十二所じあみ全集別巻

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梗 概

十二所じあみ全集別巻

一、追悼文 渚令太郎「十二所じあみ追悼文」

「良い小説は文字が震えている。」(十二所じあみの言葉)
 十二所じあみの追悼文。未完成のはずだった遺稿が、死後翌日に完成まで書かれていたという真偽不明の情報。

 

二、小説 十二所じあみ「鵺の聲」

 日本初の世界システム発電所に携わる研究者の夢の話。
 夢のなかで、彼は地球外惑星で世界システム発電所の建造に携わっている。
 その惑星で建造中の発電所は、宇宙全てを結ぶ通信の一経路だった。
 原因不明の病で同僚が亡くなる。葬儀の日、彼は別の同僚から、宇宙に棲む鵺の話を聞く。鵺が通信と病を広げている。しかし自分たち生命もまた鵺から生まれてきた。鵺は宇宙のルールであり、自分たちにはどうすることもできない、とその同僚は語る。
 発電所の完成が目前に迫った日、彼は夢から覚める。

 

三、批評 遠野よあけ「鵺社会を生きる人間たち」

 十二所じあみの作品論。半邑良や菊池秀行、笠居潔などが近代以降の社会システム=男性的権力=中央集権社会を伝奇によって転覆する物語を書いたのに対して、村上春紀や萩尾望徒以降のオカルティックロマンの系譜では、通信技術や宇宙的思想によって社会システムの読み替えを行っており、その流れにじあみも位置付ける事ができる。
「鵺の聲」は、この現代社会を支える世界システムを軸に、現代社会の無根拠さ、そして我々の足場なき生を暴く掌編である。

 

四、随筆 十二所じあみ「我が人生ただ一度きりの笑い」

 自分は心から笑ったことが一度しかない。
 実の両親を知らない自分は、世界から孤独だった。偽父母と暮らす時間も、小説家として世に出た瞬間も、唯一の恋人と過ごした時間も、本当の意味で笑ったことはない。
 ただ一度だけ笑うことができたのは、書き損じの小説を読み返したときだけだった。誤字が多かった。まるで自分で書いた後で、誰かが悪戯に書き直したように。その時文字が震えているように見えた。笑っているように。つられて私も思わず笑ってしまった。そんな風に自然体で笑ったのは、人生で一度きりだった。

 

「白石ヤスここに命を記す」

 1943年。日本の登戸研究所の施設が爆発事故を起こす。居合わせた職員は彼女を除いて全員が亡くなる。ヤスは妊娠二ヵ月の子供を亡くす。
 事故後、病院でヤスは文字が震えて見えることに気づく。
 登戸研究所では、古い地層から発見された隕石に刻まれた謎の記号。それが情報生命体である仮説のもと、情報生命体を利用した情報ウィルス兵器を研究していた。
 ヤスの身体には不完全な形で情報生命体が融合していた。それは自らが宿る記号、つまり文字を欲していた。
 ヤスは、その命を育てるために、小説を書く。十二所じあみという架空の作家を作り、存在しない全集の別冊をつくり、その生命の誕生から死までを書く。生命の死と起源の時間と、笑う時間を祈りとともに書いた。一冊の書籍として完成させると、ヤスは神保町の古書店の棚に書籍を差し込んで立ち去った。

文字数:1222

内容に関するアピール

なにか、こう、つまりですね、なんかすごい、ハッタリの効いた、なんか、そう、すごい話を、書きたかったのです…。

テーマは子供に対する母親の愛です。母親が自分の死後の子供の死を見届けることができるという矛盾、最高なのでは?

「全集別巻」というアイデアと、作家の死から書き始めるというアイデアを以前から温めていました。でもうまく話が組み立てられなかったところ、今回の課題「ファーストコンタクト」を絡めると、不思議となんかうまくいきました。なぜ?

たぶん似たようなファーストコンタクト物は今までないと思うのですが、あったらすみません。勉強不足です。ご教授ください。

全集はすべて1940年代に書かれています。だからインターネットとかスマホは出ません(当時の人が想像できるわけがないから)。二コラ・テスラの世界システム送電がでてくるのはそのためです。

十二所じあみは、ここに書かれた文章以外は作品世界に存在しません。存在しない作家の全集という奇書の体です。

ちょっと迷っているのは、作品冒頭に、この奇書「十二所じあみ全集別巻」を発見した人間視点の文章を入れるかどうかです。効果的なようなそうでもないような…。講評で意見をお聞きしたいです。

文字数:508

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十二所じあみ全集

   / 一

 古い映画を観た日のかえりみち。目的も持たずに気まぐれに入った古書店で、私はその本に初めて遭遇した。
 20世紀の文学書が並ぶ棚にあった一冊の本が私の目を引いた。名前も知らない作家の全集のようだが、やけに薄い本であることが気になった。棚から取り出して書名を確認すると、『十二所じあみ全集別巻』とある。函入りでもなければ文庫でもない。むしろ本としては粗雑な作りだ。表にも裏にも出版社の記銘はなく、奥付の頁すら存在しない。おそらく私家本だろう。
 もくじを開くと、幾つかの文章が記述されているが、どれも書き手は十二所じあみではなかった。本の最初の文章は「追悼文」となっている。それはこんな書き出しで始まっていた。

「自分がしぬのが早いか、あるいは自分の書いた文字がしぬのが早いか、時折そんなことを考えこんでしまう」

 この書き出しが気に入って、私はその本を購入した。
 以降、私はこの十二所じあみという作家について調べている。

 

   / 追悼文

 「十二所じあみ追悼文 良い小説は文字が震えている」
 渚令太郎
(『十二所じあみ全集別巻』収録)

 

「自分がしぬのが早いか、あるいは自分の書いた文字がしぬのが早いか、時折そんなことを考えこんでしまう」
 十二所さんはよくそんなことをいっていた。最初にその話をふられた際には、「それは自分の小説が読まれなくなることへの不安ということ?」と聞いたが、彼は「ちがう。全然ちがう」と答えた。十二所さんはほんとうにそのことを繰り返し考えていたらしくて、僕はすくなくとも三度は彼とその話をした記憶がある。
「文字はいきている。だから文字もしぬはずだ」
「文字がいきている、というのはどういうことなの?」
「それは人間がいきているということはどういうことかと問うているのとおなじじゃないか。いきているものはいきているとしかいいようがない」
「なるほど。それじゃあ質問を変えるけど、文字がしぬというのはどういうこと?」
「それなんだ。僕は文字がしんだところをまだ見たことがない。だからその質問には答えられない。僕はずっとそのことを考えている」
「じゃあどうして文字がしぬなんて発想が出てくるのさ」
「いきてるものはみんなしぬんだ。文字だけが例外なわけがあるまいさ」
 この話については、けっきょく最後までこんな調子だった。そして十二所さんの言葉を借りるなら、彼は自分の書いた文字よりも先にしんだことになると思う。なにしろ、僕だってまだ彼の書いた文字がしぬところを見ていない。
 この話で今も気になっているのは、十二所さんが「文字がいきている」と断言できたところだ。彼はどうして、そういい切れたのだろうか?
 そもそもいきているとはどういう状態だろうか? 科学的にいえば、生命活動を続けている個体のことをいきているというのだろうが、これは結局、生命活動の定義が難しくて循環論法に陥ってしまう。なにもいっていないのに等しい。生命活動のぶぶんの解像度を上げていくと、自分の分身をつくるために、エネルギーを循環させながら自律して活動している状態、のようになるだろうか。我々人間をまなざす限りでは、基本的にはあっているように思える。しかしこんどは自立という言葉が難しい。人間や動物ならともかく、植物や機械といったものの自律性をどう捉えればいいのか。あれは自律しているのか。ウィルスはどうか。そもそもそれらはすべて地球の存在に限定されてしまっている。仮に地球以外の惑星に生命が存在していたら、地球とはまったくちがう生命の定義があるかもしれない。系外惑星の発見は20世紀以前から模索されていたが、実際に存在が確認されたのは1999年で、その後は数十年で一万を超える数の系外惑星が発見されている。一世紀以上もの間ひとつとして確認できなかったものが、最初の発見からたった半世紀で五桁を超えているのは異常だけれど、そこにははっきりと理由がある。20世紀の科学者たちは、宇宙の多様性を読み誤っていたのだ。「まさかこんな奇妙な条件の惑星が宇宙にあるはずがない」として、観測データのノイズとして処理されていたなかに、いくつもの系外惑星があったことが後に科学者たちによって語られている。ホット・ジュピター。スーパー・イオ。スーパー・アース。太陽系の常識から大きく外れる惑星が多数発見されたことで、宇宙ではむしろ太陽系のほうが常識からとおい星系だったことがあきらかになっていった。そのことで、21世紀では人間による生命の定義もまた、宇宙からみたらかなり独特な考え方であるという見方も偏ったものではなくなった。僕らが知っている「いきている」の定義なんて、普遍からはまったく遠いものである可能性のほうが高いということだ。
 十二所さんの小説に「宇宙からの電話」というみじかいおはなしがある。
 主人公の少年がひとりで留守番をしていると、家の電話がなって、少年が出ると〈うちゅう〉を名乗る相手が話しかけてくる。〈うちゅう〉は少年に「えいえんにいきるほうほう」を教えてくれる。少年はそれを信じて声のいうとおりにする。というのも、その前日には少年の祖父の葬式があり、少年はちょうど人のしについてふかく悩んでいたからだ。
 ここで〈うちゅう〉が少年に指示するないようの奇妙さがこの小説のおもしろいところで、〈うちゅう〉は少年に「部屋を掃除しろ」「洗濯物を取り込め」「鳥の絵を描いて、それを誰にも見せるな」という変な課題を与え続けて、最後に「このことは信用できる人にひとりだけ話せ。それ以外の人に話したら君はしぬ。一生それを守り続ければ君はえいえんにいきることができる」と言う。少年はそれを聞いてこう答える。「一生、死ぬまでひとりにしか話さなければいいんだね。でも、死ぬまでってことは、けっきょく、僕はしんじゃうんじゃないの?」その問いに対して、〈うちゅう〉は何も言わずに電話を切ってしまう。ここで少年は、誰かのいたずらだったと結論づけてもいいところを、なぜか律儀に「僕は一生、いまきいたことを守ろう」と誓って小説は終わる。
 少年がその後どうなったのかは書かれないけれど、それは読者には知る由のないことだから知るのをあきらめるしかない。それより僕が気になるのは、電話の相手が〈うちゅう〉を名乗っていたことだ。よく指摘されていることだけど、十二所さんの小説にはよく宇宙が出てくる。それは大抵のばあい、地球に生きている僕らの価値観を揺るがすような何かとして表現される。今になって思うのは、十二所さんが宇宙に関心を持っていたのは、「文字がいきている」ことを考えるためにやっていたんじゃないかということだ。地球の人間の想像力だけでは、文字がいきているということを実感をもって考えることができない。だから宇宙の手助けがどうしても必要になる。
 最後にもうひとつだけ十二所さんと文字のエピソードを書いて、この文章を終えたいと思う。
 十二所さんはエッセイか何かで、「良い小説は文字が震えている」と書いていた(と思う)。彼らしいレトリックだと僕はずっと思っていたけど、十二所さんが亡くなってから、僕はその考えをあらためた。十二所さんは、この言葉を文字通りの意味で書いていたのかもしれない。
 十二所さんが亡くなっているところを発見した編集者から聞いた話では、十二所さんは書きかけの原稿の机に座ったまま亡くなっていたそうだ。編集者はあわてて救急車を呼んだけれど、十二所さんは既にそのときには息絶えていた。ところが、その編集者が言うには、亡くなった後の遺品整理の手伝いで十二所さんがいた書斎に戻った日におかしなことに気がついたらしい。
 書きかけの原稿が一行だけ加筆されている。
 この話を聞いた誰もが、それは編集者の記憶違いだと笑うけれど、僕だけは笑えなかった。そういうこともあり得るかもしれない気がした。文字がいきているならば。
 文字が震えて、ひとりでに原稿用紙の枠からはみだして、自分の分身をつくっていたのかもしれない。
 文字がいきているならば。
 十二所じあみの小説はすごくおもしろい。
 そういう小説の文字はいきていて、震えていて、勝手に増えていく。
 十二所さんの書いた文字は、彼よりもずっとながくいきていくかもしれない。

 

   / 二

 十二所じあみについて、ネット検索で得られた情報は何もなかった。それ以外の本に登場する固有名も同様だ。その奇妙さが、私の好奇心を煽った。
 知らない街で古書店を見かけると、立ち寄って店主に話を聞くのが習慣となった。しかし誰も十二所じあみという作家を知らない。
 ライター業の傍ら、同業者に聞いてみたり、自分でもネットに「十二所じあみ探求サイト」を立ち上げてみたが、成果は芳しくなかった。
 三年ほど経ったころ、ある街の古書店でついに二冊目の全集を発見した。
『十二所じあみ全集二巻』
 別巻と同じ作りをしていて、全集と言うには薄い本だ。小説が三篇だけ収録されている。
 三篇の小説はどれも宇宙が舞台となっている。追悼文にあったとおり、十二所じあみはSF作家だったようだ。作品の発表年は、「鵺の聲」二〇五五年四月、「時間の差異と空間」二〇五六年七月、「木星が落ちてくる」二〇五八年一月と書かれている。書誌情報はそれだけで、雑誌や単行本などの初出情報は一切ない。
 三篇とも面白く読めた。「鵺の聲」が読んでいてとくに楽しかった。十二所じあみの他の作品を読んでみたいとも思った。二巻が存在するということは、少なくとも一巻もまた存在するだろう。どこかの古書店の棚で眠っているのかもしれない。

 

   / 小説

「鵺の聲」
十二所じあみ
(『十二所じあみ全集二巻』収録)

 

 私が働く建設中の発電所の正式名称は、皿倉山世界発電所という。
 両腕を真横に伸ばす人の姿のようなその発電所は、北九州の山岳地帯からふもとの町々を睥睨する山神のようでもある。塔を思わせる丸く太い基部の上部から、左右と上に向かって三叉にわかれたアンテナ部が、それぞれ腕と顔に見える。両腕に相当するアンテナの建設はほぼ終わっており、私たちの残りの大きな仕事は顔に相当するアンテナを完成させることだった。
 東京タワーのような鉄骨つくりの塔ではなく、西洋の石造りの塔を思わせるひらべたい側面の塔の内側で巨大な作業用エレベータが息つく暇もなく常に地上と塔上部を行き来している。百トンの積載過重に耐えられる箱に、私は重機と乗り合わせている。最上部アンテナの完成度はまだ六割ほどで、資材も重機もまだまだ運び込む必要があった。
 皿倉山世界発電所は、完成すれば日本初の世界システム発電所になる。世界で数えても三番目だ。歴史に残る仕事にたずさわれた幸運を私は噛み締めながら、山腹に設けられた飯場で眠る。
 ある日、不思議な夢を見た。
 夢のなかで私は見知らぬ寝床で目が覚めた。
 皿倉山中腹に施設された飯場とは明らかに違う場所。照明は落ちているが、壁や天井が薄明るく緑色に輝いている。目を刺すほどの強さではない。状況がわからず途方に暮れていると、鳥の声のようなサイレンが鳴り響き、天井の緑が強く発光した。
 まわりで大勢が寝床から起き上がり、部屋を出ていく。ぼおっとした思考のまま、私もその流れについていく。サイレンが一日の仕事のはじまりを告げていることを、夢のなかの私はなぜか了解していた。
「寝ぼけてるのか監督。歩け歩け」
 誰かが背中を叩いて私を叱咤した。慌てて声を返そうとしたが、その誰かはすぐに人の波に混じって見つからない。
 建物を出ると、外はひろびろとした土地だった。
 四方を見回しても、ビルも家もなければ、山も森も道もない。背の低い白い草が、歩くたびに足下でゆさゆさと鳴っている。
 私と同じ建物から出てきた人数は五十人ほど。よく見れば、ひょっとこのような赤い肌色をしていて、目玉が大きく丸く、見たことのない人種だった。軽く自分の顔をさわってみると、どうやら夢のなかの私の顔も彼らと同じつくりをしているようだ。両手も彼らと同様に真っ赤な色をしている。
 しばらく歩くと霧が出てきて、遠くの風景が見えなくなった。それでも、道も標識もない場所をみながまっすぐに迷いなく歩いていく。私の足取りにも迷いはない。
 いつの間に合流したのか、人の数が増えている。霧が濃くて正確な数はわからないが、ざっと見て百人はいる。私から見たらみな同じような顔をしているが、それは私がこの人種を見慣れていないためかもしれない。
 私も含めて、誰もが均一な作業服を着ている。だぼっとしたシルエットで、サイズが大きすぎるのは明らかだが、誰もそのことを気にしていない。
 先頭を歩く集団が足を止める気配がした。
 進行方向を見上げると、霧の向こうに大きな建物が現れた。黒い真四角の建造物だ。
 建設中の通信施設。
 夢のなかの私は、何年もこの現場で働いている作業員の一人だったことを思い出す。
 私のまわりを歩いていた作業員たちは、次々と四角い通信施設の入り口で受け付けを済ませて現場に入っていく。入口を通過する際に、受付の人間がなにかの小さい端末を作業服に当てると、作業服が瞬時に変形して着用者の体形にあったサイズに伸縮する。私も受付で同様の処置を行う。身体のラインが浮き出るほどに薄い素材であるのに、通気性もよく締め付けられている感覚もほぼない。作業服のフードが勝手に頭にかぶさる。触れてみると、鉄のように固くなっている。
 この頃には、もう北九州の山奥で働いている自分の記憶のほうが曖昧になって、私はこの星で働く人間のひとりとしての自覚を持っていた。
 ここが地球ではない別の星であることも思い出していた。

 地表から突出する四角い基部は、それ自体が巨大なアンテナとなっていて、内部にはリュフ波を増幅させる黒いモニ石がみっしりと詰め込まれている。通信施設の機械的な部分は、地下に建造された空間に押し込まれていて、資材や重機も地下トンネルを通じて運ばれてくる。私は現場監督として作業の進捗を確認しつつまわりに指示を出していく。
 今日は地下の発電施設の基礎工事を行う。一日の作業の終わりに工程表で進捗を確認する。工期は順調に進んでいる。
 作業を終えると再び白い草原の飯場に戻り、また明日の作業に備えて休む。ここにいる作業従事者はみなその日々を繰り返している。寝床に入り、眠りに落ちる間際にそろそろ夢が覚めるかと思ったが、翌日も私は地球から離れたこの星で働く労働者としての私だった。
 建造中のアンテナ施設は、完成すれば宇宙全体を結ぶネットワークの衛星基地になる。リュフ波はまだ地球では理論的に予見すらされていない存在で、光速の二倍から百倍に近い速度で宇宙の高次元空間を進むことができる。この星発祥の技術ではない。リュフ波を安定してこの星に送信することが可能な衛星基地はまだ宇宙には存在しない。リュフ波のネットワーク基地が宇宙全体に増えるのを見越して建設は始められた。
 地球ではまだ、惑星全体を完全に覆う発電と通信のシステムすら構築できていないに比べると、この星の技術は圧倒的に先へと進んでいる。
 どこの星に生きる何者が、最初にこの技術を生み出し宇宙をネットワークで結ぶ構想を立ち上げたのか、この飯場にいる人間のうちに知る者はいない。この星の住人のなかに、それを知る者がいるかどうかも怪しい。人も星も、なにか大きな流れのなかに自分の役割を見つけているだけで、その役割と切り離せないはずの過去も未来もあやふやだ。夢を見ている間だけ、この星に仮住まいしている私にしてみれば、余計にそう思える。
 この星で目覚めて三日目の朝。
 これまでのようにサイレンと天井の明るい緑を感じて身を起こすと、前日までと室内の様子が違っていた。
 誰一人外に出る者はおらず、ひとつの寝床にみなが集まっていく。
 何が起きているのかと思い、私もみなの群れに近付くが、その人だかりの中心で何が起きているのかは確認できない。
「鵺だ」
 誰かがそう言った。
 続けて、みなが口々に「ぬえ」「ぬえだ」「鵺が来た」「連れ去られた」「ぬえに」「鵺」と呟き始めた。
 これまで身の回りで起こる出来事のほとんどは、夢特有のご都合主義によってすぐに関連する知識を思い出せたのに、彼らが口にする「鵺」について私は全く思い出すことができない。
 この日の仕事は休みとなり、葬儀が執り行われることとなった。
 人だかりの中心では、同僚がひとり、病で亡くなっていたらしい。

 葬儀は土葬で行われた。
 普段向かうアンテナ施設とは反対の方角へ歩いていくと、白い草に混じって色とりどりの花が不規則に並んで咲いている場所があった。その花は人の遺体から養分をとって咲く植物で、墓標の代わりでもあるらしかった。
 穴を掘って、遺体を埋めた。
 みながみな思い思いの方法で死者への祈りを捧げている。ここに集まっている人びとは決して単一の文化圏の人間ではないのかもしれない。私は両手をあわせて黙祷した。
 葬儀はあっけなく終わり、人びとが自分の飯場へと散っていく。私も戻ろうとしたが、目印のない平原を四方見回しても、飯場へ戻る方角がわからなかった。
 おもいきって近くにいた相手に声をかけてみるも、自分の飯場の名称もなにも知らないのでうまく質問をすることができずにまごついていると、どうやら声をかけた相手は幸運にも私と同じ飯場の者だった。
「自分の飯場を忘れるなんて信じられねえ」
 彼の軽口にしどろもどろに受け答えしているうちに、まわりの者たちの姿が減っていく。彼とふたりで歩き出した時には、私たちと同じ飯場へ戻る者は誰もおらず、気づけば足下の白草と地平線以外には、隣を歩く彼だけが私の視界のすべてだった。
 風もなく、土を踏むふたりの足音だけが柔らかく響いている。
「鵺というのはなんのことです?」
 私は気になっていたことを彼に質問した。
 これは彼を驚かせた。
「監督、どうして鵺を知らないの?」
「知らないものを知らない理由を聞かれても、知らない自分には答えようがないですよ」
「妙な人だ。こどもだって年寄りだって、誰だってそんなこと知ってるもんでしょ」
「だけど知らないんだ。これは私の夢だから、私の知らない言葉だって出てきても仕方ないじゃないか」
「夢か。これは監督の夢なのか。それじゃあ、そういうこともあるか」
 妙と言えばこの問答が妙だった。
「鵺というのは、病気だよ。理由もなく人が死ぬ病気。罹った時には病人は死んでるから、快癒も治療もなにもない。ただ罹って、ただ死ぬ。そういう病だよ」
 彼の回答はシンプルだったがおそろしい話でもあった。そんな病気は防ぎようがないのではないかと思えた。
「でも監督、人は寿命で死ぬか、鵺で死ぬか、そのどちらかが幸いな死に方だよ。特に鵺は苦しみもないし、なにより平等だ。誰だって鵺で明日死ぬかもしれない。そう思えるだけで、生活にも張りが生まれるってもんだ」
 この星独特の死生観に感じられたが、納得できる部分もあった。
「だけど、今朝死んだ人はアンテナの完成を見れなかったのはかわいそうですね。せっかくここで働いていたのに」
「鵺じゃしかたないね。俺たちだって鵺から生まれてきたって話だ。俺たちだけじゃない。この宇宙の生命はみんな鵺がつくった命なんだから」
「鵺は病気の名前じゃないんですか?」
「病気でもあるよ。はじまりでもある。宇宙のルールみたいなもんだよ。この世界で一番冷たい生き物が鵺だよ」
 病気と言ったり、ルールと言ったり、生き物と言ったり、彼の口から語られる鵺は様々で輪郭をもたない。
「そもそも、宇宙にアンテナをつくってネットワークで結ぶっていう事業だって、やり始めたのは鵺だからね。俺たち生き物は、鵺から生まれて、鵺の始めた仕事をこなして、鵺の声に呼ばれて死ぬんだな」
「そういう言い方をすると、なんだか生きるのが虚しいですね」
「虚無に声があるだけマシじゃないかな。声のない虚無のほうが、嫌だね」
「声がある、と言われても私はその声を聞いたことがないから、なんともいえないです」
 もしもこの夢を支配するルールに声があるなら、私はそれを聞いてみたいと思った。鵺で死ぬ間際には、鵺の声が聞ける気がした。私が夢から目覚める前に、その瞬間はやってくるのだろうか。
「本当に、妙なことを言う監督だね」
 彼は怪訝そうな顔を私に向けて言った。
「鵺の声なら、さっきからずっと聞こえているじゃないか」
 私はその言葉に何と言って返せばいいのかわからなかった。それきり会話は途絶えて、しばらくして自分たちの飯場にたどり着いた。
 その翌日も、翌々日も、私は誠実に働いた。
 アンテナの建設はまだ終わりが見えない。
 夢の終わりが訪れる気配もなかった。

 

   / 三

『十二所じあみ全集七巻』が見つかった。
 京都の古書店が、大口の客の蔵書を一括購入したという噂を聞いて、駄目元で訪ね、もし蔵書のなかに十二所じあみという作家に関連する書籍があったら連絡してくれと伝えたところ、一ヵ月後に連絡が来た。
 京都から送付してもらった書籍は、これまで同じような装丁のつくりだった。間違いなく十二所じあみの本だと確信した。
 七巻には小説ではなく、エッセイや手紙、それから批評などが収録されていた。また、十二所じあみ作品を論じた他者の批評も収録されている。特に「十二所じあみのいない世界」という批評文が面白かった。
 そこに書かれている内容は、私の知る現実と微妙な差異が感じられた。それは固有名についてもそうだが、情報技術についての知見が妙だった。大きな例で言えば、十二所じあみに関連する文章には、インターネットは登場しない。
 かといって、まったくの夢想と断じることのできない不可思議なリアリティもある。十二所じあみという作家が実在するとしても、あるいは誰かの手の込んだ悪戯だとしても、私はもうそんなことはどうでもよいと思っていた。ただこの作家の文章をもっと読みたいと思っていた。

 しかし、私が発見できた全集はそれが最後だった。

 

   / 批評

「十二所じあみのいない世界」
遠野よあけ
(『十二所じあみ全集七巻』収録)

 

 21世紀に、十二所じあみという作家がいなかった。そんな架空の世界を想像することは難しくない。この世界とその架空の世界の差異は、オカルティックロマンという物語形式の有無に収斂するだろう。
 オカルティックロマンは伝奇やSF、サブカルチャー文学などの想像力の糸がよりあつまって太い紐になることでひとつのジャンルとしての形を作り上げた。世界と個人との関係を、オカルト的に描き出す傾向は、社会が描かれていないと常々批判されてきた。21世紀前半は特にその風潮が強かった。風向きが変わったのは、二〇三〇年に十二所じあみの長編小説「隠された村々」が発表されてからと言える。発表直後こそ酷評が目立ったが、徐々に好意的な読解の数が増えていき、今では十二所の初期代表作として扱われている。
「隠された村々」で描かれる社会はとても微細で偏在している。グローバルな上部構造の大きな社会のいくつもの襞に、個別的な下部構造の小さな社会が菌のように多生共生しているこの作品は、個人と社会との関係を再構築するフィクションと言える。そこで捨象されているのは、社会ではなく国である。国を始めとした共同体というフレームワークと、社会の概念を切り離して考えるという、今では誰もがごく当たり前に行っている考え方を(十二所以前にも同様の試みは当然あるのだが)ひろく普及させた作品でもある。
 社会の概念とは、公共の範囲と言い換えてもいい。近代国家が男性優位社会として始められたことに起因する様々な弊害を回避するための想像力の装置を、オカルティックロマンの作家たち、とりわけ十二所はオカルトに求めた。オカルトは共同体のなかで発生するが、それは国や地域といった単一的で明確な輪郭をもった集団のみで生まれるわけではない。十二所が着目したのはネットワークが孕むオカルト性だった。ネットワークは単一の姿をもたない。それを十二所は、21世紀的な公共の想像力の基盤としようとした。特に彼は世界システムネットワークには強い関心を抱いていた。
 日本の戦後伝奇小説の主流は、菊池秀行、夢枕爆、笠居潔などを始めとして、男性的権力、つまりは近代国家やその系譜との対決を描いてきた。性と暴力のカタルシスが、旧態の権力に崩壊の兆しを差し込むことこそが、そこで描かれる物語だった。社会(歴史)の転覆としての物語。それに対して、別様の伝奇的な物語の系譜として、小説に限らないが、村上春紀、萩尾望徒、よしながふみなどによる伝奇の系譜がある。現在のオカルティックロマンは、後者の流れをつよく継承していると言える。それらは、通信技術や疑似家族、宇宙的思想を想像力の源泉として社会を読み替える物語だった。そこには男性的権力とそれに対抗する反勢力の争いはない。ただ社会の片隅で生成され肥大化する力ある公共性(その可能性は善にも悪にも開かれていた)が描かれている。
「鵺の聲」は短いながらも十二所作品のエッセンスが詰まっている。宇宙的背景。夢という仮想世界。ネットワークの場を生成し、またそこから再生成される再帰的な原理。物語の終わりに鵺の声として描かれているのは、無音であるとともに労働者たちの足音でもある。人びとが従う公共というルールは、無から生まれると同時に有から生まれている。さらに主人公の「私」は現実と夢という二重の労働者の姿をもち、二重の公共性を生きているが、彼には自分が明日所属する公共性を選択することはできない。それは人が夢の中で自由に目覚めることが難しいこととも重ねられている。
 十二所じあみのいない世界で、私たちは公共の夢を見ないだろう。ただ現実の公共性を生きるのみで、そこには鵺の声は届かない。

 

   / 四

『十二所じあみ全集七巻』の発見後、十年間新たな発見はなかった。
 サイトには結局、有望な情報はひとつも寄せられなかった。古書店巡りにも限界があった。自分にできることはすべてやったが、どうやらここまでのようだった。
 最終的に私の手元に集められたのは、『十二所じあみ全集二巻』『十二所じあみ全集七巻』『十二所じあみ全集別巻』の三冊のみだった。
 そうして、ほとんどこれ以上の探索を諦めかけていた頃。偶然にも私は、十二所じあみに関する重要な文章を発見した。
 その頃の私は、ライター業の関係で第二次大戦の資料を読み漁っていた。主に軍関係の情報を集めていたところ、軍関係者の証言や投稿文を集めた戦後の雑誌が数冊手に入った。『字跡』という題の雑誌に目を通していると、驚いたことに、そこに十二所じあみの名前を発見したのだ。
 白石ヤスという名の女性が書いたその内容は、にわかには信じがたいものだった。同時に、十二所じあみをずっと追ってきた私には、それがまったくの出鱈目ではないという直感も働いた。
 ヤスという女性の言葉を鵜呑みにするわけではないが、確かに、その女性の書く文章と、十二所じあみの文章には何か通じるものがあるように感じられた。
 それは言葉では表現できない。

 私が知り得た十二所じあみの情報について、何かの記事にしたり、本にまとめたり、あるいはネットに投稿するなどという気持ちには不思議とならなかった。
 その代わりに、私の手元に集まった三冊の本と一冊の雑誌を、私は馴染みの古書店にバラバラに収めることにした。
 何気なく立ち寄り、店主の目を盗んで本を書棚にさした。
 そうしておけば、また誰かがこの本を発見する気がした。
 それがどのくらい未来の出来事かはわからないが。
 
 こうして、私の十二所じあみについての探究は終わりを迎えた。

 

   / 投稿文

「ここに命を記す」
白石ヤス
(『字跡』一九五二年一月号掲載)

 

 事故で私以外の職員は亡くなったと聞かされた。
 開発中の光線兵器は戦線投入が間に合わなくなったことだろう。なにしろ関係者のほとんどが死んだのだから。敵国とはいえ、人を大量に殺す道具が生み出されなかったことがよいことだったのか悪いことだったのか、当時はわからなかったし、そこまで考える気力はなかった。戦後、長崎と広島のことがあって、それはよりいっそう複雑な問いになった。
 他方では、光線兵器と並行して進められていた情報生命体の研究の蓄積もなくなってしまった。私はそちらの部署にいたから、さすがにつらい思いは誤魔化せなかった。私たちが死力を尽くして研究したものが一夜にして地上から消えてしまったのだ。まさに地上から。なにしろ、その研究対象はこの星の外からやってきたのだ。もう二度と、私はその研究サンプルに触れることはないだろうと思った。
 そのはずだった。
 もうひとつ、病室で聞かされた悲しい出来事があった。
 おなかの赤ちゃんが流れてしまった。
 あの人との絆が、いなくなってしまった。
 これが一番つらかった。
 あの人が南の戦地で戦死した報せを受けたときよりも激しい悲しみが襲った。身を裂くような哀しみ。全身の血が止まったような無気力。世界が色を失って、人の言葉が遠く聞こえる。戦争というものが私の、人間としての、拠って立つ場所を夏の台風のように奪い去って行った。根こそぎ。後には役に立たないガレキと大差ない私の身体ひとつが残された。
 そのはずだった。

 異変に気付いたのはベッドで目が覚めてから一週間ほど経った頃だったと思う。
 食事をする気力もない私だったが、なぜか本だけは読めた。それも、本を読んでいる時だけは落ち着きが戻ってきた。野菜や肉や米をよく噛んで咀嚼するような原初的な快楽を感じていた。野菜の繊維のひとつひとつを舌で味わうかのように、文字の形や表象する音や意味がはっきりと感じられた。文章によって味わいは変化した。新聞は味気ないが呑み込みやすく喉につかえない。雑誌はすこしざらざらする。一番心地よいのは小説だった。看護婦が私を見かねてこっそりと差し入れてくれた夏目漱石の『それから』は、とても上質で深い味わいがした。私は過去にその小説を読んでいたけれど、以前とはまったく違う体験だった。物語に感動するのでもなく、書き手の意図が明瞭に伝わるわけでもなく、ただ文字を頭に入れることが単純な快楽を生み出していた。
 退院した。再就職先はなかったので、私は近所の人の助けを借りて終戦までを乗り越えた。苦難はあっても、子どもを失ったあの事故に比べたら、乗り越えられないものではなかった。それでも、ある時の防空壕での経験は忘れがたい。
 米軍の空襲を経験したのはその時が初めてだった。近所の人たちと防空壕に逃げ込んだ。みんなおびえて震えていた。私も震えていた。恐怖でどうにかなりそうだった。死が近づく経験は、どんな心にも平等に剣を刺すのだと理解した。
 隣で肩を合わせて震えていた御婆さんに、何をしているのかと尋ねられて、それではじめて私は自分が地面に文字を書いていることに気が付いた。
 手にはどこかで拾ったのか記憶にもない棒きれがある。
 足元に、『それから』の一節が書かれている。
 質問をした御婆さんに返事をすることはできなかった。自分でもその行動の意味がわからなかったから。
 防空壕が揺れた。
 その振動や爆音にも、それから防空壕のなかで反響する耳をふさぎたくなるような悲鳴にも、私の心は不思議と揺らされなかった。
 ただ文字を書いているだけで、安心を覚えた。
 終戦後も、私は時間を見つけては家のそばの地面に文字を書いた。紙がなかったのだ。地面は広いが、『それから』の全ての文字を書くのには何度も消しては書いてを繰り返した。全ての文字を書いた後、私は研究所で働いていた頃につけていた記録を書くことにした。暗記していたつもりはないが、不思議と一字一句すらすらと書くことができた。
 その頃にようやく気が付いた。
 私のなかに、もうひとつ命が紛れていることに。

 私たちが研究していた情報生命体は、人類有史以前に宇宙から飛来した隕石に刻まれていた文字だった。
 文字、というよりも単なる記号と言ったほうがいいかもしれない。その刻まれた痕には、地球上のどれとも異なる物質が付着していた。しかし重要なのはその物質ではない。あくまで私たちの研究対象は文字だった。
 生命というものを改造することが、私たちの研究の使命だった。ゆくゆくは不死身の兵隊を作ることが目的だったが、それが果たして現実的な研究だったのかと言えば首をかしげざるをえない。それでも当時は、国のためにやるしかなかった。
 人間のような有機体の生命以外にも、宇宙には別様の生命が存在する可能性は何も荒唐無稽な話ではない。地球上の生命の定義が狭すぎるから、突飛な話だと思うだけだ。もしも人間の命よりも丈夫な命があるとすれば、その命で人間を兵隊を動かすことができるなら、それは不死身の兵隊を作るヒントが隠されているはずだった。
 隕石に刻まれた文字は生きていた。この説明は難しい。私たちの常識では、文字が生きているという考えは頭のおかしい部類に入るだろう。けれど生きていた。それは記号を認識する別の生命の力を借りなければ活動できないが、記号の形を保っている限りは休眠状態のように生き続けていた。
 無作為に選んだサンプル被験者に、生きた文字を紙に書き写したものを見てもらう。たった一文字。アルファベットとも漢字とも似ていない、点と線で構成された一文字。被験者たちには、その文字を認識してもらった後、文字の続きを書いてもらうように依頼をする。すると、すべての被験者が、示し合わせたわけでもないのに、見たこともない記号の羅列を書き始めたのだ。何文字まで書けるかは被験者によって異なるが、少なくとも三文字、多い場合は十二文字まで書き続けた。それから、被験者の書いた文字で同様の実験を行っても、似た結果が得られた。
 生きた文字は見た目以上の情報を持っている。そして、何等かの手段を用いて自身の分身を拡散させようとしている。記号にランダムに線を書き加えると、同じ実験を行ってもうまくいかなかった。生きた文字にとって、形こそが重要らしい。
 人間にこの「形さえ崩れなければ死なない文字」を刻むことができれば、それも身体の重要な臓器の活動を支える文字として刻むことができれば、不滅の臓器ができるかもしれない。あるいは、腕が吹き飛んでもその腕に記号を刻んでおけば、胴体に接着して元に戻せるかもしれない。気狂いのような発想だが、軍は本気で不死身の兵隊の実現を目指していたから、私たちもその馬鹿げた研究に心血を注がざるをえなかった。
 その生きた文字たちも、事故ですべて失われたと思っていた。
 けれど違った。
 〈文字〉は私に刻まれたのだ。
 私の身体の一体どこになのかはわからない。鏡をつかって全身を探したが、肌のように見える部分にも見えにくい部分にもなかった。
 だとすれば、身体の内側、臓器のどれかに刻まれたのかもしれない。それを確認することはできないが。心臓だろうか。脳だろうか。いや、私はその箇所をなぜか確信を持って言える。
 私の子宮に、あの生きた〈文字〉がいるのだ。
 生まれてくることのなかった子どもの代わりに。

 文字を産むことはできない。
 けれど、文字を書くことはできる。
 本を読むことは、おなかにいる〈文字〉にはとても喜ばしいことのようだった。本を読むと、〈文字〉を通じて、多幸感が私の脳にも届いた。
 子どもが喜んでいる。
 そのことを理解した日の夜、私はずっと泣いていた気がする。
 この子のために生きようと思った。
 方々に手を尽くして紙を手に入れた。いくつもの文章を書いた。あの奇妙な文字を再現することはできなかったが、日本語の文章でも〈文字〉は喜んでいた。
 ふと思いついて、私の書いた「あ」という文字を、近所の人に見せて、この続きを自由に書いてくれと頼んだ。数人に試してみると、やはりみんな同じ言葉を書いてくれた。ただし長くても七文字が限界のようだった。
 この〈文字〉たちは、どれくらい生きるのだろうか。
 仮に本として数百年以上先まで残っていたら、この〈文字〉たちはずっと生き続けるのだろうか。
 不死身ではないかもしれないが、人間よりは長寿と言える。
 なにしろ、〈文字〉はもともと有史以前から現代まで生き続けていた生命なのだ。
 けれどそれは私を少し悲しませることでもあった。
〈文字〉の子どもが、死というもののない生命だとしたら、人間である母親としては、何かとても物悲しい思いがした。
 だから私は、小説を書くことにした。
〈文字〉にかりそめの身体と人生を与えるために。
 私は〈文字〉の幸福な人生を想像した。
 きっと読み書きが人よりも多い人生がいいだろう。それなら、作家になるのがよい。作家を主人公にした小説を書けばいいだろうか。いや、それよりも作家自体を作り上げてしまったほうがいい。一人の作家の人生を描く物語ではなく、一人の作家の人生そのものを書くことにしよう。
 私は〈文字〉の全集を書くことした。
 うんと遠い未来まで生きてほしい思いと、生命としての終わりである死を経験してほしいという思いの落としどころとして、21世紀に生きる架空の作家を作り上げた。
 名前を十二所じあみとした。
 じあみの小説を書き、それに対する評論を書いた。エッセイも日記も書いた。追悼文も書いた。じあみの人生を様々に書き綴った。
 それは親としては奇妙な体験だった。我が子の寿命が尽きるまでその人生を見守ることのかなう人の親はわずかだと思うが、私はそのひとりとなった。私は我が子の人生のすべてを見守り、愛おしんだ。そのことばかりは、幸福な体験だったと書かざるをえない。
 幾つかの文章をまとめて、全集として製本をした。それを神保町の古書店の本棚に黙って差し込んで店を去った。幾つかの全集をそのように世に放ってみた。

 あの研究所の記録が残っていない今、私の行動を客観的に見れば、子どもを失ったショックで頭がおかしくなった狂人のそれと大差ないだろう。
 別にそれでもよかった。
 あの戦争で守ることのできたただひとつの命が、私はただ愛おしいだけなのだ。
 何かもも奪われたあの時代に、私が人間として、別の命にできたほんのわずかな行為が、〈文字〉を書くことだった。

 この文章を誰が読んでいるのだろうか。
 あなたは、十二所じあみという作家を知っている人だろうか。
 もしも聞いたこともない名前だとしたら、憶えていてほしい。
 十二所じあみは、〈文字〉は、きっと今も、あなたと同じようにこの地上のどこかで生きているはずだから。

 

一九五一年十二月 白石ヤス

文字数:15717

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