Di-mensions

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梗 概

Di-mensions

天才と賞賛される女流画家・工藤連理のもとに、弟子入りを希望する画学生・瀬尾飛鳥がやってきた。抽象的な油絵を描き、独自の数学的な美の基準を探求している連理に対し、飛鳥はアクリルやマーカーで、デザイン要素が強く美しい絵を描いていた。飛鳥は、自分は昔から連理に憧れており、連理にとって役立つ人間になりつつ、技術と要素を採り入れたいのだと熱弁する。思いつめた様子の飛鳥を見て、連理は弟子入りを許可する。飛鳥は連理と同居するようになる。

ある日連理は、夜のアトリエで、飛鳥がいつもと画風の異なる絵を描いているのを目にする。連理が尋ねると、飛鳥曰く、夜の飛鳥の人格は地球外から来た生命体で、自殺願望のある弱い人格の昼の飛鳥を支えるために、飛鳥の身体に同居しているのだという。夜の飛鳥の絵は、連理のキュビズム(立体主義)の影響を感じさせる、魅力的な作品だった。連理の名義で自分の絵を世に出してほしいと願う夜の飛鳥に対し、連理は願いを受け入れる。

連理の名で出した夜の飛鳥の絵は広く世に受け入れられ、次第に連理のキャリアを占めるようになった。一方で昼の飛鳥の作品は売れなかったが、昼の飛鳥は絵が描けるだけで満足しているように見えた。昼の飛鳥は可憐で無邪気で、夜の飛鳥は蠱惑的だった。次第に連理と飛鳥は恋愛感情を持ち、二人は離れられないようになる。

ある時、飛鳥が連理に懺悔する。飛鳥は自分の作品が売れず、連理に憧れるが連理に近づくこともできず、いつか彼女を超えたいと強く願うようになった。飛鳥は、自分が地球外生命体に支配されているという話を創作し、妄想に囚われているエキセントリックな子だと思わせて気をひき、自分の作品を連理の名義で出し、いずれは彼女を脅して名義を乗っ取るつもりだった。

すると連理は飛鳥に告げる。地球外の生命体と身体を同居させているのは実は連理の方で、地球人の連理の意識と地球外生命体の意識とは融合しているとのことだった。そして連理の中の地球外生命体は、数百年もの間、さまざまなアーティストの意識を食し、才能と感性をアーカイブしていた。高度な科学や数学を有し、寿命もなく単独で生きられる地球外生命体が、地球において理解できない概念が愛と多様な芸術性で、調査員だった連理は、それらを理解して報告するのが使命だった。

連理に支配された飛鳥は絵筆を握る。連理=飛鳥が描いたのは、キュビズムという、様々な角度からの視点を平面に納める表現のみならず、超高次元から見た世界を二次元に落とし込んだ絵画で、黄金比や正多面体他のあらゆる美が反映されていた。絵を描いた連理=飛鳥は、連理という高次元の生命体を理解すると共に、飛鳥の愛と芸術性を理解する。飛鳥が目を覚ますと連理は消えていた。使命を果たした連理は、解放されて別世界に転移したのだと理解した飛鳥は、連理たちも見たことがないような絵を描き、再び連理に会うことを目指す。

文字数:1199

内容に関するアピール

飛鳥にとってのファースト・コンタクトは、連理の中の地球外生命体との対面で、連理にとってのファースト・コンタクトは、飛鳥の中の愛と芸術性です。二人が築いていく関係性と、二人の手による、高次元を二次元に閉じ込めた絵画、この世に存在しなかった絵について書きます。

文字数:128

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 シロッコ南東風が吹き荒れる初夏の午後、海岸の砂を踏みしめて歩く人影があった。
 背中を流れる長い赤い髪と、白いワンピースをなびかせた小柄な女性。少女のような雰囲気と成熟した女性の表情が共存している。細い右手にはくたびれた革のトランクを下げていた。
 眩しい日差しと照り返しに顔をしかめながら歩いていた彼女はふと、自分を見つめる視線に気づいた。視線の主の顔は淡いベージュの中折れ帽の陰になって見えないが、白いシャツに短いパンツから伸びるすんなりとした手足は少年のもののように見える。
 赤毛の女性は再び視線を下げ、足早に歩き去った。浜辺を抜けて木陰が続く道に入る。彼女はほっと息をついて歩みを進めた。潮風の届かなくなる距離にくると緑が濃くなり、あたたかな土の匂いと深い緑の香りが強まる。背の高い木々を抜けると、荒い白塗りの木造の小さな家が見えた。
 足の疲れが限界に来ていた彼女はほっと息をつき、玄関の脇についていた鈍い金色の鐘を鳴らした。鐘はチリリと高い音を立てて、木々の奥に響き渡る。しかし扉が開く気配はない。彼女は波打つ髪を背に流し、玄関のポーチに腰かけた。板張りの床は冷たく、靴を脱いで足を乗せると気持ちいい。長い旅路を歩いてきた彼女は少しうとうとした。
 どれくらい時間が経っただろう。頭を腕の間に入れて眠っていた彼女は、肩を揺さぶるひんやりとした手の感触にはっとして顔を上げた。白シャツにショート丈のボトム、海岸にいた人物だ。あの時は中折れ帽に隠れていた髪は灰色がかった薄い金色、瞳の色は灰色だ。表情の読み取りづらい顔だが、驚きに目を見張っていることは分かる。 
「……こんにちは。はじめまして、でいいのかしら」
 変声期前の少年の声を思わせるハスキーボイスだったが、話し方から推測するに女性のようだ。
 赤髪の女性はあわてて居住まいを正した。
「ごめんなさい。ちょっと疲れてしまって、休ませてもらえたら嬉しい」
「あなたは誰?」
 灰色の瞳が覗き込む。その瞳を見返す赤毛の女性の目は、新緑を映した色だった。
「それは、わたしが誰とつきあっているかを知りさえすればいいわ」
「この国、フランスの諺ね。『お前が誰とつきあっているかを言ってみよ。そうすれば、お前が何者であるかを言い当ててみせよう』」
 赤毛の女性がうなずいた。
「ところで、あなたは誰とつきあっているの?」
 グレーの瞳の主が尋ねる。
「この諺を教えてくれたのはアンドレ・ブルトンよ」
「ブルトン……ということは、あなたはシュルレアリスト?」
「そう。自由を求めてパリから南下したの」
 赤毛の女性が顔を上げた。
「マルセイユへ行きたいんだけど、今日中に到着できるかしら」
「女性の足だと難しいでしょうね」
「そう……この辺りに泊まれるところはあるかしら?」
「近所には人はいないし、この辺りには私しか住んでいないわ。とりあえず休んでいく? あなた、疲れた顔してる」
 扉を開けると、中はがらんとしていた。革張りのソファの上に何冊もの本が雑然と置いてあり、書籍は床にも散らばっている。広めのテーブルは作業机と食卓を兼ねているようで、食器と画材が乱雑に散らばっている。赤毛の女性が家に入ると、壁に掛けてあった一枚の絵に目が釘付けになった。
 キャンバスに描かれていたのは、現実とも夢幻とも判断できないグレートーンの世界だった。絵は色彩には乏しいが色調は豊かで、清潔で青みがかった白、真珠色の光沢あるパールホワイト、無採のグレー、金属のような銀灰、薄めの黒、闇の黒など、さまざまな無彩色の階調を発見することができる。
 画布の左側では男性とも女性ともつかぬ人物が背を向け、大きな鏡と対峙している。鏡の隣にある開け放たれたドアの奥の色味はむらがある灰色で、無限の広がりのある空間にも、何もない閉鎖空間のようにも見える。後姿の人物の顔は鏡に映っているが、ぼんやりとしていて造作は判別できない。鏡の右側には画家の姿があり、鏡には彼の背中とキャンバスが写っている。つまりモデルと画家は背中合わせで立っていることになる。画家はモデルを正面から見ることはできないし、モデルは画家の顔を見ることもないのだ。キャンバスに描かれたモデルの顔は正面と横が組み合わせられており、瞳は正面から見た角度で描かれている。その眼差しはこちら、つまり鑑賞者に向けられているように感じる。顔はちぐはぐな印象を与え、そもそも同一人物の顔ではないのかもしれないとすら思える。
 絵の中には複数の立方体が点在しており、一つ一つに独自の法則をもった陰影があり、手前を濃く、奥を薄く描く遠近法に従わない描き方がなされ、鑑賞者の視線が錯綜する。鏡のすみで小さな蜘蛛が巣を張っており、幾何学的な模様をつくっている。扉の奥にあるはずの空間に視線を逃がそうとすると、その空間は行き止まりに見えてくるので、鑑賞者は視線をずらすこともできない。
 モデルのいるあやふやな現実、鏡の中のリアルな虚構、扉の奥の暗い幻想で構成される絵の世界に登場するのは、自分の顔を確認することも叶わないモデルと、モデルを絵筆で捉えきれない画家、絵の中に迷い込む鑑賞者だ。三者の視線がさまようこの絵は、違った角度からの複数の見え方を一つの対象の中で描き、対象が三次元であることを示すキュビスムの再解釈であり、重なり合うことを前提とした視点の終焉を示すものであり、時代の閉塞感と個の消滅の象徴としてさまざまな批評家たちから注目された。
 この絵は『Untitled』というタイトルだったが、先鋭的かつ痛烈な批判を行う美術評論家が「最後のタブロー」と呼び、作品の通り名となって浸透した。そして作品は、パリのマレ地区にあるギャラリーで専門家の間にて静かな話題をさらった後、新設予定だった現代アートの美術館に買い上げられることになった。しかし作者であるレイ・ヤムが販売しないと言って拒否したことで話題になった。レイ・ヤムが公式の場に出ない覆面作家として活動していたこともあり、価格をコントロールするためだとか、レイ・ヤムはもともと存在せず、著名な作家の別名なのだとかさまざまな憶測を生んだが、結局正確なことは分からず、レイ・ヤムは話題に上ることはなくなり、絵も市場から姿を消していた。
「これはレイ・ヤムの作品……」
「よく知ってるわね」
「彼は偉大なるキュビストで、コルビュジエやブラック、ピカソたちの後に登場して、彼らに並ぶ作品を発表した」
「そして今、レイ・ヤムの発表は途絶えている」
「あなたもよく知ってるわね」
「ええ。だって、私がレイ・ヤムだもの」
 レイ・ヤムと名乗った灰色の瞳の女性を、赤毛の女性はまじまじと見つめた。
「そんなわけないわ」
「男性だと思ったんでしょう。それはみんなが勝手に思っているだけ。あなたはこの絵をどこで見たの?」
「マレ地区にあるギャラリー・クリシェで働いていた時に見たわ」
 赤毛の彼女は答えると、すすめられた椅子に座った。灰色の瞳の女性はソファにふわりと身をうずめる。
「そう。あなたの名前を聞きたいわ。もう夜だし、この辺りはあなたが来た都心とは違って夜は真っ暗になるから、今日は泊まっていく方がいいと思う」
 メリッサは以前のパリの街並みを思い返した。光の都Ville Lumiereと呼ばれるパリは夜中でも明るく、1時や2時になっても人通りがあった。中には夜中に徘徊することを好む詩人や芸術家もいたため、治安の悪いところに行かなければ、夜の方がかえって知り合いに出会う機会が多かった。しかしパリから南下してプロヴァンスを通過し、更に小さな港町の外れにあたるこの小屋の付近に電灯があるわけもない。それに今はパリも光を失っている。
「今はパリも電灯なんてついていないわ」
「そうね、あの美しい都はかろうじて壊滅しなかったけれど、もう鉤十字に占拠されているのよね」
「ええ。だからマルセイユの方に来たの。非占領地だったから」
「マルセイユはここに近いものね」
 そう言うと、レイは奥の部屋に案内した。簡素なベッドに清潔そうなシーツとカバーが敷いてある。
「ありがとう。ところで、わたしの名前はメリッサよ。メリッサ・ギスレーヌ・クライン」
「メリッサ、きれいな名前ね」
「レイ・ヤムは本名?」
 メリッサと名乗った赤毛の女性が聞くと、灰色の瞳の女性は首を横に振った。
「レイもヤムも、元の名前を省略したものよ」
「ヤムって、シリアとか、中東あたりの神よね」
「勇ましさと、見た目が連想しづらい感じがいいなと思ったの。よく知ってるわね」
 メリッサが一瞬遠い目をした。
「ブルトンが異民族の神話が好きだったの。インスピレーションを受けると言っていたわ」
「そう、じゃあ今日は神話の夢を見られるかもしれないわね。おやすみなさい」
 メリッサは案内されるままにベッドに腰掛け、そのまま横になった。レイ・ヤムに会えたという事実に興奮し、眠れそうになかった。奥につながる扉を開けると、広がっていたのは広いアトリエだった。壁面の棚には、陶器や磁器、金属など、あらゆる素材の食器やミルクピッチャーなどが並んでいる。大きな窓からは光が差し込み、イーゼルに立てかけられたキャンバスに光を当てている。キャンバスは月と星々の光に照らしだされ、しらじらと輝いていた。まるでこれから何かが描かれるのを静かに待っているようだった。
 メリッサはキャンバスをおろして板を差し込み、机に散らばっていたスケッチブックの紙を立てかけて鉛筆を手に取り、エスキース(子下図)を描き始めた。やがて黒衣の不吉な魔女、大牙が一本生えている男、下半身が蛇の美しい女性、優美な竜などが紙いっぱいに広がった。彼女はそれらをひとしきり眺めると、別の大判の紙を手に取った。昼に見た『最後のタブロー』を想像で再現しようとしたのだ。後姿の人物と鏡と絵描きを描こうとしたが、どこか違う感じがする。現物を観たかったが、扉を開けてレイを起こしてしまうのもはばかられる。
 レイのことを思い返すとともに、メリッサの手は次第にレイ本人を描きはじめていた。冷たい眼差し、整った目鼻立ち、コンパクトにまとめた髪型とまっすぐな手足は少年のようで、中性的な雰囲気も漂わせた人物。灰色の瞳と藁色に近い金髪の乾いた質感、繊細な陰影を鉛筆だけで描き出すことは難しかった。メリッサは諦め、ベッドに横たわった。麻のシーツは肌にざらついた感覚を与え、意識が乱される気がした。彼女は月の光が弱まり、闇が薄まる時間までうとうととして過ごした。
 鳥の声と朝の光が満ちる頃、メリッサはソファで寝ているレイを起こさないようにキッチンへ入り、扉をそっと閉めた。棚にはチーズやヨーグルト、卵とミルク、サラミとベーコンなどが雑多に入っている。卵を割ってみると新鮮だったし、床に置いてあったズッキーニやトマトなどの野菜はいずれも色が濃い。流しの上に無造作に置かれたバゲットは昨日辺りに購入したのか、まだ香ばしさが残っている。
 メリッサはベーコンを薄く切って焼き、残った香ばしい油で目玉焼きをつくって岩塩を振った。ズッキーニとナスを軽くゆでてトマトソースであえて皿に盛り、バゲットと共に並べる。絵具の画材を溶くのには使っていないと思しき平らな皿があったので、それらを念入りに洗って盛り付け、扉を開けた。
 暗いリビングに朝の匂いが流れ込む。メリッサはカーテンを開け、部屋を朝の光で満たした。画材が雑然と置かれたテーブルにスペースをつくり、夏野菜のラタトゥウユと目玉焼きとバゲット、クリームチーズを並べる。身を起こしてぼんやりしているレイをせかし、メリッサはガラスのコップにオレンジジュースを注いだ。
「……あなた、手際がいいのね」
 熱いコーヒーの入った厚手の陶器のカップを手渡されたレイはつぶやいた。レイはキッチンの片隅に貴重なコーヒー豆が未開封で置かれていたことも知らなかった。コーヒーに口をつける。鼻から入る華やかな香りと、喉を通りぬける香ばしい香りは彼女の意識を少しずつ覚醒させた。
「食事と掃除は担当するから、しばらくここにいてもいいかしら?」
 コーヒーにたっぷりのミルクを注ぎながらメリッサが尋ねる。朝食を味わうレイの満たされた表情が返答の代わりになった。
 
 メリッサは殺伐としたレイの生活に彩りを与えた。麻のシーツや布巾はいつも太陽の匂いがするようになったし、アトリエ以外に色味が皆無だった家には季節の花々が飾られた。メリッサはワインの緑色のボトルやミネラルウォーターの透明な瓶などを利用し、ぴったり合った花々を活けた。小さなブルーのボトルには濃い赤紫色の薔薇を入れ、市場でおすそ分けでもらった鮮やかな黄色の向日葵は色あせたブリキのじょうろに入れた。それらはメリッサやレイのデッサンの対象になった。
 朝も昼も似たようなものを食べ、夕食は昼の残りで済ませていたレイの食生活は急速に豊かになった。朝は季節の野菜のサラダにバゲットやビスケット、夜は温野菜のラタトゥユにブイヤベースやパスタ、乏しい物資の中でたまに肉が手に入れば、岩塩を振って焼いて出すほか、ワインで煮込むこともあった。地中海の恩恵を受ける南フランスでは、さまざまな素材を味わうことができる。フルーティなオリーブオイルはそのままパンにつけてもおいしかったし、タコのマリネをつくる時にも活躍した。貝のボイルは旨みたっぷりで、レモンと塩だけの味付けでも十分においしかった。
 メリッサはランチ用にバゲットでかんたんなサンドイッチをつくるのが日課となり、二人で海を見ながら食べるのが習慣になった。
「この辺りは本当にきれいね。海が宝石のよう」
 海を見ながらメリッサがつぶやく。
「数年前は泳いでいる人も多かったって聞いたわ。でも今は世の中が不安定だし、そういう気分になれないわね」
 レイの言葉にメリッサもうなずいた。昨年の1939年9月にドイツがポーランドに侵攻して以来、ヨーロッパのさまざまな場所で戦火が上がっていたのだ。予兆はあった。先の大戦で敗北し、巨額の賠償を課せられたドイツは、体制を整え始めた頃に世界恐慌で失業者が増大した。ドイツは苦しみの末に狂信的な指導者を支持、指導者は世界に戦いを挑み、ヨーロッパを席巻していく。
 フランスも無傷ではいられなかった。ドイツが西部戦線を圧倒してからたったの二十日でフランスは崩壊し、1939年の6月30日にパリは陥落、自由・平等・博愛の三色旗の代わりに鉤十字の旗を掲げることになったのだ。
「わたしみたいに、移動してきた人もいるだろうし」
「そうね。来たばかりだと、生活を整えるのに精いっぱいよね」
 メリッサはドイツ軍が入ってくる直前までパリにいた。いよいよ危ないと知り知人や友人を頼り、時間をかけてマルセイユに来たのだ。メリッサは両親ともにフランス国籍であり、ドイツ軍にすぐにつかまるようなことはないが、今のドイツがシュルレアリスムを肯定することはないし、退廃芸術として抑圧されることは目に見えていた。それにパリにいたアーティストたちの多くは避難しており、パリで創作を続けるのは難しいと判断したのだ。
 メリッサは昼食を食べ終えると、時折ウイスキーを口にした。戦闘中、イギリスはスコッチを積極的に輸出していたのだ。メリッサは錬金術師がウイスキーを発見したという説を好んだ。鈍い金色の液体を口に含むと、砂地にふりそそぐ太陽光のような熱さとともに、身体中の知覚が広がるような感覚を覚えた。
「私は基本的にお酒を飲まないの」
 メリッサに進められると、レイは断った。
「飲むと意識が混濁するわ。常に意識を鋭敏にさせておきたい」
 レイが尋ねると、メリッサは考えながら言った。
「わたしの場合、飲むのはアイディアを掘り起こすためだわ」
 メリッサの言葉に、レイはうなずいた。
「それはあなたが超現実主義者シュルレアリストだから?」
「そうね。現実を超えたいと思っているから、無意識になれない時は理性を捨てて酩酊状態になりたいの」
自動記述オートマティズムはやらないの?」
 レイの言葉に、メリッサが首を横に振った。
「パリにいた時にやってみたわ。半覚醒の状態で歌ったり、詩を書いたり、聞き取れないような早口で言葉を喋って記憶したり。でもわたしは、みんなが無意識になってるふりをしているようにしか思えなかった」
「正直ね」
 レイが思わず苦笑すると、メリッサもつられるように笑った。
「理性の否定のために、降霊術なんかもやったわ。オーストリアだかハンガリーの辺りからやってきた、なんとかいう降霊術師も呼んだりしたの」
「収穫はあった?」
「自分には向いてない、という意味では気づきがあったわ。わたしは前世ではジャンヌ・ダルクだったから、今の世でもアーティストのミューズになって世界に革命をもたらすんですって」
 メリッサは肩をすくめた。
「その時、なんて言ったの?」
「その場では何も。後でブルトンに『たわごとね』って言ったら笑ってたわ」
 レイも釣り込まれたように笑った。
「わたしは絵を描きたいの。アーティストのためのミューズになるつもりはない」
「だからここに来たの? でも、デッサンを見る限り既に基礎はあるし、ギャラリーで何度か個展もやっていたんでしょう。あなたが私から何かを得られるとも思えない」
 メリッサの描いた絵を見ながら、レイは言った。
「技術的なところというよりは、インスピレーションかな」
「さっき、シュルレアリストの非理性は、『たわごと』って言ってたのに?」
「たわごとじゃないものを見つけたい。そもそも、超現実主義シュルレアリスム立体派キュビスムの理性を乗り越えるために生まれた。だったらわたし、源泉を見つけたいと思ったの。それに……」
 メリッサは口をつぐんだ。レイは次の言葉を待つ。どれくらいの時間がたっただろうか、メリッサは再び口を開いた。
「レイ・ヤムの絵に惹かれたの。どうしようもなく」
 メリッサはギャラリーでレイの絵と出会った時の衝撃を思い出した。壁に飾られたその絵の重要性は完全に把握はできなかったが、それでも美しいという形容よりももっと違う何か、今まで知らなかったし、これからもこの絵なしには知りえない謎がそのまま置かれているような、そんな不可思議な感覚にとらわれた。
 そして急速に、痛烈に実感したのだ。
 レイ・ヤムという画家の絵と、画家本人を、もっと知りたいと。
 レイはメリッサの顔をじっと見つめ、彼女を抱き寄せ、メリッサの唇に自分の唇を重ねた。レイの冷たく乾いた感触が、メリッサの熱く潤んだ唇の感覚に重なる。メリッサの頭の中で、記憶していた『最後のタブロー』が見えた。その時彼女は、ただの立方体だと思っていた図形の陰影が頭の中で整合性をなし、絵の中の複数のキューブが実は十字架を形づくっていたことに気づいた。
 
 レイはメリッサに絵を教えることはなかったが、一緒に絵を描くことは好んだ。メリッサが青リンゴの絵を描いていると、レイはスケッチを覗いて言った。
「モチーフにりんごを選ぶという勇気を尊敬するわ」
「リンゴはかみつきやしないでしょう。それとも青いリンゴは狂暴だとでも?」
 メリッサが笑いながら言うと、レイも微笑んだ。
「いいえ、私はセザンヌ以上のリンゴの絵を描くことはできないもの」
 メリッサはポール・セザンヌの絵を思い出した。リンゴやオレンジが上や横などのさまざまな角度から見たものとして描かれ、しかも破綻なく成立している。鋭い観察力と知的洞察、それに絵を成立させる確かな技術があればこそ描くことができる作品だった。
「以前ギャラリーで見たわ。リンゴをはじめ、山や木々を幾何学的に捉えて、しかも絵として魅力的だった」
「『自然を球体、円筒、円錐として取り扱うこと』というのがセザンヌの主張だった。絵が彼の知性を示している」
「わたし、セザンヌと競争するつもりはないわ。あなたも描いてよ」
 メリッサが画材を渡すと、レイはうなずいて描き始めた。レイの絵では、後姿の女性がリンゴを手にしていた。絵の中の女性が手にしているリンゴは新鮮そうだが、足元に転がるリンゴは腐っている。リンゴの陰影は普通に見ると矛盾しており、絵をさまざまな方向から見ると、正しい影を持つリンゴが見つかるが、一方で奥から消滅しつつあるように見えるリンゴもある。絵の女性の髪は真っ赤で、金属に近い質感だった。
「これはわたし?」
「そうかもしれないわね」
 レイがからかうように言う。
「レイ、あなたの絵は後姿の人物が多いのね。あとこのリンゴ、新しかったり古かったりするし、青いのも赤いのもあって季節が分からない。熟れていないものも腐敗したものもある。女性が持ってる青リンゴは現実感がなくて金属みたい」
「そうね。私は人の表情と季節感は出さないようにしてる」
「……なぜ?」
「感情を除外することで物語性が排除され、時間性を拒絶することで絵は無時間性を獲得する。モチーフと共に作品自体が永遠になる。無表情と無時間性という、分からないものは恐怖を覚えると同時に、無限の想像力をかきたてるわ」
 メリッサはうなずいた。確かにその絵の中は時の経過や季節が分からず、個々のリンゴが存在しているのは同じ空間であるはずなのに、それぞれ独自の空間にあるように見える。絵の中は特殊な時間と空間の法則に支配されているようだった。
 一方、メリッサの描いた青いリンゴは転がり、形を変え、最終的に昇天する天使たちをかたちづくっていた。天使たちの姿は美しく、純粋そのものといった表情をしているが、背景は暗闇だ。天使らが捧げ持つのは大きな砂時計で、容易に動かせないように南京錠がついている。しかし足元には鍵が落ちていた。それを探し出せば錠は外せるのだ。
「メタモルフォーズ……シュルレアリストらしいわね」
 レイの言葉に、メリッサはうなずいた。
「人を堕落させるものは、無垢な天使にもなりうるって示したかったの。彼女たちは人の世界から生まれているから、天使であるにも関わらず、砂時計という宿命は変えられない。でも偶然と宿命は結びついていて、鍵を見つければ時という軛から逃れられる」
「堕落から生まれた天使……メリッサ、あなた自身にそんな時期があったの?」
 灰色の瞳からまっすぐに見つめられ、メリッサはどぎまぎした。
「そうかもしれない。でも今は違うわ」
「どんなふうに違うの?」
「相手を堕落させるには気持ちの余裕が必要よ。でも今は余裕なんてないわ」
 言い終えた瞬間、メリッサは顔がほてるのを感じた。
 自分が余裕を持てない当の相手を前に、そんなことを言うのは恥ずかしかった。
 メリッサは思った。そうだ、今までのわたしはどこか冷めていた。でも今は精神は醒めているけれど、感情は今までになく熱い。
「私も昔は必死だったけれど、今は違う感覚で描いているわ」
 レイは独り言のようにぽつりとつぶやいた。
「それは、『最後のタブロー』から? それとも他の作品から?」
「『最後のタブロー』以降だと思う」
 メリッサは、パリのギャラリーで働いていた時から抱いていた疑問を口にした。
「『最後のタブロー』は、到達点を示しているというか、最初から完成していたように見えた。あなたはあの絵に到達する前、どんな作品を描いていたの?」
 それは評論家やライターでもレイから引き出すことができなかった質問で、たくさんの推測を生んだ問題でもある。画壇に鮮烈な驚きをもたらしたレイ・ヤムは登場と同じくらい唐突に姿を消してしまい、インタビュアーたちはレイからはっきりした言葉を引き出せないままだった。
「パリに来て『最後のタブロー』を発表する前、私は具象の人物像や室内画を描いていた。人からのオーダーで肖像画を描くこともあったわね。具象の作品は需要があったし、見ていてきれいなもの、惹かれるもの、秩序あるものを描くのは単純に楽しかった」
「……『最後のタブロー』とは全く違う作品を描いていたのね」
「ええ。でも、パリに来た時、私は、今まで自分の描いていたものが描けなくなっていることに気づいたの」
 メリッサは驚いた。レイの作品は、そんな迷いの時期があったとは思えないほど冷静で透徹していた。
「スランプに陥ったってこと?」
「それまで自分が信じていたものが信じられなくなったのよ」
「絵という表現に信用が持てなくなったの?」
「多分、世界そのものへの不信感ね」
「世界?」
「それまで当然のようにあったもの、あらゆる前提が瓦解していく気がしたの。絵の場合で考えると、何ていうか……」
 レイは考えながら言った。
「変わったのは、世界の見え方かしらね」
「見え方?」
「私たちが絵に起こす時、手前を大きくする遠近法や重なりでものの位置関係を示しているでしょう」
「パースのこと?」
「ええ。遠近法への疑いから、そのうちに、固定された視点ではなくて、合成させたり動きを表現したいと思いはじめたの」
「それが結実したのが、キュビスムを採り入れた『最後のタブロー』よね」
「あの絵は、要素の視点をずらしているの」
 メリッサはレイの背後にある『最後のタブロー』を改めて見つめた。
「面に制約されない見方ということなら、聞いたことがあるわ。シュルレアリストたちは数学者と親交があって、話にのぼったことがある」
 メリッサはモンマルトルにあった画家の巣窟を思い出した。アトリエと住宅が一体化したあの建物は、芸術家や詩人などの変わり者ばかりが住みつき、多くの文化人や学者が出入りしていた。
「わたしがモンマルトルに出入りしてた時だから、数年前だったかな、確か平面を離れて空間に入りこむ絵画とか、動く彫刻の概念が取りざたされていた」
「制作段階では気づかなかったんだけれど、私は『最後のタブロー』の中にいろんな仕組みを無意識にいれていたみたいで、後で自分のやったことに気づくこともあったわ。何度も絵を見ることで、自分の描いたものがどういう意味を持つのか改めて学習することもあった」
 レイの言葉に、メリッサは考えながら言った。
「それ、まるで、何かに取りつかれて描いているみたい」
「シュルレアリストの発想ね。でも、実際にそう感じることはあったわ。そういえば、誰かと『つきあう』っていうのは、誰かにつきまとわれる、取りつかれるっていう言葉につながるわね」
「……あなたと最初に出会った時の、わたしの自己紹介ね」
「あれは鮮烈だったからよく覚えているわ」
「ねえ、『最後のタブロー』を美術館に渡さずに手元に置いたのは、自分で描いたものの意味を探るためなの?」
「そう。自分で言うのもおかしな感じだけれど、見る度に発見があるような気がした。制作した時点では作品が分からないっていうのは、作家にはよくあることよね。描いた時は気に入らなくても、後で見て好きになることもあるし、描いたものが自分の足で立っているって実感することもある」
「あの絵が話題をさらったのは、見る度に新鮮だったということもあるでしょうね」
「ギャラリーで働いていたあなたが言うのだから、きっと正しいのでしょう。時間や時代が過ぎ去っても残る絵を描きたいと思っているから、嬉しいわ」
 そう言うレイの視線は遠くなる。メリッサは目の前の知っているはずのレイの影が急速に薄くなり、全く知らない人間になってしまったような気がした。その時、メリッサは思わずレイの手を取って言った。
「ねえ、一緒に絵を描きにいかない? わたし、あなたの考えていることをもっと知りたいの」
 レイは微笑んでうなずいた。
 
 

 二人は白い海岸線を歩いた。海の青さは相変わらずだが、風は秋の冷たさになり、砂浜の熱も昼までしか続かない。
「この辺りは本当にきれいね。海が宝石のよう。ところで、これからどこへ行くの?」
 フェリーに乗り込みながら、メリッサは尋ねた。
「イフ島よ。もともと監獄だったそうだけど、きれいなところだから」
「そこって確か、デュマの『巌窟王』のモンテ・クリスト伯がいたところよね」
「フランス革命で活躍したミラボー伯もいたらしいわ」
 イフ島はかつて監獄だったイフ城しかない島だったが、青い海に城がぽかりと浮かんでいるようで、非常に美しい場所だった。イフ島にはホテルの類はなかったが、島が気に入った二人は数週間宿泊する予定を組み、島に港が近いマルセイユでアパートを借り、部屋に荷物を持ち込んで画材を整えた。
 二人はイフ島で描きたいモチーフを探し、レイはイフ城の外観、メリッサは島から見えるマルセイユの街並みと海を描くことにした。一通りスケッチを済ませた後にアパートへ戻り、本格的に制作した。レイは油絵具を持参し、メリッサは水彩絵具を持ち込んでいた。イーゼルに立てかけて描きこむレイに対し、メリッサはバケツや小さな皿などを並べ、紙を地面に敷いて描いた。
 数日後、メリッサはレイの絵を見た。円柱の形をした塔をつなぐ城壁は一見正方形で、ある角度から見ると立方体になり、また違う角度から見ると複数の立方体から成立しているようで、見つめていると不可思議な気分になってくるのだった。
「これはイフ城?」
 メリッサが訪ねると、レイはうなずいた。
「最初はそのつもりだったわ」
「じゃあ、これは城ではないの?」
「城の外観を見ているうちに、そういう図形が見えてきたの」
「いろんな角度から見た城ってことかしら」
「というよりは、私が城から見出した新しいかたちよ」
 レイは絵筆を置いた。パレットに出された色彩は少なく、筆もわずかしか使っていない。
「絵筆が随分長いのね。昔から?」
 メリッサの質問に、レイは首をかしげながら言った。
「言われてみて気づいたけれど、昔はそんなことなかった。パリに来てから長い方が使いやすくなってきたの。あなたの絵筆は短いのね」
「長いと、水彩だから垂れてしまうのが嫌っていうのもあるわ。その意味ではわたしにとっての筆は、指や腕の延長だと思ってる」
 メリッサの言葉に、レイはうなずいた。
「多分私の筆が長いのは、身体を拡張するものというより、絵、ひいては世界そのものを、自分から距離を置いてみるためだと思う」
 メリッサはレイの描いたかたちに見覚えがある気がした。そして眠れぬ晩に窓から海を眺めているうちに思い出した。パリで芸術家たちのパーティーに出席していた時、数学者が語った図形に似ていたのだ。プラムだかプランだかプランシュだかといった名前の学者は、皆が酒で酩酊状態になった時、今日のように一人で夜風に当たっていたメリッサをつかまえて語りはじめたのだった。学者は酔っていた上に話が専門的過ぎて大半は分からなかったが、断片的な言葉は覚えている。
「我々の生きている三次元では、見つけられないかたちがあるんだ」
 学者が言うと、メリッサは首を傾げた。
「確か時間が四次元よね、時間を含むかたちってこと?」
「いや、ここでいう四次元は、時間ではなく三次元の次の次元という意味に捉えてくれ」
 数学者が酒臭い息を吐きながら語るので、メリッサは少しばかり後退してうなずいた。
「例えば二次元だと正方形、三次元では立方体に見えるものは、四次元だと八個の立方体からなる四次元超立方体になるんだ」
 数学者はぐらつきながら紙と鉛筆を取り出し、立方体の中に立方体があるような、不思議な図形を描いてみせたのだ。
 メリッサは再びレイの絵を見て、それが数学者の言っていた図形であると確信した。そして図形には、さらなる既視感があるような気がした。メリッサはレイが持参し、アパートの壁に立てかけていた『最後のタブロー』を見た。絵の中の蜘蛛の巣は、じっと見ていると不思議な気分になってくる。メリッサは自分がレイであり、鏡の中の画家であると想像しながらそっと目を閉じた。すると蜘蛛の巣はメリッサの頭の中で急速に立体性を帯び、この世のものならぬ不思議な形象となった。
 メリッサは思った。
 レイは対象を、常人には不可能なまでに分析して描いている。
 しかしレイが数学を学んでいたという話は聞いたことがないし、少なくとも数学者と付き合いはないはずだ。しかもメリッサが聞いた話は最先端の仮説であり、知っているのは数学者本人とメリッサぐらいだろう。
 翌日、メリッサはイフ城を見つめてみたが、レイの見出した図形は見えてこない。メリッサはヒントが欲しくてイフ城の内部に入ってみた。城内はひんやりと涼しく、明るい光に満ちた外界とは別世界のように暗い。部屋の窓は格子がはまり、ここが監獄だということを実感させる。壁には模様があり、よく見ると文字のようだった。昔ここに収容されていた囚人が描いたものだろうか。メリッサは囚人の姿が見えたような気がして一瞬ぞっとしたが、好奇心は抑えられず、模様を念入りにスケッチした。
 アパートに戻り、スケッチを眺めていると、レイが尋ねた。
「これは何?」
「イフ城の監獄の壁にあった落書き。囚人が書いたんでしょうね」
 レイはメリッサの背後から絵を覗き込んだ。そして肩に手をかけ、後ろからふわりと抱きすくめるようにした。ふわりとかかる彼女の息は生きている者の体温を全く感じさせないほど冷たく、メリッサはぞくっとした。
「面白いわね。その時代、過去の息吹が感じられる気がする」
 一瞬、メリッサの目前に映像が浮かんだ。
 囚われの人々は狭い空間に押し込められ、理不尽な思いをしながら壁に文字を書く。明るい光に満ちた島の暗い部屋の中で、いつか出られる日を期待しながらその日を生きる。苦悩に満ちてはいるが、やがて終わるはずの罰だ。
 映像は続いた。落書きの断片をシークエンスにして。
 囚われの人々は狭い空間に押し込められ、理不尽な思いをしながら壁に文字を書く。冷気に包まれた土地の暗い部屋の中で、いつか出られる日を期待しながらその日を生きる。苦悩に満ち、終わるはずもない刑。そもそも罰される理由もないのだから。
 メリッサは混乱した。イフ場の監獄の映像の後に見えたのは、長く続く線路の先にある監獄で、イフ城のものよりも規模が大きく、ずっと悲惨だった。内陸の冷たく荒れた土地のようで、イフ島であるはずもなかった。
 そこにいたのは、長い赤い髪に海緑色の瞳の女性、つまりメリッサ自身。
 これは未来? いや、よく見るとわたしではない。わたしに似た誰か。
 荒れた指で壁に何かを書きつけている。文字は読めない……。
 女性の顔が急速に色彩を失い、レイの顔になった。
「……どうしたの、大丈夫?」
 レイはメリッサを揺さぶった。
「大丈夫よ。大丈夫だけど……」
「どうしたの?」
「いいえ。なんだか気分が悪くなっただけ」
 メリッサは手を振り、ベッドに戻った。自分に似た人間が監獄にいるなど不吉だ。それにレイには幻のことを話さない方がいいような気がした。
 
 メリッサの絵も完成に近づいたので、二人は近いうちにイフ島を離れることにした。最後の名残でフェリーに乗り、城の中とはうって変わって彩りに満ちたコバルトブルーの海とスカイブルーの空のコントラストを味わった。マルセイユの港の船着き場に降りると、レイの姿が見えなくなった。メリッサが探すとレイは売店で購入した新聞を読んでいた。
「めずらしいわね、新聞を買うなんて」
 話しかけるメリッサの声が聞こえないほどレイは新聞に没頭している。メリッサが覗き込むと、ドイツが新しい法律をつくった記事が一面に出ていた。「ユダヤ人並びに外来者に対する法」と銘打たれたその法は、ユダヤの人々の身分に関するもので、地位や財産、身分や行動、すなわちすべてを著しく制約し、奪うものだった。
 背後から靴の重く鈍い音が響く。急にレイが表情を硬くし、小屋の奥に隠れた。見れば出口付近に軍服を着た兵たちがいる。メリッサもつられて身を隠し、耳をそばだてる。聞こえてきたのはドイツ語だった。
 
「イフ島は監獄だったそうだが、我々の収容所は快適だという触れ込みになっているな」
「快適だと? あっと言う間に殺されるのに?」
「労働要員もいて、しばらく生き残る者もいるそうだ」
「そういう奴らも、いずれいなくなるんだろう」
「代わりはまだごまんといるさ」
 
 メリッサはパリでさまざまな国の人間と話していたので、ヨーロッパ圏で一般的な言語は日常会話程度なら理解できる。そのドイツ兵たちの話も難しい会話ではなかったので、何を言っているのかは分かったが、話の内容はぴんとこなかった。傍らのレイを見るとひどく顔色が悪い。
「どうしたの?」
 レイは両手で顔を覆った。見たことがないほど弱々しく見える。
「ああ、ここまで来ても追ってくる」
「……どういうこと?」
「あのドイツ兵の言っていた通りよ。私たちは収容所に入れられる」
 その言葉を聞いて、メリッサはイフ島の監獄の幻影を思い出した。
 あの女性は、何を伝えようmentionとしていたのか。
 レイが取り乱した様子だったので、メリッサはレイを促してアパートに戻ることにした。
「レイ、あなた、ドイツ語が分かるのね」
 部屋でメリッサが言うと、レイはうなずいて言った。
「ええ。私はドイツで生まれたの。近年まで住んでいたわ」
「……じゃあ、あなたはドイツ人なの?」
 メリッサが言うと、レイは荷物から小さな旅券を出した。広げたページには大きく「J」の文字がある。
「私はドイツで育ち、一時期パリを活動拠点にしていた。でも自分の学べることは一通り吸収したと思ったから、いったんドイツに戻ったの」
「そして、ヒトラー政権が台頭した……」
「ええ、私の父はユダヤ人よ。学校で美術を教えながら母と一緒にレジスタンス活動をしていた。多分目立ったのね、ある日父は職を失い、数日後に行方不明になったの。どうなったのか調べようもなかった」
「お母さんや、他の家族は?」
「母は私と妹を連れて逃げようとした。だけど追っ手から逃れようとして走っている時に母だけ撃たれたの。ねえ、心臓を撃たれると、血は何メートルも吹き上がるのね。私は母の血を浴びながら、頭の片隅でそんなふうに考えていた。何かで頭を埋めないと、気が狂ってしまいそうだったから」
 レイの瞳が遠くなる。メリッサは彼女が急に遠くへ行ってしまうような気がしてレイの手を握り締めた。ひどく冷たかった。
「妹と私は逃げ切って、人の助けを借りてフランス行きの船に乗ることができた。でも船が座礁して、乗客はちりぢりになったわ。私はフランス側の海岸に打ち上げられて助けられた。妹とはそれ以来会っていない。うまく逃げおおせていたらいいけれど、そうしたらあの港で会っているはずだから、溺れてしまったか、ゲシュタポにつかまってしまったんだわ」
 レイはメリッサの瞳を覗き込む。メリッサは視線を外すことができない。
「妹のローゼはあなたに似ていたわ。赤い髪に、緑と青のまだらの瞳。私みたいに灰色や藁色のぱっとしない色じゃなくて、鮮やかな色彩と生命にあふれていた。あなたが家の戸口にいた時、ローゼが生きていたんだと思って息が止まった」
 レイはそう言うと顔を上げた。あるいは涙を見られたくなかったのか。
「私はどうなってもよかった。ローゼには生きていてほしかった。私の方が長く生きているのに、なんで私が助かったんだろうと、うしろめたさに満たされながら生きてきたわ」
 今、何を言っても、レイにとって慰めにはならないだろう。それは分かっていたが、メリッサは何かを言わずにはいられなかった。
「それはあなたのせいじゃないわ。それに、ローゼもあなたに幸せになってほしいと願っているはずよ」
 メリッサは、多分ローゼは生きていると、過去か未来のどこかで、収容所で絶望に苛まれながら、それでも闇に飲み込まれずに何かを伝えようとしているのだと言いたかった。
 
 

 震えるレイをベッドに見送り、メリッサはまんじりともせずに過ごした。明け方近く、テーブルの上に「今日中に戻ります」というメモを残し、メリッサはマルセイユの海岸から出発した。
 行き先は決めてあった。海岸から5キロも離れていない場所、歩けない距離ではない。ついこの間まで緑に覆われていたのに、既に葉が黄や赤、茶に色づき始めている葡萄の木が生い茂るサントレーヌ公園を抜けてしばらく歩くと、大きな白塗りの屋敷に行き当たった。玄関脇に植えられたシュロの木がどことなく南国の雰囲気を盛り上げており、今まさに戦争が起きていることなど無関係といったたたずまいだった。
 呼び鈴を鳴らし、中へ入ると、大広間では騒ぎが繰り広げられていた。ここエール・ベル邸では多くの芸術家・文筆家・思想家たちが集まり、ヨーロッパを席巻しつつあったドイツから逃れるためにこの非占領地の南仏まで逃れてきていたのだ。彼らはアメリカへ渡るためのビザの発行を待っていた。
 メリッサはエール・ベル邸にある18室もの部屋で見知った顔を探した。居間に近い広めの部屋でコラージュを制作していた男性はマックス・エルンストだろうか。廊下に置かれた解剖台に似たテーブル上のミシンとこうもり傘の横で、派手に砂をまき散らしているのはアンドレ・マッソンだろう。紙を四つに折り曲げ、四人でそれぞれのパートを描いている集団の中には、「未来を幻視する画家」と呼ばれるヴィクトル・ブローネルの細面の顔があった。
 ふと、階段の踊り場で視線を感じた。見上げると探していた顔があった。芝居めいた重厚な赤いビロードのカーテンを背景にしても、決して大げさに見えない人物。
「メリッサ、おお、私のインスピレーションの源にして赤銅のメリュジーヌ蛇女。元気だったかい?」
 眼光鋭い瞳には繊細さと大胆さが宿る。季節を問わずきっちりとスーツを着こなし、いかなる時もダンディな雰囲気を損なうことがないその男性は、あらゆるシュルレアリストの長、アンドレ・ブルトンだった。もう四十に届く年齢であろうが、もともと老成した雰囲気を持っており、いつまでも少年のような好奇心も旺盛だったので、見た目の年齢は全く分からない。
「ブルトン、久しぶりね。あなたを訪ねてきたの」
「それは嬉しいね。ここにいるとよく分かったな」
「シュルレアリストたちがマルセイユに逗留しているという話は聞いていたわ」
「共同制作もやっているからな。製作には『優美な屍骸』という名前をつけた」
「相変わらずね。今日は相談したいことがあって来たの」
「そうか。ここは騒がしい。とりあえず話を聞こう」
 ブルトンはそういうと、メリッサの手を取って外に出て歩き始めた。風と日光を避けて木陰を探し、サンピエール墓地の公園の部分を歩いた。艶のある大理石の彫像の白さが、青い空と鮮烈なコントラストをなしている。
 メリッサは話した。かつて画壇を席巻したミステリアスな画家、レイ・ヤムと生活を共にしていること。彼女はユダヤ人でドイツからフランスに来たものの、逃れられないナチスに対してひどく怯えていること。ついてはレイを逃亡させてほしいという話に及んだ時、ブルトンはうなずきながらも難しい顔をした。
「実は今さっき、ラジオでユダヤ人排斥法が可決されたと聞いた」
「どんな内容なの?」
「ユダヤ系の外国人は問答無用で逮捕し、収容所に送ることができるという法だ。ひどい法さ。だが止められない。レイ・ヤムは一刻も早く逃げた方がいい」
「戦局が変わることはないのかしら」
「あったとしてもしばらく先だ。その前に捕まったら恐らく生きては出られないだろう」
「収容所から?」
 メリッサは先日見た幻を思い出した。収容所にいた女性。自分に似た赤毛。美しい顔は汚れ、瞳は悲嘆にあふれていた。
「そうだ。あそこでは想像を絶することが行われるらしい」
「……どんな?」
「まずは大量に殺害する。生き残った人々も消耗するまで働かせ、病や飢えや絶望で死ぬまで虐待するんだそうだ」
「……そんなことが、許されるの?」
「許されないさ。でも、実際に起きることなんだ」
 ブルトンは溜息をついた。
「このままでは、彼らは歴史から抹殺されるだろう。我々シュルレアリストは想像力を愛おしむ。しかし我々の想像を絶する悲惨な現実が迫っているんだ。皮肉なものだよ」
「そんな……」
 メリッサは思わず自分の体を抱きしめた。全てが奪われていく恐怖に、体温がなくなっていく気がした。ブルトンは外套を脱ぎ、メリッサの肩にふわりとかけた。束の間、ほのかな柑橘系のオーデコロンの香りがふわりと漂った。
「だからレイ・ヤムは生き残らなければならない。たとえ周りの人間が殺されて、自分だけが生き残ってしまった罪悪感に苛まれても、この世界に残ることが重要なんだ。死んでしまった人も、誰かが覚えていれば、記憶の中で生かされる。誰の記憶にも、何の痕跡も残らなければ、この世に存在しなかったことになってしまう」
「でもブルトン、シュルレアリスムもナチスにとっては退廃芸術でしょう。あなたたちも危ないの?」
「安全ではないだろうな。安全な存在であろうとも思っていない。我々は彼らの蛮行を、この狂気を、作品の形で残すことになるだろう。例えばデペイズマン、結びつかない要素をぶつけて意外性のある結末を引き出すあの手法も、時として、サラエボの事件で始まった先の世界大戦の悲劇を伝えているのだよ」
「どういうこと?」
「アンドレ・マッソンの話を引用しよう。従軍中、マッソンは二人の兵士が隣り合って座り込んでいるところに出くわす。彼らはどう見ても生きているとしか思えなかったが、まったく動かずにおり、まるで驚いた素振りのまま凍りついているように見えた。しかし顔を見ようとすると、鉄兜の下に顔らしきものはなく、代わりに血だらけのぐしゃぐしゃした真っ赤な球体があったそうだ」
「……」
「マッソンは、この世のものとは思えぬ戦慄すべき光景だったと言っていたよ。長靴をはいた脚が片方転がっているのに出くわすことは、鉄条網の切れ端を見るのと同じレベルだと思うくらいに感覚が鈍っていた彼が」
「恐怖を抱いたのは、戦いの渦中でも、死そのものでもなかったということね」
「彼は塹壕を走り回っていたし、死体は常にあったという。そんな中、二人の兵士たちはまるで生きているように死んでいた。驚いている兵士たちという平凡な光景が一気にひっくり返る、マッソンが恐怖を抱いたのはその点だろう」
「なんでもない日常や生の延長に唐突な死が潜んでいる、その驚きや意外性はデペイズマンに結びつく……」
「あのばかげた戦争の恐ろしい光景は、マッソンの作品の根源からなくなることはないだろう」
 メリッサはシュルレリストたちの作品を思い浮かべた。人間の体と獅子の頭が組み合わさった作品や、生き物の気配のまったくない都市の数々、空虚な通路、暗闇の中の列車。不安と不条理に満ちた世界。
「正面からの攻撃が許されなければ、曖昧なヴェールを重ね、隠喩や暗喩といった隠された徴でもって安易な単純化や偏見と戦う。一つの抵抗が潰されても、別の形で戦い続けるのだ。アーティストは、自分が生き残ることと共に作品を残すことも使命だ。だから、レイ・ヤムはとりわけ生き続けなければならない」
「後の世で理解されることもありうるものね。そういう意味では、『最後のタブロー』も、生命ある個が消滅しつつあるこの不穏な時代を先取りしているともいえるわ。でもレイは、そもそもパリから逃げてきたのに、どこへ行くのがいいのかしら」
「この大陸で、ナチスの魔の手が伸びない場所はなくなるかもしれない。アメリカで行くしかないだろう。我々ももっと早く行動すべきだった」
 ブルトンは木陰から見える空を見上げた。冬の気配を漂わせる空はどこまでも青く、下界の人々の苦悩など関係ないように澄みわたっている。
「レイはアメリカに亡命できる?」
「彼、いや、彼女なら国際的な評価も高いし、ニューヨークの美術館のキュレーターで確か『最後のタブロー』を気に入っている奴がいた。多分なんとかなるだろう。それで……」
 ブルトンはメリッサの顔を見た。今までになく真摯な眼差しだった。
「君はどうする? 一緒に行くのか?」
「行きたいわ」
 メリッサは強くうなずいた。
 最初はレイのことを知りたかったし、絵のことを学びたかった。
 しかし今は違う。
「レイを、彼女を守りたいの」
 秘密のように守っていた自分の世界を開示してくれたレイと、ずっと一緒にいたかった。
 鋼鉄のように冷たく強靭に見えるレイの感性は、実は脆く崩れやすいということを知って、彼女が抱く不安や恐怖を取り払っていきたかった。
 数分間の沈黙の後、ブルトンは言った。
「君にとって好都合な事実と不都合な事実が、それぞれ2つずつある」
「どういうこと?」
「まず君は美しい。かりそめにでもアメリカ人の誰かと結婚すれば、ビザは降りる可能性はある。でも君にはレイがいる。女連れの女を気に入る酔狂な人間は、アーティストにはいるだろうが、我々が今必要としているものを与えてくれる人間は堅物が多いのだよ」
「……」
「そして君は才能のある気鋭のアーティストだ。パリの中堅ギャラリーで何度か個展をやっているし、美術館でもグループ展で出展しており、評判もいい。もう少しキャリアを積めば、美術館での個展もできるかもしれない」
「それなら、なぜ?」
「その程度の作家は、私の周りにはたくさんいるからだよ。あのデュシャンですら順番待ちなんだ。まあ、彼は最終的には出国できるはずだが」
「……」
「私が推薦するには、君はキャリアがなさすぎるのだよ。それは君のせいではなく、私に力がないせいだが、緊急救助委員会も人選も厳しくてね」
 はっきり言われたものの、メリッサはショックを受けなかった。むしろ何とかしようと必死の気持ちになった。
 顔を上げて視線を動かすと、ブルトンの胸ポケットに何かの塊が入っているのが見えた。
 ブルトンはメリッサの視線を捉え、ポケットの中身を取り出した。それは箱で、開けるとカードが入っていた。メリッサはトランプかタロットかと思ってカードをちらりと見たが、ハートやスペード、クラブやダイヤ、もしくは愚者や教皇などの見知っている意匠は全く記されていない。
「ブルトン、シュルレアリストならば偶然と無意識によって慈悲を与えてちょうだい。それはトランプ? だったら今から勝負しましょう。あなたが勝ったらわたしの渡航は諦めるわ。わたしが勝ったら推薦を考えてほしい」
 メリッサの瞳は力を得てらんらんと光り、まるでエメラルドのようだった。その宝石の輝きに魅了されたブルトンは、黙ってカードを切りはじめる。鮮やかな手つきだった。
「やってくれるのね。どんな勝負を知ってる?」
「一番簡単なものをやろう。我々二人がそれぞれ一枚だけ引くんだ。カードの中で力が強いのは絵札で、2以上なら数値が大きいほど強い。だがエースは絵札よりも強い」
「数字があるならトランプよね。でも、一般的な模様ではないのね」
「このトランプにはダイヤやハートはない。登場するのは炎・星・車輪・鍵の4種類だ。炎は愛を、星は夢を、車輪は革命を、鍵は知性を示している。炎は星に勝ち、星は車輪に勝ち、車輪は鍵に勝ち、鍵は炎に勝つ。関係ない属性が出たら数字で勝負する」
「ええ、分かったわ」
 ブルトンとメリッサはそれぞれ一枚ずつ引いた。ブルトンが最初にひっくり返すと、鍵マークの人物が出てきた。Gはジーニアスすなわち天才の意味で、ドイツの哲学者、ヘーゲルの名が刻まれていた。
 二番目に強いカードだ。メリッサは半ば諦めながらカードを引き、ひっくりかえした。すると出たのは、まるでカドケウスの蛇のように立ちのぼりながら絡み合う赤と白の意匠、どこか女性の足を思わせるエロティックな雰囲気を漂わせるかたちが一つ。それは炎、すなわち愛のエースだった。
「炎のエース……」
 メリッサは信じられない思いでカードを眺めた。見るほどに力が溢れてくる気がした。
「君の髪を象徴するようなカードだな。いや、これをつくったのは私だから、君の髪が私の無意識に働きかけ、このカードをつくらせたのかもしれない」
「あなたのヘーゲル、理性の象徴は、愛の炎に負けたのよ」
「強運だな。分かった、君のことを推薦しよう」
 メリッサはやっと勝負に勝ったことを実感し、喜びが湧いてきた。
「ありがとう」
「ただし、条件がある」
 ブルトンの言葉に思わず緊張し、メリッサは耳をそばだてた。
「私もいずれマルセイユを出発することになるだろう。だから期限を設けたい」
「……分かったわ」
「レイ・ヤムの件はすぐに対応しよう。明日あたり、本人と一緒にエール・ベル邸へ来てくれ、委員会の人間やジャーナリストを紹介しよう。旅券も忘れずに持ってきてくれ」
「レイはちょっと人見知りするかもしれないから、気をつかってあげてね」
「私もフォローするが、君がやった方がレイも安心するだろう。さて、この機会チャンスの行く末を占ってみるか」
 ブルトンは一枚のカードを引き、ひっくり返そうとした。
 その時、強い風が吹いた。
 カードは軽やかに宙を舞い、炎のエースの意匠のようにくるくると巻き上がりながら、青い空の彼方へ吸い込まれていった。
「知らない方がいいということだ」
 消え去った方向を見つめながら、ブルトンはつぶやいた。
「結末は儚く、静止していないものだからな」
「痙攣的な美のように?」
 メリッサが呟くと、彼は少し笑って言った。
「『ナジャ』か。あの本が君への最初の贈り物だったな」
「わたしは、わたしの知らないナジャに嫉妬したわ。今となっては昔の話だけど」
「我々はいつも身もだえしているのさ。さもなくば存在しないだろう」
 立ち上がりながらブルトンは言った。メリッサも立ち、安定していない足元にすこしぐらつくと、ブルトンは彼女を支えた。
「絵は描いてほしい。しかし期待はするな」
「分かってる。あなたは誰もひいきすることはない堅物よ」
「博愛主義者と言ってほしいな。みんな大事なんだ、だから特別はない」
 メリッサはうなずいた。
 そう、だからこそシュルレアリスムはあの質の高さを保ったまま続いており、ブルトンは最初から最後まで厳しい法王であり、沈むことのない太陽王のままなのだ。
 分かれ道に来ると、ブルトンは手を差し出した。
「誰のものにもならなかった君が、特別なものを見つけたんだろう。だったら決して手放すな、炎の髪のメリュジーヌ」
 メリッサは真剣な表情でブルトンの手を握り返した。
 その場でブルトンと別れたメリッサは、黒い墓石の上に白い小さな長方形の紙があるのを発見した。ひっくり返すと太鼓腹でとんがり頭の親爺が描かれている。メリッサはそのカードをそっとポケットに入れると、帰路を急いだ。
 
 

 メリッサはレイに亡命の話を持ちかけ、アメリカに渡ることができるかもしれないという話をした。最初、レイは当惑したような表情を浮かべたが、次第に現実的な話だと分かったようで、驚きと喜びを示した。二人は早速翌日にエール・ベル邸を訪れた。旅券のほかに『最後のタブロー』を持参したレイは、ブルトンの仲間たちや作家・評論家・ジャーナリストなどに熱狂的に迎えられ、大いに話しかけられた。謎に満ちた作家、レイ・ヤムの出現はちょっとしたセンセーションだったのだ。
 レイは最初こそ当惑していた様子だったが、話を始めると深い思慮と鋭い知性に裏打ちされた絵画論をとうとうと語った。二人がアーティストたちに別れを告げる頃には、彼女こそがレイ・ヤムその人であると、屋敷にいた全員が納得していた。ブルトンがレイという芸術家の再発見を亡命委員会に話すと宣言すると、シュルレアリストたちは歓喜の拍手を送った。
 帰り道、メリッサは満足しつつも、さきほどブルトンに耳打ちされたことで頭がいっぱいだった。ブルトンはレイが他のアーティストと話している隙にメリッサにこう囁いたのだ。
「君が描く絵の期限の話をさせてくれ」
「わたしに残された時間はどれくらい?」
「……二ヵ月だ。二ヵ月のうちに私を納得させる絵を製作してくれ。モチーフに制限はない」
「そんな、短すぎるわ」
「昨日確認したんだ、ほかにどんな人間がここに来るか。年が明ければアルマ・マーラー、ハンナ・アーレント、シャガールなども到着する。君は知の巨人たるハイデガーの刺激となったアーレントや、春の女神フロ―ルの愛人にして色彩の魔術師たるシャガールのように、歴史に名を刻むであろう人々よりも、自分が先に救われるべきだと主張できるかい?」
「……」
「仮に無理を押して君を渡航させても、私だけではなく君も、更に言えばレイも非難される可能性がある。君がこの二ヵ月で素晴らしい絵を描いて私が委員会に推薦し、そこで気に入られるしかない」
「分かったわ。うまくいかなければ、レイだけでも先に渡航させて」
「それは可能だ。しかし彼女は今、かなりナーバスに見える。あのアメリカという国は今、繊細この上ない彼女が独りでうまく生きていけるようなゆとりはないように思えるがね」
 メリッサは唇をかみしめた。
 二ヵ月。
 もはや一刻の猶予もない。この機会を逃せば、レイやアーティストたちが語らっていたあの光の輪の中に入れず、一人この地に取り残されるのだ。
 無口になったメリッサに対し、レイは尋ねた。
「今日はありがとう。最初は緊張したけれど、みんないい人だったわ」
「そう。良かった」
 レイはメリッサの目を覗き込んで尋ねた。
「元気がないみたいだけれど、どうしたの?」
「なんだかあなたが、遠くに行ってしまうような気がして……」
 レイは笑い、メリッサの手を握り締めた。
「何を言っているの。私があなたを置いていくわけないでしょう」
「でも……」
「ブルトンを納得させる絵を描かなければいけないのでしょう。大丈夫、私も協力するわ」
 メリッサは笑い、ありがとう、と言った。
 しかし彼女は痛いほど分かっていた。今の自分にあの屋敷にいるアーティストたちを押しのけて亡命する資格はない。
 その日から彼女は制作に取りかかった。アパートの宿泊は延期し、モチーフの案を練った。最初、彼女は自分が得意とする神話的なキャラクターが登場する絵を描こうとした。その絵は薄暗い室内を描いており、羽の生えた白い馬と空飛ぶ黒い猫を侍らせて青いビロードの椅子に座る女性が冷たい微笑みを浮かべ、彼女のまとうドレスはヴァーミリオン(銀朱)、アンバー(赤褐色)、シナバー(辰砂)など、この世のあらゆる赤を結集させたような色だった。寂しさと儚さが同居するその作品は見る者を夢幻へ引き込む力があり、画廊に置けば比較的早く売れるたぐいの絵だったが、メリッサの目には見た目の魅力に頼りすぎており、また新しさがないように映った。
 次にとりかかったのは三連祭壇画トリプティックだった。海岸で拾ってきた板を並べて繋がるように打ちつけ、部屋に屏風のように立てかけて製作を開始した。手に入りにくくなってきた卵をつかってテンペラで描いたモチーフは割れてどろりと黄身がはみだし、殻の輪郭から溶け出している卵。それは太陽のように光り輝き、下のうっそうとした黒い森を照らし出している。絵を立てて中に籠ると森に抱かれているような安心感があるが、上に視線をずらすと溶解する卵の不安定な感覚に苛まれる。滴りおちる白身は恩寵で、森の暗さは原始の闇を示すその絵は迫力に溢れ、多様な解釈を許す余地はあったが、祭壇画という伝統とモチーフの意外性に頼りすぎており、新しい絵としては脆弱さを感じた。
 メリッサは徐々に行き詰まり、今までデッサンしたものや描いたものを全て思い返して、自分が上手く描けたと思ったもの、評価されたものを思い出して描き出してみた。翼ある馬や若い魔女、両性具有のセラフィタなど、どれも魅力あるモチーフだったが、それだけ描きだしてもブルトンを納得させるのは弱すぎた。デペイズマンをはじめ、知っていることで役に立ちそうなことは何でもやったが、それでもインスピレーションは湧かなかった。 
 ある日、まったく信頼していなかった自動記述をやってみようと思い、紙や鉛筆などの準備をしていた時、迷走している自分に気がついてやめた。窓を開けると夕方の日が満ちており、空気は澄み、のぼり始めた白く丸い月がきれいだった。メリッサは画材を持たずに上着を羽織って海岸に出てみた。街は明かりこそなかったが夕日のおかげで明るく、海岸まで出ると砂がオレンジ色の光に照り返されている。気分転換に少し歩くと、岩盤が白く、岩がほぼ同じ大きさで連なっている場所に出た。岩の形が大聖堂の高窓に似ているため、レイと共に「カテドラル」と名付けていた場所だった。
 誰もいない海岸で、メリッサは橙に染まった砂をすくい上げた。指の間からさらさらと流れる砂粒は光をはじいてこぼれ落ちていく。ふいに涙が溢れ出して止まらなくなった。生ぬるい塩の味は海の水の味と似ていると思った。
「なぜ泣いているの?」
 ふいに話しかけられて、座り込んでいたメリッサは顔を上げた。見ればいつのまにかレイが立っており、メリッサを見下ろしている。
「この砂が、わたしの今を象徴しているのよ」
「どういう意味?」
 レイはメリッサの瞳を覗き込んだ。
「あなたと出会った時間、あなたと共有した全てが、両の手からこぼれ落ちていく」
「それは、絵が描けないってこと?」
「絵を描くことはできる」
「じゃあ、なぜ?」
「今まで描いた絵は、ブルトンの求めている標準に達していない。自分で分かるの。彼は新しい絵、驚きをもたらす作品を求めている」
 メリッサは顔を覆った。涙と言葉が止まらない。
「そしてあなたは去り、わたしは置き去りになる。あなたは異国の地で有名になり、やがてわたしを忘れる。悲しみはだんだんに癒え、あなたと過ごした時間は遠くなり、やがて消えていくんだわ」
 どれくらい時間が経っただろう。レイが静かに言った。
「そんなことにはならない」
 レイの声は女性としては低いが、その時の声は今まで聞いたことがないほどに低く、レイの体の奥から発されているように響いてきた。
 メリッサはレイを見上げた。彼女の表情は月の影に隠れて見えない。
 メリッサは立ち上がり、レイの顔がよく見えるように対峙した。
 いつのまにか干潮を迎えた海岸は波が引き、静まり返っている。青と藍と黒が入り混じる海水に、メリッサが描いた卵の黄身のような色をした月光がとろりと降りかかっている。蒼白の肌と白金の髪、白銀の瞳を輝かせたレイはひどく現実離れした姿に見える。
 レイはメリッサの手を取り、彼女を引き寄せて乾いた唇を重ねた。迷いのない、力強い動作だった。ざらりとした感触のものが、メリッサの中に流し込まれる。感覚がおかしくなる。肌で感じている感触、目に飛び込んでくる光、わずかな波の音。すべてが妙にくっきりとしていた。メリッサは反射的にレイから離れ、口を拭った。自分の中で処理しきれない何かが衝突し、分散し、体の隅々まで染みわたっていく気がした。
 改めてレイを見た。月を背にした彼女は、まるで自ら光を発しているように見える。
「わたしに何をしたの?」
 メリッサは尋ねた。質問しながら自分の体で起きている変化を体感していた。感覚から得られる情報全てが拡大され、拡張されて流れ込んでくる。頭では当惑しながらも、知覚はこの上なく澄み渡っている。
「きみの中に、見たことのないDisかたちを想起mindさせ、伝えmentionたかった」
 響き渡る低い音。人の声というよりも、風の唸りや波の音に似た、激しさと心地よさを共存させた音だ。
「どういうこと?」
 レイの姿をとりながらもレイではないものに尋ねながら、メリッサは自分の中で回答を知覚していた。今や彼女の体の中で、別の意識のようなものが浸透していた。最初は自分の内側に貼りついてくる意識に違和感があったが、それはメリッサ自身の意識を侵食せず、共存しうることが分かってきた。
「きみの中で答えが出るだろう」
「あなたは誰?」
 相手の意識が揺れるのが、メリッサにも伝わってきた。
「私は誰でもない。一般にレイ・ヤムと呼ばれ、きみがレイと呼んでいる人間の内側にいる。そして、私の一部は今、きみの中にも流し込まれた」
 レイが口を少し曲げた。微笑みと解釈できないこともない表情だった。
「私はきみたちが知る場所ならば、どこへでも行くことができる。かつて、きみたちの言葉で北海と呼ばれている場所にいた。そして彼女と出会ったのだ。船の破片と共に落ちてくる彼女は、もがく時に私の宿る砂塵を握りしめた。その時私は彼女の組織に入り込み、意識に触れたのだ。表面的には虚無しかなかった彼女の意識の奥に触れると、この世界への不条理や怒りに溢れていた。自分を取り巻くすべてに対する深い絶望、芸術に対する熱い渇望、そして妹や、大切な何かのためにとっておいた小さな希望。それらが全て、きみたちが創造性と呼んでいるものにつながっている。圧倒的な力だった。そして私にはないものだ。私はそれをもっと知りたいと思った」
 レイの中に存在する「それ」は、低く、心地よく、よどみなく語った。
 風のない冬空で、磨き抜かれた鏡に似た月がしらじらと輝く。
「そして、レイに宿ったのね」
「そうだ。彼女の中の未知の感覚を知りたかった」
 その時、メリッサの中で、ふと疑問が生まれた。
「あなたはどこからきたの?」
「きみたちの想像しえない場所、きみたちが夢と呼んでいるものでも、現実と呼んでいるものでもない、双方を合わせて超越したところだ。シュルレアリストのきみであれば、理解はできなくとも、体感として伝わるだろう。仮に、外、とでも言おうか」
「外の世界……」
「私はきみたちが、砂、と呼ぶものを通してここへ来た。きみたちと、きみたちにまつわるものは、水の上に浮かぶ塊のように水面から逃れられない。私は水の中に入ることも、水の外に飛び出すこともできる」
「わたしたちが知らないとこから来たってことね」
「そうだ。きみたちに見つけられないところだ」
 メリッサはパリで数学者と交わした会話を思い出した。
 我々の生きている三次元では、見つけられないかたちがあるんだ。
 では、この次元三次元から離れたDi次元mentionsのかたちとは何か?
「あなたは、わたしたちの見たことがないものやかたちを知っているの?」
 レイのなかにいるものは、メリッサの手を取って砂地に座り込んだ。メリッサを見てわずかに微笑んでいるように見える。
「知っている。そして私は、きみの望みも知っている。砂を通して来た私は、砂を通してきみに伝えよう」
 そう告げると細い指を砂の上に走らせた。点だったものが多面体に成長していく。メリッサの目にはそれらの図形がある一面、性質の一部を示しており、奥にある全体を隠しているように見えた。描かれた図形はすぐさま波にさらわれ、変形し、一瞬だけこの世ならぬかたちをつくると溶解して分解した。それは限られた三次元を更に制約された二次元に写し取る絵では到底到達しえない、柔軟で壮大なかたちだった。そうした存在の実在を、メリッサは見ながら体感した。
「これがきみたちの世界にない要素だ」
 砂に描かれた点と線。見えているすがたと奥にあるかたちが一致する。点は線を、線は正方形を、三角形は八面体を。点は唐突に線になり、四面体、八面体へ。砂粒の一つ一つが図形をかたちづくり、図形を通り抜けていく。押し寄せる波にまかせてかたちは崩れ、自動的に消滅する。描いたものと描かれたものの境界が曖昧になる。理性ではとらえられない無意識。一般的には自然と呼ばれるもの、人間以外のすべてのものの中にすがたがあり、それらの本来のかたちが見出される。
 「それ」がメリッサの手を動かす。メリッサは掌を握りしめた。人は信じていたものが瓦解する時、目の前の現実が完全に崩壊する瞬間、目の前のものにすがって自己を保とうとする。砂の粒と手の痛みを確かめて正気を確認する。爪を立てた対象は柔らかく、一瞬の痛みが走った。血がにじむ。これは誰の手? 自分の手か、もしくは「それ」、そしてレイの手か。わたしとあなたの境界が曖昧になる。
「なぜこれを、わたしに見せてくれるの?」
 メリッサが尋ねると、「それ」は言った。
「私は、全てを失ったこの宿主の生命を維持させることはできた。生活を送るように意識を立て直すことも可能だった。実際、絵を描くことはできた。しかし彼女は、芸術に身を捧げた抜け殻でしかなかった。それがきみと会って変わったのだ。きみを知りたい、きみといたい、きみに伝えたいという感情が増えるにつけ、彼女の意識も変化した、プリズムのように。その過程を知るのは私にとっても喜びだった」
 メリッサは思い出した。
 一緒に過ごすにつれ、さまざまな表情を見せるようになったレイ。
 冷たく隙がなかったけれど、感覚を凍らせなければ生きていけなかったのだろう。
「わたしにとっても同じだわ」
「きみは彼女を生かすか」
 語尾のイントネーションが疑問を示すように上がった。
 レイ、いや、「それ」の冷たい灰色の瞳に、熱い光が宿ったように見えたのは気のせいだろうか。
 メリッサはうなずいた。
「ならば私が彼女の意識をつなぎとめ、支える必要もなくなる」
「あなたはどうするの?」
「私は……」
 そのときメリッサは周囲が震えだしたことを感じた。砂がさらさらとざわめき、海が動き始めた。空気が振動して月の光も揺らめく。しらじらとした光は白亜の岩盤のカテドラルに跳ね返り、そこかしこにプリズムのような色を投げかける。
「彼女が必要としているのはきみであり、きみが必要としているのは彼女だ。私はまた移動しよう。私が知らないものがあり、私が支えることができるところへ」
 次の瞬間、一体何が起きたのか、メリッサには分からなかった。感じたのは自分の中の「それ」が流れ出し、足元にあったはずの砂にすさまじい力がやどり、拡散disして、伝達mentionしあい、その後に力は砂と共に去ったということだ。
 気づくと足元には相変わらず砂があり、そっと触れると小さなくぼみができた。しかしそこにはさきほど描かれた痕跡はなく、見たことのないかたちは知らないところに消えてしまった。
 メリッサはレイの姿を探した。見れば彼女は砂に耳をつけるような形で横たわっていた。体に触れると彼女は起き上がり、メリッサを見つめた。その瞳は灰色で温かみのある光があった。
「何があったかおぼろげに知っているわ。まるで自分自身を草葉の陰から見るようだった」
 レイが言った。
「私を支えていた何かが去った」
「そしてあなた自身が残った。あなたの名前を教えて」
「……レイナ。レイナ・ヤムチェク」
「これからはわたしが支えるわ、レイ、いえ、レイナ」
 メリッサはそう告げると、レイナを強く抱きしめた。
 炎に似た赤い髪が、月の光を跳ね返す。
 「それ」は去った。無限の可能性を残して。
 ここにいるのはあなた、レイナ。そしてわたし。
 
 

 その日のうちにメリッサは、去ってしまった「それ」が砂に描いたかたちを頭に焼きつけ、エスキースに残した。そして物資が乏しい中で巨大な紙を入手し、晴れた日の明け方に海岸近くの広いスペースに広げ、接着要素のある物質を入れた水を紙のさまざまな部分にたらし、乾かぬうちに鉱物由来の顔料、過去に手に入れた東洋の墨、海辺の白い砂を流し込み、思い描いていたかたちが浮き出るように拡散させた。
 無数に点在した紙上の水たまりは、朝焼けの浅い赤色や昼間の底のない青い色、夕方のオレンジ、マジックアワーの紺や群青、黄色や橙などをほのかに映し出す。日が落ちるとメリッサは、作品をアトリエとして使用していた倉庫に運び込んで乾かした。人工的な風で乾かすと、乾燥させた部分の見た目や手触りが均質になってしまうので、彼女はあくまで自然に乾くのに任せた。昼に出して乾かし、夜にはしまい込む、という作業をまる二日間続けたのだった。
 水の軌跡は画材を散らし、ある部分ではメリッサの計算に近い形になり、別の部分では彼女の想像の制約を越えたかたちをうみだした。また、想像のつかないむらや陰影は、見たことがないはずなのに、森の中で岩や木々の肌から見出した模様や、閉じた瞼の奥に見える形にも似て、不思議な既視感を導き出した。そして水によって形の変わった紙面と、顔料や砂が生み出すざらつきは紙の平面性に変化を付与え、人が解釈した遠近法と離れた不可思議な立体感を生み出した。
 メリッサは水の軌跡の塊に対し、油絵具ではなく、水彩や顔料などの精神的な陰影を表現できる素材をつかって加筆し、水がうみだしたかたちを強化し、または溶解させ、時には消滅させながら、レイの中に宿っていた「それ」が見せたかたちを再現しようとした。自然と人とが協力して調和させたフォルムに対し、自然の中の一部である人の手が創造と破壊をもたらしたのだ。
 彼女は紙のさまざまな角度から描き出した。絵は上下や左右が定まっておらず、部分を見ても全体を見ても成立しており、一部から全体像が、全体像から細部を想像することができた。墨の黒の下にマラカイトの緑やアズライトの青、砂礫の白がいりまじり、一つの点、一本の線、一つの色で全体を表現する。そのかたちは吊るされた人間にも、数学的な立体にも、生命の塊にも見えたし、この世のかたちの全てを含んでいるようだった。作品の根底にあるもの、あの砂と共に消え去ったかたちは鑑賞者を魅了し、絵に描かれた要素を支える基盤として働いているのだった。
 ブルトンはメリッサの絵を、理性を離れた自動記述オートマティズムを自然に由来する水と時の経過によって実現し、昇華させたものとして高く評価した。彼は亡命委員の前でやや緊張しているメリッサの前で、洗練された長広舌をふるい、メリッサを気鋭のアーティストとして推薦した。
 彼の言いぶりに圧倒された委員会の中で、ジャーナリストであるヴァリアン・フライは、メリッサの絵の中に潜むシュルレアリスム的なエネルギーと、西洋の地盤と東洋的な要素を混在させた顔料や技法、飼いならされない自然を象徴するかのようなエネルギッシュな色彩に惹かれた。また、空間を占める色彩の強さに対して忍び寄る黒や、絵全体に漂う無秩序は、この時代の狂気と秩序に包まれた悪徳を予測していると評価した。その上で、観客に対し距離を持って鑑賞させるのではなく、見る者を不穏な作品世界に巻き込み、作品の放つ圧倒的な磁場に投げ込む新しいタイプの芸術であると解釈し、力強い推薦文を書いてくれた。結果、メリッサはレイと共にビザを取得することができ、手続きは完了したのだった。
 
 マルセイユを離れる日、空の色は均質な青だった。
 視界に入るのは、空よりも濃い青の海と白い砂浜。
 見送りに来たブルトンに、メリッサは墓地で拾ったカードを見せた。それを見たブルトンは目をぱちくりとさせ、数秒の後、合点がいったようにうなずいた。
「君の、いや、君たちの行く末がこれか」
「これは何のカード?」
「ジョーカーさ。描かれているのはアルフレッド・ジャリの『ユビュ王』だ」
 出発を示す汽笛が響いた。ブルトンはレイナとメリッサを抱きしめ、送り出した。
 
 船が陸を離れた。レイナとメリッサは、マルセイユの街が遠く離れ、点になり、やがてすっかり見えなくなるまで手を振りつづけた。
 二人は理解し、直観していた。「それ」が砂に描いたかたちは、二人の記憶の外では二度と表れることはないことを。すべては水と時が洗い流したのだ。
「私たち、絵を描かなくては」
 レイナの呟きを聞いたメリッサは、深くうなずいた。
 この世界を通り抜けたかたちを再現することはできない。
 ならば、限りある存在、有限の描き手として、前と後ろを見ながら描き残すことしかできないのだ。
 
 いまだ遠い春を呼ぶミストラル北西風が船に吹きつけると、メリッサはカードを手放した。
 囚人にも王にもなりうるジャリのユビュ王が、水平線の彼方に輝きながら消えていく。
 もはや道標は必要ない。見るべきものや伝えるべきことは自分で決める。
 開け放った両の手に、無数の砂塵が飛び込んできた。
 メリッサはその粒をしっかり掴んで握りしめた。決してすり抜けることのないように。
                                           <了>

 

 

◇参考文献
小笠英志『高次元空間を見る方法』講談社、2019年
リサ・ランドール『ワープする宇宙 5次元時空の謎を解く』向山信治監訳、塩原通緒訳、NHK出版、2007年
『ニュートン別冊 次元とは何か 0次元の世界から高次元宇宙まで』ニュートンプレス、2008年
『ニュートン別冊 次元のすべて 私たちの世界は何次元なのか?』ニュートンプレス、2019年
アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』巖谷國士訳、岩波文庫、1992年
アンドレ・ブルトン『ナジャ』稲田三吉訳、現代思潮社、1962年
アンドレ・マッソン『世界の記憶』東野芳明訳、叢書想像の小径、1977年
ミシェル・フーコー『言葉と物―人文科学の考古学』渡辺一民・佐々木明訳、新潮社、1974年
クレメント グリーンバーグ『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄編訳、勁草書房、2005年
佐々木健一『美学辞典』東京大学出版会、1995年
クロード・ランズマン『SHOAH』髙橋武智訳、作品社、1995年

 

文字数:31363

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