エゴイスト

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エゴイスト


 
 究極のエゴは世界平和である。
 アクタはふと思った。
 人工太陽がつかのまの休憩に入ると、空は無数の星の光で満たされた。この星は大気がない。宇宙との間を不可視フィルターで隔て、人工的な大気を作っている。アクタはフィルター越しに夜空を眺めた。赤い星、青い星、白い星。ばらばらの大きさで瞬き、空に巨大なミルキーウェイを形作っている。
 流星が過ぎ去るのを見守るとアクタは踵を返す。
 彼の住居、コクーンカプセルは月を模した球体だった。室内は人工洞窟になっており、家具らしいものは岩でできた椅子と本棚だけだった。部屋の中央にバランスボール大の球体『カツミ/トシノ』とアクタが呼んでいる機械があった。カツミ/トシノは高度時空演算マシーンだった。
 静かな低い機械音を聞きながらアクタは球体を見つめた。球体は青い。ソル二二三、地球と呼ばれた惑星にそっくりだった。地球は彼が最初に殺戮した星だった。彼自身はかつてそこに住んでいた。そしてその星を作った者を殺した。その殺害動機がアクタが超時空種族たちに選ばれた理由だった。
 微動が止む。カツミトシノの計算が終わった。
 アクタは指で画面を弾き、腰に差した日本刀を持ち上げる。この刃で彼は宇宙ごと改変分岐点を突破した星を殺戮するのである。
 短く深呼吸。
 込みあげてくる苦痛に彼は唸った。涙は出ない。あの場所で暮らしていたのは遥か昔のことだ。けれど彼は今でもその頃のことをありありと思い出せる。瞼の裏に思い出が映った。
 あの頃、アクタは吉田芥太という名前の人間だった。

 手紙なんて柄じゃないが書く。
 せめて死ぬ時の流儀だから。
 まずは打ち明けてくれてありがとう。あんたが神様だってことまだ誰にも言ってないよ。あんたは神様で、いや宇宙人のが正しいのか?まぁどうでもいいか。あんたはこの日本を良くしようと頑張ってきた。でも水没が始まって失敗に気付いた。あんたは死ぬほど後悔してる。でも自分で死ねないから私に頼んだ。信頼してくれてありがとう。でもごめん。まっぴらごめんだ。私はお先に死ぬよ。世界が終わるところもあんたが死ぬところも見たくないんだ。私はすっごく弱いから。それじゃみんなによろしく。

 高杉春風より

 追伸 あんたにあげる。あの子の事よろしく。

 僕は電車の振動音で目が覚めた。
 思わず左右を見回した。一瞬、どこにいるのかわからなくなった。電車の振動が背中から足から伝わってきた。僕は電車で旅をしている最中だった。今は春休みで、もうすぐ高校一年生になる。地元の萩から遠出したのは今回が始めてだった。電車に計画は一か月前くらいから始めていた。行先も東京と決まっている。東京はかなり早いスピードで水没しはじめているらしいから行っておかないといけないと思った。けれど他に何をしたいのかも分からなかった。
 ドアが開くとそこから花びらが数枚吹き込んできた。薄ピンクの花びら。桜の花。
 桜の花と言えば、僕の家の筋向いに木造アパートがあって、その敷地内に細い桜の木が立っていた。物心つくころからその桜はずっとあった。
 四月のある日、桜の木の下に見知らぬ男の子が立っていた。視線に気が付くと男の子は僕に笑いかけた。
「お前。名前は?」
 その子は煙草を蒸かしていた。もちろん違法だけど、僕はそういうのに目くじら立てるタイプじゃない。
「東京からの子ちゅーのは?」
「俺の事だな」
 彼は困ったように眉を寄せた。近所で噂になっていたのを思い出す。煙草を吸っているけど、荒んだ感じがあんまりない。涼しい声に涼し気な顔立ち、切れ長で黒々とした目がじっと僕を見ていた。僕は妙に照れてしまった。
「名前、なに?」
 もう一度言われたので、僕は精一杯の声で答えた。
「吉田芥太。おめぇは?」
 男の子が煙を吐き出す。
「土方斗羽」
 彼は短くなった煙草を靴の裏で踏みにじった。
「学校ではよろしく」
 彼は錆びた階段を駆け上がった。花びらに彩られた男の子、斗羽くんの横顔はすごくきれいだった。地球の存在じゃないみたい。
 僕と斗羽くんが仲良くなれたのは公ちゃんとハルのおかげだった。
 公ちゃんは議員一家の木戸家の子。捨て子の僕と仲良くするような家柄じゃない。僕がラッキーだったのは僕の養母が吉田翔子という松下塾という私塾の先生で、公ちゃんの一家と関りが深かったからだ。公ちゃんの本名は木戸公太郎。本当は小五郎になるはずだったけど、長男で五がつく名前はないだろうってことで公太郎になったらしい。
 ハルはボーイッシュな女の子で僕より背が高くて面長だからよく男の子に間違えられていた。ハルの実家も地元有数の名家で、本名は高杉春風。幕末の英傑、高杉晋作の俳諧名だって聞いたことがある。僕はどこの馬の骨ともわからない捨て子でふたりはすごいお家の子供。僕たちは地元じゃちょっと浮いていた。
 僕とハルと公ちゃんと斗羽くん。
 転校生だった斗羽くんの自己紹介はいまでもよく覚えている。
 五月の連休明けだった。
 斗羽くんは声変わり途中の声は絶妙に低くてかっこいい。スポーツマン風の髪型にニキビひとつない白い肌だった。都会の子って感じだった。
「土方斗羽です。東京から来ました。趣味は音楽を聴くこと。わからないことがたくさんありますが、よろしくお願いします」
 無難な自己紹介だった。明るすぎず、暗すぎず。斗羽くんが着席するまで教室はざわざわしていた。女の子は妙に緊張していて、男子も相手が規格外に美形だから驚いて茶化す言葉もでなかった。
「なんじゃ。感じ悪いのぉ。都会のもやしっこやけぇ」
 クラスの皆に聞こえるようなだみ声が聞こえた。その子は好き嫌いがはっきりしていて公ちゃんとは違う形でクラスを引っ張るリーダーみたいな子だった。その子がそういえばそういう印象になってしまう。斗羽くんは転校初日の午前中、誰からも話しかけられることはなかった。
 
「お弁当を一緒にどうだ」
 斗羽くんをお昼に誘ったのは公ちゃんだった。
 真面目腐った喋り方なのは公ちゃんのいつもの感じなんだけど、いつにも増して声が固かった。公ちゃんはクラス委員長として転校生を孤立させちゃ駄目だって思ったみたいだった。緊張しているからか、公ちゃんの声は怒っているようにも聞こえた。斗羽くんは突然話しかけられたので驚いでいて、目をぱちぱちさせていた。
「どうした?」
 公ちゃんが眉をしかめる。公ちゃんは眠そうな垂れ目だけど眉が吊り上がっているから睨むと怖い。斗羽くんはあんまり物怖じしないタイプなのかなぜか照れたように笑った。
「いや、お昼、誘ってくれると思わなかったから」
 斗羽くんが言うと、公ちゃんはかっと目を見開いて大声をあげた。
「なんとなくだ。それに東京弁の練習にもなるしな」
 東京弁のくだりは言い訳だと思う。ただ、公ちゃんは僕とハルが地元言葉を話すのに、ひとりだけいつも標準語をしゃべっていた。いづれ国会議員になると親に言われているからかもしれない。
「やっぱりあっちとイントネーション違うんだ」
 斗羽くんに悪気はないんだろうけど、公ちゃんはカチンときたみたい。眉間の皺が深くなった。僕は居たたまれなくなってふたりの間に割り込んだ。
「僕、公ちゃんといつもいっしょに食べよるけぇ。ええかな?」
「ありがとう。すげーうれしい」
 斗羽くんが言った。会話が弾まない。気まずさに耐えかねた僕は、斗羽くんの机に無理やり机をくっつけて弁当箱を開いた。にやにやしながら僕たちを見守っていたハルも椅子を引き摺ってやってきた。
「あんた煙草の匂いすんね」
 ハルが言うと斗羽くんはびくっと肩を揺らし目を反らした。ハルは中学生になってから煙草を吸っている。ハルの家は厳しいおうちだ。門限も成績もなにもかも。せめてもの反抗で煙草を吸う。プロテスタントの教会牧師さんが煙草をこっそり渡してくれているらしい。東萩の側にある教会だった。
 僕は斗羽くんを盗み見る。斗羽くんの都会のオーラが消えたら、ハルや教会の子たちみたいな暗いところが見えるのだろうか。
「あたしも吸うけぇ。気にせんと」 
 ハルはカバンから潰れた菓子パンを引っ張り出す。鞄の底に立派なお弁当が埋もれている。僕は勝手にハルの鞄からお弁当を取り出して机の真ん中に広げる。ハルは家政婦さんの作ったお弁当を嫌がった。でも食べないと勿体ないから僕と公ちゃんで食べる約束になっている。公ちゃんは机が埋まるくらいの大きさのドカベンを広げながら言った。
「なんだ。食べないのか」
「こういうの慣れてないから。いつもこうなのか?」
 斗羽くんはさらに困ったように僕に目くばせした。
「えーっと。まぁそんな感じ。仲よぉしたっちゃ」
 おずおず言うと、斗羽くんはそういうもんか、と呟いた。
 僕はミートボールをつつく。斗羽くんのお弁当はアルミホイルに包まれていた。中身はおかかのおにぎりとプチトマトだけだった。
「もっとようけ食べなさい」
 公ちゃんが唐揚げを斗羽くんのアルミホイルに投げた。公ちゃんの唐突な行動に僕は冷や汗をかいたけど、斗羽くんは公ちゃんのノリが分かってきたのか素直に受け取った。
「ありがとう。そういえば、ようけ、は方言だぜ」
 ちょっとからかうような口調だった。
「なんじゃ。上からかっちゃ」
 ハルは口では文句を言ったけれど、目が笑っているのを隠していなかった。斗羽くんの切り返しはハル好みだったみたいだ。
「東京人はお高くていけない」
 公ちゃんもそれほどむきになってはいなかった。
「東京ってぶちすごそうじゃのぉ」
 僕が言うと、斗羽くんは首を横に振った。
「それは違う。本当にすごいのは関西なんだ。東京にはなんにもない。文化も、歴史も。ターミナルみたいな空っぽの都市だ」
 斗羽くんの言葉を新手の嫌味かと一瞬考えたけど、その顔があんまり悲壮だったから僕は本心なんだって思った。
「ふーん」
 ハルは黙々と食べる公ちゃんに肘鉄をした。公ちゃんは満足そうに笑って
「そうだろう。萩には何でもある。文化も歴史も。だからこれから跳ねる。逆転の時だ」
 と言った。
  


  
 益田駅の駅舎から古い家々を眺める。日本風のものと石積み住宅と言われるフランス風の家が並んでいた。
 現行政権を徳川幕府という人は誰もいないけれど、実質的にはいまも徳川家の周辺人物が政治をやっている。益田駅は島根県の石見地域の駅で、僕ははじめて県外にやってきたと実感した。再開発が進み、駅はあちこち工事をしていた。この辺りは毛利家の領地、長州藩の管理下で、尊王攘夷の志士を多数生んだらしい。毛利家は長州藩というかなり広大な領土をおさめていたお殿様だった。関ヶ原の戦いが始まった時、僕の地元を含む領域は毛利家の土地で、彼は徳川家康について東軍として戦った。譜代大名となった毛利家は老中に任用され、幕府の中心で活躍した。
 僕は勉強の中では社会が一番得意だ。特に日本の歴史。
 なぜなら養母の先生が歴史学者だったからだ。大学に行ったり、本を書いたりはしていないけれど、公ちゃんがそう言ってたから間違いない。
「もし歴史に『もしも』があれば、日本を刷新していたのはきっと長州藩だったことでしょう」
 先生はいつもそう言った。
 萩を中心とした長州藩は、江戸幕府に無謀な戦いを挑み惨敗していった。先生が言うには、長州藩の失敗は尊王攘夷に燃える志士たちを止められなかったことだそうだ。
「私が生き抜いて歴史を記述することが、ご先祖の為になるのです」
 先生のご先祖様は吉田松陰。先生のルーツを説明するには長い前置きが必要だった。
 幕府は成立当初から海外への渡航を積極的に行っていた。嘉永元年にアメリカに到達した。大いに衝撃を受けた幕臣たちは、対策を講じる必要に迫られた。同じころ大陸からの侵略が相次いで、太平洋側は戦乱に巻き込まれた。海の向こうの国が日本を狙ってくる。早い段階で異国の脅威を目の当たりにした幕府は国防に対する意識を強く持っていた。
 そこで幕府は、中国大陸でアロー戦争に勝利した第二帝政期フランスと連携し、実用的な軍艦を作った。だから嘉永六年の黒船の来航は幕府にとってそれほど脅威とはならなかった。兵法も西洋兵法に切り替えた。西側のメンタリティを大いに幕府が取り込んだからだと言われている。兵法の指導者として大陸との距離が最も近かった長州藩の人が選抜された。登用されたのが、先生のご先祖様、吉田松陰だった。吉田松陰は井伊直弼と共に、日米修好通商条約を退けた。
 雲行きが怪しくなったのは安政二年。吉田松陰をはじめ長州藩の人々は次第に攘夷に傾くようになる。傾倒の理由は研究者の間でも長年の謎とされているらしく、先生は何らかの『外圧』としか思えないと言っていた。結局、長州藩は朝廷が幕府を支持した事で逆賊となり、吉田松陰は自分自身の指導で作られた軍隊『新撰組』に敗北した。
 新選組の陸軍奉行は近藤勇。
 奉行並みは土方歳三。
 吉田松陰は函館まで逃げ延びたんだけど、結局、五稜郭門外で切腹をした。その時の介錯人が土方歳三だったらしい。生き延びて政治家になった桂小五郎こと木戸孝允は後世、恨み節を延々と書き連ねているらしい。僕は読んだことがないけれど、公ちゃんとハルは読んだって言っていた。
 土方と言えば、斗羽くんの苗字は土方だった。
「なんかごめんな」
 何気なく家族の話をしていた時だ。僕の養母が吉田松陰の末裔だと知ると困った顔をした。僕はくだらない、関係ないよって言いった。でもくだらないって思えたのは僕が捨て子だからかもしれない。学校のみんなは斗羽くんに冷たかった。歴史の影響を受けていたのかもしれない。

 歴史の影響を受けてるのは人だけじゃないのかもしれない。萩という街もぶち影響を受けていた。
「今度うちが資料館になるんだ」
 公ちゃんにしては珍しくハイだった。
 中学生になる少し前だったと思う。
 次の大河ドラマの主役が、桂小五郎に決まった。市や商工会は躍起になって観光業に力をいれようといきり立っていた。それに倣ってか公ちゃんの家は一部一般公開することになった。桂小五郎の生家で、古い木造の平屋で観光地にぴったりに見えた。
 公ちゃんの家族はいっつも忙しくしていた。
 僕たちが四歳くらいの頃が一番忙しそうだった。公ちゃんのお父さんが参議院議員に選ばれるかどうか時だった。中国地方で支持されている『明倫館党』の党員として選挙区選挙に出馬した。忙しい一家の代わりに、先生が公ちゃんの面倒を見た。
 公ちゃんは昔から頭が良かった。先生と公ちゃんはなんだか友達みたいだった。
 ある日、ふたりで庭で遊んでいた時だ。先生がもぎたての夏ミカンをもってきた。公ちゃんは夏ミカンを見ると、
「せんせい、ナツダイダイはおしごとのないおさむらいさんのためのものなんだ」
 としたり顔で言った。先生は微笑ましそうに笑っていた。
「おや。よく知っていますね。その通り。黒潮で流れて来た夏蜜柑は職のない武士たちの救済措置として栽培が奨励されたのです」
「けれどそれではほこりがたもてないはずだ」
 その時、僕は公ちゃんと先生が何を言っているのか分からなかった。
「その通り。誇りは大事ですね。福沢諭吉曰く、内に痩せ我慢なきものは外に対してもまた然るらざるを得ず、万世の士気を緩める罪を犯すべからず」
 江戸城の決戦のことですよと先生が補足した。
 江戸時代の終わり(歴史学的には江戸時代はまだ終わっていないみたいだけど)幕府は多くの死者を出しながら、江戸城は開城しなかった。勝海舟の無血開城の試みは失敗した。その歴史的事実を福沢諭吉が称えた文章の引用だった。
「瘦せ我慢は合理主義とは合わないけれど長い目で見ると本当は大事なものだったんですよ」
 先生の白い指が夏ミカンの皮を剥いている。
「さぁ。折角ですからこれをお食べなさい」
 先生が向きたての果肉を手渡した。僕は甘酸っぱい果肉を頬張った。でも公ちゃんは受け取らなかった。
「やせがまんだ」
 公ちゃんはそう言った。ちょっと涙目だった気がする。公ちゃんがお父さんと同じ、政治家を目指し始めたのはこの日からだったような気がする。公ちゃんは痩せ我慢と言って、色々なことをぐっと堪えた。
 友情も多分恋も。
 公ちゃんは小学生のある時期まで確実にハルが好きだった。毎日送り迎えをしていた。晴れの日も雨の日も。でもハルに告白したりしなかった。
「これからはハルは女の子だからお前が送り迎えするんだ」
 中学の入学式で僕はハルの面倒係を引き継いだ。文句は言わなかった。それが公ちゃんなりの恋愛のケジメだって思ったから。
 斗羽くんが転校してきてから四人で遊ぶことが増えた。でも送り迎えのことがあるから帰りはいつも二人一組にばらける。
 僕はハルを自転車の後ろに乗せて登下校した。その日もいつも通り、ハルと一緒に下校していた。ハルは萩西中から菊屋横丁までは数分だけど、自分より頭一つ大きい女を乗せて走るのは骨が折れた。
「重いっちゃ!」
 ハルから肘鉄を喰らった。リアキャリアに跨ったがハルがヤニ焼けしたガラガラ声で文句をいうので、僕は黙々と漕いだ。
「あー! えらい!」
 ハルは僕の背中に自分の背中をさらに押し付けた。女は理不尽だけれども、守らねばならない。先生にそう教えられている。先生は僕にそう教えた時、例として家の庭で暮す野良のちび猫二匹を出してきた。雄の猫はびびりだった。でも雌の猫に人が近寄るとへっぴり腰でシャーシャー鳴きながら威嚇するのだ。猫でもできることを人間がしない理由はない。それが先生の意見だった。僕もそうかなって納得してる。
「ハギの花。きれいじゃの」
 何事もなかったかのようにハルが上機嫌で言う。気持ちがころころ変わるのはいつものことだった。鼻先を桜の花びらが撫でていった。菊屋横町の白壁に瓦屋根。まばらに実った夏みかんの横に満開のハギが道に突き出るように咲いていた。ハルは花を愛でながら
「先生に早う謝り」
 と言った。
 口に苦い味が広がった。先生と喧嘩したばかりだったからだ。毎年、吉田先生と門下生で遠足に行くのが恒例行事なんだけど、僕はどうしても行きたくなくて、行きたくない理由をうまく説明できなくて先生と喧嘩になった。
「芥太は思春期ですね」
 と呆れられたのが悔しくて、わざと扉を乱暴に閉めた。それから口をきいてない。
「あの人、寂しがりやし。それに女は守るものじゃろ?」
 ハルの声が風に乗って聞こえた。ハルも公ちゃんもいつだって先生の味方だ。

 電車が動き出した。これから鳥取に行く。僕は先生からすこしずつ離れていく感覚に寂しくも解放感を味わっていた。先生が嫌いな訳じゃない。でもちょっと重かった。
 僕の家は夜ご飯の時間が夜の七時ってきっちり決まっていて、先生はその時間に僕がいないと、何時間でも冷えたご飯のを目の前に座って待っているんだ。基本的に先生は僕を叱らない。ただ無言で威圧する。勉強に関して何も言わないけど、門限には厳しかった。頭の後ろにも目が付いているような人で僕のやったことを何でも知っていた。帰宅が遅くなった日があった。多分、夜の八時くらいだったと思う。その日の夕ご飯は鯖の味噌煮だった。お米は冷えてばりばりになっていた。お味噌汁も冷め切って味噌が沈殿している。先生はいつも通りの声で
「遅かったね」
 と言った。先生の表情があまりにいつも通りだったので、反対にすごく怖くなった。怒っているのかもしれない。
「先生、あののぉ」
「温め直しましょうか」
 僕の言い訳は封じられてしまった。僕はちゃぶ台に座って、先生が夕ご飯を温め直してくれるのを待った。あれほど怖い数分間は体験したことがなかった。けど、僕は結局怒られることもなく、普通にご飯を食べた。先生はいつも通りだった。
 いまふと思ったけど、普通の親ってこんな感じなんだろうか? 僕は捨て子だから普通を知らない。先生から虐待されたわけでも毒を浴びたわけでもないけど、ただその存在が重かった。

 一度他県に入ってしまうと、島根から鳥取に移動しても鳥取から兵庫に移動してもなんの感慨もなかった。関所とかがあるわけじゃないし、当然のことだった。旅って言っても案外味気ない。一人だからかもしれないけど。
 スーパーはくと号で姫路に到着した時には夜の八時を回ってて、外は寒かった。春先の陽気が消し飛んで、冬が帰ってきたみたいだ。
 次に乗るのは二十三時半の寝台特急サンライズ瀬戸。三時間くらい時間を潰さなきゃいけない。
 僕は最初に駅北口の眺望デッキからライトアップされた姫路城を見た。商業ビルに挟まれた大通りからずっと向こうに小さくお城が見えた。信号の赤と青、道行く車のライトがオレンジに明るくて、白い光に照らされた姫路城は青ざめた病気の人みたいだった。
 そういえば、姫路城の城主は病弱で江戸時代は大名が頻繁に交替して城主に成ったと先生に教えてもらった。譜代大名だった毛利家もその城にいたことがあったらしい。通りをずっと真っすぐ行くと公園にたどり着く。近くまでいくと、お城の根本が赤に光っていた。いや、お城自体が光っているんじゃない。ライトに照らされたサクラが光っていたんだ。風が吹き抜けると花びらが舞った。
 赤い花びら。
 赤、赤、赤。
 手紙。
 僕は手紙を掴んで走っている。
 真っ赤な色は僕に思い出したくないものを思い出させた。
 卒業式の日。
 ハルが真っ赤なペンキ缶に頭を突っ込んで死んでいた。
 秋くらいからハルはずっと情緒が不安定だった。煙草は前から吸っていたけど、一日で一箱くらい吸うようになった。突然叫び出したり、妙な悪戯をしたりするから僕もどう付き合っていいのかわからなくなっていた。
 身体が震えて来た。僕は体育座りでぎゅっと身体を丸める。できるだけ丸く、丸く。震えと心臓を叩くみたいな鈍い痛みは消えてくれなかった。このままばらばらになりそうだった。
「君、大丈夫?」
 肩を叩かれた。顔をあげると赤ら顔の女の人が心配そうに僕を覗き込んでいた。僕はどぎまぎして小さく、あ、とかう、とか答えになっていない答えを返した。女の人はひっつめの髪に、黒いジャージ姿だ。眉毛が太くてちょっと全体的に丸みのある大柄。大きなエナメルバッグと長細い袋を背負っていて、片手に缶ビールを持っていた。
「ここ寒いから」
 酔っ払いの見た目の割に喋り方も足腰も普通そうだった。
 黄色い靴が目に飛び込んできた。
 カツミさんの靴が目に入った。
 黄色い派手な靴。オニツカタイガーのタイ・チのストライプ。
 映画に出てきてたから知ってる。

 家の近くにツインシネマっていう北浦地方で唯一の映画館がある。ちゃんとロードショーもやっている。オレンジと青の床が綺麗で、僕は結構好きなんだけど、いっつも空いていた。
 僕たちが見た映画の内容は黄色いジャージを着た女の人が刀を振りまわして暗殺者を殺しまくるものだった。斗羽くんは公ちゃんに断られたって言っていたけど、確かに公ちゃんの好みの映画じゃなかった。
 最後どうなったのかは覚えていない。僕を真ん中にして時々、目くばせする斗羽くんとハルのせいで気が散ってしまった。
「ぶちおもろかった!」
 映画館を出るとすぐ、ハルは主人公の女の人みたいに空中に透明の刀を振り回す。ハルは小学校の途中まで剣道をやっていた。身体が軽くてあんまり上達しなかったから辞めちゃったみたいだけど、僕は勿体ないなと密かに思っていた。
「またはじめとん?」
 ハルは僕を睨んだ。
「絶対に嫌じゃ」
 ハルのお父さんは剣道で免許皆伝を持っている。僕の知らないうちに色々あったのかもしれない。偉大な父親を持つと大変だ。僕の先生は養母であって血縁じゃないから、先生がいくら偉大でも僕とは何の関係もない。僕たちがじゃれ合っていると、斗羽くんは少し寂しそうに笑っていた。咲いてないタンポポみたいな笑みだった。
「うちの道場じゃ構えはこうだった」
 斗羽くんも透明の刀を使って型の演じた。
 すっごく綺麗に見えた。斗羽くんは左足で立膝をついた状態で、左側から透明な刀をすっと抜刀し、右の肩幅あたりでいったん止める。何もない空間が刀で切れたような気がした。それからすぐに振りかぶると物凄くあっさり、縦方向に空間が切られた、気がした。あまりに鮮やかだったので、ハルもびっくりしていた。斗羽くんは照れたのか鼻の下に指を当てて
「昔、ちょっとだけやってた」
 その顔からは笑みが消えて苦悶だけがある気がした。
「新井貴浩って選手知ってる?」
 斗羽くんが言うので、僕とハルは首を傾げた。
「誰?」
「カープの選手。いまは阪神」
 野球には興味がなかった。斗羽くんもそんなに好きな感じしないのにどうしてその名前が出て来たんだろう。
「新井はさ、金元って監督にすっげー厳しく指導されたんだって。朝から晩まで徹底的にしごかれたって。金本は他の選手とはハイタッチをするが新井だけには張り手を喰らわせたりしたって」
「なんそれ?」
 ハルが口をへの字にした。ハルは小学生の時、女の子たちにイジメられたからそういう話が苦手だった。斗羽くんは首を横に振った。
「そうとも言えるかもしれないけど、新井はそれで成長できたってどっかで言ってた」
 口を挟んだらいけないって気がした。斗羽くんは傷口を開いて僕たちに見せてくれているんだと思う。
「俺は無理だった。新井みたいに心が強かったらよかったんだけど俺はそうじゃなかった。だから辞めた。剣道」
 斗羽くんはそれ以上はその話に触れなかった。

「靴。黄色いの。あれ映画のやつ」
 僕は後悔した。心配してくれている女の人に対してもう少し返事の仕方あったんじゃないかな。けれど女の人はまったく気にしていないようで豪快に笑った。
「知ってるんだ!」
「友達にあげたかったけどあげられなかった。死んじゃったから」
 僕はハルにあの黄色い靴をプレゼントしたいと思っていた。高校生になったらアルバイトでもして。そんなことを初対面の人に言うべきじゃない。僕はちょっと頭がおかしくなっている。女の人の目が見開かれた。肺にビールが入ったのか少し咽ている。
「傷心旅行か。そういう時、ひとりでいたらダメだね。とにかく暖かいところに、駅にでも行こう」
 女の人が僕に立ち上がるよう促す。
「自殺とかせんちあ」
 むっとして僕は言い返した。
「おお。方言だ」
「失礼な人ちぁ」
 女の人はまた豪快に笑う。
「あ、そう? ごめんね。気が利かないんだわ。君どこから? あたしは調布。知ってる?」
「知らない。どこ?」
「東京のまぁまぁ田舎。で、君は?」
「萩。山口県」
 女の人はぱっと目をきらきらさせた。
「そりゃいい! あたしと因縁が土地だ。あたしは近藤カツミ。新選組って知ってる? そこのリーダーの末裔」
 女の人、カツミさんが言った。
「知ってるよ。うちの先生のご先祖さま殺したんはその組織っちゃ」
「そうかそりゃ凄い。あたしたち妙な因縁があるみたい」
「そんなん知らん」
 僕はぶっきら棒に返したけど、話しかけてくれてありがたかった。頭の中が悪い方へ悪い方へ考えを勝手に動かしそうだったから。僕はカツミさんと一緒に駅へ歩き出した。姫路城のライトアップが終わっていて、十時になっていた。僕たちは駅まで真っすぐ戻った。人と話して安心したからか急にお腹がすいてきた。よく考えたら乗り換え続きで朝ごはん以外食べてなかった。
「これ食べる?」
 カツミさんがドライフルーツとナッツのプロテインバーをくれた。知らない人からもらったものを食べてはいけませんって、頭の中で、先生が警告してくる。先生は時々こうやって僕の頭の中に入ってくる。うざったかった。でもいつもは無視しない。今日は旅先だから無視した。罪悪感がこみあげてきた。
 プロテインバーを齧る。甘ったるくてあんまりおいしくはなかったけどお腹は満たされた。
「うちの先生が新撰組のこと教えてくれたっちゃ。いまの軍隊を基礎付けた組織だって」
 カツミさんの目が細くなった。笑っているようにも悲しんでいるようにも見えた。
「今では防衛省の下部組織に名前を残すだけだけどね。もし新撰組がなければ、新しい日本は長州藩が作っていただろうって言われてるの知ってる?」
「うん」
「勤勉な子だ。普通は知らないよ」
「僕の先生、養母さん、歴史学者だから」
「尚更すごいよ。だって最新の歴史学では本当の歴史は実は明治維新っていう革命を起こしていた可能性が示唆されてるんだから。数理歴史学っていうんだけど」
 僕はその言葉にちょっと興味を持った。数理歴史学は先生の専攻分野だって聞いたことがあった。
「僕、萩から東京まで行くほ」
「奇遇だね。あたしも今から東京帰るんだ。もしかして寝台特急?」
 僕はカツミさんにどうやってここまで来たか話した。話しながら僕はカツミさんを観察した。歳は僕より一回りくらい上に見える。目の下に皺が出来始めていた。快活で口が大きい。爪は短くて深爪ぎみで、堅そうだった。運動をやっているのが服の上からでもわかる。肩ががちっとしていて前屈みぎみ。癖なのか上半身を捻っている。声は大きくて、高すぎない感じ。
「本当は夜行バスのがええっちゃ」
「でも十六時間かかるんでしょ。あたし車酔いするから電車で正解だと思うよ」
 カツミさんのエナメルバッグが腰に当たった。掠れた文字で調布南高校剣道部と書かれていた。
「それ防具?」
「そうだよ。剣道の」
「じゃあそっちの長いのは竹刀?」
「大正解。実は道場破りしてるんだよね」
 嘘か本当かわからない口振りだった。僕たちは駅にたどり着いていた。同じホームなのにばらばらにいるのも変な気がしたから寝台特急が来るまでずっと話していた。


 
 午後二十三時二十二分。ホームに電車が滑り込んできた。
 クリーム色と赤のおんぼろの電車だった。
 僕の買った切符は一番安いシートの切符だ。個室ではなくて、健康ランドの休憩スペースみたいな場所だった。一段目と二段目にそれぞれ寝るスペースがあって、毛布とかも用意されている。隣のシートとの仕切りは顔の部分に少しだけあるだけだった。窓の向こうが東海道線のホームで不思議な気分だ。ドリンクホルダー付きの小さなテーブルに僕は荷物出して、座り込む。座ってみると思ったより床が固かった。そのまま入口側に倒れこむと疲れが押し寄せてきて、思わずえらいなぁ、と言ってしまった。
 カツミさんは何も言わずに僕の隣のブースに荷物を置いた。一階のブースの窓から駅のホームが見えた。随分遅い時間だけど人がたくさんいた。
「そういえば君、何才なの?」
 疲れていたけれど、僕はもっと話したい気分だった。
「十五」
「若っ! 干支一回り違うじゃん!」
 寝床の準備が整うとカツミさんは二本目の缶ビールを開けた。床に買ったばかりなのか汗をかいた缶ビールが二本並んでいる。スルメイカやポテトチップスを広げたカツミさんは好きに食べていいよと言った。
「お酒好きなん?」
 袖口で口を拭うとカツミさんが咳混じりに答えた。
「そりゃもう。これがなければ人生やってらんないよ。そういうのない? ストレス溜まると食べちゃうものとか」
 ぱっと浮かんでこなかった。僕はつらいと思う時、何をするんだろう。
「体を丸める、とか?」
「ほう」
 カツミさんが僕の方へ身を乗り出した。どっしりした身体全身で僕の話を聞こうとしてくれている。
「萩の山の方にでかい公園あっての」
 僕と斗羽くんとハルで映画を見に行く数か月前のことだ。
 僕がいつも通りハルを送り届けて、家に帰ろうとした時だった。いつもならまっ直ぐ帰るのだけど、その日は川沿いの紅葉を見てから帰ろうって気になった。家を通り越して国道一九一をまっすぐ行って、松本川を渡る。国道沿いをずっと走ると陶芸の村公園がある。松陰神社とか吉田松陰、先生のご先祖様の生家の方角だ。東萩の側にはあんまりこないから途中で道に迷っているうちに日が傾き始めていた。萩市の高台にあるその公園はドッグランとかゴルフ場もある。時間帯のせいか観光客も少なかった。
 管理棟のある開けた広場の滑り台を通り過ぎ、展望広場に登る。山と山の間に海が見える。山のふもとに密集して建物が立っているのが見渡せる。僕はこの街が好きでも嫌いでもない。ただ広いなと思った。町中を自転車で走っていると時々、この世界がとんでもなく狭くて息苦しく感じる。でもちょっと開けた場所にいくと、途方もなく大きいと感じて、開放的な気分になる。
 見ごろを終えたハギの花とジュウガツサクラが寒さで朽ちていた。公園内は思ったほど、赤くなっていなかった。僕は落ちて来た橙色の葉っぱを捕まえた。石垣に座って僕は何も考えずに暮れていく空と紅葉を見つめた。
「芥太」
 斗羽くんが手を振った。
「なにしちょん?」
「多分、芥太と同じ」
 斗羽くんの家は萩駅に近かった。ここは山側で家からはだいぶ遠いはずだ。斗羽くんは私服だった。真っ黒のタートルネックに派手なピンクマーブルのセーターを羽織っていた。
「それ、ハルの趣味っちゃ」
 僕が言うと、斗羽くんは照れたのか顔を赤くした。
「似合うって言われたから。多分、どっかのバンドのコラボ服じゃないかな」
「こうてもろたん?」
「うん。プレゼントだって」
 斗羽くんは背がひょろんと高くって、首が細くて真っ白だ。僕はそのすらっとした姿がマーブルのセーターと全然似合ってなくてなんか嫌だった。
「似おうちょらんね」
「やっぱり? 俺もそう思ってた」
 斗羽くんは笑って、落ちていた真っ赤な紅葉をつまんでくるくる回した。
「洋服買いに行こうって。姉さんが。そんでその帰り」
「黒と茶色でええっちゃ。しゅっとしたのが似おうちょる」
「よかった。ちょうどキャメルのセーター買ったからさ」
 キャメルが何色か僕は知らなかった。
「車?」
「うん。でも歩いて帰ろうかと思って降ろしてもらった」
「ここからじゃと遠いよ」
 斗羽くんは頷いただけで何にも言わなかった。僕たちはなんとなく公園の出口まで無言で歩いた。斗羽くんは割と無口だ。僕もあんまりおしゃべりじゃない。僕たちの真ん中んには風が通れるくらいの隙間がある。僕はそれを埋めたかった。
「後ろ乗ってけ?」
 自転車のリアキャリアにはタオルをひもで巻いて一人分座れるようにしてある。斗羽くんは僕より十センチ背が高かったからバランス取れるかなって心配した。でもそれは杞憂だった。斗羽くんはちょっと困った顔をして言った。
「やめとく。そこ、春風の特等席だから」
 斗羽くんは言った。僕は頭の中で、春風、特等席って言葉をぐるぐる考える。僕は自転車を押しながら、無性に恥ずかしかった。震えと心臓を叩く鈍い痛みを感じた。身体がはじけ飛びそうで、叫びだしたくなる。僕はそっと身体を丸めた。

 支離滅裂な話を肴にカツミさんはビールを飲んでいる。
「青春だね。そういう体験は重要だよ」
「そーねなもん?」
「大人になった時に効いてくるもんだよ」
 カツミさんは缶ビールを一気に飲み干した。
「君は面白いよ。もっと聞いていい?」
 僕は気が付いたら数時間話していた。
 萩は電車では不便な街だとか。バス停の付近だけが妙に空々しくて公ちゃんが景観を破壊すると嘆いていたとか。ハルとバンドをやろうとして辞めたとか、斗羽くんとの他愛ないおしゃべりとか。
 空は暗く、建物の明かりがぽつりぽつりと車窓から見えた。時々停車する駅の蛍光灯だけが白く明かるかった。 そろそろ熱海だ。
 動き出すと山と海が見えた。窓の外を見る。トンネルを抜けると、水平線が橙色に染まっていた。さっきまで暗かったのに。空の青っぽい灰色と橙のグラデーションが綺麗だと思った。途端に瞼が重くなってきた。
「眠い……」
「そうだね。ちょっとくらい寝ておいた方がいい」
 寝床はコンビニのビニール袋でいっぱいになっていた。お酒の匂いと焼き鳥みたいな匂いが立ち込めていた。僕は鼻をつまむ。
「露骨じゃん。そんなに臭い?」
 カツミさんは笑い上戸になっているのかさっきより豪快に大げさに笑った。
「あと二時間で東京だ。君はそこからどうする?」
 缶ビールを逆さまにして最後の一滴まで飲み干すと、カツミさんが言った。
「わからん」
 カツミさんは目を細める。
「んじゃ、あたしに付き合うってのはどう? 日野ってとこに行くんだけど」
「日野? どこ?」
「東京都日野市。新撰組の副長、土方歳三の出身地だ」
 斗羽くんと同じ苗字だ。
「いいよ」
 僕は言った。僕は斗羽くんを無意識に追いかけていたのかもしれない。ハルが死んじゃわなかったらこの電車に乗ってたのはハルと斗羽くんだったのかも。僕はふたりの出来なかった旅を代理でやっているのかもしれない。
「じゃあ決まり。また後でね」
 カツミさんは寝転がる。僕も仰向けでカーペットに横たわった。うっすらした視界の向こうで空が橙と紫の層を作っている。
 僕は日の出を見届けずに眠りに落ちた。

 これは夢だ。
 僕は雨に打たれながら思った。
 夜卒業式の日、雨はざんざんぶりだった。
 午後八時頃、僕は斗羽くんを自転車で探し回っていた。普段は煌々と明かりがついている斗羽くんのアパートの部屋が真っ暗なのに気が付いて、心配になった。ハルと斗羽くんが卒業式の後、駆け落ちする約束をしてたのを聞いていた。
 川は増水しはじめていた。思いつめたふたりが川に飛び込んでいたらどうしよう。僕は胸をばくばく鳴らしながらペダルを漕ぎ続けた。喧嘩しちゃったけど、ふたりのことを嫌いになったわけじゃない。僕は一生懸命に自転車を漕いだ。
 探し回って、結局、駅前の公園でずぶ濡れで立っている斗羽くん見つけた。
 斗羽くんに駆け寄るのと同時くらいに、公ちゃんが走ってくるのが見えた。傘を差しながら腕にもう一本の傘を持っている。もしかしたら斗羽くんから駆け落ちのことを聞いていたのかもしれない。公ちゃんが斗羽くんに差していた傘を斗羽くんにかざした。僕は公ちゃんの腕から使ってない傘を奪い取って公ちゃんと僕で相合傘をした。横殴りで雨が降ってきたので、僕たちはびしょ濡れだった。僕はふたりを滑り台の下に押し込んだ。踊り場部分が広い滑り台で、僕たちが下に潜り込んだらどうにか雨を凌げるくらいの大きさはあった。
「騙されたのか」
 公ちゃんが言った。斗羽くんは曖昧に首を振った。否定にも肯定にも見える頷きだった。
「高杉にも色々あるんだ」
 公ちゃんは何度か唇をぱくぱくさせたけど、結局なにも言わなかった。寡黙な公ちゃんと反対に僕はぺらぺらと口が滑った。
 約束を破るなんハルが悪い。斗羽くんはハルの彼氏なのに。
 僕は斗羽くんの代弁する気になってにハルの悪口を言った。斗羽くんは青ざめた顔で静かに聞くだけだった。公ちゃんが止めるまで、僕はハルに対する文句を言い続けた。僕の顔を見て、斗羽くんはちょっとだけ笑って、
「きっと色々あるんだよ」
 と言った。僕はひとりだけ悪者にされた気分になって腹が立った。
「知らないっちゃ」
 僕はふたりを公園に置いてけぼりにした。
 そもそもハルが悪い。どうせ家で寝てるんだろ。
 文句を言ってやるつもりでハルの家に行った。ハルは庭の離れに住んででいて、玄関から入らなくても庭の抜け道からハルの離れに入れる。僕はハルの部屋の窓を開けた。いつも通り開けっ放しだった。

 そこで僕はハルが溺死しているのを見つけた。
 赤いペンキに頭を突っ込んでる。
 赤、赤、赤。
 飛び散ったペンキが部屋を汚している。
 僕の視界に赤く濡れた手紙があった。
 ひったくる。
 冷静さを失った僕は手紙を掴んだまま後退る。

「大丈夫? うなされてたよ」
 カツミさんが膝立ちで仕切りを乗り越えて僕を揺り起こした。僕は短く呼吸をする。僕は身体を丸める。
「何か言ってた?」
「いや、すごく呻いてた」
 カツミさんはゴミ袋の口を縛って、忘れ物チェックをしている。
「あと五分で到着するよ。大丈夫そう?」
 カツミさんが立ち上がる。電車はゆっくり減速していた。
「取り敢えず降りる」
 強がっていうとカツミさんは笑った。
「そうだね。いい子だ」
 子供に言い聞かせるみたいな声だ。けれど嫌ではなかった。外にでると白んだ空と大勢の人で目がくらんだ。けたたましいアナウンスがまだ眠り足りない僕の耳にはうるさかった。ちょっと酔ったような胸焼けがする感じ。何本も並行にならんだ線路にひっきりなしに電車がやってきた。
 山陰本線の萩駅は一時間に一本だけ電車がやってくる。のんびりした街だった。東京駅は誰もが早口で早歩きで、時間を倍速モードで再生しているように思えた。人込みの中でカツミさんを見失わないように歩いた。カツミさんは時々振り返って僕がいなくなっていないか確認してくれた。
 地下の大きな空間は白くて、明るすぎる。めまいがしそうだ。立体映像の広告がばーっと並んでいて、テレビの中に紛れ込んだみたいな気分だった。床は固いはずなのに、子供が転ぶと柔らかい素材に変化する。電光掲示板も物理的な画面には存在しなくて、半透明の文字で空中に浮いているように見えた。いくつか見かけたお土産屋さんには店員さんがいなくて、液晶ディスプレイが並んでいるだけだった。親子の銅像や郵便ポストなど、多分昔からあるだろうモニュメントはその空間に似合っていなかった。
「せっかく来たんだ。駅の外にでよう」
 東京駅は赤レンガだって聞いたことがある。僕たちは歩いた。丸の内中央改札まで歩く。丸いドームに連なる改札口を出てる。改札を出ると、柔らかなオレンジ色が僕を包んだ。上を向くと、ぽっかりと長方形に空いた穴がバルコニーになっていて、手すりが見えた。
「あれはホテル。ステーションホテル」
「駅にホテルあるちぁ?」
「そうなんだ。高くて庶民にゃ手が出ないよ」
 快活に笑ったカツミさんが思いのほか小さい出入口から外に出た。ビルの水平線に微妙に橙の朝焼けが残っていた。ビルが途方もなく大きかった。何階建てだろう。目がくらむような高さだ。ビルが上から自分たちを押しつぶすみたいな感じ。窮屈な街だと思った。駅前は広場になっていて、真っすぐ一本道が開けていた。
 僕は駅舎を見た。赤いレンガの駅舎はきれいだけれど、古くて薄汚れていた。不思議なのは赤いレンガの上に瓦屋根が乗っかっていて、そこだけ日本のお城みたいだった。不思議な感じだ。和洋折衷って感じ。
「赤毛の島田髷ってね」
「なんて?」
「東京駅が出来た当初、土方歳三がそう言ったらしい。資料館の手紙にあったよ。外国人が無理して着物と髷を結っているようだってね。実際に設計したのはフランス人だ。ジャポニズムっていう日本情緒を全面に押し出した設計には当時から批判があった。現代人にとっては結構素敵に見えるけどね」
 どこかで鴉が鳴いている。色んな声が聞こえた。海の向こうの言葉も。
「アルマ!」
 後ろで褐色の女の人が叫んだ。小さな男の子が僕の前を走り抜ける。アジア系の家族だった。大学生風の三人組がその家族の写真を撮ってあげていた。駅員さんは無表情に彼らの横を通り過ぎる。
「この駅舎がいまの見た目になったのは大正三年。雨にも負けず、風にも負けずにずっと立ち続けてる。いまでは重要文化財だよ」
 カツミさんがデジタルカメラでで写真を撮りながら言った。
「どうする? 皇居も見ていく?」
 皇居は東京駅の大通りをまっすぐす行ったところにある。江戸が東京に変わっても皇居は長い間京都にあった。公家の勢力を政権から遠ざける為とも神格化の為とも言われているけれど、大正十二年に東京に移ってきた。地震の兆しがあった為、鎮護の為にやってきたと言われているけれど本当のところを僕は良く知らない。元々江戸城だったところを大改造していまの皇居は出来上がっている。血濡れた城に住んでいるなんてどんな気分なのだろう。興味があったけど、疲れ切ってしまっていた。
「帰りに見てく」
「そうか。じゃあ先に行こう」
 僕たちの間を子供が走り抜ける。どこの国の子かは分からなかった。東京は水没し始ても観光客でにぎわっていた。被害は段々広がって言っているからそのうち規制が入るだろうって先生は言っていた。
 僕たちの国はもうすぐ、皇居と首都を函館に移す。
 二か月前、斗羽くんの家で見たテレビでも言っていた。
 つけっぱなしのテレビに僕が注意を持っていかれたが正しい。その時はみんなでカードゲームをやっていた。僕は左右のハルと公ちゃんからリバースとドローツーの連発で手札がえらい数になっていた。
「ウノ」
 僕たちの小競り合いをしり目に斗羽くんがあっさりあと一枚まで迫った。斗羽くんは将棋とかチェストかが一番強いけど、カードゲームもなぜか強かった。多分次のターンで一抜けするだろう。
「なんだと。俺が先に上がれると思ったのに」
 公ちゃんが負けず嫌いに言った。
「まだわかんないから」
 斗羽くんは嬉しそうだった。
「手札、英語とちがう?」
「残念。ふつうの数字」
「えずいわー」
 ハルが不貞腐れている。よく見るとハルの手札も僕とどっこいだった。
『政府は来年度を目途に、皇居および首都機能を完全に函館に移譲する閣議決定を行い……』
 ニュースがテレビから流れている。映像は真っ白い国会議事堂だった。
『現在、五稜郭の再建が見込まれています』
「函館ってどこちあ?」
 僕が言うと公ちゃんが呆れたような顔をしながらカードを一枚投げた。
「北海道だ。北海道」
「なんちぁ。遠いのぉ」
「東京の水没がひどくなり始めたからな。もともと地盤が弱い。水位上昇と液状化現象によって東京湾近郊、中央区なども没しはじめている」
 したり顔の公ちゃん。
「じゃ、公ちゃんが政治家先生になるころには函館いくけぇのお」
「そうなるだろうな」
「そういえば、ご先祖様の墓は函館にあるって聞いたことがある」
 斗羽くんが最後のカードを捨てた。ハルの悪態が聞こえた。
「ご先祖様?」
「土方歳三。京都や東京ではキ印で呼ばれてたなんて自分で言ってる変な人」
 公ちゃんが補足するように早口でまくし立てる。
「幕府が新政府に名前を変えてから土方歳三は陸軍奉行になって初の陸軍師団、列士満をまとめ上げた。晩年は北から侵攻されることを警戒して函館の基地で生涯を閉じたって言われてる」
「詳しいっちゃ」
「敵の事を知るのは重要なことだ」
 公ちゃんが喋りながらウノと言った。
「ぶちわからん」
 ハルはカードを投げ出す。もう負けるのは僕かハルだった。僕もこの大量のカードをさばくのは面倒だから便乗した。一抜けが斗羽くん。二番目が公ちゃん。カードの数が僕より少ないのはハルだった。
『新たな首都への移動に関して、東京都民は……』
 テレビは街行く人々へのインタビューに切り替わっていた。僕はテレビの中の人々が喋るのをぼんやり眺めていた。首都が東京になろうが函館になろうが関係ない。僕たちの萩からはずっと遠い場所だったから。
「本当はもっといい都市になるはずだったのにな」
 テレビに映る摩天楼を眺めながら斗羽くんは呟いた。

 僕とカツミさんは中央線まで歩く。地下の空間は苦手だ。はやくホームに出たい。細いエレベーターを上がると中央線のホームだった。地下の空間より寂れていた。ちょうどオレンジと銀の電車が滑り込んできた。高尾行と電光掲示板に書いてあった。
「あたしは日野の友達の家に泊めてもらうんだ。あんたが良ければ、泊めてもらえるように言っておくけど」
 僕はどうとでも受け取れる頷き方をした。優柔不断を責めることもなく、カツミさんは「じゃあ連絡しておくよ」と言った。座席に座る。日差しが差し込んでいてまぶしかった。カツミさんは携帯でメールを打ったみたいだった。ふと僕は携帯に視線を落とす。着信が何件か来ているのに気が付いた。
「十分待ち時間あるからホームで電話しなよ」
 カツミさんに促されて僕はドア近くの売店横で電話をかけた。電話口の声は公ちゃんだった。
「おい。いまどこにいる?」
 ぶすっとした声だ。何も言わずに出てきちゃったから怒っているのかもしれない。
「一言くらいかけていかんか」
「あー。めんたし」
 ごめん、なんて言うのは恥ずかしいから。もうおばあちゃんとかおじいちゃんしか使わないような言葉だけど俺は好き。公ちゃんは僕がふざけていると思っただろう。電話口で難しい顔をしているに違いない。叱られるのを覚悟していたら、思ったより優しい声が戻ってきた。
「はよう帰ってけ。先生、心配しちょる」
 公ちゃんの東京弁じゃない喋り方、久しぶりに聞いた。僕はちょっと嬉しかった。
「どうかのぉ。心配したっちゃ?」
 先生でも僕に対しては結構ぞんざいだ。それは多分、僕のことを息子みたいに思ってるから。そのくせ心配性で僕を縛り付けようとする。母親でもないくせにさ。
「先生、ぶち淋しがりじゃ。おまんがお前がおらんごつなったらつまらん」
 僕はこの時はじめて、なんかもやっとした気持ちを味わった。何とか今の心を公ちゃんに伝えなくちゃって思って色々言葉を探した。
「公ちゃん。僕、あそこはかなしくておられん」
 ちょっと違うかもしれない。でもこのくらいしか言えなかった。公ちゃんは無言だった。電波が途切れたのかと思うくらい無言。僕が口を開きかけた時、公ちゃんはやっと言った。
「土方か? 土方がそう言わせちょるき?」
 僕は意味が分からなかった。
「は? どーいうことぉ?」
 公ちゃんが真面目な声で答える。
「土方がおらんけ、おめぇ一人で立たれんのじゃ。せんないっちぁ」
 僕はますます意味が分からなくて混乱した。
「斗羽くんは関係なけりゃ」
「じゃけぇ」
 公ちゃんは黙った。数秒間。発車まであと三分ある。
「帰ってこん気するけ」
「だれが?」
「芥太が。俺、いまぶち悔しいけぇのぉ」
 公ちゃんの吐息が隙間風みたいに聞こえてきた。
「俺のが先に土方のこと知っちょった。うちにもようけ遊びきちょったし、政の話出来るのは土方だけじゃ。俺、ぶち土方のこと好きやけぇ」
 公ちゃんは途中の説明を全部はしょって伝える癖がある。僕は困った。
「ちょっと待ちぃ。どういう……」
「それじゃあ。土方のこと頼んだ」
 公ちゃんは余所行きの標準語で言い放つと通話を切った。僕はしばらく携帯に耳をくっつけたままだった。斗羽くんを好きっていうのは友達としてなのだろか。僕の頭の中がぐるぐると回った。なんだかもやもやしてきて、もう一度公ちゃんと話したい気分になった。けれど、出発アナウンスがあったから電話はかけられなかった。僕はぎりぎりのところで電車に乗り込んだ。
「なんかあった? 家族からとか?」
「違う」
 僕は流れていくビルを見ながら公ちゃんと斗羽くんの事を思い出した。 
 公ちゃんと斗羽くんは妙に仲が良かった。
 放課後、公ちゃんの委員会のない日は必ず、居残り勉強していたのを知っている。斗羽くんは勉強はあんまり得意じゃなかった。中間テストでも期末テストでも下から数えた方がはやい順位だった。
 斗羽くんはあんまり頭がよくなかった。それでお節介焼の公ちゃんとほとんど毎日一緒に授業で躓いた箇所を復習していた。僕もハルも週に何回かは一緒に居残った。ハルは素行が悪いけど、成績だけは良かったから補習なんて必要ない。僕は普通くらい。勉強しなくても平均点くらいはテストで取れる。
「ああ! ちょっとわかった気がする!」
 公ちゃんが一生懸命解説すると斗羽くんはちゃんと出来るようになる。でもノートに書こうとすると突然できなくなった。教科書の音読が特に苦手で、文節の途中で区切って読んでしまったり、書いてあることの意味がわからなかったりした。英語の綴りが鏡文字になることもあった。
「宇宙人みたいな文字を書く」
 公ちゃんの真面目腐った声に斗羽くんがびくっ肩を揺らした。僕は公ちゃんを叩く。そういう事をいうのは良くないと思った。
「あー! でもやっぱ無理!」
 シャープペンを投げ出して斗羽くんが机に突っ伏す。
「勉強できそうな見た目なのにな」
 公ちゃんがずけずけと言った。
「ひでー。どうせ俺は姉貴と違って馬鹿ですよぉ」
「お姉さんは頭が良いのか?」
「うん。東大。いまは院生」
 公ちゃんのシャープペンを持つ指に力が入ったように見えた。公ちゃんのお父さんは北大卒をずっと馬鹿にされているって言っていた。僕の街で大学進学を目指すなら、京大か東大を目指さないといけない。公ちゃんのお父さんは多分、京大にも東大に合格できなかった。それで、公ちゃんには絶対に東北大には行くなって言っているらしい。公ちゃんは「俺は東大に行く。それしか選択肢はない。室井さんもそう言っている」といつも言う。室井さんっていうのは公ちゃんが大好きな刑事ドラマの警察管理官のことだ。彼は同僚に北大卒を馬鹿にされ出世をぐんぐんぬかされていく。嫌味な同僚から「死ぬほど勉強して東大行ってよかった」と言われるようなキャラクターだ。公ちゃんは意外と影響を受けやすいタイプだから、カチンと来たんだと思う。それで京都を通り越して東京の大学に行くと決めたんだと思う。
「姉貴は一番難しい学校に行きたいって言って現役で合格したんだ」
 斗羽くんの声のトーンが少しだけ下がった気がした。
「すごいよな。俺、中卒で終わりそうなのに」
 斗羽くんに僕がなんと返事したのか思い出せない。僕は斗羽くんとおんなじ高校行きたかった。でも僕が斗羽くんを無理やり勉強させて同じ高校に行くのもおかしいし、僕が行けるのに斗羽くんに合わせて高校に行かないのも変だ。ただ罪悪感がだけがあった。
 

 ビルが立ち並んでいる。無機質な白いビルが僕たちを圧迫してくるようだった。僕とカツミさんは話をしなかった。僕は車窓と人の流れをじっと見つめていた。人の出入りが激しい駅があった。ホームの看板が次々に、神田、御茶ノ水、四谷、新宿と変わっていく。新宿の薄汚いビル群を抜けると、とたんにのんびりした感じになった気がした。中野、次は高円寺。
 眠気は無くなっていた。僕は日野までの一時間、車窓をじっと眺めた。
 日野の駅舎は広くて長い。朝の陽ざしを浴びた無機質で灰色のホームは薄汚れていた。人はそんなに多くなくて、改札口はひとつしかない。空気が東京駅とは違う。田舎の空気だ。萩に少し似てるとも思った。
 改札を出ると、ロータリーがあって寂れたチェーン店が密集していた。駅舎を振り返ると、赤い瓦屋根の建物がコの字型に立っていた。駅の向こう側にはモノレールが走っている。カツミさん北側へ歩き出す。二車線の道路は車もあんまり走っていなかった。
「中央線で二番目に下車客が少ない駅なんだってさ」
 エナメルバッグを抱え直してカツミさんが言った。いま歩いている道路は甲州街道だって教えてくれた。日本橋から山梨県の甲府までつながっているから甲州街道。五街道のひとつで、日野はむかし宿場町として栄えたらしい。
「こんなに寂れてるけどさ、日本一、首相を輩出した街なんだよ」
 よく見ると街々に政治家の名前とのぼりがはためいていた。甲州街道の周りは民家と営業しているかもわからないお店、和菓子屋さんとかクリーニング屋さんとか、がたくさんあった。苔の生えたコンクリートの鳥居があって、覗き込むと緑青色の神社が見えた。八坂神社と錆びた看板が目に入る。
「けどいまの首相は三世だからね。生まれも育ちも千代田区だ」
「詳しいちゃ」
「これでも法学政治学研究科所属でね」
「それすごいん?」
「まったく全然!」
 カツミさんはよく笑う。での笑いと笑いの間に真顔の時間があって、本当はそっちが本性なんじゃないかって思った。
「君の先生とやらは数理歴史学やってるんだよね。あたしの友達も同じ分野だ」
 日野宿と書かれた大きいお屋敷が見えた。カツミさんが大きく手を振る。碑石の前で文庫本を読んでいた女の人が顔をあげた。ショートカットに眼鏡。目が鋭くて顎が細くてしゃくれている。白の胴着と黒の袴を身に着けていて、剣道部を思い出した。
「よぅ。カっちゃん。久しぶり。そっちの子、姫路から連れて来たんだって? ダチが誘拐犯になったのかと思ってビビったよ」
「トシ! そんな言い方ないんじゃないの!」
「あの子の名前出されなきゃ、警察に突き出してたよ」
 皮肉そうに眉を吊り上げた女の人は僕の方を向いた。
「土方歳乃。トシでいい。泊めるのは構わないよ。うちでかいし。でも親に連絡くらいはしておきな。中学生の一人旅なんてダメだんだからな。本当は」
 僕はへどもど挨拶する。ちょっと怖い人だ。苦手。
「とはいえ本家のお坊ちゃんのお友達だ。歓迎するよ」
「え?」
 思わず声が出た。トシさんは眉をひそめた。
「斗羽の友達なんだろ。会いに来たんじゃないのか? まさかカっちゃん。言わなかったのか?」
 僕はカツミさんを見上げた。カツミさんは頬を指でかりかりとひっかく仕草をした。
「その……。トシにメールしたらもしかしてって言うから……」
「この酒くず女。いらねぇお節介しやがって。まぁいいや。はやく来なよ。疲れてるだろ。カツミ。あんたはすぐ着替えて。試合やるでしょ?」
 気まずそうなカツミさんにトシさんはニヤっと笑って見せた。その顔は確かに斗羽くんに少し似ていた。
 
 斗羽くんはハルのお葬式の後、街からいなくなった。
 お葬式の日、僕と公ちゃんと斗羽くんは三人で固まっていた。お経も、親族のすすり泣きも、真っ黒な服を着た人々も、全部が冗談だと思った。
 骨を焼く時、ハルのお母さんが棺桶にすがりついて泣いていた。
「この子を焼かないで。一緒に焼いて」
 悲痛な叫びに僕は気分が悪くなった。吉田先生は僕たちを外に行くように言った。
 駐車場に出た斗羽くんは端っこの生垣近くにしゃがみこんだ。
「水を買ってくる。待っていろ」
 公ちゃんが自動販売機に駆け出した。斗羽くんはずっと顔色が悪かった。僕たちは気が付いていながら気にかけてあげられなかった。近寄ると斗羽くんからは消毒液みたいな匂いがした。臭気のする息を吐き出しながら、胃の中のモノを吐き出した。消毒液みたいな匂いがお酒の匂いだってわかったのは斗羽くんが吐き始めてからだ。斗羽くんの口から緑の吐瀉物がごぼごぼ出るのを僕は見守った。げぇげぇ吐いてるのが可哀そうで背中をさすった。汗は脂っぽかった。
 落ち着いてくると斗羽くんは無造作に学ランの袖で口を拭うと斗羽くんは重たい汚い感じのする息を吐き出した。
「全部出た」
「朝、ほうれん草でも食ったそ?」
 僕は目の前に広がる緑の吐瀉物を見た。
「いや水菜」
 どうでもいい会話だった。それだけで僕も悲しみは少し和らいだ。斗羽くんは何度か吐いてからやっと顔をあげて言った。
「俺、本当は怖いのかも」
 僕には何のことかすぐにわかった。ハルと僕は一心同体だった周りからは思われていたのを知っている。
「死なんよ。僕は。だって理由ないし。多分」
 斗羽くんはつらそうに顔を歪ませた。
「嘘でもいいから言い切って」
 斗羽くんはお願いするみたいに僕を見つめた。真っ赤に濡れた目があからさまに絶望と無力感を表しているようで僕はぎくりとした。斗羽くは制服のポケットから薄いウィスキーのミニボトルを取り出して一口飲んだ。咳き込んで泣きながら、口の端に琥珀色のウィスキーを零した。公ちゃんはまだ戻ってきていない。痩せこけて枝みたいになった指から僕はミニボトルを奪い取って口をつけた。お酒はゲロの味と混ざって不味かった。

 その後、斗羽くんは誰にも言わずに萩を出た。
 それなのに僕は偶然、斗羽くんの居場所を突き止めてしまった。
 日野宿はものすごく大きい日本家屋で、南側の一部を観光用に開放していた。一般開放している場所を除いてもだだっ広い居間とか、なんの用途かわからない部屋がいくつもあるように見えた。
「斗羽のやつ、こっちで顧問にイジメられて山口に逃亡したと思ったら、さらに消沈して帰ってきた。あっちでも何かあったの?」
 トシさんは僕にずけずけ聞いてきた。隣の部屋はカツミさんで、ふすま一枚で隔てられている。綺麗な花と草の絵が描かれていた。
「イジメ?」
 トシさんは眉を吊り上げた。思い出して過去に怒っているみたいだった。
「くそったれ顧問め。斗羽が気持ちも身体も弱いの知ってて無茶苦茶しやがって。あの子、小学校の大会では全国一位だったのに。潰されちまった。勝ちにこだわれないから遅かれはやかれ剣道、辞めてただろうけどさ」
 僕は斗羽くんが萩に来た理由を知った。中学二年生の五月なんて微妙な時期に転校してきたかずっと聞きたかったけど聞けなかった。みんなうすうす感づいていたけれど、実際に聞いててしまうの気が重かった。
「トシ! その子、翔子さんの息子さんだって!」
 カツミさんの声がふすま越しに聞こえた。トシさんはぎょっとして僕に顔を近づける。
「は? 嘘でしょ? 翔子さんの?」
「養子だけど」
「尚更すごいよ。翔子さんの研究ノートがうちの研究室でどれだけ役立っていることか。会って挨拶したいもんだね」
 トシさんが言うには数理歴史学は急激な発展を遂げていて、先生の理論が概ね正しいと証明され始めているらしい。
「論文に引用できないのがネックだ。せめて査読通ってくれていれば」
 トシさんはぶつぶつ言っている。ふすまの外から衣擦れの音がする。固い布の音。
「準備万端。トシ。いつでもいけるよ」
 ふすまを開けたカツミさんは胴着を着つけていた。トシさんが皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「道場で待ってな。芥太。あんたも来なよ。本気の戦い見せてやる」
「行こうか」
 僕に拒否権はなさそうだ。にこにこしたカツミさんに促され、僕たちは道場へ向かった。

 日野宿の北側にその道場はあった。学校の教室より縦に長い。古い木の床は軋んで音を立てている。汗の染みついた独特の匂いがする。香取大明神と墨で書かれた掛け軸が下がっていて、その上に神棚があった。壁には木刀がみねを下に横に並べられているけれど、観光地で買うような細いのじゃなかった。振り回せるのかなってくらい太くて重そうだった。
 準備を整えたトシさんとカツミさんが面をつける。膝立ちの正座姿で二人は挨拶した。
「恨みっこなしだ」
 トシさんが言う。ルールがわからないけど、剣道って審判いないのかな。僕はふたりから壁際で離れた場所で見学する。竹刀はふたりが持つと信じられないくらい軽そうに見えた。ふと扉を見ると数人がふたりを見守っていた。大人も子供も、おじいちゃんもおばあちゃんも。
 僕はそのギャラリーの中に斗羽くんの顔を見つけた。斗羽くんはじっとふたりの動きを見つめている。
 空気が変わった。
 宙を割くような音がして、ふたりの奇声がこだまする。カツミさんが上段に構える。トシさんが受け答える。
 しばし打ち合い。
 トシさんが竹刀をいなす。カツミさんの竹刀の先端が地面に押さえつけられる。トシさんは拘束された竹刀を巧みに退け、上段に構える。トシさんが竹刀の先端を首に突き付ける。振りかぶったカツミさんの攻撃をかわし、近づいた隙に手首を掴むと背負い投げの要領でカツミさんを投げ飛ばした。けど、カツミさんは受け身を取って素早く転がると態勢を立て直した。カツミさんは竹刀を下段に構える。トシさんは上段。竹刀が交わる。勢いよく体当たりしたのはトシさんだった。二度、三度、ぶつかるけれど、カツミさんは身体を縮めて防御する。
 ふたりとも同時に後退した。早い打ち合い。トシさんの切っ先がカツミさんの喉に突き刺さって見えた。誰も止めるものはいない。僕は段々どきどきしてきた。カツミさんの竹刀が胴を叩く。打ち込む位置が悪かったのかそれほど力はないように見えた。その隙にトシさんがカツミさんの横っ面を思いっきり殴る。怯んだ隙に今度は竹刀で滅多打ち。カツミさんの身体が重心を崩すとトシさんは頭に飛びついて地面に叩きつけようとする。踏ん張ったカツミさんが竹刀の柄でトシさんの横っ腹を殴る。
 少し距離を取ったトシさんは袴の隙間から砂のようなものを投げた。カツミさんは思わず顔を庇う。その間に猛攻。カツミさんは僕の近くの壁まで追いやられ、トシさんの身体と竹刀と壁に挟まれた。カツミさんの竹刀を持つ腕はトシさんの片腕で防がれ、トシさんは容赦なく胴に竹刀を押し付ける。
「わかった! 降参するよ!」
 完全に身動きを封じられ、急所をぐりぐりされていたカツミさんが言った。それでやっとトシさんは攻撃の手を緩めた。
「相変わらず邪道だ。砂持ってくるかな普通」
「勝てりゃいいんだよ」
 面を外したトシさんは汗だくで笑っていた。口の右側だけが吊り上がっていて目が座っている。
「これが日野の流儀だ」
「恐れ入るよ」
 ギャラリーはいつの間にか解散していた。トシさんとカツミさんは何事もなかったかのように話している。これが日常風景なのだろうか。僕の心臓はばくばくいっている。深呼吸して僕は人のいなくなった出入口を見つめる。
 斗羽くんの姿はなかった。

「坊ちゃんは万願寺の方に住んでるよ」
 トシさんの声が聞こえた。道場近くの庭をうろうろしていると、胴着姿のトシさんがやってきた。カツミさんは素振りをしているみたいで、竹刀が空を切る音が響いていた。
「紫煙タイムだ」
 懐から煙草箱を取り出した。ライターの歯車が心地よい音を鳴らす。銘柄は見覚えがあった。
「斗羽くんと同じ」
「私があげたからね。カートン買いしてあの子に送ってた」
 煙が顔に当たる。キツイ匂い。でもちょっと甘い。ハルも斗羽くんも喫煙者だったからつい親近感が湧いてしまう。斗羽くんが言っていた東大の姉貴さんはきっとこの人だ。そうに違いない。
「翔子さんについて教えてよ」
 上を向いて青空に吐き出される煙。太陽がくぐもって見えた。
「私たちの知ってるのはなんていうか偶像だから」
「どんな風に言われてたん?」
 僕はむしろ他人から見た先生の姿が知りたかった。トシさんは大きく煙草を吸いこんだ。
「そうだな。孤独を愛する人。一人でいても平気。でも傷だらけ。分かり合えないことが許せない。それ故に素晴らしい理論を構築できた人」
 私は話したぞ、と目が語っている。僕は迷った。どのエピソードを話せばいいのだろうか。頭が良くて、整理整頓がすごく好きで、口煩くはないけれど、自分の正しいと思ったことを破るとすごく怖い人とか。でもトシさんはそういう表面的なことを聞きたいんじゃないと思った。でも先生の深いところを話すことは、僕の深いところを話すことほとんど同じになってしまう。
「ある時のぉ友達に「ここは苦しゅうてたまらんちゃ」って言われちゅう」
 トシさんの目が猫のように細くなった。
 ハルを乗せて自転車を走らせてたら突然そんなことを言いわれた。
「なんちぁ?」
「ここを出たいちゅーて」
 僕は自転車を止めて振り返る。悪戯を思いついた子供のような表情をしていた。
「芥太も連れてっちゃる」
 僕は何も言えなかった。沈黙が嫌になったのかハルは溜息を吐いた。
「あんたはいつもそうだっちゃ。意気地なし」
 頭がくらくらした。でも僕は連れて行ってとは言えない。
 先生がいるから。
 近所のおばちゃんに言われたことがある。
「先生のぉ。つらいおひとちゅーて、守らにゃいけんちゃ」
 先生は昔、東京に住んでいた。でも出戻ってきた。僕は先生に東京で何があったのか聞いたことがある。
「私は数理歴史学の特に時間漏失理論に熱中していました」
 時間には重さがあって、歪みの場があって、そこにすべて過去が保存されている。そしてその時間はいつか蒸発して露出するという理論だって教えてくれた。詳しい計算方法とかそういうのは教えてもらっても解らなかった。ただ先生のアイデアを誰も取り合ってくれなかった理由が何となくわかった。
「わかってくれたのは教授だけでした」
 先生が懐かしそうに言った。先生はあんまり昔の事を語らなかった。でも噂とかはあって、先生の昔話は僕の耳にも入ってくる。
 東京の大学でたったひとりで研究に没頭していた先生は変人扱いされていた。途中でやてきた教授だけが先生の理論を取り合ってくれたらしい。教授の地位にあってもその人は夢想家扱いされて、その人には先生が必要だったし、先生にもその人が必要だった。その人と大恋愛をして先生のお腹に赤ちゃんが出来た。でも僕の知る限り先生は結婚してないし、子供もいない。
 自転車屋さんのおじちゃんが言うには、先生の子供はお腹の中で死んじゃったらしい。
「翔ちゃんのぉ。電車で血ぃ流しとってん。お腹の赤ちゃんおおきくなるん忘れちゃったちぁ」
 先生が流産したのは春休みで里帰りの最中だった。萩の病院でお腹の中を綺麗にして先生はそのまま萩に残り、東京には戻らなかった。
「そのすぐあとやった。おめぇがゴミ捨て場のわきに捨てられちょったんは」
 誰が言ったかは忘れた。大人はみんなそう言ったのかもしれない。先生が拾った赤ちゃん、つまり僕の出自の話のどこまでが本当はかわからない。
「芥太ちゅうんは、先生のお腹の赤ちゃんの名前じゃ。おめぇは生まれ変わりなんやわぁ」

 トシさんは二本目の煙草を蒸かしている。
「先生の机に手紙はがあって、見たらだめだって分かっとったけど、ハンコ探してる時に見つけた。そいで、宛名、吉田栄太郎って。天国の息子へって書かれちょった」
「そうかい」
「みんな間違がっちょった。生まれ変わりじゃないんよ。先生にとっては違う」
 僕は先生の息子ですらない。僕は悲しむべきだと思った。でも涙は出ない。
「あんた不幸な子だね」
 煙が顔にかかった。
「んでなんかが間違ってるって思ってる」
 そうだよ。この世界はおかしい。ハルが死んだことも、斗羽くんが転校しちゃうことも、僕が一人旅してることも、公ちゃんが萩で待っていることも、先生が迎えに来ないことも。
「間違った世界はぶっ壊れるべきなんだよ」
 トシさんは言った。
「そんなこと、ない」
 胸が苦しくなって僕は吐き出した。トシさんは否定するでもなく、でもはっきりと自分の意見を僕にぶつけた。
「私にもしぶっ壊せる力があるなら嘘くさい幸福の世界を壊したい」
「僕は不幸だから……」
「だったら余計に壊したいと思うもんじゃないの?」
 なら僕は幸福なのだろうか?
「あんた本質的に傷ついたことのない子なんだ」
 どん、と衝撃を受けたかのように僕は不自然に身体を曲げた。
「悲しみを感じる感度が弱い」
 煙草を揉み消してトシさんが僕に少し近づいた。
「殺しの剣を握るのに適任だ」
 僕は自分でも意識できるくらい目をぱちぱちさせた。
「教えてやるよ」
 トシさんは僕に詰め寄った。
「手ぇ出しな」
 掌に固い感覚。ずっしり重くて冷たい。僕は視線を彷徨わせた。
「うちの家宝。堀川国広。脇差。中学生に打刀や太刀は重たいからね。ちなみに真剣だ。多分、今後必要になる」


 
 僕は道場の床に寝そべっていた。身体が重い。人生で初めてこんなに身体を使ったかもしれない。
「もし腕掴まれたら軸足を左にして背中に回り込んで引き倒す。そんでそのまま首をずばっとだ」
 僕は現代社会でもっともいらないスキルを教えられている気がする。特に砂を確実に目に入れる方法とか一生使わないと思う。
「けどすごいよ。素質あるね!」
  カツミさんがスポーツドリンクを差し出した。僕の動きは結構いい線いっているらしいけれど、さっきからトシさんにぶっ倒されてばっかりだからあんまり実感がない。
「天然理心流では様々なパターンを想定して稽古をする。柔術との組み合わせも実践ならありだ」
 トシさんは鞘に入った真剣を腰にぶら下げている。最小の動きで横ではなく前に抜刀するとそのまま前に切っ先を突き付ける。刃を横に倒し、刀背に掌を添え、添えた腕の力で刀を滑らせる。首が切られた敵の姿が目に浮かぶようだった。
「今の動き練習するぞ。立て」
 飲み物を奪い取るとトシさんは楽しそうに言った。僕は立ち上がる。息はまだ荒い。トシさんの持っている刀より僕の方が短い。だから相手との間合いを詰めないと届かない。僕は一歩踏み出すと同時に抜刀する。最初の一突きは胸を狙う。それから首。
「本当に素質あるよ。うちに入門してほしいくらいだ」
 僕は座り込む。急激に眠気が襲ってきた。よく考えたら僕、昨日と今日で二時間くらいしか寝ていないんじゃないかな。床が冷たい。でも気持ちがいい。僕はそのまま意識を失った。

 僕は柔らかい布の感触を確かめた。誰かが毛布を掛けてくれたのかもしれない。うっすらする視界の中で僕は斗羽くんの姿を認めた。待って。声は出ない。僕は半覚醒状態でまだ起き上がれなかった。斗羽くんは僕を見下ろしている。夕焼けの逆光で表情が見えない。
「芥太。ごめんな」
 斗羽くんの唇の動きがやけにはっきり見えた気がする。

 気が付いたら随分と空が暗くなっていた。
 夢だったのか現実だったのかもわからない。僕は宛がわれた部屋の布団に寝かされていた。
「あ、起きた」
 カツミさんがふすまを少しだけ開けた。カツミさんを見上げる。
「トシに付き合ってくれてありがとね。トシは邪道だから嫌われててさ。あたしくらいしか相手いないから」
 起き上がった僕は欠伸を堪えて言った。
「傷つかない人なんているの?」
 僕はトシさんに言われた言葉がひっかかっていた。カツミさんは考え込んでから言った。
「正確には傷の治りがはやい人間がいるんだ。それって自分を愛してるからできるんだよね」
「よくわかんない」
 僕はカツミさんを見上げる。カツミさんは飲み終えた缶を潰すと僕の目を見た。
「多分あたしも傷の治りが早い側の人間。それでも傷つくことはある」
「どんなこと?」
「世界の秘密を暴いちゃったこと」
 あっと声が出そうになった。世界の秘密を掴んだみたいな感覚には身に覚えがある。ハルの手紙を読んだ時がそうだった。
「秘密?」
 カツミさんの顔に影が出来た。
「芥太くん。この世界はね。もうずっと昔から水没を繰り返している。しかもかなり短期間で」
 僕はぎょっとした。カツミさんが続けた。
「水没して、また大地が浮上する。そうするとね。巻き戻っているんだよ」
「何が?」
「時間が。そして幕末からはじまるんだ。あたしたちの歴史がね。トシは見つけちゃったんだよ。幕末から今とはちょっと違う歴史を辿った前回の世界の痕跡をさ」
 漫画の話でもしているのだろうか。でも心臓がばくばく波打っている。冗談と笑い飛ばせない何かを僕は掴んでいる。
「そして世界が水没する時、必ず人間が『誰か』に戦いに挑む。そして負ける。歴史書の一次資料にそういう記載があるんだ」
「誰かって誰?」
 カツミさんはつかのま口ごもった。
「そうだね。しいていうなら神様かな。神様が勝つと世界は巻き戻る」
「もし神様が負けちゃったら?」
 カツミさんは僕の質問に答えなかった。

 翌朝、僕はなぜか脇差を握りしめたまま茶の間に来た。
 茶の間には朝食が用意されていた。ご飯とお漬物と茄子のお味噌汁。トシさんが作ってくれたらしい。申し訳ない気持ちがして僕は肩身を狭くして箸でご飯をつつく。トシさんは物凄いスピードで食べて雪崩が起きそうなくらい積み上げられた本の山から器用に数冊の本を取り出すとちゃぶ台で読み始めた。朝の陽ざしがまぶしい。今日はいい天気だ。
「なに呼んでるの?」
 背表紙も汚れて分解しかかった本を開いたトシさんが顔をあげた。昨日見た皮肉気で戦闘的な雰囲気は無くなっていて、眠そうな女の子の顔だった。
「昭和十九年の雑誌。コラム記事ってのは馬鹿にできないんだ」
「トシの研究対象がニッチだからね。ヒントが散在してるんだよ」
 茶の間にはトシさんとカツミさんしかいなかったけれど、他の人の気配が常にあった。仏間からお線香の匂いがするし、廊下を人が通り過ぎる、床の軋みが聞こえる。僕はお味噌汁を啜りながらカツミさんを見上げた。僕は昨日の夜、カツミさんと本当に話をしたのか聞きたかった。カツミさんは畳に無造作に散らばっている煙草とライターを手に取ると、ライターの歯車がうまく回らなくて何度か失敗しながら一本引き抜いて火をつけた。穏やかで擦れたところのなさそうな人だから僕は少し驚いた。カツミさんはあんまり深く煙を吸い込んでいないみたいで、煙が部屋に広がった。慌てて廊下の窓を全開にしたカツミさんにトシさんは呆れたように言った。
「下手くそだな」
「吸いなれないのよ」
 トシさんも煙草を取り出す。手慣れた様子で煙草を咥える。
「火ぃちょうだい」
 カツミさんは顔を近づける。僕は驚いて凝視した。カツミさんの煙草の先にある火がトシさんの煙草に燃え移る。僕は冬の日に見たものを思い出した。
 萩は比較的温暖で、あんまり雪が積もったりしない。けれども十二月から二月にかけては断続的に雪が降り続く時もあった。あれは町中がうっすらと雪景色になった頃だった。
 ついこの前の十二月。僕は斗羽くんとハルがキスしているのを見た。
 正確にいうとそれは唇をくっつけるって意味じゃなくて、煙草と煙草をくっつけて火を移しかえるってやつだった。あとでハルからシガーキスって言うんだって教えてもらった。
 あれは学校の屋上だった。勉強熱心な中学だったから冬休み中でも、冬期講習として教室を解放していた。午前中に試験対策の授業があって、午後は自主学習で使って良かった。僕は集中してたから途中から斗羽くんとハルがいなくなっているのに気が付かなかった。十分休憩になったので、僕はふたりを探しに行った。ふたりは屋上によくいる。今日は寒いからいないかもしれないけれど、真っ先に見に行った。錆びた扉を開けて、雪のちらつく屋上にでる。手すりにうっすら雪が積もっていた。僕はセーターの袖を引っ張って手を隠して寒さを凌ぐ。給水塔の影にハルの後ろ姿が見えた。声を掛けようと思って近づいて、僕は立ち止まる。
 ハルのピンクの唇に挟まれた白い煙草は少し湿気て曲がっていた。煙草の先端はまだ燃えていない。そこに火が近づいていく。斗羽くんの横顔がにゅっと現れた。
 斗羽くんの顔が真っ赤に染まったように見えた。
 赤い。綺麗な赤。
 目が蜂蜜のようで綺麗。
 けれどそれは一瞬だった。
 ふたりは煙草の先端をくっつけて、斗羽くんの煙草の火をハルのに移していた。二人が深く呼吸するのが分かる。僕は無意識に息を飲んだ。顔が離れる直前、斗羽くんが僕に気が付いた。
「芥太どうした?」
 斗羽くんはいつも通り真っ白でとても綺麗だった。振り向いたハルはちょっと不機嫌そうに前髪を掻き上げた。
「なんじゃ。うらやましいんか」
 顔に血が昇った気がした。
「そげなわけあるか!」
 僕の声が思いのほか大きかったからか斗羽くんの肩が揺れて灰が胡坐の膝に落ちた。僕は居たたまれなくなって走り去った。
「はよう戻らんにゃあ風邪引くど!」
 すごく恥ずかしかった。それ以上に綺麗だとも思った。それから僕は胸がもやもやした。ハルを取られたって気持ちと、斗羽くんを取られたって気持ちが両方あって苦しかった。
 その頃の僕は斗羽くんと一番仲がいいクラスメイトは自分だって自慢に思ってた。勉強で忙しい公ちゃんより、夜遊び好きのハルよりずっと斗羽くんと仲が良かったはずなんだ。でも僕の知らない間にハルと斗羽くんはずっと進んでた。打ち明けてももらえなかった。僕は学校を飛び出した。
 僕はお城の近くでぼんやりしていたんだった。萩のお城は今はもうなくて、指月山のふもとに萩城跡としてお堀と石垣が残っているだけだ。明治七年に天守や矢倉が解体されたのは、その城が攘夷志士の決起に使われることを恐れたからだって先生は言っていた。
 僕はそのお堀に石を投げていた。時間の感覚がなくなっていた。なんか寒いなと思う頃には、十七時近かった。道が白くなって、凍っていたから自転車のスピードは出せなかった。町並みににゅっと生える夏ミカンも寒そうに白い粉をまぶしながら震えているみたいだった。
 そういえばあの時、なんで斗羽くんの顔、赤く見えたんだろう。

「それで、どうすんの?」
 僕が物思いしている間にカツミさんとトシさんが深刻そうな話し合いをしていた。
「正直妄想にしか思えない」
「そりゃそうだ」
 灰皿に押し付けられた煙草が曲がる。
「蒸発した時間から私たちの知らない過去がどんどん出てきてる。あんたの仕事はそれが事実だったとしたらどういう政治的アプローチができるか研究することだろ。それに証拠もあるぜ」
 トシさんの言葉にカツミさんは腕組して悩み始めた。トシさんが開いた本には衛星写真があった。着色されたそれは地球をバックにじっとカメラを見つめているように見えた。人類に限りなく近い、でも全く違う生き物。顔がペンキを塗りたくったみたいに真っ赤だった。視界がぐらぐらする。血の気が引いていく。どうして。いや理由は分かってる。
 死んだハルの顔は真っ赤に染まってた。顔だけ真っ赤。
 僕は神様の正体を知っているのかもしれない。
 斗羽くんに会わなきゃ。
 慌てて立ち上がる。足がしびれて咄嗟に柱を掴む。柱には横一文字の傷があった。斗羽、十二歳。リストカットの跡みたいに刻まれた身長を測った痕跡に僕はめまいがする。
「どっかいくの?」
「そのへん見てくる!」
 僕はできるだけ速足で駆け出す。シャツと短パンのまま、寝ぐせも直さず。そんな恰好なのに脇差だけは手放さなかった。土間を駆け抜ける。土間の出入口にあったサンダルを勝手に借りて外にでた。
 僕は走り出す。万願寺まで。
 

十一

 手紙なんて柄じゃないが書く。
 せめて死ぬ時の流儀だから。
 まずは打ち明けてくれてありがとう。あんたが神様だってことまだ誰にも言ってないよ。あんたは神様で、いや宇宙人のが正しいのか?まぁどうでもいいか。あんたはこの日本を良くしようと頑張ってきた。でも水没が始まって失敗に気付いた。あんたは死ぬほど後悔してる。でも自分で死ねないから私に頼んだ。信頼してくれてありがとう。でもごめん。まっぴらごめんだ。私はお先に死ぬよ。世界が終わるところもあんたが死ぬところも見たくないんだ。私はすっごく弱いから。それじゃみんなによろしく。

 高杉春風より

 甲州街道をが道なりにむしゃらに走る。中古車自動車屋と通り過ぎ、モノレールに沿って走る。走る。
 巨大なモノレールの鉄橋が町を囲んでいるみたいだ。住宅街とスーパーマーケット。唐突に出現する歴史的な家屋や神社仏閣。ここは萩にそっくりだった。
 日本橋からちょうど十里、多摩川を超えたこちら側にこの場所はある。いまは穏やかな多摩川も治水技術が拙かった頃は、洪水で何度も渡し舟の場所が変更された。貞享元年には立日橋の辺りに日野渡船場が作られた。元はといえば北条氏の領地だったここは小田原攻めを経て、徳川家康の領地となった。それ以来、幕府直轄の幕領で、同心という武田信玄家臣たちの一段がこの辺りを統治した。同心の頭は旗本格だけどれ、普段は農業を営む農民武士だった。先生のご先祖様は無給通だった。先生が言うにはいわゆる下級武士で農業が主な収入源だったらしい。
 モノレールの下は大きな道路で萩のバイパスにすごく似ている。ここだけいきなり僕たちの人生を無視して人工的に作られたみたいに見えた。
 僕は東京にやってきた。けど東京は結局萩と同じだった。僕の旅はぐるっと一周して同じところに戻ってきたみたいなものだった。
 横断歩道を走り抜けると、住宅街に入り込んだ。
 電柱に日野市石田と書かれている。口から息を短く吐き出して僕は住宅街を歩く。汗が噴き出して、胸が痛い。昨日運動し過ぎたせいで筋肉痛が出始めた。この辺りの家々は一戸建てで大きい。表札を見ると全員「土方」だった。民家の途中、お地蔵様が六人立っていた。大きなお寺と墓地が見えた。お寺の敷地内には巨大な神木がにょっと生えている。
「芥太。来たんだ。来なかったらこのままだったんだけど」
 振り返ると斗羽くんがいた。目の下にはクマが出来ていて、ちょっと痩せた様に思えた。青い空の下、真っ黒な洋服を着込んだ斗羽くんくんだけ浮いているように見えた。斗羽くんは僕の掌に視線を動かした。脇差を持ったままだった。
「銃刀法違反」
 くすくす笑っていた。斗羽くんが時々見せる萎れたタンポポみたいな笑顔だ。僕は安心した。いつもの斗羽くんだ。
「なんで何もいってくれんかったん?」
「その答え、芥太は知ってるんじゃない?」
 本当はもっと会話を引き延ばしたかった。萩で一緒にいた時みたいに他愛ない話を。最近どうしてたのかとか。これから高校でしたいこととか。ひとりで見た萩の桜の悲しさとか。ハルのことどう思ってるとか。
「なんでハルに見せたの。自分の正体」
 あの手紙はハルが斗羽くんに宛てたものだ。でも僕はわかっていてに盗んだ。僕が見るべきだと思った。
 僕は自分の旅の理由が分からなかった。なぜ行先が東京だったのか。ハルが行きたがっていたから。水没する前に見てみたかったから。どれも違う。僕は斗羽くんを追いかけてただここに来たんだ。ぶれぶれだった旅の意味にやっと形が出来た。
 その瞬間、僕の胸に宿る痛みと靄が晴れた。
 ハルはずるい。
 きっと分かってたんだ。
 僕ならハルが出来なかったことやりとげるって。
「前にさ」
 斗羽君が歩き出す。
「ご先祖様のお墓は函館にあるっていったじゃん。あれ嘘だった。ここにあるんだぜ」
 僕は墓石ひとつ挟んだ向こう側の通路を歩く。石と石の間から斗羽くんの横顔が見える。
「英雄の墓を荒らされたくないからここに埋まっていることは内緒なんだって」
 立ち止まった墓石は劣化て苔むしていた。掘られた文字も見えない。
「本家の人間はこのお墓に入れるらしいよ」
 僕は口をはさんだ。
「神様ってなに?」
「芥太は分かってたから俺を追ってきたんでしょ」
 ハルの手紙に書いてあることがすべてなら僕は知っている。
「わかんないよ。全部は知らない」
 斗羽くんは踊るような調子で歩き続けた。
「俺は神様で、ハルにそのことを教えた。好きだったから。ハルなら俺を終わらせてくれるって思ったから」
「斗羽くん、本当は普通の男の子なんだよね」
 だめだとわかっていながら祈るように言う。けど斗羽くんはやっぱり首を横に振った。
「俺は神様。この宇宙を作った。けど完璧に作っても住んでいる人々は段々壊れていく。どうしてみんな死ぬんだろう。それが俺の最初の疑問。人間に紛れ込んだ理由」
 心臓が軋んだ。
「芥太にも見せてあげる」
 斗羽くんの身体が変異する。少し銀色を帯びた真っ赤な顔。銀と赤のマーブル模様の身体。人間と同じように手足があるけれど、人間じゃないのが分かる。目は黒目も白目もない楕円のライトみたいだった。
『もう何度目だろうね。地球誕生から少しずつ調整して頑張っても、二十一世紀初頭には緩やかに破綻していくんだ。複製した地球でさえ異なった歴史を歩むことを許されないなんでおかしいじゃないか』
 長い髪のような触手が僕の頬に触れた。言葉は頭に直接響いてきた。斗羽くんの存在は青空の下、墓石に囲まれた状態であまりにも冗談みたいだった。僕は乾いた笑いを浮かべる事しかできない。
 そっか。ハルは神様の姿を模して死んだ。赤いペンキはハルにとっての斗羽くんの色だった。
 怒りがふっと込みあげて来た。
 どうしてハルに教えたんだ。ハルは繊細でか弱い女の子だった。そんなもの背負わせるべきじゃない。指に力が入る。脇差の柄が皮膚に食い込んだ。
 斗羽くんが歩く。僕も歩く。墓石が途切れ、十字路にでた。僕と斗羽くんの間合いは一メートル五十センチ。
『俺はみんなが死なないで幸福な世界をつくりたいだけなのに。君の先生は真相に気が付いていたからちょっと痛い目みてもらったけどね』
 抜刀。
 一気に斗羽くんに詰め寄る。トシさんが教えてくれた動きがまるで定められていたかのように自然に出て来た。
 胸をめがけて突き。
 避けられるのは織り込み済みだ。
 軸足を移動させて体当たり。
 左手で腕を掴んで捩じり上げる。
 右手でもった刀の背刀を首に回して引き倒す。
 抵抗はあまりなく彼は仰向けに倒れこんだ。
 砂利のこすれる不快な音が響く。
「このくそったれ!」
 斗羽くんに馬乗りになった僕は斗羽くんだった宇宙人を睨んだ。
 僕たちはずっと平穏だった。
 水没なんてどうでもよかった。
 知らなければもう一度やり直すことに疑問はなかった。
 でも僕は知ってしまった。
 こいつは先生を不幸にした。ハルを不幸にした。許せなかった。
『春風に殺されなかった時点で、俺が死ぬ可能性がなくなったんだと失望してた』
 宇宙人の触手が耳を撫でる。不快だ。不快だ!
「公ちゃんにはなんか言った?」
 僕の声は低く唸っていた。表情一つ変えない宇宙人は触手で僕の唇を撫でた。
『公園で見せた。それでも好きだって言ってくれた』
「それでなんて答えたの?」
『俺は芥太が好きだと言った』
 僕は意味のない言葉を叫んだ。まるで剣道のはじまりの合図みたいに。
 目の前が橙の液体に染まる。
 鼻の奥が熱い。ただ熱い。身体が痙攣して、指が震えた。
『間違えたんだな。地球を複製したことも、人間ごっこしたことも、みんなに出会ったことも』
 斗羽くんの大きな黄色い目が光を失っていく。赤くなった銀色の鉄が僕の般若のような顔を映す。
『はじめから芥太に頼んでおけばよかった』
 僕は怒っている。
 ハルを死なせる原因を作ったこと。公ちゃんを振ったこと。僕を好きだと言ったこと。
 もう一度、切っ先を首に突きたてる。鈍い音と共に鮮血が噴き出した。橙色。優しい色の血は温かかった。
 僕は斗羽くんを、いや神様を殺した。

十二

 アクタは、目が濁っていくのを耐え、頭脳半球の痛みに耐えながら職務を全うした。
 放射能人工太陽を破壊し、世界を殺戮した。複製物理宇宙は消失し、世界は確定される。
 彼は血濡れた刀を振り払う。オレンジの血飛沫が白い空間に飛び散って、へたくそな現代アートのようだった。ホワイトスペース、宇宙を消し去った先にある時空間でにアクタは経っていた。宇宙生命体が横たわっていた。顔はメタリックレッド。身体は赤と銀まじりのグラデーション。人体構造は限りなく人間に近い。
「自分の空想は物語にするくらいで納めなよ。物理宇宙に実装するな。どうせ管理しきれなくなるんだから」
 アクタはつぶやいた。

 宇宙に存在する生命体の居る星の歴史は超時空種族によって歴史書として記述されている。歴史書とは人間の感覚で言えば、自らの住む宇宙全体のことだ。
 いまから数千億年前、超時空種族たちは無数に増え続ける異書の存在に疑問を持った。惑星ひとつの歴史を改変するなんて大きなことが、物理空間的に制約を強く受ける人類型の生命体に出来るはずはない。そして彼らは人間型の知的生命体の星にだけ干渉し、異常な執着心で星を宇宙ごと物理空間に複製する宇宙生命体の存在を知った。
 その生命体を仮に『神』と呼称しよう。
 神の行動原理はまったく不明である。
 いかに知性のある生命体の星であれ、その生命体の物理的限界を超えることは不可能だ。しかし異書の宇宙ではその限りではない。不可能な発展を遂げる為には、すべてが刷新される必要がある。例えば、地球という星のすべてを刷新した時にその星に住む人々を人類と呼べるかどうかは疑問がある。
 異書の問題点は人類の限界を遥かに超える出来事を起こしておきながら、都合よく人類が『そのまま』である点である。地理的要因を無視した発展はあり得ない。地震の多い国で石畳の街並みが自然発達するのは難しいし、極寒の土地でバオバブのツリーハウスは生まれないだろう。しかし異書の宇宙ではそういったことが可能なのだった。もちろん破綻は起こる。せいぜい数百年で破綻が何らかの形で発生する。吉田芥太の世界では水没という形で破綻が現れた。
 生み出した異書の宇宙は破綻し、また再生させる。それ故に、その宇宙の人々は死ぬことを許されない。それこそ何百年も何千年も何万年も。人類型の生命体の精神に耐えられることではない。
 そこで超時空種族たちは異書の宇宙を破壊する存在を見出す必要があった。それが『神の殺戮者』である。神は通常単数である。しかし殺戮という大量に人を殺すという意味の言葉を用いるのは、神を殺せば必然的に異書の宇宙に住むすべての生命体を殺すことと同義だからだ。
 神の殺戮者は超時空種族以外から選出されることが望ましいとされている。
 なぜか? 超時空種族は宇宙の生命体のことを文字として認識する。生命体に敬意や憐れみ、それを総合して愛とでも言っておこう、を持つができない自分達の欠点をよく知っていた。愛のないもにに殺される多数の生命は幸福だろうか? だから彼らは殺戮者として適正があり、かつ他者に心を、愛を寄せられるものを求めていた。
 アクタが吉田芥太であったころの日本の歴史では、アヘン戦争で中国は勝利を収めるし、フランスの第二帝政が崩壊するのは第一次世界大戦の直前と随分長続きしたし、アメリカの発展も非常にゆるやかだ。東京を中心に第二の発展を遂げた徳川幕府は、軍国主義を逃れ、外交によって 列強との闘いを避けつつ発展した。それによって、平成時代は幕府が軍事政権として政権を硬直化させており、一党独裁国家として激しいグローバル化の波を乗りこなしていた。その一方で、安政の大獄と呼ばれる思想弾圧が起こり、人々の自由は著しく低下していた。山口県にいた芥太が知る由もないが、政治闘争の果てに函館に遷都することが決まったのだ。水没は口実にすぎなかった。
 芥太が斗羽として生きた『神』を愛ゆえに殺したことで、超時空種族たちは彼を神の殺戮者に認定した。
 長い年月芥太は神の殺戮者として生きてきた。名前もアクタと文字を変えた。
 意味は『演ずる者』
 結局彼もまた異書の宇宙の登場人物にすぎない。
 
 アクタは闘いに負けた事はない。むしろ残虐に屠ってやるのが常だった。
 かつてトシと呼ばれた女性は芥太を傷つかない人間だと言った。
 かつてカツミと呼ばれた女性は芥太を傷の治りのはやい人間だと言った。
 頭はずきずきと鈍く痛み、末端神経の鈍りは著しい。戦うたびにアクタは傷ついている。傷ついていると思いたい。
 彼は目を閉じた。
「さみしいよ」
 友達を殺したこと、友達を故郷に置いてきたこと、友達を死なせたこと。先生を捨てていったこと。
 それでも彼は自分自身の傷も過去も愛したかった。

文字数:38167

内容に関するアピール

この話は「銀魂世界の百数十年後に転生して坂田銀時が土方十四郎に化けたウルトラマンをぶっ殺す話」と説明するのが一番適切かもしれない。土地の記憶についての空想科学物語を書きたいと思っていたけれど、講座の最後まで私は悲しいくらい二次創作しか書けない人間だと思い知った。つらい。でももうそれでいくしかない気がする。
萩と日野は因縁の土地、だなんて思っている人はあんまりいないと思う。日野はむかしの武蔵野国多摩群に当たる。『武蔵野』を書いたのは国木田独歩だけれども彼は山口県育ちだ。山口育ちが武蔵野について書いたという事実に対し人はもっと注意を向けるべきではないか。私の山口県出身の友人も萩と多摩地区は似ていると言っていた。私を駆動させたのは地元への愛憎と関西への憧れと憎しみだった。私の地元は主観だと右翼がすごく多い。それは新撰組を生んだ土地柄のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。だから私は左翼を目指したけれども、結局こんなマッチョな話を書いてしまった。土地に呪われている。

私の妄想の世界ではこうだったかもしれないで満たされている。私は今の世界をあんまり肯定できない。でもいまの世界が存在することを認めて生きていくしかない。いまを肯定するためにこの物語が私にとって必要だった。物語は正直、荒削りでまとまってなくて、無駄の多い。本当はこれを流通に乗せられるようにチューニングすべきなんだけど、それは出来なかった。そこだけが心残りだ。
もしこの物語を楽しんでくれる人がいるなら本当に嬉しい。

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