溶けたところで
チーズがとろけるみたいに会話している。私の手はすっかり形を失って、座っている内藤さんの太ももと繋がっていた。会話をすると身体が柔くなるから手首から肘のあたりがだらんとしている。私はそれを電話線みたいな具合に指で巻き取りたいという衝動を、ぐっと堪えた。薄暗い休憩室の壁には人差し指を口に当てた人のポスターがまだ貼ってある。四つ角は破れて丸くなっていた。
『その間、家はどうするの?』
手から伝わってくる問いを受け取って、言葉をまとめて送り返す。感覚としては文字を打つのに近い。最初から自分の身体が溶けると知っている子どもからしたら、私の伝え方はかなりゆっくりとしていると思う。内藤さんは大学生で、溶けて会話することに慣れている。内藤さんは太ももで会話するのが好きだから、座れる時は横並びになる。内藤さんの太ももはいつでも柔い。
最初は、そんなところに触れていいのかと戸惑った。人の太ももを撫ぜるなんて一歩間違えたらセクハラになりそうというのもあるけど、若者のパーソナルスペースの近さが怖かった。なかなか触れない私の手を取って内藤さんが太ももにぽんと乗せてくれたのを、はっきり覚えている。導いてくれた、という言葉がぴったりだった。チャームポイントなの、と曇りなくピカッとした笑顔を見せてくれた。それからは、私もちゃんと彼女の脚に手を置くようにしている。
『何も。ちょっと旅行にね、行くぐらいの気持ち、で帰ってくるから、大丈夫だと思う。一、二週間空けるだけだし』
『分かんないよ。思ってたより長期間潜ってる人の話とか私の周りにもいるし。なんか保険みたいなのがあるんだって。磯部さん入ったら?』
内藤さんがエプロンの端を引っ張る。やりとりをしている時、どこを見るかは人それぞれだった。日焼けしている肌と自分の肌の境界線がもぞもぞと動いているのが面白いから、会話している時はよく俯いている。自分の身体に突如現れたオプションを、たくさんの人がなんなく使いこなしている。
『そんなに、身構えなくてもいいでしょ。死ぬわけ、じゃないし』
内藤さんの目が、正気か? と言いたそうにしているのを、見なかったことにする。内藤さんの考えすぎだと伝えるために、私はさっきまで手だったところに力をいれる。バイト仲間というだけで心配してくれるのはありがたい。でも店長に休みをもらうことをすでに伝えていた。
人が溶けるようになってから、仕事以外であまり喋ることがなくなった。耳は除湿機がパキパキと軋むのを注意深く聞いている。今にも壊れそうな音をしているのに、誰も替えようとしない。内藤さんはパンをわざわざ両手で持って食べている。可愛い仕草をしているけど、さっき自分で値引きシールを貼ったばかりだった。
『なんで塊の中に入りたいの? 何かしたいこととかあるの?』
純粋な質問に曖昧な笑みを浮かべると、自分が老け込んだような気分になる。
休日に、見るでもなくつけておいたニュースでやっていたのは、マンション十階建てぐらいの大きな塊だった。塊の中に人が飛び込んでいくのを映像でみて、私は洗濯物を畳む手を止めた。なんだかみんなが楽しげに身投げしているように見えて、珍妙だった。あの塊は確か一度に人が塊になった最大人数としてギネス記録にも載っている。
何百人という人が完全に溶けて一緒くたになって暮らすなんて、少し前までは考えられなかったことだ。リポーターも少し頬を溶かしながら、興奮気味に塊の中の様子を伝えていた。塊はボコボコと沸騰しているお湯のように表面が泡立っていた。泡立ちが激しくなると、肌色の大きな物体は跳ねた。
「すごい光景です。何百人の人がこの中に入っているんですね。こんな公園のど真ん中に集まることができるのは、日本ぐらいでしょうね」
リポーターの言い方には見落としてしまいそうな悪意が忍ばせてあって、後から違和感が不快感に変わった。
「それでは、中を開けてみたいと思います」
持っていたナイフで、リポーターがなんの躊躇いもなく塊の皮を裂いた。バンドエイドのCMを見た時のように、痛っと声をあげてしまった。人が丸々一人入れそうなぐらい大きな傷がつく。塊の中身は表面よりも少しだけ黄味がかっていた。どろっとした液体が傷口から溢れてきた。
画面の下には【※特別な許可を得ています】と書いてあった。無防備な人たちの中に腕を入れた時、思わずあっと声をあげた。見知らぬ人の腕が入り込むなんて、そんなことをしたら、暴れるんじゃないかと。
「中は少しだけひんやりとしていますね。やはり人も動物ですから、生臭いです」
歯を見せて笑っている。カメラマンのものなのか、引き笑いしている声も聞こえた。テレビに映していいものかと思ったけど、最近はほとんど誰もテレビを見ていないのをいいことに、どんどんサブカルチャーに走ってる。ニュース、と言っても、テレビ会社に勤めている人が、好き勝手にものを映しているだけだから、こういうコメントでも許されるのかもしれない。足まで踏み入れるのは、流石に止められていた。
塊は変わらずそこにいるだけだった。傷口からどんどん液体が流れている。地球に生きている中で、一番反発しない生き物かもしれない。流れ出てしまった人が四肢を失うことはないとしても、傷つけられたことに対して何もしないなんて。リポーターはグニャッと自分も溶けて塊の中に入ってしまった。怖いもの見たさで画面から目が離せない。最後に塊になる人の募集があって、私は迷わず応募した。
それを一つずつ丁寧に話すようなことはしない。
『なんとなく、いいなと思って』
全部まとめると、こんなに手短に済んでしまう。ほんの少し、今よりもスムーズに会話できるようになるんじゃないかという淡い期待は抱いていた。つっかえつっかえやりとりしていると、相手の顔が疲れてくる。内藤さんはかなり辛抱強い方だったけど、時々煩わしそうにしている。普通に会話できるようになれば、うっすらと積もるストレスを与えずに済む。けれど、なんとなく恥ずかしくて言わなかった。内藤さんが咳払いをした。
『磯部さんがいいなら、いいけどさ。お休み寂しいなぁ。あたし辞めちゃうかも。このドラッグストアそんなにバイト代よくないし、他の人お昼とか全然一緒に食べてくれないしさぁ』
内藤さんが足を組み換えた弾みに手が離れた。首がピリッとする。会話の始まりと終わりはほんの少し痺れる時があった。アラームが鳴る。昼休憩が終わる五分前にいつも付けておくものだった。
ドラッグストアは駅から少し離れているのもあって、レジがすごく混むことはない。シャンプーや洗顔料のセクションで、詰め替え用のシャンプーを棚に入れていると、腕を掴まれた。目深に帽子を被った男の人は、手を離さずに私の腕から入ろうとしてくる。手を振り払うと、服の袖に溶けかけの男の手がついていた。目の前で払い落とす訳にもいかず、反対の手を握り締める。
「何かお探しですか?」
声をかけても、男はさらに腕を掴もうとして来る。顔は思っているよりも若かった。のけぞるようにして男の手を避ける。初対面なのに平気で触れてくる人がいるのが、未だに理解できない。指先が溶け始めていたのが逆再生して戻る。爪が四角くて真っ平だった。
「すみません、口頭で言ってください。お願いします」
こういう時に身体が固まってしまって困る。気弱に見えるらしく、こういう威圧的な人とはとことん相性が悪い。触れても大丈夫だろうと思わせてしまう。処方箋カウンターの近くでよかった。溝咲さんがカウンターから出てくるそぶりを見せると、男は去っていった。溝咲さんの腕が触れる。
『あいつ、常習犯だよ。この間も誰もいなさそうなタイミングで来てたから、気をつけて』
『そうなんですね。怖いですよね、やっぱり突然人に触れられるのって』
『とはいえ、嫌なら自衛だからね』
溝咲さんは私のことは何もかもお見通しだというように釘を刺す。腑に落ちてないのを隠すように大げさに頷いた。溝咲さんの白衣の袖は短い。本当は肩で会話するのがいいらしいけど、身長差で腕の上あたりで会話することになる。溝咲さんはカウンターの中にいるから、不意に触れられることの怖さを知らない。出会い頭に突然、人がびっくりするような罵倒をしてくることも。溝咲さんは大きなあくびをすると、またカウンターに戻っていった。明日からしばらくいなくなるから、挨拶しようと思っていたのに、言いそびれてしまった。
首回りがだらんとしたTシャツと裾が擦り切れているジーンズを履くと、より老け込んで見えた。電車ですることがなく、外の景色を見る。こんなにのんびり電車に乗るのは久しぶりだった。
衝動的に見えて、人が塊になるには細々した取り決めがある。たくさんの人が集まるのだから当たり前だけど、申し込んで連絡が来た時はとてつもなく長く待たされたな、というのが感想だった。指定されたのは、大きな運動公園だった。メールには最低限のもの以外何も持ってこないようにと言われた。身につけているもの含めて主宰側では預かりませんと太文字で強調されている。久しぶりに切符を買った。
駅から歩いて五分ぐらいの公園は、周りに立ち入り禁止のテープが張り巡らされていた。入り口にいるスタッフにメールを見せると、中に入ることができる。受付の人が自分の肩を指差したので、手を置く。私よりもずっと若いから、やっぱり見ず知らずの人に触れられるのに慣れているみたいだった。
『一塊になるのは初めてですよね。なるべくみなさんが溶ける近くで、ショットグラスの中に入ってる液体を飲み切ってください。飲んでからすぐに身体が溶けますので、遠くにいると参加ができなくなってしまいます。今身につけているものは、排泄物として出てしまうのでお手元には戻ってきません。入り込むときは、水泳でプールに飛び込むような感じでいくと、抵抗が少なくなりますので』
説明をしている間も、受付の人は他の作業をしていて、指先に力を入れて離れないようにしなければいけなかった。何か質問は? と訊かれたので首を横に振る。高校以来泳いでないけど、なんとかなるだろう。トレーに並べられているショットグラスを一つ取る。イソジンみたいな色の液体だった。
公園の中心にある塊はある程度でき上がっていた。年代もバラバラだったけど、本当に人が飛び込むようにして人一人分ぐらいの大きさの塊に飛び込んでいる。人が入るたびに塊はぷるんと震えた。隣で同じようにグラスを持った人が液体を飲んでいる。私も一気に飲み干すと、半分ぐらいで飲むのを止めたくなった。アルコールではなさそうだったけど喉が焼ける。体温が一気に上がって頬が熱い。足先が溶け出した。本当に溶けるのが早くて、でき始めている塊までたどり着けるか不安になる。ただの公園で水溜りみたいになっても仕方ない。バターのように溶けている人たちに混ざらなければと思った。飛び込む、と心の中で唱える。あの中に飛び込んでいく。
塊の中に入るとありとあらゆる方向に引っ張られるような感覚で、悲鳴をあげた。口はなくても心の中でキャーと言っているような感覚で声をあげることができる。塊の中ではすでに流れができていた。大きな一つの生き物としてどうしていくか定まったところに、入り込む。流れは早かった。一番てっぺんまでどれぐらいあるのかは分からない。
骨の髄まで溶けるのは初めてのことだった。塊の外側の部分に何度もぶつかった。ぷっくりと自分が外にはみ出て、そのはずみで引き戻される。それを何度も繰り返して、ようやく流れに入ることができた。一度流れに身を任せると、あとは簡単だった。ゆっくりと自分から離れていく。
***
意識が戻ってきた時にはすでに足まで切り出されていて、塊から追い出されるように頭からごろんと芝生に突っ込んだ。口から息を吸い込むと、喉の前のあたりに何かがつかえているようで気持ち悪い。終わったんだ、とぼんやりした頭で思う。記憶は流れに乗ったところでぷつりと切れた。もしかするとリポーターが来て、手を入れたりしたかもしれないけど、他の人も害がないのをいいことに悪戯したかもしれないけど、何も感じなかった。変な格好で着地したせいで頭に血が上る。芝生の青臭い匂いで、胃に溜まっているものがなんの抵抗もなく喉までつたってきた。自分の硬さを感じる。頭が重いのは髪の毛にべったりとぬめりのあるものがついているからだ。誰かが肩から転がして体勢を楽にしてくれる。お礼を言おうとして、口周りにあるぬめりをうっかり飲み込んでしまった。
大丈夫ですか、と声をかけられて、ほんの少しだけ首を横に振る。蛍光色のTシャツを着たお姉さんは、私の顔を覗き込むと口をきゅっと上げた。
「磯部ななみさんですね。お疲れ様でした。向こうに仮設のシャワー室があるので身体を洗ってもらって、着替えたら帰っていただいて大丈夫です。あとですね、今回一ヶ月ぐらいみなさん一つになってたんですね。まだ戻ってこられたばかりなんで、形崩れが起きやすいです。なので、しばらくは身体で会話しないようにしてください。万が一、崩れてしまった場合は、冷やしたタオルとか保冷剤を巻いてもらって、様子を見てください。それでもどんどん崩れてしまう場合は、病院にいくようにお願いします」
こちら病院のリストも含まれてますので、お持ち帰りください。パンフレットの上に石をおくと、お姉さんは行ってしまった。あんまりにも早く現実に引き戻された。一ヶ月も塊の中で過ごしていたのが信じられないけど、入った時にはまだ全然いなかったセミが喧しく鳴いている。目の前に置かれた紙に手を伸ばす気力もなく、何も身につけないままとりとめもないことを考える。自分一人になっても、思考は勝手にいろんな方向へ飛んだ。
私の横にもう一人、誰かが地面に落ちた。塊から這い出すように、芝生に倒れると、スタッフがやってくる。くりかえし、まだ動けなくて情けない格好の人を抱き起こし、同じ説明をする。輪郭がまだはっきりとしてないから、しばらくは誰ともつながらないでくださいね。出てきたのはまだ若い人で、私が中々起き上がれずにいる間に、立ち上がってシャワー室に行ってしまった。
ようやく身体が動かせるようになってから、シャワーを浴びた。公園内は関係者以外は立ち入り禁止になっていると言っても、公共の場で素っ裸でいるのは気持ちが落ち着かない。
久しぶりにお湯を浴びたからか、肌が赤くなる。身体にまとわりついていたものは、こそぎ落とすように何度も身体を洗ってようやく落ちた。身体のありとあらゆる窪みに溜まっていて、丁寧に剥がしてやらないと、ぶちっと途切れてしまう。排水溝にぬめっとしたものと芝生が溜まっていて、足首まで水が溜まった。親指で触れてみると、煮こごりのようなゆるい弾力感があった。足でどかすと、ごぼっと音を立てて水が流れていく。身体が楽になると足がすごく浮腫んでいるのが気になった。塊になる前の身体の不調はそのまま戻ってくる。足首を回すとくっきりとシワができる。血管が浮いているのや最近どんどん目立ってきたシミも変わらずにあった。背中がむず痒くなってひっかくと、まだ皮膚に張り付いていたぬめりが爪の間に挟まっていた。
不織布の服は心許ないけど、他の人も同じように服を着て帰路についている。私のいた塊は、人が出ていってしまったせいですっかりひしゃげていた。まだ残っている人は、掻き出すようにして作られていった。アイロンのような機械で人工皮膚を当て、折り目正しく人の輪郭を作る作業は、遠目で見てもゾワっと粟立つような光景だった。命の再開に相応しくないからかもしれない。まるで工場見学を見ているみたいに機械的に人が作られていく。ゾンビのように、腕をだらんとした人が、シャワー室に向かってゆっくりと歩いていた。私は五、六人が人の形に戻るのを見送った。本当は最後まで見ていたかったけど、作業している人がこちらをちらりと見て、説明しているスタッフに耳打ちをしていたので止めた。他の人は塊なんて振り返りもせず、出迎えた家族たちとドラマを繰り広げているのも物寂しかった。
店長は戻ってきた私に少し驚いていた。そのまま飛んじゃったかと思った、と笑う店長の顔には疲れが滲んでいる。夏を前にちょうど学生バイトたちが沢山辞めたらしい。内藤さんもその一人だった。辞めるなんて冗談だと思っていたのに、と顔に出さないようにして驚く。
店長がどうでした? と訊いてきた。本当はど、ど、ど、どうでした? と最初に突っかかっていた。私はたっぷりと間を置いて、あらかじめ用意していた言葉を噛み締めるように言う。
「延々と続くマラソンみたいでした」
整えておかないとうまく伝わらないような気がして、私は家に帰ってすぐに何を思ったかを書き出した。頭の中の整理というよりは、引き出しを引っ張り出してなんとかメモが残っていないか探るような作業だった。鏡の前で自分の身体をくまなく点検しても、吹き出物一つ、異常を知らせるようなものがない。遠目から見た感じ、人を戻すのはかなりざっくりとした作業のように見えたのに、寸分違わず元に戻っている。気持ち鼻の先が柔らかくなったように思うけど、触ることもなかったから誤差の範囲かもしれない。
こんなに変わらないのは私だけかと心配になって、塊になった人の体験談を読み漁った。休むことの大切さを説くブログは大量に見つかる。みんな疲れているからもっと休もう、と言う結論は、わざわざ人に溶け込んで行かなくても思いつくことだ。他のことが書かれているブログもなんとなく盛り上がりをみせては辻褄が合わなくなって崩れていく。私は店長に、うねりに上手くのらないと弾かれてしまうことや、グルグルと塊の中を回るのだと身振り手振りをつけた。
「最初は苦しいけど、だんだんランナーズハイみたいな感じになってくるんです。いつまででも走れるようになるから」
伝わりますかね? と訊くと、店長は曖昧に頷いた。中に入った感触よりも休むことの意義を力説した方がよっぽど興味をひいたかもしれない。誰かに訊かれたのが初めてだったから、意気込みすぎてしまった。
うろ覚えではあるけれど、いろんなものが少しずつ値上がりしている。隅にある食品コーナーで割引シールを貼っていて、牛乳のところで確信した。
腕を掴まれた。一瞬で私の腕が水っぽくなり地面に落ちる。わっ、と変に明るい声を出してしまった。お姉さんの説明通り、本当に夏場のアイスのように左手が柔らかくなって今にも溶けそうだった。こんな不自由を待っていた! 本当はガッツポーズをしたいぐらいだった。触ってきたのは前と男と同じだった。夏なのに、黒いパーカーを着ている。手のひらの汗ごと私の腕に入って、私の顔をじっと見つめた。
『すみません私、形が保てないもので、ちょっと溶けちゃってますけど気にしないでください』
男が何か伝えてきた。言葉の輪郭が曖昧な感じで上手く掴めない。身体での会話は相変わらずつっかえるのが分かってげんなりした。もう一度言ってください、と伝えると、男は爪が食い込むぐらいに拳を握った。
『僕のお母さんですか』
言葉を拾えたのはいいけど、今度は意味が分からなかった。男は今時の顔立ちでくりっとした目をしている。全体的にのっぺりとした顔の私とは似ても似つかない。
『私はお母さんではないですが……。はぐれちゃいましたか?』
『まいまいは? まいまいは知ってる?』
子どもみたいな伝え方をする。まいまい、と鸚鵡返しに呟くと、くしゃりと笑った。大して大きくない店だから、いずれ見つけられるような気はしたけど、腕から心細さが垣間見える。迷子のアナウンスをしてもらおうかと迷っていると、男の身体がふっと私の腕から抜けた。
「ごめんなさい、磯部さん!」
内藤さんの声は、細く甲高かった。ショートパンツを履いている。内藤さんよりゆうに大きい男は、内藤さんに抱きついた。頬がとろっと溶けて内藤さんの肩に顔を埋める。
「片割れなんです。私の」
変な言い方だと思った。衣緒って言います。そう紹介してくれた内藤さんの額には大粒の汗が光っている。男は心底安心したように笑った。相変わらず私の手からは汗のように肉体が滲み出てくる。
私の声を聞いた溝咲さんが様子を見にきた。内藤さんを見つけると幽霊でも見たかのようにぎょっとしている。気まずい雰囲気の中、店内のBGMが陽気な懐メロにわった。溝咲さんが内藤さんの太ももに触れようする。内藤さんと会話する時は太ももがよいと、確信を持って手を伸ばしていた。だから内藤さんが自然に手を払ったのは想定外だったようで、溝咲さんの顔にゆっくりと驚きが広がる。代わりに内藤さんが手を差し出す。他人行儀な握手だった。二人の手が形を失ってとろけていく。間延びした腕で何かを伝え合っているとき、二人とも俯いていた。私は二人が話している間冷蔵の棚に手を入れた。冷やせと言われたし、今は緊急事態だ。
衣緒は、私の真似をして手を入れた。ぶ厚い手をしている。牛乳パックの開け口を、奥の方から一つずつなぞっていた。
「本当はこんな風に手を入れちゃだめなんだよ」
乳製品が並べられている棚は、タイムセールを待っている。もう少ししたら値引きのシールを貼りにいく。冷やしていると溶けるのは止まったけど、指先の感覚がまだ戻ってきていない。
ドラッグストア近くのファミレスで話そうと言われて、バイト終わりに顔を出す。二人はすでに向かい合わせに座っていたから、内藤さんと横隣りに座った。私は人差し指で内藤さんの太ももに触れた。手を払われたらどうしようかと思ったけど、すんなりと繋がる。
『磯部さんだめだよ。形崩れちゃう』
『崩れたって、大したことないよ。むしろ始めての経験でちょっと楽しいかも。内藤さんが言った通り、長く塊の中に入ってたんだけど、出てきた瞬間に普段通りの生活になったから、なんかもの足りなくって』
もらったパンフレットはまだ取ってあっただろうか。型はカスタムすると家が買えるぐらいの値段だから、スタンダードなものを使うことになる。手が多少他の人と似ていても、どうってことない。衣緒はグーにぎりでスプーンを持って、オムライスを食べていた。
『内藤さんって、双子なの?』
『元々は違うよ。私一人っ子だったし。でも実はそうだったみたい』
だから片割れって呼んでる。内藤さんがコップについた水滴をなぞる。ゴクリ、と唾を飲む音が聞こえた。
『塊に入ってた時があったのね。磯部さんと同じで一ヶ月ぐらい。前にも言ったけど私、高校の時不登校だったじゃん。でも家に親がいるから居づらくて入ったの』
だから保険とかにも随分と詳しかったのかと合点がいく。内藤さんは喉が痛いのか、何度も咳払いをしている。
それで、また人の形に戻るでしょ。私が出来上がった次に、衣緒が出てきたの。赤ちゃんみたいにオギャーって泣きながら人間になってた。本当はもっとぬるっと出てくるじゃん。スタッフの人も、名簿に乗ってないからびっくりして、慌ててDNAの検査キット持ってきて調べたら、私とおんなじなんだって。私がお腹にいた時最初は双子だったんだけど、いつの間にかいなくなってたって聞いたんだ。私がお腹の中で食べちゃったのかもね。それでずっと私の中にいたのかも。だから、私が一旦溶けて二つに分かれてもおかしくないの。
内藤さんは他の学生バイトよりも大人っぽい感じはした。今まで生きてこなかったぶん幼いのか、内藤さんの子どもだった部分を全部持って行ってしまったのか。ふと壁に貼ってあるポスターに目が行った。ビジネスに関する勉強会、宗教の勧誘などはご遠慮ください。
『私、磯部さんが塊に入るって言った時、どうしようって思った。あれ、何にもならないじゃん。ただ入ってる時間が飛んでくだけで。磯部さんの要素も知らない間にどっか行っちゃうかもしれないし。優しさでできた磯部さんと、悪魔みたいな磯部さんが出てきたら、もう一回溶けて合体してきなよって言ったかも』
乾いた笑いを皮膚の上に浮かべた。腕がぼたぼたと床に落ちていく。人が割れるなんて聞いたことなかった。内藤さんが気まずそうに目を泳がせている。信じていないわけではない。内藤さんは水を飲み干して、コップに私の手だったところを入れた。
『放っておいても大丈夫だよ。形作る時に付け足してくれるって言うし』
『指とかが切れた時はちゃんと保管しておけば、戻せるんでしょ。それと同じじゃない?』
内藤さんは小首をかしげているけど、そんな簡単なものとは思えなかった。もっと身体の根本的なところが遮断されたような感覚がある。胸より上に手をあげると、なんとなく溶けるのがゆっくりになる気がする。ウェイターが来るそぶりを見せたから、慌てて首を横に振った。
内藤さんととり止めのない話をしていたから、いつの間にか衣緒が私の手が入ったコップを引き寄せたのに気づかなかった。ゴクリと衣緒の喉が鳴る。誰かの口の中に無理やり手を入れているような感覚。手の外から中まで舌で撫でまわされている。ざらっとした舌の感触が、広がったり狭まったりして間接的に伝わってくる。
「ちょっと! 飲んでる!」
きょとんとしている衣緒の方に回って、背中を力任せに叩く。衣緒は目を白黒させた。
「ばっちいもの食べちゃダメだよ。私の手なんか! 吐き出して」
衣緒が咳き込むと、手が広範囲に広がる。人の内側はどんな風にでもなりそうな柔らかさだった。変に動揺したら、内側から握り潰したりしないだろうか。唐突に人への主導権を得てしまった恐ろしさで、腕が溶けるどころではなかった。形をうしなっった手の平がむず痒い。
「人の手を勝手に飲んじゃ駄目だよ。何やってんの」
『だってのど乾いてたんだもん。りんごジュースだと思ったんだもん』
衣緒が喋ると、身体の内側から声を聞いているような奇妙な感覚がする。私の手だったものなんて、ごくごく飲むものじゃない。のどごしも悪かっただろうし、水を飲むように勧めると、手の上からコーティングするように冷たいものを感じる。つめたっ、と声をあげると、衣緒が傷ついたような表情を浮かべる。みるみる内に涙が溢れてきた。中身は子どもだとしても、大人が力一杯泣いているだけで迫力がある。衣緒はパーカーを握り締めてわんわん泣いている。私の手は感覚が薄れていって、衣緒が泣き止む頃には何も感じなくなっていた。ウェイターが何度か私たちのテーブルを通っていた。
「大丈夫かなぁ。お腹壊したりとかしない?」
真っ赤な顔をしてグズグズと鼻を鳴らしている衣緒に、紙ナプキンを渡す。
「衣緒は大丈夫だと思うけど、磯部さんは?」
衣緒に対して少しぞんざいなのは、自分の分身だからかもしれない。もっと自分を大事にしてあげなよ、と声をかけたくなる。平気だよ、と答えると、あからさまにほっとしていた。病院にあとで連絡しなければ。人に飲まれましたと説明したら、なんて言われるだろうか。バイトをまたしばらく休むかもしれない。内藤さんに言われた通り、一応保険に入っておいてよかった。大したことない変化だったけどもすっかり満足してしまって、現実の煩わしい手続きについてがどんどん頭の中を占めていく。小さくなところに収まってしまうから、私は塊に飛び込んだだけで分裂しなかったのかもしれない。
文字数:11151
内容に関するアピール
人が溶ける話を書きました。自分が変わるかもしれないと期待していたイベントを体験しても、結果として何も変わらないでいるのが個人的には好きです。結局全然意味ないみたいな。また、ずっと日常のようなお話を書いていたので、最終課題もそうしました。
文字数:118