隣接世界

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隣接世界

あまりにも無惨すぎる。被害者の体は鋭い牙で何度も噛まれたようにズタズタに引き裂かれていた。河辺警部は検死報告書を読みながら犯人を一刻も早く捕まえなければと改めて心に強く思う。検死報告書の見解は、熊のような猛獣に襲わられたのでなないか? と書かれている。都心で熊なんて考えられない。大きな野犬も令和の今の時代は存在しないだろう。河辺は、二十年前の警察官になりたての頃に起きた不可解な出来事を思い出した。十歳くらいの少年と少女が野犬のような動物に襲われて、少年は怪我をして少女は行方不明になったと記憶している。あの時の、あの野犬のような猛獣がまた現れたのだろうか? あの少年も今は大人になっているだろう。まだ生きていれば。少女はどうなったのか? 行方不明のままなのか? 河辺は曖昧な記憶を呼び起こそうとしたけれどうまくいかなかった。もどかしいまま黒い不吉な予感が胸いっぱいに広がっていた。 

始まりは黒い長いコートを着た男だった。沢村和也が初めてその男を眼にしたのは朝の通勤電車の中だった。背が高くて混雑している車内で頭ひとつ突出して天井に触れそうだった。和也はその男の背中側にいて後頭部を見上げるようにして吊り革につかまっていた。だから顔は見えない。最も奇異なことは真夏なのに黒いコートを着ていることだった。和也が降りる駅に着く。ドアが開いて吐き出される人の流れに乗って和也はホームに降りる。あの黒い男も一緒に降りるのを和也はたしかに見た。しかし、ホームを歩きながら探したけれど黒い男の姿な見えなかった。あんなに目を引く大男なのに見失ってしまったのだろうか? まあ、どうでもいいことだけれど、と和也は仕事場に着くころには忘れてしまった。しかし、その日から黒い男は和也の周りに頻繁に現れるようになった。

和也の日常は規則正しい時間が流れていた。毎朝決まった時間に起きて八時になると家を出て、毎朝同じ時刻の電車の同じ車両の同じ場所に乗っている。そして夜は決まった時間に朝のルーチンを逆回転するようにして帰ってくる。電車の遅延や仕事の都合でたまに乱されることはあるけれど和也にとっては些細なことだった。ところが、黒い男が現れるようになって和也の平穏な日常は少しずつ狂い始めた。水槽の透明な水に一滴の黒いインクが落とされたようにして。黒い男の姿は和也にしか見えないようだった。何者なのか何故現れるようになったのか和也には全く分からなかった。いつも何の前触れもなく、ふと気がつくと黒い男は和也の眼に入る場所に立っている。必ず一定の距離を置いている。黒いフードを被っているので顔はよく見えない。だから、年齢は分からなかった。和也はずっと男だと思っていたけれど、もしかしたら女性かもしれないと考えるようになった。
 黒い男を見かけるだけで生活が狂うことはない。何故狂うのか? それは、黒い男を眼にすると、和也はいつの間にか見知らぬ不気味な世界に迷いこんでしまうからだった。そこは、地球上には存在しないような異様な世界だった、人工物と思える建造物や見たことのない植物、そして、見たこともない不気味な生物が蠢き犇めいていた。自分がなぜこんな異様な世界に来てしまうのか和也には分からない。いや、本当は分かっている。あの黒い男の仕業だ。でも、こんな事が現実として起こるものだろうか? あの黒い男もこの不気味な世界も全部、自分が見ている夢ではないのか? と誰もが考えそうな疑問を和也は自分にぶつけてみる。しかし、その疑問の答えを導き出す方法を和也は思いつかなかった。

このことを同僚や友人に話してみたけれど、思った通り誰も信じてくれなかった。黒い男が現れて「あそこに立っている」と言っても、「何処にそんな男がいるんだ?」と軽くいなされてしまう。不気味な世界から戻ってきて「今いた世界にはタコみたいな顔の怪物がいた」と言っても「昼間から夢でも見てるのか?」とまともに相手にしてもらえない。和也は、自分の身に起こっていることが、幻想なのか現実なのか確かめたいと切実に思った。現実だとすれば証拠が必要だ。次に黒い男が現れて不気味な世界に行ったら、誰もが納得できる証拠を手に入れよう。和也は初めて黒い男の出現を待ちわびた。ところが、あれほど毎日のように現れていた黒い男の姿を見かけなくなった。どうしたのだろう? やっぱり自分の妄想から生まれた幻だったのか? 疲れがたまっているのだろうか? 休暇をとって旅行にでも行ってリフレッシュしようか、と思っていたら、帰りの電車の中に黒い男は現れた。混雑していた電車内から不気味な世界へと和也は転移させられる。もう何度目だろうか? 何度来てもこの世界は気味が悪くて気分が悪くなる。幸いなことに、ここに棲息している気味の悪い生物たちは和也のことを認識できないようだ。異世界からきた生命体には反応できないということなのか? 和也の心に少しだけ余裕が生まれる。 今、目の前に広がっている情景が現実だとしても、あるいは幻想であったにしても、和也の眼に映り脳が反応しているのだから、和也にとっては真実の情景であることに間違いはない。機械の眼にも認識できれば現実、できなければ和也の脳が生み出した幻想だ。和也の右手にはスマホがある。この不気味な世界に迷い込む前に誰かと通話していたという記憶が和也にはかすかにある。しかし、相手が誰だったかは分からない。その誰かとこの異様な世界は関係があるように思えたけど思い出せない。通話の相手はあの黒い男か? いや、違うような気がする。まあ、いい。そのうちに思い出すだろう、と和也は自分に言い聞かせた。今は、この世界が現実なのか幻想なのか確かめることに集中しよう。和也は数メートル先で蠢いている緑色をした六本足の大きなトカゲのような生物にスマホのレンズを向けた。写真は撮れた。どうやら機械の眼にもこの不気味な生物たちは見えるようだ。ということは、この世界は幻想ではなく実在しているんだ。人類が生存している世界のすぐ隣に誰にも気づかれずに存在している隣接世界があるんだ。この写真を見せればみんな信じてくれるだろう。和也は立て続けに数枚の写真を撮った。しかし、これらの写真も含めて全部が夢である可能性もまだ捨てきれない、と和也は冷静に考えていた。写真はこれくらいでいいだろう、これが最後の一枚、と決めて和也は十メートル先のちょっと盛り上がったところに立っている、猟犬のような四足獣にレンズを向けてシャッターボタンをタップした。それと同時にスマホ画面に映るその生物の顔にある四つの眼が光った。え、気づかれたのか? 和也は十メートル先の四足獣を見る。静止していた四本の足が動く。ゆっくりと近づいて、いきなり走り始めた。和也は驚き獣に背を向けて逃げ出した。和也は全力で走った。しかし、まるで夢の中で走っているようで体が思うように動かない。やはりここは夢の中なのか? このままではすぐに四つ目の四足獣に捕まってしまう。それで夢から覚めるのならばいいけれど。夢でなく現実だったらどうなるんだ? 獣の低い唸り声と息づかいの音が背後に迫ってくる。追いつかれる。と思った瞬間、和也は電車内に戻っていた。青ざめて息を切らして汗だくになっている自分に向けられる視線が痛かった。
 翌日、写真を同僚や友達に見せたけれど、写真なんていくらでも偽装できる、と言われて信じてもらえなかった。

黒い男との一定の距離は少しずつ縮まっていた。あれ以来、不気味な世界に行ってもあの四足獣に出会うことはなかった。そしてついに黒い男は和也の目の前に現れて声をかけてきた。初めて現れたときと同じ朝の電車の中だった。フードの奥に隠れていた顔は深い皺が刻まれている老人のそれだった。そのときは何故か隣接世界に転移させられることもなく男は声をかけてきた。
「わたしのことを覚えているか?」
 和也は、どうして僕に付きまとうんですか? と言おうとしたけれど言葉を飲みこんだ。フードの奥で光る老人の眼に見つめられて、和也の記憶の深い底で何かが動いた。
「降りよう」
黒い男の声に操られるようにして和也はホームに降りた。和也がいつも降りている駅のひとつ手前だった。
 和也は黒い男の背中を追いかけるようにして歩く。老人のような顔をしているけれど歩く速度は速い。和也は少し息を切らしながら男の背中を見失わないように必死に歩いた。歩き始めてから十分ほどが経過して和也は足が疲れてきた。「いったい何処まで行くんですか?」と黒い背中に声をかけたけれど男の足は止まらない。和也は心の中で舌打ちをして歩き続けていると、黒い男は唐突に立ち止まった。和也は黒い背中にぶつかりそうになるのを何とか堪えて立ち止まる。辺りを見回すとそこはなんとも言えない居心地の悪い場所だった。どうやら建物の中のようだった。しかし、和也はずっと外を歩いてると思っていたので、建物の中に入った記憶はなかった。壁と天井の直線が微妙に歪んでいるように感じる。角度も変だ。ここに立っているだけで目眩がしてくるようで気分が悪くなる。ああ、そうか、歩いているうちに不気味な隣接世界に移行していたんだな、と和也が思っていると、フードの奥の口が開いた。
「もうすぐ約束の時間だ。まだ思い出せないのか?」
 和也にはこの黒い男と約束した記憶はなかった。しかし、黒い男の顔を見続けていると心の奥深くにあるスイッチが入ったようにして、ある情景が映像になって頭の中に浮かんできた。

十歳くらいの少年と少女が学校帰りの道を歩いている。少年は和也自身のようだ。これは僕の子供のころの記憶なのか? 周りの風景は郊外のようだけれど、僕は都会の小学校に通っていた。こんな長閑なところじゃなかった。この映像は、目の前にいる黒い男に見せられているのか? 和也はフードの奥の男の眼を見つめた。男は何も言わない。しかし、少年の情報が和也の頭の中に流れこんできた。
 少年は不思議な目を持っている。普通の人には見えない、時間の隙間に存在している別世界が見えてしまう。部屋の角にその別世界は現れる。そのとき、こちらの世界の時間は止まっている。だから少年は時間の隙間世界だと思っている。生まれたときから少年には見えている。少年は好奇心からその別世界を覗く。そこには、こちらの世界の人類には全く理解できない、恐らく分かりあうことは出来ない、悍ましい生き物たちが生存している。
 二人の前方の空き地に野良犬が現れる。少年の目には何も無かった空間に突然現れたように見える。時間の隙間世界からやって来たのだろうか? と少年は思う。少年の背丈ぐらいある大きな黒い犬だ。体毛がない。そして、目が四つある。コイツは隣接世界にいたあの四足獣だ。僕は子供のころに遭遇していたのか。少年は震えながらも少女をかばって犬がいる空き地を通り過ぎようとする。犬との距離は十メートルくらい。これなら大丈夫だ。犬と目を合わせないように慌てずゆっくり歩けば。犬が近づいてくる。唸り声が聞こえる。犬が二人に飛びかかろうとした一瞬前に、少年は少女の手をとって走り出す。
 和也は少年と同化しながら映像を見ていた。間違いない。この少年は僕だ。僕は不思議な世界が見えてしまう眼を持っていた。親に言っても友達に言っても誰も信じてくれなかったけれど。一緒に逃げている少女。彼女だけが僕の言うことを信じてくれたんだ。そしてこの後、僕と少女は。映像は、犬に追いつかれた少年と少女を映した。そこに、どこからともなく若い男が現れて少年と少女を助けようとする。犬は少女だけを口に咥えて連れさり姿を消してしまう。次に若い警官が現れる。和也少年は保護される。助けてくれた若い男はいつの間にか姿を消している。和也の心の中の映像はそこで終わった。

和也は思い出した。少女を連れ戻すことができるタイムリミットが迫っていることを。この黒いコートの男は、あのとき助けてくれた若い男の人だ。あまりにも長い間、隙間時間を彷徨っていたので、こんなにも年老いてしまったのだろうか?
「思い出したか?」男が言った。
「はい。でも、僕はどうして忘れていたんだろう?」
「過去の嫌なことを忘れることで正気を保っていたんじゃないかな?」
 そうかもしれない。きっとそうなのだろう、と和也は思った。でも、もう逃げられない。次の新月の夜になると、隣接世界に棲息しているあの不気味な生き物たちがこちらの世界にやって来る。何故だか僕はそのことを知っている。子供のころの僕が、あいつらをこっちの世界に呼び寄せてしまったのか? いや、そうじゃない。あいつらはずっと昔から、こちらの世界のことを知っている。こっちの世界の人類が生まれる前の遥か昔の太古から、あいつらは生存していて、こっちの世界にやって来るタイミングを見計らっていたんだ。どうしてだ、どうして、僕はそんなことを知っているんだ? 和也は戸惑い混乱していた。
「まだ全部は思い出せないみたいだな」黒い男がフードの奥の眼を光らせるようにして和也に言う。和也は黒い男の強い視線を感じながら過去を振り返る。子供の頃の記憶を呼び覚まそうとする。見せられた映像から時間を遡るようにして、自分が何者なのかを思い出そうとする。そして、頭の中の霧が晴れるように和也は記憶を取り戻していった。
 そうか、僕は本当は、あの不気味な隣接世界の人間なんだ。人間と言って良ければだけど。あの四つ目の四足獣は、僕を、あっちの世界に連れ戻そうとしているんだ。「そうですよね。あなたも僕を連れ戻そうとしている」和也は黒い男に言う。「僕が過去のことを思い出すように遠くから姿を見せた。そして、僕を隣接世界へ連れて行った」黒い男は大きくうなずく。
「僕は、あちら側の世界から、こちら側の世界に脱走したんだ。そして、こっちの世界の子供に成りすました。記憶を失ったけれど、隣接世界が見える眼は持っていた。だから、不思議に不気味に思いながら隣接世界を覗いていて、猟犬の四足獣に見つかってしまった。連れ去られた少女の名前は、確かアンナ。僕があちらの世界に帰れば、アンナもこっちに返してくれる、って約束でしたね」
「約束の期限が迫っている。どうする?」
「次の新月の夜は今夜でしたね。アンナは助けないと。行きますよ」
 黒い男は歩き出した。和也は、黒い背中を追いかけるのではなく、隣を歩いた。
「隣接世界はこっちの世界と時間の流れ方が違うから、アンナはまだ子供のままかな? それとも、僕より年寄りになっているのかな? あ、そうだ、あのとき僕を保護してくれたおまわりさん、名前は思い出せないけど、まだ生きてるのかな?」
 和也の問いかけに黒い男は答えることなく黙って歩き続ける。和也も黙って歩き続ける。
 新月の暗い夜の闇の中に二人は溶け込んでいった。
                                 
                                了

文字数:6109

内容に関するアピール

ホラーサスペンス感満載のストーリーを楽しんでください。
 と猛烈にアピールしたいのですが、ストーリーを上手く構成することができず、6,000文字しか書けず、情けない結果になってしまいました。こんなちんちくりんな出来損ないですが、想いをこめて書きました。短い拙い文章の中から少しでもホラーサスペンスを感じ取ってもらえたら幸いです。
 梗概を少し変更しました。未来のパートは削除して現代パートだけにして、ホラーに寄せました。本当に全力で寄せようとしたのです。力不足を痛切に感じています。
 連続受講をしてきましたが全然上達することなく時間が過ぎて歳をとりました。体は老化していきますが気持ちは変わらないので、この先も生きている限り想像し続けて書き続けたいと思います。
 一年間ありがとうございました。

文字数:344

課題提出者一覧