倒れこむように走れ
オリンポス山の縁が輝いている。
まだ太陽は昇らず、ぼんやりとして薄明りの中で、火星小麦が風に揺られる音と自分の心臓の音、それにあの人の身体に取り付けられた吸排気循環ポンプの音だけが聞こえている。 あの人は静かに小麦畑のわきの農道に立っている。その身体は標準的なヒューマイノイドボディだが、足だけは関節の数が一つだけ多い。あの人は身体のシステムをウォーミングアップさせており、身体は薄明りに照らされ鈍く光っている。
わたしは数メートル先に立つあの人の姿を見つめ、迫ってくる夜明けをただ静かに待っている。
太陽がオリンポス山から顔を出す。地平線の向こうから朝が滑るようにこちらに向かってくる。あの人は朝日に照らされた領域から逃げ出すように走り出す。スタートダッシュのために引き絞られたスプリングが解放され、あの人は一気にトップスピードまで到達する。大地を斜めに突き刺すように脚を駆り、腕は空気抵抗を避けるために胴体に折りたたまれる。火星小麦が衝撃で揺れ、砂埃が舞う。
あの人の走るフォームは美しかった。脚の運び方はどれも不安定を誘うように見えるのに、巧みに重心を制御することで、軸をぶらさずにすべてを推進力に変えている。空気抵抗を抑えるために前かがみになった姿勢はまるで地面に吸い付くようだ。
もちろん、あの人がどれだけ早くても火星の自転速度で前を行く山の影に追いつけるはずもない。みるみるうちに影は逃げていき、朝日に照らされた麦穂が輝いていく。坂路に見たてた丘を飛び上がるように登りきると、そこでようやくあの人はスピードをゆるめていく。
山の上に太陽が昇り、地平線の向こうまで広がる麦畑はその光のもとで黄金色に輝いている。あの人はようやく立ち止まり、振り返って、こちらに手を振っている。
「おい、もうすぐ出番だぞ」
その声がわたしは意識を引き戻す。
出走前の事前点検で寝てしまっていたようだ。
「本番前に居眠りとは全く肝が座ってるな。セルフチェック早く終わらせろよ」
メカニックのエンドーはわたしが起きたことを確認すると苦笑しながら自分の作業に戻る。
懐かしい夢だった。幼い頃のすべてが輝いてみえていた時代。もうあの人はなく、そして、わたしは憧れるままあの人のようにサイボーグになった。
外部カメラにアクセスして整備用ケージに固定された自分の身体をセルフチェックすると、あの人のものとは似ても似つかないシルエットが目に入る。カーボン逆関節型のナイフのような黒い脚に、消化器官を切り詰めて、代わりに制御用の副脳を詰めた甲冑のような胴体。脳と直結したセンサを組み込んだ頭部。カナード翼しかついてない腕部。レギュレーションと予算という制約条件のもとで最適化された身体。
胴体に書かれた三十七回大会優勝の文字はかつては誇らしかったが、今となっては、その文字はわたしの身体の空気抵抗を増しているかのようにも感じられる。胴体や足に貼り付けられたスポンサーのステッカーの数も随分減った。九頭竜副脳、タケナカ義肢装具、モルサントバックアップ、サイトーモーターズ。数が減ったとはいえ、彼らが今もまだスポンサーを降りていないのは、過去の栄光と二足歩行のサイボーグのなかでわたしがもっともマシな成績を出しているからだ。
今のトップは四脚だ。骨格から手を加え、四足歩行に最適化し、腕を簡素な前脚に換え、後ろ脚を強力なスプリング付きのものにして、脚をあげたタイミングでスプリングを引き絞り、脚を踏み出す度にスプリングを解放するのだ。ウチのチームでも検討はしたが、骨格の変更、脳のリプログラミングの予算上の問題、そして、スポンサーの技術アセットの問題から採用はされなかった。
最近はよくあのころの夢を見る。あの人に憧れ、あの人に教えられて走っていた幼少期のころの夢を。
あの人はもういない。このチームのランナーとして走り、事故に遭った。このチームの誰に聞いてもあの人のその後については皆口を閉ざしてしまう。
エンドーが端末のチェック結果をこちらに見せに来る。
「フレームにだいぶ疲労が溜まっている。今日のシーズン最後の試合が終わったら、オーバーホールだな」
わたしはおざなりに結果に目を通す。
「オーバーホールの間にしたいことはあるか?」
「代用ボディのリハビリが面倒だから、いつものように仮想現実につないで過ごすと思うな」
「このシーズンが終わったら、休みをとって釣りにでも行こうと思うんだが、サロゲートの遠隔操作でいいから一緒にどうだい?」
「いや、遠慮しとくよ」
沈黙の後、わたしは勇気を出して口を開く。
「わたしは後どれくらい走れるだろうか?」
エンドーは押し黙った後、ゆっくりと口を開く。
「来期のレギュレーション変更によってはまだまだ優勝を目指せる実力はあると思うが、ただ、スポンサー達の動きは鈍いな。」
サイボーグ走者のランニングコストは高い。極限まで軽量化されたボディ、一般用より遥かに反応速度の高い補助制御プロセッサ、脳に対する生化学的最適化。それらをした上で何度も走り、脳を慣らしていくことでようやくわたしたちはスタートラインに立てる。
わたしの脳は二足の空力補助走行に最適化されているため、それ以外の走りを実現するには大きなコストと時間がかかる。今のレギュレーションでは賞金圏内に入るかどうかの状況ではランニングコストを出してくれるだけまだマシだろう。
「すまんな、大した助けになれなくて」
その姿にむしろこっちが悪いことをしているような気がしてしまう。
ドクターがやってきて、こちらの生体部分のチェックをし、わたしはろくに確認もせずに声でその結果を認証する。
エンドーがわたしの身体を固定していた治具を外し、わたしはトラックまで歩き出す。
今日のコースはマリネリス峡谷の200キロの直線だ。普段のコースに比べると相対的に平坦で、その点では二足歩行のこの身体にとっては有利ではある。
スタートライン近くは基本的に静かだ。観客は安全のために分厚い強化プラスチックに覆われているためだ。競技者のサイボーグは競技と生命維持に必要なものを取り外しており、声帯もスピーカーもない。スタート時の接触事故の危険性を減らすために走者との間の間隔は広くとられており、基本的に直線コースのみが使用される。だから基本的に聞こえるのは自分の身体の各種の駆動音だけだ。
スタート位置でセットアップをし、重心を下げ、脚のバネを一時的に縮め、スタートシグナルを待つ。スタートを待つこの時間はいつもとんでもなく長く感じる。体内のバッテリー用のファンの音とわずかに残った肺の音、人工心肺のポンプの音だけを聞きながら静かに待つ。
スタートシグナルが届き、スプリングをはじけさせる。極端な前傾姿勢でカナード翼でバランスをとりながら、地面を滑るように走って行く。
この走りは優雅なものというよりは暴れ馬を押さえつけるようなものだ。スラッグ弾を連発されるような衝撃をなんとか翼と姿勢でもって崩壊から反れるようになだめる。
スタートダッシュはうまくいき、わたしは先行する。
脳が目玉焼きにならないように脳や胴体の熱を確認しながら、少ない制御脳に何とかギリギリの計算をさせ続ける。今日は風が強く、それは冷却には有利だが、制御は難しくなる。
突風が起こる。上体のバランスを押さえつけるようにカナード翼と脚の推力を調整する。
トップをキープしてたものの、平坦な道はあっという間に終わり、不整地の坂路へと入る。
不整地は四脚の独壇場だ。わたしが平坦路で稼いだリードを彼らはやすやすと奪っていく。四脚の三人の選手に追い抜かれ、わたしはそれを必死に追いかける。
坂はもうすぐ終わる。
わたしは前方の選手と同じように上体を起こしたまま坂を登り切る。
自分より遥かに重い選手と同じように坂を登ったのは軽率だった。
後ろから風に吹かれ、体勢が崩れる。
カナード翼を制御して、体勢を直そうとする。右のカナード翼がたわみ、根本から折れる。
わたしの身体はコマのように回り、何も制御できないまま坂を転がり落ちていく。痛覚は最初から切られており、痛みはない。翼がもがれ、足が歪み、種々のエラーメッセージがわたしの意識に流れ込み、そしてようやくわたしの身体は停止する。システムが緊急冷却索を広げ、脳の休眠シークエンスをスタートさせる。
遠くでサイレンの音が聞こえる。脳と身体が急速に冷えていくのを感じながら、わたしの生来の意識はロギングを止める。
意識を取り戻したとき、わたしはベッドの上にいた。そこは一般的な病室で、そんな部屋にいるのは、わたしが競技用サイボーグ手術を受けたとき以来だった。
音声コマンドでベッドを動かし、上体を起こす。眼の前にある手を眺める。眼の前にある手は五本指でカナード翼の腕とは全く異なる。うごかせはしないことも相まってまるで他人の手のように見えるが、自分の胴体から生えている。更に上体を起こさせることで、かかっていたシーツがすべり落ち、自分の胴体があらわになる。そこにあるのはナイフのように尖った胴体ではなく、丸みをおびた汎用サイボーグボディだ。それはどう見てもわたしの首とつながっているように見える。
ベッドからわたしが意識を取り戻したことが伝わり、すぐに医師の診察が設定される。医師は工場の出荷検査管のようにこちらを手際よく診察し、リハビリのスケジュールやその際に使用される脳可塑剤についての説明を有無を云わさず、淡々と説明していく。最後にお情けのように問われた「なにかご質問は?」という言葉にわたしはおずおずと質問する。
「わたしは競技に再び出られるのでしょうか?」
「ただ、関係者の方とご相談ください」
そう事務的に答える医師の目はすでに次の患者のカルテに移っており、自走車いすはすぐに退室した。車いすが気を聞かせて温室になっている中庭に入っていくが、咲き誇る花も意識の上を動画広告のように通り過ぎていく。
それからは医師や看護師のいうリハビリスケジュールを無視してただ過去のサイボーグレースの映像を見ていた。あのひとが出たときのレースもそれらのリストに含まれていた。あの人が走っていた時期は小脳や脊髄の改良技術が生まれ通常のヒューマノイドタイプ以外の身体が出始めた黎明期だった。第八回大会であの人は腕を地面に着くほど長くして、補助脚として使った。第一シーズンこそパッとしなかったが、第二シーズンで慣らしを終えたあのひとの走りは圧倒的だった。補助脚で支えがある分推進脚を思い切り蹴り上げることができて、それまでの股部の回転サイクルを限界まであげるというセオリーを覆し、回転サイクルを多少落として変わりに一回当たりの推進力をあげるという別の流れが生まれた。優勝が決まった第三シーズンの試合は圧巻だ。不整地を補助脚でスピードをそこまで落とさずに最後の直線で一気に加速して、ほかの選手を抜き去るその走りはランナーとして目指すべき姿に見える。そのときの試合の動画をもう一度見直しているときに監督はやってきた。
「リハビリをやっていないようじゃないか?」
「突然競技用ボディを取り上げられてリハビリをしろといわれても納得できるわけがない」
わたしは画面から目を離さずに答える。
「なら荒療治になるがしょうがない」
監督は溜息をつき、ベッド付属のアームがわたしを持ち上げ自走車いすに乗せる。
わたしはいまだ手足を動かせず、せめて文句だけは言おうとスピーカーを鳴らす。
「どういうつもりだ?」
そこで、わたしは初めて監督の姿を見る。目のクマはひどく、スーツは今まで見たことがないほどしわくちゃで、わたしもそれ以上の文句は言えなくなってしまう。
そんなわたしを監督は黙って自走車いすに載せて病室から連れ出し、病院前に横付けされた自動タクシーに自走車いすごとわたしを詰め込む。
「どこに連れていくつもり?」
「着いたらすべて説明する」
そう言うと監督はいびきをかいて眠りこけた。どんなに大声を出しても起きる気配はなく、しかたなくわたしは窓の外の風景を眺める。整備場のケージと競技場、練習場、病院の外以外の現実の風景を見るのは随分久しぶりで、小麦の駆られたばかりの畑を見て、わたしはようやく今が冬であることに気づく。
そうして、タクシーがたどり着いたのは、チームの整備場だった。監督は中に入っていき、わたしを載せた自走車いすもそれに続く整備場はひっそりとしており、パーツを作るマシニングセンターや3Dプリンターの音はなく、培養室の臓器培養タンクや神経培養槽はカラになっている。整備場のなかはいつにもまして雑然としており、そこら中にコンテナが積み上がっている。監督は黙ってコンテナの間の通路を進み、車いすも黙ってそれについていく。
開けた一画の前で監督は立ち止まった。わたしはそこにあるものをなんとなく予感していた。そこにあるものを見るのは恐ろしかったが、この顔にはまぶたがなく、車いすはわたしの意に反して、監督の手が示すところに進んで行く。
そこにあるものが見えた。見えてしまった。CFRPとケプラーでできたとがったサイボーグの胴体は衝撃でひしゃげている。スプリングとCFRPセラミックでできたナイフのような脚はまっぷたつに折れている。そこにあるかつてのわたしの身体はもう二度と走れないような姿になっていた。
こういうときつかみかかれたらいいのに、そのまま一発殴れればいいのに、そんなことを思いながら、倒れこむことも嗚咽することもできず、あいまいな声だけがスピーカーから漏れる。
ようやく落ち着いたとき、監督はわたしをミーティングルームに連れてきていて、内臓時計できっかり二時間立っていた。
「あれを直すことはもうできないのか?」
わたしは絞り出すように問いかける。
「すまない。スポンサーを身体を新規で作り直すための資金を出すようには説得できなかった」
監督は思い切り頭を下げた。
「つまり……わたしはもう競技には出られないと?」
「そうなる。君はいい選手だったし、これからもまだ走られたはずなのにこんな結果になって申し訳ない」
わたしにはもう言葉もなかった。あの身体か運動野が残っている標準身体以外の身体を使ったところで成績を残せるとは思えず、競技用の身体を直せない以上、もう復帰は難しいだろう。
「最後に、第九大会の事故のあとにあの人……ドロソフィラがどうなったかを教えてほしい」
かつてチームのランナーだったあの人が引退後、どうなったかは今まで誰に聞いても口を閉ざしていた。監督は答えるか迷っていたが、結局は口を割った。
「ドロソフィラは事故のあと、リハビリの途中で書置きだけを残して、姿を消したんだ。そのあとしばらくしてから、タイタンから電子署名付きメールが届いてね。飛行機のような身体でメタンの大気を飛んでいる姿が映っていたよ。それから数年してしたまたメールが届いた。そこにはカイパーベルトの天体で可動部がほとんどない球体状の身体になって転がっている姿が添付されていた。」
外惑星は環境が厳しく、身体に関する感覚は火星よりもラジカルでもとからの生体部分がわずかでもヒトとして扱うらしい。火星の教育工場の教師たちはよく出来のよくない子供に対してそのままだと外惑星に送られて機械にされると脅されたものだ。
「きみはドロソフィラのファンだったからショックを受けるかもしれないと思って話せなかったんだ」
「その送られてきたメールを見せてもらえるか?」
監督は黙ってメールをミーティングルームのモニターに表示させる。
添付された動画にはタイタンの大気の中を飛ぶサイボーグの姿が映っている。その姿はヒューマノイドや既存のサイボーグと大きくかけ離れ、ほとんど飛行機そのものにしか見えない。
だが、その姿自体にはある種の美しさが感じられた。タイタン大気中のメタンを取り込むためなのか下降しては上昇しての繰り返しの中にひねりなどの遊びの動作があり、それはどこか生物的な動作に見える。
もう一つの動画についていたのは巨大な球体だった。なんらかの軟質素材でおおわれた球体がクレーターだらけの荒野を転がり、あるところでそれはほどけ、ヘビのような姿となり坂を登っていく。
あの人がそこで何をしているかはわからない。ただ、そこからはただ競技場や実験室の外で身体を動かす純粋な喜びに満ちているように見えた。
わたしは排気口から息を吐き、告げた。
「ありがとう。病院に帰してくれるだろうか?」
わたしを病室まで帰してそのまま去ろうとする監督の背に「あなたはこれからどうする?」と問いかける。監督は振り返らず「しばらく休んで、そしてまた、どこかのチームに行くのだろう」と答えた。
翌日からわたしはリハビリを始めた。ベッドの上で何度も積み木をひっくり返し、消化用の口に流し込まれたものをそのまま下から垂れ流す日々。
ベッドの上でひっくり返す積み木のサイズが小さくなり、それがブロックの組み立てになり、ついにはスプーンを使って大豆を移せるようになったところに、エンドウが見舞いに来た。
「この短時間にもう腕を動かせるようになっているなんて大したもんだ」
「身体を動かせなければ、どうにもならない。それでそっちは今どうなってる?」
「方々を駆けずり回ってなんとかメカニックの仕事が見つけられそうといったところだよ」
気まずげに話すエンドウがわたしに見舞い品のサイボーグ食と書類を机の上に置く。
「エンドウは娘さんを養う必要があるんだから気にする必要はないよ」
その言葉にエンドウはほっとした表情を見せる。
監督から頼まれたという書類を脳内の要約ツールに読み込ませると、結局のところ、その書類が述べているのは二つのことだった。チームはわたしとの契約を解除する。代わりに日常生活用のボディを提供し、リハビリが終わるまでの費用負担をする。
なぜかその書類は紙で、なおかつペンでのサインを求められたので、わたしは取り付けられた五本指の腕を苦労して動かす。エンドウから差し出されたペンを誤って握り潰し、そこから漏れたインクを使って指で子供の落書きのようなサインをする。
「おまえさんはこれからどうする?」
「さあ、しばらくは貯金で生活できるけど、サイボーグ部分の維持費を考えると多分そのうち建設現場で働かないとだろうね」
「生活が落ち着いたら、今度こそ釣りでもどうだい?」
「いいね。ぜひ誘ってくれ」
エンドウが帰った後の病室で五本指の腕を動かし、自分の顔の前に持ってくる。まじまじと見つめるが、それが自分の身体の一部だということにどうしても違和感があった。このような腕を持っていたのは遙か昔で、普段は簡易的でよりスマートな三本指の外付けの腕をつけて生活していたからだ。
脚のリハビリははいはい歩きからやり直すようなものだった。生まれ持っての脳だけで足を操ること自体一〇年ぶりで、リハビリ用の脳可塑剤を使っても立って歩くのは至難の技だった。ロボットアームに支えられ、何度も倒れこみそうになりながら歩き、わたしは日々を過ごした。消化器への常在菌の定着が進み、食べられるものが増えるにつれて、エンドウの持ってくるお見舞い品も変わっていった。そして、指で紙飛行機を折れるようになり、階段を一人で登れるようになったとき、わたしは病院を放り出された。
ロボットは高く、人間は安い。そして、サイボーグはその中間だ。高価なクラウドサーバーや自己診断システム。これらが必要なロボットに比べると人間やサイボーグは遙かに安いので、再就職先自体はいくらでもあった。
結局わたしは病院に通える距離の新たな都市の大規模開発の工事現場の仕事を得て、住居自体は旧市街に構えた。
肉体労働を送り家に帰って寝る日々はランナーだったときよりも穏やかなものだった。
「ねえ、あなたはランナーのエオヒッピア?」
ある休みの日の買い出しの帰り道に子供に声をかけられた。真新しい脚と接続部の手術跡が生々しいその子供は目を輝かせながらこちらを見ている。
「どうしてわかった?」
今のわたしの身体は競技で使っていた身体と共通のパーツはほとんどなく、見てわかるとは到底思えない。
「とーちゃんが同じ工事現場で働いていて、新しく入ってきた全身サイボーグの話をしていて、名前が同じだったから。俺はエクウス。走るのを見せてもらってもいい?」
「いや、わたしはーー」
もう走っていない。そう言おうと思ったが、エクウスの何かがわたしをためらわせた。代わりにわたしはスピーカーを鳴らした。
「近くに走れるような場所はあるか?」
「それなら、いい場所があるよ。この時間なら誰もいないはず」
そう言ってエクウスが連れてきた場所は郊外の小麦畑のわきの農道だった。まだ青い小麦が朝日に照らされさわさわと風に揺られている。
エクウスに五〇メートル以上離れているよう言い、小麦畑のわきの農道に立ち、自己診断プログラムを走らせて、システムをウォーミングアップする。
かすかな風が触覚センサーをなでる。地面の感触はひどく懐かしいもので、幼い頃にあの人に憧れて走っていた日々を思い出させる。
システムのウォーミングアップが終わり、わたしは姿勢を整える。衝撃吸収用のスプリングをスタートダッシュに使うために引き絞る。
スタートシグナルもなく、わたしはただ脚のスプリングを解放し、走り出す。
地面を突き刺すように脚を駆り、エネルギーを失わないように重心を安定させる。
この身体で出せる限界速度に到達する。スピードは競技用のボディだった頃とは比べようもない。倒れないようにするのに精一杯で姿勢はとんでもなく不格好だろう。けれども、朝の静けさの中、小麦を揺らしながら走ることは心地よさがあった。
軸をぶらさないために綱渡りのように繊細な姿勢制御で丘を登り、その上まで登り切ったところでわたしはスピードを落とし、立ち止まる。
振り返ると、小麦畑が朝日に照らされ輝いている。はるか向こうでエクウスが手を振っている。わたしはその人影に向かって手を振り返し、町に帰るために再び走りはじめた。
文字数:9012
内容に関するアピール
梗概で出したものはあまり進められず、結局以前書きかけだったものを完成させることにしました。
文字数:45