神殺し

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梗 概

神殺し

和久は年末休みの登山中に遭難した。足を挫き動けないまま夜になる。木の下で雨を凌いでいる内に発熱し、意識を失った。

 目を覚ますと、弾力のある硬いものの上だった。柵のようなものに囚われて出られない。その柵が節足類の足で、自分が丸まった巨大百足の腹の上にいるのだと気づいた和久はパニックに陥った。暴れるがびくともしない。和久が大人しくなった頃に、百足は触角で和久の足に触れた。不思議な感覚とともに足が癒える。解放され、辺りを見渡すと日の差し込む洞窟の中にいた。百足と共に外に出て歩くと道に戻った。気づくと百足はいなかった。

 元旦早々また山に登った。百足に何故か強く惹かれ、会いたい、礼をしたいという気持ちが抑えられなかった。記憶を頼りに行くと洞窟が見つかり、中に百足がいた。肉を百足に与えても食べなかったが、正月用の日本酒には興味を持ったようだった。掌に注いだ酒を百足に飲ませ、自らも酒を飲んだ。

 家に帰り、その夜夢を見た。白い大蛇が人に姿を変え、一方的に語りかけてくる。自分は神であり、あの百足も神だと。二柱の神は隣同士の山に住み、かつて争ったのだと。そして蛇は自分の子孫である弓の名手の力を借りて百足を倒したのだという。百足はそれ以来権威を失い、もはや神としての力を保てていない。そして和久はその弓の名手の子孫であり、邪悪な百足を再度倒す使命を負っている。かつて百足を倒した矢を下げ渡すので、これで倒しなさい。

 目を覚ますと半分に折れた矢が枕元に落ちていた。神だか何だか知らないが、偉そうに何を言う。和久はゴミの袋に矢を捨てた。

 一月七日、また山に行った。百足に強い共感を抱くようになっていた。触れ合っていると心が満たされる。そんな時にリュックから何かが転がり落ちた。捨てたはずの矢だった。それを見た百足が暴れ始める。落ち着かせようとしたが、何故か腕は矢を掴み百足に向けた。自分の意思とは無関係に体が動き、百足の眉間を刺した。百足は和久の左腕に噛み付きながら息絶えた。

 噛まれた腕に激痛が走る。和久は察した。自分は蛇神に操られたのだ。百足を殺した悲しみと共に、蛇神に利用された屈辱感が湧き上がる。左腕から胴に向かって百足が走るように黒く筋が浮き上がっている。神である百足を殺した祟りだ、そう理解する。

 百足は和久に、怒りと呪いを残していった。この深い怨みの力があれば蛇神を殺せる、殺さなければ。和久の頭はそれでいっぱいだった。亡骸から矢を引き抜く。神を一度殺すも二度殺すも同じ。百足の血を吸ったこの矢で、今度は蛇神を殺す。

 ちらりと疑念が過ぎる。百足はわざと殺されて和久に呪いをかけ、蛇神に一矢報いようとしたのでは。自分は今度は百足に操られているのでは。もしや百足は初めからそのつもりで接触してきたのでは。そんな思考が塗り潰される程痛い。身体中に巡る百足の毒から解放される為、蛇神を殺す為に洞窟を出た。

文字数:1200

内容に関するアピール

正月なので神を殺そうと思った。年末に神と出会い、正月に神と仲を深め、初夢で神を殺せと命じられ、松の内が開ける前に神殺しの罪を犯す。

ファーストコンタクトを書くにあたって、よく解らない相手を解ろうとすることが大事だと思い、人語を喋らない百足と、会話を成立させる気がない蛇神を用意しました。和久が理解したいと思うのは百足の方で、触れ合うことで理解できたような気になるけれど、神には神だけの思惑がある。どこまでいっても解り合えないけれど、刺したり噛まれたり、殺したり利用されたりすることで深まっていくものはあると思います。

今回題材にしたのは蛇と百足が土地を巡って争い、戦場ヶ原で戦った伝説です。大量の大蛇と大百足がぶつかり合う特撮映画のような伝説なのですが、今回の小説では時代も降り、人の信仰心も薄れて神の力も弱まっているのでかなり小規模な戦いになりました。それでも巻き込まれる人間にはたまったもんじゃない。

文字数:400

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神殺し

雪を入れたビニール袋を足首から降ろした。じくじくと痛む足首は酷く腫れあがり、青く変色している。やはり、しばらくの間はまともに歩けそうにない。
 バックパックの上で右足を少しだけ動かして、冷たいビニール袋を乗せなおした。ごつごつとした岩の壁に背を持たせかけ、洞窟の外を見る。暗くて良く見えないが、今も雪が吹き荒れているはずだ。
 油断したつもりはない。登山には常に危険が付き纏うし、雪山ともなれば尚更だ。いつも通り天気予報を確認して装備を整え、慎重に進んだ。それなのに何故こんなことに。
 突然の吹雪。普通に道を戻ろうとしたはずなのに迷い、どんどん深みにはまった。何かに足をとられて山の斜面を転がり落ちて、右足をくじいていしまった。電波状況が悪くて助けを求めることも出来ない。登山届は出しているし、帰りが遅くなれば登山仲間が通報してくれるはずだが、とにかく今夜はここで過ごさなければならない。
 地面からチタンのカップを取り上げ、熱いコーヒーを喉奥に流し込む。体が一気に温まり、ほうと息を吐いた。コーヒージャンキーの友人に勧められるまま買った豆は酸味が強かったが、不思議と和久(かずひさ)の口にも合った。わざわざガスストーブやコーヒーミルを山に持ち込むだけの価値はある。遭難した時に嗜好品の一つもないのでは寂しすぎる。
 そう悲観することもない、と心中で呟く。良い状況とは言えないが、吹雪に白く染まる視界の中、偶然洞窟を見つけられたのは幸運だった。崖の下方にあった二メートルほどの亀裂、その中がこんなに広いとは。額に手をやり、ヘッドライトの光量を調節する。光を洞窟の奥に向けてみるが、光はどこまでも闇に吸い込まれていくだけだった。かなり深い洞窟なのかもしれない。
 そう考えているうちに、ガクリと体が揺れて、慌ててコーヒーのカップを握り直した。眠りそうになったのだと気が付いて、自分の呑気さに呆れた。雪山で遭難している時に眠り込む奴があるか。
 カフェインの覚醒効果に期待したくて、コーヒーを一気に飲み干した。確かに疲れている。洞窟の中は不思議なほどに暖かい。先程携帯食を食べたので腹も満たされている。とはいえこの眠気は異常ではないだろうか。足を冷やす雪水すら心地よくて、痛みだけでなく思考まで鈍らされていく。
 カップを取り落とした。地面に転がる音がカラカラと虚しく響く。寝てはいけない、と思ったが、まぶたが落ちてくるのを止められなかった。
 
 ゆらゆらと揺れている。自分の呼吸と重なるようなゆったりとした動き。揺れているのは地面、いや、地面というには頼りない。十何本もの棒のようなものに支えられて体が浮いている。それは確かに硬かったけれど、寝心地が悪いとは思わなかった。横向きに丸まった姿勢になった和久を包み込むように湾曲している。
 寝返りを打とうとすると、背中にあたる板に阻まれた。その板もまた硬かったけれど僅かに弾力があったから、背を預けるに足るだけの安心感を覚えた。
 薄く目を開ける。暗闇の中、細い光に照らされて、柵の様な物がいくつも目の前にある。視界の左右から伸びてくる真っ赤な柵。ああ、これに身体を支えられているのだと納得して、和久はまた目を閉じた。波の様な揺れに身を任せて意識を落としてしまおうとしたが、まぶたの向こうの白々とした光がどうにも煩わしい。
 狭い空間で手を額にやって、ヘッドライトを消そうとするがボタンが見つからず上手くいかない。仕方なく目を開けて、ふと気づいた。自分は確か洞窟にいた。ではこの状況は何だ。
 咄嗟に手を伸ばして柵を掴む。押せば僅かに動くが、これ以上開かない。緩やかに揺られ続ける和久の思考は一気に冴えていく。背中に触れる何かが脈動する感覚まで背骨に伝わってくる気がして、和久は理解した。自分を包み込んでいる何か、それは確かに生きている。長い体をぐるりと丸めて、無数の肢で和久を閉じ込めている。
 急激に襲ってくる焦燥感と恐怖に声も出せない。一気に荒くなる呼吸のまま、力任せに真っ赤な肢を押し開けようとして、開かない。僅かに緩んだ脚はぎゅっと縮んで、暴れる和久の身体を抑えつける。得体のしれない生き物が密着する嫌悪感に背筋が泡立ち、逃れようと足を蹴り上げた。途端に走った鈍く重い痛みに高く声を上げる。捻って腫れた右足が、こんな状況だというのに呑気に痛みを訴えている。
 衝撃に一瞬動きを止めた和久の身体が、一気に締め上げられた。僅かな動きも許されない程に肢が和久の身体に食い込んでいる。尚も和久は暴れたが、無為に体力を消費していくだけだった。じわじわと黒い考えが脳内を侵食していき、やがて和久は動きを止めた。それは決して冷静になってのことではなく、絶望に満たされた新たな混乱にとりつかれただけだった。
 どうすれば、どうすればここから抜け出せる。考えろ。方法があるはずだ。逃げないと、逃げないとどうなる? とにかく抜け出さなければ。思考は凄まじい速度で巡るが、いつまでも同じ所をカラカラと回り続けるだけだ。
 助けを求めるように目の前の肢を強く掴んだ時に、目の前をゆらりと何かが横切った。すぐに戻ってきたそれが、ヘッドライトの青白い光に照らされる。虫の顔だ。牙の様にも顎の一部にも見えるものを大小二対備えて、その真ん中にざらざらとした二枚の蓋の様な、きっとあそこが開いて、そうだ、きっとあれが口で、ぎりぎりと獲物を噛み千切って磨り潰す。
 食われる。それだけが思考を埋め尽くした。虫の長い触角が和久の頬に触れて、鋭敏になった知覚を逆なでする。耐えきれなくなって叫ぶ。何を叫んでいるのか自分でもわからない。無茶苦茶に体を動かそうとするのに、どれだけもがいても蠢く虫に密着した背を少しも離せない。
 ふっと、虫の顔が視界から消えた。忙しく動かした目で再び虫の姿を捕らえるより先に、右足に何かが触れた。何か冷たく濡れた感触が、足首までを柔らかく包み込んだのに驚いて動きを止める。顔は動かさず、視線だけを降ろした。虫の顔、その真ん中に開いた穴に和久の足が飲みこまれている。
 虫にも舌があるのかな、と、そんなことを考えた。あるとしたら、今まさにそれに触れている。柔らかく蠢く内部に包まれて、足首がじんじんと痺れるように痛む。簡単だ。この虫が気まぐれに口を閉じれば、それだけで皮が、血管ごと肉が千切れて、骨が削り折られる。不意に、硬くて尖った何かが足首に触れて、痛みに小さく背を反らした。こんな小さな痛みなんて馬鹿らしくて笑ってしまうような惨劇がもう、くるぶしまで迫っている。
 祈るような気持ちで硬く目を閉じた。しかし、いつまでたっても衝撃は襲ってこない。
足の親指と人差し指の間に潜り込んでくる襞のような感触に堪えきれず目を開く。いたぶられている? 獲物の反応を楽しんでから食べようとしている? そんな考えを否定するように、足を包み込む感覚はただひたすらに柔らかい。
 無意識に引こうとする足の動きに合わせて、内部がぐねりとうねった。中で足は動かせるのに、柔らかい感触は足に吸い付くように纏わりついて引き抜くのを許してくれない。
 じわじわと溶かされているのかもしれない、とそう思う。痛みごと溶かされて自分の足の形も忘れてしまいそうなのに、むき出しになった神経まで情け容赦なく擦り上げられている。水気を帯びた音が嫌に耳に近く聞こえる。濡れた感触が耳から入り込んで、脳を無遠慮に撫でまわしている。
 もう止めてくれ、とそんな言葉が口をついた。もう嫌だ、許してくれ、と何に許しを乞うているのかもわからぬままにそんな言葉を繰り返す。いっそ早く食い千切ってくれと、そんな馬鹿な考えまで浮かんでくる。だって、こんなの、気が狂いそうだ。ガクガクと震える身体を抑えつけるように、虫の肢がいっそう締め付けてくる。そして、腰に何かが触れた。虫の長い触角の先だった。
 しなる触角が腰骨に沿うように巻き付く。何故かは解らないが、その瞬間、深い安堵に満たされた。流し込まれる幸福感に思考を灼き切られて小刻みに声を漏らす。粘膜が繰り返し収縮して足首を締め上げる感触が過剰に増幅されて、皮膚の裏を伝って全身に巡っていく。もう恐怖なんて感じられない。目の前の虫の脚に縋りついて額を擦り付ける。そこから先は、右足を、腰を、額を伝って与えられる感覚を受け入れるだけだった。
 長く思える時が過ぎ、衝撃が過ぎ去った後もしばらく弛緩した体を預けていた。ずる、と虫の身体を滑ったから、虫が肢をゆるめたらしい、とぼんやりと考えた。地面にゆっくりと降ろされて、岩肌のごつごつとした硬さに一抹の寂しさを感じる。

 座り込む和久の周りをぐるりと囲むように虫が距離をとったから、姿が良く見えた。それは、とても巨大な百足のように見えた。四メートルはありそうな身体。体節ごとに一対ずつ生えている肢。長い尾部。頭には細かく動く触角を備えており、牙のような顎は内側に小さいものが一対、外側に大きなものが一対。
 百足が窺うように顔を近づけてきた。それに恐怖を思い出して後退る。そして気づいた。右足が痛くない。目線を下ろせば、あの腫れと変色が嘘のように普段通りの様子の足が見えた。じわじわと滲むように理解していく。
「治してくれたってわけか……」
 苦々しい声色で呟いた。死すら頭を過ったあれがただの治療行為だったと知って徒労感がどっと伸し掛かってくる。百足が触角で右足に触れてくる。
「ああ、そうだね。もう痛くないよ、ありがとう」
 今はその触覚を手で撫でる余裕すらあった。さっぱりと取り除かれたように、百足への嫌悪感が消えていた。右足を地面にしっかりとつけて立ち上がる。
 百足が和久に背を向けて、沢山の肢を器用に操って歩いて行く。それを追いかけていくと、やがて柔らかい光が見えてきて、自分は洞窟の奥にまで連れてこられていたのだと知る。百足を追い越して、転がっているバックパックや靴も通り過ぎて、洞窟の亀裂から外を見る。雪に埋まる木々に朝の陽ざしが降り注いで、乱反射した光が目に刺さる。素足のまま踏み出せば、清廉な冷たさが足裏に伝わる。嘘のように気分が良かった。

 あれはいったい何だったのだろうか、と考える。座椅子に凭れてこたつに入り、テレビを見ている。余りに平和だ。雪山からやっとの思いで帰りついたのが今日の昼の事だったとはとても思えない。あの後荷物をまとめて、百足の後について雪山を降りた。しばらく進むと人が通る道に行きついて、気付くと百足の姿が無かった。
 熱くなってきたから、斜めに体をずらして足をこたつから出した。あんなに腫れていたとは思えないほどにいつも通りの足。あのまま足が治らなかったらどうなっていただろうか。動けないまま助けも呼べず、予定していたコースから外れているがために捜索も遅れ、持っている食料も燃料も尽きて、そのまま死んでいたかもしれない。しばらく山に登るのは止めよう、とそう思う。少なくとも一人で登るべきではない。そもそもあの山だって一人で登る予定ではなかったのだ。登山仲間に誘われて、そういえば地元の山なのに登った事は無かったなと思って快諾して、その登山仲間に急用が出来ていけなくなり、折角だからと一人で行くことにしたのだった。
 みかんを一つ剥く。年末のお笑い番組を見ながら一人、声を出して笑う。とにかく、生きて帰ってこられた。それでいい。あの百足は一体何だったのかという謎は残るが、そんなことよりも生きていることを喜ぶべきだ。このまま年末年始の休みをのんびりと過ごし、緩やかに日常に戻っていければそれでいい。

 そう思っていたのに、何故元旦早々に一人で雪山に登っているのか。救いようのない大馬鹿野郎だと言う他無い。ピッケルのブレードをしっかり握り、アイゼンをつけた靴で雪を踏みしめて進む。昨日の今日ので遭難するわけにはいかない。幸いにして今日は天気が崩れる心配もなさそうだ。
 どうしても、あの百足の事が気に掛かった。そもそも、あれは本当に百足だったのか。四メートル大の百足など存在しうるのか。本当にあの百足が足を治してくれたのか、百足にそんな能力があるのか。
 頭ではそう考えていたが、足を治してくれたのはあの百足だと、和久は確信していた。理屈など無いが、あの百足は遭難した和久を助けてくれたのだと思わずにいられなかった。だからこそまたここに来た。百足にもう一度会って真意を確かめ、礼を伝えたいと、そう思っている。
 それにしても、と思いながら立ち止まった。真っ白な雪景色。まばらに立つ木。突き出して尖った岩々。確かに百足と一緒に歩いた道だ。しかし、何度も見て覚えた山の地図と矛盾している。正規の登山コースから外れてかなり進んだ。しかし方角的に言えば、もう違う登山コースに行き当たって人の通る道に出ていなければいけないのに。そもそも、初日に計画していた登山コースからどう外れても、あの洞窟に行きつくことは無いと思うのだが。一体どうなっているのだろう。
 考えていても仕方がない。斜面にピッケルの石突を刺して、右足を持ち上げる。既に正規の道は外れてしまった。ここで遭難しては本当に救いようのない愚か者だ。進まなければ。進んで百足に会い、また生きて山を降りなければならない。

 崖の亀裂を覗き込んだ。ヘッドライトをつけて洞窟の内部を照らす。百足の姿はない。内部に踏み込み、ピッケルをバックパックの外側に取り付け、アイゼンを外して歩いてみる。壁に手をついて進みながら、そもそもこの洞窟はどれくらい深いのだろうか、と考える。わくわくと浮き上がってくる気持ちを自覚して、ああ、まずいな、と思う。正直言って冒険は大好きだ。誰も踏み込んだ様子のない洞窟なんてロマンの塊でしかない。子どもの頃からじっとしているのが嫌いで、危険な事ばかりしていた。大人になってもその気持ちは変わっていないから、だからこそ危険なことはしないように、登山者として常に安全を心掛けるように、ぞう自分に言い聞かせてきた。
 この状況は……危険だ。誰にも言わず来て、正規の登山コースから外れて、真っ暗な洞窟に踏み込んで、得体のしれない生き物と接触しようとしている。間違いなく危険で、だからこそ浮き立ってくる気持ちを止められない。
 奥に行くほど、手に触れる岩壁が滑らかになっていくような気がした。ただ進むことが楽しくて、夢中で進んだ。そして、ふと我に返って時計を見る。もう結構進んだのに奥に着く様子が無い。本当に、この洞窟はどれ程深いのだろう。不安な気持ちと好奇心が入り混じって心が安定しない。それでも引き返そうとは思えず、ただひたすらに進んだ。
 とうとう、広い場所に出た時。そこに大きな湖があるとわかった時。和久の心は感動で満たされていた。壁から手を離して歩く。ヘッドライトの光を受けて黒々と輝く湖、その淵にとぐろを巻いて百足が寝ていた。湖があまりに大きかったから、百足は随分小さな生き物に見えた。和久は興奮のまま百足の横に跪いて、その硬い身体に触れた。
「起きてくれ」
 掌でぺたぺたと触れて、身体を揺する。
「ここは……ここは、すごいね。きみはここに住んでいるのか」
 百足が、固く結んでいた身体を解く。もたげた頭の位置が高かったから一瞬不安が過った。重たい頭が振り下げられて、鋭い顎が自分の肩に突き刺さる。そんな幻影を見た。しかし百足はそんなことはせず、ゆっくりと頭を下ろすと、触角を差し出した。その触覚に手を触れさせて、和久は笑った。
「おはよう、会いたかったよ」
 口に出して、そうだったのかと納得する。自分はただ、会いたかったのだ。謎が残るとか、真意を確かめたいだとか、礼をしたいだとか、そんなものは建前で、自分はこの百足にただ会いたかった。何か、深い親近感のようなものを感じている。触れていると安心する。
 しばらく、触角を握っていた。硬い触角は手の上で滑らかにしなった。頭を見上げて、あの左右に二つずつある黒い丸は目なのだろうな、とそんなことを考えた。
「そうだ、お土産があるんだ」
 触角を握っていた手を離して、バックパックを背から降ろした。保冷袋を取り出して、その中からローストビーフのパックを取り出した。
 パックを開けて、百足に差し出す。百足は顔を近づけて様子を窺っていたが、すぐに興味を失ったようで顔を反らした。
 百足は肉食だと思ったのだが。やはり生肉じゃないと駄目だっただろうか。しかし家にあったものであげられそうなものは、正月用に買っていたローストビーフくらいしか無かった。さてどうしたものかと考えていると、百足がバックパックに頭を傾けていた
「ごめん、あげられそうなものは他に無いんだ」
 そう言いながら、何か他になかっただろうかとバックパックを探ってみる。あとは行動食の類しか持っていないが、百足の口に合うだろうか。バックパックの中に手を突っ込んでいると、何か硬いものに手が触れた。取り出してみると、それは小ぶりな日本酒の瓶だった。普段あまり酒は飲まないのに、正月用だからと気まぐれに買って家に置いておいたものだ。
 こんなもの入れただろうか。荷物は軽ければ軽い方がいい。酒瓶なんて入れるはずがない。訝しい思いで酒瓶を宙にかざしていると、その腕に百足が飛びついた。
「え、何、お酒だよ。美味しくないと思うけど」
 百足の肢がいくつも腕に引っ掛かって重い。仕方なく酒瓶の蓋を開けると、百足が勢いよく肢を動かして酒瓶に口をつけようとする。
 咄嗟に酒瓶を傾けて、和久は自分の掌の上に酒を注いだ。顔の内側についた小さいほうの顎で和久の手首を抱えるようにして、百足は和久の掌に口をつける。掌に百足の口が触れて動くのがわかってくすぐったい。
 百足が飲み干す度に、酒を注ぎなおしていると、突然百足が飲むのを止めた。顎を器用に動かして和久の手を掴み、じっと見てくる。
「飲めって?」
 そう、言われた気がした。ためらっている間にもじわじわと酒は掌の隙間から零れ落ちていく。勿体ない、と思った時にはもう口をつけていた。思っていたよりずっと辛口で、カッと喉元が熱くなる。
 また酒を掌に注ぐと、百足が口をつける。次に酒を注ぐと、百足がまた動きを止めて和久を見たから、和久はまた自らの掌に口をつけて酒を飲んだ。
 それを何度も繰り返して、酒瓶が空になる頃には、和久はすっかり酔っていた。こんなに弱かっただろうか。ああ、そういえば登山中の飲酒は厳禁だったな……と、そんなことを考えながら地面に座り込んだ。
 すぐ近くに地底湖の淵がある。ヘッドライトの光に水面は煌めいているけれど、その下はどこまでも暗くて底が見えない。これより奥に進むにはこの湖を泳いでいくしか無いのだろう。
 胡坐をかいた膝の上に、百足が頭を乗せた。その頭は膝からはみ出してしまうくらいに大きいのだけれど、なんだかとても弱くて、寂しい生き物のように感じた。
 大きな顎の上に手を乗せる。よく見ると、顔についている小さい顎と違って、この大きく尖った顎は顔に近い身体の側面についている。もしかしたら、顎というより腕に近いのかもしれない。酔った頭で、そんなことを考えた。

 水面の上に立っている。裸足の下では水草が揺らめいて、その間を小さな魚たちが行きかっている。周囲は霧に満ちていて遠くが見えないのに、何故か柔らかい光が白く溢れていた。清らかな香りがする。水の香りだ。
 ここはどこなのだろう。自分の姿を見ると、寝た時と同じ黒いジャージ姿だ。そう、自分は百足と酒を飲んだ後山を降りて家に帰り、布団で眠ったはず。どうしてこんなところに。
 そう考えながら、足を踏み出した。足を運ぶ度に水面がさざめく。それを不思議な気持ちで眺めながら、和久は歩いて行く。長い時間歩いて、やがて大きな壁のようなものに突き当たった。その菱形のような模様が並ぶ壁はどこまでも白かったけれど、螺鈿のように多色を帯びて淡く輝いている。
 近づいてみる。触れようとしたところで、壁が動いた。驚いて足を引く。和久の周囲を、壁が円を描いて囲んでいくのを、その壁が湾曲しているのを見て、気付いた。これは壁ではない。蛇だ。巨大な白蛇が、和久の周囲をぐるりと囲んでいる。最近似たようなことがあったな、と働かない頭で呑気に考える。しかしあの百足の十倍はありそうな程に大きい。
 蛇が斜めに頭をもたげ、和久を見下ろしてくる。その青みがかった白い目を見て、なんだか懐かしいような、そんな気持ちが一瞬過った。しかしすぐに、そのあまりの巨大さに、美しさに畏怖を覚える。
 麻痺したように思考も体も動かない。蛇がゆらりと揺らした頭が霧に隠れる。そして突然、蛇の姿が消えた。戸惑う和久を揶揄うかのように、周囲の霧が晴れていく。
 周囲数メートルだけ、空気から水気が消えて視界が明瞭になった。そして気づくと、目の前には神官のようにも、貴族のようにも見える古めかしい服を着た三人の人がいた。十にもならなさそうな童子を左右に控えさせたその大柄な男が、先ほど見た蛇が人の姿をとったものだとすぐにわかった。それはその人の髪が、肌の色が、服の色までが白かったからではなく、先程の蛇と同じ目の色をしていたからというからでもなく、和久自身の心から消えてくれない畏れが、その人を指し示すからだった。
 その人は気だるげに和久を眺めやって、やがて重い声で言った。
「お前か。弱そうだな」
 突然そんなことを言われて、呆気にとられた。山にも登るし結構鍛えているんだけどな、なんて、場違いなことを考えているうちに男は畳みかけてくる。
「まあいい。貧弱に見えても神の子孫だ。役目を果たせ」
「神の子孫? 役目? 一体、どういうことですか」
「上手くあの虫けらに取り入っているようだな。さっさと殺してしまえ」
 会話が成立しない。男が長く息を吐くと、黒い服を着た、黒いおかっぱ頭の童子たちが一歩踏み出してきて、少年らしい高く澄んだ声でかわるがわる喋り始めた。
「こちらにおわしますわが君は、ここら一帯を治めている尊い御方です」
「あの虫めは、この地を、この水を狙って何度も侵入してきたのです」
 和久は少し屈んで童子達に目線の高さを合わせ、問いかけた。
「さっきから言っている、その、虫というのは……もしかして、あの百足の事?」
 童子たちは和久の質問には答えず、またかわるがわる口を開く。
「先の戦いの時は、わが君の子孫である狩人の矢が退けたのです」
「それで懲りればよいものを、情けなく弱っている癖に今も執念深く狙ってくるのです」
「煩わしい卑劣な虫を、退治しなければいけないのです」
「その役目が、狩人の子孫、つまりは神の子孫であるあなたに下ったのです」
「喜びなさい」
「その栄誉に震えなさい」
 淡々と言われて混乱した。額を抑えて口を開く。
「待ってくれ。そんなことを急に言われても……」
 童子のうちの一人が歩み寄ってきて、背から手品のように取り出したものを手渡してきた。それは、黒い羽、黒い漆塗りの矢だった。細長い矢先が短剣のように尖っている。
「ご武運を」
 そう言いながらにっこりと笑い、童子は踵を返した。童子が戻っていくと、男は和久に興味を失ったように背を向けた。
「待ってくれ、何なんだこれは。ぼくはどうすれば」
 去っていく背にそう声をかければ、男がちら、と振り返って言った。
「望みならば褒美もくれてやる」
 そしてそれ以降は、どれだけ呼びかけても一度も振り返らなかった。追いかける和久の足元はさざめいて揺らぐのに、男と童子たちの足元には波一つない。ゆったりとした足取りの彼らにどうしても追いつけない。
 足の下の水面がどんどん形を失っていく。少しずつ、足が水に落ち込んでいく。腰まで水に落ち込んでもがく。清らかに見える水は生ぬるくて、泥のような感触がした。絡みついてくる水草に引き込まれるようにして、頭まで浸かった。

 目を見開いて天井を見上げ、荒く息を吐く。自らの首に手をやる。肌は乾いているのに、水に飲みこまれた感触だけが残っている気がする。
 少しずつ呼吸を落ち着かせながら、和久は今しがた見たばかりの夢について考えた。白蛇。二人の童子。神の子孫、その役目。そして渡された矢。そういえば、今日は一月二日。ならば今の夢は、初夢だったわけだ。初夢に白蛇。演技はいいのかもしれないが、あまり寝覚めはよくない。
 体を起こして布団を跳ねのけたところで、枕の横にある何かに気が付いた。手に取ってみると、それは矢だった。正確に言えば、折れて短くなり、羽を失った矢だ。夢の中で渡された矢を真っ二つに折って漆を剥げさせ、鋭い矢先に錆を浮かせれば丁度こんなふうになるだろう。
 じっとそれを眺めているうちに、だんだん怒りが沸き上がってきた。ただの夢ではなかった、という訳だ。一方的に好き勝手なことを並べ立てて、武器を握らせ、戦えという。それもあの百足と。
 和久は勢いよく立ち上がり、台所まで行くと、燃えないゴミの袋に矢を入れた。怒りの冷めやらないまま顔を洗い、着替える。
 今日は実家に戻る約束をしている。兄の家族が泊まっているからと、遠慮するふりをして好き勝手していたが、少しくらいは顔を見せないといけないだろう。甥っ子にお年玉をやるくらいのことはしておかなければ顔を忘れられてしまう。
 準備を手早く終えて家を出て、車に乗り込んだ。実家よりも山に行きたいな、なんてことを考えてしまって苦笑した。そんなに頻繁に同じ山に登ってどうするのだ。そう頭では考えるのに、百足に会いたいという気持ちは収まらなかった。

 和久はまた、洞窟の中を歩いていた。正月休みの最終日だった。知っている道だ。ヘッドライトは十分に明るい。壁に手を当て、早足にどんどん進んでいく。
 掻き立てられるような気持ちでここまできた。百足への気持ちが日に日に折り重なっていって、今ではそれしか考えられないくらいだった。
 広い場所に出る。穏やかな地底湖の淵で、百足がとぐろを巻いて眠っている。駆け寄って手を触れさせた。
「起きてくれ」
 切実な呼びかけに、百足は僅かに身体を動かした。
「会いに来たんだ。会いたかった」
 百足が固く結んでいた身体を解いて、触角を差し出してきた。その触覚を手に取り、額をつけた。触角の節が眉にあたる。
 やっとわかった。ここは神域なのだ。この百足はあの白蛇と対立する神で、退けられ、弱った今では、ここから離れては暮らしていけない。本来はきっと、こうやって触れ合うことなど適わない存在なのだ。
 顔を上げる。百足の四つの目が、じっと見てくるのを感じる。和久は触角を左手に握りしめたまま、右手を伸ばした。顔の外側にある。大きな顎に触れる。つやつやとして赤い、尖った顎を撫でる。きっと百足は寂しいのだ、と思った。敗れ、誰にも顧みられず、こんなに暗い所で孤独を食んで暮らしている。だからこそ和久を助けたのだと、自分はその寂しさに惹かれてここまで来たのだと、そう思った。
 ふいに百足が、和久が背負っているバックパックの方を気にするようなそぶりを見せた。
「ん? ああ、今日もお酒は持ってきてるよ」
 和久はバックパックを背から下ろし、開けた。奥の方に入れた日本酒を取り出すために腕を深く入れる。そして、覚えのない何かに手が触れた。一体何だろうと思って取り出す。矢だ。夢で渡され、捨てたはずの折れた矢だった。
ゆら、と影が差した。見上げると、高く頭をもたげたムカデがこちらを見下ろしている。ハッ、と我に返り、早口で言い訳をする
「違うんだ、これは。あの蛇に押し付けられたんだ」
 咄嗟に矢を投げ捨てようとして、できなかった。固まってしまったかのように、手が強く矢を握りしめている。この、矢からだろうか。水の香りがする。地底湖に満ちる暗い水の香りではない。光に満ち、草が茂り、魚が泳ぐ香り。夢の中でかいだのと同じだ。
 殺せ、と頭の中で声が響いた。夢で聞いた声。淡々と命令する蛇神の声だ。そうと認識したと同時に、和久の身体は動いた。高く腕を振り上げて、百足の腹に刺そうとする。百足が機敏に動いたから、矢先は音をたてて宙を切った。
 何だ、これは。自分はいったい何をしている。脳内は混乱しているのに、身体は迷いなく動き、また矢先を振り下ろす。その刃は、逃げようとする百足の肢の一つに当たり、肢を千切り落とした。
 地に落ちてなお動く肢を踏んで跳び、百足の背に飛び乗った。硬い甲殻の繋ぎ目を狙って、鋭角に矢を突き立てる。ぐ、と深く差し込めば、百足が身体を捩って暴れた。長い尾部を地面に叩きつける。振り落とされないように跨り、左手でムカデの肢の付け根を掴んだ和久は、矢を一気に引き抜いた。途端に、黒く粘性を帯びて光る液体が噴き出してきて、和久の顔にかかった。頭の中まで一気に黒く染まったような気がするのに、身体は冷静そのものの動きをし、百足の背から飛び降りる。地面をのたうち回る百足の下敷きにならぬように飛び退ろうとした時に、腕に強い衝撃が襲い掛かった。百足の振り回す尾部の先についた、長い肢が鞭のようにしなって和久の腕を打ったのだ。
 その衝撃に手が緩み、握っていた矢が弾き飛ばされた。のたうち回る百足の向こう側に落ちたようだった。手元から矢が消えても、周囲には水の香りが満ちている。鼻腔を満たすその濃い香りに耐え切れず、和久は走った。バックパックの所まで戻り、ピッケルを取り外す。
 暴れるのを止め、逃げようとする百足の動きは鈍かった。肢の付け根に向かって、ピッケルの先を振り下ろす。キン、と乾いた音がして、振動がそのまま腕に帰ってくる。ピッケルでは刃が通らない、やはりあの矢がないと。そう考えているのが自分自信なのか、蛇の思惑が流れ込んでくるのか、もうわからない。
 百足が振り回した尾部に脇腹を強く打たれ、和久は勢いよく地面に投げ出された。ピッケルを取り落とし、全身を打ち、地面を転がって、地底湖の端に身を浸す。凍りつきそうな程に冷たい。ぶつけて壊れたのか、ヘッドライトが消えた。一気に冷静になる。このまま、百足が逃げてくれれば。自分はもうこんなことをしなくていい。矢が無くては百足を倒せない。
 そう、思ったところに、何かが手に触れた。触って形を確かめる。水の底に沈んでいたのは、先程失くした矢の先だった。これも蛇の采配か。どうあっても、自分は百足を殺さなくてはならないのか。
 完全な暗闇の中、矢を握りしめた。どうか、このまま逃げて欲しい。そう思ったのに、水面を無数の肢で乱して、百足がこちらに向かってくる音が聞こえる。
 自分の指先も見えない程暗いのに、百足の動きは手に取るようにわかる。こちらの動きを窺っているのか、ゆっくりと近づいて来る。和久もまたゆっくりと立ち上がり、百足に歩み寄った。
 百足が頭をもたげたのを感じ取り、踏み込む。手に持った矢をただ真っすぐに差し込む。それでよかった。眉間の硬い殻を突き破り、肉を穿つ感触。そのすぐ後に、矢を握る右腕に走る激痛。
 百足の鋭い顎が、腕に刺さっている。叫び出したいほどに痛いのに、喉すら自由にならない身体はさらに矢を押し込む。矢が深く刺さるほど、腕に鋭い顎が食い込んで、腕の皮膚を裂き、肉を破っていく。どくどくと、液体が注ぎ込まれるような、そんな感触がした。腕に注がれた温かい液体が、痛みと共に全身に巡っていく。
 和久は、痙攣する左腕を上げて、百足の顎に触れた。自分の体が内部から痛んでいくのを感じる。百足もこのまま死んでいくだろう。自分が殺した。あの蛇に操られて。それが悲しくて、悔しくてならない。
 百足が顎を離した。腕から血が流れて落ちていくのを感じる。和久も、百足の眉間から矢を引き抜いた。液体が、絶え間なく水面に落ちていく音がする。黒と赤の体液が落ちて、冷たい水の中で混ざり合う。
 和久は、倒れるように座り込んだ。腰まで水に浸かる。その膝に、百足が頭を寄せてくる。その頭を抱え込む。今はもう、自分の体が思い通りに動く。水の張りつめた冷たさが、身体の痛みを忘れさせてくれる。
 百足が触角で和久の肩に、首に、頬に触れた。触角が動かなくなるまで、和久は百足の顎を撫でていた。
 全身が冷え切って痛みが身体に馴染んだころに、名残惜しい思いで膝の上から百足の頭の重みをどかした。百足を水の中に横たわらせたまま、折れた矢を握りしめて、和久は立ち上がる。
 時間をかけて手探りでバックパックを見つけ出し、壁に手を当てた。重い体を引きずって、洞窟の中を歩いて行く。何も見えないけれど、恐怖も孤独も感じない。今は百足の想いと共にある。百足が痛みと共に注ぎ込んだ怒りと恨み。それが全身を巡っている。
 これは呪いだ。人の身でありながら神を殺した祟りだ。そしてその呪いの為に、自分はまた神を殺さなければならない。この深い恨みの力があれば、あの蛇だって殺せるはずだ。
 光が見えてくる。それに向かって歩き続ける。自分の服が赤黒く染まっているのも、手に持った矢の先が黒く濡れているのも見えるようになってくる。この矢で、こんどはあの蛇を殺す。自分の策略ゆえに、あの蛇は死ぬことになる。
 そう、考えたところで、ちらりと疑念が過った。最後の百足の動きは、まるで自分から刺されにきたようだった。何故そんなことをしたのだろう。例えば。例えば、百足は自分の死と引き換えに和久に呪いをかけたのではないか。
 今は自分の体を自由に動かせる。本当にそうだろうか。今度は百足に操られているのではないか。もしかしたら百足は初めからそのつもりで、蛇の子孫だと知っていて和久に接触してきたのではないか。遭難した和久を助けた所から、もしかしたらもっと前、和久が山に足を踏み入れた時から、全ては仕組まれていたのではないか。
 踏み出した右足に、鋭い痛みが走った。その痛みに思考が塗りつぶされる。解放されたい。蛇を殺せば、この痛みから逃れられる。もうそれしか考えられない。
 洞窟の亀裂に手をかけ、外を見る。降り注いだ日差しが白い雪に乱反射する。濡れた体に吹き付ける寒風よりも、目に刺さる光の方が煩わしかった。

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