コタキナバル熱循環装置

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梗 概

コタキナバル熱循環装置

千波冬人は部下の大竹夏海に誘われて、温熱療法のサロン「熱狂」に行く。身体を温めることにより、「ヒートショックプロテイン」が発現する。夏海は長年悩んでいた冷え症が治ったばかりか、脂肪が燃えやすい体になって痩身効果抜群、免疫力アップ、すべすべ美肌に若返り、とベタな宣伝文句を嬉々として口にするプラチナ会員だ。千波も試してみるが、たしかに疲労困憊した体が軽くなったように感じた。

「熱狂」の運営母体は、「熱教」という新興宗教で、温熱療法を切り口にあっという間に信者を集め、今では三大宗教に並ぶ勢い。だが、その活動は地下に潜み全容は知れない。千波は、「熱狂」の繁栄ぶりに、外来生物対策部防疫課おとり捜査官の勘が騒ぐ。洗脳された夏海は、「熱狂」に入り浸り、いつの間にか行方不明になる。夏海を助けるため、千波は「熱教」の本山に潜り込む。

「熱教」の教祖アウシュニャは、体温をあげれば徳を積める、と信者を鼓舞する。総本山をボルネオ島コタキナバルに定め、第二次世界大戦時に日本軍によってつくられた温泉施設を本山直営の「熱教スパ」として運営する。至る所に温泉がわき、サウナ、岩盤浴はもとより、修行と称しての火渡り、火吹きなど、連日熱い催し物が行われている。

アウシュニャの体温は42℃。未知のヒートショックプロテインが発現し、超人的な体力と頭脳を持つ。末期がんまで治癒するという無敵のヒートショック療法を求めて、信者ばかりではなく、多くの患者や医療従事者が訪れ、文字通り、本山は熱気に包まれていた。その中枢部は地下に構築され、複雑に分岐している。奥に行けばいくほど、湿度と温度が高まる。さらに、熱狂的な信者が通路を押し合いへし合い移動し、ヒトの熱気そのものに興奮している。

千波は熱に浮かれて自分を見失い、熱狂する人々に押しやられ、狭いすき間にはじき出された。千波は、地下水の流れる涼しい場所で我に返る。そして、熱気が引き金となって思考能力を奪う「熱教」の秘密に気づく。一方、調査を続けた部下の高井草之丞から、「熱教」を隠れ蓑にした外来生物の侵入が伝えられる。

さらなる熱を求めるアウシュニャは、世界各地に高断熱排熱処理用パイプを敷設、本山の地下にある巨大な排熱貯蓄タンクにつないだ。――コタキナバル熱循環装置。狙いは熱気で世界を満たし、自らの棲息可能な環境を地球全体に広げること。コタキナバルの地下から放出された熱が、熱帯の熱い空気もろとも上昇し、大気循環で地球全体を熱する。暑い空気に覆われ冷房を強めれば、その排熱がパイプを通ってコタキナバルへ戻る、というポジティブフィードバック。

アウシュニャは歓喜の表情で、システムのスイッチを入れた。だが、何も起こらない。パイプを通って運ばれてきた排熱は、熱帯の空気よりもぬるかった。その計画を知った千波が、救出した夏海と共に各地の宗教家を頼り、「忍耐」の必要性を説いた結果だった。

 

 

文字数:1198

内容に関するアピール

地球温暖化の影響による気候変動を心配しながら、その一方で化石燃料を使い続ける人類。きっと、他人事なのです。でも、この状況がさらにエスカレートした時、最後の手段になるのは、人の意志だと考えました。つまり、地球外生物の作ったコタキナバル熱循環装置をへなちょこ機械にしてしまうのは、ヒトの「忍耐」であったというオチです。

梗概中の「未知のヒートショックプロテイン」が、プリオンのように感染し(汗や唾液に含まれ、体内に入ると感染が成立)、高温状態で人の身体を乗っ取る外来生物の素です。冷え症で悩んだり、肩こりがひどかったり、はたまた美容にいい! というような、女性が引っかかりそうなスパが敷居の低い入り口の、あまりにも心地よいため抜けられない、危ない宗教とからめてみました。夏海はそういう女性の典型で、千波は少し抜けているところがあるけど、肝心な時には頼りがいのある上司。凸凹コンビを活躍させます。

 

文字数:394

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コタキナバル熱循環装置

がんが、克服される可能性が出てきた。
 腫瘍内科医の牧原大地は、がん治療学会で衝撃的な発表を目にして、震えた。一部の研究者が、がんのヒートショック療法を開発したのだ。“クラーティオ”と呼ばれるナノパーティクルを、がん細胞に発現する腫瘍特異的変異抗原に結合させる。クラーティオは体温を40℃まで上昇させると活性化し、がん細胞を殺傷する。その結合はがん細胞に特異的で、かつ親和性に優れ、一度の治療でほぼすべてのがん細胞を細胞死に追いやることができた。
 牧原は地域の中核病院で多くのがん患者を診ている。五年生存率がずいぶん高くなったとはいえ、それも限られたがん腫でのこと。すい臓がんや卵巣がん、未だ生存率の甚だ芳しくないがんはいくらでもある。若くしてステージIVとなった患者もいる。どうしても救いたかった。
 牧原はどんな小さな情報でも漏れなく拾っていた。すがれるものなら、藁にでもすがる。その矢先のことだった。
 使える抗がん剤のなくなった患者が一人、残された命を静かに見つめている。それは、三〇年来連れ添った牧原の妻であった。風前のともしびであった。身内びいきだと言われれば、返す言葉もない。だが、牧原のかけがえのない家族であり、その死は牧原自身の死でもあった。
 この研究結果が発表されるや否や、がん患者とその家族、そして医療従事者の期待はいやおうなしに高まった。本来ならば、クラーティオは医療機器として開発され、治験を経て有効性・安全性を確認ののち、承認申請、という道筋をたどるはずなのだが、その年単位にかかる時間を待っていられる患者は多くはない。ほとんどが末期がん患者で、一刻を争った。
 やがて、新興宗教の経営する医療施設が、クラーティオを使った治療を自由診療で開始した、という噂が流れた。研究資金もその宗教団体から出ていたのだろう。信者優先、といわれ、入信したがん患者が大勢いた。
 診療開始のアナウンスが待ちきれなかったのは、牧原も同じだ。
 患者受付の開始日。立ち上げたPCの前で、牧原は焦っていた。患者の予約が殺到している。みるみるうちに数カ月先までの予約が埋まる。なのに、つながらないウェブ予約。焦りが募る。
 完全に自費の自由診療だ。どれだけ高額か、国民皆保険に慣れきった人たちには想像もつくまい。この命の値段を支払える人は、果たしてどのぐらいいるのだろうか。二割ぐらいか。だが、たとえ八割減ったところで、この勢いでは治療開始まで、どれだけ待たされるかわからない。じわりと汗がにじむ。
 そこに一本の電話が入った。登録のない番号だ。何かの勧誘だろう。かまっている暇はない。が、いつまでたっても鳴りやむ気配はない。診療予約もつながらない。……今さら予約が取れたところで、妻の治療には間に合わないかもしれない。ほんの一瞬、弱気になった。そして、鳴りやまない電話を、取った。
「牧原先生ですね」
 穏やかな声が牧原の耳に響いた。心にしみる、不思議な波動をもった声だった。千々に乱れた牧原の心が、徐々に落ち着きを取り戻す。
「クラーティオを使ったがん治療を開始しております。ただ今、患者様の予約を受け付けていますが、医師の皆様にも……」
 うそだろう?
 電話口の女性の言葉を聞きながら、耳を疑った。
 ――医師の研修という目的で、特別枠を確保している。もしご興味があれば、ぜひおいでいただきたい。費用は掛かりません。
 唖然としている牧原に、電話の主は出席の有無を問う。何を聞かれているのかとっさに判断できず、問い返した。
「がん治療の研修会です。ご参加いただけますか?」
「もちろんです」
 即答した。受話器を置いた牧原は、しばらく動けなかった。信じられない面持ちで、PCのモニターに目を移す。そこに、研修会のお知らせ、と銘打ったメールが一本、着信していた。

真っ青な空に、そび立つ入道雲。
 街路樹の欅は大音量でクマゼミの大合唱を響き渡らせる。コンクリートの照り返しがきつい。鼻やあごの下まで日焼けだ。例年より長引いた梅雨がやっと終わって、夏全開の週末。
 昨今の温暖化で、日本列島のあちらこちらから、早くも38℃越えの声が聞こえる。一時も早く冷房の効いたカフェにでも飛び込み、滝のような汗をぬぐいたい。
 千波冬人は、心底そう願っていた。しかし、その願いとは裏腹に、炎天下を力ずくで引きずられていく。千波の右手をぐいぐい引いて、大股で歩く大竹夏海の背中。さながら馬車馬のようだ。いや、馬のほうがこの暑さには耐えられない。こいつのバカ力は、いったいどこから……。
 夏海の手にさらに力が入る。
「千波さんっ、ちょっともう少し早く歩けないんですかっ。遅れちゃいますってばっ」
 いちいち語尾にも力がこもる。この熱心さをもう少し仕事でも発揮してほしい。と、思いはするのだが、いかんせん、いつもエネルギー量では圧倒的に負けるのだ。
 千波は、部下の夏海に誘われて、温熱療法のサロン『熱狂』に連行されている。細身で見るからに頼りなさそうな千波に、ぜひとも体験してほしいと、いつもの熱心さで説き伏せられた。夏海は長年悩んでいた冷え症が治ったばかりか、脂肪が燃えやすい体になって痩身効果抜群、免疫力アップ、すべすべ美肌に若返り、とベタな宣伝文句を嬉々として口にするプラチナ会員だ。お前、洗脳されてんじゃないの? と軽く流した千波は、それなら千波さんも試してみたらいいんです! と反対に攻撃され、せっかくの休みだというのに、こうやって連れ出されている、というわけだ。
 温熱療法サロン「熱狂」は、ここ数年のうちに店舗数を指数関数的に増やしている。どこの駅を出ても、うっそうとした熱帯雨林をイメージした門構えが目を引く。ただ、その奥は表からは見ることができず、否が応でも通行人の好奇心をそそる。チャレンジャーが門をたたくと、例外なくリピーターとなり、その話を聞けば、さらに興味をそそられ……と、軒並み大繁盛。だが、事なかれ主義の千波は、こうして夏海に手を引かれない限り、足を踏み入れることはなかった。
 うだるような暑さの中、通行人は皆リクゾウガメの歩みで移動する。その群衆を傍目に、タンクトップにショートパンツ、元気はつらつな肢体を惜しげもなく披露する夏海は、悠然と千波の手を引き、足早に人ごみを抜ける。やがて、無味乾燥な外見を太陽に炙られ、陽炎に包まれるビル群の中に、緑あふれるジャングルが出現した。
「千波さんっ、つきました。『熱狂』銀座本店ですっ」
 いやいや、恐れ入りました。しばらく足を運んでいなかったとはいえ、銀座にこれだけの広さの熱帯雨林ができていたとは。恐るべし、地球温暖化。唖然と眺める千波の目に、青空に輝いてそびえる白銀の建物が飛び込んできた。ジャングルに突如現れた超近代都市という趣だ。
「ちょっと、ちょっと。あの建物、何?」
 さっそうと巨大な観葉植物の茂る店内に踏み込もうとしている夏海の腕をつかんだ。
「あー、がんのヒートショック療法で一躍有名になった病院ですよ。『熱狂』もあの病院と同じ系列で、いろいろ医学的な監修も受けているんです。だから、安心ですっ。さ、入りますよ!」
 温熱商売、儲かるなぁ。感心して白銀のビルを見上げる千波は、夏海に手を引かれ、ジャングルに飲み込まれていった。

国内外の富裕層が自らの、あるいは家族の命を買った金で、都心の一等地に広大な敷地が確保された。リゾートホテルと見紛うばかりの豪奢な建物は、クラーティオによるがん治療が行われている医療施設『ヒパテミー病院』である。
 千波が夏海に手を引かれて『熱狂』の門をくぐった時、そこでは牧原の妻が治療を終え、満面の笑みで退院するところだった。

文字通り軽くなった身体を引きずり、千波は『熱狂』を後にした。湿度100%の熱気が充満するジャングルから逃れ、千波は太陽に焼かれた空気を深く吸い込む。都会の灼熱の空気は、気管支を通って肺胞を焼き、ひりひりと身体にしみいるが、からだに充満した重い蒸気を追い払うにはもってこい。
 『熱狂』に足を踏み入れた時から、じっとりとした熱気が体力を消耗させた。しかも、温熱サロンの名にたがわず、低、中、高周波の各種電気治療器に超音波温水浴、超高速加熱マッサージ、加熱水蒸気スチーム衝撃波装置とかなんとか、サロン(というか夏海)おすすめコースが終わってみれば、千波の体重は3キロもそがれていた。身体は軽くなったが、それ以上に疲労困憊の感が否めない。
 となりでは、夏海が軽快なステップを踏む。こいつは、どこまでタフなんだ。そう呆れる千波は背中を丸くしてとぼとぼ歩く。年齢差の差だとは絶対に認めたくない。いつの間にか開いた千波との距離に気がついて、夏海が振り返った。
「千波さーん、遅いですよっ。置いてっちゃいますよ」
 勝手に置いていってくれ。息をするのも精いっぱい、あえぎながら、黙って叫ぶ。絶対に認めたくはないのだが、内心、体力のなさに千波は愕然とする。夏海が小走りに戻ってきて、千波の顔を覗き込んだ。
「あれ? 暑気あたりかなぁ。時々いるんですよね。からだ弱い人。千波さんって、もしかして、からだ、弱かったですか?」
 ほっといてくれ。答えようとして顔をあげたとたん、目の前が真っ暗になって星が飛んだ。

翌朝。
 クマゼミの大合唱が窓越しに聞こえる。容赦なく照りつける朝日。千波は鼻をすすりながら誰もいないオフィスに座っていた。からだは熱っぽい。出てくるのは力ないため息ばかり。

――昨日の帰り道。
 体が温まるとヒートショックプロテインが発現して、体にものすごくいいんです。
 いつの間にか運び込まれた電気屋の隅で、意識を取り戻したオレの耳に、夏海がとうとうと語る声が響く。うっすらと目をあければ、夏海は取り巻くやじ馬たちに語りかけているのであった。しかも、オレはといえば、冷たい床に投げ出されるように横たわり、だらしなくはだけた胸に、子ども用放熱ゼリー「お熱バイバイ」がすき間なく貼られている。天井から直撃する冷風が、ヘソまであらわになった身体から体温を奪う。風邪をひくのは時間の問題と思われた。だが、この状況で起き上がるのはまずい。やじ馬が消えうせるまで、何としても気を失っていなければならない。この状況を受け入れられるなら、真のヒーローだ。だが、オレはただの小役人。静かな幕引きを、世界中のだれよりも望んでいる。
 忍耐で狸寝入りを継続しながら、オレはショックに打ちのめされていた。毎日残業を終わらせてから、閉店間際に滑り込んでいるジムは、何の役にも立たなかった。体力づくりに、健康のために、と時間と金を投資していたはずが、この体たらく……。
 嬉々としてヒートショックプロテインの効果を語る夏海。コイツは毎日遊びに忙しい。たとえて言えば、キリギリス。残業するアリ上司(つまりオレ)に遠慮もせず、定時きっかりに退社する。なのに、どうだ。この差は。千波は心の中で恨めしい目を夏海に向けながら、ひたすら耐えに耐えた。
 おかげで、予想通り風邪をひいてしまったのである。

今日も激務が待っている。よりによってこんな朝なのに、何か重大事件らしい。緊急招集通知が届いていた。どこかで栄養ドリンクを買わねば。悲壮な決意で書類に手を伸ばす。
 にぃ、と弓なりに引かれた艶やかなくちびるが目に入る。
「あれ? 千波さん、元気ないですね。普通の人は、『熱狂』に行った次の日には見違えるように元気になるのに……。もしかして、からだ、弱いですか?」
 ゆっくりと顔をあげ、鼻をすする。誰のせいだ? じろりとにらんだ千波の顔を、夏海は小首を傾けてのぞきこんだ。
「あははは。目の下にクマまでできてるぅ。どんだけ疲れちゃってるんですか」
 からからと笑いながら歩き去る夏海の背中を、微熱ゆえの涙で潤んだ目で追い、いやいや、あんな奴にかかわってたら身体がいくつあっても足りない。さわらぬ神にたたりなし。独り言のように唱えて、気を取り直すように深呼吸をした。
 その日の緊急召集は、37階の大会議室で行われた。ロビーからは都内が一望できる。遮熱ガラスの窓から感じるはずのない熱気を浴び、千波は気だるさを募らせた。
 会議の内容は、行方不明者が増えている、それだけ。千波の所属する地球外生物対策部防疫課に、情報収集の依頼があった。

恒星間天体がそれほど珍しいものではないとわかってから、世界中の科学者が探査機を準備した。いつ飛来しても間に合うように、地球の軌道上はもとより、火星、小惑星帯、木星の軌道面、さらに公転面ばかりではなく、それこそ無数の角度を持って、探査機を配置した。
 その努力が実を結び、恒星間天体のサンプルがいくつか採取された。そして、驚くべきことに、生命のかけらが見つかったのである。それも、一つではなく複数の種類の生命の痕跡が。恒星間天体の飛来方向もさまざまであった。人間は宇宙で独りぼっちではなかった。いつの日か、知的生命体との邂逅を期待する一般人を後目に、宇宙生物学者は地球の生態系に与える影響の大きさを声高に主張した。たとえ微生物であっても。
 各国は協議を重ね、万が一の地球外生命体との遭遇を想定し、国際的な機関を設立した。日本では、厚生労働省及び農林水産省の横断組織として、地球外生物対策部が設けられている。調査課と防疫課に分かれているが、そもそも、地球外生物との接触なんてあるわけないと思われているから、防疫課は暇だと認識されていた。

地球外生命体との接触を待ってる間に一仕事できるだろう。働け。苦虫をかみ殺したような千波の表情を承諾とみて、他部署の連中はほっとしていた。おおかた、原因も定かじゃない行方不明の調査なんて、時間ばっかりかかって何もわからないよ。千波が断らなくって助かった。安堵感が会議室を支配していた。
 足取り重くオフィスに向かう千波に、後ろから声がかかった。
「千波さん、背中、丸まってますよ。どうしたんですか? あれ? なんか、涙目ですけど。アレルギーですか?」
 防疫課首席調査官、高井草之丞。こいつの観察力は人一倍。だけど、そこは気が付かなくてもいいところ。少しは気を回せ、と千波は苦々しく思う。その表情を読み取ったか、草之丞は小さく苦笑した。と思うと、千波の肩越しに何かを見つけて目を細めた。
「ずいぶん進んでますね。工事」
 振り返って草之丞の視線を追う工事用のフェンスに囲まれた場所が、等間隔に五つ見えた。まぶしい夏の光が反射する。はて?
「排熱収集ポンプですよ」
 いぶかしげな表情を読んでか、草之丞が親切にも教えてくれた。エアコンや自動車から排出される高温の空気でヒートアイランド現象が激化している。その低減策として、世界中の大都市が温暖化対策の財団法人から資金提供を受け、排熱処理施設を建築している。東京だけでなく、大阪、名古屋でも、同様の工事がこの厳暑の中、粛々と行われているらしい。ニューヨークやパリ、ベルリン等々も同じこと。
 部屋の中を冷やすために外に出した熱を、今度は大金をはたいて排熱処理、か。いたちごっこだ。
「エアコン使わなかったら、いいんだろ」
「やれるもんならやってみてくださいよ」
 思いつきを口にした千波にあきれて、草之丞はそっぽを向いた。

オフィスに戻り、草之丞と夏海に調査の依頼を説明したとたん、
「千波さんっ。ごめんなさい。私、今週末から夏休みですからっ。ほとんどお役にたてません」
 元気だけは誰にも負けないが、空気は読めません、と言外に告ぐ夏海の返事が轟いた。まあ、それは想定内だね。と草之丞は黒縁メガネをちょいとあげて千波を見る。千波の鼻息だけが、あたりに響いていた。
「夏海さん、夏休みはどこに行くんですか?」
 千波の気持ちを知ってか知らずか、草之丞は楽しげに問う。
「えへへ~。『熱教』総本山ツアーでーすっ」
 背中の後ろで組んだ腕を左右に振って、今にも踊りだしそうな夏海を、千波は奇異の目でながめた。どう考えたって温熱商売で名をとどろかせるいかさま宗教だろ。総本山ツアーってどういうことだ。
 止めても無駄ですよ。草之丞の呆れ顔が、そう語っていた。同意。夏海が帰ってくるころには、この狂ったような夏も重い腰を動かし、少しはさわやかな季節になっているだろう。せめてもの救いを、千波は時間に求めた。

――新興宗教『熱教』
 温熱サロン『熱狂』と、がんヒートショック療法施設『ヒパテミー病院』の運営母体だ。温熱療法を切り口に、あっという間に支持を集め、日本国内でも信者は1000万人を超える勢い。だが、その活動は地下に潜み、全容は知れない。
 総本山をボルネオ島コタキナバルに定め、第二次世界大戦時に日本軍によってつくられた温泉施設を本山直営の『熱教スパ』として運営する。至る所に温泉がわき、サウナ、岩盤浴はもとより、修行と称しての火渡り、火吹きなど、連日熱い催し物が行われている――旅行会社のパンフレットには、簡単な説明しかなかったが、総本山ツアーが開催されるたび、あっという間に定員に達する。夏海がやっと手にしたのは、かれこれ八回の開催を見送った末の、どうしても譲れない席だった。
 だいたいね、と夏海は思う。
 千波さんは鈍すぎる。地球外生物対策部防疫課のおとり捜査官として、どうかと思う。単なる温熱療法の施設なら、掃いて捨てるほどあるのに、なぜこれほど人々が『熱狂』に熱狂するのか。なぜ、あれほど簡単にがん治療ができるのか。ちょっと考えただけでも、怪しいでしょう。
 だから、千波さんに代わって、私がちょっと見てきてあげる。夏休みって言ったって、仕事のようなものだからね。熱心な部下を持ったことを感謝しなさいよ。

日本からのツアー客四〇人はコタキナバル国際空港につくと、世界各地からの信者と合流し、現地ガイドに率いられて総本山に向かった。気温は日本と変わらないが、何せ日差しが強い。せめて日光を反射しますように! と夏海は真っ白なスカーフを頭からかぶった。
 夫婦やカップルでの参加がほとんどで、単身参加の夏海は、同じく一人で参加した牧原海澄うずみと行動を共にすることが多かった。総本山に向かうバスの中でも、二人はとなりの席だった。海澄はほんの数か月前に信者になったという。がん治療を受けるために必要だったと。
「何とかパーティクルを使った、温熱療法ですか?」
 夏海は持ち前の好奇心で訪ねる。
「クラーティオね。よく御存じですこと」
 海澄は歯切れよく説明を加えた。ステージIVの卵巣がんと診断され、つらい抗がん剤治療を何度も繰り返したけど、打つ手がなくなって死を待つだけになったこと。あきらめた時に、夫が最新の治療法を知ったこと。副作用も全くなく、一回の治療でがん細胞がすべて消え去ったこと……。
「今回は夫婦でお礼参りのつもりだったんですけど、夫の担当する患者さんの予断が許さなくって、直前にキャンセルしてしまったんです」
 海澄の夫が予定通り参加できれば、夏海の席はなかったということだ。
「夏海さんは、なぜ入信なさったのですか?」
 海澄が夏海の目をのぞきこむ。
 えっ。そういえば、ツアーの申込書に「信者ですか?」というチェックマークがあった。信者じゃないけど、たぶん正直に申告してたら外れること間違いなし、だと思ったので、チェックしたんだった……。
「えーっと、……冷え症なんですよね。あの、夏でも裸足でサンダル履けないっていう感じの。足首、特に弱いんです。……なので、『熱狂』の大ファンになって、えーっと、そのまま、入信したって感じかなぁ」
 でっち上げの説明。まるで自分に言い聞かせるようだ、と思った。海澄は、まぁそうなのね。冷え症はつらいですよね。と優しく微笑んだ。
 信者を乗せたバスは、熱帯雨林の中を進む。4000メートルを超えるキナバル山を仰ぎ見る国立公園のそば、ジャングルの中に総本山への参道があった。温泉がわくというこのあたりには、そこここから白い蒸気があがっている。
 参道の入り口で、信者には階級に応じて入山の儀式が執り行われる。入信したばかりの海澄とにわか信者の夏海は、3rd grade believersの列に並ぶ。まもなく“敬信の真砂”と呼ばれる純白の粉が振りかけられた。
 『熱教』の教祖アウシュニャは、体温をあげれば徳を積める、と信者を鼓舞する。参道の途中にいくつも掲げられているモニターには、年季の入ったオペラ歌手のような豊満な身体を揺らしながら、念仏を唱えるアウシュニャの姿があった。
 蒸し暑い大気の中、参道の坂道を登りながら、信者たちの興奮はいや増す。隣を歩く海澄の体温が静かに上昇し、じわじわと夏海に伝わる。どんどん足早になる信者たちに追い抜かされ、いつの間にか最後尾となった。
 参道を取り囲むジャングル自体が呼吸し、熱気をはらんでいる。吐き出された呼気は熱く湿っていて、夏海の腕に足にまとわりつく。都会の乾いた熱気の中では感じない、泥沼に引きずり込まれるような疲労感。どんどん信者の列から遅れ、脱落していく。病み上がりの海澄でさえ、軽快な足取りで上っていくのに……。
 最後の石段を登り終えて、夏海は不覚にも膝をついた。目の前に星が飛び、意識が遠のく。走り寄ってきた海澄の声が、小さく聞こえた。

「夏海さん、あったかいジャングルがよすぎて、帰ってこないんですかねぇ」
 草之丞が椅子に背をもたれさせてつぶやいた。二週間の夏休みが終わっても、夏海は職場に姿を見せない。まあ、あいつのことだから、調子に乗って勝手に休み延期、とか言ってるんじゃないか。そう答えながら、千波にも一抹の不安がよぎった。
 数か月前から増えている行方不明者数。八月単月では、百人規模に膨れ上がった。発見されたケースは、未だ、なし。うわさベースではあるが、新興宗教と関連があるのでは、という情報もある。
「そのようなツアーは企画されておりませんが」
 念のため、と問い合わせた千波に、どこの旅行会社からもつれない返事が返ってくる。さすがにおかしいですよ。草之丞も眉をひそめる。携帯に連絡しても、電源が入っていません、の一点張りだ。SNSで呼びかけても、なしのつぶて。鈍いと言われてはいるが、さすがに地球外生物対策部防疫課おとり捜査官の勘が、警鐘を鳴らした。
 千波は、草之丞に周辺捜査を依頼して、コタキナバルへ向かった。折しも台風が接近していた。成田を離陸した飛行機は、高高度のアーチ状の雲を見ながら上昇していく。避けるように回り込んだ台風の巨大な積乱雲をにらみながら、千波はため息をついた。
 目下のオレの敵は、地球外生命体などではなく、出来の悪い部下だ。――優秀とは言わない。せめて、手間のかからない部下がほしい……。

その頃。
 夏海は黙々と地下でブロックを積み上げていた。
 直径五十メートルはあろうかという、巨大な円筒状のトンネルが延々と続く。内側に沿って張り巡らされた足場の上を、資材と人を乗せてトロッコが疾走する。
 その最先端に、夏海はいた。超薄型の高断熱板を幾層にも重ねて成形したブロックを、一枚一枚トンネルの壁に貼り付けていく。気の遠くなるような作業だが、建設に従事する信者は三交代制、二十四時間休むことなく稼働することで、驚くほどのスピードでトンネルは伸びている。
 参道を上がりきった時に意識を失って、気付けば海澄はいなくなっていた。ガイドの案内で指定された場所に行けば、すでにこの作業が割り当てられていた。無論、好奇心に負けて夏海はそのまま作業に行ったのである。総本山の建築現場が見られるなんて、こんな機会はめったにない。ツアー客なんだから、そのうち見つかって止められるまで、と。とてもお気楽に。
 ところが、いつまでたってもお沙汰がない。そのうち現場監督の目に留まって、小さなグループを任された。気のいいおじちゃんたち三人が、元気がいいねぇ、やっぱり若いかわいい子の下で働くのが一番だぁ、とか何とか、口々にほめたたえてくれるので、その気になってバリバリ作業に精を出してしまった。
 だけどさ、私、何やってんの?
 二週間のツアーは、どうなった?
 気付けば、日にちも、昼か夜かさえもわからない。やばいわ、いいかげんに……。
 能天気が売りの夏海も、いよいよ状況の危うさが身に染みてきた。足元のトロッコには、残りのブロックが一山。これが済めば、交代だ。
「夏海ちゃーん、お疲れ。おいしいコブラ酒、あるよー」
 トロッコ発着場に戻ると、中年の現場監督が赤ら顔で酒瓶を振り上げていた。アルコールに浸かったコブラの恨めしい目が、ねっとりと光る。いや、ちょっと、ト、トイレ……? 足早に通り過ぎ、更衣室に向かって走った。まずはここからでないと、一生トンネル工事だ!
 私服に着替えた夏海は白いスカーフで顔を隠し、建築現場に向かう信者の流れに逆らって、小走りに出口に向かう。地下通路は左右至る所に分岐がある。緩やかなのぼりになっていて、しばらく進めば、息が切れた。分岐している通路は細く薄暗く、ほとんど通る人もいない。少し休憩、と夏海は左の通路を少し入り、壁にもたれて座り込んだ。
 奥から、かすかな熱気が流れてくる。よく見れば、通路自体に照明はなく、奥の壁が間接照明のようにうすぼんやりと発光していた。通路の先はカーブしていてわからない。
 夏海の好奇心は、いつものことだが、恐怖や警戒という感情をも凌駕した。ゆっくりと、壁伝いに奥に進む。ドロリとした熱気がからだにまとわりつく。壁から伝わる温度がどんどん高くなり、ついに触れないほどになった。
 通路のカーブの先に、まばゆい光を放つ小部屋があった。
 そうっとのぞきこむ。正対する壁面がハニカム構造になっていて、高さ50センチほどの正六角形が壁全体を埋め尽くしている。その一つ一つに曇りガラス状のふたが取り付けられていて、中から光が漏れていた。ふたが閉まっているものも、開いているものもある。開いている六角柱の中は、奥行きが2メートルほどだろうか。ふたが閉まっているものは、曇りガラスの中に、なにかがうごめいている。
 ……虫?
 さらに近寄ってみようとした瞬間、背後の通路から靴音が聞こえた。一人ではない。かなり多くの人数が歩いてくる。とっさに小部屋に入り、開いている六角柱に滑り込み、中からふたを引き寄せた。
 ふたを少し開けてのぞき見れば、七、八人の男女が生気のない顔をうつむかせて入ってきた。その後ろには、長く黒いローブをまとったモヒカン刈りの男が二人。いや、モヒカン部分は頭髪ではなく、奇妙な質感がある。言ってみれば、甲殻類の触角のような?
 前を歩く男女は後ろのモヒカンにせかされ、次々と六角柱に滑り込んでいく。最後の女性の顔を見て、夏海は息をのんだ。
 海澄だ!
 海澄が六角柱に入ったのを見届けると、モヒカンたちは外からロックをかけ、談笑しながら立ち去った。これで幼生体のエサは1500体分。かなりいいペースじゃないか。クラーティオの効き目は最高だ……。
 夏海は耳を疑う。幼生体のエサ? クラーティオ?
 この部屋は、いったい???
 夏海は六角柱から飛び出て、海澄のはいった場所に走り寄った。ふたは簡単に開いて、海澄の頭部がのぞいた。ゆっくりとあごが上がり、上目遣いで夏海を見る。
「夏海さん……」
 かすかにつぶやく海澄を力ずくで引っ張り出した。脱力している海澄は、細身なのに重い。
 ここはまずいっ! 一刻も早く逃げなければ!

コタキナバルの夜。
 千波は熱帯の本気に怯えていた。
 削りに削られた出張費で泊まれるホテルは、というと、三流のビジネスホテルぐらい。どちらかというと、場末の旅館チックなそのホテルは、吹き荒れるサンダーストームに今にも飛ばされそうだ。
 窓は閉まっているのに、カーテンが風にはためく。雨が薄い窓ガラスにたたきつけられる。熱帯の豪快な稲光が、停電した部屋の中を一瞬、明るく照らす。とどろく雷鳴は、地響きを伴って部屋を揺らした。
 生きた心地がしない。
 千波は毛布を頭からかぶって耐えていた。ものすごく心細い。せめて相部屋にしてもらうんだった、とシングルの部屋を指定した数時間前の自分を呪った。
「あのー、大丈夫ですか?」
 ドアの向こうから声がかかった。

昨晩の嵐が嘘のような快晴の朝。
 千波は意気揚々とレンタカーに乗り込んだ。朝日に光るメルセデス。
 助手席には、日本人の男が一人。牧原と名乗った。『熱教』の総本山に、妻が先に来ているという。千波の目的地も同じだと知ると、借りていたレンタカーに同乗を勧められた。せめてもと、千波がドライバーをかってでたのである。
 牧原と千波は、成田から到着した便で共にコタキナバルの地を踏んだ。先に降りていた牧原は、最後のほうに降機する千波を見て、なぜか一抹の不安を覚えたのだという。格安ホテルしか空きがなく、仕方なく予約したちゃちなホテルで、牧原は千波のとなりの部屋だった。このホテルはセキュリティにも強度にも問題がありそうだと思っていたから、あまりにもひどい嵐に耐えかねて千波を訪ねたという。
 日本人がツアーでもなくコタキナバルにやってくるなんて、珍しいですからね。しかも、男が一人なんて。と笑って言うところを見れば、牧原もまた、慣れない場所での単独行動が苦手なのかもしれない。
「千波さんは、またどうしてここへ?」
 牧原に聞かれて、はたと困った。出来の悪い部下を探しに、と、のどまで出かかった憤りを抑え込み、『熱教』に興味がありましてねぇとお茶を濁した。
「ただ心配なのは、信者でもない人を入れてくれるか、なんですが」
 千波がこぼした不安を、牧原は一掃した。
「ちょうどいいですよ。妻を迎えに来たのですから、一緒に行きましょう」
 こうして、千波の旅に道連れができたのであった。
 熱帯の田舎道に似合わない、黒光りするメルセデスがホコリを巻き上げてひた走る。やがて、道はキナバル山を左に見て、『熱教』の参道下に着いた。参道前の受付で、牧原が名を告げると、二人分の白い粉が手渡された。
「我々のような、まだ日の浅い信者には、この“敬信の真砂”が必要なんですよ。別名スージアズモとも言いましてね、効果的に体温を上昇させる効果があります」
 さすがに温熱商売に通じている宗教だ。千波は感心した。
 医師だという牧原によれば、いわゆる温熱効果で、血管を拡張し、血流が増えれば、血行促進だけでなく、筋肉疲労、肩こり、神経痛などの痛みを軽減し、さらに胃腸の働きまで活発になるという。あわせてスージアズモを服用することで、ヒートショックプロテインの一種が活性化するらしい。免疫力が高まって、風邪も引きにくくなりますよ。と牧原は楽しげに言った。
 連れ合いの末期がんが治るほどだ。ご本尊さまには足を向けて寝られないな、とたわいもないことを考えながら、黙々と参道を登った。参道わきに掲げられているモニターからは、アウシュニャの艶然とした笑みが、黙々と山を登る信者たちを見下ろしていた。

『熱教』の総本山だけある。
 ボルネオのジャングルを眼下に見渡す山頂に、巨大な寺院が円を描くように配置されている。寺院に囲まれた中庭には、各所に温泉施設がもうけられ、もうもうと蒸気が空へ昇る。差し渡し300メートルはあろうかという広場には、信者がところ狭しと動き回っている。修行と称しての火渡り、火吹きなど、連日熱い催し物が行われているのだが、夕方になると信者の祈りは最高潮に達し、広場全体が興奮のるつぼと化していた。
 夕闇が迫る中、信者は押し合いへし合い、敷地中を練り歩く。千波も牧原も、人波にもまれ、どこへともなく流されていった。
いつの間にか、大きなトンネルの中に吸い込まれ、千波は牧原を見失った。携帯もつながらない。熱狂的な信者たちが通路を押し合いへし合い移動し、ヒトの熱気そのものに興奮している。
 千波は熱に浮かれて自分を見失った。興奮する人ごみをただただ漂っている。やがて熱狂する人々から、狭いすき間にはじき出された。トンネルは、手抜き工事のせいか、ところどころに亀裂が入っていた。その亀裂にすっぽりと入り込んだ千波は、露出した岩に崩れ落ちるように身体を投げ出した。
 冷たい新鮮な空気が一筋、頭上から吹き降りてきた。地下水の流れる涼しい音が、足元に響く。千波は我に返った。いままでの興奮状態が嘘のようだった。足を抱えて座りながら、思考能力が戻ってくる。おそらくは、熱気が引き金となって思考能力を奪う。それが『熱教』の秘密だ。
 足元に流れる渓流に沿って、わずかに岩が露出している。上を覗けば闇の暗さとは色調を異にする空間が見えた。狭い岩場をゆっくりと登り、外に出てみれば、巨大な寺院が星空を背景に黒々とした影として、ずいぶん遠くに見えた。

草之丞は痺れを切らしていた。
 千波に全く連絡がつかない。『熱教』に関して、調査報告が出た。一刻も早く伝えなければ、間に合わない。携帯に千波の名が表示された時、無意識に怒鳴ってしまったのは、そのせいである。

草之丞の調査結果。
 ――『熱教』は、黒だ。
 新興宗教を隠れ蓑にした、地球外生物の侵入。
 ボルネオ島の地底探査に出かけていた研究者が、ミューオンラジオグラフィによりコタキナバルの地下に巨大なアリの巣状構造を確認した。中枢部は地下に構築され、地上から中枢に至る空間は複雑に分岐している。地下に入る入口は、まさしく『熱教』の総本山の場所と一致した。
 サロン『熱狂』に潜入して手に入れた製品からも、怪しい効能が見つかった。
 体内に取り込むことで容易に興奮状態に陥らせるヒートショックプロテイン“スージアズモ”。38℃という比較的低温で発現し、無我の境地に達した後、感覚が通常の数十倍に研ぎ澄まされ、かすかな信号でも容易に反応できる。マウスに投与してみたところ、集団依存性が確認された。単独行動をするマウスに、興奮状態はみられない。ケージの個体数を増やせば増やすほど、興奮状態は大きくなり、簡単に集団ヒステリーを起こした。
 どこかで聞いた名だと思えば、“敬信の真砂”というやつだ。牧原から聞いていた。効果的に体温を上昇させる効果があるといったが、集団催眠を引き起こした原因物質だ。依存性があるかもしれない。一度温熱治療に訪れた者を残らずリピーターに、そして信者にするためのツールだ。
「千波さん。夏海さんが危ないです。地球外生命体が侵入しているとなると、おそらくは信者の精神をのっとり、都合よく操作するはず。早く見つけて助け出さないと」

深夜、信者を偽って、アウシュニャのいる中枢部に潜り込む千波の姿が、人気のない地下通路にあった。通路のあちらこちらで検問所に止められたが、泥酔状態の教団関係者からコスチュームを拝借していたので、誰にも疑われずに通過した。
 草之丞から送られた内部の見取り図(想像)で中枢まで、一直線に進む。その途中に書物庫を発見した。『熱教』については、ほとんど知られていない。ここで組織や教義を知ることは重要と判断し、立ち寄った。案の定、目立つところに経典が陳列されている。すばやく写真を撮り、草之丞に送信、分析を依頼した。
 地下には無線が届かない。ナノワイヤーを加工した有線LANを経由させた。
 草之丞からの結果は一瞬にして届く。その結果もまた、千波を唸らせるに足るものだった。
 『熱教』の教祖アウシュニャの体温は45℃といわれる。『熱教』の教義では、その体温でヒートショックプロテイン変異体 “カリダヌン”が発現しているという。
 人類には未だ知られていない物質だ。一度火がつくと絶えることなくエネルギーを産生し、神経中枢の働きを刺激する、と説明があった。急激なβエンドルフィンの放出と関連しているのかもしれない。いわゆる“ゾーン”に入った状態を持続させているのか。その結果、アウシュニャは超人的な能力を発揮し、天才ともいわれる人々をもあらゆる分野で凌駕することが可能なのだろう。
 総本山の見取り図を探して、千波は書庫の中を移動した。書棚を挟んで、人影が動いたような気がした。棚のすき間からのぞいてみれば、たしかに誰かがいる。まずい。ここで見つかるわけにはいかない。
 背を低くして、靴音を立てないように、出口に向かった。あと2メートルでドアが、とその時。人影が書棚からひょいと目の前に躍り出た。そして、
「千波さん」
 冷や汗が、一気に引いた。
「こんなところで、何をしているんです?」
 にこやかに微笑む牧原に、何と答えたものかと逡巡していれば、顔を寄せ、小声でつぶやいた。
「ちょっと、おかしいと思ってるんですよ。この宗教。大きな声では言えないですけどね、なんとなく、洗脳、かなって」
 思いがけず意気投合して、千波と牧原はアウシュニャ討伐に向かった。総本山の見取り図は、すでに牧原が調査済みだった。さらに牧原も教団のユニフォームを入手していて、二人は大概の検問所は難なく通り抜けた。
「アウシュニャは一部の信者を集めて説教の会を開催するようです」
 掲示板にでかでかと貼られたポスターが、大聖堂までの道筋を示している。周りは、いつの間にか同じ方向に急ぐ信者の群れになっていた。相変わらず興奮の渦中にいる信者たちは、平常心の二人を一向に気にせず、流れに身を任せるように進んでいく。
 ふと前を見ると、男性信者に混じって、女性の信者が身を寄せて歩いていた。一人は具合が悪いらしく、もう一人の肩を借りてゆっくりと進んでいる。どんどん距離は縮まり、頭に巻かれたスカーフから、横顔がのぞけるほどになった。
 となりを歩いていた牧原が、はじかれたように駆け出し、ぐったりとしている女性に手をかけた。
「海澄!」
 驚いて振り返るもう一人は……。
「夏海!!!」
 四人は顔を見合わせた。
「千波さーん。何やってるんですか。こんなところで」
 相変わらず緊張感のないやつだ。お前を探しに来て、大変なんだよ。心の中で毒づいた。
 牧原は海澄をしっかりと抱きよせている。探していた奥さんが見つかった、というところか。千波は牧原に目で合図をした。このまま外に出て、安全な所へ……。
 そして、状況を把握できないでいる夏海に、向き直った。
「夏海、お前さ、説明はあとでいいから、今から仕事」
 え~~~、と抗議の叫びをあげながらも、しぶしぶと後ろをついてくる。
 大聖堂は、すり鉢状の大きな講堂で、すでに集った信者で大賑わい。立見席しか残っていない。入口に近い、演壇がよく見える場所に立ち、アウシュニャの出番を待つ。信者の興奮状態は一層高まり、大聖堂の空気は熱気に霞んでいる。
 演壇横のドアが開いた。
 宝石がちりばめられてまばゆく輝く紫色のロングドレス。胸にはジャラジャラと光り物が巻かれている。優雅に演壇まで歩くと、いっせいに信者が立ち上がり、拍手喝さいが起こった。演題の後ろに掲げられたスクリーンに、三重の豊かなあごを高く上げ、なまめかしく笑うアウシュニャの姿が映る。
 冷静になってみれば、オペラ歌手というよりは、なんとなく女王アリの風情が漂う。それも、社会性が著しく発達したゴキブリ目のシロアリのほうだ。思いついた途端、千波は身震いをする。そういえば、この総本山はアリの巣のようだと草之丞が……。
 信者たちの興奮を手で制し、アウシュニャはおもむろに声を出した。
「さて、皆さん。今日はうれしいご報告です。『コタキナバル熱循環装置』が稼働まで一年となりました」
 おおっ、とどよめく会場。
「世界各地をつなぐ排熱収集パイプの完成が間近になりました。新年には、始動式を実施します」
 熱狂の渦に包まれる信者たち。歓喜の光を両目に浮かべて微笑むアウシュニャ。
 やがて一人の側近が前に進み出て、プロジェクトの概要を一から説明し始めた。信者は盲目的にアウシュニャの声に熱狂していただけだった。
 世界各地に張り巡らされた高断熱排熱処理用パイプ。それが最終的には総本山の地下にある巨大な排熱貯蓄タンクに繋がれる。
 建設現場の写真と構想図がスクリーンに投影される。――あ、これ、私も作ってたよ! と、隣で夏海が陽気な声をあげた。じろりとにらんだ千波に、小さく身を縮ませる。
 コタキナバル熱循環装置の狙いは熱気で世界を満たし、『熱教』にふさわしい環境を地球全体に広げること。ヒートアイランド現象の解消と銘打って、世界各国の大都市に潜入した信者が、建設関連部門の責任者となり、計画を順調に進めた。
 千波の脳裏に、東京に建設されていた排熱処理施設が浮かぶ。温熱療法で得た莫大な資金をもとに、各都市に建設を持ちかけた。費用がかからず温暖化対策になると、どの自治体ももろ手をあげて賛成したに違いない。
 完成すれば、コタキナバルの地下に廃棄された熱い空気が集積される? 途中で熱は奪われないのか? と疑問を口にした千波に、夏海は鼻高々に答えた。
「パイプの壁面って、すごい技術が詰まってるんです。超薄型の高断熱板を幾層にも重ねて成形したブロックで、建設要員の熱気だけでサウナみたいなんですよ」
 演壇の側近が、外気温より熱い排熱がコタキナバルの地下に集められて放出されれば、熱帯の熱い空気もろとも上昇し、大気循環で地球全体を熱する、とタイミングよく語った。このプロジェクトで重要な原理。熱い空気に覆われて大都市の住民が冷房を強めれば、その排熱がパイプを通ってコタキナバルへ戻る。その排熱を放出することで、さらに気温が上がるというポジティブフィードバック。
 なるほど。
 自らの棲息可能な環境を広げるべく、ばかみたいに単純で巨大な構造物を作り上げたというわけか。もしアウシュニャの正体が草之丞の言うように地球外生命体であるならば。
 千波はにやりと笑った。子どものおもちゃみたいじゃないか。
 夏海が千波の耳に口を近づけた。
「千波さん。ここ、危ないです。きっと敵です」
 そんなこと、お前に言われなくてもわかっている。人騒がせな行方不明者に今さら言われる筋合いはない。だいたい何を根拠に……。
「クラーティオを使われた患者は、操られて、……奴らのエサになるんです!」
 耳元の夏海の声は、震えながら次第に大きくなり、最後はもはや絶叫に近い。キーンとする耳を押さえ、遠のこうとする意識を必死につなぎとめ、千波は頭をフル回転させた。末期がん患者を延命したように見せかけて、エサに?
 ――気が付けば、会場は静けさに包まれていた。
 下を向いて考え込む千波の腕を、夏海が勢いよく引いた。顔をあげれば、演題の側近が声をあげ、追っ手を差し向けたところだった。ばれた! 千波と夏海はどちらともなく駆け出した。
 幸運だったのは、興奮している信者たちは反応が鈍く、追っ手の邪魔になるのが関の山。入り口付近にいた千波と夏海は、間一髪、大聖堂から脱出した。
 ナノワイヤーの有線LANが、外の世界に導いてくれた。ヘンゼルとグレーテルですね、とのんきに喜ぶ夏海は、しかし走るとなると千波より早い。息も絶え絶えに草之丞に救助要請をしながら、とにかく走る!
 無事に外界に出てみれば、熱帯の空は青くむっとして、二人を迎えてくれた。さて、ここからどう脱出するか……。敵のアジトにいては、捕まるのも時間の問題だ。
「千波さんっ! あそこ!!!」
 夏海の指先の延長線。軽めのエンジン音とともに、一機の小型飛行機が近づいてくる。
「千波さん! 高度を下げますから、摑まってください!」
 携帯から草之丞の声が響く。目を凝らすと、飛行機の尾部に、はためく縄梯子が確かに見えた。
「縄梯子、インサイトぉ!」
 草之丞の呼びかけに答える。低空飛行に移行したセスナは、千波と夏海の眼前を円を描くように飛び、長い縄梯子が二人に巻きついた。
「しっかり握れ!」
 一瞬にして通り過ぎる縄梯子を、二人はしっかりと握った。……はずだった。
「滑っちゃいました―――!」
 叫び声とともに、千波のベルトが恐ろしい勢いで後ろに引かれた。縄梯子をつかみ損ねた夏海が、藁をもすがる勢いで目の前の千波のベルトをつかんだのである。腹部に一極集中する力。千波は息もできない。
「千波さん、耐えてくださいよぉ!」
 叫ぶ声は夏海か、それとも草之丞か。ここで負けては男がすたる! 歯を食いしばって耐える千波の目に、巨大な空母が見えた。星条旗が翻る。米軍の空母だ。
失速ストールさせますから、その隙に海に飛び込んでください!」
 空母の壁面が眼前に広がり、すわっ、衝突か、と目をつぶった瞬間、摑まっている縄梯子の末端が水面をとらえ、速度が落ちた。見上げれば、草之丞が操縦するセスナは海面から垂直方向に、ぴたりと止まっている。
「手を離して!」
 叫ぶ草之丞の声にストールの警告音が重なっていた。
 水しぶきをあげて海に落ちた。海面に顔を出してみると、アクロバティックに背面飛行をしたセスナが、空母の甲板に消えた。空母の滑走路の長さでは止まりきれない! 甲板から海に飛び出す軽飛行機を想像し、千波は息をのんだ。
が、何も起こらない。
 ぷかぷかと浮きながら、ずいぶんと高いところにある空母の甲板を見上げた。戦闘機じゃあるまいし、セスナに空母着陸用装備なんて、まさかついていないだろう。どんな急制動をかけたんだか……。
「千波さーん! 早く上がってきてくださいよ~。縄梯子、降ろしますから!」
 甲板から海面を見下ろして、草之丞の元気な声が聞こえた。となりに顔を出した夏海が、草之丞くんって、飛行機操縦できたんですね、とやけに冷静に感心している。オレには及ばないが、たしかに切れ者だ。

コタキナバルは新年を迎えても熱い。
 外交ルートを駆使して席を確保した、『熱教』の新年大祈願祭。政府の代表と同行だ。Tシャツに短パンというわけにはいかない。堅苦しいスーツの中では、汗が滝のように流れていた。
 全世界的な排熱処理装置の完成披露のために、各国から要人がぞくぞくと『熱教』の総本山に集まってくる。巨大な寺院に囲まれた広場にはスタジアムがにわかに建造されていた。新年大祈願祭に訪れた信者たちにも見学が許されているため、収容人数三万人の席もあっという間に埋まった。
 わが国の代表団はステージ前の特等席。
 開会前のステージでは、『熱教』ならではの熱いイベントが行われている。前髪が焦げそうな勢いで、火炎が目の前を通過する。同行している外交関係者は誰一人正気を保てる者はいなかった。流れる汗と身体を炙る炎で、熱中症寸前だ。
 その時。さっと暗くなったかと思うと、滝のようなスコール。たたきつけるように降る大粒の雨は、まさしく恵みの雨。それは一瞬で晴れ、青空がまたのぞいた。
 ほっと一息ついた人々の目の前に、司会者が現れ開会を告げる。コタキナバル熱循環装置の表向きの説明が粛々と進み、いよいよアウシュニャの手による始動の儀式が開始された。各国の代表たちは、期待に目を輝かせている(ように見える)。
 エスニック風のモニュメントのような起動装置がステージに現れた。アウシュニャは、艶然を通り越して、邪悪な笑みを浮かべている。だぶつくあごを揺らしながら、長いドレスを引きずって起動装置に向かう。
 千波はおもむろに席を立った。ゆっくりとステージに向かう。左右から警備員が駆け寄ってきて、千波に手を伸ばした。が、かすりもしなかった。どこからともなく現れた夏海と草之丞が、蹴散らした。
 近寄る千波に、アウシュニャは笑みを絶やさずに話しかける。もう止められはしない、と。それは実際に聞いた声なのか、それとも脳内で再生された何かなのか、定かではないが。
 アウシュニャの高く掲げた腕が、起動装置にゆっくりと触る。勝ち誇った、歓喜の表情で、システムのスイッチを入れた。千波は手を伸ばすが届かない。
 一瞬の沈黙ののち、地底から振動が伝わってきた。コタキナバル熱循環装置は、始動した。総本山を取り囲む熱帯雨林のあちらこちらに配置された熱気排出口が、ゆっくりと開いていった。
 アウシュニャの高笑いが響いた。
「熱いのが来るわよ。がまんできないほどの、熱気がね」
 スタジアムを埋め尽くした人々が、息をのむ。駆動音がますます高まる。排気口の周囲は温度差で大気が揺れている。
 しかし、何も起こらなかった。
 アウシュニャが驚いたように側近を呼ぶ。そのとなりで、千波が高らかに笑う。
「残念だが、排熱は来ない。パイプを通って運ばれてきた空気は、熱帯ここの空気よりもぬるい」
 唖然と千波を見るアウシュニャ。その目をしっかりと見据えて、千波は続ける。この辺で、撤退願おうか、と。
 にやりと笑う千波の目の前で、アウシュニャの姿がみるみる生気を失っていく。
「地球外生物排除用細胞融解剤だ。地球の生物には何ら影響がなく、お前たちにだけ、よく効く。出来のいい部下が散布してくれてね」
 空を見上げれば、スコールが去った熱帯の空に、虹がかかっていた。
 ――またひとつ、地球の危機が去っていった。
 千波は満足げに頷くと、ゆっくりとステージを下りた。

「それにしても、コタキナバル熱循環装置をどうやって無効にしたんですか?」
 郊外にかなりの広さの屋敷を構える牧原が、千波と夏海を食事に誘っていた。すっかり回復した海澄とともに、熱々の鍋をつつく。少しアルコールが回って、身体も熱い。
「簡単なんです。新興宗教が地球征服をたくらんでますよーって密告したら、あっという間に三大宗教が動いてくれたんです」
 夏海のわかったようなわからないような説明に、とりあえず頷く牧原に同情しながら、千波はしみじみと思った。ある意味、こういう小さな忍耐の積み重ねが地球を救うのだな、と。
 千波と夏海は、説得に回ったのである。三大宗教の名だたる指導者を片っ端から訪ね、「忍耐」の必要性を説いた結果だった。

――冷房は控えましょう。あなたの我慢が地球を救う。

 

文字数:20223

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