宇宙船〈姥捨山行き〉ハイジャック
ふと気づけば、今どこにいるのか何をしているのか、また分からなくなっている。百歳を越えた頃から頻繁にあることだ。見たところ、自分は飛行機か宇宙船の客席にいるらしい。並んだ円形の窓は全て花畑の映像を映していて外は見えず、動いているらしい微かな振動だけが伝わってくる。しかしドゥルーヴが不安を感じた直後、涼やかな声が頭に流れた。
【ドゥルーヴ、ここは宇宙船β一一一〇四号、通称〈姥捨山行き〉の客席です。あなたはこの船で惑星〈姥捨山〉へ行こうとしています。惑星〈姥捨山〉は、旅費を全て負担して人々を入植させる代わりに、一生をその開発に捧げるよう強制する制度を設けており、あなたはそれを利用して移住しようとしています。以上、脳内埋め込み型補佐人工知能ハヌマーンがお伝えしました。他に何か知りたいことは?】
ドゥルーヴは微かに首を横に振った。そうだ、思い出した。八十歳の定年退職まで警察官として勤続した自分は、未だ体力筋力には恵まれているが、この人工知能ハヌマーンの補佐で何とか日常生活を送れている危うい認知症状態だ。人類はさまざまな原因の認知症を克服してきたが、未だ脳機能の低下を完全に防ぐことはできず、ドゥルーヴのように認知症を煩う人間は少数だが存在し続けている。確か、このまま社会の荷物となっていくよりは、惑星開発の役に立って一生を終えようと考えて、〈姥捨山行き〉に乗ることを決断したのだった。〈姥捨山〉は、入植者それぞれの特性を考慮して仕事を割り振ってくれる。体力知力が衰えようと、医療措置を無料で施しながら最後の最後まででき得る限りの仕事を与えてくれるという説明だった。離れて暮らしている一人娘からは「退去も許されず使い潰される」と反対されたが、ドゥルーヴは最後まで社会の役に立ちたいのだと主張して、集合住宅の部屋を引き払ってきたのだ。
「落ちましたよ」
不意に声を掛けられて、ドゥルーヴは通路を挟んで隣の席を見た。長い金髪を襟足で一つに束ねた北ヨーロッパ系の小柄な少女がこちらを見ている。その華奢な手には、ドゥルーヴが愛用してきた古いペンがあった。筒袴のポケットから落ちたらしい。
「ああ、ありがとう」
受け取ったペンを胸ポケットに入れ直しつつ、ドゥルーヴはつい少女の容貌を観察してしまう。どう見ても十歳くらいだ。まさかその歳から、惑星開発に一生を捧げようというのだろうか。
「誤解なさっているようなので訂正しておきます」
少女は翡翠色の双眸でドゥルーヴを見据えてくる。
「わたしは百三十歳です。見た目が若いのは、遺伝子操作をされて生まれたからに過ぎません」
乗客達のざわめきに紛れる小声でなされた告白に、ドゥルーヴは目を見張った。確かにそういう技術はあるだろうが、十歳の見た目で百三十歳などという人間に出会ったのは初めてだ。
「勿論、今では違法です。ただ、当時は身体改造に関する法律が甘かったので、わたしの母は、違法すれすれで、わたしを作ったんですよ」
少女ではないという女性は、冷笑を浮かべる。人が配偶者を持たずに子を儲けることは、ドゥルーヴが物心ついた頃には当たり前になっていたが、親が一人だと、そういう無謀も通り易くなってしまうのかもしれない。
「名前もキティです。子猫だなんて、百三十歳になった今では名乗ることすら恥ずかしい。母としては、全財産を注ぎ込んで、娘に若いままの素晴らしい人生を与えたつもりでしょうがね……」
「それでも、お体が若いままなのは嬉しいことでは?」
ドゥルーヴが微笑むと、キティは肩を竦めた。
「若いにしても、若過ぎて不便なことのほうが多いですし、そう完璧な技術でもないのですよ。百十歳を過ぎた辺りからは気力が落ちる一方で、仕事に打ち込めなくなり、病気にも罹り易くなりました。それで余生は、〈姥捨山〉で過ごそうと思ったのです」
「失礼ですが、お仕事は何をなさっていたのですか?」
ドゥルーヴは好奇心に駆られて尋ねた。外見十歳の百三十歳が就いていた職業とは何だろう。
「如何わしい店で働いていた――訳ではありませんよ? 誘われることは多かったですが」
くすりと笑ってからキティは答える。
「わたしは大学で長く基礎心理学を研究していました。専門は発達心理学と生理心理学ですが、認知心理学や社会心理学、色彩心理学、応用心理学の教育心理学や犯罪心理学、懐古心理学も齧っています。ただ、正式任用の定年はどこも同じ八十歳ですし、臨時任用でも暫く働きましたが、もう論文を書いたり教鞭を取ったりする気力がないので、〈姥捨山〉で一生を終えることにしたのです。この外見で子どもを持つことにも抵抗があって、子どもも持たずじまいでしたし」
歳若い外見の老女は、そこで背凭れに深く体を預け、ふうと息をついた。この程度の会話でも疲れたらしい。
「わたしには娘が一人だけおりますが」
ドゥルーヴは白くなった顎髭を扱きながら応じる。
「退職して二十八年間、同居はしていなくても、ずっと迷惑をかけ通しだったんです。特に最近はわたしの認知症がひどくなってきましてね。それで、もういいからと娘を説得して、この船に乗ったんです」
キティは美しい両眼を瞬いた。
「認知症? そうは見えませんが?」
「実は」
ハヌマーンのことをドゥルーヴが説明しようとした時、急にチャイムが鳴り、放送が入った。
〈本船はハイジャックされました。本船はハイジャックされました。御乗船の皆様には、自席を離れず、落ち着いて指示に従って頂きますよう、お願い申し上げます〉
ざわざわと乗客達が騒ぎ始める。だが、さすが〈姥捨山行き〉に乗る人々だった。
「わしらに人質の価値なんぞあるんかいな」
前の座席に座る禿頭の男性が呟けば、隣に座る白髪の女性が手を振った。
「ある訳ないでしょ。随分とお馬鹿さんなハイジャック犯ねえ。わたしらの命なんてお構いなく、警察船が強制連結してくるわよ」
「それすら面倒臭がって、撃墜されるんじゃないか」
面白がるように、通路を挟んで更に隣の白髪の男性が言った。
「いえいえ、警察はそんなことはしませんよ」
ドゥルーヴは穏やかに口を挟む。
「とりあえず、今は大人しく座席に座っていましょう。それが一番安全です」
「あなたは、元警察官ですか?」
キティが問うてきた時、またチャイムが鳴り、放送が入った。
〈御乗船の皆様にお願い申し上げます。どうか声は出さず、お静かに自席にてお待ち下さい。これより、皆様に目隠しをして参ります。何卒御協力頂きますよう、お願い申し上げます〉
ドゥルーヴは両眼を眇めた。犯人は賢い。目隠しをすると、集団の統制が格段にし易くなる。手慣れているのだ。とにかく、犯人の目的と人数と居場所を早く特定し、外部へ伝えて連携しなければならない。乗客は、ざっと見て五百人ほどはいる。この乗り物は、一体、何だっただろう――。
【ドゥルーヴ、ここは宇宙船β一一一〇四号、〈姥捨山行き〉の客席です】
不意に頭の中に響いた涼しげな声に、ドゥルーヴは瞠目する。
【そして現在、この宇宙船はハイジャックされています。犯人について分かっていることはまだありません。以上、脳内埋め込み型補佐人工知能ハヌマーンがお伝えしました。他に何か知りたいことがあれば、口の中で囁いて下さい。犯人は乗船客達に対し、声を出すことを禁じています】
いつの間に補佐人工知能などを自分は脳内に埋め込んだのだろう。混乱しながらもドゥルーヴは問うた。
「わたしは任務中なのか? わたし以外に警察官は?」
【あなたは既に退職しています、ドゥルーヴ。そして、認知機能に問題があり、わたくしハヌマーンが補佐している状態です。この船内に現役の警察官はいないと推測します。乗船客は全て、惑星〈姥捨山〉で余生を過ごすことになっていますので】
人工知能の返答に、ドゥルーヴは頭を押さえた。霞がかかったような記憶だが、そうだったような気がする。だがとにかく、今この宇宙船はハイジャックされていて、警察官だった自分が乗り合わせているのだ。
【警察官ではありませんが】
ハヌマーンの声が続ける。
【通路を挟んで隣に座っていらっしゃる外見年齢の若い女性はキティ。百三十歳の心理学者だそうです。犯罪心理学も囓っておられるそうですよ】
人工知能が付け加えた情報に、ドゥルーヴは顔を上げて右隣を見た。確かに金髪の十歳くらいにしか見えない女性が、難しい顔をして座っている。ふとその顔がこちらを向き、淡い色の唇が動いた。
唇は読めますか。
ゆっくりと紡がれた音のない言葉に、ドゥルーヴは頷いて同様に返した。
警部まで出世するために、逮捕術だけでなく、交渉術や読唇術も学びました。
よかった。
心理学者だというキティは微笑むと、更に唇を動かした。
犯人は恐らく少数です。わたし達の目を塞ぎ、口を閉じさせるのは少数だからです。ただ、一人なのか複数なのかはまだ分からない。
ドゥルーヴは心理学者に倣って声を出さずに言葉を紡いだ。
わたしも同じ考えです。ただ、わたしの経験から言えば、このハイジャック犯は賢い。つまり、交渉する余地があるということです。
交渉するためには犯人の目的を知る必要がありますね。そして正確な人数も。
応じて、キティは疲れた顔の翡翠色の双眸を暗く煌めかせる。
こちらから仕掛けて探ってみましょう。
好戦的な言葉を大儀そうに紡いで、心理学者はおもむろに一つに束ねていた髪を解いた。何をするつもりなのかと目を瞬いたドゥルーヴは、とんとん、と座席越しに規則的な振動を感じてゆっくりと振り向いた。後方からは乗務員達がアイマスクを配りながら近づいてくる。ドゥルーヴ達のところまで来るには、まだ遠く、暫く時間が掛かりそうだ。そう判断しつつ見た真後ろの席には、日焼けした人懐っこそうな顔にニット帽を載せた小柄な男が座っている。彼が振動を送ってきた張本人だろう。男が歯を剥き出して笑うと、不意にまたハヌマーンが喋った。
【この男性は、わたくしと似た人工知能のマイクロチップを脳内に埋め込んでいて、それを通じてたった今、信号を送ってきました。恐らく言語だと思われますが、かなり暗号化されていて、解読が難しいものです。とりあえず、解読できた内容は、「協力する、三人一組、キティ教え子」です】
ドゥルーヴがキティに視線を戻すと、髪型を二つ括りにして、より幼い外見になった心理学者は、こくりと頷いて唇を動かした。
彼らはわたしの講義を受けていた教え子で、あなたの後ろがケン、その隣がジョウ、わたしの後ろにいるのがカイです。全員、〈防人〉宇宙港で宇宙船の整備士として定年退職まで勤め上げました。
ドゥルーヴは改めて後ろを見た。成るほど、ニット帽の男性の隣には同じく日焼けした、短髪で短い口髭の男性が、そしてキティの後ろには、やはり日焼けした、丸坊主でぎょろりとした両眼が印象的な男性が座っている。キティが微笑んで言葉を続けた。
彼らは脳内にマイクロチップを埋め込んでいて、互いに意思疎通できるんですよ。わたしは彼らに心理学を講義していましたが、同時に、マイクロチップを介した彼らの隠語や生体信号を用いた意思疎通の方法と、そこから生じる感情を、生理心理学や認知心理学、社会心理学の観点から研究させて頂いていました。恐らく協力してくれるのでしょう。
それは心強い。実は、わたしも脳内に持っているのです。
ドゥルーヴは大きく頷いて見せた。アイマスクを配る乗務員達がかなり迫ってきている。アイマスクをした後は、彼ら三人との意思疎通が重要となってくるだろう。各通路を二人組で歩いてくる乗務員達が、とうとうケン達の列へ来てアイマスクを渡した。次はドゥルーヴやキティの番だ。
「申し訳ありませんが、このアイマスクを両目の上に正しく装着して下さい」
憔悴した顔で丁寧に頼んできた東アジア系の女性乗務員に頷き、ドゥルーヴがアイマスクを受け取った時、隣で聞き慣れない声が響いた。
「嫌だよ、怖いよぉ、こんなの着けたくない……」
しんとした船内に「少女」の泣き声が響き渡る。女性乗務員の向こう側、アフリカ系の男性乗務員が差し出したアイマスクを拒絶して、涙を浮かべた愛らしい顔を向けられて、ドゥルーヴは多いに戸惑った。これは一体、誰だっただろう――。
外見年齢が変わらなくなってから百二十年近く生き、心理学も興味の赴くまま多方面に渡って学んだので、自分の外見が他者にどのような影響を及ぼすかは、かなり正確に予想できる。キティは、自らの外見を引き立てるための幼げな物言いで、更に訴えた。
「それ目に着けたら、真っ暗になるでしょ、真っ暗になるの嫌だあ」
両足もばたばたして見せると、清潔感溢れる白い歯の男性乗務員は、明らかに困った様子になる。騒がせないために配っているアイマスクで騒がれては、元も子もないと彼自身分かっているのだ。
「ごめんね、でも、ちょっと頑張って着けてみよう?」
努めて穏やかな口調で促してきた男性乗務員に、キティは嫌々と首を横に振り、元警部の浅黒い顔へ視線を向けた。警部まで出世したというこの男性なら、キティの意図が分かるはずだ。だが南アジア系の元警部は、キティの期待とは若干異なる反応で乗務員に言った。
「こんな小さい子にも、着けさせにゃならんのでしょうか。目隠しすると、余計に不安がって泣いたり騒いだりしそうなんだが」
まるで保護者のような話し振りに、男性乗務員はいよいよ困り果てた様子で答えた。
「分かりました。確認してから、また参ります」
男性乗務員は持っていたアイマスクの束を女性乗務員に託して、船首のほうへ歩いていった。一番前の列の席へ話しかけている。そこにハイジャック犯が少なくとも一人いるらしい。過去の事例から、操縦席にも機長を脅している一人がいると考えれば、犯人は最低でも二人だ。やがて話を終えたらしい男性乗務員がこちらへ戻ってくる。犯人が他の犯人の元へ動く気配はない。そこまで確認して、キティは元警部に視線を戻した。白い帽子を被り、浅黒い肌に白い顎髭を蓄え、胸ポケットのある厚手の上着を着た元警部は、まだアイマスクを着けずに女性乗務員と揉めていた。
「どうか、お客様、アイマスクの着用をお願い致します。ハイジャック犯の指示なのです」
「それは分かりました。ただ、娘を放っておく訳にはいきません。この子が落ち着くまでは、様子を見させて下さい。そして、できれば、座席をこちらに移してやりたいのですが……」
元警部が求めたのは、キティを元警部の隣の窓際の席に移動させることだった。確かに通路越しよりもアイマスクをした際の意思疎通が容易そうだ。ただ、問題なのは、そこに座っている上品そうな東ヨーロッパ系の老婦人だった。大人しくアイマスクをした老婦人は、口元に微笑みを浮かべて応じた。
「席を替わるくらい、何てことありませんわよ? 替わりましょうか?」
「では、お願いしても宜しいでしょうか」
東アジア系の女性乗務員は、ハイジャック犯の判断を仰ぐまでもないと考えたらしい。アイマスクをした老婦人に手を貸して、そろそろと席を立たせ、通路へ導いた。それを受けて、すぐに元警部がキティへ手を伸ばしてくる。
「さあ、リピカ、こっちへおいで」
リピカとは誰だろう。一瞬疑問に思いながらも、キティは座席から立ち上がり、元警部の手を取って老婦人が空けた席に座った。
「ありがとう」
可愛らしく礼を述べると、灰色の髪をゆったりとまとめた婦人は軽く頷いて、キティの席に腰を下ろす。そこまでを見届けた女性乗務員が、改めて元警部に請うた。
「すみません、お客様、そろそろアイマスクを……」
「分かりました」
今度は素直に従って、元警部はアイマスクをした。その横顔を見上げながら、キティは考察する。リピカとは恐らく彼の一人娘のことだろう。認知症が現れているのだ。戻ってきた男性乗務員が女性乗務員から経緯を聞き、座席を移ったキティに笑顔で告げた。
「お嬢さん、静かにしているなら、アイマスクはしなくてよくなりました。静かにしていて下さいね?」
「うん、分かった!」
両足をぴょこんと動かしてキティは頷き、肘掛けの上に置かれた元警部の大きな手に、自分の手を重ねた。するとすぐに元警部は手を繋いでくれる。まだキティのことを娘だと誤解しているのだろうか。だが例え、そうだとしても、警察官としてハイジャックに対処するはずだ。キティは、ふうと息をついた。短時間だが活動的に振る舞ったので少々疲れた。暫く休んでも、ケン達が情報収集を続けていてくれるだろう。自分達は何としてでも、惑星〈姥捨山〉へ行きたい。或いはハイジャック犯もまた、キティ達同様に、人類宇宙政府が秘匿しているに違いない惑星〈姥捨山〉の謎に気づいたのだろうか。片道切符で行くことを求められる惑星の謎を明るみに出すため、ハイジャックしたという可能性も僅かだがある。いずれにせよ、犯人への対処は全員の人数と所在を把握してからだ。キティは次の行動に出る前に休憩に入った。
アイマスクで視界が閉ざされると、途端に聴覚が冴える。黙っていることを強いられている乗客達の密やかな囁き声や物音、乗務員達の声や足音が耳に入ってくる。ドゥルーヴは幼い娘の手を握って安心させてやりながら思考を巡らせる。これだけの人数が乗った中型宇宙船をハイジャックした犯人の狙いは何だろう。ハイジャックの事例から考えられることは二つ。一つは、この人数の人質を盾に、仲間の犯罪者の釈放など何らかの要求を通すこと。もう一つは、この宇宙船を、どこかの目的地か標的に向かわせることだ。可能性としては、どちらもあり得る。すぐ前の席の乗客達などは、自分達に人質の価値はないと囁き合っているが、警察という組織が人命を軽んじる訳にはいかない。いつもいつも、人命を守り救うために自分達は身を危険に晒して奔走してきたのだ――。
前方から足音が近づいてくる。しかし何故か視界が暗い。両眼を何かが覆っている。ドゥルーヴは両手を上げて、目を覆う何かを取り除こうとした。
「お客様、どうされましたか? どうか、アイマスクを装着したままでお願い致します」
女性の声に言われて、ドゥルーヴは顔をしかめた。
「わたしは警察官です。何故アイマスクを外してはいけないのですか。これでは仕事に支障を来たしてしまう」
言いながらアイマスクだというものを額へずらすと、紺色の制服を着た女性が困った顔をして、こちらへ身を屈めていた。
「申し訳ございません、お客様。ですが、これはハイジャック犯からの指示でして、どうかお願い致します」
「ハイジャック犯?」
ドゥルーヴは俄に緊張した。自分は仕事中だったのだ。しかも、潜入捜査中だったらしい。ドゥルーヴが焦った途端、頭の中に涼やかな声が響いた。
【ドゥルーヴ、ここは宇宙船β一一一〇四号、通称〈姥捨山行き〉の客席です。あなたは既に警察官を退職しており、この船で惑星〈姥捨山〉へ行こうとしていますが、現在この船はハイジャックされているのです。アイマスク装着は、その犯人からの指示です。以上、脳内埋め込み型補佐人工知能ハヌマーンがお伝えしました。他に何か知りたいことがあれば、口の中で呟いて下さい。ハイジャック犯はあなた達が話すことを禁じています】
ドゥルーヴは霞がかかったような頭を横に振り、両眼の上にアイマスクを戻しながら低い声で問うた。
「犯人の目的は何だ?」
「それは、分かりません。申し訳ございません」
乗務員らしき女性は低姿勢で詫びてきたが、ハヌマーンと名乗った脳内埋め込み型人工知能は、さらさらと答えた。
【現時点で犯人の目的は不明です。しかし、緊急事態における所持者救護法が適用され、現在わたくしには必要な機器へのハッキングが許可されています。鋭意、情報収集中ですので、犯人の目的について判明したことがあれば、すぐにお知らせ致します。因みに、犯人一名は現在ここから四十八列前の、Bの〇一席に座っています。乗務員の行動により、そう推測しました】
「また何か判明したら教えてくれ」
口の中で呟いたドゥルーヴの左隣で、幼い声が上がった。
「喉が渇いたあ。ジュース取りに行っていい?」
宇宙船では通常、航行中、自由に歩ける時間帯がある。しかし、今は無理だろう。
「リピカ、ちょっと我慢するんだ」
ドゥルーヴが声をかけると、ばたばたと座席の上で暴れる音がした。
「えええ、喉渇いたのぉ」
確かに、幼い子にずっと水分を摂らせないのはよくはない。まだ傍にいる女性乗務員も同じことを考えたのかもしれない。
「ジュースは、わたくしが持ってきます。ここで待っていて下さい」
去っていく足音を聞くドゥルーヴの頭に、また涼やかな声が響いた。
【ドゥルーヴ、左隣に座っている女性は、外見は少女ですが現在百三十歳で、以前は大学で心理学を研究していたキティです。彼女は犯人捜しの協力者の一人で、他にも、真後ろの席とその左右の席の男性三人、ケン、ジョウ、カイがハイジャック犯捜しの協力者です。この男性三人は、わたくしに似たマイクロチップを脳内に有していて互いに通信しています。ただ、彼らの通信内容は、恐らく宇宙船整備士の隠語を更に三人のみで通じるよう進化させた言語と脳波や心拍などの生体信号とを織り交ぜて用いていて、高度に暗号化されており、わたくしには今のところ半分程度しか理解できません】
成るほど、リピカにしては我慢がないと思ったが、違ったようだ。だが協力者がいるとは心強い。
【声を出すことは禁じられていますので、彼らとの情報共有が重要となります。わたくしも、できる限り、彼らの暗号を解読できるように致します。因みに、わたくしへの細かい指示は、口の中で囁いて頂ければ理解できます。但し、ハイジャック犯が船内の監視カメラ映像を見ている可能性があるので、迂闊な言動は控えるべきと進言致します。以上、脳内埋め込み型補佐人工知能ハヌマーンがお伝えしました】
気がつけば消えている直近の記憶。この喪失感にも慣れてしまった。溜め息をつきながら、ハヌマーンの完璧な補佐にドゥルーヴが感謝した時、東アジア系の女性乗務員が戻ってきた。
「どうぞ」
ジュースのパックが渡されたのだろう、「少女」の声が嬉しげに言った。
「ありがとう」
「できるだけ静かにしていてね」
女性乗務員は言い残して再び去っていく。警察では心理学を用いた交渉術の講習もあったが、その基本の一つとして、大きな要求をして撥ねつけられた後に小さな要求をすれば飲まれやすいと習った。心理学的にはドア・イン・ザ・フェイスというらしい。ジュースを要求するやり取りは、その応用だろう。
「ジュース美味しいよ」
囁き声がして、左腕に二つの小さな手が縋りついてくる。そして掌に、細い指によって文字が書かれた。
[パックに伝言。犯人は〈灰縄〉。操縦席にも一人]
順々に綴られた短い文に、ドゥルーヴは目を瞠った。東アジア系の女性乗務員は、乗客名簿でキティが少女ではないことを知っていて、ジュースのパックに犯人の情報を書いて寄越したのだ。操縦席に一人犯人がいることは予想できたが、しかし、まさか〈灰縄〉とは。それは、とある犯罪組織の名称だ。
「〈灰縄〉は壊滅したのでは?」
口の中で問うたドゥルーヴに、ハヌマーンは澱みなく答えた。
【組織としては壊滅したとされていますが、〈灰縄〉には宗教的側面があり、その信徒は未だ存在しています】
ドゥルーヴは静かに深呼吸する。現役だった時に手がけた大きな事件の一つ。〈灰縄〉が人類宇宙政府の元首を暗殺しようとした。幸い〈灰縄〉内部からのリークがあり、暗殺は防ぎ止められた。しかしその後、〈灰縄〉の動機が徐々に明らかにされるにつれて、世間には政府批判が渦巻いた。
〈灰縄〉の主張は、一切の例外を認めない定年制を廃止すること。医療技術の発達で、百歳を優に超える健康寿命を手に入れた人類だが、社会構造としては課題が生じた。若年層の就職が困難となったのだ。企業によっては新人教育に費用や時間をかけることを厭い、十代二十代の採用を渋るようになってしまった。社会全体の新陳代謝が滞るようになり、職にありつけない若年層が犯罪に走るようになって、治安が悪化した。そうした中、厳格な定年制を推進したのが、剛腕と謳われた当時の元首だった。高齢層からの反発はあったが、生活優遇措置を講じて封じ込め、社会全体のためとして、断行したのだ。
「ケン達にもハイジャック犯が〈灰縄〉だと通信を」
【了解。わたくし達の通信もハイジャック犯に傍受される危険性が皆無ではありませんので、学習したケン達の隠語を用いて通信します】
補佐人工知能が、ドゥルーヴの命令に頼もしく応じて暫く。ハヌマーンが返信を告げた。
【ケンより返信。監視カメラ映像を盗み見ている。乗務員と話す犯人は一人。その犯人も乗務員の質問に即答せず間を置いて答えている。複数犯の可能性濃厚。おれ達は宇宙船の機器をある程度は乗っ取れる。以上です】
何だかんだで隠語が随分と解析できるようになったのか、通信内容が充実している。ドゥルーヴは情報共有するべく、手すりの上に載せていた左手を心理学者のほうへ動かした。相手はアイマスクをしていないので、すぐに手を握ってくれる。その小さな掌へ、ドゥルーヴはゆっくりと慎重に書いた。
[ケンより。監視カメラ映像、複数犯]
分かったという合図らしく、キティはぽんぽんとドゥルーヴの手の甲を軽く叩く。そして。
「ねえねえ、あたし、お手洗い行きたい……!」
周囲が驚いた反応をする中、キティはシートベルトを外し、すっくと座席から立ち上がった。ハイジャック犯が〈灰縄〉ということなら、〈姥捨山〉の謎とは無関係だろう。しかし、それでは、このハイジャックで自分達が〈姥捨山〉へ行くことを邪魔される可能性がある。悪くすれば、人質たる自分達は殺されてしまうかもしれない。事件解決のためには、疲れを押して動くべきなのだ。
「待て、我慢しなさい」
静止しようとするドゥルーヴの腕をすり抜けて、キティは素早く通路へ出る。乗務員達が寄ってくる前にと、走って客室の一番後方にある手洗いへ向かった。乗客達はキティ以外全員アイマスクをしているが、先ほどのキティの発言と足音で事態を悟ったのだろう。乗客達のざわめきも漣のように広がっていく。
「お客様……!」
「お待ち下さい……!」
乗務員達の狼狽えた声が追いかけてくる。キティは精一杯幼い声を出した。
「待てないの! おしっこ漏れちゃうから……!」
手洗いに飛び込むように入り、中から鍵を掛けても、無理に開かれる気配はない。キティはせっかくだからと用足しを済ませ、外へ出た。
「すぐに席へ戻りましょう」
あの女性乗務員が待ち構えていて、キティの背を押すようにしてついて来る。キティは大人しく元警部の隣へ戻り、座席へ落ち着いてシートベルトを締めた。さて、監視カメラ映像を見られるケン、ジョウ、カイは、他の犯人達を見つけられただろうか。キティは元警部と手を繋いで、報告を待った。
暫くすると、予想通り、ドゥルーヴが口の中で何か呟き、キティの掌に文字を書いてきた。
[不審人物、Gの七〇席]
キティの行動に対して不審な反応をした人間を、ケン達が監視カメラ映像で見つけ出したのだ。しかも、最も後ろの列にいたらしい。客席全体を監視しているのだろう。アイマスクをしていない乗客はいなかったので、アイマスクに細工がしてあるか、或いはケン達同様に何らかの人工知能のマイクロチップを脳内に埋め込んでいて、封じた視覚を補う情報収集ができるかのどちらかだろう。
ふうと溜め息をつき、キティは深く背もたれに体を預けた。正直、かなり疲れてきたが、まだ事件解決には道半ばだ。キティはドゥルーヴの掌に文字を書き返した。
[船外へ情報を。長短点信号で]
長短点信号は、人類が惑星〈大地〉から巣立つ前に発明されたという簡単な符号だ。長点と短点を並べることで言葉を表し、光の明滅や音の長短などで通信することができる。長短点信号を用いれば、ケン達がハッキングできる宇宙船の何らかの設備を用いて、外部へ通信を送れるだろう。それは、突入機会を狙う人類宇宙警察にとって、喉から手が出るほど欲しい情報のはずだ。元警部は返事の代わりか、前にキティがしたように軽く二回手の甲を叩いてきてから、口の中で何事かを呟いた。脳内に人工知能のマイクロチップを持っていると知らなければ、まるで何かに祈っているようにも見える。
「失礼ですが、あなたは、唯神教徒でいらっしゃいますか?」
通路の向こうから、こそりと大胆にドゥルーヴに囁いてきたのは、キティと座席を交換してくれたあの老婦人だった。キティと似たようなことを感じたらしい。しかし、唯神教徒とは、また古い宗教の信徒だ。惑星〈大地〉発祥の由緒正しい宗教である。ドゥルーヴも驚いた様子で首を左右に振った。
「あら、そうでしたか。わたくしが祈る時と似た仕草をしていらしたので、勘違いしてしまいましたわ。気を悪くなさらないでね。わたくしは唯神教徒ですの」
キティは目を見開いた。唯神教徒がこの〈姥捨山行き〉に乗っているとは意味が深い。もしかしたら、唯神教徒には、惑星〈大地〉の真相が何らかの形で伝わっているのかもしれない。キティが身を乗り出しかけた時、ドゥルーヴがまたキティの手を取って掌に文字を書いてきた。
[ケンより。不審人物は男、四十代くらい、眼鏡、黒い上着、紫色のセーター、灰色のジーンズ、厚底の運動靴。東アジア系。目にかかる癖のない短髪。痩せ型。傍を通ったキティを冷静に観察も手に発汗]
さすが教え子だ。生理心理学的にも社会心理学的にも色彩心理学的にも不審な人物をよく分かっている。キティは即座にドゥルーヴの掌へ書き返した。
[〈灰縄〉のモチーフは?]
数十秒後、ケンからの返信をドゥルーヴが急いで書いてきた。
[モチーフあり。〈灰縄〉の腕輪]
指を止めたドゥルーヴは、続けて大きく口を動かした。
主犯格だ!
キティは眉間に皺を寄せ、素早くケン達への指示を綴った。
[主犯格。船外へ至急送信]
〈灰縄〉の腕輪が、幹部クラスの象徴であることは、あの事件に関わった警察官なら誰もが知るところだった。ハヌマーンに命じてケンに通信し終えたドゥルーヴは、周囲に聞き耳を立てつつ〈灰縄〉の苦い記憶を辿る。人類宇宙政府の元首暗殺の実行犯は、百歳前後の年配者が十人だった。彼らは弱々しく穏やかな動きで元首の講演会に現れ、一酸化炭素を大量に噴霧しようとしたという。リークされた情報には実行犯や暗殺方法までは含まれていなかったが、警護を担当していた機動隊SP部隊は最大級の警戒体制を敷いていたため、年配者達が医療品に紛れさせていた一酸化炭素の小さなボンベに気づき、暗殺を防げたのだ。一方、ドゥルーヴが所属していた機動隊突入制圧部隊は、〈灰縄〉の拠点の一つを制圧した。その時の情景は今もドゥルーヴの目に焼きついている。大勢の年寄り達が、武装した自分達に立ち向かってきた。半数近くが投降の呼びかけに応じず、世間に政府の非情を訴えるためとして、爆弾や毒液を抱えて小型車や徒歩で特攻してきたのだ。凄惨な現場だった。〈灰縄〉の死者数と年齢層が明らかにされるにつれて、世間は機動隊や政府を批判するようになっていった。ドゥルーヴが〈姥捨山行き〉に乗ったのも、あの事件で思うところが多くあったからだ。
ドゥルーヴは険しく眉を寄せて口の中で呟いた。
「主犯格は、どうやって他の仲間達へ指示を出している? ケン達へ訊いてくれ」
【了解です】
端的に答えたハヌマーンは、すぐにまた告げた。
【ケンより。「船外壁の進路灯を乗っ取った。長短点信号で主犯格の情報も送信完了」以上です】
これで漸く警察が突入計画を具体化できる。微かな欠伸の息遣いが左隣から聞こえた。キティも相当疲れてきたのだろう。
【ジョウから着信】
続けざまにハヌマーンが告げる。
【「操縦士と警察との通信を傍受。犯人の要求は、刑務所に収監中の〈灰縄〉信徒の釈放。それが叶えられない場合、最寄りの資源採掘場へ〈姥捨山行き〉を突っ込ませると脅迫。警察の交渉人はナジマ。人質の一部を解放すれば百二十歳以上の信徒は釈放すると交渉中」以上です】
随分と長い文だったが、ハヌマーンはジョウ達の隠語をほぼ学習し終えたのだろう。優秀な人工知能だ。しかし、この量の情報を指で掌に書くのは大変だ。ドゥルーヴは、手を握って腕に縋りついたまま休んでいたと思しきキティの小さな掌に、できるだけ短い文に直して情報を綴っていった。キティは集中して文字を感じ取っている様子だったが、不意に体を揺らしてドゥルーヴの手に文字を書き返してきた。
[ナジマ、教え子]
どうやら、百三十歳の心理学者には、無数の教え子がいるらしい。それもそうだろう。長年教鞭を執っていたこともあるだろうし、そもそも彼女の有料講義をインターネットで視聴すれば、どこに住んでいようと、いつ再生しようと、教え子になり得る。
[優秀な交渉人]
嬉しげなキティにドゥルーヴが頷いた時、更にハヌマーンの声が響いた。
【カイから返信。「主犯格は仲間達への指示に犬笛を用いた長短点信号を使用。仲間達は受信機で指示を受け、やはり犬笛で返信している模様。受信機を全て特定すれば、犯人の所在と人数が明らかとなる」以上です】
「すぐに特定を……!」
【了解しました。カイに伝えます】
ハヌマーンはドゥルーヴの命令に打てば響くように従った。
ドゥルーヴがカイの発見をキティの掌に綴ると、すぐに手を掴まれて、細い指が返事を書いてきた。
[犯人の所在と人数が分かれば、すぐ教えて]
ドゥルーヴは深く頷いて了解した。
閉ざされた窓に映されていた花畑が、夕焼けを経て、星空に変わった。宇宙船が宇宙港〈防人〉を出航し、ほどなくしてハイジャックされてから、基準時間で八時間ほどが経過したのだ。しかし、かの老婦人の後ろの席に座るカイからの返信はまだないようだ。たかが受信機の特定にカイがそれほど手間取るとは思えない。即ち、カイが犬笛に気づいて以降、主犯格が指示を出していないのだ。
キティが手洗いに行った物音を聞いていた乗客達は、途中、我慢できなくなって声を上げ始めたが、乗務員達は、アイマスクを着けたままなら一人ずつ手洗いに行くことを許可し、騒ぎを回避した。しかし、必ず乗務員が次に誰が個室に入るかを決め、扉の外で聞き耳を立て、使用後は中を点検するという警戒ぶりである。ドゥルーヴも一度だけ乗務員に手を引かれ、用を足しに行っていたが、乗務員達は太々しい乗客達よりも明らかに緊張しているように見えた。客席ではまだハイジャック犯達は乗客達と変わりなく過ごしているが、操縦席では、爆弾か、或いは銃などの武器で以て脅迫しているに違いない。
ケン達からは、ドゥルーヴを介してハイジャック犯と警察の交渉内容が進捗のあるたび知らされた。交渉人ナジマは先に百三十一歳の〈灰縄〉信徒一人を釈放することで、人質たる乗客達に対する必要最低限の配慮を要請していた。だからこそ手洗いも容認されたのだろう。しかし水分は、キティがジュースを与えられたきり、他の乗客達には未だ一滴も支給されておらず、喉が渇いた乗客の中には飲用ではない手洗い場の水を飲んだ者もいるようだ。
交渉は継続されているが、人質解放の場所や手段、人数で難航して停滞してしまっている様子だ。それもそうだろう。人質解放の場こそ、警察が突入する絶好の機会になる。犯人達も警戒して、警察の要求を突っぱねてばかりいるらしい。それゆえ、主犯格も全く犬笛を使っていない。指示を出すまでもない状況なのだ。そのせいで、ハイジャック犯達の総数は依然として判明しない。だからこそ、警察も突入に踏み切れないのだ。
キティは休憩を終えて、元警部の顔を見上げた。八時間というのは、一つの区切りだ。これ以上は、老人達に疲労が溜まり過ぎてしまう。水分についても、まともに与えられていない状態では、乗客達が全員脱水症状になってしまう。
キティの眼差しに気づいた元警部は、悩む顔をした。揺れ動く彼の精神が、今、現役のつもりなのか退職後のつもりなのかは分からない。だが、いずれにせよ経験上、判断するべき時だと彼も分かっているのだろう。キティは唇を動かした。
わたしに任せろ。
元警部は太い両眉の間に深い皺を刻んで難色を示し、音を立てず言い返してきた。
何を言っている? リピカ、大人しくしているんだ。
何度目か、キティを娘と誤認しているようだ。キティは微笑んで大きく頷いて見せた。
大丈夫よ。リピカが犯人達を炙り出す。この犯人達は〈灰縄〉。リピカみたいな子どもに乱暴はしない。
元警部は、まだ険しく眉をひそめている。当たり前だろう。キティは、にっと笑みを大きくして元警部のごつごつした手を握り、言葉を重ねた。
リピカはお父さんの娘。犯人逮捕の役に立って見せる。それに、殆どの人が、わたし達に同調するから、まあ、見ていて。
八歳程度を演じているせいか、または充分に休めたからか、或いは、この状況下だからか、体には、近年なかったほどに活力が満ちている。
キティはシートベルトを外し、再びすっくと立ち上がった。
「リピカ……!」
低く娘の名を呼んだドゥルーヴの頭に、涼やかな声が響いた。
【ドゥルーヴ、彼女はあなたの娘のリピカではなく、生まれる前に遺伝子操作を受けたせいで若いままの姿を保っている百三十歳の心理学者キティです。今、あなたは、この宇宙船をハイジャックした犯人達を捕まえるため、彼女や彼女の教え子達と協力しています。以上、脳内埋め込み型補佐人工知能ハヌマーンがお伝えしました。尚、ハイジャック犯は、乗客達に声を出すことを禁じています。わたくしに指示をする際は、口の中で呟いて下さい】
ああ、そうだった。一瞬自失したドゥルーヴの隣で、百三十歳の心理学者は、ぎしりと軋ませた座席の上へ、どうやら立ち上がり、ドゥルーヴの頭の上から周囲へ向けて高らかに呼びかけた。
「さて、ここで問題だ。わたしはキティ・ジェノヴィーズ。きみ達のすべきことは何だ?」
そうして、キティは、記憶をたぐり寄せるドゥルーヴの鼻先に風を起こして通路に出、ゆっくりとした足音で船体前方へ向かっていった。一歩一歩キティが進むたびに、客席のざわめきが広がっていく。だが、決して騒ぎにはならない。そのことに違和感を覚えながらも、ドゥルーヴは慌ててアイマスクを外し、シートベルトも外して、自らも立ち上がった。途中、手洗いの中でもアイマスクを外したが、客席では久し振りに目を開いたので、照明が眩しく、ややふらつくような感覚がある。それでもドゥルーヴは急いで通路へ足を踏み出した。
「お客様、どうかお席へお戻り下さい」
努めて落ち着いた声で促し、女性乗務員がキティへ近づいていく。見たことのある男性乗務員も駆け寄ってくる。それでも、小柄で華奢な心理学者は怯まない。
「自分でジュース選ぶ!」
幼い声で抗議して、乗務員達の間をすり抜けていこうとする。その幼い背中は娘のリピカではないのだと自分に言い聞かせつつも、ドゥルーヴは後を追いかけた。
「すみません、うちの子が」
咄嗟に出た言葉に、乗務員達がこちらを見てくる。彼らの表情は困惑し、恐慌を覗かせていた。
「すみません、すみません」
ドゥルーヴは親になり切って謝りながら、小さな心理学者を乗務員達の手から奪い返して自分の腕の中へ抱き寄せた。
「よく言い聞かせますので」
何度も頭を下げながらキティを守って自分達の座席へ戻ったドゥルーヴの頭に、ハヌマーンの声が響いた。
【カイより。「ハイジャック犯全員の人数と所在を特定。船外へ長短点信号で通報済み。人数は五人。操縦席に二人。Bの〇一席に一人。Gの七〇席に一人。残る一人は南アジア系の女性乗務員」以上です】
ドゥルーヴは乗務員達に見張られる中、キティを窓際の座席に座らせてシートベルトを締めさせ、自身もシートベルトをしてアイマスクを着け直す。しかし、乗務員達が傍を離れる気配はない。早くキティに情報を伝えたいと焦り始めたドゥルーヴに、ハヌマーンが告げた。
【キティは、長短点信号を知っています。或いは、解読もできるかもしれません。試してみますか?】
ドゥルーヴが微かに頷くと、ハヌマーンは即座に応じた。
【了解しました。では、先ほどの情報を長短点信号に直していきます】
頼もしい人工知能ハヌマーンは、つーとん、と信号を伝えてくる。ドゥルーヴはその通りのリズムで、繋いだキティの手を、こっそりと指で叩いていった。
半ば賭けだったが、ドゥルーヴが全ての信号を伝え終えると、キティから、たーんたーんたーん、たーんたたーん、と指で返事があった。
【OK、とのことです】
ハヌマーンの通訳に、ドゥルーヴは安堵して微笑み、座席に座り直す。犯人の情報は無事に船外へ送信された。後は、警察の突入を待つのみだ。左隣からも、ふう、と安心したような吐息が聞こえた。
窓に映された星空が、いつの間にか朝焼けに変わっている。眼前に表示された画面の時間を見ると、約九時間が経過していた。キティとてパック一個分のジュースを飲んだきりなので、喉が乾き切って舌が口の中に張り付いている。しかし、これ以上の行動を起こして、ハイジャック犯達を刺激し過ぎれば、彼らの配置を変えてしまうことになる。カイから元警部を通じてもたらされた情報では、Gの七〇席の主犯格は未だ乗客の振りを続けていて、手洗いにも何度か立っている。Bの〇一席の犯人は、乗務員に言って飲み物を運ばせたり、手洗いに立ったりと更に自由に動いている。操縦席の二人は交替で手洗いに行ったり、水分を補給したりしているようだ。そして、南アジア系の女性乗務員は、F席とG席の間の通路を行き来しながら、時折キティ達に視線を送って寄越していた。乗客の言動を警戒はしていても、警察の突入を察知している様子はない。
キティはぐうっと座席の上で全身を伸ばした。いざ、人生もここまで来てみると、全てはここに来るためにあったように思ってしまう。いつまで経っても成長しなくなった体と心の関係を知りたくなって、発達心理学を学び始め、生理心理学にも興味を持ち、認知心理学や社会心理学、色彩心理学にも手を出し、そこから応用心理学の教育心理学や犯罪心理学、懐古心理学までも貪るように学んだ。特に認知心理学や行動心理学から分離独立した懐古心理学は、ここまで来た自分の道しるべになったかもしれない。
人類発祥の地たる惑星〈大地〉への憧れ。どこにあったのか、どれがそうであったのかが不明となっている謎の惑星〈大地〉。それが〈姥捨山〉に違いないと、キティ達は考えている。惑星開発を進めるために、無料の片道切符で人々を集め、出ていくことを禁じて労働者とするなど、どう考えても、おかしいからだ。人類宇宙政府は〈姥捨山〉の開発は進めたいが、その正体は隠し続けておきたいのだろう。何故なら、人類達の故郷たる惑星〈大地〉が住めない廃惑星となった理由は、人類宇宙政府の前身たる世界政府が環境を改善するためにと行なったことから始まった大失敗だからだ。人類宇宙政府は、汚点を封印しておきたいのだろう。住む人間のいなくなった惑星〈大地〉は、その所在を巧妙に情報操作で隠されていき、今では歴史上で語られるだけの謎の惑星となってしまったのである――。
とんとんとん、と背後から振動があり、キティは座席の隙間から後ろの席を振り向いた。教え子のケンとジョウが、何やら焦った様子でしきりに前の席を指差し、飲む仕草をしている。はっと気づいて、キティは傍らの元警部を見た。眠っているように見えるが、表情がやや苦しげだ。キティは慌てて元警部の肩を揺すった。元警部はゆっくりと動いたが、軽く咳き込み、明らかに気分が悪そうだ。脱水症状だ。脳の水分が失われて人工知能マイクロチップの働きも悪くなり、通信したケン達が気づいたのだろう。そう、ケン達は、必要があって今、この元警部に通信した。つまり、警察に動きがあったのだ。下手に自分達が動けば、警察の突入計画に支障を来たすかもしれない。躊躇したキティの眼前で、元警部は唐突にアイマスクを外した。
「ここは……、わたしは……」
ぶつぶつと呟き、かちりとシートベルトを外す。キティはその大きな手を掴んで元警部を振り向かせ、微笑んで言った。
「水は、あたしが貰うから、お父さんはちょっと待ってて」
「おまえは……誰だ……、リピカ……?」
怪訝そうに眉をひそめた元警部から、あの東アジア系の女性乗務員へと視線を転じて、キティは声を上げた。
「お父さんの具合が悪いの! お水下さい!」
すると、東アジア系の女性乗務員より先に、犯人と指摘された南アジア系の女性乗務員がこちらへ向かってきた。
「どうしたの、お嬢さん」
心配そうに声をかけ、キティと元警部の様子を覗き込んでくる焦げ茶色の双眸には、他を気にする動きがない。即ち、怯えがなく、犯人を恐れていない。やはり彼女も犯人なのだ。
「お父さんが、喉が渇いたって、具合が悪そうなの。お水を下さい……!」
キティは精一杯幼い声で求めた。乗務員たるこの犯人には、キティの年齢は知られているだろうが、元警部には娘だと思い込ませておいたほうが、認知症の制御がし易いと判断したのだ。
「そうかもしれない。吐き気がするのは、脱水症状の一症例だ」
元警部自身が言い添えて、南アジア系の女性乗務員を見る。
「水を一杯くれないか……?」
「……少々お待ち下さい」
安堵させるような表情を作って犯人の一人は頷くと、近づいてきた東アジア系の女性乗務員に指示した。
「水を持ってきて下さい。わたしがこちらの方を見ていますので」
「はい」
即座に頷いて東アジア系の乗務員は速い足取りで前方の飲料提供機のほうへ歩いていった。
微かな振動があったのは、その直後だった。航行中の宇宙船が僅かに揺れた程度の振動だったが、乗務員達は全員足を止め、辺りを見回す。乗客達は、口々にこそこそと話し出した。
「鞄の忘れ物を漸く回収に来たな」
「何だ、兎かと思った」
「こういう船のQCは完璧だ、それはない」
「何だ、〈姥捨山行き〉なんて特採で充分だと思ってたぜ」
「横展したほうがいいんじゃないか」
「現調化がどれだけできるんだ?」
ケン達が使うような隠語が、そこら辺中で飛び交っている。さすが年輪を重ねた集団だ。察しがいい。犯人に勘づかれないよう、突入の予告は人質に対しても行なわないというセオリーも、半ば無駄になっている。キティも犯罪心理学を教える際に講義相手を知っておこうと学んだ隠語を用いて、元警部に小声で状況を知らせた。
「緊配されたPCが密行してきた。この船は大きな忘れ物を積んでいるから」
「緊配」は「緊急配備」。「PC」は警察車両から広く警察の乗り物全般を指す。「忘れ物」とは犯罪者。「大きな」を付けると、強盗犯などの凶悪犯を意味する。キティの言葉に驚いたように目を見開いた元警部に、ケンが叫んだ。
「その乗務員も忘れ物だ! 警部、頼む!」
大柄な元警部は、熊のように立ち上がると、南アジア系の女性乗務員をあっと言う間に組み敷き、自分のベルトを素早く外して後ろ手に縛り上げた。さすがの手並みだ。同時に、後部ハッチから警察の突入があり、Gの七〇席の主犯格を押さえ付け、Bの〇一席の連絡役の犯人に対しても、通気口を通って真上に現れた機動隊員が拳銃を突き付けた。操縦席のほうでも物音が聞こえたので、同じく通気口からの制圧劇があった模様だ。だが、安心している暇はなかった。その直前に、操縦席からマシンガンを持った男が一人出てきていたのだ。操縦席へ警察が突入する直前に、偶然、飲み物を求めてか手洗いのためか、出てきてしまったらしい。閉じた扉の向こうでは警察が焦っているだろう。出てきてしまった犯人は、騒ぎに気づいてすぐにマシンガンを構え、操縦席からは死角になる飲料提供機のこちら側に陣取った。その銃口はBの〇一席の犯人に拳銃を突き付けた機動隊員へ向けられる。その機動隊員の背後にいるのは、大勢の乗客達だ。そのまま、マシンガンの犯人は裏返った声で命じた。
「乗客に発砲されたくなかったら、誰も動くんじゃねえ! 警察、操縦席から出てくるなよ! おれは容赦しねえぞ! 乗客を殺されたくなかったら、さっさとこっちの要求を呑んで、おれ達の仲間を釈放しろ! 釈放が三十分以内に確認できなかったら、おれは無差別に発砲する! 警察どもが不用意に動いても、おれは無差別に発砲する!」
キティは溜め息をつき、元警部と南アジア系の犯人の横をすり抜けて、ゆっくりとマシンガンの男に歩み寄っていった。始め、男はキティなど眼中にない様子だったが、Bの〇一席のところまで行くと、さすがに認識したらしく、声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、それ以上動くな。死にたくなかったら、じっとしているんだ」
「『お嬢ちゃん』とは、御挨拶ですね」
キティは薄笑いを浮かべて応じる。
「わたしは、今年百三十歳ですよ。今では違法となっている遺伝子改造を施されて生まれたので、いつまでもこんな外見ではありますが。この船には、〈姥捨山〉に骨を埋めようという、そういう老人ばかりが乗っているのです。それなのに、あなたは収監されている〈灰縄〉の仲間達が三十分以内に釈放されなければ、或いは警察が不用意に動けば、わたし達を無差別に殺すという。矛盾していませんか? 〈灰縄〉の理念とは、一体何なのです?」
マシンガンの男は険しく顔をしかめ、吐き捨てた。
「おまえが百三十歳なんて信じられるか!」
「分からないなら、わたしが替わりに〈灰縄〉の理念を説明してあげましょう」
キティは尚も僅かずつ歩を進めながら語る。
「〈灰縄〉は、惑星〈大地〉に人類が住んでいた頃の伝説に基づく名称です。ある国を支配する権力者が、老人は食べるばかりで役立たずだと言い、一定年齢以上に達した老人を山に捨てるようにと命令を出しました。国民はその命令に従い、老人達を捨てる山は〈姥捨山〉と呼ばれるようになりました。しかし、とある男は、年老いた母親を捨てることができず、家の地下室に匿ったのです。ある時、その権力者は隣国から難題を提示され、それができなければ攻め滅ぼすと脅されます。権力者は国中にお触れを出して、その難題を解ける者を探しました。その難題は幾つかありますが、その一つが、灰で作った縄を持ってこいというものです。母親を匿う男が、難題を母親に話すと、母親は板の上で縄を燃やせば形のまま灰になる。それを板に載せたまま持っていけばいいと言いました。男がその通りにすると、隣国は驚き、こんな知恵者がいる国は滅ぼせないと攻めてくることを諦めました。権力者が男に褒美をたくさん与えたところ、男は母親から教わったことを明かし、権力者は老人の知恵が尊いものであることを知って、お触れを撤回し、以降、老人を大切にしたという伝説です。つまり、〈灰縄〉の理念とは、長い生涯をかけて知恵を蓄えてきた老人達を大切にせよというものですよ? それなのに、あなたが今していることは何ですか?」
かなり距離を詰めたキティに、マシンガンの男はつい気を取られ、発砲することもできずにいた。大いなる隙だった。キティの視界の隅で、座席に隠れてにじり寄っていた乗客達が、男の左右から一斉に襲い掛かる。どちらに銃口を向けるべきか一瞬迷った犯人は、発砲する前に取り押さえられ、マシンガンも床に転がされた。だが、驚いたのは犯人だけではない。Bの〇一席の犯人に拳銃を向けていた機動隊員もまた、予想しなかった乗客達の行動に驚いて、マシンガンの男のほうへ銃口を向け直したのだ。半瞬遅れて、Bの〇一席の犯人が転がったマシンガンに飛びつくように手を伸ばす。その手をばちんと鋭く弾いたのは、素早く走り寄ってきた元警部が握るペンから発射されたゴム弾だった。間髪入れず、元警部はBの〇一席の犯人に馬乗りになって制圧する。認知症になろうとも、長年鍛えた判断力と肉体に衰えはないようだ。天井の通気口からは残っていた機動隊員達が飛び出してきて、宇宙船〈姥捨山行き〉ハイジャックは、漸く終わりを迎えた。
乗っかった自分の股の下で動こうとする犯人を軽く殴りつけ、他の機動隊員達に引き渡したドゥルーヴは、愛用の多機能ペンを胸ポケットに戻し、どっかりとその場に座り込んだ。自分は私服だ。潜入捜査の途中だったか、或いは休暇中に事件に巻き込まれたのか。記憶がはっきりとしない。吐き気がして気分が頗る悪い。
「これを飲みなさい」
目の前に突き出されたのは、すぐそこの飲料提供機から取ってきたらしい清涼飲料水のパック。確かに、自分が感じているのは脱水症状の一症状だと気づき、ドゥルーヴはパックを持つ少女を見つめた。金髪を頭の左右で括った北ヨーロッパ系の少女は、八歳ほどに見える。髪や肌の色は違うが、目鼻立ちがリピカに似ている。家事ロボットに世話されながら、ドゥルーヴの帰りを待っているはずだ。早く帰ってやらなければ。ドゥルーヴはパックを受け取って、甘露のような清涼飲料水を飲み干した。
「ふう」
一息ついたドゥルーヴに、少女は飲料提供機から同じパックを取ってきて押し付けてきた。
「もう一杯飲みなさい」
「ありがとう」
ドゥルーヴは感謝して、もう一パックも時間を掛けて飲み干す。人心地が付いた気がする。直後、頭に涼やかな声が響いた。
【ドゥルーヴ、大丈夫ですか? わたくしは脳内埋め込み型補佐人工知能ハヌマーン。あなたが脱水症状に陥っている間、機能不全を起こしていました。あなたの目の前にいる少女に見える女性はキティ、百三十歳の心理学者です。遺伝子操作を受けて生まれたため、外見年齢が若いだけなのです。あなたは既に警察を退職しており、現在は百八歳。認知症を患い、娘のリピカに迷惑を掛けずに余生を送るため、この宇宙船〈姥捨山行き〉に乗っています。先ほどまで、この〈姥捨山行き〉はハイジャックされていましたが、あなた方の御活躍と警察の機動隊のお陰で、犯人は全員捕縛されました。他に何か知りたいことは?】
「わたしは、何故、リピカを置いて……、リピカと離れて暮らすことを選んだんだろう……?」
問うたドゥルーヴにハヌマーンが答え始めた時、被せるようにキティが告げた。
「認知症になれば、判断力も弱くなります。幾ら人工知能の補佐があろうと、重要な決断をするべきではないかもしれません。幸いなことに、この〈姥捨山行き〉はハイジャックされたので、一端、宇宙港〈防人〉へ戻されることでしょう。それに、もしかしたら、惑星〈姥捨山〉は、片道切符で行くところではなくなるかもしれません」
「確かに、この事件が明るみに出りゃ、惑星〈姥捨山〉について調べる輩も増える。惑星〈姥捨山〉が〈大地〉だと判明するやもしれませんなあ」
明るく口を挟んできたニット帽の男性は、誰だっただろう。周りにいて、犯人制圧を行なった老人達も、口々に、そうだそうだとキティに話しかけていく。ドゥルーヴは一言言っておかなければと少し声を大きくして責めた。
「あなた方は無茶が過ぎる。素人集団でハイジャック犯を捕らえようなどと」
しかしキティは眉を上げ、可笑しそうに言い返してきた。
「『素人集団』と一概には言えませんよ。ここにいるウィリアムは元警備員、こちらのミンは元軍人です。犯人達の情報を警察へ伝えてくれたのは、宇宙船の整備士をしていたケンとジョウとカイ。みんな、しっかりとした経験と知恵を持つ、社会の宝ですよ」
ドゥルーヴは眉をひそめた。
「みなさん、お知り合いですか?」
「乗客の三分の一くらいが、わたしの教え子なのです」
キティは楽しげに告げる。成るほど、心理学を学んだ人々の職歴はさまざまという訳だ。
「みんな、あなたのファンですから!」
ジョウと紹介された男性が、短い口髭を生やした日焼けした顔に、満面の笑みを浮かべた。集まってきた老人達は、男性も女性も性別不明な人々も、みな一様に大きく頷き、口々に歓声を上げている。
「あなたの統率力と、制圧の見事な連携の理由は、そういうことでしたか」
肩を竦めて降参したドゥルーヴに、心理学者は教師らしい口調で告げた。
「わたしが講義で教えたことの一つは、集団で動くことの危うさと強さです。かつての惑星〈大地〉で、キティ・ジェノヴィーズという女性は一人の暴漢に刺殺されました。多くの傍観者達が、互いに誰かが通報するだろうと無視を決め込んだ約三十分間で。わたしは、どの心理学を講義する際にも、人と人との関わりと、そのネットワークが広がった結果の集団の在り方について、学生達に問いかけてきました。ですから、学生達――わたしの教え子達は、決して無視を決め込まない。決して、単なる傍観者にはならない。彼らはみんな、その場で僅かでも自分ができることをするのです」
そこで、キティは苦笑する。
「そうして教えたはいいですが、何を思ったか、ここにいるみんなは奇特なことに、わたしと一緒に〈姥捨山〉に行くそうですよ」
「あそこは〈姥捨山〉じゃなく、〈大地〉ですからな」
カイと紹介された丸坊主で大きな目をした男性が、ニット帽の男性――ケンの横から言ってきた。
「成るほど。乗客の身元確認がいい加減で、随分と乗り込み易い船だと思っていたが、そんな謎が隠されていた訳か」
相槌を打ったのは、機動隊員に縛り上げられ、連行されようとするBの〇一席の犯人だった。その顔を見上げ、金髪の心理学者は軽く驚いたように問うた。
「きみは、Gの七〇席の犯人と一卵性双生児ですか?」
「無駄に生まれたクローンだ。おれもあいつもな」
冷笑して、壮年の男は黒髪の下に覗く両眼を眇める。
「単なる医療上の事故だ。だが、生まれてしまった者を殺してはいけないという法律がある。親は、同じ顔の子どもは一人で充分で、三人もは要らないと言った。だから、おれ達は捨てられて、引き取ってくれた爺ちゃん婆ちゃんに育てられた。〈灰縄〉が壊滅させられた時、おれはまだ十五歳だった。爺ちゃん婆ちゃん達はみんな、おれ達にだけは逃げろと言って、自分達は機動隊に無茶な抵抗して……」
「さっさと歩け」
突入部隊の機動隊員達が男を乱暴に引っ張る。だが男は口を止めなかった。
「あの爺ちゃん婆ちゃん達が何をした? 定年退職させられて、碌な経済力もないのに、おれ達、行く当てのない子ども達を住まわせ、食べさせ、何くれとなく世話を焼いて、自分達が人生をかけて学んできたことまで、惜しげもなく教え込んでくれた。政府は、あの爺ちゃん婆ちゃん達に何をした? 人生をかけた仕事という生き甲斐を、誇りを、容赦ない定年制で傷つけて奪って、碌に年金も支払わなかった。あの元首を殺しに行って何が悪い? あっちが先に、爺ちゃん婆ちゃん達の生き甲斐を奪って殺そうとしたんだ。実行犯に志願した爺ちゃん婆ちゃん達は、他のみんなのために命を張った。そもそも、殺す気もなかったかもしれない。ただ、大事件になって、老人達がどんな思いでいるかを世間に知らしめたかったんだ。でも、世間が元首や政府を非難したのは、ほんの一時だった。〈灰縄〉のことは忘れ去られて、今日もこうして、〈姥捨山行き〉に乗るあんた達がいる。だから、おれ達はこのハイジャックを実行したんだ。でも、おれ達が思っていたのとは、少し違っていたんだな」
東アジア系の細い目を、男は更に嬉しげに細める。
「さっき、あんたが語った伝説は、爺ちゃん婆ちゃん達からも聞いたことがある。惑星〈大地〉の伝説だって、爺ちゃん婆ちゃん達も言っていた。〈姥捨山〉が、〈大地〉なのか?」
「わたしとわたしの教え子達は、そう確信しているのですよ」
キティは小さな胸を張る。
「われらが故郷たる〈大地〉はどこにあったのか、どの惑星なのか、古くから続く論争ですが、わたし達が調べた結果では、十中八九、〈姥捨山〉は〈大地〉だろうという結論に至りました。周辺の惑星の配置、銀河系の中の位置、一つきりの衛星、人が住める大気組成。ただ、その地表に文明の痕跡は見当たらず、わたし達の持ち込む物は、居住ドーム外に出せば、一晩の内に残骸となってしまうという、恐ろしい微生物達が住まう惑星。でも、その微生物達は、かつての世界政府が惑星中に撒いたものの子孫なのです。かなり変異はしていますが」
キティの説明に続けて、上品そうな老婦人が口を開いた。
「それは、われらが唯神が与え給うた罰ですわ。元々は、〈大地〉を蝕むプラスチックという厄介な石油製品を分解する真菌類を世界政府が〈大地〉に撒いたのですが、それがどんどんと変異を繰り返し、コンクリートも金属も容赦なく蝕んで、思い上がった人類の文明を破壊し尽くし、最後には人類自身に牙を剥いたのですわ。でも〈大地〉は唯神がわたくし達に最初に与え給うた〈約束の地〉。悔い改めたわたくし達は、いつかかの地に帰るべきなのです。それで、わたくしはこの船に乗ったのですわ。まさか、同じ考えの方々がこれほどいらっしゃったとは思いもしませんでしたが」
「まあ、わたしは唯神教徒ではありませんが」
心理学者は、さらりと一線を引いてから、突入部隊の機動隊員に両側を挟まれた男、そして同様の南アジア系の女にも視線を向ける。
「彼女が乗務員として、この〈姥捨山行き〉に配属されたことを機に計画を立てたのですね。彼女の眼差しからは、きみに心酔していることが読み取れます。恐らくきみ達と同じように〈灰縄〉の方々に世話をされた子なんでしょうね。一番後ろに座っていた子も同様でしょうか」
溜め息をついて、言葉を継ぐ。
「全く、若者は短慮でいけません。〈姥捨山〉へ、惑星〈大地〉の謎を解いて蘇らせるために、わたし達は自分の技能を最大限活用しに行くのです。長年の付き合いがある、人生の仲間同士で。楽しそうでしょう? 勝手に憐れまないで下さいね?」
愛らしく微笑んだキティに言葉を失った男の頭へ、心理学者は手を伸ばし、ゆっくりと黒髪を撫でた。
「そして、もしよければ、将来的に〈姥捨山〉に来なさい。それまでに、わたし達があの惑星の謎を解き明かし、出入り自由で、とても住み易いところにしておきますから」
「――できるだけ早く行く」
低い声で応じた男を、機動隊員達が後部のほうへ引き立てていく。男は振り向いて、はっきりと言った。
「そして、あんた達と、楽しい人生を、自分の技能を活かす人生を、送りたい」
「待っています」
「待っている」
「待ってるぜ」
「待っていますよ」
「待っていますわ」
キティの声に、教え子達の声が重なる。そこへ、ドゥルーヴも声を重ねた。
「わたしも、いつか、娘と孫を連れて、あなた達を追いかける」
文字数:25495
内容に関するアピール
姥捨山の伝説は、日本に限ったものではなく、世界各国にあるもののようです。どこにでも姥捨行為があり、年配者を大切にしようとする心もあったのでしょう。それは、未来も同じかもしれないと考えて書きました。加えて、邪馬台国のロマンのような要素を加えて、話を組み立ててみました。将来、人生が長く長くなっても、楽しく充実した時間を過ごせたらと思います。
文字数:169