アザミが枯れたときにはこのまま寒い冬が続くと思っていた

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アザミが枯れたときにはこのまま寒い冬が続くと思っていた

 夏がはじまってからリビングで黒い虫が飛びかうようになった。ゴマ粒くらいの小さな虫だった。はじめは二、三匹飛んでいる姿が視界に入ってくる程度で、蚊かコバエだろうと思っていたけれど、数日後には行きかう虫の数があきらかに増えてきたので、この虫なんだろうねと拓海にきいた。拓海はスマホをみつめながら、「ドライフラワーのアザミ?」と言った。ゴールデンウィークに訪れたカフェで買ったアザミのブーケは、リビングのウォールフックにかけられていた。
 顔を近づけてブーケのなかをよく見てみると、黒い粒が何匹もうごめいているのがわかった。虫が嫌いだったはずなのに、不思議とその虫には嫌悪感を抱かなかった。虫はシバンムシという名だった。画像検索をすると、ティッシュでまさに今潰した虫が画面に映しだされていた。
 「シバンムシは、一般的に古くなった乾燥食品全般にわくことで知られていますだって。たぷんこれだと思うけど、拓海はこの虫の名前を知ってたの?」
 「部屋 小さい 黒い虫 どこから で検索した。」
 シバンムシはリビングのいたるところにわいていた。白い壁を好むのか、天井や本棚横の壁に黒い点々がついており、チェストに飾っていたぬいぐるみの足には、十匹ほどの死骸が食い込んでいた。たった数日でも数十匹の虫たちと共同生活をしていたと思うと、自分が人間と虫のあいだの存在のような気がして、皮膚のなかがぞわぞわとした。
 「このアザミは、もうだめだね。捨てよっか。」
 キッチンから生ごみ用の大きなビニール袋を持ってきて、ブーケに手を伸ばしている拓海の前に広げた。拓海はウォールフックからブーケをとりはずして、枯れた花たちがくずれないように、袋のなかにそっと入れた。
 「杏奈ちゃん、このブーケ気に入っていたのにね。」
 「いいよ。卵とか産みつけられたらかなわないし、また行ったときに買えばいいじゃん。」
 部屋じゅうに殺虫剤をまいて、どこからか落ちてくるシバンムシの死骸を拾い集めた。それに一時間くらいかけた後、仕上げに部屋全体を掃除機がけした。拓海は、すぐこのゴミ捨てちゃおうと言ったので、マンションのエントランス横のゴミ置き場にふたりで向かった。エレベーターの空調は冷房ではなく送風設定でちっとも涼しくなく、熱風で息がつまりそうだった。
 「あの虫はね、なんか無害な感じがするんだよね。」
 「どういうこと?」
 「飛び方とかがなんていうか間抜けなの。まっすぐ飛んでいてアニメっぽい。」
 拓海はときどきよくわからない喩えをする。拓海以外の人間が八パーセントくらいしか、その真意を理解することができない喩え。
 「つまり、飛ぶ効果音がついちゃってる感じの?」
 「そう、そんな感じ。」
 「でも害はあるよ? 乾物を食べちゃうからね。」
 エレベーターの開ボタンを抑えながら拓海は、無害な虫を殺さなきゃいけないのはなぁと、つぶやいて、先に降りるようにうながしてきた。
 部屋に戻った拓海は何ごともなかったように机にすわって、仕事の続きにとりかかった。それからリビングで一時間ほど互いに仕事をした。ダイニングテーブルには母が送ってきた式場のパンフレットが置いてあった。五年にもなるんだから、そろそろいいんじゃない。あんたもいいかげんいい歳でしょ、と母親の口真似をしながら、そんな言い方ないよねと伝えると、拓海はそういう時期かと言って、それ以上話を広げようとしなかったが、食事が終わり、食器を台所に持っていくときに、杏奈ちゃんがよければ顔合わせしようよと言った。
 拓海がいつ寝るのかわからなかった。時計の針が零時をさして、さきに寝るねと言って寝室に入った。拓海がなんの仕事をしていて、どれくらい忙しいのか、五年も一緒にいて、拓海に関することがわからなかった。二時ごろ、拓海は寝室に入ってきて、何も言わずにベッドに入り、たちまち寝息を立てはじめた。

 *

 「この前うちの旦那、熱だしちゃってさ、四十度も。」
 「え、ゆんちゃん? 今は大丈夫なの?」
 「二週間前だからね、いまは元気。ほら聞こえた?」
 「聞こえた聞こえた。元気そう。」
 「いまね、幸樹お風呂いれてくれてたの。ほら、幸樹、髪乾かしてから。そう。でね、三日も寝込んじゃったの。はじめはなんかヤバいやつかって思ったんだけど、医者に見せたらただの風邪って言うからさ、風邪薬で症状治まるまで寝たきりで、ほんとどうなるかと思ったけど、二日目の朝には熱下がって、私も幸樹もなんともなくて、まあ、よかったよね。どっから貰ってきたんだろうって、そこは不安なんだけど。」
 「子どもからうつったとかじゃなくて? インフルエンザもまた流行ってきてるんでしょ。プールで貰ってきたりとか。愛理のところでもそんな話ある?」
 「うちの保育園ではないんやけど、おとなりの保育園ですこしいるみたい。親御さんで熱を出しちゃうひと。でも毎年あるしな。一応インフルエンザと同じで、一週間おやすみ取ってもらうようにしてるって聞いたけど。去年もインフル流行ってたから、それと同じかなって、気軽に流してたけど、もしかしたら違う病気なのかもな。」
 半年ぶりに大学の友人とオンライン通話をした。ふたりとも半年分の年をとった見た目だった。ふたりも他のふたりに対して同じことを思っていると思った。有紀は結婚五年目で三歳の子どもがいる。愛理は卒業後に実家に戻って、ここには出会いがないと悩んでいたのに、あっさりと地元の幼馴染と結婚して、そしてあっさりと離婚した。大学卒業後は月二回会っていたのが一回になり、半年になり、有紀が育休に入ったあたりからオンライン通話になって、いまでは年末や三人の誕生日に話すくらいだった。
 「杏奈は? 最近どうなの。」
 「仕事は順調かな。いそがしいという感覚がなくなってきてからが勝負だからね。」
 「それ凍死手前じゃん。んちがうか、ゆでガエルってやつか。」
 「そうじゃなくて、拓海くんよ。」
 「おいおい、顔固まりすぎやろ。」
 「いや、今度顔合わせしようかってなったんだけどさ。」
 「なんか、嬉しそうじゃないな。」
 「最初はさ、もっと気持ちが高まるかなって思ったんだけど、実際そのときが来るとなんとも、気持ちは上がりも下がりもしないっていうか。」
 「なるほどなー。」
 「まあ、わたしのとこは結構古風だったからさ、あんないわゆるな結婚式だったけど、いまは無理にやらなくてもいいっていうか。」
 「そうそう、ものは試しくらいで考えとき。」
 「愛理がいうと妙な説得力あるな。」
 「いろいろな。うーん、いろいろかあ。」
 幸樹くんと有紀の夫のゆんちゃんが画面に入ってきて、おやすみを言いに来てくれたので、おひらきにすることにした。次回までそれぞれで頑張ろうな、と有紀が手を振っていってくれた。愛理もぶんぶん手をふって、大きくうなずいている。笑って通話を切れるのが嬉しかった。
 暗くなった画面を見つめながら顔合わせで使えそうな店を探そうと、ブラウザを立ち上げて、レストランをいくつかあたっていると、玄関のカギを開ける音がして、何かが倒れる音がそのあとに続いた。あわてて様子を見にいくと、拓海が玄関でへたり込んでいた。
 「拓海どうしたの、大丈夫?」
 火照ったおでこに手をやるため前髪をあげると、すでに熱さましのシートが貼られていた。
 「自分で貼ったの?」
 「帰りに買って貼った。」
 「そうなの。冷静、だね。ほいじゃあ立てるかな。」
 熱を計ると三八度二分だった。汗でびちょびちょになった服を着替えさせて、タオルで体を拭くと拓海はぶるぶると震えたが、自分で買ってきた風邪薬をスポーツドリンクで流し込んで、さっさとベッドに入ってしまった。このまま熱が下がらなかったら、もし、これより熱が上がってしまったどうしよう。ゆんちゃんが夜間病院に行ったという話を思い出して、近所で夜間受付をしている病院を検索して、いくつかの候補があることに安堵した。
 拓海は一リットルのスポーツドリンクとゼリー飲料を六個ほど買ってきていた。それらを冷蔵庫に入れていきながら、なんでもひとりできる拓海をすこし恨めしく思った。それは生きていくうえで必要なことだし、これといって何かをしてあげたいというわけでもないが、出る幕がなさすぎるのも正直どうなのだろう。今夜は別々に寝るようだなと思い、寝室の布団をリビングに移そうとすると、ベッドから拓海のうめく声が聞こえた。
 「どうしたの、どこか痛い?」
 拓海は首をさすって、あついとだけ言った。手をどかすと首筋が黒ずんでいるのが見えた。明かりをつけるとそれは黒色ではなく、緑に近い色だということが分かった。小さな扇形の緑斑があつまって、凹凸もざらざらとした手触りもないけれど、見た目だけは爬虫類の皮膚のように鱗状だった。風邪でこんな痣のようなものができるなんて聞いたことがない。台所に行って、冷蔵庫の扉をあけて、自分はなぜ冷蔵庫をあけたのかと考えて、それから救急車を呼ぶことに決めた。
 「もうすこし待ってね。大丈夫だよ。」
 救急車を待っているあいだ、首もとの熱を帯びている緑斑に水で冷やしたタオルをあてた。正しいのかわからなかったが、拓海がやめてと言わなかったので、続けた。十分ほどで救急車が到着して、五キロ先の病院に搬送された。医師は拓海の首元を見て、すぐに隔離病棟への移送を指示した。
 「同様の症状をもつ患者が増えているんです。高熱がでて速い方では数時間後から、首筋や手首に斑がでてきます。大きさや形はさまざまなんですが、美丘さんのように鱗のように広がる方もいますね。」
 何それと思った。拓海が鱗につつまれている姿を想像する。拓海はもしかしたら喜ぶ気もするが、あのまま首に残ってしまうなら服で隠すことはできないだろう。
 「そんな症状きいたことないです。原因はなんなのでしょうか。何かの毒だったりするのでしょうか。」
 「詳しいことは検査の結果をお待ちいただくしか。」
 「それまでは。」
 「美丘さんには入院していただくことになります。お疲れのところすみませんが、松井さんも検査入院にご協力をいただきたいのですが、かまいませんか。詳しい手続きを担当の看護師よりご説明しますので。」
 防護服に身をつつんだ看護婦が待合室にやってきて、入院費や病院着などの備品を用意する必要はなく、入院費とあわせて国から支給されるとつげてきた。その代わり、今日中に入院をしてほしいということだった。それから延々と病院内の案内や食事や採血の説明が続き、終わると、隔離病棟へ案内をされた。拓海の病室は教えてもらえなかった。これから一週間、もしかしたら十日とか二週間ものあいだ、拓海と離れて眠ることになる。それは同棲をしてはじめてのことだった。そう思うと急に拓海の顔を忘れてしまう気がした。

 *

 最初は高熱で自分の嗅覚がおかしくなったのだと思った。有紀の身体から今までしなかった匂いがしている。幸い形容しがたい匂いではなくて、嗅いだことのある匂い。半年前に旅行先で有紀が買ったオイルの匂いに似ていた。有紀は香りのするものをあまり身につけないが、そのオイルだけはいたく香りを気に入って、寝るまえに少量つけることがあった。風呂に入れば消えてしまうような、かすかな香りで、手を近づけてもらわなければ、こちらまで香ることはなかった。
 「有紀、今日なんかつけてる?」
 「え、匂いする?」
 有紀は手首を自分の鼻に近づけた。
 「なんもしないよ。幸樹する?」
 幸樹は母親の手首をちいさな手でつかんで嗅いだ。
 「なんかする。」
 「いつも寝るときにつけてる香水あったでしょ。あれと同じ匂いがしている。」
 うそでしょと言いながら、洗面台の箱からとってきたオイルの蓋をとって、有紀はその匂いをかいだ。
 「この匂い?」
 「近いけどちょっと違う。けど大体この匂い。」
 「このにおいー!」
 「ピ、カケ、花の香りだって。なんかいやだな。自分じゃわかんないよ。結構匂い強め?」
 「それほどでもないよ。近づいたら匂いするなってくらい。」
 「昨日の撮影かな。スーツケースの周りにいろんな品種の花をかざりながら撮ったから。だったら今日までしちゃうかも。ごめんね。ていうか、ゆんちゃん、もう時間だよ。」
 幸樹を幼稚園に送り届けてから駅前の駐輪場に自転車を停めた。ホームで何本か電車を見送って、駅始発の列車の二両目に乗り込んで座った。スマホで朝の会議資料に目をとおしているとニュースアプリの通知があった。〈――で発見されたウイルス国内初の感染者。〉
 感染者という文字で、入社したてのころに流行ったコロナウイルスの記憶がぼんやりと思いだされた。あの時は、何か月もリモートワークになったし、旅行にも長らくいけなかった。
 記事によると、ウイルスの感染力はさだかではなく、罹患した場合は高熱、吐き気、めまい、動悸などの症状にくわえて、首や手首に緑色の斑があらわれると書かれていた。二週間前に熱をだしたとき緑斑はあらわれなかったので、自分がかかったのはこのウイルスではないと安心した。しかしあれだけの高熱を出したのに、病名のつかないただの風邪とは、すこし損をした気分だ。どんなウイルスなのか。感染はどれくらい広まっているのか。子どもが感染したらどうなるのだろうか。疑問が次から次へと浮かんできた。一刻も早く対策をしなくてはと思い、まずは、ウイルスの名前を調べようと思ったが、チームのグループチャットにコメントが入ったので、そちらを先に片付けることにした。
 「杉山さん、このニュース知ってます? ルーンウイルスっていうやつ。」
 「まだよく知らないな。」
 休憩のときに、部下の山下がスマホの画面を見せてきた。
 「先月からじわじわ広がっているウイルスはこれみたいです。緑色の斑点ができるやつ。気味悪いっすよね。」
 「子どものあいだで流行らないといいんだけどね。感染経路って、やっぱ飛沫感染?」
 「どうなんですかね。普通に考えたら咳とかでうつるんじゃないですか。あ、でも咳やくしゃみはあまり出ないって書いてありますね。」
 ルーンウイルスと検索ボックスにいれると、サジェストで葉緑体とでてくる。検索結果には槍のような形をしたウイルスの画像が表示された。
 「感染源ってわかっているの?」
 「緑色の斑点ができるから植物じゃないかとか、蜂とか蚊のような虫が媒介しているって説もあるみたいです。緑の部分は葉緑素だとか、陰謀論じゃあるまいし、それはないかなって感じですよね。」
 山下はひらひらと笑って、二本目に火をつけた。
 「かかったひと周りにいる?」
 「僕の周りでは聞かないですね。これから増えていくのかもしれないですけど。緑の跡が残ったらいやだし、いま忙しいし、絶対かかりたくないですね。」
 昼休みの終わりにトイレに行って、首のうしろに緑斑がないかを見ようとしたが、どんなに腰をひねってもよく見えなかった。スマホを使うことも考えたが、不審に思われる気がしてやめた。
 オフィスに戻ると、午前の稟議が通ったと連絡があり、さっそく見積もりに取り掛からなければいけなかった。その日は、終業まで一日中忙しかった。十八時になったことに気づくのも遅れて、あわててかたづけて、幸樹を迎えにいって、帰宅した。
 「早かったね。」
 九時をすぎるはずだと言っていたのに、有紀がすでに家に帰ってきていた。
 「巻きに巻いたのよ。あんまり使えないカットばっかりだったから、ばっさり切っちゃった。ご飯簡単なのだけど作っちゃったからたべよ。ねぇ幸樹、てて洗った?」
 朝、有紀から香った匂いはもうしなかった。今日は花を使わない撮影だったのかもしれない。あれは香水で香る匂いとは違う、すこし土のような匂いが混じっていて、花束というより、道端に植わる木のまえを通りすぎたような匂いだった。ピカケという花を調べると、ジャスミンに似た白い花が画面に映しだされた。またいつか嗅いでみたくなったときのために有紀の香水のメーカーを調べてひとつ注文をした。
 注文確認の画面を見て、自分が疲れ切っていることに気づき、目をつむった。
 たくさんの夢を見た。買った香水が届き、自分につけているところを有紀に見られて、とっさに瓶を隠した。目を覚ますと、薄暗い部屋にピカケの香りが充満していた。鼻をつくように強く匂っていて、とても不快だった。
 「ねぇ、香水つけすぎだよ。」
 「だから、何もつけてないってば。幸樹も今日は匂いしないって。」
 しないよ、と幸樹は大きな声で答えた。自分の身体から匂っているのだろうかと思って、Tシャツの襟をひっぱって匂いをかいだ。自分の汗のにおいがした。テレビ番組では、ルーンウイルスの感染力はインフルエンザの半分以下だと報道されていた。風邪をひくと味覚や嗅覚が機能しなくなることがある。匂っていない匂いがするのだって、機能不全の一種と言えばそうだ。「ルーンウイルス 匂い」と検索すると、鼻づまりによって嗅覚の一部が一時的に機能しなくなるとだけ記されていた。それ以上家にいるのがいやになった。支度を適当にすませて家をでることにした。

 電車もオフィスのなかも花の匂いはしなかった。いつもとかわらない、陽に干された絨毯の匂いがする。
汗だくのまま席について、ジャケットをぬいで裏返しにしてから背もたれにかけた。デスクにおいたミニ扇風機の電源をつけて、首とひたいの汗をふいた。
 なぜ有紀は、匂いを放つようになってしまったのだろうか。ふつうに考えれば、前に自分がかかった風邪は実はルーンウイルスで、その後遺症で鼻がおかしくなってしまっていて、匂わないはずの匂いを嗅いでしまっていると考えるのが筋だと思う。幸樹が一度匂ったのも、感染していたということなのかもしれない。それに、幸樹だったら、匂いがしないのに、すると言った可能性だってある。でも、もっと不可解なのは、なぜ、有紀の匂いが不快なのかということだった。似たような匂いの香水も不快に感じるのだろうか。昨晩、注文していた香水が届いていたことを思いだした。包みをあけて、こっそり手首にぬった。人工的な香料ではなくて、天然の素材でつくられているはずだが、有紀から発せられている匂いのような不快さは感じない。
 「杉山さん、おはようございます。出社後いきなりで恐縮なんですけど、新店で使う照明、東工さんのところに行って、直接見てきてほしいって、部長がおっしゃってます。」
 「どうして? いつもと同じ型を使うんじゃなかったっけ。」
 「フレームの素材が変わるみたいで、マットな塗装だとは思うんですけど、安っぽくないか心配みたいで。本当は山下さんが担当なんで行ってほしいですけど、彼、今日からお休みみたいで。私は壁紙の確認に行かないといけなくて。なんで、お手数なんですけれど。」
 「いいよ、テーブルセットも見にいくつもりだったから、合わせて見ておくだけなんで。それより、山下って、なんで休みなの?」
 「あー、山下さん、なんていうか、あんまり言うなって、言われてるんですけど、奥さんが例のウイルスにかかってしまったみたいです。そこまで症状は重たくないみたいなんですけど、あれにかかると接触者は、一週間くらい隔離になっちゃうみたいで。」
 北条里美は伝達事項に漏れがないか、最新のメールボックスを確認している。その横顔は茶室の土壁のようだった。触るとつめたくて、温度と湿度を保つ、音がこもってくぐもっていて、間違って手をぶつけると、すりむいてしまうことがあるあの土壁。
 「杉山さん、いま全社メールって見れます? これだと、東工さんのところ行かなくても、リモートでいいかもですね。」
 社員全員に宛てたメールには、ルーンウイルスについて、当社は原則出社の方針だが、家族に症状が出た場合は、リモートワークを行ってもよい。ただし取引先への訪問は念のため、九月までは様子を見るようにと書かれている。WHOは、ルーンウイルスをパンデミックに位置付けていない。国からの緊急勧告もない。
 「正直さわぐほどのものじゃないんでしょうね。緑の痣が残る人もいるから、最初は怖がられていましたけど。」
 「だろうね。痣がでちゃうのって、少人数なんでしょ。」
 「みたいですね。まあむかしみたいな自粛ムードはなさそうで、安心しましたけど。」
 「俺はけっこう快適だったけどね、リモート。」
 「っていうひと多いですよね。わたしは結構食べ歩くの好きなんで、ご飯食べるとこなくて困りましたけどね。特に週末とか。」
 ネット上では、過去の自粛期間に培われたさまざまな知見が話題になっていた。ワクチンができあがるまでの期間は一年程度であり、ウイルスはだいたい二年程度で感染威力がおさまること。感染を広めないためには、手洗いうがいという古典的な手段が、いまもなお効果的であること。緊急事態とはいえ、営業する居酒屋は必ずでてくることなど。
 「副作用として生じる緑もしくは褐色の斑からは光合成色素が検出され、患者の合意を得て採取した細胞からは、葉緑体DNAが確認された。局部に日光をあてると二酸化炭素濃度が下降し、かわりに酸素濃度が上昇する。血中の血糖値上昇も確認された。」
 「これ、もはや人間じゃないってことじゃないですか。半分植物ですよね。」
 「光を浴びれば空腹がやわらぎ、かわりに眠気がおとずれることも報告されているって書かれている。」
 「それ、なんかまずいサイトなんじゃないですか。」
 「いちおう、これは厚労省の発表みたい。」
 スマホを北条に見せようとして、膝がデスクにぶつかった。デスクにおいてあった香水の瓶がわずかな振動でころがって、床に落ち、北条がそれを拾ってくれた。
 「きれいな瓶ですね。お土産かなにかですか?」
 瓶をうけとりながら、他の人間がこの匂いをどう感じるのかと思った。いい匂いと感じるのだろうか。これは製品なのだから、いい匂いなのは当たり前か。でも本当に知りたいのは、有紀から発せられる匂いを自分以外の誰かが嗅ぎとることができるのか、そしてその匂いを不快と感じるのか。
 「今度の店のエントランスの香りにどうかなって思って。ハワイでたまたま買ったんだけど、匂いもそこまで癖がないし、空間の雰囲気にちょうどあってるかなって。よかったら、ちょっと試してみてくれない。」
 ティッシュを四つ折りにして、香水をふりかけたものを北条に差しだした。北条は、鼻をすこしだけ近づけて、すぐに離した。
 「どうだろう、ホテルとかだったらいいかもしれないですけど、今度のは、ワークスペースも兼ねてるんで、これだとほんのすこしだけ主張がつよいかもですね。個人的には好きな匂いなんですけど。私もじつはいろいろ探していて、見繕ったものをあとで杉山さんあてに送っときますよ。」
 「そっか、たしかに微妙に合わないかもね。ありがとう、助かるよ。」
 部長が会議から戻ってきたのを横目でみた北条はスマホを触る手をとめて、一礼をしてから自席に戻っていった。北条から受け取ったティッシュをちいさく折りたたんで、自販機横のゴミ箱に捨てた。

 *
  
 入院中は部屋からでることを許されなかった。熱もないのに、一日中ベッドしかない部屋にいるのも疲れてくる。入院した次の日から三日続けて雨がふって、部屋のカーテンは閉めきられていた状態だったが、四日目に晴れたので、朝カーテンを開けてみると、中庭を取り囲むように病棟が建っていることがわかった。よく病院が舞台のドラマを見ていると、日差しが病棟に入って、白ばっかりの部屋がさらに白ばっかりになってしまうシーンがある。それはだいたい何か人の居なくなる気配と結びついているような気がする。でも実際には、中庭にはベンチや花壇があって、人が日向を求めてやってきていて、むしろ生命的な感じがする。窓を開けて、外の空気を味わった。風がつよく、まだ陽が昇りきらない時間の土の濡れた香りが、部屋中に広がった。
 風といっしょに昇ってきたのは、土の香りだけではなかった。太い羽音と黒い影が顔をめがけてやってきたので、とっさに目をつむった。ブンブンと部屋中を飛び回り、そのブンブンは、一匹から二匹、三匹とまたたく間にふえていった。蛍光灯やカーテンレールにぶつかっても勢いは落ちずに、飛び回っている。おそらくそれは、みつばちだった。ふえていくのがこわくなって、いそいで窓を閉めた。病室の入口を開けておけばでていくだろうと思ったが、いつまでたっても外にでて行かず、みつばちは、こちらにむかってきて、はらってもはらっても、三匹は腕や髪の毛にまとわりついた。
 「あらあら、窓あけちゃったの。最初に説明されませんでした? 虫が入ってきちゃうから、あけちゃだめって。」
 朝の血圧を測りにきた看護師だった。
 「そうなんですか、すみません。この辺りって、虫が多いんですか?」
 「いえいえ、そういうわけじゃないんだけど。まあね、まだ調査結果がでているわけじゃないし、調査結果がでていたとしても、私の口から言えないのよ。」
 ふに落ちない顔をしていたのか、看護師は笑ってこう言った。
 「じゃあこんな話はどうでしょう。この隔離病棟付近にこんなに虫はいなかったと思うな。ついこの半年まえまでは、特に夏なんて、虫も暑くてうごきませんよ。もっといなかったのは、病室に入ってくる虫たちね。それにも法則があるの。虫たちはかならず患者がいるところにやってくるの。不思議よね。普通は虫って、人間にいかに会わないかを考えている気がしない?」
 血圧を手早く測り終えて、看護師はさっそうと次の病室へ移動していった。みつばちたちは、まだ周りをブンブンと飛んでいる。たしかにそうだ。まるで、人に引き寄せられるように虫たちが集まってきているのかもしれない。感染症が影響しているのだろうか。でも、検査はずっと陰性だったはずだ。みつばちは、手の指にとまって、そこからソロソロと腕をつたってきた。刺すこともなく、ただまとわりついているだけだった。
 窓の外をみると、陽はすっかり昇っていて、先ほどは反射して見えなかった対岸の窓ガラスのなかがよく見えた。ひと窓おきに窓が開けられていて、ところどころ外をながめている患者がいる。
 「あ、拓海だ。」
 拓海は、窓のへりに腕を乗せて、空をぼーっと眺めている。首もとの斑は、数日前は正面からみても見えなかったのに、いまは、首の全面まで緑色になっている。このまま全身緑になっちゃうのかしら。たーくみー。窓を開けて手を振ってみた。拓海はどこから呼ばれているかわからなくてキョロキョロしていて、あまりにも気づかないから、もう一度、さっきよりも大きな声で呼んだ。やっとこちらに気づいた拓海はピョンピョンと跳ねて、あんなちゃーん、と名前を呼んできた。虫たちがどんどん上に上がってきていて、壁をみると、地面から窓まで一直線に、黒々とした虫の道ができ始めていた。みつばちたちは、髪や腕に蜜をだしていた。ここを巣とでも思っているのか、五分もすると、体中が蜜でベトベトになった。
 腹がからっぽになったみつばちたちは、今度は拓海の方へ飛んでいった。拓海と虫たちとで、結ばれる三角形が、なんとも滑稽だった。さすがにこれ以上、虫を病室にいれると怒られそうだったので、窓を閉めることにした。けれど、怒られればその分、退院日程が早まる気もして、ほんの一瞬だけ、逡巡した。
 
 *
  
 新店のオープンは入居先との協議で二か月延長することが決まった。ネットニュースのコメント欄では、ルーンウイルスは感染力が低いことにくわえて、二日ほど高熱が出たあとは重症化することもなく、治りが早いと記されていた。感染経験者からはインフルエンザやコロナの方が辛いという声も多くでた。
 緑斑が生じる確率は三割を下まわっているし、草や根っこが生えるわけでもないし、通常の食事をとらずに生活できるわけでもなく、多少眠気が生じやすくなるくらいの後遺症で、二か月もすればそれすらもなくなる。緑斑は、いわばやけどのようなものという見解が厚生省から発表された。一年ほどで、緑斑は消えていく可能性があるともいわれた。真偽は定かではないが、患者の緑斑を経過観察していると、発症から半年を過ぎたあたりから、急速に色素がうすくなってくるという。オンライン会議のウィンドウの下に、厚生省の報告に添付されている、色素の経過写真が見えていた。
 「杉山さんって、ご自宅ですか。」
 「うちのマンションに自習スペースがあって、そこでやってるんです。佐々岡さんは、冷房きつかったりするんですか。しっかり着こんでいるから。」
 「まあ倉庫はどこもそんな感じです。アンティークもありますし、温度管理とか、しっかりやんなくちゃいけないんですよ。」
 緑斑は人によっては模様のように見えることもあって、斑をあえて見せる者もあらわれていた。熱が下がったあと半年ほど、緑斑がでているあいだは休暇申請できる学校や企業もではじめた。ルーンウイルスにかかるとじつは得、という冗談もでてくるいっぽうで、隠したがる人もいた。緑斑があればウイルスが体内に残留していると決めつける人や別の病原菌をよびよせるから不潔だと考える人もいた。
 「ご自宅だとやっぱり打ち合わせしにくいですよね。」
 「そうですね。うちは子どもも家にいますし、個室もないので。あと空調代がかさむのも困りますかね。まあ、出社できるできないは、よしあしですよね。」
 自室にいられなかったのは、有紀とおなじ空間にいるのが耐えられなかったからだった。有紀の匂いを嗅いでいると無性にイライラした。嫌いじゃなかった有紀のしぐさも、高い声にもいちいち気がたってしまうようになった。朝は特に匂うし、それが晴れている陽だとなおさら、東向きのリビングが温まっているからか、強く匂いを放っている。夜になると匂いはおさまっているので、寝室を別にすることはなかったが、有紀に近づきたくないという気持ちは日に日に強くなった。幸樹が匂いを感じたのは、あの一度だけだった。数か月前にかかった風邪がおそらく原因。嫌になる。
 電話が切れても部屋にもどる気分にはなれなかった。自習室に予約時間を延長して、コンビニで買ってきた弁当をブースのなかで食べながら、スマホに「ルーンウイルス 匂い 後遺症」と打ちこんだ。このワードで一日に何度か検索をするのが、いつのまにか癖になっていた。検索結果をスクロールしていくと、昨日まで見つけられなかったSNSの投稿が表示された。

 @Sence0fL0VE yesterday,22:23
 「大切なひとの匂いが変わったら、後遺症を疑ってください。」
 私たち人間はいま歴史的な岐路に立っています。この先も永劫に生き続けることができるか、それとも互いに争って自滅していくか。TheWorldCouncilは地球が15年と152日で食糧を失うと明言しています。ハーバード大学の生物史学者であるマーティン・コーネルの言葉を引用し、人類を養う地球の能力には限界があると付け加えます。
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 @Sence0fL0VE yesterday,22:51
 地球の人口は2013年比で1.5倍になっています。ウイルスの度々の進化はこの危機に対する生態系規模の対処なのです。過去の惨事を思い起こしてください。自然はわたしたちの命を奪うばかりだったのは、わたしたちが自然を奪い続けたからです。
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 @Sence0fL0VE today,2:17
 ルーンウイルスはわれわれ人類の希望です。葉緑素をこの身に宿し、食物を摂取しなくとも、光エネルギーと空気だけで生きることできるようになれば、わたしたちは食べるために身を粉にして働かなくてもよくなるのです。
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 @Sence0fL0VE 1hour ago
 ともに相手をおもいやり笑顔で過ごせる日がちかづいています。わたしがみなさまに申し上げたいのは、緑斑ができなくとも大丈夫ということ です。身体から発せられている匂いが変わっていたとしたら、それはもう立派に、植物に近づいているということです。
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 @Sence0fL0VE 10minutes ago
ヒトのからだは解明されていないことだらけです。遺伝子情報の書き換えが起きてから、そのあらわれが緑斑にでることが先か、それとも匂いが先か。順番の問題なだけなのです。それともまったくべつの性質が開花するのかもしれません。
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 @Sence0fL0VE 1minutes ago
 自分のからだに目を向けてみてください。真実はおのずと広がってゆきます。

 投稿をすべて信じるにはあまりにも陰謀めいた言いまわしだった。自分が思い描いた仮説がここまで陰謀めいた思考とつながるのかと、あぜんとした。それでも、話をあながち嘘だと感じていないので、しだいに投稿内容が本当のことのように思えてきた。
 打ち合わせを終えて、部屋に帰る途中でロビーの管理室から管理人がでてきた。ゴミ袋を持って、エントランスの観葉植物の根元をのぞきこんでいる。
 「どうかなさったんですか。」
 「いえ、このね、見てくださいよ、ここ。細いのがいるでしょ。ほら、ここにもいる。」
 管理人が指をさす箇所を見ると、ムカデの幼体が、根元の陰から出てきたところだった。じりじりと這って、根元の表から裏へ、行ったり来たりをしている。管理人が霧吹きを吹きかけると、五か所ぐらいから、ムカデがでてきた。
 「これじゃあ、枯れっちゃうかもわかんないね。いまね、仲間に言って、くすり買ってきてもらうように言ったんですよ。」
 「前からこういうことって、ありましたっけ?」
 「いやあ、これははじめてだよ。虫につよい木なんだからこれ。今年は暑いから、木もまいっちゃったのかもしれないけど。でもね、この前なんかもね、ここの窓ガラスに、一面びっしり、蛾がついちゃって大変だったんだから。」
 「それは、大変だ。対策はなんかしているんですか。」
 「そんときはね、殺虫剤まいて、それからしばらくは見なかったんだけどね、またこうやって増えてきているからね。定期的にやらなきゃしょうがないっていったら、そんなんもう、大変だからね。」
 途中から管理人の声が頭に入ってこなくなった。有紀のことを考えた。虫たちが、有紀のあの匂いに寄ってきているとしたら。そんなことありえないと一蹴したくなったが、そうだったらいいなと思う自分もいる。もし、自分も有紀のようになれたら、有紀の匂いも良い匂いだと感じられるようになるかもしれない。

 *

 拓海の熱は入院の三日後には下がっていたという。緑斑は背中全体に広がっているものの、色は薄まってきているらしく、跡にはならない可能性もあると看護婦は話してくれた。感染者数はあまり増えなかったと、退院のときに看護師から聞いた。空気感染や飛沫感染がおきないことが要因だった。感染経路は、虫を媒介としている説が有力だった。病院のベッドは埋まることもなかった。
 家にもどってきてからも拓海の意識は陽にあたるエノコログサのようにぼんやりとしていた。拓海いわく、斑は抹茶と渋い緑茶のあいだのような色だという。左の首元から肩、背中をこえて腰のあたりまで、左の上半身が薄い緑色でおおわれていた。
 「よく見るとね、血管の近くは濃くなっているんだよね。ほら、二の腕の裏とか抹茶でしょ。だからちょっと葉脈っぽい。」
 「拓海は肌が白いからね。痛くはないんだよね。熱をもったりとか。」
 「うん、それはまったくない。」
 「眠くなったり、お腹が減らないとかっていわれているけど、それはどうなの。」
 「どうなんだろう。眠りは浅いかも。ずっとぼーっとしている感じはある。特に晴れの日の朝。でもそれって、普通の風邪の後遺症でもあるでしょ。お腹が減らないのもおんなじで。回復するためには食べて代謝しろって言われたし、効果あるのかわからないけど、いつのまにか人の食べ物を食べれなくなるのは怖いし。だから頑張って食べてる。」
 「植物なりに代謝していれば別にいいのではという気もする。」
 「そうだね。どこまで食べずにいけるか試してみたくはあるんだよね。」
 眠いのも台風の前の日に眠くなるのと近い気がした。どこまでがルーンウイルスの特性なのかわかりにくい。感染源も明らかになっていないにもかかわらず、誰もが関心を失い始めているウイルス。緑斑にしたって、すんなり受け入れられてしまっている。
 「杏奈ちゃんは、検査陰性だったんだよね。」
 「そう、隔離されているとき毎日受けたし、いまでも週に一度はキット使っているけど、全部陰性。」
 真ダニからの感染が濃厚との報道がなされたが、真偽はたしかではない。究明される前に感染がおちついてしまう気配すらある。何もかもがぼんやりとしている。
 拓海の肌は依然見たときより赤い吹き出物やシミが目立っていると思った。背中側から見て、左は黄色みが濃くなってきていて、そのようなムラが色によって、加工された写真のようにならされている。
 「だんだんと薄くなっているから、そのうち消えちゃうんだろうけど。」
 医者にもらった日焼け防止の塗り薬は匂いが気に入らないらしく、代わりに口コミで評判だったアロエ由来の日焼け止めクリームを拓海は好んで使っている。背中は自分で塗れないので、塗るのを手伝う。
 「おれのは特に模様っぽくないし。ときどき、トラの縞模様っぽくなってる人とか、顔みたいな模様が浮きあがってる写真とか見るけど。あと、顔にでちゃう人もいるみたいね。猫の柄みたいに。」
 クリームの乾きを待ってから拓海はTシャツを着て、ダイニングに座って言った。
 「なんかインパクトにかける感染症だよね。」
 子供のころ、暴力的な行為が映しだされているテレビのチャンネルを無言で変えられたことを思い出した。見たいものにぼんやりと靄がかかっている感じがする。退院祝いに拓海の母親がくれたカステラを拓海はいっこうに食べようとしなかった。
 「なんかさっき食べたら味のしない、おからみたいな味がするから。好きなのにカステラ。杏奈ちゃんのお母さんが持ってきてくれた桃は食べられる。キュウリとメロンっぽくておいしい気がする。」
 「桃も正しい味を認識できてなさそうだね。」
 拓海は首を傾げながら、桃の最後のひと切れを食べ終えた。開けた窓から入ってくる風が心地よいと感じた。河川敷のそばのマンションのベランダからは、下流から昇ってくる潮の匂いがときどき入ってくる。テントウムシが飛んできて、網戸にくっついた。二階の窓には水や草をもとめて集まっていた虫たちが寄ってくるが、今年はそれが特に多い気がする。看護師の言っていたことは、どうやら正しいらしい。拓海とふたりで近くにいると、虫たちが集まってくる。ふたりのあいだを、まるで花と巣かなんかと勘違いしているみたいに、行き来する。
 「秋が近づくとこの辺に虫ふえるけどさ、今年やたら多くない? 家帰ってきたときもさ、小さいクモがベランダにいっぱいいたし、それにテントウムシってこれまで見なかったよね。これも僕たちの影響?」
 立ちあがった拓海はベランダに出て、排水溝の前にしゃがみこんで、虫の巣や卵がないことを確かめた。目立ったものはないようで、立ち上がって川をしばらく眺めていた。
 「大丈夫そう?」
 拓海は虫避けを撒くことはもうできないよねぇと言った後に、洗濯物に手をかけてから小さな悲鳴をあげた。
 「どうしたの?」
 拓海は干してあった洗濯物をつまんで広げた。
 「虫、ここに、すごいいるんだけど。」
 かけよって広げられたTシャツを見た。模様に思われた緑色の部分にはよく見るとアブラムシのような虫がぎっしりとついていた。拓海とおそろいで買ったマンガのコラボレーションTシャツだった。
 「この緑色にテントウムシたちは集まってきているってこと? たしか、テントウムシってアブラムシ食べるよね。似てたのかな? そんなに長い時間干してないのに、こんなに集まってきて、すごいね。このTシャツ、杏奈ちゃんの方のだ。サイズちっさいから。」
 「まだ数回しか着てないのに。ほかの服にもついてる?」
 いままでの拓海だったら、虫がびっしりついた洗濯物が見えないようにベランダに立ちはだかってくれて、ピンチハンガーに干していた下着をとって、つぎつぎとゴミ袋に入れていっただろうけど、彼はそれをしない。いとおしそうに虫たちをながめている。ながめている拓海の姿もまた同じように、いとおしいものだと思った。

 *

 時間が経つにつれ、家に集まる虫はふえつづけ、種類もさまざまになっていった。拓海の緑斑はますます黄色がかってきて、全身にひろがっていった。そんななかで、有紀と顔を合わせるのは、じつに一年以上ぶりだった。ウイルスが流行るまえからオンラインだったことに加えて、自粛期間はたがいに外出なども控えていたが、今回のウイルスは平常に戻るまでの時間が早く、感染発見から半年ほどしかたっていないけれど、どうしても会いたいという有紀の誘いを断り切れず、仕事場近くのカフェで会うことになった。
 有紀の顔はやつれていて、目の下のクマが自粛期間に蓄積された心身の疲弊を物語っていた。サラダプレートを頼み、料理を待つあいだ近況を確認しあいたかったが、切り出せる雰囲気からは程遠かった。有紀はさっきから、杏奈ごめんねしか言っていない。
 迂遠に切り出すこともできたが、有紀との仲を考えると変に改まらずに単刀直入に尋ねた方がよいかもしれない。
 オーダーしたアイスコーヒーが届き、有紀はストローをさして、冷たいコーヒーを口に含んだ。
 「有紀、きっと何かあったんだよね。ゆっくり待ってるから、話せるようになってからでいいから、話してみてね。」
 それからも有紀が口をひらく気配はなく、サラダプレートが届いてしまった。五分ほど待ってみたものの事態はかわらず、これはかえって食べた方がよいという判断になった。ドレッシングと粉チーズをふりかけて、混ぜ合わせてみる。それから、セルフサービスの水をつぎにいって、戻ってきても有紀は話そうとしなかった。食べ終わってから話すのだと合点がいき、食べようとしたそのとき有紀は口を開いた。
 「あのさ、私ってなんか匂いする? お願い、正直に言ってほしいんだよね。」
 突拍子もないことをつげられて間を置いてしまった。有紀の顔はみるみる赤らんでいき、目には涙がたまり始めていった。
 「ゆんちゃんが、どうしよう。ゆんちゃんが。」
 「ちょっとまって、ごめん。有紀、大丈夫。変な匂いしないから。あまりにもしないから、何聞かれているのか分からなくて、おどろいて言葉がでなかっただけ。ねえどういうこと? 匂いがするって、ゆんちゃんは本当にそんなこと言っているの。」
 目の前に座っている長年の親友が嘘をついていないだろう表情で不安を払拭してくれたことがあまりに嬉しかったのか、有紀は堰を切ったように涙を流しはじめた。
 「どうした。ほんとうに、何があったの。大丈夫だよ有紀。これ、ティッシュ、使いな。」
 十分ちかく有紀は涙を流し続けた。三十を過ぎてからこんなに自分がまだ泣けるのかと思うこともなくなった。二十代のときは年に二度くらいは大泣きをすることがあって、そのたびにまだこんなに泣けるのかと安心したこともあったが。ここまで泣ける有紀がうらやましくあった。大きく鼻をかみ、ようやく落ち着きを取り戻しはじめた有紀は氷がほぼ溶けた水をひと口のみ、そしてため息をついた。
 「ほんとにごめんね。いきなりさ、意味不明だよね。」
 「そんなことないよ。有紀がそんなになるって、よっぽどだよ。」
 「順を追って、話してみるね。」
 ゆんちゃんいわく、その匂いは有紀から漂ってきているのは間違いないらしく、甘すぎる匂いが、無性にイライラさせるのだという。驚くことにゆんちゃんは、このままだと有紀のことを嫌悪するようになってしまうから、別々に暮らしたいと言ってきたという。それはいまから三か月ほど前のことで、ゆんちゃんは会社を辞めて同僚だった北条という女性とカフェを立ち上げるために、目黒の自宅から八王子のアパートに引っ越してしまったらしい。北条と同棲はしていないし幸樹とのこともあるし、有紀とは別れたくないと言ってはいるが、匂いの件も北条との関係を優先したいがための言い訳のように思ってしまう。相手を嫌いになる気持ちよりも、自分がなぜそんな体質になってしまったのかがわからない。そこまでを有紀は一息に話しきった。
 「誰に聞いても、そんな匂いしないっていうの。だからもう訳わかんなくなっちゃって。パニックになっちゃって。それでね、これ見て。」
 有紀はGreenPowerというNPO法人のホームページがプリントアウトされた紙を差し出した。
 「ゆんちゃんがこれを送ってきたの。手紙と一緒にね。私は絶対ウイルスに感染していて、その副作用で匂いを発するようになったって。でもそれは、身体が植物化しているということだから無理に直す必要はなくて、むしろ促進するべきことなんだって。だから、このSence0fL0VEって人の提唱するサプリを飲んで、完全な植物になるべきなんだって。これがそのサプリなんだけど。」
 「ちょっとまって、ぜんぜんついていけてないんだけど。」
 「私もどうしたらいいかわかんなくて。ゆんちゃんもいまルーンウイルスにかかれるように努力しているんだって。Sence0fL0VEさんが開催するセミナーでクラスターをつくるって。でも感染力が低いからなかなかうまくいかないって。」
 「うまくいかない方がいいよねそれ。」
 「で、私血迷ってさ、このSence0fL0VEって、日本語に直すと愛のことわりってことじゃない。そしたら、この人が愛理としか思えなくなっちゃってさ。アポだけどさ、フォロー申請しても連絡がないからさ、我慢できなくて愛理に連絡しちゃったんだよね。」
 「うそでしょ。」
 「ほんと。」
 「で、愛理はなんて。」
 「有紀なに言ってんの。信じられない。私はそんなこと絶対しないよって。知ってるでしょって。肉とかポテチとかラーメン食べまくりだって。 SNSだってほら昨日も一心道のラーメン食べてるっしょって。だから私の勘違いだって分かって、私もそうだよね、ごめん少しでも疑ってしまって私が悪かった。私がね、ぜんぶ悪かったんだって、言ってさ。」
 有紀はまたしばらくすすり泣きをした。とっくに昼休みの時間は過ぎていたが、帰るに帰れず、午後のミーティングは先に進めてもらうようチャットに連絡をいれた。
 「仕事のあいまに本当にごめんね。」
 「いやいや、大変なときはお互い様だからね。」
 沈黙がしばらくつづいた。これだけの沈黙は、有紀のレコードプレイヤーを間違って壊してしまったとき以来だった。
 「でも、じっさいこれからどうしようね。ウイルスの感染が確認されてからの変化なら、少しは影響があるのかもね。病院とかに行ってみるといいのかもしれないけれど、匂いに気づけるのがゆんちゃんだけって、それって病気の副作用とはいいづらいから、説明困るよね。」
 有紀は指先でティッシュをいじりながら言った。
 「杏奈、無理なお願いだとは思うんだけど。」
 「何?」
 こちらの目を見て、涙をこらえながら有紀はひとことずつゆっくりとしゃべり懇願をする。
 「たまにでいいから、幸樹を連れて、ゆんちゃんに、会いに行ってくれない。これ、ゆんちゃんのカフェ。今週末オープンするの。」
 渡された名刺サイズのショップカードには、八王子の住所が書かれていた。
 「わかった。お安い御用っちゃ御用だよ。拓海もつれて行く。」
 「きっと、ゆんちゃんもウイルスにかかれば、また体質が変わって、元の生活に戻れるんじゃないかって思ってる。だから、怪しくてもなんでもいいから、ゆんちゃんのやりたいように今はやればいいんじゃないかって思う。」
 有紀は追加で注文したアイスレモネードを飲んで、杏奈に話せてよかったと言った。
 「ごめんね私の話ばかりになっちゃったね。杏奈は最近どう。体調崩さなかった? 変わったこととか、困っていることとかある?」
 いざ自分に話がむけられてしまうとどこまでのことを話すべきだろうと、正直なところ戸惑ってしまう。有紀はたしかに親友であるけれど、親しきなかにも礼儀ありという母親の声が脳内にこだました。
 「どうだろ、これあんまりネットで言っている人見かけないんだけどね、最近家に虫が大量に発生しているんだよね。クモとか、シバンムシとか、テントウムシとか。」
 虫が大の苦手の有紀は露骨に吐きそうな顔をした。
 「杏奈も虫嫌いだよね。それは大変だわ。ウイルスとかは関係なさそうではあるけど。観葉植物とか置いてない? 植物が呼び寄せることあるからね。」
 有紀は家庭の踏み込んだ部分まで話してくれた。プライベートな情報はその度合いを話者同士そろえた方がいいという強迫観念があった。共感をしあうためのカードを投げ合って、時間をうめていくことをこころがけてしまう。
 「私の服になぜか湧いてくるんだよね。拓海の服には沸かないの。」
 それは不可解だね。今年は涼しいし、気候の変化かもしれない。あとは、最近まわりで再開発は起きていない? 大きな建物がなくなるとそこで暮らしていた虫たちは居場所を求めて移動するから。考えられるあらゆる可能性を有紀は話してくれたが、おそらくそのどれも直接的な原因ではないという確信があった。

 *

 「拓海さんって、お仕事何されているんですか。」
 北条さんは、カフェの庭で遊ぶ幸樹君と杏奈ちゃんを眺めながら尋ねてきた。ゆんちゃんさんと営んでいるカフェは、SNSを見せてもらった時から好きな雰囲気だと思っていたけれど、実際来てみると古民家を改装して作られていて、どことなく懐かしい感じがして、どこで見た風景なのか記憶を巡らせていたから、茨城にあったおばあちゃんの家の庭を思いだすのと同時に質問に応えなければいけなくて、すこし大変だった。
 「前はITとか、やってたんですけど。」
 「プログラムを書いたりするの? それともデザインとか?」
 「ウェブの画像素材を作るプログラムとか、作ってたんですよ。通販系の商品画像を入れると適当に加工してくれるプログラム。」
 「へーいいですね。らくそう。使いたい。」
 「ありがとうございます。自分、楽できるもの作るの好きで。そういうの速く作れる人って、どこでも割と重宝されるイメージがあって、ずっとあこがれなんです。多分非常時とかに簡易コンロ作れる人とかって、尊敬したくなるじゃないですか。」
 「そう? まあ確かに、いろいろできる人っていいですよね。杉山さんもそういう人っちゃ人なのかもですね。料理もモノにしちゃったし。私のでる幕は、ほぼほぼないですね。っていうか、拓海さん、写真趣味なんですか?」
 その日は、カメラを持ってきていた。庭がとても素敵だって知っていたから。
 「杏奈ちゃんに勧めてもらって、はじめたんです、カメラ。すこしでも早く上達するには、撮るのが一番だって。」
 「いいですね~。何かをはじめるっていいですよね。私も食べるのとか、カフェをめぐるのとか、ずっと好きで。自分でやるなんて全く思ってなかったですけど、杉山さんに誘ってもらって。最初は躊躇しちゃったんですけど、やってよかったなと思いますね。楽しいですもん。」
 他愛もない話ができるのは、最高のごちそうだと思う。他愛のない話ほどむずかしいことはない。ささやかな喜びをかみしめているときに、虫たちはいったいどこにいってしまったんだろう。そんなふうに思ったことがいままでも何度かあった。ある時ぼくたちは気づいたんだけど、虫たちは決まってぼくたちがふたりのときにやってくる。それが親密なときであればあるほど、虫たちはやってくるんだ。

 *

 「杏奈ちゃん、香水変えた?」
 有紀と会ったその日の夜から、拓海はそんなことをたびたび言うようになった。私から漂ってくるのは、桃の葉の匂いだと拓海は言った。桃ではなく、あくまで桃の葉なのだという。甘いけれど、嗅げば清涼な香りが鼻を突き抜けていく。ふわふわとした肌触りの葉っぱ。桃の葉には蟻も蜂も、蝶だって、アブラムシだって何だって集まってくる。毛虫の卵だって、カマキリの卵だって産みつけられる。
 一時期私には虫が集まりすぎて、寝ているあいだに家じゅうが虫だらけになることが何度もあった。大家が強制的に殺虫剤をまくように勧告してきたこともあった。拓海とふたりで平謝りするあいだも、ハエやら毛虫やらが寄ってきて、大家はしじゅう阿鼻叫喚の大騒ぎで、申し訳なくありつつも、どうしようもないふたりは苦笑いをしてしまった。
 私が虫の女王になるまでにかかった期間は、退院してからのまる二年だった。もちろん私たちは結婚式なんか挙げられるわけがなかった。なにせ、新婦が虫の女王なのだからそれどころではない。母親は虫を恐れて、私にはなかなか会いにこれなくなった。冗談抜きに、虫のことが落ち着いてから、ゆっくり拓海さんとのことは考えなさい。月に一度の電話で、母親は電話を切るたびにそれを言う。
 騒動だけではなくて、嬉しいこともあった。二年の間、ゆっくりと時間をかけて、私に寄ってくる虫たちは、拓海にもいままで以上に心をひらくようになっていった。私が寝ているあいだに、ゆっくりと拓海の黄緑色の身体を這うようになった。
 「もしかして、昨日はご飯たらふく食べる夢を見ていなかった?」
 拓海はそんな冗談を言うようなった。どうやら虫たちが私の夢の内容を告げてくれるらしい。虫たちは私と拓海の身体を行き来していた。私は拓海が今空腹かどうか、拓海への蟻のたかり方で分かるようになっていた。たかっているときは、お腹がいっぱいのとき。
 いよいよ私たちはおかしくなり始めていたのかもしれない。住み慣れたマンションをでて、長野の拓海の実家の土地をゆずってもらって、二人で家を建てて暮らすようになった。私たちだけがおかしくなったのだろうか。私の知っているだけで、ルーンウイルス以降に、変なことが起こっているのは、有紀のところだけ。愛理はもう長いあいだ連絡をとっていない。愛理のメールアドレスも携帯電話もいつのまにか使えなくなっていた。年賀状の住所を便りに実家にいったことがあるけれど、愛理は大学を卒業後実家に戻っていないし、連絡も度々しか取れない。友達には連絡先を教えないでと言われていると知って、驚いた。
 有紀とはいまも月に一度、連絡を取り合っている。有紀の匂いは私と会ったときがピークで、それから一か月で匂いが消えてしまったらしい。でもそれはゆんちゃんにしか確かめようのないことだった。今ではゆんちゃんは、にこにこと有紀の襟元の匂いを嗅いでいるらしい。有紀の匂いは、今のゆんちゃんにとっては常に嗅いでいたいくらい心地のよいものなのだろう。
 「北条さんね、いい子なのよ。あのときの私、ほんとどうかしてたわ。まじで参っちゃってたから、最初の出会い最悪だったのに。ウイルスで大変だったって話は、いろんなところで聞いたりするんでって。あの子には本当に感謝している。感謝してもしきれないから。」
 有紀とゆんちゃんと北条さんは、三人で今も八王子のカフェを営業している。八王子では人気のカフェになっている。この前、SNSで話題になっていたことを告げると、画面越しの有紀はピカケの花のように涼やかにわらった。
 「でも、有紀の匂いが消えたのか、ゆんちゃんがウイルスにかかって体質がかわったのか、結局のところわからないよね。」
 「わからないけど、なんかウイルスとか関係なしに、すべて勘違いだったって可能性もあるなって、最近は思うんだよね。」
 「夏の夜の悪い夢的な。」
 そういうと、聞こえがいいのかもしれないが、ゆんちゃんが今は有紀の匂いを嗅いでいたいという気持ちに変わっているなら、その大きな変化はウイルスによるものだって思う気持ちの方が私はつよい。気持ち次第で人間の嗅覚がそんなに変わるとも思えないから。けれど、有紀は私とは違う意見のようで、私はそれを見てとてもほほえましくなる。
 「もう少しで、私の虫修行も終わるかもしれないの。」
 「え、やったじゃん。こっち戻ってこれるの?」
 「いや、もうしばらくここに居ようと思っている。」
 私の虫は画面に映っているのだろうか。その問いかけに有紀は、にこやかな表情で首をふる。拓海の両親も私たちの虫は見えていないという。おそらくは、いつかの時点では虫は存在していたのだと思う。だって、大家もあれだけ騒いでいたのだから。でもある時、虫たちは私と拓海以外には見えなくなってしまったのだ。有紀の匂いがゆんちゃんにしか匂わなかったように。
 私たちには幸い虫たちがまだ見えていた。私の髪の毛からは毛虫たちが這い出て、蟻たちが布団に群がり、蝶たちが寝室に舞っている。この虫たちがいなくなってしまったとき、私と拓海は今と同じように暮らしていけるのだろうか。私たちが何事もなく、相手と一緒にいられると思えるのは、この虫たちが私たちの一部を媒介してくれているからなのかもしれない。
 私たちはもはや自分たちで、次のステップを決めることはできなかった。私たちがこのままここに居続けるべきなのか、それはもはや拓海と二人だけの問題ではなくて、虫たちも含めた私たちの問題になっていた。私と拓海は互いに反応をした。私と有紀も互いに影響し合い、互いを変化させていった。そして、ゆんちゃんも虫たちも反応もしていった。ルーンウイルスは静かに私たちを浸食していった。SNSでつぶやかれていたように、互いを思いやることができるとか、植物みたいになれるとかってことではなさそうだった。私たちはただそこにいて、物理的に相手の身体に作用しあう身体へと変えられていった。ただそれだけのことに気づくのに、とても長い時間を要してしまった。

文字数:23590

内容に関するアピール

自分と誰かを媒介するものがこの世にいたらどうなるのかなと、ときどき思います。誰かと話をして、その人の考えていることを理解しようとする時に、理解しようだなんて、簡単に言うけど、それはとても難しいことなんじゃないのと、感じる時がよくあります。何か、私たちとは別の存在がそこにいて、もっと複雑な関係性によって、私たちの日常のやり取りが成り立っていたなら、なんなら今もすでにそうなのかもしれないけれど、そのことに気がつけたなら、私たちの日常は、いまと少し違う日常になるのではないかと思って、お話を書きました。一年間、なかなか実作を書ききることができずにいましたが、何とか最後は提出することができました。教えて頂いたたくさんのことを糧に、これからも自分のペースで書いていけたら、よいなと、そしてそれは、とても幸せなことだなと思いました。大切なことに気づくことができました。一年間ほんとうにありがとうございました。

文字数:401

課題提出者一覧