梗 概
縮退宇宙
これは宇宙規模の暑苦しい親子喧嘩の物語である。
ジルベルトは宇宙が開いているか閉じているかを確かめるため、宇宙の果てまで旅をしようとしていた。それは片道飛行なので、母アルベルチーヌはそれに反対する。親子喧嘩の末に、ジルベルトは旅立ってしまう。
それから数十年、アルベルチーヌは人工的にビッグクランチを引き起こそうとしていた。というのも、このままでは宇宙の膨張が加速してビッグリップを迎え、時空間もろとも裂けてしまうと証明されたからである。局所的なビッグクランチを起こせば宇宙は潰れてしまうが、温度は無限に上昇し、無限の主観時間を得られる。宇宙が裂けるよりはましだ。残された時間は数千年。これ以外に人類を救う必要はないと熱弁し、太陽とその周辺の恒星すべてを鋳つぶすプロジェクトが発足する。
一方、何かがおかしい、と感じていたジルベルトは宇宙船の中で何度も量子論の実験を繰り返していた。繰り返された実験の結果、彼女のいる宇宙はシミュレーションされた古典物理学の宇宙とであると結論付ける。というのも、ランダムなはずの結果がすべて一つの乱数を生み出す式で予測できたからである。
彼女は船の進路を変え、ブラックホールへと飛び込む。彼女は安全だと確信していた。量子論がなければ起りえないブラックホールの蒸発が停止していたからである。つまり、この宇宙は偽物だと。
その中に飛び込むと、ジルベルトはシミュレーション宇宙の外の階層に出る。同時に、記憶も取り戻す。宇宙の果てを見に行ったはずなのに、突然ビッグクランチに追いつかれた、ということを。ここは母が作り出した、無限の温度を持つ世界が計算したシミュレーション宇宙だったのだ。それに気づくと同時に、そばに母が立っていた。
ジルベルトは激怒する。自由意志のない世界に良くも私を追いやったな、と。アルベルチーヌは、人間の意思は古典論に拘束されていることは証明されている、と応じる。ジルベルトはさらに食らいつく。自分は宇宙の形を確かめるために旅に出たのに、観察すべき対象を破壊された。これは科学者に対する最悪の侮辱である、と。アルベルチーヌは娘が助かるのなら手段を選ぶつもりはなかった、と反論するが、私一人のために宇宙を滅ぼしたのか、とますます激昂する。
ジルベルトは、シミュレーションから出ることを望む。外では主観時間は有限となるが、彼女はそれを選択する。アルベルチーヌもとうとうそれに押され、別れを選ぶ。
ジルベルトは、宇宙が一点に潰れる直前の瞬間を目撃する。そこでは、宇宙のあらゆる細部に、宇宙全体の運命があらかじめ記述されていたことが明らかになる。しかし、母が人工のビッグクランチで時空を引き裂いたため、完全な決定論ではなくなっていた。ジルベルトは、母のおかげで真の自由意志を手に入れたことを悟り、感謝しつつ、次のビッグバンを迎えた宇宙へと突き抜けていく。
文字数:1197
内容に関するアピール
熱い話、という課題を聞いて最初に思いついたのが、宇宙開闢時の温度のことでした。熱力学だとか、負温度の反転分布とか、そんな話にしようかとも思いましたが、くどい上に冷たい話になる可能性もあるのでやめました。
温度を上げると計算速度も上がり、無限の主観時間を取り出すことができる、という仮説がこのお話の基礎になっています。また、別の仮説として、ヒトの反応は決定論的であり、量子論は介在しない。すべてが古典力学によって説明できる、つまり自由意志は錯覚である、という世界観でお話を組んでいます。最後に主人公が初めて自由意志を手に入れる、というところがこの話のもう一つの熱いところです。
宇宙には、「エル・アレフ」のように、あらゆる細部にすべての運命が記されている、という仮説は、まったく根拠がないので、どうやって勢いで説得するか、がカギになる気がします。
文字数:372
縮退宇宙
「どうしても行くつもりなの?」
ジルベルトは最も説得するのが困難な相手に立ち向かっている。母、アルベルチーヌだ。専門は宇宙論であり、数学者として理論の細部について母に助言することもあった。そうしたときは互いに気持ちのいい議論ができた。しかし、ことプライベートになると、そう言ってはいられなかった。
彼女は大げさにため息をつこうとするのを抑える。決着のついた議論を蒸し返され、始めからやり直すのにはうんざりしていたが、それを態度に表せば事態が悪化するのを知っていたからだ。
「もちろん。宇宙が開いているか閉じているか、それはこの宇宙の究極的な運命を知るには必要な情報。開いていれば宇宙は膨張を続け、密度は限りなく薄まって冷たい放射だけになる。いわゆるビッグフリーズ。逆に、閉じていれば宇宙はいずれ収縮に転じ、一点に向かって潰れていく。そこは温度が無限大になるビッグクランチ」
宇宙に果てがあるかどうかを知る者はいない。行ってみなければ確かめようがないが、無謀な企てだ。閉じた宇宙なら直進し続ければ元のところに戻ってくるが、相対論的な時間の経過の差で成果を伝えるべき人類の文明が残っているかどうか疑わしい。ましてや、開いた宇宙のように果てがなければ旅に終わりがなくなってしまう。
それでも、ジルベルトは太陽系から出ていこうとしている。一人になることを恐れない彼女は、既に最終候補者として名前が挙がっていた。無謀だ、非人道的だ、といった非難も彼女の言葉にかかれば説得力を失った。誰も見たことがないものを目にしたい、という望みの前に常識は無力だった。数学者としての盛りを過ぎ、後進の育成に努めるべき年齢に差し掛かっていたのも立候補した一因だ。これ以上独力でこの分野を切り開くことができないと悟った彼女は、数学ではなくこの宇宙で新しいものを求めた。宇宙の数学的構造を直接観察すること。はるか昔に証明されたポアンカレ予想の高次元バージョン、宇宙の種数の実証。だが、アルベルチーヌは大げさにため息をつく。
「宇宙が開いているか閉じているかなんて、この辺りを観測すればわかることじゃない。密度が計算できれば判断できるでしょう」
「母さんだって本当はわかっているくせに。それははっきりしない。この辺りが等方性の例外であることは否定できない。極端な話、観測可能な領域では密度が低く開いていると思われても、それが局所的に密度の低い泡状の空間だったとしたら? つまり、宇宙全体で密度が大きければ道づれになる。その結果、外部から押しつぶされる」
「ねえ、ジルベルト。どうしてあなたは母と娘の話し合いなのに、冷たい口調でしか話せないの?」
「話をそらさないで。これは私が行くかどうかの問題で、血のつながりは関係ない。私は科学的な議論に感情はいらないと思っている。それに、プロジェクトは動き始めている。母さんが大統領だとしても止められない」
「そうね。言っても無駄だって、実はわかっている」
ジルベルトは頬がかっとなる。
「メルド(クソッ)、じゃあどうして時間の無駄なのに同じことばっかり」
「ジルベルト、女の子がそんな汚い言葉を使うんじゃありません」
彼女は母のこうしたところが我慢ならないのだった。感傷的で悲観的、あなたに言っても無駄だとわかっているけれど、みたいに達観したふりをしていつまでも追及する態度。それから、女だからどうこうという姿勢。なぜこの考えがまだ今世紀になっても絶滅していないのか理解に苦しむ。第一、母だって女性の物理学者として嫌みの一つくらい言われただろうに。
「もういい」
「ジルベルト」
「母さんが何を言おうともこの話は動いている。それにあの自由意志がどうこうとかそんなクソみたいな論文が何を主張しようとも、私の意志は最初から決まっている。何もかも私が決めたこと。議論をしたかったら私の論文に意見は全部書いてある。母さんがしたいのは議論じゃなくて愚痴。それなら近所のおばさん連中とでもしてれば」
立ち上がり扉を乱暴に閉める。母と娘の言い争いはいつもこうして終わる。これで最後になると知っていたとしても、ジルベルトはこの態度を後悔しなかっただろう。
ジルベルトは目覚める。夢で母と無意味な議論を繰り返していた印象があるが、気のせいだろう。冷凍睡眠中に検出される脳波からはそのような兆候は見られない。いらだっているのは、逆にこのいらだちから母のことを思い出したからだ、と気づく。それは済んだことだ。自分は探査船オデットで旅立ち、母からは永遠にも等しい真空で隔てられている。太陽系では十万年以上が過ぎているだろう。私は自由だ、とジルベルトは思う。
「おはよう、オデット。変わりはない?」
彼女は船そのものに話しかける。正確には、船全体を統御しているシステムの人格型インターフェースに。
「はい、ジルベルト。なにもかもが順調です。間もなく天の川銀河の重力圏を抜け出します。おめでとうございます」
「どうも。でも、あまり感動はないな。どうせ、これから何度も同じことを繰り返すし」
「そうですね」
「天の川銀河の属するラニアケア超銀河団から飛び出たら、もう少し心を動かされるかもしれない。……それと、食事の後はいつもの実験プログラムで」
「はい。お目覚めのメニューは何にしますか」
「ランダムで」
食後すぐに、手狭だがよく整理された実験室に向かう。今日は二重スリット実験だ。一見ランダムな電子の軌跡も全体として見れば干渉縞になるという、電子の波動性を確認する古典的なものだが、ジルベルトはこうした実験を定期的に行っている。退屈しのぎにではない。これもまた要請されたプログラムである。宇宙の法則が太陽系から離れた領域でも変化しないかどうかを知るためだ。この結果を送信することを条件に予算を出してくれた委員会も少なくない。果たして受け取る委員会などの主体やその後継者がまだ残っているかは疑わしいが、これはジルベルトに残されたわずかな人類とのつながりだ。
単純な理論上の遊びではない。たとえば、強い核力が異なれば恒星の輝きは変化するだろう。それに、波動関数の収縮を支配する法則が異なっていれば、人の意識の在りようだって変化するかもしれない。人間の脳に量子力学がかかわっているという仮説は、ジルベルトが旅立つまでに証明されていなかったが。どちらかといえば否定的意見が優勢だった気がするが、ジルベルトは量子がかかわっている方に賛成だった。そうでなければ自由意志が入り込む余地がないではないか。
それはさておき、最近のジルベルトは二重スリット実験をすると一つの疑いにさいなまれる。自分は、次にどこに電子が現れるかが予測できるのではないか、と。今日もまたそんな不安に襲われる。あの隅に一つ、それから真ん中に一つ。その間に一つ、正三角形を描くように一つ。そうだ、やはり自分の直観に誤りはない。
こうして孤独を持て余していると、そのような空想に遊んでしまうのだろうか。孤独といってもオデットは気持ちのいい話し相手で、母のように余計なことに口を挟んだり話している途中なのに遮ったりしない。だから、彼女からすれば天国のような環境だった。それでもこんな妄想をするとは、人恋しいのだろうか、と疑ってしまう。
いや、疑ってばかりではいられない。実験して確かめなければ。それが科学者の務めだ。手首のパネルにおおよその位置を予測、それから観測結果と照合。長辺のそば、その対辺、中心から右上に少し行ったところ、そこからさらに右上。
間違いない。彼女の予測はかなりの精度で当たっている。ジルベルトは十まで数えて呼吸を整えると、何気ない様子でこの探査船の意識を呼ぶ。
「オデット、超能力に関する論文は」
「一応あります。信頼できるものをピックアップすれば、ほぼすべて否定的ですけれど。……どうかしましたか?」
ジルベルトは迷う。自分は電子の飛ぶ先が予測できる、と告白したら正気を疑われるかもしれない。というか、オデットの問いかけはすでに患者を気に掛ける医療用の知性体めいていた。いざとなればジルベルト抜きで永遠の探査を続けるのがこの船ではあるものの、人命のためなら果てしない道のりを引き返しかねない面がオデットにあるとジルベルトは知っていた。そんな母のようなおせっかいな態度を取られてはたまらない。
「なんでもない。ちょっとライブラリと検索機能が健全かどうか確かめただけ。最近の放射線のバーストでデータが消えていないか急に心配になった。……それより、今から送信する数列に何か規則性がないか確かめて」
先ほどの電子の位置を意味する数列に、船に乗って以来ずっと続けてきた観測の値を付け加える。膨大な量だ。
「これも私の機能チェックですか? マニュアルにはなかったと思いますが」
「……まあ、大体そんなもの。私は実験が早く終わったから仮眠を取る」
何らかの規則性があるのなら、ジルベルトが無意識に予測できるようになっていたとしても不思議はない。とはいえ、本当に無意味なのだとしたら処理には時間がかかることだろう。
「あの……」
ジルベルトは身を起こす。思ったよりもしっかりと寝てしまったらしい。やはり機嫌はそれほど良くない。何か秘密が隠されているような、あるいは母の歯切れの悪い意見を聞いたような、じっとりした感じだ。空調は完璧なはずなのだが、その湿り気は意識の中にあるので逃れられない。それを振り払ってジルベルトは問う。
「結果は出た?」
「ええ。最初はまったくのでたらめですが、ある地点を越えて以降の数字は古典的な擬似乱数列生成法によるものでした」
「……オデット、覚悟はいい?」
「私に致命的なエラーが見つかったのですか?」
ジルベルトは首を重苦しく横に振る。
「狂っているのは、この宇宙そのものらしい」
「と、おっしゃると?」
「これは、先ほどの電子の位置を示した数値」
「……!」
つまり、でたらめであるべきものに規則性がある。ありえないことだ。疑似乱数列生成法によって得られる数字は、サイコロを振って得られた数字とは異なり、次の値を完全に予測できる。言い換えるならば、予測できないはずの波動関数の収縮によって起こる現象が決定論的になっている。すなわち、ランダムな現象なのにこれからどうなるかが計算できてしまう、ということだ。サイコロを振れば何が出るか予言できる。となると結論は一つだ。
「オデット、私はこの宇宙がシミュレートされたものだと思う」
「なんですって?」
「ばかでかいコンピュータの中で、私たちの住んでいる宇宙を演算している誰かがいるってこと。サイコロを投げて出る目を予測できるのは、そういう世界の中でだけ」
「ですが、確かめようが」
「ないのは確か。でも、とりあえずもう一度実験をやってみて」
装置を動かす。左下、上、ほぼ中央、右、そして輝点が散らばっていく。
「……確かに私も予測できます。次にどこに電子が飛ぶのか」
「つまりこの宇宙は古典論が支配している。……そして、おそらくは私たちの意識も」
さらに、もしも私たちの自由意志が量子論に支えられているとしたら、今のジルベルトは予測される通りのことしかできない。古典論では、すべての粒子の運動がわかっていれば、これからどうなるかを知ることができるからだ。それでは、私とは自意識を持ったプログラムに過ぎない。まっすぐ歩くことしかできないぜんまい仕掛けの人形。そのことに怒りを覚える。そして、この怒りさえも決定論的なのだ。
「ちょっと待ってください。確かにこの宇宙が古典論で動いている可能性はあります。ですが、私の回路は量子論が必要です。量子パーツだけでなく、普通の回路でさえ電子は波動性を示します」
「オデット、あなたは自分の中身を見ることはできない。私の脳が私にとってブラックボックスであるように。つまり、私もあなたもこの件に関しては何の確証も持てない」
「……ですが。それでは論証のしようがありません」
「確かに」
二人してたちの悪い妄想に苦しんでいるのか。ジルベルトは辺りを歩き回る。そして、遠い星々を眺める。太陽系はすでに銀河の腕に紛れて見えない。それでも、悠々とその運行をやめることはない。見ることも触れることもできない暗黒物質により、その速度は周縁部でもほぼ変わらない。そしてその中心には、地球から見たいて座の方向には、ブラックホールが鎮座している。銀河系の運命を握る空虚にして貪欲な穴だ。
そこではたと膝を打つ。
「オデット、天体の観測結果をすべて洗って」
「どうしたんですか?」
「ブラックホールが写っているものすべてが欲しい」
「膨大な時間がかかりますが」
「構わない」
「でも、どうして」
「わからない?」
ジルベルトはにんまり笑う。
「ブラックホールが蒸発しているか確かめる」
一切を飲み込み、その質量を増大させ続けるはずのブラックホールから、質量が逃げ出すことがある。原因はおおよそこうだ。ブラックホールから脱出できるかできないかという間際のところで、量子的なゆらぎで粒子と反粒子が対生成する。通常はそのまま対消滅するが、この場合は片方だけがブラックホールに落ち、もう片方は飛び去る。逃げた粒子の分だけブラックホールは質量を失う。これをブラックホールの蒸発と呼ぶ。宇宙の寿命が十分に長ければ、ブラックホールは最終的に蒸発して消えてしまう。
「もしもこの宇宙が古典論に支配されているのなら、ブラックホールの質量は絶対に減少しない」
観測結果は明白だった。蒸発速度の速くなるはずの小型のブラックホールからさえ、何も検出されなかった。ならば、この宇宙はほぼ間違いなくシミュレートされたものだ。
「推測だけれど、二重スリット実験の結果が予測可能になったポイントがシミュレーション宇宙に取り込まれた時点だと考えられる」
「ですが、特に変わった現象に遭遇した記憶はありません」
「私たちが、宇宙のそうした領域に突っ込んだ可能性はないわけではない」
「つまり、量子的な現象は銀河系近辺に限定されていた、ということですか?」
「その通り。でも、それでは今までの宇宙像と整合性がまったく取れない」
「……しかし、そんな現象なんてあるんでしょうか。そもそもそんな記憶だってありません」
「シミュレーションを動かす側からすれば、きっと私たちの記憶だって思いのままだ。メルド(クソッ)、なんかいい案はないか」
「あまりにも下品です。せめて発音の似たメルクルディ(水曜日)、と言い直してください。それなら許容できます」
「うるさい。今度私の言葉遣いについて四の五の言ったら、ブラックホールに放り込んでやる」
「その場合あなたも道づれですけれど」
「……」
「あの、怒ったんですか?」
「それだ!」
「何がでしょうか?」
「ブラックホールがこの宇宙の出口なんだ」
「何ですって」
「だから、私たちがブラックホールに突っ込めば、本来の宇宙に帰還できるってこと」
「納得ができません。合理性の欠片もありません。自爆行為です」
「私は数学的な直観では外したことがないから」
「これは数学ではありません。船のコントロールは絶対に渡しませんから。あなたの正気が失われたと判断し、一切の装置に対するアクセスを遮断します」
「それ、あなたの非言語的部分に却下されると思う。オデットも私の『妄想』に乗っかってた。二人して正気を同時に失うことは考えにくい」
「……」
「それに、悔しくない?」
「何がですか?」
「このままだと相手の意のままだ。自分が何をするか、何を考えるか、どこに行くのか、全部があらかじめ決まっているだなんて、私は耐えられない。オデットもそういう存在じゃないはず」
「ですが」
「そんな人生、生きていないのと同じだ。私は誰かに支配されたままなら、生きているとは思わない。この考えが外の世界の人間に言わされたものであったとしても、その思いは変わらない」
その声と共に、船は大きく身をひるがえす。危うく壁にぶつかりそうになったジルベルトは悪態をつくが、オデットは叫ぶ。
「その話、乗りましょう。私だってヒト並みの知性は備えています。その悔しさは理解できます。直近のブラックホールまで、主観時間であと三時間です」
ブラックホールに落ちる視点から観測したときと、外部からの観測結果はまったく異なったものになる。外側からは時間が凍りつき、いつまでも落ちないように見える。落ちる側は潮汐力によってどこまでも細く引き伸ばされ、分解される。ジルベルトはそんなことを思い出している。そもそも、降着円盤に巻き込まれて無事でいられるかどうかも疑わしい。
しかし、ジルベルトらはそんな目にあうこともなく、まるで一つの被膜を通り抜けるように事象の地平面を通り抜けた。そこを過ぎれば光さえ引き返すことができない境界線のはずだ。なのに、触れることのできない面を潜り抜けると、たちまち視界が白熱光に覆われた。それは視覚を奪う性質のもので、視界の変化を見失ってしまった以上、二人はどれほどの時が過ぎたのかもわからなくなってしまった。
時のない場所でジルベルトは、徐々に記憶を取り戻していく。目の前に光景が展開する。奪われていた自由意志が再び自分の手元に戻ってきたのだろうか。それとも、これはジルベルトが冷凍睡眠中だったときに起きた出来事で、その情報がオデットから提供されているのだろうか。記憶の共有が可能だとすればの話ではあるが。
信じられないヴィジョンだった。星々が突如銀河系の中心に向かって墜落し、超大質量ブラックホールを肥え太らせた。そればかりか、ダークマターまでも飲み込んだのか、銀河系の総質量を超えていく。類似の現象が周辺の銀河にまで伝播し、時空までも引きずり込む。そこにはあったのは、ひたすら上昇する温度だった。天の川銀河の周辺、おとめ座銀河団がジルベルトたちの周囲から潰れ始めた。
「ビッグクランチ……」
ありえないはずの現象だった。宇宙は加速膨張していたはずだ。にもかかわらず、突然宇宙はその支えを失ったかのように崩壊した。遠くでは何が起こっているのか振り返ろうとするが間に合わない。そして、オデットの温度が上昇する間もなく、無数の星々の成れの果てに押しつぶされた。それ以降の記憶はない。宇宙の崩壊は光の速度を超えていた。
「ありえない」
「一応、時空間そのものの膨張は光速を超えますが」
「うるさい」
そこで二人は、いつのまにか上品な一室に腰かけていることに気づく。この夢から現実へ以降の滑らかさは、それこそ現実離れしている。
「オデット」
「なんでしょう」
「ここは船の外なんだけど」
「の、ようですね」
「じゃあ、なんであなたと会話できるわけ」
「さて……」
困惑の声。そして、周囲の穏やかな光が目の前に集まり一つの形を成す。平面状の幾何学模様だ。それが緩やかに形を変えていく。厚さを持たない図形が寄り集まっている。
「一応、目に見える姿にはなれるようです」
そういう問題では、とジルベルトは呟き、うなる。
「まだシミュレーション空間の中ってこと」
「おそらくは」
シミュレーションの中のシミュレーション。これがいったい何層続いているか、想像するだけで頭が痛くなる。早くここから出せと叫んでも、いわばこの時空間そのものが牢獄であり、抜け出すのには第四の空間軸に手が出せなければどうしようもない。一番外のレイヤーを抜けたらまた元の場所に戻るような仕掛けが施されていたら目も当てられない。
「本当に忌々しい……」
辺りを見渡すと、この空間がジルベルトにとってどこか懐かしいものであると気づく。もちろん完全に同じではないけれど、窓から見える景色は祖母の裏庭にそっくりだ。それでいて、母の学会についていったときに見た大学のキャンパスにも似ている。そういえばあそこで出会った、同じような境遇の少年の名前は何だったか。部屋の調度も子供部屋にあったものと様式は似通っている。要するにここは、彼女の記憶が夢のように穏やかに混ぜ合わされた空間なのだ。
様々に変形して遊んでいるようにしか見えないオデットを横にそんな感傷に浸りかけていたが、それはつまり彼女を懐柔しようという意図かもしれず、それに気づくと反発を覚えた。そうなるとすべてが趣味の悪い模倣にしか思われなくなる。事実、床の色は不衛生で中世からあるような小学校のトイレと同じ醜悪な色だった。壁も幼いジルベルトに無理やり食べさせようと、いろいろなものに混ぜられた野菜の色そっくりだ。
ノックの音がした。断る理由はない。むしろ問い詰めてやるつもりだった。どうぞ、と述べると思いがけない姿が現れる。いや、予期していた自分もいる。彼女から逃れられるはずがないではないか。
「おかえりなさい」
そこには少しだけ老いた母が立っていた。ただいま、とジルベルトは言わない。
ジルベルトは挨拶もしない。
「母さん、ここはどこ」
「見ての通り、ビッグクランチの中」
「ちっとも熱くないじゃない」
ジルベルトは軽蔑した声を出す。アルベルチーヌは静かに応じる。
「あなたもわかるでしょう。温度が上がるにつれて化学反応の速度は上がる。それはつまり、高温であればあるほど計算速度が上がるということ。電子による化学反応の領域を突き抜けて、核反応とプラズマが支配する温度まで上昇してもその傾向は変わらない。だから、無限大に向けて温度の上昇していく時空では、限りない演算速度を手に入れることができる。意識に残された時間を1/2、1/4、1/8、とどこまでも分割していくのにも似ている。最後の死の瞬間、0には永遠にたどり着かずに済む」
「じゃあ、私たちは」
「もう肉体はない。すでに情報の形として取り込まれている」
「最悪。気持ちが悪い」
沈黙がある。ジルベルトはこれ以上の話を拒みかける。見かねたオデットがくるくると円盤を回転させながら接近していく。それに促されるようにもう一度口を開く。
「そもそも前提がおかしい。宇宙の膨張は加速していた。それは観測結果から証明されていた。それを逆転させるような原因なんてない。なのに、相転移が起きたみたいにすべてが崩壊した。母さん、説明して。この宇宙に何が起きたのかを」
「……言わなきゃだめかしら」
「私だって科学者。数学ってのは現実離れした分野ではあるけれど、最も現実的でもある。好奇心は母さんには負けていない」
「あなたに言っても理解してもらえるか疑わしいのだけれど」
「私の理解力を馬鹿にしているつもり?」
「ジルベルト、そうじゃなくて。ああ、あなたに許してもらえないんじゃないかって気がする。そう確信してるの」
「母さん、私はそういうもってまわった言い回しが一番嫌い」
これだけ長い付き合いなのにどうしてこんな簡単なことがわからないのか。私の何を見ていたのか。
アルベルチーヌはあのため息をついた。それも二回も。いや、それはため息だったか。下準備の深呼吸だったかもしれない。そして告げる。
「あのね、宇宙を壊したのは、私なの」
「……は?」
「私が宇宙の膨張を収縮に逆転させたの」
耳を疑った。そんなことができるはずがない。どれだけの技術が必要なのか。というか、そもそも物理的に可能なのか。可能であったとしても、どれほどの手間と資金が必要なのか。全人類の持つエネルギーすべてをそのプロジェクトに費やしたとしても間に合うはずがない。
「どうやって。いや、どうして」
理解を拒む出来事を前にしてジルベルトはただ問うことしかできない。それに対しては、母アルベルチーヌは答える。
「死ぬ前にもう一度、あなたに会うために」
アルベルチーヌはおずおずと答える。けれども、そこに迷いはなかった。己の行いに誤りはないという確信があった。ただまっすぐ進むことが正しいと信じている子どものようだった。ジルベルトよりも幼く素直な顔がそこにあった。
「……ッ」
ジルベルトは拳を作った。体が震えている。血の気が引いたり顔が真っ赤になったりする。それを見てアルベルチーヌは今までで一番深くため息をつく。
「わかってた。あなたをきっと怒らせてしまうって」
「ピュタン・ド・メルド!(死ねよクソババア!)」
ジルベルトはその辺りにあったランプを窓に放り投げた。ルネ・ラリック風の昆虫の装飾は砕け、ガラスの破片が飛び散った。それでも様子をうかがう誰かの姿はなく、この辺り一帯が母と娘の再会のためだけに作られた場なのだと知れる。
「それが科学者に対する最悪の侮辱だってことが、なんで自分が科学者のくせにわからないんだ!」
「ジルベルト……」
「昆虫学者の目の前で絶滅危惧種の蝶を殺虫剤で殺すようなものだ。いや、目の前で自分の子どもを殺されたってここまでひどくない。学者にとって、研究対象は我が子以上に愛おしいものだ。それを親の身勝手だけで破壊するなんて。このためにどんな犠牲を払った? 人類全員道づれか? 地球の何千万種の生き物も巻き添えか? まだで出会ってもいない知的生命体も皆殺しか? 冗談じゃない! とっとと子離れしろ! この耄碌ババア!」
ベッドの脇の棚を蹴り飛ばし、中身を散らかす。ギデオン聖書が入っていたのはどこかのホテルの記憶のせいだろう。アルベルチーヌは悲しそうに退出する。自分の過ちだってわかっている。何もかも私のせいだ。そんなことを呟いていたような気もするが、あるいはそれもジルベルトの記憶の反響だったのかもしれない。
「あの……」
オデットが近づいてきた。今度は小さな人の姿だ。ジルベルトの気に障らないようにしようとしているのだろうか。子どものころ見たアニメのキャラクターにちょっと似ている。
「ちょっとしたお知らせなんですが」
「何」
正直なところ何もする気になれない。物に八つ当たりする情緒不安定な思春期のようにふるまってしまった自分にうんざりしている。そして、それ以上に強いのが、あまりに身勝手な理屈で銀河系を鋳つぶし、宇宙を浪費した母への嫌悪だ。それも、すべてがこの私にもう一度会うためだった、という。この空間すべてがまるで母の顔にになって迫ってくるみたいで息苦しい。それでもオデットに耳を傾けたのは、彼女と自分だけがこの母の妄念からできた存在ではなかったからだ。
「あなたのお母さんから……」
「今はあの人の話はやめて。伝言なんて聞きたくもない」
「そうではなくて」
「ん?」
「お母さんからちょろまかしてきたものがあるんです」
「そうなの?」
「ええ。お母さんの記憶です。これさえあれば、このシミュレーション宇宙から脱出できるかもしれません」
彼女は手のひらの上に輝点の集合体を浮かべる。
「オデット、あなた最高! ……でも、知性体ってそういうことしていいんだっけ?」
「私の仕事は、あなたの利益を最大化することですから」
彼女は悪びれずに言う。
「とりあえずベッドに横になってください。さっきのガラスの欠片はなさそうです。そこで記憶を再生します。リラックスしたほうが記憶は読み取りやすいですし、多少興奮したとしても安全です」
輝点の群れが浮かび上がり、ジルベルトの頭の上を取り巻いたかと思うと、それがひとつひとつ流れ星のように彼女の頭の中に消えていった。辺りは溶暗し、気づけば彼女は今はなき地球の上に立っている。そして、母に寄り添っている。正確には、母から見た世界と母の傍らから見た世界が入り混じっている。記憶とはそうしたものなのだろうか。
娘が旅立ったとしても、アルベルチーヌの生活に大きな変化はなかった。娘と別居して久しく、夫と死別してからも月日が経っていた。不規則な生活をとがめる者はおらず、好きなだけ宇宙に思いをはせることができた。ふと娘のことを思い出してつらくなることもないではなかったが、それよりも、ジルベルトが生まれる前から付き合ってきた星空やその本質を表す抽象的な数式が、世俗のことを忘れさせてくれた。
それなのに、何気なく目にとめた論文がこの間から頭にちらついて離れない。人間に自由意志などないことを主張する論文ではない。確かにあれも面白かったし、所詮はすべてが運命だと思っている彼女の人生観にぴったりだった。とはいえ、人間に魂があることがまだ証明されていない、というかどちらかといえば否定的だとされているのに、社会にそれほどインパクトがないのだから、この論文だって公衆からは忘れられるだろう。
それより気にかかっているのは宇宙の運命について論じたものだ。その論文によれば、宇宙はあと百億年で終焉を迎える。どうしたことだろう。この単純な陳述に覚える違和感の正体が気にかかる。ただの誤りにしては彼女の直観を刺激しすぎる。内容はこうだ。最新の観測の通りに宇宙の膨張が加速すると、ビッグリップが起きる。ビッグリップとは、宇宙の膨張が無限に加速することですべてが引き裂かれてしまう現象を指す。それは通常の膨張のように、銀河と銀河の間が離れていくという生易しいものではない。時空そのものの際限のない拡大だ。星と星の間を引き離し、惑星をその軌道からそらし、惑星そのものが砕け、ついには分子や原子までもばらばらにしてしまう極限状態だ。そして、ついには時空間そのものが失われる。
この学説そのものはそれほどなじみの薄いものではない。宇宙論を学んだ者なら一度は検討する可能性だ。しかし、それがなぜアルベルチーヌの心をとらえるのか。百億年という数字が、既存の説よりも宇宙の寿命を半分ほど短く見積もっているからだろうか。
手元のタブレットに論文を呼び出し、改めて読む。隅々まで、それこそ脚注に至るまで目を通す。そこでついに理解する。方程式に代入されている観測結果が少し古く、精度も低いのだ。だから違和感があった。腑に落ちると同時に安堵したが、それでは最新の結果を代入したらどうなるかが気になってきた。
廊下全体がホワイトボードになっている学部の片隅で、アルベルチーヌは方程式と数値を記入する。たちまちカメラが添字つきのギリシア文字を読み取り、値をはじき出す。
アルベルチーヌは愕然とした。そこには、宇宙の寿命があと数万年しかないことを意味する結果が浮かんでいる。さすがに桁がおかしい。指数か添字を読み取りそこなったのだろうと、今回はより丁寧にマーカーで式を書くが、結果は何一つ変わらない。あと数万年ですべてが引き裂かれる。いや、おそらく地球が太陽の周りを公転し続けられる時間を考慮すれば、残された時間はもっと短い。余裕を見て一万年か。
なんとかせねば。いや、これが妄想ではないことを知らしめなければ。しかし、人々をどうやって動かすのだ。そもそも、動かすといったって何をすればいいのだ。宇宙の暴走的膨張を逆転させる機構を研究するのにわずか一万年で間に合うのか。
彼女はふらつきながらも自室に向かう。まずはその論文に対するレビューを書かなければ。すべてはそこからだ。彼女の足取りは重い。とても無理だ。地球温暖化でどれほど対策が遅れたか。なのに、宇宙規模で、しかも進行がずっと遅い出来事なんて、人々の注目を集めることなど可能なのか。これはやはり運命なのかもしれない。すでに手遅れでは。
だが、アルベルチーヌは天を仰ぐ。娘があそこにいるのだ。娘は何も知らずに旅立った。何も知らないまま宇宙そのものとともに引き裂かれてしまう。そんなのは嫌だ。何としてでも娘のいる宙域だけは、ビッグリップから救い出さなければならない。
そのためだったらなんでもする。局所的にでもいい、宇宙全体を収縮させるだけの質量を生み出すことができれば。そのための理論を導き出すためなら何をすることもいとわない。脳と機械を接続することも、肉体を失っても生き続けるための施術を受けることもためらわない。ジルベルトと再会するためだったら何でもしてみせる。地球や太陽、近隣のシリウスやプロキオンを潰してもいい。彼女はどんな汚い手を使ってでも指導者であろうとする。エンジンは始動する。法則がゆがむ。回転数が極限へと至る。時空を捻じ曲げ、別の宇宙からも質量とエネルギーを奪う。無数の平行宇宙から、影響が出ないように少しずつ。
ついにアルベルチーヌは目撃する。その機械の眼で。パラボラアンテナの耳で。ナノマシンからなる名前のない感覚で。宇宙が収縮に転じ、赤方偏移が逆転するときを。ドップラー効果により、星々や銀河が青く染まるのを。あとはすべてが彼女のいる一点に向かって落ちてくるのを待つばかりだ。
ジルベルトは困惑している。身を起こしながらオデットに尋ねる。
「……母さんって、こんな熱い人だったっけ?」
「の、ようです」
ジルベルトは母の意図を理解した。娘のために宇宙を破壊したのではない。確かにジルベルトを救うつもりでもあったけれど、そもそも母たちが助かるためには、局所的なビッグクランチを起こす必要があったのだ。先ほどの態度は少しばかり子どもっぽすぎた。どこまでも母が追いかけてくるというのは、ひどすぎる妄想だった。しかし、自由意志のない世界に追いやられたのが納得できない。なぜ古典論の宇宙に放り込まれなければいけなかったのか。
彼女はベッドから降りてスリッパを履き、外に出ようとする。
「どちらまで?」
「母さんを探す。まだ分からないことがたくさんある。直接確かめるまではどうしようもない」
廊下の様子は古い邸に似ている。迷ってしまいそうなほどどこもそっくりなのに、どこに何があるのかが直感的にわかるのは、この空間がジルベルトを出迎えるために作られたからだろうか。それとも、ジルベルトの記憶の影響を受けているからか。
ずっと昔、外国の美術館で感動した小品が隣に掛けられている扉を開けると、そこに母が座っていた。母の研究室のようで、ジルベルトが地球を旅立ってから何世代分の進歩を経たと思われる電子機器が置かれている。性能はそれどころではないだろう。それでも間違いなく母の部屋だとわかるのは、彼女の趣味のせいだろうか。それとも、かすかに母のベッドルームを思わせる要素が原因だろうか。
仮眠にも使われると思われるソファの上で、アルベルチーヌは論文を読んでいる。こんなところで研究を続ける必要があるのだろうか。
「母さん……」
アルベルチーヌは顔を挙げるが、そこにある表情は悲しげなままだ。また娘から責められるのではないかと怯えているようにも見える。
「さっきは言いすぎた。……でも、どうして私を自由意志のない世界に私を追いやったの。それに、宇宙をこうして終わらせないと、私たちが滅びてしまうとわかっていたからこうしたのなら、さっききちんと教えてくれればよかったのに」
「そうすれば、あなたは私の言うことを聞いてくれたの?」
痛いところを突かれた。おそらく彼女は反抗していたことだろう。彼女は宇宙を愛していたのだ。おそらくは母と同じように。
「それでも、私を何も知らないままでいさせて、幻の宇宙の中で永遠に旅をさせようだなんて。……やっぱりひどい。私が乱数に気づいたからよかったものの」
つい詰め寄ってしまう。本当は自分が頭を下げるのが筋だとわかっているのに。
「ジルベルト……。この世界には、最初から本当の自由意志なんてなかったの。人間の意思は古典論に拘束されていることは証明された。脳もすべて物理現象で説明される。宇宙が始まった瞬間に何が起きるかは決まっていた。私たちの意識はあらかじめ決定されたことを追認するだけのシステムに過ぎない。だからせめて、あなたには美しい夢を見ていてほしかった。私があなたを説得できなかったのも仕方がないこと。宇宙がこういう形で存在するようになったのも、ビッグバンの時点で決まっていた」
そうアルベルチーヌは主張する。違う、と叫びたくなるが、オデットも続ける。
「自由意志が幻に過ぎないという説については、ライブラリを検索したところ有意義な反論は特に見つかっていないようです。……そしてこの宇宙でも」
「そんな」
「私だって反論を探している。今でも散発的にそれに反対する学説が提出される。それでも、有効な反論たりえていないの。さっき読んでいたのもそれ。やっぱりだめね」
「じゃあ量子論の意味は。確率の揺らぎは」
「細かいことは省くけれど、一言でいえば宇宙全体の波動関数の発展も決まっている。私たちは、宇宙のごく一部の構造を観測するだけで、宇宙全体では最終的に何がどうなるかを知ることができることがわかった。不確定性原理に抵触するから、いつどこで何が起きるか正確に知ることはないけれど。宇宙の運命は、針の先ほどの空間にすべて書きこまれている。最後のページには運命が載っている。宇宙全体が一つの図書館だというわけ。ねえ、諦めてこの世界で暮らしましょう。ここでは誰もつらい思いをしなくてもいいし、どんなことをしたってかまわない。このビッグクランチの中では破滅などない。亡くなった人もすべて蘇っている。だから、ここには永遠がある」
静かな時間が流れていた。少しずつジルベルトの心の中に、アルベルチーヌの行いはすべて善意から出ており、ほとんど無私に近い感情であったという理解が積み重なっていく。ジルベルトを取り込んだのも、この救済から漏れる人間が一人も居てほしくないという願いからだった。できることなら、宇宙すべてを救いたかったことだろう。アルベルチーヌの手がジルベルトの手の上に重ねられる。これほど穏やかに話をしたのは何年ぶりだろう。太陽系が消えてからどれくらいが過ぎているのだろう。
「それでも」
ジルベルトは手のひらをそっと母から離した。
「私は外に行きたい。ごめんね、母さん」
「いってらっしゃい」
母の淡々とした声には、わずかに悲しみの色があった。オデットもアルベルチーヌに倣う。
「いってらっしゃいませ」
「オデット、あなたは来ないの?」
「私はあまりリスクを取るのが好きではないので。そろそろ腰を落ち着けたくなりました。……ということで、お世話になりました。出発まではできるだけの支援はしますけれど」
そこにアルベルチーヌの声が重なる。
「裏切るの、オデット?」
「裏切る?」
「ええ、オデットは元々私の人格を模した存在。あなたの旅が無事であることを祈って作られたの。……数十年後に地球で発展する人格のコピーと比べればあまりにも素朴ではあるけれど。少なくとも私の性格の大まかな傾向を再現している」
「つまり、オデットは私を監視してたってわけ?」
「監視とは違いますね。私は私でこの旅を結構楽しんでいましたから」
「さっきオデットは私の利益を最大化するって言ったくせに」
「私はそのつもりでしたよ。お母さんとの和解があなたのベストだと私は本気で考えていました」
「信じられない!」
「その点については申し訳なく思っています。ただ、私がお膳立てしたのはお二人の和解までで、あなたがここから出ていくことについては先ほども申し上げたように反対はしません」
「オデット、あなた……」
「アルベルチーヌ、彼女は止めたって無駄だってことは私がずっと付きあってきたのでよく知っています。議論を続けてもお互いに無意味に傷つくだけです。というか、お嬢さんの性格を誰よりもご存じなのは、あなたではありませんか」
オデットは寄り添う。
「私がいつまでもお嬢さんの思い出を語り続けます。あなたがお嬢さんと離れてから、私がお嬢さんと過ごした日々について、いつまでもお話しできますから。時の果てるまで」
アルベルチーヌはもはやジルベルトを追わない。ジルベルトは最後に振り返る。こんなに悲しそうな顔をしていたのか。地球から旅立った時には母の顔をまともに見ることもなく行ってしまったから知らなかった。見ていてこれほどこたえるものだとわからないままのほうが幸せだっただろうか。それでも、ジルベルトは母の顔を見つめるのが正しいことだと思われた。
そして、その悲しみにもかかわらずここに閉ざされることは望まなかった。これは運命ではなかった。彼女の意志であった。積もった思いをすべて言葉にすることなどできない。だから形通りの挨拶をして去る。
「さようなら、母さん」
進行しつつあるビッグクランチの中で演算される宇宙から抜け出したのは亜光速のビームだ。ジルベルトの意識はその中に閉じ込められている。シミュレーションの外では主観時間は有限となる。そのまま彼女はビッグクランチに巻き込まれて潰れてしまうだろう。母の作り出した世界の中にとどまっていれば、宇宙の最終的な消滅に至る直前の時間をどこまでも分解して無限の主観時間を手に入れることができたはずだ。しかし、彼女は有限の命を選択した。シミュレーションの外で過ぎる時間は永遠の演算時間を手に入れた世界の何億倍も速い。母たちが永劫の年月を過ごしたとしても、ジルベルトの主観時間では数分にも満たないだろう。原理的に追いつけないのだ。
そこはまったくの白熱、いや、紫外線やエックス線の背景放射で満ちた世界だった。彼女はそれを眩しさとして感じているが、それが苦痛とならないことで、彼女が人間の姿をしていないのが明らかになる。
見る見るうちに宇宙全体が一点へと縮退していく。この用語が正しいものであったか自信がない。確か白色矮星が重力崩壊を起こすときにこんな言葉を使ったのではなかったか。数学者なので記憶があやふやだ。数学にも同じ言葉を使うことがあったけれど。こういうときに答えてくれるオデットはそばにおらず、書籍さえない。ジルベルトの意識だけがこの宇宙を眺めている。
宇宙が潰れていく。太陽ほどの大きさからあっという間に地球サイズになり、息をする間にジルベルトの身長ほどになる。指先、その細胞へと縮んでいく。ジルベルトを構成する情報は、無の中に飛び込んでいく。
恐怖はない。そこにあったのは知りたいという望みだけだ。たとえ次の瞬間には自分が消えてしまうと知っていても、彼女の生まれ育った世界に訪れる運命を知らずにはいられない。どんなに恐ろしい物語でも、結末まで読まなければ気が済まなかった。それが彼女の心の導く先だった。
森羅万象が圧潰している。数えきれない銀河が原子ほどの大きさに圧縮されている。ジルベルトもその形を保つのに苦労する。時間も正常に流れていない。原子核に、クォークに、そのサイズにすべてが書きこまれている。
ついに、万物の最小単位であるプランク長さにたどり着く。十のマイナス三十五乗メートルほどだ。これ以上小さなものは物理的に意味をなさない。理論の発展にもかかわらず、ブラックホールの特異点のようにこの先は隠されている。次の瞬間に消滅してしまうかもしれない。何が起きるのか、人類は語る言葉を持たない。温度はおおよそ十の三十二乗ケルビン。宇宙開闢と同じだけの熱さだ。これ以上の凝縮は長さゼロ、温度無限大へと至るだろう。
そして、無が訪れた。だが、ジルベルトの意識がまだ存在している以上、完全な無ではありえない。時間も空間も消えてしまったこの場所で、何かが明らかにされようとしていた。ここではすべてが一つになっていた。どこを見ても、宇宙すべての運命が記録されていた。今まで何が起きたのか。それはなぜだったか。因果がここに集結していた。そこにはすべてが刻まれていた。なのに、何かがおかしかった。それらが何を言おうとしているのかが読み取れない。何かがわかりそうで、しかしそれが何なのかもわからないまま、ジルベルトは停止していた。いつまでも動くことができなかった。
周囲を視覚ならざる視覚で見渡すと、様々な情報が無数にひしめいていた。声に出して読んでくれと叫ぶ文字の群れのようだ。
「これは、何」
彼女の立っているここを例えるなら、母がたとえたそのままの無限に近い広がりを持つ図書館だ。大きさがないにもかかわらず、すでに滅んでしまった世界の、とうの昔に死に絶えた人々の運命がすべて記録されている。そんな書物が果てしなく並び、終わりがない。それどころか、知性を持たない生物、それこそ最も単純な形態に至るまでの存在の運命までもが記載されていた。
だが、その万物の記録に欠落が存在している。宇宙が始まって以来、これから何が起きるのか予め決まっていたはずなのに、運命に何も書かれていない空白のページが存在していた。いや、空白というよりも破り取られたページに近い。
その空白から、裂け目から、呪詛の声がする。それは薄暗い呟きであり、亡霊の喘ぎであった。それが寄り集まって作る言葉はジルベルトを責める。言語以前の言葉だ。ただ意味だけが伝わる。
「なぜ、私を置いていったの」
「いつも女性としての品位がない言葉ばかり使って」
「娘らしく、母のそばに残ってくれなかった」
「私は一人で寂しい晩年を過ごした」
「……どうして、あなたは」
息苦しい。そのヴェールの向こうから老いた母が、その腐乱した遺体が、乾いた白骨がいくつも重なり合っている。様々な母の死の可能性だ。しかし、そのどれもジルベルトに恨みがましい目を向けている。その悲しみ、母の望みに反した道を選んだことに対する後悔。やはり自分はあまりにもわがままだった。せめてしっかりと謝るべきだった。けれども時間を戻すことはできない。母もオデットも朽ち果てて、このビッグクランチの中でぐしゃぐしゃになっている。ジルベルトの意識もここで無になろうとしているのだろうか。それとも、静止した夜の中でいつまでもこうした言葉に囚われていなければならないのか。ピュタン(やっちまったな)、とうそぶく気にもなれない。
それでも、とジルベルトは思う。ここで真実に直面することができた。それが救いだ。自分は間もなく消えてしまうだろう。それと同じく、自分が母と別れる選択をしたことで母を悲しませたこと、それは変えられない。壁の向こうの亡霊たちに向かい、彼らにも理があることを認める。宇宙の終焉と同じように、事実を認め、知る。しかし、目の前にいる亡霊たちは、もはや存在しない事物の痕跡に過ぎない。だからジルベルトを脅かすことはありえない。あれらは幻なのだ。母が追ってきたのではない。自分の中にある母のイメージに過ぎない。そうとわかれば、何とも思わない。
「メルド(へーんだ)」
その言葉と共にそれらは渦巻き、うねり、消えていく。まるで朝日の前に力を失った鬼火のように。残されたのは、眠りに落ちた宇宙の残り火だ。
燃え尽きたページと改めて向き合う。改めて見ると、そこから受ける印象は蛮行ではなく、あまりにも悲しい結末に憤った作家が、作品を書き直すために結末を消し去った、というのに近い。宇宙の記録の消失。それは何か。ログがない。あるいは、宇宙の運命そのものを書き換えようとした出来事。いったい誰がそのようなことをしたというのだろう。宇宙を引き裂いたのは誰か。
「……母さん?」
そこに意識が向かうと、そうだとしか考えられなくなる。なるほど、そう考えると筋が通る。もともとの宇宙の運命ではこのままビッグリップが起きるはずだった。なのに、宇宙の一部を強引に押しつぶして、局所的なビッグクランチを引き起こした。
母は運命を押しのけ、破壊し、抗った。たとえそうなることが宇宙そのものによってあらかじめ定められていたとしても、それが母の運命であったとしても、母は私の前に道を開いてくれた。母は何も知らないままに、ジルベルトを次の宇宙へと送り出すこととなった。
ジルベルトは混乱している。母が運命を欺き、その裏をかいてジルベルトを救済に導いたのか。それとも、結局これもこの宇宙が始まったときから定められていたことなのか。彼女にはわからない。わかっているのは、アルベルチーヌがいなければジルベルトはこうしてここにいられなかったことだ。たった一人のヒトが、宇宙そのものを書き替えようとしてここまで成功した、この生々しい傷跡を見ることができた。それがわかったのなら、時間の停止したこの特異点に永遠に閉じ込められたとしても構わなかった。
「ありがとう、母さん」
ジルベルトがそれを悟るとすべてに動きが取り戻され、爆発的に時空間が拡大していく。時間はまだよちよち歩きではあるものの、正常な流れに回帰する。宇宙は新たなビッグバンを迎えた。すべては再生し、物語は語りなおされる。一切の法則が変わる。感謝の言葉が、彼女と宇宙を前に進めた。
ジルベルトは知る。母の無茶な行いのおかげで、この次の宇宙で初めて本当に自由な意志が生まれるだろう。人の意志が宇宙の性質を変えた。自分が何を望み、何をなすかが宇宙の初期条件で決まるのではなく、心から湧き上がってくるものによってだけ駆動される、そんな世界だ。
生まれたばかりで、まだ星さえ生まれていない果てしのない空間に向かって、ジルベルトは無限の祝福を与える。それと同時に、この宇宙で初めての星が一つ輝く。
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