真夜中あわてたレモネード
毒にも薬にもならないという言葉を知ったのが何歳の頃だったのかは覚えてないが、そのときの僕が、ひどく傷ついたことはよく覚えている。自分のことだと思ってしまったからだ。僕は誰にも影響しない。いてもいなくても変わらない。だからだろうと思い至ったのは随分あとのことだったけれど、もう一段と物心のついた頃から、僕は断定的な物言いを好んで使うようになった。自分の中での流行ごとだった。もちろん、心の底から百パーセント本気でそう思っているわけじゃない。母さんにはそのことが分かっていて、僕が暴力的なほどすっぱりと、まるで議論の余地を寸分も許さないかのように何かを断言してみせた場合でも、別段気にしたようすもなく相槌を打っていた。ただ単に聞いていなかっただけかもしれない。お婆ちゃんには僕の遊びだとなかなか伝わらなくて、たしなめられるようなこともあったけれど、お婆ちゃんが言い聞かせてくる異なる見方の内容だって、言われる前から僕の中には存在感たっぷり、価値あるものとして鎮座しているのだ。
だから、その頃の僕がよく口にしていた、隣の庭に忍び込んでレモンをいただく権利が僕には当然あるのだなんてことも、もちろん本気で言っているわけではなかった。
隣に住んでいたお爺さんが引っ越して行ってしまったとき、レモンの木はその庭に残されたままだった。二階建てのこぢんまりした家屋にはそぐわないほどの広い庭に植えられた、何本あるのかもよくわからないレモンの木。うちの敷地と隣の庭とを隔てるものは母さんがバラやら何やらを植えている小さな花壇しかなかったけれど、入り込んだことなどヨチヨチ歩きの頃だって一度たりともなかったから、レモンの木を近くでじっくりと見たのはその時が初めてだった。大きなものは二、三本が絡み合うように枝を伸ばしていて、けれどそんなに高くならないよう剪定されているらしく、どの木も僕が手を伸ばせばすべての枝に触ることができるほどの大きさだった。接ぎ木でもしていたのか、まだ背の低いものもいくつか見つかった。一人が趣味で育てる量ではないような気がするから、何か商売でもしていたのかもしれない。うちにも毎年、大量にお裾分けが届いていた。その時期は母さんの店でも僕のおやつでも、レモンの焼き菓子と冷たいレモネードが定番となっていたのだった。
お父さんとお婆ちゃんは放っておけと言ったけれど、僕と母さんは、見よう見まねで剪定したり間引きしたりとレモンの木の世話をした。冬場にビニールで覆ったりまではしなかったけれど、レモンの木は暑さ寒さも乗り越え、たくましく生き続けていた。僕はどちらかというと世話そのものよりも、もったいないからという名目で拾い、持ち帰ったレモンで母さんが作ってくれるレモネードが目当てなのだった。
だから、突然その家に引っ越してきた男がうちの花壇との間に板を打ちつけ、まるで結界でも作るかのような目隠しフェンスを設置してしまったとき、僕はたいそう不満だった。住民不在のあいだ、いったい誰のおかげで、その見事なレモン並木は保たれていたと思っているのだ。
目線より少し高い位置まできっちりと張られた板によるフェンスは、我が家と隣の庭とを完全に隔離してしまった。密かにお気に入りだった、溢れんばかりの生命の塊のような黄色がもう見られない。もうあれは僕のものではない。せめて香りだけでも味わうことが出来ないかと、風の流れに鼻先を向けてみたけれど、傷のついていないレモンから柑橘類の匂いがしてくるはずもない。僕はこみあげて来るフェンスに手をかけて伸び上がり中を覗き込みたいという気持ちをぐっとこらえ、想像するにとどめた。きっとまだレモンは色づいてはいないだろうから、遠目から見たのでは、葉と実の区別がつかないに違いない。でもひとたびレモンが黄色になれば、一つの枝に驚くほど大量に実っていることに気がつくだろう。他のところにあるレモンの木を見たことがないから比較はできないけれど、こんなに実のなる木も珍しいのではないだろうか。本来はもっと上品に実るものなのではと疑ってしまうほど、隣の庭にはそれはそれは大量に実るのである。そうしたら、数あるうちの一つや二つくらい、いや十や二十くらいは、我が家の分と言ってしまっても過言ではないはずだ。
なんて理屈をとうとうと並べていたけれど、もちろんそれだって本気で思っているのではなかった。ただほんのちょっと、自分や母さんにはそう主張するだけの権利があるのではと密かに思っているという程度のことで、そう思う心があったって構わないだろう、くらいのものだった。
だから、まさか本当にレモン畑に侵入するようなことになったのは、僕の意志がきっかけではないはずで、それはシンディにそそのかされたからに他ならない。だからやっぱり、僕がこうして後ろ手をきつく縛られて真っ暗な部屋に転がされているこの状況だって、シンディのせいに違いないのだ。
明け方の海辺を散歩するのが習慣だった。海が近かったわけではない。おおよそバイクで四十分、だからまだ暗いうちに家を出て、僕は海岸へ向かう。
まだ濃淡しかない湿った砂浜に打ち上げられていたそれは、小ぶりな花のようだった。奥行きのあまりない巻貝のようにも見えた。詳しいことはわからないから、まるで違うものという可能性だってある。ずいぶん入り組んだ形をいるらしく、へこみとも穴ともつかない曲線が、ほとんどない光を吸って曖昧に存在していた。あまりずっと眺めていたいような美しさだとか気持ちよさは感じられない。触ってみると、焼きあがったばかりのクッキーのような柔らかさだった。温かさはない。靴が汚れるのを承知で、引いていく海岸線を早足で二三歩追いかけ、水につけてみた。手ごたえはない。ヤドカリとかそういった生き物が入っている気配はしなかった。
朝日が顔を出すのも待たずに、僕はバイクを停めた駐車場へと引き返した。とんぼ返りだ。濡れたままのそれを、工具を入れたシート下に入れるのも憚られて、僕はそっとジャケットのポケットの中に入れた。エンジンをかけて走り出すと、湿ったポケットが風で冷やされているのが感じられた。
うちに戻る頃には、太陽が昇り始めていた。ヘルメットを脱ぎつつ砂浜で拾ったそれを取り出してみると、乾燥してしまったのか少し固くなっている。台所へ行き、適当な皿に水を張った。海で拾ったのだから、塩水の方がいいかもしれない。塩コショウしか見当たらなかった。僕はもう一つの、母が店に出す焼き菓子を作るためのキッチンをのぞいた。電気がついている。
「母さん、ちょっと塩ちょうだい」
水を張った皿を差し出すと、母さんはのんびり「おはよう」と返してきて、焼きあがったばかりらしいラスクを一つ僕の口に放り込んできた。僕は口の中が傷つくのが嫌だからラスクみたいに鋭利に砕ける食べ物があまり好きではないが、まあこんな風に差し出されて拒否するほど嫌いでもない。
「いま手が離せない。冷蔵庫に入ってるから、自分で取って」
「なんで何でも冷蔵庫に入れるんだよ」
「ええ? 何となく、安全な気がしない?」
僕の文句ったらしい口調を気にした様子もなく、母さんはクッキングシートを乗せた鉄板に手際よくクッキー生地を絞り出していく。僕は塩の入った袋を取り出し、袋の口を閉じていたクリップを取った。
「ねえ、海水ってどれくらい?」
「わかんないけど、思ってるより少ないんじゃない? いや、やっぱわかんない。自分で調べてみて」
僕がとつぜん塩水を作りたがることに母さんが何の疑問も持たないのは、僕がよく海で拾ってきたものをアクセサリーに加工しているのを知っているからだろう。そうでなくとも、ある日突然、通学前に海に通い始めた僕に何を言うでもなく好きにさせていたのだ。僕の奇行には慣れたものということなのかもしれない。でも今日は、もし聞いてくれたなら、答えたかった。拾ってきたものについて誰かに言いたい気分だったのだ。でも、これでもいい年をした男だという自覚がある。小さな子供のように自分からお母さん聞いて聞いてと言い出すことはとてもではないが出来なかった。我ながら、面倒くさい思春期を引きずっている。
部屋に戻り、あらためてポケットから取り出したそれを適当に作った塩水につけてみた。じっと観察してみても、変化しているのかどうかわからない。どれだけ待ってみても、やはりヤドカリのように何か中身のようなものが出て来る様子はなかった。この花のような貝のようなもの自体が動いている気配もない。最初の状態を写真に撮っておけばよかったと思い至ったのはさらにその数分後で、このままでは、膨らんだことにも縮んだことにもしてしまえそうだった。直径二、三センチ程度のそれを摘まんで取り出した。海で拾った時の妙な柔らかさはない。青っぽくも、そして薄桃色のようにも感じられる。生き物だとしたら、普段は海中の色鮮やかなサンゴや植物に擬態するようにして過ごしているのだろうか。明るいところで観察すればもっと詳細なことが分かると思っていたけれど、結局は不思議な物体だという印象が強まっただけだった。直感で人工物ではないと決めつけてしまっていたけれど、とくに自然のものだという確信を持てるようなものもない。
「やっぱり生き物じゃなかったのかなあ」
声が響いたのか、もしかしたら生き物だったかもしれない物にとどめを刺したのかも知れないという僕の若干の後ろめたさを反映してか、手のひらに乗せたそれが震えた気がした。音の鳴っているイヤホンをつまんだ時のような振動だった。
そういえば、貝殻には海で生きた記憶が残っていて、中には波の音が入っているのだと聞いたことがある。ちょっとロマンが過ぎるが、この貝かもしれないよくわからないものの中で、波の音はどんなふうに記憶されているのだろうか。もしかしたら聞こえるかも知れない。滴る塩水を優しく拭ってから、僕はそっと自分の耳元へそれを押しつけた。
「生き物でない、というわけでもないさ」
耳朶に触れたひやりとした冷たさに遅れて、野太く豊かな声が、僕の蝸牛を震わせた。
そうやって僕の元へやってきた彼をシンディと呼ぶようになったのは、完全に語感でなんとなく、だった。薄桃色と水色のおり合わさった花弁のような部分は折り重なっていて、形は変わらないのに表か裏かも区別させないよう絶えず揺らめいているように見える。華やかというよりは得体のしれない不気味さを呼び起こす見た目ではあったけれど、どことなく、神秘的な形だと思った。しんぴのシンディというわけだ。
シンディという名前が主に女性に付けられるものだと知った時にはもう、僕もシンディもこの呼び名をすっかり受け入れてしまった後だった。でもこのシンディの野太い声が聞こえているのは僕だけのようなので、僕がこの神秘にシンディと呼びかけている様を見た人は、さぞかし美しくゴージャスな人格で擬人化がなされていると思うのではないだろうか。
ところで、シンディが喋り出したとき、僕がパニックにならなかったのには理由がある。この歳になってこんなことを言うのは少し恥ずかしいけれど、僕は自分のイマジナリーフレンドと会話することがよくあるからだ。本当に話をするわけではない、状況を整理し受け入れていくための、心の声ってやつだ。最近のおかしかった出来事は、作業中にかけるBGMを決めきれずに一時間近く経ってしまって、さっさと取り組めばいいものを僕は一体何をやっているんだろうと落ち込んでいた時に起こった。「お前は小さい頃から一緒に夕飯を食べるぬいぐるみを決めないとリビングに行けなかったし、寝る前に読む絵本を決めないと布団に入れなかったし、持っていくアクセサリーを決めないと外出できなかった」なんて言われて、僕は思わず声に出して笑ってしまった。その通りだ、僕はずっとこうなんだから、今さら騒ぎ立てて不安がるようなことではないんだ。
でも、付き合いの長い他のイマジナリーフレンドとは違って、シンディと会話ができるのは僕が彼を耳元に当てたときだけ、しかも僕の言葉が彼に通じるのは、僕が言葉を声に出した時だけだった。変な設定のイマジナリーフレンドだ。おまけにシンディの喋り口調は、僕が僕に話しかけるようなものでは絶対にない。
わからないことは本人に聞くにかぎる。どうやら寝ている間に決意を固めたらしい僕は、起き抜けにひとり声に出ているか出ていないかわからないほどのボリュームでおはようと呟いて、ベッドわきに置いてあったシンディを手に取った。
「ねえ、シンディって、何で耳に当てないと喋ってくれないの?」
「やあおはよう。相変わらず唐突だね。そうだな、君たち三次元の人間に話すときには、その人間の頭蓋骨に触れる必要がある。骨伝導というやつだね。君は理解が早くて助かった。こんなに早く言葉を介してコミュニケーションが取れるとは夢にも思っていなかったからね。かなりの僥倖だよ。素晴らしい。君は救世主だ」
こんな調子なのだ。絶対に、僕の内側からでてくる言葉ではない。断言できる。
このようなやり取りをして以降、僕はシンディを耳の上の部分に髪留めと一緒につけることにした。穴を開けることも接着剤をつけることも断られてしまったので、不安定極まりないが細い針金でぐるぐる巻きにすることで髪留めと固定した。普段、母さんの店で焼き菓子と一緒に売ってもらっているアクセサリーはもちろんもっと精巧に作るのだが、これは自分用だから、僕が構わなければ構わない。
そんなわけで僕はその日の服装や髪型に関わらず、シンディを定位置、それは好きな時に僕に話しかけられる距離、つまり耳のすぐ上につけて暮らしている。
「君はわたしを自らに設置するとき、必ずこの板の前に立つんだね?」
毎朝シンディをつけるのがすっかり習慣になってきたころ、シンディが言った。
「え、鏡のこと? だって見ながらつけないと、思い通りの位置にならないから」
ワックスで遊ばせた髪が大袈裟でないかが気になり、横目で自分の横顔を確認していると、シンディから大袈裟に息をのむ音が聞こえた。
「か……、鏡か! 私としたことが、鏡の存在を忘れていた。そうか、君たちは鏡にうつして自分を観察しているんだったな。うっかりだ、なんでこんな面白いことに思い至らなかったんだ。クソ、自力で思い出したかった」
シンディが、渋い顔をして首を振る仕草まで見えそうなほど悔しさのにじみ出ている声で言うものだから、僕は思わず声を上げて笑ってしまった。
「なんなの、そのネタバレくらったみたいな反応は。いや、クイズで先に答えを言われたみたいな感じかも」
「そう、知っていたのに気づかなかったことが一番悔しいよ。ああ、どうして私はこんなにも頭が回らないんだろう。君はヒントをたくさんくれていたのに」
そんなつもりは毛頭なかったが、シンディが僕との生活を楽しんでいるのなら悪い気はしなかった。それにしても、
「鏡に気づかないってことは、もしかして、シンディって目が見えてない?」
そう問いかけてから、それはそう、当然な気がした。だってシンディには顔らしきものも見当たらないのだ。これまで普通に会話が成立していたから、何を共有していて何を隔てているのか、それが異なる可能性があるなんてことにはまるで思いが至っていなかった。
「でもここに鏡っていうか、物っていうか、壁があるっていうことはわかってるんだよね? 可視光線以外の電磁波を感じ取る器官とかがあるってこと? 鏡って、そういうものは反射してないの?」
いつもは僕が何かを言うと嬉々として明朗快活に答えてくれるシンディが、珍しく言い澱んだ。
「そうだね……、いや、そもそも光を受容しないようにしているんだ。だってあまりにも、その、君たちの中身まで見てしまうのは、あまりにもフェアじゃないだろう? 君たちには、わたしの体だって見えていないというのに」
僕が言葉をうまく飲み込めず黙っていると、シンディは僕が怒っていると思ったようだった。
「おっと、君の質問を無視して話をそらしたわけではないよ。わたしがどうやって、ものの状態に関する情報の伝達を受けているのかということだったね」
僕はシンディの声にウンともフンともつかない曖昧な相槌を打ちながら自分の部屋を出た。
「君たちにはない感覚だと思うから説明が難しいんだが……君たちの行動にすると、手のひらで包んでいるといったところなのかな。視野と同じような範囲に常に手の分子のようなものを飛ばしていて、それが物体の分子にぶつかって跳ね返ってくることで情報が通信されている。だから僕らには、光を受容して情報を得る器官とは別に、三次元の物体をさまざまな角度から一度に観察する術があるんだ。この説明でどうかな?」
「じゃあ、いま僕が見えているもの全部に、シンディはさわってる状態ってこと? そうやって世界を把握しているのなら、この世界で起こることにめちゃくちゃ影響しちゃってるんじゃないの?」
シンディに顔はないけれど、その声色で、僕が必死に理解しながら絞り出している言葉を面白がっていることが容易に想像できる。
「それは、君たちだって、見ているんだろうに」
「僕たちの場合は、光の反射を受け取って見ているだけらしいから。僕らが見ていようと見ていなかろうと物の状態は変わらないんだよ。でも、触るのは別じゃん。僕らは小さい頃から、何事に対しても、勝手にさわるなと怒られて育つんだから」
僕はそのまま家を出て、家の裏手にある母さんの店に入っていく。レジ横の小さなスペースが僕の商品棚だ。それを素通りして、僕は客席の奥へと向かった。
「君たちが物をつかむために触れるのとは、また少し違うんだ。わたしたちは三次元の物体をあらゆる方向から瞬時に認識できる。そしてその情報をその他の視覚情報なんかと組み合わせることで、四次元の世界として受け取るんだ。君たちの目が二次元情報を取得して脳が三次元の世界に組み直すのと同じだよ。だから、わたしたちの手の分子のようなものを使って情報を得ることは、君たちの“見る”と同等だと思ってもらって構わないと思う。わたしたちがそうやって情報を得ることが物質に影響を与えているのだとしたら、君たちの視覚も、世界に影響を与えていることになる」
そうかなあと僕は全然腑に落ちなかった。でも、僕と同時にシンディがベタベタと覗き込んでいたらしい鏡がそのせいで汚れている感じもしなかったから、僕の違うという感覚を後押ししてくれそうな証拠も特に思いつかない。
「じゃあ、僕らは目をつぶったり顔を背けたりしたら見えなくなるんだけど、君たちも触れなくできるの? それとも耳みたいに、塞げないけど何かに集中していると聞こえないみたいな状態がある? それとも、そんなことは一切なくて、常に情報が入ってきちゃう?」
「そうだね、そういう情報の遮断が可能かという場面では、君たちの聴覚に近いかもしれない。君たちの視界ではすべてがぼんやりと見えてるように、わたしはその範囲全体にやんわりと触れているんだ。集中したところだけ、詳細にわかる。視覚でいうと焦点を合わせる感覚だね」
大きな油絵の前に立った。額縁に入れずに飾ってあるから、シンディにも筆跡が見えるはずだ。
「うん……。ねえ、この絵どう思う?」
盛り上がった絵の具は、物体の輪郭なんてひとつも描いてはいなかった。色の区別がつく僕が見たって、これが何の絵なのかはわからない。名の知れた人の絵なのかもしれないし、妙に友好関係の広い母さんの友達のうちの誰かが描いたものなのかもしれなかった。白とも灰ともつかない色で雑多な模様が描かれてあるのを背景に無数の黒の線が引かれていて、それが気まぐれに四角を作っている。その中を黄色や白や灰色や黒やオレンジが、その線が引かれた範囲を守ったり守らなかったりしながら分厚く塗られている。愉快な絵ではないけれど何故だが目が離せない、僕のお気に入りだ。
「何度も塗り重ねられた場所があるね。そこは周囲の色とは違う色を置きたいのだと想像できる。何度も縦方向へ、上から下へ小さな四角を塗るように塗料が置かれているのが印象的だ。使用している色は多くはなさそうだが、寂しい感じはしない」
本当に細かいところまで読み取っているようだったから驚いた。しかも、ほんの一瞬のうちに。確かに僕が手でさわるのとはわけが違うらしい。シンディにかかれば、習字の二度書きも簡単にバレてしまいそうだ。二度書きが御法度だという意識がシンディにあればの話だけど。
「僕はこれさ、小さい頃からレモネードの絵だって思ってるんだ」
「ふむ」
「母さんが家族用に作るレモネードって、店に出すのと違ってぜんぜんオシャレじゃなくてさ。もともとは何が入ってたのかわからないような、古い灰色の瓶にレモンの輪切りと砂糖と蜂蜜が漬けてあって、ぜんぜんおいしそうじゃないんだよ。でも透明なグラスにうつすと、ちょっと茶色っぽい色のついた蜜がオレンジになって、レモンの黄色が鮮やかでさ。この絵は店のレモネードじゃなくて、うちのレモネードを描いてあるんだなってずっと思ってた」
「うらやましいな。君がせっかく見せてくれた絵を、しっかりと見てみたかった」
見えないのだろうと思いながら試すようにして油絵を見せたにも関わらず、シンディは僕に寄り添うような優しい声で言った。
「シンディが僕らとは違う構造で世界を見ているんだということは、とりあえず納得する。シンディにとって僕が珍しい生き物なんだっていうことも、わざわざ自分の目を見えなくしているんだっていうこともわかった。でも、なんで? もしかして僕が無知なだけで、世間にはそうやって空間を超えてやってくる生き物が当たり前にいるの?」
自分でも曖昧な言い方だという自覚はあったが、シンディはうまく意図を汲んでくれたようだ。
「まず、わたしたちは君たちの世界に気軽に来られるわけではない。今のところ、三次元空間の人間と接触できたのはわたしだけだ。そしてわたしが接触できた唯一の人間は君だ。これを奇跡と言わずして何を奇跡と言おうか。わたしは君と過ごし始めてから、人生最良の一日を更新し続けている」
シンディがうっとりと甘い声で言う。僕の困惑が伝わったのか、シンディは照れたように小さく息を漏らして続けた。
「君たちが三次元空間を生きて二次元空間に夢を見るように、わたしたちは四次元空間に生きて三次元に夢を見ている。長年研究され続けてきた人気の分野なんだ。そしてついに今、三次元空間と交流できる機会が訪れたってわけさ。この椅子を争って、我々のチームでは血で血をあらう激しい戦いが行われた。わたしは運よく勝ち上がり、今回ここへやってくる唯一の切符を手に入れたというわけだ」
シンディの得意そうな声に、屈強な大男が、近未来的なオフィスで大暴れしている絵が浮かんでしまう。倒した仲間たちの羨望の視線をいなして、たったひとつの座席につくシンディ。
「え、じゃあもしかして僕たちのこの会話も、シンディの仲間に観察されてたりするの?」
「そういう計画があったことは認めるが、実行されていない。君のプライバシーは出来る限り侵害しない。どうか安心してほしい」
光による情報収集を封じているのもそのためだと、シンディは誇っているのか残念に思っているのか、複雑そうな声色で言った。
「私たちの目には、三次元空間に住むものたちが覆い隠しているつもりのものまで見えてしまう。三次元の人間に接するとき、あまりにもプライベートな部分まで見てしまっては、対等に話などできないだろうということになったんだ。三次元空間に住むものたちの尊厳も、当然守られなければならない。だから三次元空間での景色のみを受け取れるように、光による認識を封じたんだ。これは決まりだから、もし今後この世界を訪れる四次元人がいたとしても、きっと守り続けると誓うよ。君たちの中身を、わたしたちは不用意に覗いたりは、決してしない」
あまりにも必死な様子がかえって気にかかった。そうまで気を使ってもらわなければならないほど、シンディたちは僕たちの世界を簡単にぶち壊してしまえるということなのだろう。
「……僕たちが二次元に広がる世界をすべて見おろせるとして、目をつぶってその平面を触っているようなものだから安心してねってこと? でも、情報量が違いすぎるじゃん。のぞくことはできなくても、さわられているっていうのは、やっぱりちょっと嫌だけどね」
「そこについては仕方がない、というより、先ほども言ったが君たちの視覚と同じようなものだと思ってほしい。家の中や鞄の中、体の中身をじろじろと見られるよりはマシだと思ったんだが、逆のほうがよかっただろうか」
それはつまり、能力を自由自在に封じることができるということだった。どこまでも、人知を超えた生き物らしい。
「そんなにいろいろ僕に話しちゃって、いいの?」
「君の信頼を得るためなら、何だって話せるさ」
いつもの調子でシンディが軽口を叩く。見えはしないがシンディのいる左横を睨みつけると、本気でごまかそうとしたわけではないらしいシンディが苦笑したのがわかった。
「さすがにこの世界の研究者あたりと接触してなにがしかの発見を促してしまうのはまずいかもしれないが、君はこれまで不用意にものを言わない性質だと判断するに足る行動を重ねている。これが人間全体の性質だとは思わないから、わたしは君に出会えてたいへん幸運だった」
「今まではそうでも、これからはそうじゃないかも」
少し意地悪をしただけのつもりだった。僕にとってはシンディの軽口に対応する戯れの範囲で、信頼されているというむず痒さに照れてみせただけだった。だけど、
「君が誰に何を言ったところで、それが君の妄想でないと証明する手段はない」
ひやりとした。シンディが初めて、僕に好意以外の感情でもって言葉を投げたのがわかった。
「それはだって、シンディがいるじゃん」
「話さなければただの物体だ。どれだけ調べても無駄だよ」
だからこれからも二人だけで仲よくしようと、シンディは瞬時にいつもの調子に戻っておどけてみせた。
「シンディは帰ったら僕のことを仲間に報告するくせに、僕はシンディのこと、誰にも言えないの?」
「もちろんわたしだって、君の魅力を知っているのはわたしだけでいいというのが本音だよ」
シンディはいつもにも増して口のうまい浮気男のようなセリフを繰り出している。僕はその機嫌を取るような口調の中に、先ほどのような冷たい声が混じることがないかどうか、慎重に試してみた。
「……まあでも、本当に嫌になったら僕にはシンディをどこかに投げ捨てて帰るという方法があるから。シンディに移動手段はなさそうだもんね」
「そうだった。わたしたちは共生関係にあるんだったね」
「言っとくけど、相互利益の関係ではないからね。シンディは僕を、珍しい世界を歩くための足だと思っているんだと思うけど、僕にとっては話し相手ができるというメリットよりも、周囲にひとり言が止まらないあやしいやつだと思われるという、でっかいデメリットがあるんだから」
表情を探られていることを確信して、僕は思いっきり顔をしかめておいた。シンディは僕の声色か表情か、その他の何かから読み取ったのか、僕が本気でないことは理解していたようだ。
「そうでないことを、これからの行いでぜひ証明させてほしい」
笑い混じりに言っていたが、シンディは本気だった。それができる機会を、つまり僕のピンチを劇的に救うようなチャンスを、虎視眈々と狙っていたのだ。
目が覚めると、後ろ手で縛られていた手の拘束は解かれていた。僕が再び気絶するように眠ってしまっていた間に、誰かが入って来て、そしてまた出て行ったのだろう。
シンディをくくりつけている髪留めがずれて、僕の頭をチクチクと刺激している。僕は重たい身体をなんとか起こし、壁に頭をあずけることでシンディを耳の上あたりに押し付けた。
「シンディ、いる?」
「おおよかった、動けるようになったんだな。心配したよ、わたしからは君に近づくことができないからね。神に祈るのが精いっぱいだった。君の髪のことじゃないよ。いやあながち間違いでもないね。愛おしい君の美しい髪よ、どうかこれ以上わたしをふるい落とさないでくれないかと、そればかり考えていた」
いつものシンディの声だ。大袈裟で、芝居がかっていて、声に乗せることができる最大量の感情を許容量を超えてもまだ乗せ続けたような口調。なぜだか妙にイライラする。そうだ、意識が戻る夢うつつの中で、僕がこんな目に合っているのはこいつのせいなのだと結論が出たところだったんだ。
その日は、母さんに足りなくなりそうだからとレモンを買いに行かされた。どう考えたって、レモンを使ったお菓子が店の定番メニューになっているのに今年は隣からお裾分けをもらえそうにないせいだった。バイクを飛ばして八百屋に行ったけれど、時間帯が悪いのか仕入れがもともと少なかったのかはわからないが少ししか売ってなかった。この八百屋のおばちゃんは、高卒でフラフラとしている僕のことが何かと気に入らないようで、僕が進学しないと知ったあたりからどうにも感じが悪くて苦手だ。
帰り道はもう真っ暗だった。分厚い雲がかかっていて月も見えない。まばらに設置された街灯がチカチカと点滅している。この辺りは、市がすべての街灯をLEDにしようという計画を打ち立てているにも関わらず、優先順位が低いのか忘れられているのか、何年たっても変わる気配がない。でこぼこの多い道だが、慣れたものなので不安はない。バイクの手荷物用フックにかけたエコバックの中で、四つだけ買えたレモンが小さく跳ね回っている。去年までは、こんなことしなくてもよかったのに。ため息混じりに言うと、上機嫌なシンディが何だ何だとたずねて来るので、僕は簡単に隣の家のレモン畑の話をしてやった。どちらかと言うと僕はたしなめられるつもりでお決まりの権利を主張したのだけれど、
「それでは、それをもらいに行こう」
とシンディが言う。
「四次元人にとっては普通のことなの? 盗むなんて普通じゃないんだよ」
「君の主張を聞けば、隣の人間も納得するかもしれないよ。それに、もっと君の家以外の人間や生き物にも会ってみたい」
倫理観よりも自分の好奇心を優先させる気らしい。もし顔が見られたなら、思いっきり睨みつけてやったのに。この本気なんだか冗談なんだか判断しがたい物言いは僕から仕入れたのだろうと思うと、どうしてかたまらなく嫌な気持ちになって、僕は抗議のために力いっぱい眉間にしわを寄せてみせた。
でも結局はシンディに誘われるがまま、帰宅した僕は家に荷物を置くこともせずうちの花壇をかき分けて、新しいお隣さんが設置した木製のフェンスに近寄って行った。母さんが花壇を作るときに使ったレンガをいくつか踏みしめ柵に手をかけて伸び上がり、ギリギリなんとか顔が出せる。そうやって目を凝らして隣の庭を覗き込んだ。隣の家屋は庭に面した部屋には電気がついていなくて、レモンの木どころか庭の様子はほとんど何も見えなかった。見えないというと、シンディは嬉しそうに、まかせてわたしが案内するよと言った。まあ僕も、あの八百屋のおばちゃんにもう一度会わずに済むのならぜひともそうしたい気持ちだった。
そこに足をかけてだとか尖ったところがあるから気を付けてだとか、シンディはいろいろと指示してきたけれど、見えない僕にはいまいち状況がつかめなかった。まるで要領を得ない。僕はフェンスをのぼることを諦めた。シンディは不満げで、勝手なものだ。
「どうしようもないよ。僕とシンディで、方向とか距離とか、共有できていないことがありすぎる」
月明りのある日、僕とシンディは今度こそ隣の庭への侵入を果たそうと、再びフェンスの前に立っていた。この間の闇とは比べるまでもなく、このまま月明りで読書ができてしまいそうなほど明るい。かっこいいからという理由で練習したクロックポジションによるシンディの指示出しは、今回まったく出番がなさそうだ。
僕が動きやすいということは、僕が人から見つかりやすいということでもある。少しの物音にも注意する必要があるだろうから、僕が返事をするのは最低限だけになるだろうと話していたのにも関わらず、僕の危機とは無関係なシンディは呑気なものだ。
「わあ! 三次元の人間って本当にくしゃみするんだね! 身体に空洞があるんだ! かわいい! とっても素敵だよ」
「ねえ、本当にやめてそういうこと言うの」
この間の苦労が嘘のように、僕は自分の家の側にある花壇のレンガと丈夫そうな枝を足掛かりにして楽々とフェンスを上ることができた。まあシンディがアドバイスしてくれた足場が確かだったからということにしてあげてもいい。上半身をぐっと柵の上に乗り出した時、はじめて庭全体を見渡すことができた。以前の、住民がいない間に入っていた庭とはまったく様子が変わっていた。植え替えられたのか、レモンの木は高さが揃えられて綺麗に整列している。増やしたのかただ単に植え替えたらその本数になったのかはわからないが、レモン畑と呼べそうなほどの迫力だった。近くには花壇やベンチまである。どんな大掛かりな工事が行われたのだろう、ただ広いだけの放置されていた土地が、そこでは立派に庭園となっていた。
「うっそ、すご……」
フェンスの上に足をかけて登りきり、出来るだけ音がしないよう隣の庭に飛び降りた。
途端、ブンという機械音が聞こえた。思わず首をすくめてそちらを見ると、赤い光が点滅している。ドローンだ。
「え!?」
初めて見たけれど、明らかに侵入者を警戒しているのがわかる。
「シンディ、あれ何? あんなのがいるって、なんで教えてくれないの!?」
「わたしにも、認知できる範囲があるからね。それに、君にとって何が当たり前で何が想定外なのか、わたしにはよくわからない」
シンディがいやにのんびりと言った。やっぱり、シンディには僕の身を案ずる気持ちなんて、これっぽっちもないのに違いない。
慌てて降りてきたフェンスを上り始めた。僕の家と違ってレンガや木はないけれど、こちら側には横向きに張られた板があるから、それが多少の足場となった。滑稽だろうが、仕方がない。ドローンにとってはなんの障害にもならないだろうからフェンスを乗り越えたところで意味がないかもしれないなんてことは、この時には思いつきもしなかった。
結論として、ドローンは僕を追っては来なかった。でもその夜と翌日は、隣人から苦情が来るのではとずっと落ち着かなかった。始終まったく役に立たなかったシンディは、それでもこの小さな冒険がお気に召したらしく、次はいつにするのかとうるさい。
それにしても、と思う。ドローンなんて、大掛かりな工事現場でしか見かけたことがない。こんな田舎の個人宅にあるのはとんでもなく不釣り合いな気がした。しかも僕の元へ文字通り飛んできたドローンは、僕が隣の庭へ降りた次の瞬間にはもう僕をとらえていた。赤外線センサーとか、ライト以外では映画でしか見たことがないが、そういうものがあったとしか思えない。僕がレモンを盗もうとしているのを知って、警戒していたとでもいうのだろうか。家族のなかでしか言っていないつもりだったけれど、ただの冗談だったから確かに音量なんて気にせず口にしていた。たまたま聞いてしまったお隣さんが、本気にしたという可能性もなくはない。
でもそれならば、僕らが長年レモンの世話をしていたことだって、僕の家や母さんの店がレモンを必要としていることだって、聞いていたことになる。
だんだん、腹が立ってきた。僕にレモンを盗まれたくないからといって、あそこまでするか?
「でも、あれがいることが分かったんだから、今度はきっとうまく行くよ」
僕が言うと、シンディは嬉しそうに声を弾ませて同意した。
僕たちは徹底的に情報を集めた。昼夜の様子を観察していて分かったことがある。隣の庭にはドローンが二つ待機していて、たまに低く周回しているらしいこと。それとは別に、ロボットが三台、水をまいたり雑草を踏みならして道を保ったりと庭を徘徊していること。隣の家には表札が出ていないこと。どうやら複数の男が出入りしているらしいということ。
僕が怖気づくには十分なあやしさだったが、僕はなぜだか、シンディ以上にやる気になってしまっていた。降って湧いた非日常的な冒険に、わくわくしないやつなんていない。二度目の戦いは、満月を避けて挑むことにした。
十分に明るいとは言えなかった。前回とは離れた場所からフェンスをのぼると、今度はセンサーに引っかからずに入ることができたようで、足をついたと同時にドローンが飛んでくるようなことはなかった。一息ついてレモンの植えてあるあたりに目を凝らしたとき、僕の右手の甲をぬるりとした感触が通った。思わず叫び出しそうになったが、何とかこらえてゆっくりと振り返ると、まるで想定していなかったものの姿が見えた。犬だ。それもかなり大きい。薄暗いなかでも、人懐っこい笑顔を浮かべているのがわかる。敵意はないらしいが、どこで牙をむかれるかわかったもんじゃなかった。
「わあ! これは犬だね、とってもかわいい! こういう時、触ることができる手を持って来られなかったことが心底残念でならないよ。君のこと、もういちど舐めないかな?」
「シンディ、見えてたなら何で教えてくれないわけ?」
「教えたら、君は関わるのをやめてしまうだろう?」
「僕に危険があるかどうかより、自分の好奇心が優先なんだな。わかってはいたけど、もう一緒にやっていける気がしないよ」
犬は申し訳程度にしっぽを振りながら体をこすりつけてくる。自分の縄張りに入ってきたのだから、僕をもう自分のものだと主張しているのだ。
「結果として危険はなかったじゃないか。でもそうだね、君の身に何か起こったら僕の責任だ。必ず僕がどうにかするよ。約束する」
シンディは明らかに僕のご機嫌取りのためだけに言葉を重ねていた。それがわかっていても、僕には人類の英知を超えた生き物には何か秘策があるのかもしれないという希望的観測を手放せない。
それならと決意して、犬を撫でていた手を放し早足でレモンの木に近寄ろうした。すると、遊んでもらえるとでも思ったのか撫でていた手を止めたことが不満だったのか、犬があたりに響きわたるような大きさでワンとひと声鳴いた。
「あっ、バカ!」
窓際の一室に明かりが灯った。犬に纏わりつかれながら身を隠せそうな木立に入ると、顔にかからない様にかき分けた枝にとげがあったらしく手の甲に血がにじんだのがわかった。上手く隠れられているのかが不安だった。犬が鳴いたり暴れたりしないよう、抱え込むようにして撫で続けていたのだが、犬の機嫌は良さそうだった。
見上げた部屋には、人影が見えた。どうやらカーテンを開けてこちらを見ているらしい。屈強な男が住んでいるとばかり思っていたけれど、シルエットは随分と華奢に見える。逆光で表情は見えないが、優雅にグラスを傾けて何かを飲んでいるのが光の反射でわかった。その人物は、そのまま窓辺に腰かけてしまったようだ。吠えた犬の様子を確認するまでは、そこから動かないつもりなのかもしれない。隣に住んでおきながらこれまで一度も犬がいるなんて気が付かなかったくらいだ、滅多に吠えない犬なのだろう。そんな犬が吠えたとなれば、訝しがって様子を見に来るのも当然な気がする。
動くに動けなかった。さっきから心臓がうるさい。シンディにはその人物が見えていないのだろう、のんきに犬に会えた喜びを言葉の限りを尽くして伝えてくるが、僕は当然のことながらそれどころではない。あの窓際の人物がどこかへ行ってしまうまでは、絶対にこの場を動くわけにはいかなかった。犬を放せばそちらに意識が向くだろうが、犬が僕から離れてくれる保証もない。
汗が冷えて冷たい。この危機的状況を作った張本人ではあったけれど、抱えた犬の体温が僕を落ち着かせていた。けれど、いつまでもこうしているわけにもいかない。どこかで覚悟を決めて決断しなければ。
そんな状況は、意外なところから展開をみせた。部屋の奥から現れたもう一人が、窓辺の人物をうながして部屋の奥に引っ込めさせ、カーテンを閉めたのだ。
ほっと息をついた。
「さっきから黙っているが、どうしたんだ? 機嫌が悪いのか? ああ、もちろん犬よりも君の方がずっと素敵だよ。つい珍しいものに魅かれてしまったけれど、やっぱり言葉によるコミュニケーションがとれるというのは、何にもまさる快感だ」
シンディが僕をなだめるかのように、抑揚を抑えて囁く。ものすごく長い時間が経ったような気がしていたが、シンディの調子から、この木立に隠れていたのはほんの数十秒であったことを悟った。
「今日は戻る。今度は犬がいないときにしよう」
溜息をつきながら僕がそう言うと、まるで甘やかすような口調でシンディは「わかったよ」とだけ返した。きっと顔を見ることができたなら、まるで僕を理解しきったような自己満足にあふれた表情をしていたに違いない。
それから何度か挑戦したものの、結局あのレモン畑に入ってレモンを切るまでには至っていない。いないことを確認したはずだったのに、いざ入ると犬が駆け寄ってきたり、本当に犬がいない日は天気がひどく悪かったり。番犬としてはよろしくないのだろうが、犬については撫でてさえいれば吠えることがないとわかったので途中からあまり気にしなくなったのだが、そうこうしているうちに時間がずれて、巡回しているロボットと鉢合わせしそうになることもあった。ロボットは、目に見えるところでは僕が進行方向に入り込んだとしても少し動きが鈍る程度の変化しかしていなかったが、僕の様子を録画したり武器を持っていないかスキャンしたり、そのくらいの機能はあったっておかしくないと思う。そういう映画を見たことがある。だから、できればこの庭でいちばん鉢合わせしたくないものだった。ロボットを避けることについては、シンディが報告をさぼらなければ無理なく完璧に行えるはずだったのだけれど、シンディは犬がいると途端に犬に夢中になって他がおろそかになってしまうから、結局は役立たずなのだった。
ドローンもあんなに僕たちに接近したのは最初の一度だけで、あとは遠巻きにしているか、そもそも出てこないようにされているかのどちらかだった。二階の窓に時折あらわれる人物に関しては、どうやって僕の侵入を察知したものか犬に纏わりつかれながら歩いているときにカーテンが開けられたことも、さらにはそのカーテンを開けた人物が明らかに僕の隠れているあたりをじっと見ていることもあった。逆光でさえなければ、目が合っていたっておかしくはない。そのまま僕がすごすごと逃げ帰るまで、なぜだか窓辺でくつろいでいたりするのだ。そんなわけで僕の侵入がバレていないということは絶対にないのだが、隠れようとする意志をみせているうちは、何をするでもなくただ観察されているような具合だった。
完全に馬鹿にされている。見世物だと思われているにちがいない。これは挑戦状だった。必ず達成しなければならない。しかし、実のところ僕のレモンへの執着はすでになく、どちらかというとこの不思議と許されているシンディとの冒険を続けたいだけなのではという内なる声を、僕はほんのりと自覚しながらも聞こえないふりをしている。
その日も、今日こそはと意気込んでみせてはいたものの、いつもの結果に終わるだろうということも織り込み済みの出発だった。ロボットの巡回を見送り、ドローンが出てこないことを確認して、じゃれついて来る犬を撫でながらなんとか誘導しレモン畑へ向かう。犬のほうではレモン畑が気に食わないらしく僕をそちらへ向かわせないようにするものだから、結局はじゃれ合いのような時間がどうしたって生まれてしまうのだ。無視して進もうとすると吠えた。シンディはどちらにしろ大喜びだった。
と、突然、腕を取られ体が大きく傾いた。混乱しながらももつれた足を何とか踏み出し体勢を整えようとしていた僕の顔に、布をぐるぐる巻きにした腕が押しあてられ、さらに後ろに強く引かれた。そのまま無理やり引きずられていく。焦りや恐怖もあったが、その時の僕には、今までは許されていたのにという動揺の方が大きかった。なんで今ごろ、やりすぎてとうとう怒りを買ったのか、たまたまタイミングが悪かったのか。いづれにしても、悪いことをしていたのはこちらなのだから、このまま警察へ連れていかれたとしても文句は言えない。シンディが何かを言っている気配がしていたが、男の腕が擦れてうまく聞こえなかった。
暴れないから放してくれという意図でもがいていたけれど、当たり前だが通じないようでそのまま門まで連れて来られた。あの元気いっぱいの犬ならひょいと飛び越えてしまいそうなオシャレな飾り門はなぜか開いており、そこから敷地の外へ引きずり出される。さすがに訝しく思っていると、けたたましく警報が鳴り響いた。
驚いたのは僕だけではなかったらしい。男の腕がより強く押し当てられた。耳元で「騒ぐな殺すぞ」と押し殺した興奮が滲んだ声がする。僕は男に押さえつけられたまま車へと押し込まれ、そこで急激に意識が遠くなり、気づけば真っ暗な部屋に放り込まれていたのだった。
シンディと話が出来ることを確かめた僕は、シンディの声には答えずに、とりあえず自分の体のあちこちを触り点検した。ポケットに入れていたはずのスマートフォンがなかった。打撲くらいはありそうだが、その他不自由なところはない。
「真っ暗だな……」
あたりを見渡しても、眼前に手をかざしても、何も見ることができない。ここはどこなのだろう。
「そうか、それではわたしの出番だな」
耳の上に固定されていないシンディの声が遠い。そのくせ妙に得意げに聞こえた。
「見たところ、君の家にあるような家具は見当たらない。小さな部屋だね」
シンディが言う。それならばここは、どこかのアパートの一室かもしれない。この辺りには、民家といい市営アパートといい、人が住まなくなってそのままになっている建物がいたるところにある。そういった物件には、人や野生動物が入り込まないように窓や勝手口に板が打ちつけられていても何ら不自然ではない。あらかじめ見繕っておいたそのうちのひとつに入れられたのかも知れなかった。
僕は立ち上がりながらシンディを定位置に固定した。髪留めのクリップは、緩んではいるものの壊れてはいないようで、少し安心した。
「シンディ、部屋の確認がしたい。案内できる?」
「もちろんさ! まかせてくれ、二人で散々そういう練習を重ねてきたんだものな」
真っ暗ななか、シンディの指示は的確だった。僕がつまずいて転びそうなものを優先して案内してくれた。僕の顔を十二時として何時の方向に何歩という、レモン畑に入るのには一度も使用する機会がなかった、シンディのクロックポジションを使った指示で僕が移動する二人羽織は、これ以上ないと言えるほどのシチュエーションで役に立ったのだった。
「シンディ、僕が寝ているあいだに誰か入って来たでしょ。どこから出て行ったの」
「君を抱きかかえて入って来た扉からだよ。二時の方向にまっすぐだ」
僕たちはまずは玄関へ向かった。いくらドアノブをガチャガチャとしたところで開きはしない。拘束されていないことがわかった時点で出られないようにしてあるんだろうなという推測はできていたので、がっかりというよりはやっぱりという感じだった。窓も鍵が固められているのか、窓枠自体が固められているのか、びくともしなかった。おまけに外から大きな分厚い板が打ちつけてあるようで、ガラスに横顔を押し付けて覗き込めば、街灯だろうか、板とサッシの隙間から多少の光が見えはするものの、室内に届くほどの量では全然ない。太陽の光であればもうすこし粘り強く侵入してくるだろうから、まだ夜が明けるほどの時間はたっていないらしい。念のため台所へ行き水道を捻ってみたが、水は出ない。ダメもとであげてみたブレーカーももちろんダメだった。出口はない。連絡手段もない。窓や板を割ることができそうなものもない。ここがどこかもわからない。八方塞がりだ。
それでも僕は、自分でも驚くほど冷静だった。それはたぶん、シンディがいたからだ。一人だったらパニックになったり絶望したりガラスに生身で体当たりしてみたりと無茶なことをしていただろう。話し相手がいるという安堵感だけではない。シンディなら、僕が本当の本当にピンチになった時には、不思議なパワーを使ってどうにかしてくれるのではという期待があるからだった。
そんなことを見込まれているなんて考えもしていないだろうシンディは呑気なもので、部屋を一周してスタート地点に戻ってきたことを嬉々として報告してきた。
「君がこんなに僕を頼ってくれるなんて、嬉しいよ。まさか僕がこんなふうに君のピンチを救うことができるとは、こんなに光栄なことはない」
「いや、まだまだ大ピンチの真っ最中なんだけど」
のほほんと言うシンディに呆れて大袈裟に頭を振ったとき、近くの壁に当たったのか、髪留めがカチンと音を立てて耳の上から離れた。やっぱりここへ連れて来られたときに衝撃を受けていたのか、かなり挟む力が緩んでしまっている。
もし床に落ちてしまったら、この暗闇の中では見つけることができるかわからない。
僕は一瞬で血の気が引いたのがわかった。震えそうになる手で髪をたどり、落ちる寸前の毛先に引っかかっていた髪留めをつまむ。絶対に落とすわけにはいかなかった。
僕はずるずるとその場に座り込み、そっとシンディを定位置に付け直した。
どうしよう出られない。そんな、言ったってどうしようもないことばかりが口をついて出てきそうになる。僕は無理やりシンディに話題を振った。
「シンディってさ、僕が拾う前は海にいたの? 帰るときも、海から帰るの?」
シンディは不自然なほど返事を寄越さない。行き来の方法については教えられないということなのかもしれなかった。
「だとしたらさ、シンディ困るでしょ。ずっと帰れない。だってこのままじゃ、海にいけないんだから」
「君もよく海に行っているね。海に行けないというのは、わたしよりも君が困ることなんじゃないか?」
「僕の場合は困るというのとはちょっと違うけど……なにも本物の海に行かなくったっていいんだし」
「どういうことだい?」
「人は体の中に自分だけの海を持っている、みたいなはなし」
僕は真っ暗な場所に閉じ込められている現実を誤魔化すために、目をつぶった。
「ひとって体重の七割くらいが水分なんだって。だから海。僕はいま、自分の中にある自分だけの海の底に座ってるわけ」
暗いのは、海の底にいるからだ。海の底には光もなければ悲劇もないんだって、誰かがそう言っていた。だから僕はいま、暗い部屋に閉じ込められているわけではなくて、自分の海の底に望んで座っている。そんな風に考えると、帰れないかもしれないという恐怖が少し和らいだ。
どこからが絶望しないための空想で、どこからが受け入れなければならない現実なのか、僕はそれをあえて曖昧にしてしまうことができる。これは、僕の人生のどの時点で手に入れたものなのだろう。
僕は壁に背中を預けようとして、後ろ手でその位置を探った。ザラザラとした感触がする。それは何も砂埃のせいだけではない、きっと壁紙が何らかの模様を持っているのだ。
「シンディ、ここの壁の説明してよ。油絵を見た時みたいに言って」
シンディはお安い御用さと格好つける。いつもの調子が心地いい。
「縦に小さな溝がたくさん入っているね。でもすべてがまっすぐというわけじゃない。基本的には交わらない様になっているが、たまに何かが当たったみたいによれて、いくつかがくっついているところがある」
僕の頭ではシンディの声を聞きながら油絵が組みあがっていくのだが、結局は良く知った、母さんの店に飾ってあるお気に入りのあのレモネードのような絵が浮かんできてしまった。
海の底だったこの部屋が、レモネードの中に変わる。灰色の瓶から注がれた液体はほんの少しだけオレンジがかっていて、でもそれは炭酸水を注げばほとんど透明だ。砂糖と蜂蜜につかったレモンを取り出して入れれば、グラスがつられてほんの少し黄色味を持つ。
店に出すものも足りていないのだ、今年はまだ、母さんが家族用にレモネードを作ってくれる時のあの灰色の瓶は空っぽだった。だから、僕のこの想像の中にしか、僕のレモネードは存在していない。今この場にあるのが唯一のレモネードなのだった。あの庭から取って来られなかったレモンを使った、目を開けば消えてしまう、真夜中のレモネード。
僕はシンディの声を聞いているようで聞いていなかった。僕の心は、今一度あの隣の庭へと舞い戻っていた。ドローンから繰り出される攻撃を避けながら、うまく誘導することでロボット同士をお見合いさせて動けなくする。犬は素直に僕の言うことを聞いて、もう一つのロボットにじゃれつき足止めしている。僕たちがそんな立ち回りを繰り広げているのを尻目に、窓辺の人はレモネードを傾けながら余裕の表情だ。僕が命からがらついにレモンの木にたどり着いてそれを切り取っているのを見て、はじめて窓を開けて叫ぶのだ。おめでとう、好きなだけ持って行くがいいよ!
「そういえばシンディはさ、あの窓から僕たちを見ていた人のことは見えてなかったんだよね?」
シンディの言葉が途切れたタイミングを見計らって、口を挟んだ。
「そうだね、いまのわたしにとっては、窓も鏡も同じただの板だ。鏡は君が見るものだけれど、窓からは君は見られるものなんだね?」
「うん、いや。もしあの人が一度でも窓を開けてくれていたらさ、シンディにもあの人が見えたのかなって思って」
「なるほど。鏡は開けることが出来ないが、その窓は開けることができるというわけだ」
「シンディ、いいこと言うね」
その窓は開けることができる。なんて希望に満ちた言葉だろう。
僕は自分のレモネードに漂ったまま、目を開けずにいた。シンディには見えていないのだろうが、言葉で伝えれば、シンディにもこのレモネードが感じられるのだろうか。
「シンディって想像とかしないの?」
「何をだい?」
「いま見えてないもの。例えば宇宙とか、海の底とか。……自分の家とか」
ひときわ強く、心細さがぶり返してきた。目の奥が熱い。
シンディは、と呼びかけた声は泣き声混じりで恥ずかしかったけれど、何かを話していないと不安に押しつぶされてしまいそうだった。
「僕が小さい頃に読んだパズルの本があってさ。国っていう字から玉を取り出すっていうパズル」
僕はシンディにもわかるように、地面に国という漢字と玉という漢字を書いて見せた。シンディはわかっているのかいないのか、なるほどと一言小さく呟いた。
「上下左右、四方を囲まれてるからどうやったって出せないんだけどさ、上から、つまりこれを立体だと見れば天井が開いているから、三次元の生き物である僕たちには取り出せるんだっていうのが正解だったんだけど」
ずる、と鼻水を啜った。シンディは何も言わない。
「でもさ、摘まめないじゃんたぶん。二次元にあるもの、指で掴めるほどの厚さじゃないでしょ。厚さがあったとしてもさ、紙と字との違いなんてないわけだし、玉だけじゃなくて、囲いも紙も、全部持ち上がっちゃうよ。だからやっぱり無理なんじゃないって、答えを見た僕は思ってたんだけど」
核心を聞いてしまえば、さらに絶望することになるかもしれない。先ほどからシンディが妙に大人しいことが、もう答えのような気はしていた。
「実際どうなの? シンディって、僕をこの部屋からつまみ出せる?」
シンディからこの答えを聞くことはできなかった。なぜなら、次の瞬間には僕は眩しさに顔を覆っていたからだ。やっぱりシンディが超人的な力で外に出してくれたのだ――と僕も一瞬思ったけれど、実際にはそうではなく、僕にもわかるような物理的な理由だった。
つまり、こじ開けられたドアから懐中電灯が当てられたのである。
「いた! 見つけたぞ!」
僕を保護したのは、お隣さんが呼んだ警察だった。それより少し前に捕まっていた犯人が、僕を閉じ込めた場所を自白したらしい。隠していた暗視カメラとマイクでこの部屋の様子を監視していた犯人は、閉じ込めた青年が、何も見えないはずの真っ暗な部屋の中を平然と歩き回っているし、ひとり言とは思えない言葉を始終つぶやいているし、とても怖かったのだと語ったという。
埃だらけで帰宅した僕は、お風呂を済ませて泥のように眠った。午後になって目が覚めると、僕は母さんに隣の家へと連れていかれた。てっきり怒られるものだと思っていたけれど、どうやら誘拐そのものがここに住むお嬢様を狙ったものだったということで、僕ははからずも身代わりをつとめた形になり、かえって感謝とお詫びの言葉をもらうことになってしまった。
そう、僕はかなりの勘違いをしていた。まず、隣に住んでいたのは女性だった。あの時、逆光でシルエットだけが見えていた人物は、彼女だったのだ。住んでいるのはどこぞのお嬢様らしく、執事だとか庭師だとか、お付きの人がたくさん出入りしているらしい。僕が見かけたのは彼らだったというわけだ。
身代金を目的とした誘拐事件だった。いざ侵入しようとしたとき、庭で僕と鉢合わせをしてパニックになって連れ去ってしまったらしい。なんておまぬけな犯人なのだろう。僕より下調べの足りていない誘拐犯が、あの庭から逃げられるわけはないのだ。
僕が犯人に連れ去られたあと、お嬢様の家ではセキュリティがすぐに異変を察知し、警察を呼んで大掛かりな捜査が行われたそうだ。応接室で僕と母さんの正面に上品に腰かけた女性は、事件が防げなかったこと、助けが遅れたことを丁寧に僕たちに詫びた。しかし、これは明らかに僕の自業自得だった。実は僕が庭に侵入していたことは、このお嬢様にも執事にも、この屋敷につとめているものすべてにバレていて、しかも微笑ましい光景として見守られていたらしい。男の子だから冒険したいのかと思って、と悪戯っぽく微笑まれたときは、消えてしまいたいほど恥ずかしかった。つまりこの家は僕という侵入者を許容するためにセキュリティを甘くしていて、だから起こってしまった事件なのだった。むしろこれでお嬢様が誘拐されてしまったなんてことになれば、間違いなく僕のせいだった。そうならなくて本当によかった。
そのことを知った母さんは僕を叱り飛ばし隣人にひたすら平謝りしていたが、ゆったりと微笑んだ執事の男性に止められていた。
「リフレッシュのために移られた家ですからね。本家には子ネズミ一匹入る隙間もありませんから、お嬢様も彼が来られるのを楽しみにされていたところがあるのでは?」
「ええ。楽しそうだなあといつもうらやましく思っていました」
女性が僕ににこりと笑いかける。やっぱり見世物にされていたのだなと思ったが、不思議と嫌な気はしなかった。それを受けた母も苦笑し、すみませんと小さく頭を下げて最後にした。が、何でそんなことをしたのと僕にちくりと刺すことも忘れなかった。
レモンが欲しくて、と告げると、
「なあんだ、私に会いに来ていたのだと思っていたのに」
そう言った彼女の耳がびっくりするほど赤くて、その赤さはあっという間に僕の胸の中や頬にまで熱を運び込んできてしまった。
こうしてお隣さんからはレモンをもらえることになったのだが、僕はその後も、こっそりと隣の庭に忍び込んでいた。もちろん今度は彼女に会いに行くためだった。彼女は執事の制止を振り切って窓を開けてくれて、僕たちはそこでささやかな逢瀬を楽しんでいた。おかげで僕は執事にはかなり嫌われてしまって、いちど彼女と夜中に抜け出そうとしたところを見つかった時には、強い言葉で諫められた。
「次第に元気を取り戻してきたお嬢様の姿に、あなたの存在はいい薬なのだと思っておりましたが」
「毒ですか、僕は」
言いよどんだ執事に対して、僕は思わず笑ってしまった。
「彼女にとっての毒や薬になれるのなら、毒だと言われても傷つかない、むしろ僕は幸せですけどね」
シンディの発言なのではと疑うほど、するすると言葉が出てきた。僕はこんなことを言い返すことができる人間ではなかったはずなのに。でもその尊大さが、彼女を取り巻く状況とうまくかみ合ったのか、僕は無事彼女と結ばれて子供までもうけることができたのだった。
シンディはといえば、連れだって海へ行きサヨナラするような劇的な別れもなく、あの誘拐事件の翌々日、僕が机に突っ伏してうたた寝をしている最中に黙って消えてしまった。だから僕にはもう、この物語が僕の妄想でないとする根拠はない。僕がシンディをくくりつけていた髪留めをみると、シンディのかわりに、針金で編まれた飾りのようなものが乗っかっていた。でもそれは僕の想像力では不可能なほど複雑に入り組んだ形をしていて、だからこれがシンディは実在したという僕の心の唯一の拠り所だ。去り際のシンディがどこからか四次元の手を持ってきて、置き土産にこれを編んでいったのではないかと僕は踏んでいる。
夢なのか現実なのか、僕の空想なのか、シンディの最後の声が耳に残っている。
「あの時、本当は助け出そうとはしたんだ。君を四次元空間に連れて行くことができれば、確かに閉じられた三次元空間であるあの部屋から君だけを出せるんじゃないかと思って。明らかに違反行為だから仲間に感づかれないよう慎重にやる必要があったのに、君が珍しく涙なんて見せてくれるものだから、わたしは感動して叫び出しそうになる心を落ち着かせるのに必死だったよ。視覚器官から出て来るらしいという知識はあったけれど、本当に突然わき出てくるものだから、僕には心の準備ができていなかったんだ。三次元空間の人間の体にある空洞について、僕はとても興味を持っている。だから君の飲み食いする姿が好きだったし、ひときわ君がいろんな物事の原動力にしていたレモネードという飲み物には、とても興味があった。実物が見られなくて残念だ。でもやっぱり君たちの世界をわたしのこの目を使って見るわけにはいかないから、せめて三次元空間でものを味わうことができるよう、何とか考えてみたいと思っている。――とまあ話がそれてしまったが、そんな状態で、あの部屋の中でわたしは君をできるだけ慎重に、こっそりと、周囲の三次元空間から切り離してみようと画策していたんだ。結局は、君の世界の真っ当な人間が真っ当な方法で君をあの部屋から取り出してくれたね。本当によかった。僕が無理やり君を切り出して持ち上げたりしたら君にどんなことが起こるのか、シミュレーションもろくにしないまま試していたから。実際に切り離してしまったのは君の左肩の上、頭と肩の間くらいをほんのちょっとだけだったのだけれど、でも影響は出てしまったみたいだね。申し訳ない」
シンディのこの最後の言葉の意味が最初はわからなかったけれど、これはなんと、僕にも四次元空間から三次元空間を見下ろしたときの視点が見えるようになったという意味だったんだ。
とはいっても、海で拾った貝に先住民がいるかどうかがわかるだとか、レモンを切るときに種がどこにあるのかがぼんやりとわかる程度のことだったんだけどね。でも不思議と、君が彼女のお腹にいることは、彼女に言われるよりも前に気が付いたんだ。君のことだけは、はっきりと見えたんだよ。
これが、君のパパとママの馴れ初めの物語だ。信じられないかもしれないけど。
他のおとぎ話みたいに眠る前に言って聞かせるわけにもいかないから、このお話は、君が文字を読めるようになるまではおあずけだ。でも読めるようになったからといって、くれぐれも声に出して読み上げたりしてはいけないよ。いくらシンディやシンディの仲間たちが決めたルールを今後もしっかりと守ってくれていたとしても、ひとたび空気を震わせてしまえば、それは情報として受け取られてしまう。もしもシンディの仲間たちにシンディのやったことを知られてしまったら、告げ口されて、シンディの立場が悪くなってしまうといけないからね。
「注意書きは最初に書いておくものだろう」
ぼくは暗い部屋の中でひとり呟いた。自分のパソコンが壊れて父親の動きの遅い旧型のパソコンで課題を進めなければならないことだけでも最悪だったのに、ましてや自分の父親の私小説を見つけるのなんて、もっと最悪だった。課題のおともに持ってきていた、お婆ちゃん手作りのレモネードにさしたストローをかじる。不本意なことに夢中で読みふけってしまったせいで、すっかり氷が溶けて味が薄くなってしまっていた。いつの間にか日も落ち切っていて、部屋の薄暗さが、見慣れない父親の部屋で課題をしているこの状況の違和感を助長させている。モニターの明かりによって壁に映し出されている自分の影と、レモネードを入れたグラスの光の反射が、やけに視界にちらついた。
「シンディねぇ……」
もし本当にそんなものがいるのなら、この得体のしれない日々の閉塞感から、ぼくを取り出してみせてほしい。
そんな風に父親の書いたものを消化し位置づけたところで、不意に声がかけられた。
「やあ。味覚を持ってこちらに出て来られるよう改良したら、なんと君より大きくなってしまったみたいだ。君の用意してくれたこの椅子は今のわたしには小さすぎるが、しかし座れないこともない。以前のように、これを使って君の頭につけてくれてもいいだろう。でも実は、音波の振動を大きく出せるようにもなったから骨伝導でなくても話ができるんだよ。さあ、いよいよ君のレモネードを味わうことができる。楽しみだなあ」
突如として目の前にあらわれたのは、透明だがごく薄い乳白色とほのかな黄色で色付けされたひし形のような立方体だった。表面はのっぺりとしていて継ぎ接ぎもなく、どこかが開いたりするようすもない。一辺が一メートルくらいもあるだろう立方体は、質量があるのかないのかもわからないが、部屋にあるものを圧迫している様子はない。顔らしきものもなければ、手足のようなものもない。ぼくは驚きのあまり喉が引きつり、近くにいるだろう母親を呼ぶこともできなかった。
まさかそんな僕の状況を感じ取ったわけでもないだろうが、飲み事に行っていたはずの父さんが、入口からひょいと顔をのぞかせた。パソコンのモニターにうつる文字列を見てか、目の前に浮かび上がった立方体を見てか、慌てた様子で室内に飛び込んでくる。
「お前、よんだのか!?」
「呼んだわけじゃないよ! 急に出てきたんだ!」
父さんが僕の顔を覗き込んだ。珍しくお酒を飲んだのか顔が赤い。そんな状態の父でも、いてくれると心強い。立方体はもぞもぞと動いて、何らかの感情を模しているように見えた。
「あれ、そうか。君以外にもわたしをシンディと呼ぶものがいたのだな。わたしとしたことが、君を見間違うなんて」
立方体と僕を何度も見比べた父さんは、最終的に僕の目をじっと見つめた。怒りとも恥じらいともつかない微妙な顔をしている。
「やっぱりよんだんだな?」
「僕は呼んでないってば。あー、勝手に読んだのはその、悪かったけど……」
バツが悪くなったぼくは父親から目をそらし、立方体に視線を投げた。父と見つめ合っていたのは一瞬のことだったのに、その一瞬のうちに立方体は形を変えていた。いや、いま見ているあいだにも、目まぐるしく形やサイズが変化していっている。球体に見える瞬間もあれば三角錐にも見え、また直方体になったかと思えば巨大化したりゆっくりと回転して収縮したりと、なかなかおもしろい。おまけに情けない悲鳴まで聞こえてくるのだから、ぼくは思わず笑ってしまった。
「ああ、やっぱり安定しないみたいだ。だめだ、体勢を保てない。わたしが滑り落ちてしまう前に、はやくレモネードを!」
必死さが余計におかしかった。声のダンディさも相まってか、僕の頭は、バランスボールに挑戦して転げそうになっている大男を想像してしまう。
「押さえておいてあげようか?」
「申し出はとてもありがたいが、君の目に見えている三次元図形は、わたしの世界と君たちの世界の接面でしかないんだ。ほんの一部なんだよ。だからそこだけを支えてもらっても、わたしは余計にバランスを崩してみっともなく転げてしまうだろう。それに、わたしのこの形状は味覚に特化しているんだ。君が触れるとわたしは君を味わってしまうことになるけれど、それでもいいなら」
シンディが、それでもいいならぜひ触れてみてほしいという言葉を言い切るよりも先に、父さんはぼくの腕をつかんでぐいと引き寄せた。僕が味わわれるのは相当嫌みたいだ。
「なんだってこんな時間に、しかも息子の前にあらわれたんだ。レモネードはここにはないよ。台所へ行かないと」
「台所か、懐かしいな。君はよく母さんにお菓子を食べさせてもらっていたね。でもそうか、移動できないというのは難点だなあ。君、君が作ってくれた椅子だけを触ってわたしを運べないかい?」
父さんは露骨に嫌そうな顔をした。父さんが自作した小物を置いてある棚に近寄り、そこに置かれているアクセサリーのひとつに手を伸ばしたが、ため息をついてその指を引っ込めてしまう。
「試してみてもいいけど、少しでも触れた瞬間に、君ってこういう味なんだねだの何だのと言われる未来が見える」
「わあ、未来が見えるなんて、やっぱり君には影響が残ってしまっていたんだね。わたしの罪だ」
シンディが悲痛な声で言う。父さんはまるで気にした様子もなく、シンディが椅子と呼んでいるアクセサリーを触ろうかどうしようかもう一度迷って、やっぱりやめたようだった。シンディは残念そうに唸った。
「移動手段を持ってくるほうが先だったか。レモネードを味わいたいという欲求を優先してしまった」
「ぼくが急いで作ってくるよ。だからもうちょっと耐えてて」
ぼくがそう言うと、シンディは形やサイズを変えながら嬉しそうに声を弾ませた。
「おお、君はそのドアを開けて台所へ行くことができるんだね」
「なに、それ。そりゃあできるよ」
僕は笑いながら父さんの部屋の扉を開いた。部屋の中ではシンディの声が続いている。
「君はそのドアを開けることができる。レモネードを作ってまたやって来ることができるんだ。素晴らしいなあ」
シンディの浮き立つような声はきっとレモネードを期待してのものだったけれど、僕はなんだか、これからどこへでも行けそうな、何だってやってやれそうな、そんな爽快な気分にさせられたのだった。
文字数:28837
内容に関するアピール
これまでで一番エンタメを意識して、読む人にどうか楽しんでもらいたい、どこかの一文だけでも笑ってもらいたいという気持ちで書きました。
四次元空間に住む生き物を拾った主人公が、一緒にお隣さんのレモン畑にレモンを盗みに行ったり、誘拐されて真っ暗な部屋に閉じ込められたりする話です。
私たちが二次元空間のすべてを上から見ることができるように、私たちのすべてをどこからか見ることができるだろうと言われている四次元空間に住む生き物。そんな生き物がもし私たちの世界に来るとしたら、私たちのプライバシーに配慮し、私たちが隠して暮らしているものについては見ないようにしてくれるといいなあと思ったので、光による情報収集ができなくしてあるという設定にしました。その中で起こるドタバタを、楽しく書きあらわせていたら幸いです。
いつの間にか、なにか学びを提供できるとか現代社会を風刺するとか問題点を浮き彫りにするとか、そういう機能を持つ物語を書けるようにならなければいけないと思い詰めてしまっていました。そのことに気がついたのは、提出した最終実作の梗概について、大森先生に「これまで自分がどういうもので評価されたのか、されなかったのかを、もっと考えてみたら」とアドバイスいただいてからでした。そういう話を書かなければと気負うのではなく、私なりの世界をおもしろがる方法を伝えられるようにがんばろうと、そんな風に思うことができました。
忘れられない一年間になりました。いろんな作品に出会えて、やっぱりSFが好きだな、たくさん読みたいし書けるようになりたいなと、あらためて思いました。これからも勉強し続けます。
主任講師の大森先生をはじめ、ゲスト講師の作家さんに編集者さん、受講生聴講生の心強い仲間たち、諸先輩方、スタッフさん、感想や励ましのお言葉をくださった方々、皆さん本当にお世話になりました。ありがとうございました。
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