ら・ら・ら・インターネット

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梗 概

ら・ら・ら・インターネット

1999年。わたしたちの小学校にインターネットがやってきた。
6年3組の学級委員サクラギミサキは、転校生カザミユカとなぜか北千住の森永ラブにいた。塾帰りにユカと偶然出会ってしまったミサキは、仲がよいわけでもないのに一緒に店に来た。というのも、ユカが今朝起こした優等生男子タカサゴとの乱闘事件を気にしていたのだ。ホームページづくりの授業中、タカサゴが戦闘機のゲームをこっそりプレイしていたのを、ユカが無理やり止めようとしたことが発端だった。ユカは秘密を打ち明ける。ユカは触れたものの持ち主の思いがわかると言い、その証拠に落ちていた偽造テレカに触れたユカは、その売り主の少年シュウを見つける。驚くミサキにユカはあのゲームの秘密を話す。あのゲームから怖いものを感じ取ったというのだ。怯えるユカを信じたミサキは、黙って彼女の手を握る。有線で流れるコソボ紛争のニュースにふたりは気付かない。

翌日、同じゲームをしながらユカのひどい悪口を言うタカサゴと口論になったミサキはキーボードで頭を叩かれる。その瞬間誰もいない教室が光と衝撃で破壊される映像がなぜか視界に広がる。ユカが言っていたこのゲームの秘密、世界の終りへの渇望。ゲーム画面では、戦闘機が破壊した建物に赤い旗が立っていた。そして核爆発のアニメーション。ミサキは壁に張られた朝日小学生新聞の記事「NATO中国大使館誤爆事件」を見て、このゲームはコソボを題材にしているのではないかと疑い、そして自分がユカと繋がりつつあることに気が付く。

ふたりはゲームの出所を調べ始める。ミサキに尋問されたタカサゴは学校宛のメールに添付されてきたと答える。Eメールを見たふたりは、ゲームのほかにダイヤルQ2への接続ソフトが仕組まれていたことを知るが、送り主はわからない。翌朝、授業中に居眠りをしたミサキはまた同じ爆発の夢を見るが、夢の中の日付時刻から核爆発が今日の午後4時に起こると知る。これが送り主の願望ではなく計画だと気付いたミサキは、ユカの手を引いて学校を飛び出す。ミサキのシティフォンからはQ2へ繋がらない。シュウに番号を見せると公衆電話なら繋がると教えられる。ふたりは受話器から流れるアダルト音声の向こうに戦争や死を感じ取る。シュウに教わり接続先の会社に辿り着いたふたりは、インターホン越しに門前払いを食らうが、そこからゲームとは別の思いが感じられ、泣きながらそのことを男に訴える。沈黙の後、男は一言フヴァーラと言ってインターホンを切った。3人が去ったあと、時計の音がするスーツケースを抱えた外国人の男が事務所から出て、消える。

夕方、ふたりは居残りを受ける。あれが故郷で戦死した息子への愛であることを知らないふたりは、ただ何かと繋がった感覚だけが残る手を握る。午後4時をとっくに過ぎた夕暮れの窓の外には、NTTの広告が見える。

「みんなつながってる、ISDN」

文字数:1194

内容に関するアピール

90年代を再び書きたいと思い、今回の梗概になりました。自分にとってのファーストコンタクトは90年代に小学校のマッキントッシュで触れたインターネットです。それはとても退屈なもので、先生が興奮気味に「これでNASAのホームページが見れる!」と熱弁するのを無視して、ぼくたちはお絵かきソフト「キッドピクス」に夢中になっていました。21世紀、すべてがつながるようになった世界で現れ始めた深い孤独感や絶望感みたいなものの「予兆」、コソボ紛争、そして女子ふたりの変化を通じて、繋がることそれ自体を表現してみたいと思います。

フヴァーラ/Hvalaはセルビア語でありがとうの意味です。

文字数:284

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ら・ら・ら・インターネット

サクラギミサキは目の前に座るひとりのクラスメイトを見つめていた。ふたつにわけたロングヘアの彼女、カザミユカは今学期に入ってミサキのクラスにやってきた転校生で、そのカザミユカの隣に置かれた「ディスカウント・ストア・トポス」のビニール袋からは、ネギと「雪印のむヨーグルト」の1リットルパックが飛び出している。夜8時すぎ、日能研のビルから出た直後、ミサキは買い物袋を両手に下げたユカに声をかけられた。「サクラギさんじゃーん!」とユカは笑った。ユカが笑った顔を見たのはそのときが初めてて、それで面食らったミサキは、ユカに誘われるがまま森永ラブ北千住店へと入ってしまった。ユカが両手で「ベーコンエッグバーガー」を掴んで口に運ぶ。ホットパンツに黄色いX-girlのTシャツとグレーのパーカーといういでたちで、口元から漏れるトマトケチャップを中指でぬぐうユカを見ながら、ミサキは、この奇妙な状況がなぜ起きたのかについて思案しはじめていた。「おいしさわけあおう森永ラブ!」と書かれた赤いポスターや、蛍光灯の黄ばんだひかりや、かび臭い空気を吐き続ける据え置き型のエアコンディショナーとはすべてが対照的なユカは、ミサキの視線に気が付くとニッと笑った。ほんとうにこの子が今朝、6年3組を恐怖に陥れたあの乱闘騒ぎの主犯なのだろうか。わたしは6年3組の学級委員長として彼女の正体をつきとめなければいけない、とミサキは強く思った。

 

 

1999年、ついに足立区立第三小学校にもインターネットがやってきた!それは、まもなくはじまる「総合的な学習の時間」のモデル校に選ばれたことによる幸運がもたらした奇跡だった。今朝の1時間目、パソコン教室に初めて入ったとき、男子たちはその目に光を宿し、クリーム色をしたマッキントッシュの洗礼を受けた。一方、ミサキをはじめとした女子たちの感想は「へー、ここエアコンついてるんだ」だった。端末が半透明のiMacではないことにがっかりしながらも、ミサキは少しだけ、“インターネット”がいったいどういうものなのか気になっていた。端末はひとり一台あてがわれている。ふだんの教室では見られないダークブルーの回転椅子や、台形の強化プラスチック製のテーブルや、グレーのラグ・タイルが敷き詰められた床を這う無数のケーブルの束が、妙な高揚感を6年3組にもたらしていた。ミサキは教師に言われた通り(なぜか図工のカトウ先生がパソコンの授業も担当していた)ネットスケープ・ナビゲーターのアイコンをダブルクリックして、そのNのマークのアニメーションをじっと見つめていた。クリーム色をした箱のランプが何度か点滅して、ガリガリという音がしはじめる、大地にそびえ立つ「N」の背後に流星が落ちていくアニメーションが繰り返される中、右手にマウス、左手にキーホルダーのついたドクター・グリップを手にしたままのミサキは、つぎに起きることに身構えた。いつかテレビで見たことをミサキは思い出す。ビル・ゲイツが「ものすごいもの」と言い、「情報のスーパー高速道路」とか言われていたものがもうすぐ目の前に現れるのだ。そしてついに、“NTT DIRCECTORY”の質素な検索画面がブラウン管に表示されたとき、ミサキは一瞬抱いた自分の期待が過度のものであったことを思い知った。すなわち・・・6年3組は、そのファーストコンタクトからおよそ15分で、インターネットに飽きたのだ。

「じゃあ、みんなでNASAのホームページを見てみよう!!」

赤いバンダナにジーンズというスタイルのカトウ先生だけが興奮気味にそう言って、ミサキたちに課題のプリントを配り始めた。サーチ・エンジンにNASAと打ち込んで、最初に出てきたハイパー・リンクをクリックするという単純作業では、ローマ字入力と言う名のマジノ線がまず男子の過半数をふるい落とした。続いてスペースシャトル・エンデバーのクルー紹介ページを探すという課題が、機銃掃射でクラスを全滅させる。カトウ先生はそれを見て満足そうに席を立つと、じゃあ先生はまた1時間目が終わるころに戻ってくるから、と言って教室を出ていった。きっと30分後にタバコと缶コーヒーの臭いをさせて戻ってくるだろう。ミサキは頬杖をついてブラウン管を見つめる。外をスズメが飛んでいく。これだったら6年3組の教室に戻って、飼育係のヤマダくんがヒーターをつけっぱなしにしたせいで全滅したグッピーの水槽でも眺めていたほうがまだマシだ、とミサキは思った。そのとき、壁際にある1台の端末に、3人の男子生徒が集まっていることにミサキは気が付いた。すでにクラスの男子たちの大半は課題に飽きていて、ポケットモンスターのバトル鉛筆に夢中になっていたり(学級会ではバトル鉛筆が文具に入るかどうかでかなりの論争があった)、こっそり持ってきていたゲームボーイ・カラーで通信対戦に入ったりしていた。女子たちはすでにいくつかのグループに分かれていて、「ハムスターの研究レポート」を読んだり、また別のグループに対して目線で合図を送ったりしている。何人かの女子がミサキに話しかけ、ミサキも笑顔でそれに答えたが、ミサキは3人の男子生徒から目を離せずにいた。ひとりが端末正面の椅子に座っていて、残りのふたりはその左側に並んで立っている。3人ともその大型CRTモニタに夢中になっていて、ときどき画面を指さして歓声を上げる。それは教員用の端末で、ミサキたち生徒の端末よりも二回りくらい大きかった。ミサキはため息をついて、学級委員長としての責務を果たそうとした時、ひとりの女子が3人の背後に立ってその様子をじっと見つめ始めた。それこそが転校生、カザミユカの背中だった。グレーのパーカーとふたつに分けたロングヘアーが、6年3組になにかを主張しているように見える。ミサキは不穏なものを感じ始めていた。カザミユカが3人の男子たちに何かを話しかけた。すでにパソコン教室の中は私語が横行していて、ざわめきのせいでその内容までは聞こえなかった。椅子に座っていた男子、タカサゴミナミが振り返ってカザミユカを睨み付けた。タカサゴは端正な顔立ちに加えてスポーツも勉強もデキることから学年中の女子に人気がある生徒で、開成中学が第一志望という話だった。ミサキはふだん、女子たちのそういう話の輪に無難に入りつつも、内心タカサゴのことをあまり好きではなかった。タカサゴのほんとうの性格がどうのこうのというわけではなく、彼が好んで着ているラルフローレンのベストが単に気に入らないだけだったが、それでも彼女のその感覚は間違っていなかった。やめろっつてんのがわかんねーのかよキザ野郎、そう言ってカザミユカがタカサゴミナミの右手からマウスを奪う。キザ野郎という言葉を現実で初めて聞いたとミサキは思った。縄跳びのようにマウス・ケーブルがしなってタカサゴミナミのキューティクルの効いた髪を跳ねのける。てめえ、とタカサゴミナミが立ち上がってカザミユカの顔を殴った。バンッという大きな音、パーカーのフードが大きく宙に浮いて周囲の女子が悲鳴を上げる、カザミユカの顔はミサキからは見えない、タカサゴの隣にいた取り巻きの男子2名は硬直している、カザミユカの長い髪が衝撃で空中に広がった直後、タカサゴミナミのラルフローレンにカザミユカの赤い上履きが衝突するのが見えて、マッキントッシュの向こう側で乱闘が始まったのがわかった。やばい、とミサキは思って周囲の回転椅子を押しのけて前に出る。「学級委員長は中立的な立場でクラスをまとめなきゃいけませんよ」という担任の言葉を思い出す。カザミユカが自分の回転いすを両手で持ち上げている。クソ野郎、そういってカザミユカが回転椅子をタカサゴミナミに振り落とす、タカサゴミナミは両眼を見開いている、今この瞬間を中立的な立場で解決するのは至難の業だ、とミサキは思った。方法はひとつしかない。椅子のキャスターが空中でくるくると回っている。

「ふたりともやめてよ!」

回転椅子は、ふたりの間に入ったミサキの前頭部を直撃した。

 

 

「頭、だいじょうぶ?」

真っ赤なプラスチックストローでバニラシェイクを吸い込みながらユカがミサキに尋ねる。唐突に罵倒されたと感じたミサキは大声を上げそうになったが、ユカの本当に心配そうな表情を見て、彼女がミサキの額にできたコブのことを指していることにミサキは気付き、苦笑いしてユカに答えた。だいじょうぶ、もう痛くない、そう言ってミサキはぬるくなったカフェオレをすすった。

「でもおでこ腫れてるじゃん」

ユカがミサキの額をバニラシェイクとは反対の手でそっとなでる。ミサキは驚いてカフェオレを吹き出しそうになる。反射的にユカの手から頭を離したミサキに、ユカは申し訳なさそうな顔をする。ちがう、ホントはごめんって言いたかったんだよ、ユカはそう言って目を伏せると前髪を少し触った。タカサゴミナミにぶたれたユカの頬も少し青くなっている。ふたりの横をガングロギャルの3人組がトレーを持ってのろのろと歩いていく。厚底ブーツが床のタイルを鳴らす。少し頭の禿げたサラリーマンが眼鏡を額に上げて電子手帳を睨んでいる。どこかから聞こえるPHSの着信メロディ。ミサキはため息をついてユカの顔をみつめる。

「なんであんなことしたの?」

ミサキがそう尋ねると、ユカは顔を上げてミサキと目を合わせる。ユカと目を合わせたミサキは、なぜか反対にたじろいでしまった。

「誰にも言わない?」

ユカはミサキの目をみつめている。吸い込まれそうだとミサキは思った。

「あたし、超能力があるの」

ユカがそう言うと、店の奥の蛍光灯がバチンと言って切れた。

 

 

ちょうのうりょく、とミサキは反芻して、ユカを見つめたまま、もう空になっている紙コップを口に運んだ。ユカは突然立ち上がると、ミサキの手を引いて店の奥へと進む。そこにはISDNのロゴがついたグレーの公衆電話があって、ボロボロのタウンページが立てかけてあった。ユカはタウンページをひっくり返し、たぶんあると思うんだけどなーと言って、それをばさばさと両手で振った。電子手帳のおじさんが不思議そうにふたりを見ていることに気付いたミサキは恥ずかしくなって顔を伏せる。固い音を立てて、何枚かのテレホンカードがスチールの電話台に落下した。ユカはそれを1枚つまみ上げる。パンチ穴が空いていない。ユカはにやりと笑ってそれを電話機のカード挿入口につっこんだ。白黒の液晶画面になにか不穏なアニメーションが流れ、このカードは使えませんというメッセージとともにカードが再び吐き出される。

「これぜんぶ偽造テレカなんだよね。ニセモノなんだよ。最近の公衆電話だと見分けられちゃうけど」

なんでそんなこと知ってるんだとミサキは思ったが、黙ってユカの話を聞く。

「ちょっと待ってて」

そう言うとユカは再びカードを電話機に入れると、受話器を外して耳に当てる。何か聞こえるのかと思ってミサキもユカの持つ受話器に耳を近づける。すぐにまたカードが戻される。よし、つながったとユカは言って受話器を戻した。

「“つながった”?」

怪訝そうな顔をするミサキにユカは言った。

「あたし、モノの持ち主とつながっちゃうんだよね」

 

 

ユカはミサキの手を握ると森永ラブから北千住駅西口のロータリーを出た。キャッチセールスやよくわからないアンケートを募る学生風の集団や、夜になっても一向に減らない放置自転車や、アクセサリーを陳列する外国人女性の出店の列を通り抜け、壁のようにそびえたつルミネ北千住の駅ビルや、消費者金融のネオンサインの暴力的なひかりのなかを走る。「降車専用」と書かれた都バスのバス停をユカは指で示す。そこには、チューインガムを大げさな動作で噛みながらあたりをキョロキョロと見回す坊主頭の男性が立っていた。アディダスのスリーラインに赤と黒のネルシャツ。男性、というよりは少年に近い。一見すると高校の野球部員が私服で立っているだけのようにも見える。ミサキはたじろいでユカのパーカーの袖を引っ張るが、ユカはずんずんと彼の方へ進んでしまう。

「テレホンカード下さい」

は?と言って野球部がユカを見下ろして睨み付ける。は?と彼が言った瞬間に噛みかけのガムが口から見えてグレープの甘ったるい臭いがした。やめなよカザミさん、とミサキは言うがユカは聞き入れない。これ、お兄さんが売ってたやつですよね?そう言ってユカは先程のテレホンカードを野球部に見せる。ちょうどその時、巡回の警察官の集団がユカたちの方へやってくるのが見えた。その最悪のタイミングに、野球部は驚いて口からガムを落としてしまった。

「バカ、どこで拾ったんだよガキ、早くしまえよ!」

野球部はユカからテレホンカードをひったくると青い顔をして警察官の方を見た。警察官はアクセサリー売りの外国人に早く店じまいするよう促している。

「ほら、これの持ち主はこの人だった。ちなみにこの人はシュウさんって言って、偽造テレカで稼いでお母さんに楽させてやりたいんだって」

「なんでンなこと知ってんだよガキ!」

「ほら、当たってる」

得意そうにミサキの方を振り返るユカの後ろで、シュウが真っ赤な顔をして大声を上げた。それに気がついた警官が小走りでこちらにやって来る。やっべ、とシュウはつぶやくとガードレールを乗り越えて車道へと飛び出す。都バスやタクシーが急ブレーキを踏む。いくつものクラクション。シュウはアディダスのポケットからパラパラと偽造テレカを落としながら全力疾走する。銀色のテレホンカードが北千住の無数のひかりを反射している。タクシー乗り場やバス停の乗客たちが驚いた顔でこの逃走劇を見守っている。待ちなさい!という警官の怒鳴り声。シュウが放置自転車を蹴り飛ばす音。

「シュウさん、がんばって!」

ユカはそう叫んで車道の向こうへと走るシュウを見送っている。ユカの長い髪が初夏の夜風で少しだけ浮き上がるのを見て、ミサキは混乱しながら笑っていた。笑っちゃうぐらい混乱していたのだ。超能力ってなんだ?つながるってどういうこと?いったいどういう理屈でなにとつながるわけ?ていうか超能力ってマジ?それは今朝タカサゴと乱闘したこととどう関係あるの?ミサキがすべての疑問をユカにぶつけようとしたそのとき、ユカがミサキを振り返って素っ頓狂な声を上げた。

「森永ラブにネギ忘れた!!」

ユカの背中を見送るミサキの横では、家電量販店のワイドテレビが、NATO軍によるコソボ空爆のニュースを伝えていた。

そして、だれもそれに気がつかない。

 

 

翌朝、昇降口で上履きに履き替えているときに、ミサキは再びユカに出会った。彼女にたったひとこと「おはよう」と言おうとしたそのとき、クラスの女子グループがミサキに声をかけてきたので、彼女の挨拶は封殺されてしまった。グループのリーダー格の女子であるナイトウマミがミサキのすぐ右側に立って「でもさ、きのうのアレはマジでありえなかったよね~」と大声で言いながら、すぐそばにいるユカに対してあからさまな拒否反応を示していた。ユカはこちらの方には目もくれず、大きな音を立てて金属製の下駄箱のカバーを閉じると、ランドセルを左手で持ちながら廊下をずんずん進んで行った。だいたいさあ、なんでよそから転校してきたくせにあんなに態度がデカいわけ?郷に入ったらって知らねーのかよ、とマミが言って、その取り巻きが笑った。

「誰ともしゃべんねーし、昨日みたく突然キレるしで、そのうち人殺しそうじゃんアイツ」

なんにもしらねーくせに、とミサキは思う。よそのクラスの男子が掲示板の「朝日小学生ニュース」を貼り替えている。ミサキはその奥にいるユカの背中を目で追い続ける。ヨーロッパかどこかのしらない戦争のニュース。そんなのどうでもいいじゃないか。もっとわたしたちには大事なものがあるのに、だれもそれを教えてくれない。朝の白い光のなかで輝くほこりの粒子や、下級生たちの黄色い帽子で埋まった廊下の途中で、ミサキはひどい罪悪感に襲われている。教室の手前まで来たとき、ミサキは「学級日誌を職員室に取りに行くのを忘れた」とマミに言ってから、来た道を戻り始めた。教室にユカがいなかったのだ。ミサキはユカを探さなければいけないと思った。廊下を走る。上履きがキュッキュッと鳴り、手洗い場で水を飲んでいる男子がこちらを不思議そうに振り返る。蛇口からぶら下がる緑色の石鹸ネット、消火栓の赤いランプや天井からぶら下がる非常口のマーク、ビニル床に引かれた赤い中央線。視界に入るすべてが、この狭くて息苦しい世界を構築している要素だった。パソコン教室の前まで来たとき、昨日と同じタカサゴミナミとその取り巻き2人が教員用の端末の前に座っているのが見えた。彼らはいったい何をしてるんだ?そう思ったサクラギミサキは引き戸を開けてパソコン教室へと入ってゆく。教室には彼ら以外誰もいない。男子3人はときどき笑い声を上げたり、画面を指さしたりしている。ゆっくりと近づくミサキには気が付かない。ミサキは画面を覗く。画面の中央に戦闘機の立体的なコンピュータ・グラフィックが浮かんでいる。タカサゴは慎重に照準を合わせ、マウスをゆっくりと動かしてクリックする。雲や街並みのドット絵がどんどん画面の後ろに下がっていく。鼠色の戦闘機からミサイルが発射され、はるか前方にいるトラックの車列に命中する。すると派手な音楽とともに、赤・青・白の横縞模様をした国旗がでかでかと表示された。白い双頭の鷲だか鷹だかの鳥が旗の左側に描かれている。

 

“1 STAGE REMAINS”

 

画面にそう表示されたとき、タカサゴが驚いてこちらに振り返った。

「サクラギさん」

タカサゴは立ち上がってシャツの裾を直す。紺のベストにブルーのシャツ。取り巻きのひとりはPUMAのトレーナーを着ている。タカサゴは咳払いをして、きのうは巻き込んじゃってごめんね、と言った。

「でも今は授業前だし、別にこれやってても問題ないだろ?それで・・・先生にはきのう何て言ったの?」

こいつはわたしのおでこを見てもまだ何も思わないのか、とミサキが思ったそのとき、引き戸が乱暴に開いて、カザミユカが仁王立ちしているのが目に入った。タカサゴがぎょっとして振り向き、ミサキは「やばい」と思った。ラグ・タイルにもかかわらず、ユカがパソコン教室を歩くと大きな足音がする。タカサゴが何か言おうとしたそのとき、ユカの右手がタカサゴの頬に直撃した。バチン、という乾いた音がして、そのあとはコンピュータのファンの音だけがしばらく響いていた。

「ミサキにまで手を出したらあたしが許さない!」

タカサゴが怒りで顔を赤くしていく。頬を抑える彼の手が震えている。ミサキが止めようとした直後、タカサゴがユカの腹に蹴りを入れた。タカサゴくん!とミサキは叫んで彼の肩を両手で抑える。ユカが尻もちをついて、周囲の回転椅子がガシャガシャと音を鳴らす。

「おまえ頭おかしいんじゃねえのか!?なんなんだよ昨日から!こっちはゲームしてるだけじゃねえか!!」

タカサゴが怒鳴る。取り巻きのPUMAは硬直している。たしか昨日、先に手を出したのはタカサゴだ。ユカはお腹を抑えながらタカサゴを睨み付ける。タカサゴが微かに鼻を鳴らすのがミサキにはわかった。

「おまえ、それ父親からの遺伝なんじゃねえの」

タカサゴはそう言ってユカを見下ろして笑った。ユカの顔色が変わる。ミサキがタカサゴの顔を驚いた顔で見つめる。タカサゴは邪悪な笑みを浮かべながら続ける。

「おまえのおやじ、“シュラン”なんだろ」

だから弟と母親と逃げて来たんだろ、なあ、イデンテキにモンダイがあるんじゃないですか?そう言ってタカサゴは嬉しそうにユカを問い詰める。PUMAがニヤニヤと笑う。サクラギさんもそう思うでしょ?チューリツな学級委員長としてどう?それにこいつのせいでサクラギさんだってきのうケガしたんだし。1 STAGE REMAINS”の文字がNECのブラウン管の中で点滅している。戦闘機が飛び続け、早くコンティニューするようゲームが誘っている。「シュラン」と「酒乱」がイコールだと気が付いたとき、サクラギミサキは自分の中で何かがはじけるのがわかった。ミサキはクリーム色のキーボードを掴む。ケーブルが宙に浮いて、黄ばんだビニール製のキーボードカバーが床に落下していく。なにが中立だ。ソフトボール大会のときと同じフォームで、ミサキはキーボードをタカサゴの顔面にぶち当てた。灰色のスペース・キーやエンター・キーが飛び散って、タカサゴの鼻血がPUMA男子の黄色いトレーナーにピッピッとシミをつくる。ほとんどキーがなくなったキーボードを手にしたまま、ミサキはタカサゴを見下ろす。尻もちをついたタカサゴは大声で泣いている。PUMAはトレーナーについたタカサゴの血痕を呆然と見つめている。もうひとりの取り巻きが、学級委員長がいいのかよ、チューリツじゃねーだろ、と泣きそうな顔でサクラギミサキに言った。うるせーよ、知らねーよそんなん、単に卑怯なだけじゃねーかバカ、ミサキはそう叫んでパソコン教室を飛び出して、カビくさい廊下の冷たいタイルの上にうずくまった。学校は生徒に正解を答えるように言うけど、何が間違ってるのかを考える方がはるかに大事じゃないのか、とミサキは思った。こんなの間違ってる、とミサキはつぶやく。校庭の桐の葉の大きな影が廊下のビニル床に映っている。遠くを飛ぶジェット機の音。ミサキは頬に熱を感じる。初夏の日差しがその輝きを増したとき、自分の瞬きや、瞳孔の収縮や、前髪の揺れや、廊下を舞う白いほこりや、非常口の蛍光灯のかすかな点滅が、すべてスローモーションになっていくのがわかった。なにかがおかしい、なにかを窓の向こうから感じる、とミサキは思う。強烈な怒り、憎悪、さっきまで自分がタカサゴに感じていたものと同じような感情が、光のずっと向こう側にあった。これはちがう、とミサキは思った。これは太陽の光なんかじゃない。それにこれは現実の光景でもない。ゆうべのカザミユカの告白を思い出したとき、ほとんど静止しかけた世界の中で、ついにサクラギミサキは気がついた。

わたしは、きっと今、なにかとつながった!

そして窓ガラスがゆっくりと膨張し、破裂した。

 

その瞬間、ビニル製の床から緑色の塗料が蒸発して赤いラインが消えた。ガラスの粒子と砂煙が廊下に充満する。アルミの窓枠が歪んで吹き飛ばされる。熱と轟音がミサキを包み込む。コンクリの柱や壁が曲がって中の鉄筋がむき出しになる。鉄筋コンクリート3階建ての校舎がきしんでバラバラになってゆく。「あたし、モノの持ち主とつながっちゃうんだよね」というユカの言葉。壁紙や溶けた床や吹き飛んだ消火栓のホースやすべてのものが炎に包まれる。熱、炎、破片、煙、轟音、そして憎悪と怒りがミサキの目の前を高速で通り過ぎた。

もしかして、世界は終わってしまったのだろうか?

 

「ミサキ!!」

 

ユカがミサキの肩を揺すっている。ミサキは一瞬だけ体を震わせると、ゆっくりとあたりを見回した。かび臭い廊下もアルミの窓枠もすべてが元通りで、春の日差しも木漏れ日もなにも失われてはいない。「いまのはなに?」サクラギミサキはカザミユカに尋ねる。ユカはミサキが手にしているキーボードを見つめた。

 

「もしかして、あなたもつながったの?」

 

 

ふたりはパソコン教室に駆けこんでドアを閉めた。タカサゴが床で未だにべそをかいているのを無視して、ふたりは教員用端末の前に座る。「全部話して、あなたの超能力やこのゲームやわたしが見たもののこと全部!」とミサキはユカに迫る。ちょっと待ってよ、あたしだってわかんないんだよ、とユカはあわてて言った。

「わかんないんだけど、きのうアイツがこのゲームやってるの見たら、これからすごい・・・なんていうの、みんな殺してやる!みたいなのを感じたわけ。しかもすごい具体的で、なんかもう、どうやって殺してやろうかみたいなことまで具体的に決まっているようなカンジで・・・」

「いったい誰がそんなこと考えてるの?それがさっきわたしが見た核爆発みたいなものなわけ?」

「知らないよ、たぶんこのゲームつくったやつでしょ」

「それが誰って話じゃん、持ち主とつながれるんでしょあなたは!」

「つながるってそんな万能なものじゃなくて、わたしが見えるのはその持ち主の願い事とか今考えてることだけなの!その人の夢とか予定とかね!素性とか顔までいつもわかるわけじゃないんだよ。しかも電話とか無線とかパソコンとかを介してだけ。シュウくんの場合はたまたまビジョンに見えたから・・・」

あ、ビジョンって本当に超能力者ぽいな、Xファイルみたい、とミサキは一瞬思ったがすぐに頭を振って話を元に戻した。

「つまりあなたは、通信を介してだけ、モノの持ち主や作り手の感情や願望や計画がわかる、けど直接的にその持ち主の素性がわかるわけじゃないってことね。」

「え?もっとさバカにもわかりやすく言ってよ。スジョウってどういう意味?」

「で、きのうこのゲームの作者の滅茶苦茶な殺意・・・えーっとMK5な感じのものを感じて、しかもそれが世界の終わりに繋がってたから、プレイし続けるタカサゴ君を止めようと殴ったんだよね?」

「あーそう、だってゲームクリアと同時に核がドーン!とかしたらヤバイでしょ」

あと最近もうMK5って使わなくない?とユカは付け加えた。ミサキは無視してふたたびブラウン管を見る。1 STAGE REMAINS”の点滅と戦闘機のアニメーションが続いている。ミサキは立ち上がってタカサゴの方へ歩いた。そういえば、いつのまにか取り巻きたちは退散してしまっている。

「ねえ、今朝のことはわたしも悪かったよ。でね、わたし実はきのう、タカサゴくんが最初にユカの顔をぶったこと、先生に言ってないの。だってそんなことしたらタカサゴくんのご両親も心配されると思うし、受験にも影響が出ちゃうでしょ?」

え、言ってねーのかよ、じゃああたしだけ怒られたってわけ?とユカが座ったまま不満そうに言う。タカサゴは震えながらミサキを見上げて睨み付ける。

「・・・もう1時間目始まってるんだぞ。お前たちがしたこと、先生に全部言うからな。そしたらお前だって共立女子、入れなくなるんじゃないのか」

「そう。じゃあ、ユカ。ユカはどこの中学入るの?」

「え?区立じゃん?綾瀬中とか?」

「じゃあ、わたしもそうする。これで全部解決」

そう言ってミサキはタカサゴに微笑んだ。そしてしゃがみこんでタカサゴの目を見る。

「お願いがあるんだけど・・・今、あのゲームの続きをやって」

 

 

「絶対ヤバイって」

ユカはそう言ってタカサゴが戦闘機を操るのを不安そうに見ている。あと1ステージなんでしょう?きっとクリアしたらなにかヒントが出てくるよ。ミサキはそう言うとタカサゴが座る椅子の背に手を置いて画面を見つめた。タカサゴはときどき、ユカとミサキの顔色を交互に見ながらゲームを進めていく。タカサゴの戦闘機は対空砲火をかいくぐり、都市の上を低空飛行していく。そして正面の大きな建物に照準を合わせると、タカサゴがマウスをクリックしてミサイルを放った。建物の屋上には赤地に黄色い模様のついた旗がはためいている。建物が爆発して崩壊するアニメーションが流れると、“GAME CLEAR!”という表示が出て画面が暗転した。そして黄色い背景に巨大な黒いきのこ雲のようなイラストが表示され、ゲームのタイトル画面が表示された。

 

“PROJECT KOSOVO”

 

「これ、どうやって手に入れたの」

ミサキがタカサゴに顔を近づけて尋ねると、タカサゴは身体をこわばらせて答えた。なんか先生のメールに添付されてきてたんだよ、それをダウンロードしてインストールしたの。

「ダウン?インスト?なにそれ」

ユカが不思議そうに尋ねる。あんた勝手に先生のEメール見てたの?と、ミサキはあきれて言った。タカサゴが答える。だってぼく、自分のiMac持ってるし、家ではチャット通信とかしてるからパソコンの授業なんて退屈なんだもん。コーイチだってキッドピクスやってただろ。

「で、これなんて読むんだ?」

ユカがゲームタイトルを指さしてミサキに尋ねる。プロジェクト・・・とミサキは言って、さきゲーム画面で見たあの建物に掲げられていた赤い旗を思い出す。きょうそれをどこかで見た気がする。思い出せ、この激動の午前中にこれをどこかで見たんだわたしは。そのとき、ミサキのシナプスになにかが閃いて彼女を廊下へと走らせた。これを見た場所を思い出した。ミサキ待ってよ!ユカが叫んで彼女の背中を追いかける。タカサゴはポカンとしてしばらく椅子に座ったままでいると、図工のカトウ先生がコーヒーを持って入って来て、教員パソコンを無断で使用するタカサゴと、その周りにキーボードがバラバラになって落ちているのを見て目を点にした。

 

ミサキとユカは掲示板の前に立っていた。これだ、とミサキは言った。そこに貼られていたのは朝日小学生ニュースの最新号だった。

 

コソボ空爆:NATOが中国大使館を誤爆

 

大きなカラー写真には、半壊しているロシア風の大きな建物が映っている。さっきタカサゴが撃ったのはこれだ。あれは中国の国旗で、そしてゲームタイトルはコソボのことを言ってるんだ。そんなことってある?全然関係ないと思っていた遠くの知らない国の戦争と、目の前の破滅がつながってしまったことに、ふたりは初めて気が付いた。

 

5月7日、NATO(ナトー)軍はセルビアの首都ベオグラードにある中国大使館を誤って空爆し、中国人の記者が犠牲になりました。NATO軍によるアルバニア系難民への誤爆(ごばく)で犠牲者が出るなど、紛争による一般市民への被害が拡大しています。

 

ふたりがその「朝日小学生ニュース」を剥がしてパソコン教室に戻ると、カトウ先生が文句を言いながら教員パソコンを操作していて、その隣ではタカサゴが再びベソをかいていた。おまえたち授業はどうしたんだ、とカトウ先生がコーヒー臭い息で尋ねる。

「わたしたち、タカサゴくんが見当たらないので先生に言われて探していたんです。カザミさんも手伝ってくれていました」

しれっと嘘をついてタカサゴに追い打ちをかけるミサキに、ユカは少し恐怖を覚えつつ、先生、タカサゴくんが勝手に先生のメール?を見ていました、と便乗した。カトウ先生は頭をかいて、そーなんだよ、こいつが開いたそのメールにウイルスついててさ、まいっちゃうよ、と言った。

「よりによって勝手にダイヤルQ2につながるやつだよ」

「ダイヤルキューツーってなんですか?」

「え?ほらこーいう、電話かけるとあやしい業者につながるやつ」

カトウ先生は画面を指してふたりに電話番号の表示されているソフトウェアを見せる。まーインターネットとか大げさに言っても電話回線のデカイ版みたいなもんだからなワハハ、というカトウ先生のデスクには、「できる!マッキントッシュ」「初心者でもつながるインターネット活用術」という本が並んでいる。このゲームがついてきたのと同じメールに、このコンピュータウイルスが?ミサキはカトウ先生にそう尋ねる。

「先生もこういう電話かけたりするの?」

ユカがそう尋ねると、カトウ先生は顔を赤くして、ふたりに早く教室に戻るように促した。

 

静まり返った廊下に、どこかのクラスの女性教師の大きな声が響いている。ミサキとユカは手をつないでその中をゆっくりと歩いた。さっきは、ありがと。マジでうれしかった。ユカが照れくさそうにミサキに言う。わたし、まあタカサゴが言ってた家族の事情とかで、前の学校でもクラスでハブられてたんだよね。だから、学級委員長だからとかじゃなくて、ミサキがわたしのことでマジで怒ってくれたの、すごくうれしかった。ミサキはユカの顔を見て、そして照れくさそうに自分の足元を見た。どうしてわたしは学級委員長になったんだっけ?とミサキは思う。ミサキもクラスの輪に入るのは得意じゃなかった。教室では自然とヒエラルキーが生まれる。自分のキャラを作って、アピールしないといけない。だからわたしは学級委員長になったんだ。中立のフリをしていれば、一歩下がっていても誰も不思議に思わないし、先生やクラスのリーダーに無視されることもないポジション。無視されるのが一番嫌だった。チャイムが鳴って1時間目が終わる。教室のドアが勢いよく開いて、ふたりは生徒たちの波に囲まれる。

ふたりは確信していた。もう誰もわたしたちを無視できない。

 

 

黒煙と炎に囲まれた教室の残骸にミサキは立っていた。机の鉄製の脚はどれもグニャリと曲がっている。黒板が半分崩れていて、水が崩落した天井から垂れている。ミサキは自分の掌をみた。これは続きだ、とミサキは思う。これは今朝みたアレの続きだ。ユカの名前を叫ぶが反応がない。声はすべて塵の中に吸い込まれてしまう。ミサキは半壊している校舎の外を見た。黒く崩れた足立区の街並み、地面に突き刺さる千代田線の車輌、折れた電柱や横転した車。やっぱりこれは世界の終わりなんだ。そう思ったとき、黒板に日付が書かれていることに気が付いた。それは今日の日付だった。夢なのに鼓動が早くなるのをミサキは感じた。足元に丸い壁かけ時計が落ちている。4時ちょうどで止まった時計。秒針が動いていない。もしかして、これは今日の午後4時に起きるんじゃないのか?もういちどユカの名前を叫ぶ。誰の返事もない。無視されている。世界が終わろうとしているのに、自分の生まれ育った街がこんなになっているのに誰も答えがないことに、ミサキはどす黒い怒りを感じ始めていた。そしてそれが自分のものであると同時に、あのゲームの持ち主が抱いていたものでもあることをミサキは知っている。遠くから子どもの泣き声がする。ミサキは泣きながらそれを探す。だんだんと深い悲しみに包まれていく。この感情の持ち主は知っているのだ、とミサキは思った。つながってるからわかる。もう子どもが助からないこともわかる。気が付くとミサキは横転してグシャグシャになった軍用トラックの横を歩いている。いつのまにはあたりの風景は見慣れないものになっている。足立区でも東京でもない破壊された街並み。キリル文字の書かれた廃墟。大きな赤十字のマークがついたトラック。上空を巨大なB-2が旋回している。ミサキは絶叫する。わたしたちを無視するな!わたしたちを無視するな!わたしたちを・・・

 

「ミサキ!!」

ユカがミサキの肩を揺らしている。国語の教科書を持った担任があきれたようにミサキを見ている。クラスの誰もが振り返って、教室後方のミサキの席に注目していた。鼻にティッシュを詰めたタカサゴが怯えた顔をして振り返っている。ミサキは顔を上げる。自分が光村図書 国語 六上 の上に突っ伏して眠ってしまっていたことに気が付く。

「サクラギさん、学級委員長も大変でしょうけど、授業中は起きててね」

女性担任がそう言って、ナイトウマミが鼻で笑ったそのとき、ミサキは開かれている教科書のページを見て、そのタイトルにぎょっとした。

 

説明文② 「人類はほろびるか」 ― 日高敏隆

 

 

チャイムが鳴って、4時間目の終了が告げられる。日直が号令をかける。給食当番が準備を始める中、ミサキは廊下へと飛び出していく。白い割烹着を着た当番たちが、廊下の奥からガチャガチャと給食のワゴンを押して来るのが見える。手洗い場に集まる下級生たちの後ろを走っていたとき、背中からユカの呼ぶ声が聞こえた。スープの入った鍋を抱えている割烹着たちとぶつかりそうになりながら、ミサキはふたたびパソコン教室へと飛び込んでいく。そこでは、カトウ先生が教員用端末の前に座り、きょうの給食を食べていた。そんなことおかまいなしに、ミサキはカトウ先生を問い詰める。

「先生、今朝のメールは?」

尋常じゃない様子のミサキに面食らいながら、カトウ先生はニンジンのソテーを飲みこみながら答える。

「え?いやあれはもう削除したよ、どうしたんだいったい」

「なんで?マジで、カトウ先生のバカ!」

そう言うとミサキはすぐに踵を返した。カトウ先生は牛乳瓶のフタを持ったまま硬直している。
どうしよう、もう時間がない。

「ミサキ!!」

サクラギミサキに追いついたカザミユカが、彼女の肩に手をやって止める。ミサキは泣きそうな顔でユカに言う。どうしよう、もう時間がない。きょうの4時に起きる。きょうの4時に世界が終わっちゃう。ミサキはそう言うとユカに抱きついた。

「だいじょうぶ、ぜったいに終わんないから!」

ユカはミサキの背中をやさしく叩いて答える。

「ミサキはこう見えて案外せっかちだね。あのダイヤルなんとかに電話してみようと思ったんでしょ?」

「でも、カトウ先生、あのメール捨てちゃったって・・・」

電話番号がわからないと調べようがないよ。ミサキが鼻をすすってそう言うと、ユカはミサキを身体から離してニヤリと笑った。

「だいじょうぶ。あたしが覚えてる」

まず、ふたりはミサキの持っているシティフォンからダイヤルQ2の番号へと掛けてみることにした。女子トイレの狭い個室の中でアンテナを伸ばし、何度か振ったりして電波を確かめる。だが、一向に繋がらなかった。しゃーない、こうなったらプロに訊くしかないね、とユカが言う。プロって誰?まさかカトウ先生?と言ってミサキは怪訝な顔をした。ちがうよ、昨日会ったばっかじゃん、とユカが不敵な笑みを浮かべる。

「学校、抜けだそう。いま、すぐに」

世界を救うために、と付け加えてユカは個室のカギを開けた。

 

 

ふたりは昇降口の下駄箱から靴を取って通用門へ回ると、学校を出て綾瀬駅へと走った。改札口の上に「明日の天気」という電光板があって、電球が太陽と雲のマークを交互に出している。ベッドタウンの平日の正午とはいえ、駅には少なくない乗客たちがいて、JRの長距離券売り場では明日の新幹線ひかり号の指定席券を買い求めるおばさんの姿もあった。ユカが切符を買って、ミサキはSFメトロカードで改札に入る。売店にはスポーツ紙の派手な見出しが垂れ下がっていて、NATO軍また市民誤爆という文字が見える。みんな、明日がまた来ると思って疑わない。今朝までわたしもそうだった、とミサキは思った。

北千住で降りて西口に出る。夜と異なり、通行人もまばらな駅前広場に立ってあたりを見回す。吐き捨てられたガムによってまだらになったアスファルトの上を鳩が歩いている。こんなに早くいるかな、とミサキが言うと、でもあたし昼間に見たことあるよ、とユカが答えた。夕べと同じ都バスの降車専用のバス停に彼はいた。コンビニのおにぎりをかじっているシュウを見つけたユカが駆け寄ろうとするのを、ミサキは制止する。

「わたしが行く」

そう言ってミサキはシュウヘとひとり向かっていく。鳩が驚いてミサキの足元から飛び去っていく。それに気が付いたシュウは目を細くしてミサキを見た。なにがはじまるのか。シュウは自分に近づいてくる我が強そうな小学生女子に身構えた。

「シュウさん、きのうはあの子がごめんなさい。きょうは謝りに来たんです」

ミサキはそう言うと深々とシュウに頭を下げた。その様子をユカは街灯に隠れて見ている。シュウは拍子抜けした。というかなんで小学生にビビんなきゃいけないんだ。

「いや、まあ、わかればいいよ。うん。わざわざありがとうな。・・・ていうか学校は?」

シュウさんに会いたくて、サボって来ちゃいました。そう言ってミサキはいたずらっぽく笑った。

「えー、マジでー?」

シュウはまんざらでもないように照れながら笑う。

「それで、シュウさんにしか訊けないことがあるんです・・・いますごく困ってて・・・」

「いいよいいよ、なんでも聞いてよ!」

シュウはガードレールに腰かけてキリンの「サプリ」を飲んでいる。ホントですかー?やった!教えてくれるってー!ミサキがそう言って手を振ると、ユカがシュウの前に飛び出してきたので、シュウはサプリを気管に詰まらせそうになった。

「ダイヤルQ2に電話をかけたいんですけど、どうすればいいですか?やさしいシュウさん教えて!」

シュウは口元をぬぐうと、なんでおれが、と言いながらふたりを電話ボックスへと案内した。

「いまはなー、Q2はケータイからじゃかけらんねーんだよ」

そう言ってシュウは自作の変造テレホンカードを緑色の電話機に突っ込んだ。カード、度数は、50点、です、という声が受話器から聞こえる。そして何かに気が付くと、少しだけあたりを見回して、女子小学生に見せるにはあまりにひどいピンクチラシを選んで剥がし始める。ていうかなんでQ2なんかに掛けたいんだよ。シュウはそう言ってミサキの方を見た。

「おとうさんが隠れてかけてるから・・・出会い系とかだったら不倫かもしれないし・・・証拠が欲しくて・・・」

ミサキが泣きそうな顔で言うとシュウはたじろいで、じゃあおれがかけて内容確認するから!そしたらさっさと学校戻れよ!と言いながら、ミサキに番号を見せるようにジェスチャーした。やっぱシュウさんっていいひとだよね、彼女いるの?とユカが言うと、バカなこと言ってるとテレカ返してもらうぞ、と言ってシュウはユカを睨んだ。そしてミサキが自分の携帯電話の画面に映る発信履歴を見せると、シュウはダイヤルを止めて受話器を置いた。

「おれこの会社知ってるぞ」

 

 

 3人は北千住駅の裏にある狭い路地を歩いた。シュウの話では、シュウの偽造テレカを買う顧客のほとんどがダイヤルQ2の運営会社なのだそうだ。偽造テレカで自社のQ2に電話をかけて、NTTからローヤリティをだまし取るのがその手口らしい。マッチポンプってやつよ、とシュウは得意げに言った。腐った臭いがマンホールや側溝から漂っていて、パチンコ屋の自動ドアからは宇多田ヒカルのAUTOMATICとともに、ジャラジャラという騒音が洪水のように漏れ出している。ひとりだったら怖くてとても歩けなかったとミサキは思った。でもいまはひとりじゃない。そう思ってユカの手を握る。シュウはクリーム色の雑居ビルにふたりを案内した。ペンキが剥げてささくれ立った手すりのある非常階段を3階まで上がり、ドアの前に立つ。手をつないだふたりの心臓のビートが早くなっていく。シュウはその後ろで、いったいいまから、このふたりが何をしようとしているのか不安になってきていた。

「おい、まさかインターホンとか鳴らさないよな、ここロシア人みたいな連中が出入りしてて・・・」

シュウが言い終わる前に、ミサキがインターホンを鳴らした。

 

 

 半分が擦りガラスになったアルミ製のドアの前で、ミサキはじっと待った。もう一度呼び鈴を鳴らす。いったいなんて言えばいいのだろう。ユカがドアに耳をつけて中の様子をうかがう。電気は消えている。耳を離したユカが首を横に振る。誰もいないよ、音が何にもしないもん。シュウが玄関の上の電気メーターを見上げる。でもメーター回ってるぜ。シュウはそう言ってスリーラインのポケットに手を突っ込んでミサキの様子を見守っている。ミサキが再度インターホンのボタンを押したそのとき、ミサキはなにかを感じた。ミサキは大きく息を吸って目を閉じる。反対の手からはユカの熱と鼓動を感じる。ミサキは一本の線を想像した。遠く離れた闇とつながる一本のラインがわたしたちだ。インターホンの向こう側にいる、インターホンとつながっているもののなにか。深い孤独、悲しみ、蒼く暗い感情。せまく日の当たらない事務所の中に、ゲームで見たあの国旗が掲げられている。双頭の鳥が載った三色の国旗。紺のジャージを着た大男がテーブルの前に座っている。テーブルの上には大きなボストンバッグ。男は小さな写真を持っている。赤ん坊を抱いた女性が笑顔で映っている写真。いまのミサキには男の願いがわかる。時計の重い秒針の音。給湯器の蛇口から水が垂れる。午後4時を待っているのだ、彼は。ミサキは叫ぶ。ねえ、少しだけ聞いてください。わたしは足立区立第三小学校6年3組の学級委員長です。あのゲーム、「プロジェクト・コソボ」のことでお話があります。シュウが驚いた顔をしてミサキを見る。おい、さっきの話と言ってることが全然違うぞ。コソボだって?ユカがミサキの手を握る。わたしたちはあの国のことを知りませんでした、とミサキは言った。

「でもお願いです。チャンスを下さい」

 

ミサキの声が震え出す。

 

「たしかにわたしたちは知ろうとしなかった、学校の掲示板に紛争のニュースが貼られても、無視していました。無視されることはわたしたち小学生だっていちばん恐れているのに。わたしたちは”ハブる”って言います。みんなハブられないように必死です。そして自分たちが反対になにを無視してしまっているのか、誰も気付かない。自分には関係ないと思ってるから。そうしたら、世界中が敵になってしまうのに。世界が終わってしまうのに。お願い、あなたが受けた仕打ちはひどいものだし、それをわたしたちが償うことはできないけど、でもチャンスを下さい。小学生には難しすぎる問題だし、正解はわからないけど、それでも間違っていることぐらいはわかるんだ!おねがいだ!バカのまま死にたくない!どうせ死ぬならせめて、自分の間違いを認めてから死にたいんだ!!」

 

インターホンのボタンを強く押したまま、ミサキはじぶんの額を冷たいガラス戸に押し付けた。ひんやりとした感覚。ミサキは涙が止まらなかった。どうしてだろう。死ぬのが怖くない。これがほんとうに自分の感情なのか、それともドアの向こうにいるはずの、あの大男のものなのかわからなくなってくる。そのとき、インターホンから小さな声がした。

「Хвала」

さっきまでインターホン越しに感じていた深い絶望感が、まるで潮が引くように収まっていくのがミサキにはわかった。ユカがミサキの頭に額をつけて言う。

「帰ろっか、サクラギさん」

サクラギミサキは少しだけ微笑んで頷いた。気の毒なシュウだけが、目の前で繰り広げられた小学生による演説が意味するものを理解できていない。彼はポカンとしてふたりの様子を見ている。3人がそのビルを去って数分後、ひとりの白人男性が大きなボストンバッグを抱えて事務所のドアを開けた。男は自分の中の感情の変化がなぜ起こったのか整理がついていないが、異国の子供の言葉に少しだけ救われた気がしている。

ボストンバッグの中のタイマーはもう止まっていることを、ミサキとユカはまだ知らない。

 

 

 ふたりはシュウと別れると、また森永ラブで昼食を食べてから電車に乗って学校へ戻った。すでに学校中がふたりの失踪に大騒ぎになっていて、担任は激怒していた。おそらく保護者にも話が行って、今夜はふたりの家庭でも大きな嵐になるだろう。6時間目が終わり、居残りを命じられたサクラギミサキとカザミユカは、自分たち以外誰もいないパソコン教室で、「もう二度と学校を抜け出しません」という誓約書兼反省文を書くことになった。真っ黒な画面が並ぶマッキントッシュの行列を眺めながら、サクラギミサキは頬杖をついて、自分の隣に座るカザミユカを見る。ねえ、もしこれからインターネットがどんどん発達して、冷蔵庫や洗濯機や自動車と繋がったり、携帯電話がパソコンみたいにネットに繋がるようになったら、わたしたちどうなっちゃうわけ?とミサキがユカに尋ねる。えー、知らないよ、なんとかなるんじゃね、と言いながらユカはミサキに笑みを返す。

 

「だって、つながってればムテキだもん」

 

ユカがそういうと、「じゃあユカ、プロフ帳書いてよ」と言ってミサキが「こげぱん」のプロフィール帳を差し出した。え?いいの?じゃあこんどプリクラも撮りに行こう、ジョイポリスに遊びに行こう、ナムコ・ワンダーエッグに行くのもいいね、ユカもケータイ買おうよ、そういえばなんでユカはわざわざ北千住のトポスで買い物するの?だって電車賃入れても綾瀬のヨーカドーより安いんだよ、ミサキもこんど買い物手伝ってよ・・・

 

時計が午後4時2分を指している。
学校の向かい側にあるNTTの大きな広告看板が、傾きだした初夏の陽光を反射している。それを見たミサキは、ほんとうにそのとおりだと思って笑った。

 

―みんなつながってる、NTTのISDN

 

文字数:19598

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