旧名沢スカイランドの観覧車について
「観覧車は冬によく育つんですよ」
関係者口のドアを抜け、旧名沢スカイランドの敷地内の道を歩き始めたところで、厚手のジャンパーに身を包んだ八木さんは唐突に言った。しかし生憎、道は両端を背の高い木々に挟まれていて、八木さんが育てた観覧車の姿は見えなかった。
雪国として名前を知られる名沢市だが、十二月の初旬に積もるほどの雪が降ることはまずない。しかし日が傾けば寒さは強まるわけで、骨に沁みるような凩を身に受けながら、僕たちは濡れ落ち葉が覆う緩い上り坂を、滑らないように歩いた。
「小池さんがどこまでご存じか解りませんが、観覧車の生育は雪の結晶が育つ過程に比較されます。軸受けにできたホイールの卵は、地面に撒いた鉄イオン剤から吸い上げた鉄分を析出させながら、こう、わっと、三六〇度スポークを伸ばしていくわけです。一般に『結晶化』と呼ばれるフェーズですね」八木さんは作った握りこぶしをさっと開いて見せた。手袋をしていない八木さんの指は、しもやけでほんのり赤くなっていた。「けれど気温が高いと、鉄は膨張するでしょう。いくら光合成を活発にできるからと言って、調子に乗って被鉄しすぎると、気温差による膨張と収縮のせいで、できたばかりの薄い被鉄膜が割れてしまうんです。だから観覧車は――というよりは原種であるクロガネソウは、進化の過程で寒い時期に成長するようになったのだそうです。他の植物は光合成が活発になる夏によく成長することを考えると、少し不思議ですよね」
八木光一郎、昭和三六年生まれ。行きの車の中で聞いたところによれば、日本海側を代表する名門、名沢大学の農学部卒で、専門分野は育鉄。流れるように披露される育鉄知識にも納得だ。黒くて野暮ったい眼鏡に、ぴしりと七三に分けられた髪は営業担当の会社員然としているが、現在は育鉄関係のアルバイトをしながら暮らしているという。そのアルバイトで貯めたお金を使って、八木さんがたった一人で育てあげたのが、いま向かっている先にある観覧車だ。
「だから私は、ここでゲノム編集でない観覧車を育てることができたのです。ご案内の通り、北陸の冬は厳しいですから」
「僕も高校までは名沢にいましたから、一応は、知っているつもりです」
「おや、同郷とは! ということは、潰れる前のスカイランドもご存じですか?」
「はい、何度か来たことあります。その、小学校の頃ですけど」
名沢スカイランドは、名沢城の東、卯辰山という小高い山の頂上付近に作られた遊園地だった。「だった」と過去形なのは、ここが十二年前に既に閉園しているからだ。娯楽の少ない地方都市では貴重な学生の遊び場の一つで、四個上の従姉は彼氏とよくカップルで遊びに来ていたらしい。
若干息切れ気味の僕は、白い息を短く吐きながら、八木さんに案内されるままに坂を登り切る。
フードコートの裏口側の壁を右手に歩いていると、急に視界が開けた。その景色に、不意に幼い日の記憶が蘇り、つい立ち止まってしまう。
ああ、懐かしい。エントランス広場だ。入場ゲートを潜って、真っ先に足を踏み入れるのがここだった。奥にはこぢんまりとした回転木馬、視線を上げればジェットコースターのレールが宙を這っている。この広場ではよく大道芸人がジャグリングやマジックを披露していて、いつ来ても人だかりができていた。そのすぐそばにクレープの屋台があって、いつも甘い匂いを漂わせていたことを憶えている。
しかしあの頃の賑わいは、もはや見る影もない。地面を覆うタイルの隙間からは、雑草があちこちに生えてきている。パステルカラーに彩られていたはずの回転木馬はすっかり色褪せ、ジェットコースターのレールは枯れてしまっている。閉園からの十二年という月日は、遊園地を廃園に変えてしまうのに十分すぎる時間だった。
そんな中、レールの向こうにひょっこりと顔を出す観覧車だけが、一面が色褪せた廃園の中で薄水色を背景に、異様な存在感を放っていた。僕が子供の頃には存在しなかったことに加えて、錆一つない、真新しい観覧車には、まるで合成写真のような違和感を覚える。
「〈日本海スカイホイール〉という品種です。日本では珍しい自然観覧車ですよ」
自然観覧車とは、ゲノム編集をしていない観覧車のことだ。国内にあるヒトが乗れるサイズの観覧車は、基本的にはすべてゲノム編集によって安全を担保している。逆に言えば、ゲノム編集でない自然観覧車には安全上の懸念があり、現在では乗ることが禁止されている。
「十年かかりました。何度も途中で枯らせてしまったんです。ずぶの素人でしたから、論文を読みながら、全て自力で育てる必要があったので」
「待ってください。独学で、ひとりでこれを育てたんですか?」
観覧車を完成させるのは、ゲノム編集全盛の現在でも、鉄塔やレールを育てるのに比べて桁違いに難しい。編集長から勉強用にと押しつけられた本の中にも、『鉄塔を育てるのは技師たちだが、観覧車を育てるのは職人たちだ』という言葉があったほどだ。
「ええ、そうするしかありませんでしたから」八木さんは事もなげにそう言うと、観覧車を眺めながら感慨深げに呟く。「廃園を買い取ってからここまで、長かった……」
僕は「日本海スカイホイール、十年、ひとりで」と手帳にペンを走らせる。
この観覧車こそ、僕がはるばる東京からやってきた理由だった。
「なんでわざわざ廃園に観覧車を完成させたのか、名沢に行って訊いてきてくれ。これが代表の連絡先」昨日、記事が作れなくて唸っている僕のデスクにふらりと現れた編集長は、たばこを吹かしながら一枚のメモを渡してきた。「名沢って小池の地元だろ? 普段ロクにネタを見つけられないお前に、直々にネタを持ってきてやったんだ。まさか断ったりしないよな?」
もちろん断れるはずもなく、僕はその場ですぐに渡された連絡先――八木さんにアポイントを取ったわけである。
実際のところ、〈日本海スカイホイール〉が完成したのが先月、一九九六年一〇月のこと。名沢スカイランドが閉園したのが一九八四年の三月だから、この観覧車は名沢スカイランドが閉園してから作られ始めたのは事実だ。編集長は名沢に旅行した友人経由で、この観覧車の情報を手に入れたらしい。
それにしても、普通はチームで作るのに、ただでさえ育成が難しい自然観覧車を、わざわざ廃園まで買って、未経験のままたったひとりで育てきってしまったとは……。何という情熱。廃園には似つかわしくない艶黒い威容を、抱えていたカメラで何枚か収めてから、僕は八木さんに向き直った。
「お電話でもお伝えしたとおり、この観覧車に纏わるお話を、ぜひ伺いたいんです。観覧車の写真を撮った後で、どこか近くのカフェででも……」
僕の提案に、八木さんは何かを考えるように顎に手を当てて。
「せっかくなら、観覧車に乗りながらとか、いかがですか?」
「え?」
「観覧車を完成させたのですから」八木さんはイタズラを企む子供のように笑う。「動かしてみたいじゃありませんか」
僕は狼狽えた。
「自然観覧車って乗っていいんでしたっけ?」
「お客様をいれての営業が禁止されているだけで、僕的に利用するぶんには自己責任の範囲なのです。免許を持っていなくても、私有地内なら運転しても良いのと同じです」そう言って八木さんは観覧車を指さした。「小池さんも乗ってみますか?」
自己責任、ということばに不安を感じないでもないが、これで乗らなかったとバレれば編集長の大目玉を食らってしまう。僕は八木さんの提案に頷いた。
五分ほど歩くと、純黒の観覧車のすぐ根元に着いた。
「うわ」
「大きいでしょう」八木さんは自慢げに。「高さは三七メートルあります。十二階建てのビルくらいの高さですね」
見上げると首が痛くなる高さだった。自然観覧車と言えば高さ1mにも満たない観賞用のものしかない平成の世に、これはすさまじい。このサイズまで育つ自然観覧車の種なんて、どこで手に入れたのだろう?
疑問はさておき、僕は改めて観覧車を観察した。観覧車を支える三角形の柱――支持架台は無骨な角張りを見せ、その頂点を中心として、スポークが伸びている。ホイール上には円状のゴンドラが三〇個ほど並んでおり、その一つ一つに丁寧にアクリル窓がはめ込んであった。
近づいてみると、支持架台とフレームには、ぷつぷつとした半球状の出っ張りが、規則的に並んでいる。他の観覧車の写真では見たことがないのだが、自然観覧車特有のものなのだろうか?
台座部分には木製の板をいくつか貼り合わせたデッキが組み立てられており、簡易的な発着場になっていた。デッキの中央には、観覧車のホイールが通る幅の溝が掘られており、そこにいくつかの大型タイヤが埋め込まれている。タイヤはホイールに接触していて、タイヤを回転させれば連動して観覧車も回るという仕組みになっていた。
「小池さんは観覧車には乗ったことはありますか?」
デッキの階段脇にある制御盤でスイッチを操作しながら、八木さんは尋ねる。
「東京に出てから、一度だけ。川崎ハイランドの観覧車に」
あのとき乗ったのは、これよりも遙かに大きい、六〇メートルほどの高さを持つ観覧車だった。研究でも将来でも目標を見つけられず、自堕落に過ごしていた大学三年の夏休み、いっちょ前に青春でもしようとサークルのメンバーで遊びに行った。川崎ハイランドのまさに顔である観覧車からは、関東平野に広がる東京のビル群や、月9のロケ地として一躍話題になった雄大なエンジン畑を一面に見渡すことができ、狭いゴンドラの中で友人たちと騒いだのを憶えている。
「〈横浜ドリーム〉ですね。日本国内だといちばん大きく育つ品種です。……さて、これでよし、と」
がこん、となにかの機構が駆動する音がして、回り始めたモータの重い振動がタイル張りの地面から伝わってきた。タイヤの回転が伝わって、黒色の巨大なホイールが大儀そうにゆったりと回り始める。
「おお……」
これほど巨大なものが動き始める瞬間というのは、興味はなくても見入ってしまう。
いつのまにか僕の隣に戻ってきていた八木さんが、説明してくれた。
「〈横浜ドリーム〉は、確か一周が二〇分くらいだったと思いますが、〈日本海スカイホイール〉はそれより小さくても、その二倍以上の時間がかかってしまうんです。観覧車は生きているので、あまり無理をさせすぎるとゴンドラが落ちてしまう。初めてなので、まずはこれくらいのスピードで我慢してください」
ん?
「……あの、初めてって仰いました?」
「え? ええ」
「ちなみに、試運転は?」
「これが初めてです。ふふ」
「…………」
どこか面白いところがあっただろうか? 生憎僕は、観覧車と心中するつもりはないのだが。
改めて観覧車を見上げると、回転のスピードも安定してきており、いよいよ準備万端と行った風情だった。ときおり吹く風に煽られて、ゴンドラがスズランの花みたいに揺れている。
デッキに上がった八木さんが、ちょうど目の前に降りてきたゴンドラのドアを開ける。
「どうぞ、お乗りください」
ここまで来てしまったからには、躊躇っていても仕方ない。
えい、ままよ、と、僕は覚悟を決めて、じりじりと動く床に飛び移った。ぎしりとゴンドラが揺れて、心臓が飛び出しかける。けれどさいわい落ちることはなさそうで、僕はほっと胸をなで下ろす。
低くて丸い天井に頭をぶつけそうになりながら、僕はスチールウールの座面に腰掛けた。ゴンドラの内部も外側と同じく真っ黒で、大きさはトイレの個室ほど。川崎ハイランドで乗った観覧車のゴンドラはうち壁がつるりとしていたが、こちらは至る所に血管のような筋が浮き上がっていた。ミカンで言うスジの部分だろう。
すぐに八木さんも乗りこんできて、ドアを閉めた。内鍵を掛けると、ふうと息をついて、僕のはす向かいの席に座る。膝をぶつけそうなほどの至近距離だった。煙草の香りがつんと鼻をつく。
「いかがですか、自然観覧車のゴンドラに乗った感想は」
「え、感想ですか」
仮にも記者をやっているくせに、インタビューは訊く方も答える方も苦手だ。いま思いつく感想は、「狭い」しかない。
「えーと、あの」正直に答えるのも気が引けて、僕は視線をさまよわせる。「あ、この天井の丸っこいのって、もしかしてライトだったりするんですか?」
「まさか」八木さんは笑った。「おそらくは種子をくるむ鉄房でしょう。アイアンランプはゲノム編集で生まれたものですから、自然観覧車にはあり得ません」
「それは――」冷静に考えれば当然のことだ。「そうですね」
しかし一度恥を掻いてしまったことで、逆に心に余裕が出てきた。窓の外に目を向けた拍子に地面が離れていることに気づいて、思わず声を上げてしまう。八木さんの問いに、自然に答えが浮かんできた。
「――前に乗った観覧車よりも、なんというか、無骨で荒々しい感じがします。生き物に乗っているんだ、ということが実感できるというか」
「ありがとうございます。これが、私が十年かけて育てた観覧車です」
多少揺れはするが、幸いゴンドラが落ちる気配はない。これなら無事に一周を終えることができそうだ。会話に一区切り着いたこともあって、僕はゴンドラ内の写真をぱしゃぱしゃと撮った。八木さんは特に喋るでもなく、窓枠に肘を乗せ、我が子を愛おしむような表情で外に視線を流していた。
「…………」
さて、写真も撮りおわってしまうと、二人きりの空間は、いよいよ衣擦れすら気に障るほどの静けさに覆われる。初対面のひと観覧車に乗っているという気まずさもあって、そわそわと落ち着かない僕は、インタビューを始めてしまうことにした。
「改めて伺うのですが、八木さんさんはどうして、これほど立派な観覧車を育てようと思ったのですか」
八木さんはゴンドラ内に視線を戻すと、気恥ずかしそうにこめかみを掻いた。
「ああ、そういえばインタビューでしたね。すみません、感じ入ってしまって」
「あ……ええ、いいえ。こちらこそ、邪魔をしてしまって」僕はぺこりと頭を下げる。「始めても、構いませんか?」
「ええ。空中散歩のお供にはもってこいですから。……ただ、すみません。この話をするには、少し心の準備が必要で。煙草を吸っても?」
僕が頷くと、八木さんは「失敬」と銜えたキャメルに火をつける。ゴンドラは完璧に密閉されているわけではないから、煙たくなりすぎることはないだろう。しかし、心の準備とは? あまりおいしくなさそうに、二、三度紫煙をふかした八木さんは、ニコチン混じりの長いため息をついてから顔を上げた。
「ひとことで答えるなら、この観覧車は、祖父と父に復讐するために育てたのです」
* * *
すべての観覧車の先祖に当たる品種〈フェリス〉が発表されたのは、一八九三年のシカゴ万博でのことだった。その四年前、パリ万博でお披露目がなされた鉄塔の新品種〈エッフェル〉に対抗して開発が進められた、と言われている。自国の富力、技術力を誇示する側面もあった国際万博で、世界が帝国主義に染まりゆく中、ますます苛烈になる育鉄技術競争の極地を示すことには、極めて大きな意味があっただろう。なにせ、鉄橋の応用に過ぎなかった〈エッフェル〉に比べて(そうはいっても、当時世界で最も高い人為構造物ではあったわけだが)、〈フェリス〉は当時は最先端だった機構を育てる技術、CMM法をこれ以上ない形でデモンストレーションして見せたのだから。高さ八〇メートル、直径七五メートルと、現在のものと比べても遜色ない巨大な動く構造物に、万博を訪れた人々はド肝を抜かれたに違いない。
世界史的に話すなら、二〇世紀末は、四酸化三鉄で表面を覆わせるイーグルトン法(第一次育鉄革命)、機構を育てるCMM法(第二次育鉄革命)が相次いで発見されたパラダイムシフトの時代だ。戦争の火種があちこちにバラ蒔かれているなか、列強各国はクロガネソウの品種改良に躍起になりはじめた。
しかし同じ頃、民間でも、超高層ビルの鉄骨や、レジャー施設の開発などで、クロガネソウの品種改良が積極的に行われるようになった。特に、第一次世界大戦で債権国となったアメリカでは、その好景気を追い風に観覧車などが広く栽培されるようになり、二〇年代には国内の至る所に遊園地がオープンしたそうだ。
「私の祖父、八木潤蔵は『狂乱の二〇年代』、アメリカで鉄骨の育鉄士として、いくつかの高層ビルの建築に関わったそうです」
復讐という強いことばで僕の肝を潰した割に、八木さんは懐かしそうな表情を浮かべながら話した。まだ心臓がバクバクしている僕は、窓際に置いたICレコーダーが動いていることを横目で確認する。
「潤蔵氏はどうしてアメリカに?」
「出稼ぎだと言っていました。祖父は次男坊でしたから。出稼ぎで東京に行くくらいなら、いっそアメリカに行ってやる、と日本を飛び出したそうです」
「それはまた、随分と型破りなかただったのですね」
「ええ、本当に。日本人街にいても日本と変わらないから、とアメリカ人に混じって暮らしていたと言っていたほどですから」八木さんの目尻のしわが深くなる。「祖父はよく、当時の活気づくアメリカの様子を話してくれました。次々に増えていく摩天楼、街ではT型フォードがエンジンを吹かし、バーに入れば赤ら顔の作業員たちが、ラジオには耳もくれずに、ビール片手につばを飛ばしながら怒鳴り合っていた、と。きっと祖父もその喧噪に加わっていたんだと思います」
当時の高層ビルは、鉄骨をまず育て、それを骨組みにコンクリートや石の部材を組んでいくことで建設を進めていたはずだ。鉄骨の育鉄士だったのなら、潤蔵氏は建設においてかなり中核的な役割を担っていたのではないか。
八木さんは携帯灰皿で、煙草の火をもみ消した。
「中でも、私が一番印象に残っているのは、ロサンゼルス郊外、夜の遊園地で、恋人――私の祖母と乗った観覧車についてでした」
不意にインタビューのキーワードが登場して、私は八木さんのことばに集中する。
「ホイールを回す蒸気機関のエンジンの振動が、座面を通じて伝わってきて。石炭を燃やす匂いが鼻を擽る中、ふわりと浮かぶような感覚。地上から空間ごと切り離されて、街灯に照らされるひとを、道路を走る車のライトを、遠くの高層ビルの街灯りを、いつの間にかミニチュアにしてしまう魔法。祖父にとって高所からの夜景は見慣れたものだったはずですが、窓に顔を貼り付けて夜景に目を丸くする恋人に、――ナイトパレードの打ち上げ花火が刹那映し出したその横顔に、祖父は言い知れぬ胸の高鳴りを感じた、と当時を振り返っていました」
……惚気話ではないか。僕は脱力しそうになる。
「話してくれたのは、私がまだ小学生の頃でした。名沢の夏の花火大会って、憶えてます?」
「解ります」と気の抜けた僕。「犀川の河川敷でやってるやつですよね」
「ええ、それです。祖父は毎年、私をそこに連れて行ってくれていたんですが、そのたびに今の話を、すごく幸せそうな顔で話すんですよ。自分の武勇伝は、ガハハって豪快に笑いながら話すくせに、馴れ初めを話すときだけは、初恋中の少年みたいにキラキラした目になるんです。私は今でも花火を見るごとに、その優しい顔を思い出しましてね。『きっとおじいちゃんは、花火を見るたびにおあばちゃんとの観覧車の想い出を懐かしんでるんだな』って」
八木さんが窓の外を眺めて、つられて僕も視線を外に向けた。遅々としたスピードの観覧車は、それでもいつの間にか四分の一を回ったらしい。ちょうど木と同じくらいの高さで、その向こうに空間の広がりが見えてきていた。
日はだいぶ傾いて、西の空がもう既に赤い。腕時計は四時半を指していた。
「そうそう、この話には後日談がありましてね。さっきの話をするとき、祖父は恥ずかしがって、『お前のお父さんには内緒だぞ』って釘を刺すんです。だから私は必死で口をつぐんでいたのに、実際、私の父は知らないどころか、私以上に花火のたびに聞かされていたらしくって……。これが判明したのが、祖父の家から帰る車の中なのですが、助手席でぽかんとする私をさしおいて、ハンドルを握る父は楽しそうに笑っていました。『祖父ちゃんは観覧車が大好きなんだよ』って」
……ん? 八木さんが観覧車を作った理由を訊いていたはずが、話題は潤蔵氏との想い出話ばかりになってないか?
「あ、ありがとうございます、八木さん。潤蔵氏の観覧車の想い出は解りました」軌道修正のために僕は口を開く。「しかし、それがどう、この観覧車に繋がるんでしょう?」
「すみません、ついつい話しすぎてしまいました」八木さんは、ぽんと額を叩くと、不意に真面目な顔になって。「私が観覧車に興味を持ったきっかけが、祖父が話してくれた想い出話なんです。観覧車は息子どころか孫にまでその想い出を話してしまうくらい、人を幸せにしてくれるんだ、って」
八木さんはまっすぐに僕を見つめた。その瞳は純粋で、とても観覧車で復讐を企んでいるようには見えない。
はて、この話はいったいどこへ向かっているのだろう?
僕が首をかしげているうちに、
「そしてもう一つ、祖父と観覧車に纏わるとっておきの話がありまして」八木さんは得意げに眼鏡を中指の背で押し上げた。「実は日本で初めて観覧車を育て人物こそ、八木潤蔵なんですよ」
* * *
育鉄の歴史は古く、紀元前一三世紀頃にまで遡る。それまでのクロガネソウは、被鉄される前の茎を裂いて農具に利用するのが精々だったようだが、ヒッタイト帝国は、剣のように突然変異した種を栽培し、鉄製武器を生産していたことが解っている。アナトリア半島に興ったヒッタイトが、ミタンニ、エジプトを脅かすまでに強大化した理由こそが、鉄製武器栽培の独占だったのだ。やがてアッシリアや海の民に圧され、紀元前十二世紀末にヒッタイトが滅亡すると、育鉄技術は西アジアから地中海世界へ、ひいては旧大陸全域に広まったのである。
中学校の歴史の復習となるが、日本国内に育鉄が伝来したのは弥生時代、稲作の伝来と同じ頃だった。その栽培が本格化したのは鎌倉時代に入ってからだ。その名の通り、身に鉄を纏うクロガネソウは、梅雨や秋雨など、雨の多い時期が小刻みに訪れる日本では、獣脂を塗っていたとしても錆びやすい。そのため、日本では秋雨から菜種梅雨の約半年の間に育てたクロガネソウを収穫し、人の手で加工する手法が根付いた。例えば鉄製武器についても、西洋では一年を通して育て、収穫したらそのまま武器として利用していたのに対し、日本では、収穫したクロガネソウを集め、鍛える工程が含まれていた。これが現在でも美術品としての価値が高い日本刀となったのである。
もうひとつ、日本での育鉄を論じるなら、仏教思想との結びつきを避けて通ることはできない。クロガネソウという植物は、いかに鉄に覆われた強き身体を持っていようとも、じきに赤く錆びて、終いにはボロボロに朽ちてしまう。このことからクロガネソウは、諸行無常を体現する植物として、室町時代から寺の庭によく植えられるようになった。錆で赤く染まったクロガネソウの低木を中心に、磁鉄鉱の黒砂が波紋を描く、京都は延令寺の鉄庭は、今や世界的にも有名な観光地だ。巨大な構造物をいかにそのままの形で保存するかに腐心していたと西洋と比べ、日本ではクロガネソウに対する根本的な考え方が異なっている。
これらの観点において、鉄塔や観覧車といったクロガネソウを用いる巨大な構造物は、西洋の気候、および価値観に基づく開発であることが納得できるだろう。
閑話休題。そんなオクシデンタルな観覧車が日本に初めて入ってきたのは、文明開化の跫音響く明治の初めの頃だと言われている。明治維新の大混乱の中で鉄道とともに齎された観覧車の種は、しかしヒトが乗れるサイズにまで成長することはなかった。イーグルトン法で育てたところで、湿潤な日本の気候では錆びやすく、当時の育鉄技術ではスポークが簡単に折れてしまうのだ。結局、ヒトが乗れる大きさの観覧車が日本に登場するのは、四酸化三鉄の皮膜層を厚くして赤錆を予防する高温乾食法が広まった、大正も終わりに近づく頃のことだった。
「その高温乾食法で観覧車を育てきったのが、八木潤蔵なんです」
突然、歴史の登場人物が目の前に現れたような気分になって、僕ははっとした。
ちなみに、明治期に輸入された日本初の観覧車の遺伝子は、現在、花屋で買うことができる高さ三〇センチメートルほどの観用観覧車に受け継がれている。
「驚きました」というのも、このインタビューに当たって、編集長に押しつけられた観覧車や育鉄に纏わる本は全て読破したけれど、そんな情報はどこにも載っていなかった。国内に観覧車を持ち込んだ人物、なんて重要情報、読み落とすことはないと思うのだけれど。「日本初の観覧車は、確か神戸でしたよね」
「ええ、仰るとおり」八木さんは頷いた。「アメリカで譲ってもらった種を、神戸の郊外で育成中だった遊園地に植えた、と聞いています」
明治の頃より東洋一の貿易港である神戸には、クロガネソウ由来の、西洋的価値観に基づく品物が多く入ってきた。大正も半ばを過ぎる頃には、鉄橋や上れるタワーなど、西洋にも引けをとらない景観を見ることができたという。中にはもちろん遊園地もあった。国内最初の遊園地、神戸アイアンパークの入園料は2円。現在の価値に直すと四〇〇〇円ほど。潤蔵氏が育てた観覧車は、そこにあったということになる。
「このとき祖父が日本に持ち込んで育て上げた品種は、〈フロンティア・ホイール〉と言って、当時のアメリカ国内で広く栽培されていた品種なのだそうです。恐らく、祖父がアメリカで乗ったのも、この〈フロンティア・ホイール〉だったのでしょう」
「日本初の観覧車、ということであれば、さぞ人気だったのではありませんか?」
「ええ、できた当初は、長蛇の列ができていたとか」
その含んだような言い方が気にかかった。
「できた当初は、ということは、その後は違ったのですか」
「ええ。開園から五年ほどした頃、枯れてしまったのだそうです」
枯れたクロガネソウは、途端に脆くなる。鉄に覆われた内部の植物組織から漏れ出した弱アルカリ性の水分と鉄とが反応して、内側から赤錆にやられてしまうのだ。
「クロガネソウは乾燥した気候を好みますから、梅雨や秋雨など数週間にわたって雨が続く日本はそもそも苦手なのです。鉄橋やレールは、そもそもの使用用途もあって、水に強い品種改良がなされていましたが、観覧車はそうではなかった、ということですね」
枯れた観覧車はゴンドラを落とすため、近づくことすら危険だ。観覧車を撤去するまで、神戸アイアンパークは閉鎖を余儀なくされたという。しかし再開後も客足は戻らず、結局日本初の遊園地は閉園に追い込まれてしまったそうだ。
「だから祖父は、日本の気候に合う品種を作ろうと、そう決意したんだそうです。すぐに枯れる心配のない、十年も、二十年も愛されるような、そんな観覧車を。決意の裏に、祖母との想い出があっただろうことは、想像に難くありません」そこで八木さんは、一度言葉を切った。ポケットから取り出した煙草に火をつけると、深呼吸するみたいに紫煙をふかす。「ところが、神戸アイアンパーク閉園の件で責任をとらされて、祖父は育鉄士の資格を剥奪されたんです。観覧車どころか、鉄骨を伸ばすことすらできなくなってしまった。それでもなんとかして観覧車の育種に携わろうと、免許のいらない大きさで改良を重ねていたようですが、――戦争がそれを阻んだのです。戦争が太平洋に広がった頃、祖父はレイテに行く羽目になったんです」
昭和に入って、大戦の足音が近づいてくると、育鉄の資格のある者はあっという間に徴用された。ひと月で育つ鉄製灯台や戦艦の品種改良など、育鉄士は工廠でトップクラスのエリートと見なされ、各所で重宝されたという。
しかしそれは内地に残った育鉄士の話。当然だが、ひとたび戦争が始まってしまえば、鉄道敷設のため、武器や弾薬の確保のため、占領地でも育鉄をしなければならない。外地に派遣されたのは、育鉄士の資格は持たないが、育鉄の専門技術を持つ者たちだった。
「祖母は『戦争に行く前と帰ってきたあとで、潤蔵さんは変わってしまった』と、哀しそうに話していました。あれほど熱心に品種改良をしていた観覧車には目もくれず、育鉄に関わることすらなくなってしまった、と。祖父が観覧車を日本に持ち込んだ張本人だと言うことも、国産の観覧車品種を産み出そうとしたことも、すべて祖母から聞き出したことです」八木さんは噛みしめるように話した。「祖父は僕のことをよく可愛がってくれました。アメリカにいた頃の話もたくさん聞かせてくれましたし、『お前の親父には内緒だぞ』と言って悪いことも教えてくれました。それなのに、日本での育鉄のことは、私にはひとことも教えてくれなかった。祖父の中では神戸アイアンパークも、夢のために観覧車を育てた過去も”なかったこと”にされていたんです」
レイテ島と言えば、太平洋戦争での激戦地のひとつだ。ただでさえクロガネソウが育ちにくい熱帯の気候だから、必然、銃や砲弾など、育鉄の手はどれほどあっても足りなかっただろう。自らが栽培した作物で、同胞の、あるいは見知らぬ誰かの死体が積み上がっていくことに、潤蔵氏の心中はいかなるものだっただろうか。
もしかして、僕が読んだ本に潤蔵氏の名前が載っていなかったのも、このあたりの事情が関係しているのかもしれない。もしも国産の観覧車を育てようとしていさえしなければ、潤蔵氏はレイテに駆り出されることはなかったのだから。
「祖父は生前、戦場でのことは何も話してくれませんでした。結局、そこで何があったのか詳しいことは訊けないまま、祖父は逝ってしまいました。十年ほど前のことです。大往生でした。――この観覧車を見せられなかったことだけが心残りです」
八木さんが俯いて、不意にゴンドラの中に沈黙が訪れた。八木さんが押し消した煙草の煙が、ゴンドラ内に吹き込む隙間風に乱され、虚空に消えていく。それをぼんやりと眺めながら、僕は八木さんの話を思い返した。
八木さんの口から語られる潤蔵氏の人生は、僕が思わず聞き入ってしまうほど、波乱に満ちたものだった。しかし、潤蔵氏が育鉄を憎んでいるというのであればまだ理解できるのだが、八木さんが潤蔵氏に復讐を企てるほどの動機はどこにあるのだろう? 話を聞いている限り、八木さんは潤蔵のことを敬愛していこそすれ、鬱屈した感情を持っているようには思えないのだ。
いつのまにか観覧車は頂上近くにまで上っていた。ふと窓の外を見て、僕は息を呑んだ。
僕の隣で、八木さんも目を丸くしている。
「確かに、これはすごい」
「そうか、八木さんも初めてご覧になるんですね」
「ええ。高所作業をしこそすれ、ゴンドラに乗るのはこれが初めてですから」八木さんはアクリルパネルにおでこをくっつけた。「――これは、きれいですね」
まさに、名沢の街を一望していた。
名沢には東京のように高いビルはほとんどない。そのかわり、見渡す限りの黒い海が広がっている。
名沢は、名沢城を中心に発展した城下町だ。黒の中にぽつりぽつりと、太陽光を反射して光るのは、その当時から残る町家や自社の瓦屋根だ。一方で住宅街のの大半を占めるくすんだ鈍い黒は、昭和以降に作られた鉄葺きの栽培屋根だ。濃淡を作りながら地面を覆う黒い波、そこに浮かぶこんもりとした緑の台地にあるのが、日本三名園がひとつ兼六園で、そのすぐ隣には名沢城を望む。観覧車の頂上からの眺望は、近代と現代とが入り交じりながら共生する名沢を一望する大スペクタクルだ。
視線を名沢城の奥へと移せば、住宅地の間にひっそりと這うように流れる犀川、そしてそのさらに奥には、青黒い真っ平らな線が見える。日本海まで見えているのだ。
「これは、すごいですね」
名沢の街――特に中心部は起伏が緩やかだから、見晴らしスポットと呼べるような場所がない。それが、ここまで遠くまで見渡せるスポットがあるというのは……。つくづく、この観覧車が一般向けに公開されていないのが惜しく感じてしまう。
風が吹いて、きしきしとゴンドラが揺れる。僕は思い出したように胸元に提げたカメラで、何枚か写真を撮った。僕のカメラ技術で、このスペクタクルを切り取ることができるか、少し不安だ。
「夜になると、街灯りが瞬いてもっと綺麗になるでしょうね」
僕の呟きに、八木さんが頷く。
「ええ。百万ドルならぬ、百万石の夜景が眺められそうです」
「――ほんとうに、この景色を僕たちしか見られないのは、なんだかもったいないですね」ファインダーから顔を上げて、改めて景色を見回したとき、思ったことが、ふと口をついて出た。編集長にそう命じられたからではない、僕自身の疑問として、僕は訊いた。「なぜ、誰も乗れない観覧車を、卯辰山で育てたんですか?」
「私の実家は名沢にありましてね」八木さんが答える。そして遠くを見通すように目を眇ながら、自嘲するように言った。「ここで育てた観覧車は、あそこの、僕の実家から見えるんですよ。つまり、見せつけているんです」
「しかし、お祖父様は亡くなっているのでは」
「見せつける相手が違います。父なんですよ、相手は」
そういえば、と思い出す。八木さんの復讐相手には、父親も含まれていた。
「お父様も、観覧車に関係しているんですか?」
「どちらとも言えませんね」八木さんは首を横に振る。「私の父――八木輝彦は、クロガネソウの研究者です」
* * *
クロガネソウは学名をferrum processusといい、これは意訳すれば「加工する鉄」程度の意味になる。ここでいう加工とは、クロガネソウ本体を物理的に加工する、というよりは、品種改良の容易さに対して言ったものだろう。多種多様なクロガネソウ属の作物が、現代の都市生活に溢れているのも、歴史の中で品種改良が繰り返し繰り返し行われてきたためである。
さて、クロガネソウの加工の容易さは、他の動植物に比べて突然変異を起こしやすいことに依る。原因は、クロガネソウの生体中に含まれる鉄イオンだ。一般に、鉄は生物にとって不可欠な微量金属である。水に溶けやすく、電子の授受も容易な鉄イオンは、生体に必要な種々の酸化還元反応の活性中心となり、つまりは細胞内代謝での中心的役割を果たす。しかし一方で、酸素と反応しやすい鉄イオンは、フェントン反応によりヒドロキシラジカルを生じやすい。ヒドロキシラジカルとは、簡単に言えば極めて反応性の高い物質で、安定な分子に対して攻撃をしかけて変性させてしまうのだ。
鉄分の多い土壌で進化を重ねたクロガネソウは、余分な鉄分を生体表面に鉄として析出させることで、生体内の鉄イオン濃度を必要十分にまで小さくしている。それでも排除しきれなかった鉄イオンが、ラジカルを産出して遺伝子を攻撃したとき、突然変異が起こるのだ。突然変異を起こしやすいクロガネソウは、必然的に形質変化の選択肢が増えるため、品種改良が容易になるというわけである。実際、産業革命の時代までの品種改良は、形質の変化した作物を選択的に選ぶ人為淘汰によってなされてきた。
さて一九世紀半ば、産業革命を経験し、世界の効率化に邁進し始めた人類は、意図した形質をクロガネソウに持たせることはできないか、研究を重ね始めた。この頃、イングランドの育鉄技術者ベッセマーが単位面積あたりのクロガネソウの収穫量を増加させ、ドイツからイギリスに帰化した技術者ジーメンスとフランスのマルタンにより、クロガネソウの単位重さあたりに含まれる有機物の割合が最小化されていたことで、パラダイムシフトの下地は整っていたのである。
そして起きたのが、一九世紀後半の二回にわたる育鉄革命だった。すなわち、四酸化三鉄による赤錆防止の皮膜と、機構を持つ構造の育成である。
それまでの時代、育鉄における最大の敵は赤錆だった。赤錆は鉄を腐食させ、ボロボロにしてしまう。育鉄の歴史は赤錆との戦いの歴史だったと言っても過言ではない。植民地時代、支配地域のプランテーションでは、奴隷はほぼ毎日クロガネソウに錆止めの油を塗っていたと言われている。
そんな中、四酸化三鉄の緻密な膜を作らせ、クロガネソウを不動態とする手法が発表された。四酸化三鉄は黒錆とも呼ばれ、錆と名はついているが安定した構造である。被鉄膜を四酸化三鉄で被覆することで、水分や酸素と被鉄膜との接触とを防ぎ、錆の発生を抑制することができるのである。ウェールズの農家イーグルトンが完成させたその育成手法は、まさに革命だった。イーグルトン法と呼ばれるようになったこの手法は、瞬く間に全世界に広まり、クロガネソウ畑の無人化、大規模化に貢献したのである(第一次育鉄革命)。
また、その当時、蒸気機関などの鉄製機構は全て、それぞれのパーツの形に育てたクロガネソウを収穫、整形し、人の手で組み立てる必要があった。アメリカの発明家エジソンは、クロガネソウを利用した発電所を開発する実験の過程で、初めから可動な状態で組み上がった機構を産出できることを発見する。このとき発明された電流磁場成形法(CMM法/エジソン法)が齎したパラダイムシフトは、大量生産大量消費の時代到来の礎となった(第二次育鉄革命)。中学校の技術の授業で、あの七面倒くさい装置を畑で組んでクランクを育てたことを、覚えているかたも多いだろう。
二つの革命を経て、人類の育鉄によって産み出される鉄製品は、カンブリア紀の大爆発に比肩するほどの多様化を見せることとなる。観覧車が生まれたのも、まさにこの時代であることは先に述べたとおりだ。
そして、そんな世界を変えた革命から二度の世界大戦を経た七〇年代、人類は第三の育鉄革命を迎えたのだった。
「小池さんは、ゲノム編集についてはどのくらいご存じですか?」
八木さんは、自身の父親の話を始める前に、僕にそう尋ねてきた。
「一通りクロガネソウ関係の本は読みましたから」と僕。「基本的なところであれば」
理想通りの形状を持つクロガネソウを産み出すには、どうすればよいか。大戦中に行われた様々な研究が下地となって、東西冷戦の時代、アメリカの生化学者ポール・バーグらの貢献によってゲノム編集技術は産み出された。
ゲノム編集とは、理想の形質を得るために遺伝子をヒトの手で操作する技術のことである。特定の酵素を利用して、DNA鎖を特定の位置で切断し、あらかじめ設計しておいた塩基対を挿入するのだ。ご存じの通り、平成に入ってからの鉄製品はほぼ全てゲノム編集で産み出されている。むしろ、DNA切断酵素によるハサミの跡が残っていない遺伝子を持つ鉄製品を探す方がよほど難しい。
僕がゲノム編集について持っている知識を軽く話すと、八木さんは満足したように頷いて、
「僕の父は、クロガネソウを用いた発電の研究をしていました。学会ではわりと名の通った研究者で、八木輝彦の書いた論文の被引用数は国内でもトップレベルなんですよ」
「え」脳内で点と点が結びつく感覚があった。「もしかして名沢大の八木研が!」
「ええ、そうです。父の研究室です」
なんとなく聞き覚えのある名前だと思っていたが、漸く繋がった。名沢大学の八木研と言えば、日本における鉄空気発電を調べれば必ず登場する名前だ。
鉄空気発電とは、ひと言で言えば錆を利用した発電手法だ。クロガネソウ表面が空気や水に触れると、酸化し錆びる。この酸化反応で移動する電子を取り出すことで電力を産むのが、鉄空気発電だ。落鉄種――鉄空気発電のために利用するクロガネソウは、被鉄のスピードが他の種に比べるとかなり早い。落鉄種は、空気に触れて被鉄膜が完全に錆びきると、被鉄膜のすぐ内側にある表皮がアポトーシスを起こし、表面の錆びごと剥がれ落ちる。こうして裸になっても、落鉄種は一日もしないうちにまた綺麗な被鉄膜を植物表面に張ってしまうのだ。これが錆びるときには、また電子を回収することができる。つまり、クロガネソウが枯れない限り半永久的に電力を産み出すことができるのだ。
光合成による化学エネルギーを、錆を介して電気エネルギーに変換するこの手法は、錆の仕組みが解き明かされた二〇世紀初めには既に提唱されていた。ゲノム編集の技術が実用化された八〇年代に実用化され、今や世界各国で主要な発電方法となっている。
針のように細いクロガネソウが剣山のようにびっしりと生えている風景を、一度はブラウン管で見たことがあるだろう。人類をあれほどに苦しめた錆が、いまや人類の生きる糧を産み出しているという点に、僕はなんとも言えない感慨を覚える。
「父の研究室は、クロガネソウを利用してあまたの発見をしてきました。特に、落鉄種の単位面積あたりの酸化率を上げるための効率的な構造の提案。これは特に強力で、数多くの企業どころか国までをもスポンサーにつけてしまって。おかげで一時期の父は、白衣よりもスーツを着ている時間のほうが長かったこともありました」
平成に突入してからの育鉄産業は、ゲノム編集無しに語ることは不可能だ。特にいま八木さんが言った生体プログラミングは、現在最も熱い分野と言って良い。生体プログラミングの基礎を作った京都大学の生化学者本宮克司が、昨年のノーベル医学生理学賞を受賞したことも、記憶に新しいところだ。
しかし、観覧車を日本に初めて持ち込んだ人物を祖父に、鉄空気発電の権威を父に持つ八木さんが、平成の世に廃園で観覧車を育てるとは。改めてすごい血筋だ。
「それにご存じですか? 夜になると光る鉄灯も、元は父のラボの特許なんですよ」
「そうなんですか? それは、少し意外ですね」
「光合成ができない夜の時間には、発電所の運用方法を変える必要がありますからね。その応用です」
僕はなるほどと頷いた。
暗くなれば光合成が弱まるから、通常の呼吸にせっかくの酸化エネルギーを吸われてしまう。そのため、光量が減って呼吸の量が光合成の量を逆転すると、アポトーシスを止めて、錆びた状態のまま夜を越させる必要があるのだ。この逆転の判定は、クロガネソウが取り込む二酸化炭素量によって行っている。これを逆に言えば、二酸化炭素量の変化を利用すれば、クロガネソウを用いた光センサを作ることができるということだ。鉄灯は、夜の街を明るく照らしてくれる、心強い植物だ。
「幼い頃に両親が離婚して、私は父に引き取られました。父が働いているときは祖父母の家に預けられていたんですが、父の研究室に預けられることもあったんです」八木さんは三本目の煙草に火をつけた。「当時の私は、世間一般の小学生に比べれば、多少知識はありましたから、所属する学生さんたちに研究内容を聞かせてもらって。そのときに説明してもらったのが、鉄灯のアイディアだったんです。今でこそ生体プログラミングは人口に膾炙している概念ではありますが、当時はちょうど生体プログラミングが出始めの頃でしたからね。私には夢のようなテクノロジーに聞こえましたよ。
忙しそうなラボでした。三〇人ほどが所属している大きなラボなのですが、私が話を聞いている間にも他の学生さんたちは、コンピュータとRNAプリンタの間を行ったりきたりしていて。父が夜遅くまで家に帰ってこれないのも、なるほどな、と思いましたから。
けれどみなさん、疲弊しているどころか、逆に活き活きと忙しさすら楽しんでいるようで。父は常々、自分が研究をするのは社会の役に立つためだ、と言っていましたが、その意識はラボの研究員皆に通底していたように思います。社会をよりよくするため、社会のフェーズを今よりも一歩先に進めるために、粉骨砕身する彼ら彼女らは、当時の僕には、すごく輝いて見えたんです。
僕が育鉄の道に憧れたきっかけが、花火の夜に祖父が話してくれた想い出なのだとしたら、僕が育鉄の道に進む決心を固めたのは、この研究室訪問のときだったかもしれません」
「…………」
八木さんの話を聞いているうちに、僕は胸の奥がきしりと軋んでいくのを感じた。八木さんは、僕とまるで違う。育鉄に纏わる想い出を語る八木さんの目は、ずっとキラキラしていた。僕には、そこまで情熱を込めて語れるものがない。
僕は一応大卒だ。けれど大学には、目的も何も持たずに入学した。就職に多少有利だから、というだけでなんとなく理系の大学に進んだだけだった。
高校の頃は成績が良かったから、大学でも上手くやっていけるだろう、と考えていた。けれどそれは、あまりにも浅はかだった。大学というのは、自分に興味のある分野があって、それを究めようという意思のある人間たちのための場所だ。高校の頃の僕が成績が良かったのは、ただ知識を詰め込むのが好きだったからで、探究することそれ自体に情熱は持っていなかった。
結局ゼミの先生に迷惑をかけまくりながら、お情けでなんとか卒業させてはもらったものの、大学生活を通して何か身についたかと訊かれると、返答に困ってしまう。周りが就職難にあえぐ中、僕は伯父が紹介してくれた雑誌編集部に拾われたものの、探究する情熱の無さが災いして、今までに良い記事を書けたためしがない。飯を食べるために、ゾンビみたいな文章を量産する毎日だ。
八木さんの情熱が、僕には眩しいものに見えてきていた。
「八木さんは、ご立派です」ペンを持つ手が、止まっていた。「ちゃんと自分が研究したいことがあって、大学に行かれたのですから」
「ありがとうございます」八木さんはどこか照れたように。「きっと父の教育のおかげです。父は、家にいる時間こそ短かったですけど、それでも常に私の意思を尊重してくれていました。『お前はお前がやりたいことをすればいい』って、私が通いたいと言った、学習塾やヴァイオリン教室にも通わせてくれて。決して学ぶことを強制することもなかった」
八木さんは、ため息をついた。気を紛らわせるように、茜色に照らされる黒屋根の波に目を向ける。八木さんの表情には、裏切られたような色が浮かんでいた。
「だから私は、自分がやりたいことを選んだ。ただそれだけだったのに……」
「それが」と僕は訊いた。「観覧車を育てることだったのですか?」
「僕は、祖父のことが大好きだったんです」八木さんは三本目の煙草に、結局一度も口を付けないまま、押しつぶすように消した。「家に行けばいつも私のことを可愛がってくれて、若い頃の想い出や自慢話をたっぷり聞かせてくれました。けれど祖母から祖父の過去を聞いて、僕は祖父が夢を諦めたことを知った。日本の気候でも枯れることがない、誰もに愛される国産観覧車を作る、というすごく素敵な夢を。だから僕は、それを叶えてあげたかった」
八木さんはそう言って、視線を僕の顔から外した。八木さんの視線を辿ると、僕の背後のアクリル窓の向こうに、無骨で、けれどだからこそ美しい観覧車の骨組みが広がっている。
「小池さんは」八木さんは、不意に僕に向き直る。「私がどうやって、ゲノム編集でない、自然観覧車の種を手に入れたか、気になりませんでしたか?」
「……ええ、正直少し気になっていました」
八木さんはため息をついた。煙草は吸っていないのに、煙くさい吐息だった。
「〈日本海スカイホイール〉は、生前、祖父が開発した品種です。祖父の部屋に眠っていた観覧車の種を、私が勝手に育てました」
* * *
クロガネソウは単子葉類だから、当然、観覧車の子葉も一枚だ。発芽した観覧車の子葉は、ツユクサのそれに形状が似ているという。ただし二価の鉄イオンを豊富に含んでいるために、観覧車――というよりクロガネソウは一般に、子葉はかなり濃い緑色をしている。
播種から一ヶ月ほどが過ぎて、本葉が五枚ほどになると、茎の表面に薄い鉄の膜が張り始める。被鉄の始まりだ。観覧車の場合は、同時に地下茎も成長している。支持架台は大きく分けると二本の鉄柱から構成されるが、この二本目の鉄柱は地下茎から伸びる。
さて、ここまでは鉄塔や鉄橋を育てるのと、さして変わらない。観覧車を育てるのが職人技術とされるゆえんは、育て始めて約九ヶ月、支持架台が完成し、軸受けにホイールのメカニズムが生まれたあと、スポークを均等に全方向に伸ばしていく結晶化のフェーズの難易度の高さによる。
いくらゲノム編集技術が向上したとはいえ、クロガネソウはあくまでも生物だ。生育状況は天候にも左右されるし、被鉄状況が均等になるとも限らない。たとえばエンジンのような、現代社会にほぼ必須なアイテムであれば、溝の一本に至るまで徹底的に遺伝子管理され、農園の大規模化が可能なほどに個体差を消し去っているが、社会的需要の少ない観覧車ではそういうわけにもいかない。支持架台に比べてスポークは繊細で、特に伸び始めの時期は簡単に折れ曲がってしまう。また全方位に均等に円周が伸びなければならないホイールだが、初めからそう伸びてくれるのは稀だ。普通は人間の手で矯正してあげなければならない。だから観覧車を育てようと思えば、ホイールが生長するおよそ三ヶ月の間は、つきっきりで世話を見なければいけないのだ。これは自然観覧車だろうがゲノム編集の観覧車だろうが、何も変わらない。
しかしホイールを完成させたとしても、まだ困難は待ち構えている。ゴンドラの結実だ。同じ「車」とついても、自動車や電車とは違い、観覧車で人間が乗る部分は茎ではなく果実にあたる。たとえ同じ枝から伸びていたとしても、トマトやキュウリの実の大きさがバラバラであるように、何も手を加えなければ、観覧車のゴンドラも、大きさや形はバラバラになってしまう。そのような観覧車は見た目の悪さはもちろん、重心と回転中心が一致しないため安全面でも問題となる。そのため結実の時期になると、実が育つ四ヶ月ほどの間、観覧車を育てる育鉄士は、成長の遅いゴンドラには光合成を促し、成長の早すぎるゴンドラでは根元の茎を縛って栄養が行きづらくするなど、結晶化のときとはまた別の注意が必要となるのだ。
こうして約一年半かけて、観覧車は完成する。
「現在の日本に、観覧車は両手の指で足りるほどしかありません。ジェットコースターに比べて作るのが極めて面倒なくせに、収益が少ないからです」
そうだろうな、と僕は思った。
観覧車を遊園地に設置することは、極めて分の悪い投資に似ている。観覧車は、ジェットコースターやフライングシップほどのアトラクション性があるわけではないのに、回転木馬やコーヒーカップほどこぢんまりとしていない。中規模の観覧車を一つ育てるだけの費用で、大型のジェットコースター一台、あるいは立派な回転木馬とコーヒーカップを一つずつ、育てることができてしまう。その上、観覧車の巨大な図体が朽ちてしまわないよう、メンテナンスのためには、ジェットコースターとほぼ同じだけの鉄イオン材を与え続けなければいけない。「観覧車こそをいちばんの売りにして、これで人を呼び込む」というある種のギャンブルを仕掛けない限り、観覧車は作るだけ損なのだ。
だから普通は、廃園に観覧車を作り上げるなんて、愚の骨頂だ。
――けれど八木さんは、資金調達まで含めて、それをたった一人でやりとげた。
「観覧車には確かに、ジェットコースターやフライングシップ、コーヒーカップのような『解りやすさ』はないかもしれません。育鉄コストも維持コストも、馬鹿にならないのは否定しようのない事実です」八木さんの言葉には、燻るような熱が籠もっていた。「それでも喧噪に満ちた遊園地の中で、仲間や大切なひととだけ共有し、独占できる空間、ほっと一息つける時間を、観覧車は提供してくれるんです。きっとその大切さを、祖父は知っていました。だからこそ、日本に観覧車を持ち込むことに積極的だったのでしょう。
海外から輸入した観覧車が使えないと解った祖父は、育鉄士の資格を剥奪されたあとも、日本の気候にあった観覧車を開発し続けてました。それがこの〈日本海スカイホイール〉です。あとは育てるだけ、というそのときに、戦争が始まってしまった。そして、日本に帰ってきた頃には……」
八木さんは目を伏せて、自分が座っている座面の鉄を撫でた。
「だから私は、その遺志を継ぎたかった。祖父の想いを無駄にしたくはない、と」
「輝彦氏は、何もしなかったのですか」僕は堪えきれずに訊いていた。「お父様は育鉄の研究者でしょう? であれば、お祖父様の種を一緒に育てることも――」
「あの父に限ってはあり得ませんよ」
僕のことばを遮るように、八木さんは口を挟む。
「――それはなぜですか?」
そこに八木さんの鬱屈を感じて、僕は恐る恐る訊いた。
「観覧車は、世間の役には立たないんですよ」
諦めるように、けれどきっぱりと八木さんは言った。
僕たちが乗っているゴンドラは、円周の四分の三を通り過ぎた辺りらしかった。いつの間にか空はすっかり茜色に染まり、東側の空からゆっくりと夜が近づいてきていた。
「観覧車の育鉄は、鉄塔やレール、エンジンなど、他の育鉄とは違って、つぶしのきかない職人的な技術です。細長いスポークを円上に均等に伸ばす技術も、ゴンドラを綺麗に結実させる技術も、一朝一夕には身につかないくせに、観覧車を育てる以外に使いどころがない。それどころか観覧車が誕生した一九世紀の終わりからほとんど変わっていない、伝統工芸に近いものなのです。
父が研究をするのは、世界をより暮らしやすくするため、とさっきそう言いましたよね。つまり、父にとって観覧車は興味の埒外にあるんですよ。どれだけ観覧車を大きく育てたところで、社会は何も変わらないから」
そんなことは――と言いかけて、僕は口を閉ざした。門外漢の僕にも解るくらい、観覧車は社会の役には立たないものだった。観覧車を育てたって、砂漠に水が湧き出すようにはならないし、星明かりしか知らない地域に電気を届けることもできない。観覧車のスコープは、社会全体には向いていない。
「父は、僕に観覧車を育てさせたくなかった」
「で、でも」投げやりに言い放つ八木さんに、僕はつい身を乗り出してしまう。「お父様は八木さんに『やりたいことをやれ』とお話しなさっていたのですよね。であれば、八木さんが観覧車を育てようが育てまいが関係ない――」
「ふはっ」
突然八木さんが噴き出して、僕は口を噤んだ。
八木さんの視線が、ぎゅっと握りしめられた自分の握りこぶしに落ちた。
「ええ、仰るとおりです。父はかつて私に、『お前はお前がやりたいことをすればいい』と言ってくれました。だから修士課程の学生のとき、父に将来何をしたいかと訊かれて、私は、観覧車種の育鉄士になって祖父の観覧車を育てたいと言った。
けれど父は、頷いてはくれなかったんです。そんなことするな、とまで言ってきた。
祖母伝いに聞いた、祖父の観覧車に対する想いをどれだけ説明しても無駄でした。祖父の育鉄に対する呪いを解いてあげたい、と私がどれだけ語っても父には通じなかった。父も、祖父から花火の想い出を聞いていたはずなのに、父は『そんなことしても親父は喜ばない』と頑なに言い続けるのです。やってみなきゃ解んないじゃないですか、そんなの。反抗期の少ない子供でしたから、もう人生いちばんの大げんかです。
それでも私が、観覧車を育てたい、と言い続けていたら、父が不意に私の肩を掴んで、祈るような目で、『せっかくいい大学を出たんだから、そんな何の役にも立たないことでお前の才能を無駄にしないでくれ』と」
僕は八木さんから目を離すことができなかった。この話を聞きに来たはずなのに、ペンを持つ手が止まっていた。
「いい大学を出た私が観覧車を育てることが、それほどに罪なことなのですかね。私は無駄にしたつもりなんてなかったのに。確かに険しい道かもしれないけれど、それでも私は覚悟を持ってその道に進むと決めたんです。
なのに、父はその道を塞いだ。『やりたいことをすればいい』と言い続けてくれていたのに、結局、あんたの価値観に縛られなきゃいけないのかって。私は、高尚すぎて息苦しくなるような父の価値観を、押しつけられたくなんてなかった。
家を飛び出した私は、今度は祖父の家に走った。土砂降りの中を走ったせいで濡れ鼠のまま、ダメ元で祖父の家に飛び込んだんです。祖父ちゃんの作った観覧車の種を育てさせてくれって頼み込みました。私は、ただ頷いてくれればよかった。それだけで私は救われた。いくら育鉄を恨んでいたとしても、観覧車を育てる夢はきっと心残りになっているはずだって信じて。
そうしたら、なんて返ってきたと思います?
いつもみたいにガハハと笑いながら、私の肩を叩いて、
『観覧車程度で人生パァにされちゃ叶わんだろ。育てるだけ無駄だ、諦めろ』と」
息が詰まって、胸の奥がぎゅうと絞られるような気がした。敬愛していた祖父にすら突き放されてしまった八木さんの絶望を思った。
たぶん、それが本当のきっかけだったのだ。
身動ぎすら躊躇われるような沈黙が、ゴンドラの中を満たした。俯く八木さんが今どんな表情をしているのか、僕には解らない。
「目の前が真っ暗になって、足下ががらがらと崩れ落ちていく気がしました。隣にいた祖母の寂しそうな顔を、いまでもはっきり憶えています。悲しみの後にやってきたのは、猛烈な怒りでした。そんな顔を祖母にさせた祖父が、許せなかった。
あれほど楽しそうに語ってくれていた観覧車が、無駄なものですか? そんなことはあるはずがない。確かに観覧車は、社会の何の役にも立たないかもしれない。けれど観覧車は、一生残るような――ことあるごとに息子に、孫に語りたくなるような想い出を作り上げることはできるんです! それが無駄と切り捨てられていいはずがない! だから、私は……ッ!」
自分が激していることに気づいたか、八木さんははっとしたように顔を上げると、ぽかんとしたように私の顔を見て、伏し目がちにすみません、と謝った。
「――だから私は、観覧車を作ったんです。祖父の家からの帰り道、いつの間にか持ってきていた小箱に閉じ込められていた、潤蔵祖父ちゃんの観覧車を。
この名沢の街に〈日本海スカイホイール〉を最後まで育てきって、私に自分の理想を押しつけてくる父に『これが自分のやりたかったことだ』って見せつけてやりたくて。かつて描いた自分の夢を無駄だと切り捨てた祖父に、『あんたがやってきたことは無駄なんかじゃなかった』って見せつけてやりたくて」そして僕の顔色を窺うように、気恥ずかしそうに、寂しそうに笑った。「これで、答えになっていましたかね?」
* * *
ゴンドラから地面に降り立って、僕はほっと息をついた。
空中に溶けていく白い息を見ているうちに、ぶるりと寒さを思い出し、僕はいそいそとマフラーに首を埋める。
もうすっかり太陽は地平線の向こうへ隠れてしまい、薄雲のヴェールの奥で、空は茜色から水色、青、濃紺へのグラデーションを描いている。気の早い一番星が西の空に瞬き、夕闇の訪れを告げていた。きっと今、もう一度観覧車に乗れば、百万石の夜景を味わうことができるはずだ。
僕はたった今降りた観覧車を見上げた。
廃園にそびえ立つ、客を乗せることがない観覧車。
そこには、観覧車への夢を諦めた祖父と、観覧車を無駄だと切り捨てた父親に向けた、八木光一郎のやりきれない想いが籠もっていた。
ICレコーダーの録音を止める。いよいよ冷たくなった凩が、落ち葉をかさかさと浚っていった。手の中にあるICレコーダーを見つめながら考える。僕に、八木さんの激情を記事に纏めることができるだろうか。
「本当は、私自身がよく解っているんです。これはただの憂さ晴らしで、その先には何もないって」
ふと聞こえてきたことばに、僕は八木さんを見やる。さっきまでの僕と同じように、観覧車を見上げていた八木さんの横顔には、不安とも怯えともとれるような色が浮かんでいた。
「観覧車を育てるために、私は十年の歳月を費やしました。もう私の財布にお金は残っていません。農家でのアルバイトでお金をギリギリ工面した私に、観覧車を維持する余裕なんてあるわけがなくて。育てきってしまったこの〈日本海スカイホイール〉は、きっと一ヶ月もすれば枯れてしまうでしょう」
「それは……」
八木さんは観覧車から目を背けると、迷子の子供みたいに歩き始める。けれどまだ未練があるように、改めて観覧車を見上げる。そこに、復讐をやりとげた男の清々しさはなかった。悄然と肩を落とす八木さんに、なんと声をかけていいか僕には解らなかった。
八木さんが十年掛けてようやく完成させた観覧車は、誰を乗せることもなく、ゆっくりと回っている。
「観覧車を育てきりさえすれば、私は満足すると思ってました。けれどそんなことはなかった」
「八木さんさん。それ以上は」
太陽が沈む。夜の帳の入り口が開き、世界は宵闇に包まれる。
回っている観覧車を見収めたのか、八木さんはデッキの階段まで歩き、制御盤の扉を開いた。枯れてしまう、と思った。
「正しいのは祖父ちゃんと父さんのほうだ」
「それはだめです、八木さん」
「――私は観覧車なんて育てるべきじゃなかった」
八木さんが観覧車を止めるスイッチに手をかけた、その刹那。
暗闇に慣れた視界を焼くような目映い光が、観覧車から放たれた。
ぎょっとして目を覆う。
すわ火事か、故障か? と後ずさりながら、八木さんの様子を窺うと。
「あ……」
制御盤からよろよろと後ずさりながら、八木さんが放心したように観覧車を見上げていた。
なんだ、何が起こった?
再びぴかりと放たれた閃光に目を灼かれ、その正体を突き止めようと観覧車に視線を向ける。
「え?」
目を疑った。
観覧車の根元から発射されたように、オレンジ色の光が支持架台を上っていく。その光が軸受けに到達すると、まるで爆発したように光が極彩色に変わって、その勢いのま放射状に放たれた光が、スポークを辿って円周まで輝かせる。それは一度きりではない。一度観覧車をまるごと光らせた光が消えると、また支持架台をオレンジの光が上っていき、同じようにホイールの中央から一息に光を瞬かせる。
「花火だ……」
僕は目の前で繰り広げられるイルミネーションの洪水を、ぽかんと見上げていた。
それは紛れもない、花火だった。腹の底に響く破裂音も、夜風に紛れる火薬の匂いもないが、十二月の宵空をバックに、観覧車で花火が打ち上がっていた。乗るときに観覧車の側面にあったぷつぷつとした半球状の出っ張りは、整然と並んだアイアンランプだったのだ。
「そんな、あり得ない……」八木さんは頭を抱えていた。「潤蔵祖父ちゃんが〈日本海スカイホイール〉を作った時代に、アイアンランプがあるはずがない。ましてこんな統制された光、ゲノム編集で生体プログラミングをしなければ……」
見るからに狼狽する八木さんを、イルミネーションの花火が照らす。
その光が炸裂した瞬間、僕にはこの観覧車の正体が解った。
観覧車に乗る直前、八木さんは、〈日本海スカイホイール〉は試運転もせずに、今日初めて動かした、と言っていた。であるならば、〈日本海スカイホイール〉における花火のイルミネーションは、観覧車が稼働していて、かつ日が落ちて暗くなったときに光り始めるよう、生体プログラミングがされていたのではないだろうか。
そして僕は、育鉄で光センサを作る技術を持っているひとが、八木さんの関係者のなかにいることを知っている。
「八木さん」僕はそっと呼びかける。「きっと八木さんも、もう解っているんじゃないですか」
「違う、あり得ない」
「この種は、輝彦さんが作ったものです」僕ははっきりと言った。「観覧車を動かしたときに初めてこの仕掛けが作動するように、生体プログラミングを組んだんですよ。夜の遊園地に花火が打ち上がるように」
それは、潤蔵氏がアメリカで恋人と見た、最も心に残っている情景。たとい育鉄から縁を切ったとしても、息子にも、孫にも何度も話してしまう、花火と観覧車の想い出。
「なんのために、父がそんなことをするって言うんです」八木さんの口調は力ない。「社会に役に立つことにしか興味のない、あの父が」
八木さんは、きっと認められないだけだ。だから僕は、言葉にする。
「決まっているでしょう」僕は穏やかに、言った。「潤蔵さんの夢の続きを見るためですよ」
「…………あぁ」
八木さんが顔を覆う。弾き結んだ口の隙間から零れる声が、湿り気を帯び始める。まるで膝から急に力が抜けてしまったように、崩れるようにその場に蹲った。初めは啜り泣きのようだった声が、次第に重く、途切れ途切れになる。
恐らく輝彦氏も、かつて八木さんと同じように、潤蔵氏の観覧車を育てようとしたのだと思う。けれど上手くいかなかった。もしかしたら、八木さんと同じように頼み込んだのに、育てるのを認められなかったのかもしれない。輝彦氏は、観覧車を育てるのを諦めるしかなかった。代わりに輝彦氏にできたのは、潤蔵氏に向けたメッセージを観覧車の種に込めることくらいだったのだろう。
「…………父さんは、無駄だなんて思っていなかった」
輝彦氏も、八木さんも、考えていることは同じだった。
ただもう一度、八木潤蔵に昔の夢を思い出させてあげたかっただけなのだ。
僕は嗚咽をこらえる八木さんの背中をさすった。
「――育てて、良かった」
絞り出すような八木さんの呟きに、つられてうっかり視界が滲んでしまって、僕も鼻を啜った。
色鮮やかな光が、涙でハレーションを起こす。
親子三代に渡る想いの詰まった花火は、見たことないくらい綺麗だった。
「すみません、情けないところを見せてしまいました」はにかむように口元を緩めながら、八木さんは涙を拭った。「とはいいつつ、結局この観覧車は枯れるのを待つしかないんですよね」
「それなんですけど」僕は遠慮がちに口を挟む。「スポンサーを募ってはいかがでしょうか? アイアンランプのイルミネーションがついた観覧車なんて僕は初めて見ましたし、興味を持ってくれる方も多いはずです」
「けれど、この観覧車は乗ることはできないんですよ。珍しいとは言え、ただ光るだけの観覧車にお金を出してくれる人が、維持できるだけの人数いるとは思いません」
「どうして乗ることができないんです?」
「どうしても何も、この観覧車は自然観覧車で――」そこまで言ってから、八木さんがはっとする。「……そうか」
「この観覧車はゲノム編集されているんですよ。ですから、安全基準のチェックさえ終えてしまえば、法律に引っかかることなく合法的に乗ることができます。八木さんのお父様のことですから、そのあたりもしっかり編集しているのではありませんか?」
「ええ、ええ。きっとそうです。だって父は、無駄なものを作るようなひとじゃありませんから」
目元を押さえた八木さんが、顔を上げる。
観覧車を見上げるその表情は、憑き物が落ちたように晴れ晴れとしていた。
「小池さん。私に、ひとつ夢ができました」
「なんでしょう?」
「名沢スカイランドを復活させるんです」八木さんは両手を広げて、辺りを示した。「いまは枯れてしまっていますけど、ジェットコースターも回転木馬も、エントランス広場も全部蘇らせて、かつての賑わいをここに呼び戻すんです。そうすれば、きっと父の想いも――――祖父の夢も、報われる」
「すごく……すごく、素敵な夢だと思います」僕は素直に頷いた。
「そのためには」気恥ずかしそうに八木さんは頭を掻く。「なんにせよ、お金を集めなければいけませんね」
「僕も協力します」
記事を書こう。心の中で、決意した。
この観覧車にまつわる親子三代の物語を記事に纏めよう。編集長に頼んで特集を組んでもらおう。
認知が広がれば、それだけ支援をしてくれる人も増えるはずだ。
胸の奥から沸き立つような熱い気持ちを感じるのは、この職業に就いてから初めてのことだった。
「だから絶対に、その夢叶えてくださいね」
「無茶を仰る」八木さんは苦笑して。「けれど、ありがとうございます。完成した暁には、ぜひ遊びにいらしてください」
「ええ、もちろん」
最後に僕は、記事の最後のページを飾るであろう、八木さんと観覧車のツーショットを撮らせてもらった。
イルミネーションの逆光で、八木さんの顔がやや見えづらいかなとも思ったけれど、ファインダー越しでもはっきりと解るくらい、八木さんの目はキラキラと輝いていた。
文字数:28010
内容に関するアピール
三代にわたる八木家の観覧車に対する想いの真摯さをギャグにしないために、「クロガネソウ」というウソに対するリアリティレベルを梗概提出時よりも現実に寄せました。八木が語る祖父、父への想いをメインストーリーに、語り手である小池の記者という職業への向き合い方の変化をサブストーリーに据えながら、クロガネソウという植物によって僕たちとはちょっとズレた世界になった、ある種の改変SFになったのではないかと思っています。
文字数:203