薄氷
荒い息遣いが交錯する。ブーツのラバーが床を鳴らす。肩のアクチュエーターの駆動音が響き、小刻みに動き続ける人工筋肉に引っ張られて鋼の腱が軋む。周囲を取り囲む歓声と怒号は彼方ほど遠く、俺と相手は光で満ちる二四フィートのリングの上で向かい合っている。
相手が身体を揺らしながら踏み込み、左のボディブローを放った。俺の鋼の右腕は考えるまでもなく、あるいは父さんの意志によって動き、相手の拳を肘の外部装甲で防御する。激しくぶつかり合った金属音が耳をつんざき、視界の隅で火花が散る。俺はフットワークを緩めることなく相手から距離を取った。間合いを詰めてくる相手をジャブで牽制。しかし相手はガードを上げ、容赦なく突っ込んでくる。典型的な近距離格闘術。俺は立て続けに繰り出される左右からのフックやストレートを上体を反らして躱し、冷静に距離を保ちながら手数を重ねる。ジャブ。右ストレート。ガードが開いたボディに左フック。しかし同時に相手のカウンター。肩部装甲に衝撃。ラウンドの終わりを告げるゴングが鳴った。
青コーナーに用意されたスツールの上に腰を下ろし、リングの支柱に背中を預けると、すぐにセコンドに入る二人が俺を囲む。会長の矢藤はいつの間にか切れていた俺のまぶたに止血用のジェルを塗る。競技用義腕の製造元であるR.I.P社のエンジニアである韮崎は肩甲骨のあたりにある注入口から義腕に冷却剤を流し込み、最後に一撃を貰ってしまった肩部装甲の状態をチェックする。
「最後のは余計だった。応急処置はできるが肩の接続部がいかれてる」
「よく我慢したな、小僧。だが足が止まってきてるぞ」
「分かってるよ。最後は少し欲が出ただけ。次はきっちりやるよ」
俺はアドレナリンが口を突き動かすのに任せて乱暴に答えながら、身体の前で合わせた拳に視線を落とした。昆虫由来の強化筋線維と超高密度のカーボンナノチューブを複雑に編み込んだ人工筋肉。軽量性と耐衝撃性に優れた超硬チタン鋼製の内骨格。それは、人を殴り、倒すために最適化された機械の腕であり、俺が存在する意味でもあった。
拳の先――反対側の赤コーナーに座る相手を見据える。俺よりも一回り大きく、同じように鍛え抜かれた身体。けれど相手は俺と違い、生身の腕に機械の外骨格腕を着ている。
所説あるものの、この機甲拳闘という競技は生身の腕にアクチュエーター搭載の外骨格椀を非侵襲式で装着する着用闘技者よりも、侵襲式のマイクロチップを脳と肩口に埋め込み、腕を義腕に換装した義体闘技者のほうがエネルギー効率や出力の関係から優れていると言われている。だから俺は負けることが許されない。それはたとえ、立ちはだかる相手が俺よりも遥かにランキング上位の闘技者であっても、だ。
「応急処置は問題ない。それでもあと一発が限度だと思ってくれ」
「前後左右だけじゃなく、上下にも揺さぶっていけ。お前なら大丈夫だ。狙って決めてこい!」
韮崎が言い、矢藤が俺の肩を叩く。俺は立ち上がった。
汗に濡れた身体と熱を持った金属の腕がリングに降り注ぐ照明を受けて鈍く光る。右拳で胸を叩き、構えを取る。前へ進み出る。俺たちは再び対峙する。レフェリーの声とともに、再開のゴングが短く鳴った。
相手はすぐに間合いを詰めてきた。矢藤の言う通り、彼はこのラウンドでの決着を望んでいた。俺はステップを踏みながら後退し、弧を描くようにリングを動き回りながら距離を取る。牽制で放ったジャブは相手が高く構える腕を鋭く穿つ。小刻みなダメージと攻め込めないストレスが、確実に相手の気力を削いでいく。痺れを切らした相手が強引にクロスを放ってくる。俺はそれを叩き落とす。俺には、文字通り相手の動きが手に取って理解できていた。
――そうだ、よく見ろ、悪くない、左からくる
俺は最低限の上体移動で相手の右フックを躱す。まるで未来でも見ているかのように感覚が研ぎ澄まされていく。今ならば仮に目を瞑っていても、相手の拳は当たらない。細胞の一つ一つを、金属分子の一つ一つを、的確に支配し切る全能感が、俺を極限まで昂らせていた。俺は一人だが一人ではなかった。構える拳には父さんの遺志が、空木丈地の膨大な戦いの記憶が宿っていた。
――そろそろ終わらせるぞ
父さんの声がするのと同時、俺は大振りな拳を屈んで躱し、肝臓目がけて右フックを見舞っている。相手の急所を守る側腹部装甲が砕け散る。相手のガードが反射的に下がる。俺は全身のばねを使って身体ごと前に投げ出し、斜め下からの楕円軌道で振り抜く左拳で相手のあごを刈り取った。
勢い余って前につんのめり、俺はロープにもたれかかる。背後で肉と鉄が崩れ落ちる音がする。観客の誰一人として予想していなかった突然の幕切れが、闘技場を満たす歓声と怒号に束の間の静寂を押し付ける。レフェリーの数を数える声だけが鮮明に響く。ゴングが鳴った。レフェリーは私の右腕を掴んでリング中央へと引っ張っていった。俺はブルーのリングに沈む敗者をまたいだ。闘技場に勝者の名前が響き渡る。頭上に掲げられた鋼の拳に賞賛と罵倒と興奮が注がれる。
俺は天井を仰ぐ。頭上で煌めく無数のライトは、俺が進む道の正しさを、強さの証明を、静かに祝福してくれていた。
1
事故で両腕を失った当時、ぼくはかわいそうな人だった。
入院していたせいで中学の入学式に間に合わず、教室でいつも独りぼっちなこと。勉強が遅れていること。義腕の扱いが不慣れで絵を描いたりする細かい作業ができないことや、幻肢痛に悩まされていること。肌色には塗装されているものの肌の色とは質感も見た目も全然違う義腕のせいで、クラスメイトから“ロボット”とからかわれていること。そもそも事故に遭ったこと。何より事故で父さんが死んだこと。つまりぼくが生き残ってしまったこと。
ぼくを取り巻くすべての事情がぼくをかわいそうにした。かわいそうだと誰かに思われるたび、ぼくの心と身体は少しずつかわいそうな人へ作り替えられていった。事情をよく知らない人ですら、ぼくの姿を見ればたいていは同情した。もちろん同情されるばかりではなかった。かわいそうであることは弱いことと同じだった。弱者はいつだって踏みつけにされた。
もし父さんが生きていたなら、そんなぼくを許さなかっただろう。実際、父さんはぼくを強い子どもに育てたいと願っていたし、ぼくも強い父さんに憧れた。ボクサーだった父さんにとって弱いことは恥だった。けれどもう父さんはいなかった。
その日もいつものように、ロボットは痛みを感じないはずだとクラスの連中に殴られ、蹴られ、引き摺り回されたぼくは、家路の途中にある橋の欄干に寄りかかって風に当たって身体の痛みを冷やしていた。本当にロボットだったらどれだけいいだろうと考えずにはいられなかった。痛みを感じなければどれだけいいだろう。ぼくの身体も心も、今はもうなくなったはずの腕さえも、いつだって痛んでいた。
にわかに温度を持ち始める春の空気のなかで、欄干だけは季節に取り残されたように冷たかった。ぼくは欄干に体重を預け、黒く凪いだ水面を覗き込んだ。橋は高いから、映り込む自分がはっきりと見えないことが救いだった。ゆっくりと流れていく水面を見ているとだんだんと深い黒に吸い込まれそうになって、そのたびにぼくは欄干を掴む手に力を込めた。父さんの代わりに自分が死ねばよかったと思いながら、ぼくはどうしようもなく死にたくないとも思っていた。
「おい!」
鋭くて、太い声とともに学ランの下に着ていたパーカーが引っ張られた。僕は加えられた力に従順にバランスを失い、地面に尻もちを突いた。クラスの連中がぼくをここまで追いかけてきたのだと思った。けれど顔を上げると見知らない大人の男――少なくとも同じ中学生には見えなかった――が、ほっとしたような顔で立っていた。
「死のうなんて考えるんじゃねえ!」
男は大声で怒鳴った。ぼくは状況が呑み込めずに男をぼんやりと見上げ、それからすぐに我に返って素早く二回、頷いた。
男は上下の揃っていないジャージを着ていた。顔には汗をかいていて、息は少し上がっていたから、きっとランニングでもしていたのだろう。口の周りと頬に、薄っすらと無精ひげが生えていた。
「死のうなんて、考えるんじゃねえよ」
もう一度、いくらか声量を抑えて男が言った。ぼくはようやく男の勘違いに思い至ったけれど、ぼろぼろの格好で欄干から身を乗り出していればそう思われても仕方がないとも思った。ぼくは弁解しようとした。しかし男に死ぬなと言われると、ぼくは自分が実は死にたいと思っていたのではないかという気分になって、けっきょくうまく言葉にすることができずに黙り込んだ。
「生きてりゃいいことがある、なんて無責任なことは言わないけどな。でもまぁ、ここで見過ごして君に死なれたら後味悪いしな。声を掛けたのは俺の都合だ」
男は笑ってぼくの肩を叩き、手を差し伸べた。ぼくは差し伸べられた右手によく見覚えがあって、思わず自分の右手と見比べた。ぼくらの手は義腕だった。
ぼくはおそるおそる男の手を掴んだ。シリコン製の人工皮膚とその中身のチタンが重なる。温度もなく感触もない。だが確かに手は繋がれていて、男はぼくの想像よりも遥かに強い力でぼくを引っ張り上げた。
「ひどい怪我だ。血が出てる」
男はぼくの顔を眺めた。いつものことだから気にしていなかったけれど、今日の柔道はいつもより激しかったから、確かにひどい怪我をしていたのかもしれない。
「すぐ近くに俺の所属ジムがあるんだ。ワセリンあるから、ついて来いよ」
男の言葉には有無を言わせない力強さがあった。自分の善意を善意であると信じ切れる者特有の空気だった。ぼくはワセリンというのが何かもよく分からないまま、流されるように頷いていた。
「そういや君の名前聞いてなかったな」歩き出してすぐ、男は思い出したように言ってぼくを見た。「俺は瓜野浩平。君は?」
「空木歩、です」
「いい名前だな。空木っていや、もう死んじまったけど、かっこいいボクサーがいたんだよ。空木丈地。知ってるか?」
男――瓜野は上半身をかがめ、拳を構えた。吐き出す息とともに繰り出されるパンチは素早くて鋭かった。けれど憧れの拳には遠く及ばない。ぼくは空木丈地というそのボクサーを、誰よりもよく知っていた。
「……たぶんそれ、ぼくの父さんです」
瓜野は分かりやすく目を見開いて、まじかよと呟いた。
†
サンドバッグやパンチングボールが打たれる荒い音。タイムカウンターが鳴らす規則的な音。息遣い。怒号。金属同士が擦れ合う音と鈍く響く機械の駆動音。
懐かしさと目新しさの入り混じる光景を、ぼくはジムの端のベンチから眺めていた。瓜野に連れて来られたそこは、小さいころに父さんについていって見たジムの風景とよく似ていたけれど、何かもが違ってもいた。
ジムの中央にあるリングでは、肩に取り付けられた鋼の線が腕に絡みついた大柄の男と、両腕を機械の腕に置き換えた痩身の男が向かい合っている。しかし痩身の男がつけている義腕はぼくが身に着けているような生活用のそれとは大きく異なり、人口の筋肉と金属で構成された、生々しい兵器のようなかたちをしていた。向かい合っていた二人が拳を合わせ、実戦練習が始められた。
ボクシングにおいて、体格ないし体重差は階級というかたちではっきりと分けられていて、体格の違う者同士が同じリングに立つことはない。けれどリングの二人にはミドル級とバンタム級くらいの体格差があって、だからこそ大柄の男が有利であることは明らかだった。
ぼくが思った通り、大柄な男は前傾姿勢でどんどん前進し、痩身の男は直立気味の姿勢で応戦する。大柄の男は相手を手数で圧倒していく。その一方的な展開に、ぼくは学校で日常的に行われている柔道や相撲を思い出し、思わずリングから目を逸らす。
「大丈夫」
目を逸らした先には、救急箱を抱えた瓜野が立っていた。瓜野はぼくの隣りに腰を下ろし、救急箱からワセリンを取り出した。ワセリンというのはきっと消毒液のようなもので、たぶんマキロンと同じような意味だった。
「こっちはいいからリング見てろ。そろそろ面白いことになるぞ」
瓜野が言った矢先、痩身の男が機敏な動きで屈み、大柄男の身体と放った拳のあいだに滑り込んだ。逆さ雷のように鋭く放たれたアッパーカットが大柄男のあごへと命中し、大きな身体が呆気なくリングへ沈んだ。
「どうだ、面白えもんだろ。機甲拳闘は」
瓜野に言われ、ぼくは自分が息をするのを忘れていたことに気がついた。
「機甲拳闘はもともとアングラな地下拳闘だったからな、体格差や性別なんて関係ないんだ。勝負を決めるのは身に着ける機械の性能と、身に着けてる人間の闘志。文字通りの巨人狩りは醍醐味ってこと」
瓜野はぼくの傷口を湿らせた脱脂綿で拭いたあとでワセリンを塗った。沁みると思って身構えたが、義手の弾力ある指先の感触が肌を伝っただけだった。
「どうして、瓜野さんは身体の小さいほうが勝つって分かったんですか?」
「なんだ? 興味出たか?」
瓜野はぼくをからかうように笑う。ぼくは興味があるのかどうか分からず、曖昧に首を動かした。
「小さいほうが相手をよく見てた。よく見て、一瞬に狙いを研ぎ澄ませる。ちなみにプロの世界はもっとすごいぜ。パンチの威力も、一瞬の駆け引きも。それに報酬だってケタ違い。俺たちみてえにどうしようもねえ弱い奴が、拳二つでどこまでも成り上がるんだ。男のロマンだろ?」
ぼくは話を聞きながら、父さんもこんな気持ちでボクシングをやっていたのだろうかと考えた。もしぼくがリングに立つことを目指したら、少しは父さんに近づけるのだろうか。それは願望というよりも、使命のように思えた。あるいは父さんの代わりに生き残ってしまったぼくにできる、唯一の贖罪だった。ぼくは父さんのように、強くならなければいけなかった。
「なんとなく、お前の気持ち分かるぜ。俺も学生のときはよくやられたんだ。腕のことからかわれて、クラスの女なんかにはさ、不気味がられてさ。ひっでえよな」
ぼくは意外に思った。瓜野の明朗で溌剌とした雰囲気は、ぼくのような人間に結び付かなかった。けれどよく見れば瓜野の生身の左手の甲には煙草の火を押しつけたような火傷痕があった。瓜野は左手を隠すように右の義手を重ねた。
「俺は機甲拳闘を始めて、変わったよ。鍛えて、プロになって、試合に勝ったり負けたりして、女だって何度も抱いた。俺は自分で自分を認められたし、周りにだって認めさせた」
「それなら、次は結果を出して俺を認めさせてくれよ」
声がして、瓜野とぼくは振り向いた。すぐ後ろにブラウンスーツをスタイリッシュに着込んだ五十絡みの男が立っていた。
「矢藤会長、勘弁してくださいよ。もう負けませんって」
「勘弁してほしいのはこっちだよ。で、そこの小僧が空木のガキか?」
矢藤に鋭い視線を向けられ、ぼくは名乗って背筋を伸ばした。後退した生え際や皺のある肌は年齢を感じさせるが、眼光や見るからに頑健な身体は、矢藤が父さんや瓜野と同じ種類の人間であることが伺えた。
「父さんを、知ってるんですか?」
「知ってるも何も、やり合ったことだってある。あいつ、勝ち逃げしやがって」
「そりゃ会長じゃ、空木丈地は倒せませんて」
「うるせえよ。軽口叩く前に勝ち拾ってこい、馬鹿野郎」
矢藤は瓜野の頭を叩く。思いのほかいい音がして、ぼくの肩には力が入る。瓜野はへらりと白い歯を見せ、また後でなとぼくの肩を叩きどこかへ行ってしまった。ぼくの前には、矢藤が差し出した右手が突き付けられていた。
「ようこそ。ルイス機拳ジムへ。ここには肉体と機械を融合させる最高の設備が揃っている。歓迎するよ、空木の息子」
父さんと同じように分厚く、骨ばった手を、ぼくは握り返すことができなかった。
「見てたんだろ? どうだった?」
矢藤とぼくは会長室の革張りのソファに座って向かい合っていた。目の前にはいかにも繊細で高級そうなティーカップ置かれていた。カップだけでなく中身の紅茶も、香りに漂う気品のようなものからすごく上等なものであることが理解できた。砂糖とミルクを入れてもいいのか考えても分からなかったから、ぼくはそのまま膝の上に置いた手を動かさなかった。
「すごかったです」
ぼくの語彙力は貧困だった。けれど父さんの試合を見たときとは全く違う種類の興奮を、ぼくは確かに感じていた。
「人機一体。それがボクシングとの大きな違いであり、俺が考える機甲拳闘の基本理念だ」
会長室の壁には“人機一体”の書が額に入れて飾ってある。ぼくは心のなかで四文字の熟語を読み上げ、目の前の矢藤に視線を戻した。
「今や世界の競技人口も四〇〇〇人以上だと言われる機甲拳闘は、たった一試合で莫大な金が動くスポーツだ。このルイス機拳ジムはロボット開発なんかをしているR.I.P社の傘下だが、どのジムにも大抵はデカいスポンサーがついているな。なにせ一機で数百万、ものによっては億単位の金がかかる装備は消耗品だ。デカいスポンサーがいなけりゃ競技そのものが立ち行かない。じゃあなぜ、大企業は湯水のように金を使い、機甲拳闘なんかやってんのか。それはつまりだ、リングが単にパンチの強さを競うだけじゃなく、各社の技術力を披露する場所でもあるからだ。たしかに機甲拳闘は金になる。だが、一発の拳にかかる重みが違う。アホみたいな数の人間の、人生と生活がかかってる。それでも機甲拳闘に興味があるか? それでもお前は、自分勝手にリングに立てるか?」
矢藤は言って、目線を僅かに下げた。その先には、膝の上に置いたぼくの手がある。
「分かりません。でもすごかった。初めて父さんの試合を見たときと同じくらい。いや、もしかしたらそれよりも」
矢藤は溜息と笑い声のあいだのような息を吐いた。
「まったく、運命ってやつは数奇なもんだよ。まさか俺が空木のガキの面倒を見ることになるとはな。ちょっと待ってろ。とっておきの腕がある」
立ち上がった矢藤は執務机にある電話で誰かに連絡をしていた。しばらくすると会長室に白衣を着た男がやってきた。男はスーツケースのような銀色の箱を抱えていた。
「韮崎、例のあれ、この小僧につけてやってくれ」
韮崎と呼ばれた男は頷いて、銀色の箱を開ける。中には滑らかな黒で塗装された一対の義腕が収められている。いいや、ぼくにはそれを義腕と呼んでいいのかも分からなかった。普段使っているチタンの骨格と回路を組み合わせて人工皮膚を被せただけの生活用の義腕とは何もかもが違っていた。それはあまりに繊細で、強靭で、禍々しいオーラをまとっている兵器のようだった。
「どうだ? うちが最高の義体闘技者を育てるために開発した競技用義腕だ。俺たちはこれで世界を獲るんだ」
ぼくは矢藤の言葉がピンとこないまま、言われた通りに上の服を脱いだ。ぼくの身体は痣だらけだったけど、矢藤も韮崎も眉一つ動かさなかった。ぼくは韮崎の前に用意されたスツールに腰を下ろした。
「腕、外していくぞ」
人工神経の接続がオフになり、腕の感覚が忽然と消える。あっという間の手際で肩の接続部が緩められ、病院での検査のときと同じように義腕が外されていく。この瞬間、ぼくはいつも不安だった。手を伸ばすことも何かを掴むことも、もうぼくのものではなくなったんだと教え込まれているような気がした。
「競技用義腕は生活用の義腕と違って、人工筋肉が使われている。もちろん試合に出るためには、筋肉量や出力を規定通りに調整しなくてはならない。規定値ギリギリまで義腕の性能を高め、最高の調整をするのがエンジニアの仕事だ」
淀みのない手で作業しながら、韮崎が口を開く。ぼくは背筋を伸ばし、黙って聞いていた。ひょっとすると韮崎はぼくが内心に抱いた不安を感じ取り、安心させようと思ってくれたのかもしれない。
「ちなみにこれは弊社の試作機。モデル名は〈アルカイオス〉。同名の戦闘性AIが搭載されている。海外の軍需企業が開発したAIだったが、実用化されずに放置されていたものを技術部が買い取った。試合や練習を積んで学習すればするほど〈アルカイオス〉は賢くなる。わざわざジュニア用の腕に搭載したのは、経験の蓄積が〈アルカイオス〉の精度を飛躍的に向上させるから。作ったはいいけど、使う人がいなくてね」
「はぁ」
矢藤も、韮崎も嬉々としてぼくに話していたけれど、やっぱりぼくにはピンとこなかった。世界とか、AIとか、よく分からなかった。
「要は、〈アルカイオス〉自身が君の戦いを学んで、君の動きを補助してくれるってことだよ。もちろん高価な代物だけど、心配せずに使うといい。こちらとしても、君を使うことで貴重なデータが取れる。お互いに利益のあることなんだ」
話の大半は、ぼくには難しすぎた。しかしこの義腕が機甲拳闘のためだけに設計されたものであることは理解できた。そしてたぶん、ぼくはあくまでこの試作機のパーツでしかないということも。
間もなく人工神経が繋ぎ直される。ぼくは自分の新しい腕を眺めた。義腕の先の手のひらは卵を握るように閉じられていて、人工神経が繋がった今も開くことができなかった。それはつまり、この手が何かを掴むためではなく、誰かを殴るためだけに存在しているということだった。
バンテージを巻き、グローブを身に着けると、ぼくの気分は高揚し、全身に力が漲るのを感じた。それは奇妙な感覚だった。
矢藤の指示で一階へ降りると、瓜野がぼくを待っていた。
瓜野は父さんの見様見真似のかたちしか知らないぼくに、ボクシングの基本を丁寧に教えた。足は肩幅に開く。膝と足首には力を入れすぎず柔軟に。左腕を前にして顔の前で拳を構える。脇は開かないように。パンチを繰り出すときは相手に当たる瞬間で拳を固く握る。ジャブは素早く、クロスは腰の回転を意識して体重を乗せる。
基礎的な型を動きの反復で馴染ませたあとは、ミットに向けて実際にパンチを放った。掛け声に合わせてジャブとストレートのコンビネーションを繰り返す。ぼくのパンチは軽快にミットを鳴らした。握った拳に確かな衝撃が伝わった。単純な動作の繰り返しなのに、身体と腕が瞬く間に熱を持ち、呼吸は荒く、心臓はせっかちに脈打った。ここでは腕のないぼくはロボットではなかった。夢中でミットを打ち続けた。
時間にして三〇分。ぼくは上がった息とかいた汗で動けなくなった。
「ひ弱だなぁ。でもいいパンチだった。筋がいいよ、筋が」
瓜野はジムの隅で仰向けに倒れながら喘いでいるぼくの横に紙コップに汲んだ水を置いた。ぼくは起き上がり、両手のグローブで器用に紙コップを挟みながら水を飲んだ。温い水が喉を通ると、少しだけ呼吸が落ち着いた。
ぼくも瓜野のように変われるだろうか。ぼくは隣りに腰を下ろした瓜野を見やった。リングに立ち続けることでどんな景色が見えるのか、父さんがどんな景色を見ていたのか、ぼくは知りたくなった。
「ぼくも、瓜野さんみたいに強くなれるでしょうか?」
「それはどうだろうなぁ。まずは、そうだな、強くなりたいならそのぼくってやつをやめたほうがいいだろうな。ぼくってのは、漢字で書くとしもべって書くんだ。ぼくなんて自分を呼ぶのは、自分自身を売り渡してる証拠だと俺は思うね。だから一人称は俺にしとけ」
「分かりました……えっと、おれも、強くなれますか?」
「いいね。その調子だ」
まだぎこちない一人称が気恥ずかしくて俯いたぼくの頭を、ミットをつけたままの瓜野の右手が撫でた。
2
父さんの素早いジャブが相手のガードを打ち崩す。父さんはすかさず踏み込む。強烈な右フック。歓声のなかにいても鮮明に聞こえる打撃音。砕け散るダイヤのように汗が舞った。
相手が堪らず後退する。しかし父さんも同じだけ詰め寄り、相手をコーナーへ追い詰める。同時、次から次へと拳が放たれる。左フック。右アッパー。相手の顔へ、脇腹へ、顎へ――。相手の身体が左右に大きく揺らぎ、糸が切れた人形のように青いリングの上に崩れ落ちる。
父さんは息を吐き、倒れた相手を見下ろした。審判がリングに手をつき、相手の顔を覗き込む。間もなく勝利を告げる鐘の音が鳴った。
大歓声と眩い光の真ん中で、父さんは右手を高く掲げている。セコンドに入っていたチームのみんなが父さんを取り囲む。父さんの張り詰めていた表情はそこでようやく綻んで、唇からは八重歯が覗く。
ぼくは客席の最前線で、その様子を見ている。客席は薄暗かった。だから父さんのいるリングがいっそう眩しく、尊いものに見えた。
人に囲まれていた父さんが視線を巡らせた。父さんは薄闇にいるぼくをすぐに見つけ出す。人混みを掻き分けて、リングロープから身を乗り出した父さんはぼくに手招きをする。こうしてぼくは光の下へと連れ出される。
『どうだ、歩。いい景色だろ』
父さんと同じ高さになったぼくの視界にはたくさんの人たちが見えた。そのたくさんの人たちはみんな、父さんを見て、父さんに向かって叫び、父さんの勝利に酔っていた。
ぼくは頷いて、父さんの首にしがみついた。父さんの汗に濡れた腕に抱かれ、戦いに勝った気高い熱を全身で感じていた。
「――抱っこされてるのが歩くん?」
声がして、俺は現実に引き戻される。エンジニアの韮崎が俺の隣りに腰を下ろす。
ジムのモニターでは二〇八一年四月一二日、父さんがウェルター級の元世界チャンピオンであるマックス・アトラスを最終ラウンドまでもつれる激戦の末にKOした試合が流れていた。空木丈地のボクサーとしてのキャリア絶頂の試合だった。
「見るのはそこじゃないと思うんですけど」
「いいんだよ。過去の記録は〈アルカイオス〉がちゃんと見てる。未来を見るのは人に許された特権だ。だってもしかすると、日本のボクシング界を熱狂させたこの試合で空木丈地の腕に抱かれてた子どもが、時代を経て機甲拳闘の世界を揺るがすことになるのかもしれない」
「やめてくださいよ。大袈裟です」俺はかぶりを振った。「俺はまだ、父さんの通った道をなぞってるだけですよ」
「そんなことない。空木丈地のボクシングを、機甲拳闘的な戦略に咀嚼しながら成長させてるのは、間違いなく君のセンスだ」
本格的に機甲拳闘を始めてしばらく、俺は韮崎と相談の上、空木丈地に関して集められる可能な限りのデータを〈アルカイオス〉に繰り返し学習させることにした。たとえば動画サイトにアップロードされる試合。たとえば試合前日の会見。インタビュー記事。ニュース映像。家に保管してあったトレーニングの撮影データ。エトセトラ。
〈アルカイオス〉は順調に父さんのボクシングを学習し、父さんの思考を模倣した。それは父さんの代わりに生き残ってしまった俺がすべき償いであり、父さんが見るはずだった景色をともに見るために必要なことだった。
当然、俺は徐々に頭角を現した。父さんの拳と戦い方をなぞっているのだから当たり前だった。さらに俺は実子であることも影響して、アマチュア時代から大きな注目を浴びた。一六歳でプロテストに合格し、デビューから無敗の一〇連勝で八ラウンドのフルマッチが可能なグレードⅣまでのし上がった。
世間は俺を、事故で父親と両腕を失った悲劇の闘技者として扱った。だが俺は断言できた。これは悲劇ではない。俺はもうかわいそうな男ではない。
父さんは常に俺とともにいた。
これは父さんと俺の成功譚だ。
†
「お疲れっす」
着替えと身支度を終えた俺は、駄弁る先輩たちに声を掛けてロッカールームを出る。ジムのなかはまだリングの周囲だけに明かりがついていて、ロープに寄りかかりながらタブレットを凝視している瓜野がいた。
先週負けた試合の反省でもしているのだろう。俺から遅れること一年、プロ六年目にしてようやくグレードⅣに上がった瓜野は、四戦全敗で未だグレードⅣでの白星を勝ち取れずにいた。
俺は声をかけるか迷って、気づかないふりをする。敗者にかける言葉はなかった。もし仮にあったとしても、俺には弱者である瓜野の気持ちなんて分かるはずもない。
「おい、歩。帰んのか? 久しぶりに飯でもいこうぜ」
しかし扉に手をかけた俺を、瓜野のほうから呼び止めてきた。俺が振り返ると、ロープに寄りかかったままの瓜野が俺を見ていた。
「いいんすか? まだなんか練習あったんじゃないんすか?」
それは遠回しに断ったつもりだったが、瓜野には細かな行間を読む能力は足りていなかった。
「ああ、もう煮詰まったから終わり。急いで着替えてくるから待ってろよ。今日は奢ってやるから」
「別にいいっすよ。瓜さんより、俺のほうが稼ぎあるんだし」
俺が言うと、瓜野は目尻にしわを寄せた。どうして笑うのか、俺には分からなかった。闘技者としての稼ぎが少ないということは、つまり弱いということだった。笑える神経が理解できなかった。
「まあそう言うなよ。先輩には先輩のメンツってのがあるんだからさ」
瓜野はそう言うと、ロープに引っ掛けていたタオルを取ってロッカールームへ下がっていった。けっきょくのところ縦社会だ。先輩の誘いには暗黙の強制力が存在する。俺は一本電話を入れるために外へ出た。予約していた時間を後ろにずらしてもらう。まだ瓜野が来る気配がなかったので俺は中に戻ろうとも思ったが、低く唸る猫の声が聞こえてきて足を止めた。姿は見えなかったが、二匹の猫が喧嘩をしているのだとすぐに分かった。勝負は二秒と経たずに決し、一匹の猫が弱々しい鳴き声を上げて逃げていく音がした。餌の取り合いか、それともメスの取り合いか。どちらにせよ弱いほうは何も手に入れることができない。それは猫も人も同じだった。
俺は機甲拳闘を始めてすぐに、出会ったとき大きく見えていた瓜野は大して強くなかったということを知った。公式戦で戦ったことはなかったが、実戦練習では何度も戦った。俺が機甲拳闘を始めて一年半くらいで、瓜野のパンチが俺を捉えることはなくなった。
弱いのによくやるなと思う。プロになっても負けが込めば辞めていく人間が多い世界で、瓜野は負けても負けてもリングに縋りついている。誰よりも早くジムへ来て、誰よりも遅くジムに残っている。陰で若い選手から嘲笑されていても、瓜野は平気な顔で笑っている。
間もなく瓜野がロッカールームから出てきた。シャワーを浴びる時間はなかったから制汗剤をこれでもかと振りかけたのだろう。瓜野が動くたび、化学的に再現されたレモンの甘ったるい匂いが漂った。
「どこ行く?」
「商店街の焼肉とかどうっすかね」
「焼肉かぁ、あそこ高えんだよなぁ」
「だから俺が奢りますって」
「ダメダメ。俺にだってメンツってもんがあんだって言ってんだろ?」
メンツがあると口にする時点で、そのメンツはたぶんもう守られてはいない。だが弱い瓜野はそのことにすら気付けない。もうとっくに傷ついて錆びた年長者の威厳を、後生大事に抱え続けている。
「……じゃあ駅前の牛丼でいいっすよ。それか立ちそばで」
「せめて座ろうぜってことで、牛丼で。大盛りまでは許す」
「あざっす」
俺たちは夜道を歩く。凍てつく寒さはやわらぎ、膨らんだ桜のつぼみが俺たちを見下ろしていた。
キムチ牛丼をかき込んで、瓶ビール一本で酔った瓜野に一万円札を握らせてタクシーへ押し込んだ俺は、ラブホテルの一室でひとり、頬杖を突いていた。
ルイス機拳ジムにはプロテストに合格すると先輩たちが風俗を奢ってくれるという文化があった。俺の場合、一八歳になる前にプロになっていたから、一八歳の誕生日を待って先輩たちが俺を風俗へ連れて行ってくれた。
もちろんお祝いは建前でもあったからラブホテルのワンフロアを占拠するように横並びになりながら、先輩たちも同じように風俗嬢を呼んでいた。どの先輩も女を買うのが好きだった。付き合っている女や結婚している女がいることは、風俗に行くことを妨げなかった。瓜野とは別の先輩は私に言った。自炊もするが、外食もする。それと同じことなんだから気楽に楽しめ。
そのとき知り合ったのが、ひおりだった。選んだ理由は特になかった。名前が少し変わっているような気がしたからかもしれないし、キラキラとした写真が並ぶなかで、鼻のあたりに白いぼかしが入った彼女の写真があまり楽しそうには見えなかったからかもしれない。だがけっきょくのところ誰でもよかったのだろう。しかしそういうてきとうさがいい巡り合わせを引き当てることは往々にしてあり、俺はそのときに出会ったひおりを最低でも月に一度は必ず、指名するようになった。
インターホンが鳴り、俺はソファから立ち上がる。扉を開けると、黒いショートカットに猫目のひおりが立っている。
「あぁ、寒い寒い」
ひおりは俺の脇を抜けて部屋へと入った。俺は扉を閉め、再びソファに腰を下ろした。ひおりの鼻は赤かった。俺はリモコンを操作し暖房の温度を上げた。
「車じゃなかったの?」
「それが、聞いてよ。ドライバーが急にトンじゃってさ。まさかの歩き。田中どもふざけんなよって。大事な商品の扱いとしてヤバくない?」
ひおりは基本的に他人のことを“田中”と呼ぶ。覚えるのが面倒なんだと言っていたが、俺の名前すら一度も呼んだことがないあたり、彼女は失顔症なのではないかと俺はひそかに思っている。もちろんそんなことは訊ねなかった。仮にひおりが何か病気を抱えていたとしても、それが性病でない限り俺には大して関係がないことだった。
「店変えたら? 新しい店教えてくれたら、俺通うし」
「でもまぁ、割りいいんだよね。それにシフトもなんだかんだで融通利くしさ。あ、そうだ。はい、お土産。この前、シンガポール行ってきた」
ひおりは俺の手のひらにマーライオンのキーホルダーを置いた。俺はバッグにつけるべきか考えて、キーホルダーをポケットに仕舞った。ひおりはそのあいだにコートを脱ぎ、タイマーをセットしていた。俺がひおりに金を渡すと、ひおりは二枚の一万円札と一枚の五千円札を重ねたまま四つに折り、むき出しのままハンドバッグへと突っ込んだ。彼女からは香水の、甘辛い匂いがした。
「じゃあ、あたしシャワー浴びてくるから。あ、それとも一緒がいい?」
俺は首を横に振った。ひおりがシャワーから出てくるのを待って、俺もシャワーを浴びた。身体を念入りに洗い、簡単に水気だけを取り、俺は全裸のままベッドへ向かった。既に俺の性器は勃起していて、それを見てひおりは早くない? と笑った。俺はベッドへと上がり、ひおりの前に立った。ひおりは俺の性器を握った。何度かしごいて硬さを確かめたあと、用意していたコンドームを慣れた手つきでつけていった。
俺はひおりの頭を掴み、性器を咥えさせた。ひおりの眉がしかめられ、塞がった口の狭い隙間から呻き声が漏れる。俺はひおりの頭を抑えつけた。ひおりはもがき、俺の性器を吐き出した。よだれが糸を引いていた。俺はひおりを押し倒した。ひおりの身体に巻いてあったタオルを剥ぎ取り、脚を開かせる。陰唇の割れ目を指でなぞると、まだよだれを引いているひおりの口から嬌声がこぼれる。俺は入念にひおりの性器を触った。シリコンの指がひおりの股をなぞる動きは、徐々に滑らかになっていった。
「入れるよ」
俺はひおりの答えを待たずに俺の性器をひおりへと挿入した。セックスは禁止だったが俺とひおりがセックスをするのはいつものことだった。俺が腰を振るたび、ひおりは臓腑の奥から声を出した。ひおりの性器は俺の性器に絡みついていた。俺はひおりの首を両手で軽く握った。ひおりは首を絞められるとさらに激しく感じた。ひおりの苦しむような喘ぎ声は俺をさらに興奮させた。快感が腹の底からせり上がった。俺は惜しみなくそれを放出した。俺はコンドームを取り換え、ひおりに何度か体勢を変えるように指示をする。俺の性器は勃起したままだった。ひおりを四つん這いにさせ、ひおりを上に跨らせた。どの体勢でもひおりは声をあげて身体をくねらせた。
四回射精して満足した俺は、ひおりと一緒にシャワーを浴びた。シャワーを浴びながら、俺とひおりはキスをした。再び勃起した性器をひおりに咥えさせた。目の前で跪くひおりの頭を優しく撫でた。五回目の射精は少し疲れた。シャワーから上がったところで見計らったようにタイマーが鳴った。
「今日はありがと。また遊んでね」
俺は帰っていくひおりを裸のまま見送り、ついさっきまでセックスをしていたベッドに横たわった。シーツはさまざまな体液で湿っていて、生臭かった。俺は部屋の時間を延長し、そのまま眠りに就いた。
†
バンテージを巻き終えると、瓜野が短く吠えた。
「今日はまた一段と気合い入ってますね」
「当たり前だろ。ようやく降ってきたチャンスなんだ」
俺は瓜野の拳にグローブを嵌める。瓜野は俺が構えたミットに拳を打ち込み、感触を確かめる。ミット越しに響く硬質な衝撃が、瓜野の覚悟を物語っている。
相手の士縞という義体闘技者はボクシングから転向してきた男だそうだ。ボクシングでは将来を有望視されていたらしいが、機甲拳闘での戦績は九戦五勝とそこそこ。もちろんそれでも瓜野よりは遥かにランキング上位だが、立て続けに起こしたリング禍が原因で試合が組めずブランクがあり、格下の瓜野とのカードが実現したのだと、矢藤が話していたのを盗み聞いた。
そういう意味では確かにチャンスなのだろう。グレードⅣに上がってからたったの一度も勝てていない瓜野にとって、ランキング上位の相手との試合は自分自身の評価をひっくり返せる好機であり、これから望むのは自身の進退すら懸かる一戦だった。
とはいえ、俺は瓜野が勝てるとは思っていない。記録映像を見ればランキングの差以上に実力差は明らかだ。勝負事に絶対はないが、瓜野が勝つ見込みは限りなく薄かった。
「まぁ、あんまり気負わずに。肩に変な力入ると、筋電の伝達ズレますよ」
俺は瓜野の肩を叩いた。しかし瓜野の身体は強張っていた。瓜野は真っ直ぐに、何もない床の一点を凝視していた。
「歩。俺には、夢があるんだよ」
「どうしたんすか、急に」
俺は乾いた笑みを吐いた。試合前の昂った神経で拾い上げられる語りほど、無意味なものはない。まして瓜野の夢なんて聞いたところで、俺にはどうでもよかった。
「いいから聞けって。俺はさ、お前と試合がしたいんだよ」
スパーならこの試合のために散々してあげたじゃないっすか。俺は喉元まで出かかった言葉を呑みこんだ。瓜野が言っているのはそういうことではなかったし、表情も声も真剣で、切実だった。
「俺はお前の親父さん、空木丈地に憧れて強くなりたいと思った。んで、強くなりたいと思うお前に出会って、機甲拳闘の世界に招き入れた。俺自身が情けねえおかげでとっくに追い抜かれちまったけど、俺はお前と、お前の腕に宿ってる空木丈地と、公式戦のリングで戦いたい。それが俺の夢なんだ」
当然だが、八百長を防ぐために同じジムの闘技者同士での試合は行われないことが通例だった。だからもし瓜野が本気ならばジムを移籍する必要があるのだが、一つの白星もない闘技者を欲しがるような移籍先のジムは存在しないのが現実で、だから俺と瓜野が戦える可能性はゼロだった。
間もなく案内がやってきて、リングに向かうように伝えた。矢藤が入ってきて、瓜野が立ち上がる。俺は瓜野の背中に声を掛ける。
「遺言みてえなこと言ってないで、まずは勝ってきてくださいよ。そしたら瓜さんとの試合、考えてあげますから」
「それでも、考えるだけかよ」
瓜野は振り向いた横顔で笑った。ぎこちのない笑顔は迷子になった子どものようだった。機械の右腕を頭上に突き上げ、光に向かって進んでいった。
結論から言えば、俺と瓜野の試合が実現することはなかった。
控室のモニターで見ていた試合展開はあまりに一方的だった。
一ラウンドの開始三〇秒、士縞の連打が始まり、瓜野の両肘部装甲と左側腹部装甲が破損。鞭のようにしなる独特な軌道の右フックが命中した左目は青く腫れ、切れたまぶたからは血が流れた。
抱きつきでなんとか連打を切った瓜野は距離を取り、アウトスタイルの戦術に切り替える。しかしこれを弱腰と判断した客席からは野次が飛んだ。瓜野本来の戦い方は父さんのように果敢に向かっていく接近戦闘だった。
しかしその直後、瓜野の左脇腹に強烈な一撃が入った。瓜野は腰を折り、その場にうずくまった。
九カウントでなんとか立ち上がって拳を構えた瓜野は一ラウンド一分二七秒、再びの連打に見舞われる。鋭い右正拳で鼻っ柱を穿たれた瓜野は大きく仰け反り、ロープに寄りかかった。押し戻された瓜野を痛烈な左フックが嬲った。肩部装甲が砕け、右上腕の人工筋肉が千切れた。陸揚げされたウナギのように、黒いチューブが瓜野の腕の上で踊った。
とはいえ暴風雨のような連打のなかでも、瓜野の戦意は折れていなかった。ガードの奥で相手を睨みつけていた。だから審判もあいだに割って入るのを躊躇ったし、セコンドもタオルを投げなかった。
士縞が突き上げた左拳が顔の前まで上がっていた瓜野の右肘を直撃した。すでに肘部装甲が破損していたこともあり、衝撃をすべて受け止めた義腕が折れた。関節の可動域とは反対に曲がった右腕は力が入らなくなり、だらりと垂れ、その防御の隙を突くように走った左拳が瓜野の顔面を刈った。鼻血が噴き出しマウスピースが吹き飛び、折れた歯が散った。瓜野は意識が飛び、膝を折ってリングに崩れる。その刹那に、士縞が放っていた右の突き上げが倒れようとする瓜野のあごを完璧に捉えた。
瓜野は肩からリングに沈んだ。倒れた拍子に右肘が完全に千切れた。審判が士縞の前に割って入り、両腕を大きく振った。ゴングが鳴った。矢藤たちセコンドがリングの隅で痙攣している瓜野に駆け寄った。
医療スタッフが瓜野を担架に乗せて運んでいった。士縞はコーナーへと上り、野次と歓声が入り混じる客席に向けて拳を突き上げていた。
一ラウンド一分三一秒――試合と呼ぶのすらためらわれる、一方的な蹂躙だった。
病院へ搬送された瓜野は意識不明のまま、約一か月半、生死のあいだを彷徨った。その後、医者曰く奇跡的に目を覚ましたものの、瓜野の顔には麻痺が残り、右目は視力をほとんど喪失。さらに呂律が回らなくなり、生活用の筋電義腕を装着しても以前のような正確さと滑らかさで動かすことはできなくなった。また急な頭痛を訴えて暴れ出したり、かと思えば何時間も動かずにぼんやりとし出したりする人格の変化も見られた。
日常生活すら危ぶまれる瓜野が競技を続けることは当然不可能だった。
退院した瓜野はルイス機拳ジムを、機甲拳闘を去った。矢藤だけはその後も面倒を見ていたらしいが、ジムの面々が瓜野と関わることはなくなった。俺自身も一度見舞いに行ったきり、もう瓜野と顔を合わせることはなかった。可哀そうだとは思ったが、今もなお機甲拳闘を続け、リングの上で結果を出し続ける俺が瓜野に会っても話せるようなことはなかったし、瓜野がリングを去ったとしても俺のすべきことは何一つ変わらなかった。俺は次の試合も、その次の試合もKOで勝利した。
俺はリングに立ち続けていた。それは俺が強いことの証明だった。
それだけが、ただ大事なことだった。
3
ジムにこもる晩春の熱気をかき混ぜる扇風機は、何かを拒むように延々と首を振っていた。
モニターには昨日の俺の試合が映し出されている。俺の手元のタブレットには人工知能から吸い上げた、試合中の義腕と身体のデータが羅列されている。モニターのなかの俺が身を屈めて相手の拳を掻い潜る。斜め下からの打撃を繰り出す。インパクトの瞬間で映像を巻き戻す。再生する。また同じ場所で巻き戻す。再生する。
「何がそんなに気に入らない? 素晴らしい試合だっただろう」
いつの間にかジムには矢藤が来ていた。俺はモニターへと視線を戻した。巻き戻し損ねた映像は、リングの真ん中で天井を仰ぐ俺を映している。光が当たってわずかに白んだ青いリングは一枚の薄氷のようにも見えた。
「全部で四発、もらう必要のないパンチをもらった。あれじゃダメだ。二度と俺と戦りたくないと思わせるくらいじゃないと」
「あんまり自分を追い詰めるんじゃねえよ。ランキング上位の相手に勝ったんだ。もちろん〈アルカイオス〉を使ってる以上、勝ってもらわなくちゃ困るんだけどな」
矢藤は得意気に笑っていた。昨日の勝利で俺の名前はもちろん、ルイスジムとR.I.P社の名声も高まっていることだろう。俺は試合翌日のオフにも関わらず、矢藤に呼び出されてジムに来ていたことを思い出した。
「それで話って? わざわざ休みの日に呼び出して。チャットで済むっすよね」
「そういうわけにもいかねえよ。大事な話だ。上で話そう」
俺はモニターの電源を落とし、トレーニングに励む同僚やエンジニアたちを横目に二階の会長室へ向かった。向かい合うようにソファに腰を下ろすと、矢藤は取り出したタブレットを机の上へと滑らせた。液晶には目つきの悪い赤髪の義体闘技者の選手情報が映されていた。俺はそいつに見覚えがあった。
「昨日の勝ちを受けてオファーがあった。名前は、……言うまでもないな」
士縞統。二年前、瓜野を壊し、引退に追い込んだ相手だった。
「今の世界ランクは三八位。国内の闘技者じゃ間違いなくトップランカーのうちの一人だろう。その証拠に、現アジア太平洋王者。オファーは王座戦だ」
タイトルマッチの響きに俺は昂った。ベルトは強さの象徴だった。強さという曖昧で気まぐれな概念を、手触りのあるものへと変換した物質だった。あの父さんですら、王者の前には屈さざるを得なかった。ベルトは父さんが見ることのできなかった景色そのものだった。
心臓が歓喜に脈打ち、皮膚の内側で熱が暴れた。しかし俺は興奮しながら冷静でもあった。冷静であることは、ベルトを奪うために必要なことだったからだ。
昨日の試合前までの俺のランキングが一一三位。昨日の勝利でランキングが上がることは確かだが、士縞のランクには到底及ばない。確かに俺は順調な戦績を残していたが、縁もゆかりもないタイトルマッチに臨めるほどではない。つまり相手側にも何か事情があるのは明白と言えた。
「王者の責任制度ですか」
「そうだ。世界機甲拳闘協会の王座は、怪我などを理由に試合が一年以上組めなければ自動的に返却になる。士縞はその期限が二か月後に迫っている。だが問題の本質は士縞が試合を組めずにいる理由のほうだ。お前も分かるだろう」
俺は久しぶりに瓜野のことを思い出した。今も面倒を見てやっているはずはないだろうが、矢藤はあの凄惨な試合を一日だって忘れたことはないのだろう。
「士縞はこの一年、試合を断られ続けてきた。そんで、実力と話題性のあるお前にこの貧乏くじ《オファー》が回ってきたってわけだ」
機甲拳闘は高出力の人工筋肉を搭載した義腕で戦うという性質上、ボクシングよりも闘技者に及ぶ危険性が高い。もちろんどんな闘技者もそれを理解した上で競技をやっているわけだったが、わざわざ選手生命を、あるいは命そのものを、危険に晒しても構わないと思うような人間は、俺を含めてもごく少数だった。
「試合はいつですか?」
「いや待て。この試合は断る。もしかしてお前、瓜野の敵討ちとか考えてんじゃねえだろうな?」
矢藤が思いつめた顔で的を外したことを言ったので、俺は思わず笑った。矢藤は何も言わず眉を顰め、静まった会長室に俺の声だけが弾んでいた。
「どうして俺が瓜さんの敵討ちなんかするんすか。どうでもいいでしょ、瓜さんは。もうとっくに負けて消えた人だ。俺が興味あるのはベルトだけっすよ」
「ベルトか」
「そうです、ベルトです。欲しくないやつなんていないでしょ。ベルトは強さの証明なんですから」
「だがよ小僧、お前はまだ二〇歳だ。これからのキャリアを考えれば何度だってチャンスはある。ここで焦る必要はねえだろう。お前は世界に手が届く器だ。アジア太平洋なんて、お前が命を張るようなベルトじゃねえ」
俺は舌打ちをした。ソファに身体を埋めて机の上に足を投げ出す。下敷きになったタブレットの液晶は、ちょうど士縞の額の位置にかかとが落ちて罅が入った。
「……戦わせるつもりがないなら、何で話したんすか」
「選手に黙ってオファーをなかったことにするのは簡単だが、そういう卑怯な運営は俺のポリシーに反する」
「勝手だな。もしこのオファーをここで断ったら、俺が自分で逃げたことになる」
「そうじゃない。お前の実力はタイトルに挑戦できるレベルに達している。その事実を理解させたかっただけだ」
「挑戦できるレベルって、それになんか意味あるんすか? 勝たなきゃ意味ないっすよね? そんでそれは、勝ってベルトを腰に巻く以外で証明なんてできない」
俺は矢藤を睨んだ。流れるように口を突いた反論は、まるで俺の言葉ではないようだった。俺には空木丈地の気高く荒々しい血が流れている。
一方でボクサーとして大して実績がなく、父さんに負かされた矢藤は、瓜野と同じ敗者側の人間だった。強い者の論理を理解できるはずもなかった。
「矢藤さん、もしかしてあんた、俺が負けると思ってんすか?」
矢藤は黙り込んだ。俺をじっと見ていた。
「俺は勝つよ。だからこの試合を受ける。そんでこのベルトを腰に巻く」
俺は矢藤の首を縦に振らせた。
次の試合が、俺が父さんを超える日が二か月後に決まった。
†
ひおりと三回セックスをした俺はベッドで横になっていた。
今日は回数が少ない。満足したかどうかと言えば微妙だが、今日のひおりは疲れているようだったから仕方がなかった。目元のくまを隠すようにいつもより少しだけ化粧を厚く塗っていた。三回のセックスは、俺がひおりの体調を気遣った結果だ。
半開きの扉から聞こえていたシャワーの音が止んだ。しばらくして紺色の下着姿で出てきたひおりは、服を着るとソファに座った。俺はひおりに帰らないのか訊いた。ひおりはまだ時間あるから、と答えた。セックスをしないなら、ひおりがここにいる意味はなかったが、俺はひおりを放っておいた。疲れているならここで少し休ませてやるのもいいだろうと思った。
「次がないなら延長しようか?」
「もう今日はしないのに?」
俺が訊ねると、ひおりは目を丸くした。ハンドバッグから取り出した煙草を咥えて火を点けた。甘い匂いのする煙が漂った。
「疲れてるだろ。俺がここで延長すれば、ひおりは仕事をさぼることなく眠れるし、金も稼げる」
「さすがにそれは申し訳なさすぎるよ」
ひおりは笑って、煙を吐いた。吐いた煙は天井へは上らず、ひおりの顔と同じ高さのあたりをたゆたって、少しずつ薄くなっていった。
「金のことなら心配しなくていい。この前の試合に勝って、報酬もたっぷり入った。ひおりの九〇分程度ははした金だよ」
「へぇ、ボクシングってやっぱり儲かるんだ」
ひおりの声の調子は平坦で、興味がないのか、体調がよくないのか、俺には分からなかった。ひおりにはボクシングと機甲拳闘の区別すらついていなかった。もちろん事細かに説明すればひおりも理解できるかもしれないが、別に正すほどの間違いでもないと思った。俺はそういう、ひおりの頭の悪さを好ましく思っていた。
「今度、王座戦も決まった」
俺は天井を見ながら言った。無味乾燥なベージュの壁紙に、オレンジ色の照明が影を作っていた。
「タイトル? チャンピオンってこと?」
「そう。アジア太平洋王者」
「え、すごい。日本飛び出してんじゃん」
今度のひおりは興奮気味に言った。機甲拳闘についてよく分からずとも、タイトルマッチのすごさは分かるのかもしれない。あるいは単に、自分の客が強い男だとが分かり、女の本能のような部分で高揚しているのかもしれない。それはリングガールがよく俺に向ける視線に似ていた。
「アジア太平洋王者って言うと大げさに聞こえるだけだよ。人気や知名度のあるタイトルじゃないし、大したことはない」
「でもチャンピオンはチャンピオンじゃん。すっげえ」
「まだチャンピオンじゃない。勝たねえと」
「でもまた勝つんでしょ?」
「戦う前から負けんの考える奴はいねえよ」
俺は右手を掲げて拳を握る。ひおりは俺の拳をじっと見て、それから欠伸をした。
「ごめんごめん。最近あんまりちゃんと眠れてなくってさ」
「気にするな。何かあったのか?」
「ちょっとねぇ……」
ひおりはもったいぶるように言葉を切った。それは女特有の文法で、ひおりが話したがっているのは分かったから、俺には男らしく続く言葉を聞き出さなければいけなかった。
「聞くよ。力になれることがあるなら、力にもなる」
ひおりはしばらく黙り込んでいた。もしかすると俺が本当に力になれるかどうかを疑っているのかもしれない。だがそれは無礼だった。俺には自信がある。かわいそうなひおりを助け出すことができるはずだった。
俺の自信が伝わったのだろう。やがてひおりは安心したように息を吐き、口を開いた。
「……ストーカーされてるっぽいんだよね、最近」
ひおりの声は深刻だったが、俺は拍子抜けしていた。ストーカーは物理的な行為を起こすことのできない卑怯な人間のすることだった。そんなものに悩まされるのは滑稽だ。だが俺は笑わず、真剣な顔を保った。
「二か月くらい前からつけられてるっていうか、誰かに見られてるような感じがして。気のせいかなって思って放置してたんだけど、だんだん変な電話がかかってきたり、ポストに手紙が入ってたりするようになってね。で、その手紙に“君を救いたい”“君のことを綺麗にしたい”みたいなこと書いてあって、かなりキモいし、ちょっと怖くてさ」
「不気味だな」
俺は相槌を打ちながら、ストーカーの姿を想像した。軟弱な精神と醜悪な容姿の持ち主に違いない。俺が不気味だと言ったのは、ストーカーの行為ではなく、存在そのものに向けた嫌悪の表れだった。
「うん、ほんと不気味。あたし、もともと不眠症気味なんだよね。ここ何年かはよくなってたんだけど、再発って感じかなぁ」
話を聞いてからひおりを見ると、ますますやつれているような気がした。俺は男としてひおりを守ってやらなければならなかった。
「ストーカーってのはけっきょく、臆病で卑怯なやつだろ。俺が少し脅してやれば、もうひおりに近づくこともないだろ。任せてよ」
俺はベッドから身体を起こして立ち上がり、ひおりの髪を撫でた。指を入れた義手の指のあいだを、艶のある黒髪が滑らかに滑り落ちていった。
俺はひおりの仕事が終わるまでファストフード店で時間を潰した。駅前で落ち合うころにはすでに日付が変わっていた。
俺は待っているあいだに考えていた通り、ひおりとは距離を開けて終電に乗った。車両のなかは酒臭かった。俺は怪しい人間がいないか目を光らせたが、大きな声で話し続けている大学生くらいの集団と、真っ赤な顔で眠っている酔っぱらいのサラリーマンがいるだけだった。
ひおりは駅前のコンビニで酒とお菓子を買った。食事は健全な身体を支えるものだから、俺は栄養バランスが気になった。だが今日の目的は彼女の生活改善ではなかったから、俺は何も言わずに少し離れたところからひおりを見守った。まだ怪しい人は見つけられなかった。夏目前の温い風が頬を撫でるばかりだった。
ひおりが住んでいるアパートは住宅街の奥にあるそうだった。街灯が少なく暗い路地をひおりは歩いていた。この道は危険が多いと思った。ひおりの後をつけている俺の前を、知らない女が足早に過ぎ去っていった。女は何も言わず、こちらを見もしなかったが、俺を不審に思っていることだけはよく分かった。確かに今の俺は怪しいのだろう。やっていることはストーカーとさほど変わっていなかった。ひおりは公園へと入っていった。
後に続いて公園に入ってすぐ、ひおりの後ろを俺とは別の人間がつけていることに気がついた。そいつはパーカーのフードを被っていたので顔はよく見えなかったが、背格好からして男だと推測した。
俺は男をしばらく泳がせた。脅すにしても、そいつがひおりのストーカーであるという確証が必要だと思った。公園を抜け、ひおりは家に向かってどんどん歩いていた。俺のスマホにひおりからのメッセージがあった。どう? 連絡先はホテルの部屋で別れるときに交換しておいたものだった。俺はメッセージには返信しなかった。目の前の男の挙動に注意を払った。
男は明らかにひおりの後をつけていた。ひおりが立ち止まると男も立ち止まり、ひおりが周囲を見回すと木や電柱などの物陰を隠れたり、わざとらしく視線を彷徨わせ、歩く速度を落としたりしていた。俺は男に気取られないよう間合いを縮めた。ひおりをつけているはずが自分がつけられているとは夢にも思わないだろう。俺は笑いを堪えた。そして男がひおりに続いて歩き出そうとした瞬間、男の左肩に手を置いた。
「動くなよ。あんた、こんな夜道で何してんのさ?」
男はそのまま固まっていて動かなかった。それはこの期に及んでも、だんだんと離れて見えなくなっていくひおりの後ろ姿を名残惜しんでいるようだった。俺は男を心の底から薄気味悪いと思った。
「質問が悪かった。あんたが何してたかはよく知ってる。女をつけてたんだろ? 気持ちわりいな、あんた」
これもあらかじめ考えていた通りの台詞だった。男が救いようのない臆病者であればこれで引き下がるに違いないと思っていた。
しかし男は俺の予想を裏切り、左腕を跳ね上げた。俺の手は弾かれて男から離れた。もしかすると置かれた手の感触から俺が義腕を使っている障碍者だと侮ったのかもしれない。たしかに生活用義腕の出力はたかが知れていたが、不用意に侮られたことは不愉快だった。
男は俺を突き飛ばし、来た道を引き返すように走り出した。俺はその場に踏みとどまり、男の襟首を掴んだ。男の腰に膝蹴りを入れ、力任せに押し倒す。男は前につんのめり、うつ伏せになって倒れた。
男は反撃を警戒して身体を反転させた。俺は馬乗りになって拳を振り下ろした。格闘技の心得があるのか、あるいは本能的な動きか、男は的確に顔面と鳩尾を腕で防御した。俺は容赦なく殴り続けた。振り下ろした左拳が男の右腕を穿ち、痛烈な金属音を響かせる。義腕の拳に罅が入る。俺はガードの脇を突くようにフックを放つ。体重の乗らない一撃だが、骨と骨がぶつかり合う音がして、男の苦鳴が響き渡った。
「どうした? あ? ひおりのことを救うんだろ? やってみろよ、ストーカー野郎!」
俺のなかで怒りと嫌悪が膨れ上がっていた。迸る感情のまま、俺は男を殴り続けた。こうも一方的な展開は試合ではなかなか味わえなかった。
徹底的な攻撃に、男のガードが緩み始める。左手で男の腕を掴み、顔面に右拳を叩きつける。夜の闇のなかでも分かるほど、鮮やかな血飛沫が舞った。
男の苦鳴は懇願へと変わっていった。やめてくれ。痛い。勘弁してくれ。ごめんなさい。助けてくれ。情けのない声を嬲るように、俺は男を殴った。何度も何度も殴った。
「ちょっとやめて、死んじゃう!」
俺を止めたのはひおりの声だった。幻聴かと思ったが顔を上げるとひおりが立っていた。俺は殴るのを止めた。男はもはや抵抗する気力もなく、地面で大の字になり、血まみれの顔で浅い呼吸を繰り返していた。
「返事がないから何かあったかなって思って戻ってきたの。そしたら、ああ、もう、何やってんの、これ……」
ひおりは頭を押さえていた。俺は男の上から退き、動けずにいる男をつま先で小突いた。俺は自分が怒りと嫌悪に突き動かされていると思っていたが、実際の原動力は快感だった。俺は一方的に相手を殴ることを気持ちがいいと感じていた。
「こういうのは徹底的にやんないと。二度と関わりたくないと思わせるまで、徹底的に」
男が呻いていた。俺は男の顔を覗き込んだ。血まみれだったし、折れた鼻は曲がっていたが、俺は男に見覚えがあった。
「瓜さん?」
そう口にはしたが、どうして瓜野がひおりのストーカーをしているのかは見当がつかなかった。しかし呼んだ名前に反応した瓜野と目が合った。瓜野も俺に気づいた様子だったが、多少目を開いただけで言葉は発さなかった。瓜野は身体を起こして、立ち上がった。私は反撃を警戒したが、勝負はとっくに決していた。
それは考えるまでもないことだった。私はプロになりキャリアを築いたが、瓜野は負けて怪我をして再起不能になった。つまり私と瓜野の強さのあいだには厳然たる差が存在していた。たとえ競技用義腕を身に着けていなかったとしても、俺が瓜野程度の男に後れを取る可能性は万に一つすらなかった。
「瓜野さん、何で……」
そう呟いたひおりも瓜野のことは知っているようだった。俺はルイス機甲ジムがひおりの店の常連だったことを思い出した。瓜野とひおりは私とひおりのように、そこで知り合ったに違いなかった。ひおりは俺とセックスをしながら、瓜野ともずっとセックスをしていたに違いなかった。それは不愉快で汚らわしいことだった。
「ひおりちゃん、俺、……ごめん」
瓜野はひおりに手を伸ばそうとした。俺は右手で叩き落とし、左のクロスを顔面に捻じ込んだ。瓜野は死んだカエルのように地面に仰向けに倒れた。俺はさらに追い打ちをかけようとしたが、ひおりが俺の腰にしがみついてそれを阻んだ。
「瓜野さん、もう行って! 二度と顔見せないで!」
ひおりは瓜野に向けて怒鳴った。瓜野もう一度、ごめんと呟き、身体を引き摺りながら立ち去っていった。けっきょく瓜野は最初の一度以外、俺の顔を見ようとしなかった。
「何であいつを庇うんだよ。ストーカーだぞ?」
俺はひおりの腕を振り解き、靴底で地面の血痕を踏み躙りながら言った。俺には俺が正しい自信があった。しかし俺は無性に苛立っていたし、せっかくストーカーを撃退してやったのにひおりの表情は暗いままだった。
「意味が分かんない」
「は? 意味が分かんねえのはそっちだろ」
「いや、意味分かんないよ、こんなの。何考えてるの。ちょっと脅すって言ってたじゃん。あんな滅茶苦茶に殴って、死んじゃったらどうするの? ボクサーってみんなあんなに狂暴なの?」
「死なないだろ。競技用じゃないんだ。この腕は人を殴るようにはできてない。それと言っておくが、俺はボクサーじゃない。義体闘技者な」
俺は罅が入って壊れた左手を見せようと思った。しかし俺が近づくと、ひおりは後退った。暗闇のなかでも、ひおりの表情は歪んでいるのが分かった。俺は似た表情を見たことがある気がしていたが、どこで見たのかは思い出せなかった。
「近寄んないで。それ以上近寄ったら叫ぶよ」
「いや、何でだよ。あんたのためを思ってやったことだろ。成功だ。もうストーカーはいない。何が不満なんだよ」
「最低。キモすぎる」
ひおりは吐き捨てると数歩後退り、十分に俺との距離が開いたのを見計らって踵を返した。それはまるで熊から逃げるような警戒ぶりだったが、俺がひおりに危害を加えるはずはなかったから、その様子はひどく間抜けだった。
「おい、待てよ!」
「うっさい、田中!」
ひおりは俺を怒鳴りつけ、夜道の黒に紛れていった。追いかければ追いつくことは容易かったが、俺はひおりの後を追わなかった。
†
俺は雄叫びを上げながら拳を振るう。サンドバッグを衝撃が貫き、天井を繋ぐ鎖が悲鳴のように軋む。両腕がにわかに熱を持つ。身体から、腕から蒸気が立ち込める。叫び続ける喉が焼ける。
やがて腕は熱に、身体は乳酸に満たされて、動かなくなる。俺は最後に渾身のブローを見まい、床に倒れ込む。叩きつけられた義腕が甲高い音を立てた。
「気合い入ってんな、空木のやつ」
「そりゃベルトかかってんだからなぁ」
「でも相手、瓜野さんやった奴なんだろ?」
「うっせえな!」
俺は遠巻きに俺を観察していたクズどもを怒鳴りつけた。まるで俺の声に存在していた音すべてが吸い込まれたように、ジムのなかは歪に静まり返った。
「駄弁ってねえでやれよ。だからてめえらはいつまで経っても雑魚なんだろうが!」
立ち上がってクズどもに詰め寄った。俺の前に、韮崎が割って入った。
「まあまあ、落ち着け。あいつらも悪気があるわけじゃない。深呼吸だ、深呼吸」
韮崎は深く息を吸って吐く。闘技者ではない韮崎に手を上げることを思いとどまる程度に俺は理性的だったが、だからといって深呼吸程度で苛立ちは収まらなかった。俺は韮崎を睨んだ。韮崎は怯んだが、俺の前から退こうとはしなかった。
「いいじゃねえか。血の気が多いのはけっこうだ」
張り詰めるジムの空気を震わせたのは、会長室から降りてきた矢藤の声だった。矢藤は俺の王座戦に向けて腹を括ったらしく、殺されるくらいなら殺せと、およそスポーツとは思えない檄を俺に飛ばすようになっていた。
「向こうがこっちを殺す気なんだ。こっちだってそれぐれえの気合いでいかねえとな。ただし気合いをぶつける相手を間違えんなよ、小僧」
俺は睨みつける相手を矢藤へと変えた。あるいは矢藤の後ろについてくる金髪の男へと変えた。
「だったら今日のスパー相手は殺して文句ないんだよな?」
俺は矢藤を押しのけ、男の前に立った。男は俺よりも頭一つ分身体が大きく厚かった。俺を見下ろし、やけに白い歯を見せて笑う。
「殺す? 随分と威勢がいい坊やだね。焦らなくてもたっぷり可愛がってやるよ」
「上等だ。さっさと上がれ。意識だけ先に国へ帰してやるよ」
「言っておくが、喧嘩じゃねえからな?」
矢藤の声を背後に聞き流しながら、俺と長身男はリングへ上がる。ブロンド男は矢藤が方々へのコネクションを使って呼びつけた義体闘技者で、体格や戦い方は士縞を想定している。
「小僧、いいか。士縞は異常に鋭いジャブで相手を崩し、一気に間合いを詰めて連打で主導権を取ってくる。ジャブの動き出しから到達までは〇・二一秒。これはほぼ人間の認知速度の限界だから躱せねえ。動き続けて狙いを絞らず、打たせないこと。てめえが勝つにはそれしかねえと思えよ!」
お互いに練習用のヘッドギアを嵌め、リングで向かい合う。一歩ずつ距離を詰め、拳を重ねて実戦練習を開始する。
先手を打ったのはブロンド男で、すぐさま踏み込みジャブを放つ。俺は上体を反らして躱すも悪手。想定よりも長いリーチの一撃が俺の顔面に命中。突き上げられるような衝撃に俺はたたらを踏んで、簡単にコーナーへと追い詰められる。
ブロンド男はすぐに間合いを詰め、連打を目論む。俺は屈みながらブロンド男の脇を抜けて背後に回る。
――逃げるな
父さんの声が頭蓋の内側で響いている。俺は足を後ろに引いてブレーキ。拳の向こうに立つブロンド男を真っ直ぐに見据える。
「悪くない動きだね」
士縞が使っているのは欧米圏で主流の競技用義腕だ。人工筋肉の装填に通常よりも六〇度近い捻りが加わっているせいで、熱を発生させやすく燃費が悪くなるものの、同じ出力でもより速く鋭い打撃が可能になる。さらに厄介なのは平常時に捻りが入っているせいで伸展時のリーチが通常よりも長いことだが、こればっかりは打たれながら体感で微妙な差を目と身体に叩き込む他にない。
長いリーチを武器に、ブロンド男は容赦なく間合いを詰めてくる。俺は防御する腕を上げ、目を澄ませる。父さんの息遣いが俺の鼓動に重なる。
「足止めんな、足!」
矢藤の檄が飛び、ブロンド男のジャブが飛ぶ。俺はそれをあえて受けながら間合いを探る。ヘッドギアをつけていても、衝撃に脳が揺さぶられる。しかし蓄積されるダメージに比例して、身体が少しずつ打たれる間合いを覚えていく。
「どうした、デカブツ。遅くなってるぞ?」
「減らない口だ!」
ジャブが放たれる。俺は身を屈める。懐に潜り込むと同時に引き絞った右拳を振り下ろす。体格差から頭に届かなかった拳は、ブロンド男の胸を突いた。
今度はブロンド男がたたらを踏む。俺は間合いを広げさせず、脇腹に左フックを見舞う。ブロンドの長躯がくの字に折れる。下がってきた頭に突き上げる拳を合わせる。
――いけ、緩めるな、このまま潰せ
俺はブロンド男をロープまで突き飛ばし、連打に入る。潰せ。俺はガードが下がれば顔面を穿ち、ブロンド男が頭を守ればボディを狙った。懸命に耐えるブロンド男に何発か決定的な手ごたえの強打が入る。殺せ。頭のなかから聞こえてくる父さんの声が俺を突き動かす。ブロンド男の腕が重力に引かれて落ちる。無防備になったブロンド男を俺はさらに攻め立てる。気持ちがいい。殴る。潰す。殺す。ブロンド男の鼻から噴き出した血が、金髪を、白い肌を、赤く濡らした。
「やめろやめろやめろ!」
絶叫とともに、矢藤たちがリングになだれ込んでくる。完全にロープにもたれて崩れ落ちたブロンド男から、俺を引き剥がそうとする。俺は矢藤を殴りつけ、迫る誰かを手当たり次第に殴りつけた。別の誰かが俺の腰に組み付く。肩を掴まれ、背中からリングに叩きつけられる。俺はほんの一瞬だけ呼吸を奪われ、動きが止まった隙に三人がかりで抑え込まれる。俺は暴れる。四人目が俺にしがみつく。俺は抵抗する。〈アルカイオス〉の神経接続が切れる。腕が動かなくなる。それでも俺は抗おうとする。仰向けになった俺の視界に矢藤が見えた。矢藤は拳を振り下ろした。頭のなかで火花が散って、俺は意識を失った。
4
父さんと母さんとぼくの三人が住む家の壁には、ポスターや雑誌の切り抜きが何枚も貼り付けられていた。
マックス・アトラスを制した名勝負から半年後、父さんは練習中に肘を痛め、間もなくパンチドランカ―の症状が出始めた。満足なトレーニングが積めなくなった父さんは、徐々に試合に勝てなくなっていった。やがて明らかに格下である若手選手との試合でKO負けを喫して、父さんはリングから去った。かつてあれほど観客を沸かせた空木丈地の物語は、味気なく、呆気なく幕を閉じた。
ボクシングを辞めた父さんは、ずっと家にいるようになった。一度だけ、ボクシングとは違う、運送会社で働き出したことがあったけれど、父さんはその仕事を二日で辞めた。
飲まなかった酒を飲むようになり、サンドバッグの代わりに家の壁を殴るようになった。ぼくが触ると固い壁も父さんの拳骨の前では簡単に穴が空いたから、ぼくはやっぱり父さんはすごいんだと思った。けれどそのたびに母さんと父さんは言い争いになって、母さんはいつも泣きながら、壁の穴を隠すようにポスターや雑誌の切り抜きを貼っていた。だから父さんは壁ではなく、ぼくを殴るようになった。ぼくは壁のように固くはなかったけれど、いくら殴られてもせいぜい青く腫れるだけで、穴が空くことはなかった。
父さんがぼくを殴るのは、酒を飲んだときと決まっていた。つまりそれは毎日だった。おかげでぼくの身体は痣だらけだったから、ぼくは父さんがボクシングを辞めてからの四年間、一度も水泳の授業には出られなかった。
「構えろ」
いつものように殴られた腹を抑えてうずくまるぼくに、父さんは言った。
「いつもいつも殴られてばっかでよ。少しはやり返してやろうって気になんねえのかね。いや、なんねえのか。なんねえからこうしてるんだもんな。ふざけんなよ。俺の息子だろ。男だろ。抵抗しろよ」
父さんはぼくの髪を掴んで頭を上げさせた。酒臭い息がぼくの顔を撫でた。ぼくは思わず顔をしかめてしまった。
「何だよ、その目は」
父さんは舌打ちをするとぼくを掴んだまま立ち上がり、床の上を引き摺り回した。床に落ちていた缶チューハイの空き缶に、ぼくの足が当たって転がった。
「なあ、お前も俺を哀れむつもりか? 俺のガキの分際で? ふざけんじゃねえぞ!」
声を荒げた父さんはぼくを床に叩きつけた。目の奥で火花が散った。父さんが壁を殴った。まるで雪が積もった道路へいの一番に足跡をつけたときのように、壁には簡単に穴が空いた。
「俺は、……まだやれんだよ」
荒々しく吐き捨てられた言葉は研ぎ澄まされた刀のようでもあって、アルコールで赤らんだ顔のはずなのに、表情はリングに立つあの父さんそのものに見えた。
飲まなかった酒を飲むようになっても、サンドバッグの代わりに壁やぼくを殴っても、父さんは父さんだった。昔と今の父さんを知る人は、たまに空木丈地は変わってしまったというけれど、それは間違いだった。
父さんはやっぱり父さんだということを、ぼくだけが知っている。
見慣れたジムの天井に、一匹の蛾が止まっているのが見えた。瞬きをするといなくなっていた。
俺は身体を起こそうとしたが起き上がることはできなかった。義腕の神経接続は切られたまま、俺を拘束するただの枷になっている。それでもなんとか起き上がれないかともがいたせいか、肩から首にかけて鋭く細かな痛みが走る。あるいは頭の奥が鈍重に痛んだ。俺は起き上がるのを諦めた。
「……起きたか」
傍らのベンチに韮崎が座って、俺を見下ろしていた。俺はそこでようやく自分がトレーニングマットの上で横になっているという現状を理解した。
「何が」
あったのか――と言いかけて、散り散りに砕けていた記憶の断片が明確な像を結んでいったから言葉を呑んだ。王座戦を想定した実戦練習で、俺は練習相手のブロンド男を半殺しにした。
「いや、あの男と、矢藤さんは?」
「病院だ。いや、今頃はもう飛行機に乗って、向こうのジムに頭を下げているころかもしれない」
「すまん……」
「謝る相手は僕じゃない。それに、僕のほうが君に謝らないといけないんだ」
韮崎は俯いた。影になった表情はよく見えなかったが、俺はボクシングを諦めた日の父さんを思い出した。
韮崎は横になっている俺にも見えるよう、タブレットを掲げた。液晶には複雑なグラフや人間の神経や筋肉の3Dモデルが映されていた。もちろん細かなデータの読み取りは俺にはできなかった。だがグラフの計測開始日が俺が機甲拳闘を始めた日に一致することや、神経モデルの肩から脳に向けて赤い明滅が巡っていることが、ただなんとなく俺を不安にさせた。
「何だよ、これ」
「君は、〈アルカイオス〉が生み出した空木丈地に、乗っ取られている」
韮崎の説明は簡潔だった。
〈アルカイオス〉に学習させた父さんのデータは試合や練習の映像だけでなくインタビューでの過去の発言など非常に多岐に及んだ。その結果、俺の義腕は“空木丈地ならばこうする”という確度の高い推測に基づき、戦術を組み立てたり、相手の戦略に対処することができるようになった。だがそれは一人のボクサーの戦い方という領域を超え、空木丈地という人格を〈アルカイオス〉に学習させることに他ならなかった。
結果、俺の記憶と混ざった学習データは〈アルカイオス〉に擬似的な性格のようなものを生じさせた。そしてそこから算出される意思決定は人工神経と神経を通じ、俺の脳に逆流して作用を及ぼした。俺はまさしく、父さんに乗っ取られようとしているらしかった。
「ここ最近、無性に苛立ったり、今日みたいに暴力が止まらなくなることはなかったか……?」
心当たりはあった。激しく血を流し腫れた瓜野の顔。俺を“田中”と読んで走り去ったひおりの背中。同時に、衝動のままに拳を振るうことの、相手を一方的に蹂躙することの快楽がよみがえった。
義腕の神経接続が切られたままなのは、俺が再び暴れないようにする予防策だった。初めて競技用義腕をつけたとき、決して開かない拳は何も掴まないのだと感じたことを思い出していた。
「もしあえて名前をつけるなら〈逆侵襲〉とでも言えばいいだろうか……。君のお父さんがどんな人間だったのか、どんな父親だったのか、僕は知らない。だけど間違いなく、君の身体には異変が起きている」
韮崎は説明を終え、本当にすまないと項垂れて言葉を結んだ。
「韮崎さん、もしこのまま〈アルカイオス〉を使い続けたら俺はどうなる?」
俺は重要な試合を控えていた。競技歴は長くなかったが、紛れもない人生がかかった大一番と言っていいだろう。俺には〈アルカイオス〉が、――父さんが必要だった。
「エンジニアとしては分からないとしか言えない。おそらく世界的に見てもかなり稀少な例だと思う。いや、前例があるかどうかも怪しいとは思う。ただ――」
韮崎は言葉を切り、顔を上げた。賢そうな顔は今にも砕け散ってしまいそうに震えた。
「これまで一緒に戦ってきた友人として言うなら、使うべきじゃない……いや、使ってほしくない。君は素直で優しい男だっただろ」
俺は寝転がったまま、韮崎を見上げていた。韮崎の頬を、涙が伝った。俺は男のくせに泣くなんてみっともないと思った。だが一番みっともないのは、そう思ってしまう俺だった。
風に当たってくると言って、韮崎が立ち上がる。俺は視界から消えた韮崎を、縋るように呼び止める。
「もう一つだけ教えてください。俺は、俺が、ここまで勝ち続けてきたのは、俺が強くなれたからなのかな。それとも、父さんがいたからなのかな……」
「決まってるだろ。君が強かったからだ」
たぶん俺の唯一の友人は、そう言い残してジムを出て行った。俺は一人残されたジムの床で天井を見上げていた。
ようやく強さを証明できるはずだった。欲しかったものが手に入るはずだった。しかし開くことのできない俺の手は薄氷のように頼りないそれを、あっけなくも握りつぶしてしまった。
天井が滲んでぼやけていった。みっともないと思っているのに、俺は醜いその顔を腕で覆い隠すことすらできなかった。
†
「――おいおいちょっと待て、何考えてやがる⁉︎」
トレーニングを終えた帰り際、矢藤が俺の胸座を掴んだ。俺は矢藤を振り払った。何を言いたいのか見当はついていた。リングの向こうで、韮崎が申し訳なさそうに立てた手のひらを顔の前に掲げていた。
「〈アルカイオス〉は使わない。韮崎さんも納得してる。二人で決めたんです」
矢藤は乱暴に髪を掻きむしり、眉間を押さえた。
「そうじゃねえ……。〈アルカイオス〉を使わねえつもりなら、試合には出さねえって言ってんだよ」
当然そうなるだろうと思っていた。〈アルカイオス〉の基礎的な戦闘補助には試合のなかで相手の攻撃パターンを学習し、防御や反撃の精度を高めるというのがある。だから〈アルカイオス〉なしで戦うことは、普段使っている剣と盾を捨て去ることに等しかった。
だがそれでも、つまり士縞に勝てる可能性の大部分を捨てることになっても、俺はこんなところで戦うことを投げ出したくなかった。俺が俺自身の人生を生きるために、この試合のリングに立つことが必要だった。
たぶん父さんならばこんなとき、俺がリングに背を向けることを許さない。恥だと罵り、臆病だと吐き捨て、逃げ出す俺の首根っこを掴んで殴りつけるだろう。
だから俺はリングへ向かうべきでもあった。父さんから目を背けてはならなかった。
俺は父さんの、空木丈地の息子だ。だが息子でしかない。
父さんが見た景色も見ることが叶わなかった景色も、そして見ようとしなかった景色も、俺は知りたかった。
生の歓びも死の危険も、すべて自らの手で選び、掴み、手放すこと。それこそがあの日生き残った俺が持っていて、あの日死んだ父さんが持っていないものだった。それこそが、俺が見たかった自由だった。
俺は矢藤を真っ直ぐに見据えた。おそらく矢藤の脳裏にはブロンド男を病院送りにした俺の狂気が過ぎったのだろう。矢藤は右足を半歩引き、腰の横で拳を握った。
だが俺は直立し、殴ってくれと急所を晒すように腰を九〇度に折って頭を下げた。俺はそれ以外に人へものを頼む方法が思いつかなかった。
「頼みます、矢藤さん。俺を試合に出してください」
「やめろ。二人も同じやつに潰されたんじゃ、ジムの面子がやられんだよ。知ってんだろ。マスコミが今回のカード、瓜野のことをほじくり出して敵討ちだと騒ぎだしてる」
「瓜さんは関係ねえよ。俺を試合に出してください」
「てめえが関係なくても世間はそう思ってはくれねえんだよ」
「俺を、試合に、出してください」
「だから――っ!」
「矢藤さん、僕からも頼みます。彼を、試合に出してやってください」
矢藤が荒げた声を遮ったのは、俺の隣りから聞こえた韮崎の声だった。
「〈アルカイオス〉に逆侵襲のアクシデントがあったのはこっち側の落ち度じゃないですか。それでも、空木歩は逃げることなく男を見せようとしてるんです。その気合いに応えてやるのが、矢藤さん、あなたの責任じゃありませんか?」
「韮崎、お前……」
「ねえ、矢藤さん、行かせてやりましょうよ」
「だけどな……」
矢藤はそれでもなお顔をしかめ、首を縦には振らなかった。
「いいじゃねえか。戦わせてやろうぜ」
リングの上から声がした。あるいはジムの出入り口から。ベンチから。サンドバッグの前から。次から次へと声が連なった。
「瓜野の敵討ち、上等だろ」「そこまで頭下げてんだ。出してやろう」「空木を応援するよ。ベルト獲ってこい!」「獲ってきたら試しに巻かせてくれよなぁ」「てめえは自分で獲れよ」「なあ、アジア太平洋ってどこ? アフリカ?」「絶対勝てよ! 俺、お前の勝ちに今月の残りの生活費賭けてんだ」「下手な試合すんじゃねえぞ!」
どいつも勝手なことを言いやがる。俺は頭を下げたまま、両目をかたく瞑った。
「ああぁっ、もう何なんだよてめえら!」
矢藤は声を荒げ、また頭を掻きむしった。だが今度は呆れながらも満ち足りた、複雑で不思議な表情をしていた。
「こうなったらルイス機拳ジムを上げて、士縞と戦争だ、戦争。覚悟しろよ、試合までてめえら全員死ぬ気でしごくからな! 一〇キロ走ってこい!」
ブーイングと野次が乱れ飛んだ。韮崎が俺の肩を叩いた。俺は身体を起こした。広がる光景は、小さいころリングから見たあの眩しい景色にも似ていた。
†
準備を終えた俺の身体から、熱気が濛々と立ち込めていた。
青コーナー側の控室。韮崎が俺の背中越しに義腕の接続の最終確認をしている。身体の前に出した拳には、矢藤がバンテージを巻いていた。
「いよいよだな、小僧よ」
鋼の拳が白いテープで固定されていく。より固く、より強く。俺の握り込んだ左右の拳にはジムのみんなの思いと願いが込められている。
俺は初めてジムを訪れ、競技用義腕をつけた日のことを思い出していた。あのとき俺は、閉じられたまま決して開かない拳に切なさを感じた。だけどそれは間違いだった。機甲拳闘の拳はきっと、すでに大切な何かを握り込んでいるからこそ、開くことがないのだろう。
「準備が完璧とは言えねえ。まだまだできることがあったはずだ。だがもうつべこべ言っても仕方ねえ。いけるな?」
「もちろん」
俺は短く答えた。
「義腕も問題ない。やや防御偏重の重い義腕だけど、君のパンチの威力を最大化できるよう重心位置も再度調整済みだ。思いっきり戦って来てくれ」
「ありがとう」
義腕の調整も完了し、バンテージも巻き終わり、グローブが嵌められる。きつく縛り上げられたレースが臨戦態勢の仕上げだ。
「矢藤さんにも、韮崎さんにも、感謝してる。たぶん二人とじゃなかったら、このジムじゃなきゃ見られなかった景色だと思う」
「馬鹿野郎。そういうのは勝ってから言うんだよ」
レースアップした俺の拳を、矢藤が上から殴りつけた。
「行くぞ! アジアの頂点獲ってこい!」
†
二万人の観客が、光に照らされるリングに意識を向けて息を殺している。空気が孕む熱は静寂に身を潜め、鐘の音を待っている。
二四フィートの青いリングの中心に、黒い服をまとう審判が立った。
『青コォーナァー……仲間の敵討ちに燃える若き挑戦者。身長一七二・七センチ、総体重七四・三キログラムッ。R.I.P社製義腕使用。ルイス機拳ジム所属――――アユミィィッ、ウゥツギィィッ!』
俺は右の拳を掲げ、ガウンを脱いだ。遮られていた光が俺に降り注ぐ。飛び交う拍手に応えるように一礼し、セコンドの矢藤からマウスピースを嵌められる。
『対する赤ァコォーナァー……壊した相手は数知れず、最も危険、最も強い絶対王者。身長一八一・二センチ、総体重七九・九キログラムッ。ダース・インダストリアル社製義腕使用。波留ジム所属。現WHAアジア太平洋王者――――スベルゥゥッ、シジィィマァァアッ!』
対角線上に立つ士縞もガウンを脱いだ。赤く染めた髪に三白眼。闘技者というよりも獰猛な獣を前にしているような気分になった。
「センター!」
審判の掛け声で、俺と士縞は互いに進み出る。八ラウンド、各三分。どんなに長くても四〇分後には、どちらかが勝者になり、どちらかが敗者になっている。
「せいぜい死なねえように気をつけろよ? 二世クン」
「救急車呼んでやったから感謝しろよ、嫌われモンのチャンピオン」
睨み合い、握手を交わす。
顔の前に出した拳が触れ合って、試合開始の合図が響いた。
先手は士縞のジャブ。読んでいた俺はこれを肘の外部装甲で防御。すぐさま反撃の左フック。士縞を捉えることはできず、一度間合いが開く。
お互いに警戒し合いながら、再び近づく。同時に拳を繰り出す。お互いの肩部装甲に命中。士縞の鋭いジャブの衝撃が防具越しに骨に響く。
やはり射程の長い攻撃は、間合いが図りづらい。十分に対策をしていても、実物はこちらの想定を容易に凌駕してきた。
間合いを潰すため、俺はさらに踏み込む。士縞のボディに左フック―側頭に右フックの連撃。しかしどちらも防御の上。士縞の右拳が今度は俺の鼻梁を穿つ。俺は思わず後ろに下がる。士縞が即座に間合いを詰めてくる。振り抜かれた右ストレートが鼻先を掠める。俺は下がる。たった数手で、コーナーへと追い詰められていく。
「逃げ場がなくなっちまったなぁ?」
「お喋り野郎、さっさと来い」
俺は構えた拳で手招きをする。士縞が目を見開き、獰猛に笑う。
最速のジャブ。予備動作すらなく、気がつけば打ち抜かれる魔弾。ジャブの衝撃に仰け反ると、すぐさま脇腹目がけて重たいフックが走る。側腹部装甲がそれを受け止める。殺しきれなかった衝撃が、内臓を容赦なくかき混ぜる。
俺は上半身を屈めて、士縞の左脇を通ってコーナーから離脱、背後に抜ける。繰り返し練習した動きに、視界の隅で矢藤が吠えるのが見える。形勢の逆転。俺は機敏に反転し、士縞の振り返りざまに左拳を見舞う。重量をぎりぎりまで上げた義腕の一撃が、士縞の側腹部装甲に沈む。
「「――いけッ!」」
セコンドからの雄叫びが俺の背中を押した。
士縞のリーチを殺すために普段より三分の一歩余分に間合いを詰めた。右ストレート。左フック。右フック。上がった防御の隙間を縫って、右拳を突き上げる。間髪入れずに右の脇腹にも、左の拳を叩き込む。
手ごたえがあった。しかし無情にも、ラウンドの終わりを告げる鐘が鳴った。
間に割って入った審判に背を向け、俺は自分のコーナーへと戻る。スツールに腰を下ろし、矢藤が差し出したボトルから水分を補給する。
「よくやった! いいじゃねえか。コーナーワークはもう警戒される。ここからは予定通り足で攪乱していけ。狙いを絞らせるんじゃねえぞ。いいな?」
「義腕のダメージも排熱も問題ない。いい調子だ。重さはどう?」
矢藤と韮崎の問いかけに俺は拳を掲げて答える。問題ない。俺は父さんがなくても、十分にやれている。
「よし、勝負を焦るなよ!」
一分間の休憩が終わり、俺は再び立ち上がる。背中を叩かれ、矢藤と韮崎が俺を送り出す。
「チャンピオンってのも大したことねえんだな」
「殺すぞ、ガキ」
二ラウンド目の開始――。その短い余韻を待たずに俺は攻め込んだ。
一ラウンドで執拗に攻め続けた脇腹へ、左斜め下からのフック。当然警戒している士縞の防御は下がる。俺はその場で時計回りに捻転した。
義腕の重量と回転の遠心力で威力を最大化した士縞攻略のために誂えた裏拳。微かな勝機を抉じ開けるため、俺が負うと決めたリスク。
ラウンド開始直後、想定外の一撃は、俺の狙い通り士縞の右側頭に吸い込まれる。衝撃で傾いだ頭に振られ、士縞が僅かにバランスを崩す。俺は腰を落として急停止。全身のばねを使って引き絞った左腕を全力で振り抜く。
「――ダウンッ!」
審判の声が響いたとき、リングに沈んでいたのは俺だった。
何が起きたのか分からなかった。裏拳は命中し、士縞には確かに隙が生まれていた。ガゼルパンチは俺の決め技だ。だが現にダウンしたのは俺で、息ができなかった。
「ほら、落ちたぞ」
蹲る俺の前で、士縞が両拳で挟んだ装甲を差し出していた。それは俺の側腹部装甲で、俺は自分が強烈な反撃を貰ったのだと理解した。
士縞が俺の側腹部装甲をリング外に投げ捨てる。審判はカウントを数えている。俺は立ち上がり拳を構えた。試合が再開された。
一ラウンドとは比にならない速度のジャブが、俺の顔面を打った。仰け反ったところにストレートの追い打ちが襲い掛かった。意識が飛んだ。しかしロープに助けられ、紙一重のところでダウンを免れた。
俺は上体を丸め、防御に徹した。士縞の拳がありとあらゆる方向から放たれた。反撃の余地はなかった。左右の脇腹を打たれ、脇腹を守ろうとすればすぐに頭を穿たれた。頭に拳をもらうたび、脳が縮んでいくのが分かった。
俺が積み上げてきたものは、士縞の一撃で砕かれていた。
俺はほんの数秒のあいだに二度目のダウンを喫した。リングロープにもたれながらも立っていることができなかった。まるで足元の氷が砕けたように、膝から崩れ落ちてリングに沈んだ。崩れ落ちる瞬間、俺の左目を低い軌道のパンチが刈り取った。トドメにトドメを刺すような追い打ちに、俺の身体は弾け飛んだバネのように宙で伸びきり、仰向けになって倒れた。
遠くで鐘の音が鳴っていた。俺はだんだんと細くなっていく頭上の光に手を伸ばした。だが俺の拳は決して届かず、何も掴めず、糸が切れたようにリングに落ちた。
やがて遠退いた光は消え、すべてがまっ黒に塗り潰されていった。
5
夏は呆気なく終わり、秋が来たかも分からないまま冬になった。生い茂っていた葉や草は俺が眠っているあいだに枯れ、むき出しの枝や大地の茶色がいつの間にか冷たい空気に晒されていた。
士縞との試合に負けた俺は、二つの季節の終わりと新しい一年の始まりを眠って過ごした。脳に残った障害は俺から左目の視力を奪い、脳に深刻なダメージを植え付けた。もう一度強く殴られれば死ぬと言われた俺が、競技を続けることは不可能だった。
だが失ったものの大きさとは裏腹に、気分は晴れやかでもあった。それはあまりにも大きな空洞ができてしまったせいで喪失の虚しさに気づけていないだけなのかもしれなかったが、冬の空のように澄んだ気持ちは悪いものではなかった。
俺は目を覚ましてから一度も、ジムに行っていない。もう行く必要がないからだ。
俺は機甲拳闘を辞め、運送業者で働き始めた。
父さんがたった二日で辞めてきた景色のその先を、俺は今見ていた。
今日は初めて、仕事帰りに寄り道をしてケーキを買った。母さんの好きなモンブランを二つ。俺は何が好きなのか分からなかった。母さんは今日は仕事が休みだと言っていたから、今頃夕飯を作って俺の帰りを待っているだろう。
しかし橋に差し掛かり、俺は思わず足を止めた。思えばここからすべてが始まったのだ。俺はあの日と同じように、橋の上から水面を覗き込んだ。あのころは高く感じていた欄干は思ったよりもずっと低かったが、遠すぎる水面には俺の姿はほとんど映っていなかった。
風が横から吹きつけた。俺はケーキの入った箱を水平に保ちながら背中を丸めた。丸めた背中を衝撃が突いた。駆け巡る痛みと熱が、瞬間的に脳を焼いた。
一瞬遅れて、刺されたのだと分かった。俺の背後では呼吸の荒い何者かが身体を押し付けていて、体重をかけられた鋭利な何かが真っ直ぐに俺の背中へと突き刺っていた。
俺は反射的に振り返り、ケーキの箱を振り回した。ケーキの箱は襲撃者の顔に当たった。頭を覆っていたパーカーのフードが外れ、目深にかぶっていたキャップが落ちた。襲撃者がよろめいた拍子に背中からナイフが抜けた。襲撃者は顔を上げて俺を見た。
瓜野だった。変わり果てていたが、俺にはすぐに彼が瓜野だと分かった。
「ふぅーっ、ひっ、はっ、はっ、ふぅぃーっ」
瓜野は肩を上下させ、半開きの口から白い息を吐き出していた。弛んだあごには無精ひげが生え、伸びきった髪の奥では見開かれた目が街灯を受けて爛々と光っていた。鼻が曲がっているのはたぶん、俺のせいだった。
「瓜さ」
俺が瓜野に声を掛けるより先に、瓜野がもう一度俺に突進した。今度は腹にナイフが刺さった。ケーキの箱が地面に落ちた。
「ふーっ、ふーっ、ふーっ」
瓜野は俺の腹に刺さったナイフを握り締めたまま、俺の顔を見ていた。俺が苦しんでいる様子を確かめようとしているのかと思ったが、瓜野は涙を流していた。それは自分が今していることへの怯えで、同時にそうせざるを得なくなってしまったことへの後悔のように見えた。
「瓜さん、痛えっす。でも、瓜さんも、ずっと、痛かったっすよね……」
俺は瓜野の柔らかくなった背中に左腕を回し、右手で肩を叩いた。ナイフがさらに食い込んだ。瓜野は震えていた。腹と背中から滲む血は、俺の身体から温度を急激に奪っていった。
「俺、機甲拳闘始めて、……変われました、かね……? 鍛えて、プロ、なって、試合出て……、ちゃんと、変われてたんすか、ね……?」
瓜野は俺の胸で泣いていた。みっともなかったが、俺も一緒に泣いていた。
今の俺は手を開くことができた。何かを掴み、繋ぐことができた。いや、本当はいつだってできたはずだ。俺はただそうしなかった。握った拳だけが強さなのだと信じていた。
「でも、馬鹿だなぁ、……あんたも、俺も。やっぱ、馬鹿だよなぁ……」
「はっ、ごっ、ごめっ……ごめっん」
「いっすよ……、あと、片づけとくんで、先、……行ってください」
俺は持てる力を振り絞り、ナイフの柄と一体化してしまったように離れない瓜野の指を一本一本解いていった。瓜野の手は俺の血で真っ赤になっていた。
「うあぁ、うあああっ、うううっ!」
血の赤さと温さを目の当たりにした瓜野が尻もちを突いた。周囲に人気がないことだけが幸いだった。俺は自分の腹からナイフを引き抜き、橋の上から捨てた。水に呑み込まれる音すら響かず、刺された痛みすら感じなかった。
俺は欄干に寄りかかった。川の深さはどれくらいだったっけ。そんなことを考えながら後ろに倒れ――川へと落ちた。
浮遊感も恐怖もなく、落ちたと思った次の瞬間に、俺はもう水の中にいた。余計なものを振り落とすように、肺のなかの空気を吐いた。泡は俺の身体は義腕のついている上半身から何かに引っ張られるように沈んでいった。
青黒い水面に向かって、俺の腹から赤い筋が伸びている。その先を目で追うと、ぼんやりと弱々しい光が差している。
俺は光に向けて手を伸ばした。
しかし光は俺から遠ざかっていった。
それでもこの手を伸ばし続けている意味はあるのだろうか。
そっと握ったチタンの手が、差し伸べられた何かを強く掴んだ気がした。
了
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内容に関するアピール
“強さ”に対する漠然とした憧れと得体の知れない怖れは、たぶん私が男性であることと無関係ではないと思います。
好きな洋服だったり、選ぶ煙草の銘柄だったり、異性との食事でド貧乏なくせに金を大目に払おうとする見栄だったり、〈男性性〉を拒みながらも、〈男臭さ〉を愛好し、ときに内面化しようとまでする。そういう醜くて愚かな矛盾こそ私です。
この講座では大部分の作品にて〈百合〉に逃げてきましたし(書くのも読むのも百合が好きなのは事実)、最終実作も3月頭まではそのつもり満々でいましたが、「まあもう最後だし失うものないよね」ということで自分の1番痛いところをほじくりだそうと筆を執りました(パソコンの電源を入れました)。
私はこの話に出てくる登場人物ほぼ全員嫌いですが、最後に相応しい作品になったとは思います。また、いくらでもスピンオフが書ける気がするので、商業的にもいいのでは?とも思います(商業知らんけど)。
まあなにはともあれ、まずは、この小説でゲンロンに載るところから作家としてのキャリアを始めていきたいですマジで。どうぞよろしくお願いします。
最後になりましたが、1年間とてもありがとうございました。褒められたら「本当かよ……」と思うし、褒められなかったら「死にたい……」と思うしで、簡単に語ることのできない充実した毎日を過ごすことができました。
大森さん、各回ゲスト講師のみなさん、遠野さんはじめゲンロンのみなさん、ひらマン6期のみなさん、これまで本講座の歴史と風土を作ってきた卒業生みなさん、これから本講座を受講するまだ見ぬ猛者のみなさん、そして1年間ともに走りきった7期のみなさんに最大級の花束を。
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