殻に彫られた者

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殻に彫られた者

序 
 あの方の物語をどこからはじめるべきだろうか。
 暗殺者の役目を果たした夜からか。それとも皇帝と初めて言葉を交わした日か。あるいは、出来損ないと疎まれ仲間外れで孤独に生きた稚き頃か。
 いや、やはり始まりの朝から順を追って語るべきだろう。
 
 レイ・トワ・クォ・クリヴォ・ンドラーチェン・トンム・トムワ……あの方が、その名の初めの一片ももたない甲殻の稚児として上陸したのは、グアル海岸の砂浜であった。よって、おそらくグアルホラン洞の産卵場で孵化し、幾千幾万の仲間と共に潮に流され海を漂い、およそ一年を経て帰ってきたのだろう。グアルツランの記録によると、太陰が満ちたその夜に、グアル海岸に上陸した稚児は五体だったという。とくべつ多くも少なくもない数の帰還だった。小石ほどの卵だった稚児は、一年を海で生き抜く間に脱皮を繰り返して成長した。他の稚児より少々小さかった。海中で生き抜くために、隠脚も後脚もひれが大きく発達し、体幹は細く、泳ぐのに適した姿をしている。その甲殻は海中で身を守る程度には硬かったが、そのまま地上を歩き、生きていくことは厳しい。日の出と共に、海岸から近いグアルツラン集落からやってきた者たちが、五体の稚児を持ちかえった。
 稚児よりも二、三倍の大きさの、若い成体が稚児を集落へ持ち帰る役割を担っている。六対の手脚のうち、前腕に稚児を抱き抱えて、その重みを、後脚に加えて隠脚と腰手を伸ばして支え、歩いていった。稚児たちは、おのおのを拾い上げたものの家で育てられることになる。
 海岸から少し移動した高台に、グアルツランの集落がある。海岸線に沿って細長く広がる集落には、一千ほどの成体と二百ほどの稚児が暮らしていた。老体もわずかながらいた。上陸した稚児は脱皮を繰り返して倍以上の大きさに成長し、四年ほどかけて成体になる。成体となってからも、脱皮を繰り返して、老いるほどに生きながらえたものは若い成体の五倍を超える巨体となる。
 拾われたさきの家は、二十体ほどが集まったよくある大家族で、成体と稚児が半々の若い家だった。上陸してきて何も分からず、当然ながら言葉も知らない稚児を囲んで、成体たちは即席の家族会議をはじめた。名付けの話し合いである。頭部の三つの発声器官、口と左右の副口から発せられる声、呼気の強弱や音の高低を組み合わせた和声のやり取りがしばらく続き、最後に、家にただ一体の老体の発する声が、決定した名を告げた。
 稚児の最初の名はレイと決められた。
 レイを拾ってきた若い成体は、染料を揃え、レイを押さえて、肩の後ろに折り畳まれていた隠手を伸ばした。肩と手首の間に三個の関節で折り曲げられた細長い手は、手首の先の細長く鋭い六本指の先端を器用に動かして、左右の前眼の間の殻を傷つけ、家の紋と最初の名を彫った。また陸上で生きる術の基本となる図像を背中に彫った。
 刺青によって、甲殻は名を与えられ、目覚め、自己を獲得する。
 稚児は、レイとなった。


 太陰が満ちるたびに、甲殻は脱皮し、新たな殻の上に刺青を彫ってゆく。自分自身と、生きるための知識と知恵を、自分の中に固定するのだ。
 上陸してから三度目の脱皮を終えたばかりのレイ・トワ・クォ・クリヴォは、新たな名とさまざまな言葉をぼんやりと受け止めながら、グアル海岸の波打ち際で、夜空に浮かぶまんまると大きな太陰を見ていた。夏に向かって昼の空に輝く太陽は大きくなっていくのだと教えられたが、太陰はその大きな太陽の二十倍ほども大きい。薄明るい表面には、横縞の中にところどころ渦がつくられているのが見えた。
「レイ、ひと晩中ここにいるつもりか」
 うしろから、その日、新たな名を加えられた、トーキ・トワ・トール・ドールが声を掛けた。レイと同じ日に上陸した、五体のうちの一体だ。疑問、心配、親しみ。短い言葉の微妙なニュアンスにいくつもの情報が込められている。トーキは成長が早いだけでなく、身体の微妙な使い方も成体と適切に交流できるように発達が進んでいる。
「トーキ……家にもどっても親たちいないし」
 レイの声は単調なユニゾンで、抑揚がない。一体で放置された寂しさ、気だるさ、興味を持って近づいてきたことへのありがたさ、返したい情報の無さ。伝えたい情報はレイの体内に存在するが、声にその情報を乗せる術をレイは習得できていなかった。
 トーキも今日脱皮を終えたばかりだが、レイと異なりしっかりしているように見える。むしろ、しっかりしていないのは五体の中でレイだけだった。ほかの三体はまだ三度目の脱皮を迎えていないが、それでもレイよりはうまく声を操っている。
 隣に並んだトーキが同意した。
「そうだな、朝まで戻ってこないと親たちは言ってた」
 稚児は太陰の満ち欠けに関係なく、頻繁に脱皮を繰り返して成長する。成体になると、太陰が満ちる夜に同期して脱皮するようになり、さらに歳をとっていくと脱皮の周期はまばらになるが、太陰が満ちる夜に限られるのは変わらない。
 レイとトーキの脱皮が満ちる夜と重なったのは初めてだった。
「グアルホラン洞にみんないってるってなにしてるのか」
「成体になれば分かるらしい」
「わかるかな。我は。いくらほってもらってもよくわからないことがおおい」
「分かるようになるだろ。一年も先だ。それまでには殻に彫られた情報も多くなってる」
 上陸した日に彫られた名前と家の紋のほかにも、二体の殻の大きな部位には、いくつも言葉や図柄が彫られていた。頭、肩、前腕。トーキは、今日彫られたという、後脚の付け根のほうに刻まれた細かい文字を見せてくれた。
「我らの足、ひれが欠けて陸を歩く形に変わったけど、親たちみたいに早く歩けなかったろ。でも、なんか要領がわかった気がする」
「すごいな」
 おずおずと、レイも体をひねって後脚の付け根を見せた。同じように細かな文字が彫られている。
「我もほってもらったけど。ここまでくるのに時間がかかった」
「それよりさ」
 トーキの声に、密やかな隠しごとのニュアンスがあった。聞いて、理解することについては、レイは敏感だった。
「レイは文字はもう彫れるか」
「ならったけど、うまくない」
 甲殻は、他の動物の脱皮した殻を収集して適当なサイズに切って揃え、そこに文字を彫り、情報を伝達する。それは稚児が早くから学ぶ知識の一つだ。それは、自分たちの殻に刺青を彫る技術でもある。
「我の前腕に、レイの名前を彫ってくれないか。我も、レイの殻に名前を彫りたい」
 ためらい、友情、跡を残したい、傷をつけたい。トーキの言葉から情報が漏れる。
「へたかもしれない」
「いいよ」
 トーキはレイの前腕を掴むと、隠手を伸ばし、まず自分の左の発声器官、副腔の内側の柔らかなところを先端で傷つけると、滲み出た濃い紫色の体液に浸けた。そしてその隠手の指先の先端で、レイの殻に自分の名前――今の名前を最初から最後まで――を彫り、日付を刻んだ。脱皮したばかりの表面はまだ柔らかく、痛みを感じたが、じっとしていた。
 レイもトーキに倣って、自分の名をレイの殻に刻んだ。不器用で時間がかかったし余計に傷をつけてしまったが、レイは殻を震わせることもせず、じっと待っていてくれた。
 二体とも、夜が明ける前にそれぞれの家に戻った。レイは家の全員が寝る寝室の、自分の枯れ草のベッドに体を潜らせて丸くなった。太陰の明かりが窓から差し込むため真っ暗ではない。ほかの稚児たちは眠っているようだった。成体の大きなベッドはどこも空のようだった。
 朝になり目覚めると、レイは前腕に刻まれた文字を見た。体内に染みているのが感じられた。文字は読めた。
 でも、誰が彫ったのだろう。覚えていなかった。昼になり、トーキに会ったら教えてくれた。怒られた。


 脱皮の前には殻の内側で身体が溶けていくように感じられる。そして実際に体の組成は攪拌されていると教えられた。頭部の内側にある考える部位――脳と呼ぶのだという――も溶けて、だから記憶が崩れていく。甲殻の本能のようなものは残っていても、学習したことや経験したことは消えてしまいがちで、稚児によっては成長がないように見えてしまう。
 それを食い止めて、学んだことを身体が忘れないようにして、自己を固定するために、刺青を彫る。そのように自分を拾ったラン・グリン・ハーバ・レイ・レイズ……をはじめとした家の成体たちは教えてくれた。先に上陸した稚児たちもそう言って、殻の表面を徐々に埋めていく刺青を見せてくれる。刻まれた文字、言葉、紋様、図像。それらを、目で見て読む能力はレイにもある。むしろ、ほかの稚児たちよりも早いし、成体の甲殻よりも早いと思っていた。
 しかし、それだけでは足りない。
 レイはランに連れられて、集落のはずれの墓地に来ていた。トーキと、トーキを拾った年長の成体のトールも一緒だ。レイとトーキに比べて、ランは二倍は大きく、トールは三倍は大きい。どちらも、後脚でしっかりと立ち、隠脚は関節を曲げてしまっている。大きな肩から伸びる太い前腕と、腹と腰から横に伸びる細い副手と腰手は大地を駆けたり、斜面を登るような場面では足として地面に触れることもあるが、普段の生活ではめったにない。そのように手足を使って走り回るのは、稚児のうちだけだ。肩の後ろに隠した隠手も、特殊な場面で器用に使われる以外は畳まれている。大っぴらに広げるものではないのだ。
 四体の目の前に、見上げるほど大きな、頭部だけでトールの高さほどもある、甲殻の亡殻なきがらが半ば埋められていた。死期が近づいた甲殻は、まだ動けるのであれば自ら墓地へ赴き、あらかじめ定められた場所にうずくまって死を迎える。やがて殻の中は腐って溶け出し、大地へ、太殻へ還っていくが殻だけはそこに残る。殻がそのまま墓となる。
 腹部を下に伏せた格好の大きな身体は、レイとトーキの十倍はあるだろうか。それだけ長生きした老体だということを示している。グアルツランは若い集落で、成体は上流へ内陸へと移動していくものが多いため、老いて最後を迎えたものの墓は少ない。
 亡き老体の殻に彫られた言葉を目にしたレイは、そのまま声に出した。
「刺青を甲殻の中に広めたのは西からの軍団だった。西より来た王は刺青を彫る。西の海から大河を遡上する軍団は大陸の中央平原を越え内海を渡り森を越えた。やがて東の大河に辿り着いた軍団は東の甲殻にも刺青を教えた。皆が王の刺青によって王に従うようになった。刺青は言葉を刻み、知識を刻み、歴史を刻み、甲殻おのおのの名前を刻み、役目を刻み、階級を刻んだ。すべてのものは王の言葉に従った。大陸のすべての甲殻は王に従った」
 ただひたすらに目で追うがままに読み続けた。
「しかし刺青は刺青の彫り方を教える。言葉を概念を思考を教える。身体の動かし方を自らの言葉をつくり紋様をつくり新しい刺青を作る方法を教える。王の言葉ではなく自らの言葉を彫る世代がやがて最初の王を打ち倒した」
 横で聞いていたトーキは、左右の前腕を打ち鳴らす。腹手も、腰手も伸ばして叩く。副口から呼気が吹き出す。興奮、感嘆。周りの感情はわかる。
「すごいね。すぐ読めるんだ」
「彫ってあるのだから、そのまま読めるだろう」
 レイにとっては何がすごいのかわからない。
「我は順を追って、理解しないと読めない」
「理解?」
「いま、自分が語ったことが何なのか、覚えているか? どういう意味があると思う?」
 何か答えようとしても、今読んだ文字のことを何も答えられない。目を向ければ読める。
「自らの言葉を彫る世代がやがて最初の王を打ち倒した。王の彫った刺青だけを殻に持つ軍団はそのまま王の言葉に従いつづけたが脱皮をくりかえして大きくなるあいだに他のものからあらたな刺青を彫ってもらい新しい紋様や文字に従うようになった――」
「それで、その言葉を読んで何を思った?」
 自動的に読めてしまうだけで、レイの中には何も残っていない。
「トーキはなにかおもったのか?」
 狼狽、焦燥、空白。平板な語りのなかにもレイの情報は込められているが、それはトーキにしか伝わらない。
「もっと刺青の彫り方を覚えて、もっと自分の殻を自分で彫りたい。そうすれば、いろいろなことができるようになる。レイにももっと彫りたい」
「我の殻を彫るとどうなる?」
「覚えてもらえるようになるはずだろう? レイは我のことを次の日には忘れている。忘れないでほしい」
「この甲殻は、覚えていたのかな」
「歴史官だったのだろう? 我ら甲殻が刺青を彫るようになってからの記録を、知れるだけ知って、すべて自分の殻に記録していった。生きていた時は、この歴史に対して空の内側でいろんなことを考えていたのじゃないかな。自分たちがどこから来たのか、どこへ行くのか」
「この甲殻じしんの歴史はあるのかな。さっき読んだものは始祖の歴史だけど自分はどこで生まれて何をしてきたとか彫られているのだろうか」
 大きい墓を見上げて、上下左右に頭を動かして刺青を見る。殻を集めて作り上げる、ちょっとした小屋よりも大きな老体だ。殻全体をみていけば、わかるだろうか。
 
 レイが成体として扱われる日が近づいた。次の太陰が満ちる夜に脱皮が同期すると見込んでいる。その夜、グアルホラン洞を訪うように、言われた。
 自分でも身体が大きくなっているのがわかるし、太陰の夜が待ち遠しい。
「我も、同じように言われたよ」
 トーキに話したら、そう答えが返ってきた。最近は遊ぶこともなくなってしまった一緒に上陸したあとの三体はまだだという。ほかにも前後の時期に上陸した稚児の何体かが初めてグアルホラン洞を訪うという。
 その夜の太陰は、ことのほか大きく見えた。表面は明るく満ちており、縞模様が乱れが多く渦を巻いている。真夜中になってもずっと起きていたレイは、トーキと共にグアルホラン洞を訪れた。グアルツランから道を下り、いったんグアル海岸へ出る。海岸には、レイたちよりひと回りふた回りも大きい、あるいは数倍の大きさの成体がすでに密集していた。そこから群をなして岸の左手にあるグアルホラン洞へと向かう。砂浜が途切れ、高い岩肌に阻まれるところまでくると、海に浸かって泳いで向かう。
 レイとトーキはお互いを見失わないようにしながら、泳いでいった。上陸したときの記憶はないが、そのときは足がひれの形になっていたことは学んでいる。陸地で生活する甲殻は海に戻るときは後脚をうごかし、隠脚と腰手も使って海の中を進む。波は荒いが、皆力強く泳いでいった。
 洞は入り口は岩で塞がれていて、大きな成体が四、五体並んで泳げるほどの幅しかない。くぐり抜けると、そこに、グアルツランだけでなく、内陸から下ってきた成体も混ざり、幾百、幾千、数えきれない甲殻が触れ合う距離で泳いでいた。
 海は大きな浅瀬になっていた。といっても、数倍の身体の成体が泳げるほどの水深はある。レイとトーキは、自分たちにちょうど良い深さの、岩場に近い方へと泳いでいく。水音は盛んに聞こえてくるが、声はあまり響いてこない。頭部が海の中ならば声が出ないのも道理だが、レイは体内の何かに突き動かされて、言葉を失っていることも感じていた。
 さきに、トーキの脱皮が始まった。岩底に六対の手脚を伸ばしてうつ伏せになると、背中から殻を破っていった。それを見ている間もなく、レイも同じ大勢をとって脱皮を始める。背中が割れ、身体を震わせて抜け出し、隠手、前腕、腹手、腰手、隠脚と順に古い殻から抜け出し、太い後脚も抜け出した。新しい身体の表面はまだ柔らかく、表面には刺青がそのまま残っていた。レイと名付けられた額の紋も、まだまだ記憶に定着しない様々な知識や身体の振る舞いについて授けてくれている言葉も、トーキが彫った名前も、すべて新しい殻に鮮やかに残っている。
 高い岩屋根が天井になっていて空はほぼ塞がれているが、天井窓のように空いている空間があって、太陰の光が差し込んでいた。
 レイは新しい身体で、未知の興奮を覚えた。むき出しになった尾部から、まずいくつもの卵を放った。トーキが放卵した卵も近くに沈んでいる。お互いの周りを泳ぎ回りながら、さらに無数の精を放った。
 もっと深い場所では大きな成体たちが何体も群れあって、放卵と放精を重ねている。
 数日を経て、孵化した幼体は洞の口から出て、海へと出ていく。やがて、生き残った僅かな稚児がグアル海岸に上陸する。誰が稚児の親なのかは、どの甲殻も知ることはない。
 
 朝になった。脱皮したばかりで体内がぐるぐると攪拌されたままだった。脱皮前に彫られているさまざまな図柄や言葉が硬度が増しつつある新しい殻にも引き継がれている。昨夜、なにか自分が海に溶けてしまうような体験をしたはずだった。海に行ったこと、グアルホラン洞へ行ったことは覚えている。たくさんの甲殻が海に潜っていた。よこに誰かいた。
「レイ――、レイ・トワ・クォ・クリヴォ・ンドラーチェン・トンム・トムワ・ラン・ラント・トーキィ……!」
 家の入り口から、自分の名を呼ぶ声が聞こえた。自分の名のすべて、脱皮するごとに加えられていく名をすべて呼んでくる声。親しみ、朝の空気、太陽の光、親しみ、強くポジティブな親しみ。夜の海の記憶。名を呼ぶ声に乗った情報は目覚めを促すのに良い情報ばかりだ。
 寝床から這い出し、歩いていく。入り口に立つ成体の姿は、外からのひかりの逆光で影になっているが、見慣れた姿のはずだ。
 しかしレイはそれが誰だか分からず、名前を返すこともできなかった。
 それ以来、トーキがレイに声をかけてくることは無くなった。


 太陽の周りを太陰が巡ることで夏と冬が生じ、太陰の周りを太殻が巡ることで、太陰の満ち欠けが生じる。その周期が、成体の脱皮の周期となる。脱皮が太陰の影響を受けるのは、かれら甲殻だけではなく、食用の小さな蝦も、亡殻が家の壁や屋根の材料となる巨大な象殻や竜殻も、影響をまぬがれない。複雑な星の運行を、グアルツランではすべて予測することはできないが、内陸部の大平原にある砦には、天文台があり過去の星の運行が記録されているのだという。
 そういった内陸部の文明の発達した場所へと、川沿いに進んでいくのが、大陸東部海岸にいる多くの若い甲殻の目指すところである。
 太陰が昼の空に浮き大きな半円を見せていた。太陰が満ちた脱皮の夜から、周期の四分の一が経過した。成体となり一年が経過したトーキをはじめとする、若い成体たちが、グアルツランを出発する日が近づいていた。十二体が一つの集団を作って移動するのが、甲殻の習性である。そのひとつの隊長は、レイを家に拾ってきたランである。トーキはその隊の副隊長であった。集落の中央に開けている広場には、この隊列が運ぶ荷物がまとめられ、出発とそれを祝う準備作業とで賑わっていた。
 レイは、その賑わいを避けて集落のはずれから一体だけで門の外に出ていた。高台を隔てた反対側なので、甲殻たちの声も聞こえない。見晴らしはよく、内陸の南へ向かう道が平原に伸びているのが遠くまで見える。トーキやランたちが向かうのは西である。グアルツランからいったん北へ向かって、丘を迂回してから西を目指す道を征く。だから、出てしまえば道が交わることはないはずだ。このまま、グアルツランを離れるつもりでいた。
 道を往くものは多くはない。グアルツランの日常では、交易は盛んではない。太陰が満ちる頃には、海岸を目指して進む甲殻が群れをなす光景も見られるが、集落には向かわずまっすぐグアル海岸へ向かう。それ以外の日々は、食糧や生活に必要な品々のやりとりを近隣の集落と行う程度である。
 その道を、こちらへ向かってくる隊列が遠くに見えた。レイは三対の眼を備えた頭部を上げた。遠方を見ることに最適化された後眼の焦点が、自動的に無限遠に合う。十二の姿が見える。他には、集落の外に注目しているものは誰もいなかった。やがて、十二体の甲殻がレイの前までやってきた。だから、離れるはずのレイが最初の遭遇者となってしまった。
 十二体の、誰がどのように名乗ったのかは、記録がない。遠くから旅してきたのか、言葉にグアルツランと異なるところが多かったと記されている。
「我ら刺青の新たな術に通じる者」
 確かに刺青の紋様は細密であり、さらに殻と石を細かく砕いてつくられた装身具を頭部と前腕に纏い、隠手を覆い隠す姿からは高い地位と知恵をもつことを窺わせる。
 レイは前腕を上げ、防御の構えをとった。折り畳まれた隠手が震えている。応答しないでいると、相手はつづけて語りかけてきた。
「グアルツランに刺青を身体が読まないものがいると聞いた。彫っても殻の内側で識ることができないものがいると」
「あなたたちは誰だ? どこから来た?」
 一歩前に出た成体が名乗った。レイの二倍近い体長のその姿は他の者たちよりも多くの装身具を身につけていた。小さな殻を繋ぎ合わせ黒く染めたヴェールが三対の目元以外を覆い、その上に金糸が刺青のように模様を描いていた。
「我が新たなる施術の技を持つ術士なるもの。この者たちは我に従い新たな技を広めるもの。我は我が技を必要とするものがいると聞こえてきたためにこの地を訪れた」
 これは自分のことを指しているのではないかとレイは気づいたが、なにか尊大な態度に、拒否反応が出る。隠手を広げない自制はまだできているが、前腕を差し出されでもしたら、まっすぐに伸ばしてしまいそうだ。
「どこから来たのかと問われるか」
 レイは、術士を名乗る者のヴェールに隠された顔面を見た。そこからは何も読み取れる者がなかったが、肩から上腕の刺青を見上げた。左に回って右半身を見た。
「内陸の南から来た。南の氷雪の境界にほど近い土地が故郷。マーマング海岸に上陸した。エマ国、かつて最初に刺青を彫ったとされる王の国」
 レイは、彫られた紋様を見て、文字を読んで、半ば自動的に術士なる甲殻の表面をそのまま言葉にした。後ろに控える者たちが動こうと身構えたのを、レイは気づかない。隠手を真上に展開して、術士自身が制した。
 ぐるりと周りを歩いて背の刺青を、左半身の手脚の刺青を見た。見ながらその場で声に出し続けた。一周回って、レイは術士の正面に戻った。
「もう一度、我がことを語ってみせるか」
 問われて、レイはもう一周回ろうとした。それを術士は前腕を振るって止めた。
「動かずに、覚えていることを語ってみよ」
「覚える、というのが我にはよくわからない」
 術士とレイの間に無言の時間が流れた。後ろの者たちも微動だにしない。
 やがて、術士が三つの発声器官から、静かに低く声を発した。
「教えて欲しいか、覚える術を。我は覚えることができるように、君の殻に刺青を彫ることができる」
「刺青を彫ってもらっても、自分の殻に彫られたものを我は覚えられない」
「我が刺青は、彫ることで覚えることを教えられる」
 
 グアルツランの長には、トーキを拾い上げたトールが就ていた。術士とレイ、ランの三体は、トールの館に集まっていた。長の館は元々のトーキたちが住む家とは異なる別邸である。竜殻、象殻の大きな亡殻の太い脚を柱に、大きな部位を屋根に、脱皮した後の薄い殻を部屋の仕切りに使って大きく作られていた。食料などの備蓄に使われている部分が実は大きい。土を盛り固めて作られた土台は、他の家よりも高い。
 小さな集落なりに政の中枢である。いつもであれば出入りする甲殻も多いが、今、中にいるのは四体だけであった。術士の一行の残り十一体は、外に控えている。
 広間の正面の奥にトールが座り、右にランを、左にレイを侍らせている。その正面に、距離をとって術士が座っていた。床は、固められた黒土である。
 トールの身体は、術士よりも大きい。お互いの素性を名乗る挨拶を終えると、その長にむかって術士は言った。
「こちらの方は、優れた殻読みの技を持ちながら、読んだ刺青を覚えられない様子。我らは、そのような殻の者を治す術を持って旅を続けております」
 トール自らは答えず、若い成体のランが答えた。
「覚えられないだけではない。外から殻を読むことはできても、己が殻に彫られた刺青を、図像であれ文字であれ、すぐには覚えられず、朝になると昨日のことを忘れている始末。甚だしい時は、自分の名すら昼まで思い出せぬ」
「ゆっくりと思い出せるようになってきているよ」
 突き放すようなランの言葉に、レイが反論した。それを受けてトールが言葉を継ぐ。
「成長というのは甲殻一体一体異なり、殻の大きさによらぬもの」
「待っていたらその日の太陽が沈んでしまうようでは、他の者と共に暮らすことなどできませぬ、ましてグアルツランの外へ連れて行くことなど論外」
 三体のやり取りが収まるまで間を取って、術士が言った。
「この方は、一体でこの集落を出ようとされておりましたが――」
 レイは、ランに叱責されると思い、前腕を守りの構えに固めた。間にトールの大きな身体を挟んでいるためランが何かするわけでもないが、手脚に力が入る。
 トールの向こう側のランは、ぐしゃぐしゃと腹手、腰手をこするのみで、隠手を伸ばすこともせず、術士の方を向いている。
「真実ならば、一体で旅するなど成体にあるまじき――」
「そうは申すが、ラン・グリン・ハーバ・レイ・レイズ・――――・デン・ルーミ!」
 トールは高速でランの名を最後まで言い切って発言を制した。他の者は聞き逃しても、ランにはすべて自分の名であることが分かる。発言を途中で止め、黙った。
「そうは言っても、一体だけ残して、他の若い者たちと旅立とうとしたのも、そなたよ」
 身内を制すると、トールは頭部を下げ、自分よりは若く小さい術士の高さに合わせて訊いた。
「どのような、術をお持ちですかな」
「むろん、刺青を彫るのです。グアルツランの長よ、我らが身体の内側で刺青をどのように感じ、彫られたことを理解できるのか、語ることはできるでしょうか」
「いや、陸に上がり最初の名を得た時より、自らの殻のことは自然に分かっているもの。自然すぎて、分かりもうさぬ」
 術士は腹から腰の周りにぶら下げた袋の一つを取り出した。前腕で持ち入り口を広げた袋から、隠手の先端で白砂を取り出して黒土の床の上に撒く。トールとの間の床をいっぱいいっぱいに使って、説明するための絵を描いた。
「身体に染みる刺青は柔らかな肉をとおってここ――『考える』という行為を行う頭の中に蓄積されます。この肉の中で見る能力、内側で殻を見る能力が欠けておられるのです。しかしながら、見ると言っても、肉の中に目があるのではありません。痛みを感じたり、乾きや飢えを感じたりする、身体の裡にある目、肉の内側の部位と部位、そして頭部を結ぶ無数の糸の配線とでもいうべきものがあるのですが、その繋がりが欠けているのです。結び目がないというより、糸が切れている。その配線を刺青によって治す、あるいは新たに配線する。それが、我が刺青の技にございます」
「ふむ、随分と斬新な刺青の技のようだ。殻の全体を彫ることになると見たが、どうであろう。そして痛みも大きそうだ」
「さすが、賢明な長でございますな。仰るとおり、全身に施術を施す特殊な刺青であれば、時間も長く、痛みも大きいのは間違いございません」
「そんな痛みはかまわない。我は頼みたい」
 レイの意思が決まれば、トールに異を唱える理由はなかった。術士に頼むことにした。
「では、そなたの術を信じ、レイの施術を頼むこととする。いつ、行いますかな。次に太陰が満ちるまでは日がある」
「痛みに耐えるというのであれば、今の殻の上からでも、すなわち今晩にでも施術を行います」
 レイの決意は変わらなかった
「今晩、お願いします」
 術士が、レイにむけて頭部を下げた。
「では、今宵のうちに始めましょう」
「ランは、何か言っておくことはあるか」
 トールが訊いた。レイを拾い上げたのはランだ。しかしトーキたち有能な成体だけを連れ、レイを置いて内陸の都を目指すことを決めたのもランであった。
「何もない。明日、我ら十二体は出立する。レイが目覚める頃にはグアルツランを出ているだろう。明日の朝目覚めたのちも、健やかであることを願う」
「施術の前に、トーキに会っておきたい」
「トーキは、お前には合わない」
 そう答えて、ランは出て行った。


 施術には、壁に何枚も殻を重ねて音が漏れないつくりの、賓客用の寝室を使うことになった。レイは寝台の上にうつ伏せにされていた。術士を筆頭とした十二体の甲殻がその周囲を二重に囲んでいる。その背後に、篝火が焚かれて部屋を明るくしていた。
 折り畳まれた隠手を除く五対の手脚が、術士の指示に従って周りを囲む者たちに伸ばされている。術士が、施術を開始した。
 左右の隠手を伸ばし、先端を、鈍い黄金色のどろりとした染料に浸す。レイの殻に傷をつけていった。刺青には、二種類の染料が使われた。鈍い黄金色と黒色の二色で、細い線の幾何学模様を彫っていく。
 レイは、切り刻まれるような痛みを感じた。脱皮直後でもない硬い殻に彫られていく。殻を無理やり剥がされるような激痛、じっさいには違うのだが剥き出しにされた肉に刃物で切れ目を入れられているように感じる。それが、今まで知っているような刺青ではなく、壁画の細密画を描くように延々と時間をかけて続くのだ。
 たまらず強い呼気が叫びのハーモニーを響かせる。天井をドーム上に覆う巨大な殻に反響するが、部屋の外に漏れることはなかった。たまらず、意図せず伸ばしてしまった隠手は掴まれてしまい、逆を取るような形で左右二本がまとめられて、縛られてしまった。もはや畳むこともできず、捻られて肩に痛みが加わる。
 腹手や腰手の殻も彫られた。反射でバタバタと動きそうになっても、引っ張られ、押さえつけられていて、身動きが取れない。
 目に見える範囲の、前に伸ばされた上腕に掘られた模様は黒地に金色の六角形の幾何学模様だ。細かな六角形がいくつも繋がり、中にさらになにがしかの図像や文字が彫られている。しかし、身体全体の模様がどのようなものになるのかは分からなかった。どのような姿になるのだろうか。成長のたびにランや他の成体たちに彫られた刺青も、個別に頼んだものも、成体となってからのものは全て分かっていた。だが、今は言葉も知らない稚児の頃のように、勝手に彫られている。
 夜の間じゅう、施術は続いた。
 終わると、痛みに耐えていたレイはそのまま眠りに落ちた。術士たちが寝室を出たところは見ていなかった。
 
 目覚めた時にも、全身に痛みが残っていた。手脚とその指先までの関節の節々、とくに胴との付け根がきつかった。腹も背も焼かれるようだった。なにより頭部が、象殻の巨大な前腕で殴られたらこのくらい痛むだろうという、殻が粉々になりそうな痛みだった。
 それでいて、いつもの覚醒のようにように、ぼんやりした感じはなかった。視覚も聴覚も嗅覚も、今までになく鮮明だった。匂いで、ここが自分の寝床ではないことが感じられた。土の匂いも壁や屋根の殻の匂いも何か違う。長の館の匂い。
 寝室から広間に這って行く。昨日、術士を前にトールとランとで囲んだ広間だ。今も、そこにトールがいた。より大きい、老体の二体と話し込んでいる。やって来たレイに、トールが気づいて頭部を向けた。
「今、目覚めました」
「無事、目覚めたか。何よりだ」(もう少し何かいう)
「はい。今は……」
「もう、昼を過ぎている。あの施術の後だ、無理もないが」
「昼すぎ……それでは」
「ランたちは、もう立ってしまったぞ」
 長の声を背に、館を出た。太陽が上空高くに輝いている。陽光が熱い。光の粒が、さまざまな色に分解されて身体にあたっているように感じる。
 館から、出発準備をしていた広場までの道はまっすぐだった。ランとトーキたちの隊をはじめ、三つのグループ、合わせて三十六体の若い甲殻の旅立ちと祝いの準備で昨日の広場は賑わっていた。今日はもう、その広場は閑散としていた。
 皆、行ってしまったのだ。


 グアルツランの若い成体たちの中で、レイはずっといないものとされていた。同じ夜に上陸した仲間たちもトーキがレイに近づかなくなってからは、誰も代わりに近づこうとなどとしなかった。それでも同世代のもの、より年上のものたちはレイを知っていたものだが、より若い甲殻にはまったく知らないというものも多かった。
「この集落の狭い中で、お互いに名も知らずにやって来たのだろうが――」
 レイ・……・クロクス、新たな名を得てから三日後、トールの館に呼ばれた。黒地に金色の小さな正六角形の格子模様が鈍く光る刺青を彫られた殻で、長の前に座って話を聞いた。
「――かれらと共に働き、また若いもの、稚いものを育てる役も担ってもらいたいと考えている。その、全身を覆う刺青の効果を試すためにも」
 トールの言葉は、穏やかな語りでレイの聴覚器官にも届いていたが、、ものすごく難しいことを要求されていると感じ、レイは殻の内側もからのように固くして、座ったまま静止した。
「我には、荷が重すぎる」
 ほかの若い成体への期待と、同じことを言われているだけなのは分かっていた。
「臆することはないよ、その刺青が解決してくれるはずだ。時間をかけて慣れていけばよい、と言いたいところだが、実はな、ちょっと困っている」
「お困りですか、我のことで」
 何かしたいという気持ちはあるのだ。
「レイだけのことではないのだ。ランたちが出ていったろう? 三組合わせて三十六体もの若いのが一度に去ってしまった。働き手が不足している」
「いままでも、ずっと続けて来た習慣かと思っていました。とくに数が多いわけでもありません。先日より前も、何体も西方へ向かって行ってたと思いません。それで、不足というのは?」
「ゲア国の太守から、使いが来てな」
「上流の、城の太守ですか」
「そうだ。沿岸の集落にも高楼を立てよと言って来た。グアルツランだけではない。北のサラバラ、南のドンタル、バンタル、どこも等しくだ。ゲア河の下流域を中心に、版図となる土地全体に」
 働き手の数がいくらでも必要なのは理解できた。日頃のグアルツランには無い働きが求められている。
「急ぎの命令なのであれば、ランたちを呼び戻せば」
 そうすればトーキも戻ってくる、という感情が、副口が吐き出す声に乗っていた。レイがまっすぐ見上げるトールの三対の眼が、柔らかな印象へと変化が生じたことにレイは気づく。甲殻同士の情報交換の複雑さに頭が痺れそうだ。いままで、そうした体験とは無関係だった。
「残念ながら、旅立って行ったものたちはゲアの都が欲している。向こうでもあれらの力を必要とする役割があるのだそうだ。城壁を高くするとかな、色々、都にもあるらしい」
「残念です。高楼を立てるという命令は、何のためなのですか?」
「もちろん、なるべく遠くまで見えるように、見張れるように、ということだよ。それと隣の集落へも炎で伝え合えるように、だな。グアルツランとサラバラの間の街道にも、炎を繋ぐように高楼を建てることになる」
「べつだん遠くに見るべきものなど、何も無いように思います。それに建てたら建てたで、誰かが登って、いつも見張ってないとならないですね」
「その役は、太守の方から人を出すということだ。城から、見る者が来る。兵、というものを知っているか?」
 学んではいた。
「殻の上に殻を纏う者、隠手よりも遠くに届く刃を持つ者」
「そうだ。ゲア国の王は――戦さに備えようとしているようだ。攻め込まれる危険が、あるらしい」
 
 レイの名を知るものは、ランをはじめとする同じ家のものたちと、トーキたち同年代のものくらいだった。最後まで一緒に遊んでいたトーキが近づかなくなってからは、孤独だった。例よりも若い甲殻も増えているが、お互いに避けてきていた。しかし今では頼られるリーダーだ。
「仕事が速いのは、その金色の六角格子の力ですか」
 慕って近づいてくるカナガナという名の若い甲殻が、気軽に訊いてくる。
「そうだと思う」
 忘れない、会話に無駄がない、判断が早い。昔のレイとは変わった。
「すばらしいな。我も彫りたい」
 優れた図像の刺青が甲殻を成長させ、出世させるものだ。若い甲殻は当然のように憧れる。お互いに無視しあっていた頃など忘れている。
「残念だが、我は彫り方を知らない。トールも、他の誰も知らないんだ。」
 もともと持ち合わせていた、殻を外から読む機能は失われていない。その上で身体の内側でおぼえ、理解することができるようになった。身体から外へ向かって、行動することができるようになった。
 
 しかし、慣れない仕事の負荷が厳しいためか、ひそかに身体の内側に痛みを感じていた。全身の殻の内側に強い刺激があった。周りの数倍の勢いで頭を使い、何体もの甲殻と話をして、仕事をこなして家に戻る。今では、かつてのランの立場に、つまり家の若長におさまっていた。戻ると、寝台で痛みに耐えながら倒れ込んでいた。
 それでも働き続けて、四年が経った。
 高楼の建設も進み、グアルツランのものは完成した。続けて、サラバラへ向かう街道に建てる計画をゲア国の兵と共に進めていた。カナガナはまだよくやっていたが、相変わらずレイと他のものの仕事ぶりは差が開くばかりであった。
 レイは、その建設中の高楼に登って、カナガナと共に休んでいた。足元では、大きな兵たちが三体、座ったまま寝ている。
 遠くを見ていたレイが、先に気づいた。
「カナガナ、あれが見えるか」
 サラバラの方角から、近づいてくる集団がいる。まだ、下にいる兵には見えないはずだ。
「はい。十二体と後ろに象殻、大きいな、象殻にも一体乗ってますね。稚児かな。歩いているのは殻が揃って黒いですね。もしかして、レイと同じ刺青」
「眼、よく見えるな。見覚えあるよ、あれは術士だ」
「では、我の願いが叶うかもしれない?」
「どうだろうか。とにかく、降りて出迎えよう」
 二年ぶりに再会した術士は、二年分成長した若いレイにとって見上げるような相手では無くなっていた。しかし身につける装飾は以前より分厚く重ねられているように見えた。その下に隠されている刺青の量も増えているのが窺える。
 挨拶を交わすと、術士の一行はグアルツランを目指していたところだと言う。象殻の背中の荷台に乗せられてる稚児には、まだ同じ刺青は彫られていなかった。
「後ろの稚児は」
「君と同じだ。殻に彫られたものが分からない。しかし君と同じではない。見ればいくらでも読み取ることができる君とは異なる。手の先端でなぞっていくと読める、ゆっくりと、しかし前腕、副手、腰手で同時に触れると同時に読める。触れなければ読めないが、覚えることはできる。自分の殻もそうやって理解して来たようだ」
 カナガナが術士に訊いた。
「我にも、彫ってもらうことはできますか」
「何か、困っているのかね」
「レイに比べて、仕事が遅いです」
 術士は、すぐには返答せずに黙った。レイが続けて訊いた。
「我からも、頼みたいことがあります。その刺青の彫り方を、教えてもらえませんか。皆、もっと働けるようになりたいと言ってます」
「実はな、レイよ。グアルツランに戻って来た目的の一つはそれだ。君に期待している」
 ゲントという稚児と、カナガナへの施術に、レイも参加することになった。ゲントとカナガナの身体を彫る時に、レイは助手として術士の隣で学んだ。
 脱皮したものの名は、その土地で名付けることになっている。刺青を彫った術士とレイ、そして長であるトールの三名で話し合いが持たれた。稚児に新たに付加する名は、レイレンレイと決まった。
 レイが新たな刺青を彫ったもの、ゲント・コル・ソム・オーツ・レイレンレイを、グアルツランは稚児を集落の仲間として受け入れた。いずれ成体になったら、カナガナと共にレイの下で働くことになる。
 
 二体の施術を終えて、術士とレイはトールの館に集まった。四年前とは、レイの立場が大きく異なる。かつてランがその役を担っていたように、今ではトールの腹心であった。
「四年ぶりに訪れましたが、ここでもゲア国の兵が増えておりますね」
「太守からの命令で、守備を固めているところです。高楼を立て、備蓄庫を広げ、しかし、攻めるどころか、守りの兵力もグアルツランからはほとんど出せません」
「このような海岸沿いの集落を、どこが攻めてくると王はお考えなのですか」
「ゲア国は広い。辺境の国々と向き合っているのは内陸ですが、しかし、海岸線を奪われたら、若い甲殻が増えなくなりますからな。北からも南からも侵入を警戒しています。術士どのは諸国を旅しておられる。王から、呼ばれることは無いのですか? ゲアの都へはすでに行かれましたか?」
「私たちなど、呼ぶに値しないでしょう」
「術士殿の技は、大陸のどこでも重宝されるでしょう。」
「恐れ入ります。いずれ王に謁見する栄誉にあずかりたいものだと考えております」


 術士はグアルツランを離れた。太陰は太陽から遠くへ、また近づく道を描き、雪解けの季節となった。厳しい冬であった。グアルツランに雪が降ることはなかったが、サラバラでは吹雪で雪に埋もれ家の中から誰も出られない間に高楼が吹き飛んでしまった。それを立て直す作業に、レイと、成体になったゲントが加わろうとしていた。
 ランとトーキが五年ぶりになるグアルツランに帰還したのは、そのような時期であった。
 五年前は三組合わせて三十六体が一斉に旅立ったが、そのうち八体と、他の土地のもの四体による十二体での帰還となった。内陸の土地に定住したものも、旅を続けているものもいた。命を落としたものも少なくなかった。
 かれらが戻って来たのは、晴れた日の昼の刻であった。しかし暦は太陰が夜空から消える朔の日であり、昼の空を大きく隠していた。太陽も太陰の向こう側に長時間隠されるため、空は薄暗く、空気は寒かった。
 代表として、隊長と副隊長の任を務め続けた、ランとトーキがトールの館を訪れた。レイが兵舎にいる兵たちと話をしているとトールに呼ばれ、同席さすることになった。
 広間に入ると、すでに皆は揃っていた。帰還した二体の姿は自分が覚えていた姿よりも大きく、逞しかった。自分の殻も大きくなっているので、見上げるようなことは無いが、比較すると、より成長しているように感じられる。
 ランとトーキは軽くレイの方を見たが、目立った反応を示さず、トールの前に座した姿勢から、あらためて頭を下げた。左右の前腕、腹手、腰手をそれぞれ身体の前で触れ合わせ、長に対する礼を示す。
「お久しぶりです、トール」
「無事で何よりだ。ランもトーキも大きくなったな。ゲアの都はどうであったか?」
「大勢の甲殻がいました。大陸の四方から集まってきている。集められているようでもあります」
「行ったことがないからな。広いか、都は」
「広いです。そして城壁も高く、兵も多い」
「五年の間に変化はあったか」
「都にいたのは三年足らずですが、兵は目立つようになりました、守りも堅く」
「やはりそうであるか」
「刺青の図像が、手強い者が多いです。竜殻を表すシンボルや、殻の上に殻を重ねているように見える甲の絵柄、隠手で槍を素早く操るための刺青をゲア王は開発されていて、槍竜兵なる強力な兵団が組織されていました」
 報告は長く続いた。内陸部の豊かさと、数が増えた兵の話が続いた。
 
 話が終わり、ランとトーキが退出した。トールの館の外に出たトーキを追い、レイから声を掛けた。二人は広場に出て、並んで座った。
「ゲアの都は、ここよりずっと大きいのか?」
「グアルツランの、千倍の甲殻がいて、千倍広い」
「ここよりも、年を取った甲殻が多いのだろう? 家も広くて大きいのか?」
 トーキは頭を空に向ける。想像の天井に向けるかのように答えた。
「天井が高い、壁も厚い、でも古い。大きな象殻の殻を使って建てられているが、そんなのは、中々いないからな。古い象殻の殻をずっと使い続ける。古い象殻のほうが価値があるからいいんだ」
 都の大きさを想像すると、グアルツランの小ささが惨めに感じる。だが、レイにもここを大きくした自負があった。
「高楼を見たか」
「見たよ」
「岩と、象殻の殻と、切り倒した甲樹で造った。我らが建てた」
「レイが造ったのだろう。棟梁はレイだと、トールに聞いた。すごいな」
「初めて褒められた。昔と違って、賢くなったし、忘れなくなったよ」
 トーキの三対の眼が、レイの三対の眼を見た。
「よかった……昔は、悪かった」
「仕方ない。できない奴のことは、できる奴は分からない。しかし、我はできない奴のことを忘れないでいたいと思う」
「忘れない?」
「周りの甲殻は、我より仕事が遅い。ここで、我と同じように殻を読むのも考えることも速いのは、カナガナと若いゲントだけだ。でも、それは刺青の力だから。できることとできないことが、皆、違う。たいていは、誰でもできないことのほうが多い。それは忘れたらいけない。
 ところで、都にはあのような、高楼みたいなものはあるのか」
「もっともっと、大きい城もある。ランも言っていたように、城の守りを強くしようとしている。王の館はとても高くて大きい。それは比べられないけど、レイが建てた高楼は、グアルツランに相応しい大きさだと思う」
「どこも、大変なんだな」
「グアルツランも大変なのか」
「いや、我の問題。ずっと頭が痛い」
「他の者の分まで働くからだ。それとも――」
 トーキが前腕を伸ばして、先端でレイの新しい刺青に触れた。黒地に金色の六角格子。その場所に微細な記号で彫られた言葉が殻の内側で感じられる。たまたまそれは、ゲア河の上流、つまり王都から海岸までの一帯の地図を広げる引き金になる記号だった。トーキが往復した道のりが、頭の中に鮮明に浮かび上がった。
「――この刺青が無理をさせているのか?」
「わからない。わからないが、これで賢くなった。でも我は遠くへは行ってない。トーキのように、遠くへ行きたいな」
 
 朔の夜は、空が黒い。太陰がないからだ。そのかわり、小さな星々の輝きがひときわ眩しい。
 夜も更け、その星空を見る甲殻は、グアルツランには誰もいなかった。稚児から老体まで、皆が眠っていた。入り口の門の番人や、高楼に登っていた兵も眠っていたと伝わるが、定かではない。
 レイの記憶によれば、声が聞こえたのだという。誰の声か、何を語っているかは定かでないが、自分が声に従って動いたことは確かだった。自分の意思ではなく。
 その夜も、頭の中を捏ね回されるような痛みが酷かった。悪夢を見ていた。悪夢を見たまま、起き上がって、家を出た。久しぶりにランが戻って来た家に暮らしている多数の甲殻の、誰もレイが外に出たことには気づかなかった。
 誰もいない広場に立つ。篝火すら消えていた。カナガナとゲントがやって来た。揃ったところで、まず、兵舎に向かった。
 槍を奪って、寝静まっている兵を順に刺していった。兵舎内には九体が寝ていて、レイたちは三体づつを屠った。隊長は、レイが屠った。
 自分が兵を殺したことを自覚したのは、兵舎を出たあとだった。カナガナとゲントも気付いた様子だが、そのまま三体は次の目的地へ向かった。
 まっすぐトールの館に向かった。
 トールの寝所はわかっている。そのまま、孵化した稚児が海へ泳ぎ出すような自然さで、時期が来て脱皮するような自然さで、館に忍び込んだ。寝所で眠っている、トールを槍で刺して殺害した。
 目覚めたのは、館を出た時だった。
 高楼を登っていく甲殻兵がいた。篝火を持ちながら、梯子を登っている。殻に彫られた紋様が火に照らされて見えた。黒地に金、術士の刺青だ。見ていると、櫓にいた兵が目覚め、登ってくる兵を落とそうとする。反対に、術士の兵に投げ出されてしまい、地面に落下した。殻が割れて、潰れた。
 鐘を鳴らして、篝火を掲げた。
 それを見て立ち尽くしていたレイたちの前に、トーキが走って来た。
「レイ、その槍はなんだ」
 レイは答えない。カナガナとゲントも何も言わない。
「この先はトールの館だ、その槍で、何をした」
「済んだ。グアルツランの長も、兵も倒れた」
 カナガナとゲントが左右を囲む。
「殺したのか? 何をしたのか分かっているのか?」
「帝国を再興する」
「レイでは無いのか!」
「我の名はレイ。帝国の再興に力を尽くす者の一体」
 レイは、自分の内側で刺青が命じるとおりに、自分が振る舞い、言葉を発していると分かった。身体も言葉も、すべて操られていた。自由になるものが何もなかった。
 さらに、鐘が鳴り響いた。
 先に覚醒したのはゲントだった。
「レイ、逃げましょう!」
 彼らに近づいてくる兵がいた。正面を向けて近づいてくる顔に、術士の刺青がある。
 カナガナが槍を振り、レイとトーキの間を刺した。二体が距離を取る。
 レイも覚醒した。トーキからも兵からも離れなければならない。三体でどちらからも距離を取る方向へ逃げた。
 そのまま、走り抜け、北の門から逃げた。
 
 自分たちはどうなってしまったのか? 刺青によって制御されていたことを、レイたちは理解した。時が来たら作動する仕掛け、その時が来るまでは、刺青に彫られた意味を解釈することもできなかった。今、自分の刺青に触れてみる。殻の内側で感じる。
 ゲア国の兵と、この場の長を殺害するように、命令が記述されているのが読み取れた。
 これから、次はどうなるのか? 具体的には、何も読み取れない。想像はできる。また利用されてしまうのだろう。拒否したい。
 逃げるしか無いとレイは思った。誰もいない場所へ。術士からも、故郷グアルツランの甲殻たちからも、追われる身になる。
 ひとまず、街道を北方へ進むことにした。サラバラに入らず、迂回する必要はあるだろうと考えながらも、レイの選択をカナガナとゲントも合意した。
「レイ、この逃亡は正しいと思うか」
 それでも、カナガナが訊く。
「この逃亡も、すべて刺青に彫られた通りの行動だとしたら」
 正解など判らなかった。自分が何をしてしまったのかも、まだ実感がない。
「生き延びようと行動するのはは、少なくとも自分のものだと思う。目指す方向すら操られたものだとしても、自分を信じるしかない」
「消せないか? 上書きして」
「消したいよ! でも、どうやって消せばいい?」
 簡単には消せないことは分かる。それに、全て消して元のとおりの殻になったとして、今までに覚えてきた事を忘れ、いろいろな事を覚えられない自分でいたくはないとも思った。


 その夜、術士たち十二体の一行は、ゲア国の王都にいた。
 温暖な王都もまた、朔の日の冷え込みがいつになく厳しかった。朔は、太陰が満ち欠けを伴って天空を進む一周の、最初の夜である。常であれば、夜には星空のもとで宴が催される。しかし伝承によると、この夜の王都は静かに眠っていたという。真偽は定かではない。歴史の記録にはそのように彫られている。
 術士とその配下、十二体の甲殻はまっすぐに王の館に向かい、竜殻の太い足で作られた門をくぐった。位の高いものの館の作りはどこも同じような様式であり熟知しているとばかりに、迷うことなく、回廊を進み、王の寝所に踏み込んだ。大きな寝室であった。
 他の村や城の主人を、刺青を彫った甲殻たちに殺させたのとは異なり、ここだけは術士が自ら隠手を伸ばした。古き王は、新しき王自身が殺めねばならぬと考えたのだ。
 火が上がり、王の館は燃えた。城内は火の海となった。
 同じ夜、グアルツランを始め、沿岸部からゲア河流域、さらに内陸部まで、あらゆる土地で一斉に領主や将軍が殺され、その報せを告げる篝火が、皮肉にも守りを強化するために建てられた高楼に焚かれた。城と城、村と村の間を結んだ。方々に伏せられていた術士の軍勢が、この報せによって蜂起した。
 実質的にこの一夜でゲア国は滅んだと、歴史官の殻には彫られている。
 
 さて術士は自ら南方から来たとよく語っていたとおり、南方の、それも氷雪地帯に接する、南壁にちかい古都の出身であった。辺境といっても良い場所に古都があったのかと、歴史に疎いものは疑問に思うだろう。
 忘れられた古都、古王国エマの都である。甲殻に初めて刺青を彫り、言葉と記憶、名前と自己なるもの甲殻に与えた王が建設したという幻の都。
 術士は、そこで生まれた。名は与えられなかったという。
 名もなき王は、太古のエマ古代帝国の皇帝の末裔を名乗った。刺青を彫ることで甲殻に知恵を与え文明を築いたとされる、刺青の神、曙の皇帝の末裔を名乗ったのである。
 
 名もなき王は、二体のみ。一体は最初の王、すべての王であるがゆえ名を名乗る相手も名付けるものもいなかったとされる曙の皇帝。もう一体が、術士と名乗っていた皇帝である。
 
 歴史官の殻によれば、この夜より大陸はエマ国の時代に入ったとされている。
 そして、太殻の暦で三年が経過した。


 レイは、追われる身となった。グアルツランの同胞からも、エマ国の兵からも、追われる身である。
 一体では無い。他にも、術士の刺青を彫られた甲殻たちがいた。自ら刺青を彫った、カナガナとゲントが行動を共にしていた。トールを殺害しグアルツランを逃げた後、サラバラまで街道を進んだ。サラバラの長も殺されていた。術士に刺青を彫られたものがサラバラにもいて、高楼にエマ国の旗を掲げていた。彼らとは交われないし、サラバラの甲殻が味方になってくれるわけでも無い。ここで、レイたちは街道を外れた。
 そこからの逃避行で、匿ってくれたもの、仲間になってくれたものもいた。術士の刺青に操られてしまったことを悔い、復讐を誓うものにも出会えた。数は増えたが、追っ手のエマ兵に殺されてしまったものもいた。
 今、逃亡者たちは山奥の集落に身を潜めていた。元々の住民と合わせても、三十体に満たない。住民といっても、ここで生まれ育ったものでは無かった。皆、何がしかの理由で、ゲア河流域の豊かな土地を去って来た者たちである。渓流と、森の中で採れる食料で食い繋いでいた。緑甲樹の無限に伸びる根の塊と枝肉、炎木えんぼくの真っ赤に色づいた後に剥がれる幹殻みきがらほ保存し、柔らかく剥き出しになっている幹肉は削って腐る前に焼いて食べる。
 北辺に近い、辺境である。冬が近づいていた。
 集落の裏手から、谷を降りていくと底に川が流れている。ちょっとした滝壺があり、レイの体長でも、水底に足が届かない。その河原にレイとカナガナが休んでいた。滝から落ちてくる水が飛沫となって、二体の殻を濡らしている。
「冬になったら、雪に埋もれますか?」
 カナガナが、レイを見上げて訊いた。副口から漏れる呼気が、すでに白い。そこに不安と好奇心が混じっている。ここで冬を越すのは初めてだ。
「埋もれるだろうな。尾根の向こうは、ほぼ北辺だろう。それに山の中腹といっても、平原地帯よりはだいぶ高い」
「ここまでは、追跡は来ないですね」
「冬の間はね。ずっと安全だとは思っていない。しかし、食料の備蓄もあるし、身動きできないが半年は休める」
「術士の……皇帝の追跡も厳しい、放っておいてくれても良さそうなものだ」
 レイたちが今の土地に辿り着いてから、半年が過ぎていた。この間、追っ手が来ることはなかったのだが、それまで、何ヶ所かの隠れ家や集落を転々として来ていた。三年間、ほんとうに休まることなど一日もなかった。レイたちの集団は、常に不安を抱えていた。
「なぜ追ってくるのか、もう一つ、なぜ追えているのか」
 術士の彫った刺青の、黒字に鈍い金色の細かい六角格子が光る前腕の先を見て、レイはつぶやいた。カナガナに聞かせるというよりも、自分に対する問いのように。
「なぜ……」
「最初の問は、おそらく我が理由だ。皇帝の刺青の彫る方法を、我だけが知っている。秘儀として独占しておきたかった技術のはずだ、外に出したく無いのだろう」
「でも、彫って無いですよね?」
 カナガナとカナガナを彫る時に、術士の助手に着いた時だけの経験だ。
「あの事件の後では、彫ってもらおうという甲殻はこのあたりにはいないよ。それに、染料がない。この金色、それに黒地だって、特殊なはずだ」
「そうですね――もう一つは、答えがあるのですか。なぜ追えているのか」
「わからない。しかし、分からないなりに想像はできる。この刺青が呼び寄せているかもしれない」
「どうやって――いや、じっさいに他の土地で術士に彫られた者たちが」
「そうだ。我らと、彼らが合流できたことも、自分たちが知らないうちに呼び合っていたのかもしれない」
「そうだとすると、これからも、追われ続けないとならないんですか」
「皇帝の軍門に下り、兵団に組み入れてもらえば、あとは平穏に生きられるぞ」
「最悪です」
「あとは――」レイはその先を語らなかった。「それよりも太陰の満ちる夜が近いな」
 切り替えた話に、カナガナはすぐに威勢よく反応した。
「はい! この滝壺になるんでしょうか」
「ほかに場所がないだろう。グアルホラン洞のようにはいかないよ」
 若いカナガナの反応とは異なる。憂鬱だった。一体の成体としても、集団をまとめるリーダーとしても。

 平穏な村で暮らしていても、喧騒あふれる王都で働いていても、旅の途中であっても甲殻は太陰の満ちるごとに脱皮と繁殖期を迎える。放卵、放精のためには、群れの個体数に相応しい大きさの場所が必要である。もちろん、孵化した稚児が海へ向かうためには、海の入江や大河の流れの中がちょうどよい。
 逃亡中の身であるレイたちにとっては、それは高望みにすぎなかった。
 太陰の大きな円が空を覆う夜、時間差はあるが、皆が谷底まで降りてゆき、脱皮を始めた。十ほどの歳を数えるレイをはじめ、まだ若い成体ばかりである。レイたちよりも前から住んでいた者の中には老体もいたが、全体には繁殖可能な成体ばかりだ。逆に稚児はいない。
 脱皮を済ませたものから、川に入っていく。滝壺の深くなっているところに集まって行った。ゲントも、カナガナも入ってゆく。少し遅れて、レイも脱皮を済ませた。
 まだ柔らかい新しい殻にも、もちろん刺青は残っている。術士に彫られた黒字に金の格子、その中に書かれている図像や文字などもすべてそのままだ。もちろん、最初に彫られた名と紋様や、幼いことに学んだ様々なことも残っていて、当時は読み取れなかったそれらの意味が、今ではレイの体内に、そして心に沈殿している。
 稚いころ、前腕に彫られたトーキの名も、覚えていた。
 大小二十体ほどの成体が群れて泳ぐには、滝壺は少々狭い。しかし身体を擦り付けるような距離で泳ぎながら、脱皮したばかりの群れはまず放卵し、つぎに放精した。精も卵も混在していて、誰のものかなど全く分からないのはグアルホラン洞のような産卵場と変わらない。
 これらはみな、この小さな集落の、皆の子なのだ。
 甲殻は、海から地上に上陸して来たものを拾い上げ、刺青を彫り、名付けた時にその稚児が地上を生きる甲殻として生まれたと受け止める。
 もしも、孵化できれば。もしも、海に流れつけば、そして生きて再上陸を果たせれば。
 仮に孵化したとしても、その後のことはすべて不可能だと、レイは分かっていた。
 繁殖の時間が終わり、皆が河岸に上がってくる様子を、先に上がったレイは虚しく見ていた。逃亡を続けて逃げ切ったとしても、その先は見とおせない。どこかで倒れるだけだ。


 脱皮した後の殻は、滝壺の中に投げ込まれた。そのまま沈んだり、下流へ流されたりしていく。
 翌日、レイはカナガナを伴って、その場所へ降りていた。河原の土の上に、初めて見るものに遭遇した。カナガナが、それを見つけた。
「待って。大きい足跡! まずいな……」
 甲殻の後脚は太い。直立したときに体重を支えるだけの大きな足をしている。しかし、今いる誰の足跡よりも、二倍は大きい足跡が地面に踏みしめられていた。無論、形状がそもそも異なる。
「だいぶ大きな、獣殻だな」
 知恵と刺青をもつかれら甲殻の他にも、多くの、殻で覆われ脱皮する種類の動物が海にも地上にも溢れている。大陸で最大の動物で、飼い慣らされている個体もいる象殻、凶暴なまでに攻撃的なことで知られる竜殻、その他にも、さまざまな獣殻が生息している。ゲア国もエマ国も、全てを知り尽くしているわけでは無い。まして北方の辺境地帯である。
「危険ですね」
「昨晩、僕らが戻った後にやって来たというところかな。早朝だろうか」
「まだ近くにいたら危ない」
「戻るか。こいつの、活動範囲というか、縄張りの広さってどのくらいなんだろう」
「それが何か」
「はぐれてきたので無い限り、こいつの活動範囲に、つまりこの近くのどこかに、繁殖できる場所があるってことだろう? 獣殻なら」
「産卵場と、孵化してから出て行く海が近くにある?」
「そういうことだ。山のこちら側は何もないけれど」
「向こう側は、完全に氷雪地帯ではないのか。この大きいのが向こうでも生きられるとしても」
「獣殻が生きられる土地なら、僕らも適応する方法があるんじゃないだろうか」
 レイとカナガナは、周囲の物音に気を配りながら、元来た道を引き返して行った。
 
 無事に戻ったところで、集落にも問題が持ち上がっていた。
 集落には、元々密やかに暮らしていた者と、レイたちの数が半々ほどだ。各々二十体程度なのだが、分担して、周囲を見張っている。近づいてくる者がいたら里に近づく前に正体を見極めて対応するためである。その中の、元から里にいた甲殻の一体が戻ってきていた。
 レイとカナガナが戻ってきたときには、一通りの話がすでにされているようで、ゲントが話をまとめて教えてくれた。
「身分を隠しながら、旅してる組があるそうです」
「数は? 組と言うことは、十二体揃っている?」
「そこまで近づけていませんが、確実に十体はいると。しかも隠れるように、麓の街道から外れて移動しているようです。山を上がってくるようだと」
 集落の長は、老体に近い。大きな殻を動かすことも少ないのだが、他の成体たちから信頼されていた。その長に、レイは訊いた。
「この里を探しているのでしょうか」
「聞いた限りでは、まだ半々というところだな。単に表街道を避け、隠れて動いているだけと言うこともある」
「隠れているとしたら……」
「エマ帝国の兵ではない、な。あれらが行動するなら、むしろ堂々と旗を掲げて、周囲を制圧するように進んでいく。と言って、ふつうの隊商などであれば、許可さえもらっていれば、隠れることもない」
「ゲア国の抵抗している者だと、おっしゃっている」
「うむ。ここを探しているかどうかに関わらず、そうではないか、と推測している。街道の砦には、エマの兵が数体いるらしいが、今のところ何も動きはないそうだ。隠れているならば、成功しているとは言える」
「見つかった場合、長殿は、どうされる」
「我らは動かぬ。放っておいてくれと言うばかりだ。だが攻めてくるような者であれば、逃げるしかない。戦うような力はない。帝国の兵ならばそうなるだろうが、ゲア国の残党だとしても、我らに問題はないしな」
 お前たちには、問題があるだろうと問われている。
「ゲア国の甲殻とは争いたくはありません」
「そうだな。遭遇したときに、相手も思ってくれるなら良いが」
「我らの仲間だけで考えさせてください」
 
 レイは、カナガナ、ゲント、そのほか総勢二十体になる仲間たちを集めた。
「近づいてきているのがゲア国の兵なら、我らは敵と見なされると思う」
 ゲントが訊いた。
「戦いますか?」
「戦いたくない。本来、同じ村や城に暮らしていてた仲間だ」
「和解の道は――」
「どこの村や城にいた者かにもよるだろうが、我の村グアルツランだけでなく、いくつもの土地で術士に刺青を彫ってもらった者がいた。それぞれの土地で兵や長を殺しているならば、たいていのものは許してはくれない」
「では――」
「この集落に来るのかは分からないが、逃げようと思う。そして、つぎの土地を目指す」
 カナガナが問いかけた。
「さきほど滝壺で話したあれですか」
「そうだ。尾根を越えた向こう側に、大型の獣殻が繁殖できるような水源があるかもしれない。そこを目指そうと思う」
「北辺を越えることになりますよ。雪に埋もれた土地です。今はいいけど、生きていけるとは」
「大河にも海にも繋がらない場所で太陰が満ちる夜を何度迎えたって、稚児が戻ってくることはないんだ。ここにいても、あの長のように、ただ老いるのを待つだけになる。彼らはいい。ただ、密やかに暮らしたいだけだ。過去のいきさつはあるのだろうが、エマ国ともゲア国の残党とも対立しているわけではない。しかし、我らは怯え続けることになる。それならば、我らの土地で繁栄する可能性を見つけたい」
 立ち上がって議論していたゲントが、後脚を曲げて座り、前腕をあげて合意の意思を表した。
 しばらく考えて、カナガナも同じ姿勢を取った。他の者たちも、全員合意した。
 
 レイたち二十体は、翌日、集落を離れた。
 レイは長に礼を述べた。
「今まで、匿っていただき感謝いたします。皆が最後まで穏やかに生きていけることを願います」
「うむ、レイよ。お前たちの身に刻まれたものは不幸なものだが、脱皮を重ね、殻が大きくなれば、新たな刺青を彫る余地ができる。まだ老いるまでは長い。その空白が善きものになることを願おう」
 
 地図もない未知の世界である。話に聞く南壁山脈や、西の内海周辺の山岳地帯に比べれば険しくは無いのだろうが、道なき道を行くのは厳しい。
 目指すのはひとまず尾根であり、見えてはいるものの、登り始めれば遠かった。
 すべての土地の地図を刻むことができるゲントがいるため、同じ場所を回り続けるようなことにはならなかった。ゲントは歩いた記憶、移動した距離と方向、周囲の様子すべてを記憶して、自分の殻に彫っていった。
 しかし、それで未知の土地の状態が分かるわけではない。六対の手脚を使って危険な斜面も登ってみせる甲殻だが、落石が直撃して、そのまま落下した者も出た。獣殻の大きな足跡を見つけては、出会わないように遠回りすることもあった。
 それでも出発から三日後には、尾根が目前に迫ってきた。
 雲がなく、太陽が背中を熱するように熱い。明るく照らされた斜面をレイたちは登っていった。
 ついに尾根に立ち、南北どちらにも遮るものがなくなった。落ち着いて、後脚だけで立つ。南側は太陽に照らされて遠くの街道まで見渡せる。それに対して北側は雲が足下に立ちこめており、地面はわずかしか見えなかった。
「ここから下りるのが、辛そうだ」
 カナガナが、弱音を吐く。ただ上に登ればいいこれまでと違い、これからは新天地を探しに下りるのだ。
 その斜面から冷たい風が吹き上がってきて身体を冷やす。風が、強いのだ。
「やみくもに下りるのは避けるべきです。下を確認してから進まないと」
 ゲントが言う。
「何も見えないよ」
「風が雲を運びます。切れ目も動くから下の地形がわかるはず」
 遠くを見ていたレイの目に、地面に光るものを見つけた。太陽光を反射する、水面だ。その方向を指して告げた。
「その方向に水面がある」
 やがて雲が動いて、その周りを景色をはっきりと見せてきた。輝く水面、入り組んだ長い岸。
 ゲントが興奮して声を上げた。
「大きい! ここから、それほど下らないように見えます。だとすれば、海ではなく湖でしょうか」
「対岸が見えないので何とも言えないな。ゲント、今見えている地形から、地図を作れるか?」
「できます! もちろん、完璧なものにはなりませんが、進みながら方向を誤らないようにする程度には」
 皆が喜びの声を上げた。レイは宣言する。
「よし、少し休憩を取ったら、昼の間にできる限り進むぞ」
 そこに反対方向――南の明るい景色を見ていたカナガナが言った。
「あのへん、山が動いてます。といいうか、森が、獣殻か、それとも甲殻の追っ手か」


 山が動いて見えるほどであれば、甲殻が何体もいるか、獣殻の群れか、ということになる。幸い、獣殻ではなかった。カナガナが足跡を見つけたような、獣殻を襲う大型のものであれば、襲われれば逃げようがない。
 近づいて来た甲殻の数は、六体。まだ、後ろに隠れている者がいるかも知れない。殻の上に殻を纏う者、兵だった。何の紋様も見せていない森に隠れる色彩の鎧は、国を明らかにせずに移動する兵のものだ。甲殻の国々は、どこも堂々と自分の色を見せて行軍する。
 隠していることが、逆に素性を明らかにしていた。ゲア国の生き残りだ。
 隊長と覚しき甲殻が前に出てきた。
 トーキだった。
「裏切り者を追ってきた」
 ということらしい。
 体長はほぼ同じでも、武装した兵は一回り以上大きく見える。槍を手にしていなくても、前腕も隠手も強力な武器だ。
 トーキが何者なのか、レイとの関係を知っている者は、ここには、カナガナとゲントしかいない。短い言葉を交わして、どうするか話し合う。もっとも話し合うまでもなく決まっている。向こうの隊長がトーキならば、こちらを率いているのはレイなのだ。
 レイがトーキの正面に立った。距離は十分にとる。
「いつのまに、兵になったのか」
 戦いはしたくない、話し合いをしたいという意思を、副口の呼気に滲ませる。
「ゲア国を再興するために、集まっている者が大勢いる。奪い返した城もある」
「それなら、その城で戦えばいい。我らを追ってどうする? エマ国と戦うならば、その戦の趨勢には影響がない」
「共に戦うのであれば不問にする」
 高圧的な言葉に反感を覚えるが、攻撃的な言葉を重ねることは、今やることではない。
「誰と共に戦う? 城を奪ったというエマ国の兵団か? 我らは兵力にはならない。戦うには、皇帝は強大すぎる。生きながらえる場所を求めて山を越えた。中央平原の争いに巻き込まれたくはない」
「ゲア国が滅んだ責任の一端があるのにか」
「操られたことに責任があると言われれば、そのとおりだ。そして、この刺青がある限り、ふたたび操られる危険がある。だから、我らはここに逃げて来た。それを知っている者が南に還ると、また追われてしまう。皇帝に発見されたら、以前と、同じ苦しみを繰り返すことになるかもしれないんだ。だから、我らとしてはトーキたちを返したくない」
 トーキが、しばし押し黙った。二重の殻に覆われた身体を動かさない。後ろの兵が動こうとしたら、隠手を跳ね上げて、静止させた。
「それならば、皇帝に立ち向かえる日まで、一緒にいよう」
「裏切らないと誓えるか。あの湖で一緒に生きていくと、後ろの兵たちも」
「誓う。レイはどうだ」
「約束する。北辺にいて、どこに隠れたかを知られない限りは、皇帝の力は及ばないはずだ。仲間としてやっていけるならば、同胞は多い方がいい」
 トーキたちですら追ってこれたのだ。皇帝が、自分たちを気にかけ、軍勢を動かすようなことがあれば、いずれやって来ることもあるだろう。だから、戦力となる仲間が欲しかった。
 力強い仲間となれるはずの甲殻にいて欲しかった。
 トーキが兵に命令する。
 エマ皇帝に操られた者たちと、これから湖で一緒に生きていくことを命じた。
 
 山上から見ればすぐ下りて行けそうな湖でも、そこまでの道のりは近くはない。ゲントが眼下を見下ろして想像した道のりも、すべてが正しいわけはなく、迷いながら、時に危険に遭遇しながらの道であることは変わりは無かった。
 それでも、一行はやがて岸に辿り着いた。夜営地から、日が昇ると共に下りていった。
 朝霧の中に見た水面は穏やかで、ここが高地であることももちろんだが、内海、湖であろうと考えさせるものだった。
 岩場があり、崖があり、小石が敷き詰められた浜があった。
 浜で、我慢できなくなった者たちが、カナガナを先頭に、足を水につけた。そのまま、沖へと歩いていった。水はとても冷たかったが澄んでいた。
 太陰が満ちる日は近い。過酷な山旅を終えて、疲れを忘れて泳ぎだした。レイの仲間たちだけでなく、トーキが率いている兵たちも同じだった。
 脱皮が始まるのは、三日後だろう。
 それまでに食料を探し、住む場所を造り、自分たちの縄張りを主張した。幸い、大きな獣殻が来ることはなかった。そして、彼らは脱皮を済ませたものから順に、湖を泳いでいった。
 産卵に向いた場所に群れて泳ぎ回る。冷たい湖の水も脱皮後の本能的な行動には影響しなかった。放卵と放精をおこなった。
 レイとトーキも、その中にいた。一緒に太陰の満ちる夜を迎えたのは何年振りになるのだろう。グアルホラン洞の多数の成体の群れの中に二体ともいたことは何度もあったが、近くにいたのは成体となった最初の夜だけだったので、二度目の夜になる。
 湖畔に上がり、手脚を伸ばして横たわった。レイの隣にトーキも並んで横たわる。今まで鎧の下に隠れて見えなかった、胸部、腹部の脇に彫られた刺青が見える。
 黒字に金色の六角格子。
 レイたちに彫られているものと同じ、術士の刺青だった。
「いつ彫られたのだ?」
「我の刺青は、グアルツランが包囲されて捕獲されたときだ。それで、誰かを裏切ったりはしていない」
「他の兵たちは?」
「他の者たちも、一度はエマ国の捕虜になっている。その時に、何かしら彫られている」
 レイは立ち上がり、ゲントを探した。離れたところで休んでいたゲントを捕まえる。
「トーキたちが、皇帝の刺青を彫られている。何が書かれているか、読んでくれ」
 彫られているのは、識別番号であるとか、名前とか、その程度のものだった。レイたちの刺青のように、そこから知識や身体を動かす知恵を学べるようなものではなかった。
「我のように、操られてしまう危険はあるか?」
「わからない。我らの刺青よりは小さいのだから、影響も小さいと思う。いまさら、追い返したりはできない。ここを知られているのだから、意味がない。むしろ危険――」
 レイは、トーキに告げた。
「その刺青で、トーキも、他の兵も、操られるかもしれない。我と同じだ。危険だと思う。だけど、一緒に生きていくと約束した」

10
 レイたちは、発見した湖を白海と名付け、その静かな岸辺で暮らしていた。
 住み着いて数年、皆、脱皮を重ねて年を取った。
 産卵場としている入り江はあったが、稚児の上陸は無かった。後から合流した若い甲殻もいるが、二十に満たない個体の数は、それ以上には増えなかった。グアル海岸のような温暖な海とは異なる。環境が違いすぎるとレイたちは半ば諦めていた。
 帝国の追跡は途絶えていた。エマ皇帝は大陸全体を戦乱に巻き込んだ。レイたちは、些末な存在である。相手にするまでも無いと思われているのか、後回しなのか、レイたちも、その脅威を忘れつつあった。
 山の南側へ行けば、麓の街道で旅の隊列と出会うこともある。彼らから得た噂では、大陸の東半分を皇帝は治めつつあり、いくつかの小国や城の抵抗を収拾したら、内海を迂回して大陸の西方へ向かうと聞いた。兵団の動きが、各地に見られるそうだ。
 旅のものたちが休むだけだった小さな城塞にも、兵団が来て、砦の壁を高くし、兵糧を積み上げつつあるというのが、最近、山の向こうから聞こえてくる。

 その噂を聞いたためか、レイは眠れない。砦の兵力増強と言っても、山の向こう側の話だ。白海からは遠い。それでも、小さな集落のまとめ役としては、看過できない気がするのだ。
 眠れないだけでなく、眠ったら溶けそうになった。夢で、今いる場所を忘れそうになり、朝が来るまえに覚醒し、岸辺まで走った。冷たい白海に浸かって、自分がどこにいるか頭がはっきりしてくるのを持つ。
 日が昇るまでそこにいた。昔の、皇帝の刺青が入る前のころの自分を思い出した。
 霧の中から、トーキがやって来た。
「悪夢でも見たか?」
「そうだが、なぜ分かった」
「我も見た。我だけではない。さっき、ゲントも相談してきた。何体か、夜の様子がおかしいものがいると。不安そうだった」
「他の者もか」
「そうだ。皆に聞いてみよう。皇帝の刺青を彫られているものは、皆、夢を見たかもしれないな。レイがグアルツランで暴れたときも、その前に悪夢を見ていたのだろう」
 暴れた、というのは婉曲的な言い換えだ。
「ずっと頭が痛くて、悪夢も続いて、あの夜が来た」
「ゲントは、殻に触れれば誰の殻でも細部まで読めるのだろう?」
「そうだ。なにか分かるかもしれない」
 
 家は、一つの建物を全員が共同で使っている。使いやすいように、少しづつ増築したものだ。家に戻って、ゲントを呼んだ。カナガナにも来てもらう。
 ゲントがレイ、トーキ、カナガナと、皇帝の刺青が入っている者を触っていくことになったのだが、最初にレイの殻に触れ、読み始めてしばらくすると答えが明らかになってきた。
「以前とは微細な記述が異なっています。一見分からないと思いますが、六角格子の中に彫られた細部の記述が異なっている。書き換えられています」
「刺青が書き換わるというのはどういうことだ?」
「分かりません。想像だけでは分からない。帝国の中に入り込んで調べないと、解決しないと思います」
「トーキやカナガナの後で、他の者も見てくれるか」
「我が前から触っていて詳しく覚えているのは、他にはカナガナと、合流した時に見たトーキの殻だけですが、見ていきましょう。過去と比較はできなくても、何かわかるかもしれない。他にも酷い夢を見たという者はいます。同じことが起きているように思います」
 皇帝の刺青に、再び操られるのは避けたい。それは皆、同じ思いである。
「刺青を上書きすれば、解決すると思うか」
「期待できますが、ご存じのように――」
「分かっている。染料がない。そして、消してしまうと、我やゲントのような元々、覚えることが不得意な者は、今ある記憶が溶ける危険がある、か」
「そうです。ぜんぶ、やりなおす必要がある」

 誰が南へ行くか、という話になった。
 数が多ければ目立つ。少数で潜入し、必要な物を盗んで戻ってくるというのが作戦だ。レイとトーキは共に絶対に行くと譲らない。そうすると、トーキの副隊長を残すことになるし、レイの代わりに里をまとめられる者に残ってもらうことになる。
 カナガナが残り、里を任せることになった。レイにはゲントが同行し、トーキの兵は二体を連れていく。五体の甲殻が南を目指す。山を登り、尾根を越えて降りてゆく。
 最初に目指すのは、かつて身を寄せていた集落だ。
 周囲の集団から隠れて生きている集落だが、それを維持するために、周囲の状況に気を配り情報収集を怠らないできた集落でもある。しかし、行ってみると、静かだった。
「誰もいないのじゃないか?」
 トーキに訊かれて、レイも心配になった。
「もともと、住んでいる者は少ない。外に出ている者が多ければ、静かなものだ」
 五体が集落の土地に踏み込んで歩いても、誰も出てこない。
 歩いて、集落の長の家の前まで来た。
「長よ、こちらにおられるか――」
 中から声がした。
「誰だ、われらが土地に入り込んだのは?」
「以前、世話になっていたレイだ。ゲントもいる」
「入るが良い。今はここに我一体のみだ」
 集落のものが皆で詰め込まれても入れる広間には、奥のほうで休む長の姿しかなかった。もう、老体となっているはずの殻は大きく、この場の歴史のように思える。
「一瞥以来です、長どの」
 レイは正面に座ると、ゲントに挨拶をさせ、トーキと兵二体を紹介した。
「懐かしい顔だ。我はもう長くはない。この集落に残っているのは我だけになってしまった」
「他の者たちは、どうされました」
「出て行ったよ。若い者は、稼ぎが欲しいのだ。ゲア残党の兵団に加わり、手柄を立てれば金になる」
「なんと、それで長はどうされるのですか?」
「このまま、ここで朽ちるのを待つさ」
 そう身体を動かさずに語る長は、すでにその場を墓にして死を迎えるつもりのように見えた。
 何も言えずにレイが黙っていると、長のほうから話を進めるように促した。
「それより、何か要件があって来たのだろう」
「はい。エマ国が勢力を街道沿いの砦に集め、さらに大きな城に造り変えようとしているという噂を聞きました。兵団と皇帝の動きを知りたいのです」
「ちょうど良い時に、訪ねて来たな――今日からだと、およそ十日で、城に皇帝の軍が直々にやってくるらしい。ここにいたら静かなものだが、城には大軍が集結していると言うぞ」
 一体の老体のみとなってなお衰えない情報収集への感謝と、別れの言葉を告げて集落を去った。二度と会うことは、ないかもしれない。

11
 大陸中の甲殻が集められたのかと思うほどに、城の外から、数えきれない兵が集まっていた。長から聞いたところでは、ここから街道を西へ進み、内海の周りをすべて制圧するつもりなのだと言うことだった。そのような理由がなければ、集まらない数の甲殻だ。
 皇帝はどうやら、三日前には城に入ったという。進軍に向けての準備を進めているのだろう。
「我らが城に接近したら、皇帝もやって来るのだな」
 その風景を見て、レイは感心したように言う。トーキが訊いた。
「よくできている、と思うか?」
「悪夢を見た時点から、皇帝が呼んだのかもしれない。よくできているさ」
 城内に忍び込むのは容易だった。兵も、兵以外も群れが混沌と化している。傷を負った甲殻が這っていたり、勝手に殴り合うものや、槍を手にするものまでいた。群れを作りすぎれば興奮するものもいる。統率はとれていなかった。
 それを見て、ゲントが呟いた。
「街道を西に進めば、ゲア河の支流があるけど、河沿いに進軍するのでしょうか」
 太陰の満ちる日はまだ先だが、その夜をどこで迎えるかは進軍の計画に組み入れられているはずだ。統率も何もなくなる。
「ゲントが軍師になれば、誰が相手でも勝てそうだな。見ている角度が違う」
「勝てませんよ。ここにいる十分の一、いや、百分の一でも尾根を越えて来たら、数で圧倒されます」
 なかには、一糸乱れぬ様子で十二体の組が何隊もが整列している兵団や、槍を振り回して演習している者たちもいた。遠目にも、皇帝の刺青が入っているのが分かる。
「エマ国の精鋭だ、すごいね」
「一糸乱れぬ、皇帝の刺青のおかげか」
 感心しているゲントにレイが訊いた。
「そうなのでしょう。恐ろしいものです」
「ここにいると気づかれたら、我らも操られそうだ」
 レイは五体離れずに行動しようと、あらためて伝えた。離れ離れになったら再会できそうにない。
 五体は、立派に増築された門の一つをくぐり抜け、城内に忍び込んだ。目立たぬように日陰を歩きながら、目当ての場所を探す。
 どこに刺青を彫るための染料や、皇帝の秘技について記された記録があるのか。トーキが言った。
「兵団が施術を行うのは、壁の厚い部屋だろう。地下が掘られていれば、地下室がいい。音が漏れないからだ」
 そう聞いて、レイも、自分がトールの館で施術を受けた場所を思い出した。
 古い砦の隣に増築された、新たな城は地下が掘られていた。
 トーキの部下の一人が迷路には強いと言い出して、先頭に立った。地図に強いゲントも、前に立つ。目的の部屋がどこにあるのかを示す地図があるわけではないので、最短距離で向かうと言うことはないものの、同じ道を繰り返し巡回したりすることもなく、兵たちに取り囲まれることもなく、地上から、地下の一層、二層と下っていった。微かな明るさの松明だけを頼りに進む。
 甲殻が歩く通路とは別に、空気や水を通すための細い穴が長い管のように縦横に通っていて、それらとつながる壁に開いた穴から空気の流れる音や、水音が聞こえる。前を行く二体はそうした音も踏まえて、立体図を思い描いているようだ。
「ここ、壁が厚そうだ。入ってみましょう」
 入り口をくぐると、比較的小さな前室があり、その奥に甲殻の大きさに合わせて使い分けられそうな施術台が五台置かれた広い部屋があった。壁際の棚には、壺がいくつも並ぶ、トーキが前腕で持ち上げ蓋を開けてみると、鈍い金色の液体が入っていた。ほかのものも、刺青に使う何種類かの染料や薬品だった。
 壁に光を当てると、文字や図像がたくさん刻まれた、殻がいくつも飾られていた。
「剥がして持ち帰りたい」
 ゲントの言葉に、興奮、好奇心、収集欲が混じる。
「こんなに持てるか」
「そうだね、ここで覚えるよ」
 ゲントが壁に飾られた刺青を読み、覚える間に、レイたち四体が持ち帰る壺やその他の道具をかき集める。かなりの収穫なので、白海の里の個体数ならば、これから何年も困らないように思えた。ゲントが、染料の精製方法を見つけてくれるかもしれない。
 そこに、唸り声が響いてきた。
 レイには覚えがあった。
「誰かが、別の場所で施術を受けているのか?」
 送風菅を通って響いて来る声は、聞いているだけで苦しい。
「施術中ならば、近寄れない。皇帝がいるかもしれない」
 今にも行動に出ようとしているのを察したトーキが止める。
「助けたい」
「無謀なことを言うな」
 レイは静止を聞かずに、無謀な行動に出た。
 トーキは、この部屋を探り当てて来た兵を連れて後を追った。もう一体の兵とゲントにこの部屋のことは任せる。
「適当に走り回っても無理だ。我らも一緒だ」
 トーキが、例に追いついて来て言う。叫び声に、確実に近づくように三体は城の中を歩いた。今度は城を上へ、地上階からさらに上の階層へと上がっていく。一本の塔の、上のほうから聞こえて来ることが分かった。
「上がると、逃げ場がないぞ」
「それでも、気になるだろう?」
「何がだ?」
 呻き声、絶叫。レイとトーキの声を遮る大きさで響く。
「これは、施術中の声ではないな。悪夢を見ている者の声だ」
「昼間からか? 放っておけ」
 しかし、レイは静止の声を聞かずに飛び出してゆく。
 上の階では、部屋の扉には隙間が空いていた。レイは無言で、入って行った。
 塔の一層分を占める、大きな部屋だ。
 大きな円形の寝台に、黒地に金の刺青が全身を覆う、堂々とした体格の甲殻がうつ伏せになっていた。バタバタと手脚を動かし、背中を反って、また反対に丸まって、絶叫する。
 皇帝だ。いや違うのか?
 ここで、手に掛ければ――皇帝が亡き者となれば、帝国は崩壊するか?
 本来の計画にない、野心がレイの中で頭をもたげた。しかし――
 うしろにトーキが来た。自分の背中越しに、寝台に横たわるものを見ている。
「皇帝か……」
 黒々とした不定形のものが皇帝の上に現れた、ようにレイは感じた。これは、自分が会った皇帝ではない。もっと古き存在ではないのか。
 室内、というよりもレイの視界いっぱいが皇帝の刺青で占められた。
 悪夢に、取り込まれた。レイのどこかが、それを他人事のように見ていたが、レイの身体は乗っ取られたかのように暴れようとした。
 背後からトーキが何か声を掛けてきた。レイは振り向きざまに右前腕の硬いところでトーキを振り払う。不意を突かれてトーキがよろめいた。トーキの後ろから部下の兵が飛び出してきて、レイに斬りかかろうとする。それを避けて、後脚で蹴飛ばして倒した。
 だが、そこまでだった。
 トーキは立ち直るとトーキに絡みつき、また攻めてきた右前腕を二本の前腕で抱えるとそのままへし折った。鎧を殻の上に纏っているだけではない。兵として戦う訓練を受けているのだ。レイの右前腕は、第二関節でちぎれた。ちぎれた先は床に転がり、残った腕先から体液がこぼれる。
 痛みで、正気に戻った。
「すまん、加減できなかった。逃げるぞ。我らの目的は白海の里が生き延びるようにすることだ」
 蹴り倒された兵も起き上がった。レイの前腕を拾い上げて言った。
「早く下りよう。トーキか我が取り込まれたら、取り返しがつかない」
 皇帝は悪夢から目覚めたわけではない。起きて来る前に去るべきだ。
 塔から地上階に下り、覚えている通りに地下を歩いた。すでに施術の間を抜け出していたゲントと兵に会えた。
「壁の殻にあったもの、覚えたのか?」
「覚えた、彫り方、いままで知らなかった微細なやり方とか、消し方、治し方も。染料の作り方もあった、材料さえ揃えば精製できる」
「彫り方を教えてもらえるか」
「我がやった方が確実かもしれない」
「逃げ切れたら、教えてくれ。レイは我がなんとかしたい」
「わかったよ。逃げ切れるかな」
「逃げるさ。全員で、一体も置いていかない」
 地下で隠れ場所を確保し、応急処置で、レイの痛みを止めた。体液がこぼれるのも止めることができた。レイに蹴られた兵も、殴られたトーキも痛みはあったが、大きな怪我になってはいなかった。
 五体で地上階へ出た。
 さすがに、エマ国の兵に遭遇しないまま逃げられるわけはなかった。しかし、トーキたち三体は兵としての練度も高かった。取り囲まれる前に突破して、逃げ切った。
 兵団が持っていた、希少な竜殻を奪い、追いつかれる前に街道から山へと逃げた。
 レイは前腕を失い、トーキの部下も傷を負った。
 ゲントは頭の中に記憶できるだけのものを記憶した。トーキはレイの身体を壊した記憶を抱えた。
 皇帝にも、兵団にも、傷一つ負わせることはできなかったが、目的のものを手に入れことが重要だった。
 自分たちが生き延びること、白海の里の皆が、生き延びられるようにすることが。

12
 竜殻を奪ったままにしたかったが、飼い慣らすことも、食料を与え続けるのも、白海の里では困難だ。トーキはそう判断して山を登る途中で放した。西方への進軍を前に、山中まで追跡を続けるつもりは皇帝には無いようだった。五体は、戦利品と共に尾根を越えて白海の里に帰還した。
 冬が来た。皇帝の軍は、冬山を越えて来ることはない。主戦場の戦況に余裕が生まれれば攻めて来る可能性はあったが、雪解けまでは戦にはならない。
 
 城から奪った、皇帝独自の刺青の染料や道具類と、ゲントの頭の中に記憶された刺青についての知識は、エマ国に抵抗するためには非常に有益なものだった。刺青の彫り方は、ゲントが刺青を彫ることで教えていった。まずはトーキに教えた。次に右前腕を失ったレイに教えた。刺青を彫る時は、隠手を使うため、さほど不都合なく彫ることができそうだった。新たに彫る技術よりも、皇帝によって彫られた刺青を消して、上書きする技術が大切だった。
 皇帝の刺青は、刺青を殻の内側で読み取るのが難しかったレイを、読み取り、その知識を身体に取り込んでいくことが容易にできるようにした。また、脱皮の後に、あるいは朝目覚めた時に、攪拌されて失われがちだった前日までの記憶が固定されるようにした。皇帝の刺青が突然作動して悪夢と共に操られてしまう危険を避けるためには、すべて削っていく必要があるが、代わりに上書きした刺青で体内を制御できるようにしないと、今までのことを忘れていき、様々ことができなくなってしまうかもしれなかった。
 
 レイとトーキはお互いの殻に刺青を彫ることにした。それは、皇帝に騙されて、あるいは屈して差し出した、自分たちの甲殻に新たな言葉を上書きする行為であった。まずは、ゲントから技を受け継いだ、トーキがレイの殻に彫ることにした。
「刺青を理解する能力、意味を身体に蓄積する能力、そうしたものは残っていてほしい。そうでないと、昔の、何も覚えられない僕に戻ってしまいそうだ」
「ゲントが技術をすべて受け継いでくれた。我はそれをレイに彫る。大丈夫だ」
「それと、皇帝の刺青を上書きしたら、我は今までやって来たことを覚えていられるだろうか」
「今までの記憶か?」
「昔のようにぼんやりと、失ったことも気づかないまま、忘れてしまうかもしれない。攪拌された記憶が、でたらめな過去を生み出すかも知れない。失った、右前腕に彫られていたもののことは、もう忘れそうなんだ、まだ今は、言葉にできるけど。今ある記憶が、少しでも消えてしまうのは怖い。」
「ゲントも、君の身体の内側で何が働いて、何が働かないのか、すべて理解できているとは言えないそうだ。良い方法があると言っていた――失われないためには、彫ってしまうのが良い」
「忘れたくないよ、もちろん。それでやろう。どうすればいい?」
「ぜんぶ話せ。ぜんぶ彫ってやる。我にはそれができる耳がある。今のレイはまだ全て覚えていて、全て語ることのできる口がある。ゲントが彫った刺青の技術がある。ぜんぶ彫れば、二度と忘れないだろう? そうしたら、それがレイの記憶で、新しいレイそのものだ」
「大掛かりだね、痛そうだ」
「やめるか」
「まさか、冗談だよ。やってくれ」
 レイは三つの発声器官を使って、自分が覚えている、自分自身の歴史を語り始めた。それは、今まですでに彫られていた言葉もあるけれど、あらためて自分の内側で自分自身を読み取り、思い出し、物事の細部や感情の起伏、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚、熱や質感、太陽や太陰の重力を感じ、大地である太殻の磁力を感じる感覚器が覚えている豊かな官能を含んでいた。
 その大きな口と、両脇の副口が伝える抑揚の全てを記録しようと、トーキは隠手を伸ばし、先端を器用に操り、レイの脱皮したばかりの柔らかな殻を傷つけ、刺青を彫っていった。レイの言葉が、そのまま文字になるとは限らなかった。複雑な象徴の含意をもつ図像がいくつも彫られた。金色の六角格子の中に刻まれる、幾何学的表現の微細加工もあった。
 全身を彫られていく痛みが、レイの発声にも影響を与え、呼気が途切れ、低く、また高く喘いだ。
 それでもレイは止めずに語り続け、トーキは止めずに彫り続けた。
 忘れないように、思い出せるようになる仕組みも彫った。エマ皇帝の技術を咀嚼した、レイの身体に合わせた技術を、ゲントが彫った刺青によって学んだ技術を、レイの身体に刻みつけていった。
「最後にひとつ、彫りたいものがある」
「何だ」
「大昔の、僕の名前を彫った下に、今の名前を彫らせてもらえないか」
 幸い、失ったのは右前腕で、トーキの名前は左前腕に彫られていた。
 レイは、頭部を動かして、同意の意思を伝えた。異存などあるはずもなかった。
 すべて終わったときの痛みは、かつての、術士の施術の痛みを超えていた。全身の肉が分解され、殻が粉砕されたと感じた。
 この痛みも、すべて忘れてしまうのだろうか。いや、すべて覚えているはずだ。今までの自分の記憶も、今の自分の痛みもすべて覚えているはずだ。
 トーキを信じて、レイは深い眠りに落ちた。
 
 翌朝、自分があった。前夜と連続しているはずの自分がいた。
 名前を覚えていた。
 かつて彫られたものが何で、それが消されたことを記憶していた。古い刺青がもたらす皇帝の機能が、もう自分に残っていないことが感じられた。何か頭が痛くなくても、なにか頭の殻の内側に棘が引っかかっていたように感じられていたのが、消えていた。
 代わりに、トーキが彫ってくれた刺青が、自分の身体の内側にあるように感じられた。長い長い呪文の如き文も、自然そのもののように複雑で細密な再帰的な図形も、すべて機能していると分かった。前腕に彫られた文字を読んだ。
 トーキ・トワ・トール・ドール・レン・ランド・ックス・ラックス・エヴ・……・サイ・サゥーラ・レイレン
 それが、隣に伏せている甲殻の名前だと分かった。
 トーキが目覚め、レイは、一緒に家の外に出た。冷たい朝霧のなかを、白海の岸まで歩いた。
 朝の太陽が湖面を明るく照らしてた。その水の中から、岩場に上陸してくる稚児を見つけた。一体だけだった。レイは上腕を伸ばして優しく拾い上げた。ほかの獣殻の稚児では無い。まちがいなく、自分たち甲殻の稚児だった。
 まだ、小さい。自分たちのようにグアル海岸に上陸してきた稚児よりもだいぶ小さい。いつの夜の子どもかは分からない。氷の湖で、一年かそれ以上か生き抜いて還ってきたのだ。
「よかった、最初の子だ。名前を決めよう、この里、この湖の最初の子だ。そのことを彫ろう。この子と、ぼくたちの歴史だ」
「二体目が上陸して来るかな、一体では歴史にならない」
「最初の一歩だよ。二体目も必ず上陸してくるさ。明日か、次の朔の日か、一年後か二年後か。時間がかかっても、これから再上陸する稚児が増えれば、我らの里も存続する。そうしたら、勝ちだ」
「勝てると思うか、皇帝軍に」
「思ってない。あの城の周りを埋めつくす兵力だ。大陸の中央平原、ゲア河流域をすべて掌握した兵力に勝てるわけがない。でも、負けない。春が来て攻めてくるなら、追い返す。負けないでいれば、服従することなく、この場所を守り続ければ、ずっと負けないままでいれば、僕たちの勝ちだと思わないか」


「それからどうなったの? 皇帝に勝ったの?」
 語り部が、物語に一区切りをつけると、稚い甲殻が訊ねてきた。若い語り部の半分の大きさもない稚児たちが二十体ばかり、語り部を取り囲んでいた。静かな、森の中である。
 しかたなく、といった感情を呼気に含ませながら、語り部は少しだけ続けることにした。
「残念ながら、勝てなかったさ。皇帝は強い軍隊をもっていて、とても叶う相手ではなかった。夏になったら、数に物を言わせて包囲して来た。辛うじて、条件を飲んで休戦した。戦いを止めて、なんとか白海の里を守った。今でもそうだ。ここは脆弱だ。湖岸に上陸してくる稚児の数は少ない。南から山脈を越えてやってくる仲間と合わせても少ない。それに、西方からやってきた新しい皇帝は、エマ国の皇帝よりもっと強い。竜殻に刺青を彫った竜殻騎兵をもっている。数千体の兵と兵、おそろしい軍団がぶつかり合うのが、山の向こうの平原で争う甲殻の世界だ。戦おうとするものではない。
 だけど、大事なことがある。あの方は負けなかった、ずっと抵抗を続けた。脆さ、弱さを刺青で覆い、強くなってね。だから、君たちがここに生きているのさ」
 太陽が沈もうとしていた。太陰の大きな上弦の姿が、黄昏ゆく紫の空に浮かんでいた。
 稚児たちは、その場を離れようとはしない。
「続きはまた明日――もっとも、この墓が読めるようになれば、僕から聞かなくてもよくなるけどね」
 若い甲殻に囲まれた語り部は、そう言って背後にある大きな墓、すなわちレイの亡殻の丸い膨らみを叩いた。
 語り部の背丈ほどもある巨大な頭部は、六個ある眼窩の周りまでびっしりと細かな文字や図像――刺青が刻まれている。
 
 『殻に彫られた者』の物語――了

文字数:39910

内容に関するアピール

私たちの地球からは遠く離れた星の、甲殻類に似た異星生物の文明を舞台にした、刺青と身体、記憶とアイデンティティについての物語です。

すなわち、この物語の主人公たちは日本語を話すわけでも漢字が読めるわけでもありません。この物語は、殻に彫られた記録が、古文書の如く解析され、21世紀の日本人に読める言葉に翻訳されたものです。その翻訳プロセスにおける、異星生物の生態系と社会の描写、擬人化のバランスの成否については、作者の私に責任がありますが。なお雌雄同体の甲殻の一人称については、日本語では適切な言葉がないため、中国語の「我」を採用しました。

4期、6期、7期と断続的に2019年より5年間ものあいだ、SF創作講座で学んできました。主任講師の大森望先生はじめ、講師の皆様、ゲンロンのスタッフの皆様、一緒にやってきた受講生の仲間たちに感謝を捧げたいと思います。ありがとうございました。

文字数:386

課題提出者一覧