きずひとつないせみのぬけがら

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梗 概

きずひとつないせみのぬけがら

父親の故郷で夏休みを過ごす小学五年生の和希かずきは、奇妙な蝉の抜け殻を見つける。脱皮したときの破れ目がどこにもないのだ。どうやって蝉は脱出した? 和希は人々に訊いて回るが、誰もまともに取り合ってくれない。探すと無傷の抜け殻はいくつも見つかった。

抜け殻を収集する和希は、雑木林で幸村こうむらひろしと出会う。幸村家の坊ちゃんはこの春におかしなったで関わっちゃあかんよ、という祖母の言いつけを思い出すが、話してみたらすぐに打ち解けた。両親や東京の友達よりも通じ合えると感じた和希は、無傷の抜け殻について話し、「もしかして蝉は別次元に飛んでったんじゃないか」と自説を語る。洋は「正解だ」と返す。抜け殻から別次元方向に蝉を取り出したのは洋だった。

洋曰く、この宇宙は〈外のやつら〉に管理されている。本来もっとあるはずの次元を折り畳み、空間の広がりをたった三次元に制限して、虫かごのように宇宙を囲っているのだ。洋も〈外のやつら〉のひとりだったが、このような一方的な管理は傲慢だと考えていた。そのため洋とその仲間はこの宇宙へ侵入し、世界中に散らばり、人間の体を借りて真実を広めようとしていた。無傷の抜け殻は人類へ向けたヒントだった。

そのような説明を、幼い和希はすぐに理解した。それほどに洋の、〈外のやつら〉の意思疎通能力は優れていた。

遠回しなヒントよりも洋が直接人々へ伝えたほうが早い、と和希は提案する。洋としては人類への干渉を最小限にしたかったのだが、初めての理解者が言うことだからと和希の提案を受け入れる。プールでのプレゼン、夏祭りでのマイク乗っ取り、解説動画の投稿など、和希と洋は協力して真実を広める。動画は拡散され、洋のメッセージを聞く者は桁違いに増加する。

ところがある朝、父親が何を言っているのか分からないことに和希は気づく。父親だけでなく、誰の言葉も、表情も身振りも、何を伝えようとしているのかまるで理解できない。〈外のやつら〉の意思疎通能力が人類よりも遥かに優れていたために、それを深く味わった者は、人間の発する粗悪なメッセージをうまく読み取れなくなってしまっていた

このまま活動を続ければ人類が滅びると考えた洋とその仲間は、撤退を決断する。「成果はあった。協議の結果、次元がひとつ解放されることになったんだ。これはぼくらにとって前進だ」と洋は語り、最後に蝉の抜け殻を和希に渡して宇宙を去る。

――そんな夏の記憶を、六年生になった和希は思い返す。現在は、多少は人と会話できるまでに回復していた。

洋がくれた蝉の抜け殻。それは厚みがなく、どの角度から見ても常にこちらに平らな面を向けている。

和希の思い出の中では、あの夏には奥行きがあった。この世界は昔から三次元空間だ。みんなそう思っている。しかし、この平らな蝉の抜け殻が、かつてここは二次元だった、それを和希たちが変えたのだと物語っている。

文字数:1200

内容に関するアピール

完全に季節外れですが、ひと夏のボーイ・ミーツ・XXXです。

以前、「この宇宙に四つ目以上の空間的な次元が存在するとしたら、それは人間には確認できないくらい小さなサイズに折り畳まれている」というような説を聞いて、何者かによって宇宙が閉じ込められているイメージが浮かびました。そのイメージを動物園仮説と絡めて本作の設定を考えました。

また、「異なる知性同士のコミュニケーションの困難さ」はファースト・コンタクトものの醍醐味のひとつだと思いますが、逆に異なる知性同士のコミュニケーションが拍子抜けなくらい容易で、しかも(非言語的なものも含めて)人間同士のそれよりも遥かにスムーズだったらどうなるだろう、それはそれで大変なことになるかもしれない……と考え、本作に盛り込みました。

オチについては、現実世界はすでに改変された〈ファースト・コンタクト以後〉かもしれないという、物語と現実の地続き感が出せればと思います。

文字数:400

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きずひとつないせみのぬけがら

あれは、私がまだ小学生だったころの出来事だった。
 正確には、そのとき私は小学五年生だった。その年は、父の急な思いつきで、夏休みに愛知県入来鳥いりきとり市にある父の実家へ泊まりに行くことになった。たしか、三週間くらいは泊まっただろうか。飼っている犬(ミニチュアピンシャーのピン太郎)の世話のために母はひとり東京に残り、私と父だけで帰省した。
 出発前に私はかなり駄々をこねたらしい。両親からそう聞いているし、自分でもそんなことをした記憶はあるけれど、理由はあまり覚えていない。たった三週間でも母と離ればなれになるのがさみしかったのだろうか。それとも、まったく友達のいない遠い町に滞在するのがたえられなかったのだろうか。
 父は、ぐずる私をこう説得した。
「夏休みには田舎に帰るもんなんだよ。そういうもんだって決まってるの。ほら、おばあちゃんだって、はやく和希かずきに会いたいって言ってたぞぉ」
 実際のところ入来鳥市は名古屋のベッドタウンで、言うほど田舎ではなかった。祖母の家はリフォームしていて鉄筋コンクリート二階建ての普通の家だったし、Wi-Fiだってちゃんとあった。タブレットを借りれば動画も見られるから、そこまで東京と違いはない。違うといえば、寝る場所がベッドから布団に変わったくらいだ。ベッドタウンなのに。
 しかし、タブレットで日がな一日動画を眺めて過ごすような私の休日は、父の考える夏休みとはだいぶ違っていたらしい。ある朝、私は古びた虫取り網と虫かごを持たされて外へと追いやられてしまった。「子どもらしく外で遊んできなさい。虫でも捕まえたらきっと楽しいから」と父は言った。父が私に突然ミッションを与えるのはよくあることだったし、そういう類の宿題が出ていないこともなかったので、私は素直に散策に出かけた。
 祖母の家からすこし歩いたところに神社があった。児童公園が併設されており、敷地面積はそれなりに広かった記憶がある。小学校の通学班の集合場所にもなっているようで、鳥居のそばにはバス停のような看板が立っていた。遠くのブランコに、自分と同い年くらいの女の子たちが集まっているのが見えた。
 境内は自然豊かで、大きな樹がたくさんあったので、昆虫採集にうってつけだと私は思った。ちょうど、蝉の鳴き声もうるさいくらいに聞こえていた。
 そして、そこで私は奇妙な蝉の抜け殻を見つけた。
 傷ひとつない蝉の抜け殻を。
 樹の幹のあまり目立たない位置に留まっていたその抜け殻はどこも崩れておらず、幼虫そのままの姿を完全に保っていた。何ゼミかはわからないが、触角が太くて全体に金色を帯びている。太陽の光に透かすときらきらと輝いてきれいだった。
 何より不思議なのは、本当に傷ひとつなかったことだ。東京育ちの私でも、蝉が羽化することくらいは知っている。だが、その抜け殻は、普通なら背中側にあるはずの脱皮したときの破れ目がどこにも見当たらないのだ。
 もしかして、そういう種類の蝉がいるのだろうか。
 いや、いたとしても、どうやって蝉の成虫は抜け殻から脱出したというのか。
 帰ってから父に訊いてみようと思い、私は幹からそっと抜け殻をはがした。虫かごに仕舞うことも考えたが、かごの中で転がって脚や触角が折れてしまうおそれがあった。私は、うずらの卵を持つように、抜け殻をやさしく手のひらで包み込んだ。
 ところが、祖母の家に戻ってみると、抜け殻は手の中で潰れていた。いつのまにか強く握りしめていたらしかった。
 
 その翌日、私は早朝から神社に向かっていた。父や祖母を見返したかったからだ。無傷の抜け殻を見つけたという私の話は、二人に取り合ってもらえなかった。父は私が冗談を言っているのだと決めつけ、こちらが必死に訴えてもまったく聞く耳を貸さなかった。下手な嘘をつくな、証拠がないぞと笑い、挙げ句の果てには「男ならぐちぐち言い訳するな!」と怒った。祖母はそんな父から私をかばってくれたけど、やはり私の話を信じてくれてはいないようだった。
 昨日握りつぶしてしまったやつの他にも、きっと無傷の抜け殻はあるはずだ。もう一度見つければいい。そう考えて、神社のほうも児童公園のほうも、樹木という樹木をすべて探し尽くしたが、目についたのは背中が破れた普通の抜け殻ばかりだった。蝉の声が、私を煽っているかのようだった。
 早起きついでにラジオ体操にも参加して、とうとう何もできることがなくなり、もう帰ろうかと思いはじめていたころ。
「あった!」
 ついに私は無傷の抜け殻を発見した。
 神社の裏手、フェンスの向こう側に生えている夏蜜柑の木にそれは張り付いていたのだ。
 夏蜜柑の木は目と鼻の先にあり、果実の重みにたわむ枝が神社側にも届いていた。ひし形に編まれた青い針金のフェンスには手が通るほどの隙間はなかったが、乗り越えることはできそうだ。小五ならではの浅はかさで、当時の私はフェンスに足を引っかけ、ひょいひょいひょいと一番上までよじ登り、反対側に降りる際に思い切り尻餅をついた。めちゃくちゃ痛くて泣きそうだったが、ともあれ私は、知らないお家の庭へ不法侵入することに成功した。
「だれ?」
 そしてすぐに犯罪は露見した。
 尻をさすりながら後ろを見ると、そこには自分と同い年くらいの、おかっぱ頭の子が立っていた。きょとんとした顔でこちらを見つめている。襟足辺りできれいに切り揃えられた黒髪と、今日産まれてはじめて太陽の光を浴びたかのように真っ白な肌、そして濃紺のワンピースというコントラストが印象的だった。
「だれ?」
 その子は質問を繰り返しながら近づいてくる。白い肌の上で、生い茂る葉っぱの影が揺れた。ワンピースの生地も微妙に色合いを変える。それに見蕩れてしまっていた私には、もはや逃げるなんて考えは頭になかった。
「ねえ、だれ?」
 夏蜜柑の木のすぐそばまで来られると、まだ地面に膝をついていた私は、その子に見下ろされるかたちになった。
 まっすぐな視線に圧倒されて、思わず私は名乗ってしまう。
「おれは……、前田、和希」
 当時の私は「お」にアクセントのある小学生特有の一人称を使っていた。
「カズキ」ささやくような声で、回答も繰り返される。「カズキは、ここで何しているの?」
「えっと……」
 私は夏蜜柑の木をちらっと見た。幹の裏側には、あの無傷の抜け殻があるはずだ。その抜け殻が欲しくて敷地内に侵入したと、正直に打ち明けるべきだろうか。でも、そんな理由で他人の家に入るなと怒られるかもしれない。もしもここで傷ひとつない蝉の抜け殻を見せたら、その不思議さに共感して許してくれるだろうか。いやいや、興味なさげな反応に終わるだけだろうか。父や祖母がそうだったみたいに。
 そのような私の逡巡を見て、何かを勘違いしたらしいその子は、
「あっ、みかん食べたかった?」
 と質問を変えた。
「み、みかん?」
「それならうちに来なよ。ちょうど休憩しようと思ってたところだったんだ。一緒に食べよう」
 誘いの言葉とともに、手が差し伸べられる。
「え。ああうん、じゃあ、食べよっかな……」なんだか変なことになってきたぞと思いつつも、私は目の前の手を取って立ち上がった。その手は汗ひとつかいておらず、ひんやりしていた。「ありがとう。ええと、君は……」
「ヒロシ」
「えっ?」
「僕の名前はコウムラヒロシ」
 それが、私とヒロシの出会いだった。
 
 出会った経緯こそ奇妙だったものの、それから私とヒロシはすぐに仲良くなった。単に気が合ったからなのか、それとも他の同年代の子のグループからあぶれていたせいか。かたや夏休みにだけ現れる東京っ子、かたやワンピース姿の美少年。お互いに、はぐれ者といって差し支えない存在だった。
 知り合って早々、私はヒロシにこんな質問をしたことがある。
「どうしてヒロシは女の子の格好をしているの?」
「ああ、これ?」訊かれたヒロシは今はじめて気づいたかのように、自分の着ているワンピースの裾を軽く引っ張った。「まあ、とりあえず一時的に着ているだけというか。今だけだよ、今だけ」
「ふうん……?」
 その煙に巻くような答えは当時の私を満足させるものではなかったけれど、そんなことはすぐにどうでもよくなった。ヒロシの持っていた外国のボードゲームが、どれも最高に面白かったからだ。
 ともあれ、私は毎日のようにヒロシの家に遊びに行くようになった。
 幸村こうむら家は昔ながらの日本家屋で、私の祖母の家よりもはるかに大きかった。母とピン太郎が留守番している東京のマンションなんかとは比べものにならない。幸村家は庭もまた広かった。夏蜜柑の木はあの一本だけだが、他にも様々な樹木が植わっていて、庭師によって手入れされているのが幼心にもよくわかった。こうなると、神社との境にあるフェンスが場違いなくらいだ。
 それほどまでに立派なお家だったが、屋内はしんとしていてどの部屋も人気がなかった。いつもヒロシがいる離れのほうに入り浸っていたせいもあるが、私がヒロシ以外の家族の姿を見ることはほとんどなかった。
「ほら、みんな僕を避けてるから」ヒロシはなんでもないことのように言って、持っていた皿を座卓に置いた。「聞いたことない? 僕のうわさ」
「いや、おれは夏休みにしかこっちにいないから、別に……」
 というのは嘘だった。先日、夕食時にそれとなく幸村家の話題を出したとき、祖母が言っていたのだ。幸村さんとこのひろしちゃんはもとから変わった子だったけど、この春にますますおかしなったで関わっちゃあかんよ、と。だから、その「幸村さんとこの洋ちゃん」のところに通っていることは祖母にも父にも秘密だった。
 皿の上には、薄皮まできれいにむかれた夏蜜柑の房が円を描くように並んでいた。これも親が用意してくれたわけではなく、自分で皮をむいて種を取って盛り付けたのだとヒロシは言う。それを聞いた私の心に、何か引っかかるものが残った。もちろんひとつひとつの作業は小学生でも簡単にできることだし、自分も親の手伝いで似たようなことをよくするのだが、どこかが決定的に違うと思った。
「……まあ、どこの家でも、いろいろあるよね」
「何の話?」
「なんでもない。いただきます!」
 ひとりごとを聞かれていた私はあわててごまかし、黄色い粒のまとまりをひとつつまんで口に入れた。
「んー、すっぱいな!」
 お店で売られているものとは違って、庭の木に生っている夏蜜柑はどれも酸味がきつかった。本来なら、マーマレードなどに加工して食べるべきなのかもしれない。
「ねえ、さっきのって何の話?」
「えー?」ヒロシがまだ引っ張るので、気をそらすために適当な話題を探す。「……いや、家によって独自のルールとか日課があるよねって話。たとえば、おれんちってこれくらいのちっちゃい犬飼ってるんだけど、いつもご飯にみかんの缶詰いれてるんだ」
「みかんの缶詰!? カズキの家って犬飼ってるんだ。いいな、触ってみたい」
「東京の家だから、ちょっと難しいかな……」
「なんて名前なの?」
「教えてもいいけど、笑うなよ……」
 うまく話題がずれてくれたおかげで、その後もヒロシとの楽しい会話はつづく。
 これなら父の故郷も悪くない。そう思うようになっていた。
 
 ヒロシと遊ぶのがあまりにも楽しすぎて本来の目的を忘れていることに気づいたのが、ヒロシと出会ってちょうど十日が経ったころ。
 そう、蝉の抜け殻だ。
 もとはと言えば、私は無傷の抜け殻を探していたのだ。
 傷ひとつない蝉の抜け殻。最初にそれを見つけたのがもう一週間以上まえのことだから、本当にそんなものがあったのか記憶があやしくなってきた。「もしかしてあれは夢だったのでは?」というのは言い過ぎにしても、「実は精巧な作り物だったのでは?」というのは即座に否定できない。誰かが偽物の抜け殻をいたずらで作って、そこらじゅうにばらまいたという可能性もある。
 一応、虫の観察は夏休みの宿題にもなっている。
 宿題ならちゃんと確かめないといけないだろうと自分に言い訳して、その日の私は、ヒロシと会う予定の時刻よりも早く幸村家を訪れ、こっそりあの夏蜜柑の木のもとへ向かった。十日のあいだに雨が降った日もあったけれど、まだ幹に張り付いているかもしれない。
 はたして、無傷の抜け殻はそこに残っていた。
「……やっぱり本物だ」
 改めて手にとってじっくり眺めてみると、色つやといい、すこしでも力を入れればすぐに壊れそうな感じといい、どう考えてもこの抜け殻は作り物じゃない。背中以外の場所に破れ目があるというわけでもなかったし、接着剤か何かで人工的に破れ目を塞いだという形跡もなかった。それでもその中身は明らかに空っぽで、どこかから蝉の成体が抜け出したのはまぎれもない事実だ。
 ふと、ヒロシの顔が頭に浮かぶ。
「あいつにも見せようかな……」
 声に出してみると、むしろどうして今までその考えに至らなかったのかというくらい秀逸なアイデアに感じられた。ヒロシの家の敷地内で見つけた抜け殻なのだから、ヒロシにも知らせるのが当然だという気もしてきた。
 そうと決まれば離れに行こうと、無傷の抜け殻から視線を外したそのとき、私は唐突な違和感におそわれた。十日前に来たときとは何かが変わっているし、逆に、何かがあまりに同じすぎておかしい感じもする。
 この違和感はいったいなんだろう……としばらく考えて、ようやく私はその正体に気づいた。夏蜜柑の木だ。
 十日前に来たときと比べて、まったく枝がたわんでいない。
 それなのに、ぶらさがっている果実の数はあのときと同じように見える。
 いつのまにか違和感は嫌な予感に変わっていた。私は、枝に生っている夏蜜柑のうち、一番低い位置にあるものに手を伸ばす。
 すこし持ち上げて、すぐにわかる。
 明らかに、見た目より軽いのだ。
 おそるおそる、夏蜜柑を枝からもぎとった。やはり軽い。持っている腕が浮き上がりそうな感覚だ。抜け殻をいっぺん地面に置いて、私は両手を使って分厚い皮に親指を突っ込み、無理やりに二つに分割した。するとそこには、どこにも破れ目のない空っぽの薄皮が幾重にも連なっていた。
 つまり、傷ひとつない夏蜜柑の皮。
 この十日間のあいだヒロシと一緒に食べていた夏蜜柑は、お店のものとは異なり酸味がきつかったから、幸村家の庭で採れたものに違いない。そして、幸村家の庭に夏蜜柑の木はこの一本しかない。だから、この皮から黄色い果肉を抜き取ったのは、間違いなくヒロシだ。
 そして、おそらくは。
 傷ひとつない蝉の抜け殻もまた、ヒロシの手によって作られたのだ。
 でも、どうやったらそんな魔法みたいなことができるのか、まったくわからない。人間業とはとても思えない。
「あいつはいったい、なんなんだ……?」
 
 夏蜜柑の皮と蝉の抜け殻を手に、離れで問いただすと、拍子抜けするくらい呆気なくヒロシは白状した。
「この世界をつくったのは僕なんだ」
 そう、さらりととんでもないことを口にしたのだ。
「カズキに夏休みの宿題があったように、僕にも似たような課題があってね、それでこの世界を作って、ずっと外から観察していたんだ。でも、三ヶ月前くらいにやっと課題が終わって、そのとき今更思ったんだけど、長いあいだ中に閉じ込めちゃってかわいそうなことしたなって。だから、生き物はみんな外に放してあげることにしたんだ。夏蜜柑はおいしかったから食べちゃったけど」
 それからのヒロシの説明は小学生には難しすぎて、当時は言葉を追うだけでよく理解できなかった。だけど、今ならすこしわかるところもある。ヒロシは、この世界をつくる際に、本来もっとたくさんあるはずの次元を折り畳み、空間の広がりをたった三次元に制限して宇宙を囲ったのだ。まるで巨大な虫かごのように。そして、その〈外〉からずっとこちらを観察していた。
 つまり、今まで制限されていた別次元方向、他の動物には知覚できない方向の〈外〉に蝉を逃した結果が、無傷の抜け殻だったのだ。とても信じられない話だったが、目の前で中身の詰まった夏蜜柑を使って果肉の取り出しを実演されると、本当のことだと認めざるをえなかった。
「まあ、その子はちょっと逃すのに失敗しちゃったんだけどね」
 カズキの持っていた蝉の抜け殻を指さして、ヒロシは言う。
 失敗しちゃったというのは、無傷の抜け殻なんて証拠をこの世界に残してしまったことを言っているのかと思ったら、そうではなかった。
「その子、間違えて皮ごと外に出しちゃったんだよね。皮が二重になってるなんて気づかなかった。かわいそうなことしちゃったな」
 ヒロシが〈外〉に逃がそうとしていたのは、蝉の〈中身〉だけだったのだ。それが脳そのものを指しているのか、より上位の精神的な概念を指しているのかはわからないが。
 心から悔いるような表情をしているヒロシは、もとから〈中身〉しか存在しない生命体なのだろう。そして、本当の幸村洋の〈中身〉は、すでに〈外〉へ逃がされたあとなのだろう。
「細かい作業だからこっちの世界の皮を借りてやるしかないんだけど、いくら世界中に自分を散らばせて分担したところで、どうしても個々の時間はかかっちゃうんだよね。本当にごめんなさいだなあ……。あっそうだ、おかあさんって人にやってあげたみたいに、カズキも順番早めてあげようか?」
 外に放してあげようか?
 そう、にこやかにヒロシは提案した。
 
 当然のことながら、ヒロシの申し出を聞いた私はすぐさま逃げた。ヒロシに逃がされる前にヒロシから逃げた。それから東京のマンションに帰るまで、私は一睡もすることができなかった。
 数日経ってようやくぐっすり眠れるようになり、起きているときは怒りが恐怖を乗り越えてきた。
 自分の〈中身〉を、この世界の〈外〉へ逃すなんてとんでもない。何を勝手なことをしてくれるんだ。いきなり〈外〉へ放されて、そのあとどうなるのかが何もわからないじゃないか。そんなの、前にニュースで見た、環境のまったく異なる場所へ野生生物を逃してやるようなものだ。馬鹿すぎる。
 この世界をつくっただか何だか知らないが、あいつのやっていることはただの自己満足だ。ヒロシがあんなおかしなやつだとは思わなかった。いや、あいつは本当の幸村洋ですらなかったのか。完全に騙されていた。本当に腹が立つ。
 そうやって、かっかしながら朝食の惣菜パンを食べていると、すでに食べ終わった父が声をかけてきた。
「和希。缶詰ってどこやった?」
「缶詰?」
「ほら、ピン太郎にご飯あげたいから」
「ああ。ピン太郎用なら戸棚の右下じゃないの? なかったら母さんに聞いてよ」
「ありがとう。あと、あれどこだっけ」
「あれって?」
「えーなんだっけ、名前が出てこない」
「何……?」
 なんだか久しぶりに父の困っている姿を見て、すこし私は愉快になった。いつもの父は、もっと断言するように何でも決めてくるタイプの人間だったからだ。決めるのは父自身のことだけでなく、家族のことも。
「だめだ、ど忘れだ。もう歳なのか……」
「ちょっとちょっとなにー? ドッグフード? ご飯皿? ピン太郎?」
「そうじゃなくて、ほら、缶詰の」
「缶詰?」
「あれだよあれ、ここまできてるんだ……あっ! 思い出した! 缶切りだ!」
 そんな父の大声に、私は鳥肌が立った。
 なぜなら、「缶切り」なんて、父が言うはずがなかったからだ。
「…………お前、ヒロシだろ」
 ガッツポーズする父に冷たく言い放つと、父の動きが止まった。そして、悲しそうな瞳でこちらを見つめてくる。その目つきは明らかに父のものであり、それでいてまったく父のものではなかった。完全に幸村洋そっくりの表情で、なおかつ幸村洋とは似ても似つかなかった。
 つまり、それはヒロシだった。
「どうしてわかったの。今度はちゃんと開けようとしたのに」
「缶詰は、中身のみかんをドッグフードに混ぜるんじゃないんだよ。早食い防止のボール代わりに缶ごと皿に入れるの。それが前田家の習慣」
「そうだったんだ……」
 がっくりと肩を落として、わかりやすく落ち込むヒロシ。すこしかわいそうな気持ちになるけれど、今はそれよりも言わなければならないことがある。
「なんでここがわかったの……いや、それは訊く意味ないか。いくらでも手段がありそうだし。じゃあ、どうしておれを追ってきたの。あと父さんを返して」
「大丈夫。このおとうさんって人はまだ外に逃がしてないから。ちょっと皮を借りさせてもらってるだけ……」
「だから、どうしておれを」
「友達として、これだけは訊いておきたくて」
 友達。
 その言葉を聞いたとたんに、夏休みの楽しかった思い出がよみがえる。
 すっぱい夏蜜柑。
 海外製のボードゲーム。
 たわいもないおしゃべり。
 濃紺のワンピースに見蕩れたこと。
「カズキも、コウムラヒロシって人とだよね? 本当に、皮から出なくていいの? 外側のかたちから解放されなくていいの?」
「いいんだよ」
 全然予想していなかった質問だったけど、私は即答した。
「お……私は、自分で殻を破らないと意味がないと思うから。自分で外に抜け出すよ。仮に誰かに助けてもらうとしても、その相手とタイミングは自分で決める」
「そう……」
「でも、ありがとね」
「……うん、わかった」
 ごめんね、こわがらせちゃって。
 最後にそう言って、ヒロシはいなくなった。
 こうして、私がまだ小学生だったころの出来事は幕を閉じる。
 
          *
 
 実は、中学一年生になった今でも、私は無傷の抜け殻を持っている。
 ヒロシから逃げるときに、ちゃっかり持ち帰っていたのだ。あんなにこわかったのに、今度は握り潰さないように大事に持っていた。
 ときおり箱から取り出して、その傷ひとつない蝉の抜け殻をじっと見ていると、キチン質に囲まれている小さな空洞が内側なのか、それとも私のいる世界が内側なのか、だんだんわからなくなってくる。抜け殻に包まれていて、まだ脱皮できていないのはこちら側なんじゃないかと思えるのだ。

文字数:8952

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