無何有むかうくらい

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梗 概

無何有むかうくらい

天使と友達になる事が商人ヴァイシャの始まりだった。商人たちは現実に天使を見る。例えば金貨スヴァルナを数えるとき、金貨には顔と両手を持った天使が降りてくる。その金貨を銀貨に換えるとき、天使は砕け一本の指がそれぞれの銀貨に降り立つ。逆に天使の指の銀貨が十枚集まると、金貨と同じ姿の天使になる。これが基礎だ。

改修中の星見台で、青年ブラフマグプタは家業相続カーストに従い、商人の父親から算術ガニタを教わるとともに天使についての説明も受けた。商人は天使から『数』を数える秘跡を知らねばならない、それはジャイナ教の修行僧たちが寺院での研鑽により開発した技術であると。

ブラフマグプタ、星を見るのが好きだった青年は天使に心酔した。星の運航や月の満ち欠け、嵐や飢饉などあらゆる場所に天使は居たからだ。より多くの天使を見つけ出し仲良くなれることは、類まれな算術の才能だった。だが、商売の才能ではなかった。商売に必要なのは天使を飼いならし、複雑怪奇な『税』や『保険』という名の天使を培養する才能だった。天使を見ることができない商人以外の人間は、それらに踊らされるしかない。
 町の貧富の差は露骨だった。
 自身の適正と、父が求める商人としての才との不和に悩むブラフマグプタ。彼は行商の過程で、唐より経典を目指してやってきた玄奘三蔵が率いる一団と出会う。玄奘らを案内する過程でブラフマグプタは悩みを打ち明ける。ならば、と玄奘はブラフマグプタも共に旅をしないかと誘いをかける。
 玄奘らの旅は、行く先々で怪物と化した天使たちが待ち受けており、天使の本質を算術によって理解できるブラフマグプタは玄奘らの助けになれるという。さらに悩むブラフマグプタ。玄奘らは自分たちはかつて、商人たちが言うところの天使であったが罪を犯したため地に降り、罪を清め再び天に昇るために経典を取りに来たことをブラフマグプタに伝える。
「元居た場所へ戻ること、何もない状態へ成ること、それが目的なのです」

悩みもそのままに、町で騒ぎが起こる。星見台の改修に際して発生した『税』や『保険』などの天使が、勝手に踊りだし商人たちを翻弄して、巨大な醜い怪物に育ってしまう。町に存在するすべての金貨スヴァルナを足し合わせても太刀打ちできないような巨大な数に。
 駆け付けたブラフマグプタと玄奘らに、ブラフマグプタの父親が助けてくれと懇願する。
 だがブラフマグプタはただ天使に見惚れていた。月や星ではなくても、人はこんなに巨大なものが作れるのだと。
 これを、知りたい。思った時にはすでに算術を始めていた。天使を算術で分解していく過程で、あることに気づく。
『何もない状態に成る』──つまり、無が有るのだ。
 そうひらめいたとき、ブラフマグプタはいままで存在しなかった天使を見た。その非存在に無を意味する『0』と名前を付けた。
 そして星見台の天使に『0』を掛け合わせることで鎮め、この天使とともに一生を過ごす事を決め、玄奘らと別れる。

文字数:1234

内容に関するアピール

数学伝奇SF。『0』という概念とのファーストコンタクト。一般に、『0』という概念が初めて書物に記されたのが628年のインドで、記した人物はブラフマグプタという天文台長だったらしい(天文台だとイメージが現代っぽいので作中では星見台に変更した)。話のスタートはそこだったのだが、それだけで書くとなんとなくテッド・チャンっぽい。なので、西遊記のモデルとなった玄奘三蔵の活動(602年~664年)と娯楽活劇たる西遊記を掛け合わせたのだが、いつものごとくアイデアはあれど知識の拡充は追いつかない。実作を書くのなら、西遊記と6~7世紀のインドとインド数学に関しての本をもう少し攫って書きたい。タイトルは、無何有郷に天竺と0の意味を込めて。……主人公の名前、長すぎでは?

文字数:328

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無何有むかうくらい

628年 世界で初めて『0』を数字として扱った天文書『ブラフマスプタシッダーンタ』が記される、著者の名はブラフマグプタ。
 645年 長安にインドからの啓典が持ち帰られる。持ち帰った僧の名を玄奘三蔵といい、法名は『三蔵法師』。

1.天上の計

雨季カリフが近い澄んだ晴天、午前中にも関わらず遠くには荼毘の煙が立ち上り、煙の根本には天使たちが舞い降りていった。
 日除けの幌の下に座り込み遠くを見ていたブラフマグプタは手元に視線を戻した。並んだ職人たちが手元の籠に銅貨を三枚ずつ落としてゆく。労働事故に対する保険料だ。籠の中に落ちた銅貨は、かろん、かろん、と混ぜものの多い鋳物の音を立てる。はしくれとはいえ商人ヴァイシャのくせに、グプタは金の音を聞いていてもさして面白くもなさそうだった。
 憎まれ口もいい飽きた寡黙な職人たちは銅貨をグプタに払うと、腕に被保険を表す飾り紐を巻いては踵を返して、すぐ隣の石柱が立ち並ぶ現場に向かった。日に焼けて赤銅色の上半身に測量縄だけを巻き付けて黙々と測量へ取り掛かる。かつてはジャイナ教の祭壇シュエーナチットを作っていた老練な職人たちだ。測量縄を用いて石柱を取り囲むように地に描かれた方陣は寸分の狂いもない正方形で、赤道に対して各辺が水平か垂直かのどちらかを保っている。正方形を作ったのは職人たちだったが、赤道に対する角度を算出したのはグプタだ。
 保険料の勘定を終えたグプタは、樺の書板パカラに嬉々とした指遣いで数式を書き始める。倒壊した石柱のどれを入れ替え、どれを再利用するか。日時計用に製鉄された指針棒をどんな角度で配置するか。
 それらはすべて、この荒れ果てた石柱群──天文台を再建するためだった。
 グプタは倒壊した石柱や職人たちの身体の傷を横目に見て思う。
 北西からの匈奴フーナ族の侵攻が落ち着き、ヴァルダナ王の治世が始まって市井は太平となったが、土地も人も、まだ傷は癒えない。
 王の勅令による復興の世にあって、この天文台の再建にかかる費用も国庫より支払われる。
 荼毘の煙よりも手前、交易路は各国からの旅人や商人が、学術や交易品を求めて行きかっている。空元気じみてはいたものの、このウッジャイニーの町に活気はあった。
 雨季カリフが近いということは乾季ラビの収穫が行われつつあるということで、町からは市場の喧騒が聞こえる。
 砂色をした焼き煉瓦の街並みの中心。店々の前にはグプタと同じように幌で日陰が作られ、丈夫な麻布の上に種々の作物が並べられている。噂には、収穫さえ間に合わないほどの豊作だそうだ。
 市場を取り仕切る、父にして師匠ジナのジシュヌは、きっと今日もきちんと儲けを出しているのだろう。そう思うと、グプタの数式を書く手が止まった。
 書板の上の天使たちが、不思議そうにグプタを見た。
──そう、天使だ。
 書板に描かれた数式にも、保険料として拝領した銅貨にも、石柱にも、天使がいた。それらは『数』を教えてくれた。
 幻視ではなくグプタのような商人は現実に天使を見る。
 なんとなく気もそぞろになってしまい、書板をかたして銅貨の籠をもう一度足元に持ってきた。
 籠の中には銅貨と、そこに降りてきた車輪の天使が居た。
 例えば金貨スヴァルナを数えるとき、金貨には顔と両手を持った天使が降りてくる。その金貨を銀貨に換えるとき、天使は砕け一本の指がそれぞれの銀貨に降り立つ。逆に天使の指の銀貨が十枚集まると、金貨と同じ姿の天使になる。つまり、一枚銀貨を十枚の銅貨に、一枚銅貨を十枚の貝幣に替えるときもまた同じく天使は砕ける。より小さく、粉々に。そして逆に、十枚の貝幣が一枚の銅貨になる時も、十枚の銅貨が一枚の銀貨に成るときも同じく、天使のは上がる。これが基礎だ。
 荼毘の煙に降りてくる天使たちもそうだ。かの天使らは、死者の魂を迎えに来たのではない。死者の家族に対しての保険金や、喜捨や、葬儀代を形代に顕現している。
 グプタのような商人の家業相続カーストは、必ず天使の数秘を教わる。グプタの場合は、半月一翼前の夜、ちょうどここで教わった。成人を迎えても夜中に家を抜け出しては崩れかけの天文台で星見ばかりしているグプタに、父ジシュヌが業を煮やしてのことだった。
『有るものは有る、無いものは無い。それが商人のことわりだ』
 それが商人である父の口癖だったし、その夜も星見を続けるグプタに訥々と言って聞かせた。グプタもグプタでいつも通りに、
「じゃあ、星は?」
 と返した。天上にあって手元にはない、金貨や父が片手に下げた松明とは違う輝きを放つそれを、グプタは好んで見続けた。占星術士ガナカの真似事ばかりするグプタに、ジシュヌは松明の火が消えそうなほどの大きなため息をついて、言う。
「今から教えるこれは商人の手段であって、目的ではない。本当は、商人の才を見てから授けるつもりだった」
 そして、町の近くの洞窟寺院で連綿と研鑽されてきたジャイナ教の数秘を──天上の計を──グプタに授けた。
 どうやって授かったかということはグプタにとってどうでもいいことだった。その後の光景の印象が強すぎたから。その日から、グプタの目には天使が見えるようになったし、天使は『数』を教えてくれた。
 では、今まで『数』を知らなかったといえば、そうではない。子供のころから、母親の小間使いで市場に行かされたときには他の店と比べて安すぎる店の店主に適正価格を教えて予算を余らせないように買い物していたし、複数枚のチャパティを家族で分けるときも自分の取り分を間違えることはなかった。
 天使が教えてくれたのはそういうことではない。父が他の商人とやり取りする数字を刻んだ粘土板の借用証が、時間を経るごとに加速度的に金利という天使を成長させることや、円の径から面積を求める際今まで使っていた『√10』という数では天使が窮屈そうであることなどだ。
 もっとも、ジシュヌが教えたかったのは、母親の小間使いなら安い店で買い物をし、釣り銭を駄賃として懐にいれ、複数枚のチャパティをより多く自分が得るため他人を納得させる力だったらしかったが。
 グプタは天使に夢中になった。ジシュヌの悪い予感は的中した。
 グプタは天使を商いに役立てるのではなく、天使そのものを探し出したり変形させることに夢中になったのだ。胡散臭い占星術士ガナカのように。
 ゆえに一翼半月経った今でも結局、グプタは工事現場の監督と徴収した保険料の番という、母親の小間使いから商人の小間使いに変わった程度の仕事しか任せてもらえなかった。
 それはグプタを悩ませもした。星を見ていたのは、偉大な商人である父から逃れるためでもあったからだ。けれど、天上の計を知ってしまったことによって、商人というくびきの中に囚われてしまった。なのに今もまた、天使の発見と天文台の設計計算で、自分の非才さをごまかしているだけだ。
 暑さを感じてみじろぎすると、かろん、と籠の中の銅貨が鳴る。日が昇りグプタの半身が幌の影から日向にでていた。飛蝗がぴょんと跳ね、車輪の天使は互いに外周を絡ませあいくるくると回転している。
 嫌な時間ほど、やってくるまでは早い。現場監督の交代役が市場の方からやってきて、グプタの肩をたたいた。グプタはやけに重い気がする銅貨の籠を抱えて市場へ向かう。保険料を回収して、店の出納板に記録する必要があった。
 市場への道は人でごった返していて、水瓶を頭に乗せた老女から、ひっきりなしに作物を運ぶ農民、飛蝗を追う少年まで様々だ。もちろん、天使も数多くいた。例えば、交易路に敷かれた焼き煉瓦は、縦横高がそれぞれ四と二と一の比率で作られており、その一片一片が頑健な守護天使として人々の足元を守っている。
 それらの天使を手慰みにしながら道を行けば小一時間1ムフールタもしないうちに、市場についていた。天文台の再建現場から見えた通り、道沿いには米や麦、果実、野菜、香辛料などが、色も香りも華やかに並べられている。収穫が追いつかないほどの豊作というのは噂にたがわないらしい。さらに進んだ先にある円形の広場は、沐浴場や葬儀場、階段井戸につながる小道を抱えたこの町の中心地だ。広場の円周沿いにある建物の一つが、父ジシュヌの店であり、グプタの目的地だった。
 グプタは意を決して店に入った。午前中の取引を終えた店内は人の熱気だけを残してがらんとしている。ジシュヌは利子や返却期限ごとに細かく区分けされた棚の前にいて、借用証である粘土板を出し入れしては今日の貸し付け分と回収分を計算していた。
「遅いぞグプタ。商人は午前中に出納の記録を終わらせ、午後は仕入れや寄進をしなければならない」
「なら出納板は私が掘ります」
 父は怪訝な顔をしながらも、午前中の取引を書いた書板の束をグプタに渡し、ついで木枠に伸ばした粘土をはめた粘土板を渡した。今日の分の出納をまとめ、そのまま焼くことによって木枠は焼け落ちて固まった粘土板だけが残るのだ。その内容は本来商人にとってはあまり面白くない事務的な単純計算の繰り返しだが、グプタにとっては商人の仕事のうちで数少ない楽しみだった。ジシュヌがグプタから目をそらし小さくため息をつくのを、グプタは見なかったことにして計算に打ち込んだ。
 出納板の掘り込みが終わるころ、ジシュヌはグプタに任せる午後の仕事を伝えた。父と複数人の商人が土地を買って寄進した、町の近くの洞窟寺院の視察。食料品などを牛に括りつけて、ジャイナ教の僧たちに届ける役目だ。
 これもまた、本来なら豪商の第一子がやるような仕事ではなかった。それでも、グプタは文句を言わなかったし、ジシュヌはそのことついてもいつもの軽い落胆を感じているようだった。

2.地の平方

飛蝗だった。天上の星を全て足し合わせても足りないほどの。今朝からよく見るとは思っていたがこういうことか。
 町へ帰る最中の、遮るもののないバーラタヴァルシャの平原。グプタの目が地を這う黒いもやを捕らえた。瞬間、引いていた牛はいなないて逃げ出し、雨季の瀑布にも似た轟音を立てる激しい勢いの蝗の群れがまごついていたグプタを呑み込んだ。
 そのはずだった。頬や腕に無数の細やかなものが当たる感覚はあれど、それが鋭いとげを持った後ろ足や作物を食い荒らす顎がグプタの全身を痛めつけるような感覚ではなかった。
 おそるおそる目を開けば、石の身体を持った猿が残像さえ見ぬほどの速度で棒を回転させ蝗を防いでくれていた。グプタの身体は棒に粉砕された蝗の死骸にまみれていたが、服を食いちぎられ体中を傷だらけにされるよりは何倍もよかった。ただ、ぽかんと開けた口にまで蝗の残骸が入ってくるのだけは、気色悪いなあ、と見当違いのことを思う。
「息災でございますか?」
 突然かけられた声に、グプタは今さら声を上げて驚いた。
 振り返れば、蝗の大群の最中にあってもポッカリとあいたその空間にグプタ以外の人間が一人と、石猿のほかに奇妙なものが二つ存在している。
 人間──袈裟を着た、グプタと同じくらい若い僧が一人。グプタの声に驚いたのか両手を上げてのけぞる。その両手が蝗の大群の中に入ってしまい慌てて引っ込めては胸元に持ってきて、ひっついた蝗を払って取り繕うように合掌した。
 その後ろに控える『馬のない四輪の戦車みたいなもの』と、その荷台に乗せられた『頭頂部が皿状になった胎児を模したひびだらけの黒檀彫のようなもの』は、いったいなんなのか皆目見当もつかなかった。
 グプタは何も言わずにそれらを見つめていたし、僧も僧で合掌したまま伺うように薄目を開けてグプタを見ていた。最終的に、しばらくして蝗の大群が過ぎ去り石猿が回転させていた棒を収め僧の後ろに控えるまで無言だった。
「息災でございますか?」
 仕切り直しとばかりに僧が言う。グプタが頷くと、僧は良かったと言って合掌を解いた。曰く、名を玄奘三蔵といい最も通りが良いのは『三蔵法師』という法名らしかった。
「その三蔵様はいったい何ようでこちらへ?」
「天竺の中心──あなたたちがいうところの曲女城カナウジ国へ、経典を授かりに参りました。ガンガー河を渡りカイバル峠の向こう、唐の国より。此の国と同様に、唐もまた侵攻により傷つき救いを求めております」
 グプタも、それで合点がいった。彼は仏僧だ。ゆえに牛よりも先にグプタを守ったのだ。そしてさらに思いつく、牛はどちらに逃げた──いや違う。いったいあの蝗の群は、どちらに向かっている? 
 だしぬけに顔を上げてあたりを見回す。はるか遠くに黒いもやを見つけて、そのさらに向こうに町の農地が見えた。豊作で、収穫が間に合っていない農地が。
 駆け出そうとした。いつもこうだ、自分は大切なほうに目を向けられていない。商人の才についてもそうだし、この蝗害もそうだ。蝗に襲われてでも、農地の方に牛を走らせていれば──。それでも結局は間に合わないと、牛が走る速度と町の農地までの距離から自然と計算され理解できた。けれど、間に合わないとしても自分がそう行動できなかったことに腹が立った。悔しさを込めて足を踏み出そうとし、三蔵に腕を引かれてつんのめった。
「急ぐのでしょう、お乗りなさい」
 腕を掴んだ三蔵が言い、そのままあの『馬のない四輪の戦車』の荷台に乗せられた。ただの戦車にしては前後の車輪の間隔が開きすぎていたし、到底馬でも引けそうにないほど鈍重そうな箱が荷台の前と後についていた。
「馬は──」
 言い切るよりも先に、三蔵とその従者らしい石猿が荷台に飛び乗った。石猿の重みで鉄の車体が軋む。石猿はどこからとりだしたのかわからないが慣れた手つきで、先ほど蝗を払った棒を戦車の後方に差し込んだ。
「いきますよ、八戒」三蔵は戦車の前方の箱に手をのせ、小さな隠し扉を開く。扉の中からは両手で握る操舵管が現れ、箱の上方にはパタパタと回転し表示を変える文字盤が『好啦了解』の二文字で止まる。それを見た石猿が棒に手をかざすと、いかなる道理か棒はゆっくりと伸縮による往復運動を始めた。
 石猿が後方の箱を開くと、中には精緻にして頑健な鉄の歯車がいくつも並んでおり、その中の歯車の一つに接続された鉄の棒を、伸縮する棒にくくり連動させる。往復運動が回転運動に変換され、戦車の車輪に動力が伝わった。
 鉄の戦車が自走を始め、速度が出るごとに棒の伸縮が早まっていった。
「出鱈目だ……」
 グプタは荷台にしゃがみながら、蝗の残骸が口に飛び込んできた時と同じような気分で呟いた。呟く間に戦車は牛よりも、そして馬よりも早くなり、町への街道を土煙を上げながら驀進していた。車輪には鏡文字の経が彫られているらしく、背後の轍は四筋の経となって大地に徳を刻む。
 だが、それよりもグプタの目を引いたのは、前後の箱の中身だった。出鱈目に──乱雑に見えてその実、清冽なまでに整った天使たちの演舞が見えた。例えば、歯車の天使はそれぞれが互いに相いれない──割り切れない数で手を取り合っておりそれ故に歯と歯の磨耗が最小に抑えられていた。
 地面の石を踏んだか何かで、戦車が軽く跳ねる。その勢いでしゃがんだまま横に倒れたグプタが、起き上がりもせず再確認するように言った。
「出鱈目だ……」
 操舵管を握る三蔵はそれを聞き、困ったように眉尻を下げながらも、口元からはいささか僧らしくない不敵な笑みをこぼしていた。

「紹介が後れました、これは孫悟空。またの名を斉天大聖といい、天にあってはいかずちを呑み、地にあっては鉄を喰らい、石のはだえの下には溶けた鉄が流れております。さるお方から『かの者が飢えた時には鉄丸をあたえ、渇いた時には銅汁をあたえよ』と言わせしめた齢五百を超える仙猿。瞳の電気石は熱を帯びると微細ないかずちが流れ、それを持ってして識とする者」
 石猿が合掌し、一礼。
「これは猪悟能──猪八戒。またの名を天蓬元帥。識を孕んだからくりが前方の箱に収められていて、本体はこの箱の中。私の代わりに舵を取ってくれます。後部の箱は悟空と義兄弟の契りを結んだ際に増設された動力部分で、伸縮自在の宝具──如意棒の伸縮が四輪のマニ車を回して、まさしく猪が如く地を駆けます」
 前方の箱に付けられた文字盤が回転して『你好こんにちは』と表示。
「これは沙悟浄。またの名を捲簾大将といい、この黒檀彫に寄生する粘菌がその正体なのです。かの者は寡黙ですが、縮尺を小さくした地形をその黒檀に彫り込むと、最適な経路に自身を繁殖させる能を持つ、私たちの旅の行路案内のような者です。乾燥と熱が苦手で、折を見てこの皿に水を注いでやらねばならないのはご愛嬌」
 三蔵が竹水筒をとりだし、黒檀彫の頭頂部の皿に水をそそぐ。
「そして私は玄奘三蔵。またの名を三蔵法師という、しがない仏僧でございます。して、御仁のお名前は?」
 荷台の上で繰り広げられる自己紹介は喜劇じみていて、グプタには高速で後ろに流れてゆく風景と一緒に現実まで溶け去ってしまったように思えた。
「ブラフマグプタ。偉大なる父にして商人ジシュヌの息子……」
 それ以上、グプタの口から言葉が出てこない。
「はて、それではお父様が偉大なことは伝わりましたが、あなたのことなにもはわかりません。蝗害に見舞われても町を気にして駆け出し、自身の財であろう牛を追いもしなかった心優しき高徳の人であるということ以外は」
 操舵管から手を離し、腕を組んだ三蔵は首をひねる。
 そのような動作をされたところで、グプタにもこれ以上何か説明できることはなかった。しいて言うなら、星見と算術が好きであったがそれがなにになるというのか。
 口籠るグプタに、三蔵は合点が言った様子で袈裟の中から小袋を取り出す。
「口直しにこれでも」
 そういって三蔵は、小袋の口をひらいて、紋の刻まれた白い錠を手の上に転がす。グプタがそれは何かと問おうと口を開けたとき、三蔵は抜け目なくグプタの口内に白い錠を放り込んだ。
「米粉で甘藷の糖を練り固めた、ただの砂糖菓子ですよ。生の蝗は食べれたものではないですからね、せめて火が通っていればまた違いますが」
 甘みが口の中で崩れ、米粉の滋味と調和する。素朴ながらも蝗なんかよりははるかに美味な食べ物だった。なんだか久しぶりに、甘みを感じた気がする。そのまま飲み込めば、胃の腑に妙な安心感が生まれていた。
「私は商人の見習いなのですが──」
 気づくと、会って間もない若い僧に、自身の境遇や至らなさ、商人が授かる天上の計と自分がそれを正しい目的に使えていないことなど、隅から隅まで告白していた。後方に流れては溶けてゆく現実感と、奇妙な従者を連れた仏僧。こんな境遇には二度となる気はせず、恥のかき捨てと思って全て話したのだった。
「なるほど」
 神妙な顔でうなづく三蔵。組んでいた腕を解いて、再度操舵管に手を伸ばす。八戒の文字盤が回転し『怎麼了どうしたの?』と表示される。
「グプタ御仁。一緒に曲女城カナウジ国に参りませんか?」
 無造作に操舵管を切っては、八戒の後輪が滑り、大地を削る異音が響いてもうもうと土煙が上がる。事前に察していたらしい悟空は、悟浄の依代が慣性に任せて荷台から放り出されないように抑える。八戒自身はいきなりのことに抗議するように文字盤を回転させ、グプタには読み取れないような速さで三蔵に文句を表明していた。
「蝗害を伝えなくては!」
 咄嗟の返答と、荒ぶる語気。しかし言葉とは裏原に、グプタの心はその意味をしっかりのみこんでいた。出家、ということか。
 正確に言えば、言葉さえ、出家を否定してはいなかった。今はそれよりも蝗害への対処を優先すべきであるとしているだけで。
「確かに。今は、それが先決ですね」また口元に不敵な笑みを浮かべながら、三蔵は操舵管を切り直す。
 八戒は猪らしさのかけらもない様子で女々しく三蔵への文句を表示し続けていたが、それ以外は農地に着くまでだれも言葉を発しなかった。

辿り着いた農地は惨状と言っていい様相だった。
 農地の入り口で八戒が止まり、グプタと三蔵が荷台から降りる。悟空も後部の機関箱から如意棒を取り外しまたどこかに収め、農地の入り口に立った。それでも、農民たちは三蔵たちに目もくれなかった。誰もが、まぶしげに手を目の上にかざして影を作りなすすべなく黒いもやが農地を覆っていくのを見ているしかなかった。
 グプタ達が降りった農地の入り口、街道に面した場所には出納がしやすいように住居や穀物庫パルヤを置く。かろうじて、収穫済みのものを家屋の中に収めたり、穀物庫の入り口や窓に立板をかけるなりはできたようだった。だがそれだけで、家屋の軒先にあったであろう幌や、農民たちの衣服など、植物由来の材質で作られたものはおしなべて飛蝗たちに食い荒らされていた。遠くでは牛舎の木材が齧られ、暴れる牛たちが柵を破壊して荒野となった放牧地なだれ込んでいった。
 雨季が近いゆえの湿った熱風と日射が、遮るもののない彼らの肌をねぶる。
「唐でも、蝗害はあります。この国では農地は誰の所有なのですか? 農民たちか、それとも地主か?」
 苦い顔をした三蔵が問うた。いったい誰が、この損害を何とかする責任を負うているのかと。
「ここらは商人が地主として土地を所有している」
 グプタが答える。グプタの家系は地商人ではないので、直接的に土地を所有しているというわけではなかったが、商人間のやり取りに影響は出る。
 グプタも三蔵もその場から動けずにいると、蝗の羽音に紛れて遠くから、馬蹄が地を蹴りつける音が何重にも聞こえてきた。
 編隊が農地に着くと、グプタ達のすぐそばに馬をつないで、商人たちが降りてくる。その商人たちも、グプタや三蔵には目もくれず、達観したように諦念を漂わせて農民たちの方へ向かって行く。
 始まったのは、これからの生活と、そのためのカネの話だった。しかして、その話は少しもたたないうちに双方の困り眉を晒すはめになった。
 見るに見かねた三蔵が、二群の間に割って入る。
「もし? 物の怪の類であれば、この仏僧めらに一日の長がござりますが?」
 悟空がまたぞろ棒をとりだし、肩に担いでは三蔵の後ろに控える。そこでようやく農民も商人も、何やら風変わりな──それこそ本人たちが物の怪の類のような──一団が、村の入り口に控えていたこと知った。
 グプタは父がよく吐くような大きなため息をついた。農民からも商人からも、自分はこの一団として見られてしまったし、また出鱈目なことを言い出す三蔵を野放しにしておいたら本当にこの町にいられなくなり、出家する以外なくなるかもしれない。そして不本意なことにこの状況までも、この出鱈目な僧のはかりごとの内な気がしてならない。
 ようするに、グプタが町の問題と三蔵一行とをとりなすしかない状況だった。
 三蔵よりもさらに前に踏み出しながら、グプタは口を開く。
「私は偉大な商人ジシュヌの息子ブラフマグプタ。蝗害への助力のため、唐からの仏僧、法師三蔵を連れて参った次第です」
 それを聞いて農民たちの表情は多少明るくなったが、商人たちの顔はより暗くなった。商人たちには、ジシュヌのぼんくら息子の噂話はよくあがっている。そんなことはグプタも知っていた。だが、グプタだけではなく、唐からの仏僧も控えており、商人たちもうかつなことは言えない。
 不承不承といった空気のなか、商人たちは事情を話し始めた。
 結論を言ってしまえば、農民が被った蝗害への保険金が払えないということだった。
 グプタはなぜ払えないのか理由を聞いたが商人たちは答えない。仕方なく、農民たちの算術に慣れておらず肝要を得ない話を聴き込むしかなかった。
 わかったのは、被害を受けた農地の面積がすぐには計算できないから保険金の算出もできないという理由だった。商人たちに問いただすと、曖昧ながらも首肯した。
 三蔵はまた眉根を寄せて、そんな道理が通るかと説法の一つでも商人たちにたれようとしたが、グプタが止めた。このままでは、商人たちからどんな難癖をつかられるかわかったものではなかったし、何より、グプタが計算したかった。
「法師三蔵、このグプタに計があります」
「ほう、いかなる計か」
 年端も近い二人は悪童のようににやりとした。
 そして、測量と計算が始まった。単純に、グプタ達が保険金を計算してしまおうという話だ。測量に関しては、三蔵の従者たちがこの上ない働きをしてくれた。悟空と三蔵を乗せた八戒が、グプタの指示を受けて農地を走り回った。八戒の車輪の回転は、刻まれた経のお陰でむやみに空転することなく、この上なく正確に悟空の如意棒の伸縮に対応する。つまりは移動に対する伸縮の比を計算してしまえば、あとは如意棒の伸縮回数を測ると必然移動距離を知ることができた。悟空は如意棒を制御し、同乗した三蔵が伸縮回数を記録した。八戒を走らせるだけで距離が測定できるのだから、縄を使っての測量よりも何倍も速く被害地の外周や各辺の寸法が算出できた。
 そして記録した寸法をもとに、正確な比で縮小させた農地の図面を木切れに彫りこみ、黒檀彫りの悟浄に触れさせた。被害を受けた農地は当然ながら不定形でこのままでは面積の計算ができない。作付けの区画自体は幾何学的に整備されていたとしても、蝗の群れが幾何学的に農作物を食むわけではない。ゆえに、まだらで不定形な被害農地を計算可能な円や方形などの図形に切り分ける必要があった。悟浄は縮小された農地の図面にも浸食をはじめ、半刻もする頃には農地を、最少個数の計算可能な図形に切り分けてくれた。
 ここまでくれば、面積と作物に対応した保険金の計算は、グプタにとって出された膳をたいらげるのと同じくらいたやすい。
 途中までは三蔵も、『九章算術』や『海島算経』といった唐の数学写本と算木とを使って計算を手伝っていたが、中盤以降は天使を直感的に数に変換するグプタの数秘に任せきりだっだ。
 最初は高みの見物を決め込んでいた商人たちも、徐々に保険金が算出されてゆくと顔が曇っていった。自前の書板に数式を書き付けていくが、グプタのはじき出した金額とは寸分の狂いもない。中には数人、異を唱えた商人がいたが、三蔵が彼らと検算を繰り返すと皆押し黙るしかなかった。
 商人たちは、何かを恐れているように見えたが、それが何なのかグプタにはついぞわからない。農民は農民で、自身の被害と掛け金に対する保険金が定まったことで一安心し、過ぎたものは仕方がないというおおらかさを見せていた。蝗害発生の報も、とっくに役人貴族クシャトリヤ達が早馬を走らせ他の町や村に伝えているだろう。事前に大きな篝火を焚くなどの対処ができれば、農地と農民の被害はだいぶ違うはずだ。
 商人たちは農民に払う保険金を用意するために一度町へ戻り、三蔵たちは蝗害の後と考えれば破格の待遇を受けて夕餉を馳走になった。その日、グプタは三蔵たちと農地に泊まり、家へは帰らなかった。家に帰っても、実際に被害を受けたわけでもない商人たちが、保険金を巡って侃々諤々のなじり合いをしているだけだと予想がついたからだ。そこに純粋な計算ガニタは無い。
 そして、出家という選択について、一人で考えたかったからでもある。
 グプタは商人になる前の、夜半に抜け出し天文台に通っていた時の要領で客人用の寝屋をぬけだした。

地の闇は深く目の前にあるはずの自身の手さえ見えず、天上の星はただ遠く無数に瞬いている。夜空に翳した手が五指の形に星々を隠し、その暗さでようやく自身の輪郭が見えた。
 目が利かないということは、数秘による『数』の天使も見えない。天上の星々以外は。
 かの天使たちと生きられたらとは思う。なぜ自分は、血と肉と親を与えられた『ヒト』なのか。
くう、という考え方があります」
 気配のない闇から、三蔵の声だけが聞こえた。闇の中突然声をかけられることには慣れていて驚かなかった。父が散々、天文台にいる自分を連れ戻しに来たことがあるからだ。だが今回は、父が必ず片手に持っていた松明はなかった。闇は闇のまま、そこにあるものを無理やり暴こうとするような熱がなかった。
「この、あなたの国に在ったとされる、さるお方は『〈ここに自分というものが有る〉という想いを取り除いて、この世のものは空であると観よ』と説かれました。人を彩る、五蘊、六根、六境、六識──」
 説法でも説教でもない、三蔵の声はグプタ中をただ流れて行った。グプタは、再び星空に手をかざし、星々が輪郭を作る五指の闇を見た。なんとなしに、これが空か、と言葉が胸に落ちた。砂糖菓子を食んだ時にも似た、安堵が広がる感覚があった。
「私と旅を、ともにしてくれませんか?」
「今はもう少し、天上の計が見たいんだ。くうとしてここに有ることは、できるだろうか」
「答えが出ることを、解ともいいます」
 識はまどろみに沈み、空の中に身を投げた。

そして、朝日のもたらす凶兆が、グプタを目覚めさせた。
 起き上がり瞳を開けば、蝗害にも似た無数の天使が群れを成して市場を覆っていた。

3.空の可算

すでに起きていた三蔵たちと市場に駆けつけてみれば、その光景に閉口するしかなかった。天使によって異変を知ったグプタだけでなく、天使が見えない三蔵たちまでも、その異様さには言葉が出なかった。
 昨日グプタが見た市場には、麻布の上に置かれた色とりどりの農作物があった。だが今は土のいろ一色だ。何も置かれていないのではない。借用証の粘土板が、ずらりと並んでいた。商人もその小間使いもそれらを持っては右往左往しながら、粘土板の所在に狂奔していた。
 その異様な光景をグプタは呆然と眺めた。夜の間に何が起こったのか。三蔵も、その従者も、呆然としていた。
「グプタ」父の声を聞き振り返る。いつも通りの威厳と眼光はそのままにげっそりとやつれた父がいた。
 話を聞くと借用証の粘土板が、売られたそうだった。
 貸した分の金も、利子も、その借用証の元に戻ってくる。だから、その利子が付いた分の金額で粘土板を売ったのだ。では、その買った粘土板をカネの代わりとして貸すことは可能か? 利子をつけて? 粘土板を貸した証明をする粘土板を作ることは? 天使は頷く、踊ろうよと。それは『数』である以上、可算であり、等価であると。
 蝗害が起こった。その情報をつかんだ時、市場の商人たちは一斉に粘土板を売った。少なからずあった銀貨や銅貨はすべて、莫大な蝗害への保険金として支払われることが決まっていた。金貨も、麦も、どこにもない。どこにもないからこそ、本物のカネがなければ、何も変えない飢えの雨季が来ると思った。結果、粘土板が実際のカネよりも低い金額でしか買われなくなっていった。昨日、商人たちが恐れていたことはこれだった。
 天使たちは嬉々として踊った。天使たちはカネではなく『数』を依代としていたから。まさに天上の法で動いており、人の世がどうなろうと知ったことではなかった。
 ではなぜ存在しない金額の粘土板を、皆好んで作っていたのか。天文台があったからだ。天文台の改修はヴァルダナ王が支持していた、国王が改修工事に国庫からのカネを出してくれるという信頼があったからだ。将来的に、カネがこの町にやってくると信じることができていたから。
 粘土板だけが積み重なり、天使の演舞が始まった。
 一が二と手を取る。舞い踊り輪を描く。小さな天使たちの円舞は、再帰的に幾層にも重なり、町の空に塔を描く。晴天に描かれた円軌道に天使が並び、舞う。空が、天使で埋め尽くされる。天も、地も、あふれんばかりの『数』で。
 湿っぽい熱風が殴りつけるように町に吹く。雨季が近い。
 全容を把握できる商人たちは、誰もいないようだった。
 商人たちが培養してきた天使たちが、晴嵐じみた唐突さで、町のカネの大半を無価値に変えてしまった。借用証を貸した借用証を貸した借用証で証明された金額が大きすぎて、だれも計算できなかった。
 複利。
 誰が、どこに、どれくらいのカネを払えばいいのか。
 三蔵が懐に手を入れたが、その手を取り出せないでいた。袈裟の中から数学写本と算木を取り出そうとして躊躇ったのだと知れた。付け焼き刃の算術ではよけいに町を混乱に陥れるだけなのだ。
 従者達も困惑していた。八戒がコトコトと不安げな音を立てて文字盤を回し『你還好嗎大丈夫?』と表示すると、悟空はどっかと音を立てて荷台に座り込み腕を組んで目を閉じる。悟浄は天使にもにた無遠慮さで、先程の熱風から感じた外気温の変化から今後の最適な行路を仔細に変化させていた。
 今この町の状況は、説法でも、武力でも、解決できないものだった。
 ただ、グプタの目だけは爛々と輝いていた。
 測量も実物も最終的な分配も必要がない、ただ純粋に『数』の上でだけ存在する虚構の計が、町の天上に現れていたのだ。
 グプタは町中を駆けまわり、ありったけの書板を借りてきた。この現状に算術で立ち向かおうとする商人は誰一人としていなかったから、皆不審な顔をしながらも書板を貸してくれた。
『有るものはある、無いものは無い』──商人の理だ。
 だから『無いもの』をどうにかできると信じているのは、商人にすらなり損ねたグプタだけだった。グプタが書板を集めている間に日輪は高く昇っている。自身の両脇に積み重ねた書板は、その影でグプタ自身が隠れるほどになっていた。
 しかし、それでも足りないのだと、グプタは直感的にわかった。そこで、三蔵を通じて悟空にあることを提案し、試した結果それは上手くいった。伸縮自在な如意棒の、径を可能な限り大きく、そして厚みを可能な限り薄くできないかということで、つまり如意棒は市場の中心地を埋め尽くすほど巨大な円形の書板になった。
 ジシュヌも三蔵も、もしかしたら悟空や従者たちでさえも、あきれてものも言えなくなっている。
シューニャ!」
 物事の始まりを示す何もない状態がグプタによって宣言され、計算が開始された。
 出鱈目な数式だった。巨大な円状の如意書板の上に、グプタが借りてきた小さな書板が置かれ、それをあちらこちらへ数の代わりとして動かしながら計算が進んだ。小さな書板にも数式が書かれ、それがより大きな書板の中で動く。一つの計算では解が出ない数式に『空』として小さな書板を置き、三つ四つの数式をまとめて計算する。一定の規則に従って元の数から増減を繰り返す数列を、小さな書板の中にまとめてかいて、必要なところへ移動する。
 没我。集中の果て、今のグプタに『自分は何者か』と問えるような人の理は残されておらず、ただ数と一体化した自分が、導かれるままに天上の計を迸らせているだけだった。
 だが計算の過程で見えてきたものは、天使の清冽さだけだった。数式を進めれば進めるほど、踊る天使たちの──数秘による直観の正しさが実感できた。数式の答えはすでに見えているのだ。
 町を覆う異形とさえいえる天使たち。蝗害以上に無慈悲に、価値を貪り食う清冽な怪物だ。天上の計だけでは、彼らを鎮めることはできなかった。
 天上の計ではなく、地に生きる人の法。それが必要なのかもしれなかった。
 星空に翳した手の、五指の輪郭の闇。蝗害と、悔しさを込めて踏み出そうとした足、三蔵に引かれてつんのめった腕。かろん、かろん、と混ぜものの多い銅貨の落ちる音。砂糖菓子の甘やかさが腹に落ちては消える。
 その天と地をつなぐものはなにか──石柱の群れがたたずむ始まりの場所、天文台。
 始まりの点を改めて意識したとき、グプタは視界の中に今まで見たこともない、小さな小さな天使が居ることに気が付いた。
──『0』
 それは、計算可能な『数』だった。『空』をさらに下回る、借用の位が存在するのだ。それを用いなければ、もはや天使の踊りは止まらなかった。
「今回の借用証のすべての金額を貸してほしい。そして、いずれ富が生まれれば、借用証の本来の持ち主たちに分配しよう。長い時間をかけて」
 グプタが呟いた。それを聞いたジシュヌが叫んだ、何年かける気だとか、奴隷になるつもりかとか、そういった類のことを。
「私にではなく、天文台に、貸してほしいのです」
 ジシュヌは、自分の息子がとうとう狂ってしまったのだと天を振り仰いだ。だが、三蔵はその意図を察した。人ではないが意志を持った者たちを従えていた三蔵だからこそ、その言葉を受け取ってくれるとグプタは信じていた。
「天文台は、この後も利を生みます。ヴァルダナ王からの建造費が払い終わった後でも、この天文台が生み出す暦法は、この地の季を測り、季を知ることで田畑の実りを増大させる」
 そんなことはみな知っていた。利が見込めるゆえにヴァルダナ王は天文台の再建に国庫を開いたのだ。
「だからこそ、この天文台自身に、生み出す利を借用証の権利者全員に分配する義務を課すのです。さすれば、この天文台がある限り、権利者は配当としてのカネを得続けることができるし、一個人であれば死してしまうような期間の借用も可能です。人の法による人格──『法人』とでもいうものを付与して」
 人が『空』であるのなら、モノは現世にあり続ける。石の猿が、五百歳を超えているように。
「誰がその分配を司るのだ! 石が自ら喋るとでもいうのか?」
 円形の広場に、ジシュヌの怒鳴り声が響いた。商人たちはその声に粘土板をやり取りする手を止めて視線を集める。三蔵は腕を組んで八戒の荷台に座る悟空を見やり、確かにと頷く。
 傾きかけた日は、夜が近いことを教えてくれたが、人の熱気は収まりそうもない。
 土のにおいを吸い込んだグプタが一拍おいて、告げた。
「私が、天文台と生涯を共にしましょう。天文台の一部として、我が命をささげようと思うのです」
 一種の出家、あるいは解脱だった。天文台の意志として生きることは。
「とはいえ死ぬわけではないですし。ただ天文台の管理者として、商人の家業相続カーストからは抜けなければなりませんね」
 グプタの心は決まっていた。あとは『数』の問題だ。
 町の商人たちは、二夜続けての侃々諤々の話し合いが始め、数の上での納得はされた。そこには三蔵による『空』の説法も効果はあったし、あまりの事態にグプタを襲おうとした血気盛んな商人を悟空が懲らしめたというところも大きかった。
 一番最後、ジシュヌを納得させたのは、彼自身が常に言い続けた商人の理だ。
──『有るものは有る、無いものは無い』
 グプタも、天文台も、実体はここにあった。カネだけがなかった。グプタの提案を受け入れなければ。
 そして翌朝、最終的に合意の取れた巨大な粘土板の借用証に、グプタが著名することで天使は静かに天上へ帰っていった。
 あとは蝗害で失われた町の食料を調達するだけだったが、元より腕のいい商人たちは、今回の天文台とカネの新たな関係性という『情報』を売ることで雨季の分の食料を調達してきた。
 旅路の用意を終わらせた三蔵が、天文台の前で合掌する。グプタも合掌で返した。
 背後に控えた従者たち──悟空も合掌し、八戒は『再見』の文字盤を表示し、悟浄は相変わらず寡黙に行路を示し続ける。
「共に旅をする前に、目的地を見つけられてしまいましたな」三蔵が薄目を開けて訊いた。
「まだ、これからが始まりです。法師三蔵、またどこかで相まみえることがあれば」
「天文台長ブラフマグプタ、一切は空。また、今ここにないどこかで」
 ブラフマグプタと三蔵法師は違う道を進んだ。

0.暦法の果

664年 玄奘三蔵は、“空”の概念を刷新した経典『大般若波羅蜜多経』を翻訳・編纂する。
 665年 ブラフマグプタは、天体と三角法についての天文書『砂糖菓子カンダ・カードヤカ』を記す。

──色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。
 ──e^iπ+1=0

〈了〉

参考文献
中村元『古代インド』講談社学術文庫,2004年.
慧立/彦棕『玄奘三蔵』(長澤和俊訳)講談社学術文庫,1998年.
林隆夫『インドの数学』中公新書,1993年.
G.G.ジョーゼフ『非ヨーロッパ起源の数学』(垣田髙夫・大町比佐栄訳)講談社ブルーバックス,1996年.
山下博司『古代インドの思想──自然・文明・宗教』ちくま新書,2014年.
板谷俊彦『金融の世界史──バブルと戦争と株式市場』新潮社選書,2013年.
呉承恩『西遊記(上・下)』(檀和夫訳)グーテンベルク21,2004年.

文字数:16434

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