うたたねのように光って思い出は指先だけが覚えてる熱

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うたたねのように光って思い出は指先だけが覚えてる熱

1
 真っ白なソファとガラステーブルの置かれたVIPルームはどこもかしこも光が氾濫していてぜんぶニセモノみたい。疑似恋愛を楽しむ場所としてはふさわしいのかもしれないけれど、なんだかわざとらしい。シャンパングラスに注がれた淡い金色の液体を喉に流し込こむ。見上げたシャンデリアが眩しくて目の奥がじんと痛んだ。わたしの身体の真ん中にも冷たいひかりがするするとすべり落ちてゆく。この瞬間がたまらなく気持ちいい。グラスをテーブルに置こうとすると、急に視界がぐらりと揺れた。前に倒れ込みそうになったわたしを隣に座っていた男が抱きかかえるように支える。密着した身体から、煙草とムスクの香りが混ざり合った独特の匂いがした。わたしの膝の上に零れたシャンパンの泡がしゃわしゃわと弾けてゆく。
「すみません」
 わたしが咄嗟に謝ると、男は「大丈夫?」と心配そうにわたしを見つめた。
「だいぶお疲れなんじゃない?」
 男が冗談っぽく笑った。わたしは、いえいえと首を振りながらドレスに零れたシャンパンを拭う。ペールブルーのサテン風の生地の上を雫がするするとすべり落ちていった。たしかに、今日は朝から何度も眩暈がするし、身体も重く感じる。質の悪い風邪でもひいたのかもしれない。湿ったドレスがしんしんと冷えてゆく。VIPルームとは名ばかりの小さな個室だからか、ここは空調が効きすぎる。
「ユミちゃん」
 男がわたしの肩を抱いて囁く。本当は、姉さんの名前。けれど、ここではわたしの名前。好きだよ、と抱き寄せられて身体ごと男にしなだれかかる体勢になる。革張りのソファがあたしのお尻の下で、ぎゅむと小さく鳴いた。
「もう一度呼んで」
 甘えるような声でわたしが言うと、男は嬉しそうに「ユミちゃん」と呼んだ。男の胸は硬くて恐ろしいほど熱い。姉さんとは大違いだ。姉さんのはちはちに膨らんだ透明な水風船のような姿を思い浮かべる。男がわたしを抱く腕にさらに力を込めた。男の熱がわたしを侵してゆく中で、太ももにはりついたドレスだけがいつまでも冷たい。わたしは、姉さんのやわらかさが、冷たさが、泣き出したいほど恋しくなった。
 
 アフターの誘いをどうにか断って、わたしはドレス姿のままタクシーに飛び乗った。深夜の街は明かりも人もなく、ひっそりと時が止まってしまったみたい。今夜の満月は特別にきれい。濃紺の空にまん丸の月が、濡れた水蜜桃のように光っている。姉さんはきっと月と同じくらい、はちきれんばかりに膨らんで、いっそう冷たく冴えわたっているに違いない。シャンパンを飲みすぎた身体は熱くて、頭がひどく痛んだけれど、姉さんのことを考えていれば、幸せな気持ちになれた。窓からは照明の落とされたスカイツリーの根元が見えた。ライトアップされていないそれは昼間の存在感はなく、闇の中にぼやけて幽霊みたい。一刻も早く姉さんに触れたくて、わたしは自分の身体を強く抱きしめた。
 玄関でヒールをむしり取るように脱ぎ捨てると、そのまま寝室に飛び込む。寝室は、窓から差し込む月の光で満たされて、薄瑠璃色に染まっている。海の底にいるみたい。セミダブルのベッドの上に横たわる姉さんが、仄白い光を放つ。透明な水風船のように、はちはちに膨らんだ姉さん。わたしは、脱皮するみたいに、ドレスやストッキングや下着をするすると身体から引き剥がし、素裸になって姉さんの上に倒れ込んだ。
 薄くつるつるとした膜がわたしの皮膚に触れる。この世界のなによりも優しくやわらかな感触。あまりの心地よさに、小さく息を漏らす。膜の中に満ちる透明な液体はひんやりと冷たく、わたしの体重をやわらかく受け止めた。今にもはち切れそうなほど膨らんでいた姉さんは、わたしの身体をいとも容易く、すっぽりと包み込む。熱い素肌が姉さんの冷たさにとろとろと溶かされてゆくような感覚。わたしと姉さんの温度が混ざり合う前の、このひとときがいちばん気持ちいい。わたしは、目を閉じて姉さんの膜越しに聞こえる遠いさざ波のような音に耳を澄ませる。
「ねえ」
 ふいに耳元で声がした。びっくりして飛び起きたけれど、あたりに人影はない。開けっ放しのベランダの窓からは、ただゆるゆるとぬるい風が入ってくるだけ。神経を張りつめたまま、かすかに揺れるカーテンを眺めていると、また急にぐらりと視界が揺れた。
「ママ」
 背後から聞こえてきた声に慌てて振り返る。ベッドのそばに女が立っていた。はっと息を呑む。声を出したり逃げ出したりするよりも先に、身体が凍り付くのを感じた。眼球さえも動かすことができず、わたしはじっと女の姿を見つめた。女は全身が淡く透けていて、薄闇の中に滲んでいるように見える。ただ輪郭だけが月の光をあつめてほのかに光っていた。――たぶん、というか絶対、幽霊とかそういう類のやつだ。あ、そういやこの家にファブリーズないな。たしかこんな時はファブリーズが効くって誰かが言っていたような気がする。いや、でも、そんなことじゃなくて、てか、いまママって呼ばれた?なんで?――思考はただ上滑りしていくだけで何の役にも立たない。
「驚かせてごめん」
 女はわたしの狼狽に気づいたのか、そう言ってゆっくりと微笑んだ。どこか見覚えのある笑顔のような気がして、急にふっと気が緩んだ。
「あんただれ?」
 わたしの言葉に、女は一瞬たじろいだように見えた。女は言葉を詰まらせて俯く。幽霊ってこんな感じなんだろうか。なんだか思ってたのと違う気がする。急に生身の人間を前にしているような気持ちになって、どうしたらいいのかわからなくなってしまった。わたしは何かを言いあぐねている様子の女をぼんやりと見つめる。目が慣れてきたのか、顎のあたりで短く切りそろえられた髪やまっすぐ通った鼻筋、細く頼りなさげな首がはっきりと見えてきた。よく見ると、女は健康診断のときに病院で着せられるガウンのようなものを身に着けている。時間が止まってしまったみたいに静かな部屋の中で、ふいに女と視線がぶつかった。
「あたしはあなたの娘」
 未来から来たの、と女はわたしの目をまっすぐに見つめた。
「え?」
 娘?と女の言葉をそのまま聞き返すことしかできなかった。
「ずっと会いたかった」
 そう言って、女はわたしを抱きしめようとした。逃げたいのに身体が動かない。けれど、女の淡く透けた腕はただわたしの身体をすり抜けただけだった。それを見て、女はひどく寂しげな顔をした。わたしは、これはきっと質の悪い夢に違いないと思った。とっとと意識を失ってしまおうと、目を閉じる。夢の中で意識を失うなんておかしなことだけれど。段々とぼやけていく意識の中で、「待って」とか「ママ」とか女が必死に呼びかける声が聞こえた。ひどく痛む頭の中でその声は次第に大きくなってゆく。
「ここにいてもいい?」「ねえ」「お願い」「いいって言って」「ママ」「お願い」「言って」「いいよって言って」「ママ」「いいよって」「いいよって言って」「いいよって言って」
 女の声はこだまのように何度も何度も響いた。もう我慢の限界だった。とにかくこの苦しみから逃れたいという気持ちでいっぱいになる。
「わかった、わかったから、もうなんでもいいから!」
 とにかく静かにして、と自棄になって叫ぶと女の声はぴたりと止んだ。一抹の後悔と共にわたしは意識を完全に手放した。
 
 
 
***
 
 ママはベッドに倒れ込むとそのまますやすやと眠ってしまった。元気なママの姿を見るのは本当に久しぶりで嬉しさで胸がいっぱいになる。けれど、初めて会った二十三歳のママは、写真とかで見るよりもずっと幼くて、お化粧が濃くて、びっくりするほど綺麗で、まるで知らない人みたいだと思った。
 
 ママは今から二十七年後、五十歳の誕生日の朝、脳梗塞で倒れた。あたしが病院にかけつけたときにはもう、無機質な病室のなかでたくさんの管を身体からぶら下げて、ただじっと目を閉じているだけの姿になっていた。
 最初に「メモリートリップ」を教えてくれたのは、夫の樹だった。メモリートリップは、他者の過去の記憶にアクセスする技術らしい。主に、ターミナルケアの一環として用いられ、利用は患者とその家族に限定されている。家族は患者との楽しい思い出を追体験し、より穏やかな看取りを目指す。その時は、ただ現実を受け止めることに精一杯で、お別れを言うことなんて考えられなかった。
 数か月後、自分の妊娠がわかったとき、喜びと共に、この子を産んだらあたしは何かを失うんじゃないかという恐怖に憑りつかれた。仕事とかお金とか時間とか、そういうものじゃなくてもっと根源的なにかを。そしたら急に、ママがあたしを産んだとき、なにかを失ったのか、あたしがママからなにかを奪ってしまったのかを知りたいって思った。そんな矢先にママの余命宣告を受けて、あたしの決意はかたまった。
 メモリートリップをしたいって言ったら、悟は大反対した。もう自分一人の身体じゃないのに、と。その言葉を聞いたとき、あたしと悟は違う生き物だったんだってわかった。男と女とかじゃなくて、お腹が膨らむ側と膨らまない側みたいな、変化するものと変化しないものみたいな、もうまったく違う理の中で生きてるってことが。あたしがママに会いに行く本当の理由を言ったところで、悟が理解してくれるとは到底思えなかった。だから、仕方なく「出産が近くなったら、もう今までのように会いに来れなくなるだろうから、何かあったときのために、今のうちに最期のお別れをしたい」と悟に伝わる言葉で説得した。
 
 あたしは淡く透ける自分の身体を観察した。本来なら、相手の脳内に記憶されている自分の身体に入って実体を得るのだけれども、ここはあたしが生まれる四年前なのであたしの身体は存在しない。実体のないあたしは意識としてママの記憶を彷徨うしかない。
 そっとママの指先に触れてみる。さっきは触れようとしてもすり抜けるだけだったのに、触れたところにじんわりと熱を感じた。ママとあたしの境界線が滲んでいく感覚。驚いて手を放そうとしたときにはもう遅く、あたしはするするとママの身体に吸いこまれていった。
 目を開けると、視界いっぱいに透明な塊があった。わっと、とっさに身を引こうとしたけれど、身体がわずかに震えただけだった。まるで着ぐるみの中にいるみたいな感覚だった。身体の可動域や動かし方がうまくつかめない。シーツが素肌に擦れる感覚も、なんだか遠い。体勢や視界から、あたしがママの身体の中にいることだけがわかった。けれど、どうやって出ればいいのかわからない。とんでもないことをしてしまったという不安と焦りがあたしの中をひたひたに満たしてゆく。何か手掛かりはないかと探すけれど、目の前には水風船のような塊があるだけ。はちはちに膨らんだそれは、液体のようなもので満たされていて、薄明りを集めてぼんやりと光っているように見えた。そういえば、これはずっとママの隣にいたやつだ。メモリートリップを開始するために、ママの了承を得ることに必死で気にも留めてなかった。塊に手を伸ばそうとすると、ママの身体がわずかに動いて、指先がそっと塊に触れた。塊はびっくりするほどやわくて冷たくて、気持ちよかった。触れた指先から、じんわりと身体がほころんでいくような感覚がして、これがママにとっていちばん大切な存在なんだってことが伝わってきた。あたしの記憶の限りでは、ママの隣にこんな塊がいたことはない。となると、もしかして、ママはあたしを産んでこれを失ったのだろうか?
あたしがママからこれを奪ったのだろうか?ふと疑問に思ったけれど、今はママの身体から出る方が先だ。あたしは必死にママの身体から出ようともがいた。
 
 どのくらいの時間が経っただろうか。あたしはママの身体に閉じ込められたまま、少しも出られそうな気配がない。それどころか、すっかりママの身体を動かせるようになってしまった。メモリートリップを強制終了すれば出られるのかもしれないけれど、ママの脳にどんな影響があるのかわからない。
 あたしは朝が来るのを待つことにした。何の根拠もない。ただ、そう直感で思っただけだった。けれど、「直感を信じなさい」はママの口癖だ。あたしはずっとその言葉を聞いて育った。もうそれを信じるしかない。あたしは床に落ちていたぶかぶかのトレーナーを着て、洗面所に向かった。顔の上で溶けたファンデーションやマスカラの張りつく感覚が気になって、メイクを落としたかった。床のひんやりとした感覚を踏みしめる。ママは爪先まで綺麗で、足の爪には一本一本、月の光を集めたみたいな淡い銀色のペディキュアが塗られていた。
 洗面所の鏡に向き合うと、ママの顔と目が合った。当たり前だけれど、すごく不思議。卵型の整った輪郭にすっと通った鼻筋、長い睫毛に縁取られた大きな瞳は黒々と澄んでいて、静かな湖面を思わせる。胸のあたりまで伸びたまっすぐな黒髪は毛先まで艶やかだ。写真や動画で知ってたけれど、改めて実物を前にすると、やっぱりママって美人だったんだなって思い知らされる。それも、素材がいいってだけのタイプじゃなくて、さらにひとつひとつを丹念に磨き上げられてできているタイプの美人。こういう綺麗さが一番強い。ひとしきり眺めてから、あたしの顔にもママに似たところがひとつでもあったらな、とため息をついた。
 髪をかるく束ねて、鏡の横の棚にあったクレンジングオイルを顔全体に馴染ませる。ママの肌は剥きたての卵みたいにつるつるで気持ちいい。マスカラのたっぷり塗られた睫毛を念入りに撫でてから、蛇口を捻った。水の冷たさにはっとする。そういえば、給湯器の電源を入れるのを忘れていた。この時代の生活スタイルや家電の使い方は一通り頭に入れてきたはずなのに、いざとなったらすっかり抜け落ちてしまった。顔も手もクレンジングオイルでべたべたになってしまったので、仕方なく水のままクレンジングオイルを流して、そのまま洗顔フォームで顔を洗った。お化粧を落とすと、少しだけ幼くなったママの顔が鏡に映った。
 
 ベッドに戻って、また透明な塊の隣に寝転んでみる。身体はもうすっかり違和感なく動かせる。天井に向かって手を伸ばすと、さざ波みたいな風が指の隙間を流れていった。ママの陶器のようになめらかな白い手の甲をぼんやりと眺める。これはあたしの知らない手だ、としみじみ思う。昨日、病室で握った枯れ葉のように薄い手を思い出す。実際に過去のママと会ってみて、あたしは、ママが失ったものを知りたいっていうのも本当だけれど、なによりもママともっと話したかったんだって気づいた。物心ついたときから、ママがあたしに「いいことでも、悪いことでも、なんでも話してね」と言ってくれていたように、あたしもママのことをなんでも知りたかった。ママがあたしのママになるまえにどんな生活をしていたのか、とかあたしのママになってよかったのか、とかとにかくなんでも。そのために、あたしはママがあたしを産む四年前、ちょうど今のあたしと同い年の二十三歳のママに会いに来たんだと思う。
 
 メモリートリップによってもたらされた記憶は、患者側の脳には残らないらしい。あたしはそれが一番さみしいと思った。ママの身体や記憶に、あたしの感覚が残ればいいのに。
 寝そべっていると、このまま眠ってしまいそうだった。なんとなく眠るのが怖くて身体を起こすと、床に脱ぎ捨てられた服がやけに目についた。部屋がほのかに明るい。もう空が白みはじめていた。あたしは、やれやれと思いながらママの服を拾い始める。
 
 
 
 
2
 目を覚ますと、隣に女がいた。わたしの顔を目を丸くして見つめていた。面白い顔だなあと思った。女の身体は淡く透けていて、その向こうでカーテンが揺れているのが見えた。女の身体の向こう側の風景は、どれもすりガラスを通したように輪郭が優しく滲む。少し姉さんに似ている気がして、触れようと手を伸ばしたけれど、わたしの右手は女の身体を突き抜けて、ただ空を切っただけだった。
「夢じゃなかったんだ」
 思わず零れたわたしの言葉に、女がほっとしたように笑った。
「身体が痛んだり、何かおかしなところはない? あ、まって、自分のことわかる? 名前 は? 言ってみて?」
 女はわたしの目を見るなり、矢継ぎ早に質問した。その過剰さが、母親みたいだなって思った。
「で、あんただれよ?」
 酔いが醒めていくらか冷静になった頭でもう一度聞いてみる。
「よかった……ママだ……」
 女はわたしの質問なんておかまいなしに、ただそれだけを泣きそうな顔をしながら絞り出すように言った。また、ママと呼ばれてしまった。ふと、違和感を覚えて身体を起こすと、酔っぱらったまま寝てしまったはずなのに、わたしはちゃんと服を着ていた。数日前に酔っぱらって床に脱ぎ捨てたトレーナーだけれど。それでも、いつも酔っぱらったまま寝ると下着しか身に着けてなかったり、それすらも脱ぎ捨てているわたしからしたら、服を着て起きることなんて奇跡に近い。しかも、なぜかメイクもちゃんと落としてあって、スキンケアまで入念にしていることが、いつになくぷるぷるに潤った自分の肌からわかった。こんなことは初めてで、感動を通り越して混乱を覚える。
「もしかして、あんたが?」
 わたしがおそるおそる聞くと、女は勢いよく「ごめんなさい」と頭を下げた。
 
 いつまでもベッドの上にいてもしょうがないので、わたしたちはリビングで話すことにした。リビングのドアを開けた瞬間、香ばしい匂いがした。ローテーブルの上に朝食が用意されているのが見えた。しかも、床に脱ぎ捨てた洋服は綺麗に洗濯されているし、流しにため込んだ食器も綺麗に片付けられている。一体どういう魔法なんだろう?
 わたしがソファに腰かけると、女も遠慮がちに隣に座った。
「食べていいの?」
 目の前に用意された朝食を指さすと、女は頷いた。朝食は、目玉焼きにウインナーとブロッコリー、トーストというシンプルなものだったけれど、目玉焼きはちゃんと両面焼いてあるし、ウインナーはボイルされ、ブロッコリーにはオーロラソースが添えてあった。極め付きはメープルシロップで、わたしはトーストには絶対にメープルシロップ派なのだ。わたしの好みドンピシャの朝食を前にして、わたしの娘っていうのはあながち嘘ではないのかもしれない気がした。
「信じなくてもいいからあたしの話を聞いてくれる?」
 食べながらでいいから、と女がおそるおそるわたしの顔を見つめた。女は、よく見るとわたしと年齢が近いように思えた。娘といっていたけれど、あまりわたしと顔は似ていないような気がする。女は、目も鼻も輪郭も全体的に丸くてかわいらしい。黙っていると、怒ってると勘違いされるわたしとは正反対の雰囲気だ。ただ、強いて言えば、はっきりした眉が少し似てるかもしれない。急に黙り込んだわたしに、女の瞳が不安げに揺れた。わたしは慌てて「いいよ、話してみて」と頷いた。
 女はツバサと名乗った。ツバサの話によると、ツバサは未来から来たわたしの娘らしい。で、この世界は未来のわたしの脳に残った記憶で、ツバサは未来からわたしの脳を使ってわたしに会いに来た、とのことだった。ツバサは透明な意識体のままわたしのそばにいられれば良いと思っていたけれど、昨夜は事故でわたしの身体に入ってしまって、どうしようもなく、朝が来るまでわたしの身体で洗濯や家事をしていたとのことだった。にわかには信じがたい話だけれど、ツバサがあまりにも真剣な顔をして話すものだから、いちいちつっこむこともできなくて、わたしはただツバサの言葉に耳を傾けた。
「信じられないよね」
 ツバサがしゅんとした顔をした。一生懸命話を聞いていたつもりだったけれど、わたしの表情や態度に疑いの気持ちが滲んでしまっていたのかもしれない。
「うん」
 わたしは正直に頷いた。改めて考えてみると、目の前に透明な身体の人間がいて、その人と会話しているっていう状況もおかしい気がする。だんだん、何がおかしくて、何がおかしくないのかわからなくなってきた。
「信じなくていいからさ、幽霊だと思ってていいから、あたしをママのそばにいさせて」
 ツバサがあたしの目をまっすぐに見つめた。必死なまなざしにたじろいでしまう。
「明後日にはちゃんと消えるから」
 ツバサがあまりにも悲しそうにするので、わたしは思わずかわいそうになって頷いてしまった。
「わかったから、好きにしていいよ。家事とかしてくれるなら身体も使っていいし」
 ツバサがわたしの言葉にぱっと嬉しそうな顔をした。幽霊ってこんなに表情豊かなもんだろうか。面倒事は苦手なのに、わたしはなぜかツバサのことを突き放すことができなかった。それどころか、なぜかツバサに惹かれていた。透ける身体で、少し姉さんに似てるからだろうか? とにかく、もっとツバサのことを知りたいと思った。 
 
 ツバサに提示した条件は二つ。「ママって呼ばないこと」「身体に勝手に入らないこと」ツバサがわたしの娘っていうのは正直まだ信じ切れないし、同い年くらいの女の子に「ママ」って呼ばれるのはなんだか変な感じがするから。でも、ツバサのことは嫌いじゃない。身体を貸すのはもっと怖いことかと思ったけれど、なんとなくツバサなら悪いようには使わないだろうという気がしたし、ごはんもおいしかったし、どんなに短い間であっても、苦手な家事から解放されるのが嬉しかった。それが不安や恐怖心を遥かに上回ってしまった。
「じゃ、どうぞ」
 ツバサがどんな風にわたしの身体の中に入るのかわからなかったので、とりあえずツバサに向かって手を広げてみた。ツバサの表情がさっと曇った。
「出入りの仕方、わかんない」
 せっかくいいよって言ってくれたのにごめん、とツバサは肩を落とした。わたしは、ふと、昼と夜で人格が入れ替わる男の物語を思い出した。
「わたしが寝てる時だけ入れるのかも」
「たしかに昨日はそうだったかも」
 ツバサがハッとした表情で頷いた。
 
 わたしたちは寝室に戻って実験することにした。わたしは、十五分後にセットしたアラームを枕元に置いて姉さんの隣に寝そべる。自分でもなんでこんなに積極的なのかわからない。なんだかわからないけれど、わくわくしていた。寝つきだけは異様にいいので、ベッドに横たわるとすぐに眠れた。
 
 ピピピ、というアラームの無機質な音が聞こえて目を開けると、わたしを見下ろすツバサと目が合った。ツバサはなぜかわたしの真上にふわふわと浮いている。
「そうしてると本物の幽霊みたいだね」
 わたしが笑うと、ツバサも楽しそうに笑った。夜から仕事なので夕方には返してね、と言ってアラームをセットする。
「ありがとう」
 まどろみの中で、ツバサの声が聞こえた。
 
***
 
 ママはまたすぐに寝てしまった。起こしてしまうのが怖くて、しばらく待ってから、昨夜を思い出して、ママの指先に触れた。ママの白い境界線とあたしの透明なそれがゆっくりと溶け合ってゆく。あたしは自分の身体が水飴のようにとろとろとママの中に流れ込むのを感じた。
 ママの身体に入ってすぐ、あたしはお風呂に向かった。シャワーを浴びて、外に出てみたかった。さっきママに伝えるかどうか迷ったけれど、やっぱり余命宣告の話はできなかった。いくらママの記憶の中だとは言え、あんなに若くて元気なママに死の予告をするのは、なんだか呪いみたいになる気がしていやだった。言わなくて良かったんだと自分に言い聞かせながら、あたしは急いで服を脱いだ。
 
 お風呂から出て髪を乾かす。鏡に映るママの顔をぼんやり見ていると、さっき「ママって呼ばないで」と言われたのを思い出した。すこし傷ついたけれど、よく考えてみれば、同い年くらいの人間――しかも娘を名乗る半透明の物体――に「ママ」って呼ばれるのはたしかに気味が悪いと思う。ママって呼ぶのは自分の中に留めて、せめて声に出すときは「ミユ」って言えるようにちゃんと練習しようと思った。
「ミユ」
 鏡の中のママに向かって、名前を呼んでみる。違和感が溶け残った飴玉みたいに口の中に残っていて、いつまでも消えなかった。
 
 ママは、あたしの病院着を見て気を遣ったのか、服もメイクも好きに使っていいし、家にあるものが気に入らなかったら買ってもいいからねとお財布ごとくれた。やっぱりママはあたしのことを若くして病死した女の子の幽霊とか思ってるんだろうか。でも、今のママは同い年だし、甘えるのはなんとなく気が引けた。あたしは日焼け止めだけ塗って、ママのクローゼットの中で一番シンプルなTシャツとジーンズで家を出た。ママはホステスをやってるわりには、生活は地味で都心からやや離れた、郊外というより下町という風情の小さな町に住んでいた。あたりは一軒家や小さなアパートが多くて、細い路地が家々を繋いでいる。あたしはとりあえず近くを散歩してみることにした。あたしはママの身体の感覚にもうすっかり馴染んでいた。
 歩いてるだけなのに、首筋にじんわりと嫌な汗が伝う。容赦なく照り付ける太陽は眩しく、吸いこむ空気すら熱されていて息苦しい。あたしたちの時代より、いくらかましな気もするけれど、暑いものは暑い。外を歩いているのはお年寄りばかりで、ときどき配達業者の人やスーツ姿の男性、子ども連れの若い母親などもいたけれど、すれ違った人々はみな必ずあたしのことを振り返った。どんなところにいても、やっぱりママの容姿は特別なんだと思う。こんなこと、今まで生きてきて初めての体験だ。最初はドキドキしたけれど次第に疲れてきて、あたしはできるかぎり人通りの少なそうな方を選んで歩いた。
 誰もいない道をしばらく進んでいると、急に、住宅街の真ん中で大音量の「ロマンスの神様」が聞こえてきた。かなり古い歌だけれど、パパがよく口ずさんでいたからすぐにわかった。パパは歌詞を全然覚えられなくて、メロディに適当な詞をつけて歌うからいつもママに怒られてた。こんな些細な思い出も、今はこの世界であたししか知らないんだって思うと、少し胸がきゅっとなった。その曲は、一軒家の住居兼店舗といった佇まいのちいさな店から流れてきていた。お店の入口のすぐ隣に厨房の勝手口があった。古ぼけた看板には「楊貴苑」と書かれていて、やや名前負けしているような気がした。厨房の入口は開けっ放しになっていて、白い長靴を履いた小太りのおじさんが中華鍋を一生懸命振っているのがよく見えた。おんぼろなスピーカーが勝手口のドアのストッパーとして無造作に置かれていて、大音量の「ロマンスの神様」はそこから流れているようだった。
 あたしは、こういうお店で人が調理しているところを見るのは初めてだった。あたしたちの時代には、安価な食事はだいたいみんな機械で調理されて、自走式の機械で運ばれてくるだけだ。人間が料理をする姿は、うんと高いお店でしか見られない。思わず料理人のおじさんにじっと見入ってしまう。厨房に立っているのはおじさんひとりで、三つの中華鍋を同時に火にかけている。それぞれに違う調味料を少しずつ入れたり、大きなお玉で中身をかき混ぜたりと目まぐるしい。厨房から漏れる空気は油の濃い匂いがした。ふいに、おじさんと目が合う。おじさんは、一瞬あたしに向かって怪訝な表情を向けて、またすぐに中華鍋に視線を戻した。なんだか気まずくて、いそいそと隣の入口からお店に入る。お店の中は、入って右手に厨房が見えるカウンター席と左手に小上がりの座敷と、真ん中にもテーブル席があって、思いのほか広々して見えた。真ん中のテーブル席には淡い緑色の作業着姿のおじさんが二人、小上がりの座席には小さい子どもとその母親らしき女性が座っていた。カウンターの奥に座っているおばあさんは、このお店の人だろうか。団扇を持って、ぼんやり店の中を見渡している。あたしは、カウンターの入口に近い席に腰かけた。丸いスツールはちょうど太もものあたる部分だけ赤い合皮が裂けて、ふわふわとしたスポンジが露出していた。奥に座っていたおばあさんと目が合う。おばあさんは立ち上がると、緩慢な動作でコップに水を注ぎ、ゆっくりあたしの前に置いた。枯れ木のような細く浅黒い腕が真っ白なブラウスから伸びている。
「ご注文は?」
 おばあさんの目線は、座っているあたしよりも低くて、やや見上げるような姿勢であたしを見つめた。何も決めてなかったので、あたしが戸惑っていると、おばあさんはあたしの目の前に一枚の紙を差し出した。油染みの目立つそれはメニュー表らしい。人に注文をとられるなんて初めてで緊張してしまい、メニュー表ではなく、作業着のおじさんがふたりともチャーハンを食べているのを見て、反射的にチャーハンを注文した。おばあさんは、はいはいと何度か頷きながら、手に持った紙の伝票表に鉛筆で「チャーハン」としたためると、ゆっくり厨房の中へ入っていった。おばあさんの出してくれた水はよく冷えていて、あたしの中を、背骨に沿ってゆっくりと落ちてゆく。カウンターからは鍋を振るおじさんの背中がよく見えた。汗で張りついた白いTシャツがおじさんの背中の丸みをより一層強調している。ママの部屋にあった水風船のような塊を思い出した。あれは一体何なんだろう。きっと大切なものには違いないのだろうけれど。ママがあの塊の話をあたしにしてくれたことはない。あの塊について、やっぱりちゃんとママに聞いてみたいと思った。
 しばらくして、おばあさんがチャーハンを運んできてくれた。人にご飯を運んでもらうのはなんだか新鮮でドキドキした。チャーハンのてっぺんには、ぷりぷりとした大きめの海老が乗っている。海老をどけて、レンゲで真ん中から山を崩すと、目の前に香ばしい湯気が立ち上った。チャーハンは味が濃くて、時々、小さな塩の塊が口の中でじゃりっと音を立てた。あたしは夢中になって、口いっぱいに頬張る。けれど、3分の2くらいまで食べ進めたところですっかりお腹いっぱいになってしまって、ママが小食なんだってわかった。
 
 お店を出たあと、まだ時間があったので近所を散策しようと思ったけれど、もうすっかり疲れてしまった。あたしはゆっくりとママの家へ帰ることにした。慣れたつもりでいたけれど、人の身体を借りるというのは思ってたよりもずいぶんくたびれる。心なしか自分の身体よりも神経を張りつめている気がする。チャーハンを気合で完食したせいか、お腹も苦しい。ママの身体に負担をかけてしまったと後悔した。
 エアコンを消し忘れていたおかげで、家の中はひんやりと心地良かった。汗でべたべたになったTシャツとジーンズを脱ぎ捨てて、下着姿でキッチンの床に横たわる。キッチンの床に耳を当てると、どこからかブーンという低くくぐもった音が聞こえた。これは、小さいときにママとよくやった。キッチンの床は家中のどこよりもつめたいというのは、あたしとママの大発見のひとつ。冷蔵庫に足の裏をくっつけると最高に気持ちいい。時々、パパに見つかってふたりで怒られたことを思い出す。
 あのときのママの隣にも、水風船のような塊はいたんだろうか。なかなか、あの塊の事が頭から消えなかった。あたしは身体がすっかり冷えると、ようやくシャワーを浴びた。そして、念入りに歯を磨いて、丁寧に髪を乾かしてからママに身体を返した。
 
 
***
 
 ピピピという電子音が聞こえる。眠りから覚めるときのような、ゆっくりと水面に浮上していくみたいな感覚。遠くで誰かがわたしの名前を呼ぶ声がする。ゆっくりと目を開けると、ツバサがわたしの顔を覗き込んでいた。ツバサは目覚めたばかりのわたしに「気分はどう?」「何か変わったところはある?」と矢継ぎ早に質問を浴びせた。これでは、ツバサのほうがわたしの母親みたいだ。
ツバサから返してもらった身体はなんともなかったけれど、おなかがいっぱいで少し苦しかった。
「何か食べてきたの?」
 わたしの問いかけに、ツバサは「チャーハン」とちょっと恥ずかしそうに答えた。
「楊貴苑の?」
 この辺で一番近い中華の店名を挙げると、ツバサが小さく頷いた。
「時々、塩のちっちゃい塊がじゃりってしなかった?」
「した! けど、なんかそれがクセになっちゃって」
 ツバサの顔がぱっと明るくなった。よっぽど好きだったのかもしれない。
「わかる!やみつきになるよね」
 わたしも嬉しくて自然と声が大きくなった。味の好みが似ているのかもしれない。明日、近所のお気に入りのご飯屋さんを教えてあげるよ、と言うとツバサはすごく嬉しそうに笑った。娘じゃなくて、友達だったらよかったのにとすこし思った。
 ツバサは、わたしがメイクをしている間もずっとわたしの側にいた。好きにくつろいでてよと言っても、わたしを見ているほうが楽しいらしく、机に広げたコスメをしげしげと見つめたり、わたしと一緒に鏡を覗き込んだりしていた。ツバサはわたしのことを知りたいと言っていたけれど、一体なにを知りたいんだろう。娘っていう言葉が本当だったとしても、ツバサの真意はわからない。
「ねえ、お仕事ついていっちゃだめかな?」
 ツバサが鏡越しにわたしを見つめる。ただ見てるだけだから、とツバサは顔の前で手を合わせて拝むようなポーズをした。
「だめだよ、幽霊出たって大騒ぎになるじゃん」
「大丈夫、あたしはマ……ミユにしか見えないから」
 ツバサはママと言いかけて、慌ててミユと言い直した。
「そうなの?」
「うん」
「ホステスなんて見てても面白くないよ?」
 そう言って突っぱねてみたけれど、ツバサは、それでもいいからと食い下がった。諦めてくれそうにないツバサの目を見て、わたしは仕方なく、見るだけならと渋々頷いた。
 
 せっかくなので、ツバサに服を選んでもらった。ツバサがあまりにも悩むので、黒のタイトなノースリーブワンピースとベージュのシフォン生地のプリーツワンピースの二択に絞ってみたけれど、それでもしばらく考え込んでいた。あまりにも真剣なので、わたしが思わずからかうと、ツバサは少し怒ったフリをしながらようやく黒のワンピースを指さした。「わたしもこっちの方が好き」というと、ツバサはすごくうれしそうに笑った。
 
 有名なブランドの路面店がずらりと並ぶ目抜き通りは、観光客でごった返していた。その中を、出勤前のホステスたちが水族館の魚のようにすいすいとすり抜けてゆく。わたしにとっては当たり前の光景も、ツバサにとってはそうではないらしく目を輝かせている。
 最初から嫌な予感はしていたけれど、ツバサはやっぱり、わたしの周りをふわふわと浮きながら移動した。誰かに見られたらどうしようとひやひやしたけれど、ツバサの言う通り、これだけ人がいるのに、誰にもツバサのことは見えていないようだった。その光景を目の当たりにして、どうして、ツバサはわざわざそんな姿になってまでわたしに会いに来たのだろうかと不思議に思った。
 
 出勤前のホステスで溢れる美容室は、妙な緊張感がある。整髪料と香水の匂いが混ざり合っていつも不思議な匂いがする。ツバサはやっぱり物珍しそうにあたりを見回していた。受付でお店の名前と源氏名を告げると、すぐに席に案内される。いつもの美容師さんにハーフアップで、とオーダーして、メイクポーチを広げた。わたしもベースだけ整えたメイクの仕上げにかかる。髪をセットしてもらう十五分の間にアイメイクとリップを終わらせるのがわたしのルーティン。
 ツバサは人に見えないのをいいことに、美容室の中を悠々と歩き回った。あんなふうにどんなところも、どんな人も観察出来たら楽しいだろうな、とうらやましかった。セットが終わって店を出ると、ツバサが少し照れくさそうに「綺麗だね」と言ってくれた。
 お店のあるビルにつくと、エレベーターの前にサホさんがいた。サホさんはわたしが初めてこのお店に入ったときにいろいろ教えてくれたお姉さんで、姉御肌でかっこよくて大好きな先輩。わたしが挨拶すると、おはよ、と言ってにっこり笑ってくれた。お店につくと、わたしたちはすぐに更衣室に向かった。
 更衣室の中は、女の子特有の甘ったるい匂いがする。わたしはペールブルーのサテン風のロングドレスをラックからとって、ワンピースを脱いだ。
「どっちのほうがお腹目立たなかった?」
 サホさんは、白いチュールのドレスとピンクのレース地のドレスをわたしの前に掲げた。
「白のほうですかね」
 たしか、昨日着ていた白いドレスのほうが切り替え位置が高くて、うまく目くらましになっていた気がする。
「じゃあこっちにしよ」
 サホさんは「ありがと」と言いながら白いドレスをハンガーから外した。サホさんがワンピースを脱ぐと、丸いお腹が露わになった。もう妊娠五カ月目になるらしい。サホさんが妊娠していることは、お客さんはもちろん、他の女の子たちも知らない。わたしとサホさんだけの秘密。
「だいぶ大きくなっちゃった」
 サホさんは白いドレスを着て、お腹をそっとなでた。わたしが順調ですねと言うと、目だけをほころばせて微笑んだ。その表情があまりにも幸せそうでいいなと思った。ふと、わたしも、ツバサを授かったときにこんな顔をしたのだろうか?と考えてみたけれど、上手く想像ができなかった。
 
***
 
 お客さんに「ユミちゃん」って呼ばれて、振り向いたママの笑顔を見た瞬間、ぞっとした。あ、これはあたしの全然知らない人だって思った。キャラを作ってるとかそういうレベルじゃなくて、なんかもう、魂ごと入れ替わってる感じ。お店の中のママは、あたしのママとは全く違う人なんだってわかって、なにもない空き地に急に放り出されたみたいな、ひどく心細い気持ちになった。あたしの知らないママに会いたくて来たのに、我ながら勝手だと思う。
 ママがグラスに注がれたシャンパンを一気に飲み干す。艶々としたやわらかな生地のドレスがママの華奢な身体の線をよりいっそう美しく引き立てていて、本当に綺麗。けれど、笑うタイミングも、笑顔の作り方も、声のトーンや話すスピード、目配せ、どれをとってもあたしの知ってるママじゃなかった。あれは一体誰なんだろう。にこにこ笑って、たくさんお酒を飲んで、お客さんたちと楽しそうに話しているママは、なんだかやけにいきいきして見えた。ママはやっぱりあたしのママじゃなくて、「ユミちゃん」のほうが本当の姿で、「ユミちゃん」として生きていたほうが幸せだったんじゃないかとか、考えて、勝手に打ちのめされた。どんなことであれ真実と向き合うためにここまできたっていうのに情けない。だんだん見てるのが辛くなってきて、あたしはママの座ってるソファの後ろでうずくまって、ただ時間が過ぎるのを待った。
 
 結局、最後のお客さんが帰ったのは午前一時過ぎだった。「帰るよ」という声に顔を上げると、あたしが選んだ黒のワンピースに着替えたママがいた。「なんでそんなとこにいるの?」と笑っているママは、ちゃんとあたしの知ってるママの顔で、あたしは心底ほっとした。
 通りに出るとすぐにタクシーが捕まった。タクシーには運転席にちゃんと人がいて、人間が運転していた。ママが家の住所を伝えると、運転手さんはそれをタブレット端末に打ち込み、ゆっくりと発進した。街は、夕方あんなに人がいたのが嘘のように静まり返っている。大通りにはまだタクシーがずらりと並んでいて、人の数よりもタクシーのほうが多いように見えた。真夜中の道路はほとんど車が走ってなくて、街灯や信号の光がやけに眩しく思えた。だいぶ酔いが回ってきたのか、隣に座るママは頬や肩を赤く染めて、ややぐったりしている。こういうとき、実体のないわたしにできることは何もなくてくやしい。ママに触れたくても触れられないのがさみしくて、仕方なく窓の外をぼんやり眺めた。ふいに、目の前にスカイツリーのおっきな根元が見えた。深夜のスカイツリーは、一番てっぺんと、輪っかみたいなところに一瞬、小さく光が流れるだけで、その他は灰色の影のように頼りなさげに夜と同化している。まるで幽霊みたい、と思ってはっとした。
 昔、あたしがうんと小さいとき、ママとパパがひどい喧嘩をして、ママが真夜中に泣きながらあたしを連れて家出したことがあった。眠くてぐずるあたしに、ママが照明の落ちたスカイツリーを指さして「ほら、あれがスカイツリーの幽霊よ」と教えてくれた。ママはまるで歌うように、スカイツリーの幽霊は夜な夜ないろんな街を散歩しているのだと彼の冒険譚を語ってくれた。
 あたしがママの嘘に気づいたのはいつだったんだろう。急に鮮やかに甦った記憶に、思わず笑みが零れた。あたしの知らないママも、こうして同じスカイツリーを見てたんだってわかってうれしかった。
 
 ママは、運転手さんに声をかけて家のすこし手前でタクシーを降りた。ママはまっすぐ立つこともできなくて、ふらふらしていた。
「酔ってるの?」
 あたしには、ママがどうして途中で降りたのかわからなくて、ただママが転ばないかだけが心配だった。
「へーき、へーき」
 いいからついてきて、とママはおぼつかない足取りで歩き出した。やっぱり、ママを支えられないのがもどかしい。
「もう寝ていいよ? あたしがちゃんと代わりに歩いて帰るし」
 と言ってみたけれど、ママは「だいじょーぶよ」と突っぱねた。ちゃんとついてきてね、とふらふらと歩く背中はひどく幼く見えた。
 
 住宅街の細い路地を抜けると、ぽっかりとあたりから取り残された空き地のような公園があった。申し訳程度に置かれた背の低いすべり台と鉄棒、小さなベンチをたったひとつの外灯が照らしている。ベンチのそばには、公園内での禁止行為を示した注意書きの看板が立っていた。ボール遊びをしている子、ポイ捨てをしている子、焚火をする子や鳩のエサやりをする子のイラストに大きな赤いバツマークが描かれている。そのどれもが色褪せて顔や足や翼などあちこちが欠けていた。ボール遊びをしている男の子の青い帽子だけがやけに鮮やかに残っている。
 ママは公園の入口にあった自動販売機で水を買って、ベンチに座った。仕方ないので、あたしも隣に座る。買ったばかりの水を半分以上いっきに飲み干すと、ママは、ふうと息をついて目を閉じた。
「本当に寝てもいいよ」
 あたしがもう一度言うと、ママは「でも、道わかんないでしょう?」と笑った。たしかにそうだった。あたしがうつむいて黙ると、
「いいの。堪能してるの」
 と呟いた。気分が悪くなる少し手前、身体がふわふわと浮遊感に包まれているときが一番気持ちいいんだから、とママは笑う。わたしの娘なのにわからないの?と冗談っぽく言った。欠け始めた月はすこし歪な形で空に浮かんでいる。時折、細い雲が月の上をなでるように流れてゆく。
「ツバサはほんとうにわたしの娘?」
 ママが呟くように言った。
「なんでわたしにあいにきたの?」
 ママはとろんとした目つきであたしをまっすぐ見つめた。ママの目は吸い込まれそうなほど深く暗い。
「こうやって会いに来ても、もう手遅れなんじゃないの?」
 だって、ここはわたしの記憶の中なんでしょう?未来は変わらないんでしょ?とママは淡く微笑んだまま言った。本当にその通りだ。あたしがこうしてママのそばにいたって、ママが死んでしまう未来は変えられない。どんなにママと仲良くなったって、ママの記憶に残ることもできない。
「……でも、手遅れでなきゃ触れられないものもあるんだよ」
 あたしは絞り出すように言った。あたしはずっと怖かった。あたしがママから何かを奪ったんじゃないかってことが。そして、それをママが後悔してるんじゃないかって知ることが。わざわざママの過去にやって来てもなお、勇気がでないくらいに。今さら、そんなことを知ったところで、手遅れなことに変わりはない。だけど、これがきっとあたしがママに聞ける最後のチャンスだ。どんなことであれ、知らないままママと別れるのはいやだった。
 風がママの髪を揺らした。ママの横顔は生まれた時からずっと見てきたはずなのに、知らない人みたいで、ひどく幼く見えた。このとき、ようやくママがまだ子どもなんだって気づいた。
 
 だいぶ酔いが醒めたのか、公園を出る頃にはママは普通に歩けるようになっていた。家に帰ると、ママは「お風呂はいいや」と言って、メイクだけ落として寝るみたいだった。ママは水風船のような塊を避けるようにベッドの右端に寝そべった。あたしは意を決して「それなに?」と聞いた。一瞬、ママの表情が凍り付いたように見えた。あたしはひやっとしたけど、ママはすぐに「ツバサにも見えるの?」と聞いた。あたしが頷くとママは、「わたしの姉さん」とだけ言って寝てしまった。
 
 ママが眠ってしまうと、薄暗い部屋にあたしとママの姉さんのふたりきりになった。ママに姉がいたなんて話は、ママからも、おばあちゃんからも聞いたことはない。ますますママのことがわからなくなる。今日一日、ママの身体を借りて、ママと一緒に過ごして、一番近くにいたはずなのに、まだまだ全然遠い。明後日にはここから消えてしまうのに。残された時間を数えて、焦る気持ちがあたしの胸を締め付けた。
 
 
3
 
 ママは朝九時ぴったりに目を覚ました。昨日のことはあまり覚えていないらしく、ごめんねと謝られた。
「昨日、寝る前に話したこと覚えてる?」
 あたしの問いかけにママは小さく首を振った。
「なあに? わたしなんか変なこと言った?」
 ママが少し恥ずかしそうに笑う。
「姉さんってなに?」
 あたしはママをまっすぐ見つめた。ママはまた「ツバサにも見えるの?」と驚いた顔をした。あたしが小さく頷くと、ママはさっと顔を背けて「言いたくない」とつぶやいた。
 
 ママは逃げるようにわたしに身体を明け渡した。わたしはいいって断ったけれど、ママは無理やり寝てしまった。本当はママともっと話したかったのに。仕方がないので、さっさと家事を終わらせて出かけようと思った。掃除機をかけて、洗濯機を回す。ママの身体で、あたしの知ってるママになりきってみたり、今のママだったらどんなふうにするんだろうって想像しながら身体を動かしていると、ほんの少しだけママに近づけているように錯覚できて、気持ちが慰められた。
 
 家を出ると、ちょうどお昼前だったので、ママに教えてもらったパン屋さんでベーグルとバナナオムレットを買った。どちらも小さめだから、今度はママのお腹にもさほど苦しくないはず。パン屋さんを出てふらふらと歩いていると後ろから、か細い鳴き声が聞こえた。振り返ると路地の真ん中に三毛猫がいた。毛艶の整い方や、身体の細さからまだ若い猫のように見える。猫は夏の光のような金色の目であたしをじっと見つめると、ついてこいとでもいうように、しっぽをぴんと立てて歩き出した。追いかけてゆくと、小さな公園に辿り着いた。この辺は、公園が多いのかもしれない。ブランコ、滑り台、パンダの乗り物、鉄棒、そしてベンチと水飲み場があった。昨日の公園よりも遊具がたくさんあるのに、不思議と子どもたちの姿はなかった。猫は、水飲み場の日陰にごろりと寝転んだ。あたしもベンチに腰かけてベーグルを齧る。しばらくすると、つばの広い帽子を被ったおばさんがやってきた。おばさんが猫に向かって「みーちゃん」と呼びかけると、猫は目をつむったまま尻尾を二回振った。猫はおばさんの厚みのある小さな手に撫でられて気持ちよさそうだった。ひとしきり猫を撫でたあと、おばさんはあたしに軽く会釈して公園をあとにした。
 ベーグルを食べ終わって、バナナオムレットから溢れてくる生クリームに苦戦していると、今度は腰が九十度くらい曲がったおじいさんがゆっくりとやってきて、猫を「チャチャ」と呼んだ。チャチャと呼ばれた猫は目をつむったまま、今度は耳をぶるんぶるんと二回揺らした。それが面白くて、あたしはその猫のことを好きになった。猫も名前によってキャラを演じ分けているのだろうか?おじいさんの節の目立つ浅黒い手に撫でられて、猫は満足げだった。
 生クリームでべたついた手を水飲み場で洗って、あたしも猫の前にしゃがみ込んだ。猫はあたしの存在なんて気にも留めてないのか、目を閉じたままだった。
「みけこ」
 あたしも猫に名前をつけて呼んでみた。猫はうっすらと目を開けて、細く鳴いた。あたしは、みけこのまだ白くなだらかなおなかをそっとなでた。
 
 あたしは公園を出るとき、ふと、生まれ育った街へ行ってみようと思い立った。ママがパパと結婚して移り住んだ街だ。あたしが生まれた家はまだ影も形もないだろうけれど、今はなにがあるのか見てみたかった。駅員さんに行き方と切符の買い方を教えてもらった。金の細ぶち眼鏡をかけた若い男の駅員さんは怪訝な顔をしながらも、一緒に券売機で切符を買ってくれた。券売機から出たきた切符は少しあったかくて、なんだかそれがうれしかった。電車の路線はあたしたちの時代とさほど変わってないように思えた。けれど、電車の速度は遥かにのんびりで、停まる駅も倍近くあった。内装もだいぶ違う。天井からは中吊り広告が垂れていて、本物を見るのは初めてだった。一時間ほどかけてようやく辿り着いた街は、青々とした濃い草の匂いがした。駅舎も小さくて、まさかここにビルやマンションが立ち並び、人々のざわめきやネオンの明かりで満たされる日がくるなんて誰も思わないだろう。何もかもが違いすぎてまったく知らない場所みたいだった。駅を出ると、目の前に小さな商店街があった。アーケードに覆われて日陰になっている分、ちょっとだけ涼しい。でも、ここは将来全部駅ビルになってしまう。あたしはそこで友だちとよく買い物をしたり、お茶したりしてたから、駅ビル自体にそれなりの思い出も思い入れもある。けれど、いざこの風景を目の前にして、これが失われてしまうと思うと、すこし切ない気持ちになった。ママの身体にいるからそう思うのだろうか。
 商店街をまっすぐ抜けると、郵便局のある少し大きな通りに出る。郵便局の裏手には小さな教会と図書館があって、図書館の角を左に曲がって、さらに百メートルほど進むと、あたしの生まれたマンションが建つ場所に辿り着くはずだった。図書館の角を曲がるとすぐに、緑色が飛び込んできた。目の前に広い果樹園が見えた。近づいてみると、木の枝には大きな実がなっていて、そのひとつひとつが大切そうに白い袋に包まれている。袋の隙間から梨の実が見えた。梨はまるまると大きくて、光に当たって金色に輝いていた。梨畑から吹く風はほんのり涼しくて、あまい匂いがした。きっと、この風の匂いをママは知らない。ママがこの街に来るのは、この梨畑がなくなったあとだから。あたしは、ママにこの場所を覚えていてほしいと思った。あたしとここに来たことも。この風はママの脳には刻まれない情報なのかもしれない。けれど、ママの身体で、皮膚で、感覚で覚えていてほしくて、あたしは胸いっぱいに空気を吸いこんだ。梨畑の向こうには、スカイツリーが空に向かってまっすぐに立っているのが見えた。
 
 帰りの電車はほとんど人が乗っていなくて、空いた座席には傾き始めてもなお容赦ない日差しが車窓からさんさんと降り注いでいる。向かいの席にお腹の大きな若い妊婦さんがひとりで座っていた。彼女は膨らんだお腹に両手を添えて、目を瞑ってしずかに微睡んでいる。ふと、こんな絵をどこかで見たことがあるような気がした。シンプルで優しい線だけで描かれた天使の絵。絵は思い出せるのに、題名だけがどうしても思い出せない。
 わたしも、ママのぺたんこのお腹にそっと手をあてた。この平たいお腹が、四年後にはあんな風に大きくなるなんて信じられない。ママは、自分の膨らんでゆくお腹を見て何を感じていたんだろう。梨畑の風の匂いがよみがえる。あたしはお腹に手をあてたまま、目を閉じて想像した。ママの平らなお腹があたしを宿して徐々に膨らんでゆく感触を、目の前の若い妊婦のいまにもはち切れそうな重みを、そして、遠い未来に置いてきたわたしのお腹の膨らみから聞こえる鼓動を。
 
***
 
 「姉さんの話を聞かせて」
 ツバサはわたしに身体を返してくれると、すぐにそう言った。私はちょうど、出勤に備えてメイクをしようとしているところだった。ツバサは、今日もシャワーを浴びてから返してくれたらしく、身体はどこもかしこもぴかぴかに磨かれていたけれど、どこか知らない匂いがした。
「わたしじゃなくて、ツバサの話を聞かせてよ」
 今日はどこに行ってきたの?とはぐらかすと、ツバサはあからさまに傷ついた顔をした。その表情を見た瞬間、急に身体の奥から苛立ちのようなものがこみ上げた。
「なんでしつこく姉さんのこと聞くの?」
 つい棘のある言い方をしてしまう。だけど、姉さんは、わたしにとって誰にも踏み込まれたくない聖域だった。ツバサは一瞬、何か言いたげな顔をしたけれど、俯いて黙り込んでしまった。
「もう姉さんの話はしないで」
 わたしは俯くツバサに吐き捨てるように言って、背を向けた。これ以上ツバサと話していたら、もっとひどいことを言ってしまいそうで怖かった。
「じゃあ、仕事中の身体に入れてよ」
 予想外の言葉にわたしはびっくりして、思い切りツバサを睨みつけた。仕事は、わたしにとっても、姉さんにとっても大切なもので、部外者に口を出されたくなかった。わたしが言い返そうとした言葉を、ツバサが遮った。
「どうしてママはユミって呼ばれてるときのほうが嬉しそうなの?ママにとってユミってなに?姉さんって何?」
 ツバサのなにか確信をもっているような言い方にぞっとした。
「やめて!」
 わたしはもう限界だった。これ以上、詮索されたり追及されるのはごめんだ。ただでさえ、身体を貸したり、もう十分すぎるほどツバサには協力してあげてるつもりなのに。
「勝手に踏み込んでこないで!」
 勢いよくリビングの扉を閉めて、わたしはそのまま仕事へ向かった。
 
 電車の中でも、美容室でも、思い出すのはツバサの顔だった。あんな風に傷つけるつもりじゃなかった。たった数日の付き合いだけれど、それでも、ツバサが幽霊だろうと、娘だろうと関係なく、なにか重大な決心をしてわたしの元にやってきたってことは十分すぎるほどわかっていた。だからこそ、わたしはなんでもツバサに話してやるべきだったのにと後悔する一方で、決して姉さんの話はしたくないという気持ちもある。姉さんのことは、今まで誰にも打ち明けたことがない。
 
 お店に着くと、シホさんとアルバイトのナナさんがもうすでにスタンバイしていた。更衣室でドレスに着替えながら、必死に頭を切り替えようとする。今日は、大事なお客さんがいらっしゃる日だから、気を引きしめなくてはいけない。考えないようにしようとするほど、別れ際に見たツバサの顔が頭から離れなかった。
 わたしが着替え終わると、すぐに奥村さんがいらっしゃった。奥村さんは大きな製薬会社の三男坊で、自由気ままに画家としても活躍している。おおらかで、よく笑う方。大きな身体を揺らして、全身で笑う姿を見ているとみんな楽しくなってしまう。
「この前は本当にありがとう」
 奥村さんはVIPルームのソファに座るなり、わたしとシホさんにそう言った。先週、わたしとシホさんはここで、奥村さんの五十歳を祝うささやかなパーティをしたのだ。お菓子作りが得意なシホさんがケーキを焼いて来てくれて、わたしはプレゼントと花束を用意して、奥村さんはたいそう喜んでくださって、本当に楽しかった。
 今日は、そのお礼に来てくださったという。シャンパンを入れてくださって、わたしとシホさん、それからナナさんも来て一緒にいただく。シャンパンのつめたさが、わたしの身体の中をすべり落ちてゆく感覚が気持ちいい。わたしは、すべての感覚の中で「冷たさ」がいっとう好きだと思う。つめたさはいつでもわたしに姉さんを思い出させてくれる。
 奥村さんが、シホさんが、ナナさんが、わたしを「ユミちゃん」と、姉さんの名前で呼んでくれる。わたしの演じる、「明るくて優しくていつも笑っている姉さん」という存在を信じたり、頼ったり、好きになってくれる。わたしは、それがたまらなくうれしい。
 
 「お腹のなかで透明なタマゴのまま消えてしまったのよ」
 母は姉さんの話をするとき、必ずこの言葉で始めた。最初は、わたしに嘘をついているんだと思っていた。なぜなら、姉さんは、あたしが生まれた時からずっと、わたしのそばにいたから。母がわたしに初めてその話をしてくれた時も、両親がわたしを通して姉さんを思い出しているときも、姉さんの消えた日に泣き出す母を慰めているときも、姉さんはわたしと同じ大きさのまん丸の身体を光に透かしながら、いつもわたしの隣にいた。
 10歳までは、両親がいつもわたしにしか話しかけなくても、家に姉さんのモノが一切なくても、わたしは心のどこかで両親も姉さんの存在を知っているんだと信じていた。けれど、ある日、わたしがいつもベッドの右端に寄って眠るのを笑われて、初めて、姉さんがわたしの世界だけにしか存在しないのだと理解した。
 それ以来、わたしは姉さんをこの世界に留めるために生きることを決めた。「明るくて優しくていつも笑っている姉さん」を演じることで。姉さんは母に愛されるよい娘であり、わたしの規範だった。けれど、わたしが成長するにつれて姉さんはどんどん小さくなっていった。わたしがどんなに頑張って姉さんのフリをしたって、それは止められなかった。わたしが大学に入るころには、姉さんはもう手のひらに収まるほど小さくなってしまっていた。姉さんがいなくなってしまうことが怖くて、何も手につかず自暴自棄になっているときに人づてに紹介されたのがこの仕事だった。最初はただのアルバイトとして。姉さんの名前を使って働き始めてしばらく経って、「ユミちゃん」を指名してくれるお客さんが徐々に増えてきた頃、姉さんが少し膨らみはじめた。その時、この仕事がわたしにとって天職だと気づいた。わたしが「ユミちゃん」として人から求められて、売り上げをあげた分だけ、姉さんはどんどん膨らんでいった。
 姉さんの名前を使って、みんなに「ユミちゃん」と呼ばれながら仕事をして、きっと姉さんだったらそうしたであろう柔らかい微笑みを振りまく。時々、お店の女の子と諍いになって「ユミちゃんってさ」と陰口を叩かれたりする。たまに、男が熱い素肌をわたしに押し付けながら、切羽詰まった声で「ユミちゃん」と囁く。そうやって、姉さんの存在をすこしずつ他の人の人生に、世界に刻み付けていくことで、わたしと姉さんはずっと一緒にいられる。わたしはそう信じている。
 
 奥村さんとシホさんとナナさんとわたしの四人でアフターに行くことになった。タクシーの中で、奥村さんは、これから行くところがオフィス街にほど近く、かつて花街だったところなのだと教えてくれた。大通りでタクシーを降りて、少し歩く。大通り沿いの建物はみな整然としているのに、少し路地に入ると雑居ビルがひしめきあって猥雑な雰囲気に変わるのが面白かった。
 奥村さんの行きつけのバーは、こぢんまりとした三階建てのビルの二階にあって、一階に焼肉屋さん、三階にゲイバーが入っていた。そのビルには階段しかなく、みんなでやや急な階段をゆっくり進んだ。壁に取り付けられた銀色の手すりは、連日の熱帯夜にも関わらず異様につめたかった。
 バーは奥村さんと昔馴染みのカナエさんという綺麗な着物姿の女性と、舞台女優をやっているアルバイトのリカさんのふたりで切り盛りしていた。カナエさんは笑顔が柔らかくて、淡く透けて涼しげな生成りの絽の着物がよく似合っている。カウンターとソファのあるテーブル席がふたつだけのひっそりとしたつくりのバーで、漆喰の壁とぎりぎりまで絞られた淡い間接照明のせいか洞窟の中にいるみたいだった。平日の深夜だからかお客さんはわたしたちだけで、カナエさんは奥のテーブル席に案内してくれた。焦げ茶の革張りのソファは、びっくりするほどやわらかくて、わたしの身体をやさしく包み込んでくれる。奥村さんは、ここでもボトルをあけて、みんなで赤ワインを飲んだ。2杯目あたりで、奥村さんが座ったまま寝てしまった。カナエさんが、そのまま寝かせておいてあげましょうと言って、わたしたちだけカウンターに移動した。カウンターでは、リカさんがカクテルをつくってくれて、レシピも教えてくれた。わたしはツバサにつくってあげようと思ったけれど、今日の夜には消えてしまうと言ってたことを思い出す。胸にぽっかり穴が空いたような気持ちになった。
 しばらくして、奥村さんが目をさましたので、ようやく今日の会がお開きになった。バーを出るとき、奥村さんはわたしたちに「ありがとうね」と言って、紙幣を三枚ずつ渡してからタクシーに乗った。わたしたちは、車道に一台だけ走るタクシーの背中がすっかり小さくなって見えなくなるまで見送った。
 
 午前三時、真夜中の街は人通りがなくて静か。雲の隙間から見える月がやけに眩しい。
「カラオケで時間潰さない?」
 しんと静まり返った大通りに沿って歩きながら、サホさんがわたしとナナさんに尋ねる。ナナさんは家が近いからこのままタクシーで帰ると言ったので、わたしはサホさんと一緒に行きますと答えた。ナナさんのタクシーを見送ってから、サホさんとまた歩く。サホさんの高く鳴るヒールの音が妙にかっこよく聞こえて、わたしもパンプスの踵をしっかり地面に着けてみる。ふと、ツバサが今までわたしの身体でどんな風に歩いていたのか気になった。わたしの身体はツバサにとって歩きやすかったのだろうか。わたし自身よりも、わたしの身体のほうがツバサと繋がり合っているような気がした。
 大通り沿いに皓々と明るい光を振りまくカラオケ店を見つけた。中に入ると、ピンクのボブのいかにも大学生っぽい店員さんが出てきて対応してくれた。笑ったときに見える八重歯がすごくかわいいと思った。
 サホさんが重い防音扉を開けて、部屋の電気をつける。部屋の中はすこし雨の日みたいな匂いがした。壁に取り付けられたモニターの中で、猫の着ぐるみが音楽に合わせて踊っている。
「せまー」
 横並びに置かれたふたつのソファを見てサホさんが笑った。ソファは小ぶりで、大人ふたりが寝そべることはできなさそうだった。
「ですね」
 わたしはソファの上にバッグを放り投げて、エアコンのリモコンを手に取った。リモコンはなぜか英語表記で、見慣れないマークが並んでいる。とりあえず黄色の電源ボタンらしきボタンを押してみると、送風口からほのかに冷たい風が出てきた。すこし不安に駆られながらも、温度を29度に設定して諦める。
「飲み物とりいこ」
 サホさんに言われてドリンクバーに向かうと、ファミレスでよく見るタイプの機械のほかに、ソフトクリームのマシンもあった。わたしが迷わずソフトクリームをカップに盛ると、サホさんは「若いね」と笑った。けれど、さんざん迷った末に、サホさんもソフトクリームを選んだ。
 わたしたちは、部屋に戻ると黙々とソフトクリームを食べた。酔いと眠気で歌う気力なんてない。わたしは、ぼんやりとモニターに映る猫の着ぐるみを眺めた。
「来月半ばくらいから休もうと思うんだよね」
 サホさんが唐突に呟いた。サホさんとの会話はいつも急に始まる。わたしは、そうですか、と頷いたあと、何を言っていいかわからなくて黙ってしまった。エアコンから吐き出される風はやっぱり冷たい気がする。
「名前をさ、考えたんだけど」
 子どものね、と言って、サホさんがわたしにスマホの画面を見せてくれた。グーグルの検索窓に「琉翔」という漢字二文字が入力されている。
「りゅうと」
 サホさんがよく通る声で読み上げる。
「琉は宝物って意味で、翔はどこまでも遠く、高く羽ばたいてほしいって意味」
「きれいな名前ですね」
「でもね、今朝、姓名判断で調べてみたら画数が悪いの」
 ほら、とサホさんが見せてくれた画面には「佐藤琉翔」と縦書きで書いてあった。サホさんの苗字が佐藤って、初めて知った。
「外格ってやつが大凶になってるでしょ?」
 そうですね、と言いながら外格ってなんだろう?と思った。
「旦那の家系がみんな「と」で終わるんだ、旦那が大翔で旦那の弟が優斗」
 琉翔って字、気に入ってたんだけど他の字探さなきゃ、と不満げに漏らしながらサホさんはスマホで漢字を探し始めた。サホさんが「旦那」って呼ぶのも、こんな風に漢字で悩むのもなんだか意外だった。わたしも一緒に「と」って読む漢字を探す。見つけた漢字をサホさんと見せ合いながら、そういえば、今まで本名を知ってる女の子はひとりもいなかったなとぼんやり思った。ほとんど毎晩顔を合わせて、一緒に働いてたのに。けど、本名は知らなくても、こうやって飲み明かすし、誕生日やお酒の飲み方、同棲してる彼氏のこととか、妊娠してることとか、普段は内緒にしてることも知ってる。すこし不思議で、でも、この距離感が心地いい。何も知らないから、何でも言える気がする。
「わたしの名前、本当はミユっていうんです」
 サホさんはスマホから顔をあげて、わたしを見た。
「本当はわたしの前に生まれてくるはずだった姉がいて、その子がユミって名前で、ユミじゃないからミユって。わたしの親、適当すぎじゃないですか?」
 わたしが笑うと、サホさんは、うーんと言いながら難しい顔をした。
「そうかな?一生懸命考えたと思うけどな」
 名前は一番最初にあげるものだからね、とやさしい声で言った。そして、「ミユちゃんも、親になったらわかるのかも」と冗談っぽく笑った。
 わたしも、サホさんのように真剣に悩んでツバサと名付けたんだろうか。もし、そうだとしたら、どんな意味を託したんだろう。わたしは、娘を名乗るツバサの名前にどんな漢字があてられているのかすら知らない。スマホに目を落とすサホさんの姿に、自分を、母を重ねてみる。母はいつもの視線の合わない母の姿のままで、何を考えていたのかまったくわからない。ふと、ツバサはこういう風に、自分とわたしを重ね合わせたくて、わたしのもとにやってきたんじゃないかと思った。わたしは、母と向き合う勇気がなかったけれど、ツバサは違う。もしそうなんだとしたら、わたしはちゃんとツバサと向き合わなくてはいけないんじゃないだろうか?ツバサのためにも、わたしのためにも。
 
 結局、代わりになるような良い漢字は見つからなかった。サホさんは、まだもう少し悩んでみるよと笑っていた。外はもう明るくて、朝日がじんわりと熱い。ずっとソフトクリームを食べていた唇はまだすこしだけひんやりしている。サホさんと地下鉄の改札で別れて、ひとりで電車に乗った。ガラガラの席に座った瞬間、どっと疲れが押し寄せてきた。一日中パンプスを履きっぱなしだった脚がひどく怠い。眠りに落ちる瞬間、わたしはまたツバサの顔を思い浮かべていた。
 
 ながい夢をみていた。「あなたの姉さんは、わたしのなかでタマゴのまま消えてしまったのよ」母はあたしと手を繫いで、ふいに小さく歌うようにつぶやいた。ちょうど、わたしの四歳のお誕生日の日。お誕生日会のために、団地の裏手にある貯水槽の前でデイジーを摘んでいた。よく晴れた日の夕暮れで、あたりに人影はなく、わたしと母のふたりきりだった。日が傾いていても、風は灼けたアスファルトの匂いがした。デイジーの白く頼りない花弁が揺れている。貯水槽は褪せた緑色のフェンスにぐるりと囲まれていて窮屈そうに見えた。貯水槽の方へと歩きだしたわたしに母は「あまりそっちへ行ってはだめよ」と声をかける。
 ふと、わたしはフェンスの中にひときわ背の高いデイジーを見つけた。わたしは吸いこまれるように、フェンスの隙間に腕をねじ込んで、手を伸ばした。デイジーを手折って、腕を隙間から引き抜いたとき、焼けるような熱さを感じた。驚いて自分の腕を見ると、二の腕の真ん中から手首のあたりまで、まっすぐに赤い線が引かれている。線は、みるみるうちに太く滲んで、痛みに変わった。母の悲鳴と、わたしの泣き声が混ざり合って鼓膜をめちゃくちゃにする。母がわたしに向かってなにかを怒鳴っているけれど、わたしにはそれがひとつも聞き取れない。一瞬、「間違いだったわ」という母の低い声だけがはっきりと聞こえて、いつまでもわたしの中にこだましていた。
 そうだ、姉さんは、このとき生まれたんだ。生まれた時から一緒にいたわけじゃなかった。姉さんはこの日、わたしが生み落としたんだ。わたしはようやく、ツバサがわたしに会いに来た本当の理由がわかった気がした。
 
 目を覚ました時、わたしは泣いていた。電車をひどく乗り過ごしてしまったみたいで、いま自分がどこにいるのかすらわからない。もうすぐツバサが消えてしまう。ただ、いますぐツバサに会いたかった。
 
***
 
 ママが帰ってきたのは、お昼を少し過ぎたころだった。わたしの顔を見るなり泣いてしまって、ひどく疲れているように見えた。わたしは、すぐにママを寝かしつけると身体に入って、ママの代わりにシャワーを浴びた。ママの身体を泡とともにやさしくなでる。今のママの肌の感触をあたしは知らないはずなのに、触れるとなぜかなつかしい気持ちになった。その度に、あたしは、あたしたちはかつてひとつだったんだって確信する。
 ママが出て行ってから、あたしは取り返しのつかないことをしてしまったと後悔した。ママが大切にしていたものを踏みにじってしまったんだ、と。
 思春期の頃、ママが口癖のように「なんでも話してね」っていうのがきらいだった。なんでもなんて話せるわけがないし、そうやって親だからって子どものことをなんでも知ろうとするのは卑怯だと思った。ママは、まだあたしのママじゃなかった人生のほうが長くて、あたしの知らないママを持っていて、たくさん秘密を抱えているくせに。けれど、当時はそんなことも言えなかった。ただ、ふいにママの横顔や笑みの端や背中にあたしの知らないママが垣間見えるたびに、自分がママにとって異物なんじゃないかと怯えることしかできなかった。だからって、あたしは、ママの死にかこつけてママを暴こうとした。あたしのほうがよっぽど卑怯だ。
 
 寝室には午後のいちばん透き通った光が溢れていて、ママの姉さんが淡く光っていた。あたしは、ママの真似をして、姉さんの横に寝そべってみる。このまま眠ったら、夢の中でママに会えるのかな、ふと思い立って目を閉じた。
 
 夢の中で、あたしはまたシャワーを浴びていた。さっき洗ったばかりのママの身体を洗う。ママの白いお腹が次第に大きくなってゆく。ものすごいはやさで膨らんでいくそれを、わたしはただ見ていることしかできない。皓々と月のように冷たい光を宿して、浴室いっぱいに広がっていく。あたしは段々怖くなって、ママの身体から出ようとするけれど、ちっとも出られない。どうして?ともがいて、あがいて、はたと身体を見つめた瞬間、それが自分の身体だと気づいた。
 「ツバサ!」
 ママがあたしを呼ぶ。気がついたら、あたしはママの寝室にいた。けれど、ママがあたしがかつて選んだ黒のタイトワンピースを着ていて、あぁこれも夢なんだって気づいた。
「ミユ」
 自然と零れた声に、ママは笑った。ぽろぽろと涙を流していて、うんと幼く見えた。
「ごめんね」
 ママはあたしをまっすぐ見つめた。
「わたし、あなたにひどいこと言ったんだね」
 だから、こうしてわたしのところに来たんでしょう?と言って、ママはまた涙を零した。あたしは咄嗟にママを抱きしめる。夢の中だからか、あたしはママに触ることができた。それだけのことがたまらなくうれしかった。ママは、ママの姉さんの話をしてくれた。たまごのまま死んでしまった姉さんがいたこと、自分が生まれたことを「間違いだった」と言われた日からずっと一緒に生きてきたこと、姉さんをこの世界に留めるために「ユミちゃん」として働いてきたこと。自分が母親にひどいことを言われた記憶を思い出して、ママもあたしに対してひどいことを言ったんじゃないかと不安になったこと。ママがかつての自分の母親のようにあたしに呪いをかけたから、だから、あたしがわざわざ会いに来たんじゃないのかと思っていること。あたしは、違うよと言って首を振った。
「違うよ、ママはちゃんとあたしを、めいいっぱい愛してくれたよ」
 どうしたらちゃんと伝わるんだろう?あたしは必死にママを抱きしめた。
「ただ、あたしは、あたしのママになってからのママしか知らないから、ママが本当はどう いう人だったのか、あたしを産んだことで何か失ってしまったんじゃないかって、あたし のせいでママの人生を壊してしまったんじゃないかって」
 言葉よりも先に涙が溢れてしまう。ちゃんと伝えなきゃと思うほど、声がつっかえてうまく話せない。
「でも、それを知りたいと思ったのは、あたしが自分も母親になるってわかって、だから怖くなって」
 ママが死んじゃうからって、無理やりこんなふうに会いに来て、それでさらにママを傷つけて本当に最低なやつだと思った。自分がくやしくて、やりきれなくて、涙が止まらない。もうなにもしゃべれなかった。けれど、ママはずっとあたしの背中をなでてくれた。もうなんでも知ってるみたいに。
 
 
「こういうのって、母娘にあまねく降りかかる呪いみたいなもんなのかな」
 あたしが冗談っぽく言うと、ママは、さあ?と笑った。あたしたちはもう泣かなかった。ひとしきり泣いて、お互いすっきりした顔をしていた。泣き疲れて、ふたりともベッドに寝そべった。
「でも、どうして断ち切れないのかな。簡単なはずなのに」
 産みさえしなければ、という言葉がよぎったけれど、ママもあたしも言えなかった。言いたくなかった。
「どうしてだろうね」
 あたしはママの手をぎゅっと握った。ママの手のひらはびっくりするほど熱くて、夢の中にも温度があるんだってびっくりした。
「ママは何か失った?」
 あたしの問いかけに、ママはわかんないよ、と笑った。
「てか、そんなのこっちが聞きたいよ。ツバサの方が今は先輩でしょ」
 ママはあたしのお腹をそっとなでる。
「ママは、あたしのせいで姉さんを失っても、それでもいいって思える?」
「それでも、ツバサにまた会いたいな」
 そう言ってママが笑うから、あたしはうれしくて胸がぎゅっとなった。
 
 本当ははやく目を覚まさなきゃいけないのに、あたしはママと離れたくなくて手を離せなかった。ママの手のひらを日に翳すと、小指の付け根に小さなほくろを見つけた。
「こんなとこにほくろあったっけ?」
 あたしがびっくりして聞くと、ママは「え?うそ」と言ってほくろをしげしげと見つめた。ママも今まで気づかなかったらしい。あたしは、ママのほくろを人差し指で三回押した。なに?ってママが笑う。
「あたしたちの合図にしよ。皮膚にも、記憶って残るんだって」
 だから、もしあたしのことを忘れてしまっても、きっと未来で思い出せるように。
「ママの身体に戻って、もう一回押してから行くね」
 あたしがそういうと、ママはにっこり笑って頷いた。
「もう行きな」
 ママがあたしの頬をなでた。あたしのよく知っている手つきだった。
「ママみたい」
 あたしが笑うと、ママはあたしの頬を軽くつねって「ツバサ」と呼んだ。
 「ミユ」とあたしが呼ぶと、目をきらきらと輝かせて、心の底から幸せそうな顔で笑った。
 
 あたしがママの身体に戻ってくると、もう部屋の中は真っ暗になっていた。薄闇の中で、ママの手のひらを見る。小指の付け根の小さなほくろを三回押した。
 あたしの意識はとろとろとどこかへ向かって流れ落ちてゆく。
 
 
 
4
 目を覚ますと、白い天井が見えた。自分が仰向けに寝ていることだけはわかった。頭には大きなヘルメットのようなものが被せられていて重い。予定より早く戻ってきてしまったんだろうか。あたりはしんとしていて誰もいない。頭に被せられているものを脱いだ。電気の消えた部屋は薄明るくて、光の感じから夜明けの頃だとわかった。しばらくぶりに戻ってきたあたしの身体は怠くてかたくて、なんだか自分じゃないような気がした。目の端で生成りのカーテンが揺れた。開けっ放しの窓から入ってきた風は甘い匂いがする。ふいに、右手に体温を感じた。生まれてからずっと、何度も握ってきた手。その乾いた感触に、帰ってきてしまったんだ、と実感した。隣に横たわるママは、硬く目を閉じている。枯葉のような手のひらにミユの熱い手のひらが重なった。あたしは身体を起こして、ママの強ばった右手をゆっくり開いた。淡い光の中で、小指の付け根にほくろがちゃんとあるのが見えた。あたしは震える人差し指で三回、とんとんとんとほくろを押す。ママはゆっくりとあたしの手を握った。風でカーテンが大きく揺れる。窓の外には梨畑が見えた。
 あたしはまたママの隣に寝そべった。膨らみはじめたお腹の上に握ったままのあたしたちの手をそっと置いた。夜明けの風は甘く、なつかしい匂いがした。
 
 
 
 
 

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内容に関するアピール

自分の中にある「ほんとうのこと」を書きたいと思って書いていたらこんなお話になりました。

心のこと、身体のこと、自分のこと、他人のこと、いろんなやるせなさと愛のお話だと思います。

1年間本当にありがとうございました。

 

文字数:105

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