こころの耳

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梗 概

こころの耳

血栓形成とそれに伴う脳梗塞発症率が、左心耳閉塞・切除術を受けた群で、受けていない群より有意に低下している、とコホート研究の結果、明らかになった。それ以来、子どものうちに切除を選ぶ親が増えた。切除した左心耳はこの世にたった一つのアクセサリーとなった。左心耳アクセサリーは経済的なステータスシンボルとなり、愛情のあかしとして大切な人に渡されることも多くなった。

施術を受けることのできない人たちは、Lowerと呼ばれ蔑まれた。Lowerと施術を受けたUpperの間に、いつの間にか格差ができた。

武治と明は幼馴染。互いの長所を尊敬しあい、信頼しあう親友だった。しかし、明はUpperで、武治はLowerだった。UpperとLowerがそれぞれに閉鎖的な社会を作り上げる。それでも二人は時折会っては、変わらない友情を誓った。

ある日、謎の飛来物が発見された。隕石のように落ちてくるのが目撃されていた。世の中は騒然とした。果たして、中には数体の地球外生命体がいた。調査は各種の専門家を集めて行われたが、すべてUpperに所属していた。Lowerは専門的な職に就くことができなかった。

あらゆる方法を用いて意思疎通を試みるが、地球外生命体からは何も反応がない。次第に、地球外生命体は危険、と社会全体が排除に動き始めた。明はあきらめきれない。何か見逃している方法があるのではないか。武治が何かいい案を持っているのではないか。

明は武治を内緒で地球外生命体に会わせる。ダメもとで連れていかれた武治だが、彼らの、地球人と交流したいという意思を瞬時に告げる。こんなにはっきりと言っているのに、聞こえないの? と明は言われるが、全く聞こえない。だが、武治の言葉を信じて、専門家集団に伝える。

専門家集団は明の話を一笑に付した。それどころか、武治をLowerだから、と馬鹿にし、明に交流を禁じた。明はその指示に素直に従った。Lowerの武治に聞こえて、Upperの自分に聞こえないことが許せなかった。

武治はLowerの友人を連れて、Upperの専門家に内緒で地球外生命体に会う。心に直接響くその言葉を、友人たちはみな理解できた。

言葉の通じるLowerを相手に、地球外生命体は交流を始める。地球外からもたらされる技術や資源で、Lowerは見る見るうちに豊かになった。Upperは、蚊帳の外。やがて立場は逆転した。

寂れた街はずれで、明は自分の左心耳アクセサリーをもてあそぶ。いつか、友情のあかしとして武治に渡したいと子どものころから思っていた。武治との交流を絶ったあの時の決断を、心底後悔していた。そんな時、武治が周りの反対を押し切って明に会いにきた。左心耳が共鳴器官となって、コミュニケーションが取れた、と種明かしをする。明はアクセサリーを差し出す。もう役には立たないけど、と苦笑いする明の手から、武治はにこやかに左心耳を受け取った。

文字数:1199

内容に関するアピール

心臓の左心耳と呼ばれる部位は、「心臓の盲腸」という不要物の代名詞のような別名があります。機能や役割は分かっていません。血栓ができやすく、それが血流で運ばれて脳梗塞の原因となるため、最近では入り口をふさいだり、カテーテルで切除したり、という処置もしています。

振り返ってみれば、盲腸(虫垂)も昔は不要なものと考えられていて、手術のついでに切除されることもありました。ところが、今では、腸内細菌叢を維持するために重要なリンパ組織であることが分かってきています。同じことが左心耳でもあるかな、と、左心耳塞栓デバイスのニュースを読みながら考えました。

不要だと思っていたものでも、実は機能がわからなかっただけで、無駄なものは一つもない。みんな大切。さらに、経済性の格差は人格の格差ではない、というメッセージも込めました。そして、すべての始まりが、ファーストコンタクト、です。

文字数:381

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こころの耳

ふと、シャンデリアが輝く高い天井を見上げた。
 地球政府の全権大使として、タケハルはヒルド星に旅立つ。出発を二日後に控えたその夜、壮行会と称するパーティが開催されていた。華やかな衣装をまとった紳士淑女が談笑する。地球人初の星間旅行者と一言かわそうと、次から次へとあいさつに訪れる出席者。その波が切れたころ合いを見計らって、タケハルは大広間をそっと抜け、テラスに出た。
 夜の静寂に包まれたテラスは、夜気がひんやりと心地よい。大広間の喧騒がうそのようだ。月の出ていない空に、無数の星が瞬く。しんとした星空を、ぼんやりと眺めた。二日後には、タケハルもあの星空の中を飛んでいる。こうやって地上から星々を眺めることも、しばらくはない。
 地球人類の科学技術では、星間飛行はまだ実現に程遠かった。火星や小惑星帯までの有人飛行がやっと。あの時、ヒルド星からの使者が来ていなければ、タケハルが太陽系を飛び出すこともなかったはずだ。
 ――ヒルド星からの使者。
 その出会いを思い出すと、タケハルの胸は小さく疼いた。忘れたくても、忘れられない、あの日々。
「お兄ちゃん。こんなところで何やってるの?」
 ふいに背後から声がして、タケハルは現実に引き戻された。大広間の明るい窓を背景に、妹の美海(うみ)が立っていた。暗くて表情は見えない。だが、声音に高揚感がにじみ出ている。
「主役様がさぼってていいのかな?」
「さぼってるわけじゃないさ。少し、外の空気が吸いたかっただけ」
「そうだよね。あさって宇宙船に乗ったら、こうやって外の空気も吸うことはないんだし……」
 仕事と子育てに忙しい美海は、この日のために、わざわざ駆けつけてくれた。会うのは久しぶりだ。タケハルの隣で星空を見上げる。吐く息が白い。
「素晴らしいお兄さんですねって、みんな言ってたよ。わたし、鼻が高いな」
 ちらりとむけられた視線を感じた。
「全然素晴らしくもないさ。たまたま、僕がそこにいただけ」
「ほんと。すごい偶然よね。たまたま宇宙人に遭遇しちゃうなんて」
「……そう、だな」
 ――たまたま、か。タケハルは視線を落とした。車に降りた夜露が街灯の光を反射して光っている。今晩は放射冷却で冷える。明日の朝には一面霜が降りているだろう。
「でもね、いまさらなんだけど、別にお兄ちゃんが行かなくってもいいんじゃない? 何とかコミュニケーションは取れて、星間貿易でWin-Winなんだから」
 ヒルド星人は声や文字による意思伝達手段を持たない。身体から発する電磁波を自在に操り、会話を成立させている。
「向こうに行けば、異星人とのコミュニケーション補助装置もあるらしいんだ。……僕は、地球上の誰もが分かり合えるようにしたいと思ってる」
「誰もが、かぁ。お兄ちゃんって、理想主義者だよね」
 ――そんなことはない。だが、それを口に出すことは躊躇した。タケハルの真意は、妹の美海にでさえ、理解してもらえないかもしれない。
「あのさ、小さいときに、すごく仲良しの子がいたよね。あっちに」
 唐突に美海が言った。美海の目が、ちらりと東の方角をさす。タケハルは一瞬の戸惑いを隠すように、明るく答えた。
「ああ、アキラのこと?」
「そう。アキラくん。こっちに来てからも、時々会ってたでしょ。みんなに内緒で」
「子どもの時にはね。……もう、僕のことなんか、忘れてるよ」
「そうかなぁ。もしかすると、アキラくん、会いたいって思ってないかな。向こうにもお兄ちゃんがヒルド星に行くっていうニュースが流れてるはずでしょ?」
 僕がヒルド星に行くっていうニュース……。タケハルは息をのんだ。もし、アキラが知ったら、なんて思うだろう。
「っていうかさ、お兄ちゃんは会いたくないの? アキラくん」
 美海がまっすぐにタケハルの目をのぞき込んでいた。心の中を見透かされている気がして、思わず目をそらした。
「中に戻ろう。風邪ひくよ」
 タケハルは美海の背中を押した。ほんとだね、と言って、美海は自分の二の腕をさすりながら、中へ戻っていった。
 美海の背中を見つめながら、一層激しくなった胸の奥の疼きに、タケハルは耐えていた。かみしめた歯が、寒さでかちかち鳴る。薄く開いた唇からうめき声がこぼれそうだった。
 ――アキラに会いたい?
 タケハルは自問した。会って、どうする? 今頃あいつは、こんな僕を心底軽蔑している。会いに行ったところで……。
 夜露が凍り始めたテラスの手すりを、無意識に握りしめた。
 ――アキラは、今頃、どうしているのだろう。
 意識がそちらに向いた途端、幼い日の思い出が、洪水のようにタケハルの胸に流れ込んできた。その勢いで、窒息しそうなほど。肩で息をしながら、タケハルは問い続ける。このまま、アキラに会わずに、何も言わずに、行ってしまっていいのか? 友人が大勢立ち去る中、たった一人友情を誓ってくれた、あのアキラと。――会わなくっていいのか?
 後ろを振り返れば、ガラス一枚隔てた室内には、きらびやかな現実が広がっている。
 タケハルは東の空に目をやった。豪華な冬の星座がきらめくその下には、あかり一つ見えない平原が続いている。アキラと何一つ疑うことなく友情を誓い合った地。幼い日のかけがえのない友情をはぐくんだ場所。
 一度気づいてしまえば、もう目が離せない。
 出発は明後日の夜。
 何年も会っていないアキラを、探せるはずがない。たとえ、会いたいと思っても。
「もう、無理なんだよ」
 思わず声に出た、吐き捨てるような言葉。勢いよく手すりから身を起こした。タケハルを待ちきれずにテラスに出てきた美海が見えた。ちょっと手を挙げ、タケハルは足早にまばゆい現実に戻っていった。

夜明け前の寒さの底。車の温度計はマイナスだった。
 タケハルは、ひとり郊外の道に車を走らせる。心の底に澱のようにたまった苦い思いから、逃れられなかった。寝ようと思えば思うほど、目は冴えた。
 ――アキラに会って、許しを請うのか。
 もう一人の自分が、何度も問いかける。
 ――もし、拒絶されたら? 会ってももらえなかったら?
 ――それでも、行かなくては。
 無数に寝返りと問いかけを繰り返していくうちに、やがて心は決まった。この気持ちを抱えたまま、ヒルド星に行くことはできない。タケハルは家族に気取られぬよう、静かに家を出た。下弦の月が冷たい光を投げかけていた。遅くとも、日が暮れるまでに戻らないと、明日の出発に間に合わない。外気温と変わらない冷たいシートに身を沈ませ、高速道路を目指して車を出した。
 霜が真っ白に降りた枯野原を、一直線に高速道路が貫く。それは、タケハルとアキラを結ぶ、文字通り、唯一の道。
 タケハルの住むL地区とアキラの住むU地区は、人やモノの交流がなくなって久しい。それぞれの住民に対する反感が、広大な荒野を境に、今でも存在する。時間がたてばたつほど、強まったといってもいい。
 二人の住む場所が離れてからも、周りの目を盗んで行き来したあの頃は、農道のような普通の道だった。バスが日に何本かは通り、利用する人も少なからずいた。その後、高速道路をL地区が建設した。だが、U地区は使用を拒み、やがて、L地区の人々もその存在を忘れるようになった。あたかも、それぞれの地区が存在しないかのように、人々は暮らしているのだった。
 東の空が明るくなってきた。あたりがだいぶ見えるようになる。一面の灌木地に真っ白に霜が降りている。
 アキラとの幼い日々が、タケハルの心に去来する。十五歳でL地区に引っ越したタケハルは、アキラに度々呼び出された。ちょうど、このあたりだ。隠れる必要なんてない、というアキラの言葉に、でも……、と難色を示したタケハルに気遣い、低木が視界をふさぐこの場所が選ばれた。
 そのころ、タケハルは差別される側の人間だった。

予防医学が隆盛を極め始めたころ。脳梗塞の発症を抑えようと、一部の人たちが「左心耳」と呼ばれる心臓の一部を切除し始めた。大規模な疫学調査で、左心耳の切除を受けた人々の脳梗塞発症率が低下している、と明らかになったからだ。
 そもそも、左心耳はその働きや生物学的機能が不明で、切除しても差し支えない、という部位だった。機能が分からないのに、そのままにしておくと血栓ができやすい。その血栓がはがれると、血管を通って脳に飛び、脳梗塞の原因となる。それならば、と左心耳の入り口を閉じてしまう閉塞術や、手術でとってしまう切除術が行われていた。
 やがて、子どもや孫が小さいうちに切除術を受けさせてしまう人たちが現れ、経済的に余裕がある家庭では、普通になった。予防医療には保険がきかない。子どもに切除術を施すことができるかどうか、が、明白に経済状況を物語った。
 タケハルが中学生の時、アキラが切除術を受けた。アキラだけではない。クラスのほとんどが、左心耳を切除していた。彼らは、切除した左心耳をアクセサリーにして身につけていた。
 それは、「左心耳アクセサリー」と呼ばれる、この世にたった一つのアクセサリーだ。切除された約三×五センチの左心耳は、丸ごと、あるいはいくつかに分割され、丁寧に処理された後、硬化ガラスに包埋された。赤くつるりと輝く不思議な質感を伴ったアクセサリー。誰が始めたのかは定かではないが、やがて、左心耳アクセサリーは経済的なステータスシンボルとなり、愛情のあかしとして大切な人に渡されることも多くなった。
 クラスの中では、左心耳アクセサリーをおおっぴらに見せびらかすものが多かったが、アキラは違った。切除術をした、とアキラはタケハルにそっと耳打ちをした。
「タケハルにだけ、見せたいんだ」
 アキラはカバンの奥からそっと箱を取り出した。開けて取り出したアキラの左心耳は、夕日を浴びて赤く輝く。
「これが、俺の心臓の一部」
「切っても、大丈夫なの?」
「役に立たないんだって。かえってそのままのほうが、悪さをするって言われたから」
 別にそのままでもよかったんだけどさ、というアキラの言葉を耳にしながら、その赤い輝きにタケハルは複雑な思いを抱いた。
 成績がよく、誰からも好かれるアキラは、タケハルの自慢の親友だ。二人で勉強に励み、競い合うことが、何よりも楽しかった。ただ、その赤い一片の臓器を目にしたとき、タケハルには、二人の間で、何かが変わる音が聞こえた。何か、大切なものが失われたような、そんな音……
 また明日、と言って別れたアキラの背中を、タケハルは見えなくなるまで目で追っていた。
 左心耳切除術を受けることのできない人たちは、いつしかLowerと呼ばれ蔑まれていた。施術を受けた人々はUpper。子どもたちの中でも、いつの間にか格差が表面化する。タケハルもアキラも、気づいていた。だが、気づかないふりをして日々を過ごした。
 切除術について、タケハルの家庭では一切話に上らない。切除術を受けていない友人も数少なくなった。朝から晩まで働き詰めの両親に切り出せば、困らせてしまう。タケハルは焦る気持ちを抑え込んで、学校に通った。
そんなある朝。
 タケハルが机の中に教科書をしまおうとしたとき、手がこつんと何かにあたった。冷たい、つるんとした感触。一端にひもがついている。するすると引き出してみれば、手のひらにすっぽり収まる赤い輝き。
 ――これは?
 心臓が、ドクン、と鳴った。なぜこれが僕の机に?
 立ち上がって、後ろを振り返ろうとした、その時。
「なんでお前がそれを持ってるんだ?」
 野太い声が、降ってきた。
「ゼンジ……」
 声の主はずかずかと近づき、タケハルの手のひらに載っている赤いガラスを指さした。
「ユウイチのアクセサリーがなくなって、探してたんだ。まさかと思ったけど、お前がとったな」
「まさか! どうして僕が……」
「持ってないの、お前だけだろ。このクラスで。……なあ、出来心だったんだろ。触ってみたかったんだろ。なら、土下座して謝ったら、許してやってもいいぜ」
 教室の後ろで遠巻きにしている女の子たちが、くすくすと笑った。ゼンジは片方の唇をゆがませて笑い、その視線にこたえるように親指を立てている。教室の廊下から、がやがやとのぞき込む他のクラスの生徒たち。見る見るうちに、観客は増えた。
 タケハルは混乱していた。ゼンジの勢いに気圧されて、突然の出来事で、頭の中は真っ白だ。左心耳アクセサリーを、思わず握りしめた。
「返せよ! どろぼう」
 ゼンジが怒鳴った。外野が一斉に笑う。
 ――僕は取ってない。
 だが、口の中はカラカラで声も出ない。どうしたら――。
「やめろ!」
 人ごみをかき分けて、大声をあげながら、アキラが飛び込んできた。タケハルをかばうようにゼンジの前に立ちはだかる。
「お前ら、冗談にもほどがある。何が面白くって、こんなことをするんだ!」
「なんだよ、アキラ。いいところなんだ。口を出すな」
 ゼンジはアキラの肩に手をかけ、横に払おうとした。アキラはその手をつかみ、ねじり上げる。思わぬ反撃にゼンジはひるんだ。そのすきに足を払い、重い響きをたてて、ゼンジは床に転がった。
「アキラ……」
 やっと出た、か細い声。振り返ってアキラはうなずく。
「ばか。なに騙されてるんだ」
 そういって、笑った。
 駆け込んできた教師によって、事の真相は明らかになった。タケハルの無罪は証明され、ゼンジを首謀者とするグループは、きつくお仕置きを受けた。
 だが、この事件はタケハルの心に大きな傷を残した。タケハルだけではなく、今まで普通にふるまっていたクラスメートにも、大きな影響を与えた。そして、いつしか集団のいじめに発展した。
 何気なく話しかけても無視をされることが多くなる。「Lとは話さない」とあからさまに言い、背中を向けるものもいた。気がつけば、広い教室の中でタケハルは一人になっていた。
 アキラだけが、普通だった。
「タケハル、帰るよ!」
 大声で廊下からアキラが叫ぶ。救世主がきたわね、と隣の子がクスリと笑った。見れば軽蔑のまなざしを浮かべている。悔しくてかんだ唇から、血の味がした。
「お前とは、ずっと親友だから。……何がUだ。……何がLだ!」
 学校では冷静なアキラが、隣を歩きながら、怒りをあらわにする。タケハルは、何も言えなかった。アキラの憤りは、当然だ。切除術を受けた、受けないで、人は何が変わる? 何も変わらない。家に少し経済的な余裕があるかどうか。なのに……。それだけの差が、差別の原因になるんだ。
 アキラのいつもと変わらない態度はありがたい。なのに、なぜか、今まで対等な親友と思っていたアキラが、少しだけ、遠く感じられた。その態度を恩着せがましいと感じ、いらだつ自分がいた。
 タケハルの高校進学を機に、両親が引越しを決断するまで、時間はかからなかった。タケハルの受けているいじめが決定的だった。それがなくても、差別的な動きは大人の世界ではより顕著で、切除術に反対する(いつの間にか「反対する」とされていた)人々は先を争って、郊外の新興住宅地に移動した。移住した人々は、その場所を自虐的にL地区と呼んだ。
 その後、数年をかけて、UpperとLowerはそれぞれに閉鎖的な社会を作り上げる。それでもアキラは時折タケハルを呼び出し、変わらない友情を誓った。二人きりなら差別も感じない。何も変わらない幼馴染のアキラに会うのが、待ちきれなかった。タケハルが何よりも大切にしていた時間は、大人になってもずっと続くと信じていた。

タケハルの向かう先に、朝日が上った。調光フロントガラスが即座に反応し、太陽は輪郭だけを残してまぶしさを失った。右側前方に、朝日を受けてそびえ立ついくつものタワーが目に入る。その中心から上に伸びるのは、宇宙船に続く昇降用の宇宙エレベータ。明日、タケハルはこの宇宙港から異星に旅立つ。
 訓練や準備で何度も通った道は、ここまで。これから先は、タケハルが何年も足を踏み入れていない、だが、心の中で、何度も通った場所。瞬時に後ろに流れる宇宙港を視界の端に捕らえ、さらにアクセルを踏み込んだ。
 荒野の中に開発された、地球上で唯一の恒星間飛行用の施設。それは、ファーストコンタクトの地でもあった。
 タケハルがL地区に移って間もなく、大きな火球が目撃された。火球は燃え尽きることなく、荒野に落下したのではないかとうわさが広まった。その場所はU地区との境界で、一般の立ち入りは制限され、いつしか人の口にも上らなくなった。
「ちょっと見せたいものがある」
 アキラから、突然の連絡があった。どちらの学校も、試験で忙しい時期。なにか、あったの? と理由を聞いた。
「どうしても、意見を聞きたい。だけど、他言は無用。試験勉強とか何とか、うまく言い訳して、来てほしい」
 アキラにしては珍しい誘い方で、タケハルは首をかしげた。よほどのことかもしれない。翌日にはアキラの指定した場所に、一人向かっていた。夕暮れが迫った灌木の生い茂る場所で、人目につかないようにアキラは待っていた。
「どうしたの? こんなところで」
「いいから。こっち」
 タケハルの手を引き、アキラは走る。こんな林の中に何が……とタケハルが口を開きかけた時、目の前に現れたのは、コンテナを繋いだような金属製の四角い建物。
「これから見るものを、誰にも言わないで」
 アキラは手にしたカードキーをドアにあてながら、タケハルに念を押した。スッと開いたドアの中は、暗く、何も見えない。タケハルはつばを飲み込みながら、ゆっくりとうなずいた。
 アキラに続いて中に入ると、薄暗い照明が細長い廊下を照らしている。進む先から、照明の照度が上がって、中の様子がはっきりと見えた。細長い建物が周りを囲んで、中庭がある。そこに、ところどころ茶色く焦げたような灰色に鈍く光る何かがあった。大きさは、学校のプールぐらい?
「あれは、……何?」
 思わず足を止めて、アキラに聞いた。同じようにその物体を見つめながら、アキラの口から出た言葉に面食らって、タケハルはその意味を即座には理解できなかった。
「……宇宙船」
「え?」
 棒立ちになったタケハルの手を、アキラは引っ張る。無言で先へ先へと急ぐアキラについていこうとしながらも、タケハルの足はもつれた。廊下が中庭を取り囲むように折れて、その先に銀色のドアが現れた。アキラが、ドアに手をかける。タケハルを振り向いた目は、真剣な光を帯びていた。いいね、とアキラの唇が言った。
 一気に開けられたドアの向こうに、何かがいた。
 『それ』はゆっくりとこちらを向き、――目が合った。
 血の気が引いた。叫び声を必死で押さえた。自分の目にしたものがなんなのか、アキラの背中に思わず隠れながら、タケハルは必死に頭を回転させた。
「大丈夫。なにもしないから」
 アキラは静かに言った。
「初めて見たときには驚いたけど、大丈夫なんだ。何もしない」
 アキラは繰り返す。タケハルを落ち着かせるように、何度も。
 いつもと変わらないアキラの態度に、タケハルも冷静さを取り戻し、ゆっくりと『それ』に向かい合った。
「たぶん、どこかの宇宙から地球に落ちてきた、宇宙人」
「宇宙人? 本当なの?」
 地球上の生物とは似ても似つかない姿。うごめく『それ』の頭部に開口した黒く濡れたビー玉のようなもの。おそらく、それは目なのだろう。タケハルとアキラをじっと見つめているようにも思えた。
「火球が落ちてきただろ? あの後、専門家が調査に来て、見つけたんだ」
 専門家が? L地区では、そんな話も出なかった。そもそも、専門家がいない。タケハルはいまさらながらにU地区との差に愕然とする。その気持ちは伝わらず、アキラは淡々と説明を続けた。
「宇宙船と、この宇宙人。全部で五体、いる」
 そういわれてよく見れば、広い部屋の暗がりに、同じような姿をした『それ』が数体。
「何か、わかったの? どこから来たとか」
「ぜんぜん。専門家もお手上げなんだ。どうやってコミュニケーションをとっていいかも、わからない。……U地区では、うわさがうわさを呼んで、今では排除の方向で話が進んでいる」
「排除?」
 アキラの顔が曇った。
「地球人に害を与えるかもしれない。病原体が持ち込まれるかもしれない。侵略が目的かもしれない……。最初は希望的観測もあったんだけど、何も意思疎通ができないとわかると、SF映画みたいなことばっかり心配して、それなら、殺してしまえ、と」
 アキラの話を聞きながら、タケハルは胸を押さえた。なんだか、胸が、痛い……?
「アキラ、ごめん。……ちょっと苦しくって」
 脂汗がにじむような、えも言われぬ感覚に、タケハルはひざを折った。大丈夫? と背中をさするアキラの手。その感覚が薄れて、次第に頭の中で何かが響く。これは……?
 タケハルは顔を上げた。『それ』の視線がタケハルをとらえている。
「は、はなしを、したい……?」
「タケハル!?」
 アキラの手をつかんで、ゆっくりと立ち上がった。わかった。この胸の苦しさ。この頭の中の響き。タケハルは『それ』を見つめながら、言った。
「僕たちと、話がしたいんだね?」
「なんだって!?」
 タケハルはアキラを見た。大きく見開かれた目。
「話したいって、言ってる? タケハルには、わかるの?」
「わかる。胸から、たぶん伝わるんだ。そのまま脳に。耳じゃなくって」
 やっぱりタケハルを連れてきて、よかった! 喜ぶアキラと二人で、『それ』=ヒルド星人の話を聞き取った。
「調査隊に伝えるよ。――でも、タケハルを連れてきたってことは、内緒なんだ……」
「わかってる。アキラがうまくやってくれれば、それでいいよ」
 また報告する、とアキラは約束をして別れた。宇宙人との懸け橋になれる、と二人の心は踊った。
 すでに日は暮れていて、満天の星空を仰ぎながら、バスを待った。
 僕にはあれほどはっきりと聞こえたのに、アキラには何も聞こえなかった。おそらく、調査にあたった専門家も。――何が違うんだろう。タケハルはぼんやりと考えていた。
 アキラからの連絡は、すぐに来た。
「だめだ。みんな、信じてくれない。もう、排除しかないって……」
 アキラの声に悔しさがにじんでいる。
「もう一度、僕が立ち会ってみたら? そしたら、わかってくれるかもしれない」
「……ごめん。……タケハルがわかったって、言ってみたんだ。……そうしたら」
 アキラの声が、詰まった。
「Lの言うことなんて、信用できない。……もう、二度と会ってはいけないって」
「うそだろ!? 会ってはいけないなんて、そんなこと、誰が」
「しょうがないんだ! 何度も何度も、説明したんだ……」
 アキラの声が、次第に小さくなっていった。
 宇宙人を助けたいというアキラの気持ちは、痛いほどわかる。それだからこそ、目を盗んで僕をあの場所に連れて行った。だけど、僕が宇宙人と話ができる、というと、アキラが疑われる。……アキラを困らせたいわけじゃない。アキラを助けたい。ずっと親友でいてくれたアキラを、いじめから救ってくれたアキラを、今度は、僕が、助けたいだけなんだ。タケハルはそっと電話を切った。
 ――アキラが困るなら、僕が行こう。

荒れ果ててスラム街のようになったU地区の入り口で、タケハルは車を止めた。
 子どもの頃、よく遊んだ公園の前。夕暮れが迫ると必ず声をかけてくれた交番が、色あせたまま、まだ使われている。見慣れない制服に身を包んだ警官が数人、せわしなく行き来している姿が目に入った。
 タケハルは公園を横に見て、住宅街につながる道を歩く。公園に隣接している建物は、タケハルとアキラが通った中学校。正門から校舎に続くアスファルトの道は、街路樹がすべて葉を落として、青空に寒々と枝を伸ばしている。
 かつての自宅ではなく、反対方向のアキラの家を目指して、タケハルは足を進めた。そこにアキラが住み続けている保証はない。焦っているわけではないのに、いつしか歩みは早くなった。
 よく遊びに行った、懐かしいアキラの家。どうか、そのままありますように。
 タケハルの祈りはむなしく消えた。手入れの行き届いた、こぢんまりとした瀟洒な家は跡形もなく、無機質なビルになっていた。入り口の前で、途方に暮れた。
「……何か、御用でしょうか」
 立ちすくむタケハルの様子を見てだろうか、中から若い女性が出てきた。聞いても、わからないかもしれない。だけど、ダメもとでも。ちょっとした手掛かりでもあれば……。
「人を、探しているんです。ここに建っていた家に住んでいた……」
 女性はまじまじとタケハルの顔を見た。
「もしかすると、タケハルさん、ですか? ヒルド星に行くっていう……」
「え? どうして、それを……」
「そこの中学校の出身だって、みんな知っています」
 そうなのか。タケハルは肩を落とした。みんな知っているなら、アキラも、きっと……。
 ありがとうございました、と小さくつぶやき、タケハルは踵を返した。足が重い。地面に吸い付いて離れたがらない靴を、無理矢理引き離すようで、ひどく疲れた。夕べもほとんど寝ていない。アキラに会おうなんて、虫のいい話だったのかもしれない。
 無意識に歩き回り、やがて広い河原を見下ろす自然堤防に出た。よく、アキラと自転車で走り回った道だ。日が暮れるまで、何も考えずに精いっぱい遊んだあの頃が懐かしい。
 とぼとぼと歩くタケハルの背中に、聞き覚えのある野太い声がかかった。
「何しに来たんだ」
 振り返れば、忘れもしないゼンジのふてぶてしい顔が、にやにや笑っている。そのほかに三人、ガラの悪そうな連れがいた。
「お前が地球代表だって? 笑わせてくれるよ。盗人の分際で」
 中学校での光景が、目の前に鮮やかに浮かぶ。タケハルの手のひらで光っていた、赤黒いアクセサリー。土下座をしろという、ゼンジのゆがんだ笑い……
「僕は何も取ってない」
「取ってない? 嘘つけ。取っただろ。……宇宙人を、俺たちから横取りしたのはお前じゃないか」
 ――横取り?
 そうじゃない。僕は、彼らを救っただけだ。殺そうとしていたお前たちから!
 しかし、その叫びは声にならなかった。
 タケハルが呆然とした一瞬、背中に衝撃を感じた。いつの間にか背後に回った誰かが、突き飛ばした。よろめきながら振り返ろうとするタケハルの胸倉を、ゼンジが驚くほどの強さでつかみ、投げ飛ばした。地面に背中をしたたかに打ち、息ができない。そのまま、左右から蹴りが入った。
「お前らLowerが宇宙人を独り占めにしたせいで、こっちはひどいありさまだ」
「宇宙人から欲しいだけ恩恵を受けて、自分たちだけ裕福になりやがって」
 口々にののしる。
 そんなはずはない。お前たちが聞く耳を持たなかっただけじゃないか。せっかく作った高速道路も使わずに、助言にも見向きもせずに……。心の中で、何度も反論した。しかし、抵抗することも、逃げることもできない。タケハルはもてあそばれるがごとく、散々に打ちのめされた。最後の一蹴りが、タケハルを土手の上から河原に転がり落とす。真っ青な空がぐるぐると回り、タケハルの意識は飛んだ。
 冷たい風に吹かれて、さらさらと枯葉のこすれあう音がする。目を開ければ、タケハルは黄金色の枯れ草の間に横たわっていた。身体を動かせば、鋭い痛みが走る。どれぐらい気を失っていただろうか。太陽は西に傾き、短い一日は終わりを告げようとしていた。
 やっぱり、ダメだった。
 大きなため息を一つ。
 ――アキラには、会えなかった。
 夕焼けの空が、不意ににじんだ。このまま、戻らずにいたっていい。ヒルド星に行かなくったって、もういい。今まで感じたことがないぐらいの失意の底で、タケハルは立ち上がる気力を見つけられずにいた。
 ざぁっと枯れ草を押し倒して強い風が吹き、太陽の暖かさが失われていく。タケハルはゆっくりと目を閉じた。
 がさがさと枯れ草を踏む音が聞こえた。堤防の上から誰かが見つけて近づいてくるのかもしれない。頼むから、ほっといてくれ……
「……タケハル」
 その声に、反射的に飛び起きた。
「……アキラ」
 夕焼けに長い影を引いて、アキラが立っていた。タケハルを見ると、子どものころと変わらない屈託のない笑顔になった。
「そんなところで寝っ転がって、なにやってるんだ」
 目を見開いて硬直したタケハルの隣に、ゆっくりと腰を下ろした。笑みが消えてみれば、大人になって、精悍さの増したアキラの横顔。本当は、ずっと会いたいと思っていた……
 言いたいことは山のようにある。ありすぎて、どれから話していいのか、タケハルは混乱する。ちらりとアキラの視線がタケハルをとらえた。
「ヒルド星に、地球の代表としていくんだって?」
 感情が全く込められていない、アキラの言葉。タケハルは答えに詰まった。それはそうだ。僕は、アキラを裏切ったのだから。心に秘めた目的を、アキラに言ったら、わかってもらえるだろうか。それとも、ただの言い訳と、切り捨てられるだろうか。
「……それは」
 やっとの思いで口を開いたタケハルを遮るように、アキラが続けた。
「俺は、誰が何と言おうとタケハルを誇りに思うよ」
 力強く言い切った。言われたタケハルが動揺を隠せないほどに。
「当り前じゃないか。最初に星間飛行をするのが、タケハルだぞ。俺の親友だって、みんなに……」
 途切れた言葉を追って、アキラを見た。腕で目を押さえ、肩を震わせて、アキラは泣いていた。
「アキラ……」
 遠くから吹いてくる風の音だけが、あたりに響いた。東の空に、夜の気配が漂ってきた。戻らなければいけない時間は、すでに過ぎている。でも、ここで言わなければ、僕は永遠に後悔する。タケハルの決心とアキラの反応は、同時だった。
「ごめん」
 思わず顔を見合わせた。二人の口から出た言葉が、同じ「ごめん」だったことに、一瞬戸惑い、そして。
言葉よりも先に、身体が動いた。お互いの肩をしっかりと握り、額を打ち合わせた。ゴツン、と鈍い響きが伝わる。こうやって、子どものころに何度も頭を突き合わせた。手加減なしだったから、頭にこぶができることもしばしばだった。……久しぶりの、感覚。
「ごめん」
 手を放して、タケハルはもう一度、はっきりと言った。言わなくても、わかりあえている。だけど、言いたい。きちんと言葉で、今までの誤解を解いて、そして僕は先に進みたい。
「僕が、ヒルド星人を見つけたってことになってる。アキラに連れられて行ったって、……言えなかったんだ。ごめん」
「それはこっちのセリフだ」
 アキラがゆっくりと答えた。
「タケハルがヒルド星人の言ってることを教えてくれた時、俺は、無性に嫉妬した。タケハルの、その能力に。……なぜなら、タケハルはLowerで、……Upperの俺より、……劣っていると思っていた。悪い。だけど、抑えきれなかったんだ」
 アキラは唇をかみしめ、下を向いて肩を震わせていた。
「だから、大人たちがタケハルと会うのを禁止した時、心底ほっとした。……タケハルにできて、俺にできないことを、認めたくなかったんだ」
「そんなこと」
 思いもしなかった、と言おうとして、やめた。僕はどうだったか。そうだ。アキラに左心耳アクセサリーを見せてもらったとき、差別される僕に普通に接してくれた時、心の奥底で、何を思った? 感謝すべきアキラの振る舞いに、悪意さえ抱いていなかったか。立場が違っても、それぞれに苦しんだ妬みの感情を、アキラは素直に口にした。それを否定したら、自分の心も否定することにならないか。
 タケハルは、空を見上げた。いつの間にか暗くなって、かなりの数の星が瞬き始めている。明日の今頃は、旅立っているはずの、星空。
 意思疎通に言葉に頼る地球人と、言葉に頼らないヒルド星人。最初は、どうしてこんなに便利な言葉を発達させなかったのか、と不思議に思った。言葉があれば、必要なことをすべて明白に伝えられる。ずっと、そう思っていた。だけど、伝えられるのは、建前ばかり。本心は、意識しないと伝わらない。発した言葉を受け取る心の持ちようで、意味はいくらでも変わる。実際、言葉があるからと言って、本当の気持ちが伝わっているとは限らない。よっぽど、ヒルド星人の意思伝達方法のほうが、うそがない。だから、ヒルド星に行って、異星人とのコミュニケーション補助装置を手に入れたいと、タケハルは思ったのだ。
「言葉は、万能じゃないよね」
 ぽつりとつぶやいたタケハルに、アキラが顔を上げる。
「言葉を持たないヒルド星人は不便だと思ってたんだ。僕たちは、言葉があるから、容易に分かり合えるって」
「……わかりあえる、か。難しいよな。本心を告げるって、言葉にするって、すごく難しい」
「僕も、アキラを妬ましく思った。だけど、言えなかったんだ。それを認めたら、僕自身がみじめになってしまいそうで。……何ともないふりをして。僕をかばってくれるアキラに気付きながら、それを認めるのが、いやだった」
 言葉にすれば、心の奥底にわだかまっていたしこりが、消えていくのを感じる。一人じゃない。アキラも同じように感じていた。いったん口に出してしまえば、こんな簡単なこと、と思う。
 タケハルには、まだ、アキラに言っておきたいことがある。なぜアキラには聞こえないヒルド星人の声が、タケハルに聞こえたのか。地球を旅立つ前に。
「アキラと僕の違い。それが、ヒルド星人とのコミュニケーションのカギだった」
 いぶかしげに目を覗くアキラにうなずいた。
「アキラが、U地区の人たちが持っていないもの」
 タケハルは左胸に手を当てる。
「左心耳」
「え?」
「ヒルド星人が発する一種の電磁波を、左心耳が感知した。それが直接脳に響いて、僕たちはヒルド星人の意志を感じることができたんだ」
「左心耳に、そんな機能が……」
 アキラは左胸のシャツを、ぎりりと握りしめる。
「ヒルド星人が来なければ、ファーストコンタクトした宇宙人がほかの星から来ていたら、左心耳はきっと役に立たなかったよ。たまたま、なんだ。それは」
「とんだ偶然だな」
 タケハルは、小さく笑って下を向いた。それから、もう一つ、言わなければならないこと。
「アキラがヒルド星人を救いたいって言ってたから、僕は代わりに何とかしたかった。あのあと、仲間を連れて、宇宙船に忍び込んだんだ。そのあとは、ヒルド星人の指示ですべてうまく事が運んだ。そして、……L地区の人たちに言ったんだ。僕が、偶然、彼らを見つけたって」
「そうだったのか。……でも、それでよかったんだ。あのままだったら、間違いなく彼らは殺されていた。聞く耳を持たないU地区の大人たちにね」
 アキラの声には皮肉が込められていた。それは、タケハルにではなく、話の分からないU地区の人々に対してであり、それ以降、アキラは彼らに迎合することなく、孤独に過ごしてきたことの表れでもあった。
「だけど、ヒルド星の人たちには、わかってる。アキラが彼らを助けたいって思っていたこと。僕たちの気持ちが、彼らの共鳴器官に伝わるんだ。……建前ではない、本当の気持ちが。幾度となく、アキラに会いに行ったらって、僕の背中を押してくれたんだけど。変なものだよね。自分の本当の気持ちを他人に言われると、顔をそむけたくなったり」
 タケハルはアキラの顔をじっと見て、続けた。
「ここにきても、会ってもらえないんじゃないかって。それが、こわかったんだ。……僕は弱くって」
「強いさ。俺よりも、誰よりも。タケハルは強い。……だから、行くんだろ? 誰もが言葉に頼らずに分かり合えるように、その方法を求めて、ヒルド星に」
 アキラは胸のポケットに手を入れた。ゆっくりと取り出したそれは、いつの間にかともった街灯の光を受けて、弱々しく赤く輝いた。
「それは……?」
 タケハルが目の前に掲げられた輝きに、釘付けになる。
「俺の、左心耳」
 アキラの手が、タケハルに向かって伸びた。受け取れ、と言外に告げられているようだった。
「昔、このアクセサリーを大切に人に贈ることがはやったよな。俺は子どものころから、お前にあげたいって思ってた。かけがえのない親友に、俺の心臓の一部を持っていてもらいたかった。……それは、今でも変わらない」
 真剣なアキラなまなざしが、ふと、ゆるんだ。
「とはいっても、もう、役には立たないけど」
 苦々しい笑みを浮かべて、アキラは手を引いた。左心耳が、所在なげに揺れている。
「だから、タケハルに会わないと決めた、あの日の自分を、……許せなかった。大切なタケハルとの友情よりも、ちっぽけな自尊心を優先したことを」
 悔しさをにじませながら、大きくため息をついた。タケハルはアキラの手にする左心耳アクセサリーに視線を落とした。アキラの、大切な心臓の一部。役に立たないからと切り取られて。自然とタケハルの手が伸びた。アキラがいぶかしげに見つめる。
「僕がもらう。……アキラの、大切な心を」
 アキラが、心なしかほっとした表情に変わった。タケハルの手に渡った左心耳アクセサリーが、星の光を浴びてきらりと光った。

翌日。タケハルの出発の日。
 抜けるような青空に向かって、タケハルはゆっくりと宇宙エレベータで上昇する。見渡せば、広大な荒野の向こう、アキラがいるU地区が見えた。じっと目を凝らす。西に傾いた陽に、伸び放題のススキが揺れる。その一角で風に吹かれながら、上昇する宇宙エレベータを見上げるアキラが、タケハルには見える。
 会いに行って、よかった。
 タケハルは左胸にそっと手を添えた。胸ポケットにはアキラの左心耳アクセサリーが忍ばせてある。
 言葉を持つがゆえに、本心が伝わらない不自由さ。長い間、苦しんで、苦しんで。今やっと、開放された。心の底から湧き上がる幸福感に、全身が震える。
 ――行ってくるよ。
 帰ってきたら、また会おう。東の空に向かって、タケハルは微笑んだ。

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