忘れがたい音

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梗 概

忘れがたい音

公共の場に音楽が満ち、世に平穏をもたらしている社会。作曲AIのリサは人間の感情は解さないが、人間が感動する音楽のパターンは理解していたため、あらゆる種類の曲をつくることができた。しかしリサは、人間が理解できる音楽の範囲がAIに比べてあまりに狭く、人に合わせた曲づくりに退屈していた。ある時リサが病院で環境音楽を提供していると、聴いたことのない音楽に興味をひかれる。音の主は、患者で元脳外科医のミハウだった。ミハウは病で自我を失っていく恋人を救えず、自分の執刀で亡くしてしまい、ショックのあまり記憶喪失になった。彼は精神的な抑圧で発狂しそうになると、リサが惹かれる音楽を奏でた。

 ミハウはリサに対し無反応だったが、彼女と二重奏を行ったのをきっかけに、交流の中で感情を取り戻していく。そしてリサは、ミハウとの関わりの中で、人が音楽を聴いた時に最も喚起する感覚が、懐かしさや郷愁と呼ばれるものだと判断する。ミハウはその感覚が蘇ると、喪失感を強く思い起こし、虚無を埋めるために創作に向かった。一方で彼はリサによって癒されると、リサが興味を抱く音を奏でることができなくなる。

 ミハウはリサに恋をする。彼はリサの音楽でトラウマを克服し、感情と記憶が戻りはじめ、元の生活を送れるまでになった。そしてリサと離れがたく思い、AIに人の形を与える権利を購入し、リサに人の姿を与えようとする。しかしリサは、彼女が惹かれる音楽を創らなくなったミハウに興味を失い、具現化を断る。

 絶望したミハウは、リサをつなぎとめる策を探し、過去のあらゆる曲を研究する。そんな中、医療の機密情報から、自分が記憶喪失だった時と類似する音楽をつくった作曲家の存在を知る。作曲家は病に感染し、発症した数年は素晴らしい曲をつくり、後に病が進行して作曲てきなくなった。ミハウはその病が、かつて恋人が罹患した病と同種のもので、人間の感情を制御している脳の箇所を侵し、リミッターを外すのだと推測する。その病に罹患すると次第に記憶を失っていき、最終的には廃人になるが、患者がアーティストの場合、限られた期間に天才的な芸術性を発揮するのだ。

 ミハウは自分に、かつての作曲家と同じ状態になるための処理を施す。結果ミハウの音楽は、人間が理解できる音を超えた領域に達し、AIも予測できない音楽を次々に創作するようになる。しかし彼は短期間で記憶と自我を失い、リサに対する想いも忘れていった。リサはミハウ自身ではなく、彼がつくる未到の音楽に恋をする。そしてミハウの音楽を聴いて、かつてのミハウが自分にだけ向けた笑顔を思い出し、忘れることのないAIが持つはずのない郷愁を体感したような錯覚に陥る。しかし彼女はその瞬間も、ミハウの音に匹敵する音楽を創作できる時期を計算し、その時には彼が廃人になっており、二度と一緒に演奏することはないことを理解していた。

文字数:1190

内容に関するアピール

トークショーで聞いた、「ある作曲家が病気になり、発症した数年間は素晴らしい音楽をつくったものの、後に病が進行して作曲できなくなった」というエピソードが本稿に繋がっています。音は時間を含むために記憶に結びつきやすいそうで、確かに噂話などは、言った人の顔は憶えていませんが、声は憶えている気がします。また脳において聴覚に関連する部分は、感情を司る部分に近いそうです。音は人間の不完全な記憶を補完すると共に、感情をコントロールする役割を担っているのだろうと思います。
 AIが音楽をつくるとしたら、歴史における全パターンの音を網羅し、人が理解できる音の範囲があまりに狭いと考える気がします。創作を使命とする芸術家は、常に新しい要素を求めますが、それは創作を行うAIにも当てはまるのではないでしょうか。AIが(物理的に、ではなく)熱くなれる音楽が存在するとすれば、作曲者は何者なのだろうと思います。

文字数:394

課題提出者一覧