君の声は聞こえるけれど、君には僕の声が聞こえない

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梗 概

君の声は聞こえるけれど、君には僕の声が聞こえない

 サイエンスライターの信介は、電波望遠鏡まで取材に行くことになっているが、気が進まない。取材先の知的生命体探査の責任者、愛華に会いたくないからだ。というのも、卒業式の日に告白したのだが、返事をもらえていなかったからである。再会しても、愛華は信介の告白のことを覚えていない様子だ。そして、愛華からオフレコであることを条件に、エイリアンからのメッセージを受信したことを知らされる。そして「返事をするべきかどうか、ファーストコンタクトを公表するかを、迷っている」と告げられる。

 心乱れたまま帰宅する信介。突如、屈強な男たちに肩を叩かれ、高級車に連れ込まれる。中にいたのはかつての親友、優希だった。彼は今、防衛省のキャリア官僚だそうだ。その彼が、立場を危うくすると知りながら信介に接触をはかった。というのも、エイリアンについての情報の信憑性を確認したかったからだ。信介は、ためらいながらも安全保障を考え、「少なくとも愛華はそのことを信じているらしい」とだけ答える。そのお礼だ、と優希は冗談半分に告げる。「愛華は俺のことが好きだったらしい。でも、俺はその思いに応えられなかった」と。信介の頭に、「僕に告白の返事ができなかったのはそのせいだったのでは」という疑惑が浮かぶ。

 翌日、愛華から連絡が来る。どうやら、身辺を探られていると気づいたらしい。エイリアンへの返事が許されるかどうかはがどうあれ、事実を公表する方がいい、と信介はアドバイスするが、彼女はまだためらっている。彼女はぜひエイリアンに返事をしたいのだが、国から止められるのが怖いのだ。愛華の煮え切らない態度に、返事を保留された怒りを思い出した信介は、冷たく電話を切る。

 どうすべきかを考えているうちに、また優希に会う。今度はホテルの一室で二人きりだった。愛華の様子を尋ねる勇希に、信介はぶっきらぼうに答えてしまう。親友だと思っていた彼の、愛華を巡る恋のライバルとしての面を知ってしまったからだ。そして、さっさと愛華とくっついてしまえばいい、と冷たく告げる。その言葉に、優希は傷ついた様子だった。そして、驚いたことに、優希が信介に恋愛感情を持っていたことを告白する。

「正確には恋愛かはわからない。ただ、気の強い愛華と一緒にいるよりは、お前と一緒に入るときのほうが安らげる」。そう告げられて困惑する。「返事を待ってくれ」と思わず言って去るが、「このままでは愛華と同じように保留にしたままではないか」と気づく。

 信介は悩んだ末、「優希とは親友でいたい」と穏やかに告げる。「だから優希も愛華に明確に断るべきだ」と告げる。そして愛華は、優希から振られたせいか、信介の想いを受け入れる。さらに、エイリアンに返事をするかどうかは、公開された議論の末に決めるべきだ、と受け入れる。愛華が急いで返事がしたかったのは、優希からの返事が待ち遠しい余りの投影だったのだ。

文字数:1197

内容に関するアピール

 三人の人物が、円環を描くように片思いをしているお話です。信介は愛華が好きで、愛華は勇希が好きで、勇希は信介が好きです。そして、誰もが互いの好意の告白に対して、明確な答えを与えていません。

 ファーストコンタクトものとしては、向こうからの接触に対して、そもそも答えるべきかどうかがテーマになります。これに、相手からの好意に返事をするのが難しいときにどう振る舞うか、が二重写しになります。

 最近、SF的な設定を構築することと、科学的事実の正確性にばかり夢中になり、物語面がおろそかになってきたため、人間ドラマでお話を進めていこうと考えています。学生時代の片思いが今の人間関係に影を落とす、甘酸っぱい話にしていくつもりです。

文字数:309

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君の声は聞こえる。僕の返事は届いただろうか。

 信介が廊下を走っても体を壁にぶつけることがなくなったのは、彼が月面に到着してから三日目のことであった。これはかなりの好成績だといってよい。運動神経がよくても、たいていは地球の六分の一しかない重力に戸惑い、身のこなしがぎこちなくなるからだ。壁は比較的柔らかな素材でできているとはいえ、月面基地で走り回ることは体育館を除いては推奨されていない。そんな注意事項を守れと廊下に張り出されているのは、まるで小学校ではないか、などという常識的な声もあるのも事実ではあるが、何か新発見をするたびに廊下を駆け抜けていく姿は一日に一人は見かける。

 そうした批判的な意見など意に介さず、他ならぬ信介が朝一番で居室を飛び出して会議室に向かったのは、緊急のミーティングの知らせを受けてジャーナリスト魂に火が付いたからである。彼はサイエンスライターであったのだが、高い競争率を潜り抜けて初めて月を訪れたライターだ。そこで彼は一か月かけて月面の日常を連載することになっている。そんな中の緊急のミーティングである。興奮しないはずがない。何か面白いことが起きたに違いない、と彼は期待していた。

 しかし、目の前で自動ドアが開くと信介は身を固くした。そこに立っていたのは高校の同級生、愛華だったからだ。

 まさかそこに彼女がいるはずがない、というのが最初の印象だった。そもそも、彼が到着した初日に各部署にあいさつに回ったが、彼女の姿など見かけなかったし、そんな可能性を検討したこともなかった。しかし、考えてみればありえない話ではない。月面基地は地球の昼夜のリズムに縛られていない。各自が交代で睡眠をとっている。当然、一度のあいさつで全員の顔を確認できたわけでもないし、名簿をわざわざ確認することもなかった。なんだったら高校を卒業して以来彼女がどこにいるのかをアシスタントに検索させてもよかったのだけれど、卒業式以降は愛華のことを忘れようとしていたので、彼女が今どこで何をしていたのかを調べる気も起きなかった。正確には、彼女から連絡が来るまでは放っておこうとしたのだ。

 信介の胸の中には、苦痛と同時に小さな喜びがあった。天文学者になって宇宙人を見つけたい、頑張って月面基地で働きたい、と無邪気に言っていた少女が、こうして月面基地で働いているのか。そう思って、視線でアシスタントを操作して検索すると、彼女の専門は現に天文学であった。つまり、月面の資源採取や低重力における生物学ではない。高校時代に好きだった女の子が希望をそのままかなえたのを目の当たりにしながら、同時に彼女から受けた仕打ちを思い、さまざまに去来する感情はあったものの、信介はうれしかった。しかも、彼女の表情は明るい。明るいどころか、これ以上はないというほどに輝いている。国籍も様々な彼女のチームの全員がそうだ。どうしたというのか。

 その疑問は間もなく答えられた。

「私たちは地球外生命体からメッセージを受け取りました」

 これ以上はない満足、そして喜びだった。つまり、愛華は少女時代の夢を今まさに完璧な形でかなえたのだ。信介はそう実感して、彼自身も深く喜んだ。これ以上完璧な形があるだろうか。おめでとう、と思わず大きな声で述べる。愛華は、信介がそこにいるに気づいたのか、ぎょっとした顔をしたけれど、信介の声はすぐに他の祝福の声にかき消されたので、彼女はまた満面の笑みを作った。信介もすぐに我に返り、どの会話も聞き逃さないようにした。月面基地ではどの会話も記録されてはいるのだが、信介にその生データへのアクセス権が与えられるかどうかははっきりしないし、それに地球への第一報を今すぐ書かなければならなかったからだ。

「どんな内容でしたか」

「基本的には数学と物理学の基礎知識、それから彼らの生化学ですね。それから驚かないでください。私たちのすぐそばを航行している、ということです」

「それはつまり、物理的にコンタクトが可能ということか」

「すぐそばといっても、オールトの雲近辺かもしれない」

「彼らの生化学はやはり水がベースなのでしょうか」

「ちょっと待ってほしい。まずは彼らの船の推進機関を知りたい。ぜひ我々もそれで銀河系を飛び回るのだ」

「それよりも物理学の知識の更新でしょう」

「万物理論のネタばれは嫌です」

「そもそも返事をどうする」

「まずは実際のメッセージを見せてもらわないことには」

 そこで愛華は微笑む。

「ここに集まっていただいたのは、まずは皆でこの喜びを共有するためです。これから実際のデータをシェアします。そして、情報を整理したうえで、地球にも送ろうと思います」

 

 解散してから、信介は地球への第一報を執筆していた。先ほど、情報を整理したうえで送ろうという話になっていたので、基地の面々に断りもなく送るつもりはなかったが、こうやって文章にしないと自分が歴史的な瞬間に立ち会った事実をうまく呑み込めなかった。それに、思いがけず愛華と再会して頭に血が上っているのもある。水を飲んだり部屋で軽い運動をしたりして落ち着こうとしたが、うまくいかなかった。例えばスクワットがまったく負荷にならないのだ。少なくとも自重系のトレーニングは機能しなかった。だから、一段落したらジムに行くことにしよう、と信介は考えた。

 愛華から共有された生のデータは比較的容易に解析ができた。前半部分は数値の羅列であり、単純な論理法則や四則演算の定義だった。それが物理や化学へと進み、のちに図版を交えた説明へと移り変わっていった。電磁波を受信できる知的生命体なら、それほど困難を覚えずに理解できる。信介にも理解できる個所は多く、ちょっとしたパズルを解く楽しみもあった。このパズル的な部分をクイズ形式で出題したら読者は喜ぶだろうな、と彼は考えた。

 早く返事を出してほしい。できることなら、どんな返事を書くべきかという議論に混ぜてもらいたい。自分なら、きっとこんなことを書くだろう。やや興奮状態の中で原稿を書き上げ、それから当たり障りのない日報的な内容の記事を送信する。信介は前者を送ってスクープ記事を書くつもりはなかった。できるだけ正確な記事を書きたかったので、基地のメンバーと内容をよく話し合いたかったのだ。信介はサイエンスライターだからか、扇情的な記事を書くのは性に合っていない。それに、そんなことをしようものなら月面基地ではあまりにも気まずい時間を過ごすことになる。ここは各国共同で建設された唯一の月面基地であり、逃げ場などない。そんなことを全く意に介さない知人はいたものの、信介はそういうタイプではないし、そういうのが苦手だからこういう仕事をしている。それで、先ほどのレジュメを見ると、小さな疑問が浮かんだ。とはいえ、専門外のことだ。誰か機嫌のよさそうな人に尋ねてみよう。彼はソフトをシャットダウンする。

 日誌を送信したので本格的な気晴らしをしようと、基地併設のジムに向かった。数百人規模の基地にしては立派なジムで、プールもある。これは、長期間の月面滞在で筋力が低下しないようにするためで、一定以上の運動が全員の義務になっている。もちろん記録も取られている。

 しかし、今日のジムは人が少なかった。先ほどのニュースで皆が興奮しているのだろう。すでにパーティの準備を行っている面々も先ほど見かけた。黙々とトレーニングに励んでいたのはほんの数人、談笑しているのも数人だった。そして、信介はスクワットをしている愛華を見つけた。

 珍しいのを見たな、というのが率直な感想だった。文化部でクラスも違ったから、彼女が運動をしているところなど見たことがない。ただ、信介が愛華に対してまだ好意を持っているせいだろうか、それとも彼女が小柄なせいだろうか、彼女が一生懸命にスクワットをしているのを見ても、どこか子供が必死になって頑張っている健気さとおかしみがあるのだった。でも、そんな気持ちを素直に出せるはずもない。

 彼女が姿勢を戻したときに声をかける。

「久しぶりだね」

「うん」

「君がここにいるとは思わなかった」

「うん」

 高校時代、天文部で一緒だった二人とはとても思えない会話だ。気まずくて、ぎこちない。それは、彼女がこの基地に長く滞在していて、日本語をしばらく話していないからではなかった。信介が高校時代の最後の夏休みに愛華に告白したのだけれど、愛華はそれに返事をしないまま卒業してしまったからだ。いつものように部活に出て談笑し、そして一緒に帰る。そんな日常が表面上は維持されていた。でも、愛華は受け入れるわけでもなく、かといって明確に断ることもなく二人は卒業していった。

「おめでとう。夢がかなったんだね」

「うん」

「さっきのレジュメ読んだよ。わかりやすかった。僕も今度記事を書くから、おかしなところがないか見てもらえないかな」

「いいよ」

「異星人への返事、早く出せるといいね」

「うん」

 これ以上は近づけない。でも、仮に二人の思い出に立ち入れないとしても、何でもいいから話を続けたい。同級生じゃなくて、学者とジャーナリストとしてでもいい。

「ところで」

「うん?」

「さっきのレジュメを見たんだけれど、あの異星人たち、変わった波長でメッセージを送っていたね」

「そう?」

「うん。地球だと大気でかき消されてしまう。……釈迦に説法か」

「大丈夫。気にしてないから」

 愛華は背を向けた。首に汗が浮かんでいる。低重力だからか、何かが違う。

「面白い意見だけれど、あとでまたミーティングがあるから、その時にね」

 愛華はシャワー室に消えた。

 

 先ほどと同じ部屋に集まるのかと思ったら、今度は娯楽室だった。全員が視覚に情報を投影することができるとはいえ、こういう大々的な発表のときには大きなスクリーンに映したいと思うのは、彼らの子供のころにはまだこうした大画面ばかり使われていた名残だろうか。

 技術的な細部についてや、こちらから与えるべき情報について、あるいは文化的摩擦について討論され、さらに地球にどのように報告するかで盛り上がった。メッセージはすぐさま月面から発するべきだという説、いや、地球にも議論をさせるべきだ、そんな悠長なことを言っていられない、などと話は尽きなかった。

 おそらく、実際には各国に諮ることになるのだろうが、今は夢物語のただ中にいるかのように、非現実的な提案が数々なされていた。人類の歴史が始まって以来答えを待ちわびていた問い、我々の他にも誰かいるのか、の答えが見つかったのだ。我々は一人ではないと。月面でも許可されたごく弱いアルコールが互いに手渡される。

 そこで一人、立ち上がった姿がある。つかつかと進み、部屋の中央に陣取り、名乗る。そこにいたのは同級生の勇樹だった。今日は驚くことばかりだ、と信介はひとりごちる。それほど接点のある相手ではなかったので卒業後は疎遠になっていたが、風の便りで自衛隊に入ったとは耳に挟んでいる。月面基地は軍事利用が明確に禁じられているが、交代で軍の関係者が立ち入る。科学者がどこかの国に頼まれて何らかの細工を勝手に組み込んだりしないようにするためだ。あとは、緊急事態にあたっての訓練を指導することもある。ただ、軍事関係者といっても月面基地に派遣されるのはたいていは気さくな人柄らしい。公式の動画配信なんかにもちょくちょく顔を出すので知っていた。彼もその例にもれず、部活は確か運動系をやっていて、快活な人柄であったような印象はある。しかし、今日の勇樹はあまり愉快そうではなかった。

「祝い事に水を差すようで申し訳ない。だが、いくつか気になった点がある。安全保障の観点から見逃せないと思うので、俺としては皆の率直な意見を聞きたい」

 威圧感があるわけではない。ただ、有無を言わせぬ調子がある。

「まず心配なのは、侵略の可能性だ」

「やめて」

 愛華は臆した様子もなく勇樹に逆らう。まだ髪は少し濡れている。勇樹は大柄だが、彼女は気おされない。声の調子は高校の同級生に向けるものだった。

「高度に知的な生命体は、暴力に訴えるようなつまらない真似はしない。そもそも、暴力的な文明は自らを制御しきれずに自滅する」

「楽観論だな」

「ただ、文明が高度になればなるほど、資源を理由に軍隊を数光年も遠征させるメリットはほとんどなくなる」

「俺としてもその意見を採用したいんだが、エイリアンの母星の滅亡などといった例外的なケースもありうる。それに直接のコンタクトは意図しない結果を生む。細菌の感染もあるだろうし、互いの文化的変容の恐れもある。安易に返事をするべきかどうかは慎重になってほしい」

「彼らとは円滑にコミュニケーションができている」

「俺としては、逆にこの点が不可解に感じられる。つまり、連中が俺たちについてかなり知っているってことだ。俺たちが相手側のことを知らないにもかかわらず。こうした情報の不均衡は、俺としては正直怖い。加えて、彼らが自分たちの姿や出身星系を明らかにしていないのも不安だ。相手はこちらがどこに住んでいるかわかっている。だが、こちらはわかっていない」

「……」

「最後になるが、向こうから送られてきた波長というのが気になる」

 勇樹は画面にグラフを投影し、それから地球の大気で吸収される波長を重ねた。何かに気づいたように、不安げな顔をしたものが数名ある。信介もこのことには気づいていた。だが、これが何を意味するのだろうか。

「このメッセージは地球では受信できない。しかし、真空では可能だ。俺は、これが連中の仕掛けたテストだと思う」

 信介ははっとした。そうだ、これは異星人による地球の文明の水準を試すテストだ。人類がすでに故郷の惑星の外、真空に進出できているかどうかを、メッセージに返事があるかどうかで確かめている。返事がなければ相手にする価値のない文明とみなすのだろうか。それならまだいい。最悪、格下の相手と判断される。歴史的に見て、技術力に差のある文明同士の接触は、不幸な結末に終わる。……信介の考えたこととおおよそ同じようなことを、勇樹は述べた。しかし、早く返事をせねば、と焦る信介に対し、勇樹は逆の結論を出す。

「俺の意見は以上だ。確かに返事をしなかったら、技術力の低い文明だとみなされる恐れがある。だが、こういう仕掛けをしてくる連中に、すなおに『こんにちは』と返事ができるだろうか。悪意を想定しているわけじゃない。そもそも悪意という概念さえないこともありうる。ただ、あらゆる状況を検討しておきたい。俺としてはそれだけだ。よく考えてほしい」

 勇樹は立ち去った。それに続く科学者も多い。

 

 愛華に何と言えばいいのだろう。

 信介は彼女を傷つけるようなことは一言も述べていないのは事実だ。しかし、波長がおかしいと述べたのもまた本当で、それが間接的に彼女の喜びに水を差した、いや、泥を塗ったのではないかという気分がぬぐえない。だから、彼女の居室を訪れて何か言おうとした。とはいえ、謝罪をするのも何か違う気がしていて、かけるべき言葉が見つからないままにドアの前にたたずんでいたら、向こうから愛華がやってきた。

 別にやましいことをしていたわけではない。なのに、こうして彼女から不審そうな目を向けられたのはなぜだろう。何とはなしに間が悪い。部屋は本人でないと原則開けられないことは誰もが知っていて、だから中をのぞくつもりなんてなかったはずだとわかるのに。

 黙っていることができずに、小さく頭を下げる。

「ごめん」

「……何が?」

 元来謝るべき対象があるわけでもないのについ謝ってしまうのは、やっぱり卒業以来の距離をつかみかねているからだろう。こうして部屋の前で待ち伏せしていたみたいなのが薄気味悪いと言われればその通りなのだろうが、でも、落ち込んでいるはずの彼女を慰めたいと思ったことがそれほど悪いことだろうか。

「……というか、勇樹もいたんだな」

「うん」

「すごい偶然だ」

「うち、進学校だったから、ありえないことじゃないよ」

「まあね」

 一秒の長さを意識する。

「やっぱりごめん」

 そして彼女の返事を待たずに続ける。

「君がせっかくの発見をしたのに」

「信介君は悪くないよ。どのみち、勇樹君だって気づいてたんだ」

「うん」

「それに、信介君が勇樹君に伝えたわけじゃないんだよね」

「うん」

「じゃあ、どうして謝るの?」

「……そうだね」

 愛華は視線を泳がせている。信介も恐らくそうなのだろう。

「僕も残念だよ。どんな返事が返ってくるか、異星人も楽しみにしているだろうし」

「……」

「あいつが来てるのは知ってたの」

「うん。さっきはああだったけれど、相変わらずだったよ」

 信介は勇樹が普段どんな男だったかろくに覚えていない。だからそれがどういう意味かを知るすべはない。

「キッチンでサバイバル食をふるまってくれることもあったし、次回の公式配信では体を張ったパフォーマンスをしてくれる予定だったし」

「そうか」

「……」

「じゃあ、僕は行くから」

「そう」

「頑張ってね」

「うん」

 何をどう頑張るかには触れない。

「それから」

「うん?」

「なんでもない」

 まだ君のことが好きだ、などと伝えて愛華がどう感じるかを考えれば、言えるはずもない。

 馬鹿じゃないだろうか、と自分に思う。返事がないのが返事であるに決まっている。答えなかったことで、間接的に断っているに違いない。それでも、ごめんなさい、あなたとは付き合えない、という言葉を直接愛華から聞きたかった。大学時代以来、無理にでも誰かを好きになろうとしてきた。でも、そもそも好きという気持ちが愛華と強く結びついてしまっていて、恋に落ちることなんてなかった。幸か不幸か、信介のことを好きだという女性はこの年齢になるまで現れなくて、だからこうして身軽な三十路の独身として、月面までやってきたのだ。

 

 自分に何度も聞かせてきたこんな言葉を心の底でもてあそびながらカフェテリアに向かう。そこにいるのは、自室やラボにこもるつもりがない人間ばかりで、社交の場にもなっていたのだが、今日はあの気まずい瞬間から逃げるためか、互いに顔を合わせようとする者の数は少ない。

「おう」

 と片手をあげて近づいてきたのは勇樹で、こちらも会釈する。

「ここに同じ高校の連中が三人、同窓会が開けるな」

 それは冗談なのか本気なのかよくわからず、話題をそらす。

「ここにいる日本人は僕らで三人?」

「の、ようだな。お前は一応ジャーナリストの肩書でここに来てるんだよな」

「ああ」

「俺も一応理系選択だった。エイリアン探しのロマンはわからんでもない。お前もそうだろう。だが、科学者ってのはどうもロマンティストすぎるというか、専門分野になると子どもっぽくなるというか、たまに俺はここが部活の合宿なんじゃないかって思うことがある。アルコールもないのに馬鹿騒ぎをしたりしてな。そういうわけで、俺は嫌われ役を買って出ているわけだ。引率の教師ってところか」

「なるほど」

「今回の件もそうだ。俺はただ、現場が独走しないよう現実的なアドバイスをしただけだ。俺は間違ったことは言っていないよな」

「うん」

 どうも、勇樹はこちらに対して距離を縮めてくるようだが、彼とそこまで親しかった記憶がない信介は戸惑っている。これが体育会系の人間のノリなのか、単純に信介が勇樹のことを忘れている薄情なやつだというだけなのか、それははっきりしなかった。なんか接点があっただろうか、体育祭や文化祭で一緒に何かやったのか、と記憶を探っているうちに、一斉メッセージの通知がアシスタントからあった。

 勇樹は小さく笑った。

「第二のメッセージだ。あちらさん、どうやら焦っているらしいぞ」

「公開されたのか」

 反射的につぶやくと、メッセージが視界に投影される。完全な翻訳はされていないが、次々に書き込みがなされていく。

「公開しないわけにはいかんだろう。俺としては、公開されていなくても、汚い手を使って読まなければならない義務がある。……そういう顔をするな。俺たちもいつまでも青春ごっこしているわけにはいかん。これも大人の仕事というやつだ」

 露悪的な態度を前に鼻白みつつ、翻訳された箇所だけでも読む。大意はすでにつかめるようになっている。彼らの宇宙船は燃料が不足しており、ついては木星から水素を、エウロパから水を補給したい、とのことだった。勇樹はその個所に下線を引いた。

「どう思う」

「個人的には困窮している相手には親切にしてやりたい」

「なぜだ」

「それが当然だと思うし、もしかしたら返礼があるかもしれない」

「だが、そうした概念を持たない文化の持ち主だとしたら?」

「……」

「例えばボルネオ島のとある民族には、『ありがとう』に該当する言葉がない。ものをたくさん所有している人間が出し惜しみをせずに与えるのは当然のことだとされているからだ。あえて感謝に近い言葉をあげるとすれば、ものを受け取った時に発する『よい心がけだ』だな。リーダーは物惜しみしないことが条件で、少しでもケチだという評判が立つと人々は離れていき、自然とリーダーの地位からは追われることになる。こちらの発想が通用しないケースはいくらでも想定できる」

「すごいな。なんでそんなことまで知ってるんだ」

 君はサイエンスライターでもないし、科学者でもないだろうに。信介はほんのわずかに皮肉を込めながらも感心する。勇樹も同じような顔をする。

「俺と仲良くしてくれるやつなんてここには少ないからな、読書の時間はたっぷりある。仮に俺が挙げた例が極端だとしても、俺としては何らかの手土産が欲しい」

「たとえば」

「科学者の誰かが言っていたと思うが、恒星間宇宙船の設計図だとか、連中の情報だとかだな」

「また勝手なことを」

 怒りに震えている声がする。愛華だった。周囲の人々は気まずそうにマグカップをのぞき込んだり目をそらしたりしている。この会話は日本語でなされているし、基地ではたいていの人が崩れた英語を話すが、俗語も含めた同時通訳が実用化されて久しく、だから秘密の会話は事実上不可能だった。

「エウロパの水くらいわけてあげたっていいでしょう」

「俺にだってそういう善意がいないわけじゃないさ。ただ、俺はボスを説得しなけりゃならん。科学者でも技術者でもない相手に向かって、エイリアンとのコミュニケーションのロマンを語ったって、俺が月面生活のストレスで現実検討能力を失ったとみなして、別のやつをここに送り込んでくるだけさ」

「はぐらかさないで」

「そんなつもりはない。ただ、実際問題として俺の立場は微妙だ。ここで問題が起こったら俺の首が飛ぶだけじゃまず済まない。もうちょっとお前好みの話をすると、そもそもエウロパの原住生物はどうなる」

「……」

「そうしたものが実際に存在しているかどうかは、予算の問題もあって未確認だが、その生物に対する影響が心配だろう? それに、これはお前たち科学者のプライドともかかわってくるんだが、太陽系内の天体に地球人ではなくエイリアンが先にたどり着くってのは、どうなんだ。旗でも立てられたらどうする」

「……私たちは人間として、対等な存在に対しては敬意を払いたい。プライドよりも生命を優先するべき」

「それを俺のボスが納得してくれるか、だな。第一、燃料と水の補給は口実で、連中がそこに恒久的な基地を築くつもりだったら? 人類全体の安全保障にもかかわってくる問題になる」

「だから信頼関係を築いて」

「相手からの情報が少ないのに信頼できない。そう返事をしたい」

「……」

「少なくとも、俺は現時点では地球にエイリアン発見という情報を流していない。この時点で俺は懲戒免職ものなんだ。俺としては即刻地球に報告し、同時に異星人にはこちらが少なくとも真空で活動できるだけの文明を持っていることを通知し、エウロパへの着陸はぎりぎりまで待ってもらうように頼んでほしい」

「でも」

「僕としては」

 二人は信介のほうを向く。愛華が厳しい顔をしているのは話の腰を折られたのに腹を立てているのか、それとも素人が口を出すなというプライドのせいか。勇樹は何か面白がる様子だ。冷や汗をかいたが、もっときつい顔をした編集長を見たことなどいくらでもある。そう思って自分を奮い立たせる。たとえ愛華に逆らうとしても、自分は返事がしたい。

「なんであれ、できるだけ早く返事をするべきだと考えている。それが礼儀だから。異星人の意図は善意に解釈したい。ただ、勇樹の意見を無視していいわけではない。まずは科学者全員を集めて、水は分けてあげたいけれども、原住生物もいる可能性があるので、環境の保全に最善の注意を払うことを勧告したうえで、あなた方のことをもっと知りたいと望んでいる、という趣旨のメッセージを送りたい」

「俺が自衛隊を首になってもいいのかな」

「万一宇宙戦争にでもなったら地球は木っ端みじんだよ」

「だが、地球に返事をしなかったら愛華も懲戒は免れないだろうな」

「どうしようもない。生命の危機にある相手が返事を待っている状態で、地球の決済を待つわけにはいかないじゃないか。なんだったら僕が証言するよ。この場ではこれ以外の選択肢などありえなかったって」

 勇樹は肩をすくめた。

「まあ、これだけの人間を一斉に逮捕しに来るには、地球のロケットはちょっとエネルギー不足だな。向こうがこっちに食料を送るのをやめたところで、基地には数年間は優にパーティが開けるだの備蓄はあるし、その気になれば自給自足もできる。好きにしろ。俺もこういう悪ガキが大人の目を盗んでやるような真似は嫌いじゃないからな」

 愛華の表情は硬い。けれども、信介を見つめる目はにらみつけるようではない。

「ありがとう。参考になった。とりあえずみんなに招集をかける。またあとで」

 あとで? と戸惑うといらだったのか頬が朱に染まっている。

「信介も来て。部外者の意見は貴重だから」

「わかった」

「俺も部外者だが」

「あなたとは議論したくない」

「悪かったな」

「じゃあ、私は準備してくるから」

「うん」

 彼女は背を向けた。

 残された信介は戸惑った。愛華はこんなに熱い子だったかな、なんて回想している。記憶にあるのは、星空を見ながら目をきらきらさせていた少女の姿なのだけれど。彼女の愛らしさを思い浮かべながらぼんやりしていると、いきなり勇樹が両手を肩に置いてきたので飛び上がる。

「かわいいだろ?」

「はあ?」

「あれでも昔は俺に片思いをしていたらしいんだが」

「なんだって?」

 そんなことは聞いたこともない。ありえない。

「知らなかっただろう。じゃあ、小休止ののちに会議室でよろしく」

 信介は取り残される。

 

 愛華と信介の会話は、はた目には言い争いにしか見えなかっただろう。けれども、こうして愛華が片思いをしていたと知った後だと、あれは二人の距離の近さだったのではないか、という気にさせられる。少なくとも、信介との会話よりもずっと盛り上がっていたではないか。僕の返事に対してはいつもおざなりだった。そんなことを思わされてしまう。

 この年齢になってもまだ高校時代の恋愛を引きずっているのかと思うと情けないし、腹も立ってくるのだけれど、でもどれほど時間が経ったところで愛華は愛華であり、信介は信介でしかないのだった。

 そうやって、カフェテリアでたたずんでいると、背後に気配を感じた。振り返ると、コーヒーを二杯手に持っている愛華だった。

「さっきはありがとう」

「うん」

 もっと気の利いた返事をしたいのだけれど、ただ出てくるのは不器用な声ばかりだ。もっと君との会話を楽しみたいと思っているのに、つれない返事しかできない自分に腹が立って仕方がない。

 彼女は信介の向かいに座り。コーヒーを渡す。飲めということだろうか。

「信介君、少し議論がしたい」

「え?」

「私としては、絶対に地球外生命体とコンタクトをしたい。そして、お友達になりたい。これは私の子供のころからの夢であると同時に、理解の困難な相手との友好と対話は、これからの人類が大切にしていかなければならない理念だと思っている。科学者のほとんどはそう思っているはずだとは思ってはいたけれど、何人かの人たちと話すと勇樹に同調している人も多いみたい。だから、そうした人たちも説得できるようなロジックを組み立てたい。このコーヒーはおごるから」

 宇宙戦争に怯えている人に理屈が通用するかどうかわらかなかったけれど、信介はうなずいた。愛華からのお願いを断れるはずがなかったからだ。

「とりあえず疑問を投げかけてみて。なんでもいい。気になってることだったら」

「なんでも?」

「うん。それと、できるだけ私を怒らせるような意見がいい」

「え?」

「私がそれを論破する練習をするから」

 信介はうなずく。

「じゃあ、そもそもどうして地球にやってきたのか。メッセージを送るだけだったら、母星からでも何の問題もない」

「いくつかの可能性が検討できる。まず、どこかに移動する途中だった。集団移民で、ルートの途中に知的生命体を発見したからコンタクトした。次に、母星が滅亡したので定住先を探している。これはさっきの移民とも重なる。大規模な調査団だということもありうる」

「彼らが犯罪者で流罪にされたというのは」

「そういう非人道的なことはしないはず」

「死刑よりは人道的な気がするけれど」

「でも、そういう犯罪者が別の文明に対して最初にコンタクトする相手になるようなリスクを冒すこともないはず。なんであれ、第一印象は大事」

「確かに。じゃあ、次。どうしてこちらの文明水準を試すような真似をしたのか」

「こちらにコンタクトの準備ができているかどうかを確認しているんだと思う」

「何のために」

「例えば早すぎる接触は文明の健全な発展を阻害するとか」

「相手は恒星間宇宙船を開発した文明だ。こっちよりもはるかに進んでいる。どのみち影響はある」

「そうでもないかもしれない。たとえば、ピラミッドを作っているような時代にコンタクトをすると、地球人は地球外生命体を神とみなして混乱が生じるかもしれないけれど、私たちは少なくとも彼らの持っているテクノロジーをおぼろげにでも理解できる。わからないことに対して奇跡や神様を持ち出す必要はない。それに、恒星間宇宙船は私たちの現在のテクノロジー水準でも必ずしも不可能ではない。単純にコストの問題で開発されていない面がある」

「なるほど。じゃあ、相手が情報を出し惜しみしているのは」

「こちらを怖がらせないためかもしれない」

「そこがよくわからない。これくらい文明が発達していたら迷信はほとんど駆逐されていて、たとえどれほど異様な姿だとしても受け入れるだろう」

「単純に大きさが極端に違うとか。地球人と比較して巨大だったとしたら、威圧感を与えてしまう。それに、それこそ鬼や悪魔の姿をしていたら? あるいは何らかの宗教的タブーに触れるとか。長い間こちらの文化を調査していたとしたら、私たちが完全に迷信から自由ではないことを向こうが理解しているかもしれない」

「それだけこちらのことを調査してきたとは思えないな。今回の通信はコンタクトを求めるものというよりも、救難信号に近い。ひとまずその辺の天体で物資を補給しようとした。でも、こちらがそこの所有者だとしたら勝手に持っていくわけにはいかない。義理の概念はあるのかも」

「だったら急がないと。なおさら返事をしないのは残酷だよ」

 そう答えたときの愛華は、笑っていただろうか。信介は思わず声が低くなる。

 

「僕はその残酷さを知っている。……僕だって、まだ返事を待っているから」

 彼女はまだ意味が分からないままに笑っている。その笑いが、胸をチクチクとさせる。

「僕は君が好きだと言った。けれど君は答えてくれなかった。卒業式になっても、君は何も言ってくれなかった」

 君は忘れてしまったのか。僕がどれほど君のことを考えていたのかを。

「十年以上も前のことを持ち出すなんてかっこ悪いのはわかっている。はたから見て滑稽だろう。でも、僕は君のことが本当に好きだったし、今でも好きだ。そうやって理詰めでしっかり物事を考えられるところが素敵だし、好きなことに夢中になっている姿もかっこいい。議論をするときの丁寧さ、そこから感じ取れるのは君の知性だけじゃなくて、他人への思いやりだ。僕は今でも原稿を書くとき、君だったらどんな顔をして呼んでくれるだろうかって思ってしまう。君を尊敬しているし、君が好きだ」

「……!」

「僕はまだ、君のことを待っている。あの夏休みに、勇気を振り絞って君に好きだといったけれど、僕と恋人として付き合えないというのならそう返事してほしい。卒業してかなり経つ。僕の告白なんて覚えていなかったかもしれない。無理もないことだ。でも、区切りをつけたい。だめならだめだってはっきり断ってほしい。今からでも遅くない。そうしないと、僕は前に進めない。これは僕のわがままだ。でも、ここで振るならはっきり振ってほしい」

 愛華は黙っていた。目を大きく見開いていた。そして目を伏せた。瞬きをした。

 彼女は涙を一つ流した。それに愛華は手を伸ばした。彼女は濡れた指先を見た。どうして濡れているのかもわからないらしい様子だ。愛華は自分ででも、自分が泣いていることに驚いているように見えた。

 泣かせてしまった、と信介は思う。僕は君の泣き顔が見たかったわけじゃない。ごめん、と詫びようとするけれど言葉が出てこない。ただ立ち上がって、彼女の涙を拭こうとして手を伸ばすけれど、彼女に触れることもためらわれている。この中途半端な姿勢では、彼女の後ろに回って肩をとんとんと優しくたたいてあげることもできないでいる。

 ごめん、と先に口を開いたのは愛華のほうだった。

「私、わかってた。あのとき信介君が私のことを好きだって言ってくれる前から、信介君が私のことを好きだったってこと。でも、ごめんなさい、こんな私じゃちゃんと返事できない。それが勝手な態度だってことはよくわかるし、でも、そんなことをわかっていながらもあんな風にふるまってしまったのも知ってる。だから、私はわがままで信介君が思ってくれているような思いやりのある女じゃない」

 彼女は立ち上がる。

「ごめんね、泣いてるのは感動したのもあるんだ。でも、ちょっと私、考えを整理しないと」

 信介が返事をする間もなく、彼女は行ってしまった。

 呆然自失とした。目の前のカップはまだ空になっていなかった。

 彼女がいなくなると自分はすぐに論理的に考えられるようになる。今の告白は、愛華の気持ちを考えない勝手なタイミングだったな、と気づいた。僕はなんて愚かなのだろう。信介はただそうやって自分に言い聞かせることしかできなかった。愛華には何か抱えていることがあったのだ。それもそうだろう。こうして、人類の命運が自分の手にかかっているかもしれない、そんな状況で子供のころの気まずい記憶を蒸し返されたら、誰だってああなってもおかしくない。つくづく愚かだ。せめて一切が解決してからの祝賀ムードの中であったなら最高にロマンチックで、彼女も交際してくれたかもしれないではないか。

 

「泣かせちまったな」

 いつの間にか勇樹がいた。信介は憮然とする。

「立ち聞きしてたのか」

「そんなつもりはなかったんだが。ただ、そろそろ俺も議論に混ざりたくなってな」

「嘘をつけ」

 不機嫌なせいだろうか、我ながら彼に遠慮しなくなってきていると気づく。

 考えてみれば、何もかもが勇樹のせいだ。愛華がずっと片思いをしてきたのが勇樹だ。だが、みたところ勇樹は愛華の恋にこたえた様子はない。それどころか、彼女の道に立ちはだかるものとして露悪的な態度をとり続けている。だから愛華は勇気の前では激昂するし、さっきから情緒不安定なのだ。

 そう思うと腹も立ってきて、非難の言葉が思わず口をついて出る。

「思わせぶりな態度を取るのはやめて、君が愛華と付き合ってやればいいのに」

「冗談じゃない」

 勇樹は拒否した。思わぬ冷たい声に信介はひやりとする。

「なぜだ」

 信介はそこがわからない。彼自身がモテるわけではないせいか、勇樹には今のところ他に誰か好きな相手がいるようにも思えないのだから、異性からの想いを断ることはないと考えてしまう。特に嫌いでもない相手からの告白を拒むのは、ただのわがままなのではないか、とまで思われた。しかし、勇樹は続ける。

「この際だから言うが、お前だって十分に残酷だ。同級生だったくせに、俺のことをろくに思い出しやしない」

 しょうがないだろう。ほとんど接点がなかったのだから。疑問に思っていると、彼は説明する。球技大会でバスケットボールをしたときに軽く足をひねった。その時に保健室に連れて行ってくれたのが信介だったのだ、と。

 そういわれればそんな記憶もないではない。だが、それは単に保健委員が休みだったからだし、同じような背丈だったからだ。それくらいの義侠心くらいあって当然だと思っていた。ついでに、ずっとベンチに座っているだけだったので退屈しており、抜け出すいい機会に感じられただけだ。けれども彼は続ける。

「俺はそれ以来お前を尊敬していたし、もっと親しくなりたかった。お前が天文に興味があると知ってからは、部活をお前のところに変えようかとも思ったさ。だが、大会直前にそんなことを言い出してみろ、ぼこぼこにされるのが落ちだ」

「なんで、僕にそこまで」

「俺の口からそれを言わせるつもりか」

 勇樹の声からはからかうような調子が消えている。これは信介に対する告白と、カミングアウトだとみなしていいのだろうか。国内でも同性婚が合法化されて久しいが、オープンにしにくい雰囲気の学校や職場もまだ少なくない。勇樹は頭をがりがりと掻いた。

「お前は自分で思っているよりもすごいやつなんだよ。お前は知らないところでモテている。お前はさっき愛華の論理的なところをほめたが、俺はお前の誠実なところが気に入っている。お前のことを考えるとなんだか幸せになれる。胸のあたりがあたたかくなる。俺がこういう気持ちになったのは初めてだった。それまでは、俺は誰かを愛することはできないんじゃないかとまで思っていた。今でも俺はお前を深く尊敬しているが、お前はそれを気味悪がるかもしれん。そんな感情を十年以上持ち続けるのは、十年続くただの片思いよりもつらいかもしれんな」

「……」

 自分は愛華から忘れられていたとばかり思っていた。しかし、自分だって同じだった。確かに、勇樹から直接この気持ちを伝えられたのは初めてだ。けれども、自分がされてきた仕打ちに似たことを自分がしていたことを知り、その痛みを自分も理解していただけに、己がどれほど冷淡だったかを知ってしまった。自分だって、少なくとも愛華と同じくらいには身勝手だった。なので、自然と頭を下げていた。

「……すまない」

 その言葉で勇樹は必死さを手放した。

「謝るということは、俺の気持ちは受け入れてくれないんだろうな。お前は愛華のことが好きだから」

「悪いと思っている。でも、僕は君とこれ以上親しくなっても、友人としか見られないだろう。君みたいなタイプとはあまり付き合いもないし、戸惑うことも多いだろう」

「俺は少しうるさいし、肝心な時にふざけるし、押しが強くてお前が一番苦手なタイプだろ」

「そうは言わない。ただ、僕もそれ以上は君の感情に対してアクションを起こせない。僕が君にしてあげたことを覚えていてくれてありがとう、としか答えられない」

「わかってたさ。お前がそう返事するだろうって。だが、すっきりした。やっぱり俺が惚れただ男だけのことはある。誠実な返答に感謝する」

「こちらこそ。君のおかげで、高校時代の思い出が一つよみがえった」

「あの時の俺は汗臭かったか」

「ちょっとね」

 緊張はしているけれど、笑うことはできた。戸惑いながらも、信介がこれほど落ち着いて返事ができたのは、信介が勇樹のことを恋愛対象として全く見ることができないのが、信介の中で自明だったからなのだろう。

「でも、君も愛華に対しても誠実であってほしい。愛華からの告白は、きちんと断ったほうがいい」

「いや、愛華は俺に告白なんてしてないぞ」

「でも、君はさっき確か」

「片思いをしていた、とは言った。だが、その後どうやら俺に対して幻滅したらしくてな」

「どうして」

「思春期の女の子の気まぐれと残酷さはお前も知ってるだろ」

「はあ」

「なんかわからんが、ちょっとしたことで俺に興味をなくしたらしいぞ。どうだ、お前の大好きな女の子はこんなにも冷たいやつなんだぞ」

 勇樹はにやにやと笑っている。

「それでもあいつが好きだ、って言いきっちまいかねないのがお前の愛すべきところさ」

 その通りだった。

 だが、そうなるとどうして愛華は信介の告白にこたえなかったのだろう。

 

 会議は予想していたほどには紛糾せず、おおよそ信介の提案したとおりになった。ただし、エウロパは地球人にとってのある種の野生動物の保護区にあたるので、慎重にするように、というブラフが含まれることになってしまった。嘘をつくことに対する根強い反対もあったが、太陽系到着ぎりぎりになって連絡をよこしてきた異星人に対する不満と、こちらも文明水準をテストするような真似をした相手に対する不信感もあり、そのまま押し切られてしまった。メッセージは飛んでいく。地球と木星の現在の位置関係だと、返事が来るのは早くて一時間後だ。

 人々は会議室を去り、散っていく。けれども、信介はぐずぐずしていた。さっきの出来事で、まだ動揺していた。愛華ばかりか勇樹の気持ちも考えていなかったのだと気づかされて、自分の鈍感さを感じずにはいられない。

 考え事をしていた結果として、愛華と会議室に取り残されることになった。愛華はそこに座ったままだった。異星人から返事が来るまでの間、ここで過ごしているつもりなのだろうか。それとも、やっと返事を出すことが許されて気が抜けてしまったのか。愛華にとっては、信介が彼女に好きだと言って、返事を待っていた時のように長く感じられるのだろうか。

 信介は、愛華が彼の存在に気付いているかどうかもわからない。でも、このまま立ち去りたいとは思えない。逃げたみたいに思われるのは嫌だった。彼女の隣に腰掛ける。だからと言って、返事を急かすつもりはなかった。ただ、下を向いたままの彼女に謝りたかった。

「さっきは、ごめん」

「うん、大丈夫だから」

「……異星人に、返事を出せてよかった」

「うん」

「いい返事が来るといいね」

「そうだね」

 こうして不器用にやり取りをしていると、いっそのこと時が戻ればいいと思う。無邪気に話ができていた高校時代に戻ってやりなおしたい。やりなおしたとしても、また同じように彼女に恋して、同じようなかっこ悪い告白をしてしまうのだろうけれど。僕らには意外と選択肢がない、と信介は思う。

 そこでうつむいていた愛華が、信介のほうを向いた。

「あのね」

「うん」

「私、どうして今まで答えられなかったのか、教えるね」

 うなずく。耳の中で鼓動がする。足が震えた。座っていてよかった、と胸の中でつぶやく。

「私、とても星空が好きなの」

「そうだね」

「その気持ちは私の心の中でとても大きくて、誰のことを好きになった時の想いよりも強いんじゃないかって気がしてた。私はこの好きという気持ちに引っ張られて、こうして天文学者になったし、月までやってきた。ここから見る星空は地球よりもずっときれいで、私の望んだままの景色だった。どれほど月面に生命がなく、荒れ果てていたとしても、空を見上げればいつもそこに私の望むものがあったから、私にとっては心の慰められる場所だった。」

「そっか」

「一時期は、勇樹君のことをちょっといいな、って思っていたこともあったけれど、でも好きというのとは別で、私と違って堂々としているから尊敬している、みたいな感じだった。友達に好きな人いないの、ってきかれて、適当に勇樹君の名前を出しちゃったことあるけれど、それ、噂になってはいないよね?」

「僕は、あまり噂とかしないほうだから……」

「よかった。で、本題に戻すと、私が信介君から好きだという気持ちを伝えてもらったとき、うれしかった。勇樹君への感情なんてすっ飛んで行ってしまった。友達が、勝手に私が勇樹君への片思いを急にやめた、って解釈してたのがおかしかった。でも、同時に困ってしまった。うーん、困ってしまったというのは違うな。本当はとてもうれしかった。でも、信介君の気持ちに、どう応えてあげたらいいのかがわからなかった。どうしてかっていうと、私は宇宙のことが大好きすぎて、そのせいで空ばかり見ていて、信介君をないがしろにするんじゃないかって心配になってしまった。それに、私は好きのエネルギーが大きいから月を目指していたんだけれど、宇宙に対する好きのエネルギーを信介君に分けてしまったら、私は月に行けなくなるんじゃないかって怖かった。でも、本当に信介君からの気持ちがうれしかったのも本当で、私もどうすればいいのかずっとわからなかった」

 どちらかを選ばなければいけないなんてことはなかったのに。でも、それほどまでに強い、宇宙に対する愛情だったのだろう。

 愛華はこちらをじっと見た。さっきからこっちを見て話していたのだけれど、目の中をのぞき込むようだった。愛華は信介の目の中に何かを探していた。それが見つかったかのように彼女は切り出す。

「遅すぎたと思うけれど、告白してくれてありがとう。私も、信介君が好き」

 ふわり、と身体が持ち上がったように思う。始めて月面にたどり着いた時のように身体が軽やかだ。このときのためなら、十何年も待たされたことだって許せた。高校生の頃に付き合わなくてよかった。あの未熟な僕たちのままだったら、きっとどこかですれ違っていたことだろう。自分のことでいっぱいいっぱいで、相手に寄り添う余裕なんてなかった。そして、ひどい別れ方をしていたに違いない。待たされてよかった、大人になって、互いに一人になる時間も大切に思えるようになってからで、本当によかった。

 ああそうか、と信介はうっとりした気持ちの中で気づく。自分は愛華に向かって、異星人に返事をすることを急かしていたようだ。彼が愛華よりも性急だったのは、自分が返事をまだもらっていなかったからなのだ。愛華も返事をしようとしていたけれども、彼女よりも早く返事をしようとしていたのは、この待ち遠しさが自分の頭をずっと占めていて、だから勝手に異星人の気持ちをおもんばかって、どれほど返事が恋しいことだろうと空想してしまったのだ。本当は愛華を急かしたかったくせに、それができないから科学者に早く返事をさせようとしていたのだ。この恋はつくづく宇宙と縁が深い、と思われておかしい。

 そのおかしさが伝わったのか、愛華は小さく笑った。そしてそっと彼女の掌の上に手を重ねる。信介は、高校以来恋をしてこなかったものだから、いきなりそれ以上のことに進むのがためらわれた。

 本当のところは、信介は肩くらい抱き寄せようとした。けれど、ちょうど異星人からの返事が来た。送られてきた画像が開かれると銀河系が広がり、ところどころに輝点が見えた。なんだろう、と疑問に思う二人は、恋とは別の胸の高まりとともに、そのメッセージを読み解いていく。

「私たちはあなた方に大変感謝しています。おかげで、我々は生命の存続の危機を脱しました。そのお礼といっては何ですが、コンタクト可能な知的生命体の存在する天体の座標およびコンタクト用の周波数をお送りします。なお、この一覧に載っている知的生命体は、コンタクトを望むことを、あなたがたに伝えることを了承しています」

 それは何百にもなる、天の川銀河全体に散らばった文明たちだった。

「それから、あなた方もこのリストにお名前を連ねたいのなら、お返事をお送りください。お待ち申し上げております。私たちは、文明と文明をつなぐ仲介者です。私たちは一度去りますが、もう一度訪れる日も来ると思います。そのときまで、さようなら」

 二人は笑った。それは、初めて望遠鏡で土星をのぞいたときみたいだった。小さな笑い声が会議室に広がっていく。当然、これには肯定的な返事をするだろう。

 

「あー、お楽しみのところ申し訳ないんだが」

 二人はさっと身を離した。勇樹だった。

「ひとまず、俺は地球に状況を報告しておいた。緊急のコンタクトがあった。誠意を込めて対応したが、エイリアンはここに立ち止まることをせず、太陽系を離れていった。大体こういう経緯でよかったよな」

「ああ、うん」

 いたずらを見つけられた子どもみたいにまともに返事もできない。

「とりあえず人類滅亡の危機は回避したようだな。だが、さっきから俺に向けて連絡が殺到している。約束通り、月面の科学者総出で俺を弁護してくれ。しばらく俺は地球に帰れそうにない。信介、お前もだぞ。お前は一躍有名人だ。サイエンスジャーナルの世界では名前が知られていたかもしれないが、これからは誰だってお前のことを知るようになる」

「実感はないけれど、そうなんだろうね」

「だが、俺はちょっと心配だな。あのエイリアン、何もせずに地球を離れていったが、本当に何もエウロパに残していかなかったのか。悪意はなくても、感染性の何かがあったら、人間がエウロパに到達したときに大変だし、観測装置を勝手に残しているかもしれん。それに、個人情報漏洩的な心配がある。あのあちこちの文明への連絡先、本当にあのエイリアンは善意で送ってきてくれたのかね。互いにつぶしあうように仕向けてから、武器でも売りさばくんじゃないか。それか、地球の座標をどっかに売り飛ばすんじゃないか。こっちは文明の位置を教えてやっていいなんて一言も答えちゃいないんだが」

 愛華は膨れる。

「発想がひどすぎる」

「人を疑うのが俺の仕事でね。……そうでもないか、俺はとっくに懲戒免職、悪くすれば裁判沙汰だ」

「いくらでも証言してやるさ」

「私も。月面基地が全員ついてる」

「心強い限りだ」

 そこに皮肉はない。彼はからからと笑う。

「それと、また新しいエイリアンから一斉にコンタクトがあった時には、いつでも安全保障上の相談には乗るからな。なんたって俺は、初めてエイリアンからのメッセージを読んだ第一人者なんだから」

 それは僕らも同じだろう、と言って信介は笑う。愛華も含めて三人で笑えたのは、きっとこれが初めてだった。

 

「信介は」

「酔って寝ちゃった」

「そうか」

 愛華と勇樹はまだ飲み交わしている。

「こうやって見ると、寝顔がかわいい」

「お前は罪なやつだな」

「そう?」

「信介のやつは騙されやすすぎる」

「……だから好きなの」

「気の毒なやつ。球技大会で助けたのも、俺じゃなくて別の男だったのに、すっかりそう思い込んでる。人間の記憶なんていい加減なものだな」

「私は、勇樹ほどひどい嘘はついていないと思うけれど。高校のころ、他の人が好きだった私が、突然の告白にどう返事をすればいいのか困ってしまったのは事実。大学以降でも付き合った男は、私が研究ばっかりだったせいで別れちゃったし。少なくとも、現時点で一番好きなのは、信介君。彼が熱くなったとき、思わず泣いちゃったのは素だったから」

「そういうことにしておいてやるさ」

「ずっと片思いをしていた男に告白したら、カミングアウトされたときも結構しんどかったんだけどね」

「ははは」

「でもまあ、いろんな男と付き合ってみて、素直で正直なのが一番だってわかったから。終わり良ければすべて良し、ってことで」

「だろうな。だが……」

「だが?」

「エイリアンも嘘はついていないかもしれない。真相を話していないだけで」

「馬鹿」

「俺はまだ試されている気がしてならん。いかに意地を張らずに未知の相手にエウロパへの着陸を許せるか、これから無数のエイリアンにいかにコンタクトを取るか、人類のとる態度のがすべて監視されているのでは、ってな」

「好きなだけ疑えばいい。それがあなたの仕事だから」

 勇樹はうなずく。

「別の知性の意図を知るために、知性は進化してきた、が。だが、畢竟それは同じ種の間のことだ。これから何が起こるか、誰にもわからんさ」

 その言葉は愛華ではなく、寝ている信介に向けられていた。

 

参考資料:奥野克巳「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」

 

文字数:21220

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