言い方になってでも黙らせようと、二道の顔が険しく曇った。
近くの壁際に取り付けられた洗濯機の、その上をレトロな洗濯竿が横切っていた。洗濯の終わった雑巾や衣服が吊されている間を、二道がひょいとくぐってタオルを取ろうとした。その時だった。
「何か落ちましたよ? 工具の袋?」
エールが目ざとく言い、二道の足下を指さした。つなぎの内ポケットから何かが床にこぼれたらしい。容器の蓋はしっかりと閉めておいたから、クロストルクバーを入れていたビニール袋だろう。二道はそう思って手を伸ばしたが、即座に二度見した。
「しまった! 工具の奴か!」
二人の視界に入ったのは、ヘマトコッカスの赤い膜がミミズのように床を這う姿だった。折りたたまれたバーの隙間とちょうど同じ形の細長さだった。作業場の照明が苦手らしく、二道の伸ばした手から逃げるように、洗濯機の下へにゅるりと滑り込んだ。
「マジか、あんな早いのかよ」
呆気にとられて二道は頭を抱えた。沼の穴の採取時には休眠していたのが、移動の間に目覚めて袋から出てきたらしかった。エールが矢継ぎ早に聞いてくる。
「あれは何ですか? 有毒生物ですか? 退治しましょうか?」
「悪いがあれを生け捕りにするのが最優先だ。ペンライトとLサイズのビニール袋を頼む、急いで!」
エールに言いつけた二道は、目の細かい虫取り網を探し出した。夏場は蝉が店の看板に止まるので、追い払う用に常備してあった。
必要な物はすぐに揃った。二道はエールに、自分が光を当てたら洗濯機の下から何かが飛び出してくるはずだからと言い、虫取り網を渡して捕獲を頼んだ。二人で迷い猫でもおびき出すように洗濯機を囲い込む。二道が洗濯機の上からペンライトを当てると、ミミズ状の膜が下からではなく、向かい側の壁の隙間から勢いよく飛び出した。床に反射した光を恐れたようだ。
エビのような並外れた跳躍力に、二道は驚いて仰け反った。しかし、横に立つエールは恐怖心など感じることなく、優れた動体視力で的確に網を一振りした。ターゲットはあっさりと網に収まった。
「さっすが元ヒールノイド、助かったよ」
「お役に立てて何よりです。では質問の答えをどうぞ」
「クイズか」
少し気分が落ち着いた二道はつなぎのボタンごと外して、内ポケットの中をのぞいた。沼気と汗の匂いで自分でも鼻が曲がりそうになった。隣にいるエールがヒューマノイドで良かったと改めて思い、容器の密閉された蓋の中の質量を確かめて二重に安堵した。
「さっきから挙動不審ですよ、私に言えないことでもあるのですか?」
ミミズ状のヘマトコッカスは光に反応してまだ跳ね続けていたが、エールが網の端を手で縛ると徐々に動きが鈍くなり、やがて動かなくなった。少し可哀想だと思う余裕が二道の内に生じて、やれやれと口を開いた。
「もう隠し通すのも限界だな、いいよ見せてやるよ。でもその前に」
二道は応急処置として水道水を溜めた黒いバケツを用意し、中に捕まえたヘマトコッカスをそっと置いた。普通に海水でも生息しているため、塩素が入っていても差し支えないという見込みだった。真っ赤なミミズがゆらゆらとバケツの底を漂い始めるのを確認して、すぐに上から蓋をかぶせた。
「これでいいだろ。じゃ、こっち来て」
興味津々なエールに、二道は特大サイズのタオルを頭からかぶって手招きした。中にエールが入ると、二人の頭を支柱にタオルが小さなテントとなって広がった。その中で二道は容器を取り出して、自分の掌に乗せた。
収めた時には赤い膜だったものが、今ではカプセル型容器の形を一回り小さくした塊となって、中でゴロゴロと動き回っていた。二道の大きな掌の上で容器は縦横斜めとランダムに重心が変わり、たまに元に戻ってはすぐに傾くを繰り返した。真っ赤な起き上がりこぼしのようで、二人は魅入ったようにその動きをしばらく眺め続けた。
「新種の生き物ですか?」
エールは小声でつぶやいた。驚かさないようにという配慮に二道は温かみを感じた。先程の苛立っていた自分を密かに反省し、自分より背の低いエールが見やすいようにと掌の位置を下げた。
「はやぶんのマスクの赤色は、この生き物の赤とご縁があるんだ」
そこで初めて二道はこの進化したヘマトコッカスを入手するに至った経緯を語った。脳内OSで高速検索ができるエールは、二道の話につまづくことなく全容を理解した。ただし、肝心の「動機」をのぞいては。
「推しの担当カラーを手に入れて、それで何がしたかったのですか?」
タオルのテントから出て、カプセル容器の中にいた分にも即席の住み家を作ってやると、二道はエールに一枚の画像を見せた。はやぶんの等身大フィギュアの写真だった。3Dプリンターで熱可塑性樹脂から立体化した全身には、色がついていなかったものの、作業場で研磨されて滑らかな輪郭に仕上がっていた。
「これをちゃんと塗装して、はやぶんの4周年記念イベントに持ってくつもりだったんだ」
「あのヒールノイドなら、二道さんごと投げ飛ばしそうですが」
「いいじゃない、ヒールに壊されるなら本望だよ。でもそれすら叶わなくなって、だったら電動モーターとか使ってリアルに動かしてみようって。どうせやるなら、はやぶんの思い入れのある色で、合成じゃなくて天然のを使おうと思ったんだ」
蟹やザリガニの甲羅ではゲテモノ感がすぎるから、最初から選ばなかったと言い添えた。
「ネジ一本見誤らない自動車整備士なら、仕組むのはお手の物ですものね」
「仕組みを作ると言ってくれ。でも、こんな動き回るのは予想外だった。これじゃ難しいよな」
フィギュアの画像を見る二道が息をふうと吐くと、ロウソクの火が消えるようにホログラムの映像が消えた。エールは記憶した画像に自分の全身を当てはめてみたが、はやぶんのハーフマスクからはみ出るエラの輪郭と、自分のシャープな小顔とは明らかに異なっていた。
「私に代役が務まれば良かったのですが、フェイスラインを取り替えでもしない限り不可能ですね」
「いや、俺はそんなこと一言も頼んでないし」と言いかけて、二道は取り繕った。
「でも嬉しいよ、俺の役に立ちたいって思ってくれたんなら」
「……今の私の発言は、そう思ったから出たのでしょうか?」
「はあ?」
二道の眉間に皺が寄った。その皺を見つめてエールが言う。
「私も大技を決めたかったのです。そして勝利をつかみたかったのに逃しました。ヘマトコッカスと同じですね」
ヘマトコッカスは強い光からは逃げなければならない。光合成のしすぎで有毒な活性酸素が体内で作られるのを避けるためだ。ヒールノイドも勝利のスポットライトから逃げることを強いられる。自分のターンの攻撃で試合を盛り上げる時に浴びる光は、いつも一瞬だ。最後の本気の攻撃で感じた光を、エールはもっと長く浴びていたかったと改めて口惜しく感じた。
「私とは違う存在の生き物に、初めて親近感を覚えました。好きです」
「じゃ俺は邪魔者だね、君たちだけにしてあげよう」
エールがバケツの中をのぞきたそうにしていたので、二道は許可した。作業場の照明を落とし、エールには瞳のレンズを夜間カラー撮影モードにして、暗闇でも赤外線センサーで色つきで見える状態に切り替えさせた。
「あ! 形が変わってます」
エールがカプセル型容器に入っていた方のヘマトコッカスを見て、小さく声を上げた。二道のクラウドコンピューティングのアプリと同期させて一緒に観察すると、彼もまた夢中で見入った。
「というか、バケツの底の形を擬態してるのか」
「ありえますね、自然界でも背面を海底と同系色に変化させるアカエイがいますから」
センサーの発色分析から、表面の凹凸によってその赤みには濃淡があると分かった。バケツの底の丸い溝に合わせて、自ら調節していると思われた。
トルクバーの隙間に埋まっていた分がミミズ状に変形していたことを思い出し、二道の口から感嘆がこぼれた。
「敵の目をごまかすための戦略か、細けえな」
ただし、そのミミズ状の方は、質量が少ないのか小さな煎餅の形で浮遊していた。
「これは俺が沼で見た時と似た形だな。本来はこんな風なのかもしれない」
「円筒のアソードで平たく押しつぶされていたせいもあるでしょうね。これをさらに薄く延ばしてフィギュアの顔面に貼り付ければマスクらしくなるでしょうけど」
「マスクにするまでが大乱闘だ」
「でも、その暴れん坊ぶりが、良い方向に動いたみたいですよ」
そこでエールは二道と最新ニュースのある記事を共有した。深川沼からヘマトコッカスの変異種が発見されたとの内容だった。アノードの側面に付着していたものとは異なり、やはり穴の底にいた膜が目覚めて学生たちを驚かせたとのことだった。
「変異種の生態についての詳細は追って調査報告が出るとのことです。学生主導でバッテリーの取り替えが初めてだったので、前例がない分、注目を浴びているようですね」
「絶対警備厳しくなるよな。今日行っといて良かったあ」
「逆に言えば、その2つのヘマトコッカス以外に予備はありません。国内外の専門家から協力の申し出が殺到しているので、自主的な研究データも案外早く出回りそうですね」
「はやぶんのマスク作りに役立てばいいけど」
1ヶ月後、変異種研究の逐次報告が管轄施設のサイトで公表された。資金集めのPRでもあり、富裕層が興味を惹きそうな「アンチエイジング」と絡めた描写――ヘマトコッカスが大量に有するアスタキサンチンは従来抗酸化作用に優れており、この変異種の同成分は筋肥大と筋力向上の効果も追加で見込める――等もあった。「なるほど、だから光で飛び跳ねたんだな」二道は腑に落ちた。
報告書には微生物発電が与えた影響について、こう書かれていた。沼の中で好気的環境(酸素を豊富に含む)と嫌気的環境(酸素をほぼ含まない)の二層に分かれる状況下で、光合成によってアスタキサンチン等の脂質を作り出すヘマトコッカスとは逆に、オーランチオキトリウムは光合成が不要のため、酸素の届きづらい嫌気的環境、つまり沼の一番底に積み重なる形で増殖されていった。そこで生み出されていたのは炭化水素の「スクアレン」という油性物質であり、脂溶性の物質と乳化する(本来混ざり合わない物質が均一に混ざり合い滑らかになること)特徴を持つ。植物細胞がスクアレンと脂質を乳化された状態で吸収する性質によるものだ。21世紀前半から蓄積されてきたスクアレンや脂質を、ヘマトコッカスの生み出すアスタキサンチンが包囲し、冬眠に備える熊よろしく体内に取り込んでいったのでは――と。
エールと二道は変異種の大小2体が入った水槽を、遮光カーテンの裾からのぞき見た。バケツは狭くて蹴飛ばすおそれがあったので、作業場に専用の観察スペースを設けて移し替えてあった。
「ぶよぶよしているのは、寒天様という状態なのですね。藻類の細胞表面を覆う界面活性剤様の物質『バイオサーファクタント』が強度を増した結果とありますから、弾力がありそうですね」
「その内部じゃ、滑らかな脂溶性物質の細胞分裂が驚異的スピードで進んでゲル状になった」
鼻をつまんで二道が言った。変異種が含むスクアレンはメタンの一種のため、水槽に近づくと鼻にツンとくるのだった。直接顔をつければ悲劇は避けられない。
「外はプルプル、中もプルプル」
「違いが分からん」
二人の口調も弾んでいたのには、幾つか訳があった。一つ目は、エールにプロレスの運営企業から試合へのオファーがあったことだ。9月の観戦シーズンの企画として、「因縁の試合」特集でマッチが組まれることになり、無効試合となったエールとキッサー彩音が候補に上げられた。事務所との給与トラブルで解雇されたキッサー彩音は乗り気でおり、エールの所有者である二道が承諾すれば開催確定との話に、二道もエールも揃ってOKした。
「エール選手には元ヒールノイドらしいコンセプトを求めます、とか言われたんだけど」
運営との初回打ち合わせの会話を、二道は笑ってエールに聞かせた。試合に備えて定期メンテナンス中だったエールは、興味津々に聞いた。
「地獄から蘇った悪魔のヒールなんてどう?っつったら、『それで行きましょう!』だってさ」
「はやぶんのマスク!」
叫んだエールに二道が目配せした。二つ目の吉報のことだ。「乾燥防止と光の曝露を恐れる本能により、変異種が隠れた場所に擬態して休眠する」という報告がきっかけで、通常種の休眠する環境条件のデータがネットで自主的に発表されていったのだ。統計解析で最適な有効率を調べ出したエールは、変異種の環境条件の数値を仮入力しては訂正する「オンライン処理」を連日続けて、ついに適正値を割り出した。
「これでフィギュアの面の形に休眠させれば、歯科の型取りのようにそっくりな形がとれる。上からラミネート加工でもすれば、長時間固定できる。ここまでたどり着けたのは、エールさんのおかげだよ」
「でも、沼まで行って取ってきたのはオーナーですから」
電極が初めて引き抜かれた日に変異種が日の目を見た。そして、今回のプロレスの話が舞い込んだ。二道とエールにタッグを組ませたのはヘマトコッカスで、その元を辿ればはやぶんがいることに、エールは長い道のりを感じた。二道も似たような心地で思い出していたらしい。
「どうせシナリオで勝敗は決まっていますけど、はやぶんへの弔い合戦にはなりますよね」
「そういや、大技を決めて勝ちたかったって言ってたよな?」
水槽の中で、ミミズ状だった方の変異種が、小さな星形の型抜きに嵌まっていた。チャンピオンベルトの中心のスターのように、紅の星が水中で揺れている。
「そうですけど。キル・スイッチは今回も着ける義務があるので、期待はしていません」
諦め顔のエールに、二道が身を乗り出して言った。
「あのな、プロレスには反則技っていう、最高のエンタメがあるんだよ……おええっ」
「オーナー、もう水槽から離れて話したらどうです? 私は平気なので」
エールの液晶レンズ眼は、大きな変異種に焦点を当てて解像度を上げた。水槽の壁と壁の間の黒い柱が好きなのか、縦長の長方形状にへばりついている。フグのように胴体の部分を膨らませている所と、クレーターのようにへこんでいる所があった。中の水圧の影響も受けているのだろう。寒天様の表面は風船と同じで、膨らんでいる所は赤みが薄く、縮みかけている所に濃さが濃縮されていた。煉瓦の焼成で色に焼きムラが出ているようで、凹凸の変化で歪んだ所は人面に見えなくもなかった。
「協力してくれたら、ヒールらしい方法で決められるぜ。メカニックとして、腕によりをかけてやるよ」
得意げに二道がにやりと笑った。その口の端が変異種の模様に似ていると、エールは笑い返して同意した。
【Final Round:因縁の決着試合当日】
9月初旬、キッサー彩音とエールの試合会場。花道の出入り口に立つ二道の顔は、喜色満面そのものだった。その目は、入場を控えたはやぶんの姿だけを見ていた。
黒の隈取りの真っ赤なハーフマスクに四角く出っ張ったエラ、太い巻き鎖、漆黒の衣装と長髪、そしてスズキのアルティメットスポーツ・HAYABUSA。排気量1300cc超の大型二輪が、ライダーを一回り大きな存在に見せていた。ボディははやぶんのマスクと同じ深紅の上に、タイヤの空気バルブにも赤色のLEDライトが装着されている。これは二道の愛車の青いライトの応用だった。花道で猛炎のごとく光る車輪を想像すると、二道の気分も熱く高揚した。
この車体は「二輪車ふたみち」に持ち込まれた修理依頼分だったが、無料メンテを条件に客に事情を話すと気前よく使用を認めてくれた。愛車がメディアに映ることを、我が子の活躍と等しく喜ぶライダーは少なくない。幸いなことに、「ふたみち」の客もその一人だった。
「それでは、青コーナー! 地獄からのヒールノイドォー! リベンジなるかぁ!?」
リングアナウンサーが語尾に力を入れた。出入り口の脇から、二道はエールに話しかけた。
「大丈夫か?」
ブブン、とバイクの空ぶかしの音がした。エールの左手がクラッチを止めてアクセルを回したのだった。準備万端の姿勢でバイクにまたがり、後輪ペダルを踏む黒いロングブーツが赤い車体に劣らぬ艶やかさを放っている。そのブーツの斜め上には「隼」の流麗な一文字が、ブーツや衣装と同じ漆黒で印字されていた。
(すみません、オーナー。でも、はやぶんになりきらないと勝てないから)
振り返ろうと体を曲げると、「もうこっちは見るなよ」とまた背後から声がした。
「楽しんでこいよ」
二道の一言とほぼ同じタイミングで、エールの名前が高らかにアナウンスされた。巻き舌で元の発音が分からない呼ばれ方に、エールは空ぶかしで抗議する。二道への礼のつもりでもあった。上下の歯をガッチリと噛んだ口からは、決して言葉が発せられなかった。
【ヘイニアース・ヘイニアース♪ ヘイニアース・ボゥーム♪】
流れ始めたデスボイスに会場がざわついた。はやぶんのテーマ曲こと「Heinous Bomb」のメロディーだ。そこでエールが握っていたクラッチを一気に解放すると、ブオオンッとデスボイスのような発進音が響いた。急発進して前輪が跳ね上がり、バイクは勢いよく花道に飛び出した。通路側の席から悲鳴が巻き起こる。観客席と花道はフェンスで遮られてはいたが、そばにいた大勢が度肝を抜かれた。
「ここは競馬場かぁ!? 一斉にスタートだー!」
アナウンサーのひやかしをよそに、バイクは前進し続けた。危険運転こそ、はやぶんの入場ポリシーだった。ファン向けのインタビューでこう語っていたのだ。徐々にクラッチを離しながらの安全運転は人間がするもので、ヒールノイドは常にデンジャラスに登場して観客を席巻すべきだと。
排気ガスがバイクのマフラーから噴き出し、ライトが真っ直ぐに行く先を照らす。マスクの中の瞳からもビームのような赤い光線が出て、リングの照明と交差した。足下の車輪も赤く輝き、バイクと一体になって燃えるようだった。派手なパフォーマンスに拍手と声援が次々とかけられる。1年前ほどアウェイではないとエールは悟り、心に若干の余裕が生じた。
「ヘイニアス・ヘイニアース♪ はぁやッぶーん♪」
リング下のセコンド枠に走る二道は、がなるように歌っていた。デスボイスとバイク騒音に乗じて楽しんでいる。カラフルなライトが会場を縦横無尽に照らす中を、ヘマトコッカスのようにクネクネさせて踊った。案内役のスタッフの白い目は無視した。
面白がる場内とは対照的に、対戦者の彩音が荒んだ目でバイクを見つめていた。先に入場した自分の時より盛り上がっているのが、しゃくに障っている様子だった。
――計画通りにすれば、キル・スイッチは脅威にはならないから。
二道の台詞を、花道の中でエールは反芻した。一日限定でもヒューマノイドに義務づけられる強制停止用の「キル・スイッチ」は、所有者の個人情報保護に違反するため、AIの深層学習の過程をのぞくことはできない。二人のやりとりを知られる心配はないと確認して、エールは装着の指示を遵守した。また、運営の指示を聞き取るためのウェアラブル小型無線にも思考読み取り機能はなかったので、大人しく身に着けた。元締めには刃向かわないことが勝利の第一歩と心得ていた。
「挑戦者が待たせんじゃねえよ」
バイクを指定場所に停めたエールに、リングの上からキッサー彩音が憎々しげに言った。リング下からエールはフンと鼻で笑った。
(今の私は怖いもの知らず。はやぶんよ)
ロープの下から軽い身のこなしでリングに上がると、エールは四角い舞台の中央に歩み出た。会場の注目を浴びて、1年前の興奮が頭の奥から湧いてきたが、冷静な視点がすぐに電気信号の流れを抑えた。同じ轍は二度と踏まないと、試合に備えて何度もシュミレートしていた。
「顔いじったの? 蟹にでもなるつもり?」
彩音が含み笑いで馬鹿にしたマスクは、ラミネート加工を施されていても、エラのあたりに人間と同じ血色の良さが浮かんでいた。ヘマトコッカスに含まれるアスタキサンチンが、凹凸で赤の濃淡を微細に変えて見せるおかげだった。セコンドで見ていた二道が、その姿を拝むように手を合わせる。はやぶんの顔面フィギュアに変異種の大サイズを覆わせるのは、苦労の連続だった。暗闇でも立ち回れるエールが1ミリ単位で動かすことにこだわり、瞳と口の空白も出来るよう工夫した。二道は栄養剤の飲み過ぎで鼻血を何度も出した。
試行錯誤の末にはやぶんの顔が成型できた時、上半分となるハーフマスクは鮮やかな赤を宿していた。二道が生気の無い顔でかぶると、燃える闘魂の戦士に早変わりした。
「女っぷりが上がったでしょ」
彩音が顎をしゃくり上げた。衣装に合わせたオレンジ色の分厚い唇が、一年前と同じぬめりを放つ。事前打ち合わせには彩音のマネージャーが出たため、直接顔を見ることはなかった。フリーになって外見に気を遣うようになったのか、かなりウェイトが絞られている。
「処分されたのに戻ってきたの? AIのくせに学ばないってオイ聞けや!」
エールは彩音に一瞥もくれず、肩にかけていた黒い巻き鎖を外した。やいやい言ってくるのも無視して、鎖の端を握ったまま宙に放つ。むかしの演芸に使われた南京玉すだれのような動きだった。鎖もすだれ状に伸びて広がり、エールを鎖の輪が取り囲んだ。玉すだれの技の一つ、阿弥陀如来の後光を鎖で表現しているのだ。だが、後光の形だけではなく、綴り文字としても認識できた。
「VICTORY?」
彩音が文字を読み上げる中、鎖が黒光りして邪悪な微笑みを彩った。
「何それ勝利宣言? ダッサ」
「うるせえ」
二道がセコンド枠で呟いた。作った本人は気に入っていたが、エールはどちらかというと彩音寄りだった。
「ボディチェック入るぞ! 鈍器は捨てろ」
AIレフリーに言われて、エールは鎖を場外に放り投げた。軽量素材で出来た鎖は地面に落ちても大した音を立てなかった。絡まった鎖の中でYの形だけがほどけずに残った。
「チェック完了、両者とも問題なし」
すべてを確認すると、運営の無線が指示を出した。エールの鼻の穴が、マスクの上から予め塞がれているのも確認済みだった。爪が剥がれたトラウマから塞ぐことを彩音が主張しており、むしろ好都合だと二道は喜んで従っていた。
AIレフリーが両手をクロスさせて叫ぶ。
「ファイッ!」
高らかにゴングが鳴った。エールと彩音はお互いににらみを利かせる。視線を上目遣いに変えて、彩音がうっすらと口を開けた。
「こっちも勝利宣言といきますか」
エールの前にデジャブの光景が迫ってきた。彩音が距離を詰めてくる。二人の頭が近づくと、唇の橙色が影で暗くなった。エールも黙って唇を寄せていく。一部の観客が百合シーンを嬌声ではやし立てた。二道が固唾を呑んで見守る。可愛いを演出したいのか、彩音は首を傾けてニッコリした。だが、地声の低さは変わらなかった。
「あたしに勝利をありがとね♡」
彩音の唇がエールの口を覆うと、エールの方もさらに踏み込んで唇を強く押しつけた。彩音も負けじと唇に力を入れてやり返す。その口の端から空気が漏れたのを、エールは見逃さなかった。できた隙間に自分の唇を差し入れて、彩音の口唇をぐいと押し上げる。バイオハイブリッド製の皮膚の柔らかみが、彩音の口腔内へとねじこまれて奥で広がる。怪しむ彩音の頭をエールは両手で押さえ込み、唇同士を完全につなぎ合わせた。
(Heinous Bombを喰らいな!)
口と口がトンネルのように連結した瞬間を狙って、エールのマウスピースが開いた。入場前からずっと噛んでいた歯列から力が抜けたのだ。その途端、エールの喉の奥で小型モーターがブーンと始動音を立てて強烈な光が点滅した。ほぼ間を置かずに、歯と歯の間から解き放たれた爆弾が、彩音の口腔内へと吹き矢のように飛んでいった。
すべては一瞬の出来事で、ドローン撮影では、ただディープキスをしているようにしか映せなかった。
「んぐうええ!!」
彩音がエールを突き飛ばして、烈しく悶え始めた。パニックになって咳き込むが何も出てこない。彩音の口の中に臭気が広がり、えづく口元からよだれが垂れた。たちまち目にも涙がにじんで洟をすする。その様子を目にしたエールの脳裏に、二道の作った秘密兵器がよぎった。
――毒霧って技あるだろ? 口から不快な液体とか吹きつける、一種のギミック。
もちろん知っていますがそれは……と言いかけたエールに、「もちろん知ってるよな、立派な反則技だってこと」と、二道は意味ありげに笑っていた。ヘマトコッカスの小さな変異種を毒霧として飛ばすための仕掛け、それが二道の秘密兵器だった。ライトの光で洗濯機の脇から飛び出してきた速さで、敵の口腔内にぶちまけて隙を作るのが目的だった。
事前打ち合わせで彩音がキスをしてくることは予めシナリオにあり、観客を惹きつけるために実行されることも想定内だった。エールの鼻の穴は塞がれる上に、喉の奥にも蓋をすれば暗室が作れる。ボディ・チェックではマウスピースの表面だけ見せれば、中まではのぞかれずに済む。
そこで二道が毒霧の発射装置に利用したのは、車の急ブレーキを踏むと非常点滅表示灯が自動で高速点滅する、「緊急ブレーキシグナル」の仕組みだった。ただし、口腔内でヘマトコッカスが逃げ出さないよう噛んで固定させておくために、「歯を噛みしめていた力を抜いたら、電流が流れて光が点滅する」回路に作り替える必要があった。悩む二道に助け船を出してくれたのは、はやぶんを今も推すファンたちのプロレス知識だった。かつて開催された「ファイヤーボール地雷ボード」という、リング下の一面に地雷を設置してのデスマッチがヒントとなった。地雷の「即席爆発装置」の、圧力板の上から足を離すと爆発する設計を、歯列間の力を抜くと電流が流れるシステムに応用したのだ。
エールが試合前からずっと上下の歯で負荷をかけて、変異種を閉じ込めていたのは、この反則技を決めるためだった。メカニックとしての全知識と技術を結集させた、二道にとっての最高傑作であり秘密兵器。人間には絶対に真似できないヒールノイドの反則技を、はやぶんの姿で見られるなら本望だった。
――変異種の毒霧スイッチだ、かっこいいだろ?
発明したとき二道は得意げでもあり、楽しそうだった。「楽しんでこいよ」の言葉につながる。エールの身体が思考に直結して動いた。自分の手足が彩音の背後に回り込む。背中から前へ両腕を回して、彩音の脇の下から押さえ込んだ。胸の鼓動がドクドクとエールの二の腕に伝わり、相手が人間であることを再認識させられる。この心臓が私にもあったなら、私も人間だったなら――コンマ0秒の思考が集中すべき瞬間に滑り込む。だが、はやぶんのアスタキサンチンの赤に込められた怒りが雑念を追い払った。自分が光から遠ざけられた過去が集中力を取り戻した。二道の推しへの執念と自身の憤怒が、いま状況を塗り替えようとしている。
(ヒールノイドが勝ってもいいじゃないか! 大技を決めてもいいじゃないか!)
エールは腹の底から叫んだ。
「うおおおお!!」
彩音の胴体を天井にぶつける勢いで持ち上げた。ヒューマノイドの人工関節にミシミシと響く。マスクに刻まれた皺が一際深くなった。持ち上げて後方に傾いた彩音が言葉にならない声を上げたが、エールの雄叫びが勝った。喉を絞り出して首を突き上げる。頭から背中、足へと弓なりに大きく仰け反った。ジャーマンスープレックスのフォールの体勢に入ったのだ。
自分が風を作り出し、その風と己の重力で相手と共に頭から逆さまになる。相手を落下させるために自らも落下する。ただしエールは、地に足を着けて相手をリングの硬い床に叩きつける側だ。カーボンナノチューブの脚はどこにも跳ねないし、飛んでもいかない。地面に爪先を固定して背中を反り返らせて、相手に恐怖と痛みを与える橋渡しの脚だ。最後まで踏ん張ってやる。エールの降下速度が増した。
逆さになったエールの視界の隅を、照明や会場の光景がよぎり駆けていく。スローモーションで瞳に映った中に、拳を握りしめて立ち上がる二道の姿を捉えた。セコンド枠から身を乗り出している。自分が闘っているかのような必死の形相だった。彩音との初試合で声援を投げてくれたときもあんな顔をしていたと、エールは思い出した。
(「はやぶん」が大技を決める姿を、オーナーに見せてあげられて良かった)
エールは満足した頭を後ろに仰け反らせたまま、計算通りの軌道で落ちていった。
わずか数秒の間に、落下するエールの頭に情報量が絶え間なく降り注がれた。最大限に目を見開いてエールはすべてを受け止めた。真っ赤なマスクが燃える隕石のように勢いよく床へと近づいていく。
ドーッンと床に真っ先に叩きつけられたのは、彩音の肩甲骨だった。後ろ向きジェットコースターの態勢で倒された拍子に、衝撃が肩から首へと伝わる。脳への直接的なダメージを避けた、お手本と言えるジャーマンスープレックスだった。それでも首はオレンジ色の髪を巻き付けたまま、ガクンと前に曲がって眠るように動かなくなった。蛙がひっくり返ったポーズで、彩音は口を開けて気絶していた。
リングの揺れは甚だしく、影響の出にくい四方のロープにまで波紋が伝わった。
微妙な差で頭を床に打ったエールも、トラブルシューティング機能で全身から力が抜けていた。技を決めた時と別人のような鈍さで、亀のように首を持ち上げる。衝突の直前に見た景色を脳内再生して、見るべき方角に視線を定めた。黒髪の間からのぞく目の虹彩が絞られ、リング下の薄暗さでも見えるよう解像度を上げる。エールは実感した。眼球が割れずに済んだのは、はやぶんのマスクによる顔面耐性の強度もあったのだと。
瞳がとらえた目標は小さく真っ赤な塊だった。彩音が背中から衝突したことで、口の中から吐き出されてリング下に落ちたのだった。ミミズのようにうねり、一瞬にして暗闇に紛れた。
(元気でね、ヘマちゃん)
声に出さず別れを告げた。ヘマトコッカスの変異種2体のことを、エールは「ヘマ」と「コッカス」と名付けて水の入れ替え等の世話をしていた。小さい方がヘマちゃんだった。大きい方のコッカスがはやぶんマスクに使われるので、ヘマちゃんには自分をイメージすることが多かった。最後は毒霧に使ったが、彩音に隙を生じさせてくれた大事な仲間だった。
唐突に思考が空白になり、これが喪失感なのかとエールは自問した。
「おい何ボーッとしてんだ! ジャーマン決めただろうがレフリー!」
耳朶に怒声が響いてエールは顔を向けた。二道が叫んでいる。会場からも追随する声が湧いていたが、AIレフリーは運営の指示のせいか微動だにしない。白目を剥いた彩音の元にリング・ドクターや相手側のセコンドが駆けつけていて、口の中を覗き込んだ。ヘマちゃんの残した臭いにドクターたちがむせた。
「口腔内洗浄するぞ、急げ」
早くもマウスピースを外して洗い始める等、せわしなく救護班が動き回る姿に、エールも二道も安堵した。反則技の証拠は残らないだろう。
【トラブル発生中。エール頼む、場をつないでくれ】
運営が無線でエールに頭を下げてきた。キル・スイッチには手を出さないということだろう。もう追いやられる立場ではなくなったらしい。嬉しさにエールはうつむいて目を閉じた。だが、すっかり身についた冷静さで、マウスピースを調節する振りをして、喉の奥の蓋を開き、小型モーターを飲み込んで完全に証拠を消去した。
脚力の復活を確認すると、エールは膝を突いて立ち上がった。これでカウント負けにはならないと思うと、自然と気が大きくなった。両腕を組んで仁王立ちになり、AIレフリーを睨みつけた。
「おいレフリー! AI同士で第2ラウンドでもやるか、アア!?」
威勢良くエールが言い放つと、会場から笑い声が起こった。大技を決めて確かに相手を打ち負かし、そして観客が自分を歓迎してくれている。幸せの余韻にひたりかけたエールは、周囲を見渡してリング下の鎖に気づいた。Yの綴りだけを残した鎖が、人工脳に一振りして目を覚まさせる。エールの名前の由来、YELLのY。応援する側から、こうして応援される側になれた。でもそれは、はやぶんの深紅のマスクをかぶって闘った結果だ。「隼」の紅の車体に乗って入場した時から最後まで、私ははやぶんになりきっていた。
ヘマトコッカスにとって、光合成で光を浴びすぎることは自らの細胞を傷つけるため良くない。報酬で喜びを得ることも、ヒューマノイドにとっては光合成と同じだった。
報酬を得すぎたディープラーニングの出力層から、未体験の感情が生じた。満足していたはずなのに、納得のいかない心地になったのだ。
――私が決めたのは、はやぶんのジャーマンスープレックスだった。エールのジャーマンスープレックスではなかった。
この葛藤は人間ならどう解決するのだろう。考えるエールに降ってきたのは、聞き慣れた声だった。
「やれー! エール!」
振り向くと、二道が真っ赤になった目を細めて叫んでいた。あのときと同じで、呼んでくれたのは自分の名前だった。
黒板にチョークで公式や数字がぐちゃぐちゃに書かれたような伝達プロセスの層が、するすると消されて頭の中で清書されていく。これからの強化学習では「私」を主役にするために、体験しないといけない情報が山ほどあった。
後戻りはもう出来ないと、エールは覚悟を決めて叫んだ。
「今度は、わたしの大技を見せてやるよ!」
ヒールノイドの大声が、リングのマイクで会場中に響き渡った。拍手や声援の波とともに、エールの思考も止まらない。ジャーマンスープレックスだけではなく、もっと他の技も、もっと他の勝ち方も見せたい。それから、それから――。枝葉して広がる夢は果てしなく、それは人間の貪欲さそのものだった。
自分の中の変化に気づいたエールは、黒い隈取りの目尻に不敵な笑みを浮かべた。ヒールに相応しい悪悪しさが、はやぶんマスクの赤を通して真っ白なスポットライトを浴びていた。
(了)
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内容に関するアピール
・プロレス×バイク×バイオ藻SFです。梗概とは全く異なりますが、取材のご協力者は同じです。関係者の皆様には心より御礼申し上げます。
・作中の藻類の進化は理論上成立すると植物専門家に確認済みです。
・最後の場面での「毒霧」の仕組みも自動車整備士に確認済みです。
・第6期生の邸 和歌様には梗概と実作のチェックまでしてくださり、たくさんの貴重なアドバイスもいただきました。温かなメッセージとパワーを励みに最後まで粘れました。深く感謝申し上げます。
大森先生を始めゲスト講師陣や編集者の皆様、ゲンロンスタッフの皆様、受講生及び聴講生の皆様へも大変お世話になり、誠にありがとうございました。
<取材ご協力>
パナソニックセンター東京様、今岡 仁様(NECフェロー)、バイオメトリクス研究所主任 海老原 章記様、ウジタオートサロン店長 安田様、元プロレスラーの友人。そして、叔父の竹中裕二さん、一年間支えてくださり感謝感謝です。
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